宇宙、生命、心と進化を一気通貫に語る『時間の終わりまで』

新卒が「一生やりたい仕事が見つかった」というのは、離乳食が終わったばかりの2歳児の「カレーの王子様は世界で一番おいしい食べ物である」と同じぐらい説得力がない(※)

本人が真顔であるほど、微笑ましい。自分の知る狭い世界でもって、それが全てであると言い切ることに無理がある。新しい仕事やカレーマルシェに出会って、世界が拡張されることを願う。

物理学に触れるようになって、同じ可笑しみを抱くようになった。

原子や中性子、クォークなど、どんなに小さいモデルを考えても、それだけでは説明しきれず、これまでの研究と矛盾する現象が生じる。

より巨大な望遠鏡を作り出し、宇宙の果てまで見渡そうとしても、私たちが知る宇宙とは、光が届く範囲でしか観測できない。

それにもかかわらず、現代の物理学でもって、物質や宇宙の全てがそうなっていると結論づけるのは、早すぎる一般化ではないだろうか。

「いやいや、素粒子論は何千回もの実験によって確かめられているし、シュレーディンガー方程式は10億分の1より高い精度で実験データと合致する。数学に裏付けられた物理学ほど確かなものはない」

素粒子物理学の第一人者ブライアン・グリーンは、そう主張する。確かに、その通りだと思う。研究や方程式については文句のつけようがない。

しかし、だからといって、その理論を、まんま絶対真理であるかのごとく断言されてしまうと、新卒や2歳児を見るように、微笑んでしまう。

「いやいや、2歳児と物理学を同じと見なすのは変だろう」

その通り。100年以上の歴史を持つ素粒子論と、離乳食が終わったばかりの2歳児を比べるのは変だし失礼だろう。

『時間の終わりまで』の魅力

だが、ブライアン・グリーンの『時間の終わりまで』を読むほどに、私たちが知っていることがいかに限られているかが見えてくる。

本書は、自然科学における素粒子や原子、分子といったミクロな観点から、ブラックホールや銀河、宇宙全体までを一気通貫で説明する。その旅路の中で、生命誕生における遺伝子や進化といった生命科学、心や自由意思、芸術や宗教といった人文科学にも目くばせしつつ、壮大なスケールで語り上げる。

数式は登場せず、記述は平易で、何よりも喩えが上手い。予備知識ゼロでどんどん入ってくるのが愉しく、知的好奇心がMAXに満たされる(物理学や数学の素養がある人には、巻末の脚注に数式が用意されている)。

特に興味深いのは、「分子ダーウィニズム」と呼ばれる化学的な闘争だ。

エントロピーと進化という切り口から、物理学の観点から生命誕生を語る試みである。

世代を下るごとに、より安定した分子配置が生じていくうち、「最初の生命」といえる分子集団が誕生したという。カオスな状態から、丁度良いサイズで分子が組織化されていく姿は、ビックバン以来、粒子が集まり、星や惑星や銀河を形成していくダイナミズムに重ねるように描かれており、知的興味を掻き立ててくれる。

エンパイアステートビルで宇宙の時間を喩える

喩え話で面白かったのが、「もしエンパイアステートビルで宇宙の時間を喩えたら」である。

宇宙の時間が、エンパイアステートビルの高さだと考えて、各フロアが時間の長さを示すと見なす。そして、ある階が表す時間の長さは、その下の階の時間の10倍と仮定する。

1階はビックバン直後の最初の10年になる。2階はその10倍の100年だ。3階は1000年になる。フロアを上へ行くほど、急激に長い時間が経過することになる。

ビルを上へ昇ったり下へ下りたりしながら、ビッグバンの影響、惑星や銀河の誕生、太陽系の誕生からその死、そして文字通り「時間の終わりまで」を探索する。

エンパイアステートビルの喩えのおかげで、最新の物理学が見せてくれる宇宙の歴史や宇宙全体の姿を、より生々しく体感することができる。

一方、物理学のおかげで体得した感覚からすると、物理学そのものの狭さに気づくようになる。

現在は、ビッグバンから始まって138億年ほど経過したとされている。エンパイアステートビルなら、10階から上にいく階段を上り始めたぐらいだ。人類の歴史は、階段の一段分にも満たない、あっという間の出来事になる。

このスケールで考えるならば、2歳児と物理学の長さは同じくらい瞬時のことになる。

さらに、エンパイアステートビルを上り下りしながら、宇宙の広大さを体感できるようになった。時間のスケールを自在に変えることで、そこで働く力(引力・斥力)を見える化するのは、惑星であり、恒星系であり、銀河であるからだ。

地球という惑星が巨大に見えるのは、せいぜい2メートルのヒトのサイズだから。カメラを引いて見るならば、太陽と比べ、地球はちっぽけな存在になる。太陽系が視野に収まるならば、太陽そのものも針先の点になる。銀河サイスだと、見ることすらできなくなる。

それほど宇宙は大きいのだが、その宇宙すらも、せいぜい光が届く範囲からの観測にすぎず、その外側にあるものは「分からない」が正解になる。

物理学の限界

ゴリゴリの還元主義者であるブライアン・グリーンは、「私たちは物理法則に支配されている粒子たちが詰め込まれた袋にすぎない」と言い放つ。

還元主義とは、基本的な構成要素を把握することで、宇宙のあらゆることを完全に説明できるという立場だ。惑星や銀河だけでなく、生命の誕生、意識や心、宗教や芸術など、あらゆることは粒子の振る舞いに過ぎないという。

それは物質としてなら正しいかもしれないが、説明にならないのではないだろうか? 美人はタンパク質で構成されると言うのは正しいかもしれないが、なぜ美しいのかは説明したことにならない。

そして、還元主義が「還元」できるのは、ヒトが理解できるサイズでしかない。コンピュータの助けを借りたとしても、要素が多すぎたり複雑すぎてモデルにできなかったり、そもそも測定/計算不能な対象であるならば、物理学として成立できない。たとえ正しくてもだ。

物理学に対する解釈が、まるで違っていて面白い。物理学が「正しい」のではなく、正しくなるように物理学は書き変わってきた、と見なす方が自然だ。

惑星の観測結果から得られたニュートンを元にした教科書が、観測技術の進展により得られた結果と合わなくなった。定数を足したりパラメーターを加えても成り立たなくなると、新たな分野として、ハイゼンベルクの教科書を作ろうとしているが、わたしには、「繕う」としているように見える。

ハイゼンベルクが正しくないと言っているわけではない。ある一つの理論で全てを説明できるという態度が妥当なのかと感じるようになった。

『時間の終わりまで』は、物理学で全てを説明しようとする、たいへん野心的な一冊だ。私たちが何を知っているかについて、これほど原理的に語ろうとしたサイエンス本は稀有だろう。一方で、私たちが知っていることがいかに小さいかについても、よく見えるようになった。

@yokichiさんのtweetより引用

| | コメント (0)

『ゾンビ(’78完全版)』を観ると人生が豊かになる理由と、荒木飛呂彦が選ぶホラーBest20

まだ小学生だった息子を連れて、サッカー観戦したことがある。

試合が始まるのは少し先で、選手たちはシュート練習をしていた。プロを生で観るのは初めてなので、息子はえらくはしゃいでいたことを覚えている。

ボールにインパクトが加わると、すこし遅れて「キィン」という金属音が響いたり、ゴールを外したボールが飛んでくる「シューッ」という音が印象的だった。

その音で、ある映画のシーンを思い出した。トラックに積んだガラスが横滑りして、そこにいた男の首が切断されてしまう場面だ。

ほとんど意識せず、息子の顔の前に、私の右手を差し出した。同時に強い痛みが走り、「キィン」という音が届いた。

シュートを外した選手、練習を観ていた人、そして私自身が一番驚いていた。ボールが当たっていたら、子どもの頭は吹き飛んでいたと言えば大袈裟だが、ただでは済まなかったはずだ(後ろはコンクリの階段だった)。

最悪を予感して人生を楽しむ

たまたま不幸を免れたものの、突然の不運は起こり得る。

見通しの悪い交差点からは自転車が飛び出してくるものだし、老人はブレーキとアクセルを踏み間違えるものだ。工事中のビルから落ちてくるのは鉄骨で、急ブレーキを踏んだトラックから滑り出るのは強化ガラスである。

そこに居合わせたとき、不運は不幸になる。

これを、ありえない、と切って捨てることも可能だ。

旅先の田舎でチェーンソーを持った男に襲われたり、偶然に乗り合わせた客船が沈没したり、致死力の高い疫病に感染する、なんてあり得ない。そう考える人もいる。

だけど、どこまでの「ありえなさ」だろうか? 最悪のことはいつだって起こり得る。そう考えて生きている。

世の中は危険で醜くて、不運はそこここで起きているけど、たまたま不幸になっていないだけ。巧妙に隠されているだけで、死は、いつだってそこにある。だから、最悪を予感しつつ人生を楽しむようにしている。

この「最悪を予感して人生を楽しむ」上で、最も役に立つのが、ホラー映画だ。

人を怖がらせることを目的として作られたホラーは、「ありえなさ」に振り切って描かれている。人の命は現実世界ほどの価値をもたず、残酷さ、非道さ、おぞましさをありありと見て取ることができる。

誰でもウンコはするし、身体には大量の血が詰まっている。それが見えにくいだけで、確かにそれは存在する。ホラーは、ナイフや牙やチェーンソーを使って、明るいところに出してくれる。社会や人間の厭な面や、キレイでないほうの真実を暴き立ててくれるのだ。

安全圏から暗黒面を見る

『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』で同じような熱い主張に出会った。

ホラー映画の良いところは、「世界の醜く汚い部分をあらかじめ誇張された形で、しかも自分は安全な席に身を置いて見ることができる」点にあるという。人生のキレイでない部分に向き合う予行演習としては、ホラーは最高の教材となる。

倫理学の問題で「5人の命を救うために1人を見殺しにできるか?」という問いがある。何が正義なのかは選択肢があるが、そこからさらに「その1人が君の愛する人ならどうするか?」という形で、主人公が追い込まれていく。ホラーの醍醐味はそこにあるという。

極限状態が描かれているので目を覆いたくなるかもしれませんが、自然災害や犯罪に遭遇したらそういう選択を迫られることもあり得るという現実の可能性を、フィクションの形でエンタメとして見せてくれるのがホラー映画なのです。

だから皆さんには、せめて映画の中だけでも、きちんとそういうものに向き合ってほしい。「見るべき」映画という以上に、「見なければならない」のがホラー映画とまで言っていいかもしれません。

そして、ロメロ監督の『ゾンビ』の魅力を滔滔と語る。

ノロノロとした動き、人を襲って食べる様子は、それまでのホラー映画のモンスター(狼男、吸血鬼)と大きく異なり、徹底的に無個性な存在になる。それは、サラリーマン集団や街を歩く人々を遠くから眺めたときの無個性性に通じるものがあるという。

無個性な、人っぽく見えない存在だから、ためらいなく頭を打ち抜くことができる。むしろ、撃たないとこちらが殺られるルールになっている。人なのに人ではないという矛盾、元は人間なのにゾンビは殺してもいいパラドックスが、ゾンビ映画の世界観になる。

荒木飛呂彦が選ぶホラー映画Best20

実は、「ジョージ・A・ロメロ監督のゾンビ」といっても複数ある。どのゾンビを見るべきなのか。

  1. Night of the Living Dead
  2. Dawn Of The Dead
  3. Dawn Of The Dead (The Directors Cut) 

1と2は視聴済みだが、氏曰く、3こそ必見だという。いわゆる『ゾンビ(完全版)』らしい。これは観る。『ゾンビ』から始まって、『サンゲリア』『バタリアン』『ブレインデッド』『死霊のはらわた』『28日後…』とゾンビの傑作を語りつくす。

さらに、「田舎に行ったら襲われた」系のホラー(テキサスチェーンソーとか)、13金などの猟奇殺人、SFホラー(エイリアン)や構築系ホラー(CUBE)など、縦横無尽に語っている。「荒木飛呂彦が選ぶホラー映画Best20」を挙げるので、このリストでピンと来る人はぜひどうぞ。

  1. ゾンビ完全版(’78)
  2. ジョーズ
  3. ミザリー
  4. アイ・アム・レジェンド
  5. ナインスゲート
  6. エイリアン
  7. リング(TV版)
  8. ミスト
  9. ファイナル・デスティネーション
  10. 悪魔のいけにえ(’74)
  11. 脱出
  12. ブロブ/宇宙からの不明物体
  13. 28日後…
  14. バスケットケース
  15. 愛がこわれるとき
  16. ノーカントリー
  17. エクソシスト
  18. ファニー・ゲーム U.S.A.
  19. ホステル
  20. クライモリ

本書で知った、私が見るべきホラーを挙げておく。

『プレシャス』

「ホラー」というジャンルではない。ニューヨークのハーレムという過酷な環境で、16歳の黒人少女がありとあらゆる不幸の中で生きている。ジャンクフードで育ったことをうかがわせる肥満した体、母親からの虐待、もう十分悲惨なのに、それだけでは終わらない。これは殺人鬼も怪物も出てこないけれど、まぎれもなくホラー映画。

『REC/レック2』

ドキュメンタリータッチで描かれた作品。テレビ局のレポーターが取材中のアパートで事件に巻き込まれ、そこで起きる惨劇と脱出劇が、手持ちカメラで撮影した体で映し出される。最初の『REC/レック』を観たとき、たいへん怖い思いをしたのだが、氏曰く、2は1のラストシーンから始まっており、よりパワーアップしているので、通しで観ろとのこと。観る。

『ホステル』

「痛み」の映画。想像力が及ぶ限界に近いくらい「痛い」映画。東欧を旅する若者があるホステルを訪れて、そこで悲惨な目に遭う。プロット、ストーリー含めて語り口が非常にうまく、不気味さ100点満点。製作総指揮がクエンティン・タランティーノだから作れた映画で、普通の投資家なら、企画段階で、「これを作っちゃまずいだろう」と思うはずの内容とのこと。観る。

よいホラーを観た後は、「生きてるッ」って実感がする。生き延びたというか、死を免れた嬉しさがジワる。残酷な結末に「私はこうはならないぞ」と思いつつも、「運が悪けりゃしょうがないか」と諦めもつく。生きているなら、必ず起こり得るのは死だ(今の私がゾンビでないかぎり)。

よいホラーで、よい人生を。

| | コメント (0)

水の中のタイムカプセル『世界の水中遺跡』

水の中には、すごい遺物が眠っている。

考えてみてくれ、地球の大部分は水に覆われている。しかも、風雨にさらされ、人が歩き回る地表と比べ、水の底は安定している。そう考えると、人の手が届きにくく、探し当てられなかっただけで、水中には数多くの遺物・遺跡があるはずだ。

それが、最新技術のおかげで、そうした遺跡が続々と見つかっている。『世界の水中遺跡』では貴重な画像とともに紹介している。

  • 縄文時代の貝塚(当時の有機物が残存している状態)
  • ヒエログリフが刻まれた紀元前300年の石碑
  • 古代ギリシャの暦の計算装置(アンティキセラ装置)
  • 元寇のモンゴル兵が用いた火薬兵器
  • 中世のヴァイキング船が丸ごと

縄文時代の有機物が大量に残っているのは、琵琶湖の粟津湖底遺跡だ。何千年も前なのに、なぜそんなに保存状態が良いのか? 遺跡の上には粒子の細かな粘土やシルトが積み重なっており、空気と遮断されていたためだという。

砂や泥が数十センチも堆積すると、バクテリアが生息できず、ほぼ完全に真空パックされた状態(不活性)になる。水中では温度も安定しているため、保存には最適な状態となる。いわば、水の中のタイムカプセルなのだ。

長崎県の鷹島海底遺跡には、元寇の新兵器も丸ごと残されていた。「てつはう」と呼ばれる火薬兵器で、鉄片が詰まった手りゅう弾のようなものだ。丸ごと残っていた発掘品をX線CTスキャンで解析し、3Dプリンタで復元したものまである。

20220529

Wikipedia:元寇『蒙古襲来絵詞』より。爆発している黒い欠片が「てつはう」

youtube【海底遺跡】海に沈んだタイムカプセル 水中考古学の世界 | ガリレオX 第28回

こうした遺物は、もし地表に残されていたとしても、風雨にさらされ朽ち果てるか、人の手によって持ち去られていただろう。だが、水中に没したからこそ、700年の時を経て再びまみえることができたのだ。

ビザンツ帝国の沈没船が大量にある黒海も有名だ。

かつて黒海は淡水湖だったが、気温上昇に伴う海水の流入で塩分濃度が急激に上がり、無酸素状態の海になった。生物にとっては過酷だが、60隻の沈没船を保存するには理想的な状態だという。歴史の教科書で学んだコグ船が、ほぼ完全な状態で見つかっている。

近年、こうした水中遺跡が続々と見つかっているのは、最新の科学技術による。

離れたところから対象物を分析するリモートセンシング技術や、水中ドローン(Underwater Drone)が多方向から撮影・実測したデータを再構成する技術(フォトグラメトリ)のおかげで、ダイバーが現地を「発掘」する前に、かなりの情報を手に入れることができる。

以前、人工衛星やドローン、航空機から遺跡を調査する技術のことを書いた(人工衛星から遺跡を探す『宇宙考古学の冒険』)。それと同じ技術革新が、水の中でも起きているのだ。宇宙から遺跡を探すのは、宇宙考古学と呼ばれているが、水中遺跡を探すのは、深海考古学とも、水中考古学とも呼ばれている(Deep Sea/Water Archaeology)。

歴史の手がかりとして残されているものは、文字情報が主なものだ。

石や竹に刻まれたり、皮や紙に残された文字が書き継がれて、今に至る。あるいは、宝飾品や美術品など、貴重なものとして保存されたものに限る。それ以外のものは、捨てられたり、朽ち果てることに任されてきた―――地上では。

また、水中の場合、盗掘されにくいという点も大きい。巨大な墳墓に隠された宝は、何百年、何千年もの間、人の手を免れるのは極めて困難だ。だが水の中なら、盗人も追ってはこない(ただし、潜水技術やソナーの普及により、海に沈んだ宝物を漁る輩がいることも事実だ)。

本来ならば決して見ることも叶わなかったものが、水の中から、続々と発掘されている。十字軍が交易したオリーブオイルの壺や、アラビア文字が墨書きされた唐代の茶碗、ドイツの潜水艇Uボート、沖縄戦で米艦隊に特攻した零戦など、歴史を語る「モノ」が現れている。

地球最後のフロンティアで、活躍が著しいのは水中考古学だ。そう確信させられる一冊。



| | コメント (0)

なぜ空からの大量虐殺が許されるのか『空爆の歴史』

無抵抗な人に向けて、殺傷力の高い武器で、一方的に攻撃する。される側は、男女・子ども関係なく、住んでいる場所を焼かれ、家族を殺され、命が奪われる。

空爆がそれだ。無防備の市民を、空から皆殺しにする。これほど残虐で、非人道的な行為はないだろう。

しかし、なぜか、空爆は「普通に」まかり通って来たように見える。市街地一帯、ひいては都市全体を火の海にするために実行されてきた。

非難や反対の声は挙がるものの、それにより空爆が制限されたり抑止されるかというと、そうはならない。

なぜ、空爆による大量虐殺が正当化されるのか?

この疑問に応えたのが、『空爆の歴史』だ。

空からの植民地支配を振り出しに、ゲルニカ、重慶、ドレスデン、東京、広島、ラオス、コソヴォと続く空爆の歴史を辿りながら、空爆する側のロジックと、黙殺された抗議の両方を知ることができる。

空爆は戦争犯罪

もちろん、空爆による大量虐殺は、戦争犯罪だ。

加害側の圧倒的な優位性を背景に、一般市民を一方的に殺戮する。いくら戦争という非常時とはいえ、そんなことは許されるわけがない。

だから、空爆は何度も禁止されてきた。ハーグ平和会議(1899年)、空戦に関する規則(1923年)、ジュネーヴ諸条約(1949年)と、くり返し宣言されてきた。人口稠密な都市に対し、空から無差別に攻撃することは、明確に国際法に違反するものとみなされていた。

特に、1923年の空戦規則は、当時のルーズベルト米大統領、イギリス政府、日本政府、ドイツのヒトラーでさえ、守るべき規則だと宣言していた(ヒトラーは議会演説および米大統領宛の回答書で約束している)。

ただし、この規則には抜け穴がある。

第22条 普通人民を威嚇し、軍事的性質を有しない私有財産を破壊もしくは毀損し、または非戦闘員を損傷することを目的とする空中爆撃は禁止する。

軍事用でない施設や、一般の市民に対しては攻撃を禁止する、とある。ということは、軍事設備や戦闘員に対してはOK、という理屈だ。

そして、どれが軍事用で、どれが軍事用でないか、あるいは、誰が市民で誰が兵士かを判別してターゲットとするのは、攻撃する側が決める

そして、空爆側のロジックにより、無差別な爆撃は繰り返された。

空爆側のロジック

本書には、空爆する側の「理屈」が紹介されている。

まず、植民地主義における「文明」から「未開」への攻撃になる。帝国主義の時代には、重化学工業の発展に伴い、ヨーロッパが圧倒的な軍事力を持った。同時にヨーロッパ中心的な世界観が普及し、「文明vs未開」の構造のもと、飛行機が軍事利用される。

「未開」側の対空戦力がゼロであり、「文明」側の人命コストを考えると、空爆が高く評価されるのは当然の成り行きとなる。スペインやイタリアが植民地に対して行った空爆が、その嚆矢となる。従来の地上兵力と異なり、機動力に優れ、低コストで攻撃できるという理屈だ。

さらに、「未開」に対して恐怖を与えることができるという。戦線から遠く離れて暮らす人たちを恐怖に落とし、心理的なダメージを与えることができる。空爆には、敵の戦意をくじくテロ効果があるというのだ。

このロジックは、日本軍における重慶爆撃(1938)、イギリスによるドイツ諸都市爆撃(1945)および米軍における日本の諸都市爆撃(1945)、そして広島と長崎への原子爆弾投下(1945)に引き継がれる。

地上部隊の場合の膨大なコスト(戦費および人命)に比べると、より安上がりに、敵国の人命を(兵士・民間人限らず)殺傷することができるからだ。161のドイツの都市から60万人の人間を殺害したイギリス、日本の67都市から60万人を殺したアメリカ合衆国の被害は、(殺された人々の数と比較すると)軽微なものだった。

空爆側のロジックの現実

では、空爆する側の「理屈」は正しかったのだろうか。

本書によると、真逆の結果を招いているように見える。より安く、より大量の市民を効率的に殺害できる、という点においては正しい。しかし、敵国の戦意をくじくことで、戦争を早期に終わらせるという点においては、間違っている。

日本軍の空爆後の、中国・台湾の人々の調査結果や、ドイツ爆撃後のイギリスの爆撃調査班の報告によると、真逆になる。同じ場所を攻撃されたことで、団結心を得て、ナショナリズムを高揚させる効果があった。

これは、アフガニスタンにおける対露感情、ベトナムにおける対米感情も然り。空爆をする側は、週・月単位でのプロジェクトになる。

しかし、空襲を被る側は、何十年に渡って敵愾心を燃やし続けることになる。ここで強調する必要すらないだろうが、2001年9月11日にニューヨークとペンタゴンで起きたことは、その証左だろう。

非人道的なだけでなく、効果の面から見たとしても、空爆する側のロジックは正しくないのだ。

空爆のダブルスタンダード

ロジックの矛盾は、日本やドイツの戦争犯罪を裁く場においても噴出する。

戦後の東京裁判やニュルンベルク裁判において、「人道に対する罪」で日本やドイツが裁かれた。だが、その中に空爆における罪は含まれていなかったというのである。都市を爆撃し、一般市民を殺害したことは、正当化できない。

「人道に対する罪」は、従来の戦争犯罪では捉えきれないナチスの犯罪を裁くために導入された概念だ。罪刑法定主義という法の常識を超えて、事後的に作り出された、新しい「罪」の概念となる。

国家による大量殺人が人道に対する罪であるならば、その第一等に当たるのが、空爆だろう。日本は中国各地で、ドイツはイギリスやフランスに対し、大量の爆弾を落としてきた。それが、なぜ裁かれなかったのか。

答えは、「同じ罪を連合国側でも問われることになるから」だろう。だから、俎上にすら乗らなかったのだ。

ニュルンベルク裁判で訴追主席であったテルフォード・テイラーは、裁判から25年後にこうコメントしている。

都市破壊のゲームは、連合軍のほうがはるかに成功をおさめたので、ドイツや日本を訴追する根拠がなく、事実そのような訴追は持ち出されなかった。連合国側も枢軸国側も空爆をきわめて広範かつ残酷におこなったので、ニュルンベルクでも東京でも、この問題は戦犯裁判の一部にもならなかった。

空爆は、低コストで一方的に殺戮を行うことができる。戦闘で死亡する兵士としての「戦死者」の数を、極小にすることができる。これは、軍部にとっては何者にも得難いメリットだろう。

そして、「軍事施設のみを目標にする」という名目でありながら、何をターゲットにするかは攻撃側に委ねられている。さらに「早期に戦争を終わらせることで互いの被害を最小化できる」という理屈は、未来の火種を無視し続ける限り、有効になる。

空爆のダブルスタンダードを暴き出す一冊。

| | コメント (4)

「おいしい」を伝える技術『おいしい味の表現術』

「おいしい」としか言えないのがくやしい。

食べたときの、その「おいしさ」をどう伝えるか?

  • ふわとろ
  • 肉汁がジューシー
  • コクがあるのにキレがある

陳腐すぎて、何のコマーシャルだよ? とツッコミたくなる。

私のアタマが染まってしまっているのだろう。宣伝に洗脳されすぎて、自分が感じたことを言葉にする代わりに、グルメ番組の定番セリフをあてはめるだけのような気がしてくる(肉料理ならジューシー、麺類ならコクとか)。

それはクリシェ、常套句みたいなものなんだから、あまり考えず、手垢にまみれた言葉を使えばいいんだよ、という声も聞こえてきそうだ。あるいは、「筆舌に尽くしがたい」に逃げるとか。

だが、くやしいのだ。

「おいしい!」と感動したのなら、その感動をなんとかして伝えたい。具体的に想像できるような言葉で、同じ感覚を追体験できるような表現で伝えたい。

そんな人にとって、福音となる一冊が、『おいしい味の表現術』だ。

「おいしい」を体系化する

「おいしい」に関わる膨大なデータを分析して、その表現を体系化している。味覚や食感といった感覚的な側面だけでなく、食材や調理プロセスなど、「おいしさの情報」も含めて掘り下げる。

例えば、「おいしい」を表現する言葉は、こんな風に体系化される。

  1. 味評価:うまい、ヤバい、舌鼓を打つ、甘露、ほっぺたが落ちる
  2. 味覚:甘、酸、塩、苦、旨、辛、渋
  3. 共感覚:視覚(こんがりキツネ色)、嗅覚(こうばしい、芳醇)、聴覚(じゅうじゅう)、触覚(コリコリ、アツアツ)
  4. 味まわり:揚げたて、炭火焼き、三ツ星レストランの味、国産小麦100%の手打ち

食をめぐるエッセイや小説、マンガを例に、たくさんの表現技法が紹介されているが、特に参考になるのが、「共感覚」と「味まわり」だ。

まず、ジュージューといった音で期待値を上げ、たちのぼる香ばしさと温かさを顔面で感じ、こんがりついた焼き目を目で味わう。箸で崩せる柔らかさに感動しながら一口をほおばる。旨味を舌で受け止めるだけでなく、歯ぐきや口蓋でテクスチャ―を感じとる。

そして、噛むとともに変化する味わいと食感を惜しみながら、香りが鼻へ抜ける広がりに自然と笑顔になり、喉ごしを堪能する。さらに、素材やスパイス、調理プロセスを知り、「情報を食べる」ことで、より深く味を理解することができる。

以上、「おいしい」という言葉を使わずに書いてみた。これに、味のメタファー(広がる、閉じ込める、駆け抜ける、奥行きがある)を交えると、膨大な組み合わせになる。食べる場所の雰囲気や、合わせる飲み物との相乗効果も考えると、「おいしい」は好きなだけ再生産できそうだ(文章生成は、AI と相性がよさそうな気がする)。

「おいしい」をマンガで伝える

なるほどなぁ、と唸ったのは、マンガにおける「おいしさ」の表現方法について。

文章もそうなのだが、マンガは味もしないし、香りもない。でも確かに、マンガを読んで「おいしそう!」と思ったり、その味を想像することができる。

本書では、マンガの表現技法は3つに分類できるとする。

  1. 説明ゼリフ
  2. モノローグ
  3. 心象風景

説明ゼリフは、会話(フキダシ)の中で、おいしさを伝える方法になる。実際に食べたり飲んだりしながら、感じたものを説明する。代表例が『美味しんぼ』で、数多くのグルメ漫画で踏襲されている。オーソドックスな手法ながら、どうしても解説チックになってしまい、情報量が多く、わざとらしく不自然なセリフになる傾向があるという。

これを改良したのが、モノローグになる。マンガ手法だと、白枠の中で表現したり、フキダシを雲状にすることで、「心の中」を伝える。『孤独のグルメ』や『ワカコ酒』のように、ひとりで食べる/呑む設定に見られ、食べた感想を、思考の形で伝えることができる。

説明であれ、モノローグであれ、どちらの場合も、言葉=文字で「おいしさ」を伝えるしかない。この限界を、マンガならではの手法で打ち破るのが、心象風景だ。

料理そのものではなく、それを感じ取った内面を比喩的な絵で表現する。極上のワインを飲んだ瞬間、森の奥に古城が見えたり、おいしさが全身を駆け巡るあまり、全裸になったりするあれだ。『神の雫』や『食戟のソーマ』が思い浮かぶ。読者の視覚そのものに訴えることができる。

実際のところ、料理をテーマにした漫画は、これらの組み合わせで「おいしい」が表現されている。第5章「マンガな味」を読むと、グルメ漫画がよりいっそう「おいしく」感じるだろう。

他にも、おいしさにまつわる様々なテーマについて掘り下げている。どれも、それだけで一冊の本になりそうなほどの濃厚で味わい深いネタばかりだ。

  • よく使う割によく分かっていない「コク」と「キレ」の正体は、どんな味なのか
  • 男は「うまい」、女は「おいしい」といったジェンダー差異はあるか
  • 生ビール、生チョコレート、生醤油、生味噌などの「生」をめぐる表現

各章の末尾には大量の参考文献が紹介されており、それらを押さえるだけでも、おいしそうなグルメレポートが出来上がることを請け合う。

特に、「『おいしい』を感じる言葉Sizzle Word」レポートと、『おいしさの表現辞典』は有用だろう。AI に学習させて、画像からレポートを出力させるようにすれば、食べずに「おいしさ」を伝えることができる(本末転倒だが)。

最後に注意する点を一つ。

カレーについての第6章と、ラーメンについての第7章だ。1章を丸々使って、おいしさの表現技法を徹底的に解説する。普通、「飯テロ」は画像だが、これは読む「飯テロ」である。くれぐれも、深夜に開かぬよう、忠告する。




| | コメント (0)

エロと美のあいだ『ヌー道』

みんながマスクをしてるから、人間の口がだんだん猥褻なものに見えてくる。

もちろん、私の性癖が常軌を逸していることは自覚してる(例:釘宮病)。

だが、「秘すれば花」と世阿弥が言う通り、隠されているという意識にエロスが発生することを止められぬ。

というのも、久しぶりに出社したとき、マスクをちょっとずらして、コーヒーを飲む同僚(女性)を目にしたから。そのとき、プライベートな場所を目撃したかのように感じたから。

私が異常なのか?

イエス。

だが、私だけなのか?

などと悶々としていたら、みうらじゅん&辛酸なめ子の対談に出会えた。同じことを考えてるみたいで、「マスクは口にはく下着」「尊さとエロは同じ」など、さらに発展させており、学ぶところが大きい。

タイトルは『ヌー道』、nudeと道をかけている。ハダカの芸術も、究めればそれは道になる。ロダン、ルノワール、裸の/着衣のマハ、グラビア誌などを俎上に、古今東西の裸談義を繰り広げる。

お二人の話を聞いていると、芸術だから無罪だったものが、時代の変化に曝されたり、当時はスルーされていたのに、今では惹起させるものになったことが見えてくる。

エロは変わる

典型的なのは、言葉だろう。かつて「猥褻(わいせつ、漢語)」と呼ばれたものは「エロ(Erōs、ギリシャ語)」になり、今じゃ「エッチ(HENTAI、日本語)」なものになっている。ポイントは、この3つの言葉は同一のものを指していない点にある。微妙に重なり合いながらもズレが生じており、さらにそのズレは動いている。

例えば、「抱かれたい男ランキング」だ。

雑誌やテレビなどでアンケート調査して、抱かれたい芸能人を格付けする。この「男」を「女」にした「抱きたい女ランキング」は今では完全にセクハラだが、なぜ「抱かれたい男」の方は許容されているのか。

この疑問への応答が面白い。

みうら:(世の男性は)悔しくは思うんでしょうが、それが励みにもなるからじゃないですかね。ま、妄想の中の「抱きたい、抱かれたい」をどこまで容認するかってことですよね。

辛酸:誰かを傷つけたり、犯罪になってしまったら問題ですが。そうでなければという風にも。

そのうち、「抱かれたい男ランキング」も程なく消えていくように思える、表からは。あるいは、「抱かれたい」を「癒されたい」にするなど表現を変えて生き延びるかもしれぬ。

さらに、「エロスクラップ」には度肝を抜かれた。

みうらじゅんは、雑誌のグラビアや写真集のページを切り貼りしているのだが、40年間欠かさず続けており、その量も膨大なものになる。これだ。

Nudou

「みうらじゅんフェス:エロスクラップ」より

450巻を超えるというエロスクラップをカラーコピーして、横浜スタジアムの床一面に並べるとこうなる(コピー機が2台壊れたそうだ)。

単純に、「この娘いいなあ」と残しておくだけでなく、どういうレイアウトにすると、より「映える」とか、ストーリーになるような相手や場面、組み合わせを考えながら貼る。自分の性癖にトコトンつきあう熱量に脱帽する。

最初は自分のために始めたのだけれど、友人から「貸して欲しい」と頼まれるようになってから、編集者としての意識が芽生え、エンターテイメント性をも追求するようになる。まさにヌー道(どう)なり。

これ、風俗の史料になるのでは……と思えてくる。

もちろん、いち個人の性癖フルスロットルの集大成なのだが、そこに残されている画像は、その時代を切り取ったものになる。シチュエーション、ヘアスタイル、ポーズ、アングル、身につけているものと肌面積、露出、キャプションといった要素のデータベースともいえる。

未来のヌー道

ダヴィデの包茎からマハの乳輪の色づき、観音菩薩が微乳である理由など、エロとアートの共犯関係を見ていくと、未来のヌー道を考えたくなる。

その際、本書に加えて『官能美術史』を取り上げたい [レビュー]

西洋美術における性愛の歴史に焦点をあてた名著だ。西洋の中で「愛」がどのように定義され、変化していったか、さらに美術史におけるヌードと身体意識の変遷を知ることができる。

レンブラントの冷たい裸体や、中性的なダヴィデ像の中で、ひときわ目立つのが、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた男女の輪切り図になる。表面を覆っているものを取り去るだけでなく、その奥にあるものを視覚化している。

タブーであるハダカは、世界じゅうにまみれている。具が見たいのなら、クリック一つで済む。そんな世界で、あえてハダカを見るのか?

なんて考えると、見たいのは、裸体なのではなく、覆われているものなのではないか、と思えてくる。マスクで隠された口唇のように、見えないからこそ、見たくなる。この追求は、ダ・ヴィンチの「性交断面図[リンク先注意]」を始めとし、現代のエロマンガでも脈々と息づいている。

その未来は、スタニスワフ・レム『虚数』にある[レビュー]。これは、実在しない本の序文集なのだが、未来のポルノグラフィーとして、セックスする人々のレントゲン写真集が紹介されている。衣服を脱がせたポルノと、肉を剥がしたレントゲンが合わさったポルノグラムと呼ぶらしい。

隠すほど、見たくなる。

世阿弥の「秘すれば花」の意味は、「花を隠しなさい」ではなく、「隠してあるからこそ花になる」になる。秘密にしなければ、花にはならないのだ。

ずっと見たくて仕方なくって、長い間追い求めていたものを、ようやく直に「見」たときの感動と達成感は、ハンパなものではなかったはずだ。

自分は何が見たいのか、現代は何が隠されているのかを考え直し、己の性癖と向き合うのにうってつけなのが、『ヌー道』だ。

健闘を祈る。

| | コメント (2)

歴史認識をアップデートする『世界史の考え方』

歴史を学ぶ意義について、物理学の教授と話したことがある。

  • 歴史とは、過去を扱う学問だ
  • 過去は既に確定しており、覆ることはない
  • 新たな史料が発見され、史実が変わることは滅多にない

だから、歴史を学ぶことは、昔の出来事を覚える作業になる。過去は確定しているから、教科書はほとんど変わらない―――そう教授は断言した。

「過去は変えられない、確定した出来事だ」という一言は妙に刺さり、なるほどなぁと納得したことを覚えている。

しかし、世界史を学びなおし、最近の教科書を読み直してみると、これは誤っていることが分かった。「過去は変えられない」は正しいが、「過去に対する認識」は変化するからだ。

現代は「平和な時代」か?

例えば、次の文を読んでみよう。

長い歳月のあいだに人間の暴力は減少し、今日、私たちは人類史上、最も平和な時代に暮らしている

スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』の主張で、かつては、頷いた方もいたかもしれない。だが、今は違う。緊迫したウクライナ情勢の報道に接し、認識が大きく変わっている。

以前は、当たり前に感じていたものに、違和感を覚える。過去は変わらない。だからこそ、認識の変化に自覚的になるために、世界史をアップデートすることは有効だ。

この認識の変化を歴史の本を使って実践したのが、『世界史の考え方』だ。

まず、歴史学の古典を挙げ、かつては常識とされていた考え方を紹介する。次に、その主張に疑義を呈し、ひっくり返すような書籍をぶつける。いわば、「歴史の歴史」を語ろうとする。

その中で、前提として常識だと思い込んでいたことが、相対化され、乗り越えられてゆく。古い思考に囚われていたことに気づかされ、文字通り、蒙が開かれる思いだ。

植民地主義は「ジェノサイド」か?

例えば、植民地主義の「罪」を問う動き。

第二次世界大戦後の世界秩序は、植民地主義の責任追及を回避することで成り立ってきた。そこへ援用されたのが、「人道に対する罪」になる。植民地における先住民の排除や、そこで行われてきた戦争を問う罪になる。

この「人道に対する罪」は、元はと言えば、ニュルンベルク裁判の際に、従来の戦争犯罪では捉えきれないナチスの犯罪を裁くために導入された概念である。罪刑法定主義という法の常識を超えて、事後的に作り出された、新しい「罪」の概念となる。

「ジェノサイド」の概念も同様だ。特定の集団の抹殺を目指した組織的な行動で、ナチスによるユダヤ人迫害を性格づけるために作り出された。

現代では、「人道に対する罪」も「ジェノサイド」も、当たり前の概念として扱っている。だが、これらは後から発明された「罪」であり、歴史をさかのぼってその罪を問い、償わせるために行使されてきた。

であるならば、その「罪」は、植民地における破壊行為にも適用できるのではないか、という考えも出てくる。もともとそこに住んでいた人々を排除し、収奪し、抹殺してきたことは、ジェノサイドであり、人道に対する罪ではないか、という考え方だ。

つまり、直接的な虐殺や物理的破壊だけではなく、土地の収奪は経済的ジェノサイドであり、先住民を隔離したり同化することは文化的ジェノサイドになる。程度の差こそあれ、「近代化」する上で必然の産物であることが炙り出されてくる。

そうしたことへの責任を問い、償いを求める動きが、アフリカや南北アメリカやアフリカ系の中から沸き上がっている。過去そのものではなく、過去に対する認識が変化した例と言えるだろう。

欧米は歴史の「先頭」なのか?

あるいは、欧米中心主義。

欧米を特別なものとし、他を劣位とみなす考え方だ。イギリス、フランス、アメリカが歴史発展のモデルを作り、後発の国はそれを追いかける、という構造になる。

私は、「先進国」「発展途上」という言葉を当たり前のように使う。もとは工業化や経済的発展の進み具合を示す用語だ。だが、あたかも国の発展が、ただ一つの方向に従っており、欧米が最も進んでいるかのように考えてしまっている。

この欧米中心主義は、歴史学に根を下ろしている。短冊状に国ごとの歴史を並べて、政治と経済の革命を順調に進めた国のパターン、遅れている国のパターンを比較するといった方法が流行していた。欧米的な普遍性から、どれくらい逸脱しているかによって、その地位を割り当てる考え方だ。

これに異を唱えるのは、川北稔『砂糖の世界史』。砂糖、茶、コーヒー、チョコレートといった「世界商品」を手がかりに世界史を読み解き、世界のつながりを説明する。

17世紀、カリブ海の島々のプランテーションによって砂糖きびが栽培され、ヨーロッパ諸国がその砂糖を消費していた。アフリカ(奴隷)、アメリカ(生産)、ヨーロッパ(消費)の三角貿易と結びついた非対称の関係は、現代のカリブ海の人々を「発展途上」に留めているという。

ウォーラーステインの世界システム論を援用しながら、世界商品の生産と消費の関係には、支配と従属の関係が入り込んでいる構造を解析する。資本集約的で先端技術を持つ「中心」と、労働集約的で時代遅れの「周辺」のグローバルな分業体制だ。

では、これは確定した過去なのか? いまの支配-被支配の構造は既に出来上がっており、欧米の覇権を印象付ける歴史叙述に過ぎないのか?

『世界史の考え方』では、この視点をさらに乗り越える。

世界の諸地域を、「支配する側」と「支配される側」に構造化していったのが資本主義の歴史と見て、その世界システムが、現代の格差問題につながっている見方を提示する。この考えには、かなりの人が頷くだろう。

すると、この議論の最初に掲げた「欧米は歴史の『先頭』なのか?」の設問そのものがおかしいことに気づくかもしれない。先頭、後続といった発展段階で一元化するのではなく、そこに住む人々の多様性が浮かび上がるような参照軸で考える必要が出てくる。

欧米を先端モデルとするのではなく、別の考え方で捉えなおせるようになる。過去は確かに変わらないかもしれないが、歴史認識を変えることによって、現在を見通しよくできるようになる。

中国は「自由」か?

例えば、「自由」について。

欧米と対比すると、中国には自由が無いように見える。国家の専制的な性格や束縛が強調され、自由市場とは程遠いと見なしていた。

本書では、清朝の社会政策を取り上げながら、中国の「自由」について興味深い視点を提示する。18世紀の清朝の時代は、自由放任で競争の激しい社会だったという。だが、本当に何もしない政府かというと、そうではなかった。

例えば、各地に穀物貯蔵庫を造っておき、食糧不足の問題が生じると、穀物を分配したり、価格調整を行ったりしている。同時代のヨーロッパと比べて、はるかに大規模なセーフティーネットを構築している。

ただし、介入の仕方に特色があった。国家が市場に入っていって、大規模に穀物を買い付ける。一種の特権的プレーヤーとして、直接介入するやり方になる。これは、ヨーロッパ諸国家と大きく異なる。

ヨーロッパの国家は、法制度を整備して、民間で競争するためのインフラ、いわば競技場を作り、その中で自由に競争させる。国家自らは民間と競争せず、競技場の秩序の維持者として振舞おうとする。

この対比は、現代でも見ることができる。現代の中国でも激しい市場的競争が行われている(テクノロジーや金融市場が顕著だ)。そこに「自由な」民間経済の活力を感じることができる。

だが、それを支えるのは、ジョン・ロックが唱えた不可侵の権利や、所有権に基づく経済的な自由とは異なった「自由」だ。国家が介入する余地は、大きく開かれている。同じ「自由」という言葉でも、それを支える歴史認識が異なっていることが分かる。

欧米の自由をモデルにして、それとは異なるから「遅れて」いるわけではない。中国には別の「自由」があると考えると、これはこれで興味深い。

ただし、反対に、欧米と比べて中国の「自由」が優れているというわけでもない。清朝のセーフティーネットが可能だったのは、財政的に豊かな時期だけであり、財政難になると放任せざるを得なくなったことは、歴史が物語っている。

財政難や国際ルールの圧力により、「いちプレイヤーとしての振る舞い」をかなぐり捨て、ルールを変えたり、市場を閉鎖する未来は、ありうる。それは、中国に自由が無いからというよりも、むしろ、中国の「自由」を支える基盤に、所有権の概念が存在しないから―――と理解すると、腑に落ちる。

高校科目「歴史総合」を実践する

私が、所与のものとして扱っていた考え方は、実は確定していた過去ではなく、それをどう見なすか―――歴史認識によって支えられていることが分かる。

本書は、小川幸司と成田龍一、さらにゲストを加えた鼎談形式になっている。どのテーマ、どのトピックでも、私が当たり前に感じていた考えに揺さぶりをかけてくる。「100%正しい」歴史認識なんて存在しない。だからこそ、対話を重ねながら、歴史認識を共有していくことが重要になる。

  • アメリカ合衆国の成長は、人種・民族に基づく「選び捨て」による移民の選別と、黒人を搾取可能な「自由労働者」することで、労働力創出に成功したことによる
  • パレスチナにおける非対称の紛争は、戦争ではなくテロとして扱われることによって、歴史教育から不可視化されている
  • ヘーゲルやマルクスが定式化した「国民国家を主体とした認識の枠組み」は、歴史学の前提として機能しており、移民の影響を捉えにくくしている

本書は、世界史と日本史を一体化した高校の必修科目「歴史総合」を学ぶ実践そのものとなる。読者は、歴史像の形成過程を学び、問いや対話に基づきながら、歴史認識をアップデートしていくことになる。

 

| | コメント (0)

物語を書く人・楽しむ人のバイブル『面白い物語の法則』

面白い物語には法則がある。

剣と魔法の冒険譚であれ、銀河帝国の逆襲であれ、身分違いの恋物語であれ、面白いとされる物語に共通する法則だ。

そんな魔法みたいなものがあるのか? もし面白さを形式化できるなら、AIに学ばせることだってできるだろう。眉唾しつつ読んだら腑に落ちた。確かに、面白い物語には法則がある。

『面白い物語の法則』は、ハリウッドの第一線の脚本家による、実践的な指南書だ。『美女と野獣』『ライオンキング』の一流のストーリーテラーが使っている手法が惜しげもなく解説されている。

物語やシナリオ、ネームを書く人のみならず、出来上がった映画やドラマ、小説作品を味わう人にとっても役に立つ。なぜなら、「その作品がなぜ面白いのか」を言語化することで、作品をより深く味わい尽くすことができるから。

テーマとログライン

最も私に刺さったのは、テーマとログラインだ。

テーマを決める、なんて当たり前のことに見えるが、本書はもっと徹底的だ。自分が書こうとしている物語について、3ページのシノプシス(あらすじ)、短い文のログライン、最終的には、人間の衝動や性質を言い表す一つの言葉にまで突き詰めよという。

たとえばマクベス。「大勢の人を殺して王になろうとしたスコットランドの領主のお話」なんて説明ではない。物語の感情を、たった一言で定義するなら何になるか。本書では、「野心」すなわち支配への衝動だと説明する。

『マクベス 』で「野心」は三回出てくる。まず、マクベス夫人が焚きつける「野心はあるが毒気がない」、そしてマクベス自身の「野心はないが野望はある」、最後は「おのれの命を食いつぶす愚かを極めた野心」の三回だ。

野心は避けがたい破滅を招くのだが、マクベス自身にはそう見えない。見えたときには手遅れになる。「無情になるための野心」ではなく「慈悲に抑制された野心」だって選べたはずだ。だがマクベスは、最後の人間性も切り離し、破滅への道をひた走ることになる。

では、なぜテーマが最重要なのか。

テーマは、物語を統一し、首尾一貫した感覚を与える要素だという。言い換えるなら、テーマさえはっきりしていれば、どんな雰囲気や感情を生み出せばいいのかが分かる。セットの基調色が何になるか、どんな音楽を使うかも考えやすくなる。

テーマに合わない部分はバッサリ斬ったり改変する必要も出てくるし、物語が複雑化したとき、テーマを頼りに本線に戻すこともできる。

テーマを抽出するトレーニング

自分が扱う作品のテーマは何か、徹底的に突き詰める。そして考え抜いたテーマを、様々な試練にさらすのが、物語作家の役割になる。

しかしテーマというもの、腕組みして考えると浮かんでくるものでもないし、口開けていると、空から降ってくるわけでもない。どうすれば突き詰めることができるのか? 

本書では、単純だが厳しいトレーニングが課されている。

100日で100本の脚本を読めという。そして、読み終えるごとに、シノプシス3ページ、ログラインを一文、そしてテーマを書くトレーニングだ。実際、やろうとすると、細部は大幅に割愛され、中心となるキャラクター、主眼となる対立とアクションなど、物語の根幹を見つけ出す作業になる。

ほとんどのテーマは、第一幕の早い段階で、示される場合が多い。登場人物が声高に口にする願いや主張に隠されており、それを受け容れるか否かはともかく、物語全体に反響し続ける。

テーマが響く箇所が物語の根幹であり、それを手繰っていくとシノプシスが出来上がる。そして、シノプシスを削いでゆけば、ログラインになる。著者はシェイクスピアを全て読んで実践したというが、四大悲劇だけでもやってみたい。

ログラインの重要性は、『SAVE THE CAT の法則』で何度も繰り返されていた。多くの人を巻き込み、商業的に成功するためには、一行でその気にさせなければならない。ログラインやテーマは、物語の背骨だと言っていい。そのトレーニング方法が詳述されている分、『面白い物語の法則』は実践的だと言えるだろう。

キャラクターの方程式

キャラクターの作り方は、方程式が紹介されている。これだ。

キャラクター=求めるもの+動き+障害+選択

言い換えるなら、キャラクターとは、何かを求めて物語に現れ、それを求めるために動きまわり、何らかの障害によって阻まれ、それを乗り越えるために選択を迫られる存在になる。

求めるものを手に入れて早く満足したいという欲求とは裏腹に、開始2ページで終わらせるわけにはいかない。物語作家はあらゆる障害を放り込み、同じものを求めるライバルを登場させ、第二の求めるものを出現させる。物語が「動く」とは、キャラクターが求めるものを手に入れようとすることと同義なのだ。

この辺り、カート・ヴォネガットの小説家の心得で聞いたことがある。「たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにも何かを欲しがらせること」というやつ。ポイントは、「たとえコップ一杯の水でも」だね。物語に出てくる人それぞれに、運命の重荷やあり得たかもしれない人生を背負わせる必要はない。たとえコップ一杯の水でも、それを求めることで動きが生まれる。

あるいは、『キャラクター小説の作り方』で知った、物語の原則を思い出す。この本によると、あらゆる物語には原理原則があり、それは、「主人公は何かが『欠け』ていてそれを『回復』しようという『目的』を持っている」になる。主人公が満ち足りてて、何も求めるものが無かったら、そもそも物語が始まらないからね。

しかし、「求めるもの」って何だろう? 大丈夫、本書には膨大なリストがある。「金」や「セックス」、「正義」といった分かりやすいものから、「記憶の再生」「アイデンティティ」「孤独」など、それだけで面白い物語になりそうなものまで、大量に並んでいる。

キャラクターは道具箱のようなものだから、沢山用意しておけという。ポピュラーソングは求めるものの宝庫だし、テオプラストス『人さまざま』には典型的なリストが網羅されているという。

ヒーローズジャーニー

本書の目玉の一つが、ヒーローズジャーニーだ。

慣れ親しんだ日常から離れ、冒険へ召喚される。賢者のアドバイスに従い、試練を乗り越え境界を超越し、力の源泉を得て、再び日常へと戻ってゆく。賜物を手にした後は、対決/チェイス/バトルがある。

メドゥーサの首級を持つペルセウスから、冥界に降りるイザナギ、フォースを使うルーク・スカイウォーカーなど、地域や時代によって異なるが、伝承で示される英雄像は、驚くほど似通っている。

本書では、『千の顔をもつ英雄』を俎上に、このヒーローズジャーニーを徹底的にしゃぶりつくす。この円環構造こそが、面白い物語の法則になるとして、ヒーローズジャーニーを12のパターンに分け、様々な映画への応用例と共に紹介する。

Photo

 

重要なのは、アイテムやキャラや世界ではなく、この構造そのものだという。魔法の剣を手に入れる英雄、洞窟に潜むドラゴンとの戦いなどは、単なる象徴なのだ。

たとえば、年老いた賢者は、面倒見のいい上司やセラピストにしてもいいし、現代のヒーローは洞窟ではなく、宇宙や海底、自分自身の心を探索してもいい。自分の書く物語に合わせていくらでも差し替えることができる。

さらに、特定のキャラに機能を固定させる必要すらないとまで言う。賢者、ライバル、助言者は、キャラクターたちが交代で身につけてもいいという。人の根源的な感情を掻き立てる役目を果たしてくれれば、同じキャラが演じ分けるようにしてもいいのだ。

プロップの物語カタログ

本書のもう一つの目玉がこれ。ウラジミール・プロップの「物語のカタログ」だ。

誰でも直感的に理解できるお昔話・伽話を体系的に捉え、共通する機能や構造を30あまりに分類したのが、プロップだ。個々の機能から、物語の普遍的手法を読み取ることができる。

「主人公にあることを禁じるが、禁が破られてしまい、痛手を負う」とか、「難題を課された主人公が、見事に解き明かし、資格を得る」なんて、どこかで聞いたことがあるだろう。時代や場所を問わず、物語の原型が紹介されている。

 1. 家族の一人が家を留守にする
 2. 主人公にあることを禁じる
 3. 禁が破られる
 4. 敵が探りをいれる
 ……

『面白い物語の法則』が優れているのは、前述のヒーローズジャーニーの12パターンと、プロップの物語のカタログとを照らし合わせ、物語に共通する「機能」を炙り出す点にある。

極端なことを言うと、このカタログから適当にピックアップして組み合わせるだけで、誰にでも伝わる物語の骨格が出来てしまうのだ。順列組み合わせならコンピュータの得意とするところ。「それっぽい」お話なら、AI に書けてしまうだろう。

本書では、さらにプロップの応用を解説する。プロップは、登場人物の行動、すなわち「動詞」に着目する。動詞は行動を呼ぶ。強くて機能的な動詞は、そのまま良いシナリオにつながる。キャラクターを表現する動詞を吟味することで、そのキャラを定義しやすくなるという。

テーマを構造的に隠す仕掛け=環境的事実

私が一番学んだのは、環境的事実というやつ。ストーリーから手がかりを読み取り、結論を引き出す方法だ。自分の脚本について、それぞれの環境的事実を短文で書けという。6パターンある。

 ・日付
 ・場所
 ・社会的環境
 ・宗教的環境
 ・政治的環境
 ・経済的環境

例えば「日付」。

よりによって、なぜ「その日」を描いた脚本なのかを考える。サメが大海を泳ぐだけでは何も起きないが、独立記念日に海沿いの街を襲ってくるとなると話が違ってくる。植物採集にやってきた異星人と「その日」に出会わなければ、エリオット少年の人生は平凡なままだっただろう。

普段とは違うある特定の日に、たまたまそこにいたせいで、がらりと人生が変わってしまう。これを自覚するために、自分の脚本が「その日」をどう位置付けているかを、できるだけ沢山の短文で表現せよという。

そうすることで、なぜ「その日」にしたのかを考え抜くことになる。そして、「その日」をどのように描けば面白くなるかを、自分自身に問いかけることになる。独立記念日はアメリカ人にとって特別な日だ。しかも、海水浴客でにぎわう日でもある。だから海開きを強行する他なかったという確執が生まれる。確執は物語を面白くする。

他にも、それぞれの観点から「なぜその場所か」「なぜその社会か」を考える。すると、「その場所」「その社会」ならではの理由が見えてくる。そして、その理由をテーマやログラインと結びつけることで、物語の中にテーマを隠すことができる(本書では、手がかりを脚本に埋め込むことで、構造を三次元化せよと説いている)。

物語作家のバイブル

面白い物語に共通する法則を理解し、身につけ、実現する方法が、大量の映画の紹介とともに解説されている。

ひょっとすると、これは手品のネタばらしのように見えるかもしれない。いや、それは大丈夫。本書を理解するほど、自分がどのように夢中になっているか、なぜそんなに面白いのかを、より深く知ることができるから。

そう、本書は、物語を書く人だけでなく、物語を楽しむ人にも役に立つ。

これ読みながら、アマプラの『SUIT/スーツ』を観ているのだが、本当に教科書通りに作ってある。

面白いかって?

もちろん! ニューヨークの法律事務所を舞台にした痛快なドラマなのだが、本書のおかげで一層楽しめるようになった。

なんとなく感じてた面白さの味が、ハッキリと自覚できるようになったから。セリフ回しやBGMに潜んでいるテーマに気づきやすくなっただけでなく、立ち位置やカメラアングルにまで、ログラインが徹底されていることが容易く分かるようになった。

それは、プロの料理を食べる前に、そのレシピを読むことで、料理の表現や奥行きが理解しやすくなるようなもの。

物語やシナリオ、ネームを書く人のみならず、出来上がった映画やドラマ、小説作品を味わう人にとっても役立つバイブルになる。

一点ご注意を。本書は『物語の法則 強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術』の新書版で中身は同じになる。

| | コメント (0)

科学は人間にとっての約束事にすぎない『科学と仮説』

10進数が一般的なのは、手の指が10本だからだ。

指の数が8本なら8進数だったろうし、四足歩行のままなら20進数かもしれない。〇進数の〇の中にどの数字が入ったとしても、表記が違うだけで、数は同じだ。単に10が人にとって自然に見えるだけである。10進数なら真で、8進数なら偽なんてことはない。

ポアンカレは、ユークリッド幾何学で同じことを考える。

三次元に座標がマッピングされた空間で、個体として運動する生命にとって、最も使い勝手の良い幾何学が、ユークリッド幾何学の空間になる。非ユークリッド幾何学が今の人間に支配的ではないのは、単純に、ユークリッド幾何学のほうが便利だからにすぎない。

ユークリッド幾何学と、非ユークリッド幾何学の、どちらが真かを考えるのは、メートル法とヤードポンド法のどちらが正しいかを議論するようなもので、ナンセンスだという。

人間が空間を認識する上で、三次元で、一様かつ連続的であるといった性質を前提としている。その性質を本質として備えているのがユークリッド幾何学のため、人間に採用されている規約にすぎないのだ。

ただし、人間が意図的に採用したというのであれば、適切ではないだろう。人間が数学を始めるとき、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の2つがあって、どちらにするかを選べたわけではないのだから。

ヒトが存在する環境だとか、ヒトの身体や認知のデザインによって、ほとんど必然的にユークリッド幾何学になったというのが実際のところだろう。

偽装された定義

この「人間にとっての規約」を出発点として、幾何学から力学、電磁気学にまで及ぶ幅広い分野に共通する客観性を掘り下げたのが、『科学と仮説』だ。人間がする営みであるにもかかわらず、人間が抱く主観を取り去った「客観」なるものの存在が疑わしくなる。

科学理論とは、人間というフィルターで濾された観察の蓄積から、人間が把握しやすい約束事の移り変わりに見えてくる。科学とは、自然の真理なんてものではなく、観察結果を上手に説明できたり、再現させるのに使いやすい約束事に過ぎないのだ。

ポアンカレはこれを、偽装された定義と呼ぶ。

例えば、ニュートンの運動法則がある。世界を統べる原理のように扱われてきたが、これは物理現象を統一的に説明するための約束事にほかならないという。

あるいは、「エーテル」という媒体は、光の性質を説明するために導入された後、捨てられた。宇宙の質量を説明するために導入された「ダークマター」は、それが本当にあるかどうかはどうでもよく、人が理解できる範囲の理屈に合わせるための約束事なのだ。

「力とは何か」を形而上学で語ろうとすると議論は終わらない。だからいったん、質量と加速度の積だと定義して、そのフィルターで世界を観察しなおすのだ。そこで再現性のあるもの、定義の組み合わせで矛盾なく説明できそうなものを選び取って体系化したものが、その時代の科学になる。科学がトートロジカルに見えるのは、こうしたわけなのだ。

しかし、時代と共に技術が洗練され、より細かく、より遠く、より精密に観察できるようになるほど、定義の組み合わせでは説明するのが困難になる。

なぜ科学は複雑化するのか

あたりまえだ。人間が理解できる範囲に留めるべく、単純な定義とシンプルな組み合わせで始まった理屈のため、より精密な観察結果を説明しようとすると、辻褄が合わなくなる。

だから、パラメーターを追加したり、定数を加えることをくり返し、なんとか理論を存続させようとする。結果、オッカムの剃刀はどこへやら、複雑怪奇な体系ができあがる。

この体系を存続させるため、体系に合わないデータは捨てられることになる。

例えば、CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)が象徴的だ。

ホッセンフェルダー著『数学に魅せられて、科学を見失う』によると、この実験では莫大なデータが捨てられているという。

高エネルギー下での粒子を観測する実験では、毎秒10億回もの陽子-陽子衝突が起こる。CERNのスパコンでも、全ての衝突データは保存できない。衝突が起きている間、リアルタイムで選別され、アルゴリズムが「興味深い」と判断したものが保存される。その数はせいぜい100~200程度だという。

著者はこれを、悪夢のシナリオと呼ぶが、仕方がないだろう。別に科学者の怠慢なのではなく、今の技術ではこれが限界であり、人間が説明できる範囲での理屈に合わせるためには、こうした取捨選択が必須となる。結果、現在の理論に基づいて説明できそうなデータを集めたものが「エビデンス」となる。

理論を逆算する

技術とともに複雑化する科学を、逆手に取ることもできる。

この100年で、どれほど遠くまで観測することができ、どれほど小さいものまで観察することができるようになったかを考えてみよう。言い換えるなら、宇宙の果てから素粒子の奥まで、どれくらいのスピードで把握できるようになったか。

『ズームイン・ユニバース』が参考になる。極大だと10^27まで、極小だと10^-35になる。これは、観測可能な宇宙の果てから、「場」に満ちた世界までになる。

一人の科学者のキャリアを四半世紀とすると、25年後に観測・説明可能な極大・極小の範囲は、これまでの技術のスピードから推計できる。そして、その世界で立証できる範囲で理屈を組み立てるのだ。

このとき、ポアンカレの偽装された定義を思い出そう。あくまで、25年後の人間に理解できる範囲での約束事にするのだ。科学者としてのキャリアの間に立証できない絵空事は描けない。一方、複雑怪奇な理屈の正当性を擁護すべく弥縫策に奔走するのも馬鹿馬鹿しいだろう。

科学を、客観的な事実の集積としてではなく、人間が取り決めた規約の集積とみなす。そうすることによって、「科学」の見通しはうんと良くなるだろう。

| | コメント (4)

ヨーロッパ偏重のローマ帝国から離れる『岩波講座 世界歴史 03』

皇帝ネロの時代、ローマは火の海となった。炎は6日と7晩かけて、首都の大半を焼き尽くした。

「都を新しくしたいネロの陰謀」という風評をもみ消そうとして、ネロ帝はキリスト教徒を放火犯に仕立て上げ、火刑に処したという。

しかし、本書よると、これはキリスト教徒のプロパガンダらしい。

ネロの時代において、ユダヤ教とキリスト教は、はっきりと分化しておらず、「キリスト教徒」という集団では認知されていなかった。あくまでユダヤ教内での対立として、暴動を引き起こしていたという。

暴動の首謀者としてクレストゥス(Chrestus)とユダヤ人たちが追放されたという記録があるが、写本を引き継ぐ中で、イエス・キリスト(Christus)に書き換えられたのではないか、という説だ。つまり、刑に処せられたのはユダヤ人集団であり、キリスト教徒だけを狙い撃ちしたわけではないというのだ(※)。

一方、キリスト教徒に対する「迫害」が量産されるのは、4世紀以降になる。

それまでに記されなかった過去を振り返って「当時のキリスト教徒は迫害された」という文書が大量に残されるようになる。

なぜか? 教会指導者たちは、迫害を耐え抜いた、殉教の後継者としてのアイデンティティを確立するために、こうした「伝説」を創りあげたというのだ。

頭をガツンとされたような衝撃を受けた。

ローマ大火やキリスト教徒の迫害については、塩野七生『ローマ人の物語』や徹夜小説『クオ・ワディス』で、歴史的事実だと思っていた。

だが、歴史的事実とは、各時代の書き手が取捨選択したものの集積であり、そのまま受け取る前に、それぞれの書き手のバイアスを意識して読み解く必要が出てくる。4世紀から見るローマと、21世紀から振り返るローマは、別物だと思ったほうがいい。

例えば、近代におけるローマは、自由と文明の象徴として描かれていた。帝国を拡張することを「正義の戦い」と主張し、征服した「野蛮人」に「自由と文明」をもたらすのが、ローマになる。これは、植民地における「支配-被支配」の構造に落とし込み、帝国主義を正当化させるレトリックとしてのローマだろう。

あるいは、20世紀末になると、ヨーロッパ統合の進展を受けて、政治面においてローマ帝国が脚光を浴びることになる。統合された広大な領域と、ローマ全体で通用する共通通貨を踏まえて、「EUは古代ローマ帝国に匹敵」(プロディ欧州委員会委員長)とされる。

「ローマ帝国をどう見るか」というテーマは、そのまま「ローマをどう見たいか」につながり、それぞれの時代の写し鏡になる。

『世界歴史03 ローマ帝国と西アジア』は、前3~7世紀のローマ帝国がテーマとなる。特徴的なのは、昔ながらのヨーロッパ偏重から離れ、西アジアとのつながりが重視されている点にある。

ヨーロッパにとってのローマは精神的な故郷のようなものだろう。そのため、ローマ的なものを受け継ぐのは自分たちだという意識から、西側に重心がかかった「支配側からのローマ帝国」が描かれることになる。

しかし、実像としてのローマは、圧倒的多数かつ多様な「被支配者」や、その外側の西アジアの人々とのつながりの中で成り立っていた。こうした実態を踏まえ、本書では、女性やマイノリティからの視点や、ユーラシア規模での経済活動から、多角的にローマを活写する。

ヨーロッパ人が見たいローマではなく、逆側・裏側・外側からのローマが見えてくる一冊。お試しは、ここ[PDF]で読める。面白さは保証する。

 


The Historicity of the Neronian Persecution: A Response to Brent Shaw,Christopher P. Jones,Cambridge University Press,2016

https://www.cambridge.org/core/journals/new-testament-studies/article/historicity-of-the-neronian-persecution-a-response-to-brent-shaw/72A73656C0F1372963C197F8945D38D3

この論文の結論は、「『大火の責で、ネロがキリスト教徒を罰した』というタキトゥスの主張を反証できなかった」になる。この記事の主旨と合わないため、削除する。
(@JEREMIA10732539 さん、ありがとうございます)

 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧