「コペンハーゲン解釈」「多世界解釈」だけではない、量子力学の解釈を10個にまとめてみた『量子力学の諸解釈』

混迷する物理学が面白い。

原子や電子といった小さなスケールで世界を考えるとき、常識が通用しなくなっている。観察対象には実体があって、位置や速度を持っているという、当たり前のことが成立しなくなっている。

例えば、電子は粒子でありながら波でもある現象について。二重スリットを通過する電子は、干渉しあった波のような縞模様が出てくる。一方で、電子を一つずつ発射すると、粒子のように観測される。しかし、継続していくと、波のような干渉縞になる(粒子波動二重性)。

あるいは、観測によって、電子の振る舞いが劇的に変わる、波動関数の収縮について。スクリーン上の一点の電子を観測する実験を、波動関数の変化とする。電子を観測する前だとシュレーディンガー方程式に従って存在するが、ひとたび観測すると、従わなくなる。観測によって結果が異なるパラドクスだ。

さらに、電子の位置と速度を同時に測定することができない、NOGO定理だ。本書では、もっとはっきりと「『物体が何らかの値を持っている』と仮定することができない」と意味付けている。「物質が実在する」という素朴な考えを揺さぶる現象だ。

面白いのは、常識を揺さぶるパラドクスだけではない。これらを解釈するために生み出される、様々な理論が楽しい。奇妙で不可思議なことを説明するのだから、常識外れのアイデアが飛び出してくる。SFよりもSFだが、机上の空想ではなく、これまでの観測結果や理論に則した解釈だ。

「コペンハーゲン解釈」や「多世界解釈」といった名前は耳にしたことがあるが、実際その中身がどうなっているかは、よく分からない。箱の中の猫といった、喩え話でしか理解できていない。

こうした解釈を網羅的にまとめあげ、解説したのが『量子力学の諸解釈』になる。

それぞれの解釈で論文が大量にあるのだから、この一冊で全部を理解するのは難しい。

だが、どういうアプローチで理解しようとしているか、という量子力学の「分かり方」が分かる。文字通り、世界の見方を変える必要があるものから、回答から逃げているもの、量子力学そのものを書き換えるものまで、盛りだくさんだ。人間の想像力(創造力?)の限界を突破している様がよく見える。

量子力学の解釈を大別すると、2つのグループに分かれる。実在主義的な解釈と、経験主義的な解釈だ。まずは実在主義的な解釈から紹介する。

実在主義的な解釈4つ

実在主義的とは、具体的なイメージが浮かびやすい解釈になる。例えば、粒子が、はっきりと軌跡を描いて飛んでいくもので、これはイメージしやすい。その分、パラドクスを整合的に説明するのは難しい。

軌跡解釈
電子は粒子であり、はっきりと軌道を持っている。軌道は確定的で、量子ポテンシャルによって因果的に決まる。量子ポテンシャルの非局所的な効果によって、粒子軌道に干渉縞が生じる。

確率過程解釈
系ははっきりとした軌道を持つが、軌道は揺らいでいる。軌道を決める方程式は確率過程論的であるが、その過程は、通常の過去→未来への時間軸だけでなく、未来→過去へ向かう過程も含むため、方程式が時間対称となる。

アンサンブル解釈(統計解釈)
波動関数は個別の系に関する記述ではなく、系の統計集団(アンサンブル)に関する記述と考える。「観測前から物質量に対してはっきりと値を持つ」バージョンから、「全ての物質量が同時に値を持たない」とするバージョンまである。アインシュタインがこれ。

交流解釈
物質の実体は波と考える。放射体から過去と未来に向けて提案波が放出され、それを受けた吸収体から過去と未来に向けて確認波が出され、それらが重なり合い反響が生じ、確率的に交流が完了し、エネルギーが移動する。ファインマンがこれ。

実在主義的に「物質は実体を持ち、値がある」という前提から始めると、パラドクスを説明するのに苦しそうだ。

経験主義的な解釈6つ

一方、経験主義的な解釈は、もっと現実的な対応をする。

量子力学の範囲内に限定して説明する方針になる。電子の干渉縞という現象や、観測する実験プロセスに対し、量子力学だけで説明するならどうなるか、というアプローチだ。

言い換えるなら、量子力学の範囲で説明できない観測問題や解釈については手を出さない。なぜなら、量子力学の実験で理論を実証できないから。

多世界解釈
エヴェレット相対状態解釈を起源とし、観測者(観測器)を波動関数で表し、系の状態を観測者の状態に相対的に見る。系の状態と観測者の状態が相関を維持しながらセットで分岐し、干渉性を喪う。多世界解釈では「世界の分岐」と見なす。

無矛盾歴史アプローチ
初期状態から観測までをつなぐ可能な歴史を与える。可能な歴史とは「無矛盾条件」を満たす歴史であり、そうした歴史の集まりを「無矛盾歴史族」という。同時に仮定してよい歴史の組は「単一枠組み規則」によって与えらえる。

GRW理論
シュレーディンガー方程式に従う波動関数の時間発展の他に、一定の割合で自発的な収縮が起こると考え、これにより波動関数の収縮を説明する。つまり、量子力学に新しい物理が付け加えられており、量子力学の「解釈」というより「改良」になる。

量子理論・様相解釈
全ての物理量を平等に扱う(軌跡解釈や確率過程解釈のように、位置だけ特別扱いするようなことをしない)。古典論理が誤っていて、新論理(量子論理)が見つかれば、同時確率やベル不等式が成り立たない場合もあることを説明できると考える。

コペンハーゲン解釈
確率の背後にある実在世界や観測前の値のことを一切考慮しない。コペンハーゲン解釈では、「測定が行われるまでは実在というものを考えてはいけない。確率振幅に関する情報のみが存在する」と主張する。

量子ベイズ主義
確率の背後にある実在世界や観測前の値のことを一切考慮しない点までは、コペンハーゲン解釈と同じ。量子ベイズ主義は、波動関数から計算した確率はベイズ確率であり、量子系そのものが持つ性質ではないと主張する。その確率は我々が持つ信念の度合いによる。

波動関数の収縮といった現象は、「説明しない」「問題としない」という考え方だ。理論というよりも、態度に近い。問題としないのであれば、パラドクスでもなんでもない。

ある意味、潔いというか「科学者として」正しいことを言っている。要するに、実験で立証できないものは、哲学の範疇であって、科学者に求めるのはお門違いという態度だ。こういうセリフもある。

コペンハーゲン解釈を一言で表すなら、「黙って計算しろ!」になる

科学というものは、謎を解くためにあるのではない。現実を観測して再現するための便利なツールに過ぎないのだから、科学に「なぜ」を求めないでくれ、という主張だ。

言いたいことは分かるのだが、思考停止とどう違うのかが分からない。この態度は、「それでいいのだ」と聞こえる。バカボンのパパ並みに断定されると、ぐぅの音も出ない。

ただでさえ難解な量子力学という分野で、莫大な実験や論文で溢れかえり、自分の研究で手一杯で、研究費の確保に忙しい「科学者」にとって、センス・オブ・ワンダーの持ち合わせは無いのかもしれない。

「それでいいのだ」と言い切る「科学者」ばかりならば、私が生きている間にブレイクスルーは見届けられないだろう。一方で、この10個とは似ても似つかない解釈も生まれるかもしれない。さらに、その新解釈に導かれ、新たな発見もあるだろう。

そっちの方が楽しみだ。

おまけ:方程式・定理における「時間」について

本書には大量の方程式や定理が登場する。

難解な代物ばかりで、ほとんど理解できない。だが、方程式を眺めていて奇妙に感じたことがある。それは、「そこに時間は存在するのか」という疑問だ。

ニュートン以来、数学と物理学の相性は極めて良好なのだが、数学に無いのに物理学にあるもの、それは「時間」だ。

数学の定理とは、定義から導き出せる一般則だ。別観点から見た本質といってもいい。

例えば、三平方の定理。「直角三角形の斜辺の2乗は他の辺の2乗の和に等しい」は、「ある辺の2乗と、他の辺の2乗の和が等しいなら、それは直角三角形」になる。定理は本質の言い換えになる。本質を別の表現で述べているだけなので、イコールで結ばれた左辺と右辺には時間が存在しない。両者は「いつも」成立している。

しかし、物理学における「方程式」は観測結果から導出された現象を一般化したものになる。森羅万象のうち、「観測可能なもの」だけに焦点を当てて、「式で表せそうなもの」に近似させたに過ぎない。結果、式に当てはまらない現象は、定理を拡張させたり、もっと端的に誤差として切り捨てたりする。

また、科学技術の発達に従って、より精緻な観測結果が得られるようになったり、前提条件が明らかになったりする。「扱えそうな現実のみ、扱う」という方針により、物理学が追求しているのは、現実ではなく、現実の近似なのだ。

この、現実との近似という観点から考えると、2つの時間が考慮されていないように見える。

一つ目。物理学の方程式のうち、左辺と右辺は「いつも」一致するとは限らないものがある、という前提を見落としているのではないか。

言い換えるなら、左辺と右辺、それぞれの式を成立させるためにかかる時間は、異なっているのではないか、という疑問だ。その結果、本当はイコールで結べないにも関わらず、等しいと見なしてしまっている定理があるのではないだろうか。

あるタイミングにのみ成立する右辺と、また別の条件でしか成り立たない左辺を、方程式という顔つきをしているだけで、「いつも」一致していると見なしてはいないだろうか、という疑惑だ。

「タイミング」という言い方が気に入らないのであれば、右辺を成立させるためにかかる時間と、左辺を満たすためにかかる時間が異なっているにも関わらず、一致させてしまっている方程式が、基礎的な理論の中にいるのではないか。

数学と物理学の親和性が高いため、うっかりすると見過ごしてしまう。だが、数学の方程式と、物理学の方程式は、その成り立ちからして違うものだ。数学の方程式ならば、両辺に同じものを加えたり、左辺から右辺に移項したりしても、「いつも」成り立つ。だが、物理学の場合、「いつも」成り立つとは限らない。

二つ目。一般化した「時期」による定義の変化が考慮されているのかという疑問だ。方程式を成立させるためには、前提があり、その前提は、式を成立させた時代の科学技術による。異なる時期の方程式を、見た目が方程式だからといって、無邪気に代入してもよいのか、という疑問である。

極端な例を示す。

ニュートンの運動方程式は、F=maだ。Fは物体に加わる力で、mは質量、aは加速度になる。一方、アインシュタインが特殊相対性理論から導いた式は、E=mc^2だ。Eはエネルギーで、mは質量、cは光速だ。

ここでm(質量)に着目する。両方の式に出てくるから、単純に代入して、E=(F/a)c^2なんて式を作ることはできない。それぞれの前提が異なるし、無視している条件もある。また、成立した時期も測定機器も違うため、同じmであっても、「質量」の定義からして違う。観察対象の系(system)が違うのだ。

これと同じようなことをやっているのではないか、という疑惑だ。

例えば、ボームの軌跡解釈(p.38)だ。運動方程式を改変したものを、シュレーディンガー方程式と等価と見なしている。本来、前提からして異なるものを、「質量」や「定理」や「方程式」という見た目からして、同じようにしてしまっているのではないか。

仮に、このような「操作」が許されるのであれば、結果から方程式を逆演算するというアプローチもありになる。つまり、物理学で「方程式」とされているものをAIに学習させた後、未解決の実験結果に当てはまるよう、方程式を改変させるのだ。代表的な式の数は、せいぜい数千だろうから、そんなに賢いAIじゃなくても、順列組み合わせの力任せで行けるかもしれぬ。

そんな妄想が捗る捗る、おそらく唯一無二の一冊。



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新訳で劇的に面白くなった名著『新版 歴史とは何か』(E.H.カー)

・歴史とは現在と過去との終わりのない対話である
・世界史とは各国史をすべて束ねたものとは別物だ
・すべての歴史は「現代史」である

名言だらけのE.H.カーの名著。

昔は「教養を身につけるため」と有難がっていた。今でも教養課程の必読書とされているかもしれない。文系理系関係なく読むべき名著といえば、『理科系の作文技術』とこれだろう。

ところが、新訳を読むと、がらりとイメージが変わった。「教養を身につける」という体裁よりも、むしろ、ユーモア満載、毒舌たっぷり、ハラを抱えて大笑いできる一流の講義になる。

論敵をあてこすり、酷評し、嘲笑する。死者を皮肉り、(歴史学も含めた)人文学を軒並み張ッ倒し、強敵は名指しで祭り上げ、しかる後にメッタ斬り。

母親の膝のうえで学んだ子どもっぽいナイーヴな学説だとか、成績が「可」ばかりの学生みたいな史観だとか、めずらしく階級的感覚の低い発言だとか、嫌味と毒舌のオンパレード。ページをめくるたび、黒い笑いの発作にまみれる。

なぜ新訳が面白いのか

60年前の岩波新書と比べると、新訳では5割くらい毒が増してる。なぜか?

それは、[笑] が追加されたから。

[笑] とは、「ここ笑いどころだよ」と明らかに笑いを誘うところを示す目印だ。文末に追加されている。テキストメディアだと草生える「w」だね。

「w」だと品が無いから [笑] になったんだろうけど、これが毎ページ毎ページ出てくる。何でもない一文なんだけれど、 [笑] が追加されることで、裏の意味を考えるようになり、皮肉が見えてくる。

イギリス流の嫌味で分かりやすいやつだとこれかな。カッコ()内は裏の意味。

  • Happy as a pig in muck/泥の中の豚みたいだね(幸せそうで何より)
  • Were you born in a barn?/お前、納屋で生まれたの?(寒いからドアを閉めろ)

京の茶漬けとか時計誉めみたいなものだろうが、一見さんでは分からない。

新版を訳したのは近藤和彦氏、イギリス史が専門だ。東大→ケンブリッジで学び、オックスフォードとケンブリッジを歴任した、ゴリゴリの歴史学者である。イギリス流の嫌味もたくさん浴びてきただろうから、カーの毒も見えるのだろう。

そんなことに気づかず、「教養を身につける」と有難がっていた私自身が可笑しい。まさに教養が足りていなかったが故に、皮肉を皮肉と気づかずスルーしてしまっていたのだ。ウケるwww

ここは、顔真っ赤にして怒る(嗤う?)ところなのかもしれない。

歴史とは何「でない」か

タイトルの「歴史とは何か」という問いに対し、計6回の講義でそれに応える。

ああでもない、こうでもないと議論を重ねながら、バッサバッサと論敵をなぎ倒してゆく。寄り道、脱線、例え話が長引くにつれ、「歴史とは何か」というよりも「歴史とは何でないか」を語られているような気がしてくる。

歴史とは何かについて答えようとすると、二つの極が現れる。

一つの極は、過去の出来事を取捨選択し、そこから一般化できるものを抽出する。未来も含め、どの時代にも適用できる、普遍的・客観的な法則のようなものを打ち立てる方針だ。「歴史法則」という言葉が如実に示している。

もう一つの極は、この反対だ。どの出来事を取捨選択し、何に焦点を当てて判断するかは、時代背景や歴史家の立場によって異なる。従って歴史とは、相対的な解釈を並べたものになる。あらゆる価値判断は相対的であるという立場やね。

カーが面白いのは、そのどちらにも与しないところ。与しないどころか、両方ともこっぴどく批判する。

まず、歴史の普遍性・客観性を抽出する立場を攻撃する。歴史家は人間であるが故に、自身が生きる時代や価値判断から離れ、自由になることはありえない。従って、自然科学のような、観察者と対象を分けて分析し、「歴史法則」を見出すような手法は不可能だと説く。

次に、もう一方の相対主義も却下する。さまざまな解釈を認め、客観的なものなど無いとする立場は、「見る角度を変えると山の形が変わるから、山なんて存在しない」と主張するのと同じで、危ういと説く。

歴史における客観性と相対性、どちらも重要だと思うのだが、どちらもボコボコにされる。[笑] の毒気に当てられて、爆笑しながら読んでいるうちに、ちょっと心配になってくる。

調子に乗って攻撃するあまり、カー自身の立場を掘り崩しているのではないか、と思えてくる。

なぜなら、カーの答えの否定にもなりかねないからである。

歴史とはモデルを作ること

カーの答えを端的に言うと、「歴史とはモデルを作ること」になる。

歴史家の世界とは、科学者の世界と似ていて、現実世界の写真コピーではなく、むしろ現実世界を理解し制御(マスター)するのが多少とも効果的になるようにした作業用の模型(モデル)なのです。
(p.172)

過去の出来事を選び取り、つなぎ合わせ、合理的な解釈を導くことができるモデルを作り上げる。モデルからは行動の指針として役立ちそうな結論を引き出す―――これが歴史家の仕事だという。

モデルとは、仮説とも言える。過去の出来事を一般化し、理解を深めるための思考のツールなのだ。仮説の有効性はずばり「解釈に有効か否か」による。

例えば、中世や近世といった時代区分があるが、そんな事実は無く、便宜上の仮説に過ぎない。だが、時代を解釈する上で有用であれば、時代区分というモデルを使うべきだろう。「ヨーロッパ史」という地域史の概念は、有用なときもあれば有害な場合もあるという。

要するに、解釈によりモデルは変わるわけだ。

カーは自説を補強するため、ポアンカレ『科学と仮説』を援用する。珍しいことにカーに攻撃されなかった論文だ。

ポアンカレの主張の要は、科学者が表明する一般的命題とは、考えを具体化したり整えたりするための仮説なのであって、検証、修正、反駁される定めであるというものでした。これはすべて、今では常識となっています。
(p.193)

現実世界を観察し、出来事を一般化し、パターンを抽出する。パターンをモデル化することで、より合理的な解釈を導くという。そして、自然科学における仮説と検証は、歴史学における一般化と事実とよく似ていると胸を張る。

「客観的な歴史」は存在するか?

なるほど……と思うのだが、ツッコミを入れたくなる。

たった今述べた「歴史とはモデルを作ること」は、先ほど攻撃した、歴史の客観性を追求する立場ではなかろうか。歴史家は、自身の価値判断から離れた「客観的な」立場にはなりえないため、作られるモデルとやらもバイアスが入っているのではかろうか。

……なんて意地悪なことを考えたくなる。

「客観的な歴史」は、カー自身も悩みどころとなっている。第5講「進歩としての歴史」の中で、歴史の客観性について述べようと試みるが、たいへん苦しそうだ。

歴史家は自分のバイアスを認識せよとか、時を経るごとに歴史学は進歩して客観的になってゆくとか言っているけれど、それって「歴史とは相対的なもの」だからでしょうに。

「過去を合理的に解釈するためのモデル」は、一つではない。

国や文化、宗教、言語、社会など、さまざまな切り口で、解釈のモデルは変わってゆく。論敵の数だけ仮説があることは、カー自身が痛感していただろう。

それにもかかわらず、「より客観的になる」ことはあり得るのだろうか。ジェンダー・セクシュアリティの歴史や、ポストコロニアルの歴史など、新しいモデルが増えていくのではないだろうか。

まだある。本書では一切触れられていない、「歴史を扱う人」の観点だ。『歴史とは何か』では、歴史は歴史家のみが扱うもので、その歴史に生きる人々―――要するに私たち―――の視点がゴッソリと抜けている。

歴史家が作り上げたモデルの整合性や、解釈の妥当性を検証したり、もっと他に「客観的な」仮説があるかを話し合うといった歴史実践が、全く書かれていない。あたかも、歴史とは歴史家が書いたものが全てであり、素人は恭しく受け取っていればよろしいと言われているみたいだ。

異なる国や社会の人たちや、一般市民を巻き込んで歴史を語ろうとするならば、膨大な数の「過去を合理的に解釈するためのモデル」が出てくるだろう。結果、歴史家のモデルは埋もれてしまうだろう。カーが怖れた「見る角度を変えると山形が変わるから、山なんて存在しない」になるかもしれない。

『歴史とは何か 第2版』の草稿

同じ問題意識は、カーも抱いていたようだ。

というのも、このテーマは幻の「第2版」で深掘りされているからだ。

『歴史とは何か』の反響は良い方にも悪い方にも大きく、論敵の反撃がすさまじかったらしい。カーは、さらなる応酬をするべく準備を進めていたものの、序文だけを記し、世を去っている。

残されたのが、相当数の書籍メモ、原稿の下書き、引用になる。イギリスの歴史家R.W.ディヴィスが、これら膨大な資料を元に「第2版のための草稿」としてまとめている。これは感涙モノ。草稿にはタイトルがつけられていて、いくつかピックアップしてみるとこうなる。

  • 因果連関、決定論、進歩
  • 文学と芸術
  • 革命と暴力の理論
  • 歴史の混乱状態
  • 統計学の攻撃
  • 心理学の攻撃

これ、絶対に面白いやつ!特にカー自身のメモによると「最終章は『ユートピア 歴史の意味』」だそうだ。旧版に親しんだ方なら、「第2版のための草稿」を最初に読むことで、カーの思考の変遷を辿るのも楽しいかも。



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再読すれば再読するほど夢中になるリチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』

毎夜、取り憑かれたかのようにのめり込む。

800ページ超の鈍器本なので、持ち歩くには向いてない。アメリカ文学の鬼才リチャード・パワーズの長編小説なので、面白さは折り紙付き。

2組のラブストーリーを軸に、進化生物学、音楽、文学、歴史、芸術論、情報科学が丹念に織り込まれており、知的好奇心と物語の引力に惹かれながら、読んでも読んでも終わらない幸せが何夜も続いた。

充実した十八夜を過ごし、惜しみ惜しみ最後のページに至った時、「これ、最初のページに繋がっている!」ことに気づく。ダ・カーポ(始めに戻る)やね。そして、もう一度はじめから読み返す。

(この物語の構造上、中身に触れずに紹介するのは難しい。ある程度ストーリーに踏み込んでゆくので、ご容赦願いたい)

2人の主人公

主人公はオデイ、ニューヨーク公共図書館に勤めている。利用者が寄せる様々な種類の質問に答える司書だ。

  • 地球上にはまだ測定されていない場所はありますか
  • 豊かな国に移住したいです。どこに行けばいいですか?政府はどんなタイプでもいいです。どのみち投票にはいかないので
  • 我々が他の星の生物と対話を交わす日がやってくる可能性はどのくらいあるのでしょうか

質問カードに書かれた文意を読み解き、どんな意図のもとに疑問を抱いているのかを推察し、場合によって複数の文献を参照しながら答える。1980年代のお話なので、コンピュータの助けを借りることもある。リファレンスと呼ばれるこの仕事は、一種の解読作業といっていい。そんな彼女に、いっぷう変わった「調べもの」を依頼する青年が現れる―――

もう一人の主人公はレスラー、新進気鋭の生物学者だ。時代は少しさかのぼり、1950年代、ちょうどワトソン&クリックの核酸の分子構造モデルが発表された頃のお話だ。

DNAが二重螺旋構造をしていることまでは明らかになった。また、核酸の4つの塩基構造が、生命のコピーや発現に関係することも分かった。だが、4つの塩基が、どうやってタンパク質の合成に関わっているのかは分からない。暗号解読の競争が熾烈を極めた時代でもある。

斬新な論文が認められ、やり手の教授に招かれ、研究チームに放り込まれる。細胞学、プログラミング、タンパク質学、生化学のプロフェッショナルが集まるチームで、ある女性と出会うことになる―――

1980年代の恋と、1950年代の恋。季節は夏から始まり、秋、冬、そして次の夏へと移ろうにつれ、2つのエピソードが交互に進んでゆく。オデイの恋と、レスラーの恋が、場所も時代も違うのに、並行して絡み合うように描かれてゆく。

思わせぶりな章構成と、タイトルそのもののダブルミーニングの予感は、読み進めるに従い、次第に明らかになってゆく。

『黄金虫変奏曲(The Gold Bug Variations、以後GBV)』は、バッハの変奏曲(Goldberg Variations)を想起させる。実際、レスラーの生涯をかけて聴き込むことになるレコードはこれだ。冒頭のARIA(アリア、歌曲)を様々な形に変奏した、計32曲で構成されている。

一方、『黄金虫変奏曲(GBV)』から想起される『黄金虫(The Gold Bug)』は、ポーが書いた小説になる。宝物を隠した海賊の暗号を解き明かす、ミステリ仕立ての短編だ。暗号は初歩的な換字式暗号(記号を別の文字に置き換える)だが、GBVの中でも度々登場する。

ゴルトベルク変奏曲との重ね合わせ

せっかくなので、ゴルトベルク変奏曲をyoutubeで検索する。

カナダの名ピアニスト、グレン・グールドのデビュー曲がヒットしたので、リピートしながら読んでゆく。グレン・グールドをBGM代わりにするなんて、贅沢な読書だなと思っていると、あることに気づく。

とあるメロディラインが、くり返し現れてくる曲がある。もちろん、変奏曲なのだから同じフレーズが幾度も登場するのは当然だ。だが、同じ曲の中でメロディが追いかけるように流れ出ている。

これをカノン(Kanon)と呼ぶ。同じ旋律をずらした時点で始めて、あたかも追いかけっこをするように奏でる手法だ(「かえるの合唱」が有名やね)。GBVにも「同度のカノン」や「二度のカノン」といったタイトルの節が登場する。

では、「同度のカノン」「二度のカノン」の違いは何だろう?と調べてみる。「度」は音楽用語で、音の離れぐあいを示す。例えば、ドとドを一度(同度)、ドとレを二度と呼ぶ。

バッハが凄いのは、度を一つずつ上げながらカノンを作り上げたこと。最初は「同度のカノン」の曲、次は「二度のカノン」、さらに三度、四度と曲ごとに度を上げている。単に度をずらすと、メロディーが成り立たない。だが、ゴルトベルク変奏曲では、度を上げても曲として成立させている。超絶技巧といっていい。

そこでハタと気づく。まてよ、GBVを読み進めると、「三度のカノン」「四度のカノン」というタイトルの節が登場する。ひょっとすると、GBVはゴルトベルク変奏曲と同期しているのでは……!?

冒頭の章に戻ると、確かに「ARIA」と書かれている。そして、ゴルトベルク変奏曲もARIAで始まる。さらにゴルトベルク変奏曲は32曲で構成されており、GBVも全部で32章になる。なるほど、タイトルだけでなく、構造もゴルトベルク変奏曲に合わせているわけだ。

それだけではない。

ゴルトベルク変奏曲でカノンが登場する曲は、3の倍数になる。例えば、3曲目、6曲目、9曲目に、それぞれ「同度のカノン」「二度のカノン」「三度のカノン」になる。それぞれの曲で、一度ずつ上がったカノンが奏でられる。

一方、GBVでは、3章、6章、9章のそれぞれに、「同度のカノン」「二度のカノン」「三度のカノン」の節が登場する。そして、3の倍数の章では、オデイの恋とレスラーの恋は、それぞれ進展する。出会い、初デート、愛を交わす恋の進行は、オデイの方が少し先行し、その後を追いかけるようにレスラーの恋が実ってゆく。

これはカノンそのものだ。互いに絡まり合うような物語構成は、螺旋構造を成している。随所に出てくる楽譜では、左手で演奏される和音(コード)が根幹とされ、主旋律がどんなにアレンジされていても、和音は変わらず引き継がれる。この物語そのものが、生命のコピーを生み出すDNAを模しているのかもしれない。

まだある。ゴルトベルク変奏曲の第25曲は、不協和音に満ちている。実際に聴いてみるとすぐ気が付くが、不安を掻き立てる耳障りな曲になっている。これに対応するGBVの第25章では、物語の中で大きな不幸が生じる。登場人物たちを苦悩させ、袋小路に追いやることが起こる。

わたしが見出せたのはこれくらいだが、他にも数多く隠されているに違いない。バッハの超絶技巧を、パワーズが小説で踏襲している。聴くことと読むことが同期して、わたしの中で重ね合わされてゆく読書になる。

黄金虫との重ね合わせ

GBVのストーリー自体にも、黄金虫やバッハが練り込まれている。たとえば、若き日のレスラーが取り組んでいるDNAの暗号解読だ。

DNAの情報は、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)の4種類の塩基配列で綴られている。一方、タンパク質を構成する情報は、20種類のアミノ酸配列になる。塩基は3つで1組なので、その組み合わせは4×4×4=64になる。つまり、64通りの組み合わせから、20種類のアミノ酸へ置き換える仕組みが必要になる。

レスラーの上司の方針では、DNAに並んでいる文字を元に、どんなメッセージが書かれているかを総当たりで試行錯誤で探すやり方だ。世界最初のコンピュータILLIACを用いて、力任せに解読するやり方だが、あまりに労力が大きい。レスラーは、この総当たり方式に疑問を覚える。

あるきっかけで『黄金虫』を読んだレスラーは、換字式暗号をそのままDNAの解読に当てはめようとしても、上手くいかないことに気づく。

『黄金虫』では、一番多く出てくる記号を、最もたくさん使われているアルファベット(e)と見なし、あとは出現頻度の順番に、置換していった(a,o,i,d…)。この方法が有効なのは、置換先のコードが何か分かっている場合だ。A、G、C、Tの出現頻度が多いものが何を示しているかが分からなければ、置き換えようがない。だが、彼の上司は、黄金虫病に取り憑かれているのだ。

暗号を解くのではなく、暗号を成立させている文法に習熟する。一本のDNAが何を言っているかではなく、「それをどのように言っているか」というアプローチがある―――レスラーはそこを強調する。

手中に収めなくてはならないのは、自らの公理を発語できる言語であり、それはそれ自身がたやすく型取るイディオムによって、4つの文字から成るLIFEという言葉の際限なく拡張可能な同義語を生成できる方法なのだ。
(p.99)

この着眼点は、情報自身に暗号を作らせるというアイデアに結びつく。

具体的には、細胞や組織を粉々に破壊して均一化した液体を用意して、そこへDNAの情報を伝達するRNAを解き放ち、タンパク質の生成をシミュレートする。試験管内の無細胞システムと呼ばれるこの手法は、実際のところ、マーシャル・ニーレンバーグによって確立されている。なお、ニーレンバーグはこの成果により、1968年にノーベル生理学賞を受賞している。

実在する人物の業績とレスラーを重ねると、この小説は一種のヒストリカルフィクション(Historical fiction 実際に過去に起きた出来事を元に構成したフィクション)と読むこともできる。

アナロジー(類推)で読み解く

レスラーにとってのゴルトベルク変奏曲との出会いは、恋人から贈られたレコードになる。

「カナダのピアニストが演奏したレコード」とあるので、1955年のグレン・グールドのデビュー演奏のことだろう(作中では名指しされないが、どう見てもグールド)。

なんと!いま私がyoutubeで流している曲が、レスラーが聴き込んでいるまさに同じ曲なのだ。奇妙なシンクロニシティに戸惑いながら、バッハの妙技がレスラーの思考に及ぼす影響を追いかける。

何度も聴いているうちに、音の奔流の中で起こっている聴覚的事象と、その事象を示す譜面の記号が嚙み合い始めて、両者がどんな仕組みで対応しているか分かるようになる。現象(音楽)とコード(譜面)が重なり合って聞こえ/見えるようになる。

次の引用は、1980年代のレスラーの言葉だ。1950年代の自分を振り返り、もう一人の主人公・オデイにこう述べる。3の倍数のカノンの楽章の説明だ。

何度も集中して聴いてきたおかげで、自分を密かに魅了していた何かが初めてかすかに聞こえ始めた。DNAのフィラメントが解けるみたいに旋律が分離して―――メロディラインの一部でありながら、同時にそこから離れて聞こえた。それが親旋律の一音違わぬ転写版だというのは、実に途方もない発見だったよ。そのささやかな断片は、それ自身が一瞬前に示した楽想の写しにぶつかるように奏でられていた。
(p.253)

音楽とは情緒豊かな瞬間の連続であり、言葉は邪魔者でしかないと考えていたオデイにとって、「音楽を形式として考える」レスラーの示唆は斬新だった。

そこからの数秘術には、オデイと一緒になって私も引き込まれる。

最初の曲、アリアの各小節の音は、32音になる。これは、主題(ベース)と呼ばれる(p.255)。左手で弾くほうだ。この主題は、次の変奏曲にも引き継がれ、変化していく。アリアのベースだけを表すと、これになる。

Goldbug

アリアを2つに区切ると、それぞれ16小節になる(図の上段、下段)。最初の16小節の終わりにダ・カーポ(くり返し)記号があるので、最初の16小節は2回奏でられる。次の16小節(下段)にもダ・カーポがあるので、これも2回、合計すると64小節になる。

凄いのは、このベースが全ての変奏に登場すること。レスラーほどに聴き込んでいない私は、スコアを目で追いながら確認するしかない。

だが、確かにその通りだ。集中して聴くと、分かってくる。アリアの冒頭で、伴奏のように聞こえる左手のフレーズ「ソ、ファ、ミ、レ」は、あらゆる変奏の中で響いていることが感じられる。楽譜と演奏が同期したこちらの動画だと、見えやすい。

噛んで含めるような説明で、レスラーがこの変奏をどのように聴いているのかが、明らかになる。変奏は一つ一つ順番に演奏されるのではなく、同時的に積み重なり、すべて一斉に響く多声コーラスになる。

アリアで奏でられ、それに続く64小節のバリエーションは、DNAの塩基構造の組み合わせのバリエーション(4×4×4=64)重なってくる(偶然だろうがそう見えてしまうのが、リチャード・パワーズのマジックと言える)。

バッハは自身の作曲の中に、神秘的な数字を埋め込むのを好んだという。レスラーは数秘術を解くつもりで、バッハの秘密を探り当てる。同時に、自分が探していたものが、バッハのアナロジーで読み解く可能性にも思い当たる。レスラーは、オデイにこう告白する。

「こう思ったんだな。『このバッハというやつ、なるほど偉い作曲家らしいぞ。ワトソンとクリックを二百年も先取りするなんて』とね。馬鹿だろう!最後まで聴き終わる頃には、私はすっかりいかれていた。その音楽の中にありとあらゆる途方もない類似を発見するのに、それほど時間はかからなかったよ」
(p.254)

和声は響いた後に消えてゆく。

だが、消えてしまう前に、そのコピーを作り出し、それをベースにして旋律が奏でられる。しかも、コピーといっても先ほどのとは似て微妙に異なる。「ソ、ファ、ミ、レ」のベースは同じでも、アレンジメントが入っている。

だからこそ聴き手は、新しい曲の中に懐かしさを覚え、改めて繰り返される和音の中に変化と成長を認める。何度聴いても新しく感じられるのは、そんな秘密が隠されているからなのかもしれぬ。

『黄金虫変奏曲』をもう一度読む

GBVのストーリーラインは、3つある。これだ。

  • 私(オデイ)が回想録を綴るパート(1985)
  • 私とトッド、そしてレスラーの3人の友情が描かれるパート(1983)
  • 若かりしレスラーの研究生活と、コスとの関係のパート(1957)

トッドはオデイの恋人、コスはレスラーの恋人になる、4人の物語だ。1983年のパートは、オデイの手記の形になっており、1957年のレスラーの記録は、誰が書いたのかは分からない(レスラーではない)。

どのストーリーラインも、夏から始まり、秋、冬、そして春に至る。並行する2つのラブストーリーを、巡る季節を永遠に封じ込めたといっていい。

4つの塩基の組み合わせと、4つの音の組み合わせ、暗号を解読するコードと、プログラミング言語のコード、音楽のコード(和音)、タンパク質の一次構造に対応する領域のコード、そして、ラテン語codexを語源とする、「法典」を意味するコード。全てのヒントは、冒頭の第1章のアリアに書かれている。なるほど!残りの30章は、アリアで書かれた4行詩の、様々なバリエーションなのだ。

そして、読みふける長い長い間、ずっと疑問に感じていた「1957年のレスラーのパートを書いたのは誰か?」という謎も解ける。レスラー自身ではなく、いわゆる神の目線でもない。

レスラーの記録と、オデイの手記が出会う時、一つの大きな物語が出来上がる。それが、いま私が読んでいる、『黄金虫変奏曲』になる。つまり、GBVを読み解くという行為そのものが、4つの季節、4つの音、4行の詩、4人の恋物語を解き明かすことになる。

物語の結末に至っても、隠されたものはまだある。いや、読み終えて分かったからこそ、次に読むべき箇所が見えてくる。バッハの調べや、ポーの暗号なんてまさにそうだ。実際、バッハとグールドをネットで調べ、『黄金虫』を読み直した後、本書をもう一度手に取った。

もう何度読んだことだろう。読むたびに新しい発見があり、別の謎が深まる。傑作は再読に耐えうるというが、これは再読でしか読めない稀有な小説だ。

リチャード・パワーズの小説はいくつか読んできた。『舞踏会へ向かう三人の農夫』で度肝を抜かれ、『囚人のジレンマ』で心震えまくり、『オーバーストーリー』で世界の見え方が一変したが、『黄金虫変奏曲』ではこれら全てを味わい、かつ凌駕ている。間違いなくベストワンなり。

この記事でどこまでその魅力が伝えられたか分からない。だが、これだけは自信を持って言える。噛むほどに面白く、スルメのように味わえる小説だ。

おまけ

8月にふくろうさん(@0wl_man)主催で、本作品の読書会に参加した。沢山の意見を聞いて、自分がいかに読めていなかったことに気づいた。ふくろうさん、参加された皆さん、ありがとうございました!

読書会で「年表を作りながら読む」アイデアを知ったので、やってみた。以下に公開する(完全にネタバレなのでご注意を)。

リチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』年表

エピグラフの暗号(?)みたいなメッセージについて。いろいろ試してみたけれど、ダメだった。これは献辞のイニシャルであり、最後の2つはバッハを指しているという説がある(Jay Labingerの”Connecting Literature and Science”のp.91で、パワーズがそう明かしたと述べている[Google Books]。また、J. T. Thomasも"Deciphering the code in Richard Powers's The Gold Bug Variations"で同様のことを述べている[Freelibrary.com])

JSB:Johann Sebastian Bach

SDG:Soli Deo gloria(Soli Deo gloria ; ラテン語、ただ神にのみ栄光)

これが正しいとするなら、EAP(Edgar Allan Poe ; エドガー・アラン・ポー)や、GHG(Glenn Herbert Gould ; グレン・ハルバート・グールド)などが無いことの説明がつかない。また、メッセージ全体に渡って、「A」が一つも存在しない。これだけの名前のイニシャルなのに、よく使われる「A」が無いのは、明らかにおかしい。なお、本文中で示唆されている、換字式暗号(黄金虫の出現頻度による置換と、塩基類とのAGCTのパターン)を試したがダメだった。

RLS CMW DJP RFP J?O CEP JJN PRG

ZTS MCJ JEH BLM CRR PLC JCM MEP

JNH JDM RBS J?H BJP PJP SCB TLC

KES REP RCP DTH I?H CRB JSB SDG

 

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一生ものの痛みとなる読後感『帰りたい/Home Fire』

最後の頁を読んだとき、頭に入ってこなかった。

何が起こったのか、一読して分からなかった(分かりたくなかった)。

ありえない、嘘であってほしいと願い、読み直す。目に力を入れて、一字一句を読み直すことで、この悲劇を免れる別の解釈が得られるかもしれないと願う。

しかし、いくら読んでも変わらない。どんなに読んでもラストは変わらないことに気づいた時、ざっくりと胸が抉られていた。

この痛みは一生もの。

悲劇は沢山読んできたが、これは苦しい。人並み以上に耐性はあり、たいていの物語は飲み込めるが、これはダメだ、辛い、辛すぎる。毒が血液にのって隅々にまで行き渡るように、苦しみが全身を這いまわる。この作品から被った痛みは、最高レベルになる。

これは、イギリスのムスリムの家族の物語だ。

「ムスリム」とはイスラム教徒のこと。イギリスでムスリムとして生きる人々は、およそ300万人、総人口の5%になる。豚食やアルコールを禁忌とし、公共の場所では女性は髪を覆うことが義務付けられ、その生活は戒律で細かく定められている。

2005年に起きたロンドン同時爆破事件を始めとし、IS(イスラム国)のテロ活動が記憶に生々しい。過激派の活動と宗教が結び付けられて報道されることがあり、当局の監視や圧力を感じ取ることができる。

こうした背景から、イスラム系イギリス人として暮らしていく生きづらさを描いた物語だと感じていた。実際、空港の取調室で延々と待たされるシーンから始まり、会話や言葉の端々に、当局の監視の目が意識されている。

だが、これは家族の物語だ。

姉、妹、弟が、お互いを思いやり、いたわる感情は、国も宗教も関係ない。イスマ、アニーカ、パーヴェイズ……それぞれの名前が各章のタイトルとなっており、その人物に焦点を当てて物語が進められる。

そのため、すれ違う気持ちをもどかしく感じたり、何気なくつぶやかれた言葉の重みを後になって知ることになる。

父はジハード(イスラム戦士)として活躍した後、グアンタナモ収容所で虐待死に至ったとされている。亡き父に憧れてイスラム国に向かった弟を救うため、姉と妹は手を差し伸べるのだが―――というイントロが帯に書かれている。

そこから思いもよらない状況になり、運命の辛辣さと愛を感じさせる強烈な静寂が(一瞬だけ)訪れる。映画化の話は未だなさそうだが、このラストの静寂は、映画映えする。観た人はきっと、観たことを後悔しながら大切な思い出になってしまうだろう。

本書は、ふくろう(@0wl_man)さんのオススメで手にした(ありがとうございます!)。「万人には勧めづらい」のご指摘の通り、気軽にお薦めできないし、読む人を選ぶけれど、間違いなく傑作。

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徹夜小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』

読み始めたら最後、徹夜を覚悟する。あまりの面白さに、結末まで何も手につかなくなることを請け合う(私がそうだった)。

サイエンス・フィクションの「フィクション」に当たる嘘は2つだけ。あとは科学的に徹底的に考え抜かれ、エンターテインメントに全振りされた小説だ。

最新の科学ネタが満載で、これまでのSF小説や映画のいちばん美味しいところを、これでもかと詰め込んでいる。読み手の予想をことごとく裏切り、暴上げした期待を一切裏切らない、ごほうびみたいな作品となっている。

できればストーリーの予備知識ゼロで(帯やamazonの紹介文すら読まずに)いきなり読むほうがよいので、あらすじには触れない。

代わりに、「ヘイル・メアリー号」について書く。そうすることで、この作品がどれほど考え抜かれているかが伝わるだろう。「めちゃくちゃ面白い」だけでなく「めちゃくちゃリアル」な作品なのだ。

「ヘイル・メアリー号」は船の名だ。下巻の表紙に描かれている。Hail Mary の意味はアヴェ・マリア(Ave Maria)、天使の祝詞やね。アメフトの終盤で負けてる方が運を天に任せて投げるロングパスの意味もある。

宇宙船にしては奇妙な形をしているが、これは合理的な構造だ。もし、この物語のような状況になれば、人類はきっと、この形の宇宙船を作るに違いない。

以下に、ヘイル・メアリー号のロケット図①②を引用する。

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左の図①を見てほしい。

いわゆる「ロケット」としてお馴染みの形をしている。下半分が燃料タンクでエンジンを駆動すると、推進力がかかり、下の方に人工的な重力が生じることになる。図では「推進モード」と説明されている。

面白いのは、図②だ。

ロケットの上半分が分離して、クルリと反転する。下半分とはケーブルでつながれており、互いにぐるぐる回ることで、遠心力により、人工重力が生じる。

なぜこんな構造なのか?

それは、行った先で「重力」が必要だからだ。

なぜ重力が必要なのか?そもそも宇宙を旅する船なのだから、全て無重力で動作が完結するように、全ての装置を開発すればいい。

ダメだ。単純に、「行く」だけではなく、そこで様々な調査や実験を行う必要がある。調査や実験をする装置や機材は、十分な実績があり、間違いなく動作する必要がある。

そうした、いわば「枯れた技術」が使われてきたのは、地球上、1Gの環境になる。

もちろん、無重力でも動くよう、実験設備を開発するプランもあった。だが、開発には時間がかかり、それだと間に合わない。さらに、無重力でも動く「かもしれない」というリスクに掛けるくらいなら、最初から回避しておいたほうがよい。

あるいは、行先の近辺に星があり、その重力を利用できるかもしれない。だが、そうした星を確認できる距離ではない(目的地は、うんと遠いところだ)。そんな不確かな期待に掛けるわけにはいかない。

限られた時間で、合理的な決断をした結果、ヘイル・メアリー号はこのような構造となっている。迫りくる危機から導かれた必然だが、この構造だからこそ成し遂げたことは、科学的運命と言ってもいい。

もちろん、この物語の主人公は、最初に目が覚め、記憶を失った男である。だが、私はヘイル・メアリー号と、これを飛ばすためのプロジェクトそのものにも、強く惹かれる。男がまきこまれる運命は偶然かもしれない。だが、ヘイル・メアリー号は人類の必然になる。

人類は、その気になれば、なんでもできる。

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悪用厳禁:論理戦に勝つ技術『レトリックと詭弁』

巧妙な詭弁は、それが詭弁だと分からないことが多い。

例えば夏目漱石『坊ちゃん』のここ。教頭の赤シャツが、坊ちゃんをやり込めるところだ。さらりと読むと、詭弁だと分からない。

赤シャツ「じゃ、下宿の婆さんがそう云ったのですね」

坊ちゃん「まあそうです」

赤シャツ「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して差支えないでしょうか

赤シャツから「給料を上げてやる」と言われたものの、坊ちゃんが断りに行くシーンだ。

ふつうに考えたら、給料が上がるのは嬉しいことなのだが、坊ちゃんは納得しない。というのも、赤シャツの提案にはウラがあることを、下宿屋の婆さんに聞かされたからである。

赤シャツは教頭なので人事権がある。人の恋路に横恋慕して、邪魔者を転勤させた結果、巡り巡って坊ちゃんの給料が上がるというウラ事情である。

聞かされた坊ちゃんはカッとなって直談判に行くのだが、良いように手玉に取られる。このやり取りにおいて、赤シャツの質問が巧妙である。

赤シャツの欺術

まず赤シャツは、その話を誰から聞いたのか尋ねるのだが、その尋ね方が上手い。答える側が、Yes/Noでしか答えられないように誘導している。そして、坊ちゃんの言質(下宿屋の婆さんがそう言ってた)を取ってから、太字のトドメを刺しに来る。

 ①下宿屋の婆さんの言うこと→信じる

 ②教頭の言うこと→信じない

噂好きの婆さんと、社会的立場のある教頭先生とを比較するなら、後者に軍配を上げる他ない。坊ちゃんは「ぐぬぬ」となってしまう。

だが、冷静になって考えてみると②が変だ。「信じる」「信じない」で対になっているので気づきにくいが、「下宿屋の婆さん」と「教頭」とを比較しているのはおかしい。

焦点となっているのは、赤シャツの横恋慕である。赤シャツは教頭かもしれないが、ウラ事情の当事者そのものである。利害関係のある当事者が主張することと、第三者の言うことを比較するなら、どちらを信じるのかは問うまでもないだろう。むしろ、教頭という立場を利用する卑劣漢といっていい。

まだある。赤シャツが巧妙なのは、この太字部分を、質問形式、しかもYes/Noで答えるように仕向けている点だ。

あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、どうだろう?

もし、上記のようにYes/Noで答えないオープンな質問の形にしていたならば、まだ坊ちゃんも何か言えるだろう。下宿屋の婆さんを信じる理由を考えるだろうし、ひょっとすると、「教頭は関係ない、オマエ(赤シャツ)の話だ」と気づくかもしれない。

だが、Yes/No形式のクローズドな質問のため、どちらに答えても窮することになる。

Yesと答えると、教頭という立場ある人より、噂好きの婆さんを信じることになる。一方Noと答えると、前言を撤回することを認めることになる。額面通りに受け止めると負けだ。坊ちゃんは苦し紛れに「あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙ります」と逃げる。

もし、誠実に話を進めるつもりであれば、「増給を断る」という主張に対し、賛成か反対かを述べ、その理由を説明する。だが赤シャツは、よく知らないフリをして、坊ちゃんに質問を投げかけ、話の焦点を誘導していき、がんじがらめにしてしまう。

いけ好かないが、上手いと言うほかはない。質問を用いて焦点を誘導し、人を欺く技術は、「質問の欺術」と言えるだろう。

悪用厳禁『レトリックと詭弁』

このような欺術は、いたるところにある。

誠実ではないし、正当ですらない。うっかりすると、騙されたことにも気づかずに、納得して引き下がってしまう。あるいは、「私が悪いのかも」と自分を責めてしまう。積み重なると、心が折れる。

香西秀信『レトリックと詭弁』は、こうした欺術の手口を紹介している。

表向きは質問の形式だが、論点すり替え、二者択一、沈黙を強いる問いだったりしたことはないだろうか。こちらに非がないにも関わらず、罠にハマって答えられなかったりしたことはないだろうか。

古今東西の様々な文献から、そうしたテクニックを紹介する。赤シャツの欺術、村上春樹の啖呵、兼好法師の嘘、ナポレオンの恫喝など、読んで面白く、騙すのに使える詭弁術である。

もちろん悪用は厳禁だ。上手に使えば議論を誘導し、思った所に着地させることができる。誠実でも正当でもないが、できてしまう。

だが、できるからといって、やっていいことにはならない。

本書は、いわゆる詐欺の技術のようなものだ。どんな風にカモを引っ掛け、どのようにカネを騙し取るかのノウハウである。もちろん詐欺はしないけれど、あらかじめ詐欺師の手口を知っておけば、カモになるのを避けることができる。

同様に、あらかじめ質問の欺術を知っておくことで、騙されるのを予防できる。たとえ罠にハマっても、「私が悪いのかも」とマイナスループに陥らず、心を守ることができる(著者は「護心術」と呼んでいる)。

質問の欺術の破り方

「質問をする」というのは非常に強力だ。なぜなら、質問をするとは、答えを求めることだからだ。

「なにを当たり前な……」と思った方は、ちょっと胸に手を当ててみて欲しい。次々と投げかけられる質問に答えているうちに、答えに窮したり、自分が責められていると感じたことはないだろうか。

思い出したくもないだろうが、それはYes/Noで答えを迫るクローズドな質問か、あるいは二者択一のような形式だったのではないだろうか。例えば、ミスをしたあなたに対し、上司が𠮟責する常套句がこれ。

  • おまえは会社に損害を与えたいのか!?
  • 自分で弁償するか、辞めるかだ、どっちだ?

前者の質問には、当然「与えたくないです」と答えるだろう。すると上司は、「じゃぁなんだってこんなミスをしたんだ?」と詰め寄る。後者の二択には、答えようがないだろう。

欺術を操る連中は、何かを知りたくて「質問」なんてしない。答えなんて分かりきっている。

しかし、「質問をする」ということは、「相手に答えさせる」という位置に立つことになる。自分が進めたい方向に焦点を絞り、自分に不利なことから目を背けさせることができる。あるいは、自分の主張を選択肢に紛れ込ませることができる。

つまり、「質問をする」ことは、表面上は何かを知りたい体裁を保ちつつ、話の主導権を握ることができるのだ。

いったん握られた主導権を、どうやって取り返すか?

本書では、「答える」(answer)ではなく「言い返す」(retort)方法を薦めている。Yes/Noで答えを迫る質問に対し、その問いそのものの妥当性を問題としたり、「Yes/Noを問う行為そのもの」の是非に焦点を当てるやり方だ。

  • 「損害を与えたい」なんて動機は一切ありません。今は動機ではなく、私の責任のお話をされたいのではないでしょうか?
  • 弁償かクビかの二つだけでなく、私の職務に応じて、責任の取り方はあると思いますが、間違っているでしょうか?

火に油かもしれないが、ミスを責めて激詰めしたい上司の思うツボには入らない。あくまで、ミスの影響と、それに伴う自分の責任について焦点を当てるように返すのだ。

冒頭の、赤シャツ v.s. 坊ちゃんであれば、こう返せば retort になっていただろう。

坊ちゃん「『あなたのおっしゃる通りだと』と言ってましたが、私はそんなことを言っていません。マドンナに横恋慕したあなた自身が、教頭という立場を利用しようとしているのに、僕が巻き込まれるのがイヤなんです」

ここでは質問の前提に疑いを投げかけ、Yes/Noの妥当性を解消させる言い返しとなっている(坊ちゃんらしくないけれどね)。

「多間の虚偽」のかわし方

Yes/Noで答えようとすると、どう答えても罠にハマるのが、「多問の虚偽」である。小難しい名前だが、例を挙げるほうが分かりやすい。

「君は、もう奥さんを殴ってはいないのか?」

この質問はYes/Noでの答えを求めている形式となっている。だが、どちらで答えても罠にハマることになる。Yesで答えると、「もう殴っていない」=「昔は殴っていた」ということになるし、Noと答えると、「今でも殴っている」ことを認めることになる。

これは分かりやすく示した古典的な例なので、かわし方も簡単だ。「失礼な!昔も今も殴ってなんかいない」「そんなことは一切していないのだが、そもそもなぜそんな質問をするのかね」。

だが、実際の現場では、もっと巧妙に紛れ込んでいる。

「あの嘘吐き政治家の言ってることを、本当に信じるの?」

信じるかどうかを問うているこの質問には、2つの誘導が紛れ込んでいる。

一つ目の誘導は、Yesと答えても、Noと答えても、「嘘吐き政治家」である前提があることを認めることになる。つまり、「嘘吐き政治家なんだけど、信じる」か、または「嘘吐き政治家だから、信じない」の回答になる。どちらに転んでも、その政治家が嘘吐きであることを認めてしまうことになる。

いや、そうではない。その政治家は嘘吐きなんかじゃない。だから信じる、という回答ができるじゃないか!そう思う方もいるかもしれない。だが、それは術中にハマりかけている。これが二つ目の誘導だ。

二つ目の誘導は、「その政治家は嘘吐きじゃないから、信じる」という回答に対し、質問者は、こう返すだろう「なんでそんなことが言えるの?」。

するとあなたは、その政治家が嘘吐きじゃない理由を述べることになる。それぞれの理由に対し、反論する材料はあるだろうし、いつどんなタイミングで反論するかは質問者の自由だ。

ケチをつけ、揚げ足を取るのも自由である。あなたがよっぽど強固な理論武装をしていない限り、分が悪いだろう。

立証責任を買い取らせる

ではどうすれば良いのか?

ここまで読んできたあなたなら、「質問してきたのは、答えを求めているからだ」と無邪気に考えないだろう。質問の中に、話の焦点となる前提(嘘吐き政治家)を紛れ込ませたいからだ、と考えよう。

すると、簡単にYes/Noで答えてはいけない、と思いつくに違いない。そして、問いそのものの妥当性を吟味すると、こう返せるはずだ。

「信じる・信じないの前に、『嘘吐きの政治家』って言ったけれど、どうしてそう言えるの?」

すると質問者は、その政治家が嘘吐きである理由を述べることになる。それぞれの理由に対し、反論する材料はあるだろうし、いつどんなタイミングで反論するかは、あなたの自由だ。

さっきの流れと真逆になる。

その政治家を嘘吐きだと評価し、それを問いの前提にしたのは相手だ。だから、相手にこそ、説明する義務(立証責任)がある。従って正しい retort は、立証責任を相手に求めることになる。

何かを主張した場合、その主張した側に、その主張の根拠を論証する責任が課せられる。一方、その主張が間違っていることをこちらが論証する義務はない。あたりまえっちゃあたりまえなのだが、これに引っ掛る人が多い。

これは、あまりに簡単に反論できるため、勢い込んで、相手に負わせるべき立証責任を買って出てしまうからだという。

 ・〇〇党を支持するなんてアタマ大丈夫?

 ・まだ東京で消耗してるの?

これらは典型的で、質問形式の煽りでもあるため、反射的に反応してしまいがちだ。だが、前提に紛れ込んでいる「〇〇党を支持しない理由」「東京で消耗する理由」について、質問者自身に論証してもらう必要がある。

質問に紛れ込んでいる立証責任は、相手に買い取らせよう。

質問の形にして責任転嫁する欺術

これは悪用もできる。質問の欺術として紹介するが、悪用しないように。

上田秋成『雨月物語』に登場する、西行 v.s. 崇徳上皇(亡霊)が激しい。保元の乱を引き起こし、死してなお恨み骨髄の崇徳上皇(亡霊)に対し、西行はこう問いかける。

「そも、保元の謀反は天の神の教えたまふ理に違はじとておぼし立たせ給ふか。また、自らの人欲により計策り給ふか。詳に告らせ給へ」

西行は「保元の乱を起こしたのは、天の神の道理に適っていると言えるのか。あるいは、私欲私怨のためにやったのか」と質問する。この二択の中には、立証責任と西行の意志が隠されている。

もし亡霊が「天の道理に適っている」と答えるならば、その理由を説明する必要が出てくる。そして、私欲私怨で戦乱を引き起こすなどと答えるわけはない。だが亡霊は、西行の意思を見抜いて激昂することになる。

乱の原因は、崇徳上皇の私欲私怨だ―――そう西行は考えていたが、「オマエの私欲私怨のせいだ」とは直接言わず、選択肢の一つとして提示した。

だが、選択肢の一つとして挙げるということは、可能性として考えられることを示唆している。相手の建前を示す一つの主張(天の道理)と、本音を暴露するような選択肢(私欲私怨)を並べて、両者の開きがあまりに大きかったため、質問されたほうは侮辱を感じる。怒るのも当然だろう。

もし西行が、「オマエの私欲私怨のせいだ」と主張したなら、その理由を説明しなければならなくなる(立証責任やね)。

相手の思惑を勘ぐり、選択肢に紛れ込ませることで暴露するテクニックは、非常に有効だ。問いの形で説明責任を転嫁することができるからだ。

それで仮に相手が怒ったならば、「私は質問しただけであって、そうだとは言っていない」と逃げ切れるし、「あなたがそんなに怒るのは、自分本心を暴露されたからじゃないですか」と反撃もできる。

極論を並べておき、食ってかかってくる人に、「そんなに怒るのは、心当たりがあるからじゃないですか」と涼しい顔で刺しに来る―――よく見かけるバトルだが、本書によると、アリストテレス『弁論術』まで遡ることができる。

『レトリックと詭弁』には、非常に巧妙な「ああ言えばこう言う」欺術が紹介されている。

くれぐれも、悪用しないように。

くれぐれも、悪用しないように。




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「みんな違って みんないい」が蔓延した世界

「みんな違って みんないい」という一節は、金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」にある。1996年より小学国語の教科書に掲載され、「正しさは人それぞれ」「価値観の多様化」といった言葉がトレンドになる。

正義の反対はまた別の正義であり、絶対的な正しさなんて存在しない―――相対主義と呼ばれるこの考え方、現代の「新常識」とみなす人も多いだろう。

これに疑問を呈したのが本書だ。

「みんな違って みんないい」という言葉は、確かに他者を認め、多様性を尊重しているように見える。実際、こうした言葉は善意から生じた文脈で用いられている。

しかし、この言葉は安易に広められ、世間に蔓延しているという。単なる趣味の違い程度なら、「互いの価値観を認め合う」のはよいかもしれぬ。だが、エネルギー施策における原発の扱いや、社会保障制度の見直しといった、大勢を巻き込み、利害が対立する場合はどうなるのか。

この場合、現実として、権力者が押し通してしまうことになる。

そして、強引な態度を批判されても、「絶対正しいことなんてない」のだから、どの意見も等しく価値がなく、最終的に力のあるほうが通ることになる。「正しさは人それぞれ」という価値観は、権力者にとって大喜びだろうと説く。

「正しさは人それぞれ」という主張は、多様性を尊重するどころか、権力者と異なる見解を切り捨てることを正当化させることに繋がってしまうというのだ。

国家主導の「人それぞれ」がもたらしたもの

著者は、この新常識を「人それぞれ」論と名づける。そして、「人それぞれ」論がどこから来たのかを考察する。

紐解いてゆくと、デリダやドゥルーズを代表とするフランス現代思想になる。西洋文明の普遍主義における「絶対的な正しさ」を否定し、同時に多様な人が多様なまま連帯することを目指した運動だという。

この運動は、アメリカ発の新自由主義に取り込まれてゆく。フリードマンやノージックのリバータリアニズムを背景とする立場だという。個人の自由を尊重し、国家の介入を最小にする主張になる。

そして、1980年代以降、日米英など政府は新自由主義的な政策を推進してゆく。社会福祉や公共事業は国家の役割から切り離せという政府批判は、財政難に悩む各国政府にとって非常に都合がよかった。

これを受けた日本政府は、鉄道や通信事業を民営化し、公務員の数を削減し、小さな政府を目指してゆく。教育においても「個性尊重」と「自己責任」を旗印にしてゆく。金子みすゞの「みんな違って みんないい」は、こうした時流の中で、国語の教科書に採択されたことになる。

「正しさは人それぞれ」というフレーズは急速に日本中に蔓延していく。一見、多様性を尊重するよい言葉のように思えるが、権力者からすると、個々人を連帯から遠ざけ、支配しやすいバラバラの存在に留めておく都合の良いものだったという。

国家主導で「人それぞれ」を進めていった結果、経済格差や政治的立場の違いから分断される状況となっている。それが現在だというのだ。

そんなに人は違っている?

「人それぞれ」というけれど、そんなに人は違うのか?

著者は、様々な学問領域を渡り歩きながら、「人それぞれ」と言うほど人は違っていないことを指摘する。

例えば、言語における相対主義について。

「言語によって世界は違って見える」とするサピア・ウォーフ仮説を採りあげる。「エスキモーは雪の名前を沢山もっている」というエピソードが有名で、言語や文化によって世界の捉え方が異なっているという言語相対主義だ。「虹は日本では七色だが、フランスでは五色、台湾では三色」という説もある。

これに著者は反論する。

色の違いとは、物理学的には光の波長の違いであり、それは連続的に変化する。物理学からすると、光の波長に明確な境界は無い。ある波長をどう区別するかは、人の恣意的な判断になる。従って、その波長を何色に識別するかは、言語によって異なるはずになる。

ところが実際に調査したところ、色の名前や区分について、言語や文化を越えた普遍性が見出されたという。

出所は、ブレント・バーリン『基本の色彩語』になる。異なる言語の話者に、様々な色の紙片を渡し、「基本的な色」を選ぶように指示した。すると、言語に関係なく「基本的な色」は共通していたというのだ(白、黒、赤、緑、黄、青、茶、紫、ピンク、オレンジ、グレーの11色)。

ヒトの目の網膜にある錐体細胞は3種類あり、その反応によって色が認識される。色の見え方は生物学的な構造に依存するため、色の見え方や区別の仕方には普遍性があるのは当然のことになる。

日本で虹が7色なのは、よく観察した区分であることと、「七草」「七福神」といった慣用句によるものになる。フランスや台湾の虹に青色は無いが、青色が見えていないというわけではないのだ。

他にも、マーガレット・ミード v.s.デレク・フリーマンの論争を通じて、文化人類学の相対主義の推移や、ヒトは生まれながらに言語機能を備えているとするチョムスキーの普遍文法を採りあげながら、言語や文化の普遍的な側面に目を向ける。

著者は、「人それぞれ」と強調するほど違っていないという。そして、たとえ多様に見えたとしても、それそれの差異は理解可能な範囲内に留まっていると主張する。

「科学の正しさ」は絶対か?

では、「人それぞれ」は誤りで、普遍的な正しさというものが存在するのか? 「真実はいつも一つ」なのか?

人の恣意性に左右されない、「客観的な正しさ」というものがあるはずだ。

そう考える人もいるだろう。客観的な実験を積み重ねて導かれる物理学の正しさなんて、まさに普遍的なものではなかろうか。文化や社会のみならず、ヒトという種を越えて、宇宙のどこであったとしても、物理法則は同じはずだ―――と考えるかもしれぬ。

著者は、科学哲学の観点から、物理学を始めとする「科学の正しさ」に揺さぶりをかける。

科学における「正しい事実」は、人間がある対象を思い通りに動かすことができる「技術」と表裏一体のものとして発明される

例えば、科学の正しさの一つとして、落下の法則がある。ガリレオが導き出した「重さの違う鉄球を落としたとき、落下速度は同じ」という法則だ。

だが、人の手によって同じタイミングで落とすのは難しい。しかも、地面に到達するときのスピードはかなりのものだから、同時に到達するのを測定するのは困難になる。

ガリレオは、「落とす」代わりに「転がす」工夫をする。滑らかで長い傾斜を作り、そこを転がる鉄球を観察することで、法則の正しさを証明した。

しかし、鉄球と羽根を比較すると、鉄球の方が速く落ちる。落下の法則は誤りではないか?

答えを知っている私たちならすぐに思いつくが、空気を抜けばいい。だが、「空気を抜いた空間で、羽根と鉄球を同時に落とす様子を観察する」ためには、相応の装置を作る必要がある。

試行錯誤をくり返すことで、精度の高い装置が作られ、いつ何度行っても、同じ結果が得られるようになる。そうすることで、落下の法則が「正しい」ものとして認められるようになる。

ひとたび認められると、それまでの試行錯誤は忘れ去られる。精度の高い観察から導かれた数式は、もはや実験しなくても結果を導くことができるようになる。そして、「自然法則は人間と関わりなしに存在している」という実在論的な見方が正しいような気がしてくる。

しかし、この見方は、法則や数式を導くための発明や試行錯誤という人間側の事情に依存していることを見落としているという。機械が法則通りに動いているのではなく、そうなるように機械を改良してきた技術の裏付けがあるというのだ。

正しさはみんなで作っていく

この考え方には賛成できる。

科学における法則や数式の発見は、技術の進歩と軌を一にしている。ミクロであれマクロであれ、素粒子の振る舞いから宇宙全体の構造まで、同じ事が言える。

観測機器の精度の向上や、実験設備の開発の進展によって、より正確でより多くの法則や数式が作られているから。ヒトの手で作れない装置によって導かれる物理法則は、存在しえないといえる。

科学法則の実在を、絶対的・普遍的なものと「見なしたい」という動機は分かる。だが、あくまでそれらは、科学者が理解し扱える範囲内でのこととなる。

本書ではさらに、科学者の間での合意が必要となると述べている。「科学的に正しい」とされるためには、一部の科学者が勝手に決めることはできず、科学者のコミュニティの中での合意が形成される必要があるという。

そして、科学のみならず、道徳や倫理的な正しさといったものも同じだと説く。そこに関わる人々どうしで話し合い、合意してはじめて「正しさ」になる。つまり、正しさはみんなで作っていくものなのだという。

たとえ差異があろうとも、話し合うことで理解は可能だと説く。「正しさは人それぞれ」だとして切り捨てず、対話を続けていくべきだという。

安易な切り捨てはダメだという点については同意するが、ハードルは高い。

対話を続けるための時間や集中力が限られていること、相手の理解度や情報の非対称性、関係者の数が多すぎる問題など、メゲそうな課題が山積みである。

「より正しい」正しさがある、と著者は述べているが、「正しい」という言葉を目にするたびに、それは誰にとっての正しさか?という疑問が付いて回る。「みんなで作る正しさ」の「みんな」とは誰なのか。

「正しさ」を合意形成する努力は必要だと考えるが、その具体的な方法は、読者であるわたしに委ねられている。

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料理観を揺さぶり、変化させる『料理の意味とその手立て』

自炊歴も30年になると、料理も適当になってくる。

テキトーという意味ではなく、あり合わせのものでなんかするイメージ。レシピ通りに作らないし、調味料も目分量になる。代わりに、食費と洗い物の最小化を目指したり、極限までサボったり、変わった料理に挑戦したりする。

自分の中で、「料理とはこんなもの」という料理観みたいなものが出来上がっている。そのため、普通のレシピは、レパートリーを増やすためにチラ見する程度になる。

一方で、私の料理観を揺さぶり、変化させるような本もある。何気なくやってた一手間が、実は深い意味を持っていたり、伝統&科学に裏打ちされた本質が見えてきたりする。

ウー・ウェン著『料理の意味とその手立て』が、まさにそんな一冊だ。

中国家庭料理を紹介しているのだが、いわゆるレシピ集というよりも、料理についての考え方をまとめたエッセイと言ったほうがしっくりくる。料理する人には見慣れたことかもしれないが、これらは、本質的なことだと思う。

  • 大事なのは、塩の味を表に出さないで、素材の味を表に引き出すこと
  • 炒めものとは、加熱したボウルで素材を和えること
  • どう食べたいのか考えながら切る
  • 混ぜない。まんべんなく味つける必要はない

料理の本質=塩する

塩についてはかなりの分量を割いている。

これは、かなり信頼できる。世界各国の料理を食べ歩き、料理の本質を追求した『料理の四面体』に、「料理の原則=素材に塩したもの」とあった。

世の中の大半のレシピには、「最後に味をととのえる」ために塩を入れろとある。それはそれで大切なのだが、むしろ準備段階での、「素材の味を引き出すための塩」が大事だと説く。

味噌を使えば味噌味、醤油を使えば醬油味になる。けれども、「塩味」と感じさせない程度の塩しか使わない。そのため、ウー・ウェンさんのレシピでは、塩が極端に少ない。ほんの少量を上手に使って、肉や野菜の味そのものをはっきりさせる。

料理を始める前に塩しておく。肉や野菜が「汗をかいている」と表現されるのがこれだ。下味としての塩ですらない。この加減は目分量では無理なので、分量と時間をきちんと量って(計って)上手くなりたい。

切り方ひとつで「おいしさ」が変わる

「どういう風に食べたいか考えながら切る」という指摘が鋭い。

切り方ひとつで味がガラリと変わるのは、『おいしく食べる 食材の手帖』にあった。肉であれ野菜であれ、繊維に沿って切るか、繊維を断つように切るかの違いだ。

繊維を断つということは、素材が保持している水分が出やすく、少ない調味料でしっかり味付けできる。さらに、火が通りやすくなり、柔らかくなる。逆に、繊維に沿うように切れば、無駄な水分が出ないため、歯ごたえが出てくる。

これ、チンジャオロースを作るときに気をつけている。ピーマンやパプリカは、繊維に沿って切り、牛肉は繊維を断つようにしている。野菜モノはさっと火を通して歯ごたえを楽しむ一方、肉に下味をしっかりつけて、口当たりよくするには、繊維を断つ方が良いから。

いつも同じ切り方しかしてこなかったが、今後は、その食材をどういう風に食べたいかによって、切り方を意識するようにしよう。

混ぜない、いじらない

本書で心がけるようになったのは、「火入れのとき、触るのは最低限」だ。

焼いたり炒めるとき、菜箸を使って混ぜたり、フライパンをあおりたくなる。これをガマンしろという。味がまんべんなく行き渡る必要はないというのだ。

一つの料理で、味が濃かったり薄かったり、リズムがあるほうが美味しい。もちろん、生焼けの肉があるのはダメだが、火が通っていれば、多少ムラがあったりコゲ目が強かろうと、かまわない。「均一」を目指さなくてもいい。

嗅覚同様、味覚もすぐに慣れる(鈍感になる)。だから味が均一になるほど、飽きやすくなる。それなら、少しムラがあるほうが味に変化が出るという発想だ。

パスタソースの乳化は例外として、この考え方を取り入れている。基本、放り込んだら放置気味にして、最後にぐるりと回すくらいにしている。

味をつける必要があるものは、フライパンに入れる前に下味を付けている。だから、火を入れる時には味のことを心配しなくてもいい。

料理の意味=身体を養うこと

料理の意味は「身体を養う」ことだという。

身体によいものを食べることで健康を目指す医食同源の考え方だ。一回の食事でパーフェクトに栄養を取らなくてもいいし、一日や数日のサイクルで、だいたいバランスが取れていればいい。

その考えは、陰陽五行に裏打ちされている。

古代中国の五行思想で、万物は5種の元素から成立し、互いに影響を与え合い、循環するという思想だ。日曜と月曜を除いた五つの曜日(火水木金土)や、五臓六腑の五臓など、日本でも馴染みのある考え方だ。

これをレシピに適用し、五味を目指せという。すなわち、苦、鹹(塩辛い)、酸、辛、甘の五つだ。献立を考える時、どの料理がどの味を中心にするのかを考え、その味が重ならないようにすれば、自ずとバランスが取れ、食卓が茶色にならない(←これ重要)という。

我が家の場合、「酸」が足りない。もう少し黒酢を取り入れてみよう。本書の酢鶏のレシピが参考になりそうだ。

■材料

  鶏もも肉 1枚

■下味

  こしょう 少々
  酒 大さじ1
  しょうゆ 大さじ1
  片栗粉 大さじ1

■合わせ調味料 (ミツカンのカンタン黒酢で代用できそう)

  黒酢 大さじ1
  しょうゆ 大さじ1
  はちみつ 大さじ1
  しょうがすりおろし 大さじ
  こしょう 少々

■その他

 揚げ油 カップ1
 パセリ 適量

~作り方~

 1 鶏肉を一口大に切り、下味をつけて20分程度おく
 2 肉に片栗粉をまぶし、180度の油で揚げて、油をきる
 3 炒め鍋に合わせ調味料を入れて煮立たせ、2を入れて絡める
 4 刻んだパセリをたっぷりかける

 

人生で食べる数は決まっている。
より料理で、よい人生を。

 

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生きるとは死を食べること、死ぬとは食べられること『死を食べる』『捕食動物写真集』

生きるとは何か、死とはどういうことか。

生きる「意味」とか「目的」を混ぜるからややこしくなる。複雑に考えるのはやめて、もっと削いでいくと、この結論に至る。

 ・生きるとは、他の生き物を食べること
 ・死とは、他の生き物に食べられる存在になること

見た目がずいぶん変わるから、気づきにくくなっているだけで、私たちが口にしているもの全ては、他の生物である。

ひょっとすると、幾重にも加工され尽くしているから、それは「肉」ではないと主張する人もいるかもしれない。だが、葉肉であれ果肉であれ、生きていた存在を食べることで、わたしたちは生きている。

死を食べて生きている

誰かの死を食べることで、私たちは生きていることを理解するなら、『死を食べる』をお薦めする。

動物の死の直後から土に還るまでを定点観測した写真集だ。

死んだ直後のキツネから、まずダニが逃げ出し、入れ替わるようにハエや蜂が群がってくる(スズメバチは肉食だ)。膨れ上がった体から蛆が飛び出し、その蛆を食べるために他の動物がやってくる―――いわば九相図の動物版で、どんな死も、誰かが食べることで土に還るのだ。

キツネからクジラまで、さまざまな死の変化を並べることで、「死とは、誰かに食べられる存在になること」であり、そして「生とは、誰かの死を食べること」が、ごくあたりまえのように理解できる。

誰かの死を食べて生をつなぐことは、人間だって同じだ。

私たちが毎日食べる、魚も、牛や豚や鶏の肉であれ、突き詰めていけば動物の死骸なのだから。キレイに血抜きされ、清潔にパックされているから気づきにくいだけなのだ。だが、私たちは「死」を食べて生きている。この写真集の最後のページを見ると、つくづくそう思えてくる。

『死を食べる』は、食べられる側の「死」を一枚ずつ撮影して、その変化をタイムラプス的に眺めたものだ。一方、食べる側を撮影したのが、『捕食動物写真集』である。

肉食生物の食事風景

『捕食動物写真集』は、肉食生物が、他の生き物を捕えて食べる瞬間を切り取っている。

最初のページに、注意書きがある。

以下のジャンルごとに、比較的ソフトな映像から始めて、次第に刺激が強いものになるように並んでいるとのこと。見るのがキツいようなら、そのジャンルの写真はやめて、他のジャンルに進むなど、無理のないように見て欲しいとある。

 ・魚類
 ・虫
 ・爬虫類・両生類
 ・鳥類
 ・哺乳類

過激さの基準は、食われる側の描写だろう。

魚を頭から丸呑みにしたウツボは、比較的ソフトだと判断されている。一方、カエルを半分咥え込んだヘビは、刺激が強いとされている。ちなみに、表紙の写真は、最もソフトなレベルなので、これで無理なら止めた方が良い。

そこに至るまで長時間の格闘があったのだろうが、下半身を呑まれたカエルの目が、諦めたかのように見える。食われる側の「目」が見えてしまうと、途端に残酷に見えてしまうのかもしれない。

一方で、食う側の姿は美しい。鋭くぶ厚いくちばしで力強くついばむコンドル、ガリガリという音さえ聞こえてきそうな頭骨を噛み砕くカワウソ、顔中を血まみれにして髄をすするライオンなど、「生きてるッ」感がダイレクトに伝わってくる。

どれも至近距離で、どうやって撮ったのか不思議なくらいのクローズ・アップになっている。クモやハエの複眼なんて、顕微鏡写真レベルの解像度である。びっしりと毛に覆われたクモの頭は、「ヒッ」と声がでるくらい迫力がある。

「残酷」も「美しい」も、ヒトから見た価値にすぎない。生き物はただ、他の生き物を捕えて食べているだけなのだから。

本書はK.F.さんのお薦めで手にした一冊。K.F.さんのおかげで、素晴らしい本に出会えました、ありがとうございます!

 

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実際の炎上プロジェクトを通して学ぶ。ITエンジニアが修羅場をシミュレートできる3冊+α

ITエンジニアが修羅場をシミュレートできる3冊+α」

……という記事を書いたのだが、長いのでまとめをここに記す。

  • 火消しのセオリーと、初見殺しの見分け方
  • お客の反応(否定、怒り、懐疑)の傾向と対策
  • 炎上プロジェクトで真っ先にすべきこと
  • 「やらないこと」の決め方
  • みずほ勘定系基幹システムMINORIに見る修羅場
  • 2021年2月のATMシステム障害の原因

実際の炎上プロジェクトを通して学ぶ、修羅場シミュレーターとしての3冊+αだ。

『問題プロジェクトの火消し術』はリカバリーするために何が必要で、どうやって話を持っていけばよいかが、具体的に書いてある。そのまま使える言葉がゴシック体で強調表示されているため、なんならメールにコピペして使えるくらい生々しい。

『プロジェクトのトラブル解決大全』は修羅場でどう動けばよいのかがまとめられている。いわゆる「正解」があるというより、上手く動けるPMは、たいていこんな言動を取るという、ベストプラクティス集だと思えばいい。

『みずほ銀行システム統合』は、修羅場まっしぐらのアンチパターン集としてお薦めする。ここでは、「片寄せしないシステム統合」と「現状把握の禁止令」の2例しか紹介していないが、あなたが読めば、もっと出てくるに違いない。

『システム障害特別調査委員会の調査報告書』は、その答え合わせとして読むといい。「どのように失敗したのか」を知っておけば、同じ轍を踏もうとするお客に、「みずほの障害はこれでした」と告げることができる。

これらを読みながら、「自分ならどう動く・話すだろう?」と考えると良いかも。できうることなら、一生涯、そんな目に遭いたくないものの、来るべき本番に備えて、予習だけはしておこう。経験で学んでいたら、命がいくつあっても足りない。初見殺しは、過去の修羅場で学ぼう。

次のプロジェクトの生存率を上げるために。

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