笑いのしくみを探る『喜劇の手法』
笑うのは人間だけだとアリストテレスが言ったとか。
真偽ともかく、大きな口をあけて、アッハッハと哄笑するのは楽しい。いや、楽しいから笑うのか。この笑い、可笑しさ、ユーモアについて考えるのに、有用な一冊が『喜劇の手法』だ。
「人はなぜ笑うのか」という漠然とした疑問に対し、『喜劇の手法』は、喜劇を通じて笑いの仕組みに迫る。しかも、シェイクスピアやモリエール、ゴーゴリの作品から具体的な例を挙げ、劇作家たちが、どんな手法を用いて観客を笑わせるかを吟味している。
本書がすごいのは、紹介される喜劇を観ていなくても面白さが伝わるところ。技法を分類し、それぞれにおいて特徴的なシーンに焦点を当て、その背景とともに脚本を抜き出してくる。こんな風に。
- だます(変装、一人二役、嘘、変身)
- 迷う(双生児、偶然の一致、反復、循環、逆転)
- 間違える(誤解、身代わり、自縄自縛、誤算)
- 語る(傍白、アイロニー、沈黙と間、機知合戦)
ゴーゴリ『検察官』と『カイジ』の鉄骨渡り
たとえば「誤解」の手法としては、ゴーゴリ『検察官』を紹介する。旅の途中に無一文になった若者が、大物の検察官と取り違えられ、地元の市長や有力者たちに歓待されるという話だ。
最初は戸惑っていた若者も、検察官になりきって、あることないこと言い出すところや、中央権力に媚びてすり寄る田舎者が笑いどころになる。本書では、個々の笑いどころに通底する、ある視点に焦点を当てる。
それは、観客の視点だという。
つまりこうだ。調子に乗ってカネを巻き上げる若者や、お追従しまくる田舎者といった登場人物には、それぞれの視点がある。だが、それらの視点に対し、絶対的な優位を保っているのが、観客の視点になる。
人違いという些細な誤りが拡大し、登場人物は混乱する。混乱は人の醜悪な面を、過剰なまでに暴く。そうした混乱を前にしても、観客は巻き込まれることなく、渦中の人物たちとは距離を置いて眺めることができる。
それは「観客席」という絶対的な場所で、すべての状況が把握できているからだという。この絶対的な優位性が、『検察官』を喜劇たらしめているというのだ。
なるほど、人の愚かさや醜さを、全てを知る視点から眺める優越感が、この作品の「笑い」になる。『賭博黙示録カイジ 』で鉄骨渡りする人が必死であればあるほど、それを安全な場所から眺める観客にとっては最高のエンターテイメントになるのかもしれない。
シェイクスピアと高橋留美子の共通点
あるいは、「機知合戦」。シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』を元に、スティコミシアの技法が紹介される。『じゃじゃ馬ならし』の劇中劇として、じゃじゃ馬な女と、強引な男との掛け合いが出てくる。
どちらも相手を言い負かそうとして。相手の言葉尻を捉えて投げ返し、どちらが優位になるかのマウンティング合戦がテンポよく進む。お互いに対立しているのに、この掛け合いのセリフ運びについては、完璧に息が合っているのが面白い。
この掛け合いを、スティコミシアと呼ぶそうな。ギリシャ劇以来の歴史あるもので、「隔行対話」とも呼ばれるという。丁々発止の連続で、よりもと漫才などは基本的にスティコミシアで成立しているお笑いだろう。
『じゃじゃ馬ならし』は観たことも読んだこともないが、相手の言葉をつかまえて言い合う説明で思い出すのが、高橋留美子『めぞん一刻』。ほぼ全話といっていいほど、スティコミシアが出てくる。第101話「大安仏滅」のここなんて典型かも。
ここ、「二年」という言葉尻をスティコミシアする様子と、「観客席」の優位性の両方があることが分かる。コブラ vs. マングースみたいな七尾さんと八神さんと、その間で息も絶え絶えな五代くんを、安全な場所から笑うことができる。
喜劇の手法の源泉と応用
おそらく、『喜劇の手法』を読むと、そこで紹介されている作品だけでなく、その技法を応用したコミックや映画や小説が思い起こされるだろう。そこでの面白さの源泉を味わうことができる。取り違え、誤解、騙す、アイロニーなんて、ラブコメの典型にして王道だし。
もちろんここで紹介されている技法が笑いの全てだとは限らないだろう。だが、人がどういう時に面白いと感じ、笑うのかについて、個々の例を通じて考えることができる。
笑いの本質を、具体的に考察する一冊。
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