なぜイヤな映画をわざわざ観るのか

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年6月6日】


いわゆる「胸糞映画」というジャンルがある。

下品だったり悪趣味だったり、観た後に気分が落ち込むような作品だ。

ずばり恐怖を主題としたホラーの枠に限らない。幽霊や殺人鬼がいなくても、おぞましく理不尽な展開を描いた映画はあるし、鮫やゾンビが出なくても、残虐バッドエンドに至る作品はある(体感だが、普通の人しか出てこない胸糞映画の方がエグい)。

わざわざお金と時間をかけるのだから、泣いて笑って感動するようなものを観たがるのではいのだろうか? もちろん普通はそうなのだが、胸糞映画も一定の需要がある(さもなくば、跡形もなく消えているだろう)。

私がそうだ。

読み手の心を抉り、読後感がトラウマになるものを「劇薬小説」と呼び、好んで摂取してきた(「危険な読書」にまとめた)。読書は毒書なのだ。

映画も然り。自ら切開することで、自分の皮膚という境界が分かるように、精神的に痛めつけることで、自分の心がどこにあるかを知らしめる子どもが酷い目に遭うシーンを観て「痛い」と感じる場所こそが、わたしの心の在処なのだ。

だが、なぜ、そういう作品を観るのか?

ただ「好きだから」だけでなく、その「好き」を支える動機は何か。私の個人的な好みを越えて、一定の需要がある理由はあるのか。

「ざまあみろ」という感情

よく言われるのが、「人の不幸は蜜の味」というやつ。

妬みの裏返しだ。他人の幸福―――例えば、お金、美貌、健康な身体、若さ、素敵な恋人や配偶者―――そういう「持てる」人に対し、羨ましいと感じる。その嫉妬が募りすぎると、やがて自分自身の身を焼くようになる。

だから、芸能人や政治化のスキャンダルが暴露され、みじめな姿を目にすると、この上もなく甘美に癒される。メシウマ(他人の不幸で飯がうまい)や、シャーデンフロイデ(ドイツ語)とも呼ばれる。

この「羨ましい」という感情と、「ざまあみろ」という感情は、苦痛と報酬のメカニズムだという研究がある(※1)。

若い男女が集められ、あるシナリオを読むように指示される。その際、主人公を自分に置き換えて読むように条件づけられる。シナリオの主人公は異なる設定になっている。

①被験者と同じような境遇だが、学業成績や能力に優れている

②被験者とは異なる境遇で、平均的な能力

様々なバリエーションの中で、上記①の場合に、被験者は強い羨望を感じ、前帯状皮質が活性化した。そして、妬まれた主人公が不幸になると、より強い活性化が見られたという。

前帯状皮質は、ACC(Anterior cingulate cortex)と呼ばれ、脳の左右の神経信号を伝達する脳梁を取り巻く"襟"のような形をしている。血圧や心拍数のような自律的機能、共感・情動といった認知機能、そして、身体の痛みに関係しているとされている。

この研究により、自分に似た境遇だが、自分よりも「持てる」人に対して、羨ましいという苦痛が生じ、その人が不幸になると報酬が得られるのではないかという仮説が立てられている。

では、この「ざまあみろ」という感情を味わうために、人が酷い目に遭う映画を観るのだろうか?

例えば、『ファニーゲーム U.S.A.』という作品で考えてみよう。ミヒャエル・ハネケ監督で、映画史上、最も”不快”な暴力が描かれている。ある家族が酷い目に遭うのだが、まったくもって楽しめない。

湖畔の別荘でバカンスを楽しむくらい裕福で、上品で教養のある3人家族だ。そこに現れたのが、純白の手袋をし、純白のポロシャツを着た2人の青年。最初は礼儀正しく振舞うものの、徐々に残忍な本性を露わにしていく……

もし、メシウマの副菜としてこの映画を観るのなら、その純粋な暴力に打ちのめされるだろう。観客を本気で嫌な気にさせようと、監督が本腰で悪意を込めているのが分かる。覚悟を決めないと、正視すら難しいかもしれぬ。

おそらく、「ざまあみろ」という感情が成り立つためには、他人に降りかかる不幸のバランスが必要となるのかもしれぬ。株価の暴落で成金が貧乏になるとか、出世頭だったのに不倫がばれてクビだとか、そういった幸・不幸のバランスだ。

そして、天秤の不幸側があまりに重すぎる場合、「ざまあみろ」と感じた自分すら含めて打ちのめされるに違いない。

不安の排泄「カタルシス」

哲学・演劇からのアプローチだと、カタルシスを得るために観ると言える。

アリストテレスが『詩学』の中で主張している、精神の浄化のことだ。

身体の中に溜まった感情から解放されるとき、快楽をもたらすという理屈だ。物語を通じ、不安や恐怖、哀切や怒りといった、様々な感情を抱く。それは、登場人物の感情が観客に伝染する場合もあれば、監督の演出によって掻き立てられるときもある。

そこで呼び起こされた「怖れ(ポボス)」と「憐れみ(エレオス)」によって、観客が抱いていた感情は排出され、魂の浄化を得ることになる。これがカタルシスである。

ポイントは、怖れや憐れみを引き起こすためには、「不幸」の要素が必要だということ。多かれ少なかれ、物語の中には不幸がある。観客は自分に似た人物が不幸な目に遭うのを見て、自分もそうなるのではないかと怖れる。あるいは、理不尽な不幸に遭うのを見て、憐れみを覚えるのだ。

登場人物の行動が観客に及ぼす影響については、ミラーニューロンの研究が傍証になる。

ミラーニューロンとは、自分が行動するときと、他人の同じ行動を見るときの両方において活性化する神経細胞を指す。他人の行動を見て、まるで自分が同じ行動をしているように、「鏡」のような反応をすることから名づけられている。

ミラーニューロンは、新生児が他者の行動を理解し模倣する助けとなるとされている。身体の運動や、相手の表情を観察し、それを真似ることで、複雑な動作や経験を伝達していくことができる(※2)。

また、最近の研究では、扁桃体を含む大脳辺縁系や島皮質にも関与していることが明らかになっている。この部位は、情動や共感に深く関わっている。

他人の感情を自分のことのように感じるメカニズムは、ミラーニューロンの研究によって、明らかにされつつある。映画を観て、私たちが怖れや憐れみを感じる時、ミラーニューロンが活性化しているのかもしれない。

では、このカタルシスを得るために、人は胸糞映画を観るのだろうか?

もちろん、心を動かされ涙を流したり、溜まった鬱屈が解放されることで、スッキリするラストになる映画はあるだろう。むしろ、そういう作品の方が普通だ。

だが、観客の感情を捉えたまま、最後まで離さず、そのまま沼に引きずり込むような映画もある。モヤモヤした心を抱えたまま、一生忘れないことになる。

ジャック・ケッチャム原作の『隣の家の少女』がそうだ。原作であれ、映画であれ、この物語に触れたら、傷痕が残り続けることになる。

主人公はアメリカの片田舎の少年だ。隣に引っ越してきた少女に、淡い恋心を抱くところから物語は始まる。この作品のテーマは「痛み」だ。虐待・監禁・陵辱を受ける少女を、少年は、ただ眺めることしかできない。そのもどかしさに、観客は大いにミラーニューロンが活性化するに違いない。

だが、観客は、カタルシスを得ることはない。少女に襲い掛かる不幸に、怖れや憐れみを感じるかもしれない。それにもかかわらず、ラストに至っても感情は排出されない。物語は終わるし、因果の決着はつくが、傷痕は開いたままだ。

「物語はカタルシスを得るためのもの」という思い込みを逆手にとった作品なのかもしれない。

まとめ

この記事では、「なぜイヤな映画をわざわざ観るのか」という疑問に対し、以下の観点からアプローチしてみた。

  • 「ざまあみろ」という感情と、苦痛と報酬のメカニズム
  • 哲学・演劇の「カタルシス」と、ミラーニューロンの研究

少し抽象度を上げて、「なぜ悲劇を見るのか」という設問にすると、さらに以下のアプローチが生まれる。次のテーマとして追いかけてみよう。

公正世界説の援用:悲劇には不幸が生じる。「幸福→不幸」か、あるいは、「不幸→幸福」の順番の違いはあるが、必ず不幸がある。幸福~不幸の推移は、何らかの因果が示される。通常その因果は聴衆にとっての正義(=世界がそうあるべき、必ず正義は勝つ)に則っている。それを観ることで、世界が公正であることを再確認できる。

人生の予習:悲劇をもたらすものには、普遍性がある。持てるものを失う(金、地位、若さ、信頼、健康など)ことが、物語の中心になる。そのとき、登場人物は、どう振舞うのか(どう振舞うと、どんな結果になるのか)を学習するため。自分に降りかからない安全な場所から、安心して悲しみを味わう知的な喜び。社会や人間の醜い部分、汚い側面を拡大し、2時間で消費できるくらいのストーリーとして提供してくれる。本来であれば、そうしたえげつない部分は、危険を伴ったり、起きてしまったら避けることができない不幸として遭遇する。だが、映画館のシートという安全な場所から眺めることができる。不幸に繋がりそうなことを予測したり、それを回避するために先人(映画の主人公たち)が何を考え・行動してきたかを学習することができる。現代社会での適応率を高める人生の予習としての悲劇。

悲劇は「悲しみ」でない:アウグスティヌス『告白』第3章の悲劇論より。悲劇は悲しみではなく、「偽りの悲しみ」を扱っている。悲しい曲が悲しみを歌っているのではなく、短調の曲であれば人は悲しいと感じる。熟した果物が甘いのは糖分を含んでおり、摂取する側は栄養効率がいいし、果物側は種子を遠くまで運んでもらえる。人はネガティブに反応しやすいため、物語を遠くまで伝達してもらえる。文化的ミーム論。

人はなぜ悲劇を愛するのか : アウグスティヌス『告白』Conf.3.1.2~3.1.3の悲劇論

https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282814198178816

悲しい音楽はロマンチックな感情ももたらす

https://www.riken.jp/press/2013/20130524_1/#note2

Why Do We Like Sad Stories?

https://www.verywellmind.com/why-do-we-like-sad-stories-5224078

Why do we love tragedy?

https://www.quora.com/Why-do-we-love-tragedy

注釈

※1

 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/19213918/

Hidehiko Takahashi 1, Motoichiro Kato, Masato Matsuura, Dean Mobbs, Tetsuya Suhara, Yoshiro Okubo

When Your Gain Is My Pain and Your Pain Is My Gain: Neural Correlates of Envy and Schadenfreude,Science, 323,937-939,2009

※2

『進化でわかる人間行動の事典』p.210、小田 亮など、朝倉書店、2021




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暴力は減っているのか?――『暴力の人類史』を読み直す

長い歳月のあいだに人間の暴力は減少し、今日、私たちは人類が地上に出現して以来、最も平和な時代に暮らしているかもしれない

膨大な統計・歴史資料・考古学データを用い、心理学・神経科学・進化論を横断し、「暴力は減っている」と主張する、スティーブン・ピンカー著『暴力の人類史』の一文だ。

原著が出たのが2011年、日本語訳が2015年で、ビル・ゲイツをして「私が読んだ中で最も重要な一冊。それも『今年の』ではなく『永遠の』一冊だ」と言わしめたことで、読書人の間では絶賛されていたように見える。

一方、私は違和感を抱いた。

結論ありきで暴力の定義を伸び縮みさせるレトリックに辟易し、かなり批判的に評した(おめでたいアメリカ人『暴力の人類史』)。「欧米からは減っている」かもしれないが、減ったと見なされる暴力は、不可視になったり形を変えて移動しているのでは?……という考えだった。

いま、この冒頭の文を読み直すと、どう感じるだろう?「最も平和な時代」に暮らしていると言えるだろうか?

ウクライナの塹壕のドローン映像、ガザの瓦礫の山、イラン上空を飛ぶミサイルの軌跡。リアルタイムでタイムラインに流れてくる。私は、10年前よりも遥かに頻繁に「暴力」を目撃している。

「暴力は増えている」はバイアスか?

だから、暴力は増えていると言えるのだろうか? 

それは違うとピンカーは言う。血生臭いニュースに触れていると暴力が増えていると考えるのは、『暴力の人類史』で提示されたバイアスだ。ニュースの本質は「変化」であり「例外」だから、平和や安全が維持されていることは、あまりニュースにならない。

そして、人は思い出しやすい事例に引っ張られて、実際よりも多く見積もってしまう(利用可能性バイアス)。その結果、暴力は増えていると感じてしまっているというのだ。

では、この私の感覚は、認知の歪みなのか?

例えばOCHAのデータ(ガザ地区における死傷者数)を見ると、2023年以降の大規模な衝突により数万人規模の犠牲者が出ている。

このデータは、あくまで武力衝突による数字であって、インフラの破壊や食糧不足による犠牲者はカウントされていない。それでも、少なくともガザ地区では暴力は激増しており、認知の歪みとは言えない。

『暴力の人類史』への違和感

このデータを提示しても、トータルで見ると減っているというかもしれない。

ピンカーの理屈はこうだ。歴史を振り返ると、おぞましい虐殺行為がある一方、技術が発達した近代での戦死者数は膨大なものになる。異なる時代において、暴力が増えているか・減っているかを測るためには、単純な「死者数」ではなく「発生率」で測れという。

「もし自分が、ある特定の時代に生きていた人の一人だったとしたら、自分が暴力の犠牲になる確率はどのくらいあったか?」ということだ。この二番目の論理にしたがえば、異なる社会間の暴力の有害性を比較する際には、暴力的行為の数ではなく、その発生比率に注目すべきだという帰結になる。
(ピンカー『暴力の人類史』上巻 p.108)

そして、人口当たりの割合で考えるなら、個々の戦闘での死者数が数万人増えようと、平和に暮らしている人の母数が遥かに多いため、トータルの割合は極めて低いものとなる。

ピンカーは、自説を裏付けるため、2005年のイラク・アフガニスタンでの武力衝突を例に挙げ、米国人の暴力死の「割合」を計算する。過去最大の武力衝突において、米国人の戦死者は945人に上るが、同年のアメリカ人の総死者数の0.0004%しかならないという。

そして、ピンカーは Correlates of War Project (COW)の統計情報を取り上げ、戦闘による死者数を当時の人口で割った「割合」でもって、暴力が減少していると主張する。

私は、COWの「戦闘による死者数(battle deaths)」という指標に違和感を覚える。これは基本的に、兵士と兵士が戦闘のなかで死亡するケースを想定している。民間人が死ぬとしても、それは「コラテラルダメージ(付随的被害)」として扱われる。

だが、近代戦争ではむしろ都市爆撃やミサイル攻撃、包囲戦、インフラ破壊などによって、戦場にいない民間人が大量に死亡するケースがある。この死者は、戦争の現実を考えるうえでは周辺的な存在ではない。

それにもかかわらず、「戦闘死」という指標を中心に据えると、戦争による暴力のかなりの部分が統計の外側に押し出されてしまう。

例えば、COWによると、第二次大戦で174万人の日本兵が死んでいる。だが、この中には日本本土の空襲で死傷した100万人と被災した970万人[Wikipedia:日本本土空襲]は含まれていない。

爆撃機による攻撃を、「空襲」と呼ぶか「空爆」と呼ぶかによって、価値判断は逆転する。空爆したが反撃を受けた結果の戦死者はカウントされるが、空襲による一方的な被害は「戦闘死」ではないのだから。

暴力死の割合を説明する際、ピンカーが「米国人」を例に挙げていることは象徴的だ。2005年のイラク戦争やアフガニスタン戦争で死亡した人々の大多数は、米国人ではない。ピンカーは話を分かりやすくするための例だと言うかもしれない。だが、まさにその方法によって、戦争による暴力の現実が見えなくなっていることを示しているように思える。

「戦闘による死者数」という統計は客観的な数字のように見えるが、実際には「どの死を戦争の死として数えるのか」という価値判断を含んでいる。ピンカーの議論には、殺される側の論理が十分に考慮されていないように見える。

歴史専門家からの反論

ピンカーへの違和感は、私だけではないようだ。

オックスフォード大学出版の「ベリー・ショート・イントロダクション」というシリーズがある。特定のテーマを専門家がコンパクトにまとめたものになる。このシリーズで、ずばり『暴力』をテーマに、ニューカッスル大学の歴史学部教授フィリップ・ドワイヤーが書いている。

ピンカーが、身体的な暴力や殺人、あるいは戦闘死といった統計的にカウントできるものに焦点を当てた一方、ドワイヤーは暴力の定義は歴史・文化的にも変化するものだとした。

だいじな問題は「暴力とはなにか?」ではなく、「ある社会において、なにが暴力となり、それはどういうものなのか?」なのです。これは暴力とは、たんに主観的なものであるという意味ではなく、それぞれの社会において、個別の文化的、社会的、経済的、政治的文脈のなかで暴力を理解しなければならないという考えです。
(ドワイヤー『暴力』第1章 暴力、その過去と現在)

この考え方のほうが、しっくりくる。何をもって暴力とするかは、時代や文化によって異なると、私も思っているから。

「暴力死の数」で例えるなら、「そもそも異教徒は人でないから死者ですらない」と見なされていただろう。

キリスト教圏、イスラム教圏、ユダヤ教圏のそれぞれが、それぞれにとっての「異教徒」と争うことがあっても、それは戦争ではなく駆除として扱われていた時代があったはずだ。人ではないから何をしても許されていた時代では、その人ならざりき存在に対する破壊は、そもそも暴力ですらなかった。

ドワイヤーはレイプを例に説明する。

「レイプ」という言葉ひとつ取っても、文化的背景によって異なるという。妻が夫の所有物とされていた時代では、夫婦間レイプは存在しなかった。奴隷はモノとして扱われていた文化では、児童レイプは存在しなかった。男性へのレイプはレイプとして認められていない文化だってある。

こうした背景の下、特定の指標値でひとくくりに判定してしまうのには無理がある。夫婦間のレイプは20世紀後半まで犯罪ではなかったから、統計情報を取ろうとすると、ゼロになる。これは、「夫婦間のレイプが無かった」ということではなく、統計情報では測れないことを示している。

ドワイヤーは他にも、内戦の増加、強制労働、人身売買、収監の拡大を取り上げる。これらは「戦争死者数」で多寡を判定する価値観の外側にある暴力になる。

透けて見える啓蒙主義

私の違和感の中心にあるものは、「暴力は減っている」という言い方そのものが、ある特定の文明観を前提にしているのではないか?という疑問だ。

ドワイヤーは、暴力の理論が欧米中心のアプローチになっていることを指摘する。

そこでは、国家が暴力の独占機関となる歴史が語られ、暴力は「文明的」とは見なされない規範の内面化が是とされ、暴力は合理的な思考を進めることで解決できる問題とされている。暴力は文明や合理性とは正反対なもので、啓蒙や文明化によって解消できるものだとする。

これは、ウェーバー、エリアス、フーコーを系譜とし、ピンカーが主張する価値観だ。

もちろん、私自身もこの価値観の下に教育を受け、この文明観に染めあげられている。だが、この価値観で全てを測ろうとするならば、事実として私が目にしているものが取りこぼされてしまってはいないか、と感じるのだ。

ヨーロッパ人は、植民地支配を「未開人」や「原始人」に文明と啓蒙をもたらす行為だと正当化していました。また先住民が「無知」であるとして、日常的な暴力の使用も容認されていましたが、この点には人種的要因も関係しています。ヨーロッパ人はしばしば先住民を「害獣」のように見なしていたからです。
(ドワイヤー『暴力』第6章 暴力と国家)

ドワイヤーは、植民地大国が現地の人々に対して行った暴力の大部分は、記録に残されていないという。

統計情報として測れるものを暴力として定義し、それを元に人類史を振り返る試みは、大変な仕事だと思う。数字というエビデンスベースで語れるし、客観性や説得力もあるだろう。

『暴力の人類史』を最初に読んだとき、テーマにより暴力の定義を変えていることに反発したが、それは客観性を担保するための方策であり、人類史という時間軸の中で比較するために必要だったことは、今では納得できる。

しかし、これがある種の価値判断に基づいた言説の一つであるという認識が無いままであれば、独善の罠に陥ることになる。

「暴力は減っているのか?」という問いに答える前に、まず「何を暴力として数えるのか」を問わなければならない。



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映像美に酔うか、読む悦びに徹するか―――映画『イングリッシュ・ペイシェント』と原作『イギリス人の患者』のあいだ

★イングリッシュ・ペイシェント
★イギリス人の患者

映画『イングリッシュ・ペイシェント』を観た。長年の思い込みを改めることになった。

実はこれ、公開時にも観たので、28年ぶりに再会したことになる。

当時は、原作『イギリス人の患者』を読んだばかり。記憶と感情がもつれあうような感覚が印象的だった。アカデミー賞やゴールデングローブ賞を総ナメした前評判は上々で、間違いなかろうという判断の下、お付き合いしていた女の子を誘ってゴールデンウイークに観に行ったのが運の尽きだった。

ストーリーは大幅に改変(?)というよりも、背景だけ拝借しただけで、原作とはまるで違う装いだった。人生を破壊された4人の生き様を重ね合わせた原作とは異なり、主人公の愛と喪失だけに焦点を絞ったラブストーリーになっていた。

登場人物の設定も別物で、メインキャラの関係性を捻じ曲げ、まるで別の役割を与えたため、キャラの行動原理がペラペラになっていた。特に、私のお気に入りのインド人の工兵がモブみたいになっていたのが残念だった。

映像美はさすがに素晴らしかったものの、映画音楽が煩わしく、「ほら、ここが感動する場面ですよ」と言わんばかりに弦楽器を奏でるのが耳障りだった。

そんなわけで、映画館から出る頃にはすっかり不機嫌になっていた。酷評する私の横を歩いていた彼女の感想は「可もなく不可もなく?」と当り障りのないもので、さんざんなデートだったことを覚えている。

昨年、原作を再読し、昨日、映画を改めて観たのだが、この2つは別の世界線の物語だと思う方が、より堪能できることが分かった。

『イギリス人の患者』の読みどころ

まず原作の『イギリス人の患者』。

著者のマイケル・オンダーチェは詩人でもあり、比喩や象徴に満ちた文章となっている。さらに、エピソードは直線的ではなく、断片的な記憶やトラウマに沿って行ったり来たりしながら浮かび上がっていく形式のため、「何が起きたのか」を読み手が解きほぐすしかない。

普通の小説とは一線を画し、「誰が何をしているのか」は、読み進めないと分かるような仕掛けにしている。これ、一歩間違えると「分からない」と投げ出す読者が続出するだろう。だが、タイトルにもなっている「イギリス人の患者」とは誰なのか? という謎が、読み手の心を掴んで離さない。

この謎に導かれて、彼とその周囲の人たちの記憶をまさぐり、想像し、確かめていくことで、読者自身が物語を編みなおすような読書体験ができる。読者は、登場人物の記憶の深いところで重なっているため、その心情の揺れがダイレクトにシンクロする。

ここが、この小説を唯一無二にしている点だ(感想は [ここ] )。

『イングリッシュ・ペイシェント』の見どころ

次に映画化された『イングリッシュ・ペイシェント』。

監督のアンソニー・ミンゲラは、構図や光の使い方が叙情的で、風景が感情を語るような作風だ。『イングリッシュ・ペイシェント』では廃墟や砂漠を、『コールドマウンテン』では雪景色と南部の風土を、絵画のように映し出す。

なので、とにかく絵がきれいだ。カメラワークや色彩設計をはじめ、俳優の演技や音楽ですら、「あれは美しい物語だった」というインパクトを観客に与えるという一点に集中している。

そのため、物語の時間軸は整理され、映画のストーリーの流れが明確になっている。ラブロマンスだけを中心に据え、他のものはカットして、単線的に映像美を目指している。そこにミステリー的な要素はなく、原作の謎である「イギリス人の患者とは誰なのか?」は、パッケージに描かれている。

王道のラブストーリーを、ひたすら美しく哀しく描いたのがこれだ。「小説とは別物」という姿勢で、もう一度観たら、きちんと胸を揺さぶられた。

観てから読むか、読んでから観るか

小説と映画、どっちが先かと言うならば、『イングリッシュ・ペイシェント』が先になる。

一般に、映画は感情の直接的な共鳴を求めるメディアだ。そのため、詩的で抽象的な小説の語りは、そのままでは伝わりづらい。観る人に訴える力を最大化するために、様々なエピソードを削ぎ落し、設定を変えている。それでもいい、まずは直接的に感動してほしい。

その上で小説を読むと、登場人物が霧に包まれたように「見えなく」なるだろう。それぞれのモノローグを通じて、各人の行動原理を改めて探し出すことを、煩わしく感じるかもしれない。でもそれこそが、記憶を手繰るという小説の悦びにつながる。

映画は、「何を失ったか」を美しく描くことで、観る人の心に直接届くように仕立てられている。小説は、「失ったものをどう記憶するか」を多層的に描くことで、読む人の心を深く沈めるように書かれている。

28年ぶりに観て(読んで)ようやく腑に落ちた。『イギリス人の患者』と『イングリッシュ・ペイシェント』は、同じ素材からまったく異なる物語が紡がれた、いわば”別の世界線”の作品なのだ。

などと感動している私の隣にいる嫁様の感想は、「可もなく不可もなく!」だったと申し添えておく。

なお、『イングリッシュ・ペイシェント(吹替版)』はアマゾンプライムで観ることができる。

 

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映画の意味を理解する『映画分析入門 Flim Analysis』

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『時計じかけのオレンジ』より

観た人なら思い出したくもないあの嫌なシーンだが、観てない人にも不穏さは伝わるだろう。

本書によると、キューブリック監督は、光源を若者たちの背後に置くことで、彼らの頭を黒で表現したという。この技巧によって、横たわる老人に対して、暴力を振るう彼らが人間性を失っていることがよくわかる。

「映画を批評的に見るためには、どうすればよいか」という疑問に対し、「映画は意味だ」と喝破するのが本書になる。冒頭はこの文章から始まる。

映画とは技巧(テクニック)と意味との結婚である。セットを作り、俳優に演技を指示し、カメラの位置を決め、撮影した大量のショットを編集する時、映画製作者は単に物語を語っているのではない。「意味」を作っている。

そして、製作者が意図する「意味」を分析的に解釈することが、批評的な見方の第一歩になるという。

★映画分析入門 Flim Analysis

本書は二部構成となっている。

第一部では、物理的なアプローチ(カメラ、音響、美術)から「何を見ればいいのか」を掘り下げる。『シャイニング』 『鳥』『エイリアン』『羊たちの沈黙』 『ファイト・クラブ』など70作品を俎上に、「なぜこの映像なのか」「なぜこのセットや技巧を使っているのか」を問いながら、それらが意図している意味のレベルから明らかにする。

第二部では、批評的な枠組み(歴史、政治、思想)から「どう見ればいいのか」を解説する。ポストモダン、ジェンダー、エスニック、サイエンスなど、文化や社会を解釈するための価値体系を、映画の道具立てで語り尽くす。

意味の次元から見ることができるようになれば、違った角度から映画を楽しむことができる。映画を見る「引き出し」が増えるのだ。

例えば、映像のメタファーだ。

『シャイニング』のテーマの一つに、獣性と文明(人間性)の葛藤があるという。

雪に閉じ込められた景観荘(オーバールックホテル)で次第に人間性を失っていくジャックの物語がメインの筋だが、本書では、彼の妻子の後ろ姿を採りあげる。赤いフード付きのコートを着て生垣の迷路を歩く妻の姿や、無精ひげと乱れた髪が毛むくじゃらのジャックは、赤ずきんと狼を想起させる。

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『シャイニング』より

私たちは獣であるが、様々な圧力により、市民の皮を被っているに過ぎない。(先住民の呪いであれ、禁酒生活のフラストレーションであれ)ひとたびその皮が剥がれたら、その下の獣性が剥き出しになる―――そういう「意味」が含まれているというのだ。

ジャックの「獣性」は映画の後半で思い知らされることになるが、その前段として赤ずきんがあったことは知らなかった。もちろん、この母子が生垣の迷路を歩いたシーンは覚えている。だが、私の心に(意識させないまま)赤ずきんのメタファーが刷り込まれていたことは、本書を読むまでは気づかなかった。

本書がユニークなのは、製作者の意図しない意味も掘り当てている点にある。

あたりまえだが、映画に出てくる画像は全て編集されている。監督が意図した通りに演じられ・撮られ・編集されているのだから、「意図しない意味」の入る余地なんて無いのでは?

本書によると、見方によって、製作者の意図しない意味は現れてくるという。

物語は常に、ある語りの視点から語られる。

そこから私たち観客は映画を見るのだから、ある意味で、世界を特定の方法で見ていることになる。そして、映画なら必ず視角がある。映画の全体であれ、それぞれのショットであれ、視覚の構造があり、それが意味を作り、特定の価値観へと入り込むのかを決めるのだという。

例として、ヒッチコック『鳥』が挙げられる。

小さな町を舞台に、鳥が人間を襲い始めるという筋立てだ。物語は、この町を訪れるメラニーに焦点を当てている。自立した女性で社交的で恋愛にもポジティブなのだが、行く先々で鳥に襲われる。

極端なハイアングルショットで撮られるメラニーは、最終的には男性による保護が必要な弱い存在として描かれているという。他にも、息子に対し支配的だった母親が、鳥の攻撃で取り乱し、フレーム内の背景に小さくなるドリーショットがあるという。

最初は大きく、積極的・支配的だった女性たちが、鳥の攻撃によりパニックに陥り、萎縮し、守られる立場となる。一方で、小さく・被支配的だった男性たちが、冷静さを保ち、秩序を守ろうとする(映像の中でも大きく映される)。

『鳥』は1963年の作品だ。インタビューによると、ヒッチコックは彼女たちを受動的で従属的な女性にしようと意識したわけではなく、単にホラー映画を作ろうとしただけだという。

しかし、ヒッチコックが育った保守的なカトリック文化の中では、性的に独立した女性は罰せられた。『鳥』においては、そうした女性が文明にとって危険な存在として描かれている。ヒッチコックは無意識のうちに、映画の中に彼の価値観や想定を持ち込んだのである。

確かに、言われてみるとヒッチコックの作品に、彼の価値観が切り取られているのかもしれない。会社のカネを横領して逃亡した先で殺されるのは女性だし、東西陣営のスパイ陰謀に巻き込まれても、最終的にはアメリカ合衆国が正しかったというオチだ。

様々な映像技術や事例を通じて、これまで見てきた映画を別の観点から捉えなおしたり、これから見る映画をより多面的に味わうことができる。

それはそれで素晴らしいことなのだが、これやり過ぎると、映画を楽しめるのだろうか?という気になってくる。映画に限らず、作品を楽しむとき、作者の意図や、作品の文化的背景には、あまり目を向けないようにしている。なぜなら、そこを分析的に踏み込もうとすると、作品世界から一歩引いてしまうからだ(より「メタ」的に見ると言ってもいい)。

ほらアレだ、「作者の気持ちを答えなさい」を念頭に出題文を読むのと一緒だ。作者の気持ちなんてどうでもいい、この物語に脳天までどっぷり浸かりたいのだから、俯瞰の視点は脇に置いておきたいというやつ。

さもないと、「この表現はどういう効果を狙ったのか?」という問いを常に抱えることになり、鑑賞そのものが答え合わせになってしまう。私の場合、小説でよくやらかす失敗だが、これは不毛だ。

だから本書は、映画を分析して、批評を書く人にとってはバイブルになるだろうが、純粋に映画を楽しみたいという人にとっては注意が必要な一冊になる。映画の意味が分かることと、映画そのものを楽しむことは、バランスを取る必要があるからね。

あるいは、既に見た作品をもう一度楽しむときには、『映画分析入門』は最良のガイドとなるかもしれない。



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『ルパン三世 カリオストロの城』を映画館の大画面・大音響で観てきたら100分が秒だった

「さて、面白くなってきやがったぜ!」

「バカヤロウ!そいつがルパンだ、俺に化けて潜り込んだんだ!」

「今宵の斬鉄剣は一味違うぞ」

「奴はとんでもないものを盗んでいきました……あなたの心です」

VHSで1万回、DVDで1万回、金曜ロードショーで10万回くらい観てきた『ルパン三世 カリオストロの城』を、IMAXで観てきた。

ストーリー、セリフ回し、物語の緩急、名セリフ、名シーン、ラストのカタルシス、めちゃくちゃ好きだ。もちろん12万回観たので、次に何を言ってどうなるかは全部知ってる。でもこれは、これだけは劇場で観たかった(それもデジタルリマスター版をIMAXで)。

で、観たんだが、本当に一瞬だった。最初のカジノからラストのあのセリフまで、100分が秒だった(でも考えてみると、あれほどの物語と人物とアクションを100分でまとめるなんて凄いことだと思う)。

映画そのものは一瞬だったが、「なんでこんなに面白いのだろう?」とつらつら考えていると、新たな発見があった。これ、ルパンやクラリスだけでなく、「時計塔」がめちゃくちゃ重要だ。

「いや、時計塔が重要なのはあたりまえでしょ?いろいろイベントもあるし」とツッコミが入るかもしれぬ。もちろんその通りだ。

その通りなんだけど、「物語の構造」と「物理的な配置」と「演出の構造」が重なっているのが時計塔なんだ。以下に説明する。

これ、行きて帰りし物語として見ると、時計塔がその境界に立っている。カリオストロ城が俯瞰で映るシーンには、必ず城が左、時計塔が右に配置されている。なので観客の脳内にはこういう構造になっている。

カリオストロ城ーーーー時計塔ーーーー湖

で、ルパンはローマ水道から時計塔の下を通って城へ侵入しようとする。つまり舞台の右から左に向けて進んでいく。スクリーンが舞台でこれが演劇なら上手から下手に向かってルパンが移動するのが物語の前半の構造だ。

演劇の世界では、上手から下手への移動は、過去への遡行や困難への進行を意味する。ルパンが乗り越えなければならない障害や、過去の出来事を思い出すのは物語の前半にある。

そして、物語の後半では、今度はルパンは城から時計塔へ逃げていく。つまり、下手から上手へ移動する。演劇の世界では、勝利や成功、未来を意味する。

思い出しやすい例を挙げるなら、ルパンがぴよーーーーーーんっと飛ぶシーンは左に飛んでいたし、時計塔へ逃げるシーンは常に右を向いていた。

で、この上手→下手への移動と、下手→上手への移動の区切りは、時計塔の鐘が鳴るときで区切られている。

物語の最初、ボーンボーンと鳴るときに、観客には時計塔の存在が印象付けられ、かつ困難に向けて物語が進むことが示唆される。

そして物語のある重要な場面で、やはり連続でボーンボーンと鳴る。そこでは困難な状況から脱出し、勝利へ向けたスタートの鐘の音になる(さらに、最後に時計塔が鳴るときは、みなさんご存知のあのシーンになる)。

つまり、時計塔の鐘が連続で鳴らされるシーンは3回あり、最初の2回は、物語が進む方向が切り替わったことと重ね合わされている。

宮崎駿の映画初監督作品だが、この構造を意図して作り込んでいたに違いない。私が気づいていなかっただけで、スタジオジブリ作品にも「音響」と「キャラの進行方向」と「物語の構造」との重ね合わせがあるのかもしれぬ。

もはや金ローの定番であるこの傑作、ひょっとすると観たことがない人がいるかもしれない。もし、そんな人がこれを読んでいたら……羨ましい! あなたはこれから、カリオストロの城という大傑作を観るという幸せが待っているから。

そして、この作品を劇場で観たことがないあなた、あなたも幸せな人だ。100分を秒で溶かす体験が待っているから。おそらくあなたも5億回くらい観てきたとおもう。それでも45周年リバイバルが良いチャンスになるはず。

大画面で『カリオストロの城』を観るこの機会、お見逃しの無きよう。



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『後味が悪すぎる49本の映画』を読んだら、なぜファニーゲームが大嫌いなのか理解できた

後味が悪すぎる49本の映画

精神的ダメージがありすぎて、読んだことを後悔する小説のことを、劇薬小説という。生涯消えないほど深く心を傷つけるマンガのことを、トラウマンガと呼ぶ。

劇薬小説とトラウマンガは、このブログで追いかけているテーマだ。

最近なら、[BRUTUSのホラーガイド444] あたりが参考になるだろうし、最高傑作は、[スゴ本の本] の別冊付録で紹介している。許容範囲オーバーの激辛料理を食べると、自分の胃の形が分かるように、琴線を焼き切る作品を読むと、自分の心の形が分かるはず(痛みを感じたところが、あなたの心の在処だ)。

『後味が悪すぎる49本の映画』は、この映画版だ。観ている人の気分をザワつかせ、逃げ道を一つ一つ塞ぎ、果てしない絶望に突き落とし、胸糞の悪さを煮詰める―――そんな作品が紹介されている(49は主に紹介される作品であり関連する他の胸糞も合わせると100を超える)。

ハッピーエンド糞くらえとばかりに、嫌な映画をこれでもかと並べてみせてくれる。下品だったり悪趣味だったり、観た後、確実に気分が落ち込むような作品だ。

いわゆる、恐怖をテーマとしたホラーに限らない。ゾンビや殺人鬼がいなくても、おぞましく理不尽な映画は沢山ある。むしろ、モンスターが普通の人間に見える方が、何倍もおそろしく、リアルだ。

そんな胸糞作品を、なぜわざわざ観るのか?観るとダメージを食らうのに、時折、無性に食べたくなるのはなぜか?私の理由は、[なぜイヤな映画をわざわざ観るのか] で語った。

わたしが知らない胸糞映画

そして観るべき映画は本書から選ぼう。

なぜ本書が信頼できるのか?

それは、私にとって胸糞最悪の作品を、高く評価しつつ、かつ、私の知らないエグそうなのを紹介しているから。私の悪趣味にジャストフィットしながらも、未見の作品を先回りしてくれる、理想的な先達だからだ。

本書で紹介されている、ワースト10からも分かる。

もちろんワースト1が最悪中の最悪で、超有名な「ぜったいに観てはいけない」やつだ。私が観たのは3作品しかないが、正直、『ファニーゲーム』を凌駕する後味の悪さを堪能できるなら、ぜひ観たい。

  ワースト10 ミスト

  ワースト9 ファニーゲーム

  ワースト8 子宮に沈める(本書の紹介で観た。現実の方がエグい)

  ワースト7 未見

  ワースト6 未見

  ワースト5 未見

  ワースト4 ダンサー・イン・ザ・ダーク

  ワースト3 未見

  ワースト2 縞模様のパジャマの少年(本書の紹介で観た。唯一無二の絶望感)

  ワースト1 未見

ネタバレに配慮しつつ、読ませる批評も面白い。その作品が、どのように作用して、どんなダメージをどれくらい食らったかを、詳細にレポートしてくれる。著者自身のダメージのみならず、映画業界から社会現象への影響もまとめてくれており、ありがたい。

  • 史上最強の薬物防止啓蒙映画(レクイエム・フォー・ドリーム)
  • 2日くらい食事が喉を通らなくなった(バイオレンス・レイク)
  • 現実の顛末は検索してはいけない(子宮に沈める)
  • 唯一無二の絶望感(縞模様のパジャマの少年)
  • 最恐(ヘレディタリー/継承)
  • 鑑賞が拷問(ソドムの市)

おかげで、スタンリー・キューブリックが「全ての映画の中で最も恐ろしい」と評した作品や、映倫がR-18指定すら審理拒否した作品、裁判のやり直しまで引き起こした作品を知ることができた。

なぜファニーゲームが胸糞No.1なのか

本書のおかげで、嫌な気分の出所も分かった。

カンヌを騒然とさせ、発禁運動まで引き起こした問題作『ファニーゲーム』は、胸糞映画史上ぶっちぎりのNo.1だ。湖畔でバカンスを楽しむ親子3人と、そこを訪問する2人組の男の話なのだが、なぜこんなに大嫌いな作品なのか、2回観ても分からなかった。

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いや、おぞましさ、不快指数、いやらしさ、苦痛は分かりやすく伝染する(シナリオもカメラも、そういう風に仕込んでいる)。大ダメージを食らって立ち直れなくなるけれど、もう一度味わいたくなる。治りかけのカサブタを触って破って出血するように、また観たくなる(嫌いなのに!)。

なぜこんなに嫌いなのか?嫌いなのに観たくなるのか?

本書では、主人公補正というキーワードで解説してくれる。

脚本・監督のミヒャエル・ハネケは、ウィーン大学で心理学や演劇を学んだエリートであり、批評家から監督へ転身した経歴を持つ。そして、本作の中核にあるテーマは、ハリウッド映画への批判だという。

ハリウッド映画の主人公は、悪役に追い詰められ、窮地に陥っても、なんとか状況を打開しようとする。決してあきらめず、努力や工夫や運に助けられ、事態を好転させる(か、あるいは、そうでなくても何らかの決着に落ち着く)。

その展開は、観客が期待している「お約束」を満足させるために、主人公の行動が最終的に上手くいくように仕向けられている―――この主人公補正を見抜き、ことごとく潰していく。そして、絶対にやってはいけない「補正」を分かりやすく実行した後、どう考えても異常な展開に突き落とす。監督の悪意を、こう解説する。

これで観客の気分が悪くならないはずがないのだが、そんな観客に「あれれ、あなたは人が死ぬスリリングな映画が好きなんじゃないのかなナ?」と問いかけてくるのが本作なのだ。つくづく、性格の悪いインテリのおっさんの悪意が爆発したような映画である。

そうなんだ、映画が嫌いなんじゃなくて、監督の悪意が100%伝わってくるんだ。分かった上でやっているのだ、監督は。間違った意味でのカクシンハンなのだ。「映画でしょ!これは!最悪の!」と、こっちを指さしながらゲタゲタ笑っている監督が嫌いなのだ。計算されつくしたシナリオとセリフとカメラワークに、完全に手玉に取られ、かつ、映画を観て胸糞になっている自分も含めて計算されている展開が、とてつもなく嫌なのだ。

というわけで、本書のおかげで3回目が観たくなった(「役に立たないシナリオ」という前代未聞の展開が分かっていないので、確認してみる)。

こんな風に、未見の胸糞は観たくなり、二度と観たくない胸糞はもう一度観たくなるという、不思議なチカラを秘めた一冊。

あなたの胸糞をぜひ教えて欲しい。きっと本書で紹介されているはず。もしなければ著者である宮岡太郎さん( @kyofu_movie) に伝えると喜ばれるだろう。

 

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動物の鳴き声には言語的構造があった『動物たちは何をしゃべっているのか?』

高度なコミュニケーションは、人間だけのものとされていた。

普遍的な文法を元に言葉を組み合わせ、概念や意図を正確に伝える能力は、人間以外の生物には無いものとされていた。

しかし、近年の研究により、この考えは疑わしいと感じている。

ハチのダンス(※1)やクジラの歌(※2)、体色でコミュニケートするイカ(※3)、有機物を揮発して警告するトマト(※4)など、様々な反証が得られている。人がする方法でないだけで、仲間同士、あるいは種族を超えて意思を伝え合っている。

それでも、ノーム・チョムスキーやモーテン・クリスチャンセンといった言語学者は、獣の咆哮や鳥のさえずりは単純な警告やメッセージに限定され、言語の構造や文法が存在しないと考えていた。「高度な」コミュニケートができるのは人間だけだというのである(この傾向は、言語学者に強く現れているように見える)※5。

この固定観念にトドメを指すのが、『動物たちは何をしゃべっているのか?』になる。

本書は、シジュウカラの鳴き声を長年研究してきた鈴木俊貴(としたか)さんと、ゴリラ研究の世界的権威である山極寿一(じゅいち)さんの対談になる。

シジュウカラの鳴き声に単語や文法が存在することや、ゴリラを含む類人猿には、人間の言語の起源を紐解くヒントが隠されていることが分かる。さらに、なぜ「人間だけが言語を持つ」という固定観念が生まれたのかについて、鋭い指摘がなされている。

言葉はどうして生まれたのか?

まず、フィールドワークで培ってきた経験を元に、「言葉がどうして生まれたのか」という疑問について、ずばり「適応」だと答えている。

言葉を扱える個体のほうが、使えない個体よりも、うまく生存し、多くの子孫を残せたということになる。そして、言葉の種類や複雑さは、その種の環境によって左右されるという。

例えば、カラスの鳴き声は6種類しかないと言われている。種によって若干の差はあるけれど、200種類とされるシジュウカラと比べると非常に少ない。

これには理由があり、カラスは基本的に開けた、見通しのいい環境に住んでいる。互いが目視でき、視覚的なディスプレイでコミュニケートできるため、鳴き声はあまり必要とされなかったという。

実際、ワタリガラスはくちばしを使って人間の指のように対象を指し示すことが知られている。言葉(鳴き声)よりも身振りで意思疎通できるような環境にいるため、少ない種類でも問題なかった。

一方、シジュウカラは、鬱蒼とした見通しの悪い森に住んでいるため、視覚でのコミュニケーションでは不十分だった。天敵や食べ物の存在を、音声によって詳細に伝える必要があったため、鳴き声を発達させたのではないかという。

鳥は「高度なコミュニケーション」ができない?

言語学者が主張する「高度なコミュニケーション」とは以下を指している。

  • 文法性(単語を並べて意味を生み出すルールがある)
  • 恣意性(言葉の形とその意味との間に直接的な関係がない)
  • 分離性(音節、単語に分割して無数の言葉や文を形成できる)
  • 生産性(言語の組み合わせによって多様な表現を生み出す)
  • 超越性(「いま・ここ」以外の未来や仮定について表現できる)

そして、こうした特質は人間だけであり、動物の鳴き声はこのような高度なコミュニケーションができないという。

本当だろうか?鈴木俊貴さんのお話を伺ってみよう。

まず、シジュウカラの文法について。

シジュウカラは、「ピーッピ・ヂヂヂヂ」と鳴くことがあるが、これは2つの鳴き声の組み合わせになっているという。「ピーッピ」は「警戒しろ!」とい意味で、天敵が出たときに使う。「ヂヂヂヂ」は「集まれ!」という意味になる。

そして、シジュウカラは必ずこの順番で鳴くという。「警戒」が先で、「集まれ」が後のルールになっている。もしこのルールを破ったときに意味が通じないのであれば、それは文法であることを意味する。

この仮説を確かめるために、録音したシジュウカラの声で「ピーッピ・ヂヂヂヂ」と聞かせると、警戒しながらスピーカーに近寄ってきた。だが、ルールを破って「ヂヂヂヂ・ピーッピ」と聞かせると、適切な反応を示さなかったという。つまり、シジュウカラは「文法」を持っていると言えるのだ。

あるいは、言語の恣意性について。

例えば、「ヘビ」「snake」という音が蛇を示すことについては、人間の約束事にすぎない。これが言語の恣意性になる。

シジュウカラにとっての蛇は、「ジャージャー」だという。

これは、天敵であるヘビやタカ、モズのはく製を巣箱の傍に置いて、それを見たシジュウカラの鳴き声を調べたことにより判明している。録音した「ジャージャー」という声を聞かせると、シジュウカラは地面を見まわしたり茂みを確認したという。

でも、だからといって「ジャージャー」=「ヘビ」とは限らないのではないか?「ジャージャー」=「地面を確認しろ」かもしれない―――このツッコミに対しては、「見間違え」の実験を行っている。

木の枝に紐をつけて動かしながら、「ジャージャー」と聞かせると、シジュウカラは蛇と見間違えて枝を確認しに行く。一方で、枝を動かしながら別の鳴き声を聞かせても反応しない。つまり、「ジャージャー」という音は、シジュウカラにとっては蛇のシンボルだといえる。

このように、シジュウカラの言語における、文法性や恣意性、生産性について、研究成果を紹介してくれる(※6)。これは世界初の研究(※7)であり、シジュウカラは、「高度なコミュニケーション」ができないのではなく、誰も研究していなかったことが分かる。

ゴリラは過去や未来について語れない?

それでも……と言語学者は反論するだろう。

人間以外の生物は、「いま・ここ」に生きているに過ぎないと。過去や未来のことについて語ったり、仮定の話をするといったコミュニケーションは、人間という万物の霊長にのみ与えられた能力だと力説するだろう。

本当だろうか?

これは、山極寿一さんが体験したゴリラの「タイタス」の話がぴったりだ。

山極さんは昔、ルワンダで2年間、ゴリラと暮らしたことがあるという。その時に特に仲良くしていたのが、「タイタス」という6歳の子どものゴリラだったという。

ところがルワンダの内戦が激化して、研究が続けられなくなってしまい、タイタスとも離れ離れになってしまう。

長い年月が流れ、ようやくタイタスと再開したのは、実に24年ぶりだったという。タイタスは、平均寿命に近い、お爺さんになる。群れのリーダーである、シルバーバック(背中が銀色の成熟した雄ゴリラ)になっていたという。

山極さんはタイタスを見て分かったが、タイタスは山極さんのことを覚えていただろうか?

もちろん覚えていた。

山極さんのゴリラ語の挨拶「グッフーム」に応えるばかりか、するすると近寄ってきて、仰向けに寝転がったという。そればかりかゲラゲラ笑いだしてしまったというのだ(仰向けになったりゲラゲラ笑いだすのは子どもがすることで、大人のゴリラはそんなことはしない)。

山極さんはそこで気づく、タイタスは子どもの頃に戻ってしまい、子どものタイタスとしてコミュニケートしようとしていることに。記憶が眠っている身体を呼び覚まし、タイタスは、「昔こうして遊んだよな」と伝えようとしているのだ。

これはつまり、ゴリラは超越性を身につけている証左にならないだろうか。「いま・ここ」以外も語ることができる。にもかかわらず、できないと決めつけていたのは、人間だったのではないか―――そう山極さんは指摘する。

なぜ「人間だけが言語を操れる」とされたのか

二人の対談は面白い方向へ転がっていく。

なぜ、「人間だけが言語を操れる」という固定観念ができたのか?どうして、動物の言語について顧みられることがなかったのか。

そのヒントは、新約聖書にある。

「はじめに、ことばがあった。ことばは、神とともにあった。ことばは神であった」とあるように、人間は言葉を持つが故に他のあらゆる生物と峻別され、この地球の支配権を神から託された―――という偏見が、研究者の間で前提とされていたからだ。

その結果、「下等な」動物たちの鳴き声や吼え声は高度なコミュニケーションには程遠く、研究に値しないとされたため、その豊かな言語表現が見過ごされてきた―――「動物たちは何をしゃべっているのか」を研究してきたお二人の意見が一致するところがここ。

人間の「知性」を基準として、その差分を測定したり、その振る舞いを擬人化して説明するやり方だと、観測範囲を狭めているように見える。青い空も緑の木々も、環境に合わせて人が進化した結果、そう見えているだけであり、紫外線や地磁気を知覚できる鳥からすると、それは人固有の視野狭窄に過ぎないのだから。

シジュウカラとゴリラの研究から、人間の傲慢さまで見えてくる一冊。

 

※1 ミツバチのダンス

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%84%E3%83%90%E3%83%81%E3%81%AE%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9

※2 クジラの歌

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B8%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%AD%8C

※3 海の霊長類・イカの心を探る

https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2019/01/post-f769.html

※4 植物は知性を持っている

https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2016/01/post-a274.html

※5 言語学とは理系のものか?文系のものか?『言語はこうして生まれる』

https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2023/02/post-4283ae.html

※6 シジュウカラの言語能力と動物言語学の挑戦

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsaisigtwo/2022/Challenge-061/2022_01/_article/-char/ja/

※7 【世界初】鳥の言葉を証明!シジュウカラの鳴き声が示す単語と文法とは

https://www.nhk.jp/p/zero/ts/XK5VKV7V98/blog/bl/pkOaDjjMay/bp/p0XWGW8MX7/




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75歳以上は死を選べる制度『PLAN75』

75歳以上の高齢者に死ぬ権利を認める法案が可決され、通称「PLAN75」という制度が施行された日本。

75歳以上であれば、誰でも利用できる。住民票は不要で、支度金として10万円が出る(使い途は自由)。国が責任をもって安らかな最期を迎えるように手厚くサポートする制度だ。

この映画で最もクるのが、その生々しさ。

役所での手続き、コールセンターでのやり取り、いかにも「ありそう」な社会だ。劇中、制度への加入を促進するコマーシャルが流れるが、思わず信じ込んでしまえる。

あなたの最期をお手伝い

もちろん反対の声もあるだろうが、それを押し切って導入され、諾々と従ってしまうだろうなぁという肌感だ。

主人公は、78歳の角谷ミチ(倍賞千恵子)。夫と死別して以来、ずっと独りで暮らしてきた。つつましい暮らしを続けてきたが、あることがきっかけとなり、PLAN75を考えるようになる。

貧乏な老人は死ねというのか?

この物語のリアルさに拍車を掛けているのが、貧困の描き方だ。

もちろん生活保護という選択肢も残されているものの、そちらを選びにくいように描かれている。だんだんと彼女が追い詰められていくが、PLAN75を選ぶのはあくまでも自分、自己責任という社会だ。

撮り方によって、もっとおどろおどろしく描いてもいいし、ブラックユーモアをたっぷり混ぜてもいい。だが、そうしたケレン味を避け、ドキュメンタリータッチで淡々と描いている。

この映画を、「グロテスク」だの「あってはならない」と評するのは簡単だ。「良い映画だが、早く忘れたい映画」という評もある。

おぞましい、弱者切り捨てだとして、拒絶反応するのは楽だろう。自分の居心地の悪さを、そのまま「正しさ」として反発してしまえるのなら、とても簡単だから。不安を掻き立てる不協和音や、耳障りな電話のコールといった演出からも、そういったメッセージを読み取ることもできる。

だが、提示された社会が既視感ありまくりなのだ。「あってはならない」のではなく、自己責任という名のもとに切り捨てられる社会は、ここにある。自分がそこに立ったら、どうするだろう? と否が応でも考えさせられてしまう。それだけの説得力を持っている。

PLAN75が必要な理由

現時点でのわたしの結論はこうだ。

PLAN75を導入してほしい。なぜなら、わたしが利用したいから。75歳になったら「必ず」ではなく、75歳以上のいつでも好きな時に申し込めて、プランの実行中にいつでも好きな時にやめられる。死ぬときは選びたいと願っており、激烈でなく後始末の楽な奴を考えているから、願ったりかなったりである。

この映画では登場しなかったが、病気で苦痛だらけの毎日を過ごしている人や、あらゆる面で望みは絶たれ、ただ生きているだけの人がいる。考えてみると、貧困問題をクローズアップしていたものの、寝たきり・介護問題はスルーされていた(介護を受ける側は、あらかたPLAN75を実施済だと考えると寒くなってくるが)。

自分がその一人になる可能性は十分にあるため、そうなる前に、わたしが利用したいという独善的な理由だ。

しかし、親しい人がPLAN75を利用しようとするなら、それは全力で止めたい。たとえ何歳であったとしても、生きている限り、なにかしらの希望はあるはずだから(死んだらゼロだ)。苦しいことや辛いことも、後になって振り返ったら薄れて、代わりに、嬉しいことや楽しいことを思い出すだろうから。

矛盾しているだろ? 自分でも承知している。

「子のためなら、何だってする」

意図しているのかは不明だが、監督は、強烈な皮肉を利かせていることに気づいているだろうか?

フィリピンから出稼ぎにきた女性が登場する。故郷では夫と娘が待っており、病気の娘の手術代を稼ぐ必要があるのだ。だが、かなりの金額のため困っている。

それを、キリスト教の互助会でカンパしてもらうのだが、監督の意図としては、自己責任を押し付ける日本と対照的な存在とするためのエピソードらしい。

「フィリピンは9割がキリスト教徒で、助け合うという文化が根付いている。自分でなんとかしなさいという日本と対照的な存在として描きたかったのです」

早川千絵監督インタビュー

互助会のリーダーが、彼女を励ましてこう言う。

「私たち母親は、子どものためなら、何だってする」

だが、同じようなセリフを吐いて、PLAN75を選択した老母がいた。子どもや孫に迷惑がかからないよう、できるだけ身を小さくして生きて、そっと人生から退場する。溌溂とした若者ばかりのフィリピンの互助会メンバーと、老いた日本人グループが対照的だった。

老人は社会の「荷物」か?

『PLAN75』はカンヌ国際映画祭でカメラドール特別表彰が授与されている。これに遡ること40年前に、同じくカンヌでパルムドールを受賞したのが『楢山節考』だ。

貧しい村での口減らしのため、70歳になると楢山参り(姥捨て)をする風習があった。息子のことを思いやる老母と、母を捨てに行く息子の葛藤を描いたドラマになる。原作は深沢七郎の処女作だったはず。

もし、ブラックユーモアに全振りするなら、筒井康隆『銀齢の果て』になる。70歳以上の老人に殺し合いさせるシルバー・エログロ・バトルロワイヤル。刃物と弾丸が飛び交い、「長生きは悪」という黒い哄笑に塗れる老人文学の金字塔なり。

★銀齢の果て(新潮文庫)

あるいは、戸梶 圭太『自殺自由法』を思い出す。

「死ぬ自由」が公的サポートを得た世界で、「使えない国民を自殺まで誘導する」国家プロジェクトが実行された世界だ。公共自殺幇助施設「自逝センター」に向かう人々の人間模様が滑稽なり。安楽死できるカプセル装置が近所にあり、死にたくなった人は、コンビニ感覚で死ねる。もし、「グロテスク」という形容を用いるなら、この小説のラストがぴったりだろう。

★自殺自由法 (中公文庫 と 27-1)

コミックなら藤子・F・不二雄「定年退食」になる(「退職」ではなく「退」)。

地球規模の環境汚染により、食糧難が深刻化した未来のお話だ。稼ぎの無い年金暮らしをしているのだが、食糧を節約しようと努力する。この世界は定員制で、抽選でもれた人々は、年金、食糧、医療、保険一切が打ち切られるというディストピアだ。ここでは、未来を担う若者に、老人が席を譲る世界になる。

★藤子・F・不二雄SF短編<PERFECT版>(2)定年退食 (ビッグコミックススペシャル)

これをさらに過激にしたのが、浅野いにお「TEMPEST」だ。

少子高齢化社会に対処するため、国は「高齢者特区」を建設し、そこで集中的に介護することで医療の効率化を図る。85歳以上の「最後期高齢者」になると、「人権カード」を国に返還し、実質的に「人」でなくなる。ラストの重苦しさでいうならば、これが最重量級だろう。

★浅野いにお短編集 ばけものれっちゃん/きのこたけのこ (ビッグコミックススペシャル)

PLAN75は実施済み

実は、PLAN75はヨーロッパで施行されたことがある。名前は「T4」と呼ばれている。

もともとは、治癒不能の重い病気を抱える患者に対し、慎重な診察のもと、安楽死がもたらされるよう、医師の権限を拡大するという、限定的な計画だった。

しかし、計画は暴走し、医師が「生きるに値しない」と選別・抹殺していくことになる。

対象となった人は多岐に渡り、うつ病、知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中、ユダヤ人も含まれていた。こうした人びとが何万人も、ガス室に送られ、効率的に殺されていった。

歴史ではユダヤ人のホロコーストが有名だが、「社会の役に立たない」「弱者切り捨て」の立場を具体的に実行したのは、ナチスのT4と言える(『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』)。

★【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

最後に、劇中のコマーシャルより引用する。わりと近い未来に、わたしたちは居る、と思っている。

PLAN75は、75歳以上の方なら、どなたでも利用できます
ご利用者の皆さまの、一人一人に寄り添った終活のサポート
まずは、お気軽にお問い合わせください
24時間365日電話サポート
あなたの最期をお手伝いします

もし、映画を観ることがあったら、スクリーンに映し出される題字に注目してほしい。「PLAN」の文字列は明瞭に映し出されているけれど、「75」の文字がぼやけているように見えた。わたしの見間違いかもしれないので、ぜひ、確かめてほしい。いったん導入されたら、「75」は、入れ替え可能だということを暗示しているのかもしれない。

PLAN75オフィシャルサイト

 

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なぜ鬱な映画を観るのか

★別冊映画秘宝鬱な映画 (洋泉社MOOK 別冊映画秘宝)

 

「鬱な映画」と呼ばれる作品がある。

「鬱」と一言でいっても、その意味は幅広く、不安、違和感、自己欺瞞、悔しさ、自己嫌悪、敗北感などのネガティブな感情を指し示す、便利な言葉でもある。

そして「鬱な映画」というと、鬱病そのものを正面きって描こうとしている映画や、精神的な病をスパイスとして投影しているもの、あるいは、観終わるとダウナーな気分にさせるような作品など、これまた種々様々だ。

エンターテイメントなのだから、胸躍らせワクワクさせる展開や、観ててスカッとするシーン、あるいは感動で涙が止まらなくなるラストを求めるのではないだろうか。お金と時間と集中力を使って、わざわざ落ち込むような映画を観るのはなぜか。

一つは、怖いもの見たさというか、悲劇を味わいたいという動機が挙げられる。

不運な出来事に巻き込まれ、抜け出そうと足掻くものの、ことごとく失敗し、ラストは絶望の中で最悪の選択をしてしまう……極限状態に放り込まれた普通の人々の悲劇を、自分は、安全な場所で鑑賞する。

極限状態に陥った人はどうなるか、そこから戻ってくることが可能かを描いた映画は数多くある。いくつかピックアップしてみた(カッコ内は監督と公開年)。ナチス成分多めだが、わたしのためのメモなので、他にも強力なものがあれば、教えてほしい。

  • ダンサー・イン・ザ・ダーク(ラース・トリアー、2000)
  • レクイエム・フォー・ドリーム(ダーレン・アロノフスキー、2001)
  • シンドラーのリスト(スティーヴン・スピルバーグ、1994)
  • 縞模様のパジャマの少年(マーク・ハーマン、2008)
  • ソフィーの選択(アラン・パクラ、1983)
  • ホテル・ルワンダ(テリー・ジョージ、2006)

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が嫌われる理由

たとえば、このテの中で真っ先に挙げられるのが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だろう。

女手ひとつで息子を育てている母親が主人公であり、苦しい家計の中で、必死になって貯金をしている。なぜなら、彼女は視力が弱ってゆく病気で、いずれ盲目になるからだ。病気は遺伝性で、息子も遠からずそうなる運命にある。

手術を受けさえすれば治るのだが、そのお金が高額のため、それこそ身を粉にして働き続ける。彼女の努力や誠実さは、実に残酷な形で裏切られることになるのだが、この映画を有名にも悪名にもしているのは、そこではない。

観始めるとすぐに分かるのだが、この映画は2つのモードで進行する。一つは、失明の運命に怯えながら働く日々を描いた現実モード。もう一つは、目を輝かせ、元気いっぱいに走り回り、歌い・笑い・踊るミュージカルだ。

現実モードのカメラは手持ちで、焦点が合わず、意図的にブレている。一方、ミュージカル調のときのカメラは固定されているか、あるいはクレーンで撮られており、「いかにも映画」な感じがする。

つまり、主人公の現実と妄想が、交互に重ねられながら、物語は進行してゆく。現実が彼女を追い詰め、逃げ場が無くなり、恐ろしい結末に向かって進むほかなくなる一方で、妄想の中の彼女は自信と魅力に満ち溢れ、運命なんて跳ね飛ばす勢いだ。

そして、ラストに近づくにつれ、現実と妄想が合わさってゆく。ひどい手ブレが無くなり、ピタリと焦点が合うようになってくる。彼女は妄想の中のように、いや、妄想よりも懸命に歌い続けようとするのだが、ついに現実に追いつかれる。

この時、観客は思い知る、「これが現実だ」と。自分は安全な場所から悲劇と向き合おうとしていたのに、その座っている場所は、彼女を見ていた人々と同じ椅子だったことに気づかされる。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を酷評する人は、これが後味の悪いバッドエンドだから、という理由だけではない(そんな映画は沢山ある)。悲劇に感動したがってた動機ごと殴りつけられたからこそ、怒り狂っているのである。

無辜の女性が酷い目に遭うのを見て、心を痛め、涙を流したい。そうすることで、自分自身が向き合っている現実から一時だけでも目を背けたい……意識する/しないに関係なく、悲劇を味わい、号泣する準備をしていた所が、安全でもなんでもなく、現実とピタリ一致することが分かってしまう。

監督の意図を悪趣味だとかサディスティックと批判するのは容易い。でもこれ、手加減しているよね。ラストに、「あるもの」が彼女に手渡され、それが希望であるかのように扱われるが、監督が本当に邪悪なら、その持ち主を連れてきて、彼女を凝視するように仕向けるだろう。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が批判される理由を掘り下げると、「人が悲劇を見る理由」を裏切っているからであることが分かる。

『Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで』で予習する

もう一つ、鬱な映画を見る理由としては、精神を病んだ人が、どのようになるかを見たい、というものがある。「もし自分が心を壊したらどうなるか」を、映画でシミュレートするわけだ。

過酷な毎日に心をすり減らしている中、愛する人や大切な存在を失ったことがきっかけとなり、自暴自棄になる。何をやっても上手くいかなくなり、殻に引きこもり、自分を痛めつけるようになる。さらには生きる気力すら失い、茫然自失となる。

そこから、周囲の手助けにより自分を取り戻すようになるか、さらに酷い展開になるか、作品によって異なる。

だが、どれほどの負荷をかけると心が壊れて、そこから日常を取り戻すためにどんなプロセスがあるのかを、ひと連なりのストーリーで向き合うことができる。

鬱をリアルに描いた映画としてよく挙げられるのは、こちらになる。『鬱な映画』にあった。これも自分用のメモとして。

  • Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで(ダニエル・バーンズ、2014)
  • 普通の人々(ロバート・レッドフォード、1980)
  • めぐりあう時間たち(スティーブン・ダルドリー、2003)
  • シルヴィア(クリスティン・ジェフズ、2003)
  • リトル・ミス・サンシャイン(ヴァレリー・ファリス、2006)
  • なんだかおかしな物語(ライアン・フレック、2010)
  • メランコリア(ラース・トリアー、2011)
  • スケルトン・ツインズ 幸せな人生のはじめ方(クレイグ・ジョンソン、2014)
  • アノマリサ(チャーリー・カウフマン、2015)

たとえば、鬱状態の寛解を描いた作品として、『Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで』がある。

我が子を交通事故で失った母親が主人公だ。

自身も事故に巻き込まれ、肉体的にも精神的にも後遺症を負った彼女は、生きる理由を見出せず、周囲への怒りといら立ちを支えに、なんとか生き延びている。セラピーの会の中で人間的なつながりを見出そうとするのだが……という展開らしい。

もし、我が子を亡くしたなら、きっと耐えられなくなるだろう。だが、わたしがどのように苦悩するか、そしてどう回復するか(あるいはしないか)は、映画を通じて、予習することができる。

あるいは、わたしの親しい人がそういう目に遭ったなら、わたしはどう振舞うのか。正解なんて無いだろうが、どんな言葉があるのか、どういう振る舞いができるのかは、予め知っておくことができる。

当たり前なのだが、鬱病になった場合、きっと何もできないだろう。

以前、鬱に効く映画として『シネマ・セラピー』を紹介したことがある。だが、これは、気分が落ち込んだときにお薦めの作品であって、鬱病ではない。

実際に鬱病になったら、薬を飲んで横になるだけで、何かを能動的にしようという気力は全く出てこないに違いない。もちろん、映画を観ることすらできない。

映画を見る元気がある状態で、自分に降りかかる悲劇への振る舞いをシミュレートすることで、わたしは、家族も含め、現代を生きる適応度を高めているのかもしれない。




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