スゴ本オフ@ジュンク堂池袋本店のお誘い

 ゴールデンウィークは、狩りにいこうぜ。

 今回も、アツくユルくやりますぞ。自由参加、自由退場方式なので、お好きなときにいらっしゃいまし。赤いウェストバックをナナメ掛けにしてるオッサンがいたら、わたしです。一緒に書棚をめぐりましょう。孤独な狩りよりグループハンティング、わたしが/あなたが知らないスゴ本を、直接オススメあいましょう。

 今回のわたしのテーマは、「教養」。春は新しい学びを始める季節。クルーグマンの経済学を探したり、「数学ガール」の最新刊をチェックするつもり。そして、「学問の入り口フェア」に寄せられた人文・教養本をU-Streamで紹介するよ。

   日時 4月30日(土) 12:00~17:00
   場所 ジュンク堂書店池袋本店[URL]

事前申込不要。好きな時間にいらっしゃって、わたしを探してください。一緒に語り、狩りましょう。わたしの目印は、赤いウェストバック。背中にナナメにかけてマス。店内はちょっとした街並みに広いので、見つけられないかもしれません。どうしても会いたい、という奇特な方は、以下の時間を参考にしてください。フェア棚を漁っております。

   12:00  7Fカウンター前フェア台 「新入生応援フェア」
   15:00  4F人文・思想フェア棚 「学問の入り口フェア」

ひとりU-Streamします、予定時間は 15:00~16:00
ハッシュタグ #sugohon


Live streaming video by Ustream

 終わったら有志で飲みにいきましょう。

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ゲームで子育て「釣りマスター」

 そもそもの始まりは、「ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス」だった。

 本編も面白かったが、ゲーム内ゲームであるフィッシングに燃えた。Wiiコントローラーをロッドとリールに見立てたシミュレーションだ。ヒットすると振動がビビッとくる感覚はリアルで、家族全員で夢中になってやりこんだのだが、その結果、ここに立つことになろうとは予想だにしなかった。


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 ちょっとした台風並の風が吹き荒れる午前6時。寒い。手はイソメ臭い。季節を先取りしたつもりのTシャツ一枚でガタガタ震えながら餌をつける。(頭を取ることを知らなかったので)噛みつかれる。痛い。思わず振った手に飛ばされたイソメが鼻に当たる。顔がイソメ臭くなる。大ダメージ。「パパぁまだぁ」何十回目かの督促に殺意を覚えつつ、そうか、海はさえぎるものがないからな、と沖を見やる。もうすぐ満潮ナリ。

 道具の買出し、仕掛け・餌の準備。ドライバー、運搬係、セッティングとすべてをこなし、嫁さんと子どもにそれぞれ渡す。キャストしたら忍の一字……というのは昔の太公望で、今はちょいちょい踊らせながら巻くのが常識らしい。で、ダメならポイントを変えてあちこちアタリを探し歩くのが堤防釣りだそうな。とーちゃんが昔やった川釣りとはずいぶん違うなぁ……とはいうものの、イソメの体液ってキジそっくりの臭いだね。

釣りマスター ゼルダから「釣りマスター」へ飛びつくのに時間はかからなかった。例によって嫁さんがはにかみながら「コレ欲しいんだけど……」の上目遣いに撃たれて即購入、家族全員でやりまくる。さすが専用ゲーム、ヒットが分かりやすく、振動が生々しいぞ。ラインのテンションと魚の弱り具合をトレードオフさせており、「魚を釣り上げる」ゲーム性がアクション仕立てになっている。早く巻きすぎるとラインが切れるし、遅すぎるとバレてしまう。その加減の難しさ=魚の難易度になっている。釣り場やターゲットが非常に豊富で、レア、大物、超大物に達成感もひとしお、コンプリート魂に火をつけられる。

 で、ひととりクリアすると、当然のことながらゲームでは満足できなくなる。「ホンモノ」が釣りたいとの嫁子の要望に屈する。しかしだ、ゲームとリアルはずいぶん違うのだよ……餌付けは臭いし、仕掛けはからまるもの。寒いし暑いしなかなか釣れない。そう、待っても変えても粘っても、釣れないときはつれないもの。息子は「おかしい、ゲームだったらすぐ食いつくのに」と言い出す。ククッこのゲーム小僧め、現実は違うのだよ現実は!ボウズの恐怖を思い知るがいいわはは~などと笑っていられない。空気がどんどん険悪になる。娘涙目。これはマズい、おねがい、神サマ、子どもたちに釣らせてやって!

 わたしの願いが通じたのか、嫁さんの執念なのか、ハゼ、メバル、ギンポがそれぞれ全員に釣れた。やれやれだぜ。帰りの道みち、「釣りマスター」はゲームだから釣れるように作ってあるんだよと説明する。でもホントの海はとっても広くて、魚も散らばっている。食いが良い時間は決まっているし(マズメ、潮どき)、アタリの瞬間はゲームみたく「シャキーン!」なんていわない。

 そう、ゲームとは、リアルを抽象化したコピーなんだ。抽象化の過程で、さまざまな要素が切り捨てられる。この寒さも、風も、イソメの生臭さも、隣の人とのオマツリも、ゲームの中には持ち込まれない。ゲーム性を際立たせるため、魚が食いつくまでの時間すら省略されている。「釣りが面白い」とは、そういった、カットされたもろもろの側面をぜんぶひっくるめて、受け入れることなんだ……

 子どもらは神妙に訊いてはいるものの、アタリのコツコツした感覚や、ググッという反応がよっぽど楽しかったらしく。また来ることを約束させられる。その後、「釣りマスター」をしなくなった。まぁ、リアルの感触のほうが楽しいよな。次は釣った魚をさばいて料理するトコまでやってみよう(てんぷらが楽かな)。

パパ、釣りに行こ ちなみにポイントはこれで調べた。ファミリーフィッシングやピクニック気分でいけそうな釣り場を探すのに最適な一冊ナリ。

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正しい怒り方

 子どもに「怒り」を教える話。

 わたしの息子は怒りっぽい。理由は至極かんたんだ、わたし自身が怒りっぽいから。無茶な割込みをかけるセルシオに怒鳴り、脱税は謝りゃいいんでしょと嘯く政治家は○ねと呪う。教える親こそ未熟者だね。

 ささいなこと……計算ミスに気づいたり、誤字を指摘されたりすると、ムキーとなる息子に、「ガマンしろ!」と叱りつけそうになって、ハッと気づく。これは、わたし自身が小さい頃からいわれ続けてきたこと。そう、怒っているときに「怒るな」と強要されることほど理不尽なことはない。だが、わたしは言われ続けた。我慢しなさい、お兄ちゃんなんだから。こらえなさい、もう高学年(中学生、高校生)なんだから、恥しいことだと分かるでしょ?

 その結果どうなったか?自分の「怒りの感情」とは、抑えるべきもの、こらえるべきものだと教えこまれた。怒りとはウンコのようなもので、適切な場所で排出する以外は、その兆候を漏らすことすら許されないと刷り込まれた。怒りとは溜め込まれ、はけ口に向かってうっぷんを晴らすものだと信じた。

 これは辛かった。トイレまでウンコをガマンすることは可能だ。しかし、「はけ口」とはどこにあるのか?人に向けた場合、それは悪意=イジワル=いじめという袋小路に至り、モノに当たれば、破壊された跡を見て自己嫌悪に陥る。最悪なのは、自分に「はけ口」を向けた場合。自分を傷つけたり、苛んだりすることになる。親元から離れ、独り立ちするようになって初めて、「怒り」を自身から分離させることができることに気づいた。怒りとは抑圧されるものではなく、手にとって観察するべき、もう一人の自分であることに気づいたのだ。

 「親が○○したから」というのはやめる。わたしが怒りっぽいのは、わたしの性格だと信じる。いっぽうで、わたしは、もう少し上手く「親」をやれると信じる。これは、根拠のない思い込みかもしれないが、わたしの「親」のやり方を変えてみよう。

 で、子どもに諄々と言い聞かせて・実践させていることをまとめるとこう。

1. 「怒り」とは、押さえるものではなく、コントロールするもの

 怒りとは、お腹が空いたりオシッコに行きたくなるのと同じ、ごく普通の生理現象だ。「あってはならないもの」として目を逸らしてはいけない。そして、無理に押さえ込むものではない。ただ、怒りにまかせて喚いたり叫んだりしても、何の役にも立たない。時間と感情と関係(人間関係)が浪費されてしまう。

ぼくはお城の王様だ そのため、適切なコントロールが必要。ガマンするのではなく、怒りを制御するのだ。怒りは溜め込むと恨みになり、恨みが重なると憎悪になる。憎悪は強い酸のようなもので、人に振りまいて中和させるか、そうでなければ自分自身を蝕むようになる。憎悪に取り込まれてしまった最悪の例は、「ぼくはお城の王様だ」[レビュー]になる。


2. 怒りを感じたとき、最初にすること

 まず、「怒り」を感じること。「ああー、いま、オレは怒ってるんだなー」と心から感じることが大事。怒りに無自覚な怒りに駆られて怒鳴るオヤジは醜い。そういうオヤジを職場で、電車で、ネットで見かけるたびに、「これはオレだ」と反省している。なので、その轍を踏ませないよう、まず怒っている自分に気づくのが最初。

 次に、それを味わうこと。一瞬で燃え上がる熱度なのか、断続的に湧き上がる苦味なのかを分析する。なぜ分析が必要かというと、コントロール不能の怒りがあるから。うまく言語化できないが、わたしは「白い怒り」と呼んでいる。文字どおり視界が真っ白になり、音はくぐもって聴こえ、動けなくなる。次に視界・音声ともにクリアになり、殺意の塊となり、非常に戦闘的になる。非常に危険。すぐその場を去らないと自分自身を攻撃しだす。強すぎる怒りは、自分を滅ぼす。コントロール不能だと直感したら、その「場所」を逃げることが肝要。

 怒りは場所についてくる。感じとったり分析したりするために、物理的にその場所から離れることが必要だ。息子にはも少し噛み砕いて、「怒ったらトイレに行って手を洗え」と教えている。「頭を冷やせ」とか「冷静になれ」と言うは易し、行いは難し。「手を洗え」が具体的だね。


3. 「怒り」をコントロールする : 「怒り」を自分から離す

 ほとんどの怒りは、自分以外の誰か、何かに付随している。自分の内に「怒り」を感じるとき、いったんその対象(ヒト、モノ)を外して考え直してみる。つまり、「その人がいなかったら、怒っていただろうか?」「そのモノ(事象)が起きていなかったら、怒っていただろうか?」と想像するのだ。すぐに結論が出るはずだ、「わたしは怒っていなかった」と。

 つまり、怒りの原因は自らではなく、外側にあるのだ。怒ってしまった自分を恥じることも悔いることもない。これで、「怒ってしまった自分に怒る」悪循環は断ち切れる。自分自身への怒りは、その反射のようなものだ。「自分は悪くない」と思うのは正しい。だからといって、他人やソレ(=モノ)に悪をなすりつけることは誤り。

 なぜなら、怒りとは、その原因となったものであれ、その怒りそのものであれ、理不尽なものだから。理不尽とは、論理的ではないということだ。だから、「正しい」「誤り」「悪い」という評価も、怒りに対して何の役にも立たない。

 よく「なんで怒ってるの?」と子どもに説明させようとして失敗するが、あたりまえだ。自分が怒っているときに、その怒りの原因を分析しようとしても無理筋だろう。分析の過程で冷静になったり、怒りの主体への認識誤りなどに気づかせるというテクニックがあるが、それができるのはソクラテスぐらい。

 ここでは、怒りの原因に対し、「正しい」という言葉をもってこないだけでじゅうぶん。「正義=自分」 vs 「悪=相手」という構図が最悪だ。ここでは、怒りをコントロールする術を描いているのであって、怒りに任せて相手を打ち破ることはないのだから。


4. 「怒り」をコントロールする : 「怒り」を表明する/「怒り」を放す

 怒りを感じて、自分の外のものとして認識できたら、その「怒り」を外に出す。「わたしは怒っている」と告げればいい。

  ・わたしは怒っている
  ・わたしは、○○に怒っている
  ・わたしは、○○という態度を不快に感じて、怒っている
  ・わたしは、するべき○○がなされていないので、怒っている

 怒りが発生したその場所で告げるのは難しいかもしれない。時間がいくばくか経過しているから。しかし、大切なのは「怒っている」ことを表明すること。「怒り」を自分から離せたら、「わたしが正しく、あなたが誤りだから怒る」といった態度はとらないだろう。感情的になることで議論のイニシアチブをとる戦略もある。だが、ここでは議論に勝つことが目的なのではなく、怒りをコントロールすることが重要なんだ。

 相手の反駁はまったく関係ない。その怒りは不合理だとか理不尽だとか言われるかもしれない。反対に、逆ギレ=怒り返しに遭うかもしれない。それでも、「わたしは怒っている」ことはまぎれのない事実で、隠してはいけない。自分の怒りを説明できなくてもOK、「とにかくイヤなの!」はありなんだ。そもそも相手も必要ではないのだ。「自身の怒りを外に出す」ことが、怒りのコントロールのために不可欠なのだ。


5. 「怒り」をコントロールする : 「怒り」の基準を自覚する

 これで、感じた怒りを、自分から離し、放すことができる。「白い怒り」はともかく、練度を上げることでコントロール可能になる。感じたこと、理由をチラ裏に書くことも大切かも。自分が何に対し、どの程度になったとき怒るのか、その基準を書き出すのだ。そして、その基準に達しそうなとき、「怒る」前にその場を立ち去ったり、考えるのをやめることを心がける。「怒っている自分」をメタ化するわけ。その上でキャラを変えたりシチュを変えたりすればいい。あるいは、「分かって」怒ってもいい。

 性格は変えられないが、キャラは被れる(と言ったのはyuripopだっけ?)。性格変えようと無理するこたーない。取り出して、眺めて、同じ地雷を踏まないキャラになるべし。

 こんなエラそうなことを考え得たのは、わが子のおかげ。教えるわたしこそ未熟者なんだ、「怒っているわたし」に気づかせてくれるのはわが子だから。歯をくいしばってガマンしたけど怒っちまった、でもわが子が"怒り"を教えてくれた。変に照れくさくて言えなかったんだけど「ありがとな」と伝えたい。この絆にマジで感謝!!

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プリキュアで性教育

 Tumblr で見かけた名問答。

  Q. プリキュアは何と戦っているのか?
  A. マンネリズム

 せらむん化したり、しゅごキャラ化したり、今度はどれみか……と思いきや、どうやら趣がちがう。思いっきり下品で笑った。ほらあれだ、ココロの種というやつ。プリキュアの精霊の子が感極まると、踊りつつ尻をこっちに向けて、「ココロの種が産まれるですぅ~プリプリッ~」と叫びながら粘液状の黄色ブツを噴出するのだ!で、その粘液は赤や青に変色して、「ココロの種」という固形物になる。

 「これって、ウンチじゃんwww」とテレビ指差して爆笑してると、娘が逆上する、「ウンチじゃないもん!」。そして、「ぜったいにゆるさない!」とキックやパンチをしてくる。痛い。プリキュアのせいで女児が暴力化していることは事実のようだ。せつないナリ。小町娘のかれんさを求める父の祈りは、のぞみ薄のようだ。だが娘よ、それをいうなら、「かんにんぶくろの緒が切れましたわ!」だろう。おかげで「プリプリ~ッ」のシーンは忌みきらうようになった。

 ところが、そんな精霊の脱糞を15の処女に集めさせる設定で、フと気づいた。これは隠喩なんだと。シプレとコフレは雌蕊と雄蕊とのメタファーなのだ。つまり、大地に咲こうがなぎさに咲こうが、いちりんのつぼみが開いて実となるためには、シプレとコフレが"必要"なのだ。オシベとメシベと受精の話を、シプレとコフレとココロの種に置き換えて説明する。息子はほのかに知っていたようで、満足そうに聞いている。娘は何のことか分からん顔をしているが、まーいいや。

 風薫る季節、ひかり差し込むリビングで、あらぶる娘をいなすのが、うららかな日曜日の常景となっている。後日、嫁さんに訊いたところ、シプレもコフレも香水関連の用語だそうな。シプレとは、ベルガモットやオークモスを基調とした香りの系統で、コフレとは、フランス語で小箱のことなんだと。ホワイトデーも近いことだし、会社がえりかってくるか。

追記 : yamabukipudding さん、ご指摘ありがとうございます

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ゲームで子育て「バーンアウト・パラダイス」

BurnoutParadise 「ゲーム脳の恐怖」などと、まるでB級ホラーみたいなタイトルで脅しかかる人がいる。しかし、もし「ゲーム漬け」になるとしたら、わが子ではなく、間違いなくわたし自身だろう。徹夜プレイというよりも、落ちるまで頑張るからね。俺、息子が高校生になったらKanonやらせるんだー(死亡フラグ)

 ところが、困ったことに息子はあんまりゲームをしたがらない。いや、遊ぶことは遊ぶんだが、ちょっと壁があるとすぐあきらめてしまう。失敗することに臆病になっている、という感じだ。ゲームなんだから、何度でもやり直せるんだよ!と口酸っぱくしても、「どうせパパは上手だし」と引っ込んでしまう。

 これではいかん!ということで、急遽「Burnout Paradise/バーンアウト・パラダイス」を購入する(ホントはわたしがしたかったのだ)。いや~これはリアルだわ。架空の街「パラダイス・シティ」を疾走するレースゲームなんだけど、爽快と熱狂のないまぜにさせられる。自由で激しく緻密に作られた世界を、風圧を感じさせるスピードで轟音を響かせる。HDMIにつないだら、あまりのリアルさにビビる。

 レースやスタント、看板やショートカット探したりするのがたまらん。人のクルマにぶつけて壊して→ゲットだぜという極悪さがたまらん(シャットダウンという)。コンクリ壁や橋げたに激突→大破→空を飛ぶスクラップがたまらん。もちろんオープニングのガンズは絶叫しながら走る。

 わたしが好きなのはレースだが、息子はロードレイジがお気に入り。要するに、「クルマで鬼ごっこ」であり、敵車にぶつけてシャットダウン(破壊)する数を競う。クラッシュがド派手で見事にハマる。

 ところが、やっぱり「壁」がある。敵車が速くて強かったり、目標シャットダウン数に届かなかったり、逆に敵にシャットダウンされてしまったり、ボコボコにされる。息子涙目。これはゲームなのだから、この壁を越えられる/越えられないは全て自分次第だ。それが分かっているからこそ、悔しさにプルプルしている。

 そこで、とーちゃんが一席ぶつわけ。曰く、現実は一発勝負的なところがあるが、ゲームはやり直せるし、くりかえせる。ゲームで何度も失敗して、「どうすれば上手くいくか」を調べて考えて試す。そして、できない→できるに変わるときが、いっとう楽しいんだよってね。見てみろ、ふつう時速300kmで激突したら、生きてられないよ。でもゲームだからできる。失敗しても、いいんだよ。

 学校であれ友人関係であれ、なんとなく、「失敗を許さない空気」があるような気がする。常勝を求めるのではなく、逸脱を恐れる気持ち。ルールやらキソクやらで、予め囲われた中で、のびのびとやらせたい、というのは親のゴーマンかもしれぬ。も少し大きくなったら、その縛りを破ろうとするだろうが、今はまだ気づいていない状態だ。

 だから、せめてゲームの中だけも、「失敗してもいいんだよ」ということに気づかせてあげたい。そして、失敗しながらも目標に近づく方法を模索することに、慣れてほしいなーと思いつつ。現実世界ではそいつは、試行錯誤と呼ばれており、かなり強力な方法なのだから。試行錯誤を楽しめるのなら、必ずゴールにたどり着けるのだから。リアルだったら100回死んでる、でもゲームだから100回クラッシュしても大丈夫なのだから。

 息子は分かったのか分からないのか、うなずいた後に取り組む。なぜ上手くいかなかったのかを、ルート、走り方、車種に分けて幾度か試す→程なくして成功する→ニッコリ。ほら、とーちゃんの言ったとおりだろ!

 とはいうものの、やっぱり馬鹿親だったようだ。先週、ジャスコの駐車場で強引な割り込みをかけてきたクルマに向かって、息子が一言つぶやく。

 「パパ、あれシャットダウンしちゃいなよ」

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そろそろコンサルタントについて一言いっておくか

 コンサルタントの危ない流儀」はスゴ本。身の毛もよだつ暴露ネタだけでなく、優れた(結果ドリブンの?)テクニックをもHackできる。コンサルタントも、そうでない人も、盗みどころ盛りだくさん。

 最初にハッキリ言っておく、コンサルタントは、こんなに酷くない。

 顧客を財布、しかも巨大な財布だと見なし、知ったかぶりの業界通を気取り、難解な経営用語で煙に巻き、「お客さまと一体となって」嘘八百を並べ、プロジェクトが焦げ付く前にトンズラする―― こんなコンサルタントは、ほとんどいない。

 しかし、コンサルタントの手口は、著者の暴露するとおり。なぜ言えるかというと、わたし自身、コンサルタント・ファームとして中の人の経験があるから。面白おかしく脚色してるだけで、やってることはホント(書きっぷりは山形浩生氏に似てる)。

■なぜ、経営者はコンサルタントに莫大なカネをつぎ込むのか?

 従業員の給料を必死こいて削減する一方、コンサルタントに莫大な金をつぎ込む経営者は、確かにいる。お役所も然り。もっと酷いことに、失敗と分かっているにもかかわらず、金を注ぎ続ける首脳陣がいる。

 どうしてそんな愚かなことをするのか? ――本書では、その先を明かしている。

 答えは「恐怖」だ。「不安」と言い替えてもいい。正しい人を探し出し、その人の「恐怖」スイッチを入れれば、必ずプロジェクトを買ってくれる。これは、コーラを飲んだらゲップをすることぐらい確実だ。

 プロジェクトを買わせるために、どうやって「恐怖」を植え付けるか、そのテクニックが惜しげもなく紹介されている。もちろんそこへ至るまでの、「外の人」がその企業に取り入る方法や、意思決定者を見つける方法、会議を紛糾させずに全員を「関係者」に巻き込む方法といった、コンサルタントに限らず「おいしい」テクニックが開陳されている。熟読するだけで、コンサルタント詐欺師として看板だせる。

■解体屋の手法

 例えば、「解体屋」と呼ばれるコンサルタントのやり口。最もコストがかかる部分――まず人件費を削れというビジネスモデルだ。そのため、ナントカの一つ覚えの如く現状分析(As-Is)を徹底的に行う。

  1. クライアントの各部署に行き、そこでどんな業務が行われているか調べる
  2. 各業務の完了に、何秒、何分、あるいは何時間かかるか測定する
  3. このうち、どの程度の時間が非効率――つまり「損失時間」――のために浪費されているかを見積もる
  4. 各業務が1日に何回行われているかを見る
  5. 業務の回数と、効率的に行うのに要する時間(損失時間を除去した時間)を掛け合わせる
  6. この数字を用いて、各部署に必要な人時を計算する(※)
  7. 損失時間なしにその部署を運営するのに必要な人数と、実際に雇われている人数を比較する
  8. スタッフの何パーセントを解雇すべきかを勧告する書類を作成する
  9. クライアントに新たな経営管理を導入する高価なプロジェクトを提示する。その部署を、より効率的に運営する経営管理を提示する

 ※As-IsとTo-Beの差は、必ず30%の削減になるそうな。その数字にするために、プロジェクトマネージャがどれぐらい紳・士・的に振舞うか、第2章を読んでほしい。

 このステップを首尾よくこなした後、「解体屋」が売りつける管理手法はただ一つ。すなわち SIS(Short Interval Schedule) と呼ばれるそうな。簡単に言うと、現場監督が2時間ごとに労働者の生産高と目標値を照らし合わせ、達成できないものは訓練するかクビにする方法だそうな(テイラー主義なんて、懐かしいねぇ)。

■なぜ、ITシステム・プロジェクトは失敗するのか

なぜITシステム・プロジェクトはかくも絶望的なまでに制御不能になるのか? 多くの理由がある。不十分なプロジェクト管理、絶え間ない仕様書の変更、設計者と使用者のコミュニケーション不足なども、まあその一因ではあるだろう。だが、これだけ全面的な大失敗ばかりが頻発するからには、ほとんどのシステムの売り込みと運営に何か根本的な欠陥があるに違いない。(中略)ITシステムの失敗には根本的かつ申告な原因がある。すなわち、買い手の無能さ、契約それ自体、そして「無からの創造」である。ITシステムの失敗というのは、システム開発に固有の技術的困難というよりも、そのシステムを売りつけるコンサルタント会社のいかがわしい倫理観によるところ大なのである

 あーあ、言っちゃったよ。ITシステム・プロジェクトの最初(コンサル)から最後(オペレーション)まで全て経験したことがあるわたしが、ずーーーっと思ってたことを、この人はずばり言い切っている。最初から間違っているってね。

 かつて、要求仕様の調整役や、あるいは設計・実装・テストの仕事をしてたときは、自分や周囲を責めたりしてた。曰く「このプロジェクトが上手くいかないのは、わたし(または○○)のせいだ」ってね。胃を痛くしたり、人間関係を悪くしたりしてたけれど、若かったね。今なら自信もっていえる。燃えさかるずっと前にいなくなったコンサルタントの連中が現況なんだってね。

 食材として腐った豚肉が半分しか届かないのであれば、まともな牛肉コロッケはできない。ITプロジェクトの「中の人」の場合、偽装したら即バレなのでごまかすわけにもいかない。だから、自らの身を削って(文字通り身を粉にして)作るわけだ。血を吸ったプロジェクトを見るにつけ聞くにつけ、最初の人はどこにいるんだろうなぁ、と遠い目になる。

■どうやってクライアントに「恐怖」を植え付けるか

 これぞコンサルタント悪の手引き書ともいえるほど、めいっぱい紹介されている。要するに、クライアントの弱点をあぶりだし不安がらせればいいのだ。「経営者の無為無策による未来」を突きつけられれば、クライアントが泣いてコンサルタントを助けを求めてくるようになる。収益性や生産高の不安要素をストーリーに仕立て、脅しつけるという寸法。

 例えば、「ホッケー・スティックを探せ」という手法。売上、利益、品質に関する楽観的な見通しは、ホッケースティックに表れる。ホッケースティックって、こんなやつ↓。エラい人が「内部資料」として出してくるグラフには、たいていあるでしょ?

 要するに、経営者が任期中に「やり過ごす」「先送りする」ための仕掛け。酷いのは今までで、何の根拠もなしに明るい未来を紡ぎだす経営陣の妄想力には脱帽する。しかし、いったんコンサルタントが見つけたら最後、「お前さん方のたくらみなんざ、こちとらまるっきりお見通しだよ」と突きつければ、途端に従順になる。毎年約束しながら実行できないでいる結果を今度こそ出そうという気に(強制的に)させるそうな…確かに。

 それ以外にも、「殺しネタ」が紹介されている。「DILO(Day in the Line Of)」と「ブラウン・ペーパー」だ。どちらも経験したことがある(ただし、別のツール名だったが)。前者は定点観測、後者は従業員による問題点の指摘手法で、確かにこれは、サルでもできる。

■コンサルタントの詐術

 門外不出のコンサルタントの詐術が5つ、紹介されている。ほとんど詐欺だよ…とツッコミを入れながら読む。とはいうものの、これって大なり小なり、やってきているよなぁ、と身につまされる。いやいや、これは仕事を円滑にまわすためのHacksなのかもしれない。

  • プレゼンテーションするな!(根回し10割、会議はシャンシャン、共同決議)
  • クライアントスタッフをチームに入れる(役割獲得)
  • 共謀的販売による受け入れやすい形にパッケージング(誤:私どもの調査の結果、配達の40%が遅延しているという…/正:従業員の方から提供いただいた情報では、配達効率において大きな向上が見込めることが示されています)
  • 決裁ネットワークマネジメント(人間攻略)

 二つ目の「役割獲得」なんざ、皆さん使うでしょ? 要するに「設計フェーズへの顧客の巻き込み」だよ。あるいは、es[エス]って映画観た? とある実験でフツーの人々に囚人役と看守役をやらせる奴。役割を与えられることによって、その人格を習得させるテクニックの応用例だね。

 それから究極の殺し文句!これは「わたしが」覚えておきたいので太文字で引用する。単純ミスによる揚げ足取りをすりかえて、クライアントにとっての致命的な問題に仕立て上げる方法だ。覚えておいて損はないぜ。

ありがちなのは、重要なプレゼンテーションをやっている際に、たくさんの数字が出てきて、クライアントの誰かがその数字のあれが違うこれが違うといい始めたりすることだ。未熟なコンサルタントの場合、攻撃されるとまず自分と自分の仕事を弁護しようとする。そこで、正しい数字は何だとかそういうほとんど意味のない議論が延々と繰り広げられることになってしまう。その結果、重要な問題、なぜ彼らは我々からプロジェクトを買わねばならないのか、とうい問題がすっかりお留守になってしまうのである。

だが、ここで百戦錬磨のコンサルタントなら、プレゼンテーションをいったん中断して次のように言うだろう。「全くおっしゃる通りです。ここに挙げた数字は正確かもしれませんし、間違っているかもしれません。私どもは知りませんし、お伺いした御社の従業員のどなたもご存知ありません。もちろん、それぞれにご意見はお持ちですが、正確にはご存知ないのです。そして、基本的な数字を従業員が把握していないような会社は、効率的に運営することが不可能なのです」。

それから役者みたいにじっくりと聴衆の顔を見回す。この状況がものすごく深刻なものであることを強調するわけだ。そして、おもむろに「ですから、ここでの根本的な問題というのは――」と話を続ける。こちらが数字を間違っていたことについては何も答えていないが、そんなことに気づく暇を与えてはならない。「すなわち、従業員が信頼し、活用することのできる管理プロセスをご一緒に作り上げていくことなのです」

 いささか露悪的に書かれてはいるが、6章で紹介されているテクニックはコンサルタントのみならず、今の現場で使える(と思う、というか使ってる、というか使おう!)。

■A MCKINSEY CONSULTANTS' CELEBRATION SONG

 わたしに役立ちそうなテクニックを中心に紹介してきたが、コンサルタントのセキララな実態もぎっしりと書いてある。コンサルティングファームで2年間、自分を試してみようかな、などと心揺れたときもあったけれど、今から思うとスゴこと考えてたなぁ、と。

 最後に、「マッキンゼー・コンサルタントを寿ぐ歌」を引用しよう。これはマッキンゼーのクリスマスパーティで歌われたという歌だそうな。

  ベストな成果を望むなら
  最高の稼ぎが目当てなら
  任せて安心、万々歳
  それが経営コンサルタント
  マッキンゼーでございます
  顧客のカネはうちのカネ
  何百万ドルお手の物
  顧客の無知こそゼニの元

  構造改革したいなら
  それで成功する気なら
  黙って受け取れ請求書!
  やってあげます構造改革
  マッキンゼーにお任せあれ
  顧客のカネがウナってる
  セレブに金持ち、大歓迎
  構造改革、売り込むよ

  破綻だ赤字プロジェクト
  何がなんだか分からない
  そんなときこそ、"Quick Hit"
  たちまち実現、"Early Win"
  マッキンゼーは忠勇無双
  大成功をお約束
  チャンスは逃さず手厚いご指導
  カネさえ払ってくれるなら

  配布資料にフリップチャート
  パワーポイント麗しく
  弁舌さわやか、立て板に水よ
  クライアントを煙に巻く
  マッキンゼーの得意技
  火のないところに煙を立てりゃ
  顧客真っ青、ますがまま
  これぞ名高き「コンサル話術」

  社風、しきたり、くそでも食らえ
  抵抗勢力ひねって、つぶせ
  瀕死の会社も数々見たが
  俺たちゃ生え抜き、プロのプロ!
  マッキンゼーの勝ち組みだ
  今宵は楽し、パーティーだ
  あなたも乾杯、私も乾杯!
  ウハウハ・ボーナス、出たばかり!

 もう一度言っておく、コンサルタントは、こんなに酷くない……?

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子供に「どうして勉強しなきゃいけないの?」ときかれたら、何と答えるか?

 元ネタよりも、結城さんの回答[参考]に動かされて書く。なぜなら、この回答は、自分の子がいるかどうかによって変わってくるから。そして、実際にわが子からこの質問をぶつけられたことがあるから。

 もしも、わたしが親でなかったら、「どこかの生意気な中学生の質問」として受け止め、韜晦するか洒落っ気の効いた「回答」をひねり出すだろう。相手が「わかった気」になってくれればしめたもの。

 あるいは質問者の年齢に応じて、開高健/デカルト/ガルシア・マルケスを引いて、それぞれ「悩んだら"風に訊け"」「350年前の名答」「二次方程式の解法を自力で編み出した人」といった説教臭い話をして煙たがられるかもしれない。

 しかし、わたしは父親であり、わが子は「小生意気」にすらなっていない無垢な目で問うてきたのよ、「どうして勉強するの?」ってね。

 汗ったね。

 そのときわたしは、PMBOKガイドを前に呻吟してたので、子どもにとっては「べんきょうしてる」と見えたんだろう。だから、「オトナになっても勉強するのは、どうして?」と読み替えた。そしてこう答えた ――

 ―― パパの仕事は、みんなで一緒に大きなものを作りあげることなんだけど、なかなか上手くできなくってね。みんな頑張っているんだけど、途中で勝手なことを言い出す人や、頼んだ仕事が間に合わない人、材料が足りなくなったりとか、いろんなことが起きるの。

 ―― そこで上手くいくやりかたを探してるの。もちろんパパも自分で考えて試してきたんだけど、昔、誰かが同じ事で悩んだことがあるなら、それが参考になるかなー、と思っているわけ。

 ―― もちろん、そのままマネはできない。だって、同じモノを同じ人で作るわけじゃないから。それでも役に立つんだ。「こうするといいよ」だけでなく「こうしちゃダメだよ」も書いてあるから。

 先人の知恵を「まねび」、わが身で実践せよ、ということを伝えたかったのだが、いかんせんヘタクソなわたしの説明のおかげで、子どもの頭に「?」が並んでいる。

 嫁さんが後をひきとり、「毒キノコ」のたとえで伝えてくれる。曰く、

  「どくキノコがどうして"どく"か分かるのは、食べてお腹をこわした人がいるから」
  「その人に教えてもらえば、あなたが食べなくてもいいでしょ」
  「その人が本を書けば、あなたが読めばわかるでしょ」

  「パパはね、どれが"どく"なのか、教えてもらってるの」

 いやいや、PMBOKガイドにベニテンクダケのことは書いてないと思うぞ …それでも納得顔の子ども、嫁さんに感謝。

 そうした文献を吸収するために、読み書き計算ができるようになれとか、ガッコは解答のある問題に取り組むが、会社は正解なんてない課題がくるんだよ、とか、いかにも親父らしいことを言いたくなる、

…が、飲み込む。思い返すと、「勉強しろ」なんて言われたことがなかったっけ。「好きなことを一生懸命やれ」とはしつこく言われてたが。

 この言葉を、今度は、自分の子に向かって言えるのだろうか?

 「どこかの生意気なガキ」にはいくらでも言えることが、自分の子どもになると、とたんに保守的になるのは、世の習い? 親のサガ? あるいは、わたしが臆病なのか?

 子を持つ身にとってみれば、冒頭の質問は、むしろ自分が試されている気分になる

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ゲームで子育て(どうぶつの森)

 さいきん、「ゲーム脳」のデンパ(電波/伝播)が弱まっているので悲しい。

 トンデモ学会のセンセイたちは、もっと強硬に自論を展開して、世間を騒がせるべきなのに、なんだか萎縮しているようだ。「水からの伝言」や「脳内革命→破産」ネタに負けないよう、頑張ってもらいたい。

 そんなセンセイたちへの燃料として、わたしの子どもなんて、格好の事例になるだろう。親が子どもにゲームを与えているのだから。だいたいパパからして「炎のコマ」をやろうとして捻挫したことあるし (^^

 テレビとゲームは通過儀礼。逃げようたってそうはいかない。むしろ、ゲームとの付き合いをコントロールできるようにしておく必要がある。この単純な事実に目を背けようとする親にとって、「ゲーム脳」は格好の免罪符となっている。そんな親たちにとって、子どもの脳に良いゲームをご紹介。今までは、「ポケモン」や「まちがい探し」をオススメしてきたが、今回はコレ↓

おいでよどうぶつの森 スゴい… 何がスゴいかと言うと、子どもがスンナリ入れたこと。タッチペンによる直感的なインタフェースと、完全マニュアルレスなところ。何が目的なのかすら知らずに、いきなり遊べているのがスゴい。

 いや、ちゃんと「目的」らしきものは、あるにはある。住宅ローンを返済するとか、トモダチをつくって文通するとか、化石の標本を完成させるとか、バラエティ豊かな「目的」が沢山ある。ありすぎるぐらいある。

 自由度の高いゲームなら「ルナティックドーン」や「太閤立志伝」あたりが有名だろうが、それでも「そのシナリオをクリアする」という縛りがある。本作品はそうした縛りはなく、好きな「目的」に向かってコツコツとプレイし、仲間のどうぶつたちとのコミュニケーションを楽しむ。さらに、新しい発見を求めて森を散策する―― その世界にいることそのものを楽しむゲーム

 子どもにやらせてイチバン驚いたのが、タッチペン。操作方法を一切教えていなかったにもかかわらず、タッチペンでドアを開けてしまった。「どうして分かったの?」と訊いたら、「ドアはノックして開けるでしょ、だから、(ペンで)トントンってしたの」だそうな。「ドアの前+Aボタン」思考に凝り固まったパパにはできない発想なり。

 アクションやパズルゲームのような、制限時間や勝ち負けがないところも気に入っているようだ。世界をまるごともらって、やりたいことをやりたいようにプレイできる。「その世界で何をするのか?」を試行錯誤で探っていく過程こそが、このゲームの醍醐味なんだろうなぁ…

 "Hasta la vista,baby"と呟いてゾンビの頭をショットガンで吹っ飛ばしたり、あるいは「わたしもお姉ちゃんみたいに、して」と言わせたりするゲームが大好きなわたしにはモノ足りないけれど、のんびりと世界を味わうロハス(?)ゲームとして傑作だと思う。

 ポイントは「ゲームが悪いのではなく、プレイをコントロールしないことがマズい」こと。どんな本を子どもに読ませるか、どんなテレビ番組を見せるのかを、親や教師がコントロールしたりするように、ゲームもそうありたいものですな。そして、コントロールするだけでなく、一緒に楽しめるような関係(親=子のみならず、親=ゲームも)にしていきたいものですな。

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ゲームで子育て:「まちがい探し」で集中力を上げる

 あいかわらず「ゲーム脳」が大手ふっている。「テレビ漬け」と一緒くたに語られると、それは親の与え方がヘタなんちゃうか? とツッコミを入れたくなる。全てを「ゲーム=悪玉」論で断じようとする連中には、「おまえなんか、猫のうんこふめ!」という詞を贈ろう。

 ここでは、そんな風に逆らって、子育てに効くゲームを紹介する。

 確かに、子どもに向いていないゲーム── ハッキリ言って、プレイさせてはいけないゲームがある── 野々村病院の人々とか夜勤病棟とかグランドセフトオートとかいわゆるオトナゲーね。さらに、単純アクションやシューティングといった、アタマを使わない指だけのゲームも避けたい。あと、絶対悪ならネトゲだろう、ハマると怖いぞ(別名廃ゲー)。

 しかし、アタマと指を同時にコントロールするものや、小説や映画のようにどっぷりと浸れる世界を味わうゲームなら、どんどんやらせていきたい。自分がハマった作品を(ふさわしい年齢になったら)わが子にも味わわせてやりたい、という気持ちと一緒。

まちがいミュージアム で、今回はこれ→ Nintendo DS の「まちがいミュージアム」。上の画面と下の画面を見比べて、まちがいに○を付ける、というシンプルなものなんだけど、これが意外とハマる。最初は軽快、だんだんテンポが早くなるBGMと、正答すると「ピコ~ン」と応えてくれるのが妙に良い。

 ハヤリの「右脳が活性化」するかどうかは分からないが、上下の絵の「差」を一瞬で認識して、まちがいの形に近いマルをつける(←これも採点される)を繰り返すうちに、いつもと違うアタマの部分を使ってイイ気分になってくる── って、オトナがハマってどうする!

 わが子の場合、もともと間違い探しが好きで、雑誌の懸賞のやつを見つけてはやっている。「ミッケ!」や「ウォーリー」シリーズも大好きなので、与えた途端に夢中になった。

 良かったのが、タッチペン。子どもとタッチペンの相性は抜群で、マウスにいまいち慣れていなくても、ペンはすぐに使いこなせるようになった。クリック、ドラッグの代わりに、ペンを使って「マルで囲う」「こすり落とす」(←そんな操作で画像を出す問題がある)操作は分かりやすい。子どもが大きくなる頃には、タブレットPCが全盛になるだろうから、今から知っておいて損はなかろう。

 スゴいのがわが子の集中力。やらせ続けるのが良くないことは【我が身をもって実証済みで】明白なので、5分、10分と時間を区切っている。その短時間でものすごい集中力を発揮し、オトナ顔負けの早解きを成し遂げている。すばやく形を認識する能力が何の役に立つかは知らないけれど、意識して集中度を上げるトレーニングになっている。ポイントは、自分の集中力を意識的にコントロールする、というところだねッ

 これまでの「ゲームで子育て」
  ・ゲームで子育て
  ・ゲームで子育て(ポケモン編)

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もしあなたが週60時間以上働いているとすれば、父親として役に立たない。息子が問題をもつようになったら、それはあなたのせいだろう

男の子って、どうしてこうなの お題は次の文に続く──「父親はきちんと家に帰ってきて、こどもと一緒に遊んだり、笑ったり、じゃれあったり、ものを教えたりする必要がある」

 のっけからショッキングな断定文が続くが、読み進めて納得した。「男の子って、どうしてこうなの?」は、異性である息子を育てるのに途方にくれる母親たちへの福音書かもしれないが、父親が読むと考えを改めさせる指南書なのかも。

 けれども会議が、出張が、締め切りが、なんて抗議の声は上げられる。生活を成り立たせるための仕事を放り出したりすれば本末転倒ではないかと。同意、わたしもそうだから。それでもココロのどこかで知っている、ものごとには、取り返しがつくものと、つかないものがある。そして、代替の利くものと、利かないものがある。取り返しがつかないものは、子どもとの時間であり、代替が利かないものは、父親だ、ということに

 たとえば近所の公園。「公園いってキャッチボールしよう」「紙ヒコーキ折ったら公園で飛ばそうか」と誘って子どもが喜んで一緒にいく、なんてあと何年できることやら。すぐに「友達と一緒にどこかへ」になるに違いない。つまり、公園で遊べる期間は、ある年齢を過ぎてしまえば取り返しがつかない時間となり、その相手は、父親以外の誰も代わりができない。

 では、父親のがんばりが全てかというと、かなり違う。

 女の子とうまくやっていくコツを教えるのは母親の役目。異性を前にしても素直に自分を表現できることは、実はかなり重要なスキルなんだが、それを伝える方法が書いてある。ショッピングセンターでクラスメイト(女の子二人)と会った息子の例が秀逸。あいさつしても女の子たちはクスクス笑いあうだけで返事しない。意気消沈する息子に、母親があるアドバイスをする。要は「好きな男の子の前では、女の子はクスクス笑うもの」を伝えて、実行させるのだが、そのやり方がイイ。

 ガツンときたのが、夫婦のルールの話。しっかりと結びついた夫婦こそが、子どもを育てる上で最も重要な下地だということは合点承知だが、その根底のルールについて、本書はこうある。

結婚生活を維持していくためには、夫婦で顔を突き合わせ、おたがいに精いっぱいどなりあうことも時にひつようとなる。小さな行き違いによって溜まったうさが吐き出され、浄化されるからだ。ただし、女性はぜったいに安全だと感じない限り、男性とそのような正直で激しい言葉のやりとりをすることができない。自分が殴られないことを女性は知っている必要がある。


むろんそうじゃない夫婦を紙面やネットで知ることはあるが、自分はそうじゃないと「言わずに」証明し続けなければならない。

 まとめ:男の子は3つの段階をへて成長する。


  1. 誕生から6歳までのあいだ、少年たちは愛情を学ぶために沢山の愛情を必要とする。この時期、1対1で話しをしたり、教えたりすることが、子どもを世界とつなぐ助けとなる。それをする最良の人間はふつう母親であるが、父親がとってかわることもできる。
  2. 6歳ごろになると、少年たちは男というものに強い興味を示し、父親がクローズアップされるようになる。父親の興味の持ち方や時間の過ごし方が重要となる。とはいえ、母親の役目も依然として重要であり、息子が年を取ったからというだけの理由で、背景に退くべきでない
  3. 14歳を過ぎると、少年は助言者(個人的に少年の面倒をみ、少年がゆっくりとより広い世界に入っていくのを助ける、親以外の人)を必要とする。昔の社会は、この段階に区切りをつけるためにイニシエーションを行った。当時は、現在よりも多くの助言者がいた

 今のわたしに最も欠けているのが3。信頼のおけるほかの大人たちの長期にわたる積極的な助けがなければ、十代の少年たちを育てることができないとある。まさにその通りだと思う一方、いますぐ行動を起こさねばと背筋が伸びる。

 これは、わたしも試されているんだな。

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