世界は「におい」に満ちている『香原さんのふぇちのーと』

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「におい」は言葉より強い。どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。

人は「におい」から逃れられない。目を閉じることはできる。耳をふさぐこともできる。だが、呼吸とともにある「におい」は、拒むことができない。「におい」はそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まっている。

「におい」は、主観で決まる。よい匂いなのか、ひどい臭いなのか分かるのは自分しかいない。たとえば、女子高生のわきから漂う「汗のニオイ」だと悪いイメージだが、「かぐわしいフェロモン」だと身を乗り出したくなる。

そういう微細なアロマを嗅ぎ分け、スパイシーなのか粉っぽいのか、べっとり鼻孔に付くのか抜け感があるのか、甘み・酸味・青味・深み、香ばしさを観測し、秘密のノートに記録する―――それが主人公・香原理々香である。どう見ても変態ですありがとうございます。

彼女は、女子高生という立場を利用して、クラスメイトのさまざまな匂いを嗅ぐ。

たとえば、汗っかきの陸上部の子がわきを拭いたタオルにしみ込んだ汗においや、ローファーで蒸されハイソックスに包まれた足のにおい、あるいは、スパッツを少しずらしたお尻の隙間から漂うひんやりしたにおいである。

でも、ちょっと待って、いくら女子高生だからといって、そんなに気軽に嗅げるものだろうか? 足とかお尻の匂いなんて、普通はお金を払うものじゃないの?

その通りである。陰キャで親しい友だちもいない彼女は、「におい嗅がせて」なんて言ったらドン引かれるに違いない。

だからこそ緻密な計画を立て、工夫を凝らし、時には策を計り、涙ぐましい努力を積み重ね、さらには時の運により、ふくいくたる香気に身をゆだねる(そのごほうびシーンが感動的ですらある)。どう見ても変態ですありがとうございます。

面白いのは、「におい」をマンガでどう表現するかにある。においは主観そのものであり、視覚表現であるマンガでは、普通に無理だろう。紙は紙のにおいしかしないし、スマホで見ている人には何のにおいもしない。

見てもらったほうが早い。

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『香原さんのふぇちのーと』2行目より

これは、香原さんが足裏のにおいを嗅いでいるシーンである。

もちろん香原さんの心象風景である。彼女の脳内では、メリーゴーランドに乗っているポニテの女の子がいて、その子のバスケットから飛び出したポップコーンシャワーを浴びている。

季節は梅雨、湿度の高い教室とローファーで蒸された綿とポリエステルの靴下の素材の香りをベースに、足の指のすきまに潜む温かい脂の甘み、(なめたら)塩気を感じる予感が、さながらポップコーンシャワーのように鼻孔をくすぐっていたにちがいない。

においの表現そのものではなく、それを感じ取った内面を比喩的な絵で表現する。極上のワインを飲んだ瞬間、森の奥に古城が見えたり、おいしさが全身を駆け巡るあまり全裸になったりする、『神の雫』や『食戟のソーマ』が思い浮かぶ。読者の視覚そのものに訴えることができる。

女子高生の蒸れた足裏の匂いを、「ポップコーン」として感じる香原さん。この人は信用できる

脱ぎたての足で踏んでもらうなんて、お金を払ってもそうそうできるものではない。どういういきさつでそうなるのかは、ご自身の目で確かめてほしい。ここでは、努力と根性と時の運とだけ申し添えておく。お試しは [香原さんのふぇちのーと] にある。

これから彼女は、「80デニールのパンスト越しのひかがみの匂い」とか「耳の裏の脂ギッシュな匂い」とか「にわか雨に降られたての頭頂から立ち昇るパウダー臭」、あるいは「鎖骨のくぼみに溜まる乳白色の香り」や「ありがとう水(スク水の股間から垂直にポタポタ落ちる水)のハイター風味」などに挑戦していくに違いない。

その探求に期待するとともに、香原さん自身から漂うラクトンの匂いに気づく日もあるかもしれないと思うと、感無量になる。ラクトンとは、若い女性に特有の甘い匂いで、バニラとバターに微量の生姜を足したような香りである [再現レシピ]

ちなみにドラッグストアで売ってるので、わたしのようなおっさんでも、匂いだけは女子高生になれる(実験レポート:[女の子の匂いを身につける])。以来ずっと手放せず、お風呂に入るたび、匂いだけ女の子に変態している。

一つ心配なのは、彼女の行く末だ。香原さん、匂いフェチがばれるのを極端に怖れているが、それよりも、悪用しないかが心配である。冒頭でも触れたように、人は「におい」から逃れられない。そのまま身体に入ってきて、感情に訴えかけ、記憶を揺さぶる(プルースト効果)。

言い方を変えるなら、においで人を支配することができる。声や文字は耳を塞ぎ目をそらせばよいが、人は呼吸を止めることができない。「におい」を操り、においで人を支配しようとした男の物語として、『香水 ある人殺しの物語』がある。18世紀フランスの、「匂い」の達人の物語なのだが、これもお薦め。

よい匂いで、よい人生を。



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この本がスゴい!2022

「いつか読もう」はいつまでも読まない。

「あとで読む」は後で読まない。

積読をこじらせ、「積読も読書のうち」と開き直るのも虚しい。人生は有限であり、本が読める時間は、残りの人生よりもっと少ない。「いつか」「そのうち」と言ってるうちに人生が暮れる。

だから「いま」読む。

10分でいい、1ページだっていい。できないなら、「そういう出会いだった」というだけだ。「いま」読まないなら、「いつか」「そのうち」もない。

本に限らず情報が多すぎるとか、まとまった時間が取れないとか、疲れて集中できないとごまかすのは止めろ。新刊を「新しい」というだけの理由で読むな。積読は悪ではないが、自分への嘘であることを自覚せよ。「いま」読むためにどうしたらいいか考えろ。「本」にこだわらず読まずに済む方法(レジュメ、論文、Audible)を探せ。難解&長大なら分割してルーティン化しろ。こちとら遊びで読書してるんだから、仕事じゃないんだから、もっと真剣にやれ―――そう言い聞かせ、2021年12月~2022年11月に読んだ中で、「これは!」というスゴ本を選んだ。

独力では出会えなかった一冊、誰かの呟きで出会えた一冊、読書記録のおかげで完読できた一冊、読書会の課題だから読めた一冊、「それが好きならこれはどう?」とお薦めされた一冊―――ありがとうございます、わたしが知らないスゴ本を読んでいる「あなた」のおかげ。

これほど豊穣で濃密な時間を過ごし、深く鋭く穿つ見識を手に入れ、井戸の中からジャンプして、空の青さを知る人になれたのは、「あなた」のおかげ。だからこのリストが、あなたの選書の手助けとなれば嬉しい。そして、あなたのお薦めを伝えてくれると、もっと嬉しい。



ふらり旅に出たくなる
『ぱらのま』kashmir

きれいなお姉さんが、ぼっち旅を楽しむマンガ。

いわゆる名所探訪はせず、行き先もアドリブで変えたりする無計画な計画だ。お姉さん(名前がない)は一人旅の達人だ。日本全国の地理や交通機関に造詣が深く、電車やバスを乗り継いで、街歩き・温泉めぐり・食べ歩きにいそしんでいる。

ソロ・ブラタモリ的なご当地ウンチクも楽しく、読めば間違いなく旅に出たくなるけど、「旅」と構えなくてもいいのが良い。

例えば、いつもの駅の手前で降りて、気になる路地を散策してもいい。商店街で買ったコロッケを食み食みふらふらする(不審者と間違えられないように)。ビルの裏手にびっしりと絡みつく配管を眺めたり、Googleマップ片手に「どこかで見た坂」を探すのも楽しい。

お姉さんの行く先を、Googleマップで追いかける、という遊び方もできる。どういう路線でどこを経由しているのか教えてくれるので、それをシミュレートするのだ。駅を降りたらストリートビューで後を追う。まるでお姉さんと一緒に散策するようで、密かに「バーチャルストーキング」と呼んでいる。

バーチャルストーキングで凄かったのが飛騨金山の筋骨めぐり。街中を流れる清流や通路の上に、民家の増築部が立ち並び、細い路地が迷路のように絡み合っている。昭和のレトロな看板、かがまないと通れない公道、ずっと耳につく川のせせらぎ……方向感覚を見失い、いい意味で悪い夢をみているような場所だという。

2022_

ぱらのま 5巻 Line21. より

Googleマップだと360度写真でしか見ることができないが、それでも十分堪能できる。日本路地選手権をしたら、キング・オブ・路地かもしれぬ。

ソレドコの「ご当地マンガ」シリーズで、『ぱらのま』をダシにして「東京のそこらじゅうにある短い坂を愛でる」という記事を寄稿したので、あわせてどうぞ。

twitter で作者さんが「飛騨金山を上回る狭小湾曲高低差のカオス空間」と呟いていたので、次にお姉さんが行くのは呉やな。

『ぱらのま』はいいぞ。
『ぱらのま』はいいぞ。

 

 

寝る前の眠れなくなるボルヘス
『記憶の図書館』ホルヘ・ルイス・ボルヘス

寝るまえ、すこーしずつ読み進めていったんだけど、幸せなひとときが何夜も続いた。

ラジオ対談の連続番組をまとめたものだ。ポー、ワイルド、カフカ、メルヴィル、ダンテなど、偏愛する作家への想いや、創作のインスピレーションの源泉、一つの挿話をどう育てるかといった指南など、汲めども尽きない118の対話を一冊に集成している。

ラジオ番組なので、話の転がっていく先が突拍子もなくて面白い。

たとえば、ポーの最高傑作として『アーサー・ゴードン・ピム』を挙げて、そこに登場する「白を怖がる人々」から、メルヴィルがこれを読んでいたはずだという。そして、『白鯨』のクジラがなぜ白色だったか、という話につながる。

さらに「白」という言葉そのものに注意を向ける。白は、ロマンス語圏でどう言われているかを次々と挙げる。

フランス語ではブラン(blanc)
ポルトガル語ではブランコ(branco)
イタリア語ではビアンコ(bianco)
スペイン語ではブランコ(blanco)
英語でブラック(black)

black は「黒」だから、意味と音が真逆になっている!?ボルヘス曰く、これらは元々同じ意味、すなわち「色が無いこと」を示すらしい。色が無いことが、影の方に転んで、ブラックが黒になったのが英語になる。一方で、光の方、澄明さに転んだのが、ロマンス諸語になるというのだ。

あるいは、ボルヘスの記憶から紡がれる、名言・至言・箴言が楽しい。特に好きなのは、記憶にまつわるこれ。

おそらく未来は取り消しがきかないものです。しかし過去は違います。過去は思い出すたびに―――記憶の貧しさや豊かさのおかげで―――望みのままに、どこかしら修正されますから。

記憶は嘘をつくでしょうけれども、その嘘もすでに記憶の一部であって、わたしたちの一部なのです。

多くの本は各々のページではなく、その本が残す記憶のために書かれます。

寝る前に2~3編のつもりが、つい読みふけって夜更かししてしまう。眠れなくなる一冊でもある。

書評全文:寝る前の眠れなくなるボルヘス『記憶の図書館』

 

 

読み始めたら徹夜を覚悟する
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』アンディ・ウィアー

読み始めたら最後、徹夜を覚悟する。あまりの面白さに、結末まで何も手につかなくなることを請け合う(私がそうだった)。

サイエンス・フィクションの「フィクション」に当たる嘘は2つだけ。あとは科学的に徹底的に考え抜かれ、エンターテインメントに全振りされた小説だ。最新の科学ネタが満載で、これまでのSF小説や映画のいちばん美味しいところが詰め込まれている。

予備知識ゼロで(帯やamazonの紹介文すら読まずに)読むほうがよいので、あらすじには触れない。その代わり、「ヘイル・メアリー号」を紹介しよう。きっと、この作品がどれほど考え抜かれているかが伝わるだろう。

「ヘイル・メアリー号」は船の名だ。宇宙船にしては奇妙な形をしているが、合理的な構造だ。もし、このような状況になれば、人類はきっと、この形の宇宙船を作るに違いない。

以下に、ヘイル・メアリー号のロケット図①②を引用する。

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左の図①を見てほしい。

いわゆる「ロケット」としてお馴染みの形をしている。下半分が燃料タンクでエンジンを駆動すると、推進力がかかり、下の方に人工的な重力が生じることになる。図では「推進モード」と説明されている。

面白いのは、図②だ。

ロケットの上半分が分離して、クルリと反転する。下半分とはケーブルでつながれており、互いにぐるぐる回ることで、遠心力により、人工重力が生じる。

なぜこんな構造なのか?

それは、行った先で「重力」が必要だからだ。

なぜ重力が必要なのか?そもそも宇宙を旅する船なのだから、全て無重力で動作が完結するように、全ての装置を開発すればいい。

ダメだ。単純に、「行く」だけではなく、そこで様々な調査や実験を行う必要がある。調査や実験をする装置や機材は、十分な実績があり、間違いなく動作する必要がある。

そうした、いわば「枯れた技術」が使われてきたのは、地球上、1Gの環境になる。

もちろん、無重力でも動くよう、実験設備を開発するプランもあった。だが、開発には時間がかかり、それだと間に合わない。さらに、無重力でも動く「かもしれない」というリスクに掛けるくらいなら、最初から回避しておいたほうがよい。

あるいは、行先の近辺に星があり、その重力を利用できるかもしれない。だが、そうした星を確認できる距離ではない(目的地は、うんと遠いところだ)。そんな不確かな期待に掛けるわけにはいかない。

限られた時間で、合理的な決断をした結果、ヘイル・メアリー号はこのような構造となっている。迫りくる危機から導かれた必然だが、この構造だからこそ成し遂げたことは、科学的運命と言ってもいい。

もちろん、この物語の主人公は、最初に目が覚め、記憶を失った男である。だが、私はヘイル・メアリー号と、これを飛ばすためのプロジェクトそのものにも、強く惹かれる。男がまきこまれる運命は偶然かもしれない。だが、ヘイル・メアリー号は人類の必然になる。

人類は、その気になれば、なんでもできる。

書評全文:徹夜小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』

 

 

伊坂幸太郎が選んだ極上の短編小説集
『小説の惑星』オーシャンラズベリー篇ノーザンブルーベリー篇

面白い小説が読みたい? じゃぁこれ。

いまの時代、面白いアニメやゲーム、映画が沢山ある。しかも、Amazonやネトフリでいくらでも楽しめる。じゃぁ、どうして小説を読むの?

その答えが、この2冊だ。小説の面白さを語るより、まずはこれを読んで欲しい。これを読んでダメなら仕方がない……という最強ばかりを集めたという。

結論から言うと、看板に偽りなし、珠玉の作品ばかりなり。

嫌悪感を抱きつつ、こいつ酷い目に遭えばいいのに……と思ってたらナナメ上の展開で吹き出してしまったり、まんま『はたらく細胞BLACK』やんけと思ったら、こっちが本家なことに気づいたり、ダブルプロットにしては変な構成だなぁと不思議だったのが、全てがカチっと噛み合う怖ろしいほど美しいラストに化けたりと、読む悦びに浸りまくった。

本書が良いのは、理由が書いてあるところ。数ある中から、なぜその作品なのか、どんな思い入れがあるのかが、あとがきにまとめられており、それが読みどころとなっている。

たとえば、中島敦「悟浄歎異」。

中島敦なら、「山月記」か「名人伝」じゃね? と思うのだが、西遊記の沙悟浄の手記という、いっぷう変わった作品を出してくる。しかもこれ、前・後編の後編になる(前編は「悟浄出世」)。普通こうした場合、前編が採用されるのだが、なぜ後編なのか?

謎があとがきで明かされると、そこを再読したくなる。その理由が、とても繊細で、ちょっと「かわいい」と思ってしまう。でも分かるわーという気持ちになる。

あるいは、大江健三郎「人間の羊」

主人公が酷い目に遭うのだけれど、なんとかして彼を助けてあげたい、そして加害者を懲らしめてやりたい、と憤りながら読み進める。すると、読み手である私の感情にシンクロする展開になるんだけれど、その展開が私を追い越してしまい、「私の憤り」を背後から眺めることになる。

私の中から「怒り」という感情を取り出して、「ほら、これだよ」と見せてみせる。その手さばきが鮮やかすぎて、私は直視できない。でも、その気まずさ、居心地の悪さこそが、この作品が選ばれた理由になる。

小説を読む悦びを、言葉で語るのは難しい。だから、直接味わってしまおうという試みだ。わたしからもぜひお薦めしたい。小説の喜びは、実際に読んで確かめてみてほしい

書評全文:伊坂幸太郎が薦める極上の短編小説19選『小説の惑星』

 

 

物理学が全てを語るには早すぎる
『時間の終わりまで』ブライアン・グリーン

新卒が「一生やりたい仕事が見つかった」というのは、離乳食が終わったばかりの2歳児の「カレーの王子様は世界で一番おいしい食べ物である」と同じぐらい説得力がない

本人が真顔であるほど、微笑ましい。自分の知る狭い世界でもって、それが全てであると言い切る、早すぎる一般化である。新しい仕事やカレーマルシェに出会って、世界が拡張されることを願う。

物理学で宇宙を全て語れると断言する本書を読んでいると、同じ可笑しみを抱くようになった。

原子や中性子、クォークなど、どんなに小さいモデルを考えても、それだけでは説明しきれず、これまでの研究と矛盾する現象が生じる。より巨大な望遠鏡を作り出し、宇宙の果てまで見渡そうとしても、私たちが知る宇宙とは、光が届く範囲でしか観測できない。それは、宇宙の一部分に過ぎない。

にもかかわらず、宇宙の全てがそうなっていると結論づけるのは、早すぎる一般化ではなかろうか。

そんな疑問を抱えながら、素粒子物理学の第一人者ブライアン・グリーンの著書を読み進める。

自然科学における素粒子や原子、分子といったミクロな観点から、ブラックホールや銀河、宇宙全体までを一気通貫で説明する。その旅路の中で、生命誕生における遺伝子や進化といった生命科学、心や自由意思、芸術や宗教といった人文科学にも目くばせしつつ、壮大なスケールで語り上げる。

特に興味深いのは、「分子ダーウィニズム」と呼ばれる化学的な闘争だ。エントロピーと進化という切り口から、物理学の観点から生命誕生を語る試みである。シュレーディンガー『生命とは何か』のお株を奪う勢いである。物理学全能主義が鼻につくが、これがめちゃくちゃ面白い。

本書のおかげで宇宙を知れば知るほど、ヒトが知る世界がいかに限られているか、分かってくる。

100年の歴史を持ち、数多くの実験により裏付けられた素粒子物理学と、離乳食が終わったばかりの2歳児を比べるのはおかしいかもしれない。だが、その物理学によれば、宇宙の年齢は138億年になるという。138億年に比べると、100歳と2歳の違いに微笑ましくなる。

素粒子物理学の成果は素晴らしい。でも、素粒子物理学が全てだと言うのなら、まだカレーマルシェを知らないだけかもしれぬ。

「いま分かっている範囲で有力な仮説を元に整合的に語るならば」という前提で、最新の宇宙を楽しく知るのにうってつけの一冊。そして、これらがどのように変わるかを見ていくのも楽しみだ。

書評全文:宇宙、生命、心と進化を一気通貫に語る『時間の終わりまで』

 

 

科学は人間にとっての約束事にすぎない
『科学と仮説』ポアンカレ

10進数が一般的なのは、わたしたちの手の指が10本だからだ。

指の数が8本なら8進数だったろうし、四足歩行のままなら20進数かもしれない。〇進数の〇の中にどの数字が入ったとしても、表記が違うだけで、【数としては】同じだ。単に10が人にとって自然に見えるだけである。10進数なら真で、8進数なら偽なんてことはない。

ポアンカレは、ユークリッド幾何学で同じことを考える。

三次元に座標がマッピングされた空間で、個体として運動する生命にとって、最も使い勝手の良い幾何学が、ユークリッド幾何学の空間になる。非ユークリッド幾何学が今の人間に支配的ではないのは、単純に、ユークリッド幾何学のほうが便利だからにすぎない。

ユークリッド幾何学と、非ユークリッド幾何学の、どちらが真かを考えるのは、メートル法とヤードポンド法のどちらが正しいかを議論するようなもので、ナンセンスだという。

人間が空間を認識する上で、三次元で、一様かつ連続的であるといった性質を前提としている。その性質を本質として備えているのがユークリッド幾何学のため、人間に採用されている規約にすぎないのだ。

ただし、人間が意図的に採用したというのであれば、適切ではないだろう。人間が数学を始めるとき、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の2つがあって、どちらにするかを選べたわけではないのだから。

ヒトが存在する環境だとか、ヒトの身体や認知のデザインによって、ほとんど必然的にユークリッド幾何学になったというのが実際のところだろう。

この「人間にとっての規約」を出発点として、幾何学から力学、電磁気学にまで及ぶ幅広い分野に共通する客観性を掘り下げたのが、『科学と仮説』だ。人間がする営みであるにもかかわらず、人間が抱く主観を取り去った「客観」なるものの存在が疑わしくなる。

科学理論とは、ヒトというフィルターで濾された観察の蓄積から作り上げた、人間が把握しやすい約束事に見えてくる。科学とは、自然の真理なんてものではなく、観察結果を上手に説明できたり、再現させる上で使いやすい約束事に過ぎないのだ。

ポアンカレはこれを、偽装された定義と呼ぶ。

例えば、ニュートンの運動法則がある。世界を統べる原理のように扱われてきたが、これは物理現象を統一的に説明するための約束事にほかならない。

あるいは、「エーテル」という媒体は、光の性質を説明するために導入された後、捨てられた。宇宙の質量を説明するために導入された「ダークマター」は、それが本当にあるかどうかはどうでもよく、人が理解できる範囲の理屈に合わせるための約束事なのだ。

「力とは何か」を形而上学で語ろうとすると議論は終わらない。だからいったん、質量と加速度の積だと定義して、そのフィルターで世界を観察しなおすのだ。そこで再現性のあるもの、定義の組み合わせで矛盾なく説明できそうなものを選び取って体系化したものが、その時代の科学になる。科学がトートロジカルに見えるのは、こうしたわけなのだ。

ポアンカレを読んだ後、ブライアン・グリーンの『時間の終わりまで』を振り返ると、より公正な目で見ることができる。素粒子物理学は正しいとか間違っているとかいう話ではない。世界を見るとき、そのフィルターを使うかどうかの利便性の話なのだ。真偽ではなく定義で語る、それが科学の営みになるのかもしれぬ。

書評全文:科学は人間にとっての約束事にすぎない『科学と仮説』

 

 

量子力学の解釈を10個にまとめる
『量子力学の諸解釈』白井仁人

科学理論とは真偽はなく定義を語るものであり、その定義とは人間にとって有用かどうかで定まる。有用性は、過去の理論を含めて包括的に説明でき、可能な限りシンプルであり、機器で数値として測定でき、統計的に再現できるかどうかに左右される。

科学とは真理を探求するのではなく、便利な道具を目指す営みなのだ―――そういう割り切り(開き直り?)が如実に現れているのが、量子力学の解釈になる。

「コペンハーゲン解釈」や「多世界解釈」といった名前は耳にしたことがあるが、実際その中身がどうなっているかは、よく分からない。箱の中の猫といった、喩え話でしか理解できていない。こうした解釈を網羅的にまとめあげ、解説したのが『量子力学の諸解釈』になる。

それぞれの解釈で論文が大量にあるのだから、この一冊で全部を理解するのは難しい。

だが、どういうアプローチで理解しようとしているか、という量子力学の「分かり方」が分かる。文字通り、世界の見方を変える必要があるものから、回答から逃げているもの、量子力学そのものを書き換えるものまで、盛りだくさんだ。人間の想像力(創造力?)の限界を突破している様がよく見える。

量子力学の解釈を大別すると、2つのグループに分かれる。実在主義的な解釈と、経験主義的な解釈だ。

前者は、粒子が実際に存在し、はっきりと軌跡を描いて飛んでいくイメージを元に構成されている。一方で後者は、量子力学の範囲内に限定して説明する方針になる。つまり、量子力学で説明できない観測問題については手を出さない立場になる。

 実在主義的な解釈
  1. 軌跡解釈
  2. 確率過程解釈
  3. アンサンブル解釈(統計解釈)
  4. 交流解釈

 経験主義的な解釈
  5. 多世界解釈
  6. 無矛盾歴史アプローチ
  7. GRW理論
  8. 量子理論・様相解釈
  9.コペンハーゲン解釈
  10.量子ベイズ主義

経験主義的な解釈では、波動関数の収縮といった現象は、「説明しない」「問題としない」という考え方だ。理論というよりも、態度に近い。問題としないのであれば、パラドクスでもなんでもない。特に「コペンハーゲン解釈」は開き直りが顕著だ。

ある意味、潔いというか「科学者として」正しいことを言っている。要するに、実験で立証できないものは、哲学の範疇であって、科学者に求めるのはお門違いという態度だ。こういうセリフもある。

コペンハーゲン解釈を一言で表すなら、「黙って計算しろ!」になる

科学というものは、謎を解くためにあるのではない。現実を観測して再現するための便利なツールに過ぎないのだから、科学に「なぜ」を求めないでくれ、という主張だ。

言いたいことは分かるが、思考停止とどう違うのかが分からない。この態度は、「それでいいのだ」と聞こえる。バカボンのパパ並みに断定されると、ぐぅの音も出ない。

ただでさえ難解な量子力学という分野で、莫大な実験や論文で溢れかえり、自分の研究で手一杯で、研究費の確保に忙しい「科学者」にとって、センス・オブ・ワンダーの持ち合わせは無いのかもしれない。

「それでいいのだ」と言い切る「科学者」ばかりならば、私が生きている間にブレイクスルーは見届けられないだろう。一方で、この10個とは似ても似つかない解釈も生まれるかもしれない。さらに、その新解釈に導かれ、新たな発見もあるだろう。

そっちの方が楽しみだ。

書評全文:量子力学の解釈を10個にまとめてみた『量子力学の諸解釈』

 

 

Kindleでキートンが読める!
『MASTERキートン 完全版』浦沢直樹 

今年いちばん嬉しかったニュースがこれ。

キートンって、わたしの人生の中でも、かなり重要なマンガだったりする。読んでた時の思い出と結びつき、マンガで仕入れた知識が思わぬところでつながったり、前を向く原動力みたいな存在になっている。

クラブの部室に転がっている雑誌や、友人の部屋で単行本を見つけてつまみ読みしてきた。平賀太一(キートン)を主人公として、基本的に単話、長くても数話で完結するストーリー構成になっている。なので、最初から全てを読んでなくても楽しめる。

キートンは3つの顔を持っている。安月給で大学講師を勤めつつ、いつかはドナウ文明を発掘したいという考古学者。もう一つは保険会社の雇われ探偵屋。そして最後はオックスフォード大学を卒業し、イギリス特殊空挺部隊の凄腕の教官だったという文武両道の経歴だ。

学者肌で「社会でうまくやっていく」のが苦手なのに、いざ危険が迫ると、知恵と工夫でなんとか解決してしまう。歴史全般に造詣が深いだけでなく、手先が器用でメカにも詳しい。様々な言語を流暢に話せるマルチリンガルでもある……なのに冴えない、このアンバランスが面白い。

数年前、そんなキートンの活躍をイッキ読みしようと単行本を探したのだが、べらぼうな値段がついてて諦めた。権利関係の問題で増刷が行われなかったため、古書価格が高騰したらしい。

それがKindleで読めるようになって嬉しい。痛勤電車の行きと帰りに1話ずつ読むという、ささやかな愉しみが増えた。

粉塵爆発やウィスキーキャット、誘拐犯との交渉人、アルカイックスマイルの起源など、懐かしい話や忘れてしまっていたこと、新たな発見が宝物のように見つかる。偶然に巻き込まれた事件から巨大な陰謀を暴く話、旧友との約束を果たすためにひたすら奔走する話、長年育まれてきた愛の証を見つける話……心震わせる話では、思わず涙ぐんでしまう。

改めて読み直して感慨深いのは、わたし自身がキートンの年齢をとうに追い抜いてしまったこと。彼の父親のほうが年齢は近い。若いころは気づかなかったけれど、ヒッチコック映画のクローズアップ描写に寄せているコマや、伏線を捻じ込むのに苦労している跡が見られる。映画並みのネタを単話に練り込むときもあり、物語が濃すぎる回もある。わたしが学んできた知識でもって再読すると、懐かしさの中に新しさが沢山見つかる。

親切でお人好しで、何度も騙されても「人を信じる」ことができる。死にそうな目に遭っても、希望を捨てず、生きるために全力を尽くす。何よりも「自分を信じる」ことができる人間なんだと思う。そんな彼は、わたしにとってのヒーローであり、ロールモデルだった。

そしてこれ。一番わたしを動かしていたものだ。この言葉にどんなに勇気づけられてきたことか。

人間はどんな所でも学ぶことができる
知りたいという心さえあれば

20221112_2022_

MASTERキートン完全版 12巻2章「夢を継ぐ者」より

大学時代のキートンの恩師、ユーリ―先生の言葉だ。ロンドン大空襲の中、決して講義をやめなかったエピソードは、覚えている方も多いだろう。ユーリ―先生の訃報に接し、その言葉を思い出したシーンだ。

何度も何度も読んできたけれど、MASTERキートンは、また読みたくなる。そういう、かけがえのない存在になっている。

Kindle版キートンを読んでいて、「Reマスター」に出会えた。20年後のキートンの活躍が全1巻に収録されている。白髪交じりで文字を読むときメガネ(老眼鏡?)を手放せないキートンが新鮮だ。

 

世界史をやり直す最初の、最強の一歩
最新世界史図説タペストリー

世界史をやり直したいけれど、どの一冊から始めればよいか?

入りやすくて面白く、体系的かつ信頼できる本はどれか……と考えると、脚本家タケハルさんと、文学系Youtuberスケザネさんと3人で語り合ったこれを思い出す。

世界史を学びなおす最適な入門書や、ニュースの見方が変わってしまうような一冊、さらには、歴史を語る意味や方法といったメタ歴史まで、膨大なお薦めが出てきたのだが、「これ!」という決定版が、『最新世界史図説タペストリー』になる。

タペストリーはスケザネさんが強く推してた。スケザネさんは、文学、哲学、歴史への造詣が深く、蔵書もハンパない。そして大事なのは、積むだけじゃなくて読める男で、彼がお薦めする本は信頼できる。

さらに重要なのは、読書猿さんとスケザネさんのお二人が推していることだ。別の対談で読書猿さんに「世界史を学びなおすにあたり、まずこれ、という本を一冊だけあげるなら」と質問したのだが、やはりタペストリーだった。

歴史って、文字ばかりで無味乾燥で、取っつきにくい感じがある。けれど、これはフルカラーで、図解と写真とイラストがぎっしりと詰め込まれている。言葉でくだくだ説明されるより、百聞一見、見たほうが早い。『タペストリー』は、いわば世界史の図鑑なのだ。

しかも、毎年のように改訂され続けており、かつ安い(ここ重要)。最新のものが手に入りやすいので、知識を手軽にアップデートできる。

お二人に触発されて全読したのだが、特にわたしが気に入っているのが、「世界全図で見る世界史」の章だ。世界地図がバーンとあって、主な出来事と大きな流れを一望することができる。わずか50ページで概観できる、いわば静止衛星から見た世界史といえる。

世界史をやり直したい人は、細かい年代とか人物を覚えたいのではなく、まずは大まかに掴みたいのではなかろうか。

つまりこうだ、大きな出来事(戦争、革命、飢饉、疫病、発明など)が、周囲にどのような影響を与え、それがどう波及していったかを、まずはざっくりと知る。そこから広げたり深掘りしていって、全体像と個々のイベントを行き来する。

もし、そう考えているのなら、まずこの50ページだけを眺めるのがお薦め。そこから興味のあるトピックを拾い出し、自分で掘っていけばいい。

『タペストリー』は高校教科書のサブテキストとして編集されているが、教科書に限らず、あらゆる歴史の本を併用できる。学びなおしの中で迷ったら、これで全体を掴みなおせばいいし、画像で確認したいなら、索引から引いて自分の目で確かめればいい。そういう意味では、最初の一歩から先、ずっとお付き合いしていくことになる一冊でもある。

記事全文:面白い世界史の本を3人で2時間お薦めしあった中から厳選した12冊

 

 

新訳で劇的に面白くなった名著
『新版 歴史とは何か』E.H.カー

60年前の岩波新書版は、「教養のため」と有難がっていた。歴史とは、偉い歴史家のご高説であると信じ込んでいた。

ところが、新訳を読んで、がらりとイメージが変わった。「教養を身につける」という体裁よりも、むしろ、ユーモア満載、毒舌たっぷり、ハラを抱えて大笑いできる一流の講義になる。

論敵をあてこすり、酷評し、嘲笑する。死者を皮肉り、(歴史学も含めた)人文学を軒並み張ッ倒し、強敵は名指しで祭り上げ、しかる後にメッタ斬り。

母親の膝のうえで学んだ子どもっぽいナイーヴな学説だとか、成績が「可」ばかりの学生みたいな史観だとか、めずらしく階級的感覚の低い発言だとか、嫌味と毒舌のオンパレード。

新訳では5割ぐらい毒が増しているが、なぜか?

それは、 [笑] が追加されたから。[笑] とは、「ここ笑いどころだよ」と明らかに笑いを誘うところを示す目印だ。文末に追加されている。テキストメディアだと草生える「w」だね。

「w」だと品が無いから [笑] になったんだろうけど、これが毎ページ毎ページ出てくる。何でもない一文なんだけれど、 [笑] が追加されることで、裏の意味を考えるようになり、皮肉が見えてくる。

[笑] のおかげで黒い笑いが絶えないが、一方で「読みにくい」など難癖つけてくる輩がいる。

教養課程での必読書とされていた旧版を崇め奉っている人にとっては面白くないのだろう。amazonレビューを見ると、旧版と比較して翻訳に文句をいう人もいる。

しかし、新版を翻訳した近藤和彦氏の履歴を見てほしい [Wikipedia] 。ゴリゴリの歴史のプロフェッショナルで、かつ、クイーンズ・イングリッシュの叩き上げの経歴を持つ。東大で西洋史を専攻し、ロンドン→オックスフォード→ケンブリッジで教授をやり、専門はイギリス近代の社会史・文化史・政治史というのだから、まさに適任というほかない。

そんなプロ中のプロが、わざわざ読みにくくする [笑] を散りばめたのは、なぜか? わたしは、「おまいら、これそんな有難い本じゃないぞ」という意図を含ませたかったからだと考える。この悪ノリは面白い。崇め奉っていた自分自身も含めて、二重に笑える。

「歴史とは現在と過去との終わりのない対話である」というのであれば、本書を通じて、著者E.H.カーとわたしの対話も成立する。新訳を読んで、意地悪くもカーの論理の粗を見出した。

以下に説明する。歴史とは何かという問いに対して、カーの答えを端的に言うと「歴史とはモデルを作ること」になる。

過去の出来事を選び取り、つなぎ合わせ、合理的な解釈を導くモデルを作り上げる。モデルからは行動の指針として役立ちそうな結論を引き出す―――これが歴史家の仕事だという。出来事を一般化し、パターンをモデル化する営みは、自然科学における仮説と検証に似ていると胸を張る。

だがそれは、カー自身が攻撃した、「客観的な歴史」になるのではなかろうか? 本書の前半で、カーは歴史の普遍性・客観性を抽出する立場を攻撃している。歴史家は人間であるが故に、自身が生きる時代や価値判断から離れ、自由になることはない。歴史「法則」のようなものはありえないのだという。カーが擁護する「歴史家が作るモデル」は、カーが批判する「客観的な歴史」と相反している。

「歴史とはモデルを作ること」と「客観的な歴史はない」の間に挟まれ、第5講「進歩としての歴史」で、歴史の客観性について述べようと試みるが、たいへん苦しそうだ。

カーなりの(暫定)結論と、それに対するわたしの反論の対話は以下にまとめた。本書の付録に『歴史とは何か』の第2版の草稿も収録されているため、それも合わせると、彼が何を考えてきたかが見えてくる。

書評全文:新訳で劇的に面白くなった名著『新版 歴史とは何か』(E.H.カー)

 

 

歯を食いしばって読んだ(血の味がした)
『アニマ』ワジディ・ムアワッド

人を傷つける物語がある。たとえばこれ。

冒頭で、妻が殺されているのを見つける。くり返し刺され、血だまりの中で絶命している。

妻は暴行されていた。普通ではなく、腹部を裂いた傷口を性器代わりにしてレイプされていた。最後に刺したナイフは性器に深々と潜り込んでいた。その刃先は、二人の初めての胎児の頭に打ち込まれていた。

奇妙なのは、「妻を殺された夫」が主人公なのに、それを語るのが飼い猫であること。あくまでも猫の視点で、凄惨なシーンが描写される。夫が受けている衝撃は相当なものだろうが、いかんせん猫経由なので隔靴搔痒の思いだ。

警察が来て、夫は入院し、精神的ケアを受ける。警察は犯人捜査を始めるのだが、描写は、スズメの視点になる。夫と警察の一連のやり取りは、病院の窓に集まるスズメの物語として表現される。

猫、スズメ、犬、金魚、ウマ、キツネ、クモなど、様々な生き物たちの目を通して、「妻を殺された男が犯人を探す旅」が語られる。生き物たちには生き物たちの生活があり、事情があり、そこを通り過ぎていく男は、非日常として扱われる。

どうやら男は罪悪感を抱いており、もっと早く帰っていれば妻を救えていたはずだと後悔している。だから、自分が妻を殺したようなものだと思い込み、犯人が自分でないことを確かめるために、会おうとする。

読み手としては、男の悲しみに寄り添いたい思いや、犯人への憤り、警察は何をしているのかという歯がゆさを感じたい。だが、男の行動、会話の断片ともに、生き物たちを経由しているため、部分的にしか分からず、もどかしい。

モントリオールからカナワク、レバノンと、悲しみと痛みをひきずっていく男の足取りを追いかけていくうちに、全く違う、でも同じ話に円環していることに気づく。

たくさんの生き物たちの「語り」から離れ、この物語が真の姿を表わすとき、わたしは、ようやく血の味に気づく。ずっと長いあいだ、歯を食いしばって読んでいたのだ。

そして、「妻を殺された男の話」で終わっていたら、どんなによかったかと思う。生き物たちの、断片的で変遷する描写は、人の倫理を超えたものを語ろうとする意図だと思い知り、むしろ感謝したくなる。

なぜなら、これは直視できない地獄だから。

『アニマ』は、オデュッセイアのように帰還する物語でもあり、神曲のように地獄を巡る話でもある。だが、決して目的地へ辿り着くことはできない物語に化ける。このとき、本は凶器になり、爆発物となる。

物語によって傷つけられることは可能だ。これがその証拠になる。読みながら吐くような経験は、おそらく、ジョー・サッコ『パレスチナ』以来だろう。

ふくろうさんの[【2021年まとめ】海外文学の新刊を読みまくったので、一言感想を書いた]にあったコメント「2021年で、最もえぐられた小説」が気になって手にした。ふくろうさん、ありがとうございます、わたしにとって「2022年で、最もえぐられた小説」になりました。

書評全文:歯を食いしばって読んだので血の味がする小説『アニマ』(この記事には残虐描写があります)

 

 

論理戦に勝つ技術
『レトリックと詭弁』香西秀信

世の中には、詐欺みたいな「質問」がある。

表向きは質問形式だが、論点すり替え、二者択一、沈黙を強いる問いだったりしたことはないだろうか。こちらに非がないにも関わらず、罠にハマって「ぐぬぬ」となったことはないだろうか。

古今東西の様々な文献から、そうしたテクニックを紹介する。漱石『坊ちゃん』の赤シャツのテクニック、村上春樹の啖呵、兼好法師の嘘、ナポレオンの恫喝など、読んで面白く、騙すのに使える詭弁術である。

もちろん悪用は厳禁だ。上手に使えば議論を誘導し、思った所に着地させることができる。誠実でも正当でもないが、できてしまう。

だが、できるからといって、やっていいことにはならない。

本書は、いわゆる詐欺の技術のようなものだ。どんな風にカモを引っ掛け、どのようにカネを騙し取るかのノウハウである。もちろん詐欺はしないけれど、あらかじめ詐欺師の手口を知っておけば、カモになるのを避けることができる。

同様に、あらかじめ質問の欺術を知っておくことで、騙されるのを予防できる。たとえ罠にハマっても、「私が悪いのかも」とマイナスループに陥らず、心を守ることができる(著者は「護心術」と呼んでいる)。

「質問をする」というのは非常に強力だ。なぜなら、質問をするとは、答えを求めることだからだ。

「なにを当たり前な……」と思った方は、ちょっと胸に手を当ててみて欲しい。次々と投げかけられる質問に答えているうちに、答えに窮したり、自分が責められていると感じたことはないだろうか。

思い出したくもないだろうが、それはYes/Noで答えを迫るクローズドな質問か、あるいは二者択一のような形式だったのではないだろうか。例えば、ミスをしたあなたに対し、上司が𠮟責する常套句がこれ。

  • おまえは会社に損害を与えたいのか!?
  • 自分で弁償するか、辞めるかだ、どっちだ?

前者の質問には、当然「与えたくないです」と答えるだろう。すると上司は、「じゃぁなんだってこんなミスをしたんだ?」と詰め寄る。後者の二択には、答えようがないだろう。

欺術を操る連中は、何かを知りたくて「質問」なんてしない。答えなんて分かりきっている。

しかし、「質問をする」ということは、「相手に答えさせる」という位置に立つことになる。自分が進めたい方向に焦点を絞り、自分に不利なことから目を背けさせることができる。あるいは、自分の主張を選択肢に紛れ込ませることができる。

つまり、「質問をする」ことは、表面上は何かを知りたい体裁を保ちつつ、話の主導権を握ることができるのだ。

いったん握られた主導権を、どうやって取り返すか?

本書では、「答える」(answer)ではなく「言い返す」(retort)方法を薦めている。Yes/Noで答えを迫る質問に対し、その問いそのものの妥当性を問題としたり、「Yes/Noを問う行為そのもの」の是非に焦点を当てるやり方だ。

  • 「損害を与えたい」なんて動機は一切ありません。今は動機ではなく、私の責任のお話をされたいのではないでしょうか?
  • 弁償かクビかの二つだけでなく、私の職務に応じて、責任の取り方はあると思いますが、間違っているでしょうか?

ミスを責めて激詰めしたい上司の思うツボには入らない。あくまで、ミスの影響と、それに伴う自分の責任について焦点を当てるように返す。火に油かもしれないが、理不尽な理由を呑まされるよりマシだろう。

他にも、立証責任を買い取らせ方、「多間の虚偽」のかわし方など、「ああ言えばこう言う」テクニックが学べる。

くれぐれも、悪用しないように。
くれぐれも、悪用しないように。

書評全文:悪用厳禁:論理戦に勝つ技術『レトリックと詭弁』

 

 

再読するほど夢中になる
『黄金虫変奏曲』リチャード・パワーズ

毎夜、取り憑かれたかのようにのめり込む。

800ページ超の鈍器本なので、持ち歩くには向いてない。アメリカ文学の鬼才リチャード・パワーズの長編小説なので、面白さは折り紙付き。

2組のラブストーリーを軸に、進化生物学、音楽、文学、歴史、芸術論、情報科学が丹念に織り込まれており、知的好奇心と物語の引力に惹かれながら、読んでも読んでも終わらない幸せが何夜も続いた。

充実した十八夜を過ごし、惜しみ惜しみ最後のページに至った時、「これ、最初のページに繋がっている!」ことに気づく。ダ・カーポ(始めに戻る)やね。そして、もう一度はじめから読み返す。

主人公は2人いる。一人はオデイ、ニューヨーク公共図書館に勤めている。利用者が寄せる様々な種類の質問に答える司書だ。1980年代のお話。

もう一人の主人公はレスラー、新進気鋭の生物学者だ。時代は少しさかのぼり、1950年代、ちょうどワトソン&クリックの核酸の分子構造モデルが発表された頃のお話だ。

1980年代の恋と、1950年代の恋。季節は夏から始まり、秋、冬、そして次の夏へと移ろうにつれ、2つのエピソードが交互に進んでゆく。オデイの恋と、レスラーの恋が、場所も時代も違うのに、並行して絡み合うように描かれてゆく。

思わせぶりな章構成と、タイトルそのもののダブルミーニングの予感は、読み進めるに従い、次第に明らかになってゆく。

この物語は、様々な読み方ができる。バッハのゴルトベルク変奏曲とのアナロジー(類推)で読み解くやり方と、エドガー・アラン・ポーの短篇『黄金虫』と重ね合わせながら解いていく方法、そしてワトソン&クリックの遺伝子工学におけるDNAの塩基構造を探しながら読むやり方だ。

ふくろうさん主催の読書会のおかげで、本書をより深く広く知ることができた。参加された方の様々な意見を伺い、自分がいかに読めていなかったことに気づけた。ふくろうさん、参加された皆さん、ありがとうございました!

これはネタバレ抜きで語るのは難しい。核心部分は避けつつ、ある程度ストーリーに踏み込んだ形でこの物語の豊潤さを解説した。読んでいる方の道標にしてもらってもいいし、読了した方のお楽しみとして扱ってもらってもいい。

よい本で、よい夜を!

書評全文:再読すれば再読するほど夢中になるリチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』

 

 

ストーリーテリング虎の巻
『面白い物語の法則』ボグラー&マッケナ

面白い物語には法則がある。

剣と魔法の冒険譚であれ、銀河帝国の逆襲であれ、身分違いの恋物語であれ、面白いとされる物語に共通する法則だ。

そんな魔法みたいなものがあるのか? もし面白さを形式化できるなら、AIに学ばせることだってできるだろう。眉唾しつつ読んだら腑に落ちた。確かに、面白い物語には法則がある。

『面白い物語の法則』は、ハリウッドの第一線の脚本家による、実践的な指南書だ。『美女と野獣』『ライオンキング』の一流のストーリーテラーが使っている手法が惜しげもなく解説されている。

物語やシナリオ、ネームを書く人のみならず、出来上がった映画やドラマ、小説作品を味わう人にとっても役に立つ。なぜなら、「その作品がなぜ面白いのか」を言語化することで、作品をより深く味わい尽くすことができるから。

最も私に刺さったのは、テーマの扱い方だ。

テーマを決める、なんて当たり前のことに見えるが、本書はもっと徹底的だ。自分が書こうとしている物語について、3ページのシノプシス(あらすじ)、短い文のログライン、最終的には、人間の衝動や性質を言い表す一つの言葉にまで突き詰めよという。

たとえばマクベス。「大勢の人を殺して王になろうとしたスコットランドの領主のお話」なんて説明ではない。物語の感情を、たった一言で定義するなら何になるか。本書では、「野心」すなわち支配への衝動だと説明する。

『マクベス 』で「野心」は三回出てくる。まず、マクベス夫人が焚きつける「野心はあるが毒気がない」、そしてマクベス自身の「野心はないが野望はある」、最後は「おのれの命を食いつぶす愚かを極めた野心」の三回だ。

野心は避けがたい破滅を招くのだが、マクベス自身にはそう見えない。見えたときには手遅れになる。「無情になるための野心」ではなく「慈悲に抑制された野心」だって選べたはずだ。だがマクベスは、最後の人間性も切り離し、破滅への道をひた走ることになる。

では、なぜテーマが最重要なのか。

テーマは、物語を統一し、首尾一貫した感覚を与える要素だという。言い換えるなら、テーマさえはっきりしていれば、どんな雰囲気や感情を生み出せばいいのかが分かる。セットの基調色が何になるか、どんな音楽を使うかも考えやすくなる。

テーマに合わない部分はバッサリ斬ったり改変する必要も出てくるし、物語が複雑化したとき、テーマを頼りに本線に戻すこともできる。

自分が扱う作品のテーマは何か、徹底的に突き詰める。そして考え抜いたテーマを、様々な試練にさらすのが、物語作家の役割になる。

しかしテーマというもの、腕組みして考えると浮かんでくるものでもないし、口開けていると、空から降ってくるわけでもない。どうすれば突き詰めることができるのか? 

本書では、単純だが厳しいトレーニングが課されている。

100日で100本の脚本を読めという。そして、読み終えるごとに、シノプシス3ページ、ログラインを一文、そしてテーマを書くトレーニングだ。実際、やろうとすると、細部は大幅に割愛され、中心となるキャラクター、主眼となる対立とアクションなど、物語の根幹を見つけ出す作業になる。

ほとんどのテーマは、第一幕の早い段階で、示される場合が多い。登場人物が声高に口にする願いや主張に隠されており、それを受け容れるか否かはともかく、物語全体に反響し続ける。

テーマが響く箇所が物語の根幹であり、それを手繰っていくとシノプシスが出来上がる。そして、シノプシスを削いでゆけば、ログラインになる。著者はシェイクスピアを全て読んで実践したというが、四大悲劇だけでもやってみたい。

他にも、魅力的なキャラクターを作り上げる方程式(キャラクター=求めるもの+動き+障害+選択)や、日常→冒険→試練→獲得→日常となるヒーローズジャーニー、直感的に理解できる物語の構造を体系的にまとめた物語のカタログなど、まさに面白い物語のバイブルだといえる。

より面白い物語を作りたい人だけでなく、より面白く物語を楽しみたい人にもお薦め。

書評全文:物語を書く人・楽しむ人のバイブル『面白い物語の法則』

 

 

この本がスゴい!2022 ベストフィクション
『七王国の玉座 氷と炎の歌シリーズ』ジョージ・R・R・マーティン

今年のスゴ本のNo.1フィクションはこれであり、ファンタジーの最高傑作がこれである。『氷と炎の歌』という長い長いシリーズなのだけど、なかでも最もインパクトがあったのが「七王国の玉座」である。

『氷と炎の歌』の邦訳版の全シリーズを読破し、これを原作としたドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』全シーズン視聴した。

物語の濁流に飲み込まれ、情緒がもみくちゃにされる。非常に中毒性が高く、「これからどうなるの?」と続きに苛まれ、読んでも読んでも、観ても観ても終わらない悪夢のような幸せな夜を過ごし、リモートワークで浮いた時間を全額費やし、削れる睡眠時間とありったけの可処分時間を投入する稀有な体験だった。

「七王国の玉座」は、『氷と炎の歌』の序章ともいえる巻で、覇権をめぐる権謀術数が渦巻くエピソードで構成されている。この世界全体の紹介と、人と歴史のつながりを手際よく紹介してくれている。

予備知識ゼロで読み始め、重厚な歴史小説みたいだな……と読み進めていくと、座っているその場所からきっかり10cm飛び上がった。物語に放り出され、ありえないと思ってページを戻り、目をこすり、もう一度読んだ。何度読んでも同じことが書いてある。「まじかよ」と100回くらい呟いた。気が付くと、このお話そのものに虜になっていることが分かった。

ドラマを観た人であれば、この書影の「七王国の玉座」下巻の最後が、『ゲーム・オブ・スローンズ』エピソード1のラストだと言えば、伝わるだろうか。

未読未見の方に向けて、以下のリンク先に熱く語ったのをまとめた。史上最高のファンタジーの一端が伝われば嬉しい。

この作者は、物語を面白くするのであれば、何だってする、そういう人なんだと思う。

書評全文:ファンタジーの最高傑作『氷と炎の歌』

 

 

この本がスゴい!2022 ベストノンフィクション
『世界史の考え方』小川幸司、成田龍一

MASTERキートンの中で、「なぜ歴史を学ぶのか」への応答がある。キートンの恩師・ユーリ―先生の講義のエピソードだ。先生はこう述べる。

なぜ人間は憎み合い
殺し合うのでしょうか?
それは、人間そのものの中にある
性(さが)によるものです

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そして先生は続ける。

戦争を避けるために
私たちはよりよく人間を知らなければならない
考古学によって過去の人間を知る必要があるのです

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MASTERキートン完全版 12巻2章「夢を継ぐ者」より

この「考古学」を「世界史」に置き換えると、世界史をやり直す理由になる。おそらく、戦争の火種は無くならないだろう。しかし、人をよりよく理解することにより、火種を小さくする方向を選ぶことは可能かもしれない。

いち市民のわたしができることは、世界に関心を持ち、学び続け、選択することだ。「知りたいという心さえあれば、どんな所でも学ぶことができる」のだから。

では、何を学べばよいか?

覚えることが沢山あるからといって高校では選択せず、倫理・政経に逃げてた。一冊で知りたいからといって単純化した構造の「ビッグ・ヒストリー」をつまみ読みして、分かった気になっていた。そんなわたしが、何を縁とすればよいのか?

ここで頼りになるのは読書猿さんだ。独学の達人である読書猿さんは、問えば質量ともに凄まじいお薦めをしてくれる。世界史をめぐる読書猿さんとの対談を以下にまとめた。読みたい本が積み上がることを請け合う(わたし自身が証拠だ)。

なかでも今年は『世界史の考え方』を推す。

なぜなら、わたし自身の認識の変化を炙り出してくれるから。世界史とは、変わらないもの、確定したものという印象をもっていた。そして、目まぐるしく変わっていくのが現代だと考えていた。

だが、変わらない過去に対する見方が変わる。以前は、当たり前に感じていたものに、違和感を覚える。これは、わたしの過去に対する認識が変化したからだ。この認識の変化に自覚的になるために、世界史をアップデートする。

『世界史の考え方』は、この認識の変化を歴史の本を使って実践する。

まず、歴史学の古典を挙げ、かつては常識とされていた考え方を紹介する。次に、その主張に疑義を呈し、ひっくり返すような書籍をぶつける。歴史に対する認識の変化を、歴史の本で炙り出す、いわば「歴史の歴史」を語っている。

その中で、前提として常識だと思い込んでいたことが、相対化され、乗り越えられてゆく。古い思考に囚われていたことに気づかされ、文字通り、蒙が開かれる思いである。

例えば、植民地主義の「罪」を問う動き。

第二次世界大戦後の世界秩序は、植民地主義の責任追及を回避することで成り立ってきた。そこへ援用されたのが、「人道に対する罪」になる。植民地における先住民の排除や、そこで行われてきた戦争を問う罪になる。

この「人道に対する罪」は、元はと言えば、ニュルンベルク裁判の際に、従来の戦争犯罪では捉えきれないナチスの犯罪を裁くために導入された概念である。罪刑法定主義という法の常識を超えて、事後的に作り出された、新しい「罪」の概念となる。

「ジェノサイド」の概念も同様だ。特定の集団の抹殺を目指した組織的な行動で、ナチスによるユダヤ人迫害を性格づけるために作り出された。

現代では、「人道に対する罪」も「ジェノサイド」も、当たり前の概念として扱っている。だが、これらは後から発明された「罪」であり、歴史をさかのぼってその罪を問い、償わせるために行使されてきた。

であるならば、その「罪」は、植民地における破壊行為にも適用できるのではないか、という考えも出てくる。もともとそこに住んでいた人々を排除し、収奪し、抹殺してきたことは、ジェノサイドであり、人道に対する罪ではないか、という考え方だ。

つまり、直接的な虐殺や物理的破壊だけではなく、土地の収奪は経済的ジェノサイドであり、先住民を隔離したり同化することは文化的ジェノサイドになる。程度の差こそあれ、「近代化」する上で必然の産物であることが炙り出されてくる。

そうしたことへの責任を問い、償いを求める動きが、アフリカや南北アメリカやアフリカ系の中から沸き上がっている。過去そのものではなく、過去に対する認識が変化した例と言えるだろう。

他にも、欧米中心主義から生まれた「先進国」「発展途上」という言葉や、中国における「自由」の概念が欧米と違う理由、あるいは、パレスチナ紛争を「戦争」ではなく「テロ」扱いすることで歴史教育から見えなくさせている状況など、歴史認識を新たにしてくれるテーマが盛りだくさんある。

各章末の参考文献の密度&量が濃く、自身の問題認識からテーマを選び、そこから文献を手繰っていくという読み方ができる。歴史の入口は、あくまで現代の問題なのだ。岩波新書なので手に入りやすく、読みやすく、歴史をやり直したい人にとって最適な一冊と言える。

このまとめ記事を書いている間に、著者の小川幸司さんが [ブログで応答] されていたことに気づいて驚く。読書猿さんとわたしを、「きらめくようなお二人」と誉めてくださってて面はゆいことこの上ない(どちらもバリバリのおっさんだけど、ぜひお会いしたいですね!)。

書評全文:歴史認識をアップデートする『世界史の考え方』

 

 

スゴ本2023

「いつか読もう」はいつまでも読まない。

「あとで読む」は後で読まない。

「こんどの年末年始に読もう」と取っておいたベストセラーは、結局読まなかった。「次の連休にこそ崩す積山」に手を付けた試しがない。読まないことに後ろめたさを感じることもなくなった。読んだフリも、ナナメ読みも、恥ずかしげもなくできるくらい厚顔になった。

別に読まなくても積めばいい、「あとで読む」を言い訳にすればいい、そう生きてきてきた。

だが、おっさんになり、死を思うにつれ、自分の残り時間を自覚するようになった。この残り時間は、”寿命”ではないことに注意してほしい。じっくり味読する喜びに浸れるのは、「読む」という行為ができる時間だ。

まず、真っ先に目がかすむだろう。次に集中して文章を追うことができなくなり、肉体的に本が読めなくなる。そして最後に、あれほど読みたかった作品への興味を失うことになる。そうなったら、「これ読みたかったな」という後悔の山に囲まれ、ただ生きているという状態を続けていくことになる。

人生100年時代というが、眉唾だ。新手のビジネスレトリックだと捉えている。100年どころか、平均寿命のかなり手前で、いまの知性が衰えるだろう。わたしが心配しているのは、知力が落ちることではない(それは必然だ)。そうではなく、「いま」読もうとしなかった本に囲まれて、「いま」の自分を恨むような余生を送りたくないのだ。

わたしは見てきた。「老後の楽しみに」と取っておいた山岡荘八『徳川家康』フルセットを読まなかった人。「リタイアしたら『ドン・キホーテ』の原書に挑戦する」といって翻訳にすら手を付けなかった人。いつか読もう、いずれ読もうといってるうちに、読書そのものができなくなる。

だから足掻く。

もちろん、読みたい本を全て読むなんて無理なことは分かっているし、この足掻きで積山の一角しか崩せないことも承知だ。それでも粘る。

例えば、体力勝負のピンチョン『重力の虹』は、読書会のような締め切りを設けてグループで攻略していかないと自分の身がもたないだろう。専門性が高い『岩波講座 世界歴史』は、自分の興味があるテーマ(③ローマ帝国、⑩モンゴル帝国、⑳㉑二つの大戦と帝国主義)の「展望」に絞ればいい(摘まみ読みができるのは図書館のおかげだ)。ぶつ切り時間でサクサク読めるポトツキ『サラゴサ手稿』は楽しみに取っておきたいけれど、読めなくなったら悲しいのでいま読む。

マンガは3つの方針で攻略する。痛勤時間にスマホで読むか、マンガ喫茶でまとめて読むか、28インチディスプレイで読むかだ。『九条の大罪』はまとめて読みたいし、『BLUE GIANT』は迫力満点で読みたい。『その着せ替え人形は恋をする』の2期を待つべきか読んでおくべきか迷うし、最初だけ読んでた『ヨコハマ買い出し紀行』のラストを知りたい(マンガ喫茶に行くときは計画を立てないと)。

「面白いとは何か、面白いと感じる時、何が起きているのか」というテーマの読書は壁にぶつかっている。どいつもこいつもアリストテレス詩学の焼き直しで、何を読んでも「ミメーシス=本能」に突き当たる。いったん文学から離れて、進化心理学のアプローチで、R.A.マーディン『ユーモア心理学ハンドブック』やシェフェール『なぜフィクションか?』、ジェシー・プリンツ『はらわたが煮えくりかえる』から攻略してみる。長谷川眞理子『進化と人間行動 第2版』にもヒントがありそうだ。

読書を日常に組み込むラーニングログは続けていくつもりだ。好みのままに読む方法だと、「読みたいけれど手が出にくい本」は読まない(断言)。そんな本は、ページ単位に読書記録を付け、日課にしてしまうのだ。今は英語のボキャブラリー強化高校世界史の攻略をしているが、2023年の間に完了する見込みだ。『基本文法から学ぶ英語リーディング教本』が良さそうだという話を聞くので、次はこれかな。

「あとで読む」をいま読むために、足掻き続ける。人生の持ち時間は、”寿命” ではない。そして、残り時間は予想よりかなり少ないことを、忘れないように。

わたしを震わせ、揺るがせ、行動を変えていくようなスゴ本は、これからもブログや twitter で発信していく。

もしあなたが、「それが良いならコレなんてどう?」というお薦めがあれば、ぜひ教えて欲しい。それはきっと、わたしのアンテナでは届かない、震わせ、揺るがせ、行動を変えていくようなスゴ本に違いない。

なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

 

 

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ファンタジーの最高傑作『氷と炎の歌』

ファンタジーの最高傑作がこれ。

いろいろ読んできたが、これほどの傑作はない(断言)。

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夢中にさせて寝かせてくれず、ドキドキハラハラ手に汗握らせ、呼吸を忘れるほど爆笑させ、ページを繰るのが怖いほど緊張感MAXにさせ、食いしばった歯から血の味がするぐらい怒りを煽り、思い出すたびに胸が詰まり涙を流させ、叫びながらガッツポーズのために立ち上がるほどスカッとさせ、驚きのあまり手から本が転げ落ちるような傑作がこれだ。

この世でいちばん面白い小説は『モンテ・クリスト伯』で確定だが、この世でいちばん面白いファンタジーは『氷と炎の歌』になる。

書いた人は、ジョージ・R・R・マーティン。稀代のSF作家であり、売れっ子のテレビプロデューサー&脚本家であり、名作アンソロジーを編む優れた編集者でもある。

短篇・長編ともに、恐ろしくリーダビリティが高く、主な文学賞だけでも、世界幻想文学大賞(1989)、ヒューゴー賞(1975、1980)、ネビュラ賞(1980、1986)、ローカス賞(1976、1978、1980、1981、1982、1984、1997、1999、2001)など多数受賞している。

以前、ジョージ・R・R・マーティンの短篇集『洋梨形の男』を読んで、のけぞったことがある

ブラックなプロット、奇想天外なアイデア、おぞましくグロテスクなオチ……読み始めたらやめられなくなる傑作ばかりだった。ヒューゴ賞、ネビュラ賞、ブラム・ストーカー賞を総ナメした逸品なので、まずここから手を付けるのもいいかも。

ゲームが好きなら、『ELDEN RING』のストーリー原作者と言えば伝わるだろうか。

フロム・ソフトウェアが開発し、2022年2月に発売され、全世界で1,600万本を売り上げた寝かせてくれないゲームだ(わたしはトレーラーで見た ”story written by George R. R. Martin”の一言で撃ち抜かれ、これはPlaystation5でやると堅く誓い、今だに実現できていない)。

ひとたびハマったら、絶対に寝かされてくれない、そんなページをめくらせる魔術師が、全身全霊をかけてファンタジーを書いたならどうなるか? わざわざ言うまでもない。

いま「ファンタジー」と言ったが、括るのが難しい。小説の面白いところ、美味しいところが全部入っていて、ジャンルを跨るどころか飲み込んでおり、まとめきれない。

これはファンタジーの皮を被った波乱万丈の冒険小説であり、イギリスの薔薇戦争をモチーフにした重厚な歴史小説であり、甘酸っぱい青春&恋愛小説である。架空の世界の紀行文学であり、権謀術数うずまく陰謀譚に満ち溢れ、力と力が激突する戦争小説であり、犯人探しに奔走し、身の潔白を証明する推理小説&法廷小説であり、怪奇と幻想のホラーすぎる展開と総天然色スペクタクルなシーンもある。ラーメンのトッピングで言うなら「全部入り」というやつ。

ぱっと見、いわゆる群像劇の体裁で、各章ごとに視点となる人物が固定されている。その人物の目を通じ、そのキャラの主観を交えながら三人称で語られている。視点となるキャラは20人ぐらい。

それぞれの価値観や行動原理に従って動こうとするのだが、そうは運命が卸さない。戦乱の波に巻き込まれる者、最愛の存在を奪われ屈辱にまみれる者、破格の出世をして頂点を昇りつめる者、身寄りを失い故郷を追われ放浪の旅をする者、さまざまだ。レールの無いジェットコースター並みに波乱に満ちているため、視点キャラだけに絞っても十分面白い物語になる(実際、視点キャラだけで成り立ったスピンオフ作品も存在する)。

読者は、キャラが切り替わるごとに、様々な場所から少しずつこの世界が分かるようになる。それだけでなく、そのキャラがまだ知らないこと、これから知る恐ろしい行く末をも見るようになる。

 

100を超える主要登場人物

先ほど、「視点となるキャラは20人」と述べたが、これは主要登場人物ではない。主要登場人物は、これに関係する敵、味方、パートナー、仇、親族、指導者、部下、支援者など80人ほど足して、100人を越える。ちなみに、主要でないサブキャラも含めると500人を超える。私の知る限り、トルストイ『戦争と平和』に匹敵する。

多すぎる? 登場人物一覧は、ちょっと引くくらいのページ数だけど、心配するなかれ、100人が100人とも、生々しく個性的で、一度見たら忘れられないように描かれている。残忍なやつはとことん残酷で、暴君は暴君を貫き、馬鹿は死んでも馬鹿である。どのキャラもいわゆる善玉悪玉の枠にハマれない、現実世界を生きる人間のような複雑さを持っている。

ただ、ごく少数だが、変化する人もいる。

最初はか弱い存在だったのに、運命に翻弄される度に強靭にしたたかになってゆく娘や、絶望のあまり外道に堕ちる王、愛する人のために愚かとしかいいようのない選択をしてしまう母、全てを失って、あらゆるものを手に入れる男……これは成長物語であり、ビルドゥングスロマンでもある。

それぞれのキャラが属する王家から見ると、より把握しやすくなるかもしれぬ。主な舞台である「ウェスタロス」と呼ばれる大陸には、七つの国家が乱立し、それぞれの王家や傍系が治めている。これはある時点での統治状態である。

  1. ターガリエン家  直轄領・全土
  2. スターク家  北の王国
  3. グレイジョイ家  鉄(くろがね)諸島の王国
  4. アリン家  山と谷の王国
  5. ラニスター家  岩の王国
  6. バラシオン家  嵐の王国
  7. タイレル家  河間平野(かわま)の王国
  8. マーテル家  ドーン領

特定のキャラクターではなく、それを取り巻く王家に肩入れするという読み方も面白い。これは、王家と王家の争いの物語でもあるからだ。隣接する王国同士では領土争いがあるし、離れた王国と手を組んで共闘するという場面もある。

さらに一つの王国は一枚岩ではない。利害関係が相反する様々な一族がひしめいており、王家の方向と異にする場合も出てくる。外敵が肉薄し、王国に危機が迫るとき、一致団結する国もいれば、裏切って敵に門戸を開く一族もいる(そして各々そうするしかない理由も描かれる)。一族の利益を追うか、王国のために戦うか、あるいは人類のために命を賭すか、登場人物たちは、選択を迫られる。

気をつけなければならないのは、感情移入し過ぎないこと

性格に惚れたり健気さに絆されたり、理由は色々あるが、多かれ少なかれ、自分をキャラに重ねることがある。特定のキャラを「推し」たり、その行く末を案じたりする。きっとお気に入りの視点キャラを何人も見出すことになるだろう。ここで、やり過ぎに注意すべし。

なぜなら、魂を踏みにじられ、心を折られることがあるからだ。ストーリーテラーは、キャラのことを、これっぽっちも大事に思っていないから。運命が求めるならば、どんなに重要な人物であっても、平気で地獄に突き落とす。特定のキャラに移入しすぎると、一緒に地獄を見ることになる。

わたしは、スターク家のあるキャラに自分を重ねていた。誠実な人間性に惚れ込み、どんなに困難で挫けそうでも、信じることで必ず最後に勝つ、と見守っていた。ところが、とあるシーンで、その激烈さのあまり飛び上がることになった(文字通り、座ってたその場所から 10cm 飛び上がった)。

そのシーンが、そのキャラクターではなく、別の視点キャラの目線で描写されていたのが不幸中の幸いである。シンクロしすぎていたならば、もっとヤバいことになっていたと思う。

 

ウェスタロスという広大な世界

人物だけでなく、主な舞台となるウェスタロスも魅力的だ。

馬による旅や伝書鴉の移動日数より推測したところ、だいたい南アメリカ大陸程度の大きさになる。南北に細長く、北は氷と雪の極寒の地から、南は岩と酷暑と砂漠まで多様である。

ウェスタロスを支配する様々な気候は、そこに生きる人々の気質や感情を傾向づけるだけでなく、ひいては人生を左右する決定にまで影響する。

読み進めていくと、「なぜあんなことをしてしまったのか(しなかったのか)?」という疑問を抱くことが何度もあるに違いない。その理由が、キャラ自身の口から語られることもあるかもしれない。だが、伏せられた場合は、彼/彼女がどこの地方の出身であるかを想像してみると、予想がつくように書かれている。

広大だが厳しい寒さの北部では、限られた資源を分かち合って生きている。性格こそ粗野ではあるものの、仲間への信頼に篤く、互い助け合っていこうとする。領主は民を守り、民は王を支えようとする。ノルウェーやスウェーデンといった北欧を意識しているように見える。

海流の中の島々で暮らし、湿気と風雨に悩まされる鉄(くろがね)諸島では、我が身ひとつが頼りであり、肉体的な強さこそ全てだと信じる人が多い。残忍で「力こそパワー」という脳筋気質はヴァイキングをモデルとし、風を頼りとした高速船を操る。

流れが速く深い河に唯一かかった橋を有する一族がいる。地政学的にも戦略的にも重要な橋で、そこから得られる莫大な通行料を独占し、裕福な暮らしをしている。風評や時勢に耳ざとく、猜疑心が強く、他を出し抜こうと虎視眈々とする。ユダヤ人をモデルとしているように見える。

岩だらけの砂漠に囲まれ、オアシス地域で生きる人々は、気候と同じく熱血漢が多い。貴重な水は金と同じ価値を持ち、支配は絶対的である。ラテンアメリカ系のモデルなのか、陽気な美男美女のキャラばかりだ。

そして、巨大な壁のことを忘れてはいけない。

北の最果てに位置する、高さ200m、幅500kmにおよぶ、硬い氷で覆われた壁だ。8000年前、魔法と人力の両方を使って建てられたという。壁の向こうには、ホワイト・ウォーカーという異形の存在がいるとされるが、神話とされている。壁は、ナイツ・ウォッチ呼ばれる者たちによって守られ、監視されている。

他にも、天然の要塞である切り立った山脈に守られた王国や、他大陸との貿易で栄える巨大な港、毒沼に隠れながら棲む部族、しがらみから逃げ出して肩を寄せ合って暮らす人たち……数え上げればきりがないが、土地と人と歴史が、緊密に結びついていることが伺える。

小説の凄いところは、ウェスタロスの広さを、情報の遅延で伝えるところだ。

ある重大な事件が起きたとき、その伝達方法は、伝書鴉、早馬、人の噂など様々だ。リアルタイムで出来事に追随できる読者と異なり、視点キャラに情報が伝わるまでに時間がかかる。

そのため、「この情報を『今』この人が知っていたなら!」ともどかしい思いを何度もするだろう。情報の空白でもって空間の広大さを感じることができる。直接的な描写のみならず、読み手に与える影響も計算して、架空の世界が描かれている。

出来事の進行だけでなく、それぞれの位置関係が非常に重要になってくる。

読者は一行ずつしか読めないが、出来事は一度に起きたり、ずっと後になって視点キャラに伝達される形で明らかになったりする。

著者による覚書によると、物語を厳密に逐次的に語ることは不可能だという。

たがいに何百キロも何千キロも離れた場所にいる登場人物の目を通して語られており、ある章はわずか一時間のことを扱っていたり、別の章は二週間、一ヵ月、半年に渡るものもある。重要な出来事が五千キロも離れた場所で同時に起こることだってあり得るからだ。

そのため読者は、その章が誰の視点で語られているかだけでなく、それがどこで起きており、その近くに誰がおり、何があったかも含めて読み進める必要がある。

でも心配するなかれ、位置関係も考慮しながら章編成、文章構成を考えてくれている。ヒトの目を離れイーグル・アイで地勢を眺めたり、さらに上昇してランドサット衛星の目線で、手に取るように指し示してくれる。おかげで読者は、視点キャラに危険が迫っており、遠からず恐ろしい目に遭うことを、かなり前からドキドキすることができる。

最初に出てくる、ウェスタロスの大陸マップは、何度も見返すことになるだろう。そして、そのあまりの広さにもどかしい思いを何度もするだろう。

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絵にもかけない面白さ

そして、嬉しいことに(恐ろしいことに?)どんなに読んでも果てがない。

一冊一冊のボリュームが凄まじく、700ページ、800ページを平気で超えてくる。徹夜覚悟で臨んでも、読んでも読んでも終わらない。朦朧としながらも明瞭なアタマで読みたいのに……と意味不明なことを呟きつつ寝落ちする。そんな夜(明け方?)が何夜あっただろうか。

生(き)のまま取り組んでもいいが、超ざっくりとストーリーラインを述べる。

『氷と炎』は、大きく3つに分かれている。

一つは、ウェスタロスの玉座を巡る覇権争いだ。

七王国が互いに喰い合い、手を結び&裏切りあう、血で血を洗う内戦である。15世紀イギリスの薔薇戦争をモチーフにしているが、けっしてなぞってはいない。その理由については、作者自身、インタビューでこう答えている。

ただ、歴史の場合、なにを読んでも事前に結末がわかってしまう難点がある。薔薇戦争を題材にすれば、ものすごくおもしろい小説が書けるかもしれない。

だが、「この幼いふたりのお姫様は塔を脱出できるのか」というささやかなサスペンスは成立しない。「脱出できなかった」という史実がもうわかってしまっているから。

『七王国の玉座』を書こうと思い至った動機の一つは、だれも史実を知らない架空世界を舞台にして「歴史小説」を書いてやろうというものだったんだよ。といっても、ファンタジーの要素もしっかり入れてあるから、両者が融合したものと思えばいいんじゃないかな

(第4部 乱鴉の饗宴 下巻 訳者あとがきより)

面白さが約束されている史実を元に、先が読めない展開をぶっ込み、結末の分からない歴史を書いたのがこれだ。繰り返すが、ジョージ・R・R・マーティンは、物語を面白くさせるのであれば、なんだってする。それがたとえ、読者を裏切るようなことだとしてもだ。

二つ目は、かつてウェスタロスを治めていた王の子たちの流浪物語だ。

先ほど述べた「七つの王国」の王家のリストに、8つの名前が挙げられていたことに気づいていただろうか。実は、リストの最初にある「ターガリエン」こそが最初の王となる。

『氷と炎』の始まる300年ほど前に遡る。海の向こうからやってきた強大な一族・ターガリエン家がウェスタロスを統一し、覇道をもって支配した(この辺のエピソードは別の『炎と血』として刊行されている)。

しかし、あまりにも暴虐な国王に対する反乱が各地で勃発し、諸家は連合してターガリエン家を追放する。これが15年前。王である父を殺された2人の子どもが海を渡り、隣のエッソス大陸に落ちのびる。

財産もなく、自らの軍ももたない兄と妹が、追手をかいくぐり、どのように生き延び、巻き返していくか。そして、ウェスタロスの正統な王の証をどうやって立てていくか。

これは、極上の貴種流離譚である。淫猥で、残酷で、魔術と陰謀と奇跡に満ちた物語は、かつて全読した『千夜一夜物語』を彷彿とさせられる。千夜一夜の面白い要素だけを蒸留したのがこのストーリーラインだ。

そして三つ目は、巨大な壁を守るナイツ・ウォッチ(冥夜の守人)の物語だ。

太古の昔に建造された長大な壁に駐留し、壁の向こうに棲む存在から、延々と王国を守り続けてきた人々の話である。野人と呼ばれる蛮族や、巨人族が脅かしてきたが、それとは別に伝説とされていた異形の魔物が復活し、勢力を広げようとしていた。

異形に追われるように野人や巨人族は壁を越え、王国へ進攻しようとする。それらを阻止すべく奮闘するナイツ・ウォッチたち……という展開なのだが、これは世界史のゲルマン民族の大移動&キリスト教のアポカリプスをモチーフとしている。映像的には『進撃の巨人』や『ワールド・ウォーZ』を思い出す人もいるかもしれない。

どのストーリーラインを取っても、それだけでめちゃくちゃ面白い作品になるのだが、やがてこの3つの物語が少しずつ近づいてゆき、絡み合い、一つの大きな流れに怒涛の如く突き進んでいく。

怒涛の物語パワー、壮大過ぎるスケール&スペクタクルズ、心MAX震わせる振動数、全てにおいて、圧倒的で、それこそ絵にも描けない面白さ、映像化は未来永劫不可能だと思っていた。

 

ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』

ところが、である。

私が間違っていた。『氷と炎』を原作として、アメリカHBOのテレビドラマとして、『ゲーム・オブ・スローンズ』が制作されている。

映画を超える巨額の製作費をかけ、北アイルランド、マルタ、クロアチア、アイスランド、モロッコ、スコットランド、アメリカ合衆国、スペインで撮影され、2011年から放送が始まり、最終話は2019年に放送された。Hulu、Amazonで配信されている。

Wikipedia:ゲーム・オブ・スローンズより

そして実は、ドラマが原作を追い越している。

つまり、小説は未完でも、ドラマは完結している。作者もかなりの高齢であり、未完であってはならないという理由で、ストーリーの展開の骨子を予め伝えている。それを元に脚本を起こし、ドラマにしているのだ。

エミー賞、ゴールデングローブ賞、ヒューゴー賞、サターン賞、ピーボディ賞など、名だたる賞を総ナメし、「観たら必ずハマる」「全く先が読めない」「続きが気になる中毒性」「主役がいない=全員主役級」「完全大人向けのダーク・ファンタジー」「史上最高のドラマ」など、絶賛の声しかない。

で、わたしは観た、全8シーズン73話ぜんぶ。

観たうえで言わせてもらうと、史上最高のドラマだ

史上最高のファンタジー『氷と炎』の面白いところだけをつまみ食いしているのだから、面白くない訳がない。しかも「映える」ところだけ、美しいくて愛おしいくてエッチなところ、過激で残虐でエグいところ、人間性が剥き出しになるところを完璧に映像化している。

ただし、地上波で放送されるのは、絶対にありえない。

素手で頭蓋骨が▲▲されるところとか、生きたまま炎で●き■されるところとか、そのまま、接写で映し出している。普通の戦闘シーンであっても、『プライベート・ライアン』や『フルメタル・ジャケット』の一番強烈なシーンを思い浮かべてもらって、それを好きな倍数で壮絶にしてくれればいい。それぐらい、放送コードを凌駕している。

ドラマは完結しているが、小説は未完である。小説からハマったなら、先が気になって気になって仕方がなくなるはずだ。なので、きっとドラマに走るだろう。

そこで注意して欲しいのは、ドラマは止まってくれないジェットコースターという点だ。

小説は、沼にハメる準備を着々と整えていった先で、読者を突き落とす、という展開なので、前フリや伏線が描写や会話の端々に潜んでおり、「あれはコレだったのか!?」的なヨロコビが幾重にも味わえる。

だがドラマは、とにかく視聴者を飽きさせないために、次から次へと面白いところ、スペクタクルなところ、過激なところ、後ひくところを詰め込んでいる。物語のスピードを、自分のペースにできないのだ。小説なら自分で読むスピードを調節できるが、面白さを一方的に浴びせるドラマだと、調整が利かないのだ。

『ゲーム・オブ・スローンズ』は、いったん観始めたら、下りられないジェットコースターだと覚悟して、観てほしい。

小説の進行状況はこんな状態だ。

 A Game of Thrones 『七王国の玉座』
 A Clash of Kings 『王狼たちの戦旗』
 A Storm of Swords 『剣嵐の大地』
 A Feast for Crows 『乱鴉の饗宴』
 A Dance with Dragons 『竜との舞踏』
 The Winds of Winter 『冬の狂風』(予定)
 A Dream of Spring (予定)

 

『氷と炎』を味見する

まだ完結していないが、それでも小説をお薦めしたい。

ここでは、ネタバレを回避しつつ、氷と炎で出会った言葉を引用する。この作品がどんな味がするのか、かじってみてほしい。

「物語を読む者は死ぬまでに一千もの生を生きる」とジョジェンはいった。「本を読まない者はひとつの生しか生きない」

「愚行と絶望は、しばしば区別が難しい」メイスター・ルーウィンがいった。

モーモントはいった。「愛するものが、いつもわれわれを滅ぼすのだよ、ジョン・スノウ」

「あなたのしたことは愛のためだったと、理解できる。愛は必ずしも賢いとはかぎらないことを、わたしは学んだ。それは大いなる愚行に導くこともありうる」

そして女たちもみな死ぬ。空を飛び、水中を及び、地を走る獣もすべて死ぬ。問題は、いつ死ぬかではなく、どのように死ぬかだよ、ジョン・スノウ

ファンタジーの最高を、ぜひ味わってほしい。

 

 

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今年イチの傑作SF短篇「無脊椎動物の想像力と創造性について」

「擬人化の罠」という言葉がある。

生物の行動に「ヒト」を探そうとする姿勢だ。その行動や生態を観察する際、ヒトに似た属性でフィルターをかけ、ヒトの基準で評価しようとする。

 ルイーズ・バレット『野性の知能』は、擬人化の罠に気をつけろと警告する。擬人化に偏って仮説を立てると、検証範囲が限定されてしまうからだ。

何かヒトに似た行動を取ったとしても、その行動を生んだ根源的なメカニズムまでがヒトと同じとは限らない。ヒトと異なる身体と神経系をもち、ヒトと異なる生息環境で生きているため、同じ行動原理であると考えるほうに無理がある。

例えば、コオロギの雌は、雄が奏でる誘引歌を聴き分けて、好みのパートナーを探し当てる。誘引歌の他にも、喧嘩歌や求愛歌などを使い分けて、状態を知らせている

雄の歌を「認知」して、脳が適切な行動を「判断」し、それに沿って身体を「制御」して雄に近づく―――擬人化のフィルターを通すと、コオロギは「賢い」行動を取っているように見える。

だが、あれほど沢山の雄がいる中で、適切なパートナーを判別できるくらい、コオロギの脳は「賢い」のだろうか? 

実は、コオロギの「賢い」行動は、もっとシンプルなルールに則っている。コオロギの聴覚器官は、①左右の前脚、②腹部の先端、③胸部の気門にある。ここで重要なのは①だ。左右の前脚で、特定の音波を拾うことができる。

雌のコオロギは、左右から同じだけ感じるように、体の向きを変えるだけで、目当てのパートナーに辿り着いている。身体に埋め込まれた器官や、生態系を成している音の世界に委ねることで、適切な行動をとっているのだ。

擬人化の罠から抜け出て、環境に埋め込まれた知性を突き詰めると、「無脊椎動物の想像力と創造性について」になる。坂永雄一の短篇SF小説だ。

舞台は近未来の京都で、大量発生した蜘蛛の巣に覆われている。

蜘蛛?

5ミリにも満たない弱い生物にすぎない。簡単に殺せるし、毒も持っていない。だが遺伝子操作で改変された蜘蛛は、半永久といっていいくらい機能する「糸」を吐けるようになり、永続的に環境を改変することが可能になった世界だ。

個としての蜘蛛はちっぽけだが、世代をまたいで環境を引き継ぎ、先代の構造物をさらに改変していくことが可能になったら? しかも、建物などの人工物を巧みに利用し、より大きな巣を作り上げるまで広まったなら?

蜘蛛が環境を変え、繁殖していくスピードが、それに対抗するヒトを上回った世界が、蜘蛛の巣に覆われた京都になる。ヒトが住めなくて放棄するだけでなく、拡散を抑えるために破壊して焼き払わなければならなくなった京都だ。

糸の強度が上がり、巣が一代限りでなくなるというだけで、これほど大きな変化になるのか? 真偽のほどは分からない。だが、条件がそろうことで、ティッピングポイントを越えた世界が見えるかもしれぬ。

蜘蛛と対峙するヒトは、糸で作られた構造物を見て、そこに想像力や創造性を見出し、蜘蛛を「賢い」とする。

だが、蜘蛛からすると、ヒトのような複雑なことをしていない。自身のデザインは太古から変えないまま、自分が紡ぎ出す「糸」を進化させ、受け継いだ構造物に適応させてきたにすぎない。

擬人化の罠から離れると、蜘蛛にとっての構造物は、環境に埋め込まれた蜘蛛の知性を表現したものになるのかもしれぬ。むしろ、「想像力」や「創造性」というヒトの言葉を当てはめるほうが、浅薄に思えてくる。

蜘蛛の巣に覆われた京都は雪景色を彷彿とさせ、廃墟を探索する研究者たちのディザスタもののように見える。一方で、蜘蛛をウイルスになぞらえて、封じ込めに失敗したパンデミック作品としても読むことができる。肌が粟立つラストの美しさは、いまでもありありと目に浮かぶ。

この短篇は、『新しい世界を生きるための14のSF』に収録されている。若手作家14人のSFアンソロジーの中で、これがぶっちぎりで面白かった。

実は、本書を読んだのは、冬木さんとdaenさん共同主催で取り上げられたから。

「日本SFの未来は明るいか?」というテーマで語り合い、参加者から10点満点の投票をする。14の短篇の中で、「無脊椎動物」は頭一つ抜けて第1位だった(平均9.1点、満点を付けたのが3人)。

この読書会が無かったら本書も読まなかっただろうし、この傑作に出会うこともなかっただろう(冬木さん、daenさん、ありがとうございます!日本SFの未来は明るいと思います)。

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惚れる言葉に必ず出会える『エモい古語辞典』

エモいとは何か。

一つの答えは、広辞苑のコピーだろう。

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引用元:朝日広告賞(2021年度)より

せつない、うつくしい、はかない、なつかしい……感情が一気に押し寄せ、言葉にするのが間に合わない。そんなときにエモいというのだろう。昔の人が「あはれ」というのと同じかもしれぬ。

古語辞典で「あはれ」をひくと、かわいい、いとしい、なつかしい、尊い……など、「感動を覚えて自然に発する叫びから生まれた語」とある。推しが尊すぎてしんどくて言葉を失うほど心が揺さぶられるのを略して「語彙力……ッ」と叫ぶときもあるが、根っこは同じだろう。

そういう、エモい、あはれな言葉に出会える辞典がこれだ。

もともと、小説やマンガ、歌詞など創作のために古語を厳選したのだが、パラパラと見ているだけで、胸をうずかせ、心を揺らす言葉が見つかる。まるで宝石箱のような辞典なり。

たとえば、「可惜夜(あたらよ)」という言葉を知った。

「可惜」は、惜しいとかもったいないという意味はなんとなく知っていたが、「可惜夜」は、そんな夜のことだ。すなわち、明けてしまうのが惜しいくらいの、すばらしい夜だという意味である。

  あたら夜の

  月と花とを

  同じくは

  あはれ知れらむ

  人に見せばや

後撰和歌集にある歌で、「明けるのがもったいないくらいの素晴らしい夜の月と花、どうせ見るならこの趣を分かってくれる人(=あなた)と一緒に見たい」という意味になる。

暑くも寒くもない、さわやかな季節の素晴らしい夜、思わず「月がきれいですね」とメッセージしたくなるような夜はたまにある。これからは、そんな夜を可惜夜と呼ぼう。

あるいは、「泥む(なずむ)」という言葉。

「馴染む(なじむ)」と語感が似ているが、もっと深い。元々の意味は、「足を取られて進行が滞る」意味だが、そこから、ひたむきに思い焦がれ、こだわり、好きになって抜け出せないことを指す言葉となった。役者に夢中になることを、役者泥み(やくしゃなずみ)という。

今なら、「沼る(ぬまる)」とか「ハマる」だし、英語だとobsessed (取り憑かれる)やね。でも「泥む(なず)」のほうがズブズブ感が出ていて一体化しているみたいで良き。日が暮れたあとも薄明かりが残る時間帯を「暮れなずむ」というけれど、これも「暮れ泥む」なのかも。昼と夜が一体になっている感じが出てる。

ちょっと笑ったのが、「不悪口(ふあっく)」だ。

仏教の言葉で、10の悪を否定形にして、戒律としたものの一つだ。みだりに生物を殺さない「不殺生」は知っていたが、10もあったとは……で、「不悪口」は、乱暴で汚い言葉を使ってはいけませんという意味になる。なるほど……でも発音は「ふあっく」なのかと思うと笑える。

同じ仏教用語の「我他彼此(がたひし)」も愉快だ。

自分と他人、彼(あちら)と此(こちら)と比較してしまうことを指している。自分と他人を無駄に対立させた結果、衝突して葛藤の絶えない様子を表す言葉になる。

最初は「がたひし」だったのが変化して、「がたぴし」と読むようになったという。建てつけの悪い戸がきしんだり、扱いが乱暴でうるさい様子を、「がたぴしと音がする」と言うよね。

これ、いまなら「出羽守(でわのかみ)」になる。海外を引き合いに出して日本を批判する人を指す俗語だ。「北欧では~」「米国では~」の「では」から採った言葉になる。「ヨソはヨソ、ウチはウチ」なのに、無駄に比較し、対立を煽り、ガタピシさせているのは出羽守なのかもしれぬ。

マンガやアニメでお馴染みの、「うたかた」「両面宿儺(りょうめんすくな)」「阿頼耶識(あらやしき)」「姑獲鳥(こかくちょう・うぶめ)」「兎波を走る」など、あはれでエモい言葉に出会える(うた∽かた、呪術廻戦、鉄血のオルフェンズ、百鬼夜行シリーズ、この世界の片隅に)。

両面宿儺は、『呪術廻戦』だと呪いの王であり災厄そのものみたいに描かれている。その一方で、荒ぶる龍を退治した英雄豪傑でもあることを知った。時の朝廷に逆らったので悪者みたいにプロパガンダされたのかもしれぬ(権力者による歴史改変パターン)。

知らない言葉に出会うだけでなく、知っているはずの言葉の意外な側面をも見ることができる。

めくるだけで楽しい、古い言葉に新しい意味を吹き込む一冊。

 

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コンサルタントの「武器」を手に入れる方法を書いた

いわゆる「コンサルタント」と働くと、すぐに気づくのだが、やつらはめちゃくちゃ頭がいい。

この「頭がいい」とは、引き出しがたくさんあり、こみいった物事の理解が早く、口先が達者で、文章が上手い。悪用さえしなければ、ITエンジニアが学ぶところが大いにある。

奴らは、どのように考え、どうやって手を動かしているのか?

調査報告書(本物)をダシに、奴らの手口を暴きつつ、コンサルタントが持つ強力な武器を紹介する。

マネジメントが社内(庁内)を取りまとめ、少なくない予算を割り当てるための、求心力となるもの―――それが、コンサルタントが作る調査報告書である。

完璧な資料というのがあるのなら、それはコンサルが出してくるものだ。読めば分かるし、読むだけで納得させられる。現在の問題と進むべき方向、そこに立ちはだかる障壁を乗り越えるための課題が、隙の無いロジックでクリアに書かれている。

これらは、何かの形式に当てはめるだけで書けるものでもないし、「コツ」とか「Tips」でまとめられる小技ではない。実際に手を動かし、トレーニングを積んではじめて身につけられる、「考える技術」だ。

詳細はここ↓に寄稿したのだが、調子に乗って書きすぎた(1万字ぐらい)ので、腰を据えて読んで欲しい。

「諸悪の根源」コンサルタントから学ぶ。ITエンジニアが現場で活かせる思考法を習得する4冊+α

 

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非日常を味わうなら、うってつけの小説『異常 アノマリー』

非日常を味わうために小説を読むなら、うってつけの一冊。入りやすく読みやすく、するする進んでいくうちに、脳天を直撃されるだろう。そこからが本番だ。異常を楽しめ。

殺し屋、小説家、癌患者、7歳の少女、Youtuber、建築家……それぞれの生い立ちと日常が語られる。出身も信条もバラバラで、最初は、まるで共通点がない人々の群像劇に見える。

一つだけ重なっているとするならば、2021年3月に同じ飛行機に乗り合わせたという点だ。パリ発ニューヨーク行きのエールフランス006便で、乱気流に飲み込まれ、恐ろしい思いをしたという記憶が共通している。

―――この時点でスティーヴン・キングのあれとか、ディーン・R・クーンツのそれとか、あるいはデイヴィッド・マレルのとある短篇を思い出した。どれも「ある場所」にまつわる記憶を共有する、けれども全く接点のない人々の群像劇だ。

で、たぶんそういう展開なんだろうなーと思いながら読み進むと、予想のナナメ上、かつ、遥か上をカッ飛んで行った。キングもクーンツもマレルも想像も及ばない非日常の日常に向き合うことになる。

さらに、この小説に登場する小説家が書いた『異常』も出てくる。小説内小説の『異常』は、いま私が読んでいる『異常』とは似ても似つかないものの、折々にエピグラフとして引用され、非常に示唆的に先読みを誘導する。ウロボロスの尻尾になった気分だ。

随所に練り込まれたオマージュ、パスティーシュ、パロディは、最初は楽しく、次第に鼻につき、最後はウンザリさせられるほどお腹いっぱいになる。意図的なコピーを繰り返しており、いわば現実を模倣させようとしているのが分かる。

書き口も、ノワール、スリラー、ラブストーリー、書簡、ポエム、インタビュー、メタ小説、心理小説、サイエンス・ファンタジーと使い分け、コラージュのように目まぐるしく変転してゆき、息つく暇なく読みふける。

極めて異常な物語世界を提示した上で、テーマが「私の人生とは何か」になる。ありえない設定における直球過ぎるテーマのアンバランスが面白い。でも、「私の人生とは何か」を痛切に考えさせられる、これほど具体的な異常事態は、この小説しかあり得ない。

『異常 アノマリー』はエルヴェ・ル・テリエ著、フランス文学最高峰のゴンクール賞に輝き、ニューヨーク・タイムズ誌のベスト・スリラー2021に選ばれたというが、これを手に取らせたのは、スゴ本仲間のSさんのお薦めと、小島秀夫氏のこのツイート

読み終えたから分かる、確かに「もう平常心ではいられない」だなwww

馴染みのある小説のフリをした、「異常」な体験が味わえる一冊。

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物語の力を悪用する『ストーリーが世界を滅ぼす』

物語には力があるが、毒もある。

「よくできた小話」はSNSに乗ってバイアスを拡散し、政治家はフィクションを駆使して世論を分断する。広告屋は「これを買えば幸せになれる」ファンタジーをばらまき、ジャーナリズムは「よりクリック数を稼げる」ストーリーになるよう捻じ曲げる。物語はあなたを操作し、人類を狂わせ、世界を滅ぼしかねないと憂う警世の書。

「物語がどのように人を動かしているのか」に興味があるため、物語のダークサイドを告発する本書は参考になった。一方で、著者自身が物語の毒に汚染され自家中毒に陥っているのが心配になった。

物語は人を狂わせる

たとえば、2018年のピッツバーグで起きた、ユダヤ礼拝所襲撃事件だ。ライフルと拳銃で武装した男が、「ユダヤ人は皆殺しだ!」と叫びながら銃撃し、11人を殺害した事件になる。

本書の導入部で、この男の行動をストーリー仕立てで描いている。ごく普通46歳の白人男性が、ある土曜日の朝、邪悪な衝動に取りつかれ、礼拝所に集う人々に銃を向けるまでを、ドキュメンタリータッチで紹介する。

著者は、殺された人々の追悼会に参加する。弔問に訪れた数千人の中で、この棺の列と悲しみのすべては、物語のせいだと断定する。反ユダヤ主義という物語は、何度も何度もゾンビのように蘇り、人を狂わせるという。

悲劇を引き起こしたのは「人」なのだが、あたかも「物語」が感染し、人を狂気に駆り立てているかのように見える。おどろおどろしい表紙と相まって、センセーショナルな書きっぷりに、すこし鼻白む。

著者曰く、物語は、人に影響を与え、人を動かす「天然のテコ」だという。人を楽しませ、共同体への一体感を持たせるプラスの面もある。その一方で、心に入り込み、情に訴え、ものの感じかたを変え、カッコウの托卵のように世界観を送り込む。物語の力とは、人の心を「なびかせる」力だというのである。

物語は人を「なびかせる」

この「なびかせる」影響力を軸に、物語の暗黒面に踏み込む。

リアリティ番組やネトフリのドラマに夢中になり、ゲームデザイナーが作ったナラティブの世界で何時間も過ごし、ショートストーリーを歌うポップソングに身をゆだね、インスタでセレブの語りを追いかける。物語に毒されてない時間のほうが少ない。

そうした物語の毒を用いて、巧妙に人々の意志に影響を与え、印象操作が行われてきた。代表的な例はハリウッドが引き起こした、アメリカ全体の左傾化だという。

ハリウッドにおいて左派が支配的となり、ストーリーテラーたちが物語の力を用いて、アメリカ国民の考え方に影響を与えたという。

ハリウッドにおける左派支配がアメリカを多様性と平等という健全な理想の下に結集したのか、楽しませながら文化を侵食し洗脳状態にしているのかは、見る側の政治的見解によるだろう。
(p.54)

アメリカが作り出す物語は、エンタメやファッション、ライフスタイルを通じて全世界へ感染する。ポップアートの征服による帝国化を果たした世界で最初の国だというのだ。著者は、左派の浸透が世界レベルになることを懸念する。

そんな物語のダークサイドから逃れ、現実を生きるためには、科学を始めとする実証主義が重要だと説く。物語に対抗する力は、科学へのコミットメントだというのだ。

物語の自家中毒

アメリカの左傾化がどこまで現実か、私には分からない。

検索すると沸騰しているのは分かるし、左右どちらからも「エビデンス」や「データ」が提示されているのも知ってる。

ただし、どちらのサイドの「データ」も、アンケートやヒアリング調査に留まっているため、鵜呑みにできない。声高に騒いでいるからといってマジョリティという訳でもないし、タイムラインに現れない「民意」もある。

しかし、本書そのものが、ストーリーテリングの技術を駆使し、読み手の感情に訴え、さまざまな「データ」や権威を引用しながら、なびかせようとしていることは分かる。「善と悪」「現実と虚構」「物語と科学」といった対立構造を掲げ、自説の正しさを主張する。

本書そのものが、分かりやすい物語に仕立ててあるのだ。

”narrative”や”story”で検索した論文を片っ端から調べ上げたのだろう。プラトン『国家』やイエス・キリストを引き合いに出し、フィクションの力を数え立てる。勧善懲悪の物語が快楽をもたらす研究を紹介する。ノースロップ・フライやカート・ヴォネガットといった有名どころの物語論から、自説に合う箇所をピックアップしつつ、コラージュのように組み上げている。

著者は、こうした物語の毒を集めているうちに自家中毒を起こしているのではないかと考える。フィルタリングされたSNSを現実と見誤るように、物語の毒のエコーチェンバーに染まってしまっているのではないか。

気に入らない風潮について警告したい気持ちは理解できるが、著者が心配になってくる。

最も重要な物語の力

もう一つ、気になるところがある。

著者は、物語の最も重要な役割である「現実を受け止め、理解すること」から目を背けている点だ。現実はあまりにも沢山の事が起きているため、そのままの形では理解すら覚束ない。だから人は事実をピックアップして、そこに因果を見出し、物語として理解しようと試みる。

例えば、ストーリーとプロットを分け隔てる、E.M.フォスター『小説の諸相』の解説がある。

「王が死んだ。その後、王妃が死んだ」がストーリー
「王が死んだ。悲しみのあまり王妃が死んだ」がプロット

時間軸に依存するのがストーリーで、因果律に依存するのがプロットという説明だ。しかし、「悲しみのあまり」という因果を示す言葉がなかったとしても、「王が死に、王妃が死んだ」だけであっても、王妃が死んだ理由を王の死に探してしまう。

この、出来事に因果をつける本性は、千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』で指摘されている。

嘘でもいいから説明がほしい

因果関係が明示されると、なぜ物語として滑らかな感じがするのでしょうか? それは、できごとは「わかる」気がするからです。

どうやら僕たちは、できごとの因果関係を「わかりたい」らしいのです。
(千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』p.53)

人は、因果を見つけることで現実を理解しようとする動物なのかもしれぬ。

とても辛い現実に苛まれ、逃れようのないとき、「前世の行いが悪かったから」とか「死んだらきっと楽になる」といった因果のバランスを取ろうとするのも、物語の役割である。

因果を見出し、現実を理解する物語の役割は、人に対してではなく、自分が自分に対して行使されるものでもある。

しかし、人を「なびかせる」ことに焦点を当てた本書は、この役割をほぼ無視している。言及はされるものの、その強力な効果から目を背けている。そのため、物語論を語るものとしては不十分な印象を抱く。

これにより、ラストで矛盾に陥る。物語の力への対抗手段として「科学」を掲げているものの、この科学こそが、因果関係を説明する物語であるからだ。

科学とは、現実の中で測定・検証できるものから因果律を見出し、理解しようとする営みだ。これは、物語そのものだといっていい。

物語といえばフィクションを想起するため、物語と科学を等価とすると、奇妙に思えるかもしれぬ。だが、科学の営みとは、現実をいかに上手く説明し、そこから実利を得るかによる。その語り手の中で、説得力のあるストーリーの栄枯盛衰が科学の歴史になるのだから。

言い換えるなら、位置づけとしては、「世界を理解する」という大きな物語の営みの中で、反証や再現できるとか、プラグマティックであるといった性質を受け持つのが科学になる。科学は物語に包含されるものであり、対抗する存在ではないのだ。

もし著者が、「現実を理解する」という物語の役割を理解しているのであれば、物語と科学を対抗させるような話には持っていかないだろう。

自分の語りたいように現実を歪め演出するのは、ストーリーテラーの芸だ。その意味で本書は、ストーリーテラーの真骨頂だとも言える。物語毒に感染するとどうなるか、それが本書になる。

 

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美味しいを哲学すると、もっとおいしい『「美味しい」とは何か』

天下一品の「こってり」が好きだ。

食べるたびに脳内で「おいしい」とリフレインが叫んでる。このご時世、わざわざ会社に行く唯一の理由は天一といっていい。

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一方で、あの「こってり」の濃厚スープが合わない人がいることも知っている(妻である)。

ポタージュ状のあのスープを、私は「おいしい」と感じ、妻は「おいしくない」と言う。

このとき、私たちは何らかの評価をしているはずだ。その評価は、センスによる主観的なものなのか。あるいは、何かしらの客観的な基準があって、それに合うから「美味しい」と言うのか。

何かを美味しいと評価するとき、実際のところ、私は何をしているのか? その評価は、私個人のものであり、正しいとか誤っていると言えるのだろうか?

「美味しい」とは何か

こうした疑問について、美学の立場から追求したのが、『「美味しい」とは何か』だ。

美学(aesthetics)は、評価を下すときに用いる「センス」を考察対象とする哲学である。「美とは何か」という美の本質や、「どのようなものが美しいのか」という美の基準、「美は何のためにあるのか」という美の価値を扱う。

本書が非常にユニークで、おそらく世界で唯一と言ってもいいのは、「食」がテーマであること。

美学はその成り立ちから、詩や音楽、絵画や彫刻といった芸術作品を俎上に研究されてきた。芸術の本領は美にあり、その美はセンスで認識されるという考え方だ。

そうした美学の道具立てを用いて、食べたときに感じる「あの快感」を考察する。しかも美学だけに留まらず、認知科学や言語学とも接続させて、「おいしい」を追求する。ユニークで挑戦的な試みだ。

「高級な芸術作品と比べると、『食』は低級なんじゃない?」「目や耳で感動する芸術と、舌を満足させる飲食を比較するなんて!」

……こうしたツッコミが来ることを予想し、著者は丸々一章を割いて、認知科学の様々な成果を紹介する。「おいしい!」は、舌だけでなく目や耳や鼻、温度や食感も含めたマルチモーダルな芸術であることを説明する。

蓼食う虫も好き好き v.s. 文化的相対性

古典的美学では、「趣味については議論できない(De gustibus non est disputandum)」というラテン語の格言が取り上げられる。いわゆる「蓼食う虫も好き好き」である。

何を食べて何をおいしいと感じるかは、人それぞれ、個人の趣味の問題であり、他が口を出す筋合いはないという考え方だ。

著者は、なるほどといったん受け止めるが、同じことは絵画でも音楽でも同じことが言えるのではないか、と指摘する。

この絵は美しいとか、この曲はカッコいいというとき、そこに何らかの評価が発生している。「このダサい絵が良いだなんて、センスないね」と言われても、大きなお世話だと感じるだろう。この会話は、絵や音楽といった芸術作品に限らず、食でも成り立つ。

そして、「センスや評価は主観的な好みの問題だ」とする立場を、「主観主義」と名づけ、評価に正解/不正解は無いとする。何らかの基準と照らし合わせて、合っている/違っていると判定できるものではない、とする立場だ。「こってり」に対する、私と妻の見解の違いがこれだね。

一方、逆の立場もある。何かの基準があり、それに照らし合わせて正誤を問うことができるという「客観主義」の考え方だ。大多数の人によって設定できる「標準的なおいしさ」というものがあるのだろうか?

これに対し著者は、「文化による」と答えている。

アメリカの食文化で育った人はルートビアを「おいしい」というが、日本の食文化で育った人は「まずい」というだろう。北海道のジンギスカン、中国の臭豆腐、フィンランドのサルミアッキ、スウェーデンのシュールストレミングなど、「おいしい」について正反対の評価が出るのは、食文化によるからだという。

そして、地球上には様々な食文化があり、それぞれの好みが違う以上、「人類標準のおいしさ」というものは無い、と結論づける。ただし、それぞれの食文化の中では、「おいしい」という評価を客観的に引き出すことはできるという。

「人類標準のおいしさ」はあるのか

ここはとても面白い議論ポイントだ。

私は、「人類標準のおいしさ」はある、と考えている。

まず、スケールを、進化レベルに広げてみよう。

人類の感覚器官の機能や構造は同じだ。より感覚が鋭いといった個体差はあるだろうが、ほとんど変わらないといっていい。人類として進化してきたバックグラウンドは同じだ。

そのため、あらゆる食文化に共通して存在する要素に着眼すると、人類標準のおいしさが見えてくるのではないか、と考えている。

例えば、油脂や糖だ。私たちが「コクがあっておいしい」と感じるとき、そこに何が含まれているか。フォアグラやウニ、生クリームやバター、イクラの共通項として、油脂や糖が挙げられる。

そして、油脂や糖が示しているのは、高カロリー、高タンパク質、糖分だ。生きる上で必須のアミノ酸を豊富に含んでおり、「コクがある」食べ物は効率的に摂取できる。進化プロセスの大部分を腹を空かせて生きてきた人類にとって、「コクがある」とは、生存に直結する重要な感覚になる。

次に、食文化を、適応という観点で見てみよう。

人類の肉体構造は変わらないし、必要な栄養も一緒なのに、これほど多様な食文化があるのはなぜだろうか? まず第一に考えられるのは、気候や風土が違うからだろう。気候帯や地勢によって、手に入る食材が異なるからだ。

例えば、生野菜が得られにくい地域では、生肉や動物の内臓からビタミンを確保する。アメリカ人が好むステーキと、日本人が日常的に食べるご飯は、どちらも最終的に糖にすることができる。代謝機能のおかげで、地域ごとに偏った食材でも、生きていけるのだ。

そして、地域ごとの食文化によって、好みが学習される。食べ慣れたものを好ましく感じるのは、「食べたことがある」という味覚や風味は、食の安全の信号になるからだ。親や家族が食べていたから、子どもも食べる。これが繰り返されて、嗜好ができあがる。

食文化を横断して「おいしい」という経験が蓄積されているものが、人類標準のおいしさになるだろう。一つ思いつくのは、カップヌードルだ。発売より半世紀、累計販売数500億食を超え、あらゆる文化圏で食べ慣れている。

かなり脱線してしまった。進化プロセスの適応から考えた「美」や「おいしさ」については、以下の記事で詳述している。もちろん、時代による変化はあるものの、人類共通の「美」や「おいしさ」は存在すると考える。

「おいしい!」と感じるとき、何が起きているのか『味覚と嗜好のサイエンス』

「美しさ」のサイエンス『美の起源』

「おいしい」に知識は必要か

脱線から戻る。

本書の指摘で面白かったのが、「純粋主義」という考え方だ。

天下一品の「こってり」は、「もはや飲み物ではない」と言い切る。「大量の鶏がらを丸一日かけて炊き上げ、数十種類の野菜を加えて、深みがあり、飽きのこないスープに仕上げた」とある。麺については、「ゆっくり時間をかけて熟成させ、スープに負けない風味と、しっかりとした食感をもつ」とある。

こうした言葉を介した情報は邪魔であり、自分の感じたままに評価できないため、排除すべきだという考え―――これが純粋主義である。五感だけを頼りにすることで、「純粋な評価」ができるという主張だ。

これに著者は反対する。そもそも、あらゆる知識を排除した「純粋な評価」に無理があるという。

例えば、出されたものを「これはラーメンだ」とカテゴライズして食べるだろう。そのラーメンが美味しい/まずいはその後になる。ラーメンと寿司とケーキを全て同じ基準で評価することはない。それが美味しいかどうかは、「ラーメンとして」美味しいかどうかの話だ。

そのため、まずラーメンとは何であるかという知識が必要になる。その知識も、麺類であるとか、熱々のスープだとか、醤油や味噌やトンコツといった味があるといった体系的な知識が必要となる。

そういった知識を完全に無くすことは不可能だし、かりにやれたとしても雑な評価になるというのだ。いま、「ラーメン」という分かりやすい例を挙げたが、見た目も臭いも全く馴染みのない「何か」が、料理として出されたら、安心して食べられるだろうか、と真っ先に思うだろう。美味しい以前の問題になってしまう。

ただし、情報が評価に与える影響も考慮する必要があるという。値段や産地、料理人の経歴といった情報により、「おいしさ」の認知が歪む可能性だ。

NHKスペシャル「食の起源」で、料理名が違うと、味の感じ方が違う実験が行われた。同じ料理を、2つのグループに分けて食べてもらう実験だ。

 Aグループ

  -低脂肪ごぼう健康スープ

  -パスタ風ズッキーニと大根の炒め物

 Bグループ

  -鳴門鯛のダシたっぷりポタージュ

  -モチシャキ2色麺の創作ペペロンチーノ

評価が高かったのはBグループ。料理の名前を美味しそうにするだけで、評価が違ってくる。ラーメンハゲの名セリフ「あいつらはラーメンを食べているんじゃない、情報を食っているんだ」は科学的に正しい。

認知を歪ませる知識もあるし、逆にブーストする情報もある。

今年の7月、期間限定・数量限定で、幻と呼ばれた「超こってり」を食べた。あの「こってり」を臨界突破しており、文字通り箸が立つ濃度である。

では、濃すぎて美味しくないのかと言うと、違っていた。一口目から「濃い!」と感じていたが、後味がクドくない。むしろスッキリとした甘味を感じる。この風味は飴色に炒めた玉ねぎのアレだ!と気づいた。

この玉ねぎの甘みを意識したら、脳が痺れるほどの快に撃たれた。「玉ねぎの甘さ」という知識があったからこそ、超こってりの美味しさをより堪能できたといっていい。知識のおかげで、「おいしい」は加速する。

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他にも、作品に付けられたタイトルによって評価が変わってしまう事例(佐々木健一『タイトルの魔力』)や、おいしさの比喩を擬人化する傾向(ダンチガー『「比喩」とは何か』)などの議論が興味深い。次に読みたい本がザクザク出てくる。

「おいしい」を深く考えると、より美味しく感じられるようになる。

よい本で、美味しい人生を。

 

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「コペンハーゲン解釈」「多世界解釈」だけではない、量子力学の解釈を10個にまとめてみた『量子力学の諸解釈』

混迷する物理学が面白い。

原子や電子といった小さなスケールで世界を考えるとき、常識が通用しなくなっている。観察対象には実体があって、位置や速度を持っているという、当たり前のことが成立しなくなっている。

例えば、電子は粒子でありながら波でもある現象について。二重スリットを通過する電子は、干渉しあった波のような縞模様が出てくる。一方で、電子を一つずつ発射すると、粒子のように観測される。しかし、継続していくと、波のような干渉縞になる(粒子波動二重性)。

あるいは、観測によって、電子の振る舞いが劇的に変わる、波動関数の収縮について。スクリーン上の一点の電子を観測する実験を、波動関数の変化とする。電子を観測する前だとシュレーディンガー方程式に従って存在するが、ひとたび観測すると、従わなくなる。観測によって結果が異なるパラドクスだ。

さらに、電子の位置と速度を同時に測定することができない、NOGO定理だ。本書では、もっとはっきりと「『物体が何らかの値を持っている』と仮定することができない」と意味付けている。「物質が実在する」という素朴な考えを揺さぶる現象だ。

面白いのは、常識を揺さぶるパラドクスだけではない。これらを解釈するために生み出される、様々な理論が楽しい。奇妙で不可思議なことを説明するのだから、常識外れのアイデアが飛び出してくる。SFよりもSFだが、机上の空想ではなく、これまでの観測結果や理論に則した解釈だ。

「コペンハーゲン解釈」や「多世界解釈」といった名前は耳にしたことがあるが、実際その中身がどうなっているかは、よく分からない。箱の中の猫といった、喩え話でしか理解できていない。

こうした解釈を網羅的にまとめあげ、解説したのが『量子力学の諸解釈』になる。

それぞれの解釈で論文が大量にあるのだから、この一冊で全部を理解するのは難しい。

だが、どういうアプローチで理解しようとしているか、という量子力学の「分かり方」が分かる。文字通り、世界の見方を変える必要があるものから、回答から逃げているもの、量子力学そのものを書き換えるものまで、盛りだくさんだ。人間の想像力(創造力?)の限界を突破している様がよく見える。

量子力学の解釈を大別すると、2つのグループに分かれる。実在主義的な解釈と、経験主義的な解釈だ。まずは実在主義的な解釈から紹介する。

実在主義的な解釈4つ

実在主義的とは、具体的なイメージが浮かびやすい解釈になる。例えば、粒子が、はっきりと軌跡を描いて飛んでいくもので、これはイメージしやすい。その分、パラドクスを整合的に説明するのは難しい。

軌跡解釈
電子は粒子であり、はっきりと軌道を持っている。軌道は確定的で、量子ポテンシャルによって因果的に決まる。量子ポテンシャルの非局所的な効果によって、粒子軌道に干渉縞が生じる。

確率過程解釈
系ははっきりとした軌道を持つが、軌道は揺らいでいる。軌道を決める方程式は確率過程論的であるが、その過程は、通常の過去→未来への時間軸だけでなく、未来→過去へ向かう過程も含むため、方程式が時間対称となる。

アンサンブル解釈(統計解釈)
波動関数は個別の系に関する記述ではなく、系の統計集団(アンサンブル)に関する記述と考える。「観測前から物質量に対してはっきりと値を持つ」バージョンから、「全ての物質量が同時に値を持たない」とするバージョンまである。アインシュタインがこれ。

交流解釈
物質の実体は波と考える。放射体から過去と未来に向けて提案波が放出され、それを受けた吸収体から過去と未来に向けて確認波が出され、それらが重なり合い反響が生じ、確率的に交流が完了し、エネルギーが移動する。ファインマンがこれ。

実在主義的に「物質は実体を持ち、値がある」という前提から始めると、パラドクスを説明するのに苦しそうだ。

経験主義的な解釈6つ

一方、経験主義的な解釈は、もっと現実的な対応をする。

量子力学の範囲内に限定して説明する方針になる。電子の干渉縞という現象や、観測する実験プロセスに対し、量子力学だけで説明するならどうなるか、というアプローチだ。

言い換えるなら、量子力学の範囲で説明できない観測問題や解釈については手を出さない。なぜなら、量子力学の実験で理論を実証できないから。

多世界解釈
エヴェレット相対状態解釈を起源とし、観測者(観測器)を波動関数で表し、系の状態を観測者の状態に相対的に見る。系の状態と観測者の状態が相関を維持しながらセットで分岐し、干渉性を喪う。多世界解釈では「世界の分岐」と見なす。

無矛盾歴史アプローチ
初期状態から観測までをつなぐ可能な歴史を与える。可能な歴史とは「無矛盾条件」を満たす歴史であり、そうした歴史の集まりを「無矛盾歴史族」という。同時に仮定してよい歴史の組は「単一枠組み規則」によって与えらえる。

GRW理論
シュレーディンガー方程式に従う波動関数の時間発展の他に、一定の割合で自発的な収縮が起こると考え、これにより波動関数の収縮を説明する。つまり、量子力学に新しい物理が付け加えられており、量子力学の「解釈」というより「改良」になる。

量子理論・様相解釈
全ての物理量を平等に扱う(軌跡解釈や確率過程解釈のように、位置だけ特別扱いするようなことをしない)。古典論理が誤っていて、新論理(量子論理)が見つかれば、同時確率やベル不等式が成り立たない場合もあることを説明できると考える。

コペンハーゲン解釈
確率の背後にある実在世界や観測前の値のことを一切考慮しない。コペンハーゲン解釈では、「測定が行われるまでは実在というものを考えてはいけない。確率振幅に関する情報のみが存在する」と主張する。

量子ベイズ主義
確率の背後にある実在世界や観測前の値のことを一切考慮しない点までは、コペンハーゲン解釈と同じ。量子ベイズ主義は、波動関数から計算した確率はベイズ確率であり、量子系そのものが持つ性質ではないと主張する。その確率は我々が持つ信念の度合いによる。

波動関数の収縮といった現象は、「説明しない」「問題としない」という考え方だ。理論というよりも、態度に近い。問題としないのであれば、パラドクスでもなんでもない。

ある意味、潔いというか「科学者として」正しいことを言っている。要するに、実験で立証できないものは、哲学の範疇であって、科学者に求めるのはお門違いという態度だ。こういうセリフもある。

コペンハーゲン解釈を一言で表すなら、「黙って計算しろ!」になる

科学というものは、謎を解くためにあるのではない。現実を観測して再現するための便利なツールに過ぎないのだから、科学に「なぜ」を求めないでくれ、という主張だ。

言いたいことは分かるのだが、思考停止とどう違うのかが分からない。この態度は、「それでいいのだ」と聞こえる。バカボンのパパ並みに断定されると、ぐぅの音も出ない。

ただでさえ難解な量子力学という分野で、莫大な実験や論文で溢れかえり、自分の研究で手一杯で、研究費の確保に忙しい「科学者」にとって、センス・オブ・ワンダーの持ち合わせは無いのかもしれない。

「それでいいのだ」と言い切る「科学者」ばかりならば、私が生きている間にブレイクスルーは見届けられないだろう。一方で、この10個とは似ても似つかない解釈も生まれるかもしれない。さらに、その新解釈に導かれ、新たな発見もあるだろう。

そっちの方が楽しみだ。

おまけ:方程式・定理における「時間」について

本書には大量の方程式や定理が登場する。

難解な代物ばかりで、ほとんど理解できない。だが、方程式を眺めていて奇妙に感じたことがある。それは、「そこに時間は存在するのか」という疑問だ。

ニュートン以来、数学と物理学の相性は極めて良好なのだが、数学に無いのに物理学にあるもの、それは「時間」だ。

数学の定理とは、定義から導き出せる一般則だ。別観点から見た本質といってもいい。

例えば、三平方の定理。「直角三角形の斜辺の2乗は他の辺の2乗の和に等しい」は、「ある辺の2乗と、他の辺の2乗の和が等しいなら、それは直角三角形」になる。定理は本質の言い換えになる。本質を別の表現で述べているだけなので、イコールで結ばれた左辺と右辺には時間が存在しない。両者は「いつも」成立している。

しかし、物理学における「方程式」は観測結果から導出された現象を一般化したものになる。森羅万象のうち、「観測可能なもの」だけに焦点を当てて、「式で表せそうなもの」に近似させたに過ぎない。結果、式に当てはまらない現象は、定理を拡張させたり、もっと端的に誤差として切り捨てたりする。

また、科学技術の発達に従って、より精緻な観測結果が得られるようになったり、前提条件が明らかになったりする。「扱えそうな現実のみ、扱う」という方針により、物理学が追求しているのは、現実ではなく、現実の近似なのだ。

この、現実との近似という観点から考えると、2つの時間が考慮されていないように見える。

一つ目。物理学の方程式のうち、左辺と右辺は「いつも」一致するとは限らないものがある、という前提を見落としているのではないか。

言い換えるなら、左辺と右辺、それぞれの式を成立させるためにかかる時間は、異なっているのではないか、という疑問だ。その結果、本当はイコールで結べないにも関わらず、等しいと見なしてしまっている定理があるのではないだろうか。

あるタイミングにのみ成立する右辺と、また別の条件でしか成り立たない左辺を、方程式という顔つきをしているだけで、「いつも」一致していると見なしてはいないだろうか、という疑惑だ。

「タイミング」という言い方が気に入らないのであれば、右辺を成立させるためにかかる時間と、左辺を満たすためにかかる時間が異なっているにも関わらず、一致させてしまっている方程式が、基礎的な理論の中にいるのではないか。

数学と物理学の親和性が高いため、うっかりすると見過ごしてしまう。だが、数学の方程式と、物理学の方程式は、その成り立ちからして違うものだ。数学の方程式ならば、両辺に同じものを加えたり、左辺から右辺に移項したりしても、「いつも」成り立つ。だが、物理学の場合、「いつも」成り立つとは限らない。

二つ目。一般化した「時期」による定義の変化が考慮されているのかという疑問だ。方程式を成立させるためには、前提があり、その前提は、式を成立させた時代の科学技術による。異なる時期の方程式を、見た目が方程式だからといって、無邪気に代入してもよいのか、という疑問である。

極端な例を示す。

ニュートンの運動方程式は、F=maだ。Fは物体に加わる力で、mは質量、aは加速度になる。一方、アインシュタインが特殊相対性理論から導いた式は、E=mc^2だ。Eはエネルギーで、mは質量、cは光速だ。

ここでm(質量)に着目する。両方の式に出てくるから、単純に代入して、E=(F/a)c^2なんて式を作ることはできない。それぞれの前提が異なるし、無視している条件もある。また、成立した時期も測定機器も違うため、同じmであっても、「質量」の定義からして違う。観察対象の系(system)が違うのだ。

これと同じようなことをやっているのではないか、という疑惑だ。

例えば、ボームの軌跡解釈(p.38)だ。運動方程式を改変したものを、シュレーディンガー方程式と等価と見なしている。本来、前提からして異なるものを、「質量」や「定理」や「方程式」という見た目からして、同じようにしてしまっているのではないか。

仮に、このような「操作」が許されるのであれば、結果から方程式を逆演算するというアプローチもありになる。つまり、物理学で「方程式」とされているものをAIに学習させた後、未解決の実験結果に当てはまるよう、方程式を改変させるのだ。代表的な式の数は、せいぜい数千だろうから、そんなに賢いAIじゃなくても、順列組み合わせの力任せで行けるかもしれぬ。

そんな妄想が捗る捗る、おそらく唯一無二の一冊。



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