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官能小説の奥義

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2010年3月1日


 タイトルに偽りなし。官能小説の奥義だけでなく、書き方指南まで開陳してくれる、ありがたい一冊。

 官能小説とは、読者の淫心を刺激するためのもの。独自の官能表現を磨き、競い合ってきた作家たちの足跡をたどり、豊穣な日本語の世界を堪能することが、本書の目的だ。官能小説としての文体が確立するまでの歴史を追い、性器描写の工夫を解説し、性交描写の方法をパターンごとにまとめている。

 スゴいのはフェティシズムを分類した章。乳房フェチから尻、太腿といったスタンダードから、腋窩(えきか)フェチ、パンストの肌触りフェチといったニッチ系のニーズまで網羅してある。ひととおり目を通すことで、隠されていた自分のフェチに気づくかもしれない。

 あるいは、斬新かつ淫心をかき立てるオノマトペの紹介に気づかされる。舐め音や粘液音、挿入から射精音に分類されたオノマトペを眺めていると、いわゆるエロマンガのそれとはかなり違うのだ。マンガのほうは絵が主、オノマトペは「効果音」なのだが、小説では「描写」になるのだ(「くぱぁ」はマンガ表現だが、「ギクンギクン」は小説的)。

 さらに、ひたすら妄想を逞しくさせる官能用語が、いかに苦労して編み出されてきたかが分かる。たとえば女性器ひとつとってみても、その表現手法は5つに分かれるそうな。花や果実に喩える「植物派」から、昔ながらの「魚貝派」、変わりダネ「動物派」、マグマや大地になぞらえる「陸地派」や、俗語や医学用語をストレートに用いる「直接派」がある。

 そして、これらに付随して、「肉」という語感をいかに操るか、作家たちの工夫はソコにあるという。「花芯」や「アワビ」はありがちかもしれないが、「肉のつまみ」や「マグロの赤身」といった言い方は、よく見ているなぁと感心するばかり。作家の発想力というか妄想力のスゴさを感じさせてくれる。

 オナニーのためだけならエロ画像や動画を見ればすむ。にもかかわらず、文章を読んで興奮するということは、そこに想像力が働いているはずだ。言葉に誘発されたイマジネーションに溺れているのであり、それは受身としての"生理的反応"ではない。その触媒となるシチュなりフェチに浸るのが、官能小説の醍醐味と言ってもいい。

 かくいうわたし自身、この世界から久しく離れており、本書で再会して懐かしい作品いくつかあった。特に館淳一「愛しのエレクトラ」は、お世話になった名作で、引用箇所はわたしが最も気に入っていたシーンだった(さすが!)。というのも、著者・永田守弘氏は、「ダカーポ」の官能小説を紹介するコラム、「くらいまっくす」の書き手なのだから。創刊以来、26年間も続いたそうな(「ダカーポ」は2007年に休刊)。

 紹介するだけでなく、書き方のレクチャーもすごい。官能小説の書き方十か条があるので、簡単にまとめてみよう。

  • 第一条 : 官能小説は性欲をかきたてるだけのものではない。性欲はオナニーで消えてしまうが、淫心は人間が根源的に抱えているものであり、オナニーでは消えない。性欲の奥に流れているものである。
  • 第二条 : 好きな作家を見つけよ。淫心の入口はフェチ、自分自身のフェチを見つけろ。
  • 第三条 : まず短編を書いてみる。30-50枚くらいの短編を、フェチを意識しながら書けという。好きな作家の未読作品の最初と最後をそれぞれ5ページだけを読んで、真ん中を自分で想像して書き、比べてみろという。
  • 第四条 : 官能シーンを早く出せ。いきなり性交シーンという意味ではなく、胸でも尻でもチラリズムでもいいから、読み手のフェチを刺激することを始めよという。
  • 第五条 : 自分がしたくてもできないことを書け。やったら犯罪だが、小説として書くのは問題なし。想像力、願望力をたくましくして、したくでもできないことを弄べと励ます。
  • 第六条 : 三人以上の人物を登場させよ。一人の男と一人の女だけでは、話がふくらまない。キャラ×シチュ×フェチがバリエーションの基本だね。
  • 第七条 : 恥ずかしいと思うな。自分のパンツを脱いでいるつもりで、すべてをさらけだすつもりで書けという。これは文芸小説についても言えるね。
  • 第八条 : オノマトペをうまく使う。オノマトペに限らず、その状況を的確にイヤらしく一語で示すことができれば、官能小説として成功だと思う。
  • 第九条 : 性の優しさ、哀しさ、切なさを知っておく。セックスを書くということは、基本的に男女の粘膜の触合いを表現することではあるが、それを掘り下げていくと、性というものが持っている優しさ、哀しさ、切なさに突き当たるというのだ。オルガスムスとは小さな死。
  • 第十条 : 書いている途中でオナニーをするな 【重要】。これ重要。自分が勃起しないような小説で、読者を勃起させることはできないが、だからといって、その勃起でオナニーをしてはいけない。パワーが落ちて、書き進める気がなくなってしまうというのだ。接して漏らさずの誓いを守るでござる。

 官能小説入門として読むと便利だが、それだけにとどまらない。「櫻木充は匂いフェチの本質をわきまえている」とか「女にハードエロは書けないという偏見を覆した藍川京」といった、作家の本質をズバリ言い当てており、官能小説ブックガイドとしても白眉。ホームのキオスクに並んでいるアンソロジーを手当たり次第に試す前に、まず本書で嗜好の傾向を押さえよう。ヒット率が高まること請合う。

 濃密で豊穣な日本語を、ご堪能あれ。

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客の言うことを信じたら、移行できないデータが出てきた――国際確認検査センター事件

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データ移行が厄介なのは、その遅効性にある。

知らない人は「旧システムのDBから抜いて、新システムにデータを移すだけでしょ?」なんて簡単に言う。だがそれは、酷い目に遭ったことがないから。

データ移行は、調べれば最初にすべて分かる、という仕事ではない。データをもらって調べて初めて、次に何を調べなければならないかが分かる。調査や検証を厚くしても、契約前の段階で、不確実性をすべて消すことができない。

だから、「できます」と約束したことが、できるかどうか、怪しくなってくる。そのころには、費用も納期も決まっている。おいそれとは動かせない。

悪くすると、システム切替の当日になって、新システムに反映できないことが判明する。明日からサービス開始なのに、移行テストで扱わなかった古い年代のデータや、移行リハーサル後に追加・更新されたデータなど、汚れていたり、データそのものが読めないなんてことがある。ざらにある。ざらにある。

なぜ、そんな不具合があったのか? 調べている猶予は無い。だから現場の人たちは、超人的なパワーと結束力で、なんとかしてしまう。ログや一時ファイルから読み取って補完したり、過去の蓄積データから錬成したりクレンジングしたり、とにかくサービス開始できるよう、「なんとか」する。

努力と根性でなんとかできてしまうと、その苦労は「無事に稼働しました」の一言に圧縮される。何が足りず、何を根拠に補い、どこを直したのか。作業の記録は残っても、判断の経緯までは残らない。振り返りでも、「あのときは大変だった」という思い出話になる。

まして、世間様にそのまま公言できる話でもない。「お客様からいただいたデータを、そのままでは使えなかったので、徹夜でつじつまを合わせました」とは、成功事例の壇上では口が裂けても言えやしない。

こうして、次のプロジェクトでも「データを移すだけでしょ?」が繰り返される。

もちろん、毎回なんとかなるわけではない。

これは、「なんとか」ならなかった現場である、国際確認検査センターのデータ移行の話だ。

しかも、移行当日よりもずっと以前に、問題が見えており、ユーザに説明していたにも関わらず、移行の遅効性が爆発した話だ。

■3行まとめ

3行でまとめる。

  • 「旧システムのDB構造の情報は全部出せる」というユーザを信じ、ベンダはDB構造を解析する工数を積まず、移行費の見積もりを180万円に抑えた
  • 契約後、「平成14年版」のDB構造情報が開示できないことが発覚。ベンダは「平成15年以前のデータ」は移行できないと説明し、ユーザは「全部必要」と主張
  • 契約は変わらず、「平成15年以前をデータ移行の対象外とする」と記載した文書が無いため、裁判所は「平成15年以前のデータ」も移行対象とし、ベンダの主張を退けた

なお、この「DB構造の情報」について、判例には具体的には示されていない。スキーマなのかER図なのか分からない。

分かっているのは、移行対象のデータは、各年度ごとにあることと、旧システムは、平成14年版と平成16年版があり、DB構造情報が違っていることだ。

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平成14年版のDB構造情報が分からないのに、全てのデータを移行せよ―――なんて、ベンダからすると無理な話に見える。これを、「裁判所は現場を分かっていない」と読むと、教訓を取り逃がすことになる。裁判所は、そこを理解した上で契約に戻っている。

「言った」「言わない」と空中戦になるとき、裁判所はどこを見るか?

ここからは私の理解だが、裁判所は「合意できていた時点」まで戻っているように読める。争っていないところ、直近で双方の意思が一致していた時点――すなわち契約の時点だ。おかしくなってくるのは、合意できていた時点より後なのだから。

■合意できていた時点=10月16日

本案件の場合、平成19年10月16日となる。

最初に結んだ契約の後、開発の追加や作業が増えたため、金額と納期を変更している(金額は1680万円から3045万円へ、納期は同年12月末頃から翌年2月末へ変更)。そして、この日は、契約変更とともに、重要なやり取りがされている。

まず、10月16日は、ベンダが旧システムのDB構造情報を受け取った日でもある。

ベンダも慎重に進めてはいた。

DB構造情報が必要であることは打合せの都度伝えていたし、9月には「10月中旬までに情報を取得できない場合には、移行を作業範囲から除外する」という提案までしている。この日に提示した資料にも、必要な情報の開示がない場合はデータ移行の一部は実施できないこともあり得る、という記載もあった。

ところが、この日にDB構造情報が提示された。なので、「移行を除外する」という説明をしなかったのだ。判決に残っている発言はこうだ。

「今日、(必要な情報を)いただきましたので、そこは説明を割愛させていただきます」

本当は、DB構造情報が不足していたのだが、もらったばかりのこの時点では分からない(まだ調べてないからね)。だから、この発言でベンダを責めるのは酷だろう。

また、ベンダは、移行作業を除外することで、費用を削減できるという提案をしている。過去データは、必要な分だけを手入力すれば、総額を抑えることができるという案だ。

だがユーザは、手入力はできない、過去のデータは全部必要だと伝えた。ベンダは「確かに、はい」と、過去データ全てが移行対象だということに合意した。

2日後の10月18日、ベンダは要件定義書を作成する。そこには、移行作業の対象外とするデータが4項目、書かれている。

  1. 法改正で新設された項目
  2. ユーザの管理対象外の項目
  3. 旧システムの仮保存機能で保存された項目
  4. システムで管理の対象外の項目

そして判決は、こう続ける「平成15年以前のデータについては何らの記載もない」。

■おかしくなるのは、11月に入ってから

もらった情報を解析したところ、データが不足していることが判明する。

「旧システム」と一言で丸めているが、実は、「平成14年版」と「平成16年版」の2種類が存在する。そして、もらったDB構造情報は「平成16年版」だけだった。これでは、平成15年以前のデータを移行できない。

ベンダはこう問い合わせる―――最大限努力はするが、実施不可能だった場合の対応を検討する必要がある。手入力での移行はできないか、書類としての保存はどうか、そもそも移行が必要な理由は何か。

ユーザはこう応える。

  • 平成15年分だけでも1,000件以上あるため、手入力は現実的ではない
  • 法令で過去15年間の保存が義務づけられている
  • 持ち帰り検討し、代表者に相談する

そしてどうなったかって?

判例には、「持ち帰り検討結果」が書かれていない。

そのまま、翌年のリリースに突入する。

  • 2月:ベンダは機器を設置し、ソフトウェア一式とマニュアル等を交付
  • 3月:移行作業中に旧システムの端末が停止。サーバを再起動したところデータ不整合が生じ、業務影響が発生し、ユーザは契約解除の意思表示をする

■裁判所の判断

「情報が出ないので移行の対象外」 vs 「全件と約束した以上は全件」という対立構造に、裁判所はどのような判断を下したのか。

裁判所の判断を箇条書きにすると、こうなる。

  • データの一部が移行されないと、要件定義書の「現行業務を変更することなく運用ができる」という目的に反する
  • ユーザは、法令により15年間の書類保存義務を負っており、1000件以上の手入力は現実的ではない旨を説明している
  • 要件定義書の移行の対象外4項目に、「平成15年以前のデータ」の記述が無い
  • ベンダは「必要な情報の提供を受けたと誤解していたとはいえ」、「確かに、はい」と了解している

ベンダは「平成14年版」のDB構造情報が必要だと言っていた。それが無いと、全部の移行はできないと、あれほど言っていた。ユーザは、持ち帰り検討すると言った。それはどうなったのか?

判例に書かれていないのが全てだろう。少なくとも、平成15年以前のデータを移行対象から外す合意が成立したとは認められていない。合意がなされていない以上、認められない約束となる。

判決を読んでいて息を呑むのは、あれほど口を酸っぱくしてきたベンダの説明が、判断部分でこの一言に圧縮されていることだ。

(ベンダの担当者が)旧システムのデータベース構造に関わる情報の開示がない場合、データ移行作業の実施は困難になる旨を繰り返し説明していることなどを考慮しても

「考慮しても」、それだけだ。

裁判所は、ベンダ担当の努力の量も、説明の回数も、実現可能性も、量っていない。契約はどうなっているか、どこまで合意されており、どこまでやったか、それだけを量っている。説明は事実であって、合意ではない。裁判所が探していたのは、合意のほうなのだ。

「平成14年版の構造情報がないなら、その部分は対象外だ」という見解は、技術者としては完全に正しい。事実が変われば、約束も変わる。

だが契約は、事実では動かない。合意でしか動かない。

契約した時点では、あり得ない約束ではなかった。構造情報がもらえる前提なら、全件移行はあり得る約束だった。あり得なくなったのは後からである。そして、後からあり得なくなったからといって、約束は消えない。

これが、移行の遅効性の本質だ。

ここからは想像だが、「持ち帰り検討します」のまま、返事がこないユーザに業を煮やし、自分で「なんとか」しようとしたのかもしれぬ。もらったDB構造情報から類推し、平成15年以前のデータも復元する方法を検討していた可能性もある(ただし、どこにも書いていないので、あくまで可能性の話だが……)。

そして、「なんとか」ならなかった。

■「後から分かった」ことを交渉の場に乗せる

ここから導ける教訓は何か?

移行が遅効性を持つということは、「後から分かること」が必ず出てくるということだ。「後から分かること」は、必ず、出てくる。これは、移行の失敗ではなく、移行という作業に付きまとう性質といってもいい。

この事件の9月から12月は、移行の遅効性そのものだった。「足りない」「なお足りない」「何が足りないか分かった」「それは手に入らない」―――4ヶ月かけて、分からないことを減らしていく作業だった。

問題は、この「後から分かった」ことを、どうやって交渉の場に持ち込むかだ。

ここで、似て非なる「後から追加された」と区別しておく必要がある。

  • 後から追加された
  • 後から分かった

この2つは、よく似ているが全く異なる。

「後から追加された」もの―――すなわち、契約後にユーザから出てきた新しい要望―――これは、まだ扱いやすい。少なくとも、交渉のテーブルには乗る。「これは追加要望ですね」から議論がスタートするからだ。金額と期間で揉めるにしても、揉める土俵はある。

だが、「後から分かった」ものは、こうはいかない。

「調べたところ、平成14年版の構造情報が無いと、移行できないことが分かりました」―――このような「後から分かった」報告に対するユーザの返事は、しばしばこうだ。

「それくらい、契約前に洗い出して見積もっておけよ」

予知能力者でもない限り、無理な相談だろう。

「後から分かった」という言い方は、ベンダ側の認識の変化に見える。ユーザは「私のせいじゃない」と思っている。だから、「そちらの調査不足(あるいは見積もり不足)でしょ」と突っぱねられる(たとえ契約前に「旧システムのDB構造情報は、全部出せる」と言っていたとしても!)。

さらに「後から分かった」という言い方は、ベンダ側の落ち度を告白しているように聞こえる。「調べたら、こうでした」は、ユーザに「調べ足りませんでした」と聞こえる。

「判明しました」「発覚しました」という言い方には、主語がない。言うほうは中立のつもりで使う。だが聞くほうは、主語を補って聞く。補われる主語は、たいていベンダである。

ユーザの後出し情報によって「後から分かった」にも関わらず、あたかもベンダのせいであるかのように見られる。ややもすると、議論の土俵にすら乗ってこない。これは、やりきれない。

だから、言い方を変える。「後から分かった」と言う前に、相手の要望や、後出し情報を置くのだ。

変更前:開示いただいたDB構造情報を調べたところ、「平成14年版」が無いため、全データの移行ができないことが判明しました。

変更後:ご要望として、全データの移行が必要だと伺っております。この実現のために「平成14年版」のDB構造情報が必要なのですが、開示いただいた中にありません。

要するに、「あなたの要望から派生した事実」という体(てい)で話を切り出す。変更前も変更後も、同じ事を言っているのだが、ユーザの印象は変わる。少なくとも「全データの移行」のために動かなければ、と動機付けが与えられる。

ユーザの立場からしても、入りやすい。見知らぬ「平成14年版」よりも、「全データの移行」という、自分の口から出たフレーズから始まる話のほうが、まだ受け入れやすい。「人は自分の言葉を裏切ることはできない」(チャルディーニ『影響力の武器』第3章)。この特性を大いに活かそう。

ここで初めて、ユーザが交渉のテーブルに着席する。手入力の移行や、書類での保存、そもそもなぜ移行が必要なのかを尋ねるのは、その後の話だ。

■交渉のテーブルでの「悪い問い」

では、交渉の場で何を質問するか?

まず、質問してはいけない問いがある。

「なぜ、平成14年版のDB構造情報が開示されないのですか?」
「なぜ、過去のデータの全てが必要なんですか?」
「なぜ、手入力だとダメなのですか?」

そもそも最初に、「全部出せる」と約束したのに、出せなくなった。移行に必要なことは何度も説明していた。なのに、なぜ出せない?そもそも昔のデータは必要なの?ベンダからすると至極もっともな問いだろう。しかし、これは尋ねてはいけない「悪い問い」だ。

これを聞くと、ユーザは嫌がる。というより、怒る。

なぜ、こんなことを知っているのか?かつて私が、相手を怒らせる、というかブチ切れさせたことがあるからだ(もっとも、私の場合は営業担当になるが)。

その営業担当は、「移行元データは、正しいものが全部ある」と勝手に判断し、移行元データの調査は不要だとして工数を積まなかった。ところが、移行作業中に、データの相当数が汚染されていたことが発覚する。

切羽詰まっていた私は、「なぜ、ちゃんとしたデータが出せない?」と会議の場で詰問したところ、相手も売り言葉に買い言葉で、「知らんがな、オマエがなんとかしろ!」とブチ切れて物別れとなる。

約束を破ったのは相手なのに、その理由を問うと、怒る。

その理由は2つある。

1つは、「なぜ」という矛先が相手に向いているから。

「なぜ」という聞き方は、理由を問うているようでいて、実は、非難が混じっている。特に、問題が発覚して責任の所在が争われている場面では、この聞き方は詰問に聞こえやすい。相手は、被告席に立たされたような気分になるだろう。

もう1つは、相手は答えを知らないから。

最初の時点では、全部だせると本気で思っていた。後になって分かったこと(移行の遅効性)。安易な判断だったかもしれないが、悪意はない。単に知らなかっただけだ。知らないことを問い詰められて、答えられる人間はいない。

そして、答えられないとき、人は答えられる唯一のことを言う。

「知らんがな、必要だから必要なのだ、なんとかしろ」

こっちに責任だけが降りかかってくる、この答えに着地させてはいけない。

では、どうすればよいか?

■主語を「相手の要望」にする

まず、「相手の要望」を主語にする。こんな風に。

「全データの移行が必要」だと伺っています。その実現のために、どのようにすればよいか、必要なものを整理させてください

人は、自分が最初に言ったことを守ろうとする。心理学では一貫性の法則と呼ぶが、現場ではもっと素朴なものになる。すなわち、一度「全データが必要」と言ったら、次の会議でも「全部必要」と言う。

だから、提案交渉は、相手の言葉である「全データの移行」から始める。

これを、ベンダ側の言葉―――例えば、「移行範囲の見直し」とか「対象データの絞り込み」で切り出すと、相手は、「全データの移行」が攻撃されたと身構える。

だが、相手が守るべき「全データの移行」を最初に持ってくることで、聞きやすくなる。そして、「なぜ」という詰問を「どのように」と置き換えることで、対決的な空気から、建設的な場にする。

相手の要望「全データの移行」は1ミリも動かさず、その目的に焦点を当てて、問い直す。その上で、その目的を「どのように実現するか」「実現にあたっての制約は何か」「時期など、動かせる要素があるか」を問う。

「『全データの移行が必要』なのは、法令で15年間の保存義務があるからと伺っております。根拠となる条文を一緒に確認できますか」

「『保存している』と言うために、何ができている必要がありますか?監査などで求められたときに出せればよいのか、一定の時間内に提示する必要があるのか、教えてください」

「新システムへの取り込みが完了するまで、旧システムで参照できれば業務は継続できますか?」

「過去データについて、日常的に検索するものと、照会があったときに取り出せればよいものを分けられますか?」

保存義務があることと、通常業務の中でシステム検索できることは、別だ。

判例のどこにも書いていないが、ひょっとすると、必要なものだけPDFでダウンロードできれば足りるのかもしれない。旧システムを参照専用として残せばよいのかもしれない。このヒアリングの中で、ひょっとすると「平成15年以前の過去データの扱い」が切り分けられるかもしれない。

結果的に、「なぜ、出せない?」から始まるディスカッションと同じ内容だと思うかもしれぬ。その通り、論理の流れは実質的に等しい。

だが、相手はロジックではなくパトスで動く人間だ。攻撃されていると感じたら、敵認定され、交渉は対決モードになるだろう。一方、「自分の要望」の実現に向けて、その「目的」に焦点を当てている限り、実質的に同じ問いをしていても、目的達成のための共同作業となるに違いない。

もちろん、「悪い問い」を「よい問い」に変えたからといって、このプロジェクトが助かったとは言えない。移行以外にも火種は抱えていたし、「平成14年版のDB構造情報」は、どんな聞き方をしても出てこなかったかもしれない。

それでも、交渉の入口は作れる。

「なぜ、出せないのですか」と問えば、相手は自分を守ろうとする。「ご要望を実現するために、必要なものを一緒に整理させてください」と切り出せば、参加してもらいやすくなる。人は、自分が出した言葉を守ろうとする。その心理に沿って、同じ問題に向き合う入口を作るのだ。

入口に立ってもらえれば、次の話ができる。何を守るべきなのか。方法は変えられるのか。どの制約なら動かせるか。費用や期間をどこまで調整できるのか。そして、誰が、いつまでに決めるのか。

「説明したのに、伝わらない」と嘆きたくなる場面はある。こちらは何度も説明している。資料も渡した。議事録にも残した。それでも相手が動かないと、もっと詳しく、もっと強く説明したくなる。

そんなとき、一度、問いを変えてみる。

「相手は、この説明を聞いて、何を判断すればよいのだろう?」

問題の説明を、相手が判断に参加できる問いに変える。相手の要望から始め、その目的を確かめ、選べる方法を一緒に考える。

よい問いだけで、プロジェクトを救えるとは限らない。だが、「そちらでなんとかしてくれ」と閉じられかけた話を、「では、どうするか」という協議へ進める入口にはなる。



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『はざまの哲学』はスゴ本

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年1月6日


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「哲学は何の役に立つのですか?」

 哲学をやっていて良いのは、メタ的に疑う目を養えることだ。

 たとえば、「哲学は何の役に立つのですか?」という質問が、どんな前提で発せられており、その前提が孕む別の問題に気づけるようになる。

 質問者は、「哲学は〇〇の役に立ちます」という回答を期待している。〇〇には、適当な言葉が入る。たとえば、「論理的思考」や「詭弁術」、あるいは「認知バイアスの明確化」「会議における論駁」など、いくらでもある。そこから質問者は、〇〇を身につけるには、別に哲学である必要はない、と言うことも可能だ。

 まさにここが問題になる。

 「哲学が〇〇の役に立つ(a)」からといって、「〇〇のために(b)哲学がある」わけではない。この(a)と(b)を混同させる発想が、質問の前提にあるのだ。いま哲学を槍玉に挙げたが、哲学に限らず、歴史、数学、文学など、学問分野は質問者の意図によって入れ替え可能である(最近だったら三角関数やね)。

 学問は、〇〇という、何らかの価値が予め存在し、そのためにやっているわけではない。それらは先人の成果であり、副産物である。にもかかわらず、あたかも〇〇に奉仕するかのように学問の存在意義を問うのであれば、学問の意義の空洞化だろう(大学の専門学校化といってもいい)。

 ふたたび哲学を槍玉に戻すなら、最初の質問に対し、「哲学は何の役に立つのですか?」という「役に立つ」とは何かを問う(問える)ようになる。そして、「役に立つ(=有用性)」を重視する考え方が、いったいどこから来たのかを考えられるようになるのだ。

学問の有用性が求められる背景

 『はざまの哲学』の「有用性とスローサイエンス」の章では、マンハッタン計画にそのモデルを求めている。第二次世界大戦中、ドイツの原子爆弾開発に焦ったアメリカ政府が、科学者・技術者を総動員して原爆を開発したプロジェクトである。計画は成功し、製造された原子爆弾は日本に投下され、数十万人を殺すことになる。

 プロジェクトの成功は、そのままビッグサイエンスの始まりにつながる。アメリカ政府は「全米科学基金(NSF)」を設立し、科学者に研究開発プロジェクトを請け負わせる形で財政援助を行うのだが、これは、戦時の科学者動員を平時化するものであり、同時に莫大な予算を必要とする「ビッグ・サイエンス」の始まりでもあったという。

 この指摘は、システム開発の現場において、プロジェクトマネジメントを適用しているわたしにとって、非常に腑に落ちる。なぜなら、開発・運用のサイクルを長期計画で見た場合、最重要なのはリソースの平準化だからである。予算と時間は成果物の品質とバーターだが、人的リソースの集中には限度があり、予算・時間・品質のすべてに影響を与えるからだ。

 請け負う側としては、研究資金を調達し、人員を組織して期限までにプロジェクトを達成する必要がある。必然的に科学者に求められるのは、「研究者」であるよりは「管理者」としての役割になる。一人の優秀な科学者がコツコツと研究を積み重ねる時代から、巨額の予算と設備投資を行い、チームとして成果を上げる時代に変わったともいえる。

 政府であれ企業であれ、出資者に対しては短期的成果を出す必要があることから、このタイプの科学研究を「ファストサイエンス」と呼ぶという(ファーストフードになぞらえて)。

 予算配分の現場において、この、ビッグサイエンス、ファストサイエンスの考え方が主流となり、有用性や効率性を掲げる市場原理に還元することを是とする風潮が、「その学問は役に立つのか」という問いにつながる。学問は、もともとギリシャ語のスコレー(閑暇)から発したものであり、市場価値や効率性とは離れたものだったが、いまやこの考え方は少数派らしい。

「〇〇は役に立つのか」そのものを疑う

 このような、「〇〇は役に立つのか」という発想そのものを疑うことは難しい。なぜなら、その発想が生まれる風潮を疑い、いったん離れて見る必要があるからだ。そして、自分が「正しい」と信じていたことに揺さぶりをかけ、質問の前提へ問い直しを行う。

 野家啓一の論文集『はざまの哲学』では、まさにこの問い直しを、さまざまな「はざま」で行っている。科学と哲学のはざまでは既知から未知への語り直しを提案し、プラトニズムのニヒリズムのはざまでは"真理"の構成的側面を展開し、近代と脱近代のはざまではフッサールのオリエンタリズムを例に示す。その一つ一つがたいへん興味深い。

 たとえば、"真理"の構成的側面について。「真理である」「虚偽である」とは、それを語る行為の文脈に深くかかわっているという。真理・虚偽は人から独立に定まるものではなく、言語行為が遂行される文脈の関数だという。そして、その意味で真理の成立には行為遂行の文脈が「構成的に」関与しているというのだ。

 この主張、たいへんウィトゲンシュタインしてて面白いが、そのまま科学理論へ斬り込む。つまり、真理を超越的ないし外在的なものと前提とした上で、それへの漸近として科学の進歩を語ることは不可能だという。あたりまえだ、それぞれの理論の中の文脈でのみ、「真理である」「虚偽である」を語ることしかできないのだから。

 その例として、ユークリッド幾何学の公理系とリーマン幾何学の公理系の「はざま」では、「三角形の内角の和は二直角である」の真理・虚偽は異なる。同様のことは、相対性理論以前と以後の物理学における「ガリレイ変換」についても然りだという。

 このあたりは、クーンのパラダイム論で学んだことがあるが、本書ではこれに加えて、オースティンの言語行為論、ブラウワーの直観主義(構成的数学)のアプローチで、人間的な真理を明らかにしようとする。

数学の”真理”も変遷する

 『はざまの哲学』では科学理論の”真理”について揺さぶりをかけているが、同様のアプローチは、イアン・ハッキング『数学はなぜ哲学の問題になるのか』でも展開されている[書評]。

 ハッキングは、数学の歴史を振り返り、証明についての2つの見方を指摘する。省察と学習ののち、全てを理解し、一挙に把握できるような「デカルト的証明」と、全てのステップが積み重ねられ、一行一行機械的なやり方でチェックされるような「ライプニッツ的証明」である。

 それぞれの証明の歴史を詳らかにすることで、ある事実に行き当たる。すなわち、「証明」のような概念ですら、特定の時代や文化に限定されおり、ある特定の推論スタイルのもとで初めて意義を持ちうるということである。

 かつては「ユークリッド幾何学」が数学の最高基準だったし、現在は「証明」がそうかもしれない。だが、これらは偶然的な歴史的事実に他ならない。数学の最高基準は時代や文化によって変化するのであるならば、証明のない数学の可能性まで考えることができる。

正しさの相対性の罠

 『はざまの哲学』のキーワードとなっている「はざま」は、何かと何かの間である「狭間」「間」という意味である。何かの片方におり、そこが全てだと考えているうちは、もう片側に気づくことすらない。本書では、正しさの相対性の罠(お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな)に陥らないよう、それでいてその「はざま」でどのような力が働いているかを振り返る。

 メタ的に疑う目を養える一冊(だからといって、本書の目的はそれではないことにご注意をw)。

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『眼の誕生』はスゴ本

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年1月22日


Menotanjou

 「世界の見えかたが一変する」という意味で、目からウロコの一冊。

 先入観やバイアスは、明示されるまで気づかない場合が多い。例示されて初めてハッとする。それまで、「見えている」と思っていたものが、実は「見て」すらいなかったり、「見える=存在する」という思い込みの強さに囚われていたことに気づく。

見えていない ≠ 存在しない

 わたしの「世界の見えかた」を変えたのが、爆撃機の話だ。第二次大戦中、敵機の攻撃から生還した爆撃機を調査した統計学者が、ある提言をした。それは、「被弾箇所(赤ドット)ではなく、空白部分を強化すべし」というのである。なぜなら、空白箇所に被弾した機は、そもそも生還しなかったからという理屈だ。

Survivorship-bias.svg
By Martin Grandjean (vector), McGeddon (picture), US Air Force (hit plot concept) - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

Wikipedia:Survivorship biasより引用

 「生存バイアス」とも呼ばれるこの理屈、ポイントは「見えている」という時点で何らかの選択がされていることだ。したがって、「むしろ見えていないものは何か?」という観点から「それはなぜか?」を考えると、問題そのものが一変する。いかに自分が「見えている」ことに囚われていたかに気づき、世界がぐるりと裏返るような目まいを生じる。

極上のミステリのようなノンフィクション

 『眼の誕生』を読んでいるときも、これと同様に、世界がぐるりと裏返る衝撃を受けた。本書のテーマは、「カンブリア紀大進化の謎を解く」である。文字通り、事実を積み上げ、ロジックを組み立て、動かぬ証拠をつきつける、極上のミステリを読まされているかのようなサイエンス・ノンフィクションである。

 「カンブリア紀大進化」は、「大爆発」とも呼ばれ、生物学史上の巨大な謎とされてきた。カンブリア紀の始まりである5億4300万年前、生物は突如、爆発的に進化したという謎である。それ以前の地層からは、ほとんどの生物は似たような姿形で、種類もたいしたことなく、さらに数もいなかった。

 それが、5億4300万年前から5億3800万年前までの間(地球史的には一瞬である)、硬い殻やトゲ、剣、鱗、歯を備えた、多種多様の生物が誕生したのである。突然、生物たちが申し合わせたかのように一斉に進化したのは、なぜか?

 その答えは、タイトルにある。『眼の誕生』こそが、進化の引き金となったというのである。犯人がタイトルに書いているようなミステリで、かつ、これほど鮮やかにガツンとやられるのは皆無にひとしい。

 つまりこうだ、光を感知するだけでなく、像として把握する「視覚」は、生物の捕食行動を促すことになるだけでなく、捕食者から逃れるための防衛機能や外部形態への淘汰圧となる。さらに視覚は、異性を惹きつけるためのディスプレイといった性淘汰にも影響する。眼はすなわち、世界を変えたのである。

 光スイッチ説という、この結論に至るまでの積み上げが凄い。生命の誕生まで遡り、光学の基礎を解説する。面白いのは、「色」を感じる仕組みにまで説明しようとすると、生物が発する色には、色素の色と構造の色があることまで理解する必要が出てくる。

 たとえば、赤色は、受けた光のうち、赤以外を吸収して、赤のみを反射するから「赤い」と知覚する。これが色素の色だ。いっぽう、鳥の羽やチョウの翅に顕著な、何色とは一概にいえず、見る角度によって様々な色になる構造色がある。化石をしらべるとき、色素は化学変化により失われる場合が多いが、構造色は残されていることがある。これを手がかりにして、「視覚」の誕生はまた「色」の誕生であることを突き止める。

動物の「視覚の進化」を見える化する

 ビジュアルテキストとして、『動物が見ている世界と進化』を併読したのだが、これが正解だった。大英自然史博物館を中心とした標本写真やグラフ、図版を元に、動物の眼はどのように進化してきたのか、色が生まれる仕組みや、色を持つことによる進化的利点が、まさに手に取るように見える。

 物理現象である「光」と、それを感受する器官、さらに内部で像を結ぶ「視覚」とし、波長による「色」を認識する一連の流れは、さらに、環境や状況に応じ、どのように適応させていったかの生物の多様な視覚器官がフルカラーで見える(お約束の昆虫の複眼の拡大写真もある)。

化石がない ≠ 存在しない

 カンブリア紀より以前、もともと生物はそこに「いた」のだ。だが、硬い殻や鋭い歯を持っていなかったため、化石として残されたものが少なかっただけなのである。眼の誕生により、食うか食われるかの環境になり、生物の大半が殻を持つようになったからこそ、あたかも多様な生物が一斉に誕生したように見えたのである。

 化石として見えるものがないからといって、存在しなかったわけではない。著者は、化石として残されていないものは、柔らかい体のほかに何が無かったか? という問いを立てたからこそ、「眼」への発想が生まれたともいえる。

 見えるものが全てではない。見えていないものから、世界の見えかたを、変えてみよう。

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知的冒険の書『ウンベルト・エーコの世界文明講義』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年2月3日


 知の巨人ウンベルト・エーコの、十余年にわたる講義録。

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 美と醜、虚構と陰謀、絶対と相対など、抽象的なテーマを俎上にのせ、フルカラーの図版を通して、具体的に迫ってゆく。ニュースやメディアで馴染んだネタから、ネットを駆使して追いかける必要のある美術作品まで、知的に振り回されるのが楽しい。

 たっぷり知的興奮を味わったあと、見知ったはずの世界にある、見知らぬ裂け目に気づいたり、まるで異なる時代なのに、そこを貫く原理原則があったことを発見する。世界はもっとつながり合っているし、時代はもっと重なり合っている。人の営みは、かくも美しく、かくも醜いことを、あらためて知って驚く。

美とは何か

 たとえば、「美」について。

 「美とは何か?」と概念で問われると、答えに窮する。イデアのように「美しさ」そのものを指し示されたとしても、それが(他の言葉でいう)何であるかなんて、分かるはずもない。せいぜい、わたしが美しいと感じるオブジェクトを挙げるしかない。このあたりの機微は小林秀雄が上手いこと言っており、「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」がそれだ。

 ところがエーコは、もっと具体的に「美」に迫る。

 美しいと考えられるもの―――それは絵画や彫刻といった美術作品だったり、美的体験を伝える物語だったりする―――を具体的に挙げてゆき、そこに共通したものを見出す。すなわち、「美は変わる」ことだ。

 「美」が絶対的で不変的なものであったことは一度だってなく、それは時代や国によって、複数の異なる顔を見せてきた。これはオブジェクトが、男や女や裸体や景色といった物理的な美しさに限らず、神やイデアといった形而上的な美しさも然りだという。

 さらに、美にまつわる様々なテクストを通じて、美の中にある価値観を救い出す。「美しい」という言葉には、「優美な」あるいは「崇高な」「素晴らしい」といった形容が含まれることを指摘する。「美しいものとは、それがみられたときに喜びをあたえるもの」なのである。

 この件は、『美の歴史』を思い出させる。「完璧な美とは存在するのか?」という疑問に答えるべく、古代から現代に至る、美術作品、文学や音楽、数学や哲学や神学、天文学に至るまでを追いかけて、美の観念の変遷を渉猟した大著である。持つにも読むにもデカいので、『世界文明講義』のこの章からエッセンスを汲み取るのもいい。

醜とは何か

 あるいは、「醜」についての考察も具体的だ。

 美と同様に、醜も相対的であることは変わりないが、面白いのは醜は「美との関係性」において捉えられている点だ。醜とはすなわち、「美女と野獣」の変化形であり、いったん美の基準が定められると、ほぼ自動的に対応する醜の基準も定めるのが自然だと考えられてきたという。完全性と不完全性、秩序と秩序を壊すもの、といった風に。

 ただし、こうした相対性から離れ、美の理想にふさわしくない、という理由で醜いとされる対象もある。たとえば、アドルフ・ヒトラーが20歳のときに描いた花瓶の絵を挙げ、エーコはこれを醜いとする。

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ヒトラーが20歳のときに描いた絵(右頁)

 反感や憎悪、恐怖や不安の反応を引き出す要素があれば、それを「醜」だと定義づけることができる。美人とされる姿かたちは、時代とともに変化する。だが、美人の腐乱死体は普遍的に醜い。『美』は文化的背景の価値観を反映し、『醜』はその先にある「死」の概念をまとう。

 この辺りの考察は、『美の歴史』の姉妹本となる『醜の歴史』に詳しい。ほとんどの人が「美は文化なり」に賛同するだろうが、では醜は? と訊かれると窮するに違いない。この質問に対し、諸芸術における暗黒・怪奇・異形という観点で斬り込んだ『醜の歴史』は、『美』よりも面白いことを請け合う。『世界文明講義』から「醜」方面に手を伸ばすならこれ。

「巨人の肩に乗る小人」をひっくり返す

 あるいは、「巨人の肩」の洞察が面白い。

 先人の積み重ねた業績に基づいて新たな発見をすることを「巨人の肩に立つ」というが、これ、アイザック・ニュートンが最初だと思っていた。

 ところがエーコは、様々な文献を次々と開き、芸術と人類の歴史をたどりながら、この箴言が沢山の人びとの手から手へと渡り歩き、かたちや意味を変えながら伝わってきていることを示す。

 小人と巨人の箴言は、12世紀の哲学者・シャルトルのベルナルドゥスの言葉だとされている。だがエーコは、もっと以前の発案者に目を向ける。さらに6世紀前のカエサリアのプリスキアヌスによって語られていることを示し、さらにプリスキアヌスとベルナルドゥスの間にも、コンシュのギヨームを指摘する。

 そして、人類の知は、それを集積したメタファー「巨人」とともに、時代時代を受け継がれながら人口に膾炙する。いまでは、「先人の業績があってこそ」というニュアンスが強いが、かつては、「巨人よりも遠くまで見える」という、「肩の上に立つ小人」の方に重きを置く意味合いが強かったという。

 先人の研究は、まとまった一冊の本といった形に編纂されておらず、世界にバラバラに散らばっている。それを一つの価値体系としてまとめ、そこからさらに敷衍するということは、巨人よりもむしろ小人の方が重きを置かれるべきだろう。この、巨人と小人の逆転が面白い。

 他にも、陰謀が成功するためには、核となる秘密が完全な嘘である必要性を『フーコーの振り子』で明かしたり、嘘が歴史になるプロセスをダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』のネタバレで考察する章も面白い。シャーロック・ホームズやアンナ・カレーニナから物語を読むときの「ごっこ遊び」の可能世界論へのアプローチや、「ゴキブリの脳が進化しなかったのは、それが完全である一方、人の脳が不完全であるからこそ進化の余地がある」といった視点は、世界を新しい目で捉えることに役に立つ。

 ユーモアと皮肉を交えながら、美と醜、アフォリズムとパロディ、嘘が歴史的事実となる経緯など、エーコの思想がエーコを通して語られる。エーコ一流の箴言の宝庫であり、見たことのない絵や写真を眺めているだけでも楽しい、知の財産みたいな一冊である。

 知的冒険の一冊を、堪能すべし。

 

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『会計が動かす世界の歴史』はスゴ本

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年2月10日


 シャーロック・ホームズの金銭感覚や、ダーウィンの資産活用から、会計と革命の意外すぎる関係、複式簿記から解き明かす知性の進化など、歴史を縦横に行き交い、ミクロからマクロ経済まで自在にピントを合わせながら、人類の歴史を損得の視点から紐解く。

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 パッケージから、最初は「簿記の歴史」や「会計の世界史」という印象を持った。だが、本書の焦点深度はもっと広い。そして、めちゃめちゃ面白い。これは、お金と人との関わり合いをドラマティックに描くだけでなく、それを通じて「お金とは何か」ひいては「価値とは何か」についても答えようとしているからだ。

「お金」が人を作った?

 誤解を恐れずに言うと、「お金」が人を作ったといえる。

 逆じゃね? と思うだろう。壱万円札を作ったのは人だし、その紙に「壱万円分の価値がある」(ここ重要)と信じているのは人だから。なぜ壱万円に壱萬円分の価値があるかというと、壱萬円の価値があるとみんなが信じているから。この「みんなが信じる価値」がお金の本質である。

 そんな「価値」みたいな概念ではなく、金や銀といった貴金属がお金じゃないの? という疑問が出てくる。本書では、お金と人の歴史を振り返りながら、「みんなが信じる価値」と「お金」の関係に迫る。

 たとえば、スペイン帝国がもたらした価値革命の例をあげて、金銀はお金というよりも、お金を計るためのモノサシだと答える。植民地化した中南米から大量の銀が持ち込まれた結果、銀という通貨の供給量が増え、大規模なインフレが発生する。すなわち、ヨーロッパでの銀に対する「みんなが信じる価値」が下がったのだ。

 あるいは、最古の金融バブルと呼ばれているオランダのチューリップ・バブルや、詐欺師ジョン・ローが引き起こしたミシシッピ・バブルの話をする。彼が作り出した「利子付きのお金」は、良い意味でも悪い意味でも応用が利くだろう。欲望が欲望を生み、「みんなが信じる価値」が膨らんで弾けた出来事だ。

 面白いところをつまみ食いするだけなら、[ペペラのバブル物語]を読めばいい(めちゃくちゃ面白いゾ)。だが本書では、「なぜバブルが弾けたのか」という問いを立てる。ありがちな「みんなが現実に目覚めたから」ではなく、「なぜ現実に目覚めたのか」という視点から、生々しい理由を炙り出す(p.173の解説は、あらゆる先物取引(の損切タイミング)に応用が利くだろう)

なぜ文字より先に簿記が生まれたのか?

 本書が類書より優れているのは、さらに「みんなが信じる価値」の先へ踏み込んでいるところだ。サブタイトルの「なぜ文字より先に簿記が生まれたのか?」の秘密はそこにある。

 紀元前4千年までさかのぼる。最初の簿記はメソポタミア文明の「駒」だという。トークンと呼ばれる、粘土製のおはじきのようなもので、穀物や家畜を表していた。トークンは現実の羊やパンと1対1で対応し、税の取り立てや財産管理に使われていたという。

 紀元前3千年にイノベーションが起き、トークンそのものではなく、粘土板にトークンを押し付け、型を記録するようになる。現実と同数同種類のトークンを用意する必要がなく、トークンを現実の数だけ押し付け、粘土板を管理すればいいようになる(簿記の原型)。そして型押しが簡略化され、粘土板に溝を彫るようになったのが文字の誕生になる。

簿記に隠された進化の鍵

 そして、簿記の歴史を紐解きながら、「みんなが信じる価値」の本質に迫る。

 興味深いことに、粘土板から始まりルネサンス期に完成した複式簿記と、独自で発達した日本の簿記と、似たような構造をしているという。つまり、勘定科目を借方と貸方に分けて記載し、貸借を一致させるという構造だ。

 あたりまえだろ? 誰かにとっての「借り」は、その相手にとってみれば「貸し」になる。千円借りたら、千円返さないと。ここに時間の概念を入れると、利子や償却といった要素が必要になるが、簿記の基本は、「貸し」と「借り」が一致することにある。

 しかし、この「あたりまえ」こそが、ヒトを人たらしめた原因だというのだ。

 社会的動物であるヒトが、そのコミュニティの中でうまくやっていくためには、個体を分別し、その個体が自分にとって得となるか損となるか判断する必要がある。仲間だから協調する部分もあるが、食物や異性の取り合いとなることが出てくる。

 つまり、裏切ったり裏切られたりする関係性を続けながら、うまく生き延びる必要がある。場合によっては、自分に有利なときでも、仲間に恩を売ったほうがトクになることが出てくる。この協力と裏切りの駆け引きの中で、知性すなわち脳は進化していったという(これを[マキャベリ的知性仮説]と呼ぶ。以前の記事で、イカの脳についても同じ説が展開されている[頭足類の心を考える])。

 その中で重要なのは、身近な仲間を判別し、それぞれの「貸し」「借り」を理解し、記憶していくためには、高度な知能が必要となる。現代では、お金を貸したとき「貸付金」として登録しているが、昔は「貸した人の名前+金額」で債権を記録していた(人名勘定)。つまり、簿記の基本構造の中に、知性の進化の秘密が隠されているといえる。

「お金」の本質=譲渡できる信用

 誰かに「貸し」を作ったら、それを報酬として受け取れるのは、返してもらえると信用しているから。以前に「借り」たものを返すのは、それをしないとコミュニティでやっていけないから。

 そのための約束ごとが、「みんなが信じる価値」すなわちお金になる。時代によって、それは貝殻だったり金銀といった貴金属、あるいはデジタルデータとして計られるが、その計られる対象である信用が、知性を進化させたのである。

 会計という視点で人類史を斬ると、その断面にお金の本質が見える。18世紀イギリスの産業革命を経済現象として読み解いたり、未来の通貨と呼ばれる仮想通貨の構造的な弱点を明らかにしたり、盛りだくさんの内容となっている。

 愚者は自分の経験から学び、賢者は歴史から学ぶという。さらに、歴史を通じて現在の問題を理解することができる。「会計」という斬り口から歴史を眺め、伏線と謎解きを張り巡らし、極上のミステリに仕立てた一冊。

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要求は減らない、予算も納期も変わらない――追い詰められたPMを、誰が守るのか(財務分析ソフト事件)

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一般に、ユーザ側で案件窓口となる人は、圧力高めで押し出しが強い人が多い。地声が大きく、言いたいことをハッキリ言う。

ただ、圧力高めな人がたまたま窓口になるのではない。おそらく順序は逆だ。全社的なプロジェクトで、社内の意見をまとめ、予算を確保し、ベンダと交渉するには、それくらい押しの強い人が必要とされるのだろう。

人を動かし、利害を調整し、遅れている相手の尻を叩く。そういう人だからこそ、社内の抵抗を押し切ってプロジェクトを前へ進められる。

だが、その圧力はベンダにも向かう。

進捗が遅ければ詰める。提案が期待に届かなければ、言葉を強める。ベンダ側のPMは、顧客の要求と、自社の予算・人員・納期との間に挟まれる。

ある開発プロジェクトで、ユーザの代表者Aがベンダに対し、強い口調で言った。

「やる気がないのか」
「何だ、この契約は終わりだぞ。自分がこの部屋から出て行ったら終わりだぞ」

ベンダの開発責任者Cは、その後、病気になってプロジェクトから離脱した。ベンダは裁判で、Aの攻撃的・高圧的な言動によってCが追い詰められたと主張した。

ここまでなら、教訓は簡単だ。

「高圧的な顧客からPMを守れ」になるから。

もちろん、これはこれで間違ってはいない。顧客からの圧をかわしつつ、上手く交渉することも大事だから。

だが、この事件を詳しく見ていくと、それだけでは足りないことが分かってくる。

そもそも、なぜ要求・費用・納期の矛盾が、Cの担う実務へ流れたのか。ベンダ代表者Bは、これらが両立しないと分かっていながら、なぜ「できない」と顧客に言わなかったのか。

■3行まとめ

3行でまとめる

  • 財務分析ソフトを再開発する契約を、9か月・2100万円で締結した
  • ベンダは要件定義書への回答放置、担当者離脱後の引継ぎ不全、無断再委託、進捗の虚偽報告を重ね、ユーザにより契約は解除
  • 裁判所は解除を有効とし、ベンダに既払代金1890万円の返還などを命じ、ベンダの反訴はすべて棄却した

まず、主要人物の関係と、プロジェクトが破綻するまでの構造を図にすると、次のようになる。

人物

立場

本件での立場

A

ユーザ代表者

再開発を発注し、要求・意思決定・対外交渉を担った。強い発言をした

B

ベンダ代表者

事業構想を提案し、契約・経営判断・顧客との重要交渉に関与した

C

当初の開発担当責任者

契約後に任命され、顧客交渉、企画、要件定義を中心的に担当した

D

ベンダ副社長

契約締結業務に関与。C離脱までは開発業務に携わらず、その後、後任の責任者となった

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■プロジェクト開始~破綻まで

もともと、Aは経営コンサルティング会社の代表者だった。そして、税理士や経営者に対して、財務分析システム「ネット格付け」を提供していた。ところが、利用者が思うように増えないのが悩みだった。

Aの打診により、BとDが改善策を提案する。単純な画面の改修だけに留まらず、操作性の向上や、検索機能の追加など、サービスの性格そのものを拡張する構想だった。

Aは、この提案に感銘を受け、すぐに費用と納期について、基本合意をする。だが、この時点では、要件定義書が存在していない。裁判所も、ベンダがどのようにして2000万円という金額を算出したかは不明だと指摘している。

何を作るのかを決める前に、金額と納期だけが決まった。2003年7月末のことだ。

契約後、ベンダはCを開発責任者として任命する。Cはユーザ交渉、企画、要件定義を担当することになる。

ここで注意しておきたいのは、提案書を作ってプレゼンしたのはBとDで、その提案を具体的な要件に落とすのはCだった点だ。

2003年9月、要件定義書の案が提示されるが、そこには提案書にあった主要機能が十分に盛り込まれていなかった。ユーザ側はおおむね3営業日以内にコメントを返し、案を修正していくことになる。

コメントのやり取りをしているうちに、プロトタイプ作成の期限である10月末が過ぎる。11月に入ると、打ち合わせが激減し、コメントへの応答も途絶えがちになった。

Aの「やる気がないのか」「何だ、この契約は終わりだぞ。自分がこの部屋から出て行ったら終わりだぞ」という発言は、この時期のものだ。提案が十分に入っておらず、要件が決まらず、プロトタイプの期限が過ぎ、コメントへの応答も無いという状況の下で、出ている。

かなり強い口調での発言だったとされる。Aの権幕を正当化する必要は無いものの、この発言だけ切り出すと、それ以前に起きていた問題が見えなくなる。

Bは、要望されている全機能を実現するのは無理で、機能の切り分けが必要だと説明した。Aが強い口調で応じると、Bは「やれることには限界がある」と反論しようとしたが、失注後の経営を不安に思い、口を閉ざした(Bはベンダの代表者でもある)。

その結果、

  • どの機能を削るか
  • 追加費用を求めるか
  • 納期を延ばすか
  • 契約を続けるか

といった経営判断は行われないまま、Cは引き続き、顧客との交渉・企画を続けることになる。Cは、この発言の場にいたともいなかったとも書かれていない。だが、解消されなかった矛盾を、実務上Cが抱える構図になった。

2003年末ごろ、Cは病気のため、プロジェクトから離脱する。

後任となったのは、最初の提案に携わっていたDになる。しかしDは、Cが離脱するまで開発業務に関わっておらず、さらに、Cから話を聞く機会がほとんど得られなかったという。

そのため、2004年2月から3月にかけて、ユーザの担当が、既存システムの機能と改善要望を、Dに改めて説明することになる。

2004年3月、Dは再スケジュールを提示する。そこに示された、基本設計書、システム提供、テスト・検収といった期限は、一つも守られることがなかった。

ベンダは無断で再委託を重ね、基本設計書も出していない段階で「8割程度完成」と報告している(裁判所はこれを、「虚偽の報告」と評価している)。

2004年11月、要件定義書・基本設計書・完成システムのいずれも成果物として納品されないまま、契約が解除される。

ベンダの主張に対し、裁判は次のように判断している。

  • ユーザ要求が肥大化した → 追加費用や納期変更を提示していない
  • ユーザが要求をまとめなかった → 概ね3営業日以内に、ユーザはコメントを返した。回答を放置していたのはベンダ側
  • ユーザの強い言葉でCが離脱 → Cの病気の原因は不明。仮に業務負担が原因だとしても、ベンダの労務管理上の問題
  • 開発は進んでいた → 基本設計書も未提出なのに「8割完成」と報告(虚偽)

おそらく、「顧客が悪かった」という説明の全てが嘘というわけではないだろう。Aの言葉が強かったことは事実だし、要求の具体化が難しかったことも事実だろう。

だが、これらがプロジェクト炎上の本当の要因だとしたら、ベンダの行動との整合性が取れているのだろうか。裁判所は、一つの決定的な失敗でもって仕事を未完成としたわけではなく、こうした不誠実の積み重ねを総合的に見て判断している。

■教訓1:圧力を、答えられる問題に変換する

ここからは、判決で認定された事実をもとにした私の分析になる。

この事件を一言で丸めるなら、「経営レベルで処理すべき矛盾を、現場レベルでなんとかしようとした事件」になるだろう。

したがって、対策も二段階に分かれる。

第一段階では、顧客からの圧力を、検討可能な論点に変換する。第二段階では、現場で明らかになった要求・費用・納期の矛盾を、経営で引き受ける。

まず、現場レベルでできることを考える。

相手の口調につられて感情的にならない。出てきた要望を、その場で引き受けない(要望と要件は違う)。ヒアリングを通じて、要望を、いつまでに、どの条件で求めているのかに分解する。

例えば、顧客から強い口調で迫られたとする。

「当然、この機能は実装してくれるんですよね?」

「できます」とは言えないだろうし、「できません」と即答するのも難しい。そこで、こう返す。

「範囲を確認したいのですが、この機能は提案書のどの記載に対応する箇所でしょうか?」

つぶらな瞳でピュアに尋ねると、顧客は、「これは貴社の提案書にあった機能じゃないか!」と激しく憤るかもしれない。顧客の怒りを受け止める必要はない。PMの仕事は、解消すべき問題を明らかにするところまでだと割り切ろう(表面上は神妙な顔をしていればよろし)。

  • 提案書のどの記載が、「この機能」を指すのか
  • 提案時に想定していた機能と、顧客が期待している機能は同じか
  • 実装した場合、費用と納期にどのような影響が出るか

ベンダは、ユーザの要求が契約後に肥大化したと主張した。ところが裁判所は、問題となった主要機能について、ベンダ自身が提案書で示し、ユーザが2100万円の契約を決める要素となったものだと認定している。

つまり、「それは追加要求です」と主張するだけでは不十分になる。提案書に書いたものと、顧客が理解したもの、それらが要件定義書にどう引き継がれたのか(あるいは落ちているのか)を対応付ける必要がある。

ただし、現場ができるのは、ここまでだ。

確認の結果、提案書に書かれた機能をすべて実現すると、予算を超過するか、納期に間に合わないことが分かったとする。つまり、今のプロジェクトはそのままだと破綻することを明るみに出すのが重要だ。こうなったら、現場でどんなに工夫しても、矛盾そのものは消えない。

  • 要求を減らす(あるいは機能を分けてリリースする)
  • 費用を増やす
  • 納期を延ばす
  • 契約を終わらせる(いわゆる損切り)

どれを選ぶかは、顧客対応の技術ではなく、経営判断になる。

本件のBは、まさにその場面に立っていた。

■教訓2:「できない」と言う責任を、PMに押しつけない

ベンダの代表者であるBは、この矛盾に気づいていなかったわけではない。

Bは、ユーザが希望する機能すべてを実現するのは無理であり、機能を切り分ける必要があると説明した。さらに、Aから強い口調で詰められた際にも「やれることには限界がある」と反論しようとした。

しかし、Bは言わなかった。契約が打ち切られたら、会社経営が成り立つか不安だったからだ。

ここが、この事件の最重要なところだ。

Bに足りなかったのは、Aを説得する話術ではない。何を言うべきかは分かっていた。だが、失注の危険を前にして、言うべきことを伝えないという判断をした。

Bがすべきことは、要求・費用・納期を並べ、どれを優先し、どれを動かすか、ユーザに選択を求めることだった。例えば、次のように伝える。

「ご要望の機能を全て実装する場合、現在の費用と納期に収まりません。機能を絞るか、費用を増やす、あるいは納期を延ばしたり、段階的なリリースをする、いずれかの選択となります」

ひょっとするとAは「全部やれ、金額も納期も変えるな」と迫ってくるかもしれない。

そのときどうするか? 出血覚悟で手当をするか。契約を解消するか。これは、経営者がする判断だ。PMの仕事ではない。

要求は減らない、予算は増えない、納期も延びない、契約も終わらない。経営者が選ばなかった四択が、現場では「全部やれ」という一つの命令になる。

本件では、解消されなかった矛盾の先にCがいた。

Aの発言とCの病気の因果関係は認定されていない。しかし、Cが交渉、企画、要件定義の中心となり、要求・費用・納期が整理されないまま、実務を担っていたことは確認できる。

高圧的な顧客からPMを守るには、単に話術や交渉術に留まらない。PMがエスカレ-ションした矛盾を、権限を持つ者が引き取る。追加費用や納期変更を交渉し、必要なら「この条件ではできない」と伝える。それでも折り合わなければ、契約を終わらせる。

「できない」という責任までPMに押し付けないことが、PMを守る最大の盾となる。PMに任命されたときにする、最初の「よい質問」はこれになる。

「要求・費用・納期が両立しなくなったとき、顧客に「この条件ではできない」と言う(言える)責任者は誰ですか?」

その答えが「PMです」なら、更問いはこうなる。

「その責任者には、追加費用、納期変更、要求の拒否、契約終了を決める権限がありますか?」

もちろん、そんな権限はない、と返されるだろう。もし、責任だけがあり、権限が無いのなら、PMは交渉を任されているのではない。

経営判断の失敗を引き受ける場所に立たされていることになる。



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この「冒険」の本・映像・ゲームがスゴい!

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年2月19日


 お薦め本を持ち寄って、まったり熱く語り合うオフ会、それがスゴ本オフ(最新情報は[facebookスゴ本オフ])。参加すると、読みたいリストがどんどん増えて、積読山がさらに高くなる。今回のテーマは「冒険」。時間・空間・非日常を飛び越えて、「これが冒険だ!」という本、映画、音楽、ゲームにマンガにメディアのもろもろが、集まったり集まったり。

Bouken01
山と旅と空への冒険

ありえない光景、シスパーレ

 度肝を抜かれたのが、ササキさんの紹介。日本を代表するクライマー平出和也が、シスパーレに挑んだ映像だ。端的に言ってありえない光景を見ることができる。一目見れば、「無理!」と叫びだしたくなる場所で、かつては、そこに登った人だけが目の当たりにできた。過酷で美しい世界を、安全で暖かな部屋から眺めることができる。

 冒険とはすなわち「危険を冒す」。何かの目的があって、時間や空間を超えて、危険に満ちた体験の中に身を置くこと。ただ、そこから還ってこなければならない(と思う)。行ったきりの冒険も物語としてはあるが、現実だとあまりにも辛い。

Bouken02
熱量高い

勇気と無謀の違い『サハラに死す』

 えりさんが紹介してくれた『サハラに死す』(上温湯隆著、ヤマケイ文庫)が重い。昭和の時代、誰もやったことのない、サハラ砂漠の単独横断に挑戦した記録だ。世界最大のこの砂漠は、現地の人々にとって「縦断」するものであって「横断」するものではない(従って「横断」ルートというものはない)。

 ガイドなし、ラクダ1頭のみで旅を始めるが、ラクダは死亡、水は無くなる、食べ物は無くなる……「著者が本人ということは、帰ってこれたんじゃないの?」というツッコミに、「遺された手記を元にした本」とのこと。「冒険とは、可能性への信仰である」と記されており、当時のバックパッカーのバイブルだったというが、「帰ったら大学受験しよう」と書き残しているのが日本人の呪い的だとのこと。

生きていることのレベルを上げる『ビヨンド・リスク』

 危険を冒すとは何かについて知りたいなら、『ビヨンド・リスク』(ニコラス・オコネル、ヤマケイ文庫)を読むと、そのヒントが得られる。伝説のクライマー17人にインタビューした冒険の思想集である。

 生きることは登ることと同様に意味がない。にもかかわらず、なぜ登るのか? 本書には数多くの「答え」があるが、ここでは、一つ、ロイヤル・ロビンスの引用をしたい。

危険があれば冒険の度合いが増す、ということは十分気をつけて行動しなければならないということです。クライミングは注意力や知覚力のレベル、つまり生きていることのレベルを引き上げてくれます。(太字化は私)

 他の人の話も併せて聞くと、共通する考え方が見えてくる。ただ生命を維持するというだけでなく、本気で生きる。生きることに真剣になる(せざるを得なくする)場所が、たまたま岩の上だったということが分かる。生きることそのものが冒険なのだ、というメッセージが伝わってくる。これは読みたい。

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ロバート・パーカーごっそり

未読の人は幸せもの『シャンタラム』

 生きることが冒険なら、ルートポートさんが持ってきた『シャンタラム』、これはわたしもお薦めしたい。絵に描いたような波瀾万丈で、一寸先も見えない状況とドラマティックな展開に、ページを繰る手が止まらなくなる。もし、これを読んでいないという人がいたら、幸せ者だと伝えたい。できるだけ予備知識を排して手にとって欲しい(新潮文庫だから裏表紙にあらすじが書いてあるが、それすら読まずに読んで欲しい)。

冒険の冒険『ヴェルヌの『八十日間世界一周』に挑む4万5千キロを競ったふたりの女性記者』

 冒険の冒険、すなわちメタ冒険できるのがこれ。みかん星人さんとOnoさんのお二人から教わったのだが、面白そう。ヴェルヌの小説『八十日間世界一周』を、リアルで実行する「冒険」と、世界一周をするのが女性記者であるという意味で「冒険」が重なる。というのも、120年前の当時、女性であるというだけで様々な差別や困難が立ちはだかるから。さらに、女性記者は二人おり、それぞれ東回り、西回りで競争するのだ。NHK歴史秘話ヒストリアでも放送されたとのこと[決着!80日間世界一周]。

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バサラいいよバサラ!

公開中の『バジュランギおじさんと、小さな迷子』と『ファーストマン』は劇場で観るべし

 すごい勢いでプッシュされ、そのまま映画館に行きたくなったのがこの2つ。きはらさんお薦めの『バジュランギおじさんと、小さな迷子』は、インドに取り残されてしまった女の子を、偶然であったおじさんがパキスタンまで連れて行くお話。絶対感動するやつやん、と身構えながら観たけどやっぱり感動したとのこと。前中眺さん、みかん星人さん、sngkskさん激推しの『ファーストマン』は、ニール・アームストロングの人生を描いたもの。映像音も凄いとのことで、まず4DXで見て、それからIMAXで観るべしとのこと。2つとも劇場で観たい。本は積めるけど、ロードショーは行かないと!

数メートル移動しただけで人生は変わる「ウェイクフィールド」

 [キリキリソテーにうってつけの日]の中の人のふくろうさんが紹介したのが「ウェイクフィールド」だと知ったとき、「あっ!」と思った。「ウェイクフィールド」という男が、失踪したふりをして、自宅から目と鼻の先にある部屋に潜伏する話。時は流れ、死んだことにされるが、男はその部屋から、寡婦となった妻の生活を眺める。わたしは、ふくろうさんの[このレビュー]に惹かれて「ウェイクフィールド」を読んだが、このプレゼンで再読したくなった(ホーソーン怖いな)。

世界を言葉で更新する『えーえんとくちから』

 オフ会やってて良かったなと思うのが、わたしが知らないスゴ本に出会えること。前中眺さんお薦めの、笹井宏之の短歌集は、全く知らなかった。というか、この詩人の存在すら知らなかった。これ、文字列よりも音読するほうが沁みる。「えーえんとくちから」を声に出して読んでもらったが、意味が分かった瞬間にぞわっとした。口に出した音が意味として伝わる前に、その言葉が捉える世界をアップデートしてしまえるのではないか、とさえ思う(ポチった)。

だよね!『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』

 激しく同意したのが、きはらさんが持ってきたこれ。日本で100万本、世界で1,000万本売れた傑作で、わたしもこのためにSwitch買った。ゼルダシリーズ初のオープンワールドで、どこへ行っても何をするのも自由な世界で、目的を忘れて道草→探検→深みにハマり、ゼルダ姫に注意されること請合う。そうだよな! と思ったのが、「世界のあまりの美しさに、ゲームコントローラーの手を止めて、ずっと見入ることが、何度もあった」。

人生とは冒険だ『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』

 おそろしくそそられるのが、羊飼いの星さんお薦めのこれ。怪しげな表紙、冒頭のどん底感、下ネタ上等の構えなんだけれど、70人との出会いと別れの中で、著者自身が学び、世界が広がり、人生が動き出していく過程は、「冒険」そのものだといえる。ブックガイドとしても面白いとのこと。

 紹介された作品は以下の通り。やりたいゲーム、観たい映画、そしてもちろん読みたい本ががしがし溜まる。Amazonのカート、図書館の予約、ToDoリストが積み上がる。本を介して人を知り、人を通じて本に会う、すばらしいひとときでした。ご参加いただいた皆さま、ネット越しにご紹介いただいた方々、ありがとうございました!

山! 『銀嶺の空白地帯に挑む カラコルム・シスパーレ』平出和也 DVD
『ビヨンド・リスク 世界のクライマー17人が語る冒険の思想』ニコラス・オコネル(ヤマケイ文庫)
『栄光の岩壁』新田次郎(新潮文庫)
『アイガー北壁・気象遭難』新田次郎(新潮文庫)
『全ての装備を知恵に置き換えること 』石川直樹(集英社)
『いま生きているという冒険』石川直樹(理論社)

旅! 『サハラに死す』上温湯隆(ヤマケイ文庫)
『旅と冒険の人類史大図鑑』サイモン・アダムズ(河出書房新社)
『ヴェルヌの『八十日間世界一周』に挑む4万5千キロを競ったふたりの女性記者』マシュー・グッドマン(柏書房)
『謎の独立国家ソマリランド』高野秀行(集英社文庫)
『辺境メシ』高野秀行(文藝春秋)
『冒険投資家ジム・ロジャーズ世界大発見』ジム・ロジャーズ(日経ビジネス文庫)
『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』 斉藤惇夫(岩波少年文庫)
『ガリバー旅行記』スウィフト(岩波書店)
『バジュランギおじさんと、小さな迷子』(インド映画)

空! 『アポロとソユーズ 米ソ宇宙飛行士が明かした開発レースの真実』デイヴィッド・スコット/アレクセイ・レオーノフ(ソニーマガジンズ)
『ロケット・ボーイズ』ホーマー・ヒッカム・ジュニア(草思社)
『まんがサイエンスⅡ ロケットの作り方おしえます』あさりよしとお(Gakken)
『夏のロケット』川端裕人(文春文庫)
『夜間飛行』サン・テグジュペリ(新潮文庫)

物語! 『シャンタラム』グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ(新潮文庫)
『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』(任天堂)
『はてしない物語』(岩波書店)
『BASARA』田村由美(小学館)
『ヘテロゲニア リンギスティコ』瀬野反人(KADOKAWA)
『ラベルのない缶詰をめぐる冒険』アレックス・シアラー(竹書房)
『魔術師』W・サマセット・モーム(新潮社)
『人外魔境』小栗虫太郎(角川文庫)
『ねずみとくじら』ウィリアム・スタイグ (評論社の児童図書館・絵本の部屋)
『ドングリドングラ』コマヤスカン(くもん出版)
『セミオーシス』スー・バーク(ハヤカワ文庫)
『ぼくのロボット大旅行』 松岡達英 (福音館の科学シリーズ)
『COMIC恐竜物語』(ポプラ社)
『ヘルマンヘッセン全集13 』ヘルマンヘッセン(臨川書店)

冒険とは経験だ! 『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』花田 菜々子(河出書房新社)
『神話の力』ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ(ハヤカワノンフィクション文庫)
『物語の法則 』クリストファーボグラー、ディビッドマッケナ(アスキーメディアワークス)
『レンタルチャイルド』石井光太(新潮社)
『あたしを溺れさせて。そして溺れ死ぬあたしを見ていて』菊地成孔(東京キララ社)
『謝罪本』WACK(フリーペーパー)
『初秋』ロバート・B・パーカー(早川書房)
『レガイア伝説、というプレイステーションRPGのCM』
『BEFORE THEY PASS AWAY』(パイインターナショナル)
『ハードウェアハッカー ~新しいモノをつくる破壊と創造の冒険』(技術評論社)
『自己犠牲とは何か 哲学的考察』田村均(名古屋大学出版社)
『トマス・アクイナス 理性と神秘』山本芳久(岩波新書)
『会計が動かす世界の歴史』ルートポート(KADOKAWA)
『眼の冒険』松田行正(紀伊國屋書店)
『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・カーソン(新潮社)
『若き友よ。』五木寛之(幻冬舎)
『「エンタメ」の夜明け ディズニーランドが日本に来た!』馬場康夫(講談社)
『バザーリア講義録 自由こそ治療だ』フランコ・バザーリア(岩波書店)

言葉と文学の冒険 『えーえんとくちから』笹井宏之(パルコ)
『れもんよむもん』はるな檸檬(新潮社)
『百人一首という感情』最果タヒ(リトルモア)
『アメリカン・マスターピース古典篇』柴田元幸翻訳(スイッチ・パブリッシング)
『夜になる前に』レイナルド・アレナス(国書刊行会文学の冒険シリーズ)
『エバ・ルーナのお話』イザベル・アジェンデ(国書刊行会文学の冒険シリーズ)
『鞄図書館』芳崎せいむ(東京創元社)
『図書館の神様』妹尾まいこ(ちくま文庫)

 次回のスゴ本オフのテーマは「桜散る、ダークネス」だ。サクラチル、ブラック、ネガティブ、復讐、後悔、殺意、闇など、暗くて黒いやつにしよう(4月かな……)。

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ガンバと文学の冒険

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『ウイルスの意味論』はスゴ本

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年2月24日


 見えてるはずなのに見ていないことに気づくと、より世界が見えるようになる。目にウロコなどなく、先入観に邪魔されていただけなのだ。そして、先入観に気づくだけで、世界が一変する。なぜなら、そこに「ある」という確信をもって、見ようとするからだ。

Virus

「惑星系=太陽系」という先入観

 たとえば、系外惑星。太陽系以外の惑星のこと。観測技術が向上したにも関わらず、近年までほとんど見つけることができなかった。しかし、1995年に「ホット・ジュピター」と呼ばれる系外惑星が見つかってから、ほとんど爆発的といってもいいほど大量に発見されている。

 ここで重要なのは、ひとたび見つかると、ラッシュのように見つけられる点にある。なぜか? それは、それまで探す対象としていたモデルが、太陽系だったから。われわれのよく知るサンプル(=1)を基に望遠鏡を向け、似たようなサイズや軌道や周期を探しても、なかなか見つからない。

 しかし、超巨大なのに恒星に近距離でしかも超高速で巡る「非常識な」惑星をたまたま見つけると、今度はそれに近いモデルで探すようになる。すると、そこらじゅうが「非常識な」惑星に満ちていることが分かってくる。太陽系というモデルは、実は例外だったのである。

 つまり、「太陽系という先入観」が、そこに「ある」確信を曇らせていたのである。かつて、地球のことを「ロンリープラネット」とか「奇跡の惑星」と呼んでいたが、『系外惑星と太陽系』を読むと、この常識も書き換える時代がやってきていることが分かる。

「ウイルス=病原体」という先入観

 これと同じことが、ウイルス研究にも起きている。病原体としてのウイルス研究が、「ウイルスという先入観」を生みだし、その先入観が「見る」ことの邪魔をしていたのだ。本書は、ウイルスの驚くべき生態と共に、生命そのものの定義を書き換えていることを明らかにする。わたしたちは、ウイルスに囲まれ、ウイルスを内に保ち、ウイルスと共に生きている。これ、教科書が変わるレベル(パラダイムシフト)だぜ。

 たとえば、ミミウイルス。1992年に発見され、「ウイルスは細菌より小さい」という常識を覆した巨大ウイルスだ。

 そして、ひとたび「非常識な」巨大ウイルスが見つかると、ここ十年でラッシュのように巨大ウイルスが発見されるようになる。シベリアの永久凍土に眠っていた3万年前のウイルスから、セーヌ川、ビルの冷却水、ハエの複眼、コンタクトレンズの保存液など、そこらじゅうで「非常識な」巨大ウイルスが見えるようになる。

 奴らは別に隠れていたわけでなく、われわれが「見て」いなかっただけなのだ。それは、病原体として研究してきたウイルスのサイズが、「ウイルスは小さいという先入観」を作り出していたにすぎない。

 あるいは、コミュニケーションをするウイルス。ウイルスは細胞に取りつき、増殖するだけの単純な存在だと見られてきたが、ファージ(細菌に感染するウイルス)同士でペプチドをやり取りすることで、細菌の生息密度を伝える集団感知システム[クオラムセンシングシステム]が紹介されている。枯草菌に感染したファージの数が一定の数になると、細菌を溶かすようになる。この溶かす・溶かさないを決定するペプチドを、ファージがメッセージとして放出しているというのだ。

 実をいうと、「クオラムセンシングシステム」は発光バクテリアや緑膿菌といった細菌の振る舞いについての説明である。もちろん細菌とウイルスは別物なのだが、ローテム・ソーレクが2017年にネイチャーにした報告[*]によると、ファージの間にもこのシステムがあるというのである。

*Callaway,E.:Do you speak virus? Phages caught sending chemical messages. Nature ,18 Jan 2017

 他にも、ウイルスに寄生するウイルスや、致命傷を負っても、DNA部品をかき集めて損傷した自分自身を再構成するウイルスが紹介される。これまで、ウイルスを無生物のような単純なものと見たり、「生物と無生物のあいだ」的な存在として扱ってきたことが、「ウイルスという先入観」を生みだしていたことに気づかされる。そして、ウイルスという先入観が、生物の定義を限定的にしていたことが分かってくる。

生命の定義を書き換える

 著者は、ウイルスの死は、生物の死の概念を超えているというが、本書を読めば読むほど、逆なのではないか? と思えてくる。ヒトが今まで陸上や水中で見てきて「生物」だと考えてきたものこそが限定的で、その定義では捉えきれない現象があることに、ようやく気付けるようになったのではないか、と思えてくる。

 生命とは何か? 英語だと、生命とはライフ(life)で、ライフとは生物のことを指す。岩波書店の『生物学事典』によるとこうなる。

 ・生物とは、生命現象を営む者
 ・生命とは、生物の本質的属性

あれだ、辞書でAを引くとBと書いてあり、Bを見るとAと書いてあるやつwww 本書では、この循環から大きく踏み出し、生命を3つの単語で定義することを試みる。すなわち、生命は、変化を伴う自力増殖が可能で代謝活性のある情報システムで、エネルギーと適切な環境を必要とする存在だとし、最終的に、

self-reproduction with variations
(変異を伴う自力増殖)

までまとめている。19世紀前半までは、生物とは動物と植物だった。後半になると、ワインやビールを発酵させる酵母(真菌)が発見され、さらに病気の原因となる炭疽菌が見つかった。さらに、20世紀末のDNA研究により、リボソームの構造から分類が見直され、3つのドメインが定説となっている。

 生命とは、
   ・真核生物(動物、植物、真菌)
   ・原核生物(細菌)
   ・アーキア
 である。

 しかし、巨大ウイルスやコミュニケーションするファージなど、上記では括れない「変異を伴う自己増殖」する存在が次々と見つかることで、新たな定義を提案する。

 生命とは、
  ●リボソームをコードする生命体
    ・真核生物(動物、植物、真菌)
    ・原核生物(細菌)
    ・アーキア
  ●カプシドをコードする生命体
    ・真核生物ウイルス
    ・ファージ
    ・アーキウイルス
 である。

 何のことはない、ウイルスを単純な存在だと見なしていたヒトこそが、見えてるものが全てだと思い込むくらい単純な存在だったのである。そして、それに気づくくらい「見える」ようになったのである。

ウイルスから地球を見る

 たいへん興味深いのは、系外惑星を見つけるのに望遠技術が必要だったのではなく、「先入観を捨てること」だったことと同じことが、生命の研究においても起きていること。そして、先入観を捨てて生命を再定義すると、世界はもっと「見える」ようになる。

 たとえば、水圏(海水、淡水)。水圏にいる藻類や微生物を宿主とするウイルスは、地球規模で影響を与えていることが分かってきている。すなわち、ウイルスが雲の形成に関わっているというのである。つまりこうだ、藻類が大気に放出する硫黄化合物ジメチルスルフィルド(DMS)が、エアロゾル(雲のもと)になるのだが、これは、ウイルスの感染によるというのだ。

 あるいは、生命の起源として、深海中の熱水噴出孔近辺だという説があるが、この領域でもアーキウイルスが発見されている。

 高温高圧の極限下、無酸素で増殖している微生物がいるが、微生物と共におびただしい数のウイルスが活動している。「高温高圧の極限下」という表現そのものがヒト中心の偏見であり、1ml中に1000万個検出されているウイルスにすれば故郷みたいなものだろう。そして、生命誕生そのものにもウイルスが関わっている可能性が指摘されている。

ウイルスから世界史を見る

 ウイルスは世界史にも影響を与えている。マクニール『疫病と世界史』が世界史からの「ヒト中心」のアプローチなら、本書はウイルスから世界史を見る。わかりやすいのはインフルエンザの流行だが、そうした「疫病」という形を取らない災厄もある。

 たとえば、モンゴル軍がもたらした牛疫だ。多くの品種の牛に感染し、致死率70%の毒性がる疫病である。

 モンゴル帝国が急速に拡大していった理由として、騎兵と弓兵を活かした機動力の高い戦術や、軍事国家であること、投石器や火薬といった中国やイスラムの技術を活用したことが挙げられるが、本書によると、牛疫ウイルスが一役買っていたという。

 ただし、モンゴルの高原地帯で飼育される灰色牛(グレイ・ステップ牛)は抵抗性があった。そのため、感染しても症状をほとんど出すことなく、数ヶ月にわたってウイルスを糞便で排出し続けることになる。

 そして、モンゴル軍は、物資の輸送役+食糧として、灰色牛を連れていた。灰色牛は行く先々で糞便と共に牛疫ウイルスをまき散らし、農耕での重要な労働力である牛を全滅させていった結果、国力を低下させる。つまり、灰色牛は事実上、モンゴル軍の生物兵器になっていたというのだ。

ウイルスからSFを見る

 著者はウイルス研究の第一人者である、山内一也東大名誉教授だ。そして本書はもちろんノンフィクションの分類に入るのだが、ウイルスの振る舞いと未来予想を見ていると、どうしてもフィクション、しかもSFを想起させる。あまりに生々しく、現実味のある脅威が、実は身近にある(あった)ことが、よく分かる。

 たとえば、天然痘ウイルスの人工合成だ。

 1980年に根絶が宣言された天然痘だが、「基礎研究のため」米国とロシアの研究所で保管されている。厳重に保管されていたウイルスが盗み出され、紛失するというシナリオは、小松左京『復活の日』を思い出すが、今ではDIY可能である。

 まず、天然痘ウイルスのゲノムの塩基配列はすべて解読され、公開されている。もちろん、天然痘ウイルスのDNA合成は禁じられており、WHOはゲノムの20%以上を作成することを制限している。そのため、DNA合成を受託する会社は、天然痘ウイルスのDNA合成できない制約が課せられている。

 しかし、これには抜け穴がある。カナダの大学がこの抜け穴から馬痘を合成してみせたのである。

 まず、馬痘ウイルスのゲノムを10個の断片に分けて、複数のDNA合成会社に発注する。できたDNA断片をつなぎ合わせ、馬痘のゲノムを構築した。それだけだと感染性がないため、ヘルパーウイルスを感染させた細胞に導入し、再活性化できるようにした。発注は全てメールで済ませ、合成の代金は全部で10万ドル(1100万円)だったという。

 理論上では、天然痘も可能である。この手順はあまりにも危険性が高いと判断され、「サイエンス」「ネイチャー」誌からは掲載が却下されたが、「プロスワン」誌は慎重に検討した上で掲載している。むかし、ネットで水素爆弾の製造の仕方が公開されて物議をかもしたが、今では天然痘の作り方が公開される時代となっている。

 バイオテロリストにとっては嬉しい話だろう。インフルエンザの2倍の感染力を持ち、感染から発症まで10日間の潜伏期間がある(医師が天然痘に気づくまでにさらに数日はかかる)。テロリストは自分に種痘しておけば、自分が感染することなく、合成、培養、散布することができる。都市部ではパンデミック級の威力を持つのであれば、1100万円は安いものだ。

 他にも、冷蔵設備が無い状況でワクチンを運ぶため「孤児」を使う話から『ザ・ラスト・オブ・アス』を、芋虫に卵を産み付け、孵った幼虫が芋虫を食べるヒメバチの習性は、7000万年前に始まったウイルスとの共生からという話から『エイリアン』を、さらに致死的ダメージを喰らっても、他の生きた部品から自分を再構成する件なんて、『ジョジョの奇妙な冒険』のゴールドエクスペリエンスを思い出す。

 [基本読書の冬木さんと対談]したとき、冬木さんが「世界の様相をガラリと変えるのがSFだ」と喝破したが、これはまさにSFとしても読めるし、そう読むことで次のSFのヒントが詰まっているともいえる。

 ウイルスの興味深い振る舞いから始まり、「生命とは何か」の根幹に衝撃を与え、さらには世界の「見え方」が変わってしまう一冊。

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苦しまないと死ねない国で、上手に楽に死ぬために『医者には絶対書けない幸せな死に方』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年3月3日


 生活や仕事の質を上げるテクニックが「ライフハック」なら、本書は、安らかに死ねるためのテクニックを集めた「デスハック」である。QOL(Quality Of Life)ならぬQOD(Quality Of Death)を向上させるノウハウ集やな。

Ishaniha

「平均寿命」-「健康寿命」≒ 10年

 日本人の8割は病院で死ぬが、病院では迎える死は「安らか」でない場合が多いという。なまじ延命治療技術が発達してしまったため、病院のベッドに何か月も縛り付けられたまま拷問のような状態で死に至る人が大勢いるらしい。

 WHOによると、「健康寿命」の定義は、「医療や介護に依存せず、自力で生活ができる期間」になる。日本人の平均寿命(2016)と並べると、こうなる。

  健康寿命/平均寿命
男  71歳 / 80歳
女  74歳 / 87歳

 つまり、死ぬ前に、男は10年、女は12年程度、医療や介護のお世話になる期間があることが見込まれる。そして、他人のお世話にならないと生きていけない10年をどうとらえるかが、死に方・死に時を考える入口となる。

 その10年は、誰かにオムツを替えてもらう10年か、恍惚の人となり家族に見放される10年か、ベッドに縛り付けられて「やめてくれ」と意思表示もままならない10年か、あるいはその全てか、さまざまな可能性に満ちている。

 現役の高齢者になると、ピンコロを願うという。ピンコロとは、直前までピンピンしており、ある日、苦しむことなくコロリと死ぬ「ピンピンコロリ」の略である。「ぽっくり逝く」の現代版みたいだが、節子、それ突然死や。お別れも未練もなく断ち切られる人生である。良し悪しともかく、そういう死に方ができる人は5%だという。

「できる限りのことをしてください」

 本書によると、自然死というのは、一種の餓死になる。老衰や病気で身体機能が落ちてくると、人は自然とものを食べなくなり、枯れるように死んでいく。理想的な死の一つだが、病院ではなかなかそうさせてくれない。

 なぜか?

 まず、病院側の事情がある。病院に担ぎ込まれたのであれば、治療せねばならぬ。自力で飲食できなくても、チューブにつながれ、無理やりにでも水分や栄養分を補給する必要がある。そして、家族が「できるだけのことをしてあげてください」と言うならば、できる限りの治療を施すことになる。

 そして、人工呼吸や胃ろうなど、延命治療を始めたならば、それをやめるのは難しい。訴訟リスクがあるからだ。本人が、文字通り「必死に」なって、家に帰る、死なせてくれと訴えても、家族や周りの人が、最後まで頑張って、可能な限りの治療をと言うならば、医師は後者に従ってしまう。

 家で死にたい親と、家で死なせたくない家族。この状態になると、いつ死ぬかは分からない。延命技術は日々進展しており、「死なせないため」なら、本人の意思はともかく、寝たきりの状態をできるだけ長く続けることができるから。

 結果、死亡前1年間にかかる1人あたり医療費は膨れ上がり、平均でも300万円弱かかっているという。手厚い延命治療を施した場合、1,100万円になる。「終末医療をカネで測るのは筋悪」という議論があるが、事実だけは確認したい。

300万の出典は、(本書によると)以下の通り。『高齢者の医療の~』を参照してみよう。
『高齢者の医療の確保に関する法律の解説』土佐和男・法研2008年
「終末医療の動向」日本医師会雑誌113巻12号
「東京都老人医療センターにおける終末医療費の解析」[参考]

1,100万は、『医師の一分』で見かけた。出典を確かめてみよう。

「良い死」とは

 ではどうすれば「良い死」を迎えられるか?

 これは、多くの人の死を見てきた医師に聞くのが手っ取り早い。つまり、「自分なら」どんな終末期医療を望むか、と医師に尋ねるのである。[良い死、悪い死、普通の死]でも考察したが、「良い死」として医者がすすめる死に方は、当の医者が患者に施している方法と、全く異なる。つまり、医者は、自分にしてほしくない医療を、患者に対して行っているのだ。

  • ほぼ全員が事前指示書を所持
  • 大多数の医者は、心肺蘇生、透析、大手術、胃ろうを希望しなかった
  • 全員が鎮痛薬、麻酔薬を希望

 この技は、自分や家族について医師と相談する際にも使える。ある治療や処置を施すかどうかについて、医師から判断を求められたとき、「先生ご自身がこうなられたら、どういう処置を望みますか」と聞くのだ(家族の場合なら「先生のお母さまが~」と置き換えればよい)。

 また、事前指示書については、たとえば東京駅の近くの京橋公証役場で、「尊厳死宣言公正証書」が作成できる(1万1千円とのこと)。証書を作るだけでなく、延命措置を打ち切る医師のリスクを下げる方法について聞いてみよう(この情報、週刊ポストで知ったのだが、時代だな……)。

 あるいは、本書によると、少なからずの医師が、「死ぬなら癌がいい」と公言しているという。理由としては、余命宣告されてから死ぬまでに動ける時間があること、残務整理やお世話になった人へのお礼の言葉を伝えられることが挙げられる。

 しかし、これは表向きで、一番は「確実に死ねる」ことにある。ある年齢以上になった場合、一年ぐらいで確実に死ねる死は、実は歓迎するべきものなのでは―――という意見もある(丸山理一「死について」日本医事新報1991年1月26日号)。これを書いた丸山医師は、自分で胃がんを診断してから「治療はしない」と決断し、9か月後に亡くなったという。63歳だった。

 死に方について、医療関係者や宗教関係者によって書かれる本は多い。だが、本書はどちらの立場でもない。認知症になった親の介護に苦労して、金も時間も使い果たした末に掴んだ介護保険や介護施設の裏事情が書いてある。

 生々しい話や、壮絶なものもある。「お金はないが、楽な死に方としての凍死」も提案されている。カネがあれば幸せな死が迎えられるかというと、そうでもない。社会が変わるのに時間がかかる。その前に、わたしの死がやってくるだろう。願わくば安らかな最期だが、願うだけでなく、できる準備はしておく。

 最後は……どうか、幸せな記憶を。

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移行をナメると高くつく―――建設現場リース物件管理システム事件

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「データ移行作業」を軽視するのは、営業担当者に多い。

旧システムにあるデータを抜いてきて、新システムに入れるだけだから、いわばコピー&ペーストみたいなものだろうと考える。データ形式に違いがあっても、一括変換の移行プログラムを通すだけの手間に過ぎないと見なす。

かつて、営業担当がこんなことを言ってきた―――「移行元データは旧システムの過去データで、XMLファイルだから、ちょこっと直すだけで、新システムに入れられるよね。確認も含めて3日でできるよね。これサンプル」。1日あれば、変換して新システムに入れられるだろうという目論みで、顧客と約束してきたという。

ところが、移行プログラムが異常終了しまくる。

調べてみると、拡張子がXMLなだけで、中身が改変されているものが多数見つかった。旧システムの運用担当者が、勉強のために編集していたらしい。幸いなことに、どう修正すればよいかは判別できた。ただし、どのファイルが汚れているかは、移行プログラムを走らせてみないと分からない状況に陥った。

仕方なく、移行プログラム異常終了 ⇒ 汚染ファイルを人手で修正 ⇒ 移行プログラム再走行を繰り返すハメになり、最後は付きっきりで面倒を見た。汚染ファイルは30程度、徹夜は1晩で済んだが、移行作業は1週間かかった。

最終的には間に合ったのだが、移行の遅れについて、営業担当が、「移行プログラムの不具合です」と言い放ったことは絶対に忘れない(こいつはヨソでも間違いを起こすのだが、それはまた別の話)。

移行をナメると高くつく。

  • プロジェクトの終盤、サービス開始の直前になるため、時間的に切迫している
  • 動いている旧システムから抽出するため、仕掛り中の情報などを後から戻って取り直すのは困難
  • 旧と新の狭間にある中間データで、両方の仕様に関わるため、解析難度が高い
  • 異常の場合、旧システムに元々あった不具合か、抽出したデータの不具合か、新システムに反映した後の不具合か、切り分けが困難

移行は、「なにもなければ」データを抜いて入れるだけの時間と手間になる。しかし、「なにか問題があったとき」手遅れとなりがちだ。時間的余裕は無く、新旧両システムのデータと、移行プログラムそのものに熟知している必要があり、場合によっては旧システムの運用まで把握するため、緊急にユーザへの協力を仰ぐことだってある。

そして「問題があったとき」、現場の努力でなんとかする場合が多い。データが汚れていれば、ユーザに突き返している時間が無いから、こっちでクレンジングする。たとえ旧システムの運用の不具合だったとしても、新システムで「いい感じ」に動くように直してしまう。そういう、臨機応変の対応が、プロジェクトの完遂につながる。現場はそう信じて頑張る。

そういう「なんとかする」が、桁レベルで通用しなくなることがある。汚染ファイルが30個なら、完徹一晩で済むかもしれぬ。だが、10万件だったら?

■3行まとめ

3行でまとめる。

  • 建築現場に足場などの資材をリースする会社が、事務処理システムを2300万円で発注した(うち、データ移行費は70万円)
  • 納期から4か月半遅れてデータ移行工程を終えたが、システムは動かなかった。デリバリ(入出庫)データと請求のデータに不整合があったためだ
  • ユーザは契約を解除。ベンダは既払い報酬・売買代金・弁護士費用あわせて2100万円の支払いを命じられた。ベンダの反訴は棄却、過失相殺も認められなかった

建設現場リース物件管理システム事件と呼ばれている。

様々な判例を見てきたが、これほどきれいな負け方はない。よくあるのは、ユーザとベンダの双方に何かしらの責任を認め、それを何割かで割って取り分を切りなおす判断だ。この裁判では、それをしていない。

ベンダの落ち度は丸ごと勘定され、「申し開きのない」失敗となっている。

そして、データの不整合の総数が判明したのは、プロジェクトが破綻してから2年後で、別の後継ベンダが数えたときだった。その数、10万7316件。被告となったベンダは、自分が移行したデータの不整合が何件あったか、最後まで知らないまま終わっている。

ただし、これは何もしなかったベンダの話ではない。ヒアリングを重ね、例外処理の手順書まで作り、納期後もシステムを動かそうと調査を続けていた。それでも、移行元のデータの状態に気づかず、補正方法も決めないまま進めたことが、致命傷となった。

■移行の恐ろしさ

移行がいかに恐ろしいかは、ベンダが述べたこの一文を読んだ方が早い(なお、これはベンダの言い分であって、裁判所が認めたものではなく、むしろこの理屈を退けている)。

「移行の対象となるデータは、原告の過去10数年分のデータである上、原告は毎月約1000件の請求書を作成していたから、被告がこのような膨大なデータについてデータ不整合の有無を確認することは、開発期間が10か月程度、報酬額が2310万円程度の小規模なシステム開発プロジェクトである本件請負契約において、現実的ではなく、実際上不可能であった」

負けた側の言い分だが、現場感覚としては分かる人が多いだろう。データに不整合があり、それが移行の失敗を招いたのだから。そして、この言い分こそが、事件の核心になる。

この不整合は、どこで起きているのか? 判例から作成した模式図がこれだ。

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図の赤点線が不整合の箇所になる。

不整合が起きるメカニズムは次の通り。

  1. 建築現場で足場の資材を貸出す
  2. 貸出・返却結果はデリバリデータに反映される(※)
  3. デリバリデータを元に、請求データ・請求書を作る

通常であればデリバリデータは最新化されているが、「滅失」や「リース止め」により、※にデータが反映されない場合がある。滅失とは、貸し出した資材が紛失や破損で、通常の請求ができなくなった状態をいう。リース止めとは、資材は現場に残っているものの、特定の日以降、リース料の請求をしない扱いにするものだ。

こうした特殊な場合には、デリバリデータからコピーした「中間ファイル」を作成し、それを手入力で訂正していた。そして、訂正内容は「手書きデリバリ台帳」で管理していた。

その結果、デリバリデータと請求データは、整合性が取れていない状態だった。そうした状態で、月に1,000件の請求書が作成され、過去10数年分の蓄積があったことになる。これを「70万円」で移行するのは無理があるだろう。

■チャンスはあった

ベンダは知らなかったのだろうか?

そうではない、別にベンダはサボっていたわけではない。契約前の2010年11月から、分かっている限りで合計6回、ヒアリングを行っていた。それぞれの機能や画面、運用方法、請求・入金管理など、順序や網羅性は教科書通りである。

例外処理についても、専用の回を設けてヒアリングを行っている。さらに、「滅失が発生した場合の運用」と「リース止めが発生した場合の運用」とに分けて手順書を作成し、ユーザに渡している。

旧システムでは中間ファイルと手書き台帳を経て請求に渡る流れは、その手順書に書かれていた。だから、全く知らなかったというわけではない。

知らなかったのは、その「件数」だ。例外処理が何件あるかは、訊けば手がかりを得られたかもしれないが、訊かなければ最後まで分からない類の情報だ。

では、ユーザは伝えなかったのだろうか?

そうではない、別にユーザも協力を怠っていたわけではない。2011年6月に契約した、まさにその日の打ち合わせで、ユーザはこう説明している。

「現在はデリバリ台帳を手書きで作成している。システムがあまり信用できないため、L(業務1課)が手入力した帳票とデータの突合せを行っている状態である」

現行システムを「あまり信用できない」と、はっきり述べている。その理由として、①入力ミス、②滅失・リース止めに対応できていないことまで説明している。

そして、ユーザは移行対象として以下を挙げて、そのデータを一式、ベンダに渡している。

  • デリバリデータ
  • 請求データ
  • 経理データ
  • 在庫データ
  • 以上を含む十数年分のデータ

旧システムのバックアップも渡されている。中身に何が入っていたか、裁判所は認定していないものの、ユーザはバックアップデータを提供しており、ベンダはこれを調査・分析することによりデータの不整合の件数や理由を把握し得ることがうかがわれる、と述べている。

つまり、ベンダは「知らなかった」という訳ではないし、「知らなかった」では済まされなかったのだ。

判決は、ベンダの契約当時の認識を、こう認定している。

「滅失・リース止めはそれほど頻繁に発生せず、入力ミスも多くないと推測し、データ不整合は多数に上らず、移行後に手作業で修正することで対応可能と見込んでいた」

判決文はこの通り。「推測」「見込んでいた」という推測の根拠が何だったのかは、記されていない。そして裁判所は、ここを刺している。

「被告がデータの移行業務に当たり、原告の業務における滅失・リース止めの発生頻度について尋ねたことや、本件旧システム上のデータを調査・分析したことをうかがわせる証拠はない」

書き方に注目してほしい。「尋ねなかった」ではなく「尋ねたことをうかがわせる証拠はない」とある。この書き方の方が、実は怖い。もし、尋ねていたなら、尋ねた結果が何であるか、残っていたはずだといえるから。

ユーザは現行システムを「あまり信用できない」と述べ、ベンダはその頻度を「推測」した。「たぶん少ないだろう」の反対語は、「たぶん多いだろう」ではない、「知らない」である。

「滅失」「リース止め」という言葉は、例外の顔をしている。耳慣れない言葉だからといって、頻度も例外とは限らない。貸し出した足場が戻ってこないことが、日常的なのか頻繁に起きないのかは、現場に訊く必要がある。

だから、この事件から得られる「よい質問」はこうなる。

「滅失って、月にどれくらい出るのでしょうか?」
「その例外処理をしている方は、どなたですか?」
「その方が『今月は多いな』と思うのって、何件くらいのときですか?」

例外処理だからといって、頻度も例外的とは限らない。

また、移行という作業を独立したプロセスだという観点からは、こんな「よい質問」が挙げられる。

(見積もりレビュー時)「この移行の見積もり70万円の内訳を教えてください。単にデータを入れるだけのように見えますが、移行元データの正しさ(整合性)を調べるタスクは見積もっていますか?」

この質問は、ユーザへ見積もりを出す前のベンダ内部でのレビュー時に投げかけたい。あるいは、見積もりを提示されたユーザがベンダに確認する際にも有効だろう。

■移行の「正しさ」とは

移行前後の時系列はこうなる。

 2012年4月   新旧のシステムを並行稼働させ、移行作業を開始
 2012年4月23日 契約上の納期(新システムの開始予定日)
 2012年9月   データ移行作業が完了したことをベンダが報告

そして、9月の議事録では、8月末の締め分について、

 ・全631現場
 ・不具合あり…229現場
   うち 移行データの問題…88現場
      合計欄のバグ…103現場
      その他…38現場

と報告されている。

バグならまだマシだ。想定通りでない原因まで突き止められ、いつ直せるかといった対応の話に持っていけるから。

問題なのは、「原因不明の不整合が多数存在することが判明した」というベンダの主張だ。表面的な現象としては、①過去の基本料が出る、②基本料が出ない、③過去出庫の請求が出る等といったものだが、なぜそうなのかが特定できなかった。

切り分けが出来ていない以上、旧システムにある元々の問題なのか、移行プロセスの中で起きてしまった不具合なのか、分からない地獄に陥っている。

ベンダの「原因不明の不整合が多数あった」という主張に対し、裁判所はこう付け加えている。

「これらの事象については、被告のデータの移行に問題があったことによって発生したものであることも否定し得ない」

答えが分かっている今から振り返ると、元々の旧システムにあった不整合が、移行で火を噴いたと単純化できる。だが、調べていなかった以上、その問題はベンダが引き受けることになってしまう。

つまり、2012年4月~9月において、移行の「正しさ」について、確かなことを言える人は、ベンダにはいなかったのだ。

では、何をもって「正しい」と判定したのか。

破綻後の協議で採られたのは、新旧のシステムでそれぞれ請求書を出力し、内容を比較して差異に赤ペンを入れる方法だった。1件1時間かかったと議事録にある。

注意してほしいのは、照合の単位が「現場」であって、レコードではないことだ。「88現場で移行データに問題がある」ところまでは分かる。だが、その現場のどのレコードのどの値が、なぜ違うのかは、この方法では出てこない。

その結果、1件ずつ人が調べることになり、1件1時間かかり、時間切れになる。

この段階になって初めて「受領したデータに問題があるため、補正にはご協力や追加費用が必要です」と申し出ても、交渉は難しい。実際、補正作業は請負業務の範囲外と主張したのに対し、ユーザは契約書に明記された業務だとして受け入れなかった。

従って、移行の「正しさ」について質問を投げかけるなら、炎上するずっと前、すなわち、見積もりや、移行リハーサルの検討の時点で済ませておく。

「移行をしたとき、データが合わなかった場合の話をしたいのですが……」
「不整合が見つかった場合、原則としてユーザへ差し戻しますか。それともベンダ側で補正しますか。例外的に扱いを変える条件も整理しておきませんか」
(更問い)「ベンダ側で補正するなら、その値が業務的に正しいということは、誰の判断になりますか」

どちらで補正するか、10分で済む話だろう。補正する人と、その「正しさ」を判断する人など、担当名まで割り振っておく。破綻後の協議事項なら撥ねつけられるが、平時なら調整できる。

■「正しい」移行とは

プロジェクトが破綻してから2年の月日が経ち、後続のベンダが移行を行った。その方法は以下の通り。

  1. 旧システムの移行対象のデータを抽出
  2. 移行プログラムによる自動補正(107,316件)
  3. 新システムへ移行し、新旧を並行稼働
  4. 追加で45件を手動でデータパッチ

移行をナメると高くつく。

ただし、高くつくのは、不整合が多いからだけではない。不整合が何件あるかを知らず、何が「正しい」かを決めず、どう補正するかを、移行本番になるまで決めていなかったことが致命傷だといえる。

次に見積書で「データ移行作業」の一行を見たときは、「70万円」と「10万7316件」を思い出そう。この2つの数字の間にあるものは、技術力の差ではなく、数えたかどうかの差になる。

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山が好きだからといって善人とは限らない『闇冥』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年3月10日


 三大「〇〇好きに悪人はいない」のカウンターができた。

 犬好きに悪人はいない → 『愛犬家殺人事件』
 子好きに悪人はいない → 『IT』
 山好きに悪人はいない → 『闇冥』

 最初は、埼玉愛犬家連続殺人事件。犬の取引をめぐる金銭トラブルや虚偽の出資話の発覚を恐れた口封じで、4人の遺体を解体・焼却して遺棄し、証拠隠滅を図った事件。これをベースに、園子温・監督・脚本の映画『冷たい熱帯魚』が有名。

 次は、殺人ピエロの異名を持つジョン・ゲイシーから想を得た小説。みんな大好きスティーヴン・キングの長編で、映画にもなっている(リメイクされたハイ! ジョージーが有名やな)。怖さなら小説を、おぞましさなら、実話のほうWikipedia[ジョン・ゲイシー]をお薦めする。

 最後は、今回お薦めの山岳ミステリアンソロジー。馳星周が選んだとあって、ノワールなやつから悲哀に満ちた作品までさまざま。ここでは、山岳ミステリの傑作とも言われる、松本清張「遭難」について紹介しよう。

 悪天候の鹿島槍ヶ岳で、三人のパーティーが遭難する。一人が死亡し、生還したメンバーがその顛末を手記の形で山岳雑誌に寄稿する。読者はいきなり、この手記と向き合うことになる。

 手記を書いた人は登山初心者だが、他の二人は経験者であり、装備も準備もしっかり整えたうえで山に臨んでいる。前夜から寝台列車を使うなど、疲れを残さないよう配慮し、きちんと休憩を取りながら、無理のないルートで登ってゆく。

 ところが、急激な天候の悪化やメンバーの体調不良により、だんだん追い込まれてゆく。悪いことは重なるもので、強行か撤退かの判断に迷ううちに、霧が出て方向を見失い、体温と体力を失う中で夜を迎える。リーダーが決死の覚悟で助けを求めるために地図なしで山小屋に向かうのだが―――

 この件の描写がたいへん秀逸で、最初は楽しい山行きが、だんだん怪しく不安になり、暴力的な風雨まじりで夜が圧しかかってくるシーンは、頭がおかしくなっても仕方ないと思えるほど。

 手記には特に不備もなく、「山では絶対に無理をしていない」といったありふれた教訓を残すのみでしめられている。結局これは遭難事故として扱われるのだが、この時点でまだ、小説の半分にも至っていない。

 そして、松本清張の本領が発揮されるのはここから。たいへん面白い。最初は何でもない話だったのに、だんだんと疑惑が深まり、最終的に確信へと至る。その核心の部分は、さまざまな伏線の形をとり、最後に全てが重なるようにできている。

 これ、単にミステリとして極上の面白さだけでなく、小説の構造に含ませた仕掛けとしてもよくできている。そして、いかにも松本清張らしい。さらに、ラストで読み手に考えることを突き付ける。

 善悪のことよりも、この続きだろう。わたしは、清張のある長編小説に繋がるなぁと思った瞬間、これは清張が築き上げた社会派ミステリのテーマでもあることに気づいた。曰く、「人が一番おそろしい」やね。

 他にも、遭難の背後に潜む闇を描いた作品や、山同様に運命の容赦のなさを描いたもの、意外な因果応報など、一筋縄ではいかない傑作ぞろいなり。収録作品は以下の通り。

 松本清張 遭難
 新田次郎 錆びたピッケル
 加藤 薫 遭難
 森村誠一 垂直の陥穽

 そうなんだ、人の怖ろしさは、全て人が抱える闇の中にあるもので、山は、それとは別個に存在する。いや、そうではない。むしろ、人のおぞましさ・浅ましさは、山という極限状態の場でこそ、赤裸々に暴かれてしまうと言う方がしっくりくる。

 「〇〇好きに悪人はいない」という言葉そのものに罠がある。〇〇と善悪は関係がなく、ただ人の闇に善悪があるだけなのだから。

Annmei

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後知恵を先知恵にする「ジェイコム株誤発注事件」

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「言ったよね、ちゃんと確認しないとダメって」

トラブルが起きると、ドヤ顔で口撃してくる人がいる。原因が判明した後になって、「なぜ、その原因を前もって潰しておかなかったのか」と詰めてくる。

全てが分かった「後」なら、リスクを減らす方法も、トラブルを回避する方法も思いつく。だが、トラブルが起きる「前」に、その原因を知るのは難しい。

それにもかかわらず、後から得た「答え」でもって、当時の判断を責める。これを「後知恵」「事後孔明」という。

そういう口撃には、「ごめんなさい、予知能力がなくて」と返している。皮肉が理解できない人には、噛み砕いて「どこを確認しておくかを、後ではなく、予め知ってたら良かったですね」なんて説明する。

事象を原因と結果でつなぎ、因果によって説明しようとする限り、後知恵の罠から逃れることができないのかもしれぬ。

では、トラブルが起きた後になって、「こうしておけば良かった」と責任を問うのは、全て後知恵なのだろうか。

ジェイコム株誤発注事件の判決の核心は、まさにここだ。

異例中の異例の判決で、裁判官自身が、後知恵の罠について戒めているからだ。後からだったら何でも言える。だが、後から責任を問うとき、その判断となるものは何になるか。

事実として、確かに売買システムにバグがあった。だが裁判所は、後から判明したことから開発時の責任を問うことに慎重だった。一方で、目の前で膨らんでいく異常な数字を見ながら売買を止めなかったことには、重い責任を認めた。

同じ事件の中で、一方は「後から判明したことを使っている」として退けられ、もう一方は、同じく後から引かれた線でありながら、責任判断の根拠になった。

その違いはどこにあるのか。

■3行まとめ

3行でまとめる。

  • 新規上場株で、1株61万円で売るはずが、1円で61万株で発注してしまった
  • すぐ取消したがバグにより取消せず、出続ける異常値を知りながら取引所は売買を止めなかった
  • 判決はバグについては重過失を否定して免責を認める一方、「午前9時35分00秒までに売買を止めなかった」ことを重過失として、約107億円の賠償を命じた
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これ、バグに限らず、オペミス、デグレ、思考停止、イレギュラーな対応等が幾重にも絡み合い、「どうしてこうなった」としか言いようがない異様な事件だ。

十数分たらずの間に起きたことを、分秒刻みで整理する。アルファベットは取引所の株式総務グループの担当者。


9:27:56


証券会社の従業員が「1円・61万株」の売り注文を発注。端末の警告表示を認識したうえで、意味を確認せずEnterキーを2回押下


9:28ころ


取引所が異常を検知。銘柄の異常注文抽出基準5000単位を超えていた


9:29:21


証券会社が取消注文を入力


9:29:26


システムが「全数量約定済」と「内出来数量1822株」という論理的に矛盾する電文を発信


9:30ころ


株式総務グループ4名が板画面を確認。発行済株式数1万4500株と公募株数を把握。E(リーダー)は「誤発注であればすぐに取り消される」と考えていた


(この間)


Mが「売買停止を考えざるを得ないのではないか」と発言。他のメンバーが「売買停止して他の市場参加者から取引の機会を奪うのはどうか」と応じる


9:32〜33ころ


Eが会議を中座して板を確認。経過を1分程度で聞き、「売買停止をするほかないとの考えに傾いた」


9:33:17〜9:35:40


証券会社が取消注文5回・変更注文2回を入力。いずれも実行されず


9:33:25


約定株式数4万3535株。発行済株式数の3倍を超過


9:34ころ


Mが「その場合に備えて」別室の売買監理グループへ向かう。Eも向かい、入口から人が集まっているのを確認したが、何らの依頼や発言もせずに戻る


9:35:00


【裁判所認定:この時点までに売買停止が可能であった】


9:35:25


Kが「証券会社に状況確認をしたうえで要否を判断すべき」と考えて架電


9:36ころ


証券会社が「取り消そうと思っても取消しが入らない状況」と伝える


9:37:17まで


証券会社自身の反対注文により、売り注文が板から消滅


9:37:25ころ


Eが売買停止を通告しようと電話を代わるが、既に消滅を双方で確認。売買停止は最後まで実行されなかった

■争点と裁判所の判断

証券会社の言い分としてはこうだ。

  • 確かに「1円・61万株」というミスをしたが、システムのバグのせいで取り消しができなかった
  • 取引所の権限で売買停止ができたはずだが、その体制が不備で時間がかかりすぎた
  • バグの発見や修正も容易にできたはず

一方、取引所の主張はこうなる。

  • 売買停止の影響は、市場全体になるため、簡単にはできない
  • 制度やマニュアルに不備はなく、適切に対応した結果で、義務違反は無い
  • バグの発見は容易ではない

対立構造をまとめると、こうなる。

  • 「バグは見つけられたはず」vs.「発見は困難」
  • 「すぐ売買停止にできたはず」vs.「軽々しく止めてはいけない」

先に「答え」すなわち判決をまとめる。

  • バグについては債務不履行の責任があるが、「重過失」ではない
  • 売買停止が遅れたことは「重過失」である
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■なぜバグが「重過失」ではないのか

誤発注が取り消しできなかったのは、バグが原因だ。

バグ自体は、事件の5年以上前、2000年2月に、別件の不具合を直したときに作り込まれていた。

ある特殊な注文を取り消そうとすると、取消対象を見つけられず、処理が止まる不具合が発生していた。そこで、「すでに全て約定(売買が成立)している注文なら、検索せずに処理を終える」というルートが追加された。

だが、そのルートにバグがあった。「すでに全て約定している」かどうかの判断に、一時的に保存された情報を参照していたのだが、この参照先が消されてしまうと、まだ約定していない注文が残っていても、システムは「全数約定済み」と判断して、取消処理を終えてしまうのだ。

このバグは、テストを経てリリースされ、5年もの間、公になることはなかったが、「1円・61万株」の注文という、最悪のタイミングでもって取消不能を引き起こす。これは言い逃れのできない事実だ。

証券会社は、こうした取消不能を引き起こす条件で回帰テストや機能テストを行っていれば、容易に発見できたはずだと主張した。確かにその通りかもしれない。

だが、ここで契約が出てくる。「取引所に故意または重過失がある場合を除き賠償の責任を負わない」とある。いわゆる免責規定だ。だから争点は、「バグを作り込んだこと、5年間見つけられなかったことが重過失にあたるか」に絞られることになる。

裁判所は、バグが引き起こした重大性は認めつつも、「事故後なら再現条件を作れる」ことと、「事故前にその条件を思いつくのが容易だった」ことは別だとし、バグを重過失とはしなかった。

判決文としては珍しい一文がある。以下に引用する。

もっとも、現在においては本件バグの存在と本件不具合の発生条件が明らかになっているところ、その結果から本件バグの作込みの回避容易性等について議論する(いわゆる後知恵の)弊に陥ることがないように判断することが要請される。

■なぜ売買停止の遅れが「重過失」なのか

一方で、売買停止が遅れた……というか売買停止をしなかったことについては、重過失が認められた。

重過失というからには、重大な過失になる。

例えば、こんな感じ。

  • 火災報知器が鳴り、煙と炎が見えた
  • さらに、ビルの防災管理者も認識し、避難ルートもあった
  • あとは、スイッチを押せば非常放送が流れ、避難誘導ができた
  • だが、「もう少し様子を見よう」と何もしなかった

取引所にとって、売買停止せざるを得ない状況であることは、情報として伝わっていた。売買停止の規定や手順は存在しており、決裁者は出張中であるものの代行者が指名されていた。

ビル火災の場合

取引異常の場合

火災報知器が鳴り、煙と炎が見えた

5000単位を超える異常注文を検知し、発行済株式数1万4500株や公募株数を確認した

ビルの防災管理者も認識し、避難ルートもあった

「市場の異常」や「システム障害」を理由とする売買停止の規定と手順があった

スイッチを押せば非常放送が流れ、避難誘導ができた

決裁後、売買監理グループ複数人の立会いの下、専用端末から止められる状態だった(1分程度)

「もう少し様子を見よう」と何もしなかった

「売買停止せざるを得ないのでは」という発言があったが、停止しなかった

取引所の担当者は、何もしていなかったわけではない。証券会社への照会、売買停止の検討、停止操作に備えた人員の確認などを行っていた。

しかし、具体的に「売買を停止する」と決め、決裁を求めるところまでは進まなかった。裁判所が問題にしたのは、担当者が動かなかったことではなく、異常を止めるための行動を起動しなかったことである。

裁判所は、遅くとも9時33分30秒ごろには、市場で異常が発生していることを認識できたと判断した。そこから決裁→端末操作までに必要な約1分を考慮しても、9時35分には売買を停止できたとした。

しかし、証券会社自身が反対注文を出したことで、問題の売り注文は板から消滅した。取引所が売買停止を通告しようとしたときには、すでに停止対象となった異常注文は消えていたため、売買停止は実施されなかった。

裁判所が重過失としたのは、目の前で拡大していた異常を把握し、停止する権限と手順があり、短時間で実行できたにもかかわらず、遅くとも9時35分までに停止措置を講じなかったことである。

ここで、バグに対する判断との違いがはっきりする。

バグを「見つけられたはずだ」と言うためには、事故のあとで初めて分かったこと——バグの所在、失敗の機序、条件の重なり方——を使うしかない。そして使った瞬間、それは後知恵となる。

ところが売買停止のほうは、判断材料は全て当日にある。

「1円・61万株」という数量も、「発行済株式数1万4500株と公募数との差」が異常であることも、「約定した株式数が発行済株式数の3倍を超過」も、「停止に1分かかる」ことも、全て取引場に揃っていた。

裁判所は、当日その場所にあった情報だけで線を引いた。判決が、「板画面の情報から容易に認識することができた」といちいち断りを入れているのは、そのためである。

「9時35分00秒」という一線が、後から引かれたから、後知恵というわけではない。判決は必ず後から書かれるのだから。後知恵かどうかを決めるのは、その知恵の材料の日付になる。

■最悪のことが起きるなら、それは何か

以下は、私の考えとなる。

バグが顕在化して被害をもたらしたなら、それを見つける方法や、防ぐ対策は、容易に思いつくだろう。問題は、それが起きる前に見つけることだ。

今回のバグは、特殊な条件が何重にも重なった場合に顕在化するものだった。予知能力者でもない限り、見つけることは難しい。

だから、後知恵をそのまま判断基準にすることはできない。代わりに「後」から得られた情報の抽象度を上げて、教訓とする他ない。

ここでは、プレモーテム(事前検死)の手法が使える。

人の死の原因や状況を明らかにする「検死」は、あたりまえなのだが、人が死んだ「後」に行われるものだ。だが、「事前」とはどういう意味だろうか?

これはpost-mortem(検死)をもじった造語で、pre-mortem(事前検死)になる。プロジェクトが終わった後に振り返るのではなく、実施前に検証するのだ。

まだ始まってもいないのに、「プロジェクトは大失敗でした。なぜですか?」という問いを立て、失敗していないうちから失敗を想定して学ぼうとする手法である。メンバーは、プロジェクトに対し否定的だと受け止められることを恐れず、懸念していることをオープンに話し合うことができる。

「仕様変更が大量に出て、手戻りで品質が悪化するかも」とか、「コアメンバーの〇〇さんが休職して、プロジェクトが遅滞する」とか、縁起でもない話をする。荒唐無稽なやつから割と現実的なものまで出てくる。

もし上手くいかないことがあるとしたら、それはどんな理由だろう?
ヤバい順に考えてみよう

もちろん、それで全てが網羅されるわけではない。だが、少なくとも「何が最悪か」という観点で、できうる手立てを考えることはできる。現実的にできるかどうかは、その後に考えればいい。

2000年に対応した「特殊な注文を取り消そうとすると、処理が止まる不具合」の修正について、これを当てはめてみよう。

修正内容は、取り消しをするためのルートを設けることだから、ここで考えられる最悪のパターンは何か?という立ち位置で考える。だから、この試験観点のレビューをするときの良い質問はこうなる。

この修正が裏目に出るとしたら、最悪、何が起きますか?

裏目に出たときのパターンとしては、こんなものが集まってくるだろう。

  • 取り消すべき注文を取り消せない
  • 取り消してはいけない注文を取り消す
  • 取消処理が停止し、後続処理を詰まらせる
  • 取り消した結果の通知と実態が異なる

そして、「取り消すべき注文を取り消せない」というパターンが出たら、次に、

では、取消不能となるケースを、試験対象から外してもよいでしょうか?

この問いから、今回の状況まで思いつけたかは分からない。それでも、「元の不具合が直った」だけでレビューを終えず、修正が裏目に出る可能性を一度は吟味できる。

私たちに予知能力はない。だが、最悪の結末を仮定して、そこから現在へ逆算することはできる。

■平時に有事を考える

裁判所が引いた「9時35分00秒」という一線を、単なる後知恵とみなし、「あのとき止めていれば、107億円を賠償せずに済んだのに……」と考えるだけでは、この事件から教訓を得るのは難しい。

確かに「9時35分00秒」が、後から裁判所によって引かれた線であることは間違いない。だが、後から引かれた線が、すべて後知恵になるわけではない。

では、なぜ売買停止は、「9時35分00秒」までに完了しなかったのか。

判決が認定した当日の動きを、意思決定のプロセスとして整理すると、次のようになる。

  1. 売買監理グループが市場を「監視する」
  2. 異常を認識し、株式総務グループへ「連絡する」
  3. 株式総務グループが「情報を収集・分析する」
  4. 売買停止の要否を「判断する」
  5. 担当執行役員または代行者の「決裁を得る」
  6. 売買監理グループが停止「操作を行う」

この整理で注目したいのは、3の「情報収集・分析」だ。

監視、連絡、決裁、端末操作には、行為の終わりがある。ところが情報収集や分析には、放っておけば終わりがない。何が分かれば判断へ進むのかが決まっていなければ、「もう少し確認しよう」「証券会社の回答を待とう」と、判断を先送りできてしまう。

もちろん、売買停止は重大な措置だ。様々な状況を分析し、抑制的に運用しようとすること自体には理由がある。

だからこそ、平時に決めておく必要がある。

一定の条件を満たしたら直ちに停止するのか。停止までしなくとも、決裁者の判断を強制的に起動するのか。一定時間内に判断できなければ、安全側へ倒すのか。

こうしたことを、有事の最中に悠長に議論していては間に合わない。平時に時間をかけて判断条件を定め、有事には実行するだけにしておく。

今回の事件で得た後知恵を、将来の先知恵へ変えるなら、よい質問はこうなる。

(重大なエラーへの対応を検討するとき)
このエラーが出たら、オペレーターは誰に報告し、その人は何を判断しますか?

(「システム管理者へ連絡すればいい」という回答への更問い)
システム管理者が捕まらない場合は、どうなります?

(「情報収集する」という回答への更問い)
何が分かれば情報収集を終え、次の判断へ進めますか?

(判断条件を決めきれない場合)
何分以内に判断できなければ、誰にエスカレして、どちらの判断をデフォルトにしますか?

管理者・責任者はいつもいるとは限らないし、判断材料も完璧に揃うとも限らない。そういうとき、「デフォルトはどうするか?」「何が分かれば、次に進めるか」を決めておく。

私たちに予知能力は無い。だから、後知恵でドヤ顔で詰めてくる人には「ごめんなさい、予知能力が無くって」と返せばいい。

私たちに予知能力は無い。だけど、後知恵から固有名詞を引きはがし、抽象度を上げることで、まだ答えを知らない未来に向けた「よい問い」になるのなら、後知恵は先知恵になる。



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『戦争の世界史 大図鑑』はスゴ本

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年3月13日


 古来、歴史とは戦史を指す。人類の歴史が始まって以来、人は常に戦ってきた。

 古代から現代まで、戦争の歴史を俯瞰する本書を眺めていると、どの時代であれ、必ずどこかで戦争が行われていることが分かる。戦争がない世界の方が例外であり、戦争が人間の常態なのだ。

 本書は、記録に残っている各戦争の年月日に始まり、原因・経過・結果・影響を概説している。さらに、決戦が行われた場所の地図や戦術構成、兵力、戦闘技術、死傷者数といった基礎史料を網羅している。

 実はこれ、「大図鑑」の通り巨大な図鑑だったのだが、そのコンパクト版が出たのだ。巨大版は、重い! デカい! ハードカバー! なのだが、いかんせん持ち運びに不適だし、何よりも腰にクる重さである。今回のコンパクト版は、迫力はほぼそのままで、持って出かけられるくらいにまで軽くなっているのが嬉しい。

 本書が優れているのは、徹底的なビジュアルにこだわっている点にある。オールカラーで構成されており、の多彩な写真、絵画、地図、図解などを駆使して、多角的かつ斬新な視点から、戦争を捉えようとしている。ここは、巨大版、コンパクト版と変わらない。大きさだけを縮小し、中身は完全に同じなのである。

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大きさ比べ

 さらに、年代も場所も広範囲にわたって概説しているため、どんどんページをめくっていくことで、「いつ」「どこで」を取っ払って、「どのように」人は争ったのかに着目することができる。そして、時代を超えた視点から、全く別の時代の戦闘どうしの類似点やアイデアが浮き彫りになり、見るたびに発見がある。

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中はこんなカンジ

 たとえば、優れた将軍は、時代を超えた特質を備えていると指摘されている。チンギス・ハン率いるモンゴル騎馬軍と、1940年春にフランスに侵攻した装甲師団との間に類似性を見出し、機動力が戦闘と決する事例として紹介されている。

 あるいは、敵軍包囲という古来の戦法は、古代ローマの世界でも第2次世界大戦でも等しく奏功しているが、5千年分の戦略図を眺めていると、戦いとは畢竟「どのように敵を包むか」のせめぎあいであり騙し合いであることが見えてくる。

テクノロジーが戦争を変える

 テクノロジーが変えた戦争も興味深い(ここが一番面白い)。

 たとえば、古代ローマとカルタゴが争ったポエニ戦争。初期はカルタゴが制海権を握っており、陸戦が本業のローマ軍は、海戦での経験が圧倒的に不足していた。ローマ軍はコルウスという鉤の付いた乗船橋を開発し、カルタゴ軍のガレー船が近づくと、ローマ軍はコルウスを落とし甲板にめり込ませ、それを渡って軍団兵が大挙して乗り込んだのだ。

 つまり、船を操る海戦を、ローマ軍が最も得意とする陸上に変えてしまったのだ。この件は、『ローマ人の物語 ハンニバル編』(塩野七生、新潮文庫)で予習していたが、本書で指摘されているのは、軍の凄さだけでなく、ローマ人の工学技術と発明の才能である。

 小火器(火打石式銃からAK47まで)の変遷は、歩兵の役割の変化の歴史であることも分かる。銃はいわゆる「飛び道具」だから、弓兵のような立場だと考えていた。だが、銃器の精度や射程距離が伸びるまでの間は、弓兵よりも槍兵のような立ち位置であったことが分かる。

 つまり、遠距離(弓)と至近距離(サーベルや刀)の間にある、ミドルレンジを槍兵が担っていたのだ。16世紀の欧州が境目で、マスケット銃で武装した歩兵が増えるに従って、槍兵の占める割合が低下したという。

ブレイクスルーが戦争を変える

 同時に、銃器に対する防御効果がなくなったため、甲冑の人気が衰えていったのも興味深い。テクノロジーが装備を変えた例だろう。16世紀の伝記作家ルイ・ド・ラ・トレモイユは、「戦争でこのような武器が使われるとしたら、騎士が武器を扱う腕前や、強さ、不屈の精神、規律はもはや何の役にも立たない」と嘆いたが、21世紀のドローンによる遠隔攻撃について、同じ嘆きが繰り返されていないだろうか。

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ナポレオン時代の小火器

 また、弾丸の製造技術が戦術そのものを変えた例として、ミニエー弾が紹介されている。1850年頃、精密機械製造技術と大量生産技術の発達によりもたらされたブレイクスルーである。銃身内に腔線(らせん状の溝)が刻まれており、弾丸が旋回することで、射程も精度も飛躍的に向上したのだ。

 ここは、『銃の科学』(かのよしのり著、サイエンス・アイ新書)でも同じ指摘があった。ナポレオンの時代では、太鼓に合わせて行進し、敵の前で密集隊形を組んでいた。だが、そんなことをしていたら、格好の的になる。そのため、戦列を作って圧倒するのではなく、散開方式が中心になったのだ。古代のファランクス(重装歩兵による密集陣形)方式を消したのは、ミニエー弾を大量に製造する技術だったのである。

土木が戦争を変える

 長い目で見ると、要塞や大型船の変化を促したのは、火薬兵器の技術開発であることが分かる。陸上戦における顕著な変化は、大砲が積極的に導入されるようになった1500年代以降になる。すなわち、このあたりから、城塞の設計思想が変わったというのだ。

 古代から中世にかけては、背の高い石造りの城塞により、敵の侵入を阻んでいた。これが、近代になると城壁は低い土塁となり、敵からの砲弾を遮ることが目的となる。さらに、稜堡(突出部)を塁壁前面に突き出し、大砲などの発射兵器を配置し、敵がどの方向から接近してきても対処るように構造を変えたのだ。

 いわゆる星形要塞が代表的なもので、突き出た稜堡により互いの死角を失くし、さらに稜堡同士から同一の敵を狙うことで十字砲火を実現している。戦争が土木を変えたこの例は、『土木と文明』(合田良実、鹿島出版)で学んだ。土木から人類史を眺めたスゴ本なり。

写真が戦争を変える

 アメリカ南北戦争あたりから、戦争写真が増えてくる。それまでは、戦争は絵画により描かれ、伝えられてきたが、近代から写真による生々しい姿を目にすることができる。戦争写真家の草分け、マシュー・プレイディによる映像は、戦争をロマン視していた大衆に、戦争の現実を突きつけた。

 ゲティスバーグでは8千人が死亡し、戦場の至る所に死体が転がった。死体は夏の猛暑でたちまち膨れ上がったが、撤去には何週間もかかったという。その写真が、そのまま掲載されている。この写真は、当時の大衆の厭戦気分にも影響したという。

 また、ベトナム戦争に報道記者として付き従ったカメラマンの写真が、アメリカ人の厭戦気分を煽り、最終的に戦争の終結に向けた世論の後押しとなったという。人類の愚行の歴史ともいえる写真は、何度も撮影され、報道されており、『世界を変えた100日』(ニック・ヤップ、ナショナル・ジオグラフィック)で見ることができる。

 人類は忘れっぽい。ややもすると、こうした歴史が「なかった」ことにされてしまう。わたしが知らなかった、もしくは忘れていた戦争が、ここでは隈なく見ることができる。

戦争が「敵」を変える

 世界大戦により、「敵」の定義が変化したという指摘は鋭い。

 戦争の目的が資源の奪い合いである局地的なものであれば、攻撃対象は敵の兵士になる。ところが、近現代における総力戦は、国家の全資源が動員されることになる。一国の経済と民間人が、丸ごと戦争努力に総動員されれば、必然的に工場や民間人が軍事行動の標的となる。結果、第2次大戦では、民間の死亡者数が、軍人死亡者数を、はるかに上回ることになったのである。

 「戦争」という言葉は一つだが、それが指し示している行為は、技術、文化、宗教の背景とともに変化していることが分かる。仮に「戦争」を、「戦闘員同士の殺し合い」と見なすならば、第2次大戦の死亡者数で、軍人を上回った民間人は、「なかった」ことにされる。また、仮に「戦争」を、「人間同士の大規模な殺し合い」と見なすならば、異教徒は人にあらずと殲滅された人々は、戦争による死者数にカウントされない。

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もちろん日本刀も

フィクション・ノンフィクションを繋げる資料として

 今まで読んできた本が、どんどん繋がってくるのが面白い。

 アレクサンドロスは有名だが、彼の死後、配下の将軍どうしで主導権争いの戦争が行われる。その戦争の主導者は、『ヒストリエ』(岩明均、講談社)にもう登場している。ゆっくりと物語の時間が進む『ヒストリエ』では、まだそこに至っていないため、一種のネタバレのように覗き見ることができる。

 また、『ガリア戦記』(カエサル、講談社学術文庫)が傑作であり第一級の史料であることは疑いないが、真実の中に利己的なプロパガンダも含まれている指摘もされている。

 さらに、デーン人のイングランド侵略におけるアシンドンの戦いでは、『ヴィンランド・サガ』(幸村誠、講談社)のクヌート王を、源平合戦の倶利伽羅峠の圧倒的な逆転攻勢では、古川日出男が翻訳した『平家物語』を思い出す。

 概観としての戦争の世界史なら、技芸としての戦争から、商業化・産業化された戦争までを語った『戦争の世界史』(ウイリアム・マクニール、中公文庫)や、『ヨーロッパ史における戦争』(マイケル・ハワード、中公文庫)に繋がる。これが現代になると、SFよりもSFな現実のルポルタージュ『ロボット兵士の戦争』(P.W.シンガー、NHK出版)になる。

「戦争の歴史」≒「人類の歴史」

 戦争は文明より古い。戦争の変化の歴史が、人類の歴史と、ぴったりと重なっている。人類の様々な創意工夫は、戦争によりきっかけを得、数多くのブレイクスルーにつながった。その変遷を本書でざっと見るだけでも、ブレイクスルーどうしの繋がり合いに目を見張るだろう。

 より深く人類を知るための一冊。

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これはスゴ本

 

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1巻完結ラノベの傑作『MONUMENT あるいは自分自身の怪物』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年3月17日


 妻が珍しく薦めてきたのがこれ。

 妻は、わたしの3倍くらい読むのだが、小説は、不思議なほどに被らない。お互い好き勝手に読み散らかし、海外、国内、ジャンルも選り好みしないものの、同じ一冊にたどり着いていた、ということはあまりない。それだけ小説という世界が豊穣なのか、夫婦ともども先鋭的に選書してるのかは、ご想像にお任せする。

 そして、ごくたま~に、「これ、面白かったよ。あんたにも合いそう」というのが出てくる。長い付き合いだから、お互いの趣味嗜好は分かりすぎるほど分かっているから、面白さは保証されている。他の人はいざ知らず、少なくともわたしにとっては間違いないことは分かっている。「騙されたと思って読んでみ?」なんて駆け引きなしで読む。

 結論:面白かった! なんでこれが1巻完結なの!?

 そう、巧妙な伏線&物語構成、ストライクゾーンど真ん中のキャラクターによる、「物語を純粋に楽しむこと」と、もう古典名作と言っていい小説や映画を、上手くまぶした会話や描写による、「読み手の経験に呼応する面白さ」が、絶妙に混ざっている。この面白さ、もっと長く味わっていたいと思うものの、1巻で完璧に終わらせている。

 これ、やりようによっては、もっと長引かせることもできたはず。特殊能力を持つイケメン主人公(中身は暗い過去を持つゲス野郎)が、巨額の報酬に釣られ、魔法学校に潜入するために下工作をするのだが、完全にナナメ上の展開になるところで、丸々1巻を費やしてもいいはず。

 そして、魔法が組み込まれた「この世界」―――読み手であるわたしたちが住む歴史に、魔法という概念が併設された世界―――この説明の語りだけでも、優に1章使ってもいいのに、エピグラフでさらりと触れているだけ。

人類が火を熾すよりも先に、発火の魔術に目覚めた世界。あらゆる理論や法則に、応用として個人の魔力資質の差異が組み込まれている世界。ソクラテスもプラトンも、ベートーヴェンもモーツァルトも、フロイトもユングも、ヒトラーもスターリンも、手塚治虫も藤子・F・不二雄も存在していたけれど、魔法がある世界。不思議な力が存在しても、結局は似たような歴史を歩んできた世界の物語。

 あまりにもさり気なく書いてあるので、魔法の位置づけだとか、魔法という法則に基づいた社会制度や規格、物理的制約などの説明が、軽く扱われた気になる。だって主人公やヒロインの能力、実質的に無双じゃないか! 「この世界」は、読み手であるわたしの世界とずいぶん違うのに、まるで同じ様相に見える。ハードSFが(そのSF内で通用する)科学的厳密さを追求しているように、魔法的厳密さも書き込んで欲しいものよ。

 いや、これはライトノベルだから、そこは聞かないお約束でしょう。などと、いったんは納得したのだが、まさか、このエピグラフが伏線だとは思ってもみなかった。

 主人公(ゲス野郎)の暗い過去、進行する事件が牽引する「謎」、ヒロインが抱える苦悩、そして魔法的厳密さの不在―――これらが、MONUMENTと呼ばれる魔法遺跡の探索の果てに交わるとき、一挙に、一気に、タイトルとともに分かるようになっている。

 カタルシスとカタストロフが同時に味わえる。Amazonレビューでネタバレかましているので注意して。

Monument
物語・構成・キャラ、どれも素晴らしい

 

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川上未映子・村上春樹の対談『みみずくは黄昏に飛びたつ』がタメになるのでまとめる

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年3月23日


 物語を紡ぐ人、解く人にお薦め。

 小説論としても小説家論としても面白いし、村上春樹の深いところを掘り出しているのもいい。村上春樹が語ってきたことは様々な本になっているが、同じく日本語で小説を書く川上未映子が、「作家∧読者」という立場からインタビューするのは珍しい。谷古宇さん、素晴らしい本を薦めていただき、ありがとうございます。

一冊で2^2度おいしい

 本を書く人は本を読む人でもある。それぞれの作家が書いてきた作品を、より深く読むための縁にもなるし、「物語とは」「文体とは」「悪とは」といったテーマについて、いま生きている作家からヒントをもらえる。なぜなら、2人の作家について、作者・読者の2つの立場からナマの声が書いてあるから(2^2度おいしい)。

 だから、小説を「読む人」にとってのヒントがあるだけでなく、「書く人」にとっても数多くの気づきが得られる。ここでは、「村上作品の本質」と「小説にとって共通的なヒント」を明らかにしながらまとめてみよう。

 また、わたしにとって、村上春樹の長編はもう充分で、新作は文体の変化を楽しむぐらいしか余地がないことがハッキリした。本人が告げる通り、構造やテーマ、キャラクターや描写を追求するつもりがなく、文体を向上するだけであれば、わたしが読むものはない。短編やエッセイ、インタビューやステートメントとしての作家だな。

村上作品の本質

 いきなり根幹から。「物語を書くとはどういうことか?」から始まるやりとりで語られている。小説を書くことを説明するとき、一軒の家で喩えており、次のようになる。

 まず、一階。みんながいる団らんの場所であり、楽しくて社会的で、共通の言葉でしゃべっている。言葉を通じて分かり合えるパブリックなところになる。

 次に、地下一階。暗い部屋があるが、一階(パブリックな場所)とつながっているところもあり、誰でも降りていける。いわゆる日本の私小説が扱っているのは、この地下一階で起きていることになる。いわゆる近代的自我みたいなのもここで、それぞれが抱えている地下一階を見せることで、共有されやすい面もある。

 そして、地下二階。ここに村上作品の本質がある。あらゆる民族や伝承に共通する神話的な「お話」を起こし、物語にして伝える。古くは宗教が担っていた、個人の経験を越えた「世界とはこういうもの」という感覚で、河合隼雄の『影の現象学』では「集合的無意識」と呼んでいる。村上春樹の長編は、集合的無意識を物語にしたものになる。

集合的無意識の奪い合い

 村上春樹の小説が世界中で読まれている理由は、「そういう人々の地下部分あたる意識に、物語がダイレクトに訴えかけているところがあるから」だという。これも、意図してやっているわけでないという。そこに意味やメタファーを考えて付けているわけではなく、「僕としてはそういう風にしか書けない」のだと言う。ここはマネできないところ。

 この集合的無意識について、川上が興味深い指摘をしている。フィクションというものは実際的な力を持ってしまうことがある。小説を読んで人を刺す、といった分かりやすいものから、投票行動における浮動票のベクトルといった見えにくいものまで、様々な形で現れる。そうした世界中の出来事が、物語による「みんなの無意識」の奪い合いの結果だというのである。

 以前、別の媒体で、「いま読んでる本は何ですか?」という質問に、『新釈雨月物語・新釈春雨物語』と答えたのを目にしたことがある。中国の古典を元にした怪奇譚の短編集で、上田秋成が書いたものを石川淳が新釈したものだ。人と人外のかかわりあいを描く異化が扱われており、こうした伝承にヒントを得て、物語の核にしているのではないだろうか。

 じっさい、『騎士団長殺し』には春雨物語の「二世の縁」が出てくる。土の中から即身成仏を掘り出す話で、そこを起点に小説を書き始めたと言っている。集合的無意識を「意識的に」探すなら、文化や言語に依存しない、人として普遍的な行為―――たとえば、性・食・死―――を、神話や伝説に見ようとするだろう。フレイザー『金枝篇』、イェンゼン『殺された女神』、最近だったら赤坂憲雄『性食考』あたりを参考にしてそうだ。

 そうした伝承を現代の話にパラフレーズすることで、集合的無意識に訴えかける。読者は読者で、「これは私のために書かれたのだ」とそこにシンボルやメタファーを都合よく解釈し、自分の個人的な体験や深読みを当てはめる。そういう「代入」を促すような仕掛けは、ここにあるのだ。

作家と読者の信用取引

 本人はノープランで小説を書いており(p.115)、メタファーをいちいち意識していない(p.130)とはっきり述べている。にもかかわらず、読者がついてきてくれるのは、作家と読者との間で、一種の信用取引が成り立っているからだという。

 村上長編の構造は、「失われたものを、もう一つの世界で取り戻す」に尽きる(p.176)。これを、ディテールやモチーフを変えながらも同じようなことを書いてきて、それでも読者がついてきてくれるのは、村上曰く、「けっして読者を悪いようにはしなかったから」。

 これは、村上小説が優れているだけでなく、読者にも恵まれているといえる。それだけの信頼関係を、多数を相手に成り立たせてきたのは、素晴らしいことだと思う。

アイデアの出所と文章の規範

 村上作品と読者の win-win の関係は、再現不可能だろう。作品がどうのだけでなく、時代とマーケティングの結果でもあるのだから。では、書き手として見習うところはあるのか?

 ある。

 基本的な点としては、小説を書くアイデアは、誰しもが経験の内に持っていること。意識しようとしまいとネタはあるが、重要なのは、必要なときにそれが引き出せるか、ということにある。このインタビューでは、キャビネットと抽斗の比喩が使われている。ジェイムズ・ジョイスの「イマジネーションとは記憶のことだ」という言葉の通り。

 そして、文章の規範は2つある。

 一つは、比喩の構造。「比喩とは、意味性を浮き彫りにするための落差」だから、その落差の幅を想定→逆算することで、読み手をはっとさせることができる。村上はチャンドラーから学んだというが、あれ、計算してやってたのか。

 もう一つは、やりとりの「動き」。ゴーリキー『どん底』の会話を例にしているが、全部を語らないことで、伝わっている意味の呼気を感じ取れるところ。

  乞食だか巡礼だかが話しているんだけど、
  おまえ、俺の話、ちゃんと聞いてんのか
  って一人がいうと
  俺はつんぼじゃねえや
  と答える

 「聞こえているよ」と答えると、そこで会話は終わる。でもそれじゃドラマにならないから、「つんぼじゃねえや」と答える。そこに語られなかった意味のリズムが生まれる。リズムの重要性は、「優れたパーカッショニストは、一番大事な音を叩かない」と語られているが、この言い回しも好き(本当に一番大事な音を叩くか叩かないかは、もはや関係ないことに注意)。

 村上作品の面白さはここにあるし、上手いなぁと思わされるのもここ。落差に驚かされ、うまい比喩に唸らされ、絶妙な会話にニヤッとさせられる喜び。それがストーリーを駆動する原動力となっている。物語にビルトインされているから、そこだけ抜き出して「名言集」みたいにもできない。切り取ってしまうと干からびてしまう。

「書く」ことについて最も重要なこと

 「全部書く」こと。これに尽きる。 書き始めると、一日十枚書くという。何があっても、とにかく十枚書く。もちろん推敲や編集はするが、それは書くを遂行してから。小説の神様みたいな「何か」が降りて来てくれそうにない日でも、必ず十枚書く。

 では、「今日はここを書かないといけないけれど、ちょっと来そうにないな」という日はどうする? 川上が絶妙な質問を投げると、「そのへんの風景描写とかやってる(笑)」とのこと。

 これ、レイモンド・チャンドラーもやっていたと聞いたことがある。村上もチャンドラーに影響を受けたのかもしれぬ。これだ。

毎日、決まった時間に、タイプライターの前に座る
座っているあいだ、書いても書かなくてもよい
ただし、他のこと(本を読んだりとか)はしてはいけない

 ヤル気が出るまで待っていたら、仕事は終わらない。ヤル気を待っていたら、その日が時間切れとなってしまう。ヤル気がなくても手を動かしているうち、だんだん調子が出てくるというのは真だ。これはマネする。

女であることの性的な役割を担わされすぎている

 これ、常々思っていたけれど、真正面に質問したのはこれが初めてらしい。

 つまりこうだ。村上作品は、「失われたものを、もう一つの世界で取り戻す」つまり異化の物語であるが、その異化の入口ないし契機として、「女」が使われる。日常→非日常へと手を引いて連れていくためにセックスが持ち出されるというのだ。

 イザナギノミコトの黄泉国でもオデュッセウスの冥界行でもいいけれど、いわゆるカタバシス(冥界訪問譚)の導く存在として女が出てくる。それは「お約束」としていい。だが、そこに女が、「性的な役割を全うしていくだけの存在になってしまう」のはどうかというのだ。

 はっきり質問の形で見えると、思い当たる。性行為の担当・謎かけ担当といった女に役が割り当てられていると感じていた。だから、村上作品の女性は見えやすかった。川上は「女の人は、女の人自体として存在できない」と鋭い指摘をしている。

 これに対し村上は、登場人物のことも、深く書き込んでいないという。「インターフェイス(接面)が主な問題であって、その存在自体とか、重みとか、方向性はむしろ描きすぎないように意識している」(p.247)と躱している。

 ただし、例外として、『1Q84』は真正面から女性の登場人物に向き合った話だという。わたしは未読なので、村上ファンに尋ねてみたい。

リアル・ファンタジー

 結局のところ、リアリズムの手法でファンタジーを描いたのが村上長編ではないか? という予想が確認できた。

 書いてることは現実的にありえないことだが、書き方がリアリズムなので、荒唐無稽感が甚だしい。それでも「お話」が面白ければ付いて行けるが、どういうつもりで書いたんだろう? 何も考えていないのでは? といったん疑問を抱き始めると、読むのをやめるか、「そういうもの」として読むしかない(答え:何も考えていない)。

 そして、「そういうもの」と納得ずくで付き合っている幸せな読者がいることが、何よりも財産なのだろう。わたしは、そうした読者が掬い取った様々なメタファーや解釈を、聞くのが楽しい。

 読みの豊饒さに、あらためて驚くことができるのだから。

Mimizuku

 

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