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「物語」にしない、させないトマス・ピンチョン『ヴァインランド』

16年ぶりに再読したけど、ぶちのめされる感が半端ない。

とめどなくエピソードが転がり出てきて、受け止める間もなくキャラが切り替わり、筋が錯綜し、デウス・エクス・マキナが降りてくる(一度ならず何度も何度も)。

16年前はこの感覚を、「TVのチャンネルを替えるかのように話が変奏していく」と評したけれど、2026年の今なら、「タイムラインを高速スクロールしていく」と喩えたい。コンテンツを認知する間もなく次から次へと流れてゆく。読むというより委ねる・浸る感覚と言えば分かるだろうか。

初読時は、「あらすじ」が掴めなかった。メインキャラの軌跡をまとめたり、テーマ(?)らしきものを要約したりもできるが、目をつぶってゾウを撫でるようなもの。部分の和は全体にならぬ。

再読して気づいたのは、「そもそも、ピンチョンって、あらすじ(物語にすること)を拒絶しているのではないか?」という印象だ。

■なぜ物語なのか

そもそも、人はなぜ物語に触れるのかというと、現実が複雑すぎるから。

現実は本来、偶然の要素が多すぎる。回収されない因子が絡み合い、人の知性では把握しきれない矛盾した結果に陥りがちだ。物語はそれらを因果と伏線に配置することで、現実を呑み込みやすくする。

ノイズを筋にする仕掛けとして物語があり、人は、物語を通じて現実を理解していると言える。

例えば、時計の秒針は「チク・チク・チク」としか鳴っていない。にもかかわらず、そこに「チク・タク」と聞く。無差別な連続に、始まり(チク)と終わり(タク)を与えてしまう存在が、人なのだ。

物語とは、「チク・チク」という音を、「チク・タク」と聞く能力なのかもしれぬ。

ただし、100%予想通りなら、つまらない。物語には、少しのズレが必要だ。

脳は受動的に情報を受け取るだけでなく、「次はこうなるはず」という予測モデルを作り、入力との差=予測誤差を使ってモデルを更新するという考え方がある。これを適用すると、

  • こいつが黒幕?
  • この2人は再会する(はず)
  • これは伏線だ
  • 悪役は最後には倒される

のように、読みながら絶えず先を予測している。物語とは、ある意味で予測⇒誤差⇒物語世界の更新を高速で回す装置とも言える。

これが予測通りなら、「やっぱり」で終わる。ずっと「チク・タク」なら、時計の音を聞くこともしなくなるだろう。そしてこれが完全にランダムで「くぁwせdrftgyふじこlp」なら、意味不明で、やっぱり誰も聞かないだろう。

面白い物語では、「予想できる⇒予想を外される⇒でも後から納得できる」が繰り返される。予想外の犯人だけど、伏線は全部あったというミステリなんかがそれ。

だから私たちは、物語を読むときも「最後にはつながるはず」と、未来の理解を先取りしながら拾っていこうとする。物語を読むときの「先を知りたい」という駆動力がこれ。

物語の快楽とは、予想が当たりかけて、少しだけ外れるところにある。

■物語化を拒絶する

だが、ピンチョンはつながらない。

読み始めて、「14歳のプレーリーが母親を探す物語なんだな」と予想する……と脱線する。

抽象度を上げて「じゃぁ、60年代のカウンターカルチャーの敗北を80年代から眺める物語なんだな」とモデルを作る……と脱臼させてくる。

登場人物が出そろってくると「ラストは、ブロック・ヴォンドという権力との対決なのだろう」と考えると、きれいに収束しない(させない)。

予測モデルを作る度に、丁寧に壊しにかかる。それがピンチョン。成立しかけた予測モデルに、大きな予測誤差をぶつけて脱臼させる。

音楽、テレビ番組、映画、車、銃、ドラッグ、ファッションのネタを大量に並べ立て、60年代・80年代のアメリカの国民的記憶を飽和させにくるので、そもそも予測モデルが維持できない。

最初はyoutubeやGoogleで元ネタを検索したりメモっていたが、人はそんなに大量の出来事やアイテムを把握しきれない。認知の限界を超えて投入されるので、どれが伏線で、どれがギャグで、どれが筋で、どれが妄想なのか、分からなくなってくる。

多すぎる登場人物は、ネットワーク図を作ったので見て欲しい。

Photo_20260822131801

ヴァインランド登場人物ネットワーク図

筋の脱線、モデルの脱臼、飽和攻撃に、ピンチョンを読む人は、どこかで予測を諦めるしかない。

■ドパガキ化する私

さらに、小説ならではなのだが、読者のいる場所を揺さぶりにかかる。

読者は、読んでいる「いま」「ここ」という安全な位置から、小説と向き合っている、はずだ。だが、それが怪しくなってくる。

p.189あたりの、「母親が撮った映画を見るプレーリー」のあたりが顕著だ。

プレーリーの母・フレネシが撮った映画を、プレーリーとDL(ダリル・ルイーズ)とタケシの3人で見ているというシーンのはずなのだが……いつのまにか、フレネシ自身の経験として語られたり、DLとタケシのエピソードが挟まってくる。

すると、「『フレネシの経験』を映像と証言を通じて知るプレーリー」を読む私のはずなのだが、このカッコ内の構造が歪んでくる。プレーリーはいなくなり、フレネシの目線になり、(時が跳んで)DLの過去になり、タケシとのなれそめになり、突然タケシが今(映画を見るプレーリー)に入ってくる。

これ、文章で表現するのが難しい。語りの視点と時制が不安定になり、「読む」という物語世界と同期している私自身のフレームが歪んでくる。この、居心地の悪さというか揺らぎが、ドラッグが引き起こすドーパミンなのだろうかと思えてくる。

これが、ピンチョンの分からなさかもしれぬ。

エピソードは回転しながら戻ってくるし、伏線は最遠点から着弾しにくる(ただ、多すぎて私には”回収”と認知できない)。物語として理解しようとする私の足場をぐらぐらさせる。なので、いったん理解するのは止めにして、この眩暈に身を委ねる。

■ヴァインランドはどこか

じゃぁピンチョンは、何を書こうとしていたのか?

ヒントは、『重力の虹』にあるのかもしれぬ。

そこに据えられた「preterite(見捨てられし者)/ elect(選ばれし者)」という概念だ。

カルヴァン派の予定説に出てくる言葉で、神に選ばれ、救済が約束されている者と、そこから切り捨てられている者がいる。努力や行為でどうなるものでもなく、ただ、最初からそう二分されている。エリート/排除された存在、白人/有色人種、帝国/植民地といった形で登場する。

この概念を適用するなら、物語のあらすじを書くということは、どの人物を選び、どのエピソードを無視するかということになる。

「60年代に自由を求めた若者たちが体制と戦い、敗北し、80年代には夢を失った」―――なんて要約した瞬間に、ドラッグも、セックスも、音楽も、裏切りも、テレビも、ギャグも、政治運動と関係のない人々の生活も、全て見捨てられる。

ピンチョンは、こうした物語に歴史を回収させず、大量のキャラクター、過剰な固有名詞を配置し、エピソードが物語になりそうな瞬間を見計らって、脱線と脱臼を繰り返すことで、60年代と80年代の記憶を、一つの歴史へ圧縮せず、矛盾もノイズも抱えたままぶちまけようとしたのかもしれぬ。

ヴァインランドは、カリフォルニア北部の架空の町なのだが、ラストに、登場人物がほぼ全員集まってくる。見捨てられし者と、選ばれし者が全員集まり、60年代と80年代を「そのまま」ぶちまけられる。そういう器が、ヴァインランドなのかもしれぬ。

■ワン・バトル・アフター・アナザー

爆笑したのが、『ヴァインランド』にインスパイアされて作られたという映画だ。

あれほど物語への回収を拒絶し、意味を分解させ、筋を脱臼させていたのに、どうやってハリウッド映画にできるというのだろうか?

ハリウッド映画は、いかにも物語物語した物語だ。

ストーリーは単線で、ラストには悪の正体が暴かれ、陰謀は潰える。あるいはそうした状況から主人公は脱出し、自由を勝ち取る。敵は誰で、何が起きていたか、主人公はどう変わったかといった、物語をドライブさせていた因果が明確に回収される。

アカデミー賞の作品賞、監督賞など最多の6部門を勝ち取った『ワン・バトル・アフター・アナザー』を見たのだが、ガチ・ハリウッド映画だった。

ハリウッド映画なので、物語はオートパイロットで良い。意味も伏線も展開も考えなくても(考えない方が)いい。分かりやすい予測とその裏切りのおかげで、めちゃくちゃ楽しめた。

Wikipediaには「原作:ヴァインランド」とあるが、登場人物の一部と政治的テーマを借用して、現代版に翻案したぐらいで、原作じゃぁないだろう……と思って観ていたら、最後にちゃんとinspired byになってた。

もし、『ヴァインランド』を映画にするなら、ゴジラも幽霊も登場させなきゃならないし、日本の女衒システムや、地下格闘大会、くノ一忍法帖など、それぞれだけで一つの映画になるテーマやモチーフを全部詰め込まなきゃならぬ(映像としてもストーリーとしても成立しないだろう)。

言い換えるなら、『ヴァインランド』の、わずか一筋だけを抜き取っても、めちゃくちゃ面白い物語に化かすことができる。だが、それを頼りにヴァインランドに行こうとするなら、迷子になって途方に暮れることだろう。

世界は物語にならないし、この作品のあらすじは分からない。

だから、また読むしかない。



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