ピンチョン『ヴァインランド』を7人で読んだら、7つの小説になった
7人で2時間、『ヴァインランド』を語り合ったのだが、同じ本を読んだはずなのに、全員が違う本を持って来たような感覚が面白い。
というのも、普通なら、作品が提供するストーリーラインに乗っかった上で、好き嫌いを語れるのだが、そういう明確な「あらすじ」そのものがのたくっているから。
必然的に目を閉じて象を撫でた感想となる。そうした断片を持ち寄って再構成された『ヴァインランド』が、元の小説と似ても似つかないものとなり、巨大な伝言ゲームをやっているようでさらに面白い。
■『ヴァインランド』と『一九八四年』
『ヴァインランド』の語りの現在点が1984年なのは、オーウェル『一九八四年』を意識しているのではないか、という指摘があった。
確かにその通りだ。さらにピンチョン自身、オーウェル生誕100周年を記念した『一九八四年』で書評を寄稿している(早川の新訳版に収録されているはず)。
『一九八四年』では、テレビとカメラが一体化した監視装置が出てくる。人々はテレビを通じて情報を知るだけでなく、テレビに備え付けられたカメラで監視もされている。
Big Brother Is Watching You.
ビッグブラザーが見ている
このスローガンは『一九八四年』という作品からスピンオフして、監視社会を象徴するセリフとして折々で使われるようになった。
『ヴァインランド』では、国家非常事態計画らしきTV番組を見ていると、突然こう切り替わる。
From now on, I’m watching you.
これからはワタシが君たちを見つめていよう
暗示のようなのはここだけに見える。
というのも、情報統制のやり口は、あまりに対照的だからだ。
オーウェル的ディストピアでは、権力は情報を減らす。歴史を書き換え、言葉を減らし(ニュースピーク)、検閲と監視で記憶そのものを統制する。「真実はいつも一つ」を、言葉通り実践している。
一方、ピンチョン的ユートピア(?)では、真逆に見える。テレビ、映画、CM、音楽、ドラッグ、ファッションなど、ブランドとキャラクターと固有名詞が、飽和攻撃のように押し寄せる。
「情報が無い」と「情報がありすぎる」は、逆なのに同じところに進んでいくのが面白い。オーウェルでは、情報が無さ過ぎて、現実が見えない。一方、ピンチョンでは情報がありすぎて、現実が見えない。
オーウェルが想像した悪夢とは全然ちがう1984年が来たけれど、これはこれで別の悪夢に見える。そして2026年、TVよりはるかに大量の情報が流れてゆく小さな画面を、一日中見つめている。
■ゾイドは「主人公」だったのか
最初に登場し、派手にぶっ壊した後、逃げ回るハメになるゾイド・ホイーラー。普通の物語だと主人公ポジだが、主人公らしからぬという指摘もあった。
「主人公らしくない」というよりも、主人公ポジなのに主人公の仕事をほとんどしない人物として描かれている。
由緒正しき英雄譚に当てはめると、ゾイドには十分その素材はある。妻フレネシを奪われ、たった一人で娘を育てる。国家権力の権化であるブロック・ヴォンドという強大な敵がいる。過去には秘密がある。
普通なら、喪失 → 旅立ち → 仲間との出会い → 修行 → 敵との対決 → 帰還 という円環構造になる。
だが、ゾイドはやらない。逃げる → 仕事をする → 娘を育てる → 精神障害を装うため窓を破る → 妻の思い出に浸る……などとふらふらしている。そして、肝心の物語の方が、ゾイドを置き去りにして先へ行ってしまう。
その代わりに、修行するのはDL(ダリル・ルイーズ)が受け持つ。師匠がいて、修行して特殊能力で敵を倒す。過ちを犯し、贖罪の旅をする……なんて、主人公的なイベントが割り当てられている。
ゾイドの娘プレーリーは、ビルドゥングスロマン的に動く。両親の秘密を聞かされ、母フレネシを探す旅に出て、導き手により母の秘密を知り、自分の出自を理解し、ラスボスと遭遇する。
フレネシは典型的な悲劇の主人公だ。理想を求め、運動の中心となり、誘惑に駆られ、欲望に負け、仲間を裏切り、転落する。逃亡を重ね、最後に帰還する。
つまり、『ヴァインランド』には「主人公らしい物語」が無い、というわけではない。あるにはあるのだが、「主人公らしさ」という性格や運命が、複数のキャラに分配されているのではないか。
冒頭だけ読むと、ゾイドの物語に見えるのだが、進めるうちに、ゾイド → プレーリー → DL → フレネシ → ウィード → ヴォンド と焦点が切り替わってゆく。脇役が主役となるエピソードの脇役が次の主役となるといった感じ。
普通の小説なら、主人公が世界を横断するのが物語になるが、ピンチョンは逆に、物語の方がキャラクターたちを通り過ぎてゆく。これ、『V.』のベニー・プロフェイン、『重力の虹』のタイロン・スロースロップまんまや。ピンチョン特有の、物語の方を通過させる役回りなのかもしれぬ。
■「サナトイド=三丁目の夕日」説
サナトイド(Thanatoid・死者みたいな人)とは何だったのか?という議論も面白かった。
生前に果たせなかった強い思いに囚われている、いわゆる地縛霊みたいな存在だ(1998年訳版では、シンデルロ)。霊だけど実体を持ち、コミュニケーションもできる。
60年代のトラウマが80年代に戻ってきた生ける死者(Living Dead)なのかもしれぬ。
面白かった意見は、生きている人とサナトイドの違いは、「過去だけに生きること」なのかも、という指摘だ。
もちろん、生きている人間も、過去をふり返って後悔するし、昔を懐かしんだりする。だけど、ずっと過去を引きずっているわけではなく、現在に何かをしたり、未来へ進もうとする(あるいはそうせざるを得ない)。
一方サナトイドは、ずっと過去にいる。果たされなかった過去がずっと現在を占領しており、時間が前に進まない。
60年代の東京を舞台にした『三丁目の夕日』というマンガに重なる。「昔は良かった」とずっとそこだけに留まっているとしたなら、その人はサナトイドになってるのではないだろうか。
そして、60年代に青春を過ごし、80年代にふり返る人たちにノスタルジーを発動させるためのトリガーとして、ロックやポップやドラッグが洪水のように溢れているのが『ヴァインランド』なのでは? というような意見を述べた。
■記号化されたカルチャー
『ヴァインランド』にあふれる固有名詞は、「昔はよかった」と言うためのアイテムなのだろうか?
いや、それは違うという反対意見が面白かった。
その方は、『アメリカン・サイコ』で、様々なブランド名が挙げられていることを指摘する。1980年代ニューヨークのエリートビジネスマンの告白なのだが、アルマーニやヴェルサーチ、ラルフ・ローレン、ロレックスなど、高級ブランド名が延々と並べられる。殺人や拷問の惨たらしい描写と、高級ブランドやレストランのカタログ情報が、同じ熱量で列挙されている。
確かにこの記号の洪水は、『ヴァインランド』の固有名詞の飽和に通じるものがある。
ただ、『アメリカン・サイコ』ではブランド名は交換可能で、意味を持たない記号として扱われているように見える。名刺もレストランもファッションブランドも、固有名詞を増やせば増やすほど、意味が薄くなっていく(それこそ、殺人が本当にあったのかどうか疑わしくなるくらい、現実が摩耗していく)。
一方『ヴァインランド』の固有名詞は異様に広い。ギリガン君SOS、ジェダイの帰還、スター・トレック、ジミヘン、13金など、朝食シリアルとTV番組と映画が同じ平面に並んでいる。固有名詞を増やすほど、当時の政治や文化に接続する(接続し過ぎる)チャンネルが増えていく。
つまり、固有名詞の洪水が『アメリカン・サイコ』では「意味の空虚化」だとすれば、『ヴァインランド』は「意味の過積載」となる。両者は似た技法で逆方向の効果を狙っているのかもしれぬ。
■DLの「一年殺し」とAIDS
暗殺技術「一年殺し」は、AIDSの隠喩ではないかという指摘が面白かった。
女忍者DLの技「デス・タッチ」は、相手に触れるだけで、確実に殺すことができる。秘孔を突く北斗神拳みたいなものだが、爆殺するような派手なやつではない。ごく軽く触れるだけ。
その場では何も起きず、相手も何も感じない。だが身体の内部では死へのプロセスが始まっており、一年後に、突然、死ぬ。
これをAIDS(後天性免疫不全症候群)の隠喩として読む。
性的な接触 → その場では何も起きない → 本人の知らないところで身体内部に死が入り込んでいる → 時間差で死がやってくる。
この構造が、1980年代のAIDSへの恐怖と不気味なほど重なる。
いまではHIV感染症には有効な治療法が確立されており、適切な治療で健康を維持できる。しかし『ヴァインランド』が書かれた1980年代後半は違う。「特効薬がない」「性的接触によって感染する」「感染してもすぐには分からない」「発症すれば死」という恐怖が社会を覆っていた。
もちろん、ピンチョン自身が「デス・タッチはAIDSの隠喩だ」と明言しているわけではないし。
だが、1990年に刊行された小説で、娼婦との接触を通じて、気づかぬうちに「時間差でやってくる死」を身体に埋め込まれるというギャグを読むなら、AIDS危機との連想はかなり自然に思えてくる。
■ワン・バトル・アフター・アナザーの原作疑惑
私は小説→映画の順だったが、読書会のメンバーには、映画→小説の順に履修された方もいた。「映画が面白かったので、原作も読んでみよう」というノリで手を出したというが、かなりキツかったらしい(だろうなぁ……)。
原作というより翻案、翻案というより、刺さりそうなところを摘まみ食いするようなものかな、というのが私の印象だ(映画のスタッフロールでは、inspired by になっていた)。
サナトイドやDLといったキャラクターだけでなく、輻輳する時間構造や分散された主人公といった、「ただ1つのストーリーに回収させることを拒むための様々な仕掛け」が、全て無かったことにされている。
「小説は小説、映画は映画だから、映画化できるところをキレイに抜き出した」とも言える。単線の時間、単純な敵役、単独の親子関係という構造だけにして、後は全て捨てた。ピンチョンという、ハリウッドとは真逆のストーリーを紡ぎ出す作家を、シンプルに料理するならこうなる、と実演してみせたケーススタディとして考えると、面白いかも。
映画化とは、「あらすじ化」かもしれぬ。
- 誰を主人公にするか
- 誰の欲望でストーリーを回すか
- 何を原因とし、何を結果とするか
- 誰を敵にして、どこにクライマックスを置くか
これらは、『ヴァインランド』が巧妙に距離を置いてきた「あらすじを作る」ことそのものになる。だから、『ワン・バトル』は、ピンチョンの小説を「あらすじ」にするとどうなるか?という実験を、1億4千万ドルかけて162分にしたものだと言えるだろう。
じゃぁ映画がつまらないかというと、逆だ逆、めちゃくちゃ面白い映画になってしまった(興行的にはアレだと言われているが)。『ワン・バトル』は『ヴァインランド』への反論になっているのかもしれぬ。
ただし、『ワン・バトル』から『ヴァインランド』に入ると厄介かもしれぬ。
というのも、映画は、「これはこういう話」という一本のストーリーを引いてしまっている。その道筋に沿って物語を散策するのは楽しい。
映画で渡された地図を持って小説に入るのはいい。だがピンチョンは、地図に載っていない場所ばかり歩きたがる。
そしてたぶん、地図から外れたところにこそ、『ヴァインランド』があるのだから。
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