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GDPがどういう値なのか、ちゃんと理解できていますか?『GDP 小さくて大きな数字の歴史』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年12月9日


数値化されるということは、標準化された手続きによって計測・集計できるから、そこに人の思惑や裁量が入り込む余地なぞ無い、と思っていた。

ところが、GDPについては違うらしい。

『GDP 小さくて大きな数字の歴史』を読むと、GDPがどういう数字なのか、実はちゃんと理解できていなかったことが分かる。

あまりにも馴染み深い言葉なので、皆その意味を考えてみようともしないという。「GDPとは何か」について聞き知っていても、「GDPがどうやってできているか」については、ほどんどの人は理解していないらしい。テレビで語っているエコノミストも然りだという。

本書によると、GDPは、国の経済状況の大まかな指標値ではあるが、国の面積や平均気温を測定するのとは訳が違うという。自然現象を測定するような客観的なものではなく、人の判断が入り混じった、思惑や裁量によって左右される数字だというのだ。

Gdp

 

恣意的なGDP

GDPとは何か? 国内総生産(Gross Domestic Product)の略で、ある年に国内で生み出された付加価値を合計したものだ。基本的な考え方として、「国内で使われたお金を全部足したもの」を元にGDPが計算される。

その定義と求め方は、国連が作成した国民経済計算体系(SNA)にある。それをExcelか何かで計算すりゃいいと思いきや、722ページという長大なものになる(プラス、解説とマニュアルが400ページ)。

なぜ計算がそんなに膨大になるのか? ここに着目すると、面白いものが見えてくる。計算する要素としては、売上高、輸送費やマージン、税金、輸出入、在庫増減、中間財、政府へ販売した分などがあるが、それをどう扱うかが、非常に複雑なのだ。

GDPのあいまいさ

たとえば、「消費」と「投資」の境界があいまいだという。一般人が10年使う車は「消費」だが、企業が2年使うソフトウェアは「投資」になる。在庫の増減は、意図的だろうと結果そうなったであろうと、「投資」扱い。

さらに、「国内で使われたお金を全部足したもの」から引くべき中間財の計算方法が厄介になる。インフレ率、季節変動の調整や政府支出など、それぞれ計算が違う。支出と収入は原則として一致するが、データの出どころが年次、月次、サンプルなど多種多様に異なっており、寄せ集めた結果が一致することは決してない。結果、統計的差異はかなり大きなものになる。

たとえば、貧しいと言われているアフリカの経済について。10年前の使い物にならないウェイト調整でインフレ率を計算していた例がある。正しいウェイトで計算しなおしたところ、実質GDPの値が跳ね上がったという。実は、サハラ以南のアフリカ経済は、ここ20年間、正式な値の3倍のスピードで成長していたというのだ。

なぜ、不正確なウェイト値を長いあいだ使い続けたのだろうか? 政府の単なるミスに帰着してもいいが、見かけより低いGDPは、「貧しいアフリカ」というイメージを演出する恰好のエビデンスとなり、援助機関からより手厚いサポートが得られるかもしれないと考える理由となったことは想像に難しくない。

あるいは、サービス分野が弱い点について。小売店からオンラインショップへの移行をどう計算するか、家事労働や政府支出、金融サービス、研究開発費はどこに含めるのかといった境界の問題が発生している。こうした境界をどこに引くかによって、GDPは数パーセント変わることもある。

[ロイターの世界こぼれ話]にある、売春や麻薬取引をGDPに含めるかという議論が面白い。EUの算出基準では、売春や麻薬取引をGDP計算に含めるよう求めているが、フランスは拒否し、イギリスとオランダは受け入れている。これにより、イギリスは1%、オランダは0.4%もGDPが押し上げられるという。

GDPの計算に何を入れて、何を入れないかという問題は、政府の思惑や恣意性が強く反映される。いつ定義を変えるかというタイミングも重要だ。GDPだけで比較することは、かなり乱暴な議論だというのは明らかだろう。

イメージ戦略としてのGDP

こうした不確定さに加えて、定義の変更が加わる。

サービス分野の弱点を補うため、GDPの計算において、商品の「質」の変化を入れたり、サービスにおける「生産」の定義を変えている。

たとえば、商品の「質」の変化については、ヘドニック指数による調整が紹介される。パソコンやカメラなどは、技術革新によって著しく性能が向上している。言い換えるなら、同じ性能のパソコンの値段が、昔と比べて下がっていると言える。価格だけで計算するなら下がってしまうため、性能などの質を考慮した計算方法が必要になる。

あるいは、サービスについて。そもそもGDPは物質的な生産を重視する考え方から始まっているため、サービスは例外的に扱われていた。ところが、サービス業の比重が大きくなるにつれ、無視するわけにはいかなくなった。

特に金融サービスで流通するお金は莫大で、2008年より生産的な活動として計上されるようになったという。あたかも、製造業者が原料から価値ある製品を生み出すように、銀行はリスクをとることでより高いリターンを「生産」しているという考え方だ。

こうした定義の変更により、面白い現象が見られる。もともと世界経済で傑出しているのがアメリカ合衆国だが、同時にこうした定義の変化をいち早く取り入れることで、諸外国に比べ、より有利な計算方法でGDPを算出している。

米国は2008年にこの制度を導入したことで、金融危機による世界経済の冷え込みの中、金融サービスがGDPを大幅に押し上げるという、矛盾した(でも正当な)結果になる。アメリカ経済の「強さ」は、こうした変化に柔軟に対応することで、自国により有利なイメージを見せる戦略にも裏打ちされているのだ。

MONIAC:コントロールできる経済

経済史を遡りながら、GDPの概念に潜む考え方を暴くのも楽しい。

1940年代の米国では、「政府は経済をコントロールできる」という風潮があったという。計量経済学モデルを用いて国内需要を管理し、金利と投資の関係を見ながら、増減税と財政支出を制御することで、あたかも自動車を運転するかの如く経済をドライブできるというのだ。

その象徴的なものが、MONIACというアナログ計算機である。沢山のタンクやパイプが接続されており、そこを流れる水は、銀行や消費者支出、貯蓄、外貨準備といった経済活動の様々な側面を現わしている。いわば、経済の視覚化とでもいうべきか。

Moniac

MONIAC
https://ja.wikipedia.org/wiki/MONIAC

タンクが一杯になりそうであれば、バルブをゆるめて水を逃がし、あふれるのを抑制する。循環する水はお金であり、バルブの開け閉めやパイプの接続を制御することで、望ましい流れにすることができるという仕掛けだ。

おそらく、コンピュータ黎明期の計算機ENIACを捩ったのだろうが、MONIACの意図は、「経済というものは適切な政策ハンドルさばきで、完全にコントロールできる」という考え方である。

この驕りがどんな結果になったか? 様々な経済モデルが次から次へと誕生し、その時々の経済政策に適用されてきた。失敗した政策は、環境その他のせいにされ、新たなモデルを生み出す動機となった。モデルは、経済学者の数だけ存在するのである。

経済モデルは複雑怪奇なものに化け、パラメータの関係性には「未来への期待」といった摩訶不思議なものまで組み込まれるようになった。さらには、複数の経済モデルを駆使しながら、経済予測という新たなビジネスが成り立つことにもなった。

MONIACは、今では骨董品として残されているが、経済を機械として考えるエンジニア精神は、今においても力強く支配し続けているという。

GDPは無意味か?

たしかに、経済を完全にコントロールすることなんて不可能だ。

同様に、完璧に計算されたGDPといったものも、やはり夢物語だろう。データの出所があいまいだったり、計算対象をどうするかなどの定義が変ったりで、GDPを厳密な測定値と言うのは難しい。

さらに、複雑な計算を経るため、その間違いに気づいたり、外からチェックするのはさらに難しい。そのため、数字を偽装していたギリシャや、まともなデータ収集すらしていなかったアフリカの一部の国の例もある。

まだ表立っていないだけで、お手盛りしまくり、見かけ上の経済成長を宣伝することで、外国からの投資を呼び込んでいる国もあるかもしれぬ。計算に使う要素が明確な分、そして、要素のほとんどが政府主導で収集する統計情報である分、より少ない良心で裁量を振るうことができる。

しかし、だからといってGDPが無意味かというと、そうでもない。本書では、幸福指数やダッシュボードなどの他の指標値について検討されるが、どれも一長一短で、GDPに成り代わりになりそうなものはない。しばらくはこの指標を使うのが続きそうだ。

だが、問題はこの数字を何らかの実体として錯覚してしまうことにある。GDPは数十年にわたり蓄積され、経済理論や政策判断の基盤としてあまりにも広く使われているため、あたかも「GDPという実体」がどこかに存在しているかのように思ってしまっている。そして必要なのは、その実体の測定精度をあげることだと勘違いしてしまっているというのだ。

著者は言う、GDPはただの概念に過ぎない以上、正確な測定というものは本来ありえない。これをわきまえた上で、条件づけて使うなら、これほど便利な数字もないといえる。21世紀の経済における急激なイノベーションやデジタル化されたサービスについては不得意かもしれない。だが、どれほど実際の経済が成長したかについては、GDP以外には適当な測定方法はないのだから。

 

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人魚、龍、河童、天狗、キメラ――怪異はただの空想ではなく、政情不安を納める装置でもある。知的興奮MAXとなる『驚異と怪異』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年12月16日


不思議な生きものや、奇妙な出来事が好きだ。

未知の怪異に触れ、驚きたいという欲望が、わたしの中にあるのかもしれない。

異形や怪異を追いかけるうちに、自分の知っていることとのつながりが見えてくる。未知の中の既知に気づく瞬間、知的興奮はMAXとなり、肌が粟立つ。1000年前の伝説と、今年観た映画がつながるとき、人の想像性や認知の境界を撫でているような感覚に陥る。

想像界の生きものたち

『驚異と怪異』は、これを想像界の生きものでやったものだ。元は国立民族学博物館の特別展で、古今東西の想像上の異径のいきものを集成したものだ。

たとえば、「人魚」が面白い。人魚のミイラが出てくるのだが、これは江戸時代の見世物だった。上半身が猿で、下半身が魚の干物を接合させた作り物である。童話に出てくるマーメイドとは異なり、グロテスクで異様な姿をしているが、見るだけで運気が上がり、吉兆とされる妖怪だ[ググるとグロいで]。

いっぽう、マーメイドは若く美しい女性の上半身と魚の下半身になる。ジュゴンがモデルとされているが、これは人の女性器そっくりのアソコを持つが故、血気盛んな船乗りたちが慰みものにしたからという説を耳にしたことがある。同じ人魚でも偉い違う。

他にも、龍、河童、天狗といったおなじみの(?)怪異から、ありえない霊獣・幻獣・怪獣、さらには、ファイナルファンタジーXVでデザインされた異形のクリーチャーや、五十嵐大介が描いた現代の異類までが一堂にひしめき合う。ページをめくるたび、異形に驚き、知的興奮を刺激されることを請け合う。

異形のバラエティ≒想像/創造力の限界

非常に面白いのは、こうした想像上の生きものを、古の人々がどのように造形化してきたかにある。絵画や彫刻にすることで、驚きを理解できる形にしようとする。未知のものを想像するためには、既知のものから類似した要素や構造を組み合わせて心象を描くほかない。

自分の知識と異形の姿を照らし合わせると、そうした表象の基盤が、ある程度パターン化されていることが見て取れる。地域や文化を超えて、人類共通の認知機能の限界というか、輪郭のようなものを垣間見ることができる。

たとえば、古今東西の合成獣(キメラ)の共通項を探したり、マレーシアの龍の精霊に日本の昔話を思い出すことができる。ラーマーヤナの鷲の王にイカロスの墜落を重ねたり、人間植物と呼ばれる古の絵に小野不由美『十二国記』や、西遊記の人参果を重ねて興奮する。

もちろんアイデアの拡散や伝承はあるのだが、ヒトの姿かたちが似通っているように、ヒトの認知機能も変わっていないのかもしれぬ。そして、それらを集めていくと、それが人の想像(創造)力の全体になるのかもしれぬ。

怪異=天からの警告

さらに面白いのは、日本における怪異の扱いだ。

平安時代の史料で「恠異(かいい)」として記録されたものは、神仏が送った危険信号だとしている。国が乱れるとき、その予兆として理解を超えた出来事が起きるという。出産異常や、怪物の出現、妖言の流行など、人知を超えた秩序「天」からの警告が、怪異だという考え方だ。

たとえば、奈良の大仏が水に濡れたり、寺社の大木が突然枯れたり、気味の悪いことが起こると、都に報告される。そこで卜(うらない)が立てられ、何かの予兆なのか、それとも問題ないのかが判断される。怪異だと認定されると、神仏にお詫びの使者が立てられ、天皇は一定期間の慎(謹慎)によって誠意を示す。

結果、神仏が予告した内乱や飢饉、疫病などの大惨事は「回避」される。つまり、神仏が発した警告を天皇が理解して社会を救ったことになる。これにより、権威が強化できる。

一方で、災いが起きたらどうなるか? その場合は、「まだこれだけで済んだ」「謹慎していなければもっと酷いことになっていた」と言い張る。世の乱れや災いを一身に背負って治める象徴的な存在は、どの時代でも語り継がれてきた(最近なら『天気の子』だね)。

行政ツールとしての怪異

重要なのは、この「大仏が濡れた」という現象を怪異として扱うところに、政治的な判断がなされている点にある。寒暖差から屋内の水分が結露したり、建材の水分が放出されることは時折あったはずだ。

これを「卜を立てる」ものと見なし、怪異として認定する背景には、都を飛び交う流言飛語や人心の不安があったのだろう。悪い噂が増えているからこそ、「水に濡れた」現象を怪異として認定し、それを治めるというリアクションをする。つまり、マッチポンプの行政ツールとして怪異を創出しているのである。

非科学的と言うのは簡単だが、「行政ツールとしての怪異」の構造は、現代のエコノミストがやっていることと、本質的に同じに見えてしまう。

ページをめくり、未知の怪異に驚き、既知とのつながりに気づいて楽しむ、知的興奮度MAXの一冊。

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知の全体像が描けるか?『万物の理論としての圏論』

圏論によって世界を統一する試み。めちゃくちゃ面白い。

かつて、知のランドスケープを夢想したことがあった。人が発見・発明・発展させてきたあらゆる知を、その関係性のネットワークでつないで視覚化する。

知は単独で成り立っておらず、隣接する他の知と結びついている。さらに、異なる分野の知とも連関しているものも合わせると、膨大な構造体になっているはずだ。

イメージ的には、巨大な図書館になる。

それも、書籍が単独であるのではなく、本どうしが見えない糸で繋がっている。その結びつきは様々で、関連書籍、引用文献、この本が好きな人はこの本も読んでいます的な繋がりもある。

数学ならこれ。

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ただし、これは人が手で描いた、連想や依存関係の図になる。概念的な近さ/遠さや、歴史的順序性、応用関係が混ざっており、あくまでイメージで、厳密なものではない。

あるいは、ConnectedPapersが近い。以下はグレゴリー・ベイトソンで検索した論文の関連図だが、全ての論文の表示させたものが、構造化・視覚化された知の全体像になるだろう。

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ConnectedPapers:Gregory Bateson

ただしこれは、引用/被引用と類似性、時代が可視化されているだけになる。各論文のテーマの依存関係や前提知識、構造やモデルは見えてこない。

こうした人の手による限界を超えて、より厳密かつビジュアルに、知の全体を描くことはできないだろうか?

圏論ならできるかも?と期待し、学んでいる途中なのだが、私の想像の斜め上を突破し、「万物の理論としての圏論」をぶち上げているのが本書になる。

圏論とは何か?

ざっくり言うなら、圏論とは「ものとものとの関係」を見る数学になる。ある対象があり、その対象どうしを結ぶ矢印(射)があり、その矢印を合成できる。

重要なのは、その対象そのものではなく、その対象が他の対象とどう関係し、変換され、合成されるかにある。

例えば、代数の計算とデカルト平面で考えてみる。

「x + y = 1」を方程式として見るならば、xに0を入れるとyは1になり、解を求める代数の世界になる。一方、「x + y = 1」をデカルト平面に描けば、一本の直線になる幾何の世界だ。

「代数・幾何」とセットで学んでいるものの、両者は別の世界になる。片方は数と式の操作であり、もう片方は空間図形だ。だが、両者は対応している。変数zを入れるなど、式の変形は図の変形になり、図の交点は方程式の解になる。代数の問題は幾何の問題に翻訳できるし、逆もできる。

圏論の入口はここになる。個々の式や図そのものよりも、「一方の世界の構造が、もう一方の世界でどのように保たれるのか」を見る。異なる世界どうしの対応関係を扱う数学が、圏論になる。

この視点を広げ、集合と関数、空間と写像、命題と証明といったさまざまな体系も、同じように対象と矢印と合成の体系として見ていく。そこに共通する構造を見出せるなら、同じ土俵に乗せることができる。

これらは私が齧った範囲だが、著者はオックスフォード大学の計算機科学科(量子情報Lab)でゴリゴリの専門家になる。応用事例が凄まじく知的興奮を揺さぶってくる。

圏は「なんでもあり」

ここで言う「なんでもあり」とは、雑に何でも圏論で語れるという意味ではない。

むしろ逆で、何かを圏として見るためには、「対象」や「射」を明確にする必要がある。言い換えるなら、対象や射さえ明確化できれば、異なる領域を同じように扱うことができる。

本書によると、圏とは純然たる抽象構造で、「対象」や「射」はプレイスホルダーに過ぎないという。このプレイスホルダーを埋めるところは厳密にする。そうすることで、多様な領域の多様な圏構造を見出すことができるという。

  • 論理学には命題と証明(命題から命題への演繹)の圏
  • 物理学には物理システム(系)と物理プロセスの圏
  • 計算機科学にはデータ型とプログラムの圏
  • 言語学には言葉と意味フローの圏
  • 経済学には対象物と理由付き選好関係の圏

諸科学の領域を圏論的に定式化することにより、異なる科学の異なる領域を「圏」という共通の土俵に乗せ、異分野間の知のネットワーキングと変換が可能になる。

例えば、論理学の命題と証明の構造が、物理学の系のロジックに適用され、その推論や計算を形式的に扱えるように推論システムにする。

もちろん、これらは圏論以前からやってきた営みだ。論理と計算の対応や、物理現象と数値計算は、それぞれの分野で発展してきた。しかし、証明、プログラム、物理システムに共通する構造を同じ形式で記述し、比較できるメタ言語が圏論になる。

圏論は対立をつなぎなおす

本書では、様々な事例を用いて、圏論のパワーを見せつけてくれる。

なかでも分かりやすく面白かったのが、対立する論争を「対立したまま構造的に見る」という方法だ。

例えば、量子力学と言語学で有名な論争がある。

アインシュタイン vs ボーアの論争

  • アインシュタイン:量子現象の背後には、因果律をもつ実在的な構造があるはず
  • ボーア:量子論の統計性こそが本質であり、観測行為が結果を決定するはず

チョムスキー vs ノーヴィグの論争

  • チョムスキー:言語の背後には、普遍文法のような深層構造があるはず
  • ノーヴィグ:言語は歴史的・経験的に変化するもので、統計モデルで扱えるはず

異なる学問分野の論争なのだが、圏論的に見ると、同じ構造を持つ対立と見なせる。


基本姿勢


隠れた構造を求める


統計性を受け入れる


量子論


アインシュタイン


ボーア


言語


チョムスキー


ノーヴィグ


世界観


因果的・合理論的


統計的・経験論的


問い


背後に本当の仕組みが
あるはずなのでは?


観測される統計性こそが
本質なのでは?

圏論が面白いのは、論争する両者のどちらが正しいかを判定するところではない点にある。むしろ、両者の対立そのものの構造がどこにあるのかをメタ的に炙り出している。

アインシュタインとチョムスキーは、現象の背後に隠れた構造を求める。ボーアとノーヴィグは、現象の観測結果として現れる統計性を受け入れる。どちらかが正しい/誤っているという関係ではなく、同じ量子/言語という現象を、異なる側から記述していると見なせる。

圏論は、対立する2つの世界観を、同じ現象に対する異なる見方として並べ、つなぎ直してくれる言語なのかもしれぬ(本書では、双対性と呼んでいる)。

「世界を構造的に見る」という観点から、人工知能、AI、自由意思、メタバースといったテーマを圏論的に論じる。そして、サイエンスとしての圏論的統一科学の可能性を検討し、万物の理論としての圏論を描き出そうと試みる。

「知の圧縮=万物の理論」なのか?

圏論を用いて、構造を解析することで、対立する知や、異種の知の間にある相同性をシステマティックに解明できるという。「知の構造」という本質のみを抽出することで、知の圧縮が可能になるという。

仮にこれが、人が知り得た領域の全てに適用し、可視化できるならば、冒頭で私が夢想した知のランドスケープが、より精密に描かれることだろう。対立する構造は対立するままに描写し、異なる学問領域であっても相同となる構造だけを見える化する。

昨今の分断され、氾濫する知を、統一的につなぎ直す―――圏論の射程はすさまじい。

だが、タイトルの「万物の理論としての圏論」にまで至るのかというと、私には分からない。

もちろん、私の勉強不足のせいかもしれないが、圏論で描いた世界が、世界の全てかというと、違うような気がする。「圏論で記述できる」ことと「圏論で理解できる」ことは違うという予感があるからだ。

例えば、恋愛はベクトルで記述できる。恋愛関係となっている対象は、射で表現できる。だが、それで恋愛を理解したことになるだろうか?恋愛という現象の中で形式化できる部分を圏論で描き、それを他の領域とつなぎ直すことはできる。だが、それは現象の核心を掴んだこととは別だ。

さらに、圏論的に同じ構造が見出されたとしても、それが実際に重要なものとして扱ってよいかは別だろう。

例えば、ペンローズの量子認知科学の説明で、「心の統計性」と「量子の統計性」に同じ構造が見出されたからといって、「脳は量子である」と考えるのは拙速だろう(本書では、「脳内に量子効果があり、それが意識を生む」といった主張からは、慎重に線を引いている)。あるいは、株価変動にブラウン運動モデルが使えるからといって、株式市場の中で物理的なブラウン運動が起きているわけではない。

それでも、熱く語られる圏論の大風呂敷に包まれたい。

圏論は、世界を丸ごと説明できる魔法の理論ではない。だが、分断され、氾濫する知のあいだに橋を架け、対立する見方を並べ直し、散らばっていた構造を見えるようにする。その意味で、圏論は「万物の理論」というより、「万物についての諸理論をつなぐ理論」なのだと思う。

かつて私が夢想した知のランドスケープは、引用/被引用ネットワークでも、連想マップでも足りなかった。そこには、知どうしがどのように関係し、どのような構造となっているかまで描かれる必要がある。

圏論は、そのための言葉を与えてくれる。

だから本書は、圏論の解説書であると同時に、「知の全体像は描けるか?」という問いへの、大胆で、無謀で、途方もなく野心的な返答でもある一冊になる。



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この本がスゴい!2020

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年12月1日


今年の一年早くない?

トシ取るほど時の流れを早く感じるのは知ってるけど、今年は特に、あっというま感がすごい。恒例のこの記事、もう書くの!? と思ってる。

毎年、「人生は短く、読む本は多い」と能書き垂れるが、今年は、「人生は加速的に短く、読む本は指数的に多い」と変えておこう。

そして、昨年と比べると、世界はずいぶん変わってしまった。

基本的に外に出ない、人と会わないが普通になり、マスク装備が日常になった。オフ会や読書会でお薦めしあった日々は過去になり、代わりにZoomやチャットでの交流が増えた。

ポジティブに考えると、そのおかげで、読み幅がさらに広がった。わたし一人のアンテナでは、絶対に探せない、でも素晴らしい小説やノンフィクションに出会うことができた。お薦めしていただいた方、つぶやいた方には、感謝しかない。

さらに、今年は本を出した。

ブログのタイトルと同じく、[わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでる]だ。美味しいところだけを、ギュッと濃縮した一冊で、名著から劇薬本まで、お薦めを大量に紹介している。

すると、読者の方から「それが良いならコレなんてどう?」というフィードバックを大量にいただく(ありがとうございます!)。どれも独力では一生かけても出会えないスゴ本ばかりで嬉しい。

ここでは、この一年間に出会った本の中から、わたしにとってのスゴ本を選んだ。あなたの選書の手助けとなれば嬉しい。そして、あなたにとってのお薦めを伝えてくれると、もっと嬉しい。


コロナのおかげで出会えた傑作
『リウーを待ちながら』

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2月上旬、新型コロナウィルスの感染拡大が懸念されていたころ、[ある記事]を公開した。

緊迫した現場の報道や、差別的な言動を目にして、世界が変わっていくのを感じたからだ。そして、このまま最悪の方向に進むのであれば、「日常がどう壊れていくのか」という観点で、小松左京『復活の日』と小川一水『天冥の標(救世群編)』を紹介した。

すると、お薦めをもらった。

これは、ある地方都市で新型ペストが蔓延する話だ。政府の緊急事態宣言、医療崩壊の現場、差別と悪意に満ちたネットと、それが現実化する世界を描いた、絵空事とは思えない生々しいコミックだ。

医療崩壊を象徴的に示す光景がある。

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渋滞の先にあるのは病院だ。まだ原因不明の段階で、発熱や悪寒の症状を抱えた人々が病院を目指す。病院は人手が足りない、ベッドが足りない、医療品が枯渇する。重篤化した患者が続々と死亡する。

さらに、街は外側から封鎖され、リソースの取り合いや、自己防衛という名の私刑の横行など、社会が壊れてゆく。そうした状況の下、絶望を、よりましな絶望に変えるべく、医師としての仕事を全うしようとするのが、主人公だ。

タイトルの「リウー」は、カミュ『ペスト』の主人公の名だ。カミュをリスペクトして描かれた作品だが、『ペスト』のようには終わらない。そして、こっちの方が、より現在に近いと考える。

なぜなら、ラストが違うから。

もう絶望しなくてもいいことが分かったとき、人々は花火を上げないから。カミュが描いたのは、戦争のメタファーだ。だから、脅威が街を去るとき、人々が花火を上げ、祝うのは当然だ。

しかし、リウーが来なかったこの街の人々は、祝わない。上書きされた災厄を抱えながら、日常を取り戻そうと平常のふりをする。このラストは、わたしたちの未来の日常に重なる。

2年後か、3年後か、新型コロナウイルスの影響が小さくなるとき、それは「ある日」をもって宣言されることはない。ゴールデンウィークみたいに、「コロナ明け」となる境目は存在しない。『リウーを待ちながら』は、そこまで予言的に描いた傑作だと言える。

日常がどのように浸食され、どんな異様な光景を見ることになるか、物語からよく見える。言い換えるなら、いま目に映る光景がどれほど壊れているかを知りたいとき、物語はバロメーターの一つとなる。

この傑作に出会えたのは、[はてなブックマーク]のhelioterrorismさんのコメントのおかげ。ありがとうございます! はてなブックマークは、コメントでお薦めしてくれる方がいるので、大変ありがたい。


科学が紐解く世界の面白さ
『銀河の片隅で科学夜話』

上質な科学エッセイ。

軽妙洒脱な語り口に引き込まれ、するすると読んでしまう。多宇宙論と文学の深い関係を語ったかと思えば、最小の労力で民主主義を壊す方法を紹介したり、倫理学のトロッコ問題を4,000万ものビッグデータでねじ伏せる。

いちばん面白かったのが、最小の労力で民主主義を壊す方法だ。セルジュ・ガラム博士の「世論力学」を使う。

利害が対立する中、互いの意見を出し合い、コンセンサスを形成していく―――このプロセスを数理モデル化したのが、世論力学だ。このモデルを色々動かすことで、集団は非常に興味深い振る舞いをすることが見えてくる。

まず、全員が浮動票―――つまり、みんな確固たる意見がない―――状態からスタートした場合、時間の経過につれて賛否のいずれかが優位になり、最後は全員賛成、もしくは全員反対になる。どちらに倒れるかは運しだいといったところだ。

だが、一定の固定票―――つまり、確固とした主張を持つ人がいる―――場合、賛否に与える影響は大きくなる。重要なのは、その主張の正しさ如何ではなく、どの程度の固定票がいるかになる。固定票が17%を超えると、無敵になる。残りの浮動票がどう動いても、最終的に固定票に収束する。

つまり、サクラを雇ってレビューを書かせたり、組織票をSNSにバラまいたり、切り取った「民意」をブロードキャストしたり、やり方はさまざまだが、その数が17%を超えると、合意形成を恣意的に操れるようになる。

言い換えるなら、集団の17%の声を揃えるだけの資源があれば、民主主義のルールに則りつつ、集団を乗っ取ることができると言える。

著者は量子力学の専門家なのだが、文学や歴史についても造詣が深く、世界の面白さについて、様々な分野から、縦横無尽に語ってくれる。寝る前に一話ずつ読むといいかも。


世界の「見え方」が変わる
『オーバーストーリー』

リチャード・パワーズの最新傑作。

読むと、木を、新しい目で見るようになる。いっぽん一本の違う木が「ある」のではなく、全体として木が「いる」ように感じられる。一つの木に焦点を当てて見るという感覚よりも、もっとカメラを引いて地表を覆う存在を想像するような……

この感覚、読んでもらうのが一番だが、このイメージで伝えたい。この長編小説に入り浸っている幸せなあいだ、わたしの心は、ずっとこの光景で覆われていた。

地上の目からすると、それぞれの木は独立している。だが、数十メートルの空からだと、互いの枝葉を譲り合いながら全体として森全体が蠕動しているように見える(樹冠が空間を譲り合う現象を、クラウン・シャイネスと呼ぶ)。そして、地面の下では、それぞれの幹から伸びた根が複雑に絡みあい、コミュニケーションを行っている。

『オーバーストーリー』も同じだ。前半は、8つの章に分かれた、9人の生きざまを追いかける、それぞれ独立した短編として読める。各人に象徴的な木が登場するのが面白い。

たとえば、一本の栗の樹を撮り続けたタイムラプスを持つ芸術家や、ベトナム戦争で撃墜されるも菩提樹に救われた兵士、王維の美術画を受け継いだ中国からの移民(扶桑)、世界をシミュレートするゲームを作り上げた天才プログラマ(ボトルツリー)など、それぞれの半生が線形に描かれている。

生きることの苦しみや、ままならなさを抱えており、少し読み進めるたびにグッと胸にこみ上げてくるものがある。ひとり一人の生い立ちや思想は異なるものの、突然の不幸や社会の逆風に揉まれる様は皆同じ、風に吹かれて揺れ動く木のようだ。

中盤、ばらばらに見えていた人生が重なり合ってくる。ある目的に向かって、つながりを求めようとする。もちろん、それぞれ価値観は異なるが、衝突したり譲り合ったりしながら、生きる範囲を変えていこうとする。その様は、数十メートル上空から眺めた樹木が織りなすクラウン・シャイネスそのままに見える。

物語のスピードに合わせ、ゆっくりと読み進めるうちに、わたしの時間感覚にまで影響が出てくる。木のスピードで見るならば、人の営みなんて、タイムラプスで早送りされた一瞬なのかもしれぬ。こんな風に。

人間は、時間は一本の直線だと思い、直前の三秒と目前の三秒だけを見ている。本当の時間は年輪のように外側を覆う形で広がっているのだということを人は知らない。”今”という薄い皮膜が存在しているのは、既に死んだすべてのものから成る巨大な塊のおかげだ。

『オーバーストーリー』は、ガイブン鈍器部の三柴ゆよしさんのおかげで手にした。ゆよしさん、ありがとうございます。


全人類が共有できる世界史の可能性
『新しい世界史へ』

歴史は勝ったほうが書く。

だから、グローバル経済の覇者を名乗る欧米中心になるんだろうなぁ、と思っていた。バラバラで異なる歴史をもつ地域が、欧米が主導する戦争と経済により一体化されてきたのが、世界史のメインストーリーだと考えていた。

東京大学の東洋文化研究所である著者は、これに異を唱える。そして、全人類が共有できる世界史を構想する。

歴史認識の共有は、近隣国ですら(だからこそ?)難しい。にもかかわらず、人類で共有する世界史なんて可能だろうか?

著者はまず、必要性を訴える。日本の歴史、フランスの歴史、中国の歴史など、国民ごとの歴史では不十分だと主張する。

世界全体で、経済が一体化し、文化や価値観にも共通点がある。それにもかかわらず、国民国家の観点から共同体への帰属意識を強調し、その利害を第一に考えさせる「世界史」では、地球規模の問題に取り組めないとする。

帰属意識の先を、国家から地球に拡張する、地球市民が共有する知識の基盤―――そんな世界史が必要だという。いうなれば、日本でもフランスでも中国でも用いられる世界史だ。

そして、「地球人のための世界史」が可能であるなら、それはどのような形になるのかを検討する。

可能性の一つの方向が、グローバル・ヒストリーだという。

ヨーロッパ世界を相対化し、あつかう時間を巨視的に眺め、対象テーマと空間を地球規模で採り、異なる地域間の相互影響を重視する歴史だ。

その例として地球の初期設定から語りなおしたダイアモンド『銃・病原菌・鉄』や、砂糖に焦点を当て人々の活動のつながりを炙り出す川北稔『砂糖の世界史』、あるいは、海と周辺地域を一体のものと捉え、その空間内での人・モノ・情報の動きを描くブローデル『地中海』を紹介する。

これをさらに広げ、「法の支配」「人間の尊厳」「民主主義の諸制度」「自由市場」「国家間暴力の否定」といった価値を基準にした世界の見取り図を提案する。

ある時代の王国、政府、長を中心とする人間集団において、どのように社会制度が維持され、こうした価値がどのように扱われていたかを比較する。それぞれに共通する点を炙り出し、いわば人間集団の類型化を図るのだ。

これを読むことで、人類に共通する価値が、どのように世界の地域で共有され、受け継がれてきたかが明白になる。そして地球という共同体に生きる一人だと認識できるものになるだろう。

著者は、構想し、提案するだけでない。予算を立て、プロジェクトとして実行している。東京大学、プリンストン大学、フランスの社会科学高等研究院、ベルリン・フンボルト大学と連携し、新しい世界史認識を生み出す挑戦的なプロジェクトだ。2014年から続いているこのプロジェクトの詳細は、「グローバル・ヒストリー共同研究拠点の構築」にある。

この世界史は、読んでみたい。

本書はスケザネさんから教わって出会うことができた。スケザネさん、ありがとうございます。一緒にお薦めいただいた、大江一道『世界近現代全史』も読みます。

 


地球外の生命を立証する科学
『アストロバイオロジー』

昔は、地球こそが宇宙の中心とみなされていた。

神に選ばれた人が住まうこの地球こそが唯一無二であり、星々は地球の周りをめぐると考えられてきた。だが、そうではないエビデンスが続々と集まり、地球が中心ではないことが明らかにされた。

そして今、地球こそが、生命が誕生する唯一の場所と「みなしたい」人々がいる。この発想の裏側には、「神に選ばれし人」という宗教や「人こそが生命進化の究極の存在」という文化がある。

だが、そうではないエビデンスが続々と集まってきており、研究体系となろうとしている。それが、アストロバイオロジー(astrobiology)だ。宇宙を意味する接頭語「astro」と、生物学を意味する「biology」を組み合わせた造語で、日本語では宇宙生物学と訳される。

  • 生命は、いつ、どこで、どのように生まれたのか?
  • 地球以外の天体にも生命は存在するのか?
  • 生命が存在する惑星としての 地球は、どのくらい特殊で、どの程度に普遍的な存在なのか?

興味深いのは、生物学に限った学問領域ではないところだ。

たとえば、生命活動が可能な領域を探るためには天文学、惑星科学、地球物理学の成果が求められ、生命誕生にアプローチするために生化学、微生物生態学、地質学、海洋学の知見が適用され、単純な機構から複雑な生命へのプロセスについては分子進化学、地球化学が用いられる―――しかもこれはほんの一部なのだ

つまり、アストロバイオロジーとは、最新の研究成果を惜しみなく注ぎ込まれる総合科学、いわば「全部入り」なのだ。

本書では、アストロバイオロジーの知見とともに、集まった最新のエビデンスが紹介されている。

たとえば、探査機カッシーニが土星の衛星エンセラダスの南極から噴出されたプルームから採取したアミンや酢酸、アルデヒドなど有機物がある。これは、生命がいる(いた)傍証として有力だ。

さらにプルームに含まれるナノシリカと呼ばれる石英の粒子は、地下には90度以上の熱噴出孔があることを示唆している。地球の生命誕生のカギとなっている深海の熱噴出孔を同じくらい期待してもいい。

現在進行中のプロジェクト「たんぽぽ計画」も、結果が楽しみだ。超低密度のスポンジ(エアロゲル)を宇宙空間に曝し、宇宙塵を捕集することで、そこに含まれる生命誕生の鍵となる物質を探す計画だ。

もし地球低軌道(高度400キロメートル)で微生物が検出されれば、地球上の生命が他の惑星へと移動する可能性を示す。つまり、生命は一つの惑星に閉じた存在ではなく、たんぽぽが綿毛で種子をとばすように、星を渡り宇宙へ広がっていく証左となるのだ。

この計画の一環で、国際宇宙ステーションの外で1年間生き延びた微生物がいることが分かった[Yahooニュース]。宇宙空間でも生命が生き延びられる可能性を示唆している。

地球外の生命を確信できる一冊。


清潔・不潔は文化だ
『不潔の歴史』

史上最も不潔なのは、キリスト教徒だという。ホント!? 入信の際の洗礼のイメージから、きれい好きと思っていたが、違うらしい。

たとえば、イエスを食事に招いたファリサイ派の人は、イエスが食前に身体を清めなかったことに慄いたとある(ルカ11:37-54)。手記や小説などで、キリスト教徒の汚さは相当なものだと紹介されている。

一方、ユダヤ教徒やイスラム教徒は、清潔でいることが教義としてルール化されていたという。つまり、身ぎれいにすること自体が宗教活動の一つだったのだ。

『不潔の歴史』を読むと、「きれい」と「きたない」は文化的なものであることが分かる。

現代の米国人にとっては、清潔とは、毎日シャワーを浴びてデオドラント剤を付けることだし、17世紀のフランス貴族にとっては、体は洗わず肌着を毎日着替えることが「きれい」になる。さらには、16世紀の医者の指導によると、疫病が入り込むから風呂は禁止されたという。

自分の価値観に照らし合わせて「うへぇ」と声に出しながら読んでいるうちに、その自分の価値観ですら、後の世からすると、「うへぇ」なのかもしれぬ、と思えてくる。

では、なぜそれが現代の衛生観念に近づいたか?

すぐに上下水道の整備や衛生観念の一般化が思いつく。

だが本書では、広告戦略の影響が大きいとある。マウスウォッシュのリステリンや、ボディソープの広告の歴史になる。「あなたは臭い。そしてその臭いにあなたは気づいていない」というメッセージを刷り込むことで、こうしたデオドラント商品は飛ぶように売れたという。

さらに、周囲の衛生観が変わることで学習し、体を清潔にすることがあたりまえになっていったという。

本書にはないが、最近ならマスクになる。

2002年にSARSがアウトブレイクしたとき、マスクをする日本人は、欧米人の嘲笑の的だったが、2020年のいま、欧米人も公共の場所でマスクをするのが普通になっている。

自分の感染予防というよりも、他人に感染させないためのマスクなのだが、この考えが一般化されたのだろう。周囲がしているから、するのが「普通」だから、マスクをする―――こういう風に、衛生観念は育っていくのかもしれぬ。

清潔/不潔は文化であり、文化は伝染することを考えさせられる一冊。

 


「おいしい!」と感じるとき、起きていること
『味覚と嗜好のサイエンス』

「味」は信号だが、「おいしい」は経験だ。

味覚は、食べ物が体に入ってくる時のセンサーになる。甘味はエネルギー源となる糖、塩味はミネラル、うま味はタンパク質、酸味や苦味は腐敗物の存在を感知する。

だが、塩何パーセント、砂糖何グラムといった味覚が最適化されれば、自動的に「おいしい」になるわけではない。料理の見た目やにおい、口に入れたときの食感やのどごし、風味の全てで、わたしたちは味わう。

これに加え、昔から食べ慣れているかも含め、いまの体感と過去に学習してきた記憶を総動員して、「おいしい」と感じる。ふだんの食生活で見過ごされがちだが、「おいしい」とは、結構複雑な結果なのだ。

本書は、この味覚と「おいしい」を手がかりに、食べるとは何かを探求したものになる。

たとえば、「コクがあっておいしい」の「コク」とは何ぞや?

コクを感じるものとして、フォアグラやウニ、生クリームやバター、イクラやアボカドが挙げられ、その共通項として、油脂や糖やうま味が想定される。

そして、油脂や糖やうま味が示しているのは、高カロリー、タンパク質、糖分だ。生きる上で必須のアミノ酸や糖分を豊富に含み、効率的に摂取することができるのが、「コクがある」食べ物になる。なるほど!

これを「コクの原型」と呼び、その周囲に「コクの第二層」があるという。

コクがある食べ物を口にし、においや食感、のどごしを学習し続けるうちに、コクを感じるようになるという。つまり、学習の結果、アミノ酸や糖分がなくても、その存在を感知させるだけでいいのだ。あんかけやとろみ、濃厚な香りは、その代表例だろう。

そして、その地域での食文化によって、好みが学習される。

食べ慣れたものを好ましく感じるのは、「食べたことがある」という味覚や風味は、食の安全の信号だからだという。親や家族が食べていたから、子どもも食べる。これが繰り返されて、嗜好ができあがるのだという。

たとえば、日本では海苔が好まれるが、慣れない米国人にとっては、「食べ物とは思えない」といわれる。日本の場合、周辺を海に囲まれ海苔が作りやすかったことと、海苔を食べる習慣が古くから伝わっていたことで、必要な栄養素を海苔に頼る文化になった。一方米国では、海苔の風味が栄養や食習慣と結びつかなかった。

つまり、「おいしい」は文化による学習の賜物なのだ。味という信号と、おいしいという経験の間にあるものを探求する一冊。

紹介してくれたのは、ふろむださん(ありがとうございます!)。食と文化とサイエンスは、本書に加え、[ライトノベルでの異世界の和食料理はどうでしょう? 味覚と民族料理]あたりを手がかりに、広げていきたい。

 


マザコン+ラブコメ+ブルーマー
=『大蜘蛛ちゃんフラッシュバック』

このマンガは、同級生のお尻を見てたら、ひっぱたかれるところから始まる。

Oogumo01

Oogumo02

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……このシーンは、主人公の実(みのる)の目線ではない。お尻を見てたのは亡き父で、その記憶が、折に触れて、実の脳内に蘇るのだ。

お尻の持ち主は、若かりし頃のお母さん(旧姓:大蜘蛛ちゃん)。つまり、母に一途な父の目線でもって、「女子高生のお母さん」の記憶が、息子にフラッシュバックされる。

そして厄介なのは、実は、お母さんに恋をしてしまっていること。女子高生のお母さん(細身で強気)と、今のお母さん(むっちり無防備)に煩悶する、マザコンラブコメ。

「お母さんに恋してる」なんて、ちょっとヤバくね?

その自覚はある。だから実は自問する。

だけど、お母さんとの日常に、父の過去の記憶が入ってくると、女子高生のお母さんの可愛いさに撃たれる。そして、(ここ重要)父がどれほど母を好きだったか、ということを、父の目線で思い知る。だから実は煩悶する。

父の高校時代をなぞる実は、そのまま行くと母と結ばれてしまうインモラルな展開になってしまうのだが、そこは作者・植芝理一先生の見せどころ、これでもかとばかりにフェチと変態と純愛とノスタルジックなネタと突っ込んでくる。

そんな実に興味津々なのが、同じクラスの一 一(にのまえ はじめ)。最初はぞんざいに扱っていた実も、彼女と話しているうちに、「高校生の母に話しかける父の記憶」がフラッシュバックされる。まるで、彼女が母で、自分が父かのようなデジャヴを味わう。そして実は煩悶する。自分は彼女の事が好きなのか、父の記憶の中の母を好きなのかと。

ラブコメを摂取するのは、なんにも無かった青春の記憶を上書きするため。だから読んでて、あまりの甘酸っぱさに「うわああああ」と叫びだしたくなるけれど、それでもニヤニヤを堪えて読む。

作者のこだわりは、ブルマーが包むお尻の微妙なカーブや、ぴっちりしたジーンズに浮き出るシワ、あるいは、自転車のサドルに座ったときのプリーツのよじれといった形で表現されている(刮目すべし)。

倒錯と純愛を、ノスタルジックにフェティックに描いた全6巻。第一話は[ここ]で読めるぞ。

 


人は、ロジックではなく類推で考える
『類似と思考』

人は、どのように思考しているのか? これを認知科学の成果から深掘りしたのが、鈴木宏昭著『類似と思考』だ。

本書によると、人は論理学的なルールを、個々の問題に当てはめて演繹的に解いているわけではない。それはむしろ、レアケースになるという。また、問題に行き当たる度に、メリットは本当に利得なのか、前提条件は対価として妥当かを、いちいち深く考えているわけではないという。

代わりに、過去の典型的なメリットー対価状況と、目の前の問題状況がどれほど似ているかを判断することで、面倒で、非現実的な処理をスキップしているというのだ。これにより、確率からするとあり得ない方に従ったり、文脈や状況だけから正しい判断を下したりする。

この、非常に人間くさい思考を「準抽象化による類推」として、その理論をまとめている。

「人の思考は、規則やルールに基づいておらず、類似を用いた思考(類推)を行っている」が本書の結論だが、そこへ至るまでに、文学や科学、政治やビジネスで行われる類推の事例を紹介している。さらに、他の理論と斬り結びながら自説をブラッシュアップしているところが面白い。

  • 多重制約理論:キース・ホリオーク、ポール・サガード
  • 構造写像理論:デドリー・ゲントナー
  • 概念メタファー説:ジョージ・レイコフ
  • p-prim理論:アンドレア・ディセッサ
  • 漸進的類推写像理論:マーク・キーン
  • Copycat:ダグラス・ホフスタッター

並べると、「人はどのように思考しているか」それは「一般化できるか(≒コンピュータに任せられるか)」さらに、「人がどのように世界を理解しているか」まで議論が拡張することになる。カーネマン『ファスト&スロー』やロスリング『ファクトフルネス』が好きなら、ハマることを請け合う。

「人はどのように思考しているか」について、現在の見取り図を与える一冊。

 


人生を<かなり>楽にするエピクテトス

人生で一番大事なことは、イチローから学んだ。

  コントロールできることと、コントロールできないことに分ける。
  コントロールできることに集中して、
  コントロールできないことには関心を持たない。

首位打者争いをしているとき、ライバル打者について話題が及ぶと、「相手の打率は、僕にはコントロールできません、意識することはありません」と打ち切ったという。

同じことを、松井秀喜も語っていた。成績が振るわず、マスコミに批判されたことについて質問されると、「記事はコントロールできません。気にしても仕方ないことは気にしません」と返したという[松井、イチローの言葉を就活に生かす]。

初めてこの言葉を聞いた時、自分を苦しめているものがはっきりと見え、すっと楽になった。以後、手帳の見返しに書きつけ、毎日見返している。

わたしを苦しめているものは、「コントロールできないもの」を生み出しては抱えている、わたし自身なのだ。

もっと踏み込んだ言い方では、[二ーバーの祈り]がある。

  神よ、
  変えることのできないものを、
  静穏に受け入れる力を与えてください。

  そして、
  変えるべきものを変える勇気と、
  変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを、
  与えて下さい。

神学者ラインホルト・二ーバーが作者とされる祈りの言葉で、アルコールや薬物依存症に苦しむ人を支援する会でも引用されている。

この、「変えることのできないもの」をあれやこれやと生み出し、それに思い悩むのは、ヒトの思考の癖のように思える。放っておくと、そうした不安にばかり埋め尽くされ、悪い方へ悪い方へとしか考えられなくなる。

だが、不安とは、未来に起こるかもしれない不都合を、「いま」思い悩むことだ。「いま」を「未来」に変えられないのであれば、起きたときに悩めばいい。起きてもいない(起きるかどうかすら分からない)不都合について心配するのはナンセンスかもしれぬ。

この考え方を辿ると、エピクテトスまで至る。エピクテトスはローマ帝政時代の哲学者で、彼の言葉は、マルクス・アウレリウスからパスカル、夏目漱石にまで影響を及ぼし、今に至っている。エピクテトスの言葉は、『語録 要録』で触れることができる。

エピクテトスの原則は、「自分の権内と権外を見極めよ」になる。

  権内=コントロールできるもの

  権外=コントロールできないもの

だね。そして、権内か、権外か、両者が適切に区別できている状態こそ、人にとってもっとも幸福であり、われわれが目指すべき最善な状態だという。

そして、権内か、権外か、あらゆる心像についてこの基準をあてがってみろとアドバイスるする。権外であれば、捨て去れと断言する。なぜなら、人々を不安にするものは事柄ではなく、事柄に関する考え方なのだからだというのだ。

エピクテトスの言葉そのまんまは、少し解説が必要だ。だが、これを現代風にアレンジしているのが、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね』だ。山本貴光さんと吉川浩満さんが対談しながら、人生を楽にするやり方を噛み砕いてくれる。

エピクテトスは、山本さんと吉川さんのこの本のおかげで出会うことができた(ありがとうございます!)。私淑する一人として、読み続けるつもり。

 


辺境と文明が逆転する
『遊牧民から見た世界史』

中国がなぜ中国かというと、世界の中心を意味するから。

中国皇帝が世界の真ん中にあり、朝廷の文化と思想が最高の価値を持ち、周辺に行くにつれ程度が低くなり、辺境より先は蛮族として卑しむ華夷思想が根底にある[Wikipedia:中華思想]。

しかし、蛮族とされている遊牧民から見ると、舞台はユーラシア全体となる。遊牧生活によって培われた軍事力で圧倒し、スキタイ、匈奴の時代から、鮮卑、突厥、モンゴル帝国を経て、大陸全域の歴史に関わる。中心と周辺が反転し、中華は一地域になる。

視点を反転することで、いままで「常識」だと考えてきたことが揺らぎ、再考せざるを得なくなる。

たとえば、「モンゴル残酷論」を誤りとする。

モンゴル帝国といえば、暴力、破壊、殺戮というイメージが付きまとう。PS4ゲーム『ゴースト・オブ・ツシマ』やコミック『アンゴルモア元寇合戦記』に登場する蒙古は、血塗られた侵略者として描かれている。

しかし、これは歴史の書き手による願望であり、よほどの例外を除きモンゴルはほとんど戦っていないという。

仮に、敵とみれば殺したという伝説が本当だとすると、モンゴルは増えない。ヨーロッパから中国まで、ユーラシア大陸を横断する規模で拡張するためには、仲間を増やす必要がある。

モンゴルの優れた点は、仲間づくりの上手さにあったという。自らの強さを喧伝することで、戦わずに吸収することを目指す。モンゴルという仲間になれば、身の安全が保たれるという、一種の安全保障を提供することで、帰順させるのだ。

軍事力を背景としながらも前面に出さず、関税を撤廃して経済と流通を隆盛させ、ユーラシア・サイズの通商を実現できた事実と、暴力と破壊のイメージはかけ離れている。おそらくこれ、どちらかが本当という二択ではなく、イメージと実践を使い分けたプロパガンダなのではなかろうか。

なぜ遊牧民にマイナスのイメージがあるのか?

本書によると、遊牧民は「蛮族」というレッテルを押し付けられてきたという。その理由は、「遊牧民は、自らの歴史をほとんど残さなかった」ことにある。

一方で、記録する側は、自分たちを「文明人」だと考えて、遊牧民に対し誤解や曲筆の多い書き方をしたという。遊牧民に攻撃・支配された時代は、被害者意識を過大に記述するか黙殺し、記録する側が攻勢にある時期は、遊牧民に対し、蔑視や優越感が溢れる表現になる。

歴史を記す側は、正統性を主張し、覇道を唱えるため、残虐や非道ではないことを証明しなければならない。その仮想敵こそが匈奴・鮮卑といった外側の人々だというのだ。

内側と外側、辺境と文明が入れ替わる。歴史を複眼的に眺めるダイナミズムが面白い。その手がかりを与えてくれる一冊。

 


おっぱいの本質を学ぶ
『哺乳類誕生』

おっぱいとは何か?

この問いに対し、人文科学からたどったのが『乳房論』だ。絵画、文学、宗教、政治、ファッション、医療、ポルノの斬り口から、[乳房をめぐる欲望の歴史]を描き出している。

いっぽう、自然科学からたどったのが本書『哺乳類誕生』だ。遺伝学、分子生物学、獣医学、生物工学、古生物学の斬り口から、乳房に至る進化の歴史を描き出している。

おっぱいで子どもを育てる哺乳類は、どのようにおっぱいを獲得したのか。乳はどのように発達し、どういったメカニズムで出て、生命維持にどのような役割があるのかなど、おっぱいの本質を学ぶことができる。

この、おっぱいの本質には瞠目した。おっぱいを全くといっていいほど分かっちゃいなかったことを、思い知らされた。

おっぱいは、ほとんど味しないし、うっすら生臭いので、血液みたいなものなのだろうと思っていた。だが、血漿に含まれる成分だけでなく、脂肪や糖を効率的に与えられることが、おっぱいのすごいところなのだ。

まず脂肪は、ほとんど水に溶けない。母乳は液体だから、脂肪を渡そうとしてもそのままでは難しい。どうするか? 

そこで、おっぱいの登場だ。

脂肪は乳腺細胞がつくり、細胞内の脂肪滴という形で存在する。これを乳に移行するときは、細胞膜を通らなければならないのだが、通過する場所がない。そのため、細胞膜を内側から押し上げ、細胞膜に包まれた状態(脂肪球)となって乳に移る。細胞膜そのものは水に混ざりやすい性質を持っているため、脂肪滴も親水性物質として振舞えるというのだ。

淡々と説明しているが、これ、端的に言うと、体液の養分を与えるのではなく、自分の身(細胞)を削って脂肪を包んで乳にしていることなる。まさに身を削って乳を与えているといえる。おっぱいは、血というより肉の一部なのだ

さらに、糖を渡すメカニズムもスゴい。

赤ちゃんの脳や神経の発達に大量の糖分を必要とするのだが、ブドウ糖ではなく、乳糖で渡す。これにもちゃんと理由がある。

ヒトの血中ブドウ糖は0.07~0.14%で維持されており、これを大幅に超えてコントロールできなくなると、全身に異常が現れる(糖尿病だ)。ブドウ糖は必要だが、正常範囲を超えたら毒になるのだ。

一方で、効率的に栄養を渡すため、乳の糖分を高くしたい。このジレンマを解消するのが乳糖だ。乳糖は、体内では利用されず、高濃度にしても支障ないという(人の乳に含まれる乳糖は7%)。これにより、高い糖度のおっぱいを、母体内の糖度に影響を与えずに渡すことができる。

こんな感じで、おっぱいの偉大さをいっぱい知ることができる。おっぱいは、生命進化の究極の形だともいえる。

本書は、おっぱいの碩学・骨しゃぶりさんのお薦めで知った(ありがとうございます!)。次は『乳房の科学』に手を伸ばしてみよう。

 


美とは究極的には適応度のこと
『美の起源』

問題:次の①と②のうち、どちらが美しいと評価されるか。


①


Landscape1


②

Landscape2

おそらく、①を答える人が多いだろう。

しかし、なぜ①を選ぶのか?

その理由は、デニス・ダットンが解き明かしている。ダットンは、普遍文法や普遍道徳と同じように、「普遍美」があると仮定し、それは国や民族、地域や文化に関係なく、好ましいとされるものだと考えた。

そして、1993年、ケニアからアイスランドまで10か国におよぶ調査を行い、どの風景が好ましいか、そして好ましいとされる特徴を突き止めた。

  • 広い空間に丈の低い草と、藪や密生した木がある
  • 近くに水がある
  • 鳥や動物がいる
  • 植物が多様である

これは、ヒトが好む原風景は、アフリカのサバンナに似ているところから、「サバンナ仮説」と呼ばれる。ダットンは、この嗜好を、ヒトが進化の過程で獲得した可能性が高いと主張する。

つまりこうだ。開けた空間なら、敵や獲物を発見しやすい一方、丈の低い草で身を隠すことができる。水があり動植物が豊富だということは、それだけ食べ物にアクセスしやすいことになる。ダットンは、この特徴は風景画のみならず、公園やゴルフコースにも適用されているという

特定の景観を好ましく感じる美的判断の起源は、ヒト科の狩猟採集者の生存可能性を高める場所にあるのかもしれぬ。この観点からヒト共通の美しい色を探すなら、それは水の青か植物の緑になるだろう。

つまり美を感じさせる裏側には、生物が生き延びて子孫を残す適応度が隠されているというのだ。

しかし、その一方で、枯山水は水を使わず、石や砂で表現される。水墨画や山岳風景画で描かれる自然は、サバンナの景観とは程遠い。こうした美的価値観は、適応の結果ではなく、歴史や文化の洗練を経て、変わっていったのかもしれぬ。

美とは何か?

哲学者や芸術家、科学者たちが答えようとしてきた疑問に対し、進化から考えるのが、渡辺茂著『美の起源 アートの行動生物学』だ。

ヒトの美意識の基礎には進化的な基盤があるとし、その美意識を行動生物学の視点から解き明かそうとする一冊。本書は、読書猿さんのツイートで巡り合うことができた(ありがとうございます!)。


意味が分かると『しびれる短歌』

「意味が分かると怖い話」というのがあるが、それに近いものがある。

ほんとうはあなたは無呼吸症候群おしえないまま隣でねむる
鈴木美紀子

同室で枕を並べる夫婦なのに、少なくとも妻は冷めきっているのが分かる。

「ほんとうはあなたは」で、夫の寝息がおかしいことに気づいてから、結構な日数が経っている。おそらく、就寝中の夫の寝息がおかしいことに気づいて、ネットか何かで調べ、「無呼吸症候群」に辿り着いたのだろう。

放っておいたら、そのまま息をしなくなるかもしれない。それも織り込み済みで、「おしえない」。ずっと息をしないようなら、「おしえない」まま目を閉じて、朝まで待つのではないかと、ぞっとする(「教えない」と漢字にしないところに、淡々とした意志を感じる)。

夫婦はホラーだ。これなんかもそう。

湯上りに倒れた夫見つけてもドライヤーかけて救急車待つだろう
横山ひろこ

風呂上りのヒートショックで、夫が脳卒中を起こしたのか。

この場合、「おしえない」のは犯罪なので一応、救急車は呼ぶ。だけど、待っている間は髪を乾かす。寝かせるくらいしか応急処置はないからだ。冷静なのか非情なのか。性別逆転すると石を投げられそう。

東直子さんと穂村弘さん、二人の歌人が紹介する『しびれる短歌』では、ヒヤりとするような歌がいくつも出てくる。現代の短歌では、夫は粗大ゴミであり、ぬれ落ち葉として扱われるらしい。「断捨離で最も捨てたいのは夫!」なんて涙を禁じ得ぬ。

これなんて、ぞっとするだけでなく、物語を感じる。

家族の誰かが「自首 減刑」で検索をしていたパソコンがまだ温かい
小坂井大輔

この家では、パソコンを共用していることが分かる。さらに、「検索」という言葉から GoogleやYahoo検索のことで、いわゆる昭和の時代ではないことが分かる。

それだけではない。検索キーワードを知っているということは、履歴を開いたことになるし、「自首 減刑」という言葉から、「自首したらどれくらい減刑されるのか」という意図が、そして家族の誰かがそれを知りたいと思っていることが分かる。

何をしてしまったのか?

もちろん、興味本位で調べたのかもしれぬ。だが、「まだ温かい」という言葉は、犯行現場に残された証拠品から「犯人はそう遠くに行っていない」「犯行からまだ時間が経っていない」ことを示す慣用句だ。

この一行からざわつきが伝わり、それを言えない詠み人のもどかしさも感じられる。詠み人にやましいことがあるならば、自分の犯行が家族にバレた? と不穏な物語を広げることだってできる。

短歌の破壊力が凄い。一行が目に飛び込んでくるから、構える間もなく理解に達し、感性を撃つ。一行の物語に震えて痺れる。

しびれる短歌を、お試しあれ。

 


世界文学の日本代表が夏目漱石ではなく樋口一葉である理由
『「世界文学」はつくられる』

世界文学全集を編むなら、近現代の日本代表は誰になる?

漱石? 春樹? 今なら葉子?

審査は、世界選手権の予選のようになるのだろうか。投票でトーナメントを勝ち抜いて、これぞ日本代表としてエントリーするのだろうか。

スポーツならいざ知らず、残念ながら、文学だと違う。春樹や葉子ならまだしも、漱石は予選落ちである。

なぜか?

『「世界文学」はつくられる』に、その理由がある。近代日本語の礎を築いたことで誉れ高い漱石でも、世界的に見た場合、西洋文学のコピーとして低く評価されているという。日本では有名な漱石も、海外に行くと知名度はうんと下がる。

たとえば、米国の大学生が学ぶ『海外文学アンソロジー』がある。古今東西の古典から近現代の作品を取り上げ、体系的にリベラルアーツを教授するために構成されたアンソロジーだ。日本人作家も多数取り上げられている(カッコ内は近現代の日本人作家の登場回数)。

樋口一葉(7)
川端康成(6)
谷崎潤一郎(4)
与謝野晶子(3)
芥川龍之介(3)
村上春樹(3)
三島由紀夫(2)
大江健三郎(2)

漱石は0である。漱石に限らず、尾崎紅葉や二葉亭四迷など、明治の文豪は軒並み苦戦しており、鷗外はかろうじて1回収録されているのみになる。どうやら米国では、漱石はマイナーどころか無名に近い。

対照的に、樋口一葉は『たけくらべ』『わかれ道』など、数多く収録されている。ノーベル文学賞という理由で川端康成が入るのは分かるが、彼を除くと、ぶっちぎり日本代表と言っていい。

なぜか?

『世界文学アンソロジー』の解説によると、漱石や鷗外といった明治期の文学者について、辛辣な評になる。フローベールやゾラ、ツルゲーネフといった同時代の西洋のリアリストを盲目的に(slavishly)真似た、と斬っている。

一方、一葉は、西洋文学の影響を受けなかったと言われている。一葉自身が英語を解さず、日本独自のリアリズムを発達させたとして、高く評価されているのだ。

それに加え、「世界文学」の扱い方に秘密がある。この言葉が、どのような意図で使用されているかに着目すると、見えてくる。

『海外文学アンソロジー』を用いるのは、北米の大学で教鞭を取る英文科の教員だ。主要顧客である彼らの目的は、自分たちのアメリカ文学が、いかに西洋の歴史と不可分かを教えることになる。

それゆえ、収録される作品は、聖書から始まりホメロス等のギリシャ・ローマの古典、中世、ルネサンス、西洋の有名作品が紹介されてゆく。あたかも世界史の史料を拡張したかのような構成になる。この時点で、かなりのボリュームになる。

これに多様性を加える必要がある。いわゆるカノン(正典)としての世界文学では、「ヨーロッパ」「古典」「白人男性作家」が多数を占める。バランスを取るために、「非ヨーロッパ」「女性作家」「マイノリティ」を選ぶ必要が出てくる(しかも限られたページで)。

こうした、「米国大学の教員にとっての世界文学」という文脈で考えると、樋口一葉がくり返し採択される理由が見えてくる。

まず一葉は、女性作家である。それだけでなく、近代日本(おそらく東アジアでも)最初期の職業的女性作家として挙げられる。次に、作品の短く、紙面が限られたアンソロジーに適しているといえる。

さらに、一葉はフェミニズムの文脈で比較文学させられている。『海外文学アンソロジー』の解説ページでは、一葉の『十三夜』は、スタントン&モットの『感情宣言』と比較して読まされる。

『十三夜』は、子どものために離縁を思いとどまる母を描いた作品で、『感情宣言』は離婚時に母親に親権を与える話だ。両者をフェミニズム的枠組みの中で解釈することが、授業の目的となる。

シェイクスピアやダンテといったヨーロッパ文学の中核ともいうべき男性作家を締め出すことはできない。さらに、ポーやメルヴィルといったアメリカ文学の伝統を作り上げた男性作家も入れなければならない。

その上で、全体の頁数を増やすこともなく、多様性や平等を実現しようとすると、どうしてもどこかで調整が必要となってくる。

世界文学アンソロジーを編むことは、あやういバランスの上になりたっている。日本代表を決めるのは、日本における評価や審査だけでなく、日本を外から眺めるとき、眺めたい方向に沿った形であることも、ポイントとなる。

世界文学(World literature)という言葉は曲者だ。世界陸上とか、ワールドカップといった、グローバルで評価されるニュアンスと、「世界文学全集」という出版物がつくりあげた正統性やカノンといった響きが発動する。

こうしたイメージが、「つくられたもの」であることを、本書は実証的に解き明かす。ゲーテから始まる「世界文学」の歴史を辿りながら、そこに潜むイデオロギーや恣意性を暴いた一冊。

本書は、著者である秋草俊一郎さんのセミナーを受講する上で知った。秋草さん、素晴らしい本にまとめていただき、ありがとうございます。

 


大ヒットする映画の法則&作り方
『SAVE THE CAT の法則』

大ヒットする映画の法則と、それを適用する方法が書いてある。ベストセラー小説やゲームにおける、物語のベストプラクティスとしても使える。たとえば、

  • どんな映画なのか、一行(ログライン)で言えるか
  • 「マトリックス」と「モンスターズ・インク」は同じ映画
  • 全てのシーンに葛藤が必要な理由
  • 原始人でも分かる、原初的な感情や欲求に立ち戻れ

など、気づきが山のように得られる。目からウロコというよりも、見ていたはずなのに分かっていなかったことが、言語化されている。

映画のシナリオだけでなく、物語づくりの根幹にも届く。その原則はそのまま「人が一番面白いと感じるものは何か」につながる。

それは、「葛藤」だという。

人はもともと、葛藤している人を見るのが好きだという。人間同士の葛藤の最たるもの(殺し合い)を模したものが、レスリングやボクシングになる。

葛藤は、「欲しい」「嫌だ」という方向を持っており、原始的な感情や欲求に裏打ちされている。原始的な欲求とは、「生き残る」「セックスする」「愛する人を守る」「死への恐怖」といった、時代や文化を超えた普遍的なものだ。そうした欲求が阻害されるとき、葛藤が生まれる。

たとえば、「目の前に迫る危険 vs.死ぬのは嫌だ vs. あの人を守りたい」とか、「落ちこぼれの僕だけどあの子と仲良くなりたいのにライバル出現」、あるいは「キライなあいつがなぜか寄ってくる」のように、欲求とそれを阻害するもの、どちらを取るのか、ジレンマといった争いやもつれになる。

乱暴にまとめるなら、人は葛藤を見たいので映画を観る。主人公が葛藤を克服し、欲求を満たすとき、観客は、一番基本的なレベルで共感できる。これが映画の快楽になる。主人公の葛藤をドライブするのがストーリーといえるだろう。

だから主人公は、物語の中で一番葛藤し、最終的に一番大きく変化していなければならないという。シーンをまとめたカードには、必ず何らかの葛藤が入っていなければならない(どんなに出来が良くても、葛藤のないカードは捨てろとまで断言する)。そのために、わざわざ「葛藤」を示す記号まで作っている。それぐらい重要なのだ。

ここ、小説の創作技法と同じだ。カート・ヴォネガットの指南で、「たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにも何かを欲しがらせること」を耳にしたことがある。何も望まず、嫌わないキャラクターなら、最初から登場しなくても良いということか。

もちろん、こうした原則を守れば大ヒットすることが保証されているわけではない。監督や俳優など、ヒットを左右する様々な要因があるし、シナリオ通りに作られる保証なんてもっとない。

だが、大ヒットした映画のシナリオは、全てこの原則になっている。本書は、ヒット作のシナリオを理解・分解・再構築した、いわゆるリバースエンジニアリングによる指南本なのだ。

本書は長らく積読山に刺さっていたのを、ふろむださんの後押しで読んだ(ありがとうございます!)。映画に限らず、物語を作る&楽しむ上で、非常に役に立つ一冊。

 


物語に感動するとき、その力はどこから来たのか?
『物語の力』

物語に魅了されるということは、どういうことか。「感動した」「心が震えた」と手垢にまみれた言葉があるが、その心を震わせる力はどこから来たのか? これが本書のテーマになる。

「心を震わせる力=物語の訴求力」として、どのようなときに訴求力が発生するかについて、物語論の研究成果を解説する。本書では詳細に分けているが、ざっくり以下の場合になる。

  • 回復と獲得の物語:自分が直面する問題に対する解決や、到達したいと願うゴールへの筋道が描かれているとき
  • 疎遠と帰属の物語:自分とは異なる価値観が提示され、自分の価値観が揺さぶられるとき

小説や映画における物語は、現代では消費されるものという意味合いが強いが、昔からの神話や民話の役割を担う側面もある。それは、物語を通じた、価値観や規範の伝達だ。

物語では、何か問題を解決したり、何かのゴールへ向かって進む。その背景にあるものは、「これは良くない状況であり、問題である」「これが良い状況であり、望ましいゴールだ」「解決にあたっては、このルール・設定を守るべきだ」といった、良い・悪い・望ましいといった価値基準だ。

そして、物語を聞く人は、物語の背景にある価値や規範を自らのものにし、物語で示されるモデルを模倣しようとする。

たとえば、「自己犠牲は望ましい」という価値基準があり、それが「皆のために戦いに行く物語」になる。この物語に感動した人は、共同体のために自分を犠牲にする行為を価値あるものだと考えるようになる。いざ他部族が攻めてきたとき、立ち向かってゆくだろうし、そのような気にさせる物語が、「良い」物語になる。

では、どうすれば「そのような気」にさせるだろうか?

「回復と獲得の物語」では、「自己効力感」と「ホメオスタシス」で説明する。自己効力感とは「自分にはできると感じる自信」のことで、ホメオスタシスとは、元に戻ろうとする力になる。

つまり、何かのストレスがかかり、マイナスの状況になったとき、「自分にはできる」と信じて手を尽くし、マイナスから回復すると、大きな快を得るというのだ。このときの「自分にはできる」という動機と、マイナスから回復する方法は、強く学習される。

より大きな快を得るためには、マイナスの度合いを大きくすればいい。主人公は、自己効力感を持たせる前に、絶望的な状況に落とせばいいし、ライバルや障壁を設けることで、得られる快もさらに一層強いものになる。

こうした物語の役割は『のだめカンタービレ』『デスノート』『インデペンデンス・デイ』など、具体的な作品を挙げながら解説されている。

また、『君の名は。』のラスト90秒が凄い理由を、視線誘導と感情移入の仕掛けを紐解きながら説明する。全ての仕掛けが分かったうえで、もう一度観ても、やはり感動する。それは、「なぜ人の心は震えるのか?」という謎に対する答えそのものだからだ。

そして、「自分の心がどのように震えたか」が分かれば、「誰かの心をどのように震わせるか」も分かる。読む人・書く人・描く人……物語を紡ぐあらゆる人にお薦め。

 


笑いはヒトとしての適応である
『ヒトはなぜ笑うのか』

犬、売ります:なんでも食べます。子どもが好きです。

意味が分かったとき、めっちゃ笑った。誤りに気づいて愕然とする男と、その傍らでシッポ振ってる犬まで目に浮かんで、笑いが止まらなくなった。

ひとしきり笑ったあと、可笑しかった理由を考えても、出てこない。「子どもが好きです」のダブルミーニングは分かるが、それが、どうして「あの」可笑しみを招いたのか、説明するのは難しい。

絶妙なネタが飛び込んできたり、とんでもない大失敗を目の当たりにしたとき、胸の奥・腹の底に、抑えようのない情動が沸き起こってくる。

このユーモアの情動がどのように引き起こされるのか、さらに、それをどうして愉快だと感じ、笑いにつながるのか―――認知科学者(ハーレー)、哲学者(デネット)、心理学者(アダムズ)の3人の共同研究『ヒトはなぜ笑うのか』が、この謎を解き明かす。

本書では、ユーモアの情動が発動するとき、そこに何らかのエラーの発見があることに注目する。私たちは、ある知識や信念に不一致を見出したとき、可笑しみを感じる。私たちは、何かがおかしいと分かったとき、それを可笑しいと感じる。

しかも、不一致であれば必ず可笑しく感じるとは限らない。いったん真だとコミットメントされた要素が偽だと判定されるとき、ユーモアが生じる―――これが「可笑しさ」のメカニズムだという。暗黙裡に当然視していたものが、一気に一挙にひっくり返る発見、これがカタルシスにつながる。

さっきの「犬、売ります」だと、掲示板かSNSのような場所に、犬の買い手を募集していることが分かる。続く「なんでも食べます」は、「(犬は)好き嫌いせず何でも食べる」と整合的に理解される。

そして、「子どもが好きです」が入ってくると、いったんは「子どもに懐きやすい犬」と受け入れられる。だが、その後、「なんでも食べる犬」という全体像と比べると、「好き嫌いせず子どもを食べる犬」と読み取ることができてしまう。

いったん受け入れた「子どもに懐きやすい犬」が偽だと判定されるとき、わたしは、可笑しみを感じる。もちろん、「子どもを食べる犬」というグロテスクな結論は偽なのだが、それも含め、この文章に促された誤読(おかしさ)の発見こそが、愉快なのだ。

この「愉快だ」というユーモア情動には、適応的な働きがあるという。この情動は一種の報酬であり、これを求める動機付けになるというのだ。

たとえば、私たちは果糖がもたらす感覚を「甘い」として心地よく味わう。それは、エネルギーたっぷりであるが故に、グルコースの摂取を求めるよう、「甘さ」が動機づけられている。甘い・美味しいという感覚は、グルコースを摂取した報酬になる。

それと同様に、「可笑しい」という感覚は、今まで当然だと思っていた知識や信念の中にに、首尾よくエラー(おかしさ)を見つけた報酬だという。私たちは、チョコやケーキを求めるように、ジョークやユーモアを求めているのは、こうした理由によるというのだ。

そして、こうした「エラーを見つける」ことを報酬にした理由を、メンタルスペースの概念を用いて明らかにしてゆく……人が「笑い」を手に入れたのは、ヒトとしての適応の結果なのだということが分かってくる。

笑いを探ることでヒトの本質に近づく一冊。

 


人生の持ち時間は少ない、やりたいことは全部やろう。
『キミオアライブ』

Kimioa

病院のベッドで、ひたすらノートに書く少年。

大病を患い、未来に絶望しかない状況で、「やりたいこと」を書き続ける。リストには、たくさんの「夢」が並んでいる。

  • リコーダーを吹きたい
  • 風船の中に入ってみたい
  • 部屋中を使ってピタゴラ装置をつくりたい
  • 空を飛びたい ……

ささやかな願いから、とんでもない冒険まで、さまざまな夢がある。

わたしも、自分の夢をリストにしたことがある。行きたいところ、食べたいもの、やりたいことを綴った覚えがある。でもそれだけ。リストを作って「名前を付けて保存」しただけだ。

しかし、少年は違う。名前はキミオ、『キミオアライブ』の主人公だ。

  1. ノートに、やりたいことを書く
  2. 書いたことは、必ず実行する
  3. 実行したら線を引く

キミオは、律儀に、真面目に、一つ一つ、実行していく。

「リコーダーを吹く」は簡単にできるが、ピタゴラ装置はちょっと大変かも。さらに、「空を飛ぶ」のはもっと難しい。飛行機に乗ればいいのか?

キミオは、別の方法で「空を飛びたい」を実現する。

ここが、キミオとわたしの大きな違いだ。

わたしは、「やりたいこと」が浮かんだとき、まず、その「できない理由」を探し始める。お金が無いから、もっと時間があったなら、スキルが足りない、仲間が必要、そもそも法律で許されているの? なんて考えて「いつかやろう」になる。

一方、キミオはこう考える。「もしそれを実現できるなら、どんなやり方がある?」と考える。あるいは、「何が実現されたなら、『できた!』になる?」と考える。そして、できる方法を探し始めるのだ。

この発想力と企画力、そして実行力がすごい。

最初は呆れて馬鹿にしていた周囲の人も、だんだんとキミオに巻き込まれてゆく。

その一方で、キミオ自身も、自分のためだけではなく、仲間と一緒に企画して、知恵を出して実現する喜びを知る。さらに、「あの人の笑顔が見たい」という新たな「やりたいこと」を見出す。

そして、この喜び、楽しさ伝える、動画配信という方法があることを知る。動画配信は、「やりたいことで、生きていく」ための強力な武器になりえる。

後に、チャンネル登録数1000万人を超える youtuber となるのだが、それはまた別のお話らしい……

これ読んでて、2ちゃんねるのこれを思い出した。

  きっとお前は、二十年、せめて十年でいいから、
  戻って人生をやり直したいと思っているのだろう。
  今やり直せよ、未来を。
  十年後か、二十年後か、五十年後から戻ってきたんだよ、今。

本書は、コロナで書店が閉まっていた時期に発売され、全く知らなかった。だが、読書猿さんが呟いてくれたおかげで出会うことができた(ありがとうございます!)

作者は恵口公生さん。連載中に急逝したため、未完となっている。

人生の持ち時間は少ない。やりたいことは、全部やろう。

 


この本がスゴい!2020ベスト
『独学大全』

独学の達人が書いた独学の百科事典。今年の一番であり、今後も何度も参照し、使っていく、一生モノの一冊。

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見りゃわかるが、はっきりいって鈍器だ。787ページ、1kgを超えている。使い倒してナンボなので、ここでは、本書の使い方を紹介する。

まず、最初に読むところ。

てっとり早く全体を掴みたい、という方のために、p.33~39に「本書の構成と取説」がある。この6ページを読むだけで使い方が分かるのだが、もっと切実な悩みを抱えている方もいるかもしれぬ。

  • どうやって調べればいいか分からない
  • 読むのが苦手
  • すぐ挫折して続かない
  • なんで学ぶのか分からなくなった ……等々

そんな具体的な悩みごとは、巻末の「独学困りごと索引」からダイレクトに引ける。

たとえば、私自身、自分の頭の悪さに腹が立つことがある。いくら読んでも分からなくて、もんもんとするか、開き直って飛ばしていたが、技法15「会読」が良いとある。要するに一冊の本をみんなで読むことだ。ゼミの輪読でおなじみだが、頭のいい人に巡り合える可能性は大いにある。

本書ではさらに踏み込んでくる。解釈が割れているところだったり、決着がつかない議論だったりする可能性もあるという。そこで、「分からないのは自分だけではない」ことを知ることが大事なんだという。

大事なのは「分からない」を自分で抱えるのではなく、表明することで外部に出す。極端な話、「みんな」がいなくったっても、一人でも会読できるとまで言う。一人で読んでレジュメを作り、「分からない」をまとめ、ネットに公開する。

誰か分からないけれど、誰かが見ているかもしれない事実が、継続を支えるという。この動機付けは強力で、「同じ書を読む人は遠くにいる」という言葉で伝えてくれる。わたしがブログを書き続ける理由も、まさにこれ。

この「外部に出す」ことの重要性は、様々な形を変え紹介される。

たとえば、技法13「コミットメントレター」。

今週の学習予定を書き出して、家族や友人に渡す。受け取った人がチェックする必要はないが、それだけで強い動機付けになるという。なんならSNSに公開してもいい。自分との約束は破りやすいが、それを見せることで、社会的な縛めにするするというのだ。

あるいは、技法12「ラーニングログ」。

何をどれだけ学ぶかの目標を決め、それに向けてどれだけ進んだかを記録する。ページ数や章・節、学習単元という積み重ねを、手帳やクラウド上に、一覧できる形で記録する。そして、記録を見返すことで、目標と現在位置を把握せよというのだ。

なぜ外部に出すのか? それは、人は弱いからだ。

人間は弱い。すぐ三日坊主になる。「やらない理由」を見つけ出すのが上手い。他の方法に目移りする。おそらく、読書猿さん自身が、自分の意志の弱さを思い知り、それを何とかするために足掻いてきたのだろう(生々しい記録が載っている)。

やろうとしていること、やってきたことを外に出す。「自分との約束」を誰かの視線にさらすことで、自分を律する。

この、コミットメントレターとラーニングログは、実践している。本書で紹介されている、『MD現代文・小論文』を毎日読み、進行状況を記録し、twitterで公開している。ラーニングログの場所は、ここだ。

わたしが実践しているのは2つだけだが、学ぶことを習慣化する仕掛けが、それこそ山ほどある。

不思議なことに、良い方法(ライフハック、アイデア、仕事術)を知ったとしても、実際に実行する人は 1% に満たない。そして、続ける人はもっと少ない。

だから、やろう。大丈夫、三日坊主や挫折しがちな人(=わたし)のために、沢山の手だてがある(技法9,10,11,12,13,14,55 あたりがお薦め)。

「学びたい」を抱えるあらゆる人の座右の書となる一冊。読書猿さん、素晴らしい本を書いていただき、ありがとうございます!

 


スゴ本2021

時が速い。特に今年は、時間の流れが早すぎる。

わたしがトシとったからとも言えるし、世界の変化が大きすぎて、わたしが追い付けていないからなのかもしれぬ。

図書館の本を自分のものだと妄想するエア積読もさることながら、、Kindleのせいでクラウド積読が大変なことになっている。

冬木糸一さん猛プッシュで『HUNTER×HUNTER』は追い付いたけど、『バクマン』はジワジワ読んでる。R.R.マーティン『氷と炎の歌』はドラマと平行して進めているため、めちゃめちゃ濃密な読書になっている。これを超えたら、シュオッブかプルーストやな。

エリアーデ『世界宗教史』、大江一道『世界近現代全史』もガッツリ読みたいし、上原亮『実在論と知識の自然化』も読みたい! Bateson “Steps to an Ecology of Mind” とHossenfelder ”Lost in Math” がサクサク読めないので、回り道ながらAnkiと北村一真『英文解体新書』をやっている(これは読書猿さんのお薦め……超難しいぜ)。

「面白いとは何か」についても深めたい。「人はどういうときに面白いと感じるのか」というテーマで、認知科学における情動の研究や、進化心理学の適応の観点から、実際の文学や映画、絵画のテクニックや歴史を分析する。そうした分野を掘り下げていきたい(有斐閣アルマ『認知心理学』、東京大学出版会『進化心理学を学びたいあなたへ』あたりから探すつもり)。

「科学の限界」を描写する方法を考えたい。科学的発見の範囲は、その時代のテクノロジーの限界に依拠している(冥王星の写真の変遷が象徴的だ)。また、科学的知見の限界は、人の認識の限界に依拠している(これ以上分けられない概念としての”アトム”の内側に、量子力学の世界が内包されていた事実が象徴的だ)。これらを踏まえて、人の認知の限界から科学の限界を描画できないか、調べたい(『実在論と知識の自然化』から手を付ける)。

リアルな読書会ができない分、このブログやtwitter、「ネオ高等遊民読書会」や「面白文章力クラブ」で読書談義に耽るつもり。

これだけスピードが早くなると、人生の持ち時間は、加速的に少なくなる。やりたいことは、全部やるし、読みたい本は全部読む。「あとで読む」は後で読まない。「あとで読む」は後で読まない。いま読む、たとえ一頁でも一行でも。

これからも、これは! というものを発信していくつもりだ。そして、これ見たあなたが「それが良いならコレなんてどう?」なんてお薦めがあれば、ぜひ教えて欲しい。それはきっと、わたしのアンテナでは届かない、素晴らしい本に違いない。

なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

 

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この本がスゴい!2021

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年12月1日


「後で読む」は、あとで読まない。
「後で読む」は、あとで読まない。

「試験が終わったら」「今度の連休に」「年末年始は」と言い訳して、結局読まなかった。「定年になったら読書三昧」も嘘になるだろう。そもそも、コロナ禍で増えた一人の時間、読書に充てたか?(反語)

だから「いま」読む。

たとえ一頁でも一行でも、目の前の一冊に向き合う。いま元気でも、一週間後には、読めなくなるかもしれないから。

今年は、死を意識した一年でもあった。「やりたいこと」を先延ばしにしてるうちに、感染して望みが断たれる可能性が爆上がりした。

時の経つのは早い。人生が長いほど、一年は短くなる。体感時間は加速する一方、人生の可処分時間は、短くなる。

だから「いま」読む。

積読を自嘲したりマウント取るのもヤメだ。いま読まない理由を並べ立てて開き直る不毛も捨てよう。そして、ずっと取っておいた、とっておきの本を、いま読む。

そんなつもりで、今年読んできた中からスゴ本を選んだ。

どれも、わたし一人のアンテナでは出会えなかった作品ばかりだ。お薦めいただいた方、つぶやきで繋がれた方、ありがとうございます。

本は縁だ。このリストが、あなたの選書の手助けとなれば嬉しい。そして、あなたにとってのお薦めを伝えてくれると、もっと嬉しい。

ニヤニヤが止まらない甘酸っぱい恋
『14歳の恋』

甘酸っぱさに転がりまくる、悶死必至の初恋物語。

最初の一話で、心を持っていかれた([ここ]でお試しが読める)。そしてニヤニヤが止まらない。読んでるときもそうだし、思い出してもニヤついてしまう。思い出し笑いならぬ、思い出しニヤニヤしてしまう。

中学2年、思春期真っ盛りの14歳。

「14歳」はまだ子どもだけど、クラスの中では大人っぽいとされるこの二人、実は小学校からの友だちなのだ。周囲の「大人っぽい」というレッテルを守りながら、互いを意識しだすようになり、秘密の恋を始める……

……もうね、ずっとニヤニヤなんですよ。世間の泥に塗れ、自意識の膿に溺れたオッサンには、二人の初々しさとピュアピュアさが眩しすぎて苦しすぎる。

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『14歳の恋』第1話より

手が触れ合ったりとか、互いの体温を意識したりとか、アイコンタクトとか、うなじの色っぽさにふらっときたりとか、顔まっかっかになったりとかに、読んでるこっちもドギマギしてくる。

なので続けて何話も読めない。心が保たない。一話一話、読み終えるごとにドキドキが収まるまで休憩して、次の話にハートが耐えられるか自問しつつ進めていく。

この眩苦しさ、あれだ、「月がきれい」と同じだ。中学3年生で初めて同じクラスになり出会った二人が、ゆっくり恋を育てていくお話。

現実では、恋が終わってしまう分岐が沢山ある(というか、その方が多い)。クラスの皆にからかわれるエンド。すれ違いエンド。性欲に負けるエンド。そして、進路先の違いエンド……そんなバッドエンドをかわしながら乗り越えながら、二人の時間を重ねていく。その関係性を大事にしてくれーと切に願う。

結論。『14歳の恋』が好きな人には「月がきれい」をお薦めするし、「月がきれい」が好きな人には『14歳の恋』をお薦めする。どちらも知らない人がいたら、おめでとう! 羨ましいぞ。切なくて甘酸っぱくて、幸せな気分でのたうち回るがいい。

最近の古代遺跡は人工衛星から探す
『宇宙考古学の冒険』

イタリアやフランスで、畑に模様を見かけたら、そこに遺跡がある可能性が高い。

Utyuukoukogaku01Wikipedia ”Cropmark” より

かつて、そこには石壁や住居の基礎があった。そうした構造物は、長い時間をかけてゆっくり土に埋もれてゆく。

地表に牧草などが根付いた場合、その根は深く伸びることができない。そのため、牧草の生育が悪くなり、上空から見ると、奇妙な模様が浮かび上がる(考古学で、クロップマークと呼ぶ)。

Diagramm bewuchs.jpgWikipedia ”Cropmark” より

クロップマークは、航空写真で確認できるが、もっと微妙な、植生の健康状態の違いは、近赤外線データから読み取ることになる。人の目には同じに見えるが、近赤外線画像だと、クロロフィル(葉緑素)の違いは、赤色の違いによって判別できるからだ。

この発想を広げて、人工衛星から撮影した画像データを元に、地下に眠る遺跡を探すのが、宇宙考古学になる。

単なる解像度の高い写真ではない。地上 640km から撮影された電磁気スペクトルデータを解析し、肉眼では見えない地下の遺構を浮かび上がらせる。

あるいは、離れたところから、掘る前に、光学技術によって対象を把握する。

LIDAR(LIght Detection And Ranging)と呼ばれるリモートセンシングによって、莫大な数の遺跡が続々と見つかっている。人工衛星やドローン、航空機に搭載することで、何十年もかけてきた広大な面積のマッピング調査が、ほんの数週間で終わる。これにより、莫大な費用と時間をセーブして、ピンポイントで調べることができる。

『宇宙考古学の冒険』の著者サラ・パーカックは、人工衛星から遺跡を探し出すニュータイプの考古学者だ。宇宙から探すことで、これまでに、古代都市3,000ヶ所、古墳1,000ヶ所、ピラミッド17ヶ所の痕跡を見つけ出している。これは、一人の考古学者のキャリアで発見できる数ではない。

さらに、映画『レイダース・失われたアーク』に出てくる幻の古代都市タニスを特定している。タニスの路地や居住区の大部分は発掘されておらず、地上から見ることはできない。だが彼女は、人工衛星からの視点で、大規模な地下構造を明らかにする。

本書では、未来の考古学も描かれている。リモートセンシングや超音波を用いて、地下の構造物を三次元化する。必要な場所を絞り込み、小さな穴を穿ち、文字通りピンポイントで探索する。喩えるならば、腹腔鏡下手術のようなものかもしれない。

『君の名は。』とグレッグ・イーガンの関係
「貸金庫」(『祈りの海』所収)

きっかけは、グレッグ・イーガンのこのツイート。

イーガン:『君の名は。』を観ました(私の短編『貸金庫』にインスパイアされたらしいけど、プロットは全く違う)。ちょっと甘ったるい所もあるけれど、全体的に素晴らしく、美しいビジュアルでした。

おお! ハードSFの巨匠が、『君の名は。』を観たのか! 一挙に湧いた親近感と、”あの”イーガンがtwitterで呟いている気安さも相まって、おもわずこんな呟きをした。

Dain(筆者):グレッグ・イーガンの『貸金庫』、読んでないのですが、肉体を持たず、一日ごとに宿主(人間)が変わる意識が主人公の物語みたい。おそらく、イーガン先生、『とりかえばや』『転校生』『おれがあいつであいつがおれで』みたいな、男と女が入れ替わる物語を知らないのでは?

すると、こんなコメントをいただいた。

Hashimoto:こんにちは。『君の名は』を監督した新海誠さん自身がインタビューで「貸金庫」からの影響に言及しているんです。

紹介いただいたリンク先に行くと、新海誠のインタビューがある。お薦めのSFとして、「貸金庫」を挙げている。

「あり得たかもしれない自分」とか「こうではなかったかもしれない自分」、あるいは「災害などがなかったかもしれない日本」という言い方もできますけど、そういう並行世界的な想像力に貫かれた作品を初期の頃は書いていて、中でも短編集『祈りの海』に収録されている「貸金庫」という物語は、毎日、違う人になる話なので、少し影響があるかと思います。([FILMERS.2016.8.22]より)

さらに、イーガンのツイートに対し、『君の名は。』の初期プロットを紹介している。

新海誠:とても光栄です。あなたの『貸金庫』は、初期のプロットを作るうえで、インスピレーションを得た作品の一つです。目覚めるたびに違う身体になっているヒロインの物語です。

どうしても気になるのが「貸金庫」だ。

『君の名は。』と比べて、どこが似ており、どう違うのか? アイデアの源泉を探るべく、読んで分かった。「貸金庫」はロマンチックなものではなく、「自分とは何か?」という根源的な問いに向き合う、切なすぎる物語だと分かった。

30ページの、短い、ほんとうに短い短編だ。

奇妙な人生をモノローグで振り返り、最後に、ある決意をする男の話だ。男は、目覚める度に別の身体になっており、その身体の「ふり」をすることが「わたし」の日常になる。

睡眠がトリガーとなることは『君の名は。』と同じ。だが、三葉と瀧のように特定の人と入れ替わるのではなく、同年代の人に毎日乗り移る感じ。また、岐阜と東京という距離はなく、同じ街の人の身体になる。

身体の本来の持ち主を、「わたし」は宿主と呼び、宿主の特徴や住んでいる場所を、ノートに記録しはじめる。このノートを隠しておく場所が、「貸金庫」なのだ。

なぜ、こんなことが起きているのか、「わたし」とは一体誰なのか、全ての謎が明らかになとき、やるせない思いに苦しくなる。そして、それでも、「わたし」が踏み出そうとしている、明日という日に、胸を撃たれる。

「わたし」とは何か、記憶とは何か、自分という存在を定義するものは何か? ややもすると、哲学的思弁に陥りがちなこうした問いに対し、ひとつの男の決断という形で、応答している。

そして、「貸金庫」でイーガンが示した、「わたしとは何か?」への応答が、『君の名は。』になっていることに気づいて、再び胸が震える。この震えは、T. Hashimotoさんのおかげ、ありがとうございます。

人はなぜ遊ぶのか
ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

人は遊ぶ存在だ。

じゃんけんからサッカー、コスプレからワルツまで、古今東西、老いも若きも、人は様々な遊びを楽しんできた。「遊ぶこと」それ自体を目的とする行為を、なぜ人はするのか。

この疑問に対し、ロジェ・カイヨワが、神話や文化人類学、歴史学や社会学から解きあかしたのが『遊びと人間』だ。

「遊び」といってもその範囲は膨大だ。一人でするもの、複数でするもの、人数が決まっているものや、道具の有無、時間や場所が指定されているもの、厳密にルール化されているものから、自由度の高いものまで、つかみどころがない。

これを捌いていく手際が鮮やかだ。

まず、遊びを定義することで、外堀を埋める。つまり遊びとはこういうものなのだ。

  1. 強制されず、自由な活動
  2. 生活から隔絶され、予め決められた時空間に制限される
  3. 展開が決まっておらず、創意の工夫が残されている
  4. 富を生み出さない、非生産的な活動
  5. ルールがあり、そのルールだけがその場で通用する
  6. 非現実であり、虚構の活動である意識がある
  7. 次に、個々の遊びに共通する性質を示し、類型化する。さらに、この「共通する性質」こそが人を遊びに駆り立てる動機となり、遊びを通じて文化が生まれてきたのだと主張する。

この分析の中で、「人はなぜ遊ぶのか」に答えようとする。

遊びの原理は強力な本能(競争、幸運の追求、模倣、眩暈)に応じたものであり、遊びは本能を訓練し、それを強制的に制度化するという。同時に、本能は、遊びの教育のおかげで、文化の諸様式を豊富にするのだというのだ。

「遊びは本能」と言い切ってしまうと、なんだ、「本能」というそれ以上説明できない言葉に逃げているではないか、というツッコミが入ってしまう(今だと生得的モジュールとか適応と言われていそう)。

オオカミの仔がじゃれ合う「遊び」は、成長した後に必須となる狩りの予行演習である。誰に教わったわけでもないのだから、それは本能である。

この観察結果を人に当てはめ、その社会・文化的活動の予行演習に相当するものを遊びと定義するならば、「人はなぜ遊ぶのか」という問いへの答えは、結果的に「本能」になるだろう。

サッカーの観方が180度変わる
『アオアシ』

何度も何度もトリハダが立つ。座って読んでたはずのに、いつの間にか立ち上がってるくらい興奮している。

それまで、敵陣を貫くキラーパスや、神技のようなボールコントロール、突き刺さるようなロングシュートなど、ボールを扱うプレイヤーを中心に観ていた。

だが、『アオアシ』読んだら、ボールの周りにいない選手の方が気になるようになった。ボールを持っていない選手がどこに居て、何を見て、何をしようとしているかを見たいと感じるようになった。

主人公は、サッカー大好き中学3年の青井葦人(あおいアシト)。粗削りながら特異な才能を秘めており、努力と根性でのし上がっていく王道マンガ……と思いきや、180度違ってた。

もちろん努力と根性もある。サッカーが好きな田舎の少年が、エリート養成のユースチームで技術的に通用するはずがない。それこそ寝る間も惜しんで練習する。

でも、当たり前だけど、みんな練習してきたんだ、積み上げてきた質と量が違う。そんな単純に、努力と根性でクリアできるはずがない。

だから葦人は考える。いまは「できない」、じゃあ「どうする」と問いを立て、考える。そして、仲間、監督、はたまた敵役からヒントを求め、考え抜き、実行する。葦人の名前は、パスカル「人は考える葦である」から採っているんだと思うくらい、考える。

葦人の武器は一つだけ。ストーリー開始時点、本人は気づかない能力で、フィールド全体を俯瞰し、記憶することができる。鳥の目を持っているのだ。

サッカーをテレビで観戦しているとき、「あそこスペースが空いてる」とか「反対サイドがフリーなのに」と、もどかしく感じることがあるだろう。その「目」だ。

足りない技術、高いハードル、限られた時間という制約の中で、葦人は、それを乗り越える以上のことをやってくれる。そういうシーンを目の当たりにすると、全身が総毛だつ。

Aoashi『アオアシ』第16話「クロウ」より

このゾッとする 場面はゴールだけじゃないんだ。もちろんゴールシーンも印象的だけど、ボールを持っていないときが多い。どのように自分が動き、周囲を動かすか、そのために何を見、どうやってメッセージを伝え、エリアを連携しあっていくかこそが醍醐味なんだ、ということが分かる。

これは、読書猿さんとのマンガ対談「ビジネスに役立つスゴいスポーツマンガ4冊!「戦略」「美意識」「言語化」が学べる」でお薦めされたのと、息子がドハマりしているので手にした。ありがとう読書猿&我が子よ!(自分のアンテナでは絶対に見つけられなかった)。

2022年4月よりアニメ放送されるとのこと。あの緊張感と解放感がどんな風に表現されるか、期待しかない。

世界史をアップデートする
『詳説世界史B』『詳説世界史研究』

世界史をやり直したら、時代遅れの自分に気づいた。



「世界史やるなら、高校の教科書から入ると良いよ!」というスケザネさんのアドバイスを参考に、山川世界史を読破した。教科書だけだと単調なので、サブテキストの『詳説世界史研究』も並読したのが正解だった(スケザネさん、ありがとうございます)。

そして、わたしの歴史認識が、とても古いことを痛感した。

学校で習った「歴史」は、石油危機と東西冷戦のあたりで終わっている。そして当然のことながら、今に至るまでの間も歴史は書かれていく。

しかし、わたしはそれらを「ニュース」として知る。

メディアやネットを通じた出来事として接する。大きな事件や紛争の報道には、そこに至る経緯も解説されるが、ニュースは次々と上書きされてゆく。記憶に残るものもあれば、消費されるだけのものもある。

結果、わたしの歴史認識は更新されず、穴だらけとなる。どこかのニュースで聞きかじった情報で、頭ン中をお花畑にしていたのだ。

例えば、飢餓人口について。

どこかで「飢えに苦しむ人は大幅に減少している」と耳にしたことがあった。バイアスを克服し、データを元に世界を正しく見るならば、食糧問題や貧困は大きく改善されているという主張だ。影響力のある人が広め、かなり話題になったニュースだと記憶している。

しかし、サハラ以南ではここ半世紀一貫して増加していることを知った(下図参照)。また、世界全体から見ても、2014年を境に増加に転じていることが分かった(世界の食料安全保障と栄養の現状2020年[PDF])。

食糧問題は解消されたと思ったが、それこそわたしの願望でありバイアスだったようだ。一部のデータだけを見て、そのファクトで満ち満ちているように思い込むなんて、どれだけ御目出度いんだろうね。

Sekaisi 『詳説世界史B』 p.417より

あるいは、各地の紛争について。

ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が終結してから、大きな戦争は起きておらず、テロリズムの脅威はあるものの、比較的平和な時代だと考えていた。

しかし、これまでの国家間の通常戦とは異なる性格の紛争が増大していることが分かった。

『詳説世界史研究』では大きく5つの分類に分けている。

  1. 国民国家体制の再編要求:スリランカ、西アジアのクルド人、パレスチナ問題、北アイルランド問題
  2. アフリカ新興国の分裂と主導権抗争:モザンビークの反政府組織、アンゴラのアパルトヘイト、ソマリア、ルワンダ内戦
  3. ソ連邦解体により生まれた領域設定の争い:アゼルバイジャン紛争、チェチェン、ボスニア=ヘルツェゴビナ軍事介入
  4. 経済構造の多極化に伴う権益争い:石油利権をめぐるアメリカとベネズエラ紛争
  5. イラン革命以降の宗教的覚醒:911同時多発テロ、対テロ戦争、アフガニスタン紛争
  6. どれも辿ってゆくと、植民地問題や帝国主義、第二次大戦からの負の遺産であることが分かる。そして、いわゆる私が理解している「戦争」とはずれている。

一元的な統治体制を有する国家どうしが、宣戦を布告し、武力で問題を解決することを「戦争」と呼ぶのであれば、上記のほとんどは当たらない。代わりに、内乱、紛争、武力介入、軍事制圧になる。

血が流れ、住むところは破壊され、難民は増大しているにもかかわらず、単に呼び名が戦争でないから、私は、「比較的平和」などと能天気なことを言っているのだ。この時代錯誤を改めなければならない。

世界史とは、「これで決定版」というものは存在しない。

日々のニュースがどんどん歴史に重なっていく。その上で、今までの世界史の中でどのように位置付けられていくかによって、歴史認識そのものがアップデートされていくのだ。

「食糧問題が解決してほしい」「世界が平和であってほしい」と願い、それに貢献しようと尽くすことは大切だ。だが、願望と現実は異なる。願いでもって、認識を歪めることは避けねばならない。

具体的には、地域や宗派、民族や言語が掲げられたニュースが、歴史の中でどのように位置付けられていくのかを、定期的にアップデートしていく必要がある。教科書は、改版のタイミングで再読していこう。

「読み専」として英語をやり直す
『英文解体新書』と“Merriam-Webster's Vocabulary Builder”

何度も挫折した英語だが、これが最後の挑戦だ。

かつては漫然と「できたらいいな」だったが、無意味なことに気づいた。そして、「論文・記事やtweetが読める」という目標に絞った。

そこで、読書猿さんとの対談「10年ぶりの独学でも英語がすらすら読めるようになる「スゴ本」厳選5冊」で教わった『英文解体新書』をコツコツ読んだ。

これは、英文読解の思考プロセスに特化した参考書だ。

どこに着目し、どういう風に考えると、正しく読解できるかを体系化し、100語~200語程度の例題を実際に読むことで、その力を身につける。

一つ一つの例文は短いが、ものすごく濃い。カズオ・イシグロの小説やオバマ大統領の演説、ジャレド・ダイアモンド、スティーヴン・キングなど、硬軟取り揃えている。レベル的には難関大学の受験~院試なので、かなり歯ごたえがある。ちょっとキツいという人には、入門編『英語の読み方』がお薦め。

めちゃくちゃ腹落ちしたのが、情報の流れと文章の構造だ。受動/能動態が切り替わったり、省略されたり、語順の入れ替わりが発生するのは、ちゃんと目的がある。それは、受け手への情報をコントロールしたいからだ。

例えば受動態。あまり使うなと学校で教わったが、「なぜ」なのかは覚えていない。それが本書ではこれ以上ないほど明確に解説されている。

まず、英語の基本的なルールとして、主語が文のトピックであり、動詞句が構成する述語部分は、そのトピックに対するコメントになる。つまり、トピックが変わらないのであれば、主語は変わらない(超重要)。

The castle is one of the most beautiful buildings in the world. It was built in the Edo period and has since been a symbol of our country.

これは、The castle についての説明だ。一文目の主語は The castle で、文のトピックになる。そして、2文目に移っても、文のトピックは変わらない。

しかし、もし2文目で能動態の文を使おうとすると、「城を建てた人」という新しい情報が入ることになる。伝えたいのは The castle というトピックなので、新しい情報は余分だ。こんな場合に、受動態が必要になる。

受動態は、「あまり使うな」ではなく、使うタイミングがあるのだ。情報を出す際に余分なものを省き、流れをコントロールする仕組みとして用いられているのだ。これを熟読するだけで、読解力の不安が消える。

読解に加え、ボキャブラリーをなんとかしたい。語彙力こそパワー。

目標は2万語。

おそらく学校でやったのを最後に何もしていないので、数千語だろう。こいつを2万までビルドアップする。これも、フツーにやっていてはダメだ。

これも読書猿さん直伝なのだが、“Merriam-Webster's Vocabulary Builder” が素晴らしく良い。語源から関連語句を広げていく構成となっているのだが、目からウロコがボロボロと落ちていく。

例えばPHON 、「音」「声」「話す」という意味がある。 telephone = tele + phone でイメージする通り、「遠く+声」で電話やね。そこからこう広げる。

microphone = micro(小さい) + phone(声)
   → マイクロフォン

xylophone = xylo (木製の) + phone(音)
 → シロフォン、木琴

phonics = phon (声) + ics (~学、~法)
 → 音声学習法(綴りと発音の規則法)

polyphonic = poly (多) + phonic (声)
 → 多声性、ポリフォニー

これまで学んできて、記憶の底に沈殿していた知識の欠片が、次々と繋がっていくのが楽しい。

ビビビとキたのが、PEDだ。

ラテン語で「足」という意味がある。足にするからペディキュア(pedicure)だし、足で踏むからペダル(pedal)だね、という説明で、ピンと来たのが、pedestrian(歩行者)。どうしても覚えられなかったのが、これで完璧になった。ついでにquadruped(四足獣)、biped(二足歩行)、も覚えた。

これらをバラバラに覚えていたら、きっと、もっと苦労していただろう。現在進行中だが、これはモノにしたい。

物理学と「美しさ」の罠を疑う
『数学に魅せられて、科学を見失う』

数学的に美しい ≠ 科学的に正しい。

美しい数式で書き表せるからといって、それが正しいわけではない。にもかかわらず、両者を混同する物理学者がいる。

科学実験から得られたデータというのは、ノイズだらけで、混沌としており、それらをきれいに説明する数式やモデルを作るのは簡単ではない。

そのため、データを説明する数式の候補をいくつか検討することになる。このとき、よりシンプルに実験を説明する、美しい数式の方が、正しいような気がする(オッカムの剃刀、という言葉があるくらい)。

しかし、数学的に美しいことは、科学的に正しいことを保証しない。ひょっとすると、数学的に美しくない数式やモデルの方が、科学的には正しいのかもしれないのだ。

にもかかわらず、数学的に美しい方が科学的に正しいとする誘惑に駆られ、それに合わせて実験データの取捨選択まで手を染める科学者がいる―――現役の物理学者である著者は、そう告発する。

例えば、CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)での実験について。

高エネルギーでの物理現象から生じる粒子を観測する実験では、アルゴリズムが「興味深い」と判断したデータのみ記録され、他の大部分の莫大なデータは捨てられる。そのため、記録された結果からして「実験結果」から程遠いものになる。

あるいは、複数の観測結果を整合性が取れるように行う「微調整(fine-tuning)」という手法について。

「微」という言葉とは裏腹に、ガッツリと調整する。外れ値を除外するとかいうレベルではなく、何十乗も桁が違うものが、巧妙に打ち消し合えるようにチューニングするのだ。

著者は、実験現場で行われる様々な欺瞞に焦点を当てながら、物理学者が引き合いに出す「美しさ」「自然さ」「エレガントさ」にツッコミを入れる。それって主観的な基準ではないの? 客観的であるべし、という科学者の義務を逸脱しているんじゃないの?

そしてついに、「理論物理学者がみな、自分たちの非科学的な手法を認めたくなくて、集団的幻想に陥っているのではないか」とまで言い出す。

これは、物理学が哲学を見失っているから生じていることは分かる。そして、どうすれば物理学が正気を取り戻すのかを考えるのは、哲学の勉強になる。おそらく、実在論と知識の哲学をやり直すことになるだろうが、来年の勉強にしよう。

本書は、@rmaruyさんの書評のおかげで出会えた一冊。原書から読み解いたまとめは、ブログ「重ね描き日記」にある。@rmaruyさん、ありがとうございます!

男同士の恋愛にときめく
中村明日美子『同級生』

2人の男の子が恋に落ちる、ピュアすぎるラブストーリー。

ひとりは学校一の秀才。入試で全科目満点を叩き出すぐらい優秀で、真面目がメガネをかけた理知的な印象がある。すぐ赤面する。

もうひとりはバンドマン。ライブでギター弾いてて、女の子にも人気者。くしゃっとした明るい髪と人好きのする顔立ちだ。すぐ赤面する。

そんな、普通なら決して交わることのない2人が、あることをきっかけに互いを意識し、距離を近づけてゆき、思いを伝え合う。

初々しく、可愛らしく、読んでるこっちが甘酸っぱい気持ちで一杯になる。あふれ出すリビドーを持て余していた自分と比べると、なんとも純粋な恋で、痛苦しくなる。そこに欲望があるのだが、互いに相手のことを慮るのが素晴らしい。

20211103

中村明日美子『卒業生』-春-「京都にて」より

そして、身構えていたのが、彼らの日常が幸せすぎること。

男同士の恋愛というハードルが、もっと高いものだと構えていた。「男性が好き」ということに気づき、戸惑い、苦悩するといった展開があるのではないか? と不安に思いながら読んだ。

なぜなら、同性愛が犯罪だった時代や国もあったから。例えば、E.M.フォースター『モーリス』は、文字通り「禁断の恋愛小説」として隠れるように読まれてきた。

100年前の英国、ケンブリッジ大学で出会った2人の恋を描いた小説だ。同性愛が罪とされ、社会的に抹殺される厳しい状況だった。愛の深さゆえに傷つき、傷の深さゆえに慰めあう青年たちの恋は苦しく、美しい。

『モーリス』と比べると、『同級生』は、同性愛に苦悩したり傷つけあったりするような場面は無いに等しい。そこに違和感を抱いているわたし自身が、実はおかしいのだ。

「同性愛者は自分の性嗜好に苦悩するのが普通だ」という思い込みがあるからこそ、ゲイの幸せな日常を描いた作品に違和感を抱いている。そして、苦悩しないゲイに、物足りなさを感じてしまっている。

このわたしの価値観が、情けないんだろうな、ということに気づく。「男が好き」とか「女が好き」とかじゃない。「あなたが好き」なんだなと。

好きになった人が、同性だったり、異性だったりするだけなんだと。

本書は、スケザネさん、タケハルさんとの読書会で知り合えた作品。読書会の様子は、「ボーイズラブには葛藤があるべきか、「普通の」ラブストーリーとは何か、BLの主役はネコなのか、アニメ『同級生』をテーマに2時間語り合ったことを8000字ぐらいでまとめる」に書いた。スケザネさん、タケハルさん、ありがとうございます!

『チェンソーマン』を10倍楽しく読む方法

めちゃめちゃ面白い(語彙力

息止めて一気読みした。

「悪魔を身に宿して悪魔を狩る少年・デンジのダークヒーローもの」ぐらいの予備知識で始めたが、読めば読むほど総毛立つ。

もし、未読の方がいるならば、この幸せもの! ぜひともこの傑作を一気読みする贅沢を味わってほしい。

最初はデビルマンめいた展開を予感してたが、軽々と超えてくる。そして、わたしが楽しんだ作品の様々なイメージや設定を惹起させてくる。

例えば、『モンスターズ・インク』や『ドロヘドロ』の「扉」とか、ギュスターヴ・ドレの版画、鮫+台風=シャークネード、敵の血で回復するBloodborne、五十嵐大介『魔女』のネズミ、ワシントンD.C.にあるベトナム退役軍人記念館の58,318人の名前が刻まれた壁、ボルヘスのバベルの図書館(インターステラーの書架群も可)、涼宮ハルヒのエンドレスエイト、『フリクリ』のタバコ、アリ・アスター監督『ヘレディタリー』の儀式(ラストのやつ)、榎本俊二ばりのカッティング。あるいは大友克洋『童夢』の壁ズンや、冷蔵庫にストックしたお肉を食べるところなんて、「NOTHING WILL BE AS IT WAS」まんまじゃねーか!

昔見た作品のネタ・構図・カット・演出・ライティング・脚色・オマージュ・コラージュ・イマージュの、一番美味で最高のやつが、これでもかと惜しげもなく詰め込まれている。読むたびに記憶から宝が発掘されてくる。わたしが知らないだけで、もっとずっと沢山あるはず。

初読時は物語の面白さに惹きこまれて気づかなかったが、これ、もの凄く計算して作っている。

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『チェンソーマン』第44話「バン バン バン」より

例えばここ。空いっぱいに打ち上げられた花火を逆光にしたキスシーンなのだが、これ普通、ボーンとかドカーンとか凄い大音響のはず。そこを一切、音を入れない。次のページも、その次のページも、音がないシーンが続く。

無音にするのは意味がある。

これは、次の予告なんだ。読み手はこの後、空白を埋め尽くすほどの音圧にさらされる。ボーンとかドカーンが、時間差のように激しく耳を撃つことなる(マンガなのにうるさく感じる)。

音の演出ひとつとってもこんな風に、読み手にどんな経験をしてもらうかを計算し尽して、このマンガは描かれている。

そこで、『チェンソーマン』を10倍楽しく読む方法。いますぐ、デカいディスプレイにつなげるんだ。

私自身、ふだんはパソコン、もしくはスマホで読むのだが、ふと思い立ち、ディスプレイで読んだら凄まじい画圧になった。見てくれこのキスシーン。デカい方がドラマティックでしょ?

画面がデカいと、チェーンソーのスピード感もハンパなくなる。「スピード感」を出すためには、画面を横切る効果線が必要だ。だが、小さい画面だと、(あたりまえだが)効果線も物理的に短い。これがデカい画面になると、線がギュィーンと伸び、よりダイナミックに視覚効果が与えられる。

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28型で読むと圧を感じる

おかげで、最初に読んだとき、このシーンで胸がキューンとなった。そして、デンジいーなーと思った。

この後の展開も、デカい画面のおかげで音圧や風圧すら感じられる(マンガなのに!)。そして、この後は何度読んでも胸がギュイィーンとなる。そして、デンジみたいな目には遭いたくないなーと思う。

アニメをディスプレイで見るのは慣れているのに、マンガでそうしない理屈はない。

結論:チェンソーマンは大きなディスプレイで読もう

奇妙で異様な読書体験入門
ピンチョン『ブリーディング・エッジ』

トマス・ピンチョン作品には、中毒性がある。

他のどの作家にも似ていない、異様な読書体験になる。ピンチョン作品は普通に殴れる堅牢なハードカバーが多いので、鈍器本として有名だ。上下巻に分かれているものは両手装備ができ、殺傷能力も十分に期待できる。

そんな中、一巻本として完結しており、ピンチョン・マゾヒズムも楽しめる『ブリーディング・エッジ』は、入門として適切かもしれない。

出てくるキャラは100人を超える。ページをめくるたび新キャラが増殖し、好き勝手にしゃべりまくり、動き回る。ディープ・ウェブを徘徊する3Dインタフェース、戦闘少女サブカルチャーのスパイクヒール、バスケットボールの先祖となるマヤ文明の儀式、ヒトラーが愛用したアフターシェーブローション、誘拐した子どもをスパイに育てる施設、LSAが起動する創造性、「私を見ろ」と話しかけるペニス……ギャグ、挿話、エピソードトーク、戯れ歌、いいまつがい、百科全書的なネタの1割しか分からなくても、5分おきに笑わせられる。次から次へと奔流のように翻弄されながら、訳注や GoogleMap を頼りにストーリーをつかみとる。

主人公はマキシーン、おせっかい母ちゃんだ。小学児童2人を育て、円満離婚の<元>夫と付き合い、ベレッタをバッグに、詐欺調査のエキスパートとして働く。主役も脇役もキャラが入り混じる『逆光』や『ヴァインランド』とは異なり、マキシーンだけ見てればいい。彼女が、次から次へと首をツッコみ、マンハッタンを駆け回り、事件と事故の目撃者となる様を見てればいい。

舞台は2001年のニューヨーク。春分の日から始まるから、同時多発テロの半年前。00年のドットコム・バブルが弾けた直後で、Google は IPO前、マイクロソフトが「悪の帝国」と呼ばれていた時代だ(懐かし―!)。会計検査士の資格を剥奪されたものの、不正を見る目は超一流のマキシーン。ひょっこり見つけた変なお金の流れから、アメリカの闇にうっかり踏み込んでゆく。

対する敵役は大金持ちのゲイブリエル・アイス。バブル崩壊に乗じて、膨大な量の光ファイバーケーブルとサーバを買占め、検索エンジン(Yahoo! だ!!)のクロールから隠れた深淵「ディープ・ウェブ」に進出して、巨万の利益を吸い上げる。秘匿していた情報を嗅ぎまわるマキシーンは邪魔っちゃ邪魔なんだけど、家族や会社も含めて入り組んだ妙な関係になってしまっているのが笑える。

プロットの奔流も様々で、後期資本主義の構造的な悪を糾弾する流れもあるし、インターネット監視社会を幻視するハードボイルドな光景も見られる。バーチャル・リアリティが、ミート・リアリティを浸食する怪談チックな演出も入っているし、洗脳装置としてのテレビジョンが定期的に浮上してきたり、やってることはドロドロなのに、妙にスタイリッシュな不倫とか、ワケが分からないよ(でも楽し―)。

デフォルメされ戯画化されたキャラ造形や、マキシーン完全ご都合主義的なストーリー展開、陰謀&パラノイア小説だと思っていたら、完璧な家族小説だったとか、臨界突破した伏線のせいで2回以上読む必要が出てくる物語構造など、規格外の異様な小説となっているが、ピンチョンならば平常運転やね。

これがピンチョンの最新作『ブリーディング・エッジ』の紹介だ。

ん? わけ分からんって?

それで合ってる。ピンチョンの小説を読むということは、説明できない体験をすることだから。

ピンチョンの小説体験に代わる何かを説明するのは難しい。ちょっと見てみな、ピンチョンの感想を語る人は、ピンチョンの他の作品を引き合いにあれこれ述べている。他の何かと比べられない、唯一無二の存在なのだ。ドストエフスキーのおしゃべりの響き合いと、千夜一夜のてんこ盛りエピソードと、白鯨の脱線と引用が交じり合い、足して割らない濃密な物語に揉みしだかれ、惑い、迷い、ビクつき、笑い、憤る。

そういう、異様な体験なのだ。

これ、独力で取り組もうとすると、けっこう大変だ。そういうとき、読書仲間がいると捗る。「鈍器本を読もう」という読書会があって、それに参加するために読んだ。また、その読書会そのものがカオスで楽しい。顛末は、「ピンチョン『ブリーディング・エッジ』読書会が楽しすぎて時が溶けた」に書いた。これ読めたのは、主催者のふくろうさん(@0wl_man)のおかげ。ありがとうございます!

単純化した構造で歴史を語る危うさ
『グローバル・ヒストリー』

「開国」という言葉に、違和感がないだろうか? 世界史を学びなおし、世界の中での日本を見直すと、「開国」という表現が奇妙に見えてくる。

なぜなら、江戸時代は鎖国をしていたというが、オランダや中国、朝鮮や琉球、アイヌと交易を行っていたからだ。近代化に向けた啓蒙のニュアンスを感じるからだ。

確かに、鎖国方針の停止は大きな転換点だ。しかし、普通にあった西洋以外との交易を無視して、欧米との交易開始を、「国を開く」と強調することにもやっとしている。

著者であるドイツの歴史学者・ゼバスティアン・コンラートによると、この「開国」というレトリックは、日本だけでなく、中国、朝鮮にも適用されているという。西洋以外とのつながりを無視し、欧米との関係の開始を際立たせるために用いられる表現になる。

同様に、「国民」「革命」「社会」といった概念もまた、ヨーロッパの局地的な経験を、普遍的な理論として他の地域に押し付けるための用語になる。

この背景には、歴史を記述する際、ヨーロッパを中心とするヘゲモニーが横たわっている。ウィリアム・マクニール『西洋の台頭』に代表されるように、ヨーロッパが達成した成果が、周辺へと伝播する一方通行の世界史だというのだ。

一方で、近年の歴史学では、ナショナル・ヒストリーからの脱却も目指されている。

ナショナル・ヒストリーとは日本史、フランス史、ベトナム史といった国民史のことで、一国内だけで歴史的変化を説明するアプローチだ。

これは、教育のプロセスの中で、ナショナル・アイデンティティを形成し、国民国家を建設するプロジェクトとしては有効だったかもしれない。だが、イデオロギーや政治・経済活動、ウェブを基盤とするコミュニケーションの広がりが地球規模になっているいま、一国の歴史だけで自国を語るのは、現実的ではないだろう。

ヨーロッパ中心史観から脱却し、ナショナル・ヒストリーの限界を乗り越えるため、グローバル・ヒストリーが提案されている。

グローバル・ヒストリーは、研究対象ではなく、固有の視点になる。

個人や社会が、他の個人や社会と相互作用する仕方にとりわけ注意をはらう。その結果、領域性、地政学、循環、ネットワークといった空間的メタファーが、発展、ずれ、後進性といった時間の語彙にとって代わる傾向がある。

この傾向は、必然的に、近代化を目的とした歴史叙述を否定するという。つまり、社会的な変化の方向は決まっており、古い伝統から、近代社会へ発展していく……といった観念を批判する。世界の全ては、ヨーロッパの歴史通りに経験していくという考えの否定である。

その実例は、コンラート自身が示している。

「記憶をめぐる戦争」と名づけられた、日本の歴史教科書の問題だ。コンラートは1990年代の教科書の記述内容についての議論を俎上に、日本、中国、韓国と異なる場所で共時的に起きた構造を明らかにする。

冷戦の終焉に伴い、政治的・経済的な変容の中で、韓国や中国の犠牲者の声が日本で耳を傾けられるようになり、新しい政治的連携が国境を超えて生まれたという。これは戦争記憶の回帰ではなく、地政学的構造によって条件づけられた、新しいアジアの公共圏の到来だと示している。

グローバルヒストリーには課題もある。

個々の人物への焦点から、グローバルなファクター(領域性、地政学、循環、ネットワーク)に視点を切り替えることによって、あたかも個人や集団の役割が存在しないかのように描かれてしまわないか、という懸念だ。

例えば、ホロコーストがグローバルな諸力によって説明されうるなら、ナチスの所業や責任を、外部化してしまわないか、という恐れである。時空間の尺度を広げることで、起こったことが不可避であり、あたかも必然であったかのようにミスリードされる危険性がある。

全てをグローバルで捉えようとすると、歴史の中から固有名詞が失われていく。十字軍を開始したのは誰か、太平天国の乱で苦しんだのは誰か、そしてヴァンゼー会議の議長は誰かといった「人」の行為主体性が失われることになる。

こうしたミスリードに陥らないためには、グローバルなファクターと、「人」の行為主体性とのバランスが重視されることになる。歴史を単純化した構造で語りたい誘惑は、常につきまとう。だが、その構造だけでは語ったことにはならない。なぜなら、歴史は人の営為であるのだから。

経済学は「科学」なのか?
『社会科学の哲学入門』

経済学は「科学」だろうか?

経済学者は好きなことを勝手な方法で分析し、主張する。何やら数式やモデルは出てくるが、客観性も再現性も無さそうに見える。

頻繁に書き変わる教科書は、更新のたびに理論が書き変わり、新しいモデル(あるいは例外)が追加される。

そしてひとたび、想定外の事象が起きたら、「ブラック・スワン」などというカッコイイ名前を付けて説明できたことにする。現実の経済に経済学が追いついていない証拠に見える。かくして理論を疑わずに済み、経済学者の心は守られる。

そして、経済学の教科書は順調に厚みを増し、理論やモデルの補注だらけ、パラメーターまみれになる。

経済学の古典とも言えるマルクスやケインズを齧ると、別の疑いが出てくる。

教科書の元となる彼らの思想そのものが、なんら客観性もなく、個人の人生観で歪められたバイアスではないか、という疑いだ。

例えば、大学教授への道が閉ざされ、借金に追われて住居を転々としたマルクスが構想したのは、「破滅へ向かう資本主義」だった。一方で、絵画や古書への造詣も深く、裕福なパトロンとして人生を愛したケインズは、「持続可能な資本主義」の立役者となった。

同じ「資本主義」でも偉い違う。これは、二人の生きた時代の違いだけでなく、二人の出自や生活環境、持てる者/持たざる者に因る歪みではないか。

そして、時代ごとの為政者の思惑に、「たまたま」マッチした思想がもてはやされ、一世を風靡した後、共に消えていく(そして時が流れ、また流行や思惑に合いそうなとき、ゾンビのように復活する)。

そういう疑いを抱いているのは、わたしだけだと思っていた。

だが、吉田敬『社会科学の哲学入門』では、この疑いが検証されている。経済学を始めとする社会科学への欺瞞は、何十年も前から議論されており、現在進行形で続いているのだ。

例えば経済学には、パラダイムがない。その分野で支配的規範となる「物の見方や捉え方」が無く、ミクロ、マクロ、学派、主義、流派によってバラバラである。

あるいは、数式をありがたがる理由は、物理学への羨望だ。数学のおかげで、物理学や天文学が成功してきた。そのため、数式を用いて形式的に説明することが「科学的」である証だと見なされている。

また、科学者も人であり、人である限り何らかの価値観を持っている。本書では、マックス・ヴェーバーやアーネスト・ネーゲルを引きつつ、科学的論証には、研究者者の価値判断が混入している事例を紹介している。

科学哲学の観点から、社会科学の営みの根本へとガイドしてくれる。これも読書猿さんにお薦めされた一冊。ありがとうございます。

「人はなぜ〇〇するのか?」への最新回答
『進化でわかる人間行動の事典』

人はなぜ〇〇するのか?

〇〇には、様々なものが入る。「笑う」「遊ぶ」「描く」「踊る」「歌う」「助ける」「学ぶ」など、44の行動をピックアップして、それぞれについて、進化的観点から、最新の論文を集めたのがこれだ。

例えば、人はなぜ笑うのか?

本書は、この問いを、「『笑い』には、どのような機能があるのか」という問いに置き換え、さらに笑いの役割からアプローチする。

つまり、人類が生き延びていく上で、笑いがどのような役目を果たしているかを考察する。その行動が適応度にどれだけ影響したのかという観点から、「人はなぜ笑うのか」を考えるのだ。すると、笑いの様々な役割が見えてくる。

生まれたばかりの赤ん坊は、ニッコリと笑うことがある。生理的微笑と呼ばれるもので、自分の意志ではなく、反射神経の働きともいわれている。これは、親からの養育行動を引き出す機能を持つと言われている。

霊長類の遊びにおける「笑い」(play face)は、攻撃的な追う・咬むといった動作が、「本気の攻撃ではない」ことを明確にするシグナルとされている。カイヨワの『人はなぜ遊ぶのか』にも通じる「笑い」だ(ただし、本書にカイヨワは出てこない)。

他にも、様々な問いついて、現時点での暫定解が得られる。これまで読んできた本と重なるところが多い。

  • 人はなぜ火を用いて料理をし、集団で食事をするのか(食べる) → 料理はヒトの生存戦略「火の賜物」
  • 人はいつから歌っており、なぜ歌うのか(歌う) → 人は歌で進化した『人間はなぜ歌うのか』
  • 教える/教わることで、人はどのように優位になったか(教える、学ぶ、まねる)
  • 人はなぜ装い、見せびらかすのか(飾る、見栄を張る)
  • 人はなぜ結婚をするのか、いつから一夫一婦制なのか(結婚する、恋愛する) → 結婚のスゴ本
  • 人を殺すことが適応的になる場合があるのか、またそれはどんな場合か(殺す)

人の心は自然淘汰によって形成されたという前提から、「人とは何か」について、具体的に迫る一冊。本書は、shorebirdさんの書評で知り、その足で書店へ走った。これまで読んできた人間行動の科学を一望できる本に出会えてよかった。shorebirdさん、ありがとうございます。

人生を変えるのは音楽かもしれない
『楽園ノイズ』

恋と音楽と青春を一冊に圧縮したラノベ。いわば、読むセッションだ。

それも、肌が泡立つやつ。ヒリヒリする緊張感と、想いをぶちまける解放感が混ぜこぜになって、確かに昔に聴いた曲があふれ出す。これは、釘宮ボイスで再生するのが正しい。

「僕」の趣味は音楽。

といっても、いわゆる「バンドマン」ではなく、薄暗い自室に閉じこもって画面をにらんでマウスで音符を切り貼りする。できた曲をYoutubeにアップロードして反応を待つ音楽オタクだった。

「だった」と過去形なのは、出来心で女装した動画をアップロードしたから。一部のマニアにウケて十万視聴を突破したのはいいけれど、よりにもよって音楽の先生にバレてしまう。で、授業の準備やら問題児の様子見やら、面倒を押し付けられるハメになる。

先生を通じて出会う女の子たちは、コンプレックスを抱えるピアニストや、複雑な家庭のドラマー、不登校のヴォーカリストだ。共通するのは、超一流の才能を持っていること。音楽オタクの僕には二重の意味で高嶺の花だ。

これが普通のラノベなら、彼女たちの厄介ごとを「僕」が解決しちゃうのだが、その辺リアルに出来ていて、彼は踏み込まない。

ただ、音楽が好きだからこそできる方法、つまり一緒にセッションすることで、彼女たちにあるきっかけをもたらす。そして、彼女たちは自分で変えてゆく。その様子を見ていると、人生を変えることもできるのは、音楽なのかも……と思えてくる。

10章に渡って駆け抜ける青春は、騒がしく悩ましく彩られた大切な時間だ。

アップテンポな会話で愉快にさせた後、急転直下でキツい展開へ。終盤で回収される伏線は、交響曲の後半で冒頭のフレーズが「戻ってくる」かのような既視感だし、クライマックスとなる第9章では、文字列から音圧が伝わってくる。

そして、最終章、めちゃくちゃ胸にクる。瞳から汗を、体中に涙を感じる。

音楽が、私が私だったことを思い出す。

落ち込んだとき、慰められたCDがあった。試練を目の前に、自分を鼓舞するために歌った歌があった。なにもかも忘れて「無」になるためにヘビロテした曲があった。そのどれも、今は聴いていないことに気づいた。

だが、この小説を読むと、それらが全部いっぺんに思い出してくる。音楽が、自分を支え、変えてきたことに気づく。

音楽の力を思い出す一冊。

だまされたと思って読んでほしい
『インド夜想曲』

「だまされたと思って読んで欲しい、読まずに死んだらもったいないから」と手渡された一冊。

150ページほどの、ほんとうに短い小説だから、後で読もうと放置して幾年月、昨今のコロナ禍で死が身近になった今、読まずに死ねるかと開いたらあっという間だった。

静謐で、濃密で、これ以上ないほど贅沢な一時間となった。

インド、ボンベイ。主人公がタクシーに乗るところから始まるので、紀行文学の体をした小説というのが第一印象。地の文が「僕」で語られる点は村上春樹に似ているけれど、「僕」が雰囲気に流されない点は似ていない。

読み始めてすぐ、「僕」は誰かを探していることが分かる。どうやら失踪した友人のようだが、彼のほうは会いたくないらしい。だが「僕」は、手がかりを丹念に集め、手繰り寄せ、近づいていく。

ボンベイ、マドラス、そしてゴアと、友人の痕跡をたどってゆく。夜のバス停で出会う美しい目をした少年、もと郵便配達のアメリカの青年、5つ星ホテルで隣り合わせた女など、様々な人々と交流する。「僕」は、地図上の移動だけでなく、階層をも上下しつつ、インドを探ってゆく。

12章の断片に分かれるどのシーンどのシーンも印象的で、いかに醜悪な光景でも、はっとする一瞬を切り取っている。読み進めるうち、ほんとうに友人に会えるのか、そもそもなぜ、彼を探しているのか、気になってくる。

だが、作者は、要所要所にヒントを残している。私が一番好きなのはこれだ。

「肉体のことです」僕がこたえた。「鞄みたいなものではないでしょうか。われわれは自分で自分を運んでいるといった」(p.48)

過ぎ去った現実は、大体において、実際にそうだったよりも改善される。記憶はおそるべき贋作者だ。その気がなくても、時間の汚染は避けられない。こうして、いくつものホテルが僕たちの空想の世界を満たしている。(p.110)

最初はふらついていた足取りは、ラストに近づくにつれ、だんだん確かなものになってゆく。「僕」が目指しているものが、だんだん私にも見えてくる。ほんとうに短いので、惜しみ惜しみ進みながら、最後のページに達する。

そうやって読んだいま、わたしからもお薦めする。読まずに死んだらもったいない。だまされたと思って読んで欲しい、と。

この本がスゴい!2021フィクション
『蛇の言葉を話した男』

今年読んだフィクションNo.1。

読み始めたら止まらない、そういう本は、確かにある。巻を措く能わずとか、page-turnerと形容される、中毒性の高い物語。

これがそれ。

どれくらい止まらないかというと、この写真を見て欲しい。

Hebinokotoba

背表紙を見てほしい。少しナナメに歪んでいることが分かるだろうか。あるいは、小口(開くところ)だと斜めにひしゃげている。これが、一気に読んだ証拠だ。

説明する。

まっさらの本は、背表紙も小口もまっすぐで、上からのぞいたら、長方形に見える。

扉を開くと、開いたほうに背表紙が引っ張られ、斜めに歪む。扉を閉じれば、歪みは元に戻る。そして、閉じている間は、本は元の形に戻ろうとする。

ところが、開きっぱなしだと、背表紙はずっと引っ張られたままとなり、歪みが戻りにくくなる。その時間が長いほど、歪みは強化される。つまり、一気に読まれるような本であるほど、このようにひしゃげてしまうのだ。

文字通り、「蛇の言葉を話した男」のお話だ。不条理と諧謔と異形を折り込んだ、壮大な寓話になる。帯にはこうある。

これがどんな本かって?
トールキン、ベケット、M.トウェイン、宮崎駿が
世界の終わりに一緒に酒を呑みながら
最後の焚き火を囲んで語ってる、そんな話さ。

確かに、ジブリ風味やトールキン的世界はある。

だが、わたしはむしろ、異なる価値体系で、世界を問い直している点に、ハクスリー『すばらしい新世界』を感じる。

人間性が喪失した世界で、それでも人であろうとすると、どんな目に遭うか―――『すばらしい新世界』の黒いユーモアに笑った人、まちがいなく、『蛇の言葉』で爆笑するだろう。

倒錯した価値観の語られ方は、アゴタ・クリストフ『悪童日記』と同じ匂いがする。語り手は、わたしたちの価値観とはまるで異なるのだが、その世界に付き合っていくうちに、狂気と正気は多数決だということに気付く。

神話の誕生を垣間見る感覚は、ガルシア=マルケス『百年の孤独』とシンクロする。

終末が運命づけられ、「最後の〇〇」や「△△と最後に会った男」など、ラスト・オブ・〇〇臭が漂う中で、過剰で濃厚で圧倒的な密度で騙られる物騙り。その展開に身を任せ楽しんでいるうち、仕込まれた寓意に気付いて驚愕する仕掛けになっている。

運命から全力疾走した先に運命が待ち構えている構図や、叙事的に言葉を重ね、丁寧に現実を語っているのに幻想に誤読できてしまう描写など、ぜんぜん違う物語なのに、新しい『百年の孤独』を読んでいるかのような気になってくる。

「面白い小説とはセックスのようなもので、途中でやめるわけにいかない」と阿刀田高が言った。まさにこの小説のためにある言葉だ。

これは、冬木糸一さんの[基本読書ブログの記事]と、ふくろうさんの『蛇の言葉を話した男』に眉間を撃ち抜かれる!で、居ても立っても居られずに読んだ。このお二方が太鼓判を押した小説は間違いないぞ。心して眉間を撃ち抜かれるべし。

この本がスゴい!2021ノンフィクション
『反穀物の人類史』

人類は、狩猟採集から農耕牧畜へと進歩した。

穀物による安定した食糧生産が人々の健康を増進し、余暇を生み、文字や文明を育んでいった。文明を狙う野蛮人は、狩猟採集のままの生活で、文字を持たぬ遅れた未開の人々だった。

……と思っている? だったら本書をお薦めする。

著者はジェームズ・C・スコット、イェール大学の人類学部教授だ。メソポタミア、秦・漢、エジプト、ギリシア、ローマなど、文明の初期状態を検証することで、わたしが刷り込まれてきた「常識」に疑義を投げかける。

まず、農耕社会が豊かだったというのは誤りだということが分かる。少なくとも、初期の農業は酷いもので、反対に豊かで多様性に富んでいたのは狩猟採集の人々になる。

その証拠として、残されている農民の骨格を、同時期に近隣で暮らしていた狩猟採集民と比較する。

すると、狩猟採集民の身長が、平均で5センチ以上も高いことから、栄養状態が良かったことが伺える。海洋、湿地、森林、草原、乾燥地など、複数の食物網にまたがっていたうえ、それぞれの季節に応じて移動していたため、食べものは多様で豊かだったと考えられる。

一方、農民の大半は栄養不足による骨の変形が見られ、歯のエナメル質の形成不足や、感染症に関連した病変が見られたという。これは、初期の農民の栄養状態が不安定だったことを示している。

では、どうして農耕生活でこれほど発展できたのか? という疑問が残る。著者は、農耕生活ではなく、農耕するための「定住」で説明を試みる。

狩猟採集民と比べて不健康で、幼児や母親の死亡率が高かったにもかかわらず、定住農民は繁殖率が高く、死亡率の高さを補っても余りあるほどだったという。

まず、定住しない人々は、野営地を移動するため、意図して繁殖力を制限することになる。対照的に定住農民は、短い間隔で子どもを作る負担が軽減される。この違いが、5000年という期間に渡って、複利計算のように大きなアドバンテージとなったというのだ。

次に著者は、古代の初期の農耕についてある共通点に着目する。

それは、全て穀物国家だったという点だ。麦や米、ヒエ・アワ、トウモロコシなど、一定の時期に地上に実が成る穀物が、主要な食物であり、現物税の単位であり、農事暦の基盤を提供していた。

著者は、穀物だけが課税の基礎となるという仮説を立てる。定期的に作物を収奪する人にとっては、麦や米の方が都合がいい。

なぜなら穀物は、地上で育ち、ほぼ同時に熟すからだ。徴税官にとっては、収穫時期に一回遠征するだけで、必要な分を収奪できる。農民は収穫、脱穀までしてくれるから、タイミングよく出向いて、倉庫から徴税すればいい。

地上で実っているのが目視で分かる。粒が細かいので分割や運搬に便利。保存が利いて、兵への分配も容易。さらに、同時に熟すので効率的に収奪できる―――こうした理由で、穀物はコスパのいい課税作物になったのだという。

そして、言い換えるなら、課税に不適な作物で暮らしている人々にとっては、「国家」の範囲外になる。

つまりこうだ。狩猟採集や漁労、焼畑農業、遊牧を生業とする人々から課税するのは難しい。分散して移動している上に、生産物は多様で傷みやすい。

こうした人々を追跡し、課税することは、ほとんど不可能になる。国家の外側には、こうした収奪不可能な生業活動が、多種多様に広がっていたというのである。

著者はさらに、メソポタミア「文明」から見た「辺境」のコミュニティに着目する。

狩猟採集を生業としていたため、文字として記録されなかった人々だ。こうした人々は、文字の使用を拒絶していたという。これは、文字を持つだけの知性が無かったからではなく、むしろ、文字に備わる課税と支配の構造を回避しようとしていたからかもしれない。

文字を記す側である行政官からすると、国家という枠の外にある、徴税が及ばない連中になる。「文字を記す側=中央」と「徴税できない連中=辺境」の構図が出来上がる。

文字を記す側は、自分たちの権力の正当性や血統をプロパガンダする必要がある。自らを中央とするために、課税を逃れ、臣民にならない連中を、「辺境」として非難する必要がある。

この発想は、『遊牧民から見た世界史』で学んだ、中華思想そのものになる。中国皇帝が世界の真ん中で最高の価値を持ち、周辺に行くにつれ程度が低くなり、辺境より先は蛮族として卑しむ華夷思想だ。そしてこの傾向は、中国に限らず、文字を残したあらゆる文明に共通する。

わたしたちは、残された文字に書かれた内容から、当時を想像する他はない。だが、文字として残っていなかったからといって、存在しなかったことにはならない。

定住社会において、「中心」として自らの正当性を記録するのであれば、それは岩や石、粘土に刻んで焼くといった遺し方をするだろう(そして、まさにそれらが、いま見ることができる史料だ)。

だが、移動を中心とした社会では、たとえ記録を残すとしても、運搬に適さない重量物には刻まなかったはずだ。もっと軽い、竹や皮、繊維を編んだものに印をつけるといった手段を取ったに違いない。数千年の時を経て、どちらが残りやすいかを考えると、火を見るよりも明らかだ。

他にも、「暗黒時代」や「野蛮人」という言葉が刷り込んでいるバイアスを解いたり、文明の「発展」と、そこに生きる臣民の「幸福」を実証的に考察する。最新の考古学・人類学の論文や文献で、わたしの常識を揺さぶってくる。

常識を問い直し、自分で考え直す観点と材料が得られる。

本書は、尾登雄平さんの[歴ログの書評]で頭ガツンとやられて手にした。尾登さんが薦める歴史本にハズレなし。特に面白いネタは『あなたの教養レベルを劇的に上げる驚きの世界史』にまとめてくれている。このスゴ本に出会えたのは尾登さんのおかげ、ありがとうございます!

スゴ本2022

「後で読む」は、あとで読まない。
「後で読む」は、あとで読まない。
「後で読む」は、あとで読まない。

これは、わたし自身に言い聞かせてる。

「いずれ」「そのうち」「今度の休み」「定年後」読・ま・な・い。

だから「いま」読む。

去年の「この本がスゴい!2020」を振り返ってみる。

『バクマン』終わって『ドロヘドロ』『エマ』に手を出している。R.R.マーティン『氷と炎の歌』は翻訳待ちで、ドラマはシーズン7の佳境(徹夜小説&徹夜ドラマだ)。マルセル・シュウォッブはちびちび読んでる。プルースト『失われた時』は絶賛挫折中なので、次の鈍器ならピンチョン『重力の虹』だな。

去年はエリアーデ『世界宗教史』、大江一道『世界近現代全史』を掲げていたけど、『岩波講座 世界歴史』が出たので、これを最優先に読む!(宣言)。上原亮『実在論と知識の自然化』を進めるためには、定期読書会かラーニングログのような仕掛けが必要だ。

ベイトソンの『精神の生態学』は合わないので損切り、洋書で挑戦していた ”Lost in Math” は、翻訳された『数学に魅せられて、科学を見失う』がまさに今年のスゴ本になっている。

「面白いとは何か、面白いと感じる時、何が起きているのか」というテーマは取り組み中。骨しゃぶりさんお薦めの『ヒットの設計図』『好き嫌い』を手がかりに、今年のスゴ本『進化でわかる人間行動の事典』を加え、レイコフ『レトリックと人生』、デネット『ヒトはなぜ笑うのか』を再読している。物語構造としての面白さや、視線誘導としての面白さは、『ストーリーボードで学ぶ物語の組み立て方』から分析する。

人生の持ち時間は少ない。やりたいことは、「いま」やろう。

これからも、わたしを震わせ、揺るがせ、行動を変えていくようなスゴ本は、このブログや、twitterで発信していくつもり。

もしあなたが、「それが良いならコレなんてどう?」なんてお薦めがあれば、ぜひ教えて欲しい。それはきっと、わたしのアンテナでは届かない、素晴らしい本に違いない。

なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

 

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ヒットする物語の作り方『SAVE THE CAT の法則』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年12月18日


『SAVE THE CAT の法則』 には、大ヒットする映画の法則と、それを適用する方法が書いてある。ベストセラー小説やゲームにおける、物語のベストプラクティスとしても使える。たとえば、

  • どんな映画なのか、一行(ログライン)で言えるか
  • 「マトリックス」と「モンスターズ・インク」は同じ映画
  • 全てのシーンに葛藤が必要な理由
  • 原始人でも分かる、原初的な感情や欲求に立ち戻れ

など、気づきが山のように得られる。目からウロコというよりも、見ていたはずなのに分かっていなかったことが、言語化されている。

一行で心をつかむ

いちばん刺さったのが、「一行で言える?」である。どんなに優れたシナリオでも、説明するのが複雑すぎて、「一行で言えない」なら不合格だ。しかも、その一行でその気にさせなければならない。

つまりこうだ。脚本であれ小説であれ、首尾よく書き上げたとしても、それを読んでもらわなければならない。そして、読んだ人が「これは傑作だ!」と思っても、それを他の人に伝えなければならない。さらに、伝えられた人が、読む気になってもらわなければならない。

映画や小説、アニメーション、ゲームなど、物語の媒体を作るには、大勢の人を巻き込む必要がある。商業ベースに乗せるには、さらに多くの人の手を経るだろう。それだけでなく、リリースした後は、その作品を楽しんでもらいたい観客がいる。

そうした人を動機付け、後押しするのがログラインになる。端的で魅力的なログラインのために、徹底的に考え抜けという。これ、物語だとキャッチコピーになるし、記事や論文ならリード文だね。小説やゲームのキャッチコピーを考えたり、記事や論文でリード文を練る際には、必ずログラインを何度も確認することになる。

さらに、創作が行き詰まり、キャラやシーンを扱いあぐねるときがある。増やすべきか削るべきか、あるいは変えてしまうべきかが分からなくなる。そんなとき、作者は必ずログラインに戻ってくる。ログラインは物語の背骨だ。「ログラインが無いと、物語にならない」とまで言っていい。

「マトリックス」と「モンスターズ・インク」の本質

衝撃を受けたのが、「マトリックスとモンスターズ・インクは同じ映画」のくだり。他にも、「エイリアンと危険な情事」や、「トッツィーとフオレスト・ガンプ」が同じ映画だという。キャラも設定も展開も違うように見えるのだが……

しかし、著者は、違うところを見ている。大量のタイトルが出回っていても、そのひな型となるものは限られている。見た目の違いに惑わされず、いつの時代でもストーリーテリングの本質は同じだという。紐解いてみると、昔ながらの使い古されたストーリーに、時代性が加わっているだけなのだ。

物語のひな型として、面白い名前が付けられている。「マトリックス」と「モンスターズ・インク」は、「組織のなかで」だという。つまり、新たな組織の中に入り、そこでの葛藤や成長を描いたものだ。「エイリアン」と「危険な情事」は、逃げられない状況で迫りくる危険として「家のなかのモンスター」と名づけられる。「トッツィー」と「フオレスト・ガンプ」は、「バカの勝利」なんだって。

もちろん、ひな型からはみ出る部分もある。だが、ある映画を観るとき、それは一体どんなひな型を元にしているのか? と考えると、「そのひな型をどうやってはみ出し、ひねりを加え、アレンジしているか」が見えてくる。この視点は盗みたい。

最重要なもの=葛藤

伝授してくれる様々な手法は、映画のシナリオだけでなく、物語づくりの根幹にも届く。

映画を構造化し、それぞれの要素を視覚的に表した「ビートシート」や、それぞれのシーンで何が起きてどうなるかを一枚にまとめた「カード」、キャラクターの設定で気を付けること、どの時点で何を伝えるか(あるいは伝えないか)、プロットの転換点はどう扱うかなど、非常に具体的で分かりやすい。

映画に特化しているものの、それぞれの手法において、ある1つの原則が貫かれていることが分かった。そして、その原則はそのまま「人が一番面白いと感じるものは何か」につながる。

それは、「葛藤」だという。

人はもともと、葛藤している人を見るのが好きだという。人間同士の葛藤の最たるもの(殺し合い)を模したものが、レスリングやボクシングになる。

葛藤は、「欲しい」「嫌だ」という方向を持っており、原始的な感情や欲求に裏打ちされている。原始的な欲求とは、「生き残る」「セックスする」「愛する人を守る」「死への恐怖」といった、時代や文化を超えた普遍的なものだ。そうした欲求が阻害されるとき、葛藤が生まれる。

たとえば、「目の前に迫る危険 vs.死ぬのは嫌だ vs. あの人を守りたい」とか、「落ちこぼれの僕だけどあの子と仲良くなりたいのにライバル出現」、あるいは「キライなあいつがなぜか寄ってくる」のように、欲求とそれを阻害するもの、どちらを取るのか、ジレンマといった争いやもつれになる。

物語を摂取する根本理由

乱暴にまとめるなら、人は葛藤を見たいので映画を観る。主人公が葛藤を克服し、欲求を満たすとき、観客は、一番基本的なレベルで共感できる。これが映画の快楽になる。主人公の葛藤をドライブするのがストーリーといえるだろう。

だから主人公は、物語の中で一番葛藤し、最終的に一番大きく変化していなければならないという。シーンをまとめたカードには、必ず何らかの葛藤が入っていなければならない(どんなに出来が良くても、葛藤のないカードは捨てろとまで断言する)。そのために、わざわざ「葛藤」を示す記号まで作っている。それぐらい重要なのだ。

ここ、小説の創作技法と同じだ。カート・ヴォネガットの指南で、「たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにも何かを欲しがらせること」を耳にしたことがある。何も望まず、嫌わないキャラクターなら、最初から登場しなくても良いということか。

ヒット作のリバースエンジニアリング

もちろん、こうした原則を守れば大ヒットすることが保証されているわけではない。監督や俳優など、ヒットを左右する様々な要因があるし、シナリオ通りに作られる保証なんてもっとない。

だが、大ヒットした映画のシナリオは、全てこの原則になっている。本書は、ヒット作のシナリオを理解・分解・再構築した、いわゆるリバースエンジニアリングによる指南本なのだ。

注意しなければならないのは、「メチャメチャ売れる映画」であること。個人的な好みは置いといて、映画としての出来も置いといて、「売れる/売れない」で判断すると、こうなる。

一行で心をつかむ、ひな型をアレンジする、葛藤をドライブするのがストーリーなど、映画に限らず、物語を作るうえで役に立つことが学べる。ずっと積読だったのを、ふろむださんに後押しされてで読んだら正解だった。ふろむださん、ありがとうございます。

ただこれ、読み込みすぎると、映画を観るときに分解する癖がついてしまうだろう。(ハリウッド)映画がもつ「面白さ」の完全なるネタバレ本でもあるので、もう二度と、あのワクワクするような気分で観れなくなるかもしれない。消費の側にいたいなら、手を出さない方が吉かも。

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ヒストリエを20倍楽しく読む方法『アレクサンドロスとオリュンピアス』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年1月8日


岩明均『ヒストリエ』は、噛めば噛むほど味がある。

ただ面白いだけでなく、予備知識をアップデートして読むと、伏線や演出が張り巡らされていることに気づき、もっと夢中になれる。あの瞬間の表情の理由、あの言葉の裏の意味……噛めば噛むほど楽しめる。

万が一、これを読んでいるあなたが、未読なら、羨ましい! ぜひ堪能してほしい。絶対に面白いと断言できる。

『ヒストリエ』を、もっと面白く読む方法がある。[『ヒストリエ』を10倍楽しく読む方法]では、アレクサンドロス大王の予備知識を仕込んだが、ここでは、オリュンピアスに迫る本を紹介する(この記事ではネタバレ回避して書くのでご安心を)。

アレクサンドロス大王の母であり、フィリッポス二世の妻であるオリュンピアス。蛇を崇める密儀の狂信者であり、暗殺を企んだ残虐きわまりない悪女という噂と、智勇を備え王家の血統を守らんと奮闘した王妃という悲話と、両方が伝わっている。

どちらが真実の姿に近いのだろうか。

『ヒストリエ』では、才と美の二物を与えられ、息子を溺愛し、恐ろしく頭が切れる女として描かれている。11巻で身の危険が迫り、大変なことになってるが、『アレクサンドロスとオリュンピアス』を読むと、この後さらにスゴいことになることが分かる。

暗殺の首謀者オリュンピアス

本書は、男性優位の社会で自立しようとした女性に対するバイアスと格闘しながら、史料を読みほどき、オリュンピアスの歴史的実像に迫る。

たとえば、『ヒストリエ』ではこの後、暗殺事件が起きるのだが、その首謀者としてオリュンピアスが取り沙汰される。それが事実である理由として、暗殺者の遺体に冠を被せ、犠牲式を行い、暗殺に使われた短剣を神殿に奉納した、というオリュンピアス伝承がある。

しかし、これは信用できないとバッサリ斬る。あからさま過ぎるという。

そして、この伝承は、彼女の影響力を恐れた政敵が流したプロパガンダだという。さらにこの噂を、ワイドショー的な興味からローマの作家が伝記の形で定着させたというのだ(犯人は、ヘレニズム時代の作家サテュロスとまで名指しである)。言い換えるなら、それだけ大きな影響力を持っていたということになる。

ジェンダーバイアスまみれの史料

古代史料を丹念に史料を追うと、男女の違いが見えてくる。

男が残虐な行為をしても、道徳的な判断は少なく、淡々と書かれるだけだという。

カッサンドロス配下の将軍は、敵対する支持者500人を建物の中で生きながら焼き殺したとか、ペルディッカスは政敵50人(または500人)を象に踏みつぶさせたとあるが、非難めいた言葉は添えられていない。

一方、オリュンピアスは批判的に書かれている。

たとえば、ある赤ん坊を股にはさんで絞め殺し、その母親を自殺するように仕向けたことについて、残酷だと批判され、否定的な価値判断で書かれている。敵対していたアンティパトロスの遺言「女には決して王国を支配させてはならぬ」が現代にまで伝わっているのも、その証左だろう。

エウメネスとオリュンピアス

『ヒストリエ』愛読者なら、エウメネスが気になるだろう(実は、わたしがめちゃめちゃ気になっている)。本書では、エウメネスはこんな風に紹介されている。

  • カルディア出身のギリシア人で、前361年に生まれ
  • フィリッポス二世が彼の才能を見出して登用
  • アレクサンドロスも彼を信頼して遠征軍の書記官に任命
  • 大王の治世は騎兵部隊を指揮して軍事的才能を現わす
  • 大王の死後は小アジア北東部の総督領を割り当てられる
  • 後継者戦争においても王家に対する忠誠を守った

そして、オリュンピアスの手紙の中で、「エウメネスだけが最も信頼できる友人である」と述べられている。大王の死後、孤立感を深めるオリュンピアスにとってただ一人本心を打ち明けることのできる将軍だったというのだ。

!?

あ……ありえない! だって〇〇が△△されて✖✖になっちゃうんだぜ。エウメネスとオリュンピアスの関係は最悪になるだろう。にもかかわらず、オリュンピアスはエウメネスを「信頼できる」と断定するんだぜ。どんな魔法を使うんだオリュンピアス!

ネタバレ妄想

ここからネタバレ込みの妄想な(反転文字)。

<<< 反転文字ここから >>>

『ヒストリエ』のテーマとして、「歴史は繰り返す」がある。戦争や和平といった大きな営みだけでなく、たとえば「エウメネスが惚れた女は王が娶る」というパターンがある(パフラゴニアのサテュラ、アッタロス家のエウリュディケを思い出してほしい)。

そこで、「エウメネスは騙される」が出てくるのではないか? と妄想する(「よくもぼくをォ‼ だましたなァ!!」を思い出してほしい)。エウメネスが最も大切にする存在が、人質にされるのではないだろうか? 

彼が最も大切にする存在、すなわち、エウリュディケを生かしておく。その代わりに、大王に忠誠を誓えという展開が待っているのではないだろうか(エウリュディケとの関係が示唆されているため、オリュンピアスが股に挟んで殺す赤ん坊は、エウメネスの子でもある可能性……は考えすぎだろうか)。

そして、騙されたエウメネスはどうするか?

当然、復讐だ。

しかし、単に殺すだけでは飽き足らない。オリュンピアスを絶望の淵に叩き込むには、自分が最も期待されるときに、それを裏切るように仕向けないと―――と考えると、雌伏するほかない。

優れた軍事的手腕はあるが、血筋や財産を持っているわけではないエウメネスは、自身が将軍として軍団を任されるときまで待つ。そして、時が流れ、状況が変わり、オリュンピアスがエウメネスの軍が最も必要とするタイミングに、「寝返る」という形で復讐を果たすのではなかろうか(ハルパゴスの「ば~~~~っかじゃねぇの!?」を思い出してほしい)。

ハァハァハァ……妄想しすぎだろうか。もしこの与太話が(マンガの中で)現実になるのなら、エウメネスは、我が子の料理を食べることになるだろう。

<<< 反転文字ここまで >>>

与太話はここまでにして、『アレクサンドロスとオリュンピアス』は、妄想を捗らせてくれる。「誰が語ったか」を元に、どんなバイアスが潜むか炙り出し、慎重に吟味しながら事実を狭めてゆく、ミステリのようにも読める。

Alex




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物語に感動するとき、その力はどこから来たのか?『物語の力』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年1月13日


物語に魅了されるということは、どういうことか。「感動した」「心が震えた」と手垢にまみれた言葉があるが、その心を震わせる力はどこから来たのか? これが本書のテーマになる。

「心を震わせる力=物語の訴求力」として、どのようなときに訴求力が発生するかについて、物語論の研究成果を解説する。本書では詳細に分けているが、ざっくり以下の場合になる。

  • 回復と獲得の物語:自分が直面する問題に対する解決や、到達したいと願うゴールへの筋道が描かれているとき
  • 疎遠と帰属の物語:自分とは異なる価値観が提示され、自分の価値観が揺さぶられるとき

物語の役割

小説や映画における物語は、現代では消費されるものという意味合いが強いが、昔からの神話や民話の役割を担う側面もある。それは、物語を通じた、価値観や規範の伝達だ。

物語では、何か問題を解決したり、何かのゴールへ向かって進む。その背景にあるものは、「これは良くない状況であり、問題である」「これが良い状況であり、望ましいゴールだ」「解決にあたっては、このルール・設定を守るべきだ」といった、良い・悪い・望ましいといった価値基準だ。

そして、物語を聞く人は、物語の背景にある価値や規範を自らのものにし、物語で示されるモデルを模倣しようとする。

たとえば、「自己犠牲は望ましい」という価値基準があり、それが「皆のために戦いに行く物語」になる。この物語に感動した人は、共同体のために自分を犠牲にする行為を価値あるものだと考えるようになる。いざ他部族が攻めてきたとき、立ち向かってゆくだろうし、そのような気にさせる物語が、「良い」物語になる。

「回復と獲得の物語」で訴求力を上げる

では、どうすれば「そのような気」にさせるだろうか?

「回復と獲得の物語」では、「自己効力感」と「ホメオスタシス」で説明する。自己効力感とは「自分にはできると感じる自信」のことで、ホメオスタシスとは、元に戻ろうとする力になる。

つまり、何かのストレスがかかり、マイナスの状況になったとき、「自分にはできる」と信じて手を尽くし、マイナスから回復すると、大きな快を得るというのだ。このときの「自分にはできる」という動機と、マイナスから回復する方法は、強く学習される。

より大きな快を得るためには、マイナスの度合いを大きくすればいい。主人公は、自己効力感を持たせる前に、絶望的な状況に落とせばいいし、ライバルや障壁を設けることで、得られる快もさらに一層強いものになる。

本書で挙げられた作品だと、例えば『インデペンデンス・デイ』なら失われた力や権威を回復する王の帰還の物語になるし、『のだめカンタービレ』だと絆によるトラウマ克服の物語になる。回復と獲得の物語は、ストーリーの原型とも言えるので、他にもいくらでも思いつけるだろう。

未充足マーケティング

興味深い応用として、「未充足マーケティング」が紹介されていた(別名は、物語マーケティング、ダークサイド・マーケティング)。

つまりこうだ、消費者に対して、「あなたに欠けているもの」「あなたが喪失したもの」を提示することで、購買意欲を掻き立てる方法だ。テレビのCFでは、若さ、パワー、絆、魅力、お得感など、様々な「欠けているもの」が取りざたされている。

そして、これを買えば、失ったものが取り戻せる(だから買え)とダメ押しする。失ったものとの落差が大きいほど、そして、失ったことによるストレスが強いほど、買うことで得られる快も一層強いものになる。

脱線になるが、ネットでも未充足マーケティングが実践されていることに思い当たる。「あなたが失ったもの」として、機会や権利を声高に主張し、「あなたは騙されたんだ」と煽ることで衆目を集めるやり方だ。人は、失ったものに敏感なため、未充足マーケティングは悪い意味で有用だ。

「疎遠と帰属の物語」で訴求力を上げる

異なる価値観を提示し、読者や視聴者の価値観を揺さぶる物語は、もっと巧妙に訴求力を上げようとする。単に受け手とは違う価値観をぶつけようとしても、読者がどんな価値観を持っているか分からない。

そこで、登場人物どうしで、異なる価値観をぶつけ合う。つまり、相反する価値観を持つキャラを登場させ、それぞれの内面から物語を描き出すのだ。

本書では、『デスノート』のライトとエルが挙げられている。この作品は「信頼と疑惑」の対立構造を持っており、「この社会を疑って生きていく」ライトと、「この社会を信じて生きていく」エルとの対決構図だというのだ。

物語がライトに焦点化して(ライトの視点、思考、感覚から)描かれるとき、読者はライトの思考や感情に近づけて読むことになる。一方、エルに焦点化されるとき、読者はエルに寄り添って物語を理解することになる(これを内的焦点化と呼ぶ)。

このとき、読者が各人の思想に賛同するか否かは別問題だ。物語がライト(or エル)視点で描かれているのであれば、そこから理解する他は無い。

重要なのは、物語がライト、エル、ライト……と入れ替わる度に、読み手はそれぞれの思考や感情を行き来することになり、その結果、読者自身の思考や感情から、遠くに引き離されることだ。すなわち、物語世界の中に、どっぷりと浸っていることになる。

思い返して欲しい。物語の中で、極端な思考を持ち出してくるキャラがいたはずだ。そして、そのキャラは、他のキャラと反発したりたしなめられたりしなかっただろうか。それは、読み手を「読み手自身の価値観」から引き離し、物語の中に引き込むための仕掛けなのだ。

『君の名は。』のラスト90秒が凄い理由

作者は、あの手この手で物語世界の内部へ引き込もうとする。

たとえば、描写するカメラ位置。

キャラクターや描写対象に対し、カメラ(描写主体)がどこにいるかという「距離」の問題だ。シーンがスタートした時点では、引いて写すのが多く、遠景→近景→内面描写に近寄っていくのが一般だ(これを自己移入という)。なぜなら、受け手はまだ、物語世界の「外」にいるから。

もちろんこれを逆手に取ったやり方もある。特定のキャラの内面からの描写で、その人物の耳目という限定された視座で物語に取り込むやり方だ(ただしもろ刃の剣で、語り口や描写に魅力がないと離脱されやすい)。

これらをハイブリッドにすると、「物語の中のカメラ」のピントをコントロールしつつ、「キャラの内面」とを交互に出しながら、登場人物が見ている情景を、読者が見ているかのように重ねる。

本書では、『君の名は。』が持つ強い訴求力を、その「写し方」の分析から解き明かす。

瀧と三葉のそれぞれの視点を焦点化して、交互に繰り返していくことで、観客を物語世界へ誘導していく(「疎遠と帰属の物語」の内的焦点化)。

そして、1時間37分~40分をショットごとに丁寧に分析していく。次々とシーンが移り変わり、四葉っぽい女の子が映った直後の暗転(1:38:38)までが自己移入の誘導路になる。この時点まで映画を観てきた人は、瀧への内的焦点化がなされた結果、誘導路で瀧が見る映像(写真集や風景)を、「自分自身が見ている」と感じ取ることができる。

そして暗転後、映画の冒頭の、行き交う電車や通勤のシーンが、もう一度繰り返される(微妙に変えてはいるけど)。

映画の最初の時点でこれを見た観客は、当然のことながら自己移入をしていない。物語の「外」から見る、誰でもないカメラから撮った映像として眺めるだろう。

しかし、キャラの内的焦点化が培われ、暗転までの誘導路を経てきた観客は、同じシーンであっても、「自分自身が見ている」映像として感じられるはずだ。

<ここからネタバレ反転表示>

そして、ここで視線の一致という技術が使われる。登場人物が見ている対象と、まさに見られている対象を重ねるのだ。三葉が瀧を見、瀧が三葉を見ることで、瀧の目を通して「自分自身が見ている」と感じる視聴者と、瀧自信の視線を一致させているというのだ。

『君の名は。』は、もともとは「入れ替わり」の物語だったが、この時点で、2人の双方からこの物語を見直すことになる。そして二人が見つめ合うとき、それぞれの内部で焦点化されていた視座が融合する。「君の、名前は」と重なり合う声とともに―――

<ネタバレ反転表示ここまで>

―――という分析だ。本書の第6章を読んだ後、もう一度『君の名は。』を見ると、キャラへの距離と内的焦点化を緻密に計算して撮っていることが分かる。

物語の訴求力を高める一冊

『君の名は。』だけでない。

西尾維新『刀語』における描写対象との距離の絶妙なつめ方や、レヴィ=ストロースが行ったシーケンス分析を『進撃の巨人』に当てはめた解説、さらにはスマホゲーム「モンスト」がシミュレートしているものなど、小説に限らず、映画やマンガやゲームも含めた、物語が持つ訴求力を知ることができる。

物語の訴求力は、読者・観客・プレイヤーを、現実から物語世界へ没入させ、登場人物に自身を移入させる力を持っている。本書は、その力が、具体的にどのような仕掛けで働いているかを見せるのだ。

そして、そうした仕掛けを分かったうえで、もう一度感動することができる。わたしの場合、本書を読んだ後、『君の名は。』のラスト90秒を繰り返し見て、視線誘導と感情移入の仕掛けを全部分かった上で、あらためて涙した。それは、種も仕掛けも分かっているのに、一流のマジシャンの手品を、繰り返し魅入るようなものだ。分かってても、すごい。

そして、「自分の心がどのように震えたか」が分かれば、「誰かの心をどのように震わせるか」も分かる。読む人・書く人・描く人……物語を紡ぐあらゆる人にお薦め。巻末の文献ガイドが充実しているため、本書を入口に、さらに専門性の深いところまで潜りたい人にも。



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「知らない」を知る興奮と「知ってるはず」をもっと知る快楽が得られる『驚きの世界史』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年1月19日


歴史の面白さは、つながる快感にある。

知っていることと知らないことがつながるとき、強く快を感じる。歴史研究から得られた知識と、本や映画やニュースで感動した経験が接続されるとき、「エウレカ!」と叫びたくなる。

『驚きの世界史』は、こうした経験と知識を繋げてくれる。

History

 

「漢族」は人工的な民族集団

いちばん驚いたのが、漢族という概念だ。

本書によると、中国人の91%が漢族で、残りの9%が55の少数民族に分かれる。9割以上が同一の民族というのは、大きすぎやしないか? 北京語と広東語は英語とイタリア語ぐらい違うと言われるし、文化や風習もまるで別物なのに、漢族で括られる。

では、そもそも漢族とは何か? この解説が面白い。漢族とは、特定の文化や言語、風習、外貌とは関係がなく、長い歴史的過程を経て、様々な民族集団が政治的に統合された人工的な集団だという。そして、その核となるものが、「中華」という世界観になる。

そして、中国の歴史とは、この「中華」の拡大の歴史だというのだ。

すなわち、中華とは異なる存在を夷狄とし、夷狄を中華に同化させ、物理的に領土を組み込んでゆく。たとえモンゴルや女真に征服されても、むしろ異民族がこの世界観に同化される。征服や入植により、満州や雲南、台湾が中華世界の中に組み込まれ、チベットやウイグルが組み込まれようとしているのが、現代になるというのだ。

この解説で腑に落ちる。

チベットやウイグルを弾圧する中国政府は、テロの脅威を主張する。だが背景には、夷狄を中華世界に組み込もうとする行動原理があるのかも……と考えると、驚くとともに歴史とニュースが繋がる。

発射装置としてのピラミッド

自分が見聞きした経験と、本書のエピソードが繋がるのも快感だ。

先日、国立科学博物館の [ミイラ展] を見てきたのだが、本書で紹介されるエジプトのミイラとピラミッドの関係がまさにそれだった。

ピラミッドが建設された目的としては、王の墓説や公共事業説が有名だが、本書では、古代エジプトの死生観から解き明かす。

当時エジプトでは、死者の霊魂はオシリス神と合一し世界に秩序をもたらす存在となって復活すると信じられていた。そのための物理的な肉体として必要なのがミイラだという。

そして、異常気象や星辰の乱れを正すため、神と合一した霊魂を宇宙に向けて発射するための装置が、ピラミッドだというのだ。「ナマのミイラをこの目で見た」という興奮と、「ピラミッドは魂の発射装置」という学説がつながる。

キリスト教徒は狂信者?

さらには、シェンキェーヴィチの『クオ・ワディス』を読んだときの違和感について。古代ローマを舞台にした傑作&徹夜本だが、現世主義で現代的とも言えるローマ人に比べ、キリスト教徒が完全に頭のいかれた狂信徒のように描かれており、そのコントラストに目を奪われた。

キリスト教徒が迫害を受けたことは知っていたが、皇帝ネロのプロパガンダを差っ引いても、ローマの世論がそれを是としていたのはなぜだろうと疑問に感じていた。

これを、ギリシャ・ローマの「市民共同体」の流れから説明する。古代地中海では、まず共同体が第一であり、兵役や納税、お祭りや礼拝といった義務を果たし、自分たちの共同体を守る必要があった。

しかし、突如現れたキリスト教徒は、そうした義務や行事を、「神の名のもとに」拒否しはじめる。ローマ市民からすると、自分たちの社会を脅かす「異物」が増殖していくような恐れを抱いたかもしれない。その上、禁欲を誇り迫害されても喜んで殉教されたがるキリスト教徒は、享楽的なローマ人の理解を超えていたというのだ。

なるほど、だから小説ではあんな風に描かれていたのか! と腑に落ちる。夢中になって一気読みをしたときの興奮と、目の前の知識がガチリと繋がるのが楽しい。

知識どうしがつながる快感

自分の経験と、本書で得た知識が繋がる快楽に加え、本書の中でも知識同士がつながるのも楽しい。

古代から現代に渡り全50章で構成されているのだが、各章ごとにテーマが区切られたブツ切りではなく、それぞれがつながりを持つように構成されている。

古代ギリシャやローマ帝国の強さ、そしてキリスト教の始まりといったそれぞれの事象は、各章を跨る「市民共同体」という概念がつなげてくれる。歴史を学べば学ぶほどイギリスが嫌いになるのが常だが、本書ではイギリスの強さと悪賢さを、「国家に黙認された海賊」という糸口から解き明かしてくれる。あと、地域と時代に限らず広範に流通する富が「銀」であるのは興味深い。

こうした、地域や時代を横断して見る概念や視点を得られたのが嬉しい。「知らないことを知る」悦びと、「知ってることをさらに知る」快楽を得る一冊。

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プロジェクト炎上からの115億円訴訟、PM失敗、書き換えられた議事録、現場感覚と裁判所の判断のズレ、メンツ潰さずクギだけ刺す、AI議事録対策―――教訓だらけのスルガ銀行vs日本IBM事件

プロジェクトが炎上してから、「こうなると思った」なんて結果論や後知恵バイアスでマウントを取ってくる人がいる。タラレバ論の事後孔明は、漬物石を括りつけて東京湾に沈めるのが世のため人のため。

だが、爆発したプロジェクトの焼け跡を調べ、ボヤを燃えひろげない手立てを考えたり、訴訟リスクを下げる教訓を掘り出すのは有効だ。

この記事では、2013年9月26日東京高裁の、スルガ銀行vs日本IBM事件の判例を元に、「同じような炎上には、どう対処するか」という観点から教訓を引き出す。

あいまいな契約、決まらない要件定義、非協力的なユーザー、動かないカットオーバー、二転三転する提案、激怒する経営陣と、およそ考え得る「炎上プロジェクト」の全ての地獄が詰まっている。ラーメンのトッピングなら「全部入り」、中華料理ならフルコース「満漢全席」だろう。

判決から述べると、こうなる。

  • 一審は、日本IBMに対し、スルガ銀へ74億円の損害賠償を命じた
  • 控訴審は、日本IBMの賠償責任を認めつつ、賠償額を41億円に減額した

IBMの訴えは退けられ、スルガ銀に損害賠償を支払うことになるのだが、だからといって一方的に「IBMが悪い」という話に留まらない。「IBMがバカだった」で済まそうとするならば、同じ状況で似たような過ちに陥る。

「要件定義が決まらない」なんて日常茶飯事だし、「協力しないユーザー企業」なんてあたりまえで、カットオーバーの動かざること山のごとし。それでも、なんとか回していくのがエンジニアであり、PMだろう。

そんなとき、どうすれば良いか?

一つの指針が、IBMとスルガ銀が見た地獄だ。あなたのプロジェクトを、この地獄の一丁目に行かせないために、どんな教訓が活かせるか、それを掘り出してみる。

なお、判例は WestlawJapanで読める。図書館だと無料で読めるのだが、淡々とした判例文なのに、血で書かれたような生々しさで、動悸・息切れハンパない。そこら辺のホラーよりもずっと怖いので、ご注意を。

炎上から訴訟までの経緯

もともと、IBMはスルガ銀のシステム管理や運用支援を行っていたという。

2000/12 基幹系システム構築の提案を依頼
2003/7 汎用パッケ ージ 「NEFSS」を元に新経営システムを提案
2004/9 基本合意契約1を締結
2004/12 基本合意契約1を訂正した基本合意契約2を締結

この間、開発スコープの範囲が定まらず、計画していた要件定義作業が難航、最終合意の内容を固められない状況が続いた

2005/9 最終合意を締結、プロジェクトの基本運営の覚書を交わす(この時点で、要件定義作業は完了していない)

それでも進捗は難航し、開発日程どおりにシステム稼働ができない状況で、IBMより計画の見直しが提案された

2008/1一括サービスイン(当初計画)
2008/1~12の4段階サービスイン(2006/11提案)
2008/1~2010/1の5段階サービスイン(2007/3提案)

スルガ銀の責任者が激怒、IBMとの信頼関係が失われる

2007/7 スルガ銀は内容証明郵便により、IBMとの契約解除(IBMの債務不履行)

開発中止により大損害を被ったスルガ銀はIBMを相手取り訴訟を起こす。

スルガ銀の主張は以下の通り。IBMに対し、損害賠償+原状回復により115億円の支払いを求める。

  1. 本質的義務違反(2008/1までに89億でサービスインする義務違反) 
  2. プロジェクトマネジメント義務違反
  3. IBMの説明が不十分のため、スルガ銀は誤った認識で契約したとして、個別契約は無効

IBMも反訴する。

  1. 未払の個別契約の代金の13億円の支払い
  2. ユーザーの協力義務違反の不法行為に基づき、 NEFSS構築のための投資相当額110億円の支払い

書き換えられた議事録

炎上プロジェクトで、いちばん怖いものは何か。

バグか、遅延か、隠し仕様か、追加コストか。

もちろん、どれも怖いが、やりようはある。コスト・スコープ・スケジュールのどれを削ってどれを優先するかの話になる。「全て最優先でやれ」と言ってくる人は至近距離&フルパワーで「ご説明」すると、だいたい引き下がってくれる(坊主頭で行くと効果大)。

だが、本当に怖いのは、会議で「ご説明」したはずのリスクが、議事録では別の意味に変わって残ることだ。

その怖さが凝縮された場面がある。

第12回ステコミの議事録だ。ステコミ(ステアリング・コミッティ)とは運営委員会のことで、プロジェクト全体方針を合わせる、いわゆる偉い人会議のことだ。

そこに、こうある。

設計局面以降の見積りコストが当初の計画内に収まらない可能性があるという課題を引き金として、パッケージベースの開発、横展開の資産となるシステムの構築および結果としてのコストの削減を目標とした対策実施を検討中(IBM社内の課題)
2005/10/19 第12回ステアリング・コミッティ議事録(変更前)

日付に注目してほしい。前月の2005年9月に最終合意したにもかかわらず、10月に「当初の計画内に収まらない可能性」が指摘されている。下っ端の悲鳴ではなく、偉い人がステコミで発言しているのだから、この危機感は相当なものだと読み取れる。

これが、スルガ銀の指示により、こう削除された。

設計局面以降の見積りコストが当初の計画内に収まらない可能性があるという課題を引き金として、パッケージベースの開発、横展開の資産となるシステムの構築および結果としてのコストの削減を目標とした対策実施を検討中(IBM社内の課題)
2005/10/19 第12回ステアリング・コミッティ議事録(変更後)

灰色の文字は、削除された文言だ。

削除後に残る文面は、まるで別物になる。

コスト超過リスクへの警告は消えて、「パッケージベースの開発や横展開の資産化を、IBM社内で検討している」という改善課題に変わっている。単なる表現の修正ではなく、プロジェクト全体の危機が、IBMの社内の課題に見えるように丸められている。

IBMがステコミで指摘しているのには、理由がある。

そもそも、基本合意書には、「ユーザ側の費用も含めて95億円以内にすることを確約する」と明記されているし、最終合意でも支払総額が「89億7080万円」と記載されている。当初、スルガ銀は予算枠で進めることを重視し、契約文書にも記載していた。

だからこそ、IBMはその枠を超える可能性を警告した。そして、単に警告するだけでなく、対策の検討をしていると報告した。

にもかかわらず、「コスト超過の可能性」が、スルガ銀側の指示で削除された。

削除された理由は、判例には書かれていない。想像だが、「当初計画に予算が収まらない可能性」が公式資料に残ることを避けたかったのではないだろうか。そのため、予算超過リスクの表現を弱めるために、削除したと思われる。

しかし、結果的として、この削除が「予算超過のリスク警告」から「IBM社内の改善」に変わってしまったことは事実になる。

この事実を重く見るなら、「IBMはまったく説明していなかった」と責めるのは無理があるだろう。

裁判所の判断

もっと怖いのはここからだ。

裁判所は、スルガ銀が削除したことを認定している。削除前の文章も、削除後の文章も把握している。

それにも関わらず、裁判所は、プロジェクトマネジメント義務違反を認めた。特に、危機を説明して判断を促す義務があったにも関わらず、それをしなかったと判断した。

なぜか?

裁判所からすると、これは「スルガ銀が経営判断すべき危機」として提示されたものではなく、「IBM社内の課題」として整理されたものに見えたからだ。文章の末尾に、「対策実施を検討中(IBM社内の課題)」とある。

この一言を重く見ている。前半は、「コストが枠に収まらない可能性」つまりプロジェクト全体の危機を指している。一方、後半は、「IBM社内の課題として検討中」とある。危機の主語があいまいなのだ。

相手のメンツを潰さないよう、穏当な表現としたかったのかもしれないが、これが命取りとなる。スルガ銀が判断すべきプロジェクト全体のリスクなのか、IBMが社内で対応する改善課題なのか、ぼやけてしまっている(削除後の文面では、明確に後者のものに見える)。

もし、危機があったのなら、中止も含めた計画変更を提言し、それをしなければ不利益を被ることを伝える必要があったはずだ。それをしなかったので、義務違反だと判断している。「IBM社内の課題」と書いた以上、それは(前半の主語はともかく)IBMの課題として読まれる。後から「スルガ銀に危機を伝えていた」と言っても、確定した議事録にはそう書いていない。

メンツ潰さず釘を刺す

裁判所は「リスクがあり、不利益になるなら、それをちゃんと伝えるべき」という。それをするのが、プロジェクトマネジメントであり、しなかったので契約義務違反だと。

だが、プロジェクト全体に影響を与えるようなことを、いきなりステコミで言えるのだろうか?言えるわけない。

例えば、こんな風に真正面から行ったら、一発退場だろう。

契約に記載されたコスト超過リスクがある。だから貴行にてスコープ削減し、追加費用、納期延長、中止を判断してほしい

人は変化を嫌がる。

だから、いきなり対決モードではなく、口頭では丸めて伝える。こんな風に。

現時点において、見積もりの前提で課題感が見えている。別途、実務者間で協議をして、選択肢をまとめるので、次回以降の判断材料として相談させてほしい。

断定を避け、ふわっとした言い方にするため、「課題感」とか「スケジュール感」といった物言いがある。曖昧な表現は心底キライなのだが、こういう時は使わせてもらっている。「見込みとして〜」とか「気になる点は〜」といった言い回しも便利だ。

ただし、議事録にはこう残す。あくまで、プロジェクトの目的(ここではコスト枠内に収める)のための営みだという言い方にすると、カドが立ちにくい。

見積もりコスト超過リスクを避けるため、別途検討会を設けて、影響範囲や選択案を整理する。

リスクがあることを、「〇〇というリスクがある」というのではなく、「〇〇というリスクを避けるための方策として〜」と言い換える。そして、その方策はお互いの調整により決まると言うことで、ベンダーだけでなく、プロジェクト全体で未解決の問題だと印象付ける。

あるいは、「コスト超過」や「リスク」とった言葉自体を避けるなら、「前提条件の再確認をしたい」と言い換える。「決めるべきことが輻輳してきたので、優先付けを確認させてほしい」という「お願い」の形にすると、相手のメンツを傷つけずに、決めるべきこと(=課題)があることを議事録に残せる。

要するに、「(課題の)頭出し」というやつ。プロジェクトの前提や方針に大きな影響がある場合、ステコミでは触れておくにとどめる。「ジャブを打っておく」とか「軽い予告」という人もいる。

そして、「ジャブ」を打ちつつ、下々の人がまとめた対策案を課長間で提示する(担当~PMレベルでの調整)。そこでコスト・スコープ・スケジュールのどれを削ってどれを優先するかの話を握ったうえで、ステコミに当てに行く流れだ。もちろん落としどころ(逃げ場)も考えてあげて事前に課長間で渡しているから、唐突感による拒絶反応を避けることができる。

AI議事録の対策

議事録の件だけでも、こんなに恐ろしい。

「言った/言わない」を避けるために、会議はレコーディングし、議事録を残す。だが、言ったはずのことが歪められ、まるで違う問題にされてしまい、それが「正」となる。削除後の議事録がどこまで行き渡ったか、削除に対するIBMの反応はあったのか等は、判例に残っていない。大人の判断で丸められた議事録は、後から不利な証拠とされる。

ここから何が学べるか。

私の場合だが、偉い人会議でしゃべったことは、しつこいほどトレースし、少しでも想定と異なることが残されそうになった場合、必ず修正させている。

昨今だとAIに要約させた、微妙に焦点のズレた議事録が出回るようになったが、それも追いかけて、曖昧な点を念入りに潰す。AIの場合、してもいない約束を、言葉尻だけで「約束した」と要約する。これ本当にイヤだが、そういう、どっちでも取れるのらりくらりとした発言をしている方にも問題がある(私含めて)。

なお、レコーディングしている会議の場合、時期や金額など、言質を取られそうな部分は、どんなにクドくても、必ず、目的語や前提条件とセットで発言している。

AIは数字の発言を記録しようとするが、人は数字をしゃべるとき、その前提や文脈を省略しがちだ。結果、数字が独り歩きするきっかけとなる。「数字を口にするときは前提とセットで」は、AI要約が標準になりつつある今、声を大にして広めたい。



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知性に普遍性はあるか『ランドスケープと夏の定理』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2018年11月14日


 「知性に普遍性がある」という発想がブッ飛んでいる。

■ 知性定理

  • どんな宇宙であれ、同じ宇宙に存在する限り、同じ物理法則に従う(←分かる)
  • 異なる宇宙の場合、プランク定数など基本的な定数が違うかもしれないが、それに相当する定数は存在する(←分かる)
  • それぞれの物理法則は、定数の変換や翻訳という手続きは必要なものの、対応関係があり可換である(←分かる)
  • 知性の元となる思考や理論は、それぞれ物理法則から導き出される(←分かる)
  • 変換や翻訳した結果、共有された物理法則から導き出される思考や理論に支えられた知性は、対話可能である(←分かる)
  • 物理法則が普遍性を持つ以上、知性は普遍性がある(←分からない)

 つまり、世界や物理法則が共通である以上、知性の違いは表現の違いに過ぎず、遅かれ早かれ、あらゆる知性は普遍的なものになる、という理屈である。これは、いわゆる宇宙人に限った話でなく、動物やAIも含めた「知性」一般に言えるという。

 荒唐無稽で、頭おかしい(誉めてる)。しかもこのSF理論でキッチリお話を描き切る力業がすごい。

 この「知性定理」を編み出した「ぼく」を語り手に、天才科学者の姉が途方もない実験をするのが表題作になる。エヴァとイーガンを下地にエンデを混ぜたようなお話で、流行の量子力学・宇宙論に既視感ある展開がテンポよく進む。なつかしい未来を見させられているような感覚なり。

■ 知の理論地図=知性の見える化

 圧巻なのは、ありとあらゆる理論を命題群の形でマップした空間である。巨大な野球場か、サッカースタジアムほどの大きさに理論地図が広がり、目を凝らすと、水滴のような形をした命題素が見えてくる。三段論法や真理値といった大小の概念が多彩に絡まり合い、一つの命題素が他の命題素と繋がり合い、拡散結合を繰り返している。

 つまり、人が作り出し、あるいは見出した理論の繋がり合いをビジュアライズすることで、「人間の知性」そのものの構造を見える化しているのである。この理論地図を調べることで、疎の部分(命題素の絡まりが少ない、理論の空白箇所)や、密な部分(じゅうぶん理論化された箇所)が見えてくる。

 そして、このような空白領域や、マップと「マップの外側」の境目は、まだ手付かずの知的領域になる。人が何に興味を抱き、どこに注目しており、目の届かない(あるいは見逃している)場所がどこなのか、一望できる。この考えは、ソートイ『知の果てへの旅』の[レビュー]で示したが、それをSFの中に織り込んでいるのが素晴らしい。

■ 数学の地図

 数学の地図で考えると、山本貴光氏の「現代数学マップ」がある。これは、雑誌「考える人」(第45号 p.28)の特集「数学は美しいか」からの引用で、数学の世界を探索するにあたり、全体の見取り図となるものである。

Mathmap

数学の地図

 ざっと見ただけでも、代数学と幾何学がシンメトリに並び、その橋渡しとなっているものが解析学で、それぞれを支えているのが論理学である構造が分かる。それぞれの具体的な命題は、数や図、極限と言語に分けられた形で表されていることが分かる。代数と解析から確率論、その先に統計学への途が開かれている。

 さらに目を凝らすならば、マサチューセッツ工科大学のマックス・テグマーク教授のマインドマップのような世界が見えてくる(出典:[MAT365 Vector Calculus])。ラーニングマップなので、学ぶ順番を追うためのものと想定されるが、数論から数理物理学まで至る途上に、代数幾何学が幾層にも重なり合っていることが分かる。

Math

Mathematics: A Learning Map
attributed to Max Tegmark; formerly hosted at Satyavrat’s Blog / satyavrat.files.wordpress.com/2007/10/math.gif; also referenced by UNCW MAT365 Vector Calculus.

 数学に限って言うならば、人が最も注目してきたもの(密な箇所)は代数幾何学になる。これは、人類が始まって以来営まれている農作や移動に必須の天文学を支える理論だから、あたりまえといえばあたりまえかもしれぬ。

 こうしたわたしの妄想を、数学に限らず、あらゆる知の領域、人類が生み出した理論の歴史を層ざらえしたレベルで展開してくる。実は、ここで紹介した「知性定理」は最初の段階で、次章・最終章ではさらに広がりと深まりが出てくる。ストーリー展開は見えていたが、この知性定理の風呂敷の広げ方は驚いた。ぜひ手にして楽しんで欲しい。

■ 知性を規定するもの

 ただし、知性について、「ぼく」の一面的な理解にも苦しんだ。「ぼく」が無邪気に信じる「知性」とは、すべてカッコ書きで「人にとっての」が付け足される。そもそも数学は人にとっての知的営みであり、そこから離れて考えることはできない。

 「ぼく」数学者なのだから、一度は考えたことがあるだろうが、人が10進数を使っている理由は、わたしたちの手の指が左右で10本であるからである。一周を360°とするのは、一年が365日であるから(360°は近似で約数が多いというのがポイントやね)。地球にいる「人」が太陽を観察して作り出した数字なのだ。つまり、数学は人と人が住まう環境によって規定されているのである。

 いいやそれは違う。確かに10進数は一般的だが、2でも16でもn進数だってある。360°だけでなくラジアンの概念も生まれてきた。離散的なものだけれでなく、連続的な概念も扱うことができる......という意見もあるだろう。

 もちろんその通りだ。しかし、「人」が一個の存在として「自分」を一つのものとみなし、2つの目や手、乳房や脚を持っているという離散的な存在であることが、数学を規定しているとも言える。

 つまりこうだ、光も差さない深海で知性があるとして、環境としては圧力や温度しかないとするならば、そこでは「数を数える」数学は始まらない。人が離散的な数学から始めて、連続的な概念をも手なずけたとしても、それは2つのいずれかの概念を行き来する「人」にとっての数学である。理論が破綻しない限りで、離散か連続か、どちらか都合のよい方を選択的に手にしているにすぎない。

 試みに、両方の特徴を併せもつ存在を一つのものとして扱うことができるだろうか? 離散と連続の両方が現れる存在、それは「光」だ。粒子としても波としてもふるまう光は、いずれかの特徴を捉えることはできても、両方を一緒に扱う理論は存在しない。

 これを、「未だ存在しない」と言い逃れることはできる。そうかもしれないが、それは人が今の「人」のインタフェースであるのをやめてから、ずいぶん先の時代になると考える。それは、人が二足歩行するよりももっと抜本的な変化を遂げた後のことになるだろう。

 知性は、それが寄って立つところの環境に依存する。そして、その進み方も環境の変化にも影響される。長い時間をかければ、究極的には同じ知性を共有するという考えは、今のサルを長い長い間放っておいたら言葉を用いて火を使い、ロケットを飛ばすようになると言っているのと同じである。

■ 知性の限界は、その主体

 じゅうぶん長い時間をかけるなら、他の「知性」と対話することは可能だろう。だが、それは知性の普遍性を意味しない。あくまで、人に翻訳可能な、人にとっての知性という意味においてでしかない。

 仮に「知性」を、なんらかの言葉で定義できたとしよう。たとえば、「ある状況(問題)について、得られた情報から整合的に理解し、合理的な行動(結論)を判断する能力」としてみる。なんならこれにいくつか付け足してもらってもいい。

 しかし、そこに出てくる「理解」「判断」といった主体は、「人」であり、「整合的」「合理的」は誰にとっての整合性・合理性なのかを考えると、やはり「人」になる。

 いいや、AIや動物の知性を俎上に載せるなら、主体は「人」には限らないよ。そういう声もあるが、AIが出した結果や、動物が採用した行動を、誰が、どのように評価するのかというと、そこにはやはり「人」が関わる。

 行動主体はAIや動物だとしても、それが(行動主体が)「合理的」だとか、そもそも「判断をしている」と見なすのは、人でしかない。ナゾナゾ「誰もいないところで木が倒れたら音がするか?」を追求すると出てくる答えと同じである。

 「ぼく」は知性の普遍性を信じ、なおかつ「人の」知性の優位性を信じる。あらゆる知的存在は、いまわたしたちが抱いている「人の知性」の途上ライン上におり、ひとつの総体として収束していくという考え方は、わたしの思考と大きく異なる。

 だが、それが面白い。ストーリーよりも、この思考にめちゃめちゃ振り回された一冊。

Land

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フェイク歴史を言ったもの勝ちになるいま、『なぜ歴史を学ぶのか』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年1月26日


Nazerekisi

フェイクニュースがまかり通り、「真実」が希釈化されるいま、歴史学は何ができるのか?

この疑問に答える手がかりは、アメリカの歴史学者リン・ハントが著した本書にある。

著者はまず、歴史の政治化という問題について、具体的に説き起こす。

ホロコーストを否認するメリット

たとえば、ホロコーストの否認だ。ナチス・ドイツが組織的に行った大量虐殺を「なかった」ことにする。それも、SNSや思想団体というレベルではなく、政府高官レベルでホロコーストを否認するところもあるという。

2005年12月、イランのアフマディネジャド大統領は、ホロコーストを「創り出された神話」だと発言した(※1)。ただし、核計画に対する国連の制裁を懸念し、イラン公式の報道機関は、この発言が最初からなかったかのように録画から取り除いている。

一つの歴史的事実について、なぜこのように発言するか。

それは、反イスラエル政策の一環として有効だと見なしているからだという。嘘も100回繰り返せば本当になる。2014年に行われた国際調査によれば、中東や北アフリカに住む人々のあいだでは、ホロコーストという言葉を耳にしたことがあり、事実だと認識する人はわずか8%に過ぎないという報告もある(※2)。

教科書に見る「都合の良い」歴史

過去の出来事を、自国に都合よく取捨選択するのは、初等教育の歴史の教科書が顕著だ。

日本では「新しい歴史教科書を作る会」による教科書の書き換えが問題視される一方、フランスの歴史教科書は、アフリカでの植民地統治がもたらした暴力や人種主義を過小評価しているという指摘がある。

合衆国やオーストラリアの教科書はもっと露骨だ。歴史の始まりは、コロンブスやジェームズ・クックから始まり、先住民であるインディアンやアボリジニの人々の長い歴史は、ほとんど無視されていた(最近では変わりつつあるらしい)。

中国の歴史家は、漢民族による支配を正当化するため、他民族を劣等な存在として描くものもいたという。二世紀あまり中国を支配した満州人は、野蛮で文字が読めない民族として描かれている。

顕著なのは香港の教科書。2012年に新カリキュラムが導入され、中国共産党を賛美する一方、文化大革命の暴力や天安門広場での弾圧については控えめにするように変わっている(何万人もの親たちによる反対デモがあったにも関わらず、政府は新基準を強制していった)。

歴史とは何であったか

なぜ、自国に都合の良い歴史を選ぼうとするか? 

「歴史学の歴史」を振り返ると、合点が行く。

かつて歴史学は、エリートのエリートによるエリートのための学問だった。すなわち、将来の政治家のため教養を伝授することが目的だった。そのため、俎上に据えられるものは古代ギリシアやローマの歴史であり、王と議会と戦争の政治史だった。

そして、大衆政治が誕生すると、シティズンシップの学校としての歴史が脚光を浴びることになる。すなわち、国民のアイデンティティとしての記憶を一つにし、想像の共同体を育むための歴史だ。ナショナリズムを涵養するための歴史だからこそ、インディアンやアボリジニは除外され、植民地での暴力は過小評価される。

さらに、高等教育がエリート層以外にも開放されると、労働者や女性・移民・マイノリティを迎え入れ、それらの社会史や文化史も叙述対象として拡大していく。それぞれの立場にあった歴史を語り始める。その結果が、現代の大きな不協和音の声だというのだ。

「エリートのための歴史学」の残滓は、よく見かける。「歴史学はエリートのため」という歴史が、「歴史を知っていればエリートのふりができる」というマウンティングへの訴求力につながる。Wikipediaの雑学を並べた「教養としての世界史」のような書籍や雑誌がまかり通るのは、その証左なのかもしれぬ。

それぞれの物語があるだけ?

では、自国に都合の良い教科書があるように、自説に都合の良い出来事や解釈があるだけなのだろうか。

著者は、慎重に説明する。「事実は1つ、解釈は無数」や、「それぞれの物語があるだけ」といった、よくある逃げに徹しない。互いに同意し合えない「事実」を巡って意見が対立するとき、事実と解釈を切り離すことで、落としどころを探ることもできる

だが、著者は、事実と解釈は表裏一体であり、どの事実を眺め、どの事実を強調するかによって解釈は変わるという。さらに、解釈という語りに一貫性を持たせるために事実を選択する必要も出てくる。

このとき、バイアスの罠が出てくる。

著者リン・ハントは白人で、アメリカで教育を受け、ヨーロッパ文化史とジェンダー論の専門家だ。過去の出来事について振り返るとき、こうした立場や視点からフリーになることは難しい。著者自身が「完全に客観的な解釈はできない」と述べている。たとえ歴史の専門家が下したとしても、その解釈が、バイアスを持ち込んでいないとは言い切れないのだ。

暫定的真実

それでも歴史家は、重要な事実と照らし合わせて、首尾一貫した解釈を論理的に提供できるかに気を配る。それでしか、自分が信じる物語に真実性をもたらすことができないからだ。

たとえ、自説に都合のよい出来事を検索してきても、それらは単なる寄せ集めでしかなく、事実としての一貫性も論理的な説明能力もないのだから。

そして、ある解釈が事実に立脚し、論理的に首尾一貫し、完全なものに整えられているときでさえ、その解釈の真実性は暫定的なものにとどまるという。なぜなら、後世に、新たな事実が発見されることもあるし、完全性の指標が変化するかもしれないからだ。

この考え方は、自然科学における仮説の扱いと似ていて面白い。

完璧な理論というものは存在せず、あらゆる理論や法則は、究極的には仮説だという考え方だ。19世紀末までニュートン力学は揺るぎない理論であったが、アインシュタインの登場によってその場を譲り、相対性理論における特殊な場合となっている。

それまでの理論よりも正確で、かつ論理的に過去の現象も首尾一貫して説明できるのであれば、その理論がとってかわる。一つの現象に一つの説明で満足するのではなく、あくまで仮説の一つに過ぎないと意識することで、思い込みや固定観念に囚われることを回避する。

本書では、実績のある歴史解釈を「暫定的真実」と呼んでいるが、これは自然科学における仮説といって良いのかもしれぬ。

固定化しないのが歴史

では、歴史について起きうる論争は、良いものなのだろうか。

歴史の民主化に伴い、日本や欧米で、歴史教科書について論争が繰り返されている。これは、かつての確固とした国民のアイデンティティが定まらない、不毛な弱さなのではないか?

この疑問に著者は、むしろ健全性の証だと答える。アイデンティティが最終的なものとして固定化することは決してないという。さらにこう加える。

歴史がそのことを証明している。歴史に関する論争は、政治体制が安定して、国民の過去を再考して再定式化することが可能な時に発生する。歴史的真実をめぐる議論を遮断することは、専制主義と手を携えて進んでいくことになる。

歴史のみならず、現代を広く見てみると、自国の歴史について議論が可能な国の方が、専制主義から遠いように見える。あるいは、歴史解釈や事実についてオープンな批判や議論ができない国の方が、より専制的だとも言える。

自分の主張に歴史的事実を添えたり、誰かの言説に過去の事例を参照したりするとき、わたしは、知らず知らず歴史家の仕事の恩恵にあずかっている。そして、歴史を学び、自分の解釈と照らし合わせ、批判的に検討することは、民主主義の実践そのものなのだろう。

※1

Karl Vick, “Iran’s President Calls Holocaust ‘Myth’ in Latest Assault on Jews”(Washington Post, December 14, 2005) [URL]

※2

Emma Green, “The World if Full of Holocaust Deniers”(The Atlantic, May 14, 2014) [URL]

 

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おっぱいに(科学的に)興味がある人必読 『哺乳類誕生』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年2月2日


おっぱいとは何か?

この問いに対し、人文科学からたどったのが『乳房論』だ。絵画、文学、宗教、政治、ファッション、医療、ポルノの斬り口から、[乳房をめぐる欲望の歴史]を描き出している。

いっぽう、自然科学からたどったのが本書『哺乳類誕生』だ。遺伝学、分子生物学、獣医学、生物工学、古生物学の斬り口から、乳房に至る進化の歴史を描き出している。

おっぱいで子どもを育てる哺乳類は、どのようにおっぱいを獲得したのか。乳はどのように発達し、どういったメカニズムで出て、生命維持にどのような役割があるのかなど、おっぱいの本質を学ぶことができる。

ワクワクしながらページを開く。第一章は「生命誕生」。

そこからか!

おっぱいまでの進化

遺伝子と有性生殖の仕組みを語り、アミノ酸から原生動物、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類に至るまでの進化を丹念に振り返る。これが半分以上を占めており、なかなかおっぱいにたどり着けないのだが、面白いトピックが満載されている。

話題があちこち飛ぶため、散らかっているように見える。だが、そこに共通するものは、「いかに生き残るか」というテーマだ。「目の進化」や「耳の進化」といった器官ごとに焦点を当て、捕食者やライバルを出し抜く戦略や、そもそも敵がいない場所で生き延びるための工夫を見て取ることができる。進化とは、どのように生き残るかの試行錯誤の歴史なのだ。

さらに、鳥類から始まったとされる「子育て」に焦点を当て、卵生のメリット・デメリットと、それを克服する胎生のメカニズムを説明する。子孫を残すうえで、最も弱い存在が卵だ。動くこともできず、餓死や捕食の危険が非常に高い。多くの卵を残したり、親が卵を守ったり、胎内で大きくすることで、子孫を残すために有利になろうとする。進化とは、どのように子を生み、育てるかの試行錯誤の歴史なのだ。

全ては第三部の「進化の究極──乳腺と泌乳」への伏線になっている。乳腺とは、乳を分泌する腺で、泌乳とは、乳が分泌されることなのだが、著者曰く、おっぱいこそが進化の究極になる。

おっぱいの本質

いちばん驚いたのが、おっぱいの本質だ。

ほとんど味しないし、うっすら生臭いので、血液みたいなものなのだろうと思っていたが、わたしが浅薄だったことを思い知らされた。もちろん、血漿に含まれる成分と重なるところがあるが、おっぱいの本質は、脂肪を与える仕組みから分かる。

子どもを大きくするためには、大量の栄養―――特に脂肪を効率的に与える必要がある。だが、脂肪は、ほとんど水に溶けない。おっぱいは液体だから、脂肪を渡そうとしてもそのままでは難しい。どうするか? 

脂肪は乳腺細胞がつくり、細胞内の脂肪滴という形で存在する。これを乳に移行するときは、細胞膜を通らなければならないのだが、通過する場所がない。そのため、細胞膜を内側から押し上げ、細胞膜に包まれた状態(脂肪球)となって乳に移る。細胞膜そのものは水に混ざりやすい性質を持っているため、脂肪滴も親水性物質として振舞えるというのだ。

著者は淡々と説明しているが、これ、端的に言うと、何らかのパイプを通じて養分を与えるのではなく、自分の身(細胞)を削って脂肪を包んで乳にしていることなる。まさに身を削って乳を与えているといえる。おっぱいは、血というより肉の一部なのだ(面白半分に飲んでた自分を殴りたいorz)。

さらに、このメカニズムにより、水より油に溶けやすい(脂溶性)物質を効率的に届けることができる。ビタミンA、D、E、Kは脂溶性ビタミンと呼ばれており、その運び手として脂肪滴が用いられる。特に、カルシウムの吸収を助けるビタミンDは欠かせないという。

効率よく糖分を届けるメカニズム

また、脳や神経の発達に大量のブドウ糖を必要とするのだが、その渡し方がすごい。乳は、ブドウ糖ではなく、乳糖で渡す。これにもちゃんと理由がある。

つまりこうだ、ヒトの血中ブドウ糖は0.07~0.14%で維持されており、これを大幅に超えてコントロールできなくなると、全身に異常が現れる(糖尿病だ)。ブドウ糖は必要だが、正常範囲を超えたら毒になるのだ。

だが、効率的に栄養を渡すため、乳の糖分を高くしたいニーズがある。一方、ブドウ糖を乳で渡すのであれば、その濃度は体内の正常範囲に収めなければならぬ。このジレンマを解消するのが乳糖だ。乳糖は、体内では利用されず、高濃度にしても支障ないという(人の乳に含まれる乳糖は7%)。これにより、高い糖度のおっぱいを、母体内の糖度に影響を与えずに渡すことができる。

これほど高度なメカニズムを持つおっぱいも、実は使い捨てなのだ。子育てが終われば乳腺は役目を終え、乳を作ってきた細胞の全ては破棄される。再利用するのは太い乳管のみで、次に妊娠すると一から構築しはじめる。これにより、細胞の老化を心配することなく、どの新生児にも最高の状態で乳を与えることができる。おっぱいは偉大なり。

初乳の重要性

冒頭で紹介した『乳房論』に出てくるのだが、いわゆる「母乳神話」説がある。

「子どもを母乳で育てなければならない」という主張で、アンリ・ルソーが流布したと言われている。だが、「母乳でなければならない」科学的根拠は無く、他の乳でも代用できるという説もある。「母乳vs.ミルク」論争は続いており、母乳の出にくい人からのお悩み相談が今でもある。

わたし自身、都合により使い分ければよいと思っていたが、本書を読んだ後は、「少なくとも初乳(最初のお乳)だけは必要かも」と考えを変えた。

というのも、初乳に含まれる免疫グロブリンの説明を読んだからだ。かいつまむと、こんな感じ……

……初乳に含まれる免疫グロブリンはG、A、Mの3種類ある。GとAは、細菌類の攻撃に対し、防衛機能を担う重要なグロブリンになる。胎盤を通じてグロブリンは受け取るが、それはGのみ。そのため、生まれたばかりで免疫機能が不十分な子どもには、できるだけ早く初乳を与えることが重要になる……

で、この後、牛の初乳の話が続くのだが、激烈といっても良いほどの違いが説明されている。初乳の必要性には、科学的根拠はあるようだ。

他にも、ヒトのおっぱいが2つある理由(乳頭と産子数との関係性)、牛乳を飲むとお腹を壊しやすい原因(ラクターゼ遺伝子)など、おっぱいを知れば知るほど、驚いて感嘆する。この興奮、『眼の誕生』に近い。イチから眼を実装しようとすると、あまりに高度に完成された機構に、「神が与えし器官」と言いたくなる。それと同じ、いやそれ以上に精密な器官がおっぱいだといっていい。

おっぱいは、子どもを育てるための試行錯誤を経てきた究極の姿なのだ。

本書は、おっぱいの碩学・骨しゃぶりさんのお薦めで知ったのだが、おっぱいの素晴らしさにうちのめされた(骨しゃぶりさん、ありがとうございます!)。

ちなみに、骨しゃぶりさんのおっぱい関連書籍の紹介は、以下の通り。次は『乳房の科学』読もうかな……

[おっぱいの本16冊]

[おっぱいの本17冊目『乳房の科学』は実用的かつ濃厚な読み応え]

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致死性ウイルス感染症が日常を浸食するプロセスを描いたSF

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年2月5日


もし、致死性ウイルス感染症の封じ込めに失敗し、パンデミックになるとしたら、それはどのようなプロセスをたどり、わたしたちの日常生活に、どう見えるのか?

テレビやネットの情報は、日常の観点が少ない。

せいぜい、手洗いうがいの励行を促されるぐらい。緊迫した現場や、人種差別的な言動を目にして、不安だけは募るのに、この事態が進行していくと、わたしの日常をどうなっていくのか、想像するのが難しい。

では、最悪の場合、わたしたちの日常は、どうなっていくのか?

最悪が浸食する日常『復活の日』(小松左京)

小松左京『復活の日』が、参考になる。

生物兵器として開発されたMM-88ウィルスを搭載した小型機が、冬のアルプス山中に墜落する。やがて春を迎え、ウィルスは爆発的な勢いで世界各地を襲い始める。未知の致死性ウイルスに、人類はなすすべもなく倒れてゆく―――というお話だ。

小松左京は、日常が浸食されてゆくプロセスを描くのが非常に上手い。膨大なデータを元に、生々しく再現してみせる。

MM-88ウィルスの第一波は、かぜのような症状で、罹る人も少なく、じきに治まってしまう。だが、日を置かずに心臓発作で突然死する。人々は、映画俳優が事故死したニュースに触れたり、身近な人が突然死することに驚き、「ポックリ病」と名づける。

次は、循環器や呼吸器系にダメージを与える。感染後数日で高熱、咳、くしゃみ、関節痛の症状が出て、インフルエンザだと診断される。人々は、「チベットかぜ」と呼び、ワクチンを打ってもらうのだが、効かない。

「かぜにより」大相撲春場所が欠場となり、国会を開催する人数に満たなくなる。プロ野球の人数がそろわず、ゲームが成り立たなくなるニュースが相次ぐ。この頃に人々は気づく、電車が空いていることに(”国電”という表現に時代を感じる)。通勤ラッシュがなくなり、平日朝から山手線に座れるようになる。

冬が去り、春になれば、着ぶくれした人がいなくなり、電車は空くようになる。だが、この電車は空き過ぎている。時折、激しくせき込む人がいて、マスクをした人々は互いに身をすくめる。

不安に駆られて病院に行くが、どこも満杯だ。手当たり次第に電話をかけてもどこも話し中だ。とんでもなく遠い病院につながるが、出てきた声はつっけんどんに、「うちはやってません、先生が今朝亡くなりましたので。ええ、ポックリ病で」と答え、ガチャンと切られる……

もちろん、これは昔のSFだ。ウイルスが人から人へ感染していくうちに、世代を経て毒性が何十倍も激烈化したり、ウイルスを特定しようとすると別の様相に変化してしまうなど、現実的ではない側面もある。

しかし、そこには壊れてゆく日常が、きちんと描かれている。わたしたちが「普通」だと思える世界が、少しずつ蝕まれてゆき、異常に変化する。新聞やテレビで見る「あっちがわの異常」が、「いま・ここ」と地続きなことを思い知らされる。

閾値を超えるときの光景『天冥の標(救世群編)』(小川一水)

ある閾値を超えると、病院で収容できなくなった人々が溢れ、感染者・感染疑いに限らず、必要な処置を受けることができなくなる。そうなるために政府は手を打たなければならない。

中国では、わずか10日の突貫工事で巨大病院を建設したことがニュースになっている。

だが、臨時医療施設でも対応しきれないほどの人が発症した場合、どうなるか?

『天冥の標』の第2巻、「救世群編」が参考になる。

南海の孤島から始まった謎の疫病が文明を覆っていく過程を、ある日本人医師の視点から克明に描いた傑作だ。感染すると、肌が赤く爛れ、目の周りに黒斑が出るようになる。致死率は非常に高く、その特徴的な黒斑から、冥王斑と呼ばれるようになる。

伝染性が高く、患者の増加スピードと、隔離施設が追い付かないようになる。たとえ対症的であっても、何らかの処置は求められるし、医療従事者の目の届く所で一か所に集める必要がある。

反面、感染している人と、感染疑いがある人が数多く混在し、病院のような1つの場所で判別しようとすると、ウイルスを広めてしまう危険性がある。さらに、建設に従事する人が感染しはじめており、病院を建てているヒマはない。

ではどうするか? 政府は合理的な手段を取る。

感染者・感染疑いが多く集まっているのは、都市部だ。そうした人々を選別できる広い場所を確保し、その場所全体を検疫エリアとする。検疫エリアには治療用のテントを設営し、感染した人のレベルに応じて対症療法を行う。

その場所が、新宿御苑だ。大勢の老若男女が初詣の朝のように詰めかけているが、雰囲気はまったく異なる。問診、保険証、鼻腔粘膜採取と診断され、陽性と出た人はバスで国立競技場に運ばれる。そこで感染からの経過によってエリアが分けられ、感染経路や家族の有無が問診される。

感染初期のテントは騒がしい。絶望のあまり、逃亡者や自殺者が出るが、男性看護師と警官が何百人と待機しており、鎮静させる。感染より7日経過したテントでは……と続く。大勢の人を選別し、感染者に迅速な措置を施すためには、広くて分離できる場所―――スタジアム―――が有効だ(表紙参照)。

最悪シミュレーターとしてのSF

もちろん、こんな日常はありえない。荒唐無稽のお話だ。MM-88や冥王斑は、生化学的にはありえない振る舞いをするウイルスだろう。

では、実際に起きた歴史を振り返ると、どうだろう。1918年から翌年にかけて大流行したインフルエンザ「スペインかぜ」があった。だが、この出来事を現代のわたしの日常に当てはめるのは難しい。

あるいは、2003年に中国広東省からSARS(重症急性呼吸器症候群)が流行したが、原因の新型コロナウイルスは、わたしの生活圏にまで到達しなかった。どちらもあったことだが、日常がどう変わるか未知数だ。

だが、ありえない災厄が起きる時、日常がどのように浸食され、どんな異様な光景を見ることになるかは、SF作品からよく見える。言い換えるなら、いま目に映る光景がどれほど壊れているかを知りたいとき、そのバロメーターになるのが小説だ(冥王斑の物語は、人類がいかに差別的になれるかの、最悪の見本になる)。

科学は、そのウイルスがどんな振る舞いをするか、ある程度述べることができる。だが、それが社会や日常に、どのようなインパクトを与えるかは、政治経済や社会心理など、様々な要素が影響する。最悪シミュレーターとして、こうした架空の小説が助けになる。

ただし、事実は、しばしば小説を超えてしまうのだが。

Pandemi

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宇宙の果てから素粒子の奥への旅『ズームイン・ユニバース』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年2月9日


極大の世界で「果てしない宇宙」というが、観測可能な宇宙には果てがある。それは、ここから1027m先になる。これより向こうは、観測できないため、あるとかないとか分からない。ゼロを並べるとこうだ。

1,000,000,000,000,000,000,000,000,000m

いっぽう、極小の世界だと、人類の想像の限界のサイズになる。それは、10-35m)の「場」に満ちた世界になる。これより奥は、理論で説明できる範囲外となる。ゼロを並べるとこうだ。

100,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000 分の1m

「いま・ここ」から究極にまで遠ざかった場所から、限りなく近づいた世界まで、極大~極小を一冊にまとめたのが本書だ。ページを開くと、宇宙の果てから出発し、1/10ずつスケールダウンしながら、近づいてゆく。

極大から極小への旅

最初は、すごいスピードだ。138億歳の宇宙―――膨張する時空構造から、超銀河団、銀河団を横目にぐんぐん近づいてゆき、がらんとした星間空間にある暗黒物質、ガス、チリを通り過ぎ、重力の井戸に捕まって降りて行く先は太陽系だ。その一つの岩石惑星・地球に向かい、とある大陸の、とある生物の背中に降り立つ。

そこからスピードを落としてゆき、細胞表面に付着している細菌に近づき、細菌の奥へ進んでゆき、その単細胞のDNAらせんをくぐり、組み込まれている炭素原子を通り過ぎ、その原子内の無の空間を延々と進み、ついに陽子の最深部にたどりつく。

旅路の途中で出会うものにまつわるトピックが面白い。宇宙の誕生について、暗黒物質について、宇宙と原子の深い関係について、光の本質について、系外惑星について、潮汐現象について、生物の主成分が炭素である理由、「場」とは何かについて学ぶことができる。

それぞれのビジュアルや解説は、最新の科学で裏付けされており、宇宙物理学から天文学、地球科学、分子生物学、量子論などの領域を「スケール」で縦断していくのが楽しい。

この、スケールを変えながら宇宙を旅するというアイデアは、たとえば『パワーズ・オブ・テン』(チャールズ&レイ・イームズ,1977)が有名だ。美しい写真とイラストが豊富だが、いかんせんデータが古くなっている。『ズームイン・ユニバース』は、最新情報をアップデートし、見せ方を工夫したものになる。

ぐんぐん進む旅路に身を任せてページをめくるのもいいが、興味を引いた記事を熟読した後、自分で調べ始めるのもいい。

1013→109「惑星の多彩な顔」

わたしの眼を惹いたのは、1013mあたりの、系外惑星(太陽系以外の惑星)のトピックだ。

近年に発見された惑星を推計した膨大なデータがビジュアライズされている。これを見ると、たいていの惑星系では、太陽系に比べて主星にかなり近い位置に存在していることが分かる。言い換えるなら、内よりに星が集まったものが多く、太陽系の惑星は、典型的でないようだ。

さらに、地球に似た生命活動が可能な(ハビタブル)惑星も数多く見つかっていることが示されている。昔からよく言われる「奇跡の惑星」は、実は「ありふれた奇跡」に近いのかも……と思えてくる。

おそらく、「神に選ばれし人が住むこの星」を特殊だと思いたい宗教的バイアスがあると考える。キリスト教の宗教観が、大なり小なり宇宙論に影響を与えており、そこから逃れるには、こうしたエビデンスの積み重ねが必要なのかも。この辺りの経緯は、『系外惑星と太陽系』(井田茂、岩波新書)のレビューで考察している。

10-6→10-10「ミクロの扉の向こう側」

面白いというより、不思議な感覚を抱いたのが、タンパク質と炭素の関係だ。

ヒトの体には、60兆個の細胞があり、それぞれ80億個のタンパク質を持っているといわれている。そして、1つの細胞のミクロコスモスを拡大してゆく。「巨大分子の部屋」と称する解説では、タンパク質を「巨大構造物」として扱っている。そして、リボゾームがタンパク質を合成する過程を、オートメーション化された無人工場ラインで製造されていくかのように説明する。

物質がいかに生物となっていくかの精妙なプロセスや品質管理は、『タンパク質の一生』(永田和宏、岩波新書)で知った。だが、この旅ではさらにその奥、なぜタンパク質(というか生物の基本要素)が炭素で構成されているかまで進んでゆく。

本書によると、炭素原子は、あらゆる種類の分子を作るのに都合よくできているという。量子の言葉で言うなら、炭素原子の周りのちょうどいい場所で価電子の存在確率が高くなることで、他の原子と結合できる(すなわち、化学結合が作られる)というのだ。

この「都合のいい」「ちょうどいい場所」がなぜそうなっているかは、説明されていない。偶然の所産として扱われているが、そこからは物理学(と、ひょっとすると哲学)の領域なのかもしれぬ。

10-16→10-18……10-35「「場」が満ちた世界」

学校で習った分子や原子は、まだイメージが湧く。問題はさらにその先、原子核の奥の陽子や中性子と、さらに複合粒子の向こう側へ行こうとすると、途端に複雑になる。

これは、たいへん面白い。なぜなら、物質をどんどん分けてゆき、その源となるシンプルな本質を確かめようとする科学が、(現時点では)矛盾した状況に行き当たっているからだ。

たとえば、「鉄とは何か」という問いに、鉄なる物体を分割してゆき、もうそれ以上分割できない(atom)極微の物質として、原子を定義づけた。それが、調べてみると原子核には陽子と中性子があり、さらにそれらは複数のクォークで構成されている。

そこからは素粒子の世界で、分割できないと定義したものなのに、さらに「素」が付けられる。クォークは6通りの「フレーバー」を持ち、基本的な力(電磁気力、重力、強い力、弱い力)の作用を受けるという。さらに、6種類のレプトンやフェルミ粒子、ボース粒子のモデルが紹介されている。物質の源を探す旅なのに、恐ろしく複雑な構造になっている。

実験や観測で得られる、複雑で確率的な結果を説明しようと、ひもの振動や時空の泡のモデルが研究されている。スケールが違うだけで、2,000年以上前に議論された atom と同じやり方だ。言い換えれば、人は2,000年で10-35mまで届いたとも言える。

1027mより先は、そもそも観測する手段を持っていないが、10-35mより奥は、どうなるか分からない。人にとって、宇宙には果てがあるけれど、存在の究極がどうなるかは、これからなのかも。

極大マクロから極小ミクロへ旅する一冊。

Zoomin

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岩を呼吸し、百万年眠る生命――常識を揺さぶる知的興奮と一抹の不安『地球内生命』

私は、自分が「常識」だと思っていることを、一般化する傾向がある。

  1. 太陽は全ての生命の源
  2. 呼吸とは、酸素を吸うこと
  3. 生きるとは増殖し活動すること
  4. 進化の主役は動物や植物

1~4がゴッソリ書き換えられたのが『地球内生命』だ。

常識や価値観が根本的に変わることをパラダイムシフトというが、まさにパラダイムシフトを体感できる。

著者はカレン・G・ロイド。南カリフォルニア大学で地球科学、海洋・環境生物学を専門とする微生物ハンターだ。

彼女は、熱水噴出孔や噴火口、北極圏や深海メタン湧出泉でサンプルを追い求める。熱さ・寒さ・臭気・圧力で死にそうな目に遭いながらも、ユーモアとテクノロジーと根性で奮闘する様が、本書の面白さの半分を占めている。

もう半分の面白さは、彼女が出会ってきた微生物になる。

  • メキシコ湾の海底でメタン化学反応で生きる古細菌ANME-1(nature)
  • 1億年前から分裂することなくひたすら「存在」するだけの微生物(nature)
  • 南アフリカ地下2.8kmで岩石を「呼吸」する真正細菌(Wikipedia)
  • 北極圏の永久凍土の地下深くの極限状況で生きる微生物(Frontiers)

太陽を必要とせず、金属や岩を呼吸し、分裂することも増殖することもしない生命が、人類では届かない深度に大量にいる(海底下だけでも2.9×10^29という推計値)。

本書が揺さぶってくるのは、空間的な限界だけでなく、時間の限界もある。

「細菌は急速に増殖するもの」というイメージは、研究の仕方に原因があるという指摘は鋭い。

結果を出すため、科学者は増殖が早い微生物(大腸菌とか)を選びがちだ。早く増える培養株を使えば一晩で結果が出る。結果が出るのは早い方がいい。なぜなら、間違っていたら早く軌道修正できるし、正しければ次の予算申請に間に合うから。

そのため、結果が出るのに時間がかかる方式は避けられるようになる。1サイクルが数か月、数年かかるような実験は予算が降りにくいだろう。一人の科学者が一生かけても結果が出ないかもしれない研究は、そもそも着手すらされないだろう。

「人」というボトルネックが、「生命とは(人のスケールで)殖えるもの」という固定観念を生み出しているのかもしれない。

「生命」は、人の一生や実験室の培養時間のタイムスケールで測定されてきた。だが、地球内生命は、何千年、何万年、何百万年という地質学的時間の中で、ほとんど動かず、時を待っているのかもしれない。

日光が必要で、酸素を吸って目まぐるしく増殖している私たち真核生物なんて、系統図の端っこ、古細菌の派生系かもしれぬ。文字通り、生物の教科書を書き換える勢いなり。

系外惑星から見た生命の可能性

人間を中心に考え、人間のスケールで作られた常識が壊されると、同じ世界が全く違う姿に見える。この興奮は、『系外惑星と太陽系』で味わったやつだ。

神に選ばれし人間がいる太陽系をモデルとして宇宙を観測すると、似たような星は少ない。だから、「奇跡の星」なんて呼ばれていた。

だがそれは、太陽系というただ一つのモデルでもって、恒星や惑星を考えようとした。サンプルが1つしかなかったため、惑星形成論とは、太陽系の姿をどのように合理的に説明できるかという議論に等しかったという。太陽系の姿に無意識のうちに囚われ、その「常識」の目で探そうとしていたため、文字通り視野が狭くなっていたのだ。

しかし、いったん太陽系モデルから離れて見るならば、その視野は驚くほど広がる。著者は、観測データからも理論モデルからも、ハビタブル・ゾーンに地球サイズに近い惑星が存在する確率は、10%以上はあるという。この銀河系に惑星は充満していると言える。

しかも、惑星だけではなく衛星も含めると、その数はもっと大きくなる。ハビタブル・ムーンだ。

例えば、木星の衛星のエウロパや、土星の衛星のエンケラドスは、表面は凍っているものの、氷の下には液体の海があることはほぼ確実だ。そこでの生命の可能性が議論されている。潜ってみたら、微生物が「うじゃうじゃ」いましたと報告されても、やっぱりそうなのかもと思うだろう。

最近だと、探査機「はやぶさ2」が持ち帰った小惑星リュウグウの試料に、巨大有機物が見つかったというニュースがあった[URL]。それまで、宇宙空間における有機物は、比較的単純な構造だというイメージだったが、これが覆され、生命誕生の鍵は宇宙空間にある可能性が大きくなってきたという。地球よりも宇宙の方が広大だから、可能性を考えるなら宇宙にベットするべきだろう。

生物圏の侵犯リスク

パラダイムが変わる知的快感とともに、不安も出てくる。

『地球内生命』はメリットばかりを前面に押し出してくる。

例えば、地殻・海底の微生物は、生命最大の謎を解く手がかりになるという。生命の定義を広げ、地球<外>生命探索の視野を広げ、産業技術や温暖化問題への応用を示唆する。終章では1000年後の人類の未来をバラ色に描いている。

これは全くその通りだと思う。

だが、SFに焼かれた脳からすると、色々な作品が浮かんでくる。

有名なやつだとこんなのが浮かぶが、それこそ山のようにある。人類の生活圏から離れたところから持ち帰るのは、良いものばかりとは限らない。

  • 永久凍土から掘り出した物体Xの活きが良すぎて南極基地を乗っ取られちゃった!
  • 火星から持ち帰ったウィルス由来の生物兵器が漏れちゃって人類滅亡の大ピンチ!

昔から、長い航海を経た船は、入港してもすぐに上陸できず、乗組員は船上で一定期間、健康状態を観察された(伝染病予防のため)。宇宙開発でも同じ発想で、アポロ計画では、月から帰還した乗組員と月の石が隔離された(地球外からの未知の汚染防止のため)。

であるならば、地球の地下深くから持ち帰るものについても、同じ想像力が必要なのではないか。

地球内生命は「地球のもの」だから安全だ、と簡単には言えない。何百万年、何千万年ものあいだ、地表の生物圏から隔離され、別のエネルギー、別の時間、別の進化圧のもとで生きてきた生命である。地球<外>生命ではないにしても、地表生命にとっては十分に“異界”の生命といえる。

もちろん、犬や人に擬態したり、カゼそっくりの症状で広がるようなことはないだろう。だが、何万年も眠っていた微生物を起こすのは、素手でない方がよいだろう。

『地球内生命』は、私の生命観を書き換えるとともに、どこかで見た不安を掻き立ててくれる、楽しくて不穏な一冊。

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戦争が子どもを怪物に変える『ペインティッド・バード』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年2月12日


戦争が子どもに襲いかかり、子どもが怪物に変わっていく話。人間が、いかに残酷になれるかを、嫌というほど教えてくれる。

あまりのグロさに「劇薬小説」として認定した『ペインテッド・バード』が映画になった。

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小説は、エグいのに目が離せない、手が離れない、強い吸引力をもつ。TIMES誌の「英語で書かれた小説ベスト100」に選ばれている。

読む地獄

戦争は大衆を襲う狂気だ。身寄りを失った10歳の男の子が向かう疎開先の人々は皆、本能に忠実だ。むきだしの情欲や嗜虐性が、目を逸らさせないように突きつけられる。目撃者は主人公なので、読むことは彼の苦痛を共有することになる。

体験と噂話と創作がないまぜになっており、露悪的な「グロテスク」さがカッコつきで迫る。日常から血みどろへ速やかにシフトする様子は、劇的というよりむしろ「劇薬的」。スプーンでくりぬかれた目玉が転がっていく場面は、忘れられないトラウマとなるだろう。白痴の女の膣口に、力いっぱい蹴りこまれた瓶が割れるくぐもった音は、ハッキリ耳に残るだろう。

読んだものが信じられない目を疑う描写に、口の中が酸っぱくなる。耳を塞ぎたくなる。

ペインティッド・バード=異端の鳥

ペインティッド・バード(彩色された鳥)は、最初は遊びとして、次はメタファーとしてくり返される。生け捕りにした鳥を赤や緑色に塗って、群れへ返す。鮮やかに彩色された鳥は、仲間の庇護を求めていくが、群れの鳥たちは「異端の鳥」として攻撃する。

その鳥は、なぜ仲間が襲ってくるか分からないまま引き裂かれ、墜落する。主人公は浅黒い肌、漆黒の瞳を持つ。金髪碧眼のドイツ兵がうようよいる戦地では、「反」ペインティッド・バードになる。

暴力に育てられた子どもは暴力を拠りどころとして生きる。自分が壊れないために、自分を欺く。同時代の戦時下をしたたかに生き抜く子どもの話だと、アゴタ・クリストフ『悪童日記』を思い出す。これは、狂った現実を生き抜くために、受け手である自身を捻じ曲げる話。辛い過去や悲惨な出来事は、それを引き受けるキャラクターを生み出し、そいつに担わせる。

この、過去を偽物にしないために、自分を嘘化するやり口は、『悪童日記』だとよく見通せる。続刊の『ふたりの証拠』『第三の嘘』と追うごとに、過去を否定する欺瞞が詳らかになるからね。『ペインティッド・バード』では、そんなあからさまな相対化はない。

だが、それぞれのエピソードごとに別々の「主人公」がいたのではないか、と考えたくなる。

なぜなら、あまりにも悲惨すぎるのだ。

苛烈な虐待を受け続けると、普通は死ぬ。氷点下の河に突き落とされ、浮かび上がるところを押し戻され呼吸できない状態が続くと、溺れ死ぬ。真冬の森に放置されると、飢え死ぬか凍え死ぬ。だが、彼は生き延びる。次の章では誰かに助けられるか、まるでそんなエピソードは無かったかのような顔で登場する。これは、様々な死に方をしていった子どもたちの顔を集めて、この「彼」ができあがったんじゃないかと。

「彼」は著者に通じる。あとがきで幾度も「これは小説だ」と念を押したって、どうしても出自から推察してしまう。この本を出したせいで、彼は祖国から拒絶される。「ナチスのせいにしていた虐殺が、実は地元農民の仕業だった」ことを全世界に暴いたからだ。冷戦のあおりを受けて、親ソ的プロパガンダと扱われたり、反東欧キャンペーンの急先鋒と見なされたり、あちこちからバッシングを受け、命まで狙われるようになる。

全米図書賞や合衆国ペンクラブ会長など、きらびやかな経歴をまとっている反面、物理的・精神的にも攻撃されるさまは、『ペインティッド・バード』そのもの。プロフィールの最後で著者の"墜落"を知って、うなだれる。

このすさまじい小説が、映画化される(公式サイト)。邦題は『異端の鳥』。観た人によると、どうやら原作に忠実にしているらしい。アタマおかしいんじゃないかと思うが、作った人をは極めて正気に狂気を徹底的に撮っている。

予告編でキツさは伝わるかもしれぬ。これ、心の底から、モノクロ作品で良かったと思う。カラーだったなら、わたしの琴線が焼き切れるだろう。

第76回ベネチア国際映画祭では、あまりの残酷描写が賛否を呼び、途中退場者が続出する一方、スタンディングオベーションが10分間続き、ユニセフ賞を受賞したという。

日本での公開は、2020年夏だ。

 

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すべての歴史は現代史である『日本近現代史講義』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年2月16日


これは面白かった! 第一線の歴史学者による14講義。

「歴史の本」というと、教養マウンティングのWikipediaコピペか、イデオロギーまみれのチェリーピッキングが多いように見える。そんな中、歴史学者による実証的な手ほどきはありがたい。

過去を振り返るとき、わたしがよくやる誤りは、いま分かっている情報で判定しようとする姿勢だ。

たとえば、1941年のアメリカに対し、開戦を踏み切ったことについて。原油の依存先であり、圧倒的な国力差であるにもかかわらず、なぜ戦いを挑んだのか?

認知バイアスから見た対米開戦の理由

敗戦という事実から、それを「愚かな行為」と判断するのはたやすい。また「軍部の独走」など分かりやすい悪者を吊るし上げて思考停止するのもたやすい。しかし、そうした予断で向かってしまうと、貴重な歴史の証言から得られるものは少ないだろう。

そんなわたしの予断を、本書の第8章「南進と対米開戦」(森山優)が啓いてくれた。

日中戦争の泥沼化に伴い、態度を硬化する英米との対立解消に向けて、当時の日本には3つの道があったという。

  1. 武力で蘭印の資源地帯を占領する(南進)
  2. 外交交渉で英米の禁輸解除にこぎつける
  3. 何もせず事態の推移に任せる(臥薪嘗胆)

「1」は日本への資源輸送ルートにフィリピンとグアム(すなわち米領)にさらすリスクがあり、アメリカからの攻撃を受けるリスクが最大化する。「2」は中国からの撤兵問題で大幅譲歩が前提であり、国内の反発が必至になる。そして「3」の場合、石油が数年で枯渇して、そこで攻められれば抵抗もできない。

1945年を知っているわたしからすると、臥薪嘗胆の「3」がベターに見える。だが後知恵にすぎぬ。なぜ「3」でなかったのか?

それを選ぶと、「損を確定してしまう」ことになるからだ。臥薪嘗胆は、明るい展望がない。石油が枯渇していく状況で、「あの時だったら戦えたはず」と非難される可能性すらある。

一方、外交と戦争は、わずかでも希望を与えてくれる選択肢だったという(たとえ、甘い見通しと粉飾に満ちた数字で彩られていたとしても)。

「追い詰められると一発逆転に賭けたくなる」発想は、プロスペクト理論と呼ばれる。いわゆる損切りによりマイナスの継続を止めるより、大きなリスクを負ってでも、勝利を掴もうとする。さらに、この発想を後押しするエビデンスを過大に評価し、損切りを過小に見たがるバイアスが生じる。

確かに、当時の日本は「3」を選ばなかった。そして、それは誤りだった。だが、その理由を、私たちとは異質な思考様式を持つ人による愚かな選択と片づけるのは、もっと誤りだろう。

歴史認識の難しさと歴史認識「問題」の歴史化

歴史認識の難しさを垣間見る小論もある。

歴史は、すでに起こった過去のことだから「確定している」と考える人がいる。過去は変えられないから、教科書は一つしかない、という考え方だ。

だが、過去を振り返るとき、どこから眺め、何に焦点を当てるかによって、描かれる濃淡が変わる。歴史をどのように記述するかは、過去を振り返るそれぞれの時代の状況や立場が色濃く反映されるからだ。「すべての歴史は現代史である」という言葉が意味するものは、まさにそれだ。

この難しさは、序章「令和から見た日本近現代史」(山内昌之)によく見える。日中歴史共同研究における南京大虐殺の事例が紹介されている。

山内氏自身も参加した研究で、日本側の委員は、死者数について20万人を上限とし、4万人説や2万人説もあると諸学説を紹介する一方、中国側委員は一致して30万人以上だと断定して譲らなかったという。

山内氏は、大躍進や文化大革命、天安門事件での膨大な死者数が公式発表されていないことに触れ、こう述べる。

歴史による同胞の悲運や実数さえ公表していない国が、南京事件など特定の歴史事象について数字を明快に示すのは、歴史を史実性ではなく政治性から見るからだ。

歴史家としてファクトに向き合おうとする恨み節が聞こえてくるが、こうした交渉も含めて「歴史」になるのだろう。

ある歴史認識が問題視されるとき、対象となる事象そのものだけでなく、なぜ問題視されるかも含め、把握したい。歴史認識「問題」について、日本が何をしてきたか、それがどう評価されたのかも含めて、歴史になってゆくのだから。歴史を政治性から見るとき/無視するとき、その行為自体がまた、歴史の審判に委ねられるよう、残しておきたい。

他にも日韓における歴史認識問題について、経済協力支援金の行方から見た論点や、韓国エリートが火消しに走らなくなった理由など、興味深い論考もある。

第一線の歴史家による、鋭い考察とバランス感覚に優れた講義録。

Nihonkingendai

 

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女性の声を奪う力と、それに抗う力『舌を抜かれる女たち』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年2月19日


表紙はピカソ、「ピロメラを犯すテレウス」だ。テレウスは、義理の妹のピロメラを人気のない場所へ連れ込み、レイプする。終わった後、ピロメラは、テレウスに告げる。

「もう恥じてなどいない、私はこのことを広言する。機会があれば、人前で誰にでも言うつもりです。天もそれを聞くでしょう、もし天に神がおいでなら神も私の言うことを聞かれるでしょう」

告発を恐れたテレウスは、ピロメラの舌を切り、置き去りにする。オウィディウスの『変身物語』の一幕だ[wikipedia:ピロメーラー]。このように、女を黙らせ、女の言葉を軽んじ、権力から遠ざけようとする動きは、古来からあったという。そのメカニズムを告発したのが、『舌を抜かれる女たち』になる。

著者はケンブリッジ大教授のメアリー・ビアード、元は講演録で、昨今の MeToo 運動を受けて大幅に加筆したもの。古代ギリシャ・ローマからの文芸や美術をひも解きながら、女性の声を奪い、発言力のある女性を貶める伝統を炙り出す。

その伝統は、現代社会にも地続きになっている。

女性の声の力を奪う

たとえば、次の文章は、どちらの性を非難しているか、明らかだという。

  • キーキーうるさい
  • めそめそ泣き言をいっている
  • ぐずぐず愚痴をこぼす

一般に女性は、男性を比べ、声域が高い。その高い声が感情的に聞こえるため、演説に向かないとされてきた。

しかし、そう考えさせるまさにその背景に、女性を権力から遠ざけようとする動きがあったという。著者は、古典文学を参照しながら、低い声の威厳を強調したり、甲高い声の臆病さを繰り返すことで、公の場での女性の発言を封じてきたというのだ。

最近読んだ『アレクサンドロスとオリュンピアス』にも、同様の発言があった。アレクサンドロス大王の母・オリュンピアスについてだ。

彼女と敵対していたアンティパトロスが死に際に、「女には決して王国を支配させてはならぬ」と述べたという。政敵を攻撃するプロパガンダ説もあるが、真偽はともかく、この言葉が現代にまで遺っている事実の背景に、権力の場から女性を排除しようとする思考が横たわっているのかもしれぬ。

女性の力を貶めるシンボル―――メデューサの首

女性の言葉を軽んずる歴史の中で、それでも力をつけてきた女性をどうやって貶めるか?

その文化的なシンボルとして、メデューサが紹介される。宝石のように輝く目を持ち、蛇の髪をした、見た者を石に変える伝説の女だ。ペルセウスによって首を切断されることになるが、これは、女がパワーを持った時の破壊的な危険性を男が制圧するという強力なシンボルだという。

本書では、ルネサンスの芸術家・ベンヴェヌート・チェッリーニによる彫像を紹介する。

ペルセウスは右手に剣を構え、左手でメドゥーサの首を掲げ、その遺体を踏みつけにしている。切断された首からは何やらが垂れており、英雄の勝利の瞬間を見るものもいれば、サディスティックなミソジニーと評する者もいる。

Perseus

From Wikimedia Commons, the free media repository:Perseus

次に、この生首のモチーフが利用されている例を紹介する。

女性の権力を貶めようとする意図のもと、アンゲラ・メルケル独首相や、イギリスの内務大臣テリーザ・メイが、メデューサの生首として描かれて、SNSで拡散する様子を紹介する(この2人はミケランジェロのメデューサのコピーとして描かれている)。

最もあからさまなものは、[ヒラリー・クリントンの例]だ。トランプがペルセウス、ヒラリーがメデューサとして、この彫像の通りに描かれている。

女性を沈黙させ、権力の場所から排除しようとする伝統は根深い。

女性の声を取り戻す

では、どうすればいいのか?

本書では、マーガレット・サッチャーが、声を低くするためボイストレーニングを受けていたエピソードを紹介する。甲高い声に威厳を加えようとしたのかもしれない。女性が男性の「ふり」をすれば手っ取り早いかもしれないが、それでは問題の本質は未解決のままだという。

サッチャーのボイストレーニングの前と後

また、「男と女は使っている言語が違う」や、「男は火星人、女は近金星人」という便利な方向に逃げることを戒める。結局、男と女は違うのだからと言ったところで、何も解決したことにならないのだから。

著者は、もっと深く、「権威のある話し方とはどういうものか」「それはどのように成り立つのか」まで掘り下げる。そうすることで、女性の声を不当に貶めている問題を表面化させることができるという。著者はさらに、こう加える。

権力とは何か、何のためのものか、その大小をどうやって測るべきか、そういうところから考えていかなければならない。別の言い方をすれば、女性が権力構造に完全には入り込めないのなら、女性ではなく、権力のほうを定義し直すべきなのです

ピロメラとテレウスの話には続きがある。

ピロメラは舌を切られ、話すことができなくなったが、機を織る才はあった。そのため、自分がされたことをタペストリーを織り込み、テレウスの悪事を告発する。女性の声を奪おうとする力は古来からあった。一方で女性は、口を封じられたままではないのだ。

Sitawo

 

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皮肉が分かる人・分からない人『アイロニーはなぜ伝わるのか?』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年3月1日


せっかくの休日。ゆっくりしたいのに、「ほら、お出かけ日和だよ!」と友人にピクニックに連れ出される。みるみるうちに曇ってきて、どしゃ降りになる。びしょ濡れでになりながら友人に、「ほんと、お出かけ日和だね!」と叫ぶ。

晴天を期待してピクニックに行ったのに、どしゃ降りの大雨という現実に見舞われる。この期待と現実の違いを際立たせるために、「お出かけ日和」なんて逆を言う。これがアイロニーだ。

アイロニーとは何か

この「期待」と「現実」を巧みに対比させ、あてこする構造から、アイロニーを解き明かしたのが『アイロニーはなぜ伝わるのか?』だ。

紹介される豊富な例を聞いていると、語られている言葉とは違う意味(意図)が飛び交っていることが分かる。「お出かけ日和」は分かりやすいが、小説やシナリオでは、かなり高度な「意図のやりとり」をしている。

これ、流行の機械学習では解析できないだろう。自然言語を形式的に解析して真偽や条件といった「意味」に置き換えるのではなく、その発話がどんな「意図」を含んでいるかを、会話の状況や話の流れから、構造的に汲み取るプロセスが必要だから。

これ、人間同士であっても難しい。アイロニーが洗練されるほど、その発話がどういう話の流れでなされているかが焦点になってくるから。気づかない人ならば、それがアイロニカルな文脈で語られているということすら分からないかもしれぬ。

反復によるアイロニー

たとえば、本書で紹介されているアントニーの演説だ。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』からの引用だ。

その前に、野暮を承知で、この演説がなされている状況を説明させてもらう。

<状況>ローマ市民に人気のあるジュリアス・シーザー。その人気に不満を覚えるブルータスが暗殺を企み、シーザーを殺してしまう。シーザーの友人であったアントニーは、追悼の弁を表したい申し出る。そして、「暗殺を非難しない」という条件で、演説は許可されるのだが……

ここに私は、ブルータス、その他の諸君の許しをえて――
と言うのも、ブルータスは公明正大な人物であり、
その他の諸君も公明正大の士であればこそだが――
こうしてシーザー追悼の辞をのべることになった。

シーザーは私にとって誠実公正な友人であった、
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そしてそのブルータスは公明正大な人物だ。

シーザーは多くの捕虜をローマに連れ帰った、
その身代金はことごとく国庫に収められた、
このようなシーザーに野心の影が見えたろうか?
貧しいものが飢えに泣くときシーザーも涙を流した、
野心とはもっと冷酷なものでできているはずだ、
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そしてそのブルータスは公明正大な人物だ。

諸君はみな、ルペルクスの祭日に目撃したろう、
私はシーザーに三たび王冠を献げた、それを
シーザーは三たび拒絶した。これが野心か?
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そして、もちろん、ブルータスは公明正大な人物だ。

もちろんアントニーは、暗殺を非難することなく、シーザーに追悼の辞を捧げている。シーザーが残した功績や、野心なんて無いことが具体的に挙げられる一方で、「ブルータスは公明正大な人物だ」という言葉だけが繰り返される。

空虚な言葉を繰り返すことで、期待される「公明正大な人物であるブルータス像」に疑義が生じ、現実はそうではないことに、ローマ市民に気づいてもらう。アントニーの意図は恐ろしいほど伝わり、ローマを揺るがす大逆転が始まるのだが、それはまた別のお話。

前段の<状況>がないと、なぜ「ブルータスは公明正大」とわざわざ付け足すのだろう? ほめ殺し? という疑問で終わってしまうかもしれぬ。アントニーの演説の「意味」を知るのは難しくはないが、彼が伝えたい「意図」を汲むには、発話が置かれている状況が必要なのだ。

アイロニーが伝わらないアイロニー

そして、こうした状況が共有されていない場合、アイロニーが伝わらないというメタ・アイロニカルな話になる。

本書には無いが、次の発言なんて、わたしにとって、大変アイロニカルに聞こえる。だが、状況が共有されていないと、全く伝わらない。

ファクトに目を向けよう。
極度の貧困に暮らす人は、確実に減少している。
飢えた人々は、少なくなっている。
世の中は、良くなっているのだ。

これも、野暮を承知で説明する。

極度の貧困に暮らす人―――たとえば、戦争や災害で故郷を失い、難民キャンプで暮らしていた、餓死寸前の人たちだ。飢えた人たちはどうなったか? 死んだのだ。飢え死ぬ人は死んだからこそ、飢える人は居なくなった。生存バイアスを脇に置き、選択されたファクトでもって声高に語られれば語られるほど、その意図しないアイロニーに項垂れる他ない。

もっと分かりやすい例は、本書に出てくる。1970年ロンドン救済基金のポスターの標語だ。皮肉が効きすぎて刺さるぐらい。

飢えた人々のことは無視しよう、
そうすれば、そのうちいなくなるから。

おそらく、これでも気づかない人は気づけないだろう。だが、この意図に気づいた人は、自分の裡に価値の逆転が生じていることに気づき、次にどんな行動に移すべきか、言われるもなく分かるだろう(それこそが、ポスターの目的なのだ)。

本書の結論で、アイロニーとは、「期待」と「現実」の極小の虚構世界における、一種の「ごっこ遊び」と語られる。この「ごっこ遊び」を通じて意図が伝わるとき、価値観が裏返るような感覚が生じる。

小さいクスッと笑えるものから、世界を反転させるものまで、アイロニーが伝わる瞬間を楽しむ一冊。

Irony

 

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検索する情報と、咀嚼する知識『人文学概論』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年3月8日


世の中には、情報を得る本と、知識を得る本があるが、これは後者だ。

情報と知識って、似たようなものに見えるが?

著者に言わせると、明確に区別する必要があるらしい。

情報は「判断を下したり起こしたりするために必要なもの」に過ぎないが、知識は「学問的な成果であって原理的に組織づけられた判断の体系」だという。情報は自分の外部にあるもので、体得され自己化されると知識になる、という構造だ。

本を読むことを「インプットする」と言う人がいるが、喩えるなら、インプットするのが情報で、インストールするのが知識になるとも言える。あるいは、検索するときのキーワードは情報なら、何をキーにするかは知識になる。知識がないと、そもそも何を検索すればよいかすら分からないから。

情報としての「無知の知」

具体例で考えてみる。

たとえば、ソクラテスの「無知の知」について。

検索すればヒットする。ギリシャの哲学者ソクラテスは、知恵があると評判の人との対話を通して、自分の無知を知っているという点で優れていると考えた……という話がいくつか出てくる。

も少し気の利く説明だと、論語の「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」が出てくる。無知の知とは、「無知のほうが優れている」という意味ではなく、無知を自覚していることで、知ろうとするからこそ優れている(不知の知)という視点だ。

「無知の知」を知識にする方法

「無知の知」で検索すれば出てくるものは情報になる。では、「無知の知」を咀嚼してインストールして知識にするためには、どうすればよいか?

ソクラテスを読めばいい。誰かのまとめ情報ではなく、ソクラテスに取り組むのだ。

すると、すぐに気づくだろう。ソクラテスは本なんて書いていない。重要なのは生きた対話なのに、書物は沈黙しか返さないとして、文字を嫌っていたのだ。ソクラテスの言葉は、プラトンが書き残したおかげで、向き合うことができる。

そして、プラトンの著書でソクラテスに触れると、すぐに気づくだろう。ソクラテスは史上最悪のウンコ豚野郎であることに。

プラトンの本は、基本的に対話だ。いわゆる「地の文」みたいなものはなく、ソクラテスがこういった、誰それがああいった、という掛け合いで続く。問答形式のターン制バトルのように話が進んでいく。

ソクラテスが糞なわけ

ソクラテスの基本的な戦略はこうだ。

「わたしは分かっていないので、教えて欲しい」と問うのだ。ソクラテスは、「あなたがAAだということは、何なのか?」と質問する。すると相手は、AAとはBBだ、と答える。さらに、BBとは何か? なぜBBと言えるのか? と問う。

これを続けていくと、ほころびが生じる。言い換えながら説明していくと、最初の意味とは似ても似つかぬものが出てくる。矛盾した語義をはらんだり、場合によって使い分ける言葉になったりする。ソクラテスはそこを衝くのだ。

相手にとっては嫌なものだ。なぜなら、自分自身が吐いた言葉によって刺されるのだから、反論しようのない。無知の立場から教えを乞うことで言葉を引き出し、その相手の言葉で切り刻むのが、ソクラテスの戦法なのだ。

しかも俎上に乗るのは「正義」とか「知恵」といったあいまいで多義的な言葉なのだ。ソクラテスは相手の言葉をよく覚えており、相手にしゃべりたいだけしゃべらせた後、かなり前の言葉に戻って切り崩し始める。

わたしは、ソクラテスのやり方が嫌いだ。青年を堕落させたとして裁判にかけられ、死刑を宣告されたというが、むべなるかな。

しかし、この「教えを乞う」やり方は使わせてもらっている。

議論をする際、原則として、質問をするほうが有利だ。「基本的な質問で恐縮ですが……」で切り出すと、たいてい相手は油断する。で、相手から引き出した言明のうち、キーワードを強調してオウム返しする。

「……とは何か」「なぜそう言えるのか」を複数重ねれば、話が接合しない所が出てくる。そこを衝くのだ。公の場で「相手をやりこめる」ただその一点に賭けるやり方で、めちゃくちゃ嫌われる。

ソクラテスが「使える」わけ

では、ソクラテスの無知の知は、人を不快にする邪悪なテクニックかというと、そうではない。使いどころによっては、素晴らしい方法にもなる。

それは、「わたしに教えてください」という教え方だ。

説明する。誰かに対してレクチャーしたとしよう。その人がどこまで理解できているかを、教えてもらうのだ。そのやり方は、「わたしが何も知らない人だとして、わたしに教えるように話して欲しい」とするのだ。

すると、その人は、無知なわたしに向かって、「……とは何か」「なぜそう言えるのか」と説明を始める。いくつかのキーワードは、最初にわたしが教えたものなるだろうが、そのうち、自分の表現で伝えるようになる。

相手の中にある知を、相手の言葉で引き出すのだ。ソクラテスはこうした考え方を持っており、そもそも知とは、各々の中に持っており、適切な問答を重ねることで引き出すことができるという(産婆術が生み出すものは知なのだ)。

うろ覚えだが、「教えることこそが最良の学び方だ、小学6年生でも分かるように説明できるようにしなさい」と物理学者のリチャード・ファインマンが言ったとか。

「無知の知」を知識にする

「無知の知」を検索するだけでは、こうした邪悪なテクニックや最良の学び方を知ることがない。これらは、プラトン『国家』や『テアイテトス』を紐解いて、ソクラテスの問答の意地悪さに付き合うことで身に付ける。

くりかえす。「無知の知」から検索できるものは情報だが、それを生み出したものと取っ組み合って身に付けたものは知識だ。「大人の教養」みたいな、まとめ情報のコピペ本を100冊読むよりも、知識を身に付けられる1冊に、直接向き合うほうが良い。『人文学概論』は、その素養を鍛え、入口を示してくれる。

本書は読書猿さんのつぶやきで手にした一冊。読書猿さん、ありがとうございます。

『人文学概論』目次

01 「人文学の終焉」からのスタート

「人文主義の終焉」――ペーター・スローターダイクの問題提起/人文主義と人文学/人文学と教養/人文学部と文学部/中世の大学と人文学/人文学の中心課題/「パンのための学問」と人文学

02 ギリシアにおける学知の誕生

ミュトスからロゴスヘ/ソクラテスにおける「哲学の人間学的転回」/プラトンとイデアの学説/アリストテレスの学問体系/真理探求と師弟関係

03 パイデイアとヨーロッパ的教養の伝統

パイデイアとは/フマニタス,自由学芸/リベラル・アーツの理念

04 知識人の覚醒と大学の誕生

革新の12世紀/12世紀ルネサンスの背景/12世紀の知識人とアベラール/大学の誕生

05 ルネサンス人文主義と「フマニタス研究」

ヒューマニズム/フマニタス研究/ルネサンス人文主義/北方人文主義とエラスムス/エラスムス的人文主義と「文芸共和国」の理想

06 「フンボルト理念」と近代的大学の理想

近代知のパラダイムと新しい大学の誕生/フンボルトの大学理念――孤独と自由/学問による教養/研究を通じての教育/自立的思考の練成場としてのゼミナール

07 人間と文化

文化とは何か/「文化」と「文明」の対立/クルトゥール・カルチャー・文化/人間と文化/異文化との出会いと知的覚醒

08 言語と芸術

「シンボルを操るもの」(animal symbolicum)/ミメーシス/言語/芸術の原理としての表象性

09 神話・宗教・祝祭

神話/宗教とは何か/絶対依存感情とヌミノーゼ/「究極的関心」と実在の自己実現/祝祭

10 時間・記憶・歴史

時間/存在と時間/記憶/記憶と忘却/記憶の媒体と記憶の大変動/歴史

11 原典と翻訳

人文学にとっての原典の意義/翻訳とは何か/翻訳の実際/「文人の翻訳」と「学人の翻訳」/文化の翻訳

12 文献学と解釈学

フィロロギーと文献学/解釈学とは何か/解釈学の命題/古典を学ぶ意義

13 書籍と図書館

図書館とアーカイブズ/博物館・美術館/アレクサンドリア図書館/セプトゥアギンタの翻訳/パピルスから羊皮紙へ/中国における図書館/中世西欧の修道院/イスラーム世界における図書館/ルネサンスと宗教改革期の図書館/近現代の図書館/納本制度と国立国会図書館/デジタル図書館・美術館の出現

14 情報とメディア

メディアとは何か/情報と知識基盤社会/インターネット/デジタル人文学?/クリティカとトピカ

15 新人文学/新人文主義のゆくえ

人文学の現代的境位/新人文主義の多義性/サイードと「新しい人文学」/文献学への回帰/理解の突如性/新人文学/新人文主義のゆくえ

補遺 人文学研究とその方法

ディルタイと「精神科学」/西南学派と「文化科学」/人文学の方法/人文学の学問性

Jinbun

 

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銀河系の知的生命体の数は90『アストロバイオロジー』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年3月15日


我々はどこから来たのか
我々は何者か
我々はどこへ行くのか

この疑問に科学的に答えるのが、アストロバイオロジーである。宇宙を意味する接頭語「astro」と、生物学を意味する「biology」を組み合わせた造語で、日本語では宇宙生物学と訳される。

生命は、いつ、どこで、どのように生まれたのか? 地球以外の天体にも生命は存在するのか? 生命が存在する惑星としての地球は、どのくらい特殊で、どの程度に普遍的な存在なのか? こうした疑問に答えることを目指す。

アストロバイオロジーの射程

非常に興味深いのは、生物学に限った学問領域ではないところ。最新の研究成果を惜しみなく注ぎ込まれる総合科学、いわば「全部入り」なのだ。

たとえば、生命活動が可能な領域を探るためには天文学、惑星科学、地球物理学の成果が求められ、生命誕生にアプローチするために生化学、微生物生態学、地質学、海洋学の知見が適用され、単純な機構から複雑な生命へのプロセスについては分子進化学、地球化学が用いられる―――しかもこれはほんの一部なのだ。

アストロバイオロジーは机上の研究ではない。自然科学研究機構では、「宇宙における生命」を科学的に探査し、その謎を解き明かすことを目的とし、2015年に「アストロバイオロジーセンター」を設立している。

そこで様々なプロジェクトが実行されているのだが、ひときわ目を惹いたのが、「望遠鏡で分子を探す」宇宙生命探査プロジェクトだ。電波望遠鏡を用いて生命の材料物質であるアミノ酸を探査している。遠いものを見るための望遠鏡を用いて、非常に小さい分子を探すというアンバランスさが面白い。

土星の衛星に微生物がいる可能性

本書はその格好の入門書だ。

地球外生命の存在の可能性あるか、その誕生は必然かといった枠組みを検討し、そもそも生命とは何かといった哲学的な定義を掘り下げ、具体的に、太陽系の中で生命がいるとしたらどこか、太陽系外ならどの辺りに目星をつけるのか、その探し方までを検討する。

もちろん机上論ではなく、最新の観測成果や研究結果、進行中のプロジェクトも併せて紹介してくれるので、リアルなSFドラマを目の当たりにしているような感覚になる。

たとえば、土星探査機カッシーニが採取した「有機物」について。土星の衛星エンセラダスの南極から煙状のものが噴出されており、「プルーム」と呼ばれている。

カッシーニはこのプルームを突っ切って、その中に有機物を検出したとある。わたしの(古い)知識では、複雑な有機物は地球でしか生成されず、したがって生命は地球でしか誕生しえないという論が幅を利かせていた。だが、本書は楽々と更新してくれた。

さらに、プルームに含まれるナノシリカと呼ばれる石英の粒子は、エンセラダスの地下には90度以上の熱噴出孔があることを示唆している。80年代に見つかった深海の熱噴出孔こそが生命誕生の唯一の場所だと主張する人がいた。だが、本書は楽々とエビデンスを更新してくれた。

星を渡る生命を証明する

また、火星の高温や薄い大気による過酷な環境では、生存できるだけの耐性を持つ生命はいないだろうと考えられていた。だが、地球において、火星表面の環境に耐え・生き延びることができる微生物が発見されている。わたしの常識が楽々と更新されていくのが楽しい。

現在進行中のプロジェクト「たんぽぽ計画」も、結果が楽しみだ。超低密度のスポンジ(エアロゲル)を宇宙空間に曝し、宇宙塵を捕集することで、そこに含まれる生命誕生の鍵となる物質を探す計画だ。これは、日本人が主導で開発し、現在、エアロゲルが国際宇宙ステーションに曝されている状態となっている。

仮に、地球低軌道(高度400キロメートル)で微生物が検出されれば、地球上の生命が他の惑星へと移動する可能性があることを示す。つまり、生命は一つの惑星に閉じた存在ではなく、たんぽぽが綿毛で種子をとばすように、星を渡り宇宙へ広がっていく証左となる。

知的生命体がいる惑星の数

具体的なエビデンスや成果を紹介しながら、本書はドレイクの方程式を検証する。

ドレイクの方程式とは、わたしたちがいるこの銀河系に存在し、人類とコンタクトする可能性のある地球外文明の数を推定する数式である。それは、以下の値をかけ合わせたものになる。

  1. 人類がいる銀河系の中で1年間に誕生する星(恒星)の数
  2. ひとつの恒星が惑星系を持つ割合(確率)
  3. ひとつの恒星系が持つ、生命の存在が可能となる状態の惑星の平均数
  4. 生命の存在が可能となる状態の惑星において、生命が実際に発生する割合(確率)
  5. 発生した生命が知的なレベルまで進化する割合(確率)
  6. 知的なレベルになった生命体が星間通信を行う割合
  7. 知的生命体による技術文明が通信をする状態にある期間(技術文明の存続期間)

発案者のドレイクが1961年に推定した結果では、その地球外文明の数は「10」であった。本書では、最新のデータを用いて再計算したところ、その値は「90」になる。増えた理由は、技術革新によりの観測精度が上がったことと、ここ数十年で系外惑星(太陽系外の惑星)が爆発的に見つかったことによる。

常識を書き換えるアストロバイオロジー

昔は、地球こそが宇宙の中心であり、星々は地球の周りをめぐると考えられてきた。

なぜなら、神に選ばれたこの地球こそが、宇宙で唯一無二の場所だから。だが、そうではないエビデンスが続々と集まり、ガリレオやコペルニクスが地球が中心ではないことを明らかにした。

地球を、生命が誕生する唯一の場所と「みなしたい」気持ちは分かる。特に、「神に選ばれし人」という宗教や「人こそが生命進化の究極の存在」という文化に染まるほど、そんな気持ちになることは分かる。だが、そうではないエビデンスが続々と集まっている。ガリレオ以来なら、400年ぶりに歴史が書き換わりそうな領域、それがアストロバイオロジーである。

Astro

 

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エドワード・サイードの遺言『人文学と批評の使命』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年3月22日


わたしの価値観を変える契機となる一冊だった。

読んだら一気に変わる即効的なものではなく、これをきっかけとして、世界の見え方の次元が変わる。二次元の世界から三次元へ離陸させるような言葉を、サイードは語る。

どう変わるのか?

現在進行形で変わりつつあるため、うまく語れるか分からない。だが、やってみよう。そのためのブログなのだから。

認識されたものを認識しなおす

まず、人文学の射程がとてつもなく長いことが実感できた。乱暴に一言でまとめると、「認識されたを認識しなおす ≒ 人が書いたものすべて」になる。

今までは、こんなイメージを抱いていたのだが、それが一掃された。

  人文科学(哲学とか歴史とか) ←このへんに人文学
  社会科学(経済とか教育とか)
  自然科学(物理とか生物とか)

最初は哲学から始まり、そこから研究対象や手法によって領域が分かれてゆき、それぞれの縄張りがゆるやかにある。そこで、人文学は哲学や歴史を扱うため、その領域の中の伝統的な学問だと考えていた。

しかし、その認識を変えるほうが面白いことが分かった。大学のカリキュラムならこれで良いが、人文学を、分野ではなく、方法として捉えるのだ。

サイードは、人文学とは、人の働きの産物、表現を作り上げる個人の能力にかかわるものだと説く。物理的、生物的といった、自然法則による説明や、社会的状況や集団心理による説明には、うまく適さないものすべてから成り立っているという。

人文学は、人間の意志と営為による形式の達成である。市場や無意識の働きをどれほど信じようと、人文学はそうしたシステム、非個人的な力とは別物である。

要するに、「人間の業績」と言われるもののことだという。

人文学という方法

ここからは、本書から発火した、わたしの妄想になる。

見方を変えると、人間の業績となるためには、それが記述されなければならない。記述され、評価され、残されたものが人文学の対象となる。認識され、記述されたものを批判的に認識しなおし、受け継いでいく。人文学は、「人文科学」の一分野というよりも、むしろ人文学という方法なのだ。

極端な話、「物理学から認識された世界を認識しなおす」行為は、人文学の対象になる。近年議論となっている例なら、医療倫理や環境問題、人権と公的福祉などが挙げられる。

すると、「人文科学vs.自然科学」や「人文科学vs.社会科学」という対立構造ではなく、こうなる。

  人文科学(哲学とか歴史とか) ←人文学の方法
  社会科学(経済とか教育とか) ←人文学の方法
  自然科学(物理とか生物とか) ←人文学の方法

人文学からほど遠いと考えていた、天文学ですら射程に入ってくる。もともと「天文」と「人文」は対で、春夏秋冬など天の描いた美しい文様を天文、文化や文明など人が作り上げたものが人文になる。

それが、天を眺めるために電波望遠鏡や素粒子観測装置を作るようになるにつれ、天の概念も変化する。だが、その変化がどのように生じているかを考えるのは、人文学の方法になる。

人文学の射程

たとえば、天動説と地動説だ。

星辰の振る舞いを、この地を中心として宇宙が動いているとみなすのか、地球も一つの惑星として自転しているからだと考えるのか。コペルニクス=ガリレオ以来、決着のついた問題だ。神に創られしこの星こそが、宇宙の中心であるというキリスト教的世界観と、膨大な観測データを積み重ねた客観事実が対決した問題だ。

なぜこの問題があったのかを人文学的に考えるならば、今日、まさに現在進行形で更新されつつあることが分かる。

それは、系外惑星の問題だ。

太陽系以外の、恒星を公転する惑星のことだ。その観測歴史は浅く、科学的観測に基づいて初めて発見されたのは1988年だった。だが、当時はなかなか受け入れられず、正式に認められたのは1992年になる。いったん認められると、系外惑星は爆発的に「発見」されるようになり、今では4,000を超えるという[Wikipedia:太陽系外惑星]。

なぜ、認められなかったのか? なぜ、数多くの星を見落としていたのか? 人文学的に考えてみよう。もちろん技術革新による観測精度の向上もあるが、それよりも、神に作られしこの太陽系こそが、宇宙で唯一のモデルであるというキリスト教的宇宙観が、天を見る目を阻害していたのではないか、と考える。

さらに、キリスト教的宇宙観が観測データに影響を与えている例として、ビッグバン理論を考えてみよう。「光あれ=ビッグバン」はメタファーではなく、本当にそう信じているからこそ、理論としているのではないか? という疑いだ。

ビッグバン理論を支える様々な観測データや仮説は、まさにその理論をもっともらしくするために取捨選択されたものだ。そこに至るまでに、完全にピュアな―――言い換えるなら、「光あれ」のキリスト教的宇宙観からフリーな―――観点で検討され、取捨選択されたのだろうか?

あるいは、ある仮説が浸透し、確かな理論として確立するためには、それを熱烈に支持するグループが必要だ。そのグループは、もっと大きな、たとえば宇宙物理学を研究するグループの中で力があり、かつ多数派であることが重要だ。

もちろん、自然科学は多数決ではない。だが、エビデンスが充分に揃っていない仮説群の中、どんぐりの背比べ的な状況で何が採択されやすいかと考えるならば、多数派であり有力(≒予算を持っている)グループになる。そのグループは、キリスト教的世界観の教育を受けたグループと重なるのではないか?

天動説や系外惑星、ビッグバンなど、自然科学の範疇にあるものであっても、いったん人の手で記述されたものとして向き合うならば、それを、認識されたものを認識しなおすことができる。そして、認識されたものを批判的に検討することで、そこで陥っている状況をメタに見直すことができる。これが人文学だ。

以上、わたしの妄想おわり。

人文学の実践

サイードは、「オリエンタリズム」として認識されたものを認識しなおすことで、この人文学を実践した。

もともと、「オリエンタリズム」は、東洋趣味を指す美術用語だった。サイードは、膨大な文献や文芸読み込み、大量の美術作品を渉猟し、西洋から見た東洋に対する思考様式を「オリエンタリズム」として定義した。

その上で、オリエンタリズムに包摂される人種主義的、帝国主義的な姿勢を批判的に検討した。さらに、この検討を通じて、人間は異文化をどのように表象するのか、また、異文化とは何なのかという問題提起も行なっている。

『人文学と批評の使命』は、サイードの晩年に編まれ、死後に出版された、いわば彼の遺書とも言える。生涯をかけて人文学を実践したサイードの姿勢は、ここに凝縮されている。

その具体的な方法としての文献学(フィロロギー)や、ヴィーコ『新しい学』、アウエルバッハの『ミメーシス』も紹介されている。特に『ミメーシス』は、読書猿さんもお薦めしている。サイード&読書猿という大先生が推すのなら、読まずに死ねるわけがない。読むぜ読むぜ。

グスタフ・マーラーの言葉に、こうある。

  伝統とは火を守ることであり、
  灰を崇拝することではない。

人文学という火を、受け継いでゆこう。

Humanities

 

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日本史に残る巨大 IT プロジェクトから学べること『みずほ銀行システム統合 苦闘の19年史』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年3月29日


大規模 IT プロジェクトの成功事例と、大規模システム障害の失敗事例を合わせた一冊。読み手に応じ、さまざまな学びが得られる。

困難な状況で、プロジェクトを成功に導く教訓を学ぶこともできるし、史上最悪のシステム障害がどのように発生し、波及していったかを生々しく読めるし、二度と起こさないための再発防止策を具体的にピックアップすることもできる。

  1. 「東京スカイツリー7本」の ITプロジェクト
  2. なぜアズイズ(As-is)が問題なのか
  3. プロジェクト推進体制を強化する具体的な方法
  4. 2002年と2011年の大規模システム障害の顛末
  5. IT システムの赤の女王説
  6. 日経コンピュータの「演出」

1. 東京スカイツリー7本分

IT業界のサグラダファミリアと呼ばれてきた、みずほの勘定系システム「MINORI」が、2019.7月、ついに完成した。

  • 4,000億円という巨費を投じて
  • 富士通、日立製作所、日本IBM、NTTデータを筆頭に1,000社のSIerを巻き込み
  • みずほ銀行、みずほコーポレート銀行、みずほ信託銀行のシステム要件を元に
  • 8年の歳月をかけて要件定義・設計開発・テストを進め
  • 足かけ2年、計6回システムを止めてデータ移行を行い
  • みずほFGの400営業店の事務担当17,000人が利用する勘定系システムを作り上げた

東京スカイツリーで換算すると、7本建てられるというMINORI。その元となるのは以下の勘定系システムになる。

  • みずほ銀行の勘定系システム「STEPS」
  • みずほコーポレート銀行の「C-base」
  • みずほ信託銀行「BEST」

この場合、普通なら「片寄せ」、つまりどれか一つのシステムに統合させることで、開発コストやリスクを下げようとする。ところが、旧システムから一切を引き継がず、一から作り直す完全な新規開発だったという。

当然、順風満帆で進まない。要件定義に難航し、2度のリリース延期を強いられ、体制の抜本的な見直しを行い、産みの苦しみを経てきた。終わらないプロジェクトに、「横浜駅・渋谷駅とどっちが先か」などとも揶揄されていた。

そこで、みずほFG(ファイナンシャルグループ)の人々は、どこに苦しみ、どんな工夫を積み重ね、どうやって課題を発見・克服していったか。

2. アズイズ(As-is)を殺せ

MINORIの要件定義は4年遅れたという。システムが担う機能面や求められる性能を明確にしていくフェーズなのだが、そもそも現状がどうなっているのかを掘り起こすのに難航したとある。

そこで徹底されたのは、「アズイズ(As-is)の全面禁止」だ。As-is とは、今の・現状の姿のこと。

もとは、現状の業務フローや手順書を洗い出すことを指す。そして To-be というあるべき姿と照らし合わせ、システムがどのような役割をはたすかを検討する。

しかし、「アズイズ」という言葉が独り歩きし、ユーザ部門が「現状のままで良い」「業務を変えずにシステムで効率化してくれ」という要求を押し付けるために使われるようになる。現在の業務をろくに調べもせず、「アズイズでよろしく」―――これを変えるため、アズイズを全面禁止にする。

代わりに、To-be をユーザ部門に考えさせる。

銀行業務を棚卸して、あるべき業務フローを描かせる。そうすることで、なぜその業務を行っているかを考え、全体の中での位置づけや、先行・後続業務の必要性も検討しはじめるようになったという。

「前からやってたから」「そう引き継がれたから」という発想から離れ、「そもそもその業務は何なのか」と考えさせるための、アズイズ禁止令なのだ。これ、CIOの命令だからできたものだと考える。強制力さえあれば、かなり有効な技だろう。

3. プロジェクト推進体制を強化する

それまで、各グループの情報システム部門がバラバラに動いていたという。

みずほFG、みずほ銀行、みずほコーポレート銀行のそれぞれに情報システム部門と企画部門があり、連携コストがかかっていたとある。これらを統合し、持ち株会社であるみずほFGに一本化させ、そこでシステム刷新を推進する体制に改めたという。

そして、みずほFGのCIOは、「みずほグループCIO」に就任し、システム担当役員、常務取締役を兼務し、さらに取締役副社長・副頭取まで兼務させる。

かつて、みずほFGのCIOは取締役会のメンバーではなかったという。つまり、情報戦略の最高責任者を一段低く見なしていたのだ。それを改め、CIOの立場をより重くし、経営トップの強いリーダーシップが発揮できるようにしたとある。

そして、実働部隊はみずほ情報総研となる。そのトップ「情報システムグループ長」はみずほFGの情報システム部門の兼任とし、権力を集める。その上で、情報総研のベテランをFGに出向させることで、「システムが分かる持ち株会社」を作り上げる。これまで、どれだけ冷遇されてきたかが惻隠されて泣けてくる。

他にも、様々な施策が紹介されている。

例えば、会社や部門間の利害を調整し、全体最適の視点で意思決定を下すためのタスクフォース+事業部会の両輪体制や、ユーザ部門に上流工程支援ツールXupperを強制的に使わせるスルタンなやり方、移行管理システム「みずほ天眼システム」が解説されている。

特に、全てのコードを自動生成させることを徹底したのは驚いた。「超高速開発ツール」を採用し、コードに混ざる属人性を排除したという。しかも、「生成されたコードの手修正すら禁止」とある。処理の冗長化による性能問題が懸念されるが、そこもうまく乗り越えている。

巨大な組織を編成する方針から、開発体制や方式の作り方まで、こうした施策は、CIOか、CIOに近い人にとって参考になるだろう。これが、本書の前半だ。

4. 2002年と2011年の大規模システム障害

本書の後半では、みずほ銀行で起きた、2度の大規模システム障害を分析する。

まず、第一勧業、富士、日本興業の経営統合に伴うシステム統合において、2002年に発生したもの。

  • 現場に丸投げされた統合方針の決定が紆余曲折し
  • 結果、システム統合のスケジュール・統合作業が遅れに遅れ
  • 予定していたシステム運用テストの開始がずれ込み
  • ろくなテスト検証が果たされないまま開業が見切り発車され
  • 開業初日からATMの障害が発生し、公共料金の自動引き落とし等の口座振替に遅延
  • トラブル発生後も対応が遅れるなどで、振替の遅延が拡大、大混乱となった

次に、2011年、東日本大震災の義援金口座に振り込みが殺到したことがトリガーとなって引き起こされたもの。

  • 2007年に口座の設定を誤っていたため
  • 義援金の殺到を適切にさばけず異常終了を引き起こし
  • その復旧に8時間かかり、38万件が積み残された
  • それが翌日のオンライン起動に影響を及ぼし
  • 二重振込、振替遅延、ATM一部停止を引き起こした
  • さらに未処理データが雪だるま式に膨らむ悪循環に陥り
  • 勘定系システムが強制終了することになり、全業務が停止した

最初は単なる業務エラーなのに、想定外が重なり、大規模障害へと被害が拡大してゆく。その様子は生々しく、読んでるこっちの胃が痛くなる。即辞表を叩きつけ、逃げ出したくなるようなエグい話が淡々と描かれている。

5. IT システムの赤の女王説

前任者の不手際による障害について、詰められたことはないだろうか? 

わたしはある。前任者が誰であれ、現在が自分の担当なのだから、詰問にも耐えるし火消しにも努力を惜しまない。

だが、その前任者が何代も前の人で、ひょっとすると自分が入社する以前に設計されたことが、時代の移り変わりとともに、利用状況に合わなくなり、不具合となって潜み、何かのきっかけに顕在化し、それが重なりシステム障害となる。

リスクが顕在化するまで、システム更改の必要性が挙げられては「予算がないから」と先送りされる。経営層の言い分は、「何も起きていないから」だが、その安定運用するために膨大なインシデントが人力で回避されているという現実は見ていない。

システムは、リリースしたその日から陳腐化が始まる。

目まぐるしく変わる環境変化に対し、「何も起きない」として安定稼働するため全力を尽くす。その様は、まるで「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」と言った、ルイス・キャロルの物語の女王のようだ。

6. 日経コンピュータの「演出」

2度にわたるシステム障害の経緯と原因、暫定対処と本格対処の分析は、圧巻だ。

特に、p.188の再発防止策の一覧は、ブラックボックスと化したレガシーシステムが引き起こす問題を乗り越えるための対策として、そのまま使えるだろう。

だが、随所で気になる点があった。日経コンピュータの面目躍如というか、よりセンセーショナルにしようという「演出」に引っ掛かったり、みずほFG社長のインタビューの編集が気になった。

もともと、複数の雑誌記事の寄せ集めのため、まとめると不具合に見えるものなのかもしれぬ。特に気になったことを2点、書いてみよう。

一つめ、2011年のシステム障害について。

最初のエラーは、3/14 AM10:16 に起きたものだが、内容は、義援金口座に振込が殺到し、一日に受け付けられる上限値を超えたという業務エラーだ。担当は別口座を設けて、そこを案内する対処を行った。

このエラーが、担当役員に伝わるのに17時間かかり、頭取に伝わるのに21時間かかったことを、「不手際」としている(p.161 重なった三十の不手際)。

もちろん甚大なシステム障害になったことは否定しないが、この業務エラーを伝えなかったことを、17時間ないし21時間の遅延にするのはさすがに酷だろう。

二つめ、社長インタビューにおける、COBOLの扱いについて。

勘定系システムを刷新し、新たなシステムMINORIを作り上げたことに胸を張る件で、「COBOLやFORTRANをベースにしたシステムをいつまでも使い続けるわけにはいかない」という発言がある。

COBOLって、よく「枯れている」といわれているが、古くて時代遅れという意味ではなく、不具合は出尽くしており、アーキテクチャーとして安定していると思う。

社長の言い分とは裏腹に、p.66 にある、MINORIの業務コンポーネントごとの開発言語一覧が明瞭だ。

様々なコンポーネントがあるが、MINORIの主要業務である「取引メイン」「為替取引」「顧客管理(CIF)」「流動性預金」「手数料」は、COBOLで書かれている。これは、もともとは日本IBMが1980年代に開発したミドルウェア「SAIL」を採用したためであると解説されている(p.44 十五年を経て復活したミドルウェア)。

これ、社長が知らないのなら問題だし、事実でないなら記事が問題だろう。別々のタイミングで掲載された記事を集める際、書き方を改めるべきだったのかもしれぬ。

いずれにせよ、学ぶところ、憤慨するところ、胃が痛くなるところ大の一冊なり。お薦めしなくても SIer な人は手にするだろうが、涙なしでは読めない一冊でもある。

Minori

 

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読むべき最高のテキストは東大入試現代文にある

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年4月18日


Toudaino

いま読むべき本、考えるべきテーマは、東大入試の現代文に集まっている。

日本最高の学府は、未来の知を背負う人として、どういった人を求めているか?  何をテーマとし、どんな本を俎上に載せ、どこに着目し、どんな問いを投げ、いかなる解答を期待しているか? そこに、「入試問題」という形をとった、東京大学からのメッセージを見ることができる。

これが数学や英語の問題だと、ちょっと手が出ないかもしれない。

だが、これが現代文なら、とっつきやすい。

東大のメンツにかけて「いま考えるべきテーマ/読む価値のある本はコレだ!」として選び抜き、しかも、「良いところはこの部位」と切り出してくれる。つまり、どんな知が求められているか? への東大の応答が、入試現代文そのものなのだ。

『東大のヤバい現代文』は、そうした脂の乗った良問を、関連書籍とともに美味しく料理してくれる。ナニ、東大と臆するなかれ、丁寧な解説で、何が重要かだけでなく、なぜ重要なのかが分かる仕掛けになっている。

「歴史=記録されたもの」を揺さぶる

常識に揺さぶりをかけるのが、宇野邦一『反歴史論』からの入試問題と解説だ。

わたしが当然のように考えていた「歴史とは、人間社会の活動の記録だ」という常識に、ガツンと一撃を喰らわせられる。

『反歴史論』から切り出された入試問題文では、「記録されたもの」だけが歴史ではないという主張が展開される。国家や社会の代表的な価値観によって中心化されがちな、いわばメインストリームとしての歴史に対し、歴史を「記憶」とする考え方が紹介される。

そこでは、記録されたものだけを歴史とする「常識」に抗うかのような、「記憶としての歴史」が対比される。これにより、わたしの常識だった「歴史」とは、国家や社会の価値観によって等質化され、個人の思考や欲望のありかたを方向づける装置であることが暴かれる。

東大現代文には、こうした常識を問い直す、当たり前の前提を取っ払うような問題文が、よく出題されるという。これは、学問の入口にいる受験生へのメッセージだという。すなわち、知性というものは知識で頭を一杯にすることではなく、そうした知識の前提となっているものを問い直す行為になる。

本書は、この問題文の「~を説明せよ」の背後にある意図にまで踏み込んで解説するだけでなく、その意図をさらに掘り下げ・拡張する書籍を紹介してくれる。クライブ・カッスラーの冒険小説からエマニュエル・カントの哲学書まで幅広く、ブックガイドとして扱うのもいいかも。

「芸術=オリジナリティ」を疑う

あるいは、わたしの芸術観が、浅沼圭司『読書について』からの入試問題と解説で揺さぶられる。

優れた創作とは天才の証であり、芸術作品は唯一無二の存在だと信じていた。だが、それは近代に確立された通念に過ぎないということが暴かれる。

芸術は、唯一無二のオリジナリティが求められるものである一方で、「芸術」というジャンル・枠組みに組み込まれている……これが近代における芸術の常識だという。唯一無二なのに、同じジャンルというのは矛盾している。真に独創的であるならば、そうした「枠組み」自体を破っているから。

つまり、独創的な作品Aと、オリジナリティあふれる作品Bが、同じ枠組みにあるということは、原理上ありえない。にもかかわらず、その矛盾を解消するために、芸術に「ジャンル」が求められるのだ、という考え方である。

例えば、個々の作品を「水彩画」、「油絵」、あるいは「グラフィック・デザイン」といったジャンルで括れる一方、さらに広げて「平面作品」というネーミングも可能だ。

そして、「平面作品」があるということは、「立体作品」が出てくる。さらに、「視覚芸術=美術」として括れる。視覚があるということは、聴覚芸術=音楽が出てくる……芸術のオリジナリティを疑うところから、芸術の体系システムを導き出すことができるのが面白い。

解説では、今村仁司『近代の労働観』や青山昌文『美学・芸術学研究』を引きながら、古代ギリシャの手仕事の序列(ポイエーシスとテクネ―)や、ルネッサンス期の工房の職人の位置づけを説明する。

そこでは、画家や彫刻家という表現はあっても、作品のオリジナリティや個性を目指すところではないという説が紹介されている。ゴンブリッチ『美術の物語』とぶつけると面白い反応が得られるかも。

問うことで読めること

東大現代文は、知的意外性に満ちた文章を突きつけて、「説明しなさい」というスタイルで突き放す。読み手(受験生)は否が応でもその意外性も含め、理解することを余儀なくされる。

おそらく、意外性のない、誰でも思いつきそうな文章では、ロクに読まれることなく解答できてしまうからこそ、こうした知的に歯ごたえのある食材が求められるのかもしれぬ。

漫然と読むだけでは「なるほどー」で終わってしまうが、問いを念頭に置くことで、同じ文を別の目で読むようになる。書き手が疑っている常識に向き合い、さらに―――ここからは入試の外に出るが―――「書き手が疑っていること」そのものを、批判的に見るのだ。

知的な姿勢というものは、自分自身も含めた反証可能性を頭のどこかに置きつつ、問いを抱えて向き合う態度なのかもしれぬ。

良い問いで、良い読みを。

 

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世界はこんなにも不思議で面白い『銀河の片隅で科学夜話』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年4月5日


Ginga

これ好き、丁寧で上質な科学エッセイ。

深夜に寝しなにちびちび読みたいのに、軽妙洒脱な語り口に引き込まれ、するすると読んでしまう。多宇宙論と文学の深い関係を語ったかといえば、民主主義を壊すには、サクラが17%いればいいことを証明したり、倫理学のトロッコ問題を4,000万ものビッグデータでねじ伏せる。

量子力学とボルヘス

たとえば、多宇宙論と文学について。

量子力学と論理学を成立させるため、1957年にヒュー・エヴェレットが唱えた、「複数の宇宙」を仮定した主張だ。これによると、観測する度に分岐する、複数の平行世界が作り出されることになる。世界が進行するにつれ、無数の瞬間に、いくつもの多世界への分岐が生じるというのだ。

わたしは物語に毒されているので、複数世界を行き来するギャルゲーや小説をいくつか思い出してしまうのだが、エヴェレットが多宇宙論を主張する「前」に世に出た、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの作品が紹介される。

それは、1935年に出版された『伝奇集』にある短編で、「枝分かれする小径の庭園」になる。分岐してたえず数を増やしていく庭園の小道が登場する。それは失われた、「迷路でできた迷路」であり、曲がりくねりつつ広がり、迷路そのものに過去と未来を収め、星々までも含んでしまう―――エヴェレットがこれを読んだかどうかは分からないが、響きあうものがあるという。

言われてみれば確かにそうかも。そして、いったんそうした目を持ってしまったなら、今度はボルヘスを科学の可能性として読めやしないかと試みたくなる。

たとえば、認識が存在を規定する世界観なら、「庭園」よりも「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の方がしっくりくる。捏造された百科事典をめぐる奇譚なのだが、この宇宙が誰かの夢ではないことは、確率に過ぎないという読後感が残る。ひょっとすると、エヴェレットはこっちを読んでいたのかもしれない。

H.G.ウェルズと核爆弾

あるいは、中性子爆弾とSF小説について。

物理学者レオ・シラードが、1933年、中性子をぶつけて原子核を崩壊させる実験で、あるアイデアを思いつく。

それは、「崩壊で中性子が飛び出し、それが別の崩壊を連鎖的に引き起こしたら、膨大なエネルギーが放出されるのではないか?」という着想だ。シラードは仲間とともにこのアイデアを検証するのだが……後はご存じの通り、マンハッタン計画で実現することになる。

本書では、なぜシラードは核兵器の原理を構想したのだろうかという点に着眼する。

そして、1914年に出版されたH.G.ウェルズの『解放された世界』の影響が決定的だったという。小説では、ウラニウム放射線を用いて、何日も繰り返し爆発する手投げ弾が登場する。あらゆる戦場で強力な核兵器が用いられ、人類は絶滅の危機に瀕する。

そこで目覚めた指導者たちが世界政府を作り、人類に最終的な平和をもたらす―――というストーリーだが、現実がそうでないことは今を見ればわかる。事実は小説よりも奇なりというが、現実が芸術を模倣すると喝破したワイルドが正しいのかも。

民主主義を壊すには、サクラが17%いればいい

たいへん興味深いのが、セルジュ・ガラム博士の「世論力学」だ。

様々な利害が対立する中で、どのように合意を形成するか? 単純に多数決を取るのではなく、互いの意見を出し合い、メリット・デメリットを検証していく、コンセンサス形成が重要だ。

このコンセンサス民主主義をモデル化したのが、ガラム博士だという。

人は全ての事案に対して詳しいわけではない。l巨大不明生物の進行状況だとか、なぜ宇宙船がカウントダウンしてるといった、専門家でも難しい問題に、適切な判断が下せるわけがない。

だから、他人の意見を尋ねたり、定見を持った人(専門家とは限らない)の主張を参考にしたりする。そうして意見の変更や調整が繰り返され、集団全体が合意する方向性が定まってゆく。

ガラム博士は、この意見形成をシミュレートし、確率分布の時間的分布を記述する式を作成することで、民主主義のコンセンサスを数理モデル化した。

そして、このモデルを色々動かすことで、集団は非常に興味深い振る舞いをすることが見えてくる。

まず、全員が浮動票―――つまり、みんな確固たる意見がない―――状態からスタートした場合、時間の経過につれて賛否のいずれかが優位になり、最後は全員賛成、もしくは全員反対になる。どちらに倒れるかは運しだいといったところだ。

だが、一定の固定票―――つまり、確固とした主張を持つ人がいる―――場合、賛否に与える影響は大きくなる。重要なのは、その主張の正しさ如何ではなく、どの程度の固定票がいるかになる。固定票が17%を超えると、無敵になる。残りの浮動票がどう動いても、最終的に固定票に収束する。

つまり、サクラを雇ってレビューを書かせたり、組織票をSNSにバラまいたり、切り取った「民意」をブロードキャストしたり、やり方はさまざまだが、その数が17%を超えると、合意形成を恣意的に操れるようになる。

これは良いことを聞いた。わたしは、「操られる」ほうの立場だが、(エコーチェンバーでなく)周囲の声が一つに合わさろうとするとき、その中にどの程度のサクラがいるのだろうか? という目で見るとしよう。その上で一緒に合唱するか、その輪から外れるかを選ぶこととしよう。

著者は量子力学の専門家なのだが、文学や歴史についても造詣が深く、世界の面白さについて、様々な分野から、縦横無尽に語ってくれる。寝る前に一話ずつ読むと、一ヵ月くらい不思議で楽しい夢が見れそう。

 

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健康ディストピア

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年4月20日


Health

「健康は義務です、不健康は犯罪です」とアナウンスしながらドローンが行き交い、市民の健康係数を測定する。サーモグラフィで自動測定し、体温が高いと「風邪で休まないのは犯罪です」と勧告する。

健康係数が良いなら、健常者と判定され、執行対象にはならない。

しかし、規定値を下回ると、潜在的な不健康者として判定され、様々な制限が加えられる。食事制限や運動が義務化され、タバコ等の嗜好品が限定されたり、保険金の割引オプションが利かなくなる。

さらに悪くなると、当人の健康状態が周囲への悪影響を及ぼす潜在感染犯と判断され、執行対象となる。マスクと手袋の着用が強制され、守らない場合は捕縛され、厚生施設でセラピーが施される……

……という物語を思い浮かべたのは、御田寺圭さんの「コロナ後の世界」に忍び寄る「健康・健全ディストピア」を読んだから。コロナ禍の先、社会保障や医療リソースが制限され、健康であることがルール化された相互監視未来を、「ヘルシー・ディストピア」と言い表している。すごい。

「健康=正義」の社会

そこでは、「健康=正義」される。

タバコを嗜む人、お酒が好きな人、メタボといった不健康な人は、医者から注意を受けたり、白い目で見られるだけでない。はっきりとルール(条例・法令)違反として改善が義務付けられる。免疫力が低下する高齢者は、それだけで健康色相が濁っていると判別される。

もちろんこれ、アニメの『PSYCHO-PASS』から派生した、わたしの妄想だ。人の心理状態や犯罪傾向を測定し、規定値を超える犯罪係数を持つ人間を「潜在犯」と見なし、社会から排除もしくは殺処分する人々を描いた傑作だ。

人の心というものは、数値化できるか? 特に、未だ犯罪に至っていないのに、PKディックの『マイノリティ・リポート』のように犯罪予防できるのか? といった疑問は、Amazonプライムで確かめていただくとして、ここでは、「健康」について述べたい。

不健康は悪なのか

「健康」は、一見、誰も反発したり疑義を唱えられない中立的な善のように見える。誰だって病や苦痛を避けたいから、健康であるに越したことはない。どれだけお金を積んだって、健康はお金では買えない。もちろんその通りだ。健康であることは、「よいこと」とされるのが一般的だ。

しかし、誰も反対しないからこそ、この言葉を使えば、先入観を押し付けることができる。無条件に「よいこと」だと認められるからこそ、製品を売るために用いられても、そのレトリックに気づきにくい。

「健康的な体形」は、それにそぐわない体形に烙印を押す。「健康的な生活」、「健康的な食事」、「健康的なセックス」など、この言葉に訴える際、ある種の価値判断が密やかに発動する。「ダイエット」や「フィットネス」といった言葉を援用することで、健康への欲望を作り出し、操作することが可能だ。その価値判断は、健康の名のもとに押しつけられるため、健康ファシズムと呼ばれている。

こうした、健康という言葉の背後にあるモラル的な風潮をあぶりだしたのが、『不健康は悪なのか』という論文集だ [書評はここ]。

これは、不健康を賛美する本ではない。母乳育児を推進する全米授乳キャンペーン、ヘルスケア用語に覆い隠された肥満嫌悪、「ポジティブであり続けること」を強要される癌患者、定義変更により創出される精神疾患など、「健康」という言葉に隠されたイデオロギーが、グロテスクなまでに暴かれる。

健康が強制される社会

ご注意いただきたいのは、こうした健康について管理された社会が完全にダメというわけではないこと。

公衆衛生にかかるコストや健康を維持するために必要なリソースは、個人では負担しきれない。だから社会で担うのだという発想で、社会保障や医療システムができている。「健康であることは望まれること」を前提とした、このベースラインは維持していきたい。

だが、「健康であることが強制されること」となる世界を懸念している。個人の努力目標ではなく、社会から制限や強制される方向に加速し、その大義名分として「健康=正義」という棍棒が振り回される社会までを妄想する。

健康な生活を営むことは、権利ではなく、義務となる。

不健康な生活は排除され、健全で安楽な社会といえば、ハクスリー『すばらしい新世界』が有名だろう。苦痛や不快のない、安楽で幸福な科学文明の未来を描いたディストピア小説だ。あるいは、伊藤計劃『ハーモニー』における、パンデミックにより崩壊した政府に成り代わった、新たな統治機構「生府」を思い出す方もいるかもしれぬ。

いずれにせよ、そこには高度な医療経済社会が築かれ、健康や幸福を目指すことは権利ではなく義務とされ、そこからの逸脱は禁じられる。「健康的である自由があるように、不健康になる自由だってある」なんてセリフは、戯言となる。

「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」

それはフィクションの話で、ディストピアに振り切った物語にすぎない、と指摘できる。

どの時代の政府であれ、国民の健康は国力に直結するのだから、大なり小なり健康管理社会になるもの。それを極端にしたフィクションなのだ、とも言える。

しかし、「健康=正義」を推し進めると何が起きるのかは、フィクションではなく過去を振り返ればいい。

T4作戦だ。

1939年ヒトラーの命令書から始まり、「不健康であり、生きるに値しない」と医師が選別した人々が、次々にガス室へ送られた作戦だ。

ナチスの強制収容所といえばユダヤ人の迫害に着目されがちだが、この作戦により、うつ病や知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中患者といった人が、記録されているだけでも7万人、一説によると20万人も犠牲になったという[Wikipedia:T4作戦]。

ヒトラーが署名したのは、治癒不能の重い病気を抱える患者に対し、十分慎重な診察のもと、安楽死がもたらされるよう、医師の権限を拡大する命令書だった。

当初は、苦しみから解放するという建前だったが、社会の幸福のため、科学的正当性のもと、社会を合理化する推進力になる。「健康であること」を医師が選別し、著しく不健康な存在は、社会から排除したのだ。

当時は戦力増強という目的があったものの、ナチスほど国民の「健康」に執着した組織はなかったという。

タバコとアルコールの追放運動を行い、飲酒運転には高額な罰金を課した。結核の早期発見のためのX線検査、学校での歯科検診、身体検査を制度化した。栄養のある食事、運動、新鮮な空気、適切な休養が啓発された。決められた「健康」を満たせない者は「役に立たない」とみなされる。つまり国民は、「健康」を強要されたのだ。

この件は、『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』に詳しい [書評はここ]。そこに出てくる、ブーヘンヴァルト収容所の所長の言葉が強烈だ「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」。

誰が「健康」を決めるのか

繰り返すが、社会システムに組み込まれた健康に反対しているわけではない。国民皆保険制度は、半世紀以上にも渡り、日本の健康を支えてきた。必要なときに必要な医療が受けられる、いわば日本の財産ともいえる。

だが、限定される医療リソースを奪い合う状況を抜けた後、健康についての強制力が無条件に発動することを恐れている。結果として狂気への道になったとしても、始めた人は善意を敷き詰めていることが人の常だから。

ここで何らかの結論を出したいわけではない。問題は、こうした物語やレトリック、歴史的事実を吟味することなく、「ふいんき」で流されていくことを心配している。人類はムードに流されやすい。不安は煽られやすいし、恐怖は思考を止めやすくする。

「健康=正義」の世の中になるとき、この文章は非常に奇妙に見えるはずだ。だが、健康であることは、誰が決めるのか(決められるのか、そもそも決めるようなことなのか)を吟味する上で、考える材料となるだろう。

考えるきっかけや、参考となる作品を教えていただいた、御田寺圭さん、@kei9744さん、@chakabocoさん、@itachirei08さん、ありがとうございました。

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笑いのしくみを探る『喜劇の手法』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月3日


笑うのは人間だけだとアリストテレスが言ったとか。

真偽ともかく、大きな口をあけて、アッハッハと哄笑するのは楽しい。いや、楽しいから笑うのか。この笑い、可笑しさ、ユーモアについて考えるのに、有用な一冊が『喜劇の手法』だ。

「人はなぜ笑うのか」という漠然とした疑問に対し、『喜劇の手法』は、喜劇を通じて笑いの仕組みに迫る。しかも、シェイクスピアやモリエール、ゴーゴリの作品から具体的な例を挙げ、劇作家たちが、どんな手法を用いて観客を笑わせるかを吟味している。

本書がすごいのは、紹介される喜劇を観ていなくても面白さが伝わるところ。技法を分類し、それぞれにおいて特徴的なシーンに焦点を当て、その背景とともに脚本を抜き出してくる。こんな風に。

  • だます(変装、一人二役、嘘、変身)
  • 迷う(双生児、偶然の一致、反復、循環、逆転)
  • 間違える(誤解、身代わり、自縄自縛、誤算)
  • 語る(傍白、アイロニー、沈黙と間、機知合戦)

ゴーゴリ『検察官』と『カイジ』の鉄骨渡り

たとえば「誤解」の手法としては、ゴーゴリ『検察官』を紹介する。旅の途中に無一文になった若者が、大物の検察官と取り違えられ、地元の市長や有力者たちに歓待されるという話だ。

最初は戸惑っていた若者も、検察官になりきって、あることないこと言い出すところや、中央権力に媚びてすり寄る田舎者が笑いどころになる。本書では、個々の笑いどころに通底する、ある視点に焦点を当てる。

それは、観客の視点だという。

つまりこうだ。調子に乗ってカネを巻き上げる若者や、お追従しまくる田舎者といった登場人物には、それぞれの視点がある。だが、それらの視点に対し、絶対的な優位を保っているのが、観客の視点になる。

人違いという些細な誤りが拡大し、登場人物は混乱する。混乱は人の醜悪な面を、過剰なまでに暴く。そうした混乱を前にしても、観客は巻き込まれることなく、渦中の人物たちとは距離を置いて眺めることができる。

それは「観客席」という絶対的な場所で、すべての状況が把握できているからだという。この絶対的な優位性が、『検察官』を喜劇たらしめているというのだ。

なるほど、人の愚かさや醜さを、全てを知る視点から眺める優越感が、この作品の「笑い」になる。『賭博黙示録カイジ 』で鉄骨渡りする人が必死であればあるほど、それを安全な場所から眺める観客にとっては最高のエンターテイメントになるのかもしれない。

シェイクスピアと高橋留美子の共通点

あるいは、「機知合戦」。シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』を元に、スティコミシアの技法が紹介される。『じゃじゃ馬ならし』の劇中劇として、じゃじゃ馬な女と、強引な男との掛け合いが出てくる。

どちらも相手を言い負かそうとして。相手の言葉尻を捉えて投げ返し、どちらが優位になるかのマウンティング合戦がテンポよく進む。お互いに対立しているのに、この掛け合いのセリフ運びについては、完璧に息が合っているのが面白い。

この掛け合いを、スティコミシアと呼ぶそうな。ギリシャ劇以来の歴史あるもので、「隔行対話」とも呼ばれるという。丁々発止の連続で、よりもと漫才などは基本的にスティコミシアで成立しているお笑いだろう。

『じゃじゃ馬ならし』は観たことも読んだこともないが、相手の言葉をつかまえて言い合う説明で思い出すのが、高橋留美子『めぞん一刻』。ほぼ全話といっていいほど、スティコミシアが出てくる。第101話「大安仏滅」のここなんて典型かも。

Mezon
高橋留美子『めぞん一刻』 第101話「大安仏滅」より

ここ、「二年」という言葉尻をスティコミシアする様子と、「観客席」の優位性の両方があることが分かる。コブラ vs. マングースみたいな七尾さんと八神さんと、その間で息も絶え絶えな五代くんを、安全な場所から笑うことができる。

喜劇の手法の源泉と応用

おそらく、『喜劇の手法』を読むと、そこで紹介されている作品だけでなく、その技法を応用したコミックや映画や小説が思い起こされるだろう。そこでの面白さの源泉を味わうことができる。取り違え、誤解、騙す、アイロニーなんて、ラブコメの典型にして王道だし。

もちろんここで紹介されている技法が笑いの全てだとは限らないだろう。だが、人がどういう時に面白いと感じ、笑うのかについて、個々の例を通じて考えることができる。

笑いの本質を、具体的に考察する一冊。

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「いまを生きる」に自覚的になる『瞬間を生きる哲学』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月10日


tumblr で知った仏陀の言葉が好きだ。

 過去にとらわれるな
 未来を夢見るな
 いま、この瞬間に集中しろ

 Do not dwell in the past,
 Do not dream of the future,
 Concentrate the mind on the present moment.

そう、わたしは過去や未来ばかり見る。やったことを後悔し、不確かなことを心配する。ああすれば良かったと憤慨し、こうなったらダメだと心を痛める。

この、今を後回しにする生き方を批判し、「いま」「ここ」に充足する方法を考察したのが『瞬間を生きる哲学』だ。哲学や芸術から援用し、瞬間を生きるための具体的な技術を指し示す。

生のユーティリティ化

たとえば、今を後回しにして、「何かのため」に生きる生き方を、「生のユーティリティ化」と喝破したところがすごい。ユーティリティとは、「有用性」「効用」と訳され、何らかの役に立つということ。何の役に立つというのか?

それは、入試のためとか就職のため、あるいは家族のためとか老後のため。安定した幸せな人生のため、明日や来年、場合によっては死後に設定された目標に役立たせるために、「いま」を立て続けに収奪する。

つまり、アリとキリギリスの教訓を内面化し、将来のために、いま努力する社会だ。「いつか」「どこか」のために、今を最適化する。わたしは、今を生きることしかできない。それにもかかわらず、「いま」「ここ」以外に、何かの目的や価値があると思い、そのために生きようとしてしまう。

「いまを生きる」技術

では、どうしたら「いまを生きる」ことができるのか?生を生として瞬間をじっくりと味わう―――そもそもそんなことが可能なのか?

こうした疑問に対し、プルースト文学やフロー体験、赤塚不二夫「これでいいのだ」や、サルガドの報道写真、イスラーム哲学やサティ瞑想など、様々なアプローチから「いま」「ここ」に迫る。

特に面白いのは、リアリティ炙り出し装置としての芸術のところ。漫然と過ごしてきた瞬間の一つを切り取り、それに光を当て、生々しく浮かび上げるのは、芸術の役割だという。プルースト『失われた時を求めて』の、紅茶に浸したマドレーヌが象徴的だ。

たしかに「そのとき」そこに居たはずなのに、「いま」「ここ」として実感を持って生きられなかった―――そんな瞬間が蓄積したのが過去だという。そうした中から、なにかのはずみで、思いがけず、現に生きられた時間として襲来してくる。これを、現実の再創造と呼ぶという。

記憶の彼方から圧倒的なリアリティをもって迫ってくる感覚は、確かにある。マドレーヌではないが、味や香りがトリガーとなって、それを食べた昔をありありと思い出すことはある。

いまを生きるものは永遠を生きる

では、過去を想起する形でしか「いまを生きる」ことはできないのか? 本書ではチクセントミハイのフロー体験を元に、今現在「いまを生きる」方法を紹介する。

いわゆる「時を忘れる」ことだ。何か好きなものに夢中になって、気づいたらえらい時間が経っていた……なんてことはないだろうか?

たとえば、物語に夢中になったり、音楽と一体化したり、仕事に没頭するような体験だ。行動へのフィードバックが即座に返る全能感と、行動と思考と感覚が一体化した多幸感で、時間ばかりか我を忘れるような活動だ。無我夢中で愛し合うこともそうだろうし、スポーツだと、「ゾーンに入る(being in zone)」と表現される。

この感覚はある。わたしの場合、いまがそうで、こうやって記憶をまさぐり、体験と照らしながら文章を書くとき、溢れる脳汁を感じる。あるいは、最初の中ジョッキを傾けるとき、SEKIROのラスボスを倒すとき、「生きてる!」と触れるくらい感じることができる。

このとき、人は永遠を生きるという。

この世、この生を大肯定し、死すら圧倒するほど生が露出する瞬間だというのだ。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』にある、「現在に生きる者は永遠を生きる」という言葉と、アウグスティヌスやトルストイが言った「過去や未来なんて存在せず、ただ現在だけがある」が、重ね合わさるところ。

えいえんはあるよ、ここにあるよ

この「永遠」は、無限に遠い未来という時間的な意味ではない。

過去や未来のない無時間を指すと考える。ずっと「いま」なら死も無い(なぜなら、死は「いま」として体験できない、生の外側の存在だから)。『ONE』のラストの「えいえんはあるよ、ここにあるよ」にある、時間の無い「いま」である。

どんな未来になるのか不透明な状況で、どうしたら不安から逃れ、いまを生きることができるか? おそらく、わたしがやってはいけないのは、「テレビやネットを見る」だろう。未来が不確定であることを改めて確認し、不安を強化するか、ガセやデマに翻弄されるだろうから。

代わりに、「いま」「ここ」を充足させよう。読むこと、食べること、表現することに集中しよう。そして何より―――『失われた時を求めて』に取り掛からなくちゃ。

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「感染する自由か、監視された健康か」というレトリック『現代思想5:感染/パンデミック』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月16日


「健康」という言葉には色が無く、中立的な善のように見える。

しかし、誰も反対しない中立的な言葉からこそ、先入観や政治色を押し付けることができる。無条件に「よい」だと認められるからこそ、レトリックに気づきにくい。

たとえば「感染する自由か、監視される健康か」と迫られるときには、そのレトリックの向こう側を考える。わたしは、二者択一を迫るメッセージには、無条件で警戒している。あるはずの他の選択肢を覆い隠してしまうことを、恐れている。

情報が近すぎるし、早すぎるから、立ち止まって吟味したい。

LINEによる健康調査

引っ掛っているのは、LINEの健康調査だ。

厚生省による新型コロナ対策のための調査として、LINEを用いたアンケート調査がある。5/1より複数回にわたって行われ、わたしも回答している。

立ち止まって考えたいのは、これが大きな議論や反発がされることなく、なんとなく受け入れられているように見えることだ。

ひょっとすると、わたしの感度が鈍いのかもしれないが、個人が利用するアプリに、同意なく調査依頼を送ることは、どこかで問題視されていたのかもしれない。

だが、一部の反発がつぶやかれただけのように見える。この先にあるものは、携帯端末を通じた監視社会だから、様々な意見が百出するかと思いきや、たくさんの話題の一つとして流されようとしているように見える。

断っておきたいのは、この施策に反対しているわけではない。PSYCHO-PASSが象徴する健康ディストピアの入口にいるようで、むしろ興味深いと思っている。そして、権力が健康にどこまで介入するのか、しっかり見たいと考えている。

わたしが問題視するのは、このテーマが、ろくに議論されていないように見えることだ。「健康」という、反発しにくい言葉を盾に、なし崩しになっているように感じられる。重要かつ緊急だから仕方がない。了解だ。だけど、それは議論しなくていい理由にはならない。

ウイルスは社会統制を正当化するのか

わたしのアンテナが低かったようで、この議論は既に海外でされていた。『現代思想5:感染/パンデミック』にある、スラヴォイ・ジジェクの小論(*1)で分かった。

コロナウイルスの蔓延により、社会統制が正当化されてきたことに、リベラルや左派は警鐘を鳴らしてきたという。ウイルスが引き起こしたことは、「誇張した混乱」とされ、社会統制のための権力行使に利用されてきたというのだ。

しかし、ジジェクは、このように社会を解釈したところで、脅威を湛えた現実は消えないという。ウイルスの蔓延を押さえるために必要な措置を、フーコーが普及させた「監視と制御」というおなじみの範例へと切り詰めるべきではないという。

そして、より微妙なニュアンスを表現できる言葉を作り出す必要を訴える。

そこで引用されているのは、デザイン理論家・ベンジャミン・ブラットンのツイート(*2)だ。

単刀直入に言って、あらゆるかたちのセンシングとモデリングを「監視」として、また積極的なガバナンスを「社会統制」として反射的に解釈してしまうのは間違っている。現状に介入するためには、それらとは異なる、もっとニュアンスに富んだ語彙が必要なのだ。

Preempting the replies: It is a mistake to reflexively interpret all forms of sensing and modeling as "surveillance" and active governance as "social control." We need a different and more nuanced vocabulary than the one  habituated from tendentious readings of Foucault.

健康係数を色で分ける

監視・管理・制御のプラットフォームが構築され、社会インフラとして活用されてゆく様は、社会思想史を専門とする水嶋一憲の小論(*3)でまとめられている。

そこでは、アリババグループが開発した「健康コード」システムや、シンガポールにおける感染経路を追跡するためのスマホ用アプリ「トレース・トゥゲザー」、さらには厚生省のLINEによる健康調査が紹介されている。

特に、コードスキャン機能で判断された健康状態を緑・黄・赤の色別にし、色に応じて公共空間のチェックポイントを通過・制限が行われる様は、PSYCHO-PASSの犯罪係数に基づいた色相を彷彿とさせる。心理の計測は難しいが、体温なら比較的簡単だ。

ウイルス検査やトレーシングを、「監視」だとして批判する匿名性原理には、個人の自由をどこまで重んじるかという選択と共に、感染リスクの高い人々を危険にさらしてもよいのかという、倫理的な判断が含まれると説く。

みんな大好きフーコー先生を持ち出して、監視・パノプティコン・生政治で叩く方法は、短絡的すぎるのかもしれぬ。「ウイルスか、自由か」という二択の間に、もっと議論できるポイントがありそうだ。

感染者・接触者を包括的に追跡できる法律

5/14 のナショナルジオグラフィックに、「韓国はいかに感染爆発を食い止めているのか」という記事がある(*4)。ビッグデータを活用した接触者の追跡が奏功したとあるが、それは、「感染者・接触者を包括的に追跡できる法律」による施策だという。

この法律は、2015年に流行したMERS(中東呼吸器症候群)の教訓から制定され、以下の体制が整えられている。

  • 感染者および感染者に接触した人を、追跡して隔離できる
  • クレジットカード会社や携帯電話会社の履歴情報を取得し、それをもとに対象の行動経路が再現できる
  • 再現された経路は、本人の氏名を伏せて公開される

では、日本ではどうするの? という話になる。

上手くいっているから取り入れようとする考え方と、今の内閣でそれするの? という意見もある。おなじみのフーコー先生やビッグ・ブラザーを持ってくる人もいるだろう。この法案が動き出したら、「国民監視法」と名づける新聞も出てくるだろう。

現在、段階的な緩和の方向で進んでいるものの、揺り戻しが来る可能性がある。あるいは、遺伝子の水平伝播による長期化を招き、COVID-20を名づける必要が出てくることも考えられる。

その時になって是非を騒ぐのではなく、今の段階で、どこまでやってよいのか、誰がガバナンスするのかを話し合っておかないと……と考える。

韓国のデータ収集は、プライバシー侵害にあたると考える人がいるが、韓国国民からは広く支持されているという(当記事には、78%が人権よりウイルス封じ込めを優先する回答をしたとある)。日本ではどうだろうか。

おそらく、第二波が来るときだと、議論どころではなく、法案はスピード可決が求められるだろう。強力な手が打てないのは、後ろ盾となる法律がないからという理屈で、迅速に進められるだろう。

「ウイルスか、自由か」の二択にしないために

繰り返すが、現在の流れに反対したいのではない。

むしろ、わたし自身は、自分の健康状態を知らせることに抵抗を感じにくくなっているように思える。

問題は、この「感じにくくなっている」ことについて、反対する人がいるはずなのに、その声が聞こえてこないこと。この感覚がどこまで妥当か、吟味されるべきなのに、その主張が息をしていないように見えることだ。

本来の立場からすると批判するべき人が、率先して賛成してしまっているのではないか? 価値観の風向きが変わるのを見て、歴史や他国の事例を紹介することを躊躇っているのではないか、それを心配している。

わたしは、自分の考え方をアップデートするとき、その背景や根拠、歴史からの吟味を経た上で、実行したい。吟味をせず、いきなり「ウイルスか、自由か」の二択にしてしまいたくない。両者の間に、別の選択肢があるはずだから。

*1 スラヴォイ・ジジェク「監視と処罰ですか? いいですねー、お願いしまーす!」 MONITOR AND PUNISH? YES, PLEASE! (2020/3/16) http://thephilosophicalsalon.com/monitor-and-punish-yes-please/

*2 @bratton,2020/3/9 のツイート

*3 『現代思想5』p.38「コモン/ウイルス」解体するスペクタクル・デジタルメディア技術・コモンのケア

*4 Nathinal Geographic 2020/5/14 新型コロナ、韓国はいかに感染爆発を食い止めているのか

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/051400292/

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オンライン読書会で何が怖いか募集したら、ゾンビや熊を抑えて堂々一位が「生きている人間が一番怖い」だった

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月24日


お薦め本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それが [スゴ本オフ] 。

いつもは皆で集まるのだが、世情が世情なだけに難しいので、Zoomでオフ会することになる。「オンラインでするオフ会」とは奇妙だが、主流になりつつある。

とはいってもノリは同じで、テーマを聞いてピンときたお薦めの作品への愛を語る。本でも映画でも、音楽やゲームなんでもあり、展覧会や舞台を紹介して頂いたこともあった。

で、今回のテーマはホラー。夏には少し早いけれど、現実がホラーに侵食されつつあるいま、リアルに呼応したところに反応してしまう。『呪術廻戦』から『The Last Of Us』まで、様々なホラーが集まる。

人間が一番こわい

いくつかの作品に共通するのが、「生きてる人間が一番怖い」という思いだ。ゾンビや妖怪、ウイルスや獣といった類は、だいたい何をするか分かる。やってることは殺人や破壊でも、当人にしてみれば食事だったり繁殖になる。

だが、生きてる人間は、何をするか分からない。それぞれの欲望を秘め、とんでもなく邪悪なことを平気でしでかし、言い逃れ、あくまで自分が正しいと言い張る。

わたしが紹介した、『The Last Of Us』なんてまさにそうだ。謎の寄生菌のパンデミックが発生し、荒廃した世界で生き抜く男と少女を描いたサバイバルホラーだ。寄生されゾンビ化して襲ってくる異形は、確かに怖い。捕まったら即死というモンスターもいる。

だが、狂った世界で最も怖かったのは、人間だ。

人間は「意図」が分からない。なまじコミュニケートできるからこそ、不気味だ。主人公たちは、異形のモンスターだけでなく、自分たちを陥れようとする人間をも相手にしなくてはならない。

「なぜ人間どうしで争い合うのか?」という質問をもらったが、ネタバレを回避すべく、「いちばん不足している物資は、食料だ」と答えておく。来月続編が出るが、おそらく、最も厄介な敵は、人間だろうな……

「人間が怖い」つながりで出てきたのが、みづほ梨乃『ショコラの魔法』だ。

「どんな願いでも叶えてくれる」魔法のチョコレートをめぐる少女コミックなのだが、これが怖い怖い。人は、さまざまな願いを持っている。キレイになりたいとか、成功したいとか、イヤなあいつを陥れたいとか―――そういう願いが、チョコレートという触媒を経て「欲望」に変わる。

もちろん、約束どおり欲望は満たされる。美しくなるとか、あいつが酷い目に遭うのだが……予想通り、後味の悪いノワールな展開になる(ジェイコブズ『猿の手』のパターン)。「小さい女の子に読ませて大丈夫かよ!?」と思ったけど、むしろ「等価交換」とか「人を呪わば穴二つ」を学ぶ良い機会なのかも。

自然は怖い

心臓がキュッとなるのがこの映像。

米国の有名なクライマーが、素手で岩を登ってゆくのだが、安全装置などは使用していない。

岩の割れ目の狭いすき間に手を差し込んだり、ほんのわずかなでっぱりに指をかけて、身体を持ち上げる。柔らかそうなシューズが、ただ壁に当たっているだけで、どこも引っ掛っていないように見える(でも立っている)。

「フリーソロ」というらしいが、見ているこっちの心臓に悪い。あたありまえだが、落ちたら死ぬ。CGであって欲しいのだが実写。その映画がこれ。

山つながりで、ディアトロフ峠事件の紹介も。

1959年に、ウラル山脈で9名の男女が遭難事故があったのだが、その現場が酸鼻を極めていたという。氷点下の極寒の中で衣服もつけておらず、全員が靴を履いておらず、3人は頭蓋骨折、1人の女性は舌を喪失しており、異常なほど放射線が残っていたという。

この謎に迫ったドニー・アイカー『死に山』が紹介されるのだが、ネタバレ抜きの感想としては、「自然は怖い」になる。この事件がベースとなり、ブレアウィッチプロジェクト(映画版)ができたと聞く、知らなかった!

自然が怖いつながりで、『羆風』が出てくる。吉村昭『羆嵐』かと思いきや、釣りキチ三平を描いた矢口高雄の劇画だという。モデルとなっているものは同じく[三毛別羆事件]だ。人間の味を覚えた羆が数度にわたり村を襲った事件で、圧倒的な暴力の前に、人は成すすべもないことが分かる。『羆嵐』は凄かったので、『羆風』を読んでみよう([Kindle アンリミで読み放題])。

他にも、日常とデモが共存する香港の現実や、フォトショで作る最近の心霊写真の話、日本人だとラヴクラフトは怖くない、あるいは映画版『シャイニング』が許せるか等……

「怖さ」といっても様々であることが分かる。いろいろ伺ったが、わたしにとっては、やはり人間が一番恐ろしく、次が自然になる。お化けや妖怪の類は、怖いというより親しみを感じてしまう。

以下、紹介された作品リスト。次回は、「冒険」をテーマにお薦めしあいましょう。

  • The Last Of Us(ノーティドッグ開発)
  • The Last Of Us Part II (ノーティドッグ開発)
  • 雨月物語 吉備津の窯(上田秋成、石川淳、ちくま文庫)
  • エミリー・ローズ(スコット・デリクソン監督)
  • プリースト 悪魔を葬る者(チャン・ジェヒョン監督)
  • 巷説百物語(京極夏彦、KADOKAWA)
  • うわさの怪談 闇(マーク・矢崎治信、成美堂出版)
  • ショコラの魔法(みづほ梨乃、小学館)
  • 猿の手(ジェイコブズ)
  • 化物語(西尾維新、講談社)
  • オジいサン(京極夏彦、KADOKAWA)
  • ねじの回転(ヘンリー・ジェイムズ)
  • 呪術廻戦(芥見下々、集英社)
  • チェーンソーマン(藤本タツキ、集英社)
  • 絶対帰還。(クリス・ジョーンズ、光文社)
  • ディアトロフ峠事件
  • 死に山(ドニー・アイカー、河出書房新社)
  • ブレア・ウィッチ・プロジェクト(エドゥアルド・サンチェス監督)
  • フリーソロ(ジミー・チン監督)
  • 神秘家列伝(水木 しげる、KADOKAWA)
  • この世の王国(アレホ カルペンティエル、水声社)
  • ヨハネの黙示録(小河陽、講談社)
  • なにをたべたかわかる?(長新太、絵本館)
  • プリニウス(ヤマザキマリ、とり・みき、新潮社)
  • 狂気の山脈にて ラヴクラフト傑作集(田辺剛、KADOKAWA)
  • ハンニバル・レクター博士のモデル(ヘンリー・リー・ルーカス)(URL)
  • 風の谷のナウシカ(宮崎駿、徳間書店)
  • ペスト(カミュ、新潮社)
  • インターステラー(クリストファー・ノーラン監督)
  • シャイニング(スティーヴン・キング)
  • シャイニング(スタンリー・キューブリック監督)
  • 羆風(戸川幸夫、矢口高雄、ヤマケイ文庫)
  • 福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件
  • 八九六四 「天安門事件」は再び起きるか(安田峰俊、KADOKAWA)
  • 勇午 香港編(真刈信二、講談社)

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美は人を沈黙させるが、饒舌にもさせる『栗の樹』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月31日


Kobayashi

小林秀雄の読書会をするというので、『栗の樹』を読んだら、激しく同意するところと、納得いかないところが割れて、なかなか面白かった。

西行や孔子、ゴッホ、トルストイといった、骨董の真贋といったテーマを通じて、批判対象に徹底的に具体的たらんとする姿勢は、激しく同意する。別の書の「美しい花がある。花の美しさというものはない」なんて、美とは何かについて、有力な応答だと思う。

あるいは、「『平家』は読んでも分からない。昔の人は聞いたのである」という件は100回膝を打った。古川日出男『平家物語』を読んでいる際、たくさんの声・声・声を肌合いで感じつつ、自分でも音読していたから。

言葉は目の邪魔になる

しかし、美について言葉は無用というのは、ちょっと違うのではないか。「美を求める心」でこう述べる。

例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でおしゃべりをしたのです。

そして、「菫の花」という言葉が心の中に入ってくると、もう目を閉じてしまうという。花の姿や色の美しい感じを、「菫の花」という言葉に置き換えて、見たことにしてしまう。それはしゃべることであり、見ることではない。言葉は目の邪魔になるというのだ。

ここは、「言葉」を「名前」に替えるなら、その通りだと思う。わたしたちは、ものに名前を付けて、分かったふりをするのが得意だ。新たな経済現象から新種の元素まで、名前さえつければ解明できたとする、悪い癖だ。

名前で分かったふりをせず、その花の美しい感じをそのまま持ち続け、見続けることで、花はかつて見たこともないような美しさを明らかにするという。その通りだろう。

美は人を沈黙させる

半分同意で、もう半分はツッコミを入れたい。

美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に解るということは、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わうことに他なりません。

ここまでは、そうだなと感じる。心を震わせる芸術に触れたとき、息をのむほどの景色を目の当たりにしたとき、わたしたちは言葉を失って、ただ目だけ・耳だけの存在になる。

しかし、ここから先、物の本質を知ろうとする行為は、物の姿を壊すことだという点には、少し違うと思う。対象の構成要素を分解して、それぞれについて一つ一つ分析していく方法では、美しさを解ることには至らないという。

たとえば、ある花の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、雄蕊、雌蕊はどんな構造をしているか、色素は何々か、という様に、物を部分に分け、要素に分けて行くやり方ですが、花の姿の美しさを感ずるときには、私たちは何時も花全体を一目で感ずるのです。

言わんとしていることは分かる。それでも、美が強いる沈黙に負け、分析したり、誰かに伝えたくて饒舌になることを、「美が解っていない」かのように語られると、それは違うと思う。

分かるとは分けること

おそらく、小林自身も承知しているだろうが、「分かる」という言葉は「分ける」とも使える。文章では「解る」と表現しているが、これは「分解する」につながる。わたしたちは、世界を知るときに、時間なら因果、空間なら要素の軸に沿って分けようとする。

そのため、菫の花の美に触れたとき、それがどこからやってきたかを知るためは、因果や要素に沿って解る必要がある。小林は、花そのものを分解し、雄蕊や雌蕊に分けてみせた。そんなことをしたら、花はばらばらになってしまう。

しかし、花の色合いが好ましいのであれば、自分を落ち着かせる効果があるからと、因果関係を見て取ることができる。物理的に分解せずとも、花弁のある部分の形が黄金比を成していることに、普遍的な美を見出したのかもしれぬ。

こうした還元主義的なアプローチだけでない。あるいは、関連する古典や歴史、生物学の知識や、その花から想起される思い出をつなぎあわせ、花の美しさは、自分の内側に積み上げてきた経験にも裏打ちされていることに気づくかもしれぬ。

菫の美しさを詠った歌人は、万葉集や西行、良寛そして宣長と連綿と続く。人は、美しいものに触れたとき、それを何とか言葉にして伝えようとする存在なのだ。

理解するためには言葉が必要

菫の花のような自然ではなく、芸術作品だと、人は、さらに饒舌になる。

たとえば、わたし自身、何も知らず、無手でゴッホやセザンヌに向かい合ったとき、「なにかが違う」という違和感しかなかった。なぜ対象物を正確に写し取らず、歪んでいるのかが解らなかった。

しかし、E.ゴンブリッチの世界的な名著である『美術の物語』を通じて、自分が受けたものが何であるかを知ることができた。ピラミッド時代から続く「見たままを写す」美術の歴史から外れたことで、セザンヌはこの世界に地滑り的な変化をもたらしたという。

セザンヌがやろうとしたことは、「色彩によって立体感を出す」ことだという。明るさを殺さずに奥行きを感じさせ、奥行きを殺さず整然とした構成にするために工夫を重ねた結果、多少輪郭が正確でなかろうとも、あまり気にしなかったというのである。

この解説を手がかりに、彼らがやろうとしたことは、写真のような正確さではなく、その絵を見た人がどう感じるかの知覚や体験を重視していると考えるようになった。本書を通じて、いわば新しい目を手に入れたともいえる。

これ、独りでセザンヌの絵を眺めていても、決して得られない「目」だろう。小林を始め、評論家という存在は、まさにそのためにあるのだと考える。

語り尽くしたあとの沈黙

もちろん、言葉を尽くしても語りえぬものがある。ひょっとすると、小林秀雄は、この語りえぬものまでも念頭に置いていたのかもしれぬ。

美しいものに触れ、言葉を失った後、我に返り、ひとしきり饒舌に語る。そこで語りつくせなかった感動が静かに身体に満ちてゆくのを、「感動に満ちた沈黙」と名づけたのかもしれぬ。

小林秀雄の読書会は、哲学Youtuberネオ高等遊民さんの[哲学読書会サークル]でやってる。講師役のスケザネさんの第0回の解説は、[ここ]で聴くことができる。

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適応としての笑い『ヒトはなぜ笑うのか』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年6月7日


  犬、売ります:なんでも食べます。子どもが好きです。

意味が分かったとき、めっちゃ笑った。誤りに気づいて愕然とする男と、その傍らでシッポ振ってる犬まで目に浮かんで、笑いが止まらなくなった。同時に、男が殺人鬼だったパターンも浮かんで、自分のブラックジョークに、息が止まるほど笑った。

ひとしきり笑ったあと、可笑しかった理由を考えても、出てこない。「子どもが好きです」のダブルミーニングは分かるが、それが、どうして狂おしいほどの可笑しみを招いたのか、説明するのは難しい。

絶妙なネタが飛び込んできたり、とんでもない大失敗を目の当たりにしたとき、胸の奥・腹の底に、抑えようのない情動が沸き起こってくる。

このユーモアの情動がどのように引き起こされるのか、さらに、それをどうして愉快だと感じ、笑いにつながるのか―――認知科学者(ハーレー)、哲学者(デネット)、心理学者(アダムズ)の3人の共同研究『ヒトはなぜ笑うのか』が、この謎を解き明かす。

「可笑しさ」のメカニズム

本書では、ユーモアの情動が発動するとき、そこに何らかのエラーの発見があることに注目する。私たちは、ある知識や信念に不一致を見出したとき、可笑しみを感じる。私たちは、何かがおかしいと分かったとき、それを可笑しいと感じる。

しかも、不一致であれば必ず可笑しく感じるとは限らない。いったん真だとコミットメントされた要素が偽だと判定されるとき、ユーモアが生じる―――これが「可笑しさ」のメカニズムだという。暗黙裡に当然視していたものが、一気に一挙にひっくり返る発見、これがカタルシスにつながる。

さっきの「犬、売ります」だと、掲示板かSNSのような場所に、犬の買い手を募集していることが分かる。続く「なんでも食べます」は、「(犬は)好き嫌いせず何でも食べる」と整合的に理解される。

そして、「子どもが好きです」が入ってくると、いったんは「子どもに懐きやすい犬」と受け入れられる。だが、その後、「なんでも食べる犬」という全体像と比べると、「好き嫌いせず子どもを食べる犬」と読み取ることができてしまう。

いったん受け入れた「子どもに懐きやすい犬」が偽だと判定されるとき、わたしは、可笑しみを感じる。もちろん、「子どもを食べる犬」というグロテスクな結論は偽なのだが、それも含め、この文章に促された誤読(おかしさ)の発見こそが、愉快なのだ。

ユーモアは適応である

この「愉快だ」というユーモア情動には、適応的な働きがあるという。この情動は一種の報酬であり、これを求める動機付けになるというのだ。

たとえば、私たちは果糖がもたらす感覚を「甘い」として心地よく味わう。それは、エネルギーたっぷりであるが故に、グルコースの摂取を求めるよう、「甘さ」が動機づけられている。甘い・美味しいという感覚は、グルコースを摂取した報酬になる。

それと同様に、「可笑しい」という感覚は、今まで当然だと思っていた知識や信念の中に、首尾よくエラー(おかしさ)を見つけた報酬だという。私たちは、チョコやケーキを求めるように、ジョークやユーモアを求めているのは、こうした理由によるというのだ。

ユーモアの報酬システム

本書では、このユーモアの報酬システムを、「メンタルスペース」を用いて説明する。

頭の中で活性化する概念や記憶、耳や目などから入ってくる情報や感覚などは、粒度も精度も種々雑多だ。だから、トピックごとに一定のまとまりを持って、ワーキング領域を割り当て、その中で理解しようとする(この概念的な領域のことを、メンタルスペースと呼ぶ)。

時間に追われながら、リアルタイムでヒューリスティックな検索をしている脳が、入ってくる言葉や概念を完璧にチェックできるわけではない。だからこそ、エラー発見に報酬を与えるのだ。本書の p.37 にこうある(太字化は私)。

検証されないままであれば、メンタルスペースで生じるエラーは、最終的には世界に関するぼくらの知識を汚染し続けることになる。そのため、信念と推量の候補たちを再点検する方策が欠かせない。エラーを猛スピードで発見・解消する作業は、強力な報酬システムにより維持されねばならない。

この強力な報酬システムこそが、ユーモアの情動となる。ユーモアの情動とは、メンタルスペースをひっくり返すぐらいの「おかしさ」を発見した「可笑しみ」というご褒美なのである。

適応としての「笑い」

では、愉快なとき、なぜ笑うことがあるのか。

愉快な情動に身を任せて爆笑し、身体を揺すって大声で笑うのはなぜか。単に愉快なら、「甘い」という感覚と同じように、黙って味わえばよいではないか。笑う発声や身振りは、どこから来たのか。

この「笑い」は一つであるが、そこへ至るまでは複数の要因があるとする。本書では、笑う発声や身振りについては、「誤情報だった」というシグナルの適応だ主張している。

つまりこうだ、「敵が近づく音がした!(緊張)→物音は間違いだった(緩和)」から生じるときの声や動作が始まりだという。「安心しろ、ヤバいのはいねぇよ」という合図が、後の私たちにとっての笑い声になるのだ。

そして、「誤情報だ、警戒を解け」というシグナルのレパートリーを持っている者たちにとっての適応度を強化した、と述べている。仲間が笑っていると、つられて笑ってしまう(笑いの伝染)のは、こうした理由で説明することができる。

たしかに私は、「心配いらないよ」という時でも「安心したよ」という時でも笑うし、一緒に笑うことに、人の繋がりを感じる。『新世紀エヴァンゲリオン』の第6話の、この言葉を思い出す。

「ごめんなさい。こういうときどんな顔すればいいかわからないの」

「笑えばいいと思うよ」

人間だけが笑う

「おかしい」を発見すると「可笑しい」と感じるユーモアの報酬システムや、「安心しろ」「愉快だな」という連帯を伝える笑いの適応を見てきたが、本書には、古今東西の賢人たちのアプローチが紹介されている。

面白いのは、「笑い」について調べれば調べるほどに、人間とは何か、知性とは何かといった問題に向き合うことになる。アリストテレスの「動物のなかで人間だけが笑う」理由にも答えることになるのだ。

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やりたいことは全部やる『キミオアライブ』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年6月14日


Kimioa

病院のベッドで、ひたすらノートに書く少年。

大病を患い、未来に絶望しかない状況で、「やりたいこと」を書き続ける。リストには、たくさんの「夢」が並んでいる。

  • リコーダーを吹きたい
  • 風船の中に入ってみたい
  • 自分で考えた物語を本にしたい
  • 部屋中を使ってピタゴラ装置をつくりたい
  • 空を飛びたい
    ………………

ささやかな願いから、とんでもない冒険まで、さまざまな夢がある。

あなたは、こんな「やりたいこと」リストを作ったことがあるだろうか?

わたしはある。むかし「夢ノート」が流行ったとき、やりたいこと、行きたいところ、食べたいものなどを綴った覚えがある。リストを作り、名前を付けて保存した。それから十年にもなる。

しかし、少年は違う。名前はキミオ、『キミオアライブ』の主人公だ。

  1. ノートに、やりたいことを書く
  2. 書いたことは、必ず実行する
  3. 実行したら線を引く

キミオは、律儀に、真面目に、一つ一つ、実行していく。

「リコーダーを吹く」は簡単にできるが、ピタゴラ装置はちょっと大変かも。さらに、「空を飛ぶ」のはもっと難しい。飛行機に乗ればいいのか? あるいは、[ジェットマン] や [ウイングスーツ] みたく、命をカネをかけて飛ぶのか? 

できない理由ではなく、できる方法を探す

しかし、キミオは違う。別の方法で「空を飛びたい」を実現する。

ここが、キミオとわたしの大きな違いだ。

わたしは、「やりたいこと」が浮かんだとき、まず、その「できない理由」を探し始める。お金が無いから、もっと時間があったなら、スキルが足りない、仲間が必要、そもそも法律で許されているの? なんて考えてるうち、名前を付けて保存したくなる。

一方、キミオはこう考える。「もしそれを実現できるなら、どんなやり方がある?」と考える。あるいは、「何が実現されたなら、『できた!』になる?」と考える。そして、できる方法を探し始めるのだ。

やりたいことで、生きていく

この発想力と企画力、そして実行力がすごい。

最初は呆れて馬鹿にしていた周囲の人も、だんだんとキミオに巻き込まれてゆく。

その一方で、キミオ自身も、自分のためだけではなく、仲間と一緒に企画して、知恵を出して実現する喜びを知る。さらに、「あの人の笑顔が見たい」という新たな「やりたいこと」を見出す。

そして、この喜び、楽しさ伝える、動画配信という方法があることを知る。動画配信は、「やりたいことで、生きていく」ための強力な武器になりえる。

後に、チャンネル登録数1000万人を超える youtuber となるのだが、それはまた別のお話らしい……

今をやり直す

『キミオアライブ』の第一話を読んだとき、以下を初めて読んだときと同じ衝撃を受けた。

きっとお前は、二十年、せめて十年でいいから、

戻って人生をやり直したいと思っているのだろう。

今やり直せよ、未来を。

十年後か、二十年後か、五十年後から戻ってきたんだよ、今。

第一話は、『キミオアライブ』 から読める。

第一巻は、コロナで書店が閉まっていた時期に発売され、気づかなかった。読書猿さんが呟いてくれたおかげで、知ることができた。読書猿さんありがとう! おかげで、「やりたいこと」をやらなかった十年後から、今に戻ってくることができた。

人生の持ち時間は少ない。やりたいことは、全部やろう。

 

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読書は毒書、マンディアルグ『黒い美術館』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年6月21日


ぬるい小説はいらん。読んだら心が抉られるような劇薬を、読みたい。

「号泣した」とか、「ページを繰る手が止まらない」といった誉め言葉が満ちているが、そんな気分じゃない。むしろ、「読まなきゃよかった」とか、「ページを繰る手をためらう」作品が読みたい。

そんな劇薬を『スゴ本』で語った(怖いもの知らずは、特別付録の「禁断の劇薬小説・トラウマンガ」をご覧あれ)。すると嬉しいことに、「それが猛毒なら、これなんていかが?」と紹介していただいた。

それが、マンディアルグの傑作短篇集『黒い美術館』だ。

マンディアルグ!

知ってる人はドン引く強烈な作家で、代表作の『城の中のイギリス人』では、エロスと残虐性を徹底的に追求している。これ喜んで読む人は、ウェルカムトゥ・ザ・変態・ワールドやね。

収録されているのは以下の5編、純粋無垢の存在を、残虐に汚す才能が、如何なく発揮されている。

  • サビーヌ
  • 満潮
  • 仔羊の血
  • ポムレー路地
  • ビアズレーの墓

マンディアルグの凄いところは、物語に出てくるイメージが、読者に与えるコントラストを操作しているところ。読み手の脳内で起こる「映え」やね。

たとえば、由緒あるホテルの真っ白な浴室と、そこでリスカして飛び散った大量の血潮のコントラスト。あるいは、ウサギの可愛いモフモフした感じと、屠殺人が使う冴えわたった刃物の鋼鉄のイメージ。月の運動によって生じる満潮のタイミングと、処女の口の中にぶちまけるという発想。

猛毒だとお薦めされたのが、「仔羊の血」だ(@hikimusubi さん、ありがとうございます!)

これは素晴らしくエロスなやつ。えっちなやつではなく、油ギッシュで臭うやつ。

少女と黒人、仔羊と屠殺人、赤い血と黒い手といったコントラストに、色とりどりに塗られた仔羊の群れが加わったり、脂でべとついた毛皮から処女の秘処に這い上るシラミ(後に猛烈な痒みをもたらす)のイメージが美麗なり。

むせるような麝香(じゃこう)の匂いと、股の下の仔羊のべとついた肌ざわりと、うごめくシラミの痒みのせいで、少女はこらえきれず尿を洩らしてしまう。その直後の、黒人の手の描写が秀逸だ。

間髪を入れずに、黒人の両手が彼女をひっつかんだ。なめらかに乾いた大きな二つの手が、知能をそなえた高等な寄生虫みたいに、ゆだねられた肉体の上で我がもの顔に、肌着の下へもぐり込み、乳房のまわりへ忍び寄り、下腹部に触れ、まさぐり、さまよい、それから濡れた股に沿って太腿の付け根へと引き返すのだった。

どうして二人がそんなことをしているのか、これらから彼女がどうなるのか、さらに黒人にどんな運命が待ち構えているのか。気にするな、ストーリーこそ余談だ。代わりに、ビジュアルの鮮烈さに撃たれ、もどかしい体感に身をよじり、おぞましい臭いを嗅ぐがいい。

読書は毒書、ただ酔えばいい。



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1つの定理を証明する99の方法

タイトルまんま。以下の定理を証明する99の方法が書いてある。

  x3 - 6x2 + 11x - 6 = 2x - 2 ならば x=1 または x=4

高校の知識を引っ張り出して考える。

最初の式を変形すると、

  x3 - 6x2 + 9x - 4 = 0

因数分解で

   (x-1)2(x-4) = 0

となり、これが成り立つのは  x=1 またはx=4 のとき。

あるいは、左辺、右辺をグラフにする。

  y = x3 - 6x2 + 11x - 6
  y = 2x - 2

3次式と直線の交点は、(1,0)と(4,6)なので、x = 1 または x = 4 のとき成り立つ。

1_20260605180801

他は……思いつかない。

だが、数学者の手にかかれば、99も出てくる。図だけで示したり、背理法で証明したり、代入、対称性、反例、対偶、定義といった数学の世界からのアプローチや、力学や音楽、色相を用いたり、折り紙を使って証明したりする。

どんな宛先であろうと、いったん数式を変換できさえすれば、後はそこで表現すればいい。その発想が、どれだけ自由に解き放てるかという練習になる。

No.26 聴覚による

めっちゃ笑ったのが、聴覚による証明だ。

本書では素っ気ない図なので、GPTに説明し、描画してもらった。

Photo_20260605181301

ついでにwavにしてもらった。

ダウンロード - auditory_proof_reconstruction.wav

  f(x) = x3 - 6x2 + 11x - 6
  g(x) = 2x - 2

要するに、xは時間(拍)でyは音程に対応させて、演奏する。先ほどのxy平面上のグラフを、ヴァイオリンでやる イメージ。f(x)は第1ヴァイオリンが担当し「フゥイーーイ↓ ↓ ーーイ↑ ↑ 」と奏で、g(x)は第2ヴァイオリンが担当し、「フゥーイー↑↑↑」と鳴る。それぞれのパートでユニゾン(同じ音)となった箇所がx=1またはx=4となる仕掛けだ。

No.50 色による

これも笑った。

色相は円グラフで表現される……ということは、360°で元の色になる。xの単位(ここでは40°=1単位)を決めれば、その単位においてf(x)とg(x)の色が決まる。そして、色相が同じ箇所が、f(x)とg(x)の2つの解となるというのだ。

Photo_20260605181302

No.39 折り紙

難解なのは折り紙だ。何回読んでも分からない。

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GPTに尋ねると、正方形の折り紙を、アナログ計算機の一種として考えろという。そして、①~⑥の折り目は、紙の上に方程式の情報を埋め込むことになるという。そして、☆と★をそれぞれ折ると、その折り方は2通りあり、根になるという。

分からん。本書には「リルのやり方」をなぞっていると記されている。おそらく、以下のLillの法則のことを指しているようだ。こちらは何となく分かるが、それが上記の折り紙にどう対応づけられるのかが分からん。

n次方程式の実数解を幾何学的に得る方法 : DragonFlare Trail 

数式による操作を、折り紙に対応づけるのは面白い。折り紙で遊んでみよう。

数学は厳密で自由だ

この、一つのものを様々な技法で表現する試みは、クノー『文体練習』を思い出させる。

『文体練習』とは、「バスの中で男をみかけた」という平凡な出来事を、隠喩を用いたり、自由詩にしたり、短歌にしたり、手紙風にしたり、食べもので喩えたり、論理的にしたり、正確無比にするなど、99通りの書き方で表現したもの。人を喰った本といっていい。

あるいは、「爆発音がした。俺は振り返った」という文を、ケータイ小説、ラノベ、村上春樹、竜騎士07、司馬遼太郎……と、様々な作家に憑依して並べた「爆発のコピペ」を思い出すかもしれぬ。

共通するのは、表現は自由で多様だという、あたりまえのことになる。

数学には、厳密で一つの答えしか許さないというイメージを抱いていたが、本書を読むと、答えに至る道筋は、驚くほど多様で自由でムチャしてもいいように見えてくる。

そして、数学の場合、文章表現とは少し事情が違ってくる。

小説や詩なら、表現を変えれば意味あいも味わいも変わってくる。だが数学では、どれだけ表現を変えても、最後に辿り着く真理は同じものになる。デカルト平面だろうと、ヴァイオリン演奏だろうと、色相だろうと折り紙だろうと、どんな言語やオブジェクトに翻訳しても、

  x = 1 または x = 4

という事実だけは変わらない。

だから本書は、99の証明集であると同時に、数学がどれだけ多様になれるかに挑戦した本でもある。

数学は堅苦しい規則の集まりではない。むしろ、厳密さを保ったまま、どこまでも自由になれる世界だといえる。

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心と時間の不思議に迫る『心にとって時間とは何か』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年6月28日


時間は、過去→現在→未来の順に流れており、わたしが「いま」だと感じているものは、現在のことだと思っていた。だが、[この視覚実験]をやってみると、疑わしく見えてくる。

赤い丸と青い丸が交互に点滅しているのを見るだけ。パラメータを変えると、赤丸から青丸に向かって、丸が移動しているように感じられる(私は preamble = 1000, disk = 80, inter-disk = 100にしたが、人によって微妙な調整が必要かも)。

問題はここから。タイミングを変えることで、赤丸から青丸に移動する途中で、丸の色が赤から青に変わっているように見える。まだ青を見ていないにも関わらず、未来に見えるはずの青を感じているように思われる。

なお、直前に見た青から、色の変化を予想しているわけはないらしい(色変化をランダムにしても同様の結果になるという)。

心にとって時間とは何か

つまり、途中での色変化(赤→青)を見ているとき、すでに青の情報を受け取っているということになる。そして、その情報を踏まえたうえで、色変化の映像を作り上げた、と考えるしかない。現在の中には、未来も含まれているのだ。わたしが「いま」のものだとして見ているものなのに、未来も視ている感覚になる。

「いま」とわたしが言うとき、その一瞬を物理的にスライスした世界を知覚するのではなく、ある程度の時間的な幅をもった物理的世界の情報を元に構成されている。すなわち、既に体験した現象と、まだ体験していない(と考えている)現象が混ざり込むような形で「いま」が体験されているのだ。

カラーファイ現象は、『心にとって時間とは何か』で知った。

他にも、知覚や記憶と自由意志を揺さぶる実験を紹介する。有名なリベットの実験の致命的な欠陥や、フッサールの時間の哲学への批判が面白い。反証が難しいとされる「5分前創造仮説」を限界まで弱める方法や、「自殺=未来の自分に対する他殺性」の思考実験もユニークだ。

こうした実験やトピックを通じて、著者は、時間とは何かについて、どこまで分かっているかを描こうとする。時間について迫るほど、それは意識の問題、心の問題になるのが面白い。

「精神と時の部屋」はタイムマシンか

特に面白かったのが、タイムトラベルの非対称性だ。

SF小説や映画に出てくるタイムトラベルについて、著者は面白いことを言い出す。すなわち、タイムトラベルにかかる「時間」に着目する。

改造したデロリアンで時間を跳ぶ「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が典型で、時間旅行にかかる時間は一瞬だ。他にも、霧に包まれ気づいたら戦国時代に居たり、冷凍睡眠から覚めたら未来だったりもあるが、ポイントは、主観的な時間(主人公が感じる時間)はごくわずかなところ。

この主観的な時間と、主人公を取り巻く世界の時間の違いについて、「精神と時の部屋」を例に説明する。

「精神と時の部屋」は、ドラゴンボールに出てくる特別な部屋で、ここで一年間を過ごしても、外の世界では一日しか経っていない。

普通だと、一年間を過ごしたら、365日後の世界になるはずだ。だが、一年後より364日前の世界に居るのであれば、これは過去のタイムトラベルと見なせるのではないか? という着眼点だ。

もちろん、登場人物の誰もそう考えてはいない。マンガの読者をはじめ、「精神と時の部屋」を過去へのタイムトラベルと見なすのは不自然だという。

しかし、部屋の外と内側を逆転させると、未来へのタイムトラベルと見なすことができる。つまりこうだ、部屋の中で一日を過ごすと、外の世界では一年が経過している。これは冷凍睡眠タイプのタイムマシンと言えるのではないか。

ここから広がる、タイムトラベルにおける、未来と過去の非対称性の話が面白い。ポイントは、主観的な時間のスケールと、その外側の世界の時間のスケールの違いにある。

処刑は3時におわった

この、主観的な時間のスケールと、それを取り巻く世界の時間との違いは、手塚治虫の短編マンガ「処刑は3時におわった」を思い出す。

「時間を延長させる薬」を手に入れた男が、処刑される寸前に飲み、脱出を図ろうとする話だ。薬を飲むと、1秒の長さが1分ぐらいに感じられるようになる。つまり、主観的な時間のスケールが60倍もする世界になる。いわば、精神と時の部屋の薬バージョンである。

わたしはここに、時間の問題の難しさがあると考える。

もちろん、時間は計ったり指し示したりできるので、客観的な量としてあるように見える。わたしたちは日常的に「時間の流れ」について言及する。

だが、その時や間を認識するのために、主観がまとわりつく概念でもある。男の主観から時間をどのように流れ、その「主観」がどこまでの範囲なのかが、クライマックスとなる。

精神と時の「部屋」は、明確な部屋の出入りがある。だが、男の身体に生じている時間の延長は、主観とは何かまで踏み込まないと、明らかにならない。

ニュートンをはじめ、多くの物理学者が時間の流れを扱わなかったと言われるのは、こうした理由によるのかもしれぬ。

時間とは何か、どこまで分かっているかを確かめ、どこが議論されているかを確かめる一冊。

 

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読み方を学び、文学と出会いなおす『クリティカル・ワード 文学理論』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年7月5日


「文学」に興味がある人に、強くお薦めする。

『クリティカル・ワード 文学理論』は2部構成となっており、どちらから読んでも得るもの大。

一つは、「基礎講義編」、現代文学の第一人者の小論を、腰据えて読む。テーマは「読む」「言葉」「欲望」「世界」とあり、文学を理論的に思索するとはどういうことか、という問いに対し、この小論そのものが実践的な解になる(この手法は身につけたい)。

もう一つは、「トピック編」、パラパラ眺め、目を引いたキーワードを拾い読む。すると、自分の興味のすぐ隣に、さらに面白い議論があることが分かる。「ジェンダー」や「ポストヒューマン」といった分野ごとに、見取り図が提示され、それぞれの主張を支える構造が確認できる。

Bungaku

どちらからでもいいが、基礎編で手法を学び、トピック編で応用されている議論を俯瞰すると入りやすいかも。この、基礎→応用で、最もわたしの興味を貫いたのは、エドワード・サイードになる。

対位法的読解

基礎講義編では、様々な読み方が紹介されている。

自分でも色々な読み方ができると思っていたが、テクスト論や徴候的読解、言語の脱領土化など、新しい&強力な読み方を知ったのが収穫だ。

なかでも、サイードの「対位法的読解」が目を引く。

これは、音楽の対位法から着想を得たスタイルで、主著『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』において実践した、斬新な読みになる。

前提として、テクストは、かならず多声的(ポリフォニー)だという。そのため、「作者の意図」や、「〇〇イズム」といった単一の意味に収斂するような単声的読解を退ける。その一方で、それぞれの声がバラバラの「なんでもあり」とはならず、ゆるやかな関係性を保つように読むのだ。

具体的には、ジェイン・オースティン『マンスフィールド・パーク』を俎上に据えられる。この小説、ふつうに読むと、ユーモアたっぷりの恋愛劇に見える。イギリス的な荘園を舞台に、恵まれない境遇の少女が、道徳心を縁に困難を乗り越えてゆく物語だ。

しかし、サイードは、一見何でもない描写―――西インド諸島の植民地プランテーションへの言及に着目し、その糸口から、作品全体の裏地を炙り出す。いかにもイギリス的な小説世界は、実は、植民地の奴隷労働で維持される収奪システムの上に成り立っていることが明らかにされる。

ポスコロ→ジェンダー論の応用

支配のための意味づけによって見えなくされていた関係性を見出し、支配的言説を批判することで、絡まり合った歴史を解きほぐす<読み>だという。ポストコロニアル批評と呼ばれ方法論は、後半において、様々なトピックに応用されている。

その中でも「ジェンダー・セクシュアリティと文学」が顕著だ。

男性には気づきにくいが、家父長制社会では、男性中心の言説が支配的になる。そして、この言説で構築された物語に女性を押し込めてきたという。女性を抑圧する父権性は社会に構造化されており、関係性は見えづらい。

そこで、サイードの手法を用いて可視化する。

目に見えている表象から、その背景にある言説を炙り出し、それが支配を正当化していることを論証する。

対位法的読解によるオリエンタリズムをジェンダー論に応用すると、西欧白人中心主義による植民地支配の構造は、そのまま男性中心主義による、女性支配に置き換えることができる。

文学理論の暴走

これ、やり方によっちゃ無敵の武器になる。

援護しているのは、デリダのテクスト論だ。書かれたものについて、作者や世間のイメージから切り離し、多様な読みを認める手法だ。作者の意図や論壇の権威に配慮することなく、書かれたものだけを頼りに、批判的に検証する。

そのため、ただの恋愛小説や冒険物語といった、「政治」とは無縁に見える小説から、植民地収奪システムや帝国主義的関係が織り込まれていることを、解きほぐすという読み方ができてしまう。

要するに、なんとでも読めてしまうのだ。最近よく見かけるハンマー「現在の価値観でもって歴史を殴る」も、この延長上にある。本書では、「対位法的読解」=「自分の主張に引き付けて読む」という姿勢を戒める。

安易な応用が、あらゆるテクストから「帝国主義的イデオロギー」という「ひとつの意味」を抽出して非難することで事足れりとする「単声的」な態度は、対位法的読解の主旨に著しく反する。

これは分かる。しかし、だとするとサイードがしてきたことがまさに「オリエンタリズム」という単声性に収斂させる仕事になるのではないか? という疑問が生じてしまう。

おそらくこれは、ピッと線引きできる簡単な話ではなく、サイードが著した『オリエンタリズム』のような膨大な質量の蓄積があって始めて主張できる議論なのだろう。単純に、手法をマネすれば同じことが言える、という話ではなさそうだ。

 

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意味が分かると『しびれる短歌』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年7月12日


ほんとうはあなたは無呼吸症候群おしえないまま隣でねむる
鈴木美紀子

同室で枕を並べる夫婦なのに、少なくとも妻は冷めきっているのが分かる。

「ほんとうはあなたは」で、夫の寝息がおかしいことに気づいてから、結構な日数が経っている。おそらく、就寝中の夫の寝息がおかしいことに気づいて、ネットか何かで調べ、「無呼吸症候群」に辿り着いたのだろう。

放っておいたら、そのまま息をしなくなるかもしれない。それも織り込み済みで、「おしえない」。ずっと息をしないようなら、「おしえない」まま目を閉じて、朝まで待つのではないかと、ぞっとする(「教えない」と漢字にしないところに、淡々とした意志を感じる)。

夫婦はホラーだ。これなんかもそう。

湯上りに倒れた夫見つけてもドライヤーかけて救急車待つだろう
横山ひろこ

風呂上りのヒートショックで、夫が脳卒中を起こしたのか。

この場合、「おしえない」のは犯罪なので一応、救急車は呼ぶ。だけど、待っている間は髪を乾かす。寝かせるぐらいしか応急処置はないからだ。冷静なのか非情なのか。性別逆転すると石を投げられそう。

東直子さんと穂村弘さん、二人の歌人が紹介する『しびれる短歌』では、ヒヤりとするような歌がいくつも出てくる。現代の短歌では、夫は粗大ゴミであり、ぬれ落ち葉として扱われるらしい。「断捨離で最も捨てたいのは夫!」なんて涙を禁じ得ぬ。

これなんて、ぞっとするだけでなく、物語を感じる。

家族の誰かが「自首 減刑」で検索をしていたパソコンがまだ温かい
小坂井大輔

この家では、パソコンを共用していることが分かる。さらに、「検索」という言葉から GoogleやYahoo検索のことで、いわゆる昭和の時代ではないことが分かる。

それだけではない。検索キーワードを知っているということは、履歴を開いたことになるし、「自首 減刑」という言葉から、「自首したらどれくらい減刑されるのか」という意図が、そして家族の誰かがそれを知りたいと思っていることが分かる。

何をしてしまったのか?

もちろん、興味本位で調べたのかもしれぬ。だが、「まだ温かい」という言葉は、犯行現場に残された証拠品から「犯人はそう遠くに行っていない」「犯行からまだ時間が経っていない」ことを示す慣用句だ。

この一行からざわつきが伝わり、それを言えない詠み人のもどかしさも感じられる。詠み人にやましいことがあるならば、自分の犯行が家族にバレた? と不穏な物語を広げることだってできる。

これなんて、自分の身体をモノのように扱っている。

したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ
岡崎裕美子

「したあと」とは、要するに彼氏の部屋にお泊りしたことなんだろうし、自転車は昨夜乗ってきたやつだろう。事後の朝チュンの後、帰るところなのだろう。

しかし、「だるい」というのはいかがなものか(分かるけどw)。もっとこう、ドリカムの「うれしはずかし朝帰り」みたいなものを求めていると、ぜんぜん別の感情にぶつかる。

これ、自転車の撤去予告に自分を重ねているんやね。

赤紙が貼られて一定時間が経過すると、放置自転車として撤去され、処分される。いわば、その場所に居られることに、タイムリミットがついていることをが宣言されている。

そのまま、彼氏にとっての彼女という居場所もタイムリミットがついているやるせなさ。「したあと」の疲労に、心地よさより「だるい」と感じるどうしようもなさ。

そういったものを、哀しむでもなく、憐れむでもなく身体ごと突き放し、「だるい」の3文字で片づける。

こんな風に、さまざまな短歌が、テーマごとに解説されている。甘さより苦み多めの「恋」の歌や、意味が分かると怖い「家族」の短歌、「時間」や「固有名詞」といった珍しいもの、五七の形式さえ守れば短歌になるのか、トリッキーなやつもある。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
笹井宏之

これは、[今の中を生きるために歌がある]でも紹介したが、目から情報のように「読む」というよりも、むしろ空気や水を呑み込むように、身体の中に言葉を入れるような感覚に陥る。

短歌の破壊力が凄い。一行が目に飛び込んでくるから、構える間もなく理解に達し、感性を撃つ。一行の物語に震えて痺れる。短歌のコスパはかなり良い。

しびれる短歌を、おためしあれ。

 

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アルマゲドン、遊星からの物体X、ディープ・インパクト……人類の終わりを楽しむ『映画と黙示録』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年7月18日


「終末もの」の映画が好きだ。

核兵器やエイリアン、天変地異によって人類滅亡の危機が迫るとき、それまでいがみ合っていた人々が団結し、科学技術を駆使して立ち向かうやつ。「世界の終わり」を楽しむ映画だ。

『映画と黙示録』(岡田温司/みすず書房)によると、こうした終末ものは、「ヨハネの黙示録」に代表されるキリスト教の終末思想が世俗化したものだという。さらに、世界を滅ぼす存在については、映画が作られた時代が色濃く反映されているという。

宇宙人、ウイルス、放射能……その時代の人々が、何に恐怖し、何を救いとしていたかを、映画は具体的に見せてくれる。

核が世界を救う

たとえば、「核こそが世界を救う」という隠れテーマが面白い。

巨大な隕石が地球に向かっており、このままだと人類が危ない―――そこで核兵器を使用して、カタストロフを回避するストーリーが定番だが、1958年の『天空が燃えつきる日』を始め、『メテオ』『アルマゲドン』『ディープ・インパクト』などが紹介される。

著者はここに、冷戦時代における核兵器の開発競争と、その正当化が隠れているという。

ひとたび核戦争が起きれば、相互確証破壊により、人類は何度でも滅亡できる程の核弾頭がある。脅威を宇宙へ向けることで、非難を逸らし、核兵器の有効活用の可能性を示す。

わたしの場合、『アルマゲドン』をスペクタクル+家族愛の物語として感動していたが、言われてみれば、「最終手段・核爆弾」を所与のものとして受け入れていたな……隕石に限らず、宇宙人や怪獣など、巨大な脅威に対してはお約束レベルで刷り込まれているのかも。

恐怖の対象は世相を反映する

また、何を脅威とするかは、それぞれの時代を反映しているという指摘が面白い。

  • 1950~60年代は、冷戦と核兵器
  • 70年代は、環境問題や人口増加
  • 80年代は、パンデミック、ウイルス
  • 90年代以降は、テロリズム、移民・難民問題

こうした時代背景に基づき、脅威を強化するように「世界の終わり」を描いた映画が作られ、観られてきたという。本書では、リメイクされた映画を分析することで、その時代の「脅威」を炙り出す。

たとえば、みんな大好き『遊星からの物体X』(1982)が象徴的だ。

南極の極限状況で異星人に立ち向かう話だ。異星人はグロテスクな怪物として扱われ、接触した人を感染させて吸収するが、見た目は変わらない。そのため、隊員たちは疑心暗鬼になり、仲間内で殺し合うハメに。

著者はここに、「敵は仲間の中に潜む」メッセージを読み取る。さらに、1980年代に入って急速に世界に広がった、エイズへの不安が投影されていると見る。「血液に潜むエイリアン」というイメージは、あの血液検査のシーンで強化されているなぁ……

いっぽう、リメイク元の『遊星よりの物体X』(1951)では、異星人の姿かたちは、人とほぼ同じ。頑丈な大男で、著者はここに、米ソの冷戦構造を反映したロシア人のイメージが重ねられているという。

しかも、異星人が来るのは、米ソの境界のアラスカだ。かつてロシア領だったが、財政難のため、アメリカに売り渡したいわく付の土地だ。ロシア人に似せたエイリアンは、まるで領土を奪い返すため来たといわんばかりになる。

恐怖の対象「物体X」は、映画を見る人にとって、時代の不安を体現しているといえるだろう。

映像に写り込まれた世相

迫りくる脅威から逃れるため、シェルターに逃げたり、宇宙船で脱出するストーリーもある。現代版のノアの箱舟といっていい。

シェルターも宇宙船も、定員が決まっている。入れる人は抽選で決められるというが、金持ちや権力者が優先される。しかも、抽選の枠には条件があり、年長者や病人は最初から除外されている。

抽選で決まった幸運な人々は、なぜか白人ばかりになる。科学者やエンジニア、医者や兵士が多い。

著者は、『地球最後の日』や『ディープ・インパクト』を挙げながら、「選ばれた人々」に注目する。そして、現代のノアの箱舟によって救済され、人類の未来を背負うのは、もっぱら若い科学者やエンジニアであり、科学への素朴な信仰が、ほとんど疑問視されないことを指摘する。

意図した上かどうかは分からない。だが、何を採用し何を写さないかには、映画を作る人の判断が混ざる。何を脅威とし、何を救うかには、その時代の世相がバックグラウンドとして、写り込んでいるのかもしれぬ。

人類がどのような終末を迎えるのか? 黙示録映画を通じ、時代ごとの「脅威」の創造性を垣間見る一冊。

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“奇跡の惑星”から、ありふれた奇跡へ『系外惑星と太陽系』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2017年9月28日


 読前・読後で世界を一変せしめるような本をスゴ本と呼ぶのなら、これはまさしくそれ。

 なぜなら、薄々考えてきたことが、エビデンスと共に論証されており、今まで学んできた天文学、地球物理学、生命科学の知識が急速に収束し、「地球外生命はいる」という確信になろうとしているから。同時に、わたしの思考が、いかに地球を中心に囚われていたことに気づかされたから。

 タイトルの「系外惑星」とは、太陽系以外の惑星のこと。ここ数十年の間、この系外惑星が続々と発見されるにつれ、生命活動が可能な惑星(ハビタブル惑星)に対する認識が塗り替えられてきた。かつては、かつては「奇跡的」だったものが、「ありふれた奇跡」になろうとしている。しかも、ハビタブル「惑星」である必要はなく、ハビタブル「衛星」の可能性も示唆されている。

 つまり、「ハビタブル」の条件を考えるにあたり、「太陽系の地球のような惑星」のイメージを壊し、ゼロベースで考え直す。文字通り「生命を宿しうる」ことで再定義し、その条件を適当な惑星の質量・軌道、水、炭素、窒素、エネルギーの供給というように捨象してしまう。すると、太陽系に似た惑星系である必然性はなくなり、地球に似た惑星である必要もなくなる。サイズによっては惑星である必要性もなくなり、衛星でもよくなる。

 そして、相当する質量や軌道という観点であれば、惑星系性理論および観測された系外惑星の軌道分布から予測可能であり、元素およびエネルギーの供給については、惑星大気の観測からある程度の実証を得ることができる。

 昔は、太陽系以外にも惑星があるはずだとして、様々な系外惑星探査が行われてきた。大型望遠鏡を使った探索は1940年代から本格化し、1980年代には観測技術は充分なレベルに達していた。しかし、系外惑星はほとんど発見できなかった。「第二の地球を探せ」というスローガンで、地球に似た系外惑星を探そうとして、(それが見つからなかったが故に)地球は“奇跡の惑星”とされた。

 今は、一定の確度を持ち、予測と検証を繰り返しながら観測を行うことで、系外惑星の発見数は、爆発的といっていいほど激増している。この今昔の境は1995年以降、「ホット・ジュピター」や「エキセントリック・プラネット」と呼ばれる常識外れの惑星が見つかってからだという。いま、まさにパラダイムシフトが起きているのに、気づかぬまま通り過ぎているという感覚。楳図かずおの傑作『わたしは真悟』の「奇跡は誰にでもおきる。だが、おきたことには誰も気づかない」を地で行く感覚なり。

 なぜ、半世紀もの間、系外惑星を発見できなかったのか?

 なぜなら、ホット・ジュピターのような惑星の存在自体が、「想定外」だったからになる。恒星の周囲を、非常に高速で(公転周期4日)周っているガスで覆われた「熱い木星」なんて、想像がつくだろうか? あるいは、彗星のような楕円軌道を描き、灼熱期と極寒期をめまぐるしく繰り返す超巨大サイズの「奇妙な惑星」なんて、完全に常識外れだろう。

 この「常識」こそが、バイアスとなっていたという。つまりこうだ、わたしたちは、太陽系というたった一つのモデルでもって、恒星や惑星を考えようとした。サンプルが1つしかなかったため、惑星形成論とは、太陽系の姿をどのように合理的に説明できるかという議論に等しかったという。太陽系の姿に無意識のうちに囚われ、その「常識」の目で探そうとしていたため、文字通り視野が狭くなっていたのだ。

 著者は、さらにこの「常識」の中心に、キリスト教を中心とした西洋文化を指摘する。地球や生命、宇宙の始まりといった形而上的な問題について、人の考えは、そのバックグラウンドにある文化に影響される傾向がある。「神に選ばれて、キリストが誕生した特別な場所」でなければならない地球は、かつては宇宙の中心とされた。もちろん現代で天動説を信じる人はいないだろうが、太陽系や地球をあるべきモデルとしたがるバイアスは、少なくともわたしの中で、形を変えて生き残っていることが分かった。

 しかし、いったん太陽系モデルから離れて見るならば、その視野は驚くほど広がる。著者は、観測データからも理論モデルからも、ハビタブル・ゾーンに地球サイズに近い惑星が存在する確率は、10%以上はあるという。この銀河系に惑星は充満していると言えるのだ。

 しかも、惑星だけではなく衛星も含めると、その数はもっと大きくなる。ハビタブル・ムーンだ。木星の衛星のエウロパや、土星の衛星のエンケラドスは、表面は凍っているものの、氷の下には液体の海があることはほぼ確実で、そこでの生命の可能性が議論されている。潜ってみたら、微生物が「うじゃうじゃ」いましたと報告されても、驚く反面、やっぱりそうなのかもと思うだろう。

 この感覚は、ここ近年の天文学における発見が、わたしの考え方そのものに影響を与えたのかもしれぬ。見えていないものは、「まだ見つかっていない」可能性を残しているのであり、それは「存在しない」ことと等価ではない。だから、見えていないものについて想像する余白を、常に残しておきたい。

 パラダイムシフトが、まさにわたしの内側で起きているのを自覚した一冊。

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辺境と文明が逆転する『遊牧民から見た世界史』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年8月9日


中国がなぜ中国かというと、世界の中心を意味するから。

中国皇帝が世界の真ん中にあり、朝廷の文化と思想が最高の価値を持ち、周辺に行くにつれ程度が低くなり、辺境より先は蛮族として卑しむ華夷思想が根底にある[Wikipedia:中華思想]。

しかし、蛮族とされている遊牧民から見ると、舞台はユーラシア全体となる。遊牧生活によって培われた軍事力で圧倒し、スキタイ、匈奴の時代から、鮮卑、突厥、モンゴル帝国を経て、大陸全域の歴史に関わる。中心と周辺が反転し、中華は一地域になる。

視点を反転することで、いままで「常識」だと考えてきたことが揺らぎ、再考せざるを得なくなる。歴史を複眼的に眺めるダイナミズムが面白い。『遊牧民から見た世界史』は、その手がかりを与えてくれる。

「モンゴル残酷論」の誤り

たとえば、「モンゴル残酷論」これは誤りだとする。

モンゴル帝国といえば、暴力、破壊、殺戮というイメージが付きまとう。PS4ゲーム『ゴースト・オブ・ツシマ』やコミック『アンゴルモア元寇合戦記』に登場する蒙古は、血塗られた侵略者として描かれている。

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しかし、これは歴史の書き手による願望であり、よほどの例外を除きモンゴルはほとんど戦っていないという。

仮に、敵とみれば殺したという伝説が本当だとすると、モンゴルは増えない。ヨーロッパから中国まで、ユーラシア大陸を横断する規模で拡張するためには、仲間を増やす必要がある。

モンゴルの優れた点は、仲間づくりの上手さにあったという。自らの強さを喧伝することで、戦わずに吸収することを目指す。モンゴルという仲間になれば、身の安全が保たれるという、一種の安全保障を提供することで、帰順させるのだ。

軍事力を背景としながらも前面に出さず、関税を撤廃して経済と流通を隆盛させ、ユーラシア・サイズの通商を実現できた事実と、暴力と破壊のイメージはかけ離れている。おそらくこれ、どちらかが本当という二択ではなく、イメージと実践を使い分けたプロパガンダなのではなかろうか。

『ヒストリエ』とは違うスキタイ

スキタイの概念もひっくり返った。

スキタイといえば、教科書にある「遊牧民族」というカテゴリに加え、『ヒストリエ』では、主人公エウメネスがスキタイの血を引く者として描かれている。そこでは、誇り高く、残忍な一族だと示されている(以下、岩明均『ヒストリエ』2巻より)。

Yuubokumin

しかし、それはヘロドトスの言う「王族スキタイ」の一部の人々だという。スキタイの中のスキタイだという一族で、遊牧を行い、戦闘能力に長けた集団になる。スキタイは、この他に、以下も含まれるというのだ。

  1. 農耕・通商・航海をおこなう都市居住民
  2. 商業風の農業経営民
  3. 純粋農民、都市を作らない農村居住民
  4. 草原地帯に住む遊牧民の諸集団

つまり、遊牧だけでなく、商業や農業も入るし、草原のみならず都市や農村に住む人々も入る。人種(レイス)や民族(ネイション)に関係なく、王族を中心に結成された、政治連合体を、「スキタイ」と呼ぶのが最も近いというのである。

いったん、「スキタイ=民族」という公式から、離れる必要があるのだろう。ギリシャ人から見た「スキタイという民族」というイメージと、現実の「スキタイ」と呼ばれる人々との実態は、異なるようだ。

なぜ遊牧民は「残虐」なのか

なぜ遊牧民にマイナスのイメージがあるのか?

本書によると、遊牧民は「蛮族」というレッテルを押し付けられてきたという。その理由は、「遊牧民は、自らの歴史をほとんど残さなかった」ことにある。

一方で、記録する側は、自分たちを「文明人」だと考えて、遊牧民に対し誤解や曲筆の多い書き方をしたという。遊牧民に攻撃・支配された時代は、被害者意識を過大に記述するか黙殺し、記録する側が攻勢にある時期は、遊牧民に対し、蔑視や優越感が溢れる表現になる。

歴史を記す側は、正統性を主張し、覇道を唱えるため、残虐や非道ではないことを証明しなければならない。その仮想敵こそが匈奴・鮮卑といった外側の人々だというのだ。

本書では、遊牧民が自ら書いた数少ない史書のうち、『集史』を紹介する。

これは、モンゴル政権において国家編纂された一大歴史書で、モンゴル史を柱に、ユダヤ史、アラブ・イスラーム史、フランク史(ヨーロッパ史)、ヒタイ史(中国史)、オグズ史(遊牧民史)、インド史を含む空前の人類史だという。

ヘロドトス『歴史』と司馬遷『史記』に、この『集史』を加えることで、世界三大史書になる。本書では、三者を重ね合わせて読むことで、遊牧民から見た世界をダイナミックに解き明かしてくれる。

 

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きれいは汚い、汚いはきれい『不潔の歴史』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年8月17日


歴史上、いちばん不潔な信徒は、次のうちのどれか。

  1. キリスト教徒
  2. イスラム教徒
  3. ユダヤ教徒

『不潔の歴史』によると、史上最も不潔なのは、キリスト教徒だという。ホント!? 入信の際の洗礼のイメージから、きれい好きと思っていたが、違うらしい。

たとえば、イエスを食事に招いたファリサイ派の人は、イエスが食前に身体を清めなかったことに慄いたとある(ルカ11:37-54)。さらに、「あなたたち(ファリサイ派)は、杯や皿の外側はきれいにするが、その内側は強欲と悪意に満ちている(ルカ11:39)」と非難されている。

外見よりも内面を重視するエピソードだろうと思っていたが、これを真に受けて、わざと汚れたままでいることが、4~5世紀のキリスト教徒に流行したとある。手記や小説などで、キリスト教徒の汚さは相当なものだと紹介されている。

一方、ユダヤ教徒やイスラム教徒は、清潔でいることが宗教上の要求としてルール化されていたという。つまり、身ぎれいにすること自体が宗教活動の一つだったのだ。

「きれい」と「汚い」は文化の違い

『不潔の歴史』を読むと、「きれい」と「きたない」は文化的なものであることが分かる。

現代の米国人にとっては、清潔とは、毎日シャワーを浴びてデオドラント剤を付けることだし、17世紀のフランス貴族にとっては、体は洗わず肌着を毎日着替えることが「きれい」になる。古代ローマ人の風呂好きは有名だが、垢をかき落とす金属製のヘラは拷問用具に見える(ストリギリスというらしい)。きれいになる前に血を見そう……

自分の価値観に照らし合わせて「うへぇ」と声に出しながら読んでいるうちに、その自分の価値観ですら、後の世からすると、「うへぇ」なのかもしれぬ、と思えてくる。

たとえば、16世紀の外科医の科学的指導によると、風呂は禁止だという。なぜなら、風呂に入ることで、肌や体の器官が柔らかくなり、毛穴が開くことになるから(当時は毛穴から疫病の「気」が入り込むと考えられていた)。

あるいは、フランスの思想家モンテーニュは、毎日体を洗う習慣が無くなっても問題ないとし、むしろ、手足の垢が層になり、皮膚の毛穴が汚れで詰まっていることを良しとした。病気の予防のため、風呂に入らないという考えだ。

現代の価値観からすると怖気を振るいたくなるが、それなりの根拠がある。16~17世紀にかけてペストが流行したのだが、当時は原因が分からず、共同浴場で悪疫の「気」が入り込むと考えたのだ。

「くさい」という強迫観念

ろくに体を洗わず、垢や脂、ワキガは香水でごまかし、社会全体が臭いので逆に気づきにくい―――パトリック・ジュースキントの小説『香水』で予習はしていたものの、中世のヨーロッパは、相当臭っていたようだ。

では、なぜそれが現代の衛生観念に近づいたか?

上下水道の整備や衛生観念の一般化が思いつくが、本書では、広告戦略の影響が大きいとある。マウスウォッシュのリステリンは、今でも売れているが、1920年代は、こんなキャッチコピーで売り始めたとある。

  • 自分で気づきにくい体臭で、周囲に迷惑をかけている
  • あなたの口臭で、嫌われていませんか
  • 介添え人はしょっちゅう、花嫁はさっぱりなのは、臭いのせい

「あなたは自分の臭いに気づいていない」として、恐怖を煽って商品を得る「耳打ちコピー」という広告戦略が紹介されている。特に1920年代の米国において、この戦略により、デオドラントや消臭剤、ボディソープが飛ぶように売れたという。

これに加えて、ジョージ・オーウェルを例として、臭いと階層化社会の関係が挙げられる。オーウェルのルポルタージュ『ウィガン波止場への道』では、彼の子ども時代では半ば公然と使われ、昨今では誰も口にされていない言葉が出てくる。それは「下層階級は悪臭がする」だという。

日本人は臭わない?

『不潔の歴史』の著者、キャスリン・アシェンバーグは米国人のため、おのずと欧米の文化が中心となっている。

日本の入浴文化も触れられているが、19世紀の長崎を訪れたオランダ人の手記で、「半茹でになるまで入っている」「老若男女が一緒で、慎みというものがない」といった程度だ。「日本人は臭う・不潔」といった内容は見当たらない。

そもそも、日本人の多数を占めるモンゴロイドは、コーカソイドと比べると、臭いの元となるアポクリン汗腺が少ないと言われている。これに加えて、行水や銭湯が一般化していることから、日本人は比較的、臭わないのかもしれぬ。

衛生観は、異文化を叩く格好の道具だ。曰く、「よそ者は正しい衛生観を持っていない。だから不潔だ」というやつ。だが、本書を通読すると、「きれい」と「汚い」は価値観の違いに過ぎないことが分かる。

「マスクをする」衛生観念

最近ならマスクになる。

2002年に中国南部でSARSがアウトブレイクした際、国際線でマスクをする日本人が嘲笑の的になったことを覚えている。ウイルスは非常に小さいため、マスクは感染予防にならない、だから日本人は無駄なことをしている、という理屈だ。

しかし2020年のこの夏、日本人のみならず、諸外国の人々も、公共の場所でマスクをしている。なぜか。

COVID-19はSARSと比べると自覚症状が少ないため、知らないうちに感染し、他の人に伝染させる可能性がある。したがって、自分の感染「予防」ではなく、他人に感染させないためにマスクは役立つ、という理屈だが、そこまで理解した上でマスクをしている人は、一体どこまでいるかは、分からない。

周囲がしているから、するのが「普通」だから、マスクをする―――こういう風に、衛生観念は育っていくのかもしれぬ。

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大好きなマンガが完結したので全力でお勧めする『大蜘蛛ちゃんフラッシュバック』(ネタバレ無し)

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年8月22日


このマンガは、同級生のお尻を見てたら、ひっぱたかれるところから始まる。

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……このシーンは、主人公の実(みのる)の目線ではない。お尻を見てたのは亡き父で、その記憶が、折に触れて、実の脳内に蘇るのだ。

お尻の持ち主は、若かりし頃のお母さん(旧姓:大蜘蛛ちゃん)。つまり、母に一途な父の目線でもって、「女子高生のお母さん」の記憶が、息子にフラッシュバックされる。

そして厄介なのは、実は、お母さんに恋をしてしまっていること。女子高生のお母さん(細身で強気)と、今のお母さん(むっちり無防備)に煩悶する、マザコンラブコメ。

「お母さんに恋してる」なんて、ちょっとヤバくね?

その自覚はある。だから実は自問する。

だけど、お母さんとの日常に、父の過去の記憶が入ってくると、女子高生のお母さんの可愛いさに撃たれる。そして、(ここ重要)父がどれほど母を好きだったか、ということを、父の目線で思い知る。だから実は煩悶する。

父の高校時代をなぞる実は、そのまま行くと母と結ばれてしまうインモラルな展開になってしまうのだが、そこは作者・植芝理一先生の見せどころ、これでもかとばかりにフェチと変態と純愛とノスタルジックなネタと突っ込んでくる。

そんな実に興味津々なのが、同じクラスの一 一(にのまえ はじめ)。最初はぞんざいに扱っていた実も、彼女と話しているうちに、「高校生の母に話しかける父の記憶」がフラッシュバックされる。まるで、彼女が母で、自分が父かのようなデジャヴを味わう。そして実は煩悶する。自分は彼女の事が好きなのか、父の記憶の中の母を好きなのかと。

ラブコメを摂取するのは、なんにも無かった青春の記憶を上書きするため。だから読んでて、あまりの甘酸っぱさに「うわああああ」と叫びだしたくなるけれど、それでもニヤニヤを堪えて読む。

『大蜘蛛ちゃんフラッシュ・バック』の重要な要素として、ブルマーを挙げたい。いわゆる密着型のブルマーは、1960年代後半に学校の体操服として広まり、1990年代前半に急速に衰退していった。ブルマーを日常的に目にしていた実の父親は、その最後の世代であり、ブルマー姿の大蜘蛛ちゃんは、実の母の青春のアイテムなのだ。

このこだわりは、ブルマーが包むお尻の微妙なカーブや、ぴっちりしたジーンズに浮き出るシワ、あるいは、自転車のサドルに座ったときのプリーツのよじれといった形で表現されている(刮目すべし)。

倒錯と純愛を、ノスタルジックにフェティックに描いた全6巻。第一話は[ここ]で読めるぞ。

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「おいしい!」と感じるとき、何が起きているのか『味覚と嗜好のサイエンス』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年8月30日


「味」は信号だが、「おいしい」は経験だ。

味覚というものは、食べ物が体に入ってくる時に最初に感じるセンサーの役割になる。甘味はエネルギー源となる糖、塩味はミネラル、うま味はタンパク質、酸味や苦味は腐敗物の存在を感知する。

では、塩何パーセント、砂糖何グラムといった味覚が最適化されれば、自動的に「おいしい」になるわけではない。料理の見た目やにおい、口に入れたときの食感やのどごし、風味の全てで、わたしたちは味わう。

さらに、昔から食べ慣れているかも含め、いまの体感と過去に学習してきた記憶を総動員して、「おいしい」と感じる。ふだんの食生活で見過ごされがちだが、「おいしい」とは、結構複雑な結果なのだ。

本書は、この味覚と「おいしい」を手がかりに、食べるとは何かを探求したもの。

家系ラーメンがおいしい理由は、モルヒネと同じ

最も興味深かったのが、「油」の存在だ。料理に不可欠で、かつおいしくさせる油脂なのだが、実はこれは無味無臭。油脂の「味」というものは、塩味や酸味のような、古典的な意味での味覚ではないのだという(※1)。

ホント!? 家系ラーメンのスープに浮かぶ背油を、わたしは「おいしい」と感じるのだが、それは味じゃないのか……

「おいしい」と感じるメカニズムは、油脂に含まれる脂肪酸が神経を刺激し、脳内で快楽物質βエンドルフィンやドーパミンの放出を促しているのだという。モルヒネによる快楽と同じメカニズムが働いているのだ。

なぜ「コクがある」とおいしいのか

「コク」の話も興味深い。

わたしたちが「コクがある」という時、そこに何が含まれているか。フォアグラやウニ、生クリームやバター、イクラやアボカドの共通項として、油脂や糖やうま味が挙げられる。

そして、油脂や糖やうま味が示しているのは、高カロリー、タンパク質、糖分だ。生きる上で必須のアミノ酸や糖分を豊富に含み、効率的に摂取することができるのが、「コクがある」食べ物になる。なるほど!

本書はこれを「コクの原型」と呼び、その周囲に「コクの第二層」があるという。コクがある食べ物を口にし、そのにおいや食感、のどごしを学習し続けるうちに、コクを感じるようになるという。つまり、学習と洗練の結果、アミノ酸や糖分がなくても、その存在を感知させるだけでいいのだ。

たとえば、あんかけやとろみ、濃厚な香りは、コクのある素材を濃縮したことでもたらされ、コクを想起させる。これ、料理するとき、「調味料は足したくないけど、おいしそうにさせたい」技として、とろみちゃんを振るのだが、それに似ているかも。

食文化という適応

ハッとさせられたのが、「食文化の多様性は、人の代謝の適応性の賜物」というくだり。

ちょっと考えれば自明なのだが、生きるために必要な栄養素が全て、容易に満たされるような環境は、あまりない。気候や風土によって手に入る食材が異なる。人は、自らの代謝機能を駆使して、偏った食材から、必要な栄養素をつくりだすことで、生きてきたのだという。

たとえば、生野菜がない地域では、生肉や動物の内臓からビタミンを確保する。米国人が食べるステーキと、日本人が食べるご飯は、どちらも最終的に糖になる。代謝のおかげで、異なる地域で人は生きていける。

そして、その地域での食文化によって、好みが学習される。

食べ慣れたものを好ましく感じるのは、「食べたことがある」という味覚や風味は、食の安全の信号だからだという。親や家族が食べていたから、子どもも食べる。これが繰り返されて、嗜好ができあがるのだという。

たとえば、日本では海苔が好まれるが、慣れない米国人にとっては、「食べ物とは思えない」といわれる。日本の場合、周辺を海に囲まれ海苔が作りやすかったことと、海苔を食べる習慣が古くから伝わっていたことで、必要な栄養素を海苔に頼る文化になった。一方米国では、海苔の風味が栄養や食習慣と結びつかなかった。「おいしい」は学習なのだ。

よく、グルメ漫画で、美食を尽くした成金を黙らせるために、その人が幼少の頃に食べていた料理・食材を出すというエピソードがあるが、ノスタルジーだけではなく、安心感もあったのかもしれぬ。

ふだんの毎日で、見過ごされがちな「食べる」について、より注意深くなれる一冊。ふろむださん、ご紹介ありがとうございました。

※1 2018年の研究では、脂肪酸に発現する味細胞が、マウス実験によって示されている(油脂の志向性のメカニズムに関する研究[PDF])。また、「第六の味覚 脂肪味」として、2019年にNHKクローズアップ現代で放送されている(あなたは“脂肪味”を感じますか?[URL])




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面白い物語の「面白さ」はどこから来るのか? 「物語の探求」読書会

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年9月6日


面白い小説・マンガ・映画・ゲームに没頭しているときは分からない。だが、お話が終わった後、あらためて、なぜそれを面白いと思ったのかは、気になる。

  • その物語の「面白さ」はどこから来たのか
  • 誰にでもウケるのか(「面白さ」は一般化できるのか)
  • 「面白さ」は再現できるのか

そんな疑問を抱えていたら、面白い読書会があったので、参加してきた。

「物語の探求」読書会(ネオ高等遊民サークル)

小説、漫画、映画、舞台、ゲームなどジャンルの垣根を越えて、「物語」について考えるオンライン読書会。たとえば、「ラストで感動させる仕掛けはどう使われているか」「物語世界に巻き込む外的焦点化とは何か?」など、物語を創る側の視点から考える。

第1回の課題本

『物語の力 物語の内容分析と表現分析』
高田明典、竹野真帆、津久井めぐみ(大学教育出版)

目次

  1. 物語の役割は、現実と折り合いをつけること
  2. 現実の問題をずらして「面白い」を作る
  3. スタイルと物語を分けられるか
  4. ルフィの目はなぜ点なのか
  5. 主人公が酷い目に遭うのが面白い物語?
  6. 『デスノート』と『マクベス』に共通する仕掛け

1. 物語の役割は、現実と折り合いをつけること

『物語の力』は、小説やマンガ、映画やゲームにある「物語」に焦点を当てる。前半の基礎編で「表現の分析」と「内容の分析」の双方から解説し、後半の応用編で『進撃の巨人』や『ポケモンGO』『君の名は。』等の具体的な作品の中にある「物語の力」を分析する。

まず、『物語の力』を読んだときの第一印象より。

Dain:読みながら浮かんだのは、「物語とは何か?」「物語の役割とは?」という疑問だった。文字などない大昔から物語はあったはずで、共同体の価値観を伝えるという役割だったのでは。

たとえば、「良い」「悪い」という判断基準や、食物や安全な場所、毒や敵といった危険なものなどを伝える役割。祭りとか物忌みを伝えるシャーマンや神話の「物語」として生き残っているんじゃないかな。ジョーゼフ・キャンベル『神話の力』や『千の顔を持つ英雄』にある、原始的な物語です。

そういう価値観を伝えるうちに、伝える形式として「はじめ・なか・おわり」みたいなものが作り上げられていったんじゃないかと。

タケハル:私の印象だと、『物語の力』は研究者の分析ですね。小説を書く人と研究する人の違い。物語を創る方からすると、学者とは発想が違うなぁと。ル=グウィンのエッセイ『夜の言葉』の一節を思い出しました。

「どうやって小説を書くのか?」と問われたとき、ル=グウィンがこう答えたそうです―――「小説について知りたかったら、学者に聞け」と。なんでこんな答えなのか。小説は海みたいなもの。海について聞きたければ、海洋学者に聞くほうが、話が早い。『夜の言葉』では、こう記されています。

「海自身のもとへ行ってたずねたとしたら、海はなんと言うでしょうか。ただ轟き、寄せる音ばかり。海は海であることに忙しすぎて、自分のことについてなにかを知る暇などないのです」

物語を作る時は、海に「なる」ので、自分自身が見えない。海を研究するのは「自分」対「海」という構図であり、自我が保たれている。海に「なる」のは神がかり、もしくはある種の狂気を意味する。

これ、モームも似たようなことを言ってます。ある研究者がいたのですが、彼は文学を研究してはいるものの、「小説を読むのは楽しい」なんて一言もいわなかったとか。でもわたしたちが読むのは、出来事が「はじめ・なか・おわり」の形に並べられたものが好きだからじゃないかと。

うまいラーメンとまずいラーメンの差はあるけれど、ラーメンそのものを食べるのは、好きだからとしか言いようのないのと同じく、物語を楽しむのは好きだからだと思う。

Dain:僕らはなぜラーメンが好きなのかというと、油と炭水化物がたっぷりあるからで、油も炭水化物も、ヒトが生きるのに必要で、ラーメンを食べると効率的に摂れるから……スティーブン・ピンカーの「チーズケーキ仮説」を思い出した。

僕らがチーズケーキを好きなのは、糖とか油がたっぷり入っているからで、これらは生きるのに不可欠な栄養素だ。チーズケーキばかりずっと食べ続けるのは、(太っちゃうから)適応的じゃないけれど、糖や油を「美味しい」と感じて好むのは、適応で説明がつく。

同じように、僕らが物語を好むのは、何らかの要素が適応的に働いて、その結果、物語を「面白い」と感じるのではないかと(ちょうど、ラーメンやチーズケーキを「美味しい」と感じるように)。

そして、僕らが物語を好むように適応的に働いている要素は、「変化に気づく」じゃないかなと思う。変化も事件も一切ない物語を味気ない。けれど、日常の中に変化が起きる物語は楽しい。それは、パターン化された現実で変化を見付ける―――背景に隠れた天敵だとか、木の実だとか―――ことに敏感な方が、適応的だからじゃないかと。
スケザネ:これに近い文脈で、「現実を理解するための物語」が挙げられます。そこで、『博士が愛した数式』で有名な小説家・小川洋子のエッセイを紹介したいです。『物語の役割』というそのものズバリのタイトルで、ちくまプリマ―新書から出ています。なぜ私たちは物語を必要とするのかがテーマです。

『物語の力』では、物語の訴求力として「有効な解決策」とか「有効な筋道」といったポジティブな意味で用いられていましたが、『物語の役割』では、それとはちょっと違う筋道です。

そこでは彼女は物語の役割を、「受け入れがたい現実を、物語の形に構成しなおして、受け入れるのだ」と語っています。

そこに、エリ・ヴィーゼルというユダヤ人作家のエピソードが出てきます。ナチスの強制収容所でことで、それは悲惨な―――子どもが首吊りをさせられるような―――体験をします。そんな酷い現実を、人間はどうやって受け止めるか。それには、こういう背景があって、こういうロジックがあって……といった形にしないと、とてもじゃないが受け入れられなかった。

同様に、現実で苦しいことや理不尽なことに直面したとき、そのままの形では受け入れ難い。そのとき、背景や理由がこうだからといった、自分自身を納得させるために、物語としてのフォーマットが必要なのでは。ポジティブな解決には至らないけれど、とにかく現実を理解させるために物語という形式がある。

Dain:それ、映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を思い出しました。ユダヤ人の親子が強制収容所に連れていかれる話。収容所でなんでこんな恰好をさせられるのか、なんで自由に出歩けないのか、という子どもの疑問に、お父さんは嘘をつく「これはゲームなんだ、遊びなんだ」と。その嘘―――というか物語を貫き通そうとする。ガス室に送られて死ぬかもしれないという悲惨な現実を、「ゲーム」という物語で子どもに理解させようとする。

2. 現実の問題をずらして「面白い」を作る

スケザネ:さっきのラーメンじゃないけど、うまいラーメンと、そうでないラーメンがあるように、面白い物語と、そうでない物語がある。じゃぁ、その「面白い」というのはラーメンみたいに作れるのかな。
Dain:「面白い」を作るのに、2つのアプローチがあると思う。一つは、素材やテーマとしての面白さ。生と死や、セックス、金、健康といった定番のもの。『SAVE THE CAT の法則』では、「原始人でも分かる、プリミティブな感情や欲求をテーマにすると、「面白い」を引き出せる。

もう一つは、素材やテーマの「やり方」のアプローチ。見た目や盛り付け、出す順番など、料理の仕方としての面白さがあると思う。そしてこれこが、『物語の力』の根幹になると思う。
スケザネ:とっかかりとして、現実の問題を少しずらす手法、これファンタジーでよくやるよね。テーマとしての面白さがあるけれど、現実をそのまま描けないときに、例えば「魚人族が差別されていました」(ワンピース?)のように。現実世界では、黒人差別に通底するところがある。あるいは、「取り返しのつかない大規模な爆弾」(コード・ギアス)だと、核爆弾を想起させるとか。

何もないところから作るのは難しい。だから、現実に起きている問題を、ファンタジックにするとどうなのだろう? という問いかけは、作り手としてする思考実験。
高等遊民:『ズートピア』とか典型かなぁ……

Dain:なにそれ気になる! ネタバレにならない程度に詳しく。
高等遊民:『ズートピア』……ウサギが主人公なんだけど、いろんな動物、草食動物も、肉食動物も、平和に和気あいあいとして暮らしているのが、ズートピアという世界。でも、根源的には草食動物は肉食動物を恐れているし、肉食動物は、どこかで自制している。教育の力で本能は自制されているけれど、狐はウサギを捕食する、だから狐に気をつけろ、といわれる。少数の肉食動物と、圧倒的多数の草食動物で、ズートピアの頂点にいるのは百獣の王ライオンの市長になる。で、副市長は女性で羊。
スケザネ:アメリカっぽいな。
高等遊民:そう、マジョリティとマイノリティ、有色人と白人という構造。これはまさにアメリカ社会をモデルとしているんじゃないか。数が少ないけれど、圧倒的な力を持ち、最初から支配的な立場だった、一部のエリートをうまく描いている。これ、傑作じゃないかな。
Dain:ありがとうございます、観ます!
スケザネ:観てない方は『ライフイズビューティフル』と『ズートピア』を……

Dain:観ろと。

タケハル:さっきの「物語のテーマ」の話を伺ってて、漱石の『文学評論』で似たようなのを思い出した。ウィットとユーモアの違いというやつ。お金とかセックスとか、文化の違いに関係なく味わえる笑いがユーモアになる。そして、もうちょっと知識が必要で、スウィフトの話が出てくる

……あるところに三人の兄弟がいた。長男は父親から衣鉢を譲り受けてもらった。次男と長男は仲が悪くて、三男は、離れたところで暮らしてて、お父さんの言うことを守っている……

これだけ聞くと、なんのことか分からないけれど、結局、キリスト教の風刺になる。長男は「カトリック」、次男が「プロテスタント」、そして三男は「ギリシャ正教」になる。

Dain:なるほどー!
スケザネ:wwww
タケハル:バックグラウンドを知っていないと、面白さが伝わらない。でも、知っていると、面白い。これがウィット。カトリックとプロテスタントって仲悪いよねって、直接言われると、話にも何にもならないけれど、今の三兄弟の話にすると、違う感覚で現実を見ることができる。
Dain:面白い! 三兄弟の話のとき、「キリスト教」のキーワードが出る前に頭に浮かんだのが、三匹の子豚の話。イソップも何かを寓意しているはずなので、ちょっと調べます!
スケザネ:私は「ユダヤ」「キリスト」「イスラム」を思い出しましたね。

タケハル:これ、バックグラウンドを明かさないと、各人で勝手に連想がつながっていくよね。面白い。

スケザネ:作るときって、「これ寓意してやろう」と考えたりします?
タケハル:僕はあんまりやらない、ル=グインやトールキンの影響を受けていて、彼らは寓話は嫌いなんです。寓話だと、結局それが言いたかったので、で終わっちゃう。
スケザネ:自分は結構どこかで考えながら作っちゃう。無のところからではなく、「寓意とは」というところからでもなく、これをどうやって換骨奪胎しようかな、という発想はよくしますね。
タケハル:それはありますね。最初は身近な事件とかをきっかけにするのはあるけれど、それを転がしていくうちに、そもそもスタート時点がどうだったかは気にならなくなる。
スケザネ:寓意というテーマだと、寓意が徹底された時代がありましたね。中世の『薔薇物語』とかダンテの『神曲』とか。愛情くんと勇気くんが手に手を取って、憎しみくんを倒します的な……

Dain:まさにアンパンマンwww
タケハル:インサイド・ヘッドwww
スケザネ:そうそう、『インサイド・ヘッド』みたいな。いまもアンパンマンのオープニングとか聞くと、「ああ、ダンテだな」なんて思うwww これ、キリスト教とか宗教につながっているのかも。宗教がプリミティブな形であったところに寓意、アレゴリーがあったのでは。

3. スタイルと物語を分けられるか

タケハル:『物語の力』だと、内容と表現に分けて分析してゆく。この二分法だと、小林秀雄的には、こんなに簡単に分けられるかよ、ということになるのでは。つまり、言いたいことと表現方法は不可分になるのではないか。たとえば、

古池や蛙飛びこむ水の音

と、「古い池にカエルが飛びこんでポシャンといいました」は、別のもの。言いたいことと表現方法について、プラトンは分けるかもしれない。分けないと、そもそも考える事すらできないので、手段として分けようとするのは分かるのだけど。
Dain:スタイルの話だと思いました。物語を語る表現(文体や演出)と、その物語の内容そのものは不可分で、スタイルと書き手が不可分なものと一緒で、分けることがナンセンス……というのが小林秀雄の考えなのかな? ただ、スタイルと物語を分けずにやろうとすると、研究すらできないかも。
まるる:表現と形式の話、ロシア・フォルマリズムとかで言われている気がします。(チャット欄より)
スケザネ:たしかに! 1910~20年頃に、ロシアの作家でシクロフスキーという人が、まさに表現と形式についてそのものずばりの論文を書いてましたね。あと、プロップとかソシュールとか、レヴィ=ストロースとか、言語学を用いて研究していましたね。言語学といっても比較言語学で、どういう歴史をたどって、その言語が成立したかがテーマとなっている。言語学というものと手法が結びついていって、物語を分解していくとどうなるんだろう? というムーブメントが始まったのが、その辺りからになる。

小林秀雄で言うなら、岡潔との『人間の建設』に出てくる、素読教育の必要の話になる。江戸時代の寺子屋でやってた、そのまま音読して覚えるやつ。先生が、「師曰く」と言ったら、生徒も「師曰く」と復唱する。これが大事なんだと小林秀雄は言った。

なぜかというと、解釈なんて脆弱だから。解釈はつねに変化にする。論語で言うなら、朱子学が出てきたり、陽明学が時代によって出てくる。そこで、何が変わっていないかというと、「ことば」の本文そのもの。それを、小林秀雄は「すがた」と呼んだ。論語とか万葉集とか俳諧とか、「すがた」だと、それは動かせず、それに親しませる素読教育が重要なのだと。

「すがた」には、文体も意味も、混然一体となって凝縮されている。

Dain:『人間の建設』読みます!
スケザネ:とはいっても、作る側からすると別で、文体をどうするかと、ストーリーテリングをどうするかは、分けて修行しています。
Dain:自分は小林秀雄の反対側の立場にいる。意味と一体化したスタイルを苔にするつもりはないけれど、「おもしろい」を再生産するにあたり、その人にしかできない、書けない、演出ができない、となると大変。

「宮崎駿監督」となると、皆うわーとなるけれど、あの人にしかできないとなると、作品は限られてくる。宮崎駿がいなくても、スタジオジブリならできると言った時、じゃぁジブリにあるものは何だろうか? この問いについて「、『物語の力』の中で説明できるのではないか。

物語を書き手の人格と一体化しちゃうと、それ以上のものはできなくなる。来週、ズートピア2の脚本のレビュー、どうすればいい? という商業的な問いにどうやって答えるか。ハリウッドで商業的に物語を創る人、シナリオや小説を書く人の手法を抜き出す必要がある。

4. ルフィの目はなぜ点なのか

タケハル:理想もある一方、現実問題としてもある。これ、『ワンピース』のルフィの目がなぜ点なのか、という話。あれは、たまたまなっているわけではなくて、他のキャラ、例えばナミは点じゃない。ルフィの目が点なのは、ちゃんと理由がある。尾田栄一郎が色々な漫画を研究して、あえて主人公の目を点にした。井上雄彦は勇気あると凄く誉めていて、目に表情があったほうが感情を乗せやすいんだけど、主人公にそれを持たせない。

そこには、商業的な発想もあって他のキャラクターと被らせないためだったり、覚えられるためにそうしている。手法論をカットしすぎてしまうと、(こういう発想は出ないので)現代においてはキツいかもしれない。まだ見つかっていないところを探す努力をしていかないと。

Mr.深煎り : 『キングダム』も主人公の目の大きさを変えて売り上げが伸びたとか何かで聞いた気がします(チャット欄より)。
タケハル:キングダム! あったね。確か、最初のころ、キングダムの人気がいまいちで、原泰久が井上雄彦にアドバイスを求めに行ったら、「話は面白いので、目をもう少し大きくしろ」と言われ、その通りにしたら大ヒットした。
スケザネ:一人で作るものと集団でつくるものの違いになるのかも。『ピクサー流 創造するちから』を思い出したんだけど、ピクサーは集団で物語をつくる。会議の中で物語を揉んでいって、ブラッシュアップしていく、新海誠や宮崎駿とは対極にあるやりかたをしている。作家と編集者が共同してやっていくのにも似てるんだけど、どこまで一人でやるのかは、難しい。その人らしさ、そのタイトルらしさは、常に考えている問題だと思う。

日本の能とか伝統芸能とかは、そういう流れですね。新作落語とか、先人の積み重ねてきた、共同体が作り上げてきた芸術に身を投ずる。世阿弥の風姿花伝で似たような話もあった。

Dain:今ので、『アルブキウス』にあるローマの脚本家の話を思い出した。あの時代は演劇なんだけれど、ストーリーは決まっている。僕らでいうなら、カチカチ山とか。ストーリーは分かっていて、それをどう演出するかが作家の腕の見せ所になる。妻を寝取られた男の話とか、みんな知っている話を、その作家ならではのお話にする。同じ話でも、作家によって異本が出てくる。そういうものが積み重ねられた結果、ぼくらが「ギリシャ悲劇」というカノンになっているのかも。パスカル・キニャールという人が書いているんですけど、お勧めです。

スケザネ:キニャール! 読みます。
高等遊民:『塩一トンの読書』に『アルブキウス』取り上げられてるぜ。
Dain:そうそう、『塩一トンの読書』で須賀敦子が手放しで誉めてたから、そこから『アルブキウス』読んだ。今日の話はつながってますね。

5. 主人公が酷い目に遭うのが面白い物語?

スケザネ:これまで、「物語とは何か」という根源的な話をしてきたんだけど、ここからは少し具体的に踏み込んで、じゃぁどういった物語の展開だと面白くなるの? という話をしていきましょう。
Dain:いいですね! 『物語の力』で王道として挙げられているのが、「回復と獲得の物語」というやつですね。主人公は何かを失っていて、それを回復ないし獲得することが、物語になるやつ。『物語の力』では、『インディペンデンス・デイ』や『のだめカンタービレ』あたりが例として挙げられてた。

大塚英志の『キャラクター小説の作り方』だと、主人公が大切にしているものを、物語の序盤で奪いなさい。そうすると、主人公は失ったものを探し始めるから……とアドバイスしてますね。親とか兄弟とか恋人とか故郷とか、ありがちなのが「記憶」ですね。

そして、失われたものが大きければ大きいほど、言い換えるなら、主人公が酷い境遇に陥れれば入れるほど、得られたときの達成感が大きい。同時に、読み手の方も共感しやすい。だから、物語の序盤では、できるだけ主人公を酷い目に遭わせろというのがセオリー。

あと、回復と獲得の物語は、「ピークエンドの法則」にしやすいですね。その体験が面白かったかどうか、後から振り返ったとき、一番盛り上がる「ピーク」とラストの「エンド」によって全体の印象が決まってしまう。

たとえば、ジェットコースターに乗るために行列に並んだとする。すごい行列で一時間も待って大変だったけれど、最後にジェットコースターに乗って、めっちゃ興奮して絶叫した、凄かった! というとき。ジェットコースターに乗っているのが、たとえ3分だったとしても、一時間のことは忘れて、最後の思い出(ラスト)と最高の思い出(ピーク)が合わさって、「良かった」になる。物語のラストを盛り上げるのはこれ。
スケザネ:回復と獲得の物語は、確かに物語の王道ですね。例えば、ホメロス『オデュッセイア』も、最初に漂流してしまい、遠く離れた故郷へ帰還する物語だし、ダンテ『神曲』だって、「いま私はどこにいるのだろう?」という喪失から始まっている。

そして、獲得のところも、一気に獲得するのではなく、ちょっと獲得するのが大事。「初期状態→手段・方法→帰結状態(目的状態)→次の初期状態→…」の連続で説明します。

物語を分解していって、最小の単位にすると、まず最初の状態(初期状態)がある。そこで、何かが起きる(手段・方法)。それにより、何かが変わる(帰結状態)。その結果が次の前提(次の初期状態)をもたらし、次の行動につながる。その行動は何らかの結果を生み、さらに次の前提をもたらすことになる……こんな感じで、「初期状態→手段・方法→帰結状態(目的状態)→次の初期状態→…」 を繰り返しながら、行動によって新しい次の前提が生まれるように仕組むと、物語が有機的につながっていく。

なので、最初に何かを失って、最後に獲得する途中にも、ちょっと獲得する。たとえば、取り戻す途中で仲間ができる、その仲間が「あそこへ行こうぜ」と言い出して、そこへ行ってアイテムを手に入れるとか。それが次の前提になって、何か行動を起こす……こんな風に、物語を作る方は波を考える。
タケハル:アクションが連続していく、というの言われてるよね。演劇とか映画でもそうだし、映画だと特に、「アクションがどんどんキツくなる」のがある。序盤のハードルよりも、次のハードルの方がキツくなる。最後のやつが一番キツい。それが作る方としては大変なんですよね。
スケザネ:分かるッ!
タケハル:序盤でこんな酷いことやらかしたら、まだあるの? となる。ありがちなのが、120分の話を作ってて、作り始めたときに、「これは凄くキツいハードルだ!」というアイデアを思いついたら、それを最後に持っていく……このやり方は失敗する。一番キツい100%のやつを最後にしちゃって、それより弱い50%のやつ、さらに弱い30%のやつを逆算して考えると、お客さんにバレちゃう。なぜかお客さん分かっちゃう。

そうじゃなく、最初に思いついた100%キツいやつは、一番最初に持っていく。そこでもっとキツい120%を考えて、さらにキツい150%を考えて、最後は200%ぐらいにしないと。
スケザネ:〇ィ〇〇ー〇ーの「〇〇〇〇ッ〇の冒険」というアトラクションを思い出した。船に乗って周遊して、人形がワーワーやっているのを見ていくんだけど、大きく3つぐらいのシーンがあって、しょっぱなで、盗賊の軍団を倒すんですよ。やったーとかすごい盛り上がるんだけど、その後、ダチョウの卵を盗む話とかショボくなるんですよ。で、ずっとショボいまま。
Dain:あかんやんwww
タケハル:逆に見たくなったwww
スケザネ:逆算して20%にしちゃうとあかんよ、という例。
Dain:いかにして主人公を酷い目に遭わせるかってことですね。
タケハル:しかも、次々と遭わせるかが大事。
スケザネ:それ、黒澤明って上手いですよね。一個解決したかと思ったら次にまた問題が生まれてとか、『七人の侍』なんて本当に見事で。村が盗賊に襲われるから、侍を探そうというんだけど、この侍探しが難航するんですよね。一人目から舐めんなとか言われて、やっと見つかった! と思ったら金が足りないとかになって……それでもなんとか集まって、村へ戻ったら戻ったで、「侍怖い!」とかになって、村人たちが出てこないんですよ。そういう連続が本当に上手いんですよね。

Dain:観ます、もう一度。映画を観ることが「体験」だったと言える、稀有の作品です。『ゴースト・オブ・ツシマ』をクリアしたからには観ないではいられない。

スケザネ:ですね、黒澤モードがあるくらいだし。
タケハル:黒澤モード?
スケザネ:画面の設定で白黒にできるんですよ、しかも荒めの白黒で、ノイズみたいなものが入るんです。
Dain:いずれにせよ、ツシマにハマったら『七人の侍』は必見やね。それに比べてラスアス2は……(以降、グチが続く)

6. 『デスノート』と『マクベス』に共通する仕掛け

スケザネ:ここからは、どうやって読み手を物語世界の中に巻き込むかについて、お話しましょう。『物語の力』では、『デスノート』が紹介されていますが……
Dain:はい、『デスノート』……ネタバレにならないように話しますね。第一部になる、「ライト対エル」の対決のあたりです。死神のノートを拾って、悪人を殺していくライトと、それを追い詰めるエルの物語。

久しぶりに読み返して面白いなーと思ったのは、ライトもエルも「正義」という言葉を使っているんですよね。どちらも「正しい」と思ってやっている。

ライトの正義:「社会を良くするために殺す」正義
エルの正義:「どんな悪人でも裁きが必要」正義

そして、読者は読者で、自分の考えを持っているはず。ライトに共感している人もいれば、エル派もいる。あるいは、ぜんぜん別の考えだってある。

この物語では、ライトの立場から描かれるときと、エルの立場から描かれるときと分かれており、それぞれの立場に寄り添って(焦点化)して描写される。

物語がライトに焦点化し、ライトの視点・思考・感覚に寄り添って描かれるとき、読者はライトの立場からしか物語を知ることができず、(読み手の主義主張に関係なく)ライトの思考や感情に寄り添って読むほかない。

いっぽう、物語がエルに焦点化したとき、同様にエルの立場からしか物語世界を知ることができず、否が応でもエル目線で世界を理解する。『物語の力』では内的焦点化と呼んでいる。

こんな風に、ライト、エル、ライト、エル……と入れ替わるたびに、読み手は、それぞれの思考や感情を通じて物語世界に触れていくうちに、いつしか、現実の自分の思考から遠く離れて、物語世界の中にどっぷりと浸かっている……という仕掛け。同じ「正義」という言葉で異なる価値観をぶつけ合わせる時、内的焦点化を上手く使って、物語世界へ導いている。

スケザネ:焦点化の使い方では、第二のキラが出てくるあたりで印象的でしたね。人がどんどん死んでいって、警察やマスコミがてんやわんわしているのに、ずっとエル視点で物語が進んでいるところ。ライトがどこにいて何を見ているのか、一切情報がないまま読み手をモヤモヤさせる。これは焦点化の使い方が上手い。
Dain:ライトどこにいるんだ! と、読者としては、一番知りたいことが伏せられてて物語が進んでいく状態ですね。
タケハル:『デスノート』で面白いのは、ライトとエルを、単純にライバルにしているだけではなくって、対立概念の捻じれを引き起こしているところ。みんなデスノート知っているから想像しにくいかもしれないけれど、例えば、タイムマシンで昔に戻って、ライトとエルを並べて、どっちが犯人で、どっちが探偵ですかと尋ねたら、たいていの人はエルが犯人だと言うはず。

ライト自身も、いきなり悪人だったわけではない。ヴィジュアル的には、ライト=探偵の顔、エル=犯人の顔だし、ライトは真面目な学生、エルは食べ方や姿勢で奇行をとる。単純に、どっちが良いか悪いかにさせていないところが面白い。

「悪人なら殺してもいい」と突っ走っちゃうとヤバいやつなので、ライトを端正な顔にしてる。それこそエルを品行方正な探偵のビジュアルにしちゃうと、読者は「早くライトを捕まえろ、エルがんばれ」になっちゃう。そうさせずに、エルを悪人顔にしたり、ライトを記憶喪失にしたりして、読者を揺さぶっている。確かにライトは悪い奴なんだけど、読み手に簡単に決めさせないようにしている。

これ、演劇でいうなら『マクベス』ですね。マクベスは、王様を始め人を殺すし、やりたい放題やっていて、行動だけ見たら感情移入できない。だけど観客が感情移入できるのは、マクベスは殺した後、悩むんですね。良いのか悪いのかだとか、なんでこんなことをしてしまったのだろうとか。すると観客は、本当はこいつは、本当は殺りたいわけじゃないのかもみたいな、同情が入る。普通に考えたらおかしいんだけど、そう思わせないような工夫みたいなもの。シェイクスピアはかなり剛腕に、良心を持った殺人者を作り上げている。矛盾している所があると、現実は生きるようになってくる……「惑わし」がかかる。

スケザネ:確かに、言われてみれば捻じれてますね……すごく分かりやすい……どっちかにさせないようにしている。
タケハル:デスノートがすごいのは、そういうキャラクターをライトとエルの2人も作ったところですね。

第2回は、『ズートピア』を俎上に、物語を探求します。

聴講を希望される方は、ネオ高等遊民サークルの読書会からどうぞ。

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「名もなき家事」の減らし方

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年9月13日


掃除、炊事、洗濯……家事には名前があると思っているのはシロウト。世の中には、名前のない家事が沢山ある。たとえば昨日やったのはこれ。

  1. 水筒のパッキンやゴムを外して洗い、乾燥させ、組み立てた後に棚にしまう家事
  2. ペットボトルを分別するため、キャップを外し、水ですすぎ、輪っかを切断してラベルを剥がす家事★
  3. 家じゅうのゴミ箱からゴミを収集・分別しゴミ袋にまとめ、適切なタイミングで収集場所へ運ぶ家事
  4. 飲み終えた紙パックを洗い、切り開き、乾燥させる家事
  5. 食材や缶詰の賞味期限を確認し、棚の配置を適切にソート(手前から奥へ昇順)した後、切れたものは中身と容器に分別し処分する家事
  6. 冷蔵庫の奥で変異しつつある物体Xを探索し、適切なタイミングで(翌日にゴミに出せる)処分する(ポリ袋で密閉し臭いを封じ込める)家事
  7. 保存容器のタッパーのフタと本体を正しく組み合わせる家事★
  8. ダイレクトメールの個人情報を切り刻む家事★
  9. お湯を沸かしてミネラル麦茶を作り、粗熱が取れたのを確認して冷蔵庫に格納する家事
  10. 食洗機で洗い終えた食器を棚に格納する家事
  11. 便座に散った家族の誰かの水滴(尿?水?)をふき取るついでに黄ばみもこすり落とす家事
  12. 掃除機のヘッドに絡みついた髪の毛をハサミで切断する家事
  13. 台所の排水溝の水切りネットを交換し、ぬめりと生ごみの臭いをハイターする家事
  14. レジ袋で閉鎖空間を作ってホコリを散らさないようにし、その中で掃除機の集塵袋を裏返してゴミをつまみ取る家事
  15. トイレットペーパー、ティッシュペーパーを取り替えたり補充する家事

要するに、「メンテナンス」に相当するタスク。家事とは生活空間を運営していくために必要な作業だから、いわゆる「掃除・炊事・洗濯」に留まらず、諸々のタスクが存在する。

ダイワハウスの「名もなき家事妖怪」によると、妻の負担が圧倒的に多いのだ(86.5%)。妻の「私はこんなにやってるのに!」「夫は全く気づかない!」という不満が伝わってくる。

象徴的なのが3.のゴミ出し。「家じゅうのゴミを分別しながら集める」タスクと、「ゴミ袋を集積所まで持っていく」タスクがある。大変なのは圧倒的に前者なのに、なぜか後者だけが「ゴミ出し」とさる。そして、ゴミを持っていくだけで「家事をしている」と夫が言おうものなら、妻の怒りにガソリンを注ぐことになる。

我が家では、圧倒的に私がやっているので、一般家庭と逆である。

しかし、もしも妻に尋ねるなら、この何倍もの「タスク」を言い立てて、「私はこんなにやってるのに!」と一触即発となるのは火を見るよりも明らか。我が家の平和を守るため、昔のサッポロビールよろしく「男は黙って」名もなき家事に勤しむ。

要するに、それを負担だと思うかどうか、という問題なのかもしれぬ。

この発想は大事で、「それを負担にしない」ように工夫することだってできる。

たとえば、昨日の「名もなき家事」を振り返ると、★が工夫できそうだ。

<名もなき家事 No.2>

ペットボトルを分別するため、キャップを外し、水ですすぎ、輪っかを切断してラベルを剥がす家事

解決策:軽減

最も負担なのは、「輪っかを切断する」ところ。ペットボトルハサミを使うのだが、本体と輪っかのスキマがほとんどなく、無理に刃を入れようとして勢いあまって指をケガすることが何度もあった。

見方を変えて、「分別の際、輪っかを切断しなければならないのか?」と調べたところ……私の住んでる地域では、必要がないことが分かった。よし、輪っかはずすの止めよう。

<名もなき家事 No.7>

保存容器のタッパーのフタと本体を正しく組み合わせる家事

解決策:回避

「そもそもなぜフタと本体を組み合わせる必要があるのか?」と考えると、「様々な種類のタッパーがあるから」になる。贈答品やオマケでもらった容器を使い続ける限り、バラバラの規格になる。ここは一念発起して、規格を統一すればいい。

<名もなき家事 No.8>

ダイレクトメールの個人情報を切り刻む家事

解決策:転嫁・軽減

三つ考えた。「切り刻む必要ある?」→「要するに見れないようにすればいい」という発想から、スタンプローラーで上書きする(Amazonで「個人情報」「スタンプ」で出てくる)。

「そもそもDMが来なければいい」→「受け取りを拒否しよう」として、日本郵便の「郵便トラブルQ&A」や、ヤマト運輸の「よくあるご質問」を参考にやってみる。

「捨てる行為にお金を出す」→切り刻もうと、スタンプしようと、ゴミは出る。「ゴミ処理は無料」という発想を止め、「有料だけど簡単に捨てられる」と考える。ヤマト運輸で「機密文書リサイクルサービス」があるが、法人向けらしい。個人向けを探してみよう。

軽減、回避、転嫁……と、要するにリスクマネジメントを適用したわけだが、名もなき家事を、家事にすらしない(させない)アイデアは、いくつかありそうだ。「家事」「ライフハック」「裏技」で検索すると、参考になりそう。

家庭内平和維持軍からの報告は、以上です。

Gomi_arau

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認知科学から見た、多くの人が論理的に考えない理由『類似と思考』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年9月20日


2つ問題がある。どちらの問題が、簡単だろうか?

問題は解いても解かなくてもいい。問われているのは、「どちらが簡単か」である。

問題1

ここに四枚のカードがある。

片面にはアルファベットが印刷されており、もう片面には数字が印刷されている。このカードは、「表が母音なら、裏は偶数」というルールに従って作られている。

いま、この四枚のカードが並べられている。これらが、前述のルールに従っているか調べるために、どのカードを裏返してみる必要があるか。

1枚目のカード  U
2枚目のカード  K
3枚目のカード  3
4枚目のカード  8

問題2

あなたは警察官だとする。

あなたは、無免許ドライバーを見つけようとしている。ある駐車場に行くと、車の近くに次の4人がいた。あなたは、どの人を調べるべきか。

1人目  車を運転しようとしている人
2人目  赤ちゃん
3人目  免許を持っている人
4人目  免許を持っていない人

この2つの問題は、本質的に同じだ。

しかし、もうお分かりのように、正答率は、圧倒的に2が高い。つまり、問題2が、(人間にとって)圧倒的に易しい。

問題1は論理学の「前件肯定」「後件否定」を使う。「PならばQ」のとき、「Pである」ならば「Qである」と導き、「Qでない」ならば「Pでない」と導く推論だ。「P=表が母音」、「Q=裏が偶数」を当てはめれば解ける。

問題2の「車を運転するなら、免許が必要」……このルールから、「車を運転する人」が、本当に免許を持っているかチェックする必要がある。また、「免許を持っていない人」は、車を運転していないよね、とチェックする必要がある。

面白いことに、問題1は、「前件肯定」「後件否定」を教えた直後であっても、正答率はたいして上らなかったという。一方、問題2は、論理学のルールを知らない人であっても、文脈から自然に解けてしまう。

人が推論するときは、論理学のルールを用いるのではなく、その文脈に沿って正解を導いているのではないか? と考えられる。

本当だろうか?

問題3

「刑務所に入るのであれば、犯罪を犯さなければならない」というルールが守られているか調べたい。次の4人の誰を調べるべきか。

1人目  刑務所に入っている人
2人目  赤ちゃん
3人目  犯罪を犯した人
4人目  犯罪を犯していない人

まず、1人目「刑務所に入っている人」が、犯罪を犯しているかを調べるのは分かる。

本当の問題はその次だ。

論理学で選ぶなら、4人目「犯罪を犯していない人」が、刑務所に入っていないかを調べるべきだろう。しかし、3人目を選んでしまう。つまり、「犯罪を犯した人」が、ちゃんと刑務所に入っている? と確認したくなる。どうやら、私たちは、文脈で正答に辿り着けるわけではないようだ。

これら3つの問題は、論理学的には同じだ。しかし、運転免許の話と刑務所の話は異なる。「車を運転する」はメリットだが、「刑務所に入る」はそうでない。「免許が必要」という条件は、メリットへの対価となっているが、「犯罪を犯す」は対価ではない。

つまり、問題の形式としては同じだが、何がメリットで、何が対価としてふさわしいかは、推論を行う人による。前提条件と行為さえあれば、自動的に正しい推論ができるというわけではないのだ。

人は、どのように思考しているのか

では、私たちは、どのように思考しているのか? これを認知科学の成果から深掘りしたのが、鈴木宏昭著『類似と思考』だ。

本書によると、私たちは、論理学的なルールを、個々の問題に当てはめて演繹的に解いているわけではない(むしろレアケース)。また、問題に行き当たる度に、メリットは本当に利得なのか、前提条件は対価として妥当かを、いちいち深く考えているわけではないという。

代わりに、過去の典型的なメリットー対価状況と、目の前の問題状況がどれほど似ているかを判断することで、面倒で、非現実的な処理をスキップしているというのだ。これにより、確率からするとあり得ない方に従ったり、文脈や状況だけから正しい判断を下したりする。

この、非常に人間くさい思考を「準抽象化による類推」として、その理論をまとめている。

「人の思考は、規則やルールに基づいておらず、類似を用いた思考(類推)を行っている」が本書の結論だが、そこへ至るまでに、文学や科学、政治やビジネスで行われる類推の事例を紹介している。さらに、他の理論と斬り結びながら自説をブラッシュアップしているところが面白い。

  • 多重制約理論:キース・ホリオーク、ポール・サガード
  • 構造写像理論:デドリー・ゲントナー
  • 概念メタファー説:ジョージ・レイコフ
  • p-prim理論:アンドレア・ディセッサ
  • 漸進的類推写像理論:マーク・キーン
  • Copycat:ダグラス・ホフスタッター

並べると、「人はどのように思考しているか」それは「一般化できるか(≒コンピュータに任せられるか)」さらに、「人がどのように世界を理解しているか」まで議論が拡張することになる。カーネマン『ファスト&スロー』やロスリング『ファクトフルネス』が好きなら、ハマることを請け合う。

「人はどのように思考しているか」について、現在の見取り図を与える一冊。

 

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文学は本当に「割に合う」のか?教養と給与のあやしい相関を考える『文学は割に合う!』

むかし検索いまAI、教養主義なんて流行らない。知識と教養と名刺が武器になったのは大昔のこと。文学なんて役に立たない最たるもの―――そんな世相にドロップキックをかますのが本書だ。

普通このテの本だと、教養主義の没落を嘆き、本を読まなくなった若者を批判するのだが、さすがフランスの文学部教授、どこまで本気でどこから皮肉か分からない。高慢すれすれにも読める自虐ギャグと、エスプリの効いた書きっぷりが楽しめる。

「文学」不要論と「統計学」不要論

例えば、文学不要論に対し、統計学不要論を持ち出してくる。

30年ほど前、大学改革の一環で、コロンビア大学において統計学科の廃止が検討されていたという。

統計学科を廃止するなんて、もってのほかだ。統計学は、様々な学問領域―――経済学、社会学、心理学、生物学、物理学、工学など、どの分野でも必須だから。

そして、必須だからこそ、それぞれの学問領域で自前の統計学者を育成している。経済学には計量経済学の専門家が育成される。物理学には統計力学の、工学部には数理統計学の、経営学にはオペレーションズ・リサーチの専門家が育成される。

その結果、統計学科には、純粋な統計理論や確率論の研究者ばかりが残ることになり、現実問題よりも、統計学そのものの理論研究に特化した集団が出来上がる。そんなガラパゴス化した統計学科は、基礎研究だけに絞って数学科に統合したという。

この議論は、学問における文学にも似ているという。

文学が長年蓄積してきた人間理解や思考実験、コミュニケーションの技法、ストーリーテリングといった知見は、他のあらゆる学問領域で用いられる。なぜならあらゆる学問領域は、言葉を用いるからだ。言葉を用いる限り、文学研究の成果から逃れることができない。

人間の知的活動のほとんどにおいて、語る力や創作する力が不可欠だということを大学は理解しています。つまり、語る力や創作する力は、職業的であろうと趣味的であろうと、あらゆる分野でパフォーマンスを向上させることに同意しているのです。

そして、こうした語る力・創作する力を体現する文学リテラシーを、古フランス語の「レトリュール(lettrure)」と呼び、そこから育まれる言語感覚こそ重要だと説く。

なるほどーと思う一方で、それ文学部でやる必要ある?というツッコミが待っている。それぞれの学問領域で、リーディング/ライティングのスキルは育成されることになるから。著者が礼賛するプルーストやスタンダールである必然性は無かろう。

統計学科と同様に、よりエッセンシャルな理論研究に絞られ、どこかに統合される運命が待っている。

文学を取り入れた医療

本書で謳われている「文学」は、かなり幅広い。いわゆる小説・詩・戯曲だけではなく、物語論、メタファーを通じて、哲学、美術、映画、画面上の芸術的なコンテンツまで広げていく。

その顕著な例としては、医療分野におけるナラティブ・メディスン(物語に基づく医療)だ(『ナラティブ・メディスン』の書評)。

「病気」という現象だけで捉えるのではなく、患者の身に起きたことを、目的と筋書きを備えたストーリーとしてみなす。対話を通じて患者の物語を紡ぎ出し、全人的な診療を行うため、物語的な視点を取り入れる。

例えば、ステージIVの乳がんの患者に対し、医者は「病気がどのようにして(how)起きたのか」については答えられるが、「なぜ(why)病気になったのか」に答えられる人はいない。

過去の罪に対する罰と考えるか、不幸な偶然と見なすかによって、病の体験は全く違ったものになる。彼女は、病も含めて自分の人生を生き続けなければならない。そのために、人生におけるこの病の意味を見出さなければならない。

このとき、彼女に寄り添い、彼女自身の言葉を聞き、病を解釈するために、物語が必要になる。出来事を順序だてて、起きたことを隠喩や修辞で意味づける。文学の手法を取り入れた、れっきとした臨床医療だ。

文学はどこにでもある

あるいは、他の分野で生まれてくる概念は、文学的・詩的なものがほとんどだという。学術領域における概念や理論が社会に浸透するとき、文学的な表現を必要としているからだと説く。

本書では、経済学ではブラックスワン、フリーライダー、社会学では割れ窓の寓話、予言の自己成就、セレンディピティ、数学ではフラクタル、物理学ではシュレディンガーの猫、ブラックホールなどが挙げられている。

例えば、経済学における「ブラックスワン」は、マーケットにおける事象で、予測不能で発生確率は極めて低いものの、起きた場合の影響が甚大なものを指す。だが、わたしたちが思い浮かべるのは、「黒い白鳥」という矛盾したイメージから、「ほとんどめったにない」という意味合いだろう。

あるいは、物理学でいう「ブラックホール」は、大質量の星が重力崩壊した後に生じる、重力が極端に強く、光さえ脱出できない時空領域になる。だが、この言葉からわたしたちは、「何もかも飲みこむ暗黒の穴」を思い浮かべる。そしてそのイメージから「財政のブラックホール」といった新しいメタファーを思いつく。

専門分野で発見された概念は、社会に広まるとき、数式ではなく物語やメタファーになる。学問は概念を生み出すが、わたしたちはそれを比喩として理解する。そしてその比喩を扱う技術こそが、文学の領域になるというのだ。

文学は「割に合う」のか?

教養や芸術まで領域展開しているが、「文学」は割に合うのだろうか?

割に合う!とタイトル通り宣言する。

まず著者自身がそうだという。理系のエリート大学を卒業した後に文転し、パリ・ソルボンヌ大学教授を経て、プルースト研究の第一人者となり、アカデミー・フランセーズの会員に選出されたという実績を示す。

さらに、司法官や行政官などで、素早く昇進し、高給取りになっているのは、高い教養のおかげだと言う。文学は、職業訓練校のように、すぐには役に立たないかもしれない。だが、長期的に見るならば、割に合う投資だというのだ。

本当?

「教養と給与」って、韻は似ているけど因果というより相関の気がする。

教養がある「から」高い役職に就いているというより、そういうポストに近づくと教養を身に着けようとするように見える。ケンカしないから金持ちになるのではなく、金持ちだから争いごとのリスクを下げようとする感覚。

もう少し具体化して、「読書と収入」で語るならエビデンス付きで語れる。

詳しくは『読書効果の科学』の書評にまとめたが、読書すると高収入になる因果は無く、ある程度の収入が得られるようになると、読書するようになる。これは、本を買って読むという金銭的・時間的なゆとりが生まれるからだと思われる。

もちろん、乏しい小遣いをやりくりしている私のような少数派もいる。著者に言わせると、私の教養が足りないか、プルーストが足りないのかもしれないがねw



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