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健康ディストピア

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年4月20日


Health

「健康は義務です、不健康は犯罪です」とアナウンスしながらドローンが行き交い、市民の健康係数を測定する。サーモグラフィで自動測定し、体温が高いと「風邪で休まないのは犯罪です」と勧告する。

健康係数が良いなら、健常者と判定され、執行対象にはならない。

しかし、規定値を下回ると、潜在的な不健康者として判定され、様々な制限が加えられる。食事制限や運動が義務化され、タバコ等の嗜好品が限定されたり、保険金の割引オプションが利かなくなる。

さらに悪くなると、当人の健康状態が周囲への悪影響を及ぼす潜在感染犯と判断され、執行対象となる。マスクと手袋の着用が強制され、守らない場合は捕縛され、厚生施設でセラピーが施される……

……という物語を思い浮かべたのは、御田寺圭さんの「コロナ後の世界」に忍び寄る「健康・健全ディストピア」を読んだから。コロナ禍の先、社会保障や医療リソースが制限され、健康であることがルール化された相互監視未来を、「ヘルシー・ディストピア」と言い表している。すごい。

「健康=正義」の社会

そこでは、「健康=正義」される。

タバコを嗜む人、お酒が好きな人、メタボといった不健康な人は、医者から注意を受けたり、白い目で見られるだけでない。はっきりとルール(条例・法令)違反として改善が義務付けられる。免疫力が低下する高齢者は、それだけで健康色相が濁っていると判別される。

もちろんこれ、アニメの『PSYCHO-PASS』から派生した、わたしの妄想だ。人の心理状態や犯罪傾向を測定し、規定値を超える犯罪係数を持つ人間を「潜在犯」と見なし、社会から排除もしくは殺処分する人々を描いた傑作だ。

人の心というものは、数値化できるか? 特に、未だ犯罪に至っていないのに、PKディックの『マイノリティ・リポート』のように犯罪予防できるのか? といった疑問は、Amazonプライムで確かめていただくとして、ここでは、「健康」について述べたい。

不健康は悪なのか

「健康」は、一見、誰も反発したり疑義を唱えられない中立的な善のように見える。誰だって病や苦痛を避けたいから、健康であるに越したことはない。どれだけお金を積んだって、健康はお金では買えない。もちろんその通りだ。健康であることは、「よいこと」とされるのが一般的だ。

しかし、誰も反対しないからこそ、この言葉を使えば、先入観を押し付けることができる。無条件に「よいこと」だと認められるからこそ、製品を売るために用いられても、そのレトリックに気づきにくい。

「健康的な体形」は、それにそぐわない体形に烙印を押す。「健康的な生活」、「健康的な食事」、「健康的なセックス」など、この言葉に訴える際、ある種の価値判断が密やかに発動する。「ダイエット」や「フィットネス」といった言葉を援用することで、健康への欲望を作り出し、操作することが可能だ。その価値判断は、健康の名のもとに押しつけられるため、健康ファシズムと呼ばれている。

こうした、健康という言葉の背後にあるモラル的な風潮をあぶりだしたのが、『不健康は悪なのか』という論文集だ [書評はここ]

これは、不健康を賛美する本ではない。母乳育児を推進する全米授乳キャンペーン、ヘルスケア用語に覆い隠された肥満嫌悪、「ポジティブであり続けること」を強要される癌患者、定義変更により創出される精神疾患など、「健康」という言葉に隠されたイデオロギーが、グロテスクなまでに暴かれる。

健康が強制される社会

ご注意いただきたいのは、こうした健康について管理された社会が完全にダメというわけではないこと。

公衆衛生にかかるコストや健康を維持するために必要なリソースは、個人では負担しきれない。だから社会で担うのだという発想で、社会保障や医療システムができている。「健康であることは望まれること」を前提とした、このベースラインは維持していきたい。

だが、「健康であることが強制されること」となる世界を懸念している。個人の努力目標ではなく、社会から制限や強制される方向に加速し、その大義名分として「健康=正義」という棍棒が振り回される社会までを妄想する。

健康な生活を営むことは、権利ではなく、義務となる。

不健康な生活は排除され、健全で安楽な社会といえば、ハクスリー『すばらしい新世界』が有名だろう。苦痛や不快のない、安楽で幸福な科学文明の未来を描いたディストピア小説だ。あるいは、伊藤計劃『ハーモニー』における、パンデミックにより崩壊した政府に成り代わった、新たな統治機構「生府」を思い出す方もいるかもしれぬ。

いずれにせよ、そこには高度な医療経済社会が築かれ、健康や幸福を目指すことは権利ではなく義務とされ、そこからの逸脱は禁じられる。「健康的である自由があるように、不健康になる自由だってある」なんてセリフは、戯言となる。

「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」

それはフィクションの話で、ディストピアに振り切った物語にすぎない、と指摘できる。

どの時代の政府であれ、国民の健康は国力に直結するのだから、大なり小なり健康管理社会になるもの。それを極端にしたフィクションなのだ、とも言える。

しかし、「健康=正義」を推し進めると何が起きるのかは、フィクションではなく過去を振り返ればいい。

T4作戦だ。

1939年ヒトラーの命令書から始まり、「不健康であり、生きるに値しない」と医師が選別した人々が、次々にガス室へ送られた作戦だ。

ナチスの強制収容所といえばユダヤ人の迫害に着目されがちだが、この作戦により、うつ病や知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中患者といった人が、記録されているだけでも7万人、一説によると20万人も犠牲になったという[Wikipedia:T4作戦]

ヒトラーが署名したのは、治癒不能の重い病気を抱える患者に対し、十分慎重な診察のもと、安楽死がもたらされるよう、医師の権限を拡大する命令書だった。

当初は、苦しみから解放するという建前だったが、社会の幸福のため、科学的正当性のもと、社会を合理化する推進力になる。「健康であること」を医師が選別し、著しく不健康な存在は、社会から排除したのだ。

当時は戦力増強という目的があったものの、ナチスほど国民の「健康」に執着した組織はなかったという。

タバコとアルコールの追放運動を行い、飲酒運転には高額な罰金を課した。結核の早期発見のためのX線検査、学校での歯科検診、身体検査を制度化した。栄養のある食事、運動、新鮮な空気、適切な休養が啓発された。決められた「健康」を満たせない者は「役に立たない」とみなされる。つまり国民は、「健康」を強要されたのだ。

この件は、『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』に詳しい [書評はここ]。そこに出てくる、ブーヘンヴァルト収容所の所長の言葉が強烈だ「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」

誰が「健康」を決めるのか

繰り返すが、社会システムに組み込まれた健康に反対しているわけではない。国民皆保険制度は、半世紀以上にも渡り、日本の健康を支えてきた。必要なときに必要な医療が受けられる、いわば日本の財産ともいえる。

だが、限定される医療リソースを奪い合う状況を抜けた後、健康についての強制力が無条件に発動することを恐れている。結果として狂気への道になったとしても、始めた人は善意を敷き詰めていることが人の常だから。

ここで何らかの結論を出したいわけではない。問題は、こうした物語やレトリック、歴史的事実を吟味することなく、「ふいんき」で流されていくことを心配している。人類はムードに流されやすい。不安は煽られやすいし、恐怖は思考を止めやすくする。

「健康=正義」の世の中になるとき、この文章は非常に奇妙に見えるはずだ。だが、健康であることは、誰が決めるのか(決められるのか、そもそも決めるようなことなのか)を吟味する上で、考える材料となるだろう。

考えるきっかけや、参考となる作品を教えていただいた、御田寺圭さん、@kei9744さん、@chakabocoさん、@itachirei08さん、ありがとうございました。

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笑いのしくみを探る『喜劇の手法』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月3日


笑うのは人間だけだとアリストテレスが言ったとか。

真偽ともかく、大きな口をあけて、アッハッハと哄笑するのは楽しい。いや、楽しいから笑うのか。この笑い、可笑しさ、ユーモアについて考えるのに、有用な一冊が『喜劇の手法』だ。

「人はなぜ笑うのか」という漠然とした疑問に対し、『喜劇の手法』は、喜劇を通じて笑いの仕組みに迫る。しかも、シェイクスピアやモリエール、ゴーゴリの作品から具体的な例を挙げ、劇作家たちが、どんな手法を用いて観客を笑わせるかを吟味している。

本書がすごいのは、紹介される喜劇を観ていなくても面白さが伝わるところ。技法を分類し、それぞれにおいて特徴的なシーンに焦点を当て、その背景とともに脚本を抜き出してくる。こんな風に。

  • だます(変装、一人二役、嘘、変身)
  • 迷う双生児、偶然の一致、反復、循環、逆転)
  • 間違える誤解、身代わり、自縄自縛、誤算)
  • 語る傍白、アイロニー、沈黙と間、機知合戦)

ゴーゴリ『検察官』と『カイジ』の鉄骨渡り

たとえば「誤解」の手法としては、ゴーゴリ『検察官』を紹介する。旅の途中に無一文になった若者が、大物の検察官と取り違えられ、地元の市長や有力者たちに歓待されるという話だ。

最初は戸惑っていた若者も、検察官になりきって、あることないこと言い出すところや、中央権力に媚びてすり寄る田舎者が笑いどころになる。本書では、個々の笑いどころに通底する、ある視点に焦点を当てる。

それは、観客の視点だという。

つまりこうだ。調子に乗ってカネを巻き上げる若者や、お追従しまくる田舎者といった登場人物には、それぞれの視点がある。だが、それらの視点に対し、絶対的な優位を保っているのが、観客の視点になる。

人違いという些細な誤りが拡大し、登場人物は混乱する。混乱は人の醜悪な面を、過剰なまでに暴く。そうした混乱を前にしても、観客は巻き込まれることなく、渦中の人物たちとは距離を置いて眺めることができる。

それは「観客席」という絶対的な場所で、すべての状況が把握できているからだという。この絶対的な優位性が、『検察官』を喜劇たらしめているというのだ。

なるほど、人の愚かさや醜さを、全てを知る視点から眺める優越感が、この作品の「笑い」になる。『賭博黙示録カイジ 』で鉄骨渡りする人が必死であればあるほど、それを安全な場所から眺める観客にとっては最高のエンターテイメントになるのかもしれない。

シェイクスピアと高橋留美子の共通点

あるいは、「機知合戦」。シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』を元に、スティコミシアの技法が紹介される。『じゃじゃ馬ならし』の劇中劇として、じゃじゃ馬な女と、強引な男との掛け合いが出てくる。

どちらも相手を言い負かそうとして。相手の言葉尻を捉えて投げ返し、どちらが優位になるかのマウンティング合戦がテンポよく進む。お互いに対立しているのに、この掛け合いのセリフ運びについては、完璧に息が合っているのが面白い。

この掛け合いを、スティコミシアと呼ぶそうな。ギリシャ劇以来の歴史あるもので、「隔行対話」とも呼ばれるという。丁々発止の連続で、よりもと漫才などは基本的にスティコミシアで成立しているお笑いだろう。

『じゃじゃ馬ならし』は観たことも読んだこともないが、相手の言葉をつかまえて言い合う説明で思い出すのが、高橋留美子『めぞん一刻』。ほぼ全話といっていいほど、スティコミシアが出てくる。第101話「大安仏滅」のここなんて典型かも。

Mezon
高橋留美子『めぞん一刻』 第101話「大安仏滅」より

ここ、「二年」という言葉尻をスティコミシアする様子と、「観客席」の優位性の両方があることが分かる。コブラ vs. マングースみたいな七尾さんと八神さんと、その間で息も絶え絶えな五代くんを、安全な場所から笑うことができる。

喜劇の手法の源泉と応用

おそらく、『喜劇の手法』を読むと、そこで紹介されている作品だけでなく、その技法を応用したコミックや映画や小説が思い起こされるだろう。そこでの面白さの源泉を味わうことができる。取り違え、誤解、騙す、アイロニーなんて、ラブコメの典型にして王道だし。

もちろんここで紹介されている技法が笑いの全てだとは限らないだろう。だが、人がどういう時に面白いと感じ、笑うのかについて、個々の例を通じて考えることができる。

笑いの本質を、具体的に考察する一冊。

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「いまを生きる」に自覚的になる『瞬間を生きる哲学』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月10日


tumblr で知った仏陀の言葉が好きだ。

 過去にとらわれるな
 未来を夢見るな
 いま、この瞬間に集中しろ

 Do not dwell in the past,
 Do not dream of the future,
 Concentrate the mind on the present moment.

そう、わたしは過去や未来ばかり見る。やったことを後悔し、不確かなことを心配する。ああすれば良かったと憤慨し、こうなったらダメだと心を痛める。

この、今を後回しにする生き方を批判し、「いま」「ここ」に充足する方法を考察したのが『瞬間を生きる哲学』だ。哲学や芸術から援用し、瞬間を生きるための具体的な技術を指し示す。

生のユーティリティ化

たとえば、今を後回しにして、「何かのため」に生きる生き方を、「生のユーティリティ化」と喝破したところがすごい。ユーティリティとは、「有用性」「効用」と訳され、何らかの役に立つということ。何の役に立つというのか?

それは、入試のためとか就職のため、あるいは家族のためとか老後のため。安定した幸せな人生のため、明日や来年、場合によっては死後に設定された目標に役立たせるために、「いま」を立て続けに収奪する。

つまり、アリとキリギリスの教訓を内面化し、将来のために、いま努力する社会だ。「いつか」「どこか」のために、今を最適化する。わたしは、今を生きることしかできない。それにもかかわらず、「いま」「ここ」以外に、何かの目的や価値があると思い、そのために生きようとしてしまう。

「いまを生きる」技術

では、どうしたら「いまを生きる」ことができるのか?生を生として瞬間をじっくりと味わう―――そもそもそんなことが可能なのか?

こうした疑問に対し、プルースト文学やフロー体験、赤塚不二夫「これでいいのだ」や、サルガドの報道写真、イスラーム哲学やサティ瞑想など、様々なアプローチから「いま」「ここ」に迫る。

特に面白いのは、リアリティ炙り出し装置としての芸術のところ。漫然と過ごしてきた瞬間の一つを切り取り、それに光を当て、生々しく浮かび上げるのは、芸術の役割だという。プルースト『失われた時を求めて』の、紅茶に浸したマドレーヌが象徴的だ。

たしかに「そのとき」そこに居たはずなのに、「いま」「ここ」として実感を持って生きられなかった―――そんな瞬間が蓄積したのが過去だという。そうした中から、なにかのはずみで、思いがけず、現に生きられた時間として襲来してくる。これを、現実の再創造と呼ぶという。

記憶の彼方から圧倒的なリアリティをもって迫ってくる感覚は、確かにある。マドレーヌではないが、味や香りがトリガーとなって、それを食べた昔をありありと思い出すことはある。

いまを生きるものは永遠を生きる

では、過去を想起する形でしか「いまを生きる」ことはできないのか? 本書ではチクセントミハイのフロー体験を元に、今現在「いまを生きる」方法を紹介する。

いわゆる「時を忘れる」ことだ。何か好きなものに夢中になって、気づいたらえらい時間が経っていた……なんてことはないだろうか?

たとえば、物語に夢中になったり、音楽と一体化したり、仕事に没頭するような体験だ。行動へのフィードバックが即座に返る全能感と、行動と思考と感覚が一体化した多幸感で、時間ばかりか我を忘れるような活動だ。無我夢中で愛し合うこともそうだろうし、スポーツだと、「ゾーンに入る(being in zone)」と表現される。

この感覚はある。わたしの場合、いまがそうで、こうやって記憶をまさぐり、体験と照らしながら文章を書くとき、溢れる脳汁を感じる。あるいは、最初の中ジョッキを傾けるとき、SEKIROのラスボスを倒すとき、「生きてる!」と触れるくらい感じることができる。

このとき、人は永遠を生きるという。

この世、この生を大肯定し、死すら圧倒するほど生が露出する瞬間だというのだ。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』にある、「現在に生きる者は永遠を生きる」という言葉と、アウグスティヌスやトルストイが言った「過去や未来なんて存在せず、ただ現在だけがある」が、重ね合わさるところ。

えいえんはあるよ、ここにあるよ

この「永遠」は、無限に遠い未来という時間的な意味ではない。

過去や未来のない無時間を指すと考える。ずっと「いま」なら死も無い(なぜなら、死は「いま」として体験できない、生の外側の存在だから)。『ONE』のラストの「えいえんはあるよ、ここにあるよ」にある、時間の無い「いま」である。

どんな未来になるのか不透明な状況で、どうしたら不安から逃れ、いまを生きることができるか? おそらく、わたしがやってはいけないのは、「テレビやネットを見る」だろう。未来が不確定であることを改めて確認し、不安を強化するか、ガセやデマに翻弄されるだろうから。

代わりに、「いま」「ここ」を充足させよう。読むこと、食べること、表現することに集中しよう。そして何より―――『失われた時を求めて』に取り掛からなくちゃ。

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「感染する自由か、監視された健康か」というレトリック『現代思想5:感染/パンデミック』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月16日


「健康」という言葉には色が無く、中立的な善のように見える。

しかし、誰も反対しない中立的な言葉からこそ、先入観や政治色を押し付けることができる。無条件に「よい」だと認められるからこそ、レトリックに気づきにくい。

たとえば「感染する自由か、監視される健康か」と迫られるときには、そのレトリックの向こう側を考える。わたしは、二者択一を迫るメッセージには、無条件で警戒している。あるはずの他の選択肢を覆い隠してしまうことを、恐れている。

情報が近すぎるし、早すぎるから、立ち止まって吟味したい。

LINEによる健康調査

引っ掛っているのは、LINEの健康調査だ。

厚生省による新型コロナ対策のための調査として、LINEを用いたアンケート調査がある。5/1より複数回にわたって行われ、わたしも回答している。

立ち止まって考えたいのは、これが大きな議論や反発がされることなく、なんとなく受け入れられているように見えることだ。

ひょっとすると、わたしの感度が鈍いのかもしれないが、個人が利用するアプリに、同意なく調査依頼を送ることは、どこかで問題視されていたのかもしれない。

だが、一部の反発がつぶやかれただけのように見える。この先にあるものは、携帯端末を通じた監視社会だから、様々な意見が百出するかと思いきや、たくさんの話題の一つとして流されようとしているように見える。

断っておきたいのは、この施策に反対しているわけではない。PSYCHO-PASSが象徴する健康ディストピアの入口にいるようで、むしろ興味深いと思っている。そして、権力が健康にどこまで介入するのか、しっかり見たいと考えている。

わたしが問題視するのは、このテーマが、ろくに議論されていないように見えることだ。「健康」という、反発しにくい言葉を盾に、なし崩しになっているように感じられる。重要かつ緊急だから仕方がない。了解だ。だけど、それは議論しなくていい理由にはならない。

ウイルスは社会統制を正当化するのか

わたしのアンテナが低かったようで、この議論は既に海外でされていた。『現代思想5:感染/パンデミック』にある、スラヴォイ・ジジェクの小論(*1)で分かった。

コロナウイルスの蔓延により、社会統制が正当化されてきたことに、リベラルや左派は警鐘を鳴らしてきたという。ウイルスが引き起こしたことは、「誇張した混乱」とされ、社会統制のための権力行使に利用されてきたというのだ。

しかし、ジジェクは、このように社会を解釈したところで、脅威を湛えた現実は消えないという。ウイルスの蔓延を押さえるために必要な措置を、フーコーが普及させた「監視と制御」というおなじみの範例へと切り詰めるべきではないという。

そして、より微妙なニュアンスを表現できる言葉を作り出す必要を訴える。

そこで引用されているのは、デザイン理論家・ベンジャミン・ブラットンのツイート(*2)だ。

単刀直入に言って、あらゆるかたちのセンシングとモデリングを「監視」として、また積極的なガバナンスを「社会統制」として反射的に解釈してしまうのは間違っている。現状に介入するためには、それらとは異なる、もっとニュアンスに富んだ語彙が必要なのだ。

Preempting the replies: It is a mistake to reflexively interpret all forms of sensing and modeling as "surveillance" and active governance as "social control." We need a different and more nuanced vocabulary than the one  habituated from tendentious readings of Foucault.

健康係数を色で分ける

監視・管理・制御のプラットフォームが構築され、社会インフラとして活用されてゆく様は、社会思想史を専門とする水嶋一憲の小論(*3)でまとめられている。

そこでは、アリババグループが開発した「健康コード」システムや、シンガポールにおける感染経路を追跡するためのスマホ用アプリ「トレース・トゥゲザー」、さらには厚生省のLINEによる健康調査が紹介されている。

特に、コードスキャン機能で判断された健康状態を緑・黄・赤の色別にし、色に応じて公共空間のチェックポイントを通過・制限が行われる様は、PSYCHO-PASSの犯罪係数に基づいた色相を彷彿とさせる。心理の計測は難しいが、体温なら比較的簡単だ。

ウイルス検査やトレーシングを、「監視」だとして批判する匿名性原理には、個人の自由をどこまで重んじるかという選択と共に、感染リスクの高い人々を危険にさらしてもよいのかという、倫理的な判断が含まれると説く。

みんな大好きフーコー先生を持ち出して、監視・パノプティコン・生政治で叩く方法は、短絡的すぎるのかもしれぬ。「ウイルスか、自由か」という二択の間に、もっと議論できるポイントがありそうだ。

感染者・接触者を包括的に追跡できる法律

5/14 のナショナルジオグラフィックに、「韓国はいかに感染爆発を食い止めているのか」という記事がある(*4)。ビッグデータを活用した接触者の追跡が奏功したとあるが、それは、「感染者・接触者を包括的に追跡できる法律」による施策だという。

この法律は、2015年に流行したMERS(中東呼吸器症候群)の教訓から制定され、以下の体制が整えられている。

  • 感染者および感染者に接触した人を、追跡して隔離できる
  • クレジットカード会社や携帯電話会社の履歴情報を取得し、それをもとに対象の行動経路が再現できる
  • 再現された経路は、本人の氏名を伏せて公開される

では、日本ではどうするの? という話になる。

上手くいっているから取り入れようとする考え方と、今の内閣でそれするの? という意見もある。おなじみのフーコー先生やビッグ・ブラザーを持ってくる人もいるだろう。この法案が動き出したら、「国民監視法」と名づける新聞も出てくるだろう。

現在、段階的な緩和の方向で進んでいるものの、揺り戻しが来る可能性がある。あるいは、遺伝子の水平伝播による長期化を招き、COVID-20を名づける必要が出てくることも考えられる。

その時になって是非を騒ぐのではなく、今の段階で、どこまでやってよいのか、誰がガバナンスするのかを話し合っておかないと……と考える。

韓国のデータ収集は、プライバシー侵害にあたると考える人がいるが、韓国国民からは広く支持されているという(当記事には、78%が人権よりウイルス封じ込めを優先する回答をしたとある)。日本ではどうだろうか。

おそらく、第二波が来るときだと、議論どころではなく、法案はスピード可決が求められるだろう。強力な手が打てないのは、後ろ盾となる法律がないからという理屈で、迅速に進められるだろう。

「ウイルスか、自由か」の二択にしないために

繰り返すが、現在の流れに反対したいのではない。

むしろ、わたし自身は、自分の健康状態を知らせることに抵抗を感じにくくなっているように思える。

問題は、この「感じにくくなっている」ことについて、反対する人がいるはずなのに、その声が聞こえてこないこと。この感覚がどこまで妥当か、吟味されるべきなのに、その主張が息をしていないように見えることだ。

本来の立場からすると批判するべき人が、率先して賛成してしまっているのではないか? 価値観の風向きが変わるのを見て、歴史や他国の事例を紹介することを躊躇っているのではないか、それを心配している。

わたしは、自分の考え方をアップデートするとき、その背景や根拠、歴史からの吟味を経た上で、実行したい。吟味をせず、いきなり「ウイルスか、自由か」の二択にしてしまいたくない。両者の間に、別の選択肢があるはずだから。

*1 スラヴォイ・ジジェク「監視と処罰ですか? いいですねー、お願いしまーす!」 MONITOR AND PUNISH? YES, PLEASE! (2020/3/16) http://thephilosophicalsalon.com/monitor-and-punish-yes-please/

*2 @bratton,2020/3/9 のツイート

*3 『現代思想5』p.38「コモン/ウイルス」解体するスペクタクル・デジタルメディア技術・コモンのケア

*4 Nathinal Geographic 2020/5/14 新型コロナ、韓国はいかに感染爆発を食い止めているのか

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/051400292/

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オンライン読書会で何が怖いか募集したら、ゾンビや熊を抑えて堂々一位が「生きている人間が一番怖い」だった

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月24日


お薦め本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それが [スゴ本オフ]

いつもは皆で集まるのだが、世情が世情なだけに難しいので、Zoomでオフ会することになる。「オンラインでするオフ会」とは奇妙だが、主流になりつつある。

とはいってもノリは同じで、テーマを聞いてピンときたお薦めの作品への愛を語る。本でも映画でも、音楽やゲームなんでもあり、展覧会や舞台を紹介して頂いたこともあった。

で、今回のテーマはホラー。夏には少し早いけれど、現実がホラーに侵食されつつあるいま、リアルに呼応したところに反応してしまう。『呪術廻戦』から『The Last Of Us』まで、様々なホラーが集まる。

人間が一番こわい

いくつかの作品に共通するのが、「生きてる人間が一番怖い」という思いだ。ゾンビや妖怪、ウイルスや獣といった類は、だいたい何をするか分かる。やってることは殺人や破壊でも、当人にしてみれば食事だったり繁殖になる。

だが、生きてる人間は、何をするか分からない。それぞれの欲望を秘め、とんでもなく邪悪なことを平気でしでかし、言い逃れ、あくまで自分が正しいと言い張る。

わたしが紹介した、『The Last Of Us』なんてまさにそうだ。謎の寄生菌のパンデミックが発生し、荒廃した世界で生き抜く男と少女を描いたサバイバルホラーだ。寄生されゾンビ化して襲ってくる異形は、確かに怖い。捕まったら即死というモンスターもいる。

だが、狂った世界で最も怖かったのは、人間だ。

人間は「意図」が分からない。なまじコミュニケートできるからこそ、不気味だ。主人公たちは、異形のモンスターだけでなく、自分たちを陥れようとする人間をも相手にしなくてはならない。

「なぜ人間どうしで争い合うのか?」という質問をもらったが、ネタバレを回避すべく、「いちばん不足している物資は、食料だ」と答えておく。来月続編が出るが、おそらく、最も厄介な敵は、人間だろうな……

「人間が怖い」つながりで出てきたのが、みづほ梨乃『ショコラの魔法』だ。

「どんな願いでも叶えてくれる」魔法のチョコレートをめぐる少女コミックなのだが、これが怖い怖い。人は、さまざまな願いを持っている。キレイになりたいとか、成功したいとか、イヤなあいつを陥れたいとか―――そういう願いが、チョコレートという触媒を経て「欲望」に変わる。

もちろん、約束どおり欲望は満たされる。美しくなるとか、あいつが酷い目に遭うのだが……予想通り、後味の悪いノワールな展開になる(ジェイコブズ『猿の手』のパターン)。「小さい女の子に読ませて大丈夫かよ!?」と思ったけど、むしろ「等価交換」とか「人を呪わば穴二つ」を学ぶ良い機会なのかも。

自然は怖い

心臓がキュッとなるのがこの映像。

米国の有名なクライマーが、素手で岩を登ってゆくのだが、安全装置などは使用していない。

岩の割れ目の狭いすき間に手を差し込んだり、ほんのわずかなでっぱりに指をかけて、身体を持ち上げる。柔らかそうなシューズが、ただ壁に当たっているだけで、どこも引っ掛っていないように見える(でも立っている)。

「フリーソロ」というらしいが、見ているこっちの心臓に悪い。あたありまえだが、落ちたら死ぬ。CGであって欲しいのだが実写。その映画がこれ。

山つながりで、ディアトロフ峠事件の紹介も。

1959年に、ウラル山脈で9名の男女が遭難事故があったのだが、その現場が酸鼻を極めていたという。氷点下の極寒の中で衣服もつけておらず、全員が靴を履いておらず、3人は頭蓋骨折、1人の女性は舌を喪失しており、異常なほど放射線が残っていたという。

この謎に迫ったドニー・アイカー『死に山』が紹介されるのだが、ネタバレ抜きの感想としては、「自然は怖い」になる。この事件がベースとなり、ブレアウィッチプロジェクト(映画版)ができたと聞く、知らなかった!

自然が怖いつながりで、『羆風』が出てくる。吉村昭『羆嵐』かと思いきや、釣りキチ三平を描いた矢口高雄の劇画だという。モデルとなっているものは同じく[三毛別羆事件]だ。人間の味を覚えた羆が数度にわたり村を襲った事件で、圧倒的な暴力の前に、人は成すすべもないことが分かる。『羆嵐』は凄かったので、『羆風』を読んでみよう([Kindle アンリミで読み放題])。

他にも、日常とデモが共存する香港の現実や、フォトショで作る最近の心霊写真の話、日本人だとラヴクラフトは怖くない、あるいは映画版『シャイニング』が許せるか等……

「怖さ」といっても様々であることが分かる。いろいろ伺ったが、わたしにとっては、やはり人間が一番恐ろしく、次が自然になる。お化けや妖怪の類は、怖いというより親しみを感じてしまう。

以下、紹介された作品リスト。次回は、「冒険」をテーマにお薦めしあいましょう。

  • The Last Of Us(ノーティドッグ開発)
  • The Last Of Us Part II (ノーティドッグ開発)
  • 雨月物語 吉備津の窯(上田秋成、石川淳、ちくま文庫)
  • エミリー・ローズ(スコット・デリクソン監督)
  • プリースト 悪魔を葬る者(チャン・ジェヒョン監督)
  • 巷説百物語(京極夏彦、KADOKAWA)
  • うわさの怪談 闇(マーク・矢崎治信、成美堂出版)
  • ショコラの魔法(みづほ梨乃、小学館)
  • 猿の手(ジェイコブズ)
  • 化物語(西尾維新、講談社)
  • オジいサン(京極夏彦、KADOKAWA)
  • ねじの回転(ヘンリー・ジェイムズ)
  • 呪術廻戦(芥見下々、集英社)
  • チェーンソーマン(藤本タツキ、集英社)
  • 絶対帰還。(クリス・ジョーンズ、光文社)
  • ディアトロフ峠事件
  • 死に山(ドニー・アイカー、河出書房新社)
  • ブレア・ウィッチ・プロジェクト(エドゥアルド・サンチェス監督)
  • フリーソロ(ジミー・チン監督)
  • 神秘家列伝(水木 しげる、KADOKAWA)
  • この世の王国(アレホ カルペンティエル、水声社)
  • ヨハネの黙示録(小河陽、講談社)
  • なにをたべたかわかる?(長新太、絵本館)
  • プリニウス(ヤマザキマリ、とり・みき、新潮社)
  • 狂気の山脈にて ラヴクラフト傑作集(田辺剛、KADOKAWA)
  • ハンニバル・レクター博士のモデル(ヘンリー・リー・ルーカス)(URL
  • 風の谷のナウシカ(宮崎駿、徳間書店)
  • ペスト(カミュ、新潮社)
  • インターステラー(クリストファー・ノーラン監督)
  • シャイニング(スティーヴン・キング)
  • シャイニング(スタンリー・キューブリック監督)
  • 羆風(戸川幸夫、矢口高雄、ヤマケイ文庫)
  • 福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件
  • 八九六四 「天安門事件」は再び起きるか(安田峰俊、KADOKAWA)
  • 勇午 香港編(真刈信二、講談社)

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美は人を沈黙させるが、饒舌にもさせる『栗の樹』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月31日


Kobayashi

小林秀雄の読書会をするというので、『栗の樹』を読んだら、激しく同意するところと、納得いかないところが割れて、なかなか面白かった。

西行や孔子、ゴッホ、トルストイといった、骨董の真贋といったテーマを通じて、批判対象に徹底的に具体的たらんとする姿勢は、激しく同意する。別の書の「美しい花がある。花の美しさというものはない」なんて、美とは何かについて、有力な応答だと思う。

あるいは、「『平家』は読んでも分からない。昔の人は聞いたのである」という件は100回膝を打った。古川日出男『平家物語』を読んでいる際、たくさんの声・声・声を肌合いで感じつつ、自分でも音読していたから。

言葉は目の邪魔になる

しかし、美について言葉は無用というのは、ちょっと違うのではないか。「美を求める心」でこう述べる。

例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でおしゃべりをしたのです。

そして、「菫の花」という言葉が心の中に入ってくると、もう目を閉じてしまうという。花の姿や色の美しい感じを、「菫の花」という言葉に置き換えて、見たことにしてしまう。それはしゃべることであり、見ることではない。言葉は目の邪魔になるというのだ。

ここは、「言葉」を「名前」に替えるなら、その通りだと思う。わたしたちは、ものに名前を付けて、分かったふりをするのが得意だ。新たな経済現象から新種の元素まで、名前さえつければ解明できたとする、悪い癖だ。

名前で分かったふりをせず、その花の美しい感じをそのまま持ち続け、見続けることで、花はかつて見たこともないような美しさを明らかにするという。その通りだろう。

美は人を沈黙させる

半分同意で、もう半分はツッコミを入れたい。

美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に解るということは、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わうことに他なりません。

ここまでは、そうだなと感じる。心を震わせる芸術に触れたとき、息をのむほどの景色を目の当たりにしたとき、わたしたちは言葉を失って、ただ目だけ・耳だけの存在になる。

しかし、ここから先、物の本質を知ろうとする行為は、物の姿を壊すことだという点には、少し違うと思う。対象の構成要素を分解して、それぞれについて一つ一つ分析していく方法では、美しさを解ることには至らないという。

たとえば、ある花の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、雄蕊、雌蕊はどんな構造をしているか、色素は何々か、という様に、物を部分に分け、要素に分けて行くやり方ですが、花の姿の美しさを感ずるときには、私たちは何時も花全体を一目で感ずるのです。

言わんとしていることは分かる。それでも、美が強いる沈黙に負け、分析したり、誰かに伝えたくて饒舌になることを、「美が解っていない」かのように語られると、それは違うと思う。

分かるとは分けること

おそらく、小林自身も承知しているだろうが、「分かる」という言葉は「分ける」とも使える。文章では「解る」と表現しているが、これは「分解する」につながる。わたしたちは、世界を知るときに、時間なら因果、空間なら要素の軸に沿って分けようとする。

そのため、菫の花の美に触れたとき、それがどこからやってきたかを知るためは、因果や要素に沿って解る必要がある。小林は、花そのものを分解し、雄蕊や雌蕊に分けてみせた。そんなことをしたら、花はばらばらになってしまう。

しかし、花の色合いが好ましいのであれば、自分を落ち着かせる効果があるからと、因果関係を見て取ることができる。物理的に分解せずとも、花弁のある部分の形が黄金比を成していることに、普遍的な美を見出したのかもしれぬ。

こうした還元主義的なアプローチだけでない。あるいは、関連する古典や歴史、生物学の知識や、その花から想起される思い出をつなぎあわせ、花の美しさは、自分の内側に積み上げてきた経験にも裏打ちされていることに気づくかもしれぬ。

菫の美しさを詠った歌人は、万葉集や西行、良寛そして宣長と連綿と続く。人は、美しいものに触れたとき、それを何とか言葉にして伝えようとする存在なのだ。

理解するためには言葉が必要

菫の花のような自然ではなく、芸術作品だと、人は、さらに饒舌になる。

たとえば、わたし自身、何も知らず、無手でゴッホやセザンヌに向かい合ったとき、「なにかが違う」という違和感しかなかった。なぜ対象物を正確に写し取らず、歪んでいるのかが解らなかった。

しかし、E.ゴンブリッチの世界的な名著である『美術の物語』を通じて、自分が受けたものが何であるかを知ることができた。ピラミッド時代から続く「見たままを写す」美術の歴史から外れたことで、セザンヌはこの世界に地滑り的な変化をもたらしたという。

セザンヌがやろうとしたことは、「色彩によって立体感を出す」ことだという。明るさを殺さずに奥行きを感じさせ、奥行きを殺さず整然とした構成にするために工夫を重ねた結果、多少輪郭が正確でなかろうとも、あまり気にしなかったというのである。

この解説を手がかりに、彼らがやろうとしたことは、写真のような正確さではなく、その絵を見た人がどう感じるかの知覚や体験を重視していると考えるようになった。本書を通じて、いわば新しい目を手に入れたともいえる。

これ、独りでセザンヌの絵を眺めていても、決して得られない「目」だろう。小林を始め、評論家という存在は、まさにそのためにあるのだと考える。

語り尽くしたあとの沈黙

もちろん、言葉を尽くしても語りえぬものがある。ひょっとすると、小林秀雄は、この語りえぬものまでも念頭に置いていたのかもしれぬ。

美しいものに触れ、言葉を失った後、我に返り、ひとしきり饒舌に語る。そこで語りつくせなかった感動が静かに身体に満ちてゆくのを、「感動に満ちた沈黙」と名づけたのかもしれぬ。

小林秀雄の読書会は、哲学Youtuberネオ高等遊民さんの[哲学読書会サークル]でやってる。講師役のスケザネさんの第0回の解説は、[ここ]で聴くことができる。

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適応としての笑い『ヒトはなぜ笑うのか』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年6月7日


  犬、売ります:なんでも食べます。子どもが好きです。

意味が分かったとき、めっちゃ笑った。誤りに気づいて愕然とする男と、その傍らでシッポ振ってる犬まで目に浮かんで、笑いが止まらなくなった。同時に、男が殺人鬼だったパターンも浮かんで、自分のブラックジョークに、息が止まるほど笑った。

ひとしきり笑ったあと、可笑しかった理由を考えても、出てこない。「子どもが好きです」のダブルミーニングは分かるが、それが、どうして狂おしいほどの可笑しみを招いたのか、説明するのは難しい。

絶妙なネタが飛び込んできたり、とんでもない大失敗を目の当たりにしたとき、胸の奥・腹の底に、抑えようのない情動が沸き起こってくる。

このユーモアの情動がどのように引き起こされるのか、さらに、それをどうして愉快だと感じ、笑いにつながるのか―――認知科学者(ハーレー)、哲学者(デネット)、心理学者(アダムズ)の3人の共同研究『ヒトはなぜ笑うのか』が、この謎を解き明かす。

「可笑しさ」のメカニズム

本書では、ユーモアの情動が発動するとき、そこに何らかのエラーの発見があることに注目する。私たちは、ある知識や信念に不一致を見出したとき、可笑しみを感じる。私たちは、何かがおかしいと分かったとき、それを可笑しいと感じる

しかも、不一致であれば必ず可笑しく感じるとは限らない。いったん真だとコミットメントされた要素が偽だと判定されるとき、ユーモアが生じる―――これが「可笑しさ」のメカニズムだという。暗黙裡に当然視していたものが、一気に一挙にひっくり返る発見、これがカタルシスにつながる。

さっきの「犬、売ります」だと、掲示板かSNSのような場所に、犬の買い手を募集していることが分かる。続く「なんでも食べます」は、「(犬は)好き嫌いせず何でも食べる」と整合的に理解される。

そして、「子どもが好きです」が入ってくると、いったんは「子どもに懐きやすい犬」と受け入れられる。だが、その後、「なんでも食べる犬」という全体像と比べると、「好き嫌いせず子どもを食べる犬」と読み取ることができてしまう。

いったん受け入れた「子どもに懐きやすい犬」が偽だと判定されるとき、わたしは、可笑しみを感じる。もちろん、「子どもを食べる犬」というグロテスクな結論は偽なのだが、それも含め、この文章に促された誤読(おかしさ)の発見こそが、愉快なのだ。

ユーモアは適応である

この「愉快だ」というユーモア情動には、適応的な働きがあるという。この情動は一種の報酬であり、これを求める動機付けになるというのだ。

たとえば、私たちは果糖がもたらす感覚を「甘い」として心地よく味わう。それは、エネルギーたっぷりであるが故に、グルコースの摂取を求めるよう、「甘さ」が動機づけられている。甘い・美味しいという感覚は、グルコースを摂取した報酬になる。

それと同様に、「可笑しい」という感覚は、今まで当然だと思っていた知識や信念の中に、首尾よくエラー(おかしさ)を見つけた報酬だという。私たちは、チョコやケーキを求めるように、ジョークやユーモアを求めているのは、こうした理由によるというのだ。

ユーモアの報酬システム

本書では、このユーモアの報酬システムを、「メンタルスペース」を用いて説明する。

頭の中で活性化する概念や記憶、耳や目などから入ってくる情報や感覚などは、粒度も精度も種々雑多だ。だから、トピックごとに一定のまとまりを持って、ワーキング領域を割り当て、その中で理解しようとする(この概念的な領域のことを、メンタルスペースと呼ぶ)。

時間に追われながら、リアルタイムでヒューリスティックな検索をしている脳が、入ってくる言葉や概念を完璧にチェックできるわけではない。だからこそ、エラー発見に報酬を与えるのだ。本書の p.37 にこうある(太字化は私)。

検証されないままであれば、メンタルスペースで生じるエラーは、最終的には世界に関するぼくらの知識を汚染し続けることになる。そのため、信念と推量の候補たちを再点検する方策が欠かせない。エラーを猛スピードで発見・解消する作業は、強力な報酬システムにより維持されねばならない

この強力な報酬システムこそが、ユーモアの情動となる。ユーモアの情動とは、メンタルスペースをひっくり返すぐらいの「おかしさ」を発見した「可笑しみ」というご褒美なのである。

適応としての「笑い」

では、愉快なとき、なぜ笑うことがあるのか。

愉快な情動に身を任せて爆笑し、身体を揺すって大声で笑うのはなぜか。単に愉快なら、「甘い」という感覚と同じように、黙って味わえばよいではないか。笑う発声や身振りは、どこから来たのか。

この「笑い」は一つであるが、そこへ至るまでは複数の要因があるとする。本書では、笑う発声や身振りについては、「誤情報だった」というシグナルの適応だ主張している。

つまりこうだ、「敵が近づく音がした!(緊張)→物音は間違いだった(緩和)」から生じるときの声や動作が始まりだという。「安心しろ、ヤバいのはいねぇよ」という合図が、後の私たちにとっての笑い声になるのだ。

そして、「誤情報だ、警戒を解け」というシグナルのレパートリーを持っている者たちにとっての適応度を強化した、と述べている。仲間が笑っていると、つられて笑ってしまう(笑いの伝染)のは、こうした理由で説明することができる。

たしかに私は、「心配いらないよ」という時でも「安心したよ」という時でも笑うし、一緒に笑うことに、人の繋がりを感じる。『新世紀エヴァンゲリオン』の第6話の、この言葉を思い出す。

「ごめんなさい。こういうときどんな顔すればいいかわからないの」

「笑えばいいと思うよ」

人間だけが笑う

「おかしい」を発見すると「可笑しい」と感じるユーモアの報酬システムや、「安心しろ」「愉快だな」という連帯を伝える笑いの適応を見てきたが、本書には、古今東西の賢人たちのアプローチが紹介されている。

面白いのは、「笑い」について調べれば調べるほどに、人間とは何か、知性とは何かといった問題に向き合うことになる。アリストテレスの「動物のなかで人間だけが笑う」理由にも答えることになるのだ。

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やりたいことは全部やる『キミオアライブ』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年6月14日


Kimioa

病院のベッドで、ひたすらノートに書く少年。

大病を患い、未来に絶望しかない状況で、「やりたいこと」を書き続ける。リストには、たくさんの「夢」が並んでいる。

  • リコーダーを吹きたい
  • 風船の中に入ってみたい
  • 自分で考えた物語を本にしたい
  • 部屋中を使ってピタゴラ装置をつくりたい
  • 空を飛びたい
    ………………

ささやかな願いから、とんでもない冒険まで、さまざまな夢がある。

あなたは、こんな「やりたいこと」リストを作ったことがあるだろうか?

わたしはある。むかし「夢ノート」が流行ったとき、やりたいこと、行きたいところ、食べたいものなどを綴った覚えがある。リストを作り、名前を付けて保存した。それから十年にもなる。

しかし、少年は違う。名前はキミオ、『キミオアライブ』の主人公だ。

  1. ノートに、やりたいことを書く
  2. 書いたことは、必ず実行する
  3. 実行したら線を引く

キミオは、律儀に、真面目に、一つ一つ、実行していく。

「リコーダーを吹く」は簡単にできるが、ピタゴラ装置はちょっと大変かも。さらに、「空を飛ぶ」のはもっと難しい。飛行機に乗ればいいのか? あるいは、[ジェットマン][ウイングスーツ] みたく、命をカネをかけて飛ぶのか? 

できない理由ではなく、できる方法を探す

しかし、キミオは違う。別の方法で「空を飛びたい」を実現する。

ここが、キミオとわたしの大きな違いだ。

わたしは、「やりたいこと」が浮かんだとき、まず、その「できない理由」を探し始める。お金が無いから、もっと時間があったなら、スキルが足りない、仲間が必要、そもそも法律で許されているの? なんて考えてるうち、名前を付けて保存したくなる。

一方、キミオはこう考える。「もしそれを実現できるなら、どんなやり方がある?」と考える。あるいは、「何が実現されたなら、『できた!』になる?」と考える。そして、できる方法を探し始めるのだ。

やりたいことで、生きていく

この発想力と企画力、そして実行力がすごい。

最初は呆れて馬鹿にしていた周囲の人も、だんだんとキミオに巻き込まれてゆく。

その一方で、キミオ自身も、自分のためだけではなく、仲間と一緒に企画して、知恵を出して実現する喜びを知る。さらに、「あの人の笑顔が見たい」という新たな「やりたいこと」を見出す。

そして、この喜び、楽しさ伝える、動画配信という方法があることを知る。動画配信は、「やりたいことで、生きていく」ための強力な武器になりえる。

後に、チャンネル登録数1000万人を超える youtuber となるのだが、それはまた別のお話らしい……

今をやり直す

『キミオアライブ』の第一話を読んだとき、以下を初めて読んだときと同じ衝撃を受けた。

きっとお前は、二十年、せめて十年でいいから、

戻って人生をやり直したいと思っているのだろう。

今やり直せよ、未来を。

十年後か、二十年後か、五十年後から戻ってきたんだよ、今。

第一話は、『キミオアライブ』 から読める。

第一巻は、コロナで書店が閉まっていた時期に発売され、気づかなかった。読書猿さんが呟いてくれたおかげで、知ることができた。読書猿さんありがとう! おかげで、「やりたいこと」をやらなかった十年後から、今に戻ってくることができた。

人生の持ち時間は少ない。やりたいことは、全部やろう。

 

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読書は毒書、マンディアルグ『黒い美術館』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年6月21日


ぬるい小説はいらん。読んだら心が抉られるような劇薬を、読みたい。

「号泣した」とか、「ページを繰る手が止まらない」といった誉め言葉が満ちているが、そんな気分じゃない。むしろ、「読まなきゃよかった」とか、「ページを繰る手をためらう」作品が読みたい。

そんな劇薬を『スゴ本』で語った(怖いもの知らずは、特別付録の「禁断の劇薬小説・トラウマンガ」をご覧あれ)。すると嬉しいことに、「それが猛毒なら、これなんていかが?」と紹介していただいた。

それが、マンディアルグの傑作短篇集『黒い美術館』だ。

マンディアルグ!

知ってる人はドン引く強烈な作家で、代表作の『城の中のイギリス人』では、エロスと残虐性を徹底的に追求している。これ喜んで読む人は、ウェルカムトゥ・ザ・変態・ワールドやね。

収録されているのは以下の5編、純粋無垢の存在を、残虐に汚す才能が、如何なく発揮されている。

  • サビーヌ
  • 満潮
  • 仔羊の血
  • ポムレー路地
  • ビアズレーの墓

マンディアルグの凄いところは、物語に出てくるイメージが、読者に与えるコントラストを操作しているところ。読み手の脳内で起こる「映え」やね。

たとえば、由緒あるホテルの真っ白な浴室と、そこでリスカして飛び散った大量の血潮のコントラスト。あるいは、ウサギの可愛いモフモフした感じと、屠殺人が使う冴えわたった刃物の鋼鉄のイメージ。月の運動によって生じる満潮のタイミングと、処女の口の中にぶちまけるという発想。

猛毒だとお薦めされたのが、「仔羊の血」だ(@hikimusubi さん、ありがとうございます!)

これは素晴らしくエロスなやつ。えっちなやつではなく、油ギッシュで臭うやつ。

少女と黒人、仔羊と屠殺人、赤い血と黒い手といったコントラストに、色とりどりに塗られた仔羊の群れが加わったり、脂でべとついた毛皮から処女の秘処に這い上るシラミ(後に猛烈な痒みをもたらす)のイメージが美麗なり。

むせるような麝香(じゃこう)の匂いと、股の下の仔羊のべとついた肌ざわりと、うごめくシラミの痒みのせいで、少女はこらえきれず尿を洩らしてしまう。その直後の、黒人の手の描写が秀逸だ。

間髪を入れずに、黒人の両手が彼女をひっつかんだ。なめらかに乾いた大きな二つの手が、知能をそなえた高等な寄生虫みたいに、ゆだねられた肉体の上で我がもの顔に、肌着の下へもぐり込み、乳房のまわりへ忍び寄り、下腹部に触れ、まさぐり、さまよい、それから濡れた股に沿って太腿の付け根へと引き返すのだった。

どうして二人がそんなことをしているのか、これらから彼女がどうなるのか、さらに黒人にどんな運命が待ち構えているのか。気にするな、ストーリーこそ余談だ。代わりに、ビジュアルの鮮烈さに撃たれ、もどかしい体感に身をよじり、おぞましい臭いを嗅ぐがいい。

読書は毒書、ただ酔えばいい。



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1つの定理を証明する99の方法

タイトルまんま。以下の定理を証明する99の方法が書いてある。

  x- 6x+ 11x - 6 = 2x - 2 ならば x=1 または x=4

高校の知識を引っ張り出して考える。

最初の式を変形すると、

  x3 - 6x2 + 9x - 4 = 0

因数分解で

   (x-1)2(x-4) = 0

となり、これが成り立つのは  x=1 またはx=4 のとき。

あるいは、左辺、右辺をグラフにする。

  y = x3 - 6x2 + 11x - 6
  y = 2x - 2

3次式と直線の交点は、(1,0)と(4,6)なので、x = 1 または x = 4 のとき成り立つ。

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他は……思いつかない。

だが、数学者の手にかかれば、99も出てくる。図だけで示したり、背理法で証明したり、代入、対称性、反例、対偶、定義といった数学の世界からのアプローチや、力学や音楽、色相を用いたり、折り紙を使って証明したりする。

どんな宛先であろうと、いったん数式を変換できさえすれば、後はそこで表現すればいい。その発想が、どれだけ自由に解き放てるかという練習になる。

No.26 聴覚による

めっちゃ笑ったのが、聴覚による証明だ。

本書では素っ気ない図なので、GPTに説明し、描画してもらった。

Photo_20260605181301

ついでにwavにしてもらった。

ダウンロード - auditory_proof_reconstruction.wav

  f(x) = x3 - 6x2 + 11x - 6
  g(x) = 2x - 2

要するに、xは時間(拍)でyは音程に対応させて、演奏する。先ほどのxy平面上のグラフを、ヴァイオリンでやる イメージ。f(x)は第1ヴァイオリンが担当し「フゥイーーイ↓ ↓ ーーイ↑ ↑ 」と奏で、g(x)は第2ヴァイオリンが担当し、「フゥーイー↑↑↑」と鳴る。それぞれのパートでユニゾン(同じ音)となった箇所がx=1またはx=4となる仕掛けだ。

No.50 色による

これも笑った。

色相は円グラフで表現される……ということは、360°で元の色になる。xの単位(ここでは40°=1単位)を決めれば、その単位においてf(x)とg(x)の色が決まる。そして、色相が同じ箇所が、f(x)とg(x)の2つの解となるというのだ。

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No.39 折り紙

難解なのは折り紙だ。何回読んでも分からない。

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GPTに尋ねると、正方形の折り紙を、アナログ計算機の一種として考えろという。そして、①~⑥の折り目は、紙の上に方程式の情報を埋め込むことになるという。そして、☆と★をそれぞれ折ると、その折り方は2通りあり、根になるという。

分からん。本書には「リルのやり方」をなぞっていると記されている。おそらく、以下のLillの法則のことを指しているようだ。こちらは何となく分かるが、それが上記の折り紙にどう対応づけられるのかが分からん。

n次方程式の実数解を幾何学的に得る方法 : DragonFlare Trail 

数式による操作を、折り紙に対応づけるのは面白い。折り紙で遊んでみよう。

数学は厳密で自由だ

この、一つのものを様々な技法で表現する試みは、クノー『文体練習』を思い出させる。

『文体練習』とは、「バスの中で男をみかけた」という平凡な出来事を、隠喩を用いたり、自由詩にしたり、短歌にしたり、手紙風にしたり、食べもので喩えたり、論理的にしたり、正確無比にするなど、99通りの書き方で表現したもの。人を喰った本といっていい。

あるいは、「爆発音がした。俺は振り返った」という文を、ケータイ小説、ラノベ、村上春樹、竜騎士07、司馬遼太郎……と、様々な作家に憑依して並べた「爆発のコピペ」を思い出すかもしれぬ。

共通するのは、表現は自由で多様だという、あたりまえのことになる。

数学には、厳密で一つの答えしか許さないというイメージを抱いていたが、本書を読むと、答えに至る道筋は、驚くほど多様で自由でムチャしてもいいように見えてくる。

そして、数学の場合、文章表現とは少し事情が違ってくる。

小説や詩なら、表現を変えれば意味あいも味わいも変わってくる。だが数学では、どれだけ表現を変えても、最後に辿り着く真理は同じものになる。デカルト平面だろうと、ヴァイオリン演奏だろうと、色相だろうと折り紙だろうと、どんな言語やオブジェクトに翻訳しても、

  x = 1 または x = 4

という事実だけは変わらない。

だから本書は、99の証明集であると同時に、数学がどれだけ多様になれるかに挑戦した本でもある。

数学は堅苦しい規則の集まりではない。むしろ、厳密さを保ったまま、どこまでも自由になれる世界だといえる。

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心と時間の不思議に迫る『心にとって時間とは何か』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年6月28日


時間は、過去→現在→未来の順に流れており、わたしが「いま」だと感じているものは、現在のことだと思っていた。だが、[この視覚実験]をやってみると、疑わしく見えてくる。

赤い丸と青い丸が交互に点滅しているのを見るだけ。パラメータを変えると、赤丸から青丸に向かって、丸が移動しているように感じられる(私は preamble = 1000, disk = 80, inter-disk = 100にしたが、人によって微妙な調整が必要かも)。

問題はここから。タイミングを変えることで、赤丸から青丸に移動する途中で、丸の色が赤から青に変わっているように見える。まだ青を見ていないにも関わらず、未来に見えるはずの青を感じているように思われる。

なお、直前に見た青から、色の変化を予想しているわけはないらしい(色変化をランダムにしても同様の結果になるという)。

心にとって時間とは何か

つまり、途中での色変化(赤→青)を見ているとき、すでに青の情報を受け取っているということになる。そして、その情報を踏まえたうえで、色変化の映像を作り上げた、と考えるしかない。現在の中には、未来も含まれているのだ。わたしが「いま」のものだとして見ているものなのに、未来も視ている感覚になる。

「いま」とわたしが言うとき、その一瞬を物理的にスライスした世界を知覚するのではなく、ある程度の時間的な幅をもった物理的世界の情報を元に構成されている。すなわち、既に体験した現象と、まだ体験していない(と考えている)現象が混ざり込むような形で「いま」が体験されているのだ。

カラーファイ現象は、『心にとって時間とは何か』で知った。

他にも、知覚や記憶と自由意志を揺さぶる実験を紹介する。有名なリベットの実験の致命的な欠陥や、フッサールの時間の哲学への批判が面白い。反証が難しいとされる「5分前創造仮説」を限界まで弱める方法や、「自殺=未来の自分に対する他殺性」の思考実験もユニークだ。

こうした実験やトピックを通じて、著者は、時間とは何かについて、どこまで分かっているかを描こうとする。時間について迫るほど、それは意識の問題、心の問題になるのが面白い。

「精神と時の部屋」はタイムマシンか

特に面白かったのが、タイムトラベルの非対称性だ。

SF小説や映画に出てくるタイムトラベルについて、著者は面白いことを言い出す。すなわち、タイムトラベルにかかる「時間」に着目する

改造したデロリアンで時間を跳ぶ「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が典型で、時間旅行にかかる時間は一瞬だ。他にも、霧に包まれ気づいたら戦国時代に居たり、冷凍睡眠から覚めたら未来だったりもあるが、ポイントは、主観的な時間(主人公が感じる時間)はごくわずかなところ。

この主観的な時間と、主人公を取り巻く世界の時間の違いについて、「精神と時の部屋」を例に説明する。

「精神と時の部屋」は、ドラゴンボールに出てくる特別な部屋で、ここで一年間を過ごしても、外の世界では一日しか経っていない。

普通だと、一年間を過ごしたら、365日後の世界になるはずだ。だが、一年後より364日前の世界に居るのであれば、これは過去のタイムトラベルと見なせるのではないか? という着眼点だ。

もちろん、登場人物の誰もそう考えてはいない。マンガの読者をはじめ、「精神と時の部屋」を過去へのタイムトラベルと見なすのは不自然だという。

しかし、部屋の外と内側を逆転させると、未来へのタイムトラベルと見なすことができる。つまりこうだ、部屋の中で一日を過ごすと、外の世界では一年が経過している。これは冷凍睡眠タイプのタイムマシンと言えるのではないか。

ここから広がる、タイムトラベルにおける、未来と過去の非対称性の話が面白い。ポイントは、主観的な時間のスケールと、その外側の世界の時間のスケールの違いにある。

処刑は3時におわった

この、主観的な時間のスケールと、それを取り巻く世界の時間との違いは、手塚治虫の短編マンガ「処刑は3時におわった」を思い出す。

「時間を延長させる薬」を手に入れた男が、処刑される寸前に飲み、脱出を図ろうとする話だ。薬を飲むと、1秒の長さが1分ぐらいに感じられるようになる。つまり、主観的な時間のスケールが60倍もする世界になる。いわば、精神と時の部屋の薬バージョンである。

わたしはここに、時間の問題の難しさがあると考える。

もちろん、時間は計ったり指し示したりできるので、客観的な量としてあるように見える。わたしたちは日常的に「時間の流れ」について言及する。

だが、その時や間を認識するのために、主観がまとわりつく概念でもある。男の主観から時間をどのように流れ、その「主観」がどこまでの範囲なのかが、クライマックスとなる。

精神と時の「部屋」は、明確な部屋の出入りがある。だが、男の身体に生じている時間の延長は、主観とは何かまで踏み込まないと、明らかにならない。

ニュートンをはじめ、多くの物理学者が時間の流れを扱わなかったと言われるのは、こうした理由によるのかもしれぬ。

時間とは何か、どこまで分かっているかを確かめ、どこが議論されているかを確かめる一冊。

 

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読み方を学び、文学と出会いなおす『クリティカル・ワード 文学理論』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年7月5日


「文学」に興味がある人に、強くお薦めする。

『クリティカル・ワード 文学理論』は2部構成となっており、どちらから読んでも得るもの大。

一つは、「基礎講義編」、現代文学の第一人者の小論を、腰据えて読む。テーマは「読む」「言葉」「欲望」「世界」とあり、文学を理論的に思索するとはどういうことか、という問いに対し、この小論そのものが実践的な解になる(この手法は身につけたい)。

もう一つは、「トピック編」、パラパラ眺め、目を引いたキーワードを拾い読む。すると、自分の興味のすぐ隣に、さらに面白い議論があることが分かる。「ジェンダー」や「ポストヒューマン」といった分野ごとに、見取り図が提示され、それぞれの主張を支える構造が確認できる。

Bungaku

どちらからでもいいが、基礎編で手法を学び、トピック編で応用されている議論を俯瞰すると入りやすいかも。この、基礎→応用で、最もわたしの興味を貫いたのは、エドワード・サイードになる。

対位法的読解

基礎講義編では、様々な読み方が紹介されている。

自分でも色々な読み方ができると思っていたが、テクスト論や徴候的読解、言語の脱領土化など、新しい&強力な読み方を知ったのが収穫だ。

なかでも、サイードの「対位法的読解」が目を引く。

これは、音楽の対位法から着想を得たスタイルで、主著『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』において実践した、斬新な読みになる。

前提として、テクストは、かならず多声的(ポリフォニー)だという。そのため、「作者の意図」や、「〇〇イズム」といった単一の意味に収斂するような単声的読解を退ける。その一方で、それぞれの声がバラバラの「なんでもあり」とはならず、ゆるやかな関係性を保つように読むのだ。

具体的には、ジェイン・オースティン『マンスフィールド・パーク』を俎上に据えられる。この小説、ふつうに読むと、ユーモアたっぷりの恋愛劇に見える。イギリス的な荘園を舞台に、恵まれない境遇の少女が、道徳心を縁に困難を乗り越えてゆく物語だ。

しかし、サイードは、一見何でもない描写―――西インド諸島の植民地プランテーションへの言及に着目し、その糸口から、作品全体の裏地を炙り出す。いかにもイギリス的な小説世界は、実は、植民地の奴隷労働で維持される収奪システムの上に成り立っていることが明らかにされる。

ポスコロ→ジェンダー論の応用

支配のための意味づけによって見えなくされていた関係性を見出し、支配的言説を批判することで、絡まり合った歴史を解きほぐす<読み>だという。ポストコロニアル批評と呼ばれ方法論は、後半において、様々なトピックに応用されている。

その中でも「ジェンダー・セクシュアリティと文学」が顕著だ。

男性には気づきにくいが、家父長制社会では、男性中心の言説が支配的になる。そして、この言説で構築された物語に女性を押し込めてきたという。女性を抑圧する父権性は社会に構造化されており、関係性は見えづらい。

そこで、サイードの手法を用いて可視化する。

目に見えている表象から、その背景にある言説を炙り出し、それが支配を正当化していることを論証する。

対位法的読解によるオリエンタリズムをジェンダー論に応用すると、西欧白人中心主義による植民地支配の構造は、そのまま男性中心主義による、女性支配に置き換えることができる。

文学理論の暴走

これ、やり方によっちゃ無敵の武器になる。

援護しているのは、デリダのテクスト論だ。書かれたものについて、作者や世間のイメージから切り離し、多様な読みを認める手法だ。作者の意図や論壇の権威に配慮することなく、書かれたものだけを頼りに、批判的に検証する。

そのため、ただの恋愛小説や冒険物語といった、「政治」とは無縁に見える小説から、植民地収奪システムや帝国主義的関係が織り込まれていることを、解きほぐすという読み方ができてしまう。

要するに、なんとでも読めてしまうのだ。最近よく見かけるハンマー「現在の価値観でもって歴史を殴る」も、この延長上にある。本書では、「対位法的読解」=「自分の主張に引き付けて読む」という姿勢を戒める。

安易な応用が、あらゆるテクストから「帝国主義的イデオロギー」という「ひとつの意味」を抽出して非難することで事足れりとする「単声的」な態度は、対位法的読解の主旨に著しく反する。

これは分かる。しかし、だとするとサイードがしてきたことがまさに「オリエンタリズム」という単声性に収斂させる仕事になるのではないか? という疑問が生じてしまう。

おそらくこれは、ピッと線引きできる簡単な話ではなく、サイードが著した『オリエンタリズム』のような膨大な質量の蓄積があって始めて主張できる議論なのだろう。単純に、手法をマネすれば同じことが言える、という話ではなさそうだ。

 

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意味が分かると『しびれる短歌』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年7月12日


ほんとうはあなたは無呼吸症候群おしえないまま隣でねむる
鈴木美紀子

同室で枕を並べる夫婦なのに、少なくとも妻は冷めきっているのが分かる。

「ほんとうはあなたは」で、夫の寝息がおかしいことに気づいてから、結構な日数が経っている。おそらく、就寝中の夫の寝息がおかしいことに気づいて、ネットか何かで調べ、「無呼吸症候群」に辿り着いたのだろう。

放っておいたら、そのまま息をしなくなるかもしれない。それも織り込み済みで、「おしえない」。ずっと息をしないようなら、「おしえない」まま目を閉じて、朝まで待つのではないかと、ぞっとする(「教えない」と漢字にしないところに、淡々とした意志を感じる)。

夫婦はホラーだ。これなんかもそう。

湯上りに倒れた夫見つけてもドライヤーかけて救急車待つだろう
横山ひろこ

風呂上りのヒートショックで、夫が脳卒中を起こしたのか。

この場合、「おしえない」のは犯罪なので一応、救急車は呼ぶ。だけど、待っている間は髪を乾かす。寝かせるぐらいしか応急処置はないからだ。冷静なのか非情なのか。性別逆転すると石を投げられそう。

東直子さんと穂村弘さん、二人の歌人が紹介する『しびれる短歌』では、ヒヤりとするような歌がいくつも出てくる。現代の短歌では、夫は粗大ゴミであり、ぬれ落ち葉として扱われるらしい。「断捨離で最も捨てたいのは夫!」なんて涙を禁じ得ぬ。

これなんて、ぞっとするだけでなく、物語を感じる。

家族の誰かが「自首 減刑」で検索をしていたパソコンがまだ温かい
小坂井大輔

この家では、パソコンを共用していることが分かる。さらに、「検索」という言葉から GoogleやYahoo検索のことで、いわゆる昭和の時代ではないことが分かる。

それだけではない。検索キーワードを知っているということは、履歴を開いたことになるし、「自首 減刑」という言葉から、「自首したらどれくらい減刑されるのか」という意図が、そして家族の誰かがそれを知りたいと思っていることが分かる。

何をしてしまったのか?

もちろん、興味本位で調べたのかもしれぬ。だが、「まだ温かい」という言葉は、犯行現場に残された証拠品から「犯人はそう遠くに行っていない」「犯行からまだ時間が経っていない」ことを示す慣用句だ。

この一行からざわつきが伝わり、それを言えない詠み人のもどかしさも感じられる。詠み人にやましいことがあるならば、自分の犯行が家族にバレた? と不穏な物語を広げることだってできる。

これなんて、自分の身体をモノのように扱っている。

したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ
岡崎裕美子

「したあと」とは、要するに彼氏の部屋にお泊りしたことなんだろうし、自転車は昨夜乗ってきたやつだろう。事後の朝チュンの後、帰るところなのだろう。

しかし、「だるい」というのはいかがなものか(分かるけどw)。もっとこう、ドリカムの「うれしはずかし朝帰り」みたいなものを求めていると、ぜんぜん別の感情にぶつかる。

これ、自転車の撤去予告に自分を重ねているんやね。

赤紙が貼られて一定時間が経過すると、放置自転車として撤去され、処分される。いわば、その場所に居られることに、タイムリミットがついていることをが宣言されている。

そのまま、彼氏にとっての彼女という居場所もタイムリミットがついているやるせなさ。「したあと」の疲労に、心地よさより「だるい」と感じるどうしようもなさ。

そういったものを、哀しむでもなく、憐れむでもなく身体ごと突き放し、「だるい」の3文字で片づける。

こんな風に、さまざまな短歌が、テーマごとに解説されている。甘さより苦み多めの「恋」の歌や、意味が分かると怖い「家族」の短歌、「時間」や「固有名詞」といった珍しいもの、五七の形式さえ守れば短歌になるのか、トリッキーなやつもある。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
笹井宏之

これは、[今の中を生きるために歌がある]でも紹介したが、目から情報のように「読む」というよりも、むしろ空気や水を呑み込むように、身体の中に言葉を入れるような感覚に陥る。

短歌の破壊力が凄い。一行が目に飛び込んでくるから、構える間もなく理解に達し、感性を撃つ。一行の物語に震えて痺れる。短歌のコスパはかなり良い。

しびれる短歌を、おためしあれ。

 

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アルマゲドン、遊星からの物体X、ディープ・インパクト……人類の終わりを楽しむ『映画と黙示録』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年7月18日


「終末もの」の映画が好きだ。

核兵器やエイリアン、天変地異によって人類滅亡の危機が迫るとき、それまでいがみ合っていた人々が団結し、科学技術を駆使して立ち向かうやつ。「世界の終わり」を楽しむ映画だ。

『映画と黙示録』(岡田温司/みすず書房)によると、こうした終末ものは、「ヨハネの黙示録」に代表されるキリスト教の終末思想が世俗化したものだという。さらに、世界を滅ぼす存在については、映画が作られた時代が色濃く反映されているという。

宇宙人、ウイルス、放射能……その時代の人々が、何に恐怖し、何を救いとしていたかを、映画は具体的に見せてくれる。

核が世界を救う

たとえば、「核こそが世界を救う」という隠れテーマが面白い。

巨大な隕石が地球に向かっており、このままだと人類が危ない―――そこで核兵器を使用して、カタストロフを回避するストーリーが定番だが、1958年の『天空が燃えつきる日』を始め、『メテオ』『アルマゲドン』『ディープ・インパクト』などが紹介される。

著者はここに、冷戦時代における核兵器の開発競争と、その正当化が隠れているという。

ひとたび核戦争が起きれば、相互確証破壊により、人類は何度でも滅亡できる程の核弾頭がある。脅威を宇宙へ向けることで、非難を逸らし、核兵器の有効活用の可能性を示す。

わたしの場合、『アルマゲドン』をスペクタクル+家族愛の物語として感動していたが、言われてみれば、「最終手段・核爆弾」を所与のものとして受け入れていたな……隕石に限らず、宇宙人や怪獣など、巨大な脅威に対してはお約束レベルで刷り込まれているのかも。

恐怖の対象は世相を反映する

また、何を脅威とするかは、それぞれの時代を反映しているという指摘が面白い。

  • 1950~60年代は、冷戦と核兵器
  • 70年代は、環境問題や人口増加
  • 80年代は、パンデミック、ウイルス
  • 90年代以降は、テロリズム、移民・難民問題

こうした時代背景に基づき、脅威を強化するように「世界の終わり」を描いた映画が作られ、観られてきたという。本書では、リメイクされた映画を分析することで、その時代の「脅威」を炙り出す。

たとえば、みんな大好き『遊星からの物体X』(1982)が象徴的だ。

南極の極限状況で異星人に立ち向かう話だ。異星人はグロテスクな怪物として扱われ、接触した人を感染させて吸収するが、見た目は変わらない。そのため、隊員たちは疑心暗鬼になり、仲間内で殺し合うハメに。

著者はここに、「敵は仲間の中に潜む」メッセージを読み取る。さらに、1980年代に入って急速に世界に広がった、エイズへの不安が投影されていると見る。「血液に潜むエイリアン」というイメージは、あの血液検査のシーンで強化されているなぁ……

いっぽう、リメイク元の『遊星よりの物体X』(1951)では、異星人の姿かたちは、人とほぼ同じ。頑丈な大男で、著者はここに、米ソの冷戦構造を反映したロシア人のイメージが重ねられているという。

しかも、異星人が来るのは、米ソの境界のアラスカだ。かつてロシア領だったが、財政難のため、アメリカに売り渡したいわく付の土地だ。ロシア人に似せたエイリアンは、まるで領土を奪い返すため来たといわんばかりになる。

恐怖の対象「物体X」は、映画を見る人にとって、時代の不安を体現しているといえるだろう。

映像に写り込まれた世相

迫りくる脅威から逃れるため、シェルターに逃げたり、宇宙船で脱出するストーリーもある。現代版のノアの箱舟といっていい。

シェルターも宇宙船も、定員が決まっている。入れる人は抽選で決められるというが、金持ちや権力者が優先される。しかも、抽選の枠には条件があり、年長者や病人は最初から除外されている。

抽選で決まった幸運な人々は、なぜか白人ばかりになる。科学者やエンジニア、医者や兵士が多い。

著者は、『地球最後の日』や『ディープ・インパクト』を挙げながら、「選ばれた人々」に注目する。そして、現代のノアの箱舟によって救済され、人類の未来を背負うのは、もっぱら若い科学者やエンジニアであり、科学への素朴な信仰が、ほとんど疑問視されないことを指摘する。

意図した上かどうかは分からない。だが、何を採用し何を写さないかには、映画を作る人の判断が混ざる。何を脅威とし、何を救うかには、その時代の世相がバックグラウンドとして、写り込んでいるのかもしれぬ。

人類がどのような終末を迎えるのか? 黙示録映画を通じ、時代ごとの「脅威」の創造性を垣間見る一冊。

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“奇跡の惑星”から、ありふれた奇跡へ『系外惑星と太陽系』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2017年9月28日


 読前・読後で世界を一変せしめるような本をスゴ本と呼ぶのなら、これはまさしくそれ。

 なぜなら、薄々考えてきたことが、エビデンスと共に論証されており、今まで学んできた天文学、地球物理学、生命科学の知識が急速に収束し、「地球外生命はいる」という確信になろうとしているから。同時に、わたしの思考が、いかに地球を中心に囚われていたことに気づかされたから。

 タイトルの「系外惑星」とは、太陽系以外の惑星のこと。ここ数十年の間、この系外惑星が続々と発見されるにつれ、生命活動が可能な惑星(ハビタブル惑星)に対する認識が塗り替えられてきた。かつては、かつては「奇跡的」だったものが、「ありふれた奇跡」になろうとしている。しかも、ハビタブル「惑星」である必要はなく、ハビタブル「衛星」の可能性も示唆されている。

 つまり、「ハビタブル」の条件を考えるにあたり、「太陽系の地球のような惑星」のイメージを壊し、ゼロベースで考え直す。文字通り「生命を宿しうる」ことで再定義し、その条件を適当な惑星の質量・軌道、水、炭素、窒素、エネルギーの供給というように捨象してしまう。すると、太陽系に似た惑星系である必然性はなくなり、地球に似た惑星である必要もなくなる。サイズによっては惑星である必要性もなくなり、衛星でもよくなる。

 そして、相当する質量や軌道という観点であれば、惑星系性理論および観測された系外惑星の軌道分布から予測可能であり、元素およびエネルギーの供給については、惑星大気の観測からある程度の実証を得ることができる。

 昔は、太陽系以外にも惑星があるはずだとして、様々な系外惑星探査が行われてきた。大型望遠鏡を使った探索は1940年代から本格化し、1980年代には観測技術は充分なレベルに達していた。しかし、系外惑星はほとんど発見できなかった。「第二の地球を探せ」というスローガンで、地球に似た系外惑星を探そうとして、(それが見つからなかったが故に)地球は“奇跡の惑星”とされた。

 今は、一定の確度を持ち、予測と検証を繰り返しながら観測を行うことで、系外惑星の発見数は、爆発的といっていいほど激増している。この今昔の境は1995年以降、「ホット・ジュピター」や「エキセントリック・プラネット」と呼ばれる常識外れの惑星が見つかってからだという。いま、まさにパラダイムシフトが起きているのに、気づかぬまま通り過ぎているという感覚。楳図かずおの傑作『わたしは真悟』の「奇跡は誰にでもおきる。だが、おきたことには誰も気づかない」を地で行く感覚なり。

 なぜ、半世紀もの間、系外惑星を発見できなかったのか?

 なぜなら、ホット・ジュピターのような惑星の存在自体が、「想定外」だったからになる。恒星の周囲を、非常に高速で(公転周期4日)周っているガスで覆われた「熱い木星」なんて、想像がつくだろうか? あるいは、彗星のような楕円軌道を描き、灼熱期と極寒期をめまぐるしく繰り返す超巨大サイズの「奇妙な惑星」なんて、完全に常識外れだろう。

 この「常識」こそが、バイアスとなっていたという。つまりこうだ、わたしたちは、太陽系というたった一つのモデルでもって、恒星や惑星を考えようとした。サンプルが1つしかなかったため、惑星形成論とは、太陽系の姿をどのように合理的に説明できるかという議論に等しかったという。太陽系の姿に無意識のうちに囚われ、その「常識」の目で探そうとしていたため、文字通り視野が狭くなっていたのだ。

 著者は、さらにこの「常識」の中心に、キリスト教を中心とした西洋文化を指摘する。地球や生命、宇宙の始まりといった形而上的な問題について、人の考えは、そのバックグラウンドにある文化に影響される傾向がある。「神に選ばれて、キリストが誕生した特別な場所」でなければならない地球は、かつては宇宙の中心とされた。もちろん現代で天動説を信じる人はいないだろうが、太陽系や地球をあるべきモデルとしたがるバイアスは、少なくともわたしの中で、形を変えて生き残っていることが分かった。

 しかし、いったん太陽系モデルから離れて見るならば、その視野は驚くほど広がる。著者は、観測データからも理論モデルからも、ハビタブル・ゾーンに地球サイズに近い惑星が存在する確率は、10%以上はあるという。この銀河系に惑星は充満していると言えるのだ。

 しかも、惑星だけではなく衛星も含めると、その数はもっと大きくなる。ハビタブル・ムーンだ。木星の衛星のエウロパや、土星の衛星のエンケラドスは、表面は凍っているものの、氷の下には液体の海があることはほぼ確実で、そこでの生命の可能性が議論されている。潜ってみたら、微生物が「うじゃうじゃ」いましたと報告されても、驚く反面、やっぱりそうなのかもと思うだろう。

 この感覚は、ここ近年の天文学における発見が、わたしの考え方そのものに影響を与えたのかもしれぬ。見えていないものは、「まだ見つかっていない」可能性を残しているのであり、それは「存在しない」ことと等価ではない。だから、見えていないものについて想像する余白を、常に残しておきたい。

 パラダイムシフトが、まさにわたしの内側で起きているのを自覚した一冊。

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辺境と文明が逆転する『遊牧民から見た世界史』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年8月9日


中国がなぜ中国かというと、世界の中心を意味するから。

中国皇帝が世界の真ん中にあり、朝廷の文化と思想が最高の価値を持ち、周辺に行くにつれ程度が低くなり、辺境より先は蛮族として卑しむ華夷思想が根底にある[Wikipedia:中華思想]

しかし、蛮族とされている遊牧民から見ると、舞台はユーラシア全体となる。遊牧生活によって培われた軍事力で圧倒し、スキタイ、匈奴の時代から、鮮卑、突厥、モンゴル帝国を経て、大陸全域の歴史に関わる。中心と周辺が反転し、中華は一地域になる。

視点を反転することで、いままで「常識」だと考えてきたことが揺らぎ、再考せざるを得なくなる。歴史を複眼的に眺めるダイナミズムが面白い。『遊牧民から見た世界史』は、その手がかりを与えてくれる。

「モンゴル残酷論」の誤り

たとえば、「モンゴル残酷論」これは誤りだとする。

モンゴル帝国といえば、暴力、破壊、殺戮というイメージが付きまとう。PS4ゲーム『ゴースト・オブ・ツシマ』やコミック『アンゴルモア元寇合戦記』に登場する蒙古は、血塗られた侵略者として描かれている。

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しかし、これは歴史の書き手による願望であり、よほどの例外を除きモンゴルはほとんど戦っていないという。

仮に、敵とみれば殺したという伝説が本当だとすると、モンゴルは増えない。ヨーロッパから中国まで、ユーラシア大陸を横断する規模で拡張するためには、仲間を増やす必要がある。

モンゴルの優れた点は、仲間づくりの上手さにあったという。自らの強さを喧伝することで、戦わずに吸収することを目指す。モンゴルという仲間になれば、身の安全が保たれるという、一種の安全保障を提供することで、帰順させるのだ。

軍事力を背景としながらも前面に出さず、関税を撤廃して経済と流通を隆盛させ、ユーラシア・サイズの通商を実現できた事実と、暴力と破壊のイメージはかけ離れている。おそらくこれ、どちらかが本当という二択ではなく、イメージと実践を使い分けたプロパガンダなのではなかろうか。

『ヒストリエ』とは違うスキタイ

スキタイの概念もひっくり返った。

スキタイといえば、教科書にある「遊牧民族」というカテゴリに加え、『ヒストリエ』では、主人公エウメネスがスキタイの血を引く者として描かれている。そこでは、誇り高く、残忍な一族だと示されている(以下、岩明均『ヒストリエ』2巻より)。

Yuubokumin

しかし、それはヘロドトスの言う「王族スキタイ」の一部の人々だという。スキタイの中のスキタイだという一族で、遊牧を行い、戦闘能力に長けた集団になる。スキタイは、この他に、以下も含まれるというのだ。

  1. 農耕・通商・航海をおこなう都市居住民
  2. 商業風の農業経営民
  3. 純粋農民、都市を作らない農村居住民
  4. 草原地帯に住む遊牧民の諸集団

つまり、遊牧だけでなく、商業や農業も入るし、草原のみならず都市や農村に住む人々も入る。人種(レイス)や民族(ネイション)に関係なく、王族を中心に結成された、政治連合体を、「スキタイ」と呼ぶのが最も近いというのである。

いったん、「スキタイ=民族」という公式から、離れる必要があるのだろう。ギリシャ人から見た「スキタイという民族」というイメージと、現実の「スキタイ」と呼ばれる人々との実態は、異なるようだ。

なぜ遊牧民は「残虐」なのか

なぜ遊牧民にマイナスのイメージがあるのか?

本書によると、遊牧民は「蛮族」というレッテルを押し付けられてきたという。その理由は、「遊牧民は、自らの歴史をほとんど残さなかった」ことにある。

一方で、記録する側は、自分たちを「文明人」だと考えて、遊牧民に対し誤解や曲筆の多い書き方をしたという。遊牧民に攻撃・支配された時代は、被害者意識を過大に記述するか黙殺し、記録する側が攻勢にある時期は、遊牧民に対し、蔑視や優越感が溢れる表現になる。

歴史を記す側は、正統性を主張し、覇道を唱えるため、残虐や非道ではないことを証明しなければならない。その仮想敵こそが匈奴・鮮卑といった外側の人々だというのだ。

本書では、遊牧民が自ら書いた数少ない史書のうち、『集史』を紹介する。

これは、モンゴル政権において国家編纂された一大歴史書で、モンゴル史を柱に、ユダヤ史、アラブ・イスラーム史、フランク史(ヨーロッパ史)、ヒタイ史(中国史)、オグズ史(遊牧民史)、インド史を含む空前の人類史だという。

ヘロドトス『歴史』と司馬遷『史記』に、この『集史』を加えることで、世界三大史書になる。本書では、三者を重ね合わせて読むことで、遊牧民から見た世界をダイナミックに解き明かしてくれる。

 

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きれいは汚い、汚いはきれい『不潔の歴史』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年8月17日


歴史上、いちばん不潔な信徒は、次のうちのどれか。

  1. キリスト教徒
  2. イスラム教徒
  3. ユダヤ教徒

『不潔の歴史』によると、史上最も不潔なのは、キリスト教徒だという。ホント!? 入信の際の洗礼のイメージから、きれい好きと思っていたが、違うらしい。

たとえば、イエスを食事に招いたファリサイ派の人は、イエスが食前に身体を清めなかったことに慄いたとある(ルカ11:37-54)。さらに、「あなたたち(ファリサイ派)は、杯や皿の外側はきれいにするが、その内側は強欲と悪意に満ちている(ルカ11:39)」と非難されている。

外見よりも内面を重視するエピソードだろうと思っていたが、これを真に受けて、わざと汚れたままでいることが、4~5世紀のキリスト教徒に流行したとある。手記や小説などで、キリスト教徒の汚さは相当なものだと紹介されている。

一方、ユダヤ教徒やイスラム教徒は、清潔でいることが宗教上の要求としてルール化されていたという。つまり、身ぎれいにすること自体が宗教活動の一つだったのだ。

「きれい」と「汚い」は文化の違い

『不潔の歴史』を読むと、「きれい」と「きたない」は文化的なものであることが分かる。

現代の米国人にとっては、清潔とは、毎日シャワーを浴びてデオドラント剤を付けることだし、17世紀のフランス貴族にとっては、体は洗わず肌着を毎日着替えることが「きれい」になる。古代ローマ人の風呂好きは有名だが、垢をかき落とす金属製のヘラは拷問用具に見える(ストリギリスというらしい)。きれいになる前に血を見そう……

自分の価値観に照らし合わせて「うへぇ」と声に出しながら読んでいるうちに、その自分の価値観ですら、後の世からすると、「うへぇ」なのかもしれぬ、と思えてくる。

たとえば、16世紀の外科医の科学的指導によると、風呂は禁止だという。なぜなら、風呂に入ることで、肌や体の器官が柔らかくなり、毛穴が開くことになるから(当時は毛穴から疫病の「気」が入り込むと考えられていた)。

あるいは、フランスの思想家モンテーニュは、毎日体を洗う習慣が無くなっても問題ないとし、むしろ、手足の垢が層になり、皮膚の毛穴が汚れで詰まっていることを良しとした。病気の予防のため、風呂に入らないという考えだ。

現代の価値観からすると怖気を振るいたくなるが、それなりの根拠がある。16~17世紀にかけてペストが流行したのだが、当時は原因が分からず、共同浴場で悪疫の「気」が入り込むと考えたのだ。

「くさい」という強迫観念

ろくに体を洗わず、垢や脂、ワキガは香水でごまかし、社会全体が臭いので逆に気づきにくい―――パトリック・ジュースキントの小説『香水』で予習はしていたものの、中世のヨーロッパは、相当臭っていたようだ。

では、なぜそれが現代の衛生観念に近づいたか?

上下水道の整備や衛生観念の一般化が思いつくが、本書では、広告戦略の影響が大きいとある。マウスウォッシュのリステリンは、今でも売れているが、1920年代は、こんなキャッチコピーで売り始めたとある。

  • 自分で気づきにくい体臭で、周囲に迷惑をかけている
  • あなたの口臭で、嫌われていませんか
  • 介添え人はしょっちゅう、花嫁はさっぱりなのは、臭いのせい

「あなたは自分の臭いに気づいていない」として、恐怖を煽って商品を得る「耳打ちコピー」という広告戦略が紹介されている。特に1920年代の米国において、この戦略により、デオドラントや消臭剤、ボディソープが飛ぶように売れたという。

これに加えて、ジョージ・オーウェルを例として、臭いと階層化社会の関係が挙げられる。オーウェルのルポルタージュ『ウィガン波止場への道』では、彼の子ども時代では半ば公然と使われ、昨今では誰も口にされていない言葉が出てくる。それは「下層階級は悪臭がする」だという。

日本人は臭わない?

『不潔の歴史』の著者、キャスリン・アシェンバーグは米国人のため、おのずと欧米の文化が中心となっている。

日本の入浴文化も触れられているが、19世紀の長崎を訪れたオランダ人の手記で、「半茹でになるまで入っている」「老若男女が一緒で、慎みというものがない」といった程度だ。「日本人は臭う・不潔」といった内容は見当たらない。

そもそも、日本人の多数を占めるモンゴロイドは、コーカソイドと比べると、臭いの元となるアポクリン汗腺が少ないと言われている。これに加えて、行水や銭湯が一般化していることから、日本人は比較的、臭わないのかもしれぬ。

衛生観は、異文化を叩く格好の道具だ。曰く、「よそ者は正しい衛生観を持っていない。だから不潔だ」というやつ。だが、本書を通読すると、「きれい」と「汚い」は価値観の違いに過ぎないことが分かる。

「マスクをする」衛生観念

最近ならマスクになる。

2002年に中国南部でSARSがアウトブレイクした際、国際線でマスクをする日本人が嘲笑の的になったことを覚えている。ウイルスは非常に小さいため、マスクは感染予防にならない、だから日本人は無駄なことをしている、という理屈だ。

しかし2020年のこの夏、日本人のみならず、諸外国の人々も、公共の場所でマスクをしている。なぜか。

COVID-19はSARSと比べると自覚症状が少ないため、知らないうちに感染し、他の人に伝染させる可能性がある。したがって、自分の感染「予防」ではなく、他人に感染させないためにマスクは役立つ、という理屈だが、そこまで理解した上でマスクをしている人は、一体どこまでいるかは、分からない。

周囲がしているから、するのが「普通」だから、マスクをする―――こういう風に、衛生観念は育っていくのかもしれぬ。

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大好きなマンガが完結したので全力でお勧めする『大蜘蛛ちゃんフラッシュバック』(ネタバレ無し)

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年8月22日


このマンガは、同級生のお尻を見てたら、ひっぱたかれるところから始まる。

Oogumo01

Oogumo02

Oogumo03

……このシーンは、主人公の実(みのる)の目線ではない。お尻を見てたのは亡き父で、その記憶が、折に触れて、実の脳内に蘇るのだ。

お尻の持ち主は、若かりし頃のお母さん(旧姓:大蜘蛛ちゃん)。つまり、母に一途な父の目線でもって、「女子高生のお母さん」の記憶が、息子にフラッシュバックされる。

そして厄介なのは、実は、お母さんに恋をしてしまっていること。女子高生のお母さん(細身で強気)と、今のお母さん(むっちり無防備)に煩悶する、マザコンラブコメ。

「お母さんに恋してる」なんて、ちょっとヤバくね?

その自覚はある。だから実は自問する。

だけど、お母さんとの日常に、父の過去の記憶が入ってくると、女子高生のお母さんの可愛いさに撃たれる。そして、(ここ重要)父がどれほど母を好きだったか、ということを、父の目線で思い知る。だから実は煩悶する。

父の高校時代をなぞる実は、そのまま行くと母と結ばれてしまうインモラルな展開になってしまうのだが、そこは作者・植芝理一先生の見せどころ、これでもかとばかりにフェチと変態と純愛とノスタルジックなネタと突っ込んでくる。

そんな実に興味津々なのが、同じクラスの一 一(にのまえ はじめ)。最初はぞんざいに扱っていた実も、彼女と話しているうちに、「高校生の母に話しかける父の記憶」がフラッシュバックされる。まるで、彼女が母で、自分が父かのようなデジャヴを味わう。そして実は煩悶する。自分は彼女の事が好きなのか、父の記憶の中の母を好きなのかと。

ラブコメを摂取するのは、なんにも無かった青春の記憶を上書きするため。だから読んでて、あまりの甘酸っぱさに「うわああああ」と叫びだしたくなるけれど、それでもニヤニヤを堪えて読む。

『大蜘蛛ちゃんフラッシュ・バック』の重要な要素として、ブルマーを挙げたい。いわゆる密着型のブルマーは、1960年代後半に学校の体操服として広まり、1990年代前半に急速に衰退していった。ブルマーを日常的に目にしていた実の父親は、その最後の世代であり、ブルマー姿の大蜘蛛ちゃんは、実の母の青春のアイテムなのだ。

このこだわりは、ブルマーが包むお尻の微妙なカーブや、ぴっちりしたジーンズに浮き出るシワ、あるいは、自転車のサドルに座ったときのプリーツのよじれといった形で表現されている(刮目すべし)。

倒錯と純愛を、ノスタルジックにフェティックに描いた全6巻。第一話は[ここ]で読めるぞ。

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「おいしい!」と感じるとき、何が起きているのか『味覚と嗜好のサイエンス』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年8月30日


「味」は信号だが、「おいしい」は経験だ。

味覚というものは、食べ物が体に入ってくる時に最初に感じるセンサーの役割になる。甘味はエネルギー源となる糖、塩味はミネラル、うま味はタンパク質、酸味や苦味は腐敗物の存在を感知する。

では、塩何パーセント、砂糖何グラムといった味覚が最適化されれば、自動的に「おいしい」になるわけではない。料理の見た目やにおい、口に入れたときの食感やのどごし、風味の全てで、わたしたちは味わう。

さらに、昔から食べ慣れているかも含め、いまの体感と過去に学習してきた記憶を総動員して、「おいしい」と感じる。ふだんの食生活で見過ごされがちだが、「おいしい」とは、結構複雑な結果なのだ。

本書は、この味覚と「おいしい」を手がかりに、食べるとは何かを探求したもの。

家系ラーメンがおいしい理由は、モルヒネと同じ

最も興味深かったのが、「油」の存在だ。料理に不可欠で、かつおいしくさせる油脂なのだが、実はこれは無味無臭。油脂の「味」というものは、塩味や酸味のような、古典的な意味での味覚ではないのだという(※1)。

ホント!? 家系ラーメンのスープに浮かぶ背油を、わたしは「おいしい」と感じるのだが、それは味じゃないのか……

「おいしい」と感じるメカニズムは、油脂に含まれる脂肪酸が神経を刺激し、脳内で快楽物質βエンドルフィンやドーパミンの放出を促しているのだという。モルヒネによる快楽と同じメカニズムが働いているのだ。

なぜ「コクがある」とおいしいのか

「コク」の話も興味深い。

わたしたちが「コクがある」という時、そこに何が含まれているか。フォアグラやウニ、生クリームやバター、イクラやアボカドの共通項として、油脂や糖やうま味が挙げられる。

そして、油脂や糖やうま味が示しているのは、高カロリー、タンパク質、糖分だ。生きる上で必須のアミノ酸や糖分を豊富に含み、効率的に摂取することができるのが、「コクがある」食べ物になる。なるほど!

本書はこれを「コクの原型」と呼び、その周囲に「コクの第二層」があるという。コクがある食べ物を口にし、そのにおいや食感、のどごしを学習し続けるうちに、コクを感じるようになるという。つまり、学習と洗練の結果、アミノ酸や糖分がなくても、その存在を感知させるだけでいいのだ。

たとえば、あんかけやとろみ、濃厚な香りは、コクのある素材を濃縮したことでもたらされ、コクを想起させる。これ、料理するとき、「調味料は足したくないけど、おいしそうにさせたい」技として、とろみちゃんを振るのだが、それに似ているかも。

食文化という適応

ハッとさせられたのが、「食文化の多様性は、人の代謝の適応性の賜物」というくだり。

ちょっと考えれば自明なのだが、生きるために必要な栄養素が全て、容易に満たされるような環境は、あまりない。気候や風土によって手に入る食材が異なる。人は、自らの代謝機能を駆使して、偏った食材から、必要な栄養素をつくりだすことで、生きてきたのだという。

たとえば、生野菜がない地域では、生肉や動物の内臓からビタミンを確保する。米国人が食べるステーキと、日本人が食べるご飯は、どちらも最終的に糖になる。代謝のおかげで、異なる地域で人は生きていける。

そして、その地域での食文化によって、好みが学習される。

食べ慣れたものを好ましく感じるのは、「食べたことがある」という味覚や風味は、食の安全の信号だからだという。親や家族が食べていたから、子どもも食べる。これが繰り返されて、嗜好ができあがるのだという。

たとえば、日本では海苔が好まれるが、慣れない米国人にとっては、「食べ物とは思えない」といわれる。日本の場合、周辺を海に囲まれ海苔が作りやすかったことと、海苔を食べる習慣が古くから伝わっていたことで、必要な栄養素を海苔に頼る文化になった。一方米国では、海苔の風味が栄養や食習慣と結びつかなかった。「おいしい」は学習なのだ。

よく、グルメ漫画で、美食を尽くした成金を黙らせるために、その人が幼少の頃に食べていた料理・食材を出すというエピソードがあるが、ノスタルジーだけではなく、安心感もあったのかもしれぬ。

ふだんの毎日で、見過ごされがちな「食べる」について、より注意深くなれる一冊。ふろむださん、ご紹介ありがとうございました。

※1 2018年の研究では、脂肪酸に発現する味細胞が、マウス実験によって示されている(油脂の志向性のメカニズムに関する研究[PDF])。また、「第六の味覚 脂肪味」として、2019年にNHKクローズアップ現代で放送されている(あなたは“脂肪味”を感じますか?[URL]




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面白い物語の「面白さ」はどこから来るのか? 「物語の探求」読書会

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年9月6日


面白い小説・マンガ・映画・ゲームに没頭しているときは分からない。だが、お話が終わった後、あらためて、なぜそれを面白いと思ったのかは、気になる。

  • その物語の「面白さ」はどこから来たのか
  • 誰にでもウケるのか(「面白さ」は一般化できるのか)
  • 「面白さ」は再現できるのか

そんな疑問を抱えていたら、面白い読書会があったので、参加してきた。

「物語の探求」読書会(ネオ高等遊民サークル

小説、漫画、映画、舞台、ゲームなどジャンルの垣根を越えて、「物語」について考えるオンライン読書会。たとえば、「ラストで感動させる仕掛けはどう使われているか」「物語世界に巻き込む外的焦点化とは何か?」など、物語を創る側の視点から考える。

第1回の課題本

『物語の力 物語の内容分析と表現分析』
高田明典、竹野真帆、津久井めぐみ(大学教育出版)

目次

  1. 物語の役割は、現実と折り合いをつけること
  2. 現実の問題をずらして「面白い」を作る
  3. スタイルと物語を分けられるか
  4. ルフィの目はなぜ点なのか
  5. 主人公が酷い目に遭うのが面白い物語?
  6. 『デスノート』と『マクベス』に共通する仕掛け

1. 物語の役割は、現実と折り合いをつけること

『物語の力』は、小説やマンガ、映画やゲームにある「物語」に焦点を当てる。前半の基礎編で「表現の分析」と「内容の分析」の双方から解説し、後半の応用編で『進撃の巨人』や『ポケモンGO』『君の名は。』等の具体的な作品の中にある「物語の力」を分析する。

まず、『物語の力』を読んだときの第一印象より。

Dain:読みながら浮かんだのは、「物語とは何か?」「物語の役割とは?」という疑問だった。文字などない大昔から物語はあったはずで、共同体の価値観を伝えるという役割だったのでは。

たとえば、「良い」「悪い」という判断基準や、食物や安全な場所、毒や敵といった危険なものなどを伝える役割。祭りとか物忌みを伝えるシャーマンや神話の「物語」として生き残っているんじゃないかな。ジョーゼフ・キャンベル『神話の力』『千の顔を持つ英雄』にある、原始的な物語です。

そういう価値観を伝えるうちに、伝える形式として「はじめ・なか・おわり」みたいなものが作り上げられていったんじゃないかと。

タケハル:私の印象だと、『物語の力』は研究者の分析ですね。小説を書く人と研究する人の違い。物語を創る方からすると、学者とは発想が違うなぁと。ル=グウィンのエッセイ『夜の言葉』の一節を思い出しました。

「どうやって小説を書くのか?」と問われたとき、ル=グウィンがこう答えたそうです―――「小説について知りたかったら、学者に聞け」と。なんでこんな答えなのか。小説は海みたいなもの。海について聞きたければ、海洋学者に聞くほうが、話が早い。『夜の言葉』では、こう記されています。

「海自身のもとへ行ってたずねたとしたら、海はなんと言うでしょうか。ただ轟き、寄せる音ばかり。海は海であることに忙しすぎて、自分のことについてなにかを知る暇などないのです」

物語を作る時は、海に「なる」ので、自分自身が見えない。海を研究するのは「自分」対「海」という構図であり、自我が保たれている。海に「なる」のは神がかり、もしくはある種の狂気を意味する。

これ、モームも似たようなことを言ってます。ある研究者がいたのですが、彼は文学を研究してはいるものの、「小説を読むのは楽しい」なんて一言もいわなかったとか。でもわたしたちが読むのは、出来事が「はじめ・なか・おわり」の形に並べられたものが好きだからじゃないかと。

うまいラーメンとまずいラーメンの差はあるけれど、ラーメンそのものを食べるのは、好きだからとしか言いようのないのと同じく、物語を楽しむのは好きだからだと思う。

Dain:僕らはなぜラーメンが好きなのかというと、油と炭水化物がたっぷりあるからで、油も炭水化物も、ヒトが生きるのに必要で、ラーメンを食べると効率的に摂れるから……スティーブン・ピンカーの「チーズケーキ仮説」を思い出した。

僕らがチーズケーキを好きなのは、糖とか油がたっぷり入っているからで、これらは生きるのに不可欠な栄養素だ。チーズケーキばかりずっと食べ続けるのは、(太っちゃうから)適応的じゃないけれど、糖や油を「美味しい」と感じて好むのは、適応で説明がつく。

同じように、僕らが物語を好むのは、何らかの要素が適応的に働いて、その結果、物語を「面白い」と感じるのではないかと(ちょうど、ラーメンやチーズケーキを「美味しい」と感じるように)。

そして、僕らが物語を好むように適応的に働いている要素は、「変化に気づく」じゃないかなと思う。変化も事件も一切ない物語を味気ない。けれど、日常の中に変化が起きる物語は楽しい。それは、パターン化された現実で変化を見付ける―――背景に隠れた天敵だとか、木の実だとか―――ことに敏感な方が、適応的だからじゃないかと。
スケザネ:これに近い文脈で、「現実を理解するための物語」が挙げられます。そこで、『博士が愛した数式』で有名な小説家・小川洋子のエッセイを紹介したいです。『物語の役割』というそのものズバリのタイトルで、ちくまプリマ―新書から出ています。なぜ私たちは物語を必要とするのかがテーマです。

『物語の力』では、物語の訴求力として「有効な解決策」とか「有効な筋道」といったポジティブな意味で用いられていましたが、『物語の役割』では、それとはちょっと違う筋道です。

そこでは彼女は物語の役割を、「受け入れがたい現実を、物語の形に構成しなおして、受け入れるのだ」と語っています。

そこに、エリ・ヴィーゼルというユダヤ人作家のエピソードが出てきます。ナチスの強制収容所でことで、それは悲惨な―――子どもが首吊りをさせられるような―――体験をします。そんな酷い現実を、人間はどうやって受け止めるか。それには、こういう背景があって、こういうロジックがあって……といった形にしないと、とてもじゃないが受け入れられなかった。

同様に、現実で苦しいことや理不尽なことに直面したとき、そのままの形では受け入れ難い。そのとき、背景や理由がこうだからといった、自分自身を納得させるために、物語としてのフォーマットが必要なのでは。ポジティブな解決には至らないけれど、とにかく現実を理解させるために物語という形式がある。

Dain:それ、映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を思い出しました。ユダヤ人の親子が強制収容所に連れていかれる話。収容所でなんでこんな恰好をさせられるのか、なんで自由に出歩けないのか、という子どもの疑問に、お父さんは嘘をつく「これはゲームなんだ、遊びなんだ」と。その嘘―――というか物語を貫き通そうとする。ガス室に送られて死ぬかもしれないという悲惨な現実を、「ゲーム」という物語で子どもに理解させようとする。

2. 現実の問題をずらして「面白い」を作る

スケザネ:さっきのラーメンじゃないけど、うまいラーメンと、そうでないラーメンがあるように、面白い物語と、そうでない物語がある。じゃぁ、その「面白い」というのはラーメンみたいに作れるのかな。
Dain:「面白い」を作るのに、2つのアプローチがあると思う。一つは、素材やテーマとしての面白さ。生と死や、セックス、金、健康といった定番のもの。『SAVE THE CAT の法則』では、「原始人でも分かる、プリミティブな感情や欲求をテーマにすると、「面白い」を引き出せる。

もう一つは、素材やテーマの「やり方」のアプローチ。見た目や盛り付け、出す順番など、料理の仕方としての面白さがあると思う。そしてこれこが、『物語の力』の根幹になると思う。
スケザネ:とっかかりとして、現実の問題を少しずらす手法、これファンタジーでよくやるよね。テーマとしての面白さがあるけれど、現実をそのまま描けないときに、例えば「魚人族が差別されていました」(ワンピース?)のように。現実世界では、黒人差別に通底するところがある。あるいは、「取り返しのつかない大規模な爆弾」(コード・ギアス)だと、核爆弾を想起させるとか。

何もないところから作るのは難しい。だから、現実に起きている問題を、ファンタジックにするとどうなのだろう? という問いかけは、作り手としてする思考実験。
高等遊民:『ズートピア』とか典型かなぁ……

Dain:なにそれ気になる! ネタバレにならない程度に詳しく。
高等遊民:『ズートピア』……ウサギが主人公なんだけど、いろんな動物、草食動物も、肉食動物も、平和に和気あいあいとして暮らしているのが、ズートピアという世界。でも、根源的には草食動物は肉食動物を恐れているし、肉食動物は、どこかで自制している。教育の力で本能は自制されているけれど、狐はウサギを捕食する、だから狐に気をつけろ、といわれる。少数の肉食動物と、圧倒的多数の草食動物で、ズートピアの頂点にいるのは百獣の王ライオンの市長になる。で、副市長は女性で羊。
スケザネ:アメリカっぽいな。
高等遊民:そう、マジョリティとマイノリティ、有色人と白人という構造。これはまさにアメリカ社会をモデルとしているんじゃないか。数が少ないけれど、圧倒的な力を持ち、最初から支配的な立場だった、一部のエリートをうまく描いている。これ、傑作じゃないかな。
Dain:ありがとうございます、観ます!
スケザネ:観てない方は『ライフイズビューティフル』と『ズートピア』を……

Dain:観ろと。

タケハル:さっきの「物語のテーマ」の話を伺ってて、漱石の『文学評論』で似たようなのを思い出した。ウィットとユーモアの違いというやつ。お金とかセックスとか、文化の違いに関係なく味わえる笑いがユーモアになる。そして、もうちょっと知識が必要で、スウィフトの話が出てくる

……あるところに三人の兄弟がいた。長男は父親から衣鉢を譲り受けてもらった。次男と長男は仲が悪くて、三男は、離れたところで暮らしてて、お父さんの言うことを守っている……

これだけ聞くと、なんのことか分からないけれど、結局、キリスト教の風刺になる。長男は「カトリック」、次男が「プロテスタント」、そして三男は「ギリシャ正教」になる。

Dain:なるほどー!
スケザネ:wwww
タケハル:バックグラウンドを知っていないと、面白さが伝わらない。でも、知っていると、面白い。これがウィット。カトリックとプロテスタントって仲悪いよねって、直接言われると、話にも何にもならないけれど、今の三兄弟の話にすると、違う感覚で現実を見ることができる。
Dain:面白い! 三兄弟の話のとき、「キリスト教」のキーワードが出る前に頭に浮かんだのが、三匹の子豚の話。イソップも何かを寓意しているはずなので、ちょっと調べます!
スケザネ:私は「ユダヤ」「キリスト」「イスラム」を思い出しましたね。

タケハル:これ、バックグラウンドを明かさないと、各人で勝手に連想がつながっていくよね。面白い。

スケザネ:作るときって、「これ寓意してやろう」と考えたりします?
タケハル:僕はあんまりやらない、ル=グインやトールキンの影響を受けていて、彼らは寓話は嫌いなんです。寓話だと、結局それが言いたかったので、で終わっちゃう。
スケザネ:自分は結構どこかで考えながら作っちゃう。無のところからではなく、「寓意とは」というところからでもなく、これをどうやって換骨奪胎しようかな、という発想はよくしますね。
タケハル:それはありますね。最初は身近な事件とかをきっかけにするのはあるけれど、それを転がしていくうちに、そもそもスタート時点がどうだったかは気にならなくなる。
スケザネ:寓意というテーマだと、寓意が徹底された時代がありましたね。中世の『薔薇物語』とかダンテの『神曲』とか。愛情くんと勇気くんが手に手を取って、憎しみくんを倒します的な……

Dain:まさにアンパンマンwww
タケハル:インサイド・ヘッドwww
スケザネ:そうそう、『インサイド・ヘッド』みたいな。いまもアンパンマンのオープニングとか聞くと、「ああ、ダンテだな」なんて思うwww これ、キリスト教とか宗教につながっているのかも。宗教がプリミティブな形であったところに寓意、アレゴリーがあったのでは。

3. スタイルと物語を分けられるか

タケハル:『物語の力』だと、内容と表現に分けて分析してゆく。この二分法だと、小林秀雄的には、こんなに簡単に分けられるかよ、ということになるのでは。つまり、言いたいことと表現方法は不可分になるのではないか。たとえば、

古池や蛙飛びこむ水の音

と、「古い池にカエルが飛びこんでポシャンといいました」は、別のもの。言いたいことと表現方法について、プラトンは分けるかもしれない。分けないと、そもそも考える事すらできないので、手段として分けようとするのは分かるのだけど。
Dain:スタイルの話だと思いました。物語を語る表現(文体や演出)と、その物語の内容そのものは不可分で、スタイルと書き手が不可分なものと一緒で、分けることがナンセンス……というのが小林秀雄の考えなのかな? ただ、スタイルと物語を分けずにやろうとすると、研究すらできないかも。
まるる:表現と形式の話、ロシア・フォルマリズムとかで言われている気がします。(チャット欄より)
スケザネ:たしかに! 1910~20年頃に、ロシアの作家でシクロフスキーという人が、まさに表現と形式についてそのものずばりの論文を書いてましたね。あと、プロップとかソシュールとか、レヴィ=ストロースとか、言語学を用いて研究していましたね。言語学といっても比較言語学で、どういう歴史をたどって、その言語が成立したかがテーマとなっている。言語学というものと手法が結びついていって、物語を分解していくとどうなるんだろう? というムーブメントが始まったのが、その辺りからになる。

小林秀雄で言うなら、岡潔との『人間の建設』に出てくる、素読教育の必要の話になる。江戸時代の寺子屋でやってた、そのまま音読して覚えるやつ。先生が、「師曰く」と言ったら、生徒も「師曰く」と復唱する。これが大事なんだと小林秀雄は言った。

なぜかというと、解釈なんて脆弱だから。解釈はつねに変化にする。論語で言うなら、朱子学が出てきたり、陽明学が時代によって出てくる。そこで、何が変わっていないかというと、「ことば」の本文そのもの。それを、小林秀雄は「すがた」と呼んだ。論語とか万葉集とか俳諧とか、「すがた」だと、それは動かせず、それに親しませる素読教育が重要なのだと。

「すがた」には、文体も意味も、混然一体となって凝縮されている。

Dain:『人間の建設』読みます!
スケザネ:とはいっても、作る側からすると別で、文体をどうするかと、ストーリーテリングをどうするかは、分けて修行しています。
Dain:自分は小林秀雄の反対側の立場にいる。意味と一体化したスタイルを苔にするつもりはないけれど、「おもしろい」を再生産するにあたり、その人にしかできない、書けない、演出ができない、となると大変。

「宮崎駿監督」となると、皆うわーとなるけれど、あの人にしかできないとなると、作品は限られてくる。宮崎駿がいなくても、スタジオジブリならできると言った時、じゃぁジブリにあるものは何だろうか? この問いについて「、『物語の力』の中で説明できるのではないか。

物語を書き手の人格と一体化しちゃうと、それ以上のものはできなくなる。来週、ズートピア2の脚本のレビュー、どうすればいい? という商業的な問いにどうやって答えるか。ハリウッドで商業的に物語を創る人、シナリオや小説を書く人の手法を抜き出す必要がある。

4. ルフィの目はなぜ点なのか

タケハル:理想もある一方、現実問題としてもある。これ、『ワンピース』のルフィの目がなぜ点なのか、という話。あれは、たまたまなっているわけではなくて、他のキャラ、例えばナミは点じゃない。ルフィの目が点なのは、ちゃんと理由がある。尾田栄一郎が色々な漫画を研究して、あえて主人公の目を点にした。井上雄彦は勇気あると凄く誉めていて、目に表情があったほうが感情を乗せやすいんだけど、主人公にそれを持たせない。

そこには、商業的な発想もあって他のキャラクターと被らせないためだったり、覚えられるためにそうしている。手法論をカットしすぎてしまうと、(こういう発想は出ないので)現代においてはキツいかもしれない。まだ見つかっていないところを探す努力をしていかないと。

Mr.深煎り : 『キングダム』も主人公の目の大きさを変えて売り上げが伸びたとか何かで聞いた気がします(チャット欄より)。
タケハル:キングダム! あったね。確か、最初のころ、キングダムの人気がいまいちで、原泰久が井上雄彦にアドバイスを求めに行ったら、「話は面白いので、目をもう少し大きくしろ」と言われ、その通りにしたら大ヒットした。
スケザネ:一人で作るものと集団でつくるものの違いになるのかも。『ピクサー流 創造するちから』を思い出したんだけど、ピクサーは集団で物語をつくる。会議の中で物語を揉んでいって、ブラッシュアップしていく、新海誠や宮崎駿とは対極にあるやりかたをしている。作家と編集者が共同してやっていくのにも似てるんだけど、どこまで一人でやるのかは、難しい。その人らしさ、そのタイトルらしさは、常に考えている問題だと思う。

日本の能とか伝統芸能とかは、そういう流れですね。新作落語とか、先人の積み重ねてきた、共同体が作り上げてきた芸術に身を投ずる。世阿弥の風姿花伝で似たような話もあった。

Dain:今ので、『アルブキウス』にあるローマの脚本家の話を思い出した。あの時代は演劇なんだけれど、ストーリーは決まっている。僕らでいうなら、カチカチ山とか。ストーリーは分かっていて、それをどう演出するかが作家の腕の見せ所になる。妻を寝取られた男の話とか、みんな知っている話を、その作家ならではのお話にする。同じ話でも、作家によって異本が出てくる。そういうものが積み重ねられた結果、ぼくらが「ギリシャ悲劇」というカノンになっているのかも。パスカル・キニャールという人が書いているんですけど、お勧めです。

スケザネ:キニャール! 読みます。
高等遊民:『塩一トンの読書』に『アルブキウス』取り上げられてるぜ。
Dain:そうそう、『塩一トンの読書』で須賀敦子が手放しで誉めてたから、そこから『アルブキウス』読んだ。今日の話はつながってますね。

5. 主人公が酷い目に遭うのが面白い物語?

スケザネ:これまで、「物語とは何か」という根源的な話をしてきたんだけど、ここからは少し具体的に踏み込んで、じゃぁどういった物語の展開だと面白くなるの? という話をしていきましょう。
Dain:いいですね! 『物語の力』で王道として挙げられているのが、「回復と獲得の物語」というやつですね。主人公は何かを失っていて、それを回復ないし獲得することが、物語になるやつ。『物語の力』では、『インディペンデンス・デイ』や『のだめカンタービレ』あたりが例として挙げられてた。

大塚英志の『キャラクター小説の作り方』だと、主人公が大切にしているものを、物語の序盤で奪いなさい。そうすると、主人公は失ったものを探し始めるから……とアドバイスしてますね。親とか兄弟とか恋人とか故郷とか、ありがちなのが「記憶」ですね。

そして、失われたものが大きければ大きいほど、言い換えるなら、主人公が酷い境遇に陥れれば入れるほど、得られたときの達成感が大きい。同時に、読み手の方も共感しやすい。だから、物語の序盤では、できるだけ主人公を酷い目に遭わせろというのがセオリー。

あと、回復と獲得の物語は、「ピークエンドの法則」にしやすいですね。その体験が面白かったかどうか、後から振り返ったとき、一番盛り上がる「ピーク」とラストの「エンド」によって全体の印象が決まってしまう。

たとえば、ジェットコースターに乗るために行列に並んだとする。すごい行列で一時間も待って大変だったけれど、最後にジェットコースターに乗って、めっちゃ興奮して絶叫した、凄かった! というとき。ジェットコースターに乗っているのが、たとえ3分だったとしても、一時間のことは忘れて、最後の思い出(ラスト)と最高の思い出(ピーク)が合わさって、「良かった」になる。物語のラストを盛り上げるのはこれ。
スケザネ:回復と獲得の物語は、確かに物語の王道ですね。例えば、ホメロス『オデュッセイア』も、最初に漂流してしまい、遠く離れた故郷へ帰還する物語だし、ダンテ『神曲』だって、「いま私はどこにいるのだろう?」という喪失から始まっている。

そして、獲得のところも、一気に獲得するのではなく、ちょっと獲得するのが大事。「初期状態→手段・方法→帰結状態(目的状態)→次の初期状態→…」の連続で説明します。

物語を分解していって、最小の単位にすると、まず最初の状態(初期状態)がある。そこで、何かが起きる(手段・方法)。それにより、何かが変わる(帰結状態)。その結果が次の前提(次の初期状態)をもたらし、次の行動につながる。その行動は何らかの結果を生み、さらに次の前提をもたらすことになる……こんな感じで、「初期状態→手段・方法→帰結状態(目的状態)→次の初期状態→…」 を繰り返しながら、行動によって新しい次の前提が生まれるように仕組むと、物語が有機的につながっていく。

なので、最初に何かを失って、最後に獲得する途中にも、ちょっと獲得する。たとえば、取り戻す途中で仲間ができる、その仲間が「あそこへ行こうぜ」と言い出して、そこへ行ってアイテムを手に入れるとか。それが次の前提になって、何か行動を起こす……こんな風に、物語を作る方は波を考える。
タケハル:アクションが連続していく、というの言われてるよね。演劇とか映画でもそうだし、映画だと特に、「アクションがどんどんキツくなる」のがある。序盤のハードルよりも、次のハードルの方がキツくなる。最後のやつが一番キツい。それが作る方としては大変なんですよね。
スケザネ:分かるッ!
タケハル:序盤でこんな酷いことやらかしたら、まだあるの? となる。ありがちなのが、120分の話を作ってて、作り始めたときに、「これは凄くキツいハードルだ!」というアイデアを思いついたら、それを最後に持っていく……このやり方は失敗する。一番キツい100%のやつを最後にしちゃって、それより弱い50%のやつ、さらに弱い30%のやつを逆算して考えると、お客さんにバレちゃう。なぜかお客さん分かっちゃう。

そうじゃなく、最初に思いついた100%キツいやつは、一番最初に持っていく。そこでもっとキツい120%を考えて、さらにキツい150%を考えて、最後は200%ぐらいにしないと。
スケザネ:〇ィ〇〇ー〇ーの「〇〇〇〇ッ〇の冒険」というアトラクションを思い出した。船に乗って周遊して、人形がワーワーやっているのを見ていくんだけど、大きく3つぐらいのシーンがあって、しょっぱなで、盗賊の軍団を倒すんですよ。やったーとかすごい盛り上がるんだけど、その後、ダチョウの卵を盗む話とかショボくなるんですよ。で、ずっとショボいまま。
Dain:あかんやんwww
タケハル:逆に見たくなったwww
スケザネ:逆算して20%にしちゃうとあかんよ、という例。
Dain:いかにして主人公を酷い目に遭わせるかってことですね。
タケハル:しかも、次々と遭わせるかが大事。
スケザネ:それ、黒澤明って上手いですよね。一個解決したかと思ったら次にまた問題が生まれてとか、『七人の侍』なんて本当に見事で。村が盗賊に襲われるから、侍を探そうというんだけど、この侍探しが難航するんですよね。一人目から舐めんなとか言われて、やっと見つかった! と思ったら金が足りないとかになって……それでもなんとか集まって、村へ戻ったら戻ったで、「侍怖い!」とかになって、村人たちが出てこないんですよ。そういう連続が本当に上手いんですよね。

Dain:観ます、もう一度。映画を観ることが「体験」だったと言える、稀有の作品です。『ゴースト・オブ・ツシマ』をクリアしたからには観ないではいられない。

スケザネ:ですね、黒澤モードがあるくらいだし。
タケハル:黒澤モード?
スケザネ:画面の設定で白黒にできるんですよ、しかも荒めの白黒で、ノイズみたいなものが入るんです。
Dain:いずれにせよ、ツシマにハマったら『七人の侍』は必見やね。それに比べてラスアス2は……(以降、グチが続く)

6. 『デスノート』と『マクベス』に共通する仕掛け

スケザネ:ここからは、どうやって読み手を物語世界の中に巻き込むかについて、お話しましょう。『物語の力』では、『デスノート』が紹介されていますが……
Dain:はい、『デスノート』……ネタバレにならないように話しますね。第一部になる、「ライト対エル」の対決のあたりです。死神のノートを拾って、悪人を殺していくライトと、それを追い詰めるエルの物語。

久しぶりに読み返して面白いなーと思ったのは、ライトもエルも「正義」という言葉を使っているんですよね。どちらも「正しい」と思ってやっている。

ライトの正義:「社会を良くするために殺す」正義
エルの正義:「どんな悪人でも裁きが必要」正義

そして、読者は読者で、自分の考えを持っているはず。ライトに共感している人もいれば、エル派もいる。あるいは、ぜんぜん別の考えだってある。

この物語では、ライトの立場から描かれるときと、エルの立場から描かれるときと分かれており、それぞれの立場に寄り添って(焦点化)して描写される。

物語がライトに焦点化し、ライトの視点・思考・感覚に寄り添って描かれるとき、読者はライトの立場からしか物語を知ることができず、(読み手の主義主張に関係なく)ライトの思考や感情に寄り添って読むほかない。

いっぽう、物語がエルに焦点化したとき、同様にエルの立場からしか物語世界を知ることができず、否が応でもエル目線で世界を理解する。『物語の力』では内的焦点化と呼んでいる。

こんな風に、ライト、エル、ライト、エル……と入れ替わるたびに、読み手は、それぞれの思考や感情を通じて物語世界に触れていくうちに、いつしか、現実の自分の思考から遠く離れて、物語世界の中にどっぷりと浸かっている……という仕掛け。同じ「正義」という言葉で異なる価値観をぶつけ合わせる時、内的焦点化を上手く使って、物語世界へ導いている。

スケザネ:焦点化の使い方では、第二のキラが出てくるあたりで印象的でしたね。人がどんどん死んでいって、警察やマスコミがてんやわんわしているのに、ずっとエル視点で物語が進んでいるところ。ライトがどこにいて何を見ているのか、一切情報がないまま読み手をモヤモヤさせる。これは焦点化の使い方が上手い。
Dain:ライトどこにいるんだ! と、読者としては、一番知りたいことが伏せられてて物語が進んでいく状態ですね。
タケハル:『デスノート』で面白いのは、ライトとエルを、単純にライバルにしているだけではなくって、対立概念の捻じれを引き起こしているところ。みんなデスノート知っているから想像しにくいかもしれないけれど、例えば、タイムマシンで昔に戻って、ライトとエルを並べて、どっちが犯人で、どっちが探偵ですかと尋ねたら、たいていの人はエルが犯人だと言うはず

ライト自身も、いきなり悪人だったわけではない。ヴィジュアル的には、ライト=探偵の顔、エル=犯人の顔だし、ライトは真面目な学生、エルは食べ方や姿勢で奇行をとる。単純に、どっちが良いか悪いかにさせていないところが面白い。

「悪人なら殺してもいい」と突っ走っちゃうとヤバいやつなので、ライトを端正な顔にしてる。それこそエルを品行方正な探偵のビジュアルにしちゃうと、読者は「早くライトを捕まえろ、エルがんばれ」になっちゃう。そうさせずに、エルを悪人顔にしたり、ライトを記憶喪失にしたりして、読者を揺さぶっている。確かにライトは悪い奴なんだけど、読み手に簡単に決めさせないようにしている。

これ、演劇でいうなら『マクベス』ですね。マクベスは、王様を始め人を殺すし、やりたい放題やっていて、行動だけ見たら感情移入できない。だけど観客が感情移入できるのは、マクベスは殺した後、悩むんですね。良いのか悪いのかだとか、なんでこんなことをしてしまったのだろうとか。すると観客は、本当はこいつは、本当は殺りたいわけじゃないのかもみたいな、同情が入る。普通に考えたらおかしいんだけど、そう思わせないような工夫みたいなもの。シェイクスピアはかなり剛腕に、良心を持った殺人者を作り上げている。矛盾している所があると、現実は生きるようになってくる……「惑わし」がかかる。

スケザネ:確かに、言われてみれば捻じれてますね……すごく分かりやすい……どっちかにさせないようにしている。
タケハル:デスノートがすごいのは、そういうキャラクターをライトとエルの2人も作ったところですね。

第2回は、『ズートピア』を俎上に、物語を探求します。

聴講を希望される方は、ネオ高等遊民サークルの読書会からどうぞ。

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「名もなき家事」の減らし方

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年9月13日


掃除、炊事、洗濯……家事には名前があると思っているのはシロウト。世の中には、名前のない家事が沢山ある。たとえば昨日やったのはこれ。

  1. 水筒のパッキンやゴムを外して洗い、乾燥させ、組み立てた後に棚にしまう家事
  2. ペットボトルを分別するため、キャップを外し、水ですすぎ、輪っかを切断してラベルを剥がす家事
  3. 家じゅうのゴミ箱からゴミを収集・分別しゴミ袋にまとめ、適切なタイミングで収集場所へ運ぶ家事
  4. 飲み終えた紙パックを洗い、切り開き、乾燥させる家事
  5. 食材や缶詰の賞味期限を確認し、棚の配置を適切にソート(手前から奥へ昇順)した後、切れたものは中身と容器に分別し処分する家事
  6. 冷蔵庫の奥で変異しつつある物体Xを探索し、適切なタイミングで(翌日にゴミに出せる)処分する(ポリ袋で密閉し臭いを封じ込める)家事
  7. 保存容器のタッパーのフタと本体を正しく組み合わせる家事
  8. ダイレクトメールの個人情報を切り刻む家事
  9. お湯を沸かしてミネラル麦茶を作り、粗熱が取れたのを確認して冷蔵庫に格納する家事
  10. 食洗機で洗い終えた食器を棚に格納する家事
  11. 便座に散った家族の誰かの水滴(尿?水?)をふき取るついでに黄ばみもこすり落とす家事
  12. 掃除機のヘッドに絡みついた髪の毛をハサミで切断する家事
  13. 台所の排水溝の水切りネットを交換し、ぬめりと生ごみの臭いをハイターする家事
  14. レジ袋で閉鎖空間を作ってホコリを散らさないようにし、その中で掃除機の集塵袋を裏返してゴミをつまみ取る家事
  15. トイレットペーパー、ティッシュペーパーを取り替えたり補充する家事

要するに、「メンテナンス」に相当するタスク。家事とは生活空間を運営していくために必要な作業だから、いわゆる「掃除・炊事・洗濯」に留まらず、諸々のタスクが存在する。

ダイワハウスの「名もなき家事妖怪」によると、妻の負担が圧倒的に多いのだ(86.5%)。妻の「私はこんなにやってるのに!」「夫は全く気づかない!」という不満が伝わってくる。

象徴的なのが3.のゴミ出し。「家じゅうのゴミを分別しながら集める」タスクと、「ゴミ袋を集積所まで持っていく」タスクがある。大変なのは圧倒的に前者なのに、なぜか後者だけが「ゴミ出し」とさる。そして、ゴミを持っていくだけで「家事をしている」と夫が言おうものなら、妻の怒りにガソリンを注ぐことになる。

我が家では、圧倒的に私がやっているので、一般家庭と逆である。

しかし、もしも妻に尋ねるなら、この何倍もの「タスク」を言い立てて、「私はこんなにやってるのに!」と一触即発となるのは火を見るよりも明らか。我が家の平和を守るため、昔のサッポロビールよろしく「男は黙って」名もなき家事に勤しむ。

要するに、それを負担だと思うかどうか、という問題なのかもしれぬ。

この発想は大事で、「それを負担にしない」ように工夫することだってできる。

たとえば、昨日の「名もなき家事」を振り返ると、が工夫できそうだ。

<名もなき家事 No.2>

ペットボトルを分別するため、キャップを外し、水ですすぎ、輪っかを切断してラベルを剥がす家事

解決策:軽減

最も負担なのは、「輪っかを切断する」ところ。ペットボトルハサミを使うのだが、本体と輪っかのスキマがほとんどなく、無理に刃を入れようとして勢いあまって指をケガすることが何度もあった。

見方を変えて、「分別の際、輪っかを切断しなければならないのか?」と調べたところ……私の住んでる地域では、必要がないことが分かった。よし、輪っかはずすの止めよう。

<名もなき家事 No.7>

保存容器のタッパーのフタと本体を正しく組み合わせる家事

解決策:回避

「そもそもなぜフタと本体を組み合わせる必要があるのか?」と考えると、「様々な種類のタッパーがあるから」になる。贈答品やオマケでもらった容器を使い続ける限り、バラバラの規格になる。ここは一念発起して、規格を統一すればいい。

<名もなき家事 No.8>

ダイレクトメールの個人情報を切り刻む家事

解決策:転嫁・軽減

三つ考えた。「切り刻む必要ある?」→「要するに見れないようにすればいい」という発想から、スタンプローラーで上書きする(Amazonで「個人情報」「スタンプ」で出てくる)。

「そもそもDMが来なければいい」→「受け取りを拒否しよう」として、日本郵便の「郵便トラブルQ&A」や、ヤマト運輸の「よくあるご質問」を参考にやってみる。

「捨てる行為にお金を出す」→切り刻もうと、スタンプしようと、ゴミは出る。「ゴミ処理は無料」という発想を止め、「有料だけど簡単に捨てられる」と考える。ヤマト運輸で「機密文書リサイクルサービス」があるが、法人向けらしい。個人向けを探してみよう。

軽減、回避、転嫁……と、要するにリスクマネジメントを適用したわけだが、名もなき家事を、家事にすらしない(させない)アイデアは、いくつかありそうだ。「家事」「ライフハック」「裏技」で検索すると、参考になりそう。

家庭内平和維持軍からの報告は、以上です。

Gomi_arau

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認知科学から見た、多くの人が論理的に考えない理由『類似と思考』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年9月20日


2つ問題がある。どちらの問題が、簡単だろうか?

問題は解いても解かなくてもいい。問われているのは、「どちらが簡単か」である。

問題1

ここに四枚のカードがある。

片面にはアルファベットが印刷されており、もう片面には数字が印刷されている。このカードは、「表が母音なら、裏は偶数」というルールに従って作られている。

いま、この四枚のカードが並べられている。これらが、前述のルールに従っているか調べるために、どのカードを裏返してみる必要があるか。

1枚目のカード  U
2枚目のカード  K
3枚目のカード  3
4枚目のカード  8

問題2

あなたは警察官だとする。

あなたは、無免許ドライバーを見つけようとしている。ある駐車場に行くと、車の近くに次の4人がいた。あなたは、どの人を調べるべきか。

1人目  車を運転しようとしている人
2人目  赤ちゃん
3人目  免許を持っている人
4人目  免許を持っていない人

この2つの問題は、本質的に同じだ。

しかし、もうお分かりのように、正答率は、圧倒的に2が高い。つまり、問題2が、(人間にとって)圧倒的に易しい。

問題1は論理学の「前件肯定」「後件否定」を使う。「PならばQ」のとき、「Pである」ならば「Qである」と導き、「Qでない」ならば「Pでない」と導く推論だ。「P=表が母音」、「Q=裏が偶数」を当てはめれば解ける。

問題2の「車を運転するなら、免許が必要」……このルールから、「車を運転する人」が、本当に免許を持っているかチェックする必要がある。また、「免許を持っていない人」は、車を運転していないよね、とチェックする必要がある。

面白いことに、問題1は、「前件肯定」「後件否定」を教えた直後であっても、正答率はたいして上らなかったという。一方、問題2は、論理学のルールを知らない人であっても、文脈から自然に解けてしまう。

人が推論するときは、論理学のルールを用いるのではなく、その文脈に沿って正解を導いているのではないか? と考えられる。

本当だろうか?

問題3

「刑務所に入るのであれば、犯罪を犯さなければならない」というルールが守られているか調べたい。次の4人の誰を調べるべきか。

1人目  刑務所に入っている人
2人目  赤ちゃん
3人目  犯罪を犯した人
4人目  犯罪を犯していない人

まず、1人目「刑務所に入っている人」が、犯罪を犯しているかを調べるのは分かる。

本当の問題はその次だ。

論理学で選ぶなら、4人目「犯罪を犯していない人」が、刑務所に入っていないかを調べるべきだろう。しかし、3人目を選んでしまう。つまり、「犯罪を犯した人」が、ちゃんと刑務所に入っている? と確認したくなる。どうやら、私たちは、文脈で正答に辿り着けるわけではないようだ。

これら3つの問題は、論理学的には同じだ。しかし、運転免許の話と刑務所の話は異なる。「車を運転する」はメリットだが、「刑務所に入る」はそうでない。「免許が必要」という条件は、メリットへの対価となっているが、「犯罪を犯す」は対価ではない。

つまり、問題の形式としては同じだが、何がメリットで、何が対価としてふさわしいかは、推論を行う人による。前提条件と行為さえあれば、自動的に正しい推論ができるというわけではないのだ。

人は、どのように思考しているのか

では、私たちは、どのように思考しているのか? これを認知科学の成果から深掘りしたのが、鈴木宏昭著『類似と思考』だ。

本書によると、私たちは、論理学的なルールを、個々の問題に当てはめて演繹的に解いているわけではない(むしろレアケース)。また、問題に行き当たる度に、メリットは本当に利得なのか、前提条件は対価として妥当かを、いちいち深く考えているわけではないという。

代わりに、過去の典型的なメリットー対価状況と、目の前の問題状況がどれほど似ているかを判断することで、面倒で、非現実的な処理をスキップしているというのだ。これにより、確率からするとあり得ない方に従ったり、文脈や状況だけから正しい判断を下したりする。

この、非常に人間くさい思考を「準抽象化による類推」として、その理論をまとめている。

「人の思考は、規則やルールに基づいておらず、類似を用いた思考(類推)を行っている」が本書の結論だが、そこへ至るまでに、文学や科学、政治やビジネスで行われる類推の事例を紹介している。さらに、他の理論と斬り結びながら自説をブラッシュアップしているところが面白い。

  • 多重制約理論:キース・ホリオーク、ポール・サガード
  • 構造写像理論:デドリー・ゲントナー
  • 概念メタファー説:ジョージ・レイコフ
  • p-prim理論:アンドレア・ディセッサ
  • 漸進的類推写像理論:マーク・キーン
  • Copycat:ダグラス・ホフスタッター

並べると、「人はどのように思考しているか」それは「一般化できるか(≒コンピュータに任せられるか)」さらに、「人がどのように世界を理解しているか」まで議論が拡張することになる。カーネマン『ファスト&スロー』やロスリング『ファクトフルネス』が好きなら、ハマることを請け合う。

「人はどのように思考しているか」について、現在の見取り図を与える一冊。

 

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文学は本当に「割に合う」のか?教養と給与のあやしい相関を考える『文学は割に合う!』

むかし検索いまAI、教養主義なんて流行らない。知識と教養と名刺が武器になったのは大昔のこと。文学なんて役に立たない最たるもの―――そんな世相にドロップキックをかますのが本書だ。

普通このテの本だと、教養主義の没落を嘆き、本を読まなくなった若者を批判するのだが、さすがフランスの文学部教授、どこまで本気でどこから皮肉か分からない。高慢すれすれにも読める自虐ギャグと、エスプリの効いた書きっぷりが楽しめる。

「文学」不要論と「統計学」不要論

例えば、文学不要論に対し、統計学不要論を持ち出してくる。

30年ほど前、大学改革の一環で、コロンビア大学において統計学科の廃止が検討されていたという。

統計学科を廃止するなんて、もってのほかだ。統計学は、様々な学問領域―――経済学、社会学、心理学、生物学、物理学、工学など、どの分野でも必須だから。

そして、必須だからこそ、それぞれの学問領域で自前の統計学者を育成している。経済学には計量経済学の専門家が育成される。物理学には統計力学の、工学部には数理統計学の、経営学にはオペレーションズ・リサーチの専門家が育成される。

その結果、統計学科には、純粋な統計理論や確率論の研究者ばかりが残ることになり、現実問題よりも、統計学そのものの理論研究に特化した集団が出来上がる。そんなガラパゴス化した統計学科は、基礎研究だけに絞って数学科に統合したという。

この議論は、学問における文学にも似ているという。

文学が長年蓄積してきた人間理解や思考実験、コミュニケーションの技法、ストーリーテリングといった知見は、他のあらゆる学問領域で用いられる。なぜならあらゆる学問領域は、言葉を用いるからだ。言葉を用いる限り、文学研究の成果から逃れることができない。

人間の知的活動のほとんどにおいて、語る力や創作する力が不可欠だということを大学は理解しています。つまり、語る力や創作する力は、職業的であろうと趣味的であろうと、あらゆる分野でパフォーマンスを向上させることに同意しているのです。

そして、こうした語る力・創作する力を体現する文学リテラシーを、古フランス語の「レトリュール(lettrure)」と呼び、そこから育まれる言語感覚こそ重要だと説く。

なるほどーと思う一方で、それ文学部でやる必要ある?というツッコミが待っている。それぞれの学問領域で、リーディング/ライティングのスキルは育成されることになるから。著者が礼賛するプルーストやスタンダールである必然性は無かろう。

統計学科と同様に、よりエッセンシャルな理論研究に絞られ、どこかに統合される運命が待っている。

文学を取り入れた医療

本書で謳われている「文学」は、かなり幅広い。いわゆる小説・詩・戯曲だけではなく、物語論、メタファーを通じて、哲学、美術、映画、画面上の芸術的なコンテンツまで広げていく。

その顕著な例としては、医療分野におけるナラティブ・メディスン(物語に基づく医療)だ(『ナラティブ・メディスン』の書評)。

「病気」という現象だけで捉えるのではなく、患者の身に起きたことを、目的と筋書きを備えたストーリーとしてみなす。対話を通じて患者の物語を紡ぎ出し、全人的な診療を行うため、物語的な視点を取り入れる。

例えば、ステージIVの乳がんの患者に対し、医者は「病気がどのようにして(how)起きたのか」については答えられるが、「なぜ(why)病気になったのか」に答えられる人はいない。

過去の罪に対する罰と考えるか、不幸な偶然と見なすかによって、病の体験は全く違ったものになる。彼女は、病も含めて自分の人生を生き続けなければならない。そのために、人生におけるこの病の意味を見出さなければならない。

このとき、彼女に寄り添い、彼女自身の言葉を聞き、病を解釈するために、物語が必要になる。出来事を順序だてて、起きたことを隠喩や修辞で意味づける。文学の手法を取り入れた、れっきとした臨床医療だ。

文学はどこにでもある

あるいは、他の分野で生まれてくる概念は、文学的・詩的なものがほとんどだという。学術領域における概念や理論が社会に浸透するとき、文学的な表現を必要としているからだと説く。

本書では、経済学ではブラックスワン、フリーライダー、社会学では割れ窓の寓話、予言の自己成就、セレンディピティ、数学ではフラクタル、物理学ではシュレディンガーの猫、ブラックホールなどが挙げられている。

例えば、経済学における「ブラックスワン」は、マーケットにおける事象で、予測不能で発生確率は極めて低いものの、起きた場合の影響が甚大なものを指す。だが、わたしたちが思い浮かべるのは、「黒い白鳥」という矛盾したイメージから、「ほとんどめったにない」という意味合いだろう。

あるいは、物理学でいう「ブラックホール」は、大質量の星が重力崩壊した後に生じる、重力が極端に強く、光さえ脱出できない時空領域になる。だが、この言葉からわたしたちは、「何もかも飲みこむ暗黒の穴」を思い浮かべる。そしてそのイメージから「財政のブラックホール」といった新しいメタファーを思いつく。

専門分野で発見された概念は、社会に広まるとき、数式ではなく物語やメタファーになる。学問は概念を生み出すが、わたしたちはそれを比喩として理解する。そしてその比喩を扱う技術こそが、文学の領域になるというのだ。

文学は「割に合う」のか?

教養や芸術まで領域展開しているが、「文学」は割に合うのだろうか?

割に合う!とタイトル通り宣言する。

まず著者自身がそうだという。理系のエリート大学を卒業した後に文転し、パリ・ソルボンヌ大学教授を経て、プルースト研究の第一人者となり、アカデミー・フランセーズの会員に選出されたという実績を示す。

さらに、司法官や行政官などで、素早く昇進し、高給取りになっているのは、高い教養のおかげだと言う。文学は、職業訓練校のように、すぐには役に立たないかもしれない。だが、長期的に見るならば、割に合う投資だというのだ。

本当?

「教養と給与」って、韻は似ているけど因果というより相関の気がする。

教養がある「から」高い役職に就いているというより、そういうポストに近づくと教養を身に着けようとするように見える。ケンカしないから金持ちになるのではなく、金持ちだから争いごとのリスクを下げようとする感覚。

もう少し具体化して、「読書と収入」で語るならエビデンス付きで語れる。

詳しくは『読書効果の科学』の書評にまとめたが、読書すると高収入になる因果は無く、ある程度の収入が得られるようになると、読書するようになる。これは、本を買って読むという金銭的・時間的なゆとりが生まれるからだと思われる。

もちろん、乏しい小遣いをやりくりしている私のような少数派もいる。著者に言わせると、私の教養が足りないか、プルーストが足りないのかもしれないがねw



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