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もう欧米は「歴史のゴール」ではなくなったのか?『岩波講座 世界歴史 24巻』

世界史をやり直していると、「世界史のやり方」そのものが変わっているように見える。

かつては、「先進国」が先頭に立ち、他地域はいずれ欧米を見習って近代化を成し遂げ、自由民主主義へ収斂していく―――そんな単線的な歴史観が強かった。

しかし、冷戦後、特に21世紀に入ってから、中国、湾岸諸国、シンガポール、ロシア、インド、グローバルサウス、イスラーム圏を見ていると、欧米型自由民主主義を目指さなくとも、強大化&安定化できるという事例が大量に出てきている。

これは、かつての近代化論では説明できない。「蛙飛び」といった理屈を考えたり、例外として語ろうとしても、一部の後付け説明に過ぎぬ。

中国はその象徴だろう。

国家統制、一党支配、デジタル監視、国家資本主義を維持したまま、超大国化した。これは、単なる例外や後付け理屈ではなく、そもそも歴史の進行モデルそのものが間違っていたのでは?という疑問が生まれる。

そして、面白いのは、欧米自身も、この進歩史観を信じられなくなっているように見える振る舞いをしているところだ。

ブレグジットや格差社会、トランプ現象、ポピュリズム、移民の対立といった問題の形で噴出している現実を前に、「自由主義は最終形態である」という欧米の自信(信仰?)が崩れ始めたように見える。

30年くらい前、「歴史の終わり」としてイデオロギー競争の最終形態として自由民主主義の勝利宣言をしていた欧米自身が、その物語を維持できなくなったのかもしれぬ。

『岩波世界歴史24』は、「欧米中心史観を否定する」だけでは終わらない。むしろ、その史観をいったんカッコに入れたあと、世界をどう理解し直すのか――その方法そのものを模索しているように見える。

中国と世界

例えば、「中国と世界」という観点の論文がこれになる。

ニュースの断片で垣間見る中国ではなく、歴史の文脈に配置すると、どのような振る舞いをしているか、という考察になる。いわば、いま私たちが見聞している中国は、50年後の高校世界史の教科書にはどう書かれているか?という問いに答えるようなもの。

これには、2つのアプローチで解説されている。

一つ目は、「中国は『先進国』からどう見られているか?」になる。

本書では、中国のことを「米国への挑戦者」として位置付けている(米国政府は「競争者」という表現)。

中国は、国際秩序を再編しようとする意図においても、また経済的、外交的、軍事的、技術的などの面でそれを成し遂げようとする、急成長するパワーという点においても、唯一の競争者である。
(National Security Strategy Oct 2022より [URL]

かつて米国は、中国にインセンティブを与えながら既存の秩序の一員へと導こうとするエンゲージメント政策を展開してきた。中国を既存秩序へ組み込めば、いずれ自由主義化するという期待があったからだ。

だが、2021年代(バイデン時代)に大きく方針転換している。すなわち、「先進国」が主導してきた世界秩序への挑戦者だという位置づけだ。

ただし、中国は国連重視を謳っているため、既存の世界秩序の全てに「挑戦」している訳ではないという。国連への財政貢献や国連機関のポスト獲得、PKOへの人的派遣など、国連というバスケット内で存在感を高めている。

二つ目は、「中国は『先進国』をどう見ているか?」になる。

本書によると、中国は現在も自らを既存の秩序への挑戦者とは見做していないという。むしろ、西側先進国の秩序の方が、世界の現状に反しているとする

西側先進国の主導する秩序では世界の諸問題には対処できないと批判しているのだ。ただ、胡錦濤時代までの中国は、秩序を形成するのは先進国の責任であり、中国は発展途上国の代表としてそれを修正するとしていた。

しかし、習近平政権は自らを新たな秩序の形成主体だとしている。ただ、中国は国際連合には反対してはおらず、ただ西側の安全保障ネットワークや西側の価値観に反対する。
(『岩波講座 世界歴史 24巻』p.172より)

ここ数十年の間での出来事や衝突を削ぎ落していくと、こんな骨格が浮かび上がってくる。

安定した状況を作り出すため、米国を始めとする西側諸国との「衝突」を避けつつも、西側主導の世界秩序のやり方に疑義を表明していく。そして、国連や経済支援を通じて、この疑義に賛同する仲間を増やしていくことを怠りなく、時間をかけて進めている。

この、西側主導の世界秩序に疑義を唱える姿勢は、現在進行で揺らいでいる欧米中心史観と重なってくる。

中国の準備のマイルストーンは、2049年の「偉大なる復興の夢」になる。それが世界にどんな影響を与えるか分からないし、そもそも私が生きているかも分からないが、パラダイムが激変する潮目は見届けたい。

ポピュリズムの変化

めちゃくちゃ面白かったのが、ポピュリズムと権威主義の広がりを解説した論文。

よく言われているのが、「汚れなき市民 vs 腐敗したエリート」という枠組みで語られ、政治とは一般意志の表現であるべき、という「イデオロギー」だ。

これ、独裁や専制である権威主義へのカウンターとして有効じゃん!と諸手を上げて賛成する人がいる一方、ポピュリズムを唱えて選ばれた人が、権威主義化していく傾向が現実にあるという(「現代の民主主義の死は選挙からはじまる」といった議論は不謹慎ながら爆笑した)。

しかも、ポピュリズムは、主義主張が異なるはずの「右派」「左派」の両方ともに使っている点が面白い。

右派ポピュリスト政党は、外国人や移民・難民に対する批判としてポピュリズムを使う。そのターゲットは、移民の受け入れを重視し、多文化主義を推進するエリート層や、グローバリゼーションやヨーロッパ統合を重視して、国内の労働者を蔑ろにする指導層になる(いわゆる「リベラル・エリート」)。

一方、左派ポピュリズムは、社会格差の存在、特に一部エリート層への富の集中を批判し、再分配を訴える。ターゲットは、グローバリゼーションのメリットを利用して稼ぐ富裕層であり、また彼らと結託して利益擁護に走る政治家たちになる。

本来、政治的に真逆である右派と左派が、なぜかポピュリズムの旗の下に終結しているのがコミカルに見える。同床異夢どころか同床同夢してるやん。

おそらく、ポピュリズムは「イデオロギー」ではなく「方法」なのだろう。

これまでは、中道保守・中道左派といった二大勢力で、市場志向/福祉国家志向といった政策の力点は異なれど、代表制民主主義に対する信頼といった基本的な価値観は共有されていた。

ところが、そうした穏健な中道勢力では諸問題を解決できなくなってきている。二大勢力として「対立」してはいても、同じ20世紀型政治というゲーム盤で戦っていた。だが、そのゲーム盤自体が信用されなくなっているのだ。

先進国の屋台骨だった製造業は衰退し、国外に移転していく。国内産業の空洞化は、それをもたらしたグローバリゼーションを進めてきたエリート層への反発となる。ヨーロッパ統合を推進し、移民を受け入れる政策への不満が蓄積する。

こうした問題は、従来の左右対立とは異なる対立軸・争点が顕在化していると言える。

そうした不満の受け皿として有効なのが、ポピュリズム的方法なのだろう。

既存政党が仕切る「旧来の政治」を正面から批判し、政治の悪弊を一層する―――そうした革新者として、ポピュリストたちは振舞う。「普通の人々」の声を代弁し、「既得権益」を守ろうと汲々とするエリートたちの独占権力を打破する挑戦者として、位置付けるのだ。こうすることで、右とか左とか関係なく、無党派層・無組織層の支持を得ることができる。

喩えて言うなら、ポピュリズムは、主義主張というよりもむしろ、それを唱える拡声器なのかもしれぬ。

そしてポピュリストたちが取る方法は、SNSだ。既存勢力ほどの発信基盤を持たないため、普通の方法では注目されない。

そこでSNSで対立と感情を煽り、炎上させる。その炎上はニュースとしてマスメディアに取り上げられることで耳目を集め、勢力を拡大する(本書では「スピルオーバー現象」と呼んでいる)。

欧米中心史観、先進国による世界秩序、左右の政治ゲーム基盤など、既存の考え方に疑義を抱き、それを超克するような方法が立ち上がってきている。

50年後にはパラダイムシフトの一つとして扱われるこうした変化は、その先を見届けるまで生き延びられるかは分からないが、わりと楽しみにしている。

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