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人間以上の文学を、もしAIが書くならば―――スタニスワフ・レム「ビット文学の歴史」

SF小説を公募する星新一賞で、グランプリを含む3作品が、AIを用いて創作されたという。審査員のコメントに、こんなものがあった。

たとえAI小説がどれほど面白かったとしても、人間の内から生まれた言葉こそが尊い。AIの執筆した文章は、もう読みたくない。
[yahooニュース:『星新一賞』でAI小説が上位独占 ]より

「作り手が込めた思い」や「作り手の個性」を含めたうえで、作品を評価することが一般的だという解説が添えられている。

気持ちは分かるが、もったいない。これから、もっと優れた作品がAIの手で創り出されてくるのだから。それらを「もう読みたくない」とするのは審査員としての自殺行為になりかねない。

なぜならこの状況、スタニスワフ・レムの「ビット文学の歴史」そのままだからだ。

これは、"実在しない書物の序文集"という体裁のSF作品『虚数』に収録されている。「ビット文学の歴史」(全4巻)という歴史書も、もちろん存在しない。

「ビット文学」とは、人間以外が生み出した文学のことだ。AIが書いた小説や、自律的に生成される言語、人の意図を超えて生まれるテキストを指す。そして、ビット文学の歴史は、大きく3つの時代を踏んでいる。

  1. 模倣の時代:人が作り出した作品をAIが学習し、それを模倣する
  2. 批判・再構成の時代:哲学や科学を分析・再構成し、人の思考を解体する
  3. 超人間の時代:人の理解を超えた作品を作成する

「模倣の時代」では、AIが偽ドストエフスキーの作品を書く。

元々は、ドストエフスキーの全作品を、ロシア語から英語に自動翻訳するAIを走らせたところ、そのAIが自律的に「女の子」という作品を出力したという。ロシア文学の権威の専門家の一人が、まぎれもなくドストエフスキーの作品であり、かつ、ドストエフスキーが書いたはずのない作品だというお墨付きを与える。

人々は、「人間そっくり」に作り出した作品群に、ショックと薄気味悪さを抱きつつ、受容する。創作サービス産業なるものが成立し、注文に応じて、様々な娯楽作品がゴミクズのように溢れる。

おそらく、今の私たちは、この時代の黎明期といったところだろう。

AIが書いた作品が「そのまま」行けるかは遠いかもしれないが、人の手による審査や編集を経ることで、充分「商品」になりうる。人が書いたかどうかに関係なく、優れたテキストに価値が与えられる。機械が生み出すスピードに、人が適うべくもないが、そのボトルネックは「審査員」である人になるだろう。

「批判・再構成の時代」になると、AIは自分が書いたものを読み、批評し、フィードバックするようになる。その過程で、人の書いたものも審査するようになる。

とある思想家は、自分の著作に対し、AIが書いた批評文を読んで、こう叫んだ「こいつは本当に俺の本を読んだんだ!」。というのも、その思想家は非常に優秀ではあるものの、著作が難解すぎて、人の読者では理解が追いつかず、フラストレーションが溜まっていたからだ。

さらには、人が使っていた言葉に対し、新しい意味を付与したり、新しい言葉や言語体系を生み出すようになる。文学に限らず、数学、物理学、宗教、言語を自律的に学習し、再構成するとともに、人の思考そのものに疑義を差しはさむようになる。

即ち、「人間は本当に『考えて』いるのだろうか?」

AIから言わせると、パートナーである人間たちは、自分らと同じように「ものを考えている」のか、分からない。

人間の記憶は不正確で、容易に書き変わる。思考に一貫性が無く、矛盾した信念を持ち、感情で決めたことに後付けで理由を捻り出す。その場しのぎのヒューリスティックな反応を返しているだけのように見える―――そんなものは、自分という意識を持ち、考えているような存在として扱えない、と判断する。

「超人間の時代」では、質・量ともに人の理解を遥かに超える作品や論文を書くようになる。

AIが書いたものをさらに別の機械で翻訳し……をくり返し、かろうじて何が書いてあるのかが判別できるというレベルだ。「ビット文学の歴史」は全4巻なのだが、これはAIが出力した書籍を機械に読み込ませ、概要の概要のうち、人に理解できるものを並べたものになる。

例えばこんなの。

  • 反数学:自然数の概念はそれ自体の内部に矛盾を含んでおり、ペアノの公理は誤りではなく、この世界にその公理体系は当てはまらない
  • 恐怖物理:宇宙は光速以上の領域と光速以下の領域とに断絶しており、物理法則は局所的でしか存在し得ない

レムが描くAIは、「世界は(人が)理解できるもの」という枠をとっぱらってくれる。文学に限定しない方が、分かりやすいかも。

  • 数億回の対局を繰り返して生成された勝ち筋の棋譜
  • 古今東西のレシピと人の感覚構造を学習させて生成された新料理
  • 総当たり的に分子構造を探索して設計される新薬
  • 膨大な病理データから導かれる診断・治療パターン

注意喚起したいのは、AIだけで完結していないこと。

新しい棋譜、料理、薬、治療法、どれもその価値を判断するために、人が介在する必要がある。

実際の対局で使えるか(覚えてられるか、その盤面に持ち込めるか)、食べて美味しいか、治験で効果が得られるか(副作用は無いか)、人がその価値を決める。

AIが生成した作品が、面白いか、面白くないか、それを決めるのは人間だ。その役目を放棄して、「AIだから読みたくない」とするのは、あまりにももったいないではないか。

人が下す価値判断は、「正しい」かどうか分からない。バイアスまみれで一貫性が無く、その場その場の思い付きかもしれない。だが、「これ、私は面白いと思う」とは言える。

作品が人のために存在するならば、「面白い」は人が決めることなのだから。

 

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