レイモンド・カーヴァーを原書で読んだら、どのように心が動いたか分かった
村上春樹の翻訳で読むと、レイモンド・カーヴァーは、ひと息で読める。
カーヴァーの短篇は、修飾語をできるだけ使わず、シンプルで短い文が用いられている。さらに、彼に惚れこんだ村上春樹が、原文を活かした簡潔な文体で翻訳している。結果、するすると息を吸うように読み、しばらくして胸に響く。
特に、傑作である「ささやかだけれど、役にたつこと」「大聖堂」は、最初に読んでから15年も経つのに、いまでも響いている。
さらに、この感情に名前が付けられない。
「悲しい」とか「感動した」と陳腐に語ることができればよいのだが、まるで的が外れている。いや、悲しいことも起きるし、感動することだってある。だけど、それはこの響きじゃないんだ。
上手く言えないこの響きは、原文で読むことにより、触れられるくらい感じられるようになった。
英語で向き合うと、必然的に読むスピードが落ちる。一文一文を、どういう構造を用い、何をどの順で述べているのか、意味を取りながら噛み砕くことが強制される。
すると、昔、ひと息に読み流していた細部―――視線の対象や、沈黙の間(ま)、比喩の置き方―――が、異様によく見えるようになる。
あたかも、超スローモーションで手品を見ているような感覚だ。
手品なのでタネも仕掛けもある。だが、マジックの見せ方が一流なので、どんなタネが仕込まれていたのか、その仕掛けが発動したのか、鮮やかすぎて分からない。でも、高解像度でコマ送りで見ると、その瞬間は確かに見えるし、どう視線誘導されたのかも分かる。
日本語訳では呼び起こされた感情に委ねて読めていたのが、原文では、どの文が(句が)、どのタイミングで、その感情を誘発させているのかといった構造として観察できるようになる。
ヘミングウェイの流れを継ぐカーヴァーは、感情を説明せず、あえて(?)削ぐようなタイプの作家だ。英語を精読すると、その省略技法が、むしろ可視化される。意味がとりにくいところ、引っ掛かったところは、全て作者が省略したところだ。それを補い、組み立てながら読むと、カーヴァーの技巧が炙り出される。
音と感情の誘導
例えば、「ささやかだけれど、役にたつこと」のここ。未明に帰宅した彼女が、車を停めたところ。
She pulled into the driveway and cut the engine. She closed her eyes and leaned her head against the wheel for a minute. She listened to the ticking sounds the engine made as it began to cool.
(Raymond Carver “A Small, Good Thing”より)彼女は家のアプローチに入ると、車のエンジンを切った。そして目を閉じ、ハンドルにひとしきり頭をもたせかけていた。エンジンが冷えていくコチコチという音が聞こえた。
(村上春樹訳)
ここ2日間、彼女は寝ておらず、着の身着のままで、ようやく戻ってきたところだ。事故に遭って意識が戻らない息子に付きっきりで、ほとんど休んでいない。見かねた夫が代わりに見守るからと、シャワーと着替えのために帰ってきたところだ。
病室に残してきた子は大丈夫かしらと考えているだろうが、そうした心理は、描写されない。不安に苛まれ、憔悴し、追い詰められているだろうが、そうした描写は無い。
ただ淡々と描かれている行動の中で、車のエンジンを切って目を閉じるシーンが目を引く。村上訳を読んだときは、飛ぶように読み流したので気づかなかったのだが、エンジンが冷えていく音を聞いているシーンが「わざわざ」入っている。
これにより、辺りが異様に静かで、彼女自身がクールダウンしていることが、私の内側に生まれる。カーヴァーは「彼女は落ち着こうとした」とか「辺りは静かだった」なんて書かない。書かずに、私に「伝える」……というよりも、私の内側にそうした彼女を生じさせるのだ。
そして、辺りが静かで、彼女が落ち着こうとしているのであれば、そうではない事態が発生したとき、そのコントラストが際立つ。
静けさを破り、彼女の心をかき乱す事態―――電話が鳴る―――のだが、それすら淡々と描かれる。カーヴァーは「彼女は急いで電話に出た」なんて書かない。それでも、この時間にかかってくる電話が、どれだけ彼女を狼狽させたかは、書かれてなくても分かる。
しかも、その電話そのものが彼女を傷つけることになるのだが、それも、書かれてなくても分かる。彼女の苦しみ、怒り、罪悪感が、私の内側に生まれてくるのだ。
登場人物の心理を伝えるというよりも、その胸の内を私の胸に生じさせるような、そういう作り方をしている。原書で、たどたどしく読むと、そんなカーヴァーの手つきを覗き込むことができる。
読者を共犯にする
あるいは、「大聖堂」のここ。
She’d turned so that her robe had slipped away from her legs, exposing a juicy thigh. I reached to draw her robe back over her, and it was then that I glanced at the blind man. What the hell! I flipped the robe open again.
(Raymond Carver “Cathedral”より)
(妻が)体をねじったせいで、部屋着の裾がはだけて太ももがまる見えになった。手を伸ばして合わせてやったが、それからふと盲人の顔を見た。馬鹿馬鹿しい!私は部屋着の裾をまた開けひろげてやった。
(村上春樹訳)
妻の古い友人が家にやってきた。その友人は目が見えないのだが、彼女とは長年、テープに吹き込んだ声のメッセージで文通をしてきた。夫であり語り手である「私」は、その盲人と初めて会うのだが、そもそも目の見えない人と話したこともない。
妻と盲人、そして「私」の3人でご馳走を食べ、スコッチを飲み、だんだん眠くなってくるシーンだ。ぎこちなかった「私」と盲人も、ちょっとずつ打ち解けてくる。妻はうとうとしており、身をねじって裾がはだける。
で、あらわになった太ももを戻そうとするシーンだ。手を伸ばして裾を直し、盲人をちらりと見て、”What the hell!(馬鹿馬鹿しい!)”、ぴらっとはだける。この間(ま)にある”What the hell!”は、感情になる前の言葉なんだ。
「私」は最初、盲人と妻の仲がいいことを、内心おもしろく思っていなかった。そして、その感情がバレるのも嫌で、隠そうとしていた。だが、この型破りの盲人と語り合ううちに、目が見えない人生とはどういうものか、だんだん分かってくる―――ちなみに、このパラグラフは全て私の想像。
カーヴァーは心情を描かないので、仕草や会話の言葉尻から自分で補うしかない。よちよち英文を追いかけていくうちに、このシーンで引っ掛かる。「見せつけてやれ!(見えないけど)」なのか「まぁいっか(見えないけど、いや、見えてても)」なのか分からない。
「私」に生じたのが、見栄か嫉妬か挑発か、あるいはねじれた優越感なのか分からない。分からないまま、解釈込みで、カーヴァーは読み手に渡してくる。この微妙な間(ま)が好きで、その空白を埋めるために、読み手は考える。
確実に分かるのは、(どこにも書いてないけれど)この太もものシーンを境に、「私」はもっと打ち解けてくることだ。「私は盲人に親しみを感じた」なんてカーヴァーは書かない。だけど、そう感じているのは、読み手である私の心に生まれてくる。
登場人物が何を考えているのかは、具体的に書かれている。だが、どう感じている(恐怖や怒り、親しみ)かは書いてない。注意深く、意味を取りながら補っていくうちに、いつの間にか、その心情そのものに、私はなっている。そういう、読者を共犯者にさせるような書きっぷりだ。
日本語訳で読んだカーヴァーに、「心を動かされた」とはいえる。だが、原書で読むと、強制されたスローモーションで、どういう手業で「感動」が出来上がってくるのか見えてくる。カーヴァーの絶妙な語りに、私が、どういう風にシンクロさせられているのか、嫌でも気づくことになる。
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