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お尻から宝物を生む少女、9倍気持ちいい女たち――神話が暴露する人類の欲望の正体:ジョーゼフ・キャンベル『神話と女神』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年9月27日


『スター・ウォーズ』の物語構造は、ジョーゼフ・キャンベルの英雄伝説を元にしていることは有名だが、本書は、その女神版だ。つまり、『千の顔をもつ英雄』が古今東西の英雄譚から人の普遍的欲求を炙り出したことを、女神でやったのが『女神と神話』である。

『千の顔をもつ英雄』は、神話・伝承に共通する基本構造として、このダイアグラムが紹介される。いわゆる「行きて帰りし物語」やね。この構造は、時代や地域を超えた恒常性を持ち、それはすなわち、人の最深層に秘められた記録だという。

『千の顔をもつ英雄』第一部 第四章「鍵」より

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いっぽう、『神話と女神』では、「女神・男神」の対比構造で紹介する。遺物やシンボルから導かれる「農耕民の女神:遊牧民の男神」という歴史から、「産む女神:殺す男神」という視点をつくり、これに沿った形で神話・伝承を紹介していく。

この比較構造から、物語のシナリオについてのヒントや、本能に近い欲求を揺さぶるエピソードを、大量に摂取できる。いわばクリエイターの種本やね。

  • マリア・ギンブタスの新石器時代の古ヨーロッパ研究における女神
  • シュメールやエジプトの神話に登場する女神
  • ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』のエレウシスの秘義
  • 中世のアーサー王伝説
  • ルネサンス期の新プラトン主義に登場する女神

紹介される主な女神は上の通りだが、そこから派生して様々な神話が飛び出てくる(この”脱線”が面白すぎる)。シヴァやアマテラスといった有名どころや、非女神としての聖母マリア、ハイヌウェレ伝説など、それだけで物語を広げていくことだってできそうだ。

お尻から宝物をひり出す女神

たとえば、ハイヌウェレという少女の伝説。

彼女が大便をすると、出てくるのはウンコではなく、宝物が排出される。村人たちは気味悪がって、迷宮に誘いこんで踏み殺し、埋めてしまう。ところが、彼女の死体から様々な種類の芋や穀物が育ち、人々の主食になったという話だ。

これは、赤坂憲雄『性食考』[ハイヌウェレ型神話]で目にした物語の原型なのだが、キャンベルはそこからさらに探求を進め、キリスト教に結び付ける。

死は生の終わりではなく、死体は神格だという。そこから育った植物を食べる事で、わたしたちは神を食べていることになる。これがやがて、イエスの聖体の秘跡「これがわたしの体であり、これがわたしの血である」に引き継がれてゆくというのだ。

セックスの快楽は、男と女と、どちらが大きいか

あるいは、性の快楽は、男と女でどっちが大きいかについて。

痴話げんかの大御所であるゼウスとヘラで議論になり、互いに譲らなかったので、テイレシアスが呼ばれたという。なぜテイレシアスかというと、彼は昔、8年間だけ女だったからだ(この女体化のエピソードも滑稽なり)。呼ばれたテイレシアスは即答する。

「もちろん女です。9倍気持ちいい」

ここまでは、開高健のエッセイで知ってたが、続きがある。ヘラはこれを悪く取り、テイレシアスの目を見えなくさせてしまう。いっぽうゼウスは責任を感じてか、彼に予言の力を与える。

問題は、なぜヘラが気を悪くしたかである。

本書では、こう種明かしをしている―――女の方が気持ち良いことが分かってしまったからには、ゼウスに対して「あなたのために応じているのよ」と言えなくなってしまうから。

農耕民の女神・遊牧民の男神

本書は、こうしたエピソードを大量に紹介しつつ、女神をめぐる基本的な構造を明らかにしてゆく。それは、農耕民の神話では、女神と根源的に結びついているという。一方で、遊牧民の神話では、男神と結びついている。

女性の顕現として最も分かりやすいのは母なる大地になる。大地は命を産み、命を育む。ゆえに女性の力に通じるというのだ。

初期の狩猟採集の伝統では、食用の植物を採集するのは女であり、大型動物の狩猟は男が担う。そのため、男は殺すことに結びつき、女は命を生み出すことに結びつくというのである。

農耕民族、遊牧民族とキレイに分かれているわけではないが、どちらを主としているかによって、崇める神の性別が変わってくるという指摘は、たいへん興味深い。

神話学の第一人者による、女神の変容の歴史を探求する一冊。

 

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『独学大全』はこう使う

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年9月30日


独学の達人である読書猿が書いた、独学の百科事典。「読書猿って誰?」という人がいたら、[読書猿Classic]を見に行くべし。

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787ページ、1kgは、ほぼ鈍器で、そこらの教養芸人を蹴散らすのにピッタリ。

だが、隅々まで読むのは時間がかかる。独学する人は何らかの「学びたいこと」を抱えており、それにまつわる様々な問題を解決したいが故に本書を手にするのだから、全読している時間が惜しいかもしれぬ。

そんな人のために本書の使い方を紹介するとともに、『独学大全』が、私をどのように変えたか、さらに、どのように使っていくかを書く。

  1. 『独学大全』で最初に読むところ
  2. 『独学大全』でどう変わるか
  3. 『独学大全』をこう使う

1. 『独学大全』で最初に読むところ

もちろん始めから読むのが一番だが、てっとり早く掴みたい、という方のために、p.33~39に「本書の構成と取説」がある。この6ページを読むだけで使い方が分かる……のだが、もっと切実な悩みを抱えている方もいるかもしれぬ。

  • どうやって調べればいいか分からない
  • 読むのが苦手
  • すぐ挫折して続かない
  • なんで学ぶのか分からなくなった
  • 頭が悪い ……等々

そんな具体的な悩みごとは、巻末の「独学困りごと索引」からダイレクトに引ける。

たとえば、私自身、自分の頭の悪さに腹が立つことがある。いくら読んでも分からなくて、もんもんとするか、開き直って飛ばしていたが、技法15「会読」が良いとある。要するに一冊の本をみんなで読むことだ。ゼミの輪読でおなじみだが、頭のいい人に巡り合える可能性は大いにある。

本書ではさらに踏み込んでくる。解釈が割れているところだったり、決着がつかない議論だったりする可能性もあるという。そこで、「分からないのは自分だけではない」ことを知ることが大事なんだという。

大事なのは「分からない」を自分で抱えるのではなく、表明することで外部に出す。極端な話、「みんな」がいなくったっても、一人でも会読できるとまで言う。一人で読んでレジュメを作り、「分からない」をまとめ、ネットに公開する。

誰か分からないけれど、誰かが見ているかもしれない事実が、継続を支えるという。この動機付けは強力で、「同じ書を読む人は遠くにいる」という言葉で伝えてくれる。わたしがブログを書き続ける理由も、まさにこれ。

2. 『独学大全』でどう変わるか

この「外部に出す」ことの重要性は、様々な形を変え紹介される。

たとえば、技法13「コミットメントレター」

今週の学習予定を書き出して、家族や友人に渡す。受け取った人がチェックする必要はないが、それだけで強い動機付けになるという。なんならSNSに公開してもいい。自分との約束は破りやすいが、それを見せることで、社会的な縛めにするするというのだ。

あるいは、技法12「ラーニングログ」

何をどれだけ学ぶかの目標を決め、それに向けてどれだけ進んだかを記録する。ページ数や章・節、学習単元という積み重ねを、手帳やクラウド上に、一覧できる形で記録する。そして、記録を見返すことで、目標と現在位置を把握せよというのだ。

なぜ外部に出すのか? それは、人は弱いからだ。

人間は弱い。すぐ三日坊主になる。「やらない理由」を見つけ出すのが上手い。他の方法に目移りする。おそらく、読書猿さん自身が、自分の意志の弱さを思い知り、それを何とかするために足掻いてきたのだろう(ご自身の生々しい記録が載っている)。

やろうとしていること、やってきたことを外に出す。「自分との約束」を誰かの視線にさらすことで、自分を律する。コミットメントレターとラーニングログは、実践していこう。ブログ+SNS+会読で、外に出すことを意識する。

3. 『独学大全』をこう使う

外に出すことは、「外部足場」というキーワードでも強調される。

ひと一人の頭のリソースは限られている。膨大な文献を取りまわすためには容量が足りない。だから、自分の中だけで完結するのではなく、自分の外側に考えるための足がかりを作る―――それが外部足場だ。

「外部足場」も、数多くの技法が紹介されているが、わたしは、技法28・29の「目次・引用マトリクス」を実践するぞ(宣言)。

目次・引用マトリクスとは、多くの文献・資料から情報を抽出し、整合的に結び合わせるため一覧表だ。具体的な方法は、本書の第10章か、[複数の文献を一望化し横断的読みを実装するコンテンツ・マトリクスという方法]が参考になる。

わたしは今まで、一つのテーマにつき、一つの文献を、一つずつ読んでいく方法だった。ある文献で引用される書名や、何度も目にする著者名は、次に読む一冊とはなりうるが、それもシーケンシャルなものだ。

しかし、文献はスタンドアローンではないという。

一冊の書物は、他の数多くの書物と、参照関係や影響関係を介して結びあわされているという。そうした文献同士を結ぶつながりを突き合わせ、縒り合わせる読書をしろと説く。ただし、それを頭の中だけでやろうとするのは骨なので、文献群を一望化するのだ。これは、実践するだけでなく、外に出す。

わたしが実践したいのは、認知科学の分野だ。人はどのように世界を認識し、それを知として受け継いでいるか。それは一般化(AIで代替)できるのかに興味がある。

では、この分野で外部足場を作るために適切なものは?

これまた沢山の技法やアプローチが紹介されているが、技法25「独学者最強の武器としての教科書」からやってみる。『有斐閣アルマ』シリーズが概要から専門までカバーされているとある(有斐閣アルマの『認知心理学』を買った)。さらに「教科書の使い方」まで懇切丁寧に紹介されているが、そこから「入門書として使う」「書誌として使う」を実践する。

―――こんな感じで、自分の「学びたいこと」を取っ掛かりに、様々な技法をピックアップしていく。効率よく進める技法を探しても良いし、スランプや迷った時に引いても良い。「そもそも何をすればよいか分からない」「何が分からないかが分からない」といったメタな悩みまでカバーしている。

あなたが何かを、学びたい、学ぼうとしているのであれば、具体的に何をすれば良いのか、どうすれば続けられるのかを、指し示してくれる。羅針盤のような一冊。

 

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ナチスが焼いた本のリスト、国際宇宙ステーションにある本、ハリポタの次に読む本……本のリストが面白い

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年10月4日


ナチスが焼いた本のリスト

ナチスが焚書した本は4,000を超えており、その全容は把握しきれない。だが、焼かれた本の一部は分かっており、”A Book Of Book Lists” でリスト化されている。これを見ると、ナチスが何を恐れていたかが、よく分かる。

  • 武器よさらば(アーネスト・ヘミングウェイ)
  • いかにして私は社会主義者となったか(ヘレン・ケラー)
  • 野性の呼び声(ジャック・ロンドン)
  • 鉄の踵(ジャック・ロンドン)
  • 世界史概観(H.G.ウェルズ)
  • 理性に訴える(トーマス・マン)
  • ジークムント・フロイトの全著作

ISS(国際宇宙ステーション)にある本

宇宙ステーションで働く人々は超忙しいので、本読んでるヒマなんてないのでは? と思うのだが、リラックスのための読書は必須らしい。数十年にわたり私物として持ち込まれ、そのままライブラリー化しており、シリーズものが充実している。

  • ファウンデーションシリーズ(アイザック・アシモフ)
  • エイリアン 感染(ダレル・ベイン)
  • アシモフのサイエンス・フィクション(アイザック・アシモフ)
  • ヴォルコシガン・サガ(ロイス・マクマスター・ビジョルド)
  • 二都物語(チャールズ・ディケンズ)
  • 戦争と平和(トルストイ)
  • 風と共に去りぬ(ミッチェル)
  • オナー・ハリントン・シリーズ(デイヴィッド・ウェーバー)

アラン・チューリングが借りてた本

アラン・チューリングが学校で借りた本のリストもある。パブリックスクールに通っていた頃(14~19歳)の本だ。ルイス・キャロルのアリスシリーズから数学の世界へ誘われたのかと想像すると感慨深い。

  • 不思議の国のアリス(ルイス・キャロル)
  • 鏡の国のアリス(ルイス・キャロル)
  • 論理ゲーム(ルイス・キャロル)
  • 空間、時間、重力(アーサー・エディントン)
  • 自然界の本質(アーサー・エディントン)
  • 物質と運動(ジェームズ・クラーク・マクスウェル)
  • 科学と近代世界(ノース・ホワイトヘッド)

一冊の書物は一つのパッケージとして完結する。だが、それをリストにすると、趣味や偏愛、あるいはメッセージ性が現れてくる。

この遊びを徹底したのが、『本のリストの本』だ。

編集者や蒐集家、ライターといった、本に関わる人たちが、本のリストを巡ってあれこれ語ったエッセイ集だ。知ってる本から知らない本を手繰るとき、それをリストの形で繋げてくれるのが楽しい。

文字の表情を味わう本

タイポグラフィやレタリングが好きな人で、様々な書体を見ているだけでニヤニヤできる上級者向け。フォントを変えるだけで、中身がガラリと変わってしまうのは魔法のようで面白い。『じょうずなワニのつかまえ方』はWeb版で読める(めちゃめちゃ面白い!)

  • じょうずなワニのつかまえ方
  • 日本字フリースタイル・コンプリート たのしい描き文字2100
  • 篠原榮太のテレビタイトル・デザイン

刊行しなかった本のリスト

企画は進んでいたが、諸事情で日の目を見なかったリストなのだけど、絶対これ面白いやろ! と言えるやつばかり並んでる。ベイトソン先生のやつは読みたい!

  • 男色と免疫疾患(南方熊楠)
  • 小説・経済論(村上龍)
  • 細野晴臣画集
  • 坂本龍一伝(玖保キリコ)
  • 中島みゆき論(呉智英)
  • マルセル・デュシャン(オクタビオ・バス)
  • イルカを撃つな(グレゴリー・ベイトソン)

ハリー・ポッターの次に読みたいリスト

イギリスの絵本専門店が、ハリポタブームの頃に出したリストだそうな。私はハリポタを読んでいないので何とも言えないが、これらが鉄板で面白いことは保証する。『ダレン・シャン』や『タラ・ダンカン』も入れたいね。

  • はてしない物語(ミヒャエル・エンデ)
  • トムは真夜中の庭で(フィリパ・ビアス)
  • ゲド戦記(アーシュラ・ル=グウィン)
  • 指輪物語(J.R.R.トールキン)
  • 長くつ下のピッピ(アストリッド・リングドグレーン)
  • ナルニア国ものがたり(C.S.ルイス)

この遊びはマネしたくなる。たとえば、何度も読んでしまう短篇集とか。

なぜか何度も読み返す短篇集(マンガ編)

  • ヘウレーカ(岩明 均)
  • ひきだしにテラリウム(九井諒子)
  • 愛すべき娘たち(よしながふみ)
  • 棒がいっぽん(高野文子)
  • ミノタウロスの皿(藤子・F・不二雄)
  • 三文未来の家庭訪問(庄司創)

なぜか何度も読み返す短篇集(小説編)

  • 伝奇集(ボルヘス)
  • 新釈雨月物語、新釈春雨物語(石川淳)
  • 完全な真空(スタニスワフ・レム)
  • Carver's dozen(レイモンド・カーヴァー)
  • 名人伝(中島敦)
  • チェホフ短篇集(チェホフ)

面白いだけでなく、読み返すたび、違った印象を受けるのが面白く、何度も手にしてしまう。「噛むほどに味が出る」というやつ。

こんな感じで並べると、わたしの偏愛が見えてくる。「お前のマンガの趣味は悪い」と言われたことがあるけど、偏っている自信はある。一方で、わたしと好みが被るなら、ここから次に手にする一冊が見えてくるかもしれぬ。

あるいは、拙著『わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』にも、沢山のリストがある。

人生を破壊する怒りから自由になる本のリスト

  • 怒らないこと(アルボムッレ・スマナサーラ)
  • ジェダイの哲学(ジャン=クー・ヤーガ)
  • 怒りについて(セネカ)
  • 七つの習慣(スティーヴン・コヴィー)

怒りに任せてモノに当たったり、感情が昂って眠れなくなるほどだったのが、読書を通じて、怒りから自由になることを学んだ。万人向けかは知らないが、少なくとも自分には効いたリスト。

読んだことを後悔する禁断の劇薬小説

  • イワン・イリイチの死(トルストイ)
  • 城の中のイギリス人(マンディアルグ)
  • 隣の家の少女(ケッチャム)
  • ジェローム神父(マルキ・ド・サド)

全24作品からダメージ低めのものを選んだが、読書は毒書であることを思い知らせてくれる。苦手な人は避け本リストとして使って欲しい。好きな人は、別冊付録を手にしてほしい。

このブログでも、様々なリストがある。昔、わたし自身のために作ったのだが、今でも有効活用しているのがこれ。

東大教師が新入生に薦めるブックリスト

  • 理科系の作文技術(木下是雄)
  • 生命とは何か(シュレディンガー)
  • 日本人の英語(マーク・ピーターセン)
  • 知的複眼思考法(苅谷剛彦)
  • オリエンタリズム(サイード)
  • ゲーデル、エッシャー、バッハ(ホフスタッター )

実際は、東京大学出版会が毎年行っているアンケートで、過去30年分を基に集計した100冊のリストになる。リストにすることで、今まで読んできたもののを振り返り、整理することができる。一方で、次に読む目標も出てくる。

本をリスト化すると、意外な自分が見えてきたり、趣味が似通った人と出会えたりする。定期的に棚卸していきたいもの。

 

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変えられないものをスルーして、変えられるものだけに集中する

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年10月10日


人生で一番大事なことは、イチローから学んだ。

コントロールできることと、コントロールできないことに分ける。そして、コントロールできないことには関心を持たない。

首位打者争いをしているとき、ライバル打者について話題が及ぶと、「相手の打率は、僕にはコントロールできません、意識することはありません」と打ち切ったという。

同じことを、ヤンキース時代の松井秀喜も語っていた。成績が振るわず、マスコミに批判されたことについて質問されると、「記事はコントロールできません。気にしても仕方ないことは気にしません」と返したという[松井、イチローの言葉を就活に生かす]

初めてこの言葉を聞いた時、自分を苦しめているものがはっきりと見え、すっと楽になった。以後、手帳の見返しに書きつけ、毎日見返している。

わたしを苦しめているものは、「コントロールできないもの」を生み出しては抱えている、わたし自身なのだ。

もっと踏み込んだ言い方では、[二ーバーの祈り]がある。

神よ、

変えることのできないものを、

静穏に受け入れる力を与えてください。

そして、

変えるべきものを変える勇気と、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを、

与えて下さい。

神学者ラインホルト・二ーバーが作者とされる祈りの言葉で、アルコールや薬物依存症に苦しむ人を支援する会でも引用されている。

この、「変えることのできないもの」をあれやこれやと生み出し、それに思い悩むのは、ヒトの思考の癖のように思える。

放っておくと、そうした不安にばかり埋め尽くされ、悪い方へ悪い方へとしか考えられなくなる。眠れぬ夜、「不安なことを考えると安心する」といった倒錯した頭を抱えることもある。

だが、不安とは、未来に起こるかもしれない不都合を、「いま」思い悩むことだ。「いま」を「未来」に変えられないのであれば、起きたときに悩めばいい。起きてもいない(起きるかどうかすら分からない)不都合について心配するのはナンセンスかもしれぬ。

この考え方は、ずっと受け継がれてきたもので、古代ギリシャまで遡ることを知ったのが、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね』だ。エピクテトスはローマ帝政時代の哲学者で、彼の言葉は、マルクス・アウレリウスからパスカル、夏目漱石にまで影響を及ぼし、今に至っている。

本書は、彼に私淑する山本貴光さんと吉川浩満さんの対談形式で描かれており、現代風にアップデートされた悩みについて、具体的に語られる。

エピクテトスの原則は、シンプルだ。

自分の権内と権外を適切に見極めよ

ちょっと見慣れぬ言葉があるけれど、

権内=自分がコントロールできるもの

権外=自分がコントロールできないもの

だね。そして、権内か、権外か、両者が適切に区別できている状態こそ、人にとってもっとも幸福であり、われわれが目指すべき最善な状態だという。

そして、権内か、権外か、あらゆる心像についてこの基準をあてがってみろとアドバイスるする。権外であれば、捨て去れと断言する。なぜなら、人々を不安にするものは事柄ではなく、事柄に関する考え方なのだからだというのだ。

こうして言葉にするとあたりまえに見えるが、不安にさいなまれている時には、そこまで思いが及ばない。

だから、具体的な例を挙げ、権内/権外をあてはめるトレーニングをする。本書では、以下の人々を俎上に、コントロールできること、できないこと、見極め方を指南する。

  • 新任の上司が女性なのでモヤモヤしているエンジニア
  • 電車遅延について駅員に怒鳴り込むおっさん
  • やりたいことも、得意なこともないが、進路を決めなきゃいけない高校生

読者は、ひょっとすると、ここに出てくるエンジニアや高校生の立場ではないかもしれぬ。そのため、ここの事例がそのまま当てはまるとは限らないかもしれぬ。

だが、「増殖する不安を抱えている」という点では一致するし、その悩みは人類史上初というわけでもないだろう。

だから、本書を通じて「エピクテトスならどうする?」と自問すると良いかも。おそらく、権内のあまりの小ささと、権外のあまりの巨大さに、驚くだろう(わたしがそうだった)。

悩み事は、放っておくと雪だるま式に増殖する。アルコールで一時的に忘却したり、課金やスパチャで気を紛らわすのもありだが、財布や肝臓が死ぬ。悩むのは人の仕様。だが、死ぬほど思い悩むことはない。

その人生、正気を保っていくために。

 

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サクサクした食べ物が好きなのは、祖先が昆虫食だったから『美食のサピエンス史』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年10月17日


サクサク(crispy)した食べものは、みんな大好きだ。たとえば、唐揚げやフライドチキン、ポテトチップスは、世界各国で好まれる。

この、サクサクした食感を好む傾向は人類共通らしい。

なぜ、私たちはサクサクを好むのか?

本書によると、かつて我々の先祖が、昆虫を好んで食べていたからだという。

つまり、外はサクサク、中はトロ~りした食べものが好まれるのは、外骨格に身を包み、タンパク質や脂肪を豊富に含んだ昆虫を食べてきた名残りなのだというのだ。

昆虫食は異常?

アジア、オーストラリア、アフリカ、南アメリカ、中東では、昆虫は優れたタンパク質源であり、薬剤としても利用されている(※1)。そういえば、わたしが子どもの頃、祖母が作った「イナゴの佃煮」や「ハチノコ」が食卓に並んでいた。

いっぽう、欧米人は、昆虫食をありえないと決め付けるのだが、その理由が興味深い。

昆虫を「きたならしく、吐き気をもよおす」から食べないのではない。文化人類学者マーヴィン・ハリスによると、真相は逆で、昆虫を食べる習慣がないからこそ、「きたならしく、吐き気をもよおす」ものと見えているというのだ。

そして、昆虫食の価値が認められていないのは、欧米文化の環境条件に過ぎないという。獣や魚の肉が手に入りやすい一方で、手ごろなサイズの昆虫がいなかった―――この条件は北半球の一部の地域のみで、そこから発祥した食文化に組み込まれたためだというのだ。

『美食のサピエンス史』は、こうしたわたしの偏見を、鮮やかに解いてくれる。本書は、進化生物学、文化史、脳科学から、「ヒトと食」についてアプローチする。

「食べる」と「性交する」は同じ?

たとえば、食と性の研究が面白い。

まず、「食べる」と「性交する」が、同一の言葉で語られる例を紹介する。南アメリカやブラジルの一部では、両者は同じ言葉を用いられる(※2)。

確かに、いかにも「食べてる/食べられている」ように見えるのは事実だし、「あの子、食べちゃった」「美味しそうなカラダ」「女に飢える」「おとこ日照り」という表現もある。性と食は、近いところにあるのかも。

しかし、だからといって完全に言葉を同じにしたら、いろいろと混乱を招きそうだ。ところがどっこい、これらの地域では、区別する必要がある場合は、対象を言い添えるという。つまり、「果物を」「ペニスを」と目的語を付け加えて使い分けるのだ。

文化人類学の観点から、食と性が分かちがたく結びついていることを主張した後、今度は、脳科学の観点から補強する。

おいしいものを食べたときの快感を、英語圏では、フードガズム(foodorgasm:food+orgasm)という。ハッシュタグ #foodorgasm でインスタを覗くと、いわゆる「飯テロ」画像が並んでいる。

そして、fMRIで撮影した眼窩前頭皮質の活動から、美食でフードガズムを感じているときと、性交でオーガズムを感じているときの類似点を指摘する。ただし、美食と性交のそれぞれでオーガズムに至るのではなく、むしろ、フードガズムがオーガズムを誘起しているのではないかという。

おいしい料理と、たのしいセックス、どっちが気持ちよいか?

とある美食料理家が紹介する、”Better than Sex Cake” を見る限り、食の方に軍配が上がりそうだ。キャラメルソースたっぷりのチョコレートケーキは、確かに「美味しそう」である。



絶対味感

苦味についての研究も面白い。

ブロッコリーやキャベツには、PTCという苦味物質が含まれている。この物質をどう感じるかは、遺伝によるというのだ。シワのある豆と丸い豆がメンデルの法則に従うように、PTCを苦いと感じる/感じないも、潜性遺伝するというのだ。

この研究はさらに進められており、PTCを感じる人は、アルコールを飲まず、ニコチン依存になりにくい傾向があることが分かっている。PTCの味覚能力は、嗜好の形成に何らかの役割を果たしているようだ。

本書がユニークなのは、この研究は遺伝子研究だけでなく、文化的環境とも照らし合わせて掘り下げているところ。PTCの検知/非検知は、言語を伴って活動していた可能性を指摘する。PCT特有の味を指す言葉だってあるかもしれないのだ。

さらに本書では、スーパーテイスターの存在を仮説づける。同じものを食べても、敏感に感じる人から、鈍い人まで、様々だろう。この口腔感覚の個人差は、色や音のように幅があることが考えられる。

この研究が進むと、絶対音感のような「絶対味感」も明らかになるのではないだろうか。つまり、音の高さを絶対的に認識する能力と同様、特定の味を同定できる人が出てくることが予想される。味という、主観100%の世界が、どこまで普遍化できるか……これは楽しみ。

原題は、”The Omnivorous Mind” (雑食性の心)だ。ヒトという、超雑食な存在を、進化と文化の両面から、多面的に捉えた一冊。

※1

s.K. Srivastava and Naresh Babu

Traditional insect bioprospecting-As human food and medicine

November 2009Indian journal of traditional knowledge 8(4):485-494

※2

『神話理論 生のものを火を通したもの』クロード・レヴィ=ストロース(みすず書房)

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レイモンド・カーヴァーを原書で読んだら、どのように心が動いたか分かった

村上春樹の翻訳で読むと、レイモンド・カーヴァーは、ひと息で読める。

カーヴァーの短篇は、修飾語をできるだけ使わず、シンプルで短い文が用いられている。さらに、彼に惚れこんだ村上春樹が、原文を活かした簡潔な文体で翻訳している。結果、するすると息を吸うように読み、しばらくして胸に響く。

特に、傑作である「ささやかだけれど、役にたつこと」「大聖堂」は、最初に読んでから15年も経つのに、いまでも響いている。

さらに、この感情に名前が付けられない。

「悲しい」とか「感動した」と陳腐に語ることができればよいのだが、まるで的が外れている。いや、悲しいことも起きるし、感動することだってある。だけど、それはこの響きじゃないんだ。

上手く言えないこの響きは、原文で読むことにより、触れられるくらい感じられるようになった。

英語で向き合うと、必然的に読むスピードが落ちる。一文一文を、どういう構造を用い、何をどの順で述べているのか、意味を取りながら噛み砕くことが強制される。

すると、昔、ひと息に読み流していた細部―――視線の対象や、沈黙の間(ま)、比喩の置き方―――が、異様によく見えるようになる。

あたかも、超スローモーションで手品を見ているような感覚だ。

手品なのでタネも仕掛けもある。だが、マジックの見せ方が一流なので、どんなタネが仕込まれていたのか、その仕掛けが発動したのか、鮮やかすぎて分からない。でも、高解像度でコマ送りで見ると、その瞬間は確かに見えるし、どう視線誘導されたのかも分かる。

日本語訳では呼び起こされた感情に委ねて読めていたのが、原文では、どの文が(句が)、どのタイミングで、その感情を誘発させているのかといった構造として観察できるようになる。

ヘミングウェイの流れを継ぐカーヴァーは、感情を説明せず、あえて(?)削ぐようなタイプの作家だ。英語を精読すると、その省略技法が、むしろ可視化される。意味がとりにくいところ、引っ掛かったところは、全て作者が省略したところだ。それを補い、組み立てながら読むと、カーヴァーの技巧が炙り出される。

音と感情の誘導

例えば、「ささやかだけれど、役にたつこと」のここ。未明に帰宅した彼女が、車を停めたところ。

She pulled into the driveway and cut the engine. She closed her eyes and leaned her head against the wheel for a minute. She listened to the ticking sounds the engine made as it began to cool.
(Raymond Carver “A Small, Good Thing”より)

彼女は家のアプローチに入ると、車のエンジンを切った。そして目を閉じ、ハンドルにひとしきり頭をもたせかけていた。エンジンが冷えていくコチコチという音が聞こえた。
(村上春樹訳)

ここ2日間、彼女は寝ておらず、着の身着のままで、ようやく戻ってきたところだ。事故に遭って意識が戻らない息子に付きっきりで、ほとんど休んでいない。見かねた夫が代わりに見守るからと、シャワーと着替えのために帰ってきたところだ。

病室に残してきた子は大丈夫かしらと考えているだろうが、そうした心理は、描写されない。不安に苛まれ、憔悴し、追い詰められているだろうが、そうした描写は無い。

ただ淡々と描かれている行動の中で、車のエンジンを切って目を閉じるシーンが目を引く。村上訳を読んだときは、飛ぶように読み流したので気づかなかったのだが、エンジンが冷えていく音を聞いているシーンが「わざわざ」入っている。

これにより、辺りが異様に静かで、彼女自身がクールダウンしていることが、私の内側に生まれる。カーヴァーは「彼女は落ち着こうとした」とか「辺りは静かだった」なんて書かない。書かずに、私に「伝える」……というよりも、私の内側にそうした彼女を生じさせるのだ。

そして、辺りが静かで、彼女が落ち着こうとしているのであれば、そうではない事態が発生したとき、そのコントラストが際立つ。

静けさを破り、彼女の心をかき乱す事態―――電話が鳴る―――のだが、それすら淡々と描かれる。カーヴァーは「彼女は急いで電話に出た」なんて書かない。それでも、この時間にかかってくる電話が、どれだけ彼女を狼狽させたかは、書かれてなくても分かる。

しかも、その電話そのものが彼女を傷つけることになるのだが、それも、書かれてなくても分かる。彼女の苦しみ、怒り、罪悪感が、私の内側に生まれてくるのだ。

登場人物の心理を伝えるというよりも、その胸の内を私の胸に生じさせるような、そういう作り方をしている。原書で、たどたどしく読むと、そんなカーヴァーの手つきを覗き込むことができる。

読者を共犯にする

あるいは、「大聖堂」のここ。

She’d turned so that her robe had slipped away from her legs, exposing a juicy thigh. I reached to draw her robe back over her, and it was then that I glanced at the blind man. What the hell! I flipped the robe open again.
(Raymond Carver “Cathedral”より)

(妻が)体をねじったせいで、部屋着の裾がはだけて太ももがまる見えになった。手を伸ばして合わせてやったが、それからふと盲人の顔を見た。馬鹿馬鹿しい!私は部屋着の裾をまた開けひろげてやった。
(村上春樹訳)

妻の古い友人が家にやってきた。その友人は目が見えないのだが、彼女とは長年、テープに吹き込んだ声のメッセージで文通をしてきた。夫であり語り手である「私」は、その盲人と初めて会うのだが、そもそも目の見えない人と話したこともない。

妻と盲人、そして「私」の3人でご馳走を食べ、スコッチを飲み、だんだん眠くなってくるシーンだ。ぎこちなかった「私」と盲人も、ちょっとずつ打ち解けてくる。妻はうとうとしており、身をねじって裾がはだける。

で、あらわになった太ももを戻そうとするシーンだ。手を伸ばして裾を直し、盲人をちらりと見て、”What the hell!(馬鹿馬鹿しい!)”、ぴらっとはだける。この間(ま)にある”What the hell!”は、感情になる前の言葉なんだ。

「私」は最初、盲人と妻の仲がいいことを、内心おもしろく思っていなかった。そして、その感情がバレるのも嫌で、隠そうとしていた。だが、この型破りの盲人と語り合ううちに、目が見えない人生とはどういうものか、だんだん分かってくる―――ちなみに、このパラグラフは全て私の想像。

カーヴァーは心情を描かないので、仕草や会話の言葉尻から自分で補うしかない。よちよち英文を追いかけていくうちに、このシーンで引っ掛かる。「見せつけてやれ!(見えないけど)」なのか「まぁいっか(見えないけど、いや、見えてても)」なのか分からない。

「私」に生じたのが、見栄か嫉妬か挑発か、あるいはねじれた優越感なのか分からない。分からないまま、解釈込みで、カーヴァーは読み手に渡してくる。この微妙な間(ま)が好きで、その空白を埋めるために、読み手は考える。

確実に分かるのは、(どこにも書いてないけれど)この太もものシーンを境に、「私」はもっと打ち解けてくることだ。「私は盲人に親しみを感じた」なんてカーヴァーは書かない。だけど、そう感じているのは、読み手である私の心に生まれてくる。

登場人物が何を考えているのかは、具体的に書かれている。だが、どう感じている(恐怖や怒り、親しみ)かは書いてない。注意深く、意味を取りながら補っていくうちに、いつの間にか、その心情そのものに、私はなっている。そういう、読者を共犯者にさせるような書きっぷりだ。

日本語訳で読んだカーヴァーに、「心を動かされた」とはいえる。だが、原書で読むと、強制されたスローモーションで、どういう手業で「感動」が出来上がってくるのか見えてくる。カーヴァーの絶妙な語りに、私が、どういう風にシンクロさせられているのか、嫌でも気づくことになる。

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なぜバカは無敵で世の中に蔓延しているのか分かる『バカの研究』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年10月25日


桃井かおり「世の中、バカが多くて疲れません?」から30年、バカはどんどん増えている。


バカは、激しく自己主張する。

感情的にわめきたて、他人の意見に聞く耳を持たない。ことが起きるたびに「ほら、私が言った通りだろ?」と叫ぶ。思い通りにならないと、全て人にせいにして、自分が間違っている可能性を考えない。自分を高く評価するあまり、客観的な判断ができない。

バカは、「間違えたら死ぬ病」にかかっている。

自分の間違いを、絶対に認めようとしない。自分の間違いが証明されそうになると、ゴールポストを動かす。都合の悪いことを完全に忘れる能力があり、「昔は良かったが、今はダメだ」を口癖とする。

「バカ=知識がない」ではない。

知識はあり、アカデミックな立場にいるにもかかわらず、信じがたい愚かな発言を繰り返すバカは、大量にいる。しかも、なまじ知識があるぶん厄介だ。自分のイデオロギーを裏付ける文献を引用しながら、知的な虎の威を借りて、不愉快な相手を糾弾する。知識とは、相手を黙らせる武器だと考えている。

バカには理由がある

こうしたバカが、なぜ存在するのか―――この疑問に対し、『ファスト&スロー』のダニエル・カーネマンや、脳科学者アントニオ・ダマシオなど名だたる知性が結集し、大真面目で「バカ」を研究したのがこれ。

面白いことに、本書は、「バカをバカにする本」ではない。

某国の指導者やイズムの狂信者をこき下ろすのではなく、その背後にある、「どうして人は、愚かなことをするのか」という謎に迫る。そして、人の愚かな行動には、特定の偏りをもたらす思考のゆがみがあることを示す。

たとえば、自分を過大評価し、他人を過小評価するバカ。

これには名前が付いていて、研究者の名前にちなんでダニング=クルーガー効果という(※1)。自分の能力の欠如を認識することができないことによって生じる認知バイアスになる。なるほど、バカがドヤ顔で自説を開陳するのは、このバイアスによるのかもしれぬ。

あるいは、「昔は良かった、今はダメ」と言い張るバカ。

これも研究(※2)がされており、人は歳を取るにつれ、嫌な思い出は記憶から薄れてゆき、良い思い出だけが残るようになっている。老いれば老いるほど、過去の良いところばかり思い出すのは、人一般の記憶の仕様なのだ。

なぜ世の中、バカが多いのか

さらに、世の中、バカばっかりに見えるにも理由がある。

私たち人間には、バカを探し当てるレーダーが備わっているという。ネガティブ・バイアス(※3)と呼ばれるもので、人は、ポジティブなものよりネガティブなものに目を向け、より重要だと考える傾向が備わっているという。世間でバカが目立つのでなく、私がバカを探しているからなのだ。

こんな感じで、バカについての本だと思って手にしたところ、実際は、行動経済学や心理学から、人の思考の癖を気づかされる。「バカとは、極端な認知バイアスに陥っている人」という結論に触れると同時に、私の中のバカが炙り出されてくる。

つまりこうだ、「世の中、バカばかりだ」と感じるのは、私のネガティブ・バイアスが原因だし、「最近バカが増えた」と考えるのは、昔のことを都合よく忘れているからだ。30年前だってバカは大勢いたが、今ほど可視化されていないだけなのかもしれぬ。「自分はあいつらと違う」と考えるのは、ダニング=クルーガー効果と言えるかもしれない。

なんのことはない、バカだと思っていた私自身が、バイアスまみれの思考に陥っていることが暴かれる。小学生のあれだ、「バカって言う人がバカなんですー」というやつ。バカなのは、私だったのだ。

人である限り、認知バイアスから完全に逃れることはできない。だが、それを自覚し、振り回されないようにすることはできる。バイアスというバカを抱えながら生きよう。

※1

Justin Kruger,David Dunning

Unskilled and Unaware of It: How Difficulties in Recognizing One's Own Incompetence Lead to Inflated Self-Assessments,2000

※2

Susan Turk Charles, Mara Mather, Laura L Carstensen

Aging and emotional memory: the forgettable nature of negative images for older adults,2003

※3

Negativity Bias, Negativity Dominance, and Contagion

Paul Rozin, Edward B. Royzman,2001

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全人類が共有できる歴史はありうるのか?『新しい世界史へ』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年11月1日


「歴史は勝ったほうが書く」のだから、いま主流の価値観や集団に焦点を当てるのが普通だと思ってた。各時代の支配層が、自らの正統性の証(あかし)を過去に求め、上書き保存してきたのが、歴史叙述だと考えてきた。

だから、本書で紹介される「新しい世界史」は、斬新で、困難だと考える。その一方で、この世界史を知りたい、と強く願う。

『新しい世界史へ』は、いわゆる「世界史まとめ」ではない。

よくあるWikipediaのコピペに「教養」というレッテルを貼った本でもない。そういう巷の「世界史」に隠されている先入観や意図を明るみに出し、改善策を示し、代案を提示する本だ。いうなれば、世界史を語るのではなく、「世界史の語り方」を考える一冊なのだ。

全人類に向けた世界史という、ある意味、ぶっ飛んだ構想を議論しているのは、羽田正氏である。比較歴史学の専門家で、東京大学の東洋文化研究所の所長のキャリアを持つ。著書も多数で、『輪切りで見える! パノラマ世界史』の著者だといえばピンとくるだろうか。

そして大真面目に、全人類のための歴史叙述の可能性を説く。

「日本における世界史」に共通するストーリー

書店に行くと、世界史を冠した様々な本が並んでいる。思想、疫病、戦争といったテーマで斬ったものから、何十巻と続くもの、(ムリヤリ?)一冊にした世界全史まで、色々ある。

一見するとバラエティ豊かだが、これらの世界史は、定番の世界史があることが前提だという。それは、「高校で学ぶ世界史=文部科学省の学習指導要領に準拠した教科書」の枠組みを共有しているというのだ。

その枠組みとは、ヨーロッパを中心とした歴史観だ。

本書の序盤で、学習指導要領を年代順に読み解いてゆく。そこで、西洋の扱い方や記述量を比較しながら、教科書の世界史観を振り返る。そして、全体としてはヨーロッパ中心史観が大きく影響している、と結論付ける。

  1. 世界は異なる複数地域から構成されており、異なる歴史をもっていた
  2. ヨーロッパ文明世界とそこから生まれた諸国家が優位に立ち、実質的に世界史を動かし、世界の一体化が進んだ

つまり、「バラバラだった世界が、欧米が主導して一体化してきた」というストーリーになる。

高校世界史の語り方も、この流れを踏襲する。複数の文明世界や国家の歴史を時系列に沿ってまとめ、それぞれの束として理解される。そして、その束どうしの交流は、現代に近づくほど密接となる、という流れだ。

そして、「異なる地域や国から成る世界を、欧米が主導している」という世界の見方と呼応しているという。著者曰く、「世界の見方と世界史の理解が表裏一体となって、私たちの世界認識を強く規定している」のだ。

ここで言う「ヨーロッパ」は、特殊なものとなる。

それは、ユーラシア大陸の西端に位置する地域ではなく、概念としてのヨーロッパだという。ルネッサンスで古代文明の叡智を「再発見」し、大航海時代で世界を広げ、科学技術を発展させ、自由・平等・民主主義を「発明」し、政治や経済を改革するサクセスストーリー、いわば勝者の世界史なのだ。

「世界史」という名のフランス史

世界史の大筋はすでに定まっており、確定した知識として高校で学習する―――この常識に、著者は疑問を投げかける。

そして、私たちが当たり前のように思っている世界史の理解が、決して絶対ではないことを、さまざまな事例で伝える。

たとえば、フランスやの高等教育における世界史が紹介される。

そこでは、アジアなど「非ヨーロッパ」地域の過去は、ほとんど教えられない。ただし例外があり、植民地など、自国の歴史と直接関係がある場合は、その部分において語られる。これはフランスに限らず、イギリスにとってのインド、オランダにとってのインドネシアは、重要なトピックとして扱われる。

つまり、「世界史=フランス史+関連地域のトピック」という構図になる。この見方で教育を受けた人々と、世界史についての共通認識を得るのは、困難かもしれぬ。

「中華は統一されている」というstory(≠history)

これに抗うような、中国の歴史の教科書が興味深い。

そこでは、中華が世界の中心になる。漢や唐などの王朝国家が成立すれば、それは統一の時代であり、それ以外は分裂の時代だとみなされる。この見方の前提には、はじめから広大な中国大陸は統一されているはず、という価値判断が入っている。

さらに、「漢民族」という人間集団がはるか昔から存在し、中国史は漢民族の歴史として展開してきたという前提があるという。その結果、モンゴル人の建てた元や満州人が中心となってできた清は、「征服王朝」と捉えられる。

近代中国の姿を過去に投影し、「中華」や「漢民族」は過去においても成立していたと考えると、こんなストーリーになる。

交通や通信の手段が限られている中で、あれほど広大な領土が政治的に統一されているとするほうが特殊だと思うのだが、ともあれ、そういうストーリーでないと、現在の体制と合わなくなってしまう。

このように、現在の体制から自国と他国を分け、程度の差こそあれ、自国を中心に据えて歴史を語る。

地球人のための世界史

著者は、この現状に異を唱え、揺さぶりをかける。

日本の歴史、フランスの歴史、中国の歴史など、国民ごとの歴史では不十分だと考える。

世界全体で、経済が一体化し、文化や価値観にも共通点がある。それにもかかわらず、国民国家の観点から共同体への帰属意識を強調し、その利害を第一に考えさせる「世界史」では、地球規模の問題に取り組めないとする。

帰属意識の先を、国家から地球に拡張する、地球市民が共有する知識の基盤―――そんな世界史が必要だという。いうなれば、日本でもフランスでも中国でも用いられる世界史だ。

新しい世界史は、「自国/自国以外」を強調しない。さらに、ウォーラーステインのように中心となる地域を定め、「中心/周辺」のような構造化もしない。

その代わりに、共通点や関連性を重視し、世界中の人々がこれが自分たちの過去だと思える―――そんなつながりを自覚できるような歴史を目指すという。

冗談かよ、とツッコミを入れたくなる。地球規模どころか、とある二国間ですら歴史認識問題が喧しいのに、そんなことが可能なのか!? と耳を疑う。

だが、著者は真面目だ。

大真面目に、「地球人のための世界史」の様々な可能性を語る。

新しい世界史の方向性

可能性の一つの方向が、グローバル・ヒストリーだという。

ヨーロッパ世界を相対化し、あつかう時間を巨視的に眺め、対象テーマと空間を地球規模で採り、異なる地域間の相互影響を重視する歴史だ。

例えば、ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』だ。これは、「現在の富がなぜ偏在しているか」という疑問に答えるため、地球の初期設定から語りなおした世界史になる。これまでの歴史研究の中心である政治・経済・社会・文化史の常識を変えてくる。

あるいは、あるモノや概念に注目して、それを通じて世界の人々の活動や生活のつながりを描き出したものとして、川北稔『砂糖の世界史』が紹介される。このブログで紹介してきたものだと、胡椒疫病戦争土木不潔工学テクノロジー情報など、様々なテーマがある。

さらに、国民国家や国境を自明とする枠組みから離れる試みとして、海洋世界史がある。海とその周辺の陸地を一体のものと捉え、その空間内での人・モノ・情報の動きの関連性をダイナミックに描く。本書では、ブローデル『地中海』を紹介している。

ただし、著者は全面的に賛成しない。

グローバルな語り方をしているが、その前提としてヨーロッパ中心史観に基づいた歴史解釈を保持している場合があるという。グローバル・ヒストリーのように見えるが、実際は、「ヨーロッパ」と「非ヨーロッパ」の二項対立に落とし込むものも少なくないという。

では、どうすれば「新しい世界史」を語ることになるのか? 理想ではなく具体的に描こうとすると、どのような形になるのか。

世界の見取り図

ひとつの試案として、「見取り図」を提示する。

何の見取り図か? それは、価値についての見取り図だという。

そして、現代社会において、地球市民として持つべき価値として、兼原信克『戦略外交原論』(2011、日本経済新聞出版)を参考しながら、以下を例示する。

  • 法の支配
  • 人間の尊厳
  • 民主主義の諸制度
  • 国家間暴力の否定
  • 勤労と自由市場

上記を基準にして、見取り図を作ろうというのだ。

ちょっと待って。

「民主主義」や「自由市場」というのは、欧米が生み出した価値観じゃないの? 前者は古代ギリシャまでさかのぼるし、後者は近代ヨーロッパが生み出したものじゃないの?

そうじゃない、と著者は反論する。これらの価値は、全てヨーロッパが生み出したとされ、非ヨーロッパと区別される。だが、その見方自体が、ヨーロッパ中心の見方なのだという。

世界各地を振り返ると、用いられている言葉こそ違えど、これらの価値とほぼ同じ内容を持つ概念は考え出され、実現されてきたという。そうした価値が、それぞれの地域で、どのように扱われてきたのかを並べることで、世界の見取り図が作れるという。

「新しい世界史」の例

例えば、著者は、17世紀後半を概観する。

  • 綱吉治下の徳川政権
  • 粛宗治下の朝鮮王国
  • 康熙帝の清朝
  • ガルダン・ハーンのジュンガル・ハーン国
  • ナライ王のアユタヤ朝
  • アウラングゼーブ下のムガル朝
  • ソレイマーン時代のサファヴィー朝
  • メフメト四世のオスマン朝
  • ピョートル一世のロシア
  • レオポルド一世の神聖ローマ帝国
  • オランダ共和国
  • ルイ14世のフランス王国
  • 名誉革命直後のイングランド王国
  • カルロス二世のスペイン

上記に加え、アルメニア系、ユダヤ系、華人系等ユーラシアに散在するディアスポラ的な人間集団、南北アメリカの植民地と先住民の社会、アフリカやオセアニア各地のように強力な政治権力が存在しなかったとされる地域における人間集団に目を向ける。

それぞれの人間集団に焦点を当て、その社会秩序と政治体制がどのように維持されていたのか、正統性はどう保障されていたのか、社会における男女の役割は区別があったか、宗教と社会秩序との関連性はどうなのか……という観点から描きなおせという。

そうすることで、それぞれの人間集団がどのように異なり、どこが共通していたかが明らかになるという。そして、17世紀後半の世界における人間社会全体の特徴的な姿が明らかになるというのだ。

それぞれの人間集団で、上記に挙げた価値がどのように扱われていたかに着目し、人間集団の類型化を図ることを提案する。どんな共通的な特徴を持った人間集団が、どのように分布して、どんな関係を作っていたかを述べていくことで、全体を鳥瞰的に示す見取り図になるというのだ。

これは、「ヨーロッパ/非ヨーロッパ」の単純構造ではなく、かなり複雑な図面になるだろう。また、年代に沿って通時的に描ける代物ではない。数十年程度の単位でスライスした、厚みのある世界のスナップショットになる。

イメージ的には、世界史の資料集にある、「ある時代における世界全体の様子」の解像度を凄まじく上げた図になる。

例えば『世界史図説 タペストリー』の特集「世界全図でみる世界史」に書き込みをしまくると出来上がる感じかなぁ……あるいは、各時代ごとに人類社会全体を見わたし、つながりと交流をイラストで描いた『輪切りで見える!パノラマ世界史』の高解像度版になるのだろうか。

見取り「図」という言葉にすると、パノラマの「絵」のようなものを思い浮かべてしまうが、これはVR(仮想現実)と相性が良いかもしれない。全体像を俯瞰して、知りたいところへズームしていくと、その地域の解像度が上ってゆき、その中での人間集団の営みが見えてくる仕組みだ。その営みの一つ一つに、他の地域とのつながりの線がオーバーレイされるようなもの(UIは、ゲームのシヴィライゼーションが近い)。

グローバル・ヒストリー共同研究拠点の構築

歴史認識の共有は、隣国でも(だからこそ?)難しい。だが、価値の共有なら、まだやりやすいかもしれぬ。これは、歴史叙述者が、いったん自国や自文化から脱け出た上で書く必要がある。それは、かなり難しいだろう。

しかし、新しい世界史は、間違いなく面白いものになるだろう。それを読むことで、価値があるとされる概念が、どのように世界の様々な地域で共有され、受け継がれてきたかが明白になるに違いない。そして地球という共同体に生きる一人だと認識できるものになるだろう。

この構想は、2014年から「グローバル・ヒストリー共同研究拠点の構築」で実行されている。東京大学、プリンストン大学、フランスの社会科学高等研究院、ベルリン・フンボルト大学と連携し、新しい世界史認識を生み出す挑戦的なプロジェクトだ。日本学術振興会から支援を受け、現在進行形で進められている。

 

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「世界文学」の日本代表が夏目漱石ではなく樋口一葉である理由

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年11月8日


世界文学全集を編むなら、日本代表は誰になる?

漱石? 春樹? 今なら葉子?

審査は、世界選手権の予選のようになるのだろうか。投票で一定の評価を得た著者なり作品が、トーナメントを勝ち抜いて、これぞ日本代表としてエントリーするのだろうか。

スポーツならいざ知らず、残念ながら、文学だと違う。春樹や葉子ならまだしも、夏目漱石は予選落ちである。

なぜか?

『「世界文学」はつくられる』に、その理由がある。近代日本語の礎を築いたことで誉れ高い漱石でも、世界的に見た場合、西洋文学のコピーとして低く評価されているという。

「世界文学」での漱石

『坊ちゃん』『猫』が有名だし、教科書で『こころ』を読んだ人もいるだろう。何と言っても千円札の顔だから、諭吉よりは見慣れている。やたら有難がる人もいるのは、ザイアンス単純接触効果じゃね? と思うのだが、彼の造語とされる「沢山」「反射」「価値」「電力」は、人口に膾炙している(※1)。

ところがこれは、日本の話。海外に行くと、知名度は下がる。

たとえば、米国の大学生が学ぶ『海外文学アンソロジー』がある。古今東西の古典から近現代の作品を取り上げ、体系的にリベラルアーツを教授するために構成されたアンソロジーだ。出版社ごとに趣向を凝らし、日本人作家も多数取り上げられている(カッコ内は近現代の日本人作家の登場回数)(※2)。

樋口一葉(7)
川端康成(6)
谷崎潤一郎(4)
与謝野晶子(3)
芥川龍之介(3)
村上春樹(3)
三島由紀夫(2)
大江健三郎(2)

漱石は0である。漱石に限らず、尾崎紅葉や二葉亭四迷など、明治の文豪は軒並み苦戦しており、鷗外はかろうじて1回収録されているのみになる。どうやら米国では、漱石はマイナーどころか無名に近い。

対照的に、樋口一葉は『たけくらべ』『わかれ道』など、数多く収録されている。ノーベル文学賞という理由で川端康成が入るのは分かるが、彼を除くと、ぶっちぎり日本代表と言っていい。なぜか?

その手がかりは、『世界文学アンソロジー』の解説にある。

そこでは、漱石や鷗外といった明治期の文学者について、辛辣な評になる。フローベールやゾラ、ツルゲーネフといった同時代の西洋のリアリストを盲目的に(slavishly)真似た、と斬っている(※3)。

一方、一葉は、西洋文学の影響を受けなかったと言われている。一葉自身が英語を解さず、日本独自のリアリズムを発達させたとして、高く評価されているのだ(※4)。

この感覚は、わたしと異なる。

たしかに、一葉は優れた文学作品を残した。だが、日本文学に与えた影響から考えると、漱石が遥かに大きいだろう。『草枕』や『猫』の冒頭は、そのまま日本を代表する文章になるし、短編なら『夢十夜』がアンソロジー向けになる。

なぜ、一葉が評価され、漱石は無名なのか。

樋口一葉が日本代表の理由

それは、「世界文学」の文脈にある。この言葉が、どのような意図で使用されているかに着目すると、見えてくる。

『海外文学アンソロジー』を用いるのは、北米の大学で教鞭を取る英文科の教員になる。主要顧客である彼らの目的は、自分たちのアメリカ文学が、いかに西洋の歴史と不可分かを教えることになる(∵英文科の飯の種であり存在理由そのもの)。

それゆえ、収録される作品は、聖書から始まりホメロス等のギリシャ・ローマの古典、中世、ルネサンス、西洋の有名作品が紹介されてゆく。あたかも世界史の史料を拡張したかのような構成になる。この時点で、かなりのボリュームになる。

これに多様性を加える必要がある。いわゆるカノン(正典)としての世界文学では、「ヨーロッパ」「古典」「白人男性作家」が多数を占める。バランスを取るために、「非ヨーロッパ」「女性作家」「マイノリティ」を選ぶ必要が出てくる(しかも限られたページで)。

こうした、「米国大学の教員にとっての世界文学」という文脈で考えると、樋口一葉がくり返し採択される理由が見えてくる。

まず一葉は、女性作家である。それだけでなく、近代日本(おそらく東アジアでも)最初期の職業的女性作家として挙げられる。次に、作品の短く、紙面が限られたアンソロジーに適しているといえる。

さらに、教員向けの解説ページを見ると明らかになる。

『海外文学アンソロジー』は、作品を収録しているだけでなく、それらをどう比較して読むか、生徒に対し何に注意を向けさせるかといったポイントも解説されている(日本で言うなら、教師向けの「赤本」やね)。

そこにおいて、一葉の『十三夜』は、スタントン&モットの『感情宣言』と比較して読まされる。『十三夜』は、子どものために離縁を思いとどまる母を描いた作品で、『感情宣言』は離婚時に母親に親権を与える話だ。両者をフェミニズム的枠組みの中で解釈することが、授業の目的となる。

「世界文学」の恣意性

シェイクスピアやダンテといったヨーロッパ文学の中核ともいうべき男性作家を締め出すことはできない。

さらに、ポーやメルヴィルといったアメリカ文学の伝統を作り上げた男性作家も入れなければならない。

その上で、全体の頁数を増やすこともなく、多様性や平等を実現しようとすると、どうしてもどこかで調整が必要となってくる。

世界文学アンソロジーを編むことは、あやういバランスの上になりたっている。日本代表を決めるのは、日本における評価や審査だけでなく、日本を外から眺めるとき、眺めたい方向に沿った形であることも、ポイントとなるのだ。

世界文学(World literature)という言葉は曲者だ。

世界陸上とか、ワールドカップといった、グローバルで評価されるニュアンスと、「世界文学全集」という出版物がつくりあげた正統性やカノンといった響きが発動する。

こうしたイメージが、「つくられたもの」であることを、本書は実証的に解き明かす。ゲーテから始まる「世界文学」の歴史を辿りながら、そこに潜むイデオロギーや恣意性を暴いた一冊。

※1:https://ja.wikipedia.org/wiki/夏目漱石
※2:『「世界文学」はつくられる』秋草俊一郎著、東京大学出版会、2020、p.315
※3:Davis,et al. “The Bedford Anthology of World Literature, vol. E, p.1076
※4:Martin Puchner, et al. “The Norton Anthology of World Literature, vol F 3rd edition, New York: 2012. p.xix.

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オデュッセイアを読むと何が起きるのか具体的に述べる

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年11月15日


100年前、米国で刊行された世界文学全集で、「モテるための古典」「1日15分であなたも教養人に!」と謳っている(※1)。

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「人生を豊かにする教養」とか「必読の名著」といった教養を売り物にする本があるが、びっくりすほど何にもない。

書店でパラ見してみるがいい。どこからか引き写した簡単なまとめだけで、その名著とやらを読んで、本人の何がどう変わったのか、ほとんど書いていないから。せいぜい、アイスブレイクのネタになったとか、「多面的な視点」みたいなふわっとした言い回しが関の山だ。

『オデュッセイア』を読んで起きたこと

ここでは、反例として、わたしが古典を読んで、何がどう変わったかを述べる。できるだけ具体的に、ホメロス『オデュッセイア』を読んで起きたことを書く。

英雄オデュッセウスが故郷に帰る冒険譚で、行く手を阻む怪物や魔法使いを、知恵と勇気と女神様で乗り切る。ラストの、ライバルたちとの対決は、虐殺と言ってもいいほど一方的&圧倒的で、ドーパミンが出まくった。

この物語から切り出して、様々なエピソードやトピックが生まれている。翻案したり置換することで、元の話とは似ても似つかぬ、でも既視感のあるストーリーができあがる。

たとえば、『千と千尋の神隠し』で父母が豚になるところなんて、キルケ―の魔法を思い起こす。千尋(オデュッセウス)が豚になるのを免れたのは、あるものを食べなかったからだ。もちろん、『オデュッセイア』のエピソードがそのまま使われているわけではない。他の、様々な物語を介して伝播していったと想像すると、面白い。

あるいは、怪物に捕らえられたとき、自分の名前を「誰でもない」と告げるトンチ。オデュッセウスは怪物の眼を潰し脱出を図る。その一方で、怪物の仲間が「誰にやられた?」と尋ねても、「誰でもない」と返事する―――このネタ、まんが日本昔話で聞き覚えがあるほか、様々な場所で使われるだろう。

オデュッセイア=進研ゼミ

そして、ラストの1対多のバトル。

戦いの女神アテナの加護のもと、オデュッセウスは無双となる。俺の嫁に手を出す奴は絶対に殺すマンと化して、大勢の敵を、一射一殺の勢いで殺戮してゆく(読んでいるときは全身の毛穴が総毛立ち、マリオの無敵音楽が脳内をずーっと流れてた)。直前まで、自分の正体を隠し、プレッシャーがすごかったので解放感がハンパない。

このアドレナリン感覚は、スタローン主演の映画『ランボー/怒りの脱出』やスティーヴン・ハンターの小説『極大射程』の無双と酷似している。映画を観たのも小説を読んだのも、ずっと前だったのだが、『オデュッセイア』を読んだ途端、「あのときのアレはコレだったのか!」と完膚なきまで腑に落ちた。

そして、映画やゲームや小説で無双シーンに出会うと、『オデュッセイア』を思い出すことになる。要するに「これ進研ゼミでやった」状態になるのだ(『魔法少女まどか☆まどか』の覚醒まどかがそれだった)。オデュッセウスは無双の元祖、彼を観察することで、未来の作品のタネが見つかるだろう。ずっと正体を隠してきてラストで無双するところなんて、なろう系の元祖と言ってもいいかも。

では、こうした物語を楽しむ/作るエピソードを見つけることが、古典のメリットなのかというと、それだけではない。人間の仕様を理解する手がかりとしても使える。

オデュッセイアで人の仕様を理解する

読書猿『独学大全』によると、ヒトの意志は環境や状況に左右されやすい。強い意志を持っていても、周りの状況により変わってしまう。ヒトは、意志や理性の産物というよりもむしろ、それまでの自分を取り巻いてきた環境の産物だというのだ。

だから、意志を変えないように努めるよりも、むしろ、意志が変わっても努力が続くよう、自分の外側に理性をデザインせよと説く。その例として、「オデュッセウスの鎖」(※2)が登場する。

Draper-Ulysses and Sirens

Herbert James Draper, Public domain, via Wikimedia Commons

オデュッセウスの鎖とは、オデュッセウス自身が自らを縛れと部下に命じた鎖だ。なぜ自分を鎖で縛るのか? それは、セイレーンの歌声を聞きたいからである。彼女らの美声に惑わされ、船を岩に激突させた挙句、命を落とす船乗りは数多くいた。だからオデュッセウスは自分を縛らせ、耳栓をした部下に船を漕がせたのだ。

セイレーンの島に近づき、美しい歌声が聞こえてくると、オデュッセウスは鎖を解くよう叫び、身悶えした。だが部下たちは何も聞こえず、命じられたとおりに船を漕ぎ続け、海域を脱出することになる。

オデュッセウスは自らの意志を信じていなかった。だから自らを鎖で縛らせることで、意志の変化を乗り越えたといえる。読書猿は、このオデュッセウスの鎖を応用して、「コミットメントレター」「ゲートキーパー」という技法を編み出している。

オデュッセウスの鎖は、ヒトは環境の動物だということを思い知らせてくれる。大前研一はこれを逆手に取って、こうアドバイスする。

  人が変わる方法は、3つしかない。
  1つは、時間配分を変える。
  2つめは、住む場所を変える。
  3つめは、付き合う人を変える。

このアドバイスには続きがあって、人が変わる方法の中で、最も無意味なのは、「決意を新たにする」というやつだそうな。自分の意志という鎖がいかにアテにならないかは、わたしが一番よく分かっている。

オデュッセイアのリアリズム

『オデュッセイア』をリアリズムの道具として読むこともできる。

アウエルバッハ『ミメーシス』が好例だ。ヨーロッパ文学のテクストを比較しながら、現実がどのように描写されているかを分析する。『オデュッセイア』のリアリズムは、旧約聖書と比べて紹介されている。

描写に奥行きがなく、照明はくまなく当たっており、人物は心の裡を余すことなく語り尽くす『オデュッセイア』と、光と影が際立ち、暗示に満ちた表現や多様な意味の解釈を求める旧約を並べると、確かに対照的である。

『オデュッセイア』のフラットな書き方だと、読み手(観客)に秘密にされるものがない。時間は常に現在に焦点があたり、「語られたもの=現実の全て」で完結している。感覚的実在の快楽が全てであり、それを如実に伝えることが文学の目的だとされている(※3)。

ホメロスから数千年、わたしたちが普通の小説を安心して読めるのは、全てが隈なく説明される(はず)という確信があるからだろう。

あるいは、演劇の傍白を遡ると、オデュッセイアに至るだろう。傍白は、相手には聞こえないことにして、観客にだけ心中を明かすセリフだ。これが成り立つのは、舞台の上が現実の全てだという暗黙の了解があるから。

もちろん、これをフェイクにひっくり返すやり方もあるし、前提を裏切る叙述トリックだってある。だが、そうした手法が出来たのは、オデュッセイアのリアリズムがあったからといえる。

オデュッセイアは一冊ではない

このように、『オデュッセイア』について語ろうとすると、様々な経験や技法、教訓や素材、そして注釈が、次々と積み重ねられることになる。

たとえ、オデュッセウスの冒険物語のダイジェストに閉じて語ろうとしても、『オデュッセイア』に言及する様々な作品や注釈が、それを許さない。『オデュッセイア』は、決して、一冊だけでは成立しないのだ(岩波赤で言うなら、上下巻だけでは成立しない)。

読書猿『独学大全』では、もっとシンプルに、「古典とは、多くの注釈書が書かれてきた書物のこと」(※4)と述べている。元の古典テキストに加えて、積み重ねられてきた読み方もすら注釈書として残っているものが、古典になるというのだ。

これまでの様々な読みに加え、それまでの自分の経験が呼び覚まされる。そして、(創る方であれ、受け取る方であれ)未来の作品に向かい合う知恵を手にする。ホメロス『オデュッセイア』を読むということは、そういう経験だった。

※1 『「世界文学」はつくられる』秋草 俊一郎、東京大学出版会、p.68
※2 『独学大全』読書猿、ダイヤモンド社、p.176
※3 『ミメーシス』アウエルバッハ、筑摩書房、上巻p.17
※4 『独学大全』読書猿、ダイヤモンド社、p.280

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自分の死に方は自分で選ぼうと思っている『自殺学入門』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年11月22日


問題:自殺のリスクが大きいのは、AとBのどちらか?

A B
未婚、離別、死別 既婚
内向的 外交的
無職、収入無し 有職、収入あり

容易に想像がつくが、『自殺学入門』によると、結婚して収入のある女性よりも、無職で離婚した男性の方が、より自殺率が高いという。

さらに、

  • 太平洋・瀬戸内海沿岸よりも、日本海側
  • 平野部よりも、山間部
  • 日照時間が短く、積雪が多い地域

の方が、自殺率が高くなるという。注意すべきは因果ではなく相関の関係にある点だ。山間部で積雪が多い地域だと、他者の支援や病院に行く必要があっても、そのコストが大きいだろうし、人口が少ないことから、福祉などの社会資源に乏しいことは明白だ。

また、パートナーと別れる場合の自殺リスクも、男女で差が出てくる。離婚であれ死別であれ、配偶者を失ってより大きなダメージを受け、自殺リスクになるのは男だというのだ。

一方で、自殺未遂は圧倒的に女が多いという。これは、男の方が、自分の身体にダメージを与える能力が高いというのと、男の方がためらわず、より致死的な方法を選ぶ傾向にあるからだという。

どんな人が、何をきっかけとして、どういった方法で、自殺を試み、どれくらい上手くいくのか―――『自殺学入門』は、容赦なく分析してゆく。

そもそも自殺は「悪い」のか

自殺に関する書籍はたくさんあるが、本書はかなり変わっている。

ふつうは、精神科医が執筆し、ヒューマニティの立場から自殺を予防し、早期に気づいてケアすることを目的とした、「温かい」自殺学になる。「死にたい」と悩む人や、その周囲の人の心に寄り添うような書きっぷりだ。

だが、本書は、心理学者である著者自身が、「冷たい」自殺学だと述べている。

「そもそも自殺は予防すべきか?」「自殺は『悪い』ことなのか?」という出発点から、科学的な知見のみならず、宗教や文化的背景も交えて考察する。

さらに、経済的価値から自殺予防の費用対効果を見積もる。「死にたい」と言っている人を死なせないために、いくらなら払える? という発想は、類書にはないものだろう。

自殺対策コスト300億、メリット260億

年間自殺者3万人を超えたこともある自殺大国ニッポン。2006年に自殺対択基本法が制定され、国や地方自治体は自殺対策の責務があり、年間100~300億円の予算が組まれている。

こうした予算は、JRなど鉄道のホームドアの設置やアルコール依存症への対策に使われ、本来であれば自殺していた人たちを助けてきたといえるだろう。

では、こうした対策の経済的価値はどれほどになるか?

国立社会保障・人口問題研究所の試算によると、単年ベースで2兆7,000億円という莫大なものになる(GDP引き上げ効果は1兆7,000億円)(※1)。これは、ある年の自殺志願者が全員死なず、働ける間は働き続けた場合の生涯所得の現在価値(期待値)がこの額になるというのだ。コストが300億で、2兆7,000億の便益なら、充分以上の投資だろう。

著者はこれに疑義を投げる。

自殺リスクを抱える人が全員、自殺を思い留まるというのは無理があるのでは、と指摘する。また、うつ病を患っている人が自殺を思い留まった後、バリバリ働いて年収を稼ぐという前提に問題があるという。

これに加え、自殺が行われることによる便益が考慮されていないという。自殺したことで、その人にかかる医療費、社会保障等の費用はゼロになる。自殺の経済的効果は、こうしたコストを見積もる必要があるというのだ(※2)。

こうした観点から試算を見直すと、得られる便益は200~260億円になるという。投資効果は非常に大きいとは言えないだろう。

「死にたい」と言える文化

宗教や文化の観点からの考察も興味深い。

切腹や輪廻転生など、日本人は自殺に許容的だと言われている。日本文化と自殺の親和性は、日本語の語彙にある、といった研究もあるくらいだ(※3)。「花と散る」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉には、死を選ぶ(選べる)文化があると言える。

こうした文化は、SNSでの「死にたい」という告白や、自殺を後押しすると批判されがちだが、著者は、否定的にとらえるべきではないという。

例えば、ヨーロッパ圏では、自殺者の大部分(9割以上)は、精神障碍の診断がつく、とされている(アジア圏では6割)。

これは、ヨーロッパ中世における「狂気(非理性)」の考えが背景にあるという。キリスト教の影響下、自殺を禁止する意識の強い文化圏においては、自殺を非難されないため、「自殺者=精神障碍者」である必要がある、という仮説だ。

イスラム文化圏では、もっと顕著になる。イスラム教徒が多い地域では、自殺率が極端に低くなる。コーランやハディースで自殺が禁止されている上に、自殺が法的な罰の対象となる国もあるからだ。

こうした文化圏では、人々は自殺をしないのかというと、違うという。不慮か故意か決定されない外因死が多いと指摘する。また、刑罰を免れるため、自殺が曖昧な形で処理される例もある。こうした文化では、「死にたい」という告白は、より一層重くなるだろう。

確かに、日本は自殺許容的かもしれない。だが、死にたくなったときに、「死にたい」と言えるような環境は、そうした人たちを見出し、ケアしやすいとも言える。

死にたいのに、「死にたい」と言えない(言いにくい)文化や、自殺したのに自殺とカウントされない国々より、自殺対策の整備がしやすいという。

メディアの問題

自殺対策としては、メディアの扱い方に重点を置いている。

「他人の不幸は蜜の味」「シャーデンフロイデ」「メシウマ」など、自分よりも不幸な人を見ることで、人は優越感に浸ったり、安心感を得ることができる。そのため、自殺はニュースバリューがあり、有名人であるほど、価値が出ることになる。

本書では、江戸時代の曾根崎心中、ゲーテの小説から社会現象となった「ウェルテル効果」、さらにはアイドルの上原美優(2011)、岡田有希子(1986)の自殺をメディアがどのように扱ったかを分析している。

同年代の若者たちが、同じ方法で自殺したことについて、テレビや新聞などのメディアの影響は大きいという(確かFRIDAYだったはずだが、岡田有希子の写真が衝撃的だったことを覚えている)。

さらに、2000年代の前半は七輪での練炭、後半では硫化水素による自殺が多くあった。特にピーク時の2008年には、年間1000人が硫化水素で自殺したとある。これは、ネット心中を報道したテレビの影響が大きいという。

2008年に内閣府が呼びかけ、警視庁による関連報道の削除要請があり、現在では沈静化している(Googleトレンドでも2008年がピーク)。こうした流れを受けて、厚生省ではメディア関係者に対し、自殺報道のガイドラインを示している(※4)。

  • 自殺の報道記事を目立つように配置しないこと。また報道を過度に繰り返さないこと
  • 自殺をセンセーショナルに表現する言葉、よくある普通のこととみなす言葉を使わないこと、自殺を前向きな問題解決策の一つであるかのように紹介しないこと
  • 自殺に用いた手段について明確に表現しないこと
  • 自殺が発生した現場や場所の詳細を伝えないこと
  • センセーショナルな見出しを使わないこと
  • 写真、ビデオ映像、デジタルメディアへのリンクなどは用いないこと

死に向かいあって生きる

本書は、いわゆる自殺防止やケアについての本ではない。

むしろ、「自殺学」を総合的に目指したものだといえる。そのため、「死にたい」と思い悩んでいる人には向いていない。もちろん、自殺対策についても書かれているが、「自殺=絶対悪」という見方ではない。

人はいずれ死ぬ。

その死に方が選べないかと検討している。その上では、本書は非常に有効だった。今すぐ、というわけじゃないが、いつにするか、どうやってするかは自分で決めて、準備しておくつもりだ。

言い換えるなら、それが決められないような死に方はしたくない。

生き方は、ある程度、選んできた(選べてこれた)。もちろん不本意なものもあるが、努力と運となりゆきで、ここまで生きてきた。生き方を自由に選べないように、死に方を完全には選べないはずだ。だが、その不自由さの中で生き方を選んできたように、時間をかけて、死を準備していく。

※1 自殺・うつ対策の経済的便益(自殺やうつによる社会的損失)[URL]
※2 Recalculating the Economic Cost of Suicide [URL]
※3 『日本人の自殺』スチュワート・ピッケン、サイマル出版会、1979
※4  厚生労働省:メディア関係者の方へ [URL]

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ぐっと胸が温まる「レイモンド・カーヴァー傑作選(Carver's Dozen)」

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2011年11月13日


 

村上春樹と池澤夏樹に感謝。

 優れた小説家の仕事は、小説を書くだけでは不十分で、他の作品を紹介することにある。優れた書き手は、優れた読み手でもあるから。池澤夏樹の小説はもう読まないが、彼が選んだ「世界文学全集」は鉱脈を見つける助けになった。村上春樹の小説はもう読まないが、彼が訳したレイモンド・カーヴァーのこの短篇集は素晴らしい。

 出会いは、池澤夏樹が「短篇コレクションI」に入れた「ささやかだけど、役に立つこと」。これはグッとくる、というか涙した。これほど平易な言葉で、これほど深いところまで届くのか、と驚きながら湧いてくる気持ちに感情を委ねた。

 乾いた文体でレポートされたような"悲劇"。感情を具体的な語で指さず、淡々と行動で記録してゆき、ラストの最後の、「ささやかだけど、役にたつこと」のところで綿密に描写する。そのワンシーンだけが読後ずっと後を引くという仕掛け。これは狙って書いて、狙って訳している。レイモンド・カーヴァーと村上春樹、神業なり。

 この、翻訳者としての村上春樹つながりで、「Carver's Dozen」にたどりつく。もちろん、本書に収められた「ささやかだけど、役に立つこと」もあらためて読んだ。夏樹選のバージョンよりも文章が膨らんでいるように見えるが、気のせいか。

 そして春樹選のレイモンド・カーヴァーを読む。選者自身が「マスターピース」と言い切るだけあって、どれもこれも素晴らしい。あんまり勉強ライクに分析するのは避けたいが、技巧の旨さに舌を巻く。小物やエピソードの一つ一つをとりあげ、必要な細部を拡大しながら、かつ、修飾を捨てて書いている。クローズアップやフラッシュバックのテクニックが控えめ(しかし)要となっている。

 紹介者としてのハルキ節も良い。いかにも彼の小説の登場人物が言いそうなもったいぶった言い回しでオススメされるとクラっとくる。修飾子のリズムが心地よく、本編読了後にまた戻って読み直してしまう。このレコメンドの風合いはわたしの薬籠にしたい。

しかし話はこの「困ったぷり」を描くいつものカーヴァレスクなトラジディコメディーにはとどまらない。ふとしたきっかけで、物語の流れは二人の「赤の他人」のあいだに生じる奇跡的な魂の融合のようなものへと突き進んでいく(「大聖堂」の紹介)
幸せな人間は一人も出てこない。だからまったくもって明るい話ではないのだけれど、どういうわけか読み終わったときにじわっと胸が温まる思いがする(「ぼくが電話をかけている場所」の紹介)

 わたしの胸をつかんだのは、以下の3つ。構成、描写、そして物語として傑作の類に入る。

 ・ささやかだけど、役にたつこと
 ・大聖堂
 ・足もとに流れる深い川

 カーヴァーを読むと、きっと胸がじわっとくる。そろそろ、この現象に名前をつけるべき。寒い夜にはカーヴァーをどうぞ。

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物語を作る側の視点から『ズートピア』の面白さ、怖さ、凄さを語り尽くす

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年12月12日


物語に夢中になったことはないだろうか?

小説やマンガ、ゲーム、映画や舞台など、素晴らしい作品に出会ったとき、あまりの面白さに、あっという間に時が過ぎる。お話が終わり、我に返った後、あらためて、なぜそれを面白いと思ったのかは、気にならないだろうか。

  • その物語の「面白さ」はどこから来たのか
  • なぜ、自分が、そこを「面白い」と感じたのか
  • その「面白さ」は一般化/再現できるのか

こうしたテーマを視野に入れ、古今東西の「面白い」作品について語り合う。これはという作品を取り上げ、物語を作る人、楽しむ人、広める人など、様々な視点から「面白い」について語り合うオンライン会だ。

「物語の探求」読書会(ネオ高等遊民サークル

今回の課題作は、『ズートピア』。2016年に公開されたディズニーのアニメーションで、アニー賞やアカデミー賞を受賞しており、かなり話題になった作品だ。ご覧になった方も多いと思う。

注意:『ズートピア』と『トイ・ストーリー4』のネタバレあり


目次

  1. ストーリーは、たったの100分
  2. キツネ避けスプレー=内なる差別意識
  3. 【重要】ジュディとニックは可愛い
  4. 人間っぽくさせない動物で人間社会をやる
  5. 没となったディストピアな『ズートピア』
  6. 『トイ・ストーリー4』の本質=「〇の〇離れ」
  7. なぜベルウェザー副市長は陰謀を企んだか
  8. 『ズートピア』を現実社会の写し鏡にしなかったわけ
  9. 『ズートピア2』はトイ・ストーリー型かアナ雪型か
  10. 勇気を持って、マンネリ化
  11. 自分では気づかない自分自身の良さ、「成長感」
  12. ズートピアの普遍性は「可愛い」と「笑い」
  13. 禁断の技:ボイスレコーダー

スケザネ:物語の探求第2回、課題作はディズニー映画『ズートピア』ですね。よろしくお願いします。

他3名:よろしくお願いします!

スケザネ:早速Dainさんがご用意いただいたドキュメントの説明から、お願いします。

Dain:まず、「ズートピア・メモ」を作りました。話したいこと、皆さんから伺いたいことが沢山あるので、とりあえず全部書きました。これに遊民さんから追記いただいているので、これをベースに話ができればと思います。

また、「ズートピア・シーン一覧」を作りました。全部のシーンと印象的なセリフを一覧化したものです。「あの場面のあのセリフが~」というときの参考にしてください。

スケザネ:これ入力だけでも結構、ホントありがとうございます。めっちゃ大変だったと思います。

ネオ:絵を文字にするって大変だからね。

Dain:ありがとうございます! 「シーン一覧」を作ってて気づいたのが、プロットポイントです。『シド・フィールドの脚本術』(※1)を読んでたとき「いい映画にはプロットポイントが2つある」ということを教わりました。プロットポイントとは、「ストーリーのアクションを加速させ、別の方向へと行き先を変えるような事件やエピソード」(※2)です。ズートピアのプロットポイントに印を付けましたので、脚本に詳しい皆さま、後で採点してください(笑)。

あと進め方だけど、どうします?僕がやる収拾がつかなくなるんだけど。

スケザネ:誰がやっても収拾つかないんで。大丈夫です。

Dain:では第一印象から順に話しましょう。私だと、最初の「おもしろい!」というのに加えて、この物語ってどんな風に作られてるんだろう? ということが気になりました。脚本苦労したんだろうなとか、そっちの方が気になってしまい、あんまり良い視聴者ではなかったですね。

ネオ:作り手あるあるな感じかな。

1. ストーリーは、たったの100分

Dain:そうそう。物語世界の設定だと、みんな何食べるんだろう?っていうのが、一番引っかかりました。チョコレートケーキやドーナツ、アイスキャンディーとか出てくるんだけれど、でもこの世界って、肉食動物って何食べてんだろうなあ?って。ハンバーガー食べてるんだったら、ハンバーガーのその肉って何の肉なんだろう?って引っかかってました。あと、『ズートピア2』が制作されているらしいのですが、2ってどんな話になるんだろう? というのも気になります。次はスケザネさん行ける?

スケザネ:はい、了解です。最初、黒幕は誰なんだろう? という所が面白くて夢中になり、次は気になるシーンを集中的に観て、結局3回観たんですけど、これはアメリカならではというか、人種や差別の問題とか、深掘れるんだろうなと思います。

あと脚本家の職業病ってやつで、ズートピアという世界の作りが上手いな、と唸らされましたね。

例えば冒頭で、ジュディが特急列車でズートピアに上京(?)するところ。そこで列車が来た時に、ネズミ用のちっちゃいドアとか、大型動物用のドアとか、ああいうちょっとした芸が細かくて、色々なものと動物たちが世界観として有機的に連関して結びついているっていう構造は、相当手が込んでるなーと、そこばかりに目が行ってしまって。

おそらく、まず『ズートピア』という世界を作るのが最初で、その後にテーマを作り、具体的にシナリオ展開していったんじゃないかな、と勝手に睨んでいます。なので、どういう風にこの世界を作っていったのか、むしろ僕はそっちのほうに関心がありますね。

今日はこの辺りをお話できればと思います。ではタケハルさんにバトンタッチしますね。

タケハル:そうですね。二点あって、まず一点目はスケザネさんに近いんですけど、美術ですよね。さっきスケザネさんが言ったネズミ用の入口があるとかもそうだし、街の中、街そのものが手が込んでてかなり面白いんですよね。

細かい処までよく出来てて、例えばジュディが帰ってきて、ニックと再会するところ。橋をくぐったところにニックが寝そべっていて、そこで橋をくぐった陰にジュディがいて……とか当たり前にさらっとやっちゃっているんだけど、再会する場所でよくあそこを思いつくよな、みたいなことが結構あって。背景の力がすごく大きく、それが世界観を含めて、そのキャラクターを立たせるための街並みとかが、すげー凝ってるなっていうのが一つ。

二点目は、脚本です。クレジット見た時に脚本に携わってる人がめっちゃいるんですよね。ジブリも結構そうなんですけど。10人とか12人とか平気でいるんで、やっぱりこう話全体が水も漏らさぬ造りというか。

例えばこの「ズートピア・シーン一覧」見ると、これまずシーンが多すぎるだろ、とか思わない? 上映時間は108分、ラストの歌が8分くらいあるんで、ズートピアって、結局100分なんですよ、たったの。100分でこれ全部やってる上に、何なら一つ一つのシーンがもっと細かいわけじゃないですか。

最初に幼いジュディの学芸会のシーンがあったし、その後に親子で歩きながら職業の話をして、お前はニンジン屋になるんだって言った後に、いじめがあって。これだけでもう3分ぐらいで、ぱぱっとやっちゃう? みたいな。しかもこれ連発されていくんですよね。

聞いた話なんですけど、ピクサーって脚本が分業で、ギャグに強い人とか、シリアスが上手な人とか分けてるっていうんです。それぞれの得意を持ち寄って、全体として成果を挙げられるって言うのが、アメリカ的だなと思いましたよね。日本でここまで人集めてやる脚本って、そんなに聞いたことないので、その辺が最初の印象ですかね。

ネオ:「最初の印象」がもうレベルが高すぎるって言うのが僕らの感想です。

全員:wwwww

タケハル:用意してるのよ、これは。聞かれると思っているから、第一印象。

全員:wwwww

スケザネ:今のタケハルさんの、シーンが多いというのは、言われて確かにって思うし、テンポ早いですよね、だからわずか100分にもこれだけ詰め込めていて。で、そのシーンでの問題意識というか、シーンが向かっていく先っていうのが絞り込まれてシンプルなんですよね。だから、テンポ早くても、観てるこっちが全然混乱しないし。

この物語の中って、各シーンで起きている問題トピックがちゃんと絞られているんですよね。そこの制御とか、観客への伝え方っていうのが、結構テクニカルにうまくやられてるんだと思うので。

タケハル:本当ですよ。だってそれだけ節約した時間をナマケモノに使ってるんですからね。

他3名:www確かにwww

タケハル:あの時間があったらもう3シーンぐらい進められますよ。

スケザネ:隣の奴にギャグ言うシーン、いらねーだろ。

タケハル:ホントホント。あの5秒あればみたいなことなのに。

ネオ:でもナマケモノのシーンをみんな一番覚えてるよね。

タケハル:そうなんだよね。その勇気よ!

スケザネ:オチ持ってきてるからね。あれはね。

Dain:確かにオチだったwww

タケハル:ま、ま、そんなところで。

Dain:次はネオさん?

2. キツネ避けスプレー=内なる差別意識

ネオ:まず最初に『ズートピア』をテーマにしようって僕が言い出したので、皆に観てもらってありがたいです。映画館で観た時に、「なんという傑作だ」っていう印象があったんですけど。

で、すげーって思ったのは、主人公のジュディの意識のところ。自分は差別されている側っていう意識だったんだけど、記者会見するくらいのいいポジションが得られたとき、今まで意識されてこなかった内なる差別意識っていうのが、思いっきり出てきてしまったみたいなところ。僕の哲学的な関心って、そういう自分の内面を見つめるところにあるんだけど、そういう面からしても、面白かったなっていうのが、ひとつですね。

あと印象に残ったシーンとして、駐車違反を取締りまくりますよね。もう他人を蹴落として手柄をあげるって感じで、誰も喜ばないようなやり方ですよね、年末みたいにwww 。出世とか実績っていうには、やっぱり他者の犠牲が伴うんだなーと。他人に害を与えないと自分が手柄を立てられないということが、なんかわかるなあとか。

スケザネ:いやあこれはいいセレクトしていただきました。

タケハル:ホントに!

スケザネ:じゃ感想はこれで一通りって感じですかね。

ネオ:皆さんもコメントで感想あれば、チャットでも自分の感想を。

スケザネ:ちなみに、皆さんもご覧になったんですかね?

ネオ:見た方はぜひ手を上げておいてください。

Dain:(チャットより)Mr.深煎りさんが、「狐用のスプレーを手放せていないのが印象的ですよね」って話されてますね。

ネオ:それが差別意識の表れですかね。それもちょっと難しいんだけどね。現実の女性が護身用のベルみたいなの持ってたら、男性に対する差別なのかって話になっちゃうから。それは難しいんだけどね。

Dain:差別や偏見の眼差しからすると、誰でも被害者から加害者になりうる、という話ですよね。「ああそうだな」と僕も思いましたね、

ジュディが「警察学校を主席で卒業する能力があるのに、駐車違反の取り締まりみたいな仕事をやらなければいけないの」みたいな言い方をしていて、それって駐車違反の取り締まりみたいな仕事は能力がある人にふさわしくない、っていう。それって、そういう人への差別や偏見じゃね?とかいうようなツッコミがスルッと出てくる。

記者会見でジュディが、ニックを傷つけることを言ってしまうところ。「あんなやつらみたいな」「あなたはあんな奴らみたいなものではない」なんて言い方をしてて、ニックから「あんな奴らみたいなってどんな事?」て言われるところ。それって、肉食動物に対する偏見じゃね? って隠しているのか、隠れているのか分からないけれど、そうしたものがポロっと出てしまう。差別や偏見は嫌だとジュディは思っているし、そうありたくないと言っているんだけど、それでもやっぱり自分はそうしていることに、自分で気づくという……

ネオ:ニックのおかげで気づけるっていう。

Dain:そうそう、ニックのおかげで気づけるっていう。

タケハル:ありましたね。

ネオ:Dainさんの聞いて思ったのは、こんな仕事は私がやるべきことじゃない、って思えるからこそ、あれだけ容赦のない取り締まりができると言うか、良くも悪くもプロ意識というか、その辺がうまくつながってすげーよ『ズートピア』。

タケハル:ありましたねえ。

スケザネ:象徴的なのは、キリンの車に駐車違反の切符を入れる時に、キリンのところに届かないから、標識みたいなのを踏み台にジャンプして、スッと差すシーンとか、ああいうところで何か遊び心が定期的に入るんですよね。また視点が変わっちゃうんですけど、あれは好きでした。

タケハル:それ結構大事だと思いますよ。最後の最後、ジュディがモノローグで、受け入れるってのは簡単じゃないって話をしているとき。虎と草食動物の子供がサッカーしてて、ジュディが間を通り抜ける時に、ジュディがボールを取ってリフティングするんですよね。別に入れなくてもいいんだけど、あのリフティングが入ることで、ちょっと見てられると言うか。そういう細かいものが積み重なると、スムーズに見ていられる。その工夫を抜きにして伏線をひたすら回収するだけにすると、意図が見えちゃうというか。

ネオ:遊びとか余剰のところが、全体を自然にするというか、そういう感じ。

タケハル:そこで手を抜かないというかね。

スケザネ:本当は駐車違反のシーンなんてすげー退屈ですもんね。それだけ切符を切ってるだけだったら。

タケハル:下手すれば、ジュディ嫌いになるかもしれないからね。

スケザネ:確かに、確かに。

3. 【重要】ジュディとニックは可愛い

タケハル:その流れで差別の話にも繋がるんですけど、無自覚であるジュディの方が問題みたいなとことか、さらにそれに対して、いや別にジュディは女なんだからいいだろう、みたいなところも言い出したりとか。

ただ僕が面白いなと思ったのは、そうと言っても、みんな結局ジュディとニックが好きなんですよね。ジュディとニックは可愛い。そこについてはブレがない。

これ逆に言うと、ジュディとニックがウサギとキツネだったから可愛く見えたけれど、草食動物と肉食動物だったら、例えばロバとハイエナだったらどうなんだろ? あんまり感情移入できなさそうなサイズだったりすると、全く同じことしても、この議論に行く前に、そもそもこの議論ができないんだけど。ただそうなると、それも差別じゃないの? みたいに思ったりとか。

Dain:はいはいはいはい。

ネオ:なるほどね。

スケザネ:そうなんです、そうなんです、そうなんです。

タケハル:だってね、ウサギはあんな目をしてないからね。ジュディはある程度、可愛く受け入れられるようにデザインされているんだけど、逆に言うと、ロバとハイエナのコンビでも受け入れられるやつが、差別のない精神を持っているかと言われると、それはちょっと違和感があるというか。その辺いろいろ考えましたよ、差別について。

ネオ:確かに。この作品のキャラの差別意識だけじゃなくて、僕らの持っているそういう感情というか、無意識的な評価だよね。「ウサギ=かわいい」とか「キツネ=ずる賢い」とか。

Dain:それを逆手にとって、うまく引き込んでいるのかもね。ジュディをウサギにして可愛くしているから、ジュディがそういう差別的なことを無意識にやってて、それをイラっとするかもしれないけど、それでもウサギだし可愛いし。その、可愛いという思いにはなかなか勝てないということですよね

タケハル:可愛いは正義

Dain:可愛いは正義。

タケハル:これは結構根源的なものがあるよな、と思いましたよ。

スケザネ:ふむふむふむー。

タケハル:でもね人間的には、ルッキズムみたいなことで、よくオーバーサイズのモデルとかの話をするんだけど、あれに対するのも、ちょっと僕は個人的には……いてもいいと思うんですけど、違和感があるのはあるかなというのが本音としてはありますね。

スケザネ:ちょうどこのまえ、『カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?』(※3)って本が出たんですよ、まさに今の話で。

例えば綺麗な蝶って色んな糞に止まるから結構汚いという、そういう話が飛び出してきて。動物に対するイメージって、昔から我々が勝手に作ってきたイメージなんですよね

だから、最後にアイドルのガゼルが効いてくる、って思ってて。ガゼルって温厚なイメージもあるし、あの役どころって、本当にぴったりだと思うんですよ。アイドルで、博愛精神みたいなものを体現しているんです。あれメスのガゼルで、オスはツノが生えていたりとか、徒党を組んで身を守ったりして結構強いんですよね。だからガゼルに託した意味って何なんだろうな?っていうのはずっと考えてます。

ウサギとかキツネは完全にこれは商業的にこうせざるを得ないと思うんですよ。それこそさっきのロバとかにはできないんですよ。ガゼルを持ってきてるのは分かるんだけど、なんかここを攻めたんじゃないかな、と。

タケハル:なるほど。

スケザネ:ここは攻められるというか、ちょっと謎ですね。そういう印象です。

タケハル:なんかね、日本人と西洋人の印象が違いますよね。ガゼルとかいないもんね。

スケザネ:ピンとこないですね。

タケハル:ちょっとピンとこない。

4. 人間っぽくさせない動物で人間社会をやる

Dain:『ズートピア ビジュアルガイド』(※4)にリッチ・ムーア監督のコメントがあって、ガゼルのキャラクターを作るとき、シャキーラっていうトップスターを参考にしたんだって。シャキーラって分かる? 俺分からん。

(チャットより)ゆすもひ:シャキーラはエロティックなダンスで歌うプエルトリカンです。

Dain:そのシャキーラの流し目の仕方とかをモデルに、ガゼルの動きを作ったんだって。ズートピアにはいろんな動物が出てくるんだけど、このガゼルのところだけ、わざと人間の髪型にしてて……

タケハル:ああ!確かに髪生えてた!

スケザネ:ああー!確かに。

Dain:なので、なんかズートピアって、人間っぽくさせないように、人間に動物の着ぐるみを着せたようにはさせないようにしてるのに、でもガゼルだけは特殊な存在にしたっていうのは今、まさスケザネさんの攻めてるっていうのはそこなのかもと思いましたね。

スケザネ:なるほど。たしかに人間の髪型だわ。

タケハル:すげえな、やりすぎだよ、はっきり言って。作り手からすると、すごいなって尊敬する反面、勘弁してくださいよっていう気もちょっとする。

スケザネ:わかります。それはわかりますわかります。めっちゃわかる。もう、そんな作り込むかね、みたいな。

タケハル:ほんとほんと。なんで思いついたんだよそれ、みたいな。この悔しさ。

スケザネ:悔しいですよね、わかる……差別の話にちょっと戻すと、物語を作るときに、こういう現実の問題っていうのにどれくらい向き合うかっていう話が出てくる。前回の物語の探求にあった寓意の話にまで戻るけど、この塩梅、すごい絶妙だなって思う。難しいんですよね、これ。差別の問題とか、人種、あとセクシャルな問題って、すごくセンシティブで、下手にやると叩かれて終わるんですよ。それこそ下品なやり方なんですけど、これを「人間」でやったりなんかしたら、絶対に問題が起こるやつ

タケハル:大変なことになるっすよ

Dain:人間でやったら問題起きるね、これ。

スケザネ:そうそう、これを動物に逃すっていうまず発想が違うんですよね。例えば、最初の開始10分で、「この世界でキツネは差別されてる存在なんだよ」っていうのをばーっとやっちゃう。で、観てる方には、なるほど、この世界でキツネは差別されてるんだと伝わる。まぁ、我々の持っているイメージとそう遠くないからすんなり理解できる。で、ジュディが駐車違反の取り締まりをしているとき、アイス屋に入っていくニックを見て、「ん?あいつ怪しいぞ」って目をするんですよね。

タケハル:したした。

スケザネ:ここすごく大事なシーンで、ジュディもあの瞬間、「キツネだから」って偏見で追ってるわけですよね。で、追っかけて中入った後、「パパだからいい人」って判断を下すわけじゃないですか。

Dain:あー

タケハル:したした

スケザネ:「息子思いのパパ=いい人」、「それを迫害するゾウ=悪い人」みたいな公式でいくと、「キツネ=差別される人」という公式を、ジュディも持ってることが簡潔に表されているんで。観るほうも無理なく受け入れられるというか。あの情報制御のバランス計算が本当にすごい。変に説明しすぎちゃうかもしれないし、逆に説明がなさすぎて、なんでキツネってこういう風に思われてんだろうってなっちゃうかもしれないのを、ほんとここは現実とフィクションの世界のちょうど、こう上手いバランスがとれて、見てる側にスッと入らせる。

タケハル:すごい時間かけて書いてますよ、あそこ、それこそ。

スケザネ:大変だと思いますよ。何回もリテイクしてると思う。

5. 没となったディストピアな『ズートピア』

タケハル:「シナリオ400本捨てた」とあるけれど、なんだっけ、誰かが言ってたけれど、「長いシーンを書くのは比較的簡単で、短いシーンを作る方が難しい」みたいな話、どっかで利いたことがあります。しかもセリフなしですからねここ。この一連の流れ、映画的な文脈でやっちゃうってのは、かなり頭を使わないとできないです。

スケザネ:うんうんうんうん

Dain:シナリオ400本捨てたってやつ、たぶん400本のシナリオを書いて捨てたんじゃなくて、400回ぐらい書き直したって意味だろうから、まあ捨てたっていうのは言い過ぎかも。それでも、何回も書き直したことは、よくわかりますね。

スケザネ:そうですねー、たぶん実際捨てられたエピソードもいっぱいあると思いますね。ほんとはこんな動物がーとか、レインフォレストとか、いろんな地区あったと思うんですけど、言及されるだけで行かない場所とか、ああいうところ絶対話があったりしたけど、結局それ捨てられちゃったんだと思いますね。

Dain:そういや捨てられたエピソードで思い出したけど、ニックと一緒にいたスナギツネかなんかの…

スケザネ:あー、赤ちゃんのふりしてた

Dain:それ、赤ちゃんの格好してたんだけど実はおっさんっていうやつ。あの二人は、実はハンバーガーショップで働いてたっていう話があったみたい。スナギツネは店員をやってて、ニックは機械のメンテナンスみたいなことをやってるとか。『ズートピアビジュアルガイド』見ると、店の名前は「シェチーズ」で、経営者の顔も載ってる。チーズバーガーにチーズが何枚入っているとか、パテが何枚とか、メニューまである。

スケザネ:細けぇ~

Dain:それ見てて気づいたのが、やっぱこの世界でもハンバーガー屋がある。ってことはこのパテは何の肉なんだろうなという疑問が出てきて。時間的な制約から外したのと、やっぱり食べ物系を入れるとまずいので外したのかな。

スケザネ:すごいな、ボツのハンバーガー屋までそんなに作り込まれてたんですね。

Dain:そう。ボツ案もね。さっきのレインフォレストも、ズートピアのどのへんに位置してて、どういう生態系になってるかも、事細かにビジュアルも含めて作り込んでいるんですよ。なのに、映画はほんとにさらっと流れるっていう、ほんとのワンシーンなんだけどね。

タケハル:いやー、でもすげえな、やっぱエネルギーのかけ方が!

Dain:「ズートピアの都市設計」を見ると、ズートピアの都市設計だけで、デザイナーさん4人いるみたい、すごいわ。最初にタケハルさんおっしゃってましたけど、最初に世界を、ズートピア作って、その後にストーリーを作ったんじゃないかしらって思います。

スケザネ:なるほどなぁ!

Dain:ボツ案で凄かったのは、「ズートピアの削除シーン」で知ったんだけど、最初はニックが主人公だったというやつ。ジュディなんて影も形も無かった。んで、肉食動物と草食動物が共存するため、肉食獣には首輪が義務付けられていて、「肉を食べたい」という欲望が起きるたびに、首輪に電気ショックが流れる世界なの。どう見てもディストピア。

スケザネ:へぇ~

Dain:「肉を食べたい」欲求を我慢しながら、草食獣と一緒に過ごさなければならない。当然、ストレスが溜まる。で、ニックの役柄なんだけど、そういう世界で、ちょっといかがわしいお店をやってる。人間でいうとアダルト関連で、押さえつけられた肉欲を解放できるようなお店なの。そこでは、ミニチュアの草食獣を襲って欲望を発散させるの。本物の草食獣を襲ったら電気ショックが流れて犯罪になるから。ニックは、そういういかがわしいお店の経営者を目指すっていうストーリーだった……らしい。

スケザネ:へえぇ~!

タケハル:絶対ディズニー無理でしょ!

Dain:ところが、あのジョン・ラセターっていう、ピクサーでは神様のような監督に、ある程度出来たものを見せたら、「こんなの観たい? こんな辛い世界に誰が住みたい?」ってぶった斬って、作り直しになりました。普通こう、動く絵まで物語を作り上げているのに、もう一度戻そうとするって、英断というか、勇気がすごいなぁって。

タケハル:このエピソード、いろんな示唆がありますよね。さっき僕もいっちゃいましたけど、そんなのディズニー撮るわけねえじゃんって、外からみてれば思うんだけど、少なくとも企画書あげて、絵までつけてるんだから、作ってる最中はそれわかんないっていうことですからね。クリエイティビティっていうか、自由に作るとき、やり始めるとなんでもありになって、ディズニーだからいいとかダメとか考えず、思いつかないところまで一旦は振り切るみたいな。そこにやっぱり、ジョン・ラセターはやっぱりすげえって思うけど、彼は自分でも話作るだけじゃなく、それをこう、ジャッジできる目を持っているのは、特殊ですよね。

Dain:なるほど!

タケハル:しかも、これからもっとまずいの、ジョン・ラセター、いまディズニーにいなくなっちゃったっていうのが問題で、そこには別の問題ちょっとありますけど。

スケザネ:たしかに、企画がある程度までいってから戻すっていうのは、業界としてよく聞きますし、まあ珍しいことではないんですけど、こうやって聞くと、わ、そこまでやったんだってのは驚きですね。だって、テーマの設定とか、対象年齢の設定とかからもう一回やり直したんでしょうけど、ほんとに。ジョン・ラセターすごいな。

Dain:それって物語の完全な作り直しですよね、カットを変えるとかシーンの入れ替えってレベルじゃなくって、物語の設定とか背景とか、根幹から変えて、まあ主人公変えちゃってるっていう時点でそうだけど。

タケハル:たぶん、このボツ案のアイディアとかも、どこかで使ってて、完全な無駄って無いとは思うけれど、実際やってる側としては、今更変えないでくれよみたいなことが……あと、なんならもう一個誘惑としてあるのが、多分この、ディストピアバージョンでも、ある程度の正解はあるっていうか、別にディズニーだってことを抜きにすれば、好きな人にはハマるかもしれないし。そういう誘惑をすべて退けてやり直すっていうのは凄い。

スケザネ:現実問題として予算とか締め切りもありますからね。

タケハル:そうそう、怖すぎますよ。まあでもこれも、今回までかもしれないですけどね。ジョン・ラセターいないから。

スケザネ:なるほど。

Dain:ダメ出しできる人。

6. 『トイ・ストーリー4』の本質=「〇の〇離れ」

タケハル:そうなんですよ!若干ずれちゃいますけど、『トイ・ストーリー4』ご覧になりました?みなさん。

スケザネ:あー、4見てないですねー。

タケハル:あんま先入観持たせちゃいけないですけど、それでもいうと、4は違うんじゃないかと。今までのテーマはどこにいったんだとか、バズそんなやつじゃなかっただろみたいなことが、結構あるんですよ。で、それがちょうどラセターが、セクハラ問題でいなくなった後にできた最初の映画が『トイ・ストーリー4』だったんですよ。で、注目してたら、いややっぱりラセターいないとダメだみたいなかんじがあってですね。

Dain:うわあ……

タケハル:いま『2分の1の魔法』やってますけど、そんなにウケてないのは、コロナだからしょうがないよねって感じで流れちゃってるけど、違うんじゃない? それじゃすまない問題がピクサーに起こってるんじゃない? 大丈夫か? クリエイティビティ落ちていないか? という危惧はありますね。

スケザネ:これあんまり、盛り上がってないですね。

Dain:そもそもそんなのやってるの、全然知らなかった……

ネオ:俺もこれはじめて知った

タケハル:コメントでゆすもひさんから「4好きの意見を聞くとよく理解できた」ってお言葉があります。

Dain :ちょっと発言できます? 4好きの人の意見。

ゆすもひ:ゆすもひです。こんにちは。喋らないほうがいいんですかね、これ?

スケザネ:大丈夫です。

ゆすもひ:この話、「親の子離れ」の投影っていう見方で見ると、当てはまるっていうことらしくて。たしかに4でアンディが変わりますよね。キャラまったく変わるんですけど、あれはもう親心って目で見てあげないとダメみたいな話なんですね。そこらへん掘って探されると、なるほどっていう意見が見つかるかもしれないなと思ってコメントしました

タケハル:なるほどー。俺も親離れできてないのかな。

ゆすもひ:親離れの話、それで見るとすごいよくわかります。

タケハル:ちょっと探してみよ。

Dain:ここで言う親とは? 誰なの?

ゆすもひ:親はアンディです。

Dain:アンディが親。なるほど。

ゆすもひ:あと、フォーキーがゴミか、おもちゃか問題ですよね。そのあたりも結構納得できる、私もわかんなくていろいろ探ったんですけど、「親の子離れ」だと、結構納得できる意見で、なるほどと思いました。

タケハル:ちゃんと調べよ。いや、ありがとうございます。

7. なぜベルウェザー副市長は陰謀を企んだか

ネオ:そうですね。みなさんのチャットでも、このシーンとか印象的でしたとかいうのあったらね、ぜひぜひってかんじです。

Dain:じゃあ僕から。ここでみなさんいると思うんで、いろんな意見を聞きたいなあっていうので。それは、「なぜベルウェザー副市長は陰謀を企んだか」ってところ映画だから、悪役がいるかなーって、物語を作るほうからするとベルウェザー副市長は非常に物語あるある。最初は協力者だったけど、実は黒幕っていう、教科書みたいな。面白さからすると正解だと。

で、今度は物語に没入して楽しむ方からすると、なぜ彼女が陰謀をたくらまねばならなかったのかっていう動機を考えると、ひっかかってて。

そのヒントになるのがラストの博物館、クライマックスのところ。ジュディに向けたセリフなんですけど、「ちゃんと評価されず、いつも低く見られて、あなたもうんざりのはずよ」。草食動物で、力が弱く体も小さいからといって、低く見られて、いい仕事をもらえずに、能力的にはあるのかもしれない。ベルウェザーに寄せると、能力的にはライオン市長よりも上かもしれないけれど、副市長の立場に甘んじているみたいな。

これをなんとかしたかったんだっていう、そんな話なのかなって。で、なんでそれで羊だけが悪役にするのかなっていうのが分からなくて、ネットで意見を探してみたら、「もしジュディが、駐車違反の仕事ばかり延々とやらされて、ニックに出会うこともなかったら、おそらくベルウェザー副市長みたいになったんじゃないかしら」という呟きをみて、ちょっとぞっとしましたね。ベルウェザー副市長は、ニックに出会えなかったジュディなんだと。

タケハル:おお~

スケザネ:いや~そうっすね、結構時代もあったので、オバマと白人的なことをずっと思い出していまして。要は黒人というものが大統領になった、で、白人側からすると面白くない感触に追いやられた人もいると思うんですね。で、恨みを募らせたっていう恨みの募らせ方も、単純にその仕事ができるできない以上の複層的なものがあったんじゃないかと思うんですよ。当時の一部の白人には。

で、結果としてその時の膿とかっていうものが今トランプって形になっていると思うんですよ。それが、さっきのニックと出会わなかったジュディと実は結構重なるところがあって。オバマ的なものをなんとかして追い落としてやろう、あいつらは危険なやつらだ、昔から危ないやつだったじゃないかっていうプロパガンダで追い落としていくっていうのは、なんかすごく納得できるキャラ造形というか。

現実から逆算しちゃうんですけど、ベルウェザー副市長に落とし込むのであれば、もともと肉食動物っていう危険だったやつが今トップにいて、で、私は地下の狭苦しい汚いところで秘書みたいな仕事をさせられていると、私なんか票集めの道具ですよ、私の方がきっと仕事もできるのにと鬱屈してくる

だから、ジュディから仕事を任せてもらった時、すごい誇らしそうな、嬉しそうな顔になったりとかするのはそういうところだと思うんですよね。私はできるんだと。ジュディの「私は警察学校首席で出たし仕事ができる」っていう自意識は、たぶん同じものをベルウェザーも持ってるんじゃないかと。

しかも女性でってところもポイントだと思っていて、そういういろいろな恨みが彼女の草食民意識とか性意識とかいろいろなものが結構凝縮されて、復讐に走ったんじゃないか、陰謀に走ったんじゃないかっていうのは、自分の考えですね。

Dain:なるほどすごい! 納得っていうか、言われてみるとそうかつながるわーっていうとこあります。

ネオ:市長っていう地位も、女性を官僚につけるってことでイメージアップみたいなことが現実にもあったりするじゃないですか。これに利用されてるって自覚もベルウェザーはもってて、もう明らかに言葉でセリフとしてでてるから、そういうところでの鬱憤みたいなものはきちんと表現されてるなとは思いますね。

Dain:なるほどー。ありがとうございます、腑に落ちました。当時の政治の、あんまり生々しく描いちゃうと炎上する燃料になっちゃうから、黒人白人女性の話も、動物の形にして、まさに戯画化というか、比喩として寓話化してやってるんだなーっていうのも含めて理解できました。

8. 『ズートピア』を現実社会の写し鏡にしなかったわけ

ネオ:そうなんすよね。だから、スートピアのすごいところって、完全にまるっきり同じにはしてないんですよね。だから普通だと、黒人がちゃんと評価されず低く見られるって偏見があると考える方が自然じゃん。スケザネさんの説明だと、オバマ大統領が誕生して、なんか白人の鬱憤がたまったみたいになるけど、でもズートピア的に考えると、むしろベルウェザーは数で言えばマジョリティなんだけど、草食動物で、でもずっと差別されてたっていうような側だから、ズートピアって完全に同じじゃないっていうのがすごい。

現実社会とズートピアが、分かりやすいパラレルな関係にはなってなくて、必ず、ちょっと微妙に違わせてるっていう。だから、草食肉食がマイノリティ、マジョリティっていうふうにもわけられないんだよね。アメリカ社会の反映というか。だから数でいったら草食動物のほうが圧倒的に多いんだけど、アメリカ社会って白人の方が多いわけで、みたいな。そのへんがよく考えられてるなっていうか、すごいなって思うところ。

スケザネ:なるほどね!

ネオ:だから、逆にこの作品を見て、自分がすごい揶揄されてるとか思う人がいないんじゃないかなって気がするんですよね。

タケハル:そうね。言い方あれだけど、都合の良いところで感情移入できるようになっちゃうから。

Dain:確かに。

スケザネ:確かに、確かに。

タケハル:よくよく見ると違うんだけど。

Dain:そうか、これネオさんの言う通り、ストレートっていうか、現実を寓話化するときに示すほうと示されるほうが、本当リニアにというか、きれいにパラレルに移行しちゃうと、「揶揄されているのは自分だ!」ってすぐわかっちゃうから、そこはうまく作り込んでいる。微妙にずらしてたり捻ってたりしていると。

ネオ:まあそうなんじゃないかなあ。

Dain:なるほど。そのために、タケハルさん言う通り、自分ではなく他の人を表象しているがために楽しめる。楽しめるっていうか、自分のことは言われてないように都合よく受け取ることができるっていう。そこまで仕掛けられてるかと思うと、ちょっと恐ろしいぐらいの物語の作りようを感じますね。

ネオ:まさにそうしなかったら、動物に比喩した意味がないってことになりかねないですかね。動物に比喩するから、ある種他人事というか、そういうふうに見れるっていうところも関係あると思うんですよね。動物にしても自分のことだと思っちゃったら意味がないというか。だから、あと例えば最初に凶暴になった動物ってなんでしたっけ?

タケハル:カワウソ?

ネオ:カワウソ。そう、そういう微妙なところ!全然馴染みがない感じの。

スケザネ:肉食なんだあ、くらいの。

ネオ:ライオンが凶暴になったとかさ、オオカミが凶暴になったとかさ、ああってなるけど。え、カワウソ?みたいな。だから誰も揶揄されてるように感じないっていうのはあるかもしれない。

タケハル:そういやいま思ったけど、イヌとかネコっていたんだっけ?

ネオ:オオカミはいたよね。

タケハル:いなかったんじゃないかな。

スケザネ:いまパッと出ないですね、少なくとも。

Dain:『ズートピア』の全員が出てるビジュアル見てるけど、コアラ、シマウマ、ハリネズミ、リスとかいるけれど、イヌ・ネコはない。ないわー

タケハル:受付はチーターです。チーター。

スケザネ:これ本当に英断だと思うのが、絶対海外展開を考えてたはずなんですよ、ピクサーだし。っていうことは、アメリカに限らずいろんな国の人がピンとくる動物を選んでいると思うんですよ。よくちゃんと日本でも「ああ、あの動物ね」ってなったってのがすげえなって思ってて。裸のクラブの虫いっぱい集まっているあいつ、まあわかんなくはないけど、ぐらいでしたけど。あとほぼわかんないことなかったんで。あのへんって相当気を遣ってるはずですよね。

タケハル:あのハエたかってるのよく出したよね。結構ギリギリだと思ったけど。ウシ・ブタだったり…

Dain:そうそう。これ僕の謎にもつながるんですけれど、いない動物を言うとイヌ・ネコいないし、サルもいないし。

スケザネ:サルいないのかあ。

9. 『ズートピア2』はトイ・ストーリー型かアナ雪型か

Dain:たぶんサルは人間を彷彿とさせるからいないんだろうけど。あと、やっぱり食べ物を避けてるように思えてて。警察署長はアフリカ水牛ですけど、あれは肉用じゃないし。普通に食べ物を思い浮かべるウシ、ブタ、ニワトリっていうのはいないなあって引っかかったところなんで。『ズートピア2』やるんだったら、このへんの問題を明らかにしてくれるとおもしろいんだろうけれど。やり過ぎかも。

タケハル:こうなったら『ズートピア2』はあれですね、「植物からの抵抗」みたいなことがテーマに。動物は、当たり前のように植物を食べてるけど、私たちには進化する余地もない、みたいな展開で。それぐらいしないと、鳥とか海の動物とかだと予想ついちゃってる気がするんですよ。

ネオ:確かに、ディスニーで植物が主人公とかってあんまりないよな。

タケハル:木がしゃべるとかあるかもしれないけど、これぐらいやんないとね。ちょっと前に植物のほうもハマってた時期があって。植物は基本、食われる立場にいるけど、植物こそが生物を支えてる、みたいな話。雑草とかも、人の入らないところに生えたりとかして、文句言わないとか。なんか全然違う角度から攻めるっていうのはありかもしれないけれど、ヒットするかはわからない。

ネオ:植物の孤独を描くっていうのが。

タケハル:そうそう孤独ね。めちゃめちゃメジャーじゃないな、どうにも(笑)

ネオ:サボテン主人公にしてほしい。

タケハル:ちょっとおもしろそうだね。サボテンだったらね。

スケザネ:『ウォーリー』とかね。ちょっと植物をめぐる話だったりしたけど。

ネオ:『ウォーリー』はよかったなあ。

スケザネ:続編の話だけど、ピクサーとかディズニー系の続編でパターンがあると思ってて、アナ雪型とトイ・ストーリー型のどっちかがあるかなと思ってて。

トイ・ストーリー型は螺旋状で。『4』はちょっと横に置いておくとしても、基本的に上にやっていく型。いきなり新しい大事件がボーンと出てくるとか、進んでいる感じではないと思うんですよね。基本的には同じメンバー、同じ時代感、同じ感覚で、上に積みあげていく感じ。

アナ雪型は、時間が完全に進むんで。『1』で起きたこと踏まえて、今度こういう新しい事件が起きます、ボン、みたいな。これ本当に難しいんだと思うんですよね。こっちのアナ雪型は。『アナ雪2』ってそんなにいい評判聞かないし、『1』は俺好きだったんだけど、『2』はちょっと微妙だったんですよ。

『ズートピア』は、このアナ雪型にいくしかないんじゃないかという懸念が正直ありまして。もうおおむねのことが終わってしまった、このズートピアでもう一回お話を作るには、やりようはあるんだけれども、最近のピクサー的には新しい大事件――それこそ植物が反乱してくるとか――を起こすしかもうやりようないんじゃないかな。でも、個人的に観たいのは『トイ・ストーリー』みたいにそのズートピアでまた何か、その完結した中で新しい何かを起こすっていうほうが観てみたい気はするんですけどね。

10. 勇気を持って、マンネリ化

タケハル:アナ雪型になるのか。俺も個人的にはトイ・ストーリー型でやってほしいな。もうバディができたんだから。ニックとジュディっていう。もうドラマとかで、一話完結で街の事件を解決する程度とかね。いいんじゃないかなと思うんだよね。無理してがんばらなくてもいいんじゃないかな。っていうかもうがんばらないでくれもう、みたいに言いたくなっちゃう。

ネオ:『スター・ウォーズ』のアニメ版みたいな感じでいいと。

タケハル:そうそうそう、いいよいいよ。『マンダロリアン』でいいよ。『クローン・ウォーズ』でいいよ。

ネオ:確かにね。警察官のバディ、『相棒』でいいよってことか。

タケハル:『相棒』でいいの。毎回新しい犯人が出ればいいの。

Dain:それ言うとバディものの、刑事・警察ものの映画で『リーサル・ウェポン』ってシリーズで続いてたんだけれど、みんな知ってるかな? おっさんしか知らんかもしれん。

スケザネ:「1987 アメリカアクション映画」っていうのが出た。

Dain:そんな昔なんだ。確かね、『4』ぐらいまで出てたはず。

スケザネ:ほんとだ、続編ありますね。TVドラマシリーズも2016年から放送中みたいです。

Dain:知らんかった。デコボココンビのバディもので反りが合わないんだけど、無理やりバディにさせられちゃって。あとは次から次へと新しい事件が、新しい犯人がっていう、そんな話。もし『ズートピア』がそっちにいくんだったら、『ズートピア1』がバディ誕生で、『ズートピア2』がそのバディものっていう。昔からの映画のお作法を守っていけば、きっとずっと続けていけるだろうなあ。なんだけれど、それがおもしろいかっていうと、「普通におもしろいね」っていうぐらいかなあ。どうなるんだろう。

ネオ:タケハル先生の話を聞いて思ったのは、これ完成されたすばらしい世界じゃないですか。まさに「ユートピア」になったわけじゃないですか。その世界観をやっぱり壊しちゃだめだって思う。だから、まさにみんなが住みたくなるような世界での小さな出来事とかを扱っていけばよくて。それでだんだん進んでいくごとに、例えば草食動物がついに市長になるとか、そういうことがあってもいいかもしれないけど、根底の世界観としては安心できる「水戸黄門」みたいな続編でいいと思う

タケハル:ずいぶん草食動物的な発想になってきたけど。

ネオ:変に植物の反乱とか、やんなくていいような気がすんだよ。

タケハル:確かに、そう考えるといらないかもしれない。

ネオ:やりたいならもう別の世界でなんかこう。

スケザネ:『アナ雪』は別の世界に行っちゃったんだよな、だからな。

タケハル:偏見出ちゃうけど、白人のほうが狩猟型っていうかさ、次なる地平を求めるみたいなことで、新しいことやりたがるんじゃないかな。草食人物たちは、やっぱり「水戸黄門」なり「寅さん」なり、農耕生活になってんじゃねえかな。

Dain:おそらく『2』の企画書でも、バディものにしようって案があるはず。

スケザネ:あるでしょうね。

タケハル:なあなあ展開しようっていうのはあるでしょう。

Dain:せっかく「ズートピア」っていう世界があるから、そのなかで次から次へといろんな事件を起こせばっていうふうにすればってありだと思う。けれど、実際その物語に予算を割り当てる人が、本当にそれを選ぶかどうかになると、どうなんだろう? 安全すぎるとかって言うのかしら。投資としては安全だと思う。いま僕が思ったの深煎りさんがコメントしてくれて、「社会風刺が入るような」っていう感じが。バディもので、その時その時の社会風刺がチョロチョロっとこう入れているっていう。

ネオ:『ドクターX』でいいってことですね。あれは要所要所時事ネタでふざけてる。

スケザネ:最後、麻雀して終わる。

ネオ:「忖度」とか言い出すし。

タケハル:やっぱりこれ、勇気を持ってマンネリ化してほしいですよね

スケザネ:いやあ、それはいい言葉。

ネオ:すばらしい。

Dain:いい言葉だ。マンネリ化でいいとは言わんけれど、そうそう。

スケザネ:でも、これマンネリ化できるやつですからね。十分舞台がそろってるから。『アナ雪』は無理なんですけど、これはできるんですよ。

Dain:世界がすごいもん。「ズートピア」が。

スケザネ:まだまだ全然消化不良というか、描けてないところたくさんあるし、見てみたいところたくさんあるし。俺は幼なじみのギデオン・グレイとかけっこう気になってるんで。あいつの扱いってもっとけっこう重要な感じで出てくるのかなって思ったら、パイ職人やってんのかよって感じだったりとか、ああいうところとか気になるし

タケハル:確かに、ギデオン・グレイだけで1話作れるからね。

スケザネ:絶対できますよね。

タケハル:なんなら2話で。前後編とかで。

ネオ:いろんなことが起こっても不自然じゃないっていう世界観を構築できてるよね。だから、例えば『アナ雪』でなんか起こそうとしても、「別にいいよ」とかって思うかもしんないけど、ズートピアで全然知らない動物がなんかしだしたとなると、「へえ」ってくらいになる。

スケザネ:新しい動物出すっていうのは絶対映えるもん。おもしろい動物。

タケハル:両親が都会に来るだけでも1話。

スケザネ:確かに、あの両親おもしろそうだなあ。

タケハル:「市長、恋に落ちる」とかさ。

スケザネ:無限に出せるな。

タケハル:無限にできるだろ、これ。

ネオ:重たくも軽くもできるのは、異種類どうしの恋愛とか。キツネとウサギ、今のところそういう混血っていないと思うんだよね。『ズートピア』って。

Dain:ないね、うん。ないない。

ネオ:まあ生物学的に無理なのかも知んないけど、そうなるとどうなのかなあって当然考える。めっちゃ重たくなりそうだけど。

タケハル:たまにはスパイスと一緒の回があったりね。

スケザネ:明らかにとっ散らかるな。

ネオ:ナマケモノで1話作れるし。ほぼ進まない、みたいな。

Dain:『3』も出したらやばいかな。サルは絶対出さないだろうなって思うけれど。

ネオ:サルは悪者じゃねえかなあ。

Dain:うん。悪者で、なおかつ科学技術に長けてて、なおかつ宇宙とかを目指そうとしてって大きくなっちゃうな。

ネオ:それかもう、『おさるのジョージ』みたいなの出すっていう。

スケザネ:愛嬌ある感じね。ちょっとね。

ネオ:『おさるのジョージ』は来てもいいんじゃないかな。でももう、『おさるのジョージ』もいる場所ない。みんなジョージくらい頭いいからな。

Dain:ズートピア壊しちゃったらダメだろうなあ。沈めるとかっていうのもダメだろうし。

ネオ:どうして沈めるって発想が出てきたの?

Dain:ものができたから壊しちゃえっていう発想。オチは「ズートピアとは何か」って話にする。結局、ズートピアって建物とか道路とか施設じゃなくって、そこに暮らすみんなの多様性を認める共同体なんだ、みたいにすればできるかなあって思ったけど……それどっかで聞いたことあるなあって思ったら小松左京の『日本沈没』と同じテーマや。ちょっと飛びすぎ感ある。要するに、日本という土地が沈んでも「日本人」っていう文化なり考え方は世界中に散らばってという発想。

スケザネ:場所じゃないよっていう。

Dain:そうそう、場所じゃないよっていう。あと思ったのが、『ズートピア』観る前の想像からなんだけど、動物たちのユートピア=『動物農場』というやつ。ジョージ・オーウェルの小説が浮かんじゃって。もし風刺も絡めて、なおかつエグいところも入れてってやろうとすると、『動物農場』路線に行くのかしらんって思った。ストーリーをかいつまむと、とある農場で家畜たちが反乱を起こして、人間たちを追い出しちゃう。で、動物だけで平等なコミュニティを作ろうってまさに「ズートピア」みたいな場所を作ろうとする。だけど、ちょっと賢いブタが他の動物をこき使うようになって。でも他の動物たち、ウシやウマやニワトリたちは言われるがまま働いて、何でおれたちの生活こんなに苦しいんだろうって思っているんだけれど、前人間がやってたことと同じことをブタがやるようになってて、気づいたらブタが人間に成り代わっていましたっていうオチ。これを『ズートピア2』に入れて、ブタの代わりにサルを入れてなんだけど、もうあれだけ世界ができあがっちゃってるから難しいだろうなあ、なんてなことを妄想してました。

スケザネ:それやるなら『1』しかなかったかもしれないですね。

Dain:『1』だろうな。

スケザネ:今さら壊せないでしょうね、きっと。

Dain:壊せない、ちゃんとできてるから。

タケハル:ディズニーは『モンスターズ・インク』で前日談という手を使ったので、『(モンスターズ・ユニバーシティー』だったら『モンスターズ・インク』より前だから。前の話するというのであればありですね。

ネオ:『モンスターズ・インク』あったな。

スケザネ:確かに、前日談パターンあったな。

タケハル:まあ、でも今回しつこいくらいにもうジュディとニックが最後相棒になってるから、あれだけ警官になっといてやらんのかい、みたいな感じしますけどね。

スケザネ:今さら警察学校時代の話されても、みたいなところはありますよね。

11. 自分では気づかない自分自身の良さ、「成長感」

スケザネ:けっこう自分が思ったのは、動物がどうとか種族がどうとかっていうよりも、自分自身の成長感としていいところがたくさんあるなって。「自分自身のいいところって自分自身では気づけていない」ってこの1つの作品のテーマかなあと思ってて。

さっきの虫がいっぱいたかってるあいつの話ありましたけど、実はあいつが一番記憶力いいとか、あれってあいつわかってないじゃないですか。「象は記憶がいいね」とかって言ってましたけど、自分のこと気づけてないとか。

ニック、実は警察官としての能力が高いのを、ジュディが気づいて見込むわけですよね。「あなたに依頼しようと思ってたの」って言って、ニックはそこで「おれにそんな能力があるんだ。じゃあがんばってみようかな」っていう顔になってたりとか。みんな自分のいいところって、自分自身で気づいてなくて、自分自身で押さえ込んでしまっていて、人によって、人との出会いとかで、それを今度気づかせてもらうっていうか。この作品、人種とかそういう話がどうしても前面に出てきてしまうがゆえに忘れられがちというか、あんまり目を向けられていないのかなと思ったんですけど、これは大事なテーマなのかなと感じていました。

タケハル:かなり普遍的な問題でもあるからね。

ネオ:一緒にしていいのかわかんないけど、自分の差別意識には自分では気がつけないって話とちょっとつながるかもしれない。

スケザネ:ああ、確かに確かに。

タケハル:ひっくり返したらね。

ネオ:成長できるとか、見方が変わるとかっていうのは、自分じゃなくって他者を通してっていうことは全体にあるのかもしれない。

タケハル:成長は確かにテーマとしてあったよね。最初のセリフですげえおもしろかったけど、ジュディが「警官になりたい」とか言ったら、お父さんお母さんが「ニンジンはすごくいいぞ」「ニンジンでみんなのために役立とう」としか言い出して。でもお父さんお母さんは可能性に対して、ここは塞いどいてみたいなことしてるんだけど、ジュディだけは外を見てるみたいな。そのジュディですらいろいろ問題はあるんだけど、今のとこ普遍的な問題としてみんな思ってることだし、お父さんお母さんは善意だしってところはうまく入ってる。

スケザネ:お父さんお母さんは間違っちゃいないってところも、大事なポイントかもしれないです。

12. ズートピアの普遍性は「可愛い」と「笑い」

タケハル:ずっと思ってたのが、「ニックとジュディがやっぱり可愛い」っていう話で。

ちょっと話が飛ぶんですけど、よく美しさの基準は変遷するみたいな話あるじゃないですか。平安時代のおかめ顔とかみたいなこと言うんですけど、でも思うに、このジュディとニックに関しては、例えば100年後見てもまだ可愛いんじゃないかって思うんです。動物だし。もっと個人的なこと言うと、「美は変遷する」ってウソなんじゃないかって思ってて。なぜかというと、例えば『ミロのヴィーナス』、ぶっちゃけ今見ても美人だなって思うわけじゃないですか。時代時代によって多少の好みみたいなのはあるっちゃあるけれど、もうちょっと普遍的に可愛いとかっていうものって。

今のポリコレ的な見方とか色々あるけど、たぶんそれを乗り越えて通じる可愛いさというものは、『ズートピア』にはあるって思うんですよね。「可愛い」が存在しないことには共感がまったくできないようになっちゃうか、もしくはすごく心の広い人だけが共感できる映画ってことになっちゃうから、可愛いさの基準みたいなのはあったかなあって。

ネオ:それ見た目だけど、エピソードのカッコ良さみたいな、例えばストア派のセネカが紹介しているエピソードとかってやっぱり今聞いてもかっこいいとか男らしいとかって思ったりするからね。そういう普遍性っていうものはあるのかもしれない。

タケハル:差別意識とかで乗り越えられるとか、変わっていくほうもあるんだけれど、むしろ変わっていかないものをキャッチしつつ、変わっていくものに対してきちんと追いつくみたいなのはすごくよくできてるよな、意識してるのかなって

人間としても普遍的に反応しちゃう部分は抑えつつ、おそらく10年と言わず5年ぐらいしたら古くなっちゃうのかもしれないと思うけど一応入れる、みたいなこともどっちもやってるからレベル高えなとは思ったかな。

ネオ:それで言うと、笑いもそうだよね。前回の読書会にも出てきたけども。ナマケモノのあれってもう100%笑うよね。100年後でも。

タケハル:そうそう、100年経っても。逆に、羊のもふもふを叩くとか。アフロの人に対してアフロたたくの失礼みたいな話で。アフロの人は「たたいてもいい?」ってみんなに言われるらしいんだけど、それは本人すごく嫌だみたいなことで、それは羊も一緒ってなるけど。それはもしかしたら、100年後には無くなっているかもしれないね。

スケザネ:あれは、日本だとちょっとピンとこなかったですね。

タケハル:そうそうそうそう、わかんなかった。

ネオ:確かに、確かに。笑いに関して言えば、シェイクスピアとかモリエールで笑えるところはいまだに笑えるし。

タケハル:そうね。ネオに教えてもらった、モリエール『守銭奴』のやつ。文字通り守銭奴で金にがめついやつなんだけど、執事がやってきて、「お客様です」みたいな。それで守銭奴が「そんなの後にしろ!」みたいなこと言うんだけど、召使いが「いや、お金を持ってきているんですが」、守銭奴「すぐに通せ!」みたいに手のひらを返す。これは貨幣経済が続く限り、1000年くらいは笑える。

Dain:人間が生きている限り、貨幣経済は続きそう。

タケハル:ベーシックインカムが普及したらなくなっちゃうかもしれない。

スケザネ:電子マネーが普及してもそうかもしれないですね。

タケハル:もしそうなったら、モリエールを読んだ未来の人は、当時は人が現金を持ち歩いていること自体に驚くかもしれない

スケザネ:その話でいうと、もはやぼくらは、電話を自宅で受けることにピンとこない。みんな携帯だから。固定電話は古びる速度、結構早かったですね。

タケハル:電話で言ったら、電話が来てるよってジェスチャーがありますよね。手を受話器の形にして耳元で手を振るやつ。あれとかもう子供は理解できないみたいですね。

ネオ:ジェスチャーも変わるわけだね。

13. 禁断の技:ボイスレコーダー

スケザネ:ちょっと細かいところなんですけど、録音できるペン。ボイスレコーダー。出てきたとき、小道具の使い方として、しょぼいなと思ったんです。最初は、ニックをジュディがはめたところに出てきます。(詐欺師と呼んでくれる? ってシーン)

あれは、映画内エピソードとしては、めちゃくちゃしょぼいです。録音して、騙してってだけ。しかもそのボイスレコーダーの話を、「詐欺師って呼んでくれる?」っていうセリフまでつけて、何度も何度もこするんですよね。

それこそ最後の解決のシーンもそうですし、ジュディとニックが仲直りする時もボイスレコーダーやりましたし、3~4回ぐらいこすって、色んなセリフをそこに重ねている。これは作り手側のすごい意地悪な見方をすると、たぶん思いつかなかったんじゃないかなと感じます、ボイスレコーダー以上におもしろいシナリオが。この小道具が一番しょぼいと思うんだけど、他に思いつかなかったから、そのしょぼさを隠すために何度も重ねる。いろんなセリフを重ねて意味深く持たせるしかなかったかと思う。

ネオ:それは超重要だと思います。ボイスレコーダーってどんな作品、刑事ドラマにしてもなんにしても一番がっかりする仕掛け。しょうもなっ、みたいな。トリックの禁じ手の一つなんじゃないかな。

タケハル:クリシェですね。細かいところで、録音ペンのデザインを人参にしてみたりとか、何回も重ねるとか、なんとか見えないようにしてるけどもクリシェはクリシェかもしれない。

スケザネ:クリシェがゆえにとにかく色々つけてなんとかして。これ、作り手側の逃げ手法です。ほかにアイデアがない時に、それだけだと安っぽく見えちゃうから色々つけて、意味深く見せる。これだけこすったら許してやろうとは思うけど。

ネオ:これ今回一番聞いて、いい話だったなあ。

タケハル:素材は微妙でもソースがおいしいから許してやるみたいな。

Dain:生々しい話ですね。おそらく、肉食獣のディストピアの初期の案がボツになって、焦ったのではないかなと。こんなんじゃだめだとちゃぶ台返しされて、でもスケジュールは決まってて、そんな中でもなんとか物語を新しく作らないといけない。ものすごく当たり前なんですけど、映画作る時に最初にしなきゃいけないないことは、物語をつくるということで、それがボツになった。

じゃあもう一回、別の主人公で・・・どうする・・・って、でも作らなきゃいけない。そんなギリギリのところで、できる精一杯だったんじゃないかな。最後の副市長のベルウェザーのセリフをどうやってひっくり返すかとか、色々考えて、やっぱりボイスレコーダーだ! ってなったんじゃないかなあ。んで、ここだけでボイスレコーダーを使っても……ってなったら、じゃあニックのところで使おう! でも2カ所だけだと伏線が広がりすぎるから途中で入れた方が……じゃあニックと仲直りするところでも入れよう! そんな感じで最後のパズルのピースを埋めるためにボイスレコーダーが使われたんじゃないかと

スケザネ:まさにそうだと思います

タケハル:クリエイターたちの息切れが聞こえるよね

Dain:物語作家のね。ゴールだと思ってハァハァ言ってたら42.195km走ったのに、まだ走るよみたいな。もう1回って。しかもシナリオは最初に作んなきゃいけないから

ネオ:ボイスレコーダーを使ったら、必ずその前に何かしゃべらなきゃいけないよね。そこでペラペラしゃべるっていう不自然さがどうしても出てくる。刑事ドラマで犯人暴かれたらペラペラしゃべりだすみたいな不自然さが。

全員:それはあるなあー。

タケハル:絶対言っちゃダメなのに言うよね。

ネオ:ボイスレコーダーのがっかりさって、不自然なセリフを呼び起こさなきゃいけないっていうところにあるのかもしれないね。本当に悪いやつはそんなヘマしないで粛々とやる。だからボイスレコーダーを使うと、最終的に相手のドジによって解決する。

スケザネ:『相棒』でも「語るに落ちる」パターンで見せる回があるけど、何かしらひと手間加えた話の方が印象に残る。単純に言わせてしめしめではなくて、言わせるために導入を持たせたとか、小細工しといたとか、そういう工夫がないと物足りない

ネオ:そういう言質をとる系だと、例えばドラゴンボールでピッコロがセルと戦うときに左腕を吸収されて、もうこれでは勝負ついたと言ってセルにペラペラ語らせる場面があるんだけど、あれはまあまあ自然な気がするんだよ。でもあれもセルはドジってるんだけど、「気づかなかったとはドジだな」って言ってるし。まあ不自然かー。要するに問題点は、相手のドジに期待する脚本・プロットになっちゃうってことだよね。

タケハル:裏を返せば、そこまで分かってるのになぜ使っちゃうかってところ。それはやっぱり必要性があるわけで、ピッコロとセルの話でいえば、セルの設定がわからないとこの先読者がついていけないだろうっていう作る側の恐怖がある。まんがの場合は毎週連載するから説明しないと無理な気がするけど、映画に関しては勇気のある作家は説明しないよ。

その例でいくと、最近ですけど『テネット』ね。テネットは話がやたらややこしいんです。時間がひっくり返ったり。なんだけど説明全然しないんです。説明するとしても、グッとまとめてパパっとやる。映像とかの迫力で見てられるけど、たぶん家で観たら相当しんどいと思う。気が散ったら話わかんなくなっちゃうから。金曜ロードショーなら絶対無理。CM入ったらもう無理ですよ。何の話かわからなくなる。

Dain:『テネット』は見てないけど、物語の世界の中で物語をペラペラ説明されるとがっかりする。それがネタとして使われてて、しょっぱいなっていうのはさっきのボイスレコーダーにつながるのかな。物語の世界なんだから、説明のセリフではなくて行動のセリフとか絵で見せてほしいと。西暦何年、人類が絶滅に危機にーとか、映像を数秒流せばわかるじゃんって。高望みなのかもしれない。でもディズニーだったらやってくれって思う。

タケハル:これをさらに応用してるのはスターウォーズです。要は冒頭に文章でどかどか説明しますよね。あれは思いきりましたね。伝統芸能化してる。

スケザネ:あれやらせてもらえたら楽だなあ

タケハル:あれがなぜ許されてるんだお前らはって思うね。

ネオ:『アオイホノオ』というまんがで主人公がスターウォーズを「途中から始まって途中で終わる」と言ってるけど、まさに冒頭字幕はそういうことだね。

スケザネ:あと10分なので締めに入りましょうか。

Dain:前回の様子をブログで取り上げたとき、反応よかったです。スケザネさんやタケハルさんの物語のとらえ方が素晴らしいとか。

ネオ:ネオさんは何が素晴らしいとか言ってました?(笑)

Dain:ネオさんのことは特に何も(笑)

スケザネ:さてまとめに入りましょう。自分としても色んな視点を得られました。この会を通じて、見落としがたくさんあったことにも気づけて面白かったです。最初に戻ると、タケハルさんの「シーンが多いのにテンポがいい」とか、なるほどと思いました。ズートピアの続編の話とかも面白かったです。

タケハル:やってみて、Dainさんのレジュメあるなしではだいぶ変わりますね。これあるおかげでスムーズな議論ができました。シーン一覧もそうですし、資料の一覧も非常にありがたかったです。あとはスケザネさんのボイスレコーダー理論も納得でした。トイストーリーのことも勉強しないといけないなー。

ネオ:次回は『レディ・プレイヤー・ワン』でやろう。

※1 『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術』シド・フィールド、フィルムアート社、2009

※2 『シド・フィールドの脚本術』p.167

※3 『カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?』松原始、山と渓谷社

※4 『ディズニー ズートピア ビジュアルガイド』KADOKAWA


ちょうどこれを書いているときに、ズートピアのアニメシリーズ化が発表された。

ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオが制作し、『Zootopia+』(ズートピア・プラス)になるという。

シリーズものだから、おそらく、ジュディ&ニックのバディもので、ズートピアを舞台に、いろんな事件を解決していく展開になるのかと。「ズートピア」という世界観をいじらず、「勇気を持ってマンネリ化」した企画に拍手!

この楽しい場所を作りだしていただいた、ネオ民さん、スケザネさん、タケハルさん、ありがとうございます! そして、ご視聴&チャット参加いただいた「物語の探求」メンバーの皆さま、ありがとうございます! さらに、文字起こしをご協力いただき、ありがとうございます。

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平和を欲すれば戦争に備えよ『戦争学入門 戦争と技術』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年12月20日


誰だって戦争は反対だ、平和がいいに決まってる。

しかし、

平和のことだけ考えていれば、争いごとは起きないのか? 世界中の武器を廃棄し、二度とそんなものを作れないようにすれば、戦争のない世の中になるのだろうか?

そんな疑問を抱えながら「戦争学」を紐解くと、戦争とは社会と緊密に結びついた事象であることが分かる。各時代の技術の発展と軌を一にし、戦争「だけ」を分離・根絶するのは難しい。今のところ、戦争を囲い込み、飼い慣らすしかないように見える。

では、どうすれば、戦争を囲い込むことができるか?

戦争を研究するしかない。

しかも、これまでの「軍事学」や「防衛学」、あるいは「安全保障学」のような軍事・地政学的なアプローチではなく、もっと領域を広げる必要がある。戦争とは、人類が営む社会的な事象なのだから。

『戦争と技術』は、技術の領域から戦争を考察する。どんな技術が戦争に利用され、それにより戦争がどう変化し、さらに戦争が技術をどう進化させてきたかを振り返る。

鐙が騎士を最強にする

たとえば、「鐙(あぶみ)」の戦争への応用が面白かった。

鐙は足を乗せて身体を安定させる馬具で、遊牧民族がルーツと言われている。ヒストリエの第6巻で知ったのだが、古代ギリシャや地中海沿岸では、まだ普及していなかったようだ。

6

これが、中世の騎士にとっての技術革新となる。

鐙は、7~8世紀にヨーロッパに導入されたのだが、そのおかげで踏ん張りがきいて、槍に体重をかけて敵を撃破できるようになったという。鐙の導入だけでなく、重量のある鞍、蹄鉄の発達により、人馬そのものが衝撃武器と化した。馬のスピード&機動力と、重装甲・重装備の組み合わせは他を圧倒し、騎士は、戦場で無敵の存在となった。

騎士は戦争の主力となり、領主は騎士を抱えようとする。ところが騎士の装備は高価であり、馬の世話や従者など、サポート要員が必要だ。

そこで領主は家臣に土地を分け与え、家臣は土地からの収入で騎士を雇い、武具や装備を購入できるようにした。騎士は見返りに忠誠を誓い、軍役に就くことを約束する―――封建制の始まりである。

鐙の登場が、封建制度をもたらす触媒として働いたと考えると面白いが、本書ではもっと慎重に、「封建制度の説明に役立つ技術であったが、この制度をもたらしたものではない」と釘を刺している。

火薬が騎士を追い落とす

東洋で発明された火薬を、殺戮のイノベーションにまで高めたのは西洋だ。そして、火薬がもたらした変化は、城壁から社会制度まで多岐に渡る。

それまで、城塞の壁は、高さこそあれ、それほど頑丈なものではなかった。そのため攻城砲が登場すると、城壁は簡単に穴をあけられ、そこから歩兵が突入できるようになった。

攻城兵器のバリエーションとして、投石器で打ち込む、梯子をかける、破城槌など、さまざまなものがあった。だが、火薬革命が、遠距離攻撃の一つにイノベーションを生み出したのだといえる。

戦力の中心が、貴族が提供する騎士から、平民が運用する大砲になると、税収のリソース配分も変化してゆく。

領主は騎士よりも大砲を抱えるようになり、自前の歩兵隊を育成し、軍事力を独占する方針になる。家臣に分け与えていた土地を独占し、その課税による収入を、高価な大砲へ集中させるようになる。この過程を通じて、封建制→王政→絶対王政へと至るようになったというのだ。

同時に火薬は、銃手の地位を高め、騎士を追い落とすことになる。

それほど訓練を受けていない平民であっても、引き金を引くだけで遠距離から殺傷できるようになった。弓矢やクロスボウを防ぐために、甲冑はどんどん厚くなっていったが、銃の登場が無効化させることになる。結果、平民の地位を向上させ、貴族を危機にさらしたという。

「槍の穂先」のメタファー

さらに火薬は、兵站の重要性をさらに増すことになる。

これまでは、遠征の馬のための飼料が兵站の中心にあった。だが、大砲や銃器がメインとなると、弾薬や燃料、補修部品が格段に増えることになる。荷馬車のためのオーツ麦は行軍先にあるかもしれないが、大砲や銃の修理道具や交換部品は、遠征先で見つからないかもしれないからだ。

当然、遠征軍の補給線はこれまで以上に伸びることになり、敵勢力による格好の的になる。そして、そうさせないための警護や支援兵が増強されることになる。

つまり、火薬革命は、大砲や銃といった前線の火力だけでなく、その兵站も変えることになる。実際にダメージを与える兵器よりも、それを支える補給や非軍事技術のほうが重要になってくるというのだ。

本書ではこれを、「槍の穂先」で喩える。

最古の戦闘は、単純な武器である石や棍棒、槍、ナイフで始まり、支援はほとんど必要としなかった。しかし、時を経るとともに、防具、兵站、情報、通信、輸送、医療の支援こそが、勝利を左右するようになる。

すなわち、目標を攻撃する「穂先」よりも、それを支え・目標へ届ける「柄」の方がリソースを必要とするようになったのだ(21世紀では、「柄」に相当する要員や物資が、軍全体の90%を超えた)。

戦争を囲い込む:軍事用ドローン対策

わたしは、「軍事技術」という言葉から、銃器や核兵器といった「攻撃する技術」を思い浮かべる。だが、本書がくり返し強調するのは、そうした攻撃する技術を届ける「柄」の重要性だ。

たとえば、トレンドなら軍事用ドローンだろう。

本書の主張を適用するなら、施設や人を攻撃する「穂先」としてのドローンではなく、「柄」となる部分―――すなわち、それを生産し、現場まで届け、展開する輸送システムや、適切なタイミングで交代・充電させ、作戦を続行するプログラム、さらにこれらを統括するマネジメント要員―――これこそが、重要となる。

そして、軍事用ドローンに対抗する術としては、同じようにドローンを展開させるのではなく、相手のドローンの補給システムや電波リソースにダメージを与える方が、より効果的と言えるだろう。

したがって、ドローンの行動を阻害したり、誤判断させるジャミングや、目標そのものに電波的迷彩を施すといった技術を開発することで、「穂先」同士の戦争を抑止することにつながるかもしれない。

以上はわたしの妄想だが、戦争を支える技術は、社会を支える技術でもあるのだ。

 

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『君の名は。』の初期プロットと、グレッグ・イーガン『貸金庫』の関係

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年12月27日


きっかけは、グレッグ・イーガンのこのツイート

“『君の名は。』を観ました(私の短編『貸金庫』にインスパイアされたらしいけど、プロットは全く違う)。ちょっと甘ったるい所もあるけれど、全体的に素晴らしく、美しいビジュアルでした。”

おお! ハードSFの巨匠が、『君の名は。』を観たのか! 一挙に湧いた親近感と、”あの”イーガンがtwitterで呟いている気安さも相まって、おもわずこんな呟きをした。

Dain(筆者):グレッグ・イーガンの『貸金庫』、読んでないのですが、肉体を持たず、一日ごとに宿主(人間)が変わる意識が主人公の物語みたい。おそらく、イーガン先生、『とりかえばや』『転校生』『おれがあいつであいつがおれで』みたいな、男と女が入れ替わる物語を知らないのでは?

すると、こんなコメントをいただいた。

T. Hashimoto:“こんにちは。『君の名は』を監督した新海誠さん自身がインタビューで「貸金庫」からの影響に言及しているんです。

マジですか! と、紹介いただいたリンク先に行く。『君の名は。』の公開直前のインタビューで、「新海誠監督オススメのSF作品は?」への回答として、グレッグ・イーガンをとり挙げる。

新海誠:「あり得たかもしれない自分」とか「こうではなかったかもしれない自分」、あるいは「災害などがなかったかもしれない日本」という言い方もできますけど、そういう並行世界的な想像力に貫かれた作品を初期の頃は書いていて、中でも短編集『祈りの海』に収録されている「貸金庫」という物語は、毎日、違う人になる話なので、少し影響があるかと思います。([FILMERS.2016.8.22]より)

なんと! 新海さん自らそう語っているとは。知らなかった……さらに、新海&イーガンで、エールの交換をしている。

新海誠:とても光栄です。あなたの『貸金庫』は、初期のプロットを作るうえで、インスピレーションを得た作品の一つです。目覚めるたびに違う身体になっているヒロインの物語です。
グレッグ・イーガン:ありがとう! あの物語があなたに強く印象付けたことを、光栄に思います。
新海誠:世界中の人たちと同じように、あなたの数々の作品によって、大きく心を動かされてきました。次の作品を楽しみにしております!

恥ずかしい……「イーガン先生、知らないんじゃね?」なんて言ってた自分が恥ずかしい。穴掘って埋まっていたい。T. Hashimotoさん、ありがとうございます。ご指摘いただかなければ、ずっと知らなかったままでした。

この会話で紹介されていたのが、『君の名は。』の最初期のプロット。

目覚めるたびに違う身体になっている女性が主人公で、「幼いころからくり返し見た夢。自分は知らない人間になっていて、知らない場所で、知らない友達がいて、言葉も通じず、最後は決まって、空にまばゆい彗星が見える」という物語だ。

『君の名は。』の最初期のプロットヴィジュアル
(
新海誠のツイートより引用)

Yourname

どうしても気になるのが『貸金庫』だ。

『君の名は。』と比べて、どこが似ており、どう違うのか? あの入れ替わりのアイデアの源泉を探るべく、読んた。そして、『君の名は。』のロマンチック・ラブではなく、「自分とは何か?」という根源的な問いに向き合う、切なすぎる物語だと分かった。

30ページと少しの、短い、ほんとうに短い小説だ。

自分の奇妙な人生をモノローグで振り返り、最後に、ある決意をする男の話だ。男は、目覚める度に別の身体になっており、その身体の「ふり」をすることが、「わたし」の日常になる。

この能力(?)は、何かのきっかけに生じたものではないようだ。なぜなら、最も遠い記憶でも、「両親」は毎日変わっていたから。

睡眠をトリガーとして発生することは、『君の名は。』と同じだ。だが、三葉と瀧のように特定の人と入れ替わるのではなく、同年代の人に毎日乗り移る感じ。また、岐阜と東京という距離間はなく、同じ街の人の身体になる。

身体の本来の持ち主を、「わたし」は宿主と呼び、宿主の特徴や住んでいる場所を、ノートに記録しはじめる。このノートを隠しておく場所が、「貸金庫」なのだ。

なぜ、こんなことが起きているのか、「わたし」とは一体誰なのか、こうした謎が、物語の終盤で明らかになとき、やるせない思いに胸が苦しくなる。そして、それでも、「わたし」が踏み出そうとしている、明日という日に、胸を撃たれる。

「わたし」とは何か、記憶とは何か、自分という存在を定義するものは何か? ややもすると、哲学的思弁に陥りがちなこうした問いに対し、ひとつの男の決断という形で、応答している。

イーガンの凄さを改めて知るとともに、揶揄していた自分が情けない。逆だったんだ。イーガンのこの短編が示した、「わたしとは何か?」への応答が、『君の名は。』になるんだ。

『祈りの海』に収録されている、『貸金庫』の冒頭を引用する。『君の名は。』のオープニングであっても十分なくらいだ。

ありふれた夢を見た。わたしに名前がある、という夢を。ひとつの名前が、変わることなく、死ぬまで自分のものでありつづける。それがなんという名前かはわからないが、そんなことは問題ではない。名前があるとわかれば、それだけでじゅうぶんだ。

 

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諸星大二郎『美少女を食べる』を読むと、自分が食べているものが信じられなくなる

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年1月3日


法外な会費をとり、秘密裏に開かれる「悪趣味クラブ」。不定期に開催される秘密の会合なのだが、そこで「美少女を食べる」という特別ディナーの席がもうけられる。

もちろん、リブロース(肩)やランプ(お尻)の肉を提供するのだから、少女の命はない。当然、料理人も、そのレストランも、罪に問われるだろう。そして、それを承知で食べるほうも犯罪に加担しているも同然だ。

しかし、そんなことがありうるのだろうか? いくら悪趣味だとしても、人を殺して食べるような外道が許されるのだろうか?

少女の写真やドレスが展示され、彼女が行方不明になったことを報じる新聞記事が回覧されるが、招待客は半信半疑だ。

これは、そういう雰囲気をつくり、思い込ませることで、「少女の人肉料理を食べる」という背徳感やスリルを楽しむ、一種の演出、悪趣味なショーなのではないか? と疑い始めるのだが……

……この話を聞いて、どう思われましたかな? と続く。

Bishoujo

これが非常によくできているのは、枠物語の構成であるところ。枠物語とは、一つの物語の中に別の物語を含む形式だ。物語を虚構とさせないために、その物語の中の人が「こんな話があってね……」と語らせる。

美少女を食べる物語を、「そのまま」描こうとすると、完全なフィクションとして成立させる他ない。

例えば、そのまま描いたのなら、森山塔の『デマコーヴァ』を思い出す。キッコーマン1本分を浣腸され、痒みと苦痛に身悶えする様はグロテスクで淫靡なり。だが、描くほうも読むほうも「物語=虚構」というお約束を成り立たせている。

だが、諸星大二郎が描く『美少女を食べる』は、物語と現実を、どこまですれすれにできるかという試みる。そして、この物語は、読み手によって、いくらでも残酷にも滑稽にもなりうる。

おそらく、美少女を食べるお話は、いま描こうとすると猛烈な反発を食らうだろう。だから、いったん「こういう話があってね」とフレームに入れる。そして、その外側で真偽の吟味を図る―――という物語で見せるのだ。

同様に、両腕のない女の話や、女の〇を切り落とす話など、一見、受け入れがたい素材を、一味違った形で料理する。その諸星大二郎アレンジが大変面白い。どこかで見たことのある話のような―――と感じたら、それは正しい。巻末に元ネタがあるので、一通り読んだら答え合わせをするといいかも。

淫靡で禍々しい料理をご賞味あれ。

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「科学」と「正義」を混同すると、たいてい地獄ができあがる『禍いの科学』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年1月10日


アヘン、マーガリン、優生学、ロボトミーなど、科学的に正しかった禍(わざわ)いが、7章にわたって紹介されている。あたりまえだった「常識」を揺るがせにくる。

ヒトラーの優生学

たとえば、アドルフ・ヒトラーの優生学。

劣悪な人種を排除すれば、ドイツを「純化」できると信じ、ユダヤ人を虐殺したことはあまりにも有名だ。

だが、ガス室へ送り込まれたのは、ユダヤ人だけではない。うつ病、知的障害、てんかん、同性愛者など、医者が「生きるに値しない」と選別した人々が、収容所に送り込まれ、積極的に安楽死させられていった(『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』が詳しい)。

『禍いの科学』によると、ナチスの優生学は、ヒトラー自身が編み出したものではないという。出所は、『偉大な人種の消滅』という一冊の本で、ヒトラーが読みふけり、「この本は、私にとっての聖書だ」とまで述べたという。

『偉大な人種の消滅』はマディソン・グラントが書いたものだ。ニューヨーク生まれ、イェール大学を卒業し、弁護士として成功した後、自然保護運動で活躍する。バイソンやレッドウッドといった絶滅危惧種を救うことに尽力したとある。

グラントはそこで、「北方人種」の純血性を守れと主張する。茶髪か金髪の碧眼の白人こそが「純粋」で、米国人の遺伝子プールに劣等人種が入ってこないよう制限すべきだという。

この本は、科学専門書として扱われ、権威ある学術誌 ”Science” や ”Nature” 、”American Historical Review” で高く評価されるだけでなく、当時の大統領である、ルーズベルト、カルビン・クーリッジの両氏が絶賛したという。

現代の感覚だと非常識の極みだが、当時は真面目に採択され、1917年に、知的障碍者やてんかん患者の入国を規制する「移民制限法」が可決される。同年に公開されたハリウッド映画『黒いコウノトリ』は、欠陥のある者を抹殺し、国を救おうというメッセージが込められており、熱狂的なファンに支えられ、10年以上にわたって上映されたという。

さらに、医学会、科学界に支持され、強制不妊手術が合法化される。米国は断種合法化の先進国であり、知的障碍者、梅毒患者、精神障碍者、アルコール中毒者、てんかん患者に不妊手術が行われたという。

「人類進化を自己決定できる」という優生学は、より良い社会を作るために実行された。ナチスは、それを最悪の形で現実化したものだといえるだろう。

レイチェル・カーソンの欺瞞

もう一つ、わたしの「常識」が揺さぶられたのが、レイチェル・カーソンの欺瞞だ。

カーソンと言えば『沈黙の春』が有名だ。環境保護の重要性に目を向け、社会運動を起こした一冊で、20世紀の最重要100冊リストにも入っているのだが、本書は欺瞞に満ちているという。

『沈黙の春』というタイトルの理由は、下記の一節による。

かつて町では、夜明けとともにコマツグミ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイをはじめとするいろんな種類の鳥たちの声が響き渡っていたが、今では聞こえる音もなく、沈黙があたりを支配している。

なぜ鳥が歌わなくなったか。DDTを始めとする農薬のせいだ。DDTは鳥を殺す。鳥だけでない。元気だった子が具合が悪くなり、死んでしまう。女たちは不妊や早産に悩まされる。先天性異常、白血病、がん、肝臓病が増える―――と、環境汚染を警告する。

これ読んだ頃の時代の風潮なのか、アニメ映画『風の谷のナウシカ』や『複合汚染』(有吉佐和子)、『わたしの赤ちゃん』(日野日出志)のイメージと合わさり、わたしの中で、「DDT=猛毒」と結びついた。

『沈黙の春』は発売直後からベストセラーとなり、22カ国語に翻訳され、国際的な名声を博す。その影響は大きく、1970年の国家環境政策法を始めとし、様々な環境保護の法律を成立させ、環境保護庁、労働安全衛生局を設立させる。そして、ヤリ玉に挙げられていたDDTは禁止となった。

DDTの禁止は、最も恥ずべき行為の一つ

問題はここからだ。

世界各地でマラリア、黄熱、デング熱が大流行する。

DDTは、こうした病気を媒介する蚊に対して非常に効果がある。実際インドでは、DDT散布によって、年間マラリア発生件数は1億件から6万件に減少した(1952~1962)。ところが、DDTの使用停止によって、600万件に増加したというのだ(1970年代後半)。

他にも、ネズミ、プレーリードッグ、ジリスに寄生して感染症を媒介するノミにも効果があるという。こうした病気を事実上根絶できたことを踏まえて、5億人の命を救ったと推定されている。DDTは、歴史上のどんな化学薬品よりも沢山の命を救ったといっても過言ではないという。

DDTが禁止されることで、本来ならば死ななくても良い人(ほとんどが5才未満の幼児)が亡くなったという(『禍いの科学』p.208には「1972年以降、5000万人が命を落とした」とあるが、出典は書いていない)。

マイケル・クライトンは「DDTの禁止は、20世紀の米国において最も恥ずべき行為の一つだった」と書き、「私たちには多くの知識があったのに、そんなことはお構いなしに、世界中の人々が死ぬに任せ、気にも留めなかった」と述べている(同書p.209 ※1)。

さらに、カーソンの警告に反し、ヨーロッパ、カナダ、米国の研究により、DDTは肝臓病や早産、先天性異常、白血病の要因にはならないことが示されたとある(同書p.209)。

もちろん、カーソンがこうした追試研究を知る由もない。しかし、カーソンが知ってて伏せた統計情報が明るみに出されている。

カーソンは不都合な事実を伏せた?

それは、クリスマス・バード・カウント調査になる。年末年始にかけて行われ、ボランティアにより野鳥の数がカウントされる。1900年から毎年行われているイベントだ。

この調査によると、DDTが使用されていた期間は、全ての種類の鳥が増え続けていたという。カーソンは、ホシムクドリ、コマツグミ、マキバドリ、ショウジョウコウカンチョウが被害を被った事例に注目しているが、どの鳥も、5倍増えていたという結果になる。

レイチェル・カーソンは、全米オーデュボン協会の会員で、毎年のクリスマス・バード・カウントにも参加していた。だから、彼女が鳥の変化について知らなかったはずはない。にもかわらず、カーソンは、このデータを取り上げないことを選んだ(同書p.211)。

『沈黙の春』の文章は美しく、情緒豊かに強い説得力で、読者の心に訴えかけた。だが、それを支えるデータは少なく、誰かの目撃談や、具体的なエピソードに多くのページを割いているという。本書の結論はこうだ。

レイチェル・カーソンは科学者だと自称していたが、結局のところ、そうではなかった。彼女は、自分の偏った意見に合うように真実を捻じ曲げる論客だった(同書p.214)。

『沈黙の春』は、これまで見過ごされがちだった環境汚染に目を向け、社会を変える運動にまで変えていった。この功績は疑いようもない。その一方で、データよりも自説を優先し、助けられたはずの命を失わせた罪も大きい―――『禍いの科学』は、こう結論付けている。

「科学的に正しかった愚行」からの教訓

「科学的に正しい」として下された判断、実行された政策が、実は最悪の手だった―――歴史を振り返ると、そんな話が多々ある。

『禍いの科学』は、その原因を紐解き、教訓を探る。「データに基づいて考えよ」「時代の空気に流されるな」「毒も薬も量次第」など、有用なものも多い。これからの「科学的に正しい」判断を考える上で、役に立つだろう。科学的に正しいことと、それが正義であることは別なのだ。

だが、本書にも注文がある。レイチェル・カーソンの欺瞞を攻撃する根拠として、データの裏付けの乏しさをあげつらい、「データに基づいて考えよ」と説く。それにもかかわらず、本書でデータの裏付けが果たされていない。

『沈黙の春』の反証となる、様々な数値や研究成果が述べられているが、その出典が注釈に無い(※2)。かろうじて巻末に参考文献一覧があるが、本文のどこのエビデンスとしているか紐づけがされていない。データが全てというならば、隗より始めるべきだろう。

"Since the ban [of DDT ], two million people a year have died unnecessarily from malaria, mostly children. The ban has caused more than fifty million needless deaths. Banning DDT killed more people than Hitler."

“[DDTが]禁止されてから、マラリアにより、死ななくていい人が毎年200万人も亡くなり、そのほとんどが子どもでした。DDTの禁止が、死ななくてもいい5000万人以上の死を引き起こしたのです。DDTの禁止は、ヒトラーよりも多くの人を殺したのです”

※2 注釈や出典が明記されていないのは邦訳版であるから……という可能性もある(翻訳の際、注釈を切り捨てる出版社も多々あるから)。原書は手に入らないが、Goodreadsのレビューに "there are no footnotes or source citations for Offit's facts" というコメントがあり[URL]、Offit(著者)の主張を支える出典やソースが存在しないことがうかがえる。

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スピルバーグ『レディ・プレイヤー1』を通じて、物語を面白くする映像技術、共感手法、映像の力を語り合う(追記あり)

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年1月17日


物語に夢中になったことはないだろうか?

小説やマンガ、ゲーム、映画や舞台など、素晴らしい作品に出会ったとき、あまりの面白さに、あっという間に時が過ぎる。お話が終わり、我に返った後、あらためて、なぜそれを面白いと思ったのかは、気にならないだろうか。

  • その物語の「面白さ」はどこから来たのか
  • なぜ、自分が、そこを「面白い」と感じたのか
  • その「面白さ」は一般化/再現できるのか

こうしたテーマを視野に入れ、古今東西の「面白い」作品について語り合う。これはという作品を取り上げ、物語を作る人、楽しむ人、広める人など、様々な視点から「面白い」について語り合うオンライン会が、「物語の探求」読書会だ(ネオ高等遊民サークルの分室)。

今回は、映画に詳しいどぶ川さんをゲストにお招きして、スティーブン・スピルバーグの『レディ・プレイヤー1』をテーマに語り合った。面白い物語をどうやって映像にするか? 映像をどう工夫すると、物語が面白くなるのかなど、レクチャーしていただいた。

(以下、『レディ・プレイヤー1』のネタバレがあります)


<目次>

  1. 『レディ・プレイヤー1』=王道✖最新
  2. 「おじさん・おばさん」は必要か
  3. 観客の感情を計算したカメラの位置
  4. デブの白人がいない理由
  5. ちょっと不完全な方が、映画は面白くなる
  6. 人は動いているものをどうしても見てしまう
  7. ワンカットとは、記録でありドキュメント
  8. 『レディ・プレイヤー2』の可能性
  9. オマージュの物語作法
  10. 敵が強くないのは理由がある

スケザネ:始めますかそろそろ。今回のゲストはどぶ川さんです。

どぶ川:映画だけにどぶ川として名乗らせてもらいます。

ネオ:簡単に自己紹介をお願いします。

どぶ川:元々映画が好きで、若い頃から映画館で働いてて、映画製作とかにも携わっていた時期もありました。ネオさんに映画のことを教えたりとかしてて、そんな中で今回、『レディ・プレイヤー1』について話してくれって言われたので、今回参加しました。

ネオ:『レディ・プレイヤー1観ろって言ったのもどぶ川さん。彼が働いていた映画館にも何度か足を運んでいたりして、一緒に映画を見に行ったこともあります。

スケザネ:ネオ民のマブダチということで。

ネオ:(笑)そうですね、映画を観る見識は確かなので、本日お越し頂きました。

一同:よろしくお願いします。

ネオ:画面共有のスライドを中心として、どぶ川さんに説明してもらいます。質問、コメントがありましたらチャットでお願いします。皆さん、映画は見ている前提でお話をしましょう。

1. 『レディ・プレイヤー1』=王道✖最新

どぶ川:『レディ・プレイヤー1』の面白さとしては、まずは題材でしょう。SNSのゲームで、たとえば『どうぶつの森』なんかが、レディプレイヤーワンの世界の先駆的なものなんかだと感じてます。

  • ゲーム(仮想空間)が現実に介入している。もしかしたら「あるかもしれない」未来
  • 「あるかもしれない」と思うことで、感情移入しやすい
  • ここをベースにして、世界を救うボーイ・ミーツ・ガールという鉄板の物語を展開している

いったん、「あるかもしれない」とリアリティを感じさせたら成功で、あとは共感とか納得できたら、感情が入りやすい。この世界をつくったあと、超・王道である「世界を救う」「ボーイ・ミーツ・ガール」という、アメリカ映画の超・鉄板をやっている。王道✖最新を掛け合わせている。それが題材としての面白さになる。

だけど、面白い題材と物語をどう撮影するか? どう映像にするか? それが映画なんですよね。だから、画面で何をしているか、どんな人物が、どんなふうに映っているか、それをポイントに話します。

まず、オープニングですね。世界観の説明で、2045年かな、縦に積まれたトレーラーハウスの街並みを映しながら、主人公のモノローグから始まります。

もう、これ自体でワクワクするでしょ、子どもの基地みたいで。この、ハリボテ感が崩れそうでドキドキ感があるから、見ちゃいますよね。子どもが高い所へのぼっていると、もう目を離せなくなる、どうしても見てしまう画面なんです。このオープニングから一気に、感情移入させているんです。

スケザネ:なるほど! このオープニングは凄く引き込まれました。緻密に描かれてて、どんな世界なのか説明できちゃっているので、男の子がごちゃごちゃ言わないで、この映像をクローズアップしてくれているだけで良かったんじゃないかな、と思いながら観てました。

どぶ川:確かにそうかも……なんでスピルバーグがそういう風に「緻密な映像+男の子のモノローグ」にしたのかなと考えると、おそらく、物語に早く入りたかったんじゃないかと。だから一気に説明したのかなと。

スケザネ:すごい説明してましたよね、序盤。

どぶ川:世界の説明は中だるみもするし謎解きでもないから―――謎解きはゲームの中であるからいいでしょって、僕もそこまで細かい設定は覚えていなくて、何となくでいいでしょっていうアメリカの大雑把な感じが出ているんじゃないかと。

2.「おじさん・おばさん」は必要か

スケザネ:でもこれ、結構要素が多いんですよ。主人公の家庭環境とか、おじさんとおばさんが出てきちゃった時点で覚えるところが多い印象でした。

どぶ川:おじさんとおばさん、一応は必要だけど、キーになってはいないですよね。

スケザネ:変にあのおじさん、キャラ立っちゃってて、もっと出てくるのかと思ってたら……ちゃんと死んでて。

ネオ:爆死しましたからね!

一同:www

どぶ川:たいしていい所もなく、死に際の何かもなく、爆死しましたからね。

スケザネ:絶対あのおじさん、後半のアバターの中で再登場すると、俺は信じてましたからね。ホントに死んだんかいって。

どぶ川:もしかしたら、脚本つくる上で色々考えたんだけど、時間やらなにやらで「もういいや!」ってなったのかも。スピルバーグは、そういうところがあって、結構残酷なんですよね、「人」に対して。

Dain:おじさん・おばさんの肩を持つわけじゃないんですけど、「世界を救うボーイミーツガール」という物語を作るうえで、絶対必要な要素―――試練―――というのがあって、それが「おばさんが死ぬ」という出来事だったんじゃないかな。

親代わりのおばさんが死んで、主人公は復讐として立ち上がらなければらない。しかも、おばさんの死をただ起こすだけでなく、何らかのひっかけ、トリックが必要で、それがおじさんだったんじゃないかと。

どぶ川:家庭内のやり取りで、おばさんだけだったら、何となく流しちゃうかもしれないけど、「嫌なおじさん」がいることで、結局爆死はするけれど、盛り上がるんですよね。

スケザネ:あの荒廃とした時代状況で説明がつくんじゃないかと。極端な話、親がいない、どこかの施設の鬱屈した少年でもできたんじゃないかな。で、現実の世界は嫌だ、だから俺はゲームの世界で生きるんだ、というので十分だったと思う派です。

どぶ川:物語の経済性とかも考えてみても、どちらに転んでもおかしくなかったんじゃないかと。スパイスとしてどんな味付けをするかという話じゃないかな。

スケザネ:このお話、舞台立てが違う、世界が違う、さらに主人公はこんな家庭環境です、とバンバン説明しないといけないし、それを(観客が)理解しなければいけない。なので、序盤はすごい大変です。

もし俺がこの物語をするのであれば、受け手側に少しでも情報量の負担を減らしてあげたいなって思うんです。なので、おじさんとおばさんの情報量を減らしてあげたいな、っていうのが一番です。

旅立つ理由として「おばさんの死」は分かるけれど、後半になっておばさんの「お」の字も言わないじゃないですか、「おばさんの仇だ!」とか「みんなの仇だ!」とか。なんで、本当に犬死にだったな。

どぶ川:それが映画の面白さにもなってて。ちょっと前のことをすぐに忘れて、常に「今」だけで「その場」だけで生きていくっていうのが、映画を面白くすることがあるんです。物語を語るものなら小説とかあるんですけれど、映画って不完全なものが面白がられたりするんで、そこが不思議なところなんです。でもやりすぎると情報過多になって、観るほうが付いていけない時も出てきますね。

Dain:この映画を観る人の入りやすさ、「共感」からすると、「トレーラーハウスに住んできた」世代になるんじゃないかと。裕福でない貧しい人々、家庭の事情でおじさん・おばさんに引き取られて暮らしてきた人なのかしらんと思ったり。

今は地面に並べているけど、未来は縦に積み上げられているトレーラーハウスに住んでて、現実逃避したい少年って、「俺じゃん」「俺が昔そうだったじゃん」ってなるのでは。未来の話だけど、今と繋がっているための装置としてのトレーラーハウスとおじさんおばさん。

3.観客の感情を計算したカメラの位置

どぶ川:IOIの社員がゲームやるシーンのあたりとか。スピルバーグの表現の一つとして、「ゲームをやる人の姿」を、引きで、客観的に撮ることで、間抜けに見せています。やってる人は必死だけど、冷めた目でみたら、これでしょって。人の愚かさとかが皮肉めいてて、見てて面白くて、楽しい気分になります。

スケザネ:言われてみれば……! 確かにそうですよね。

どぶ川:これ逆に、カッコよく撮ると、ダサいんですよ。すげーカッコいい俳優さんが、はぁはぁ言いながら、何もないところを空を切ってパンチするって、ダサいんです。

Dain:こんな風にゴーグルかけてやるVRゲームで、”Beat Saber” というのがあるんですけど、その実況を思い出しました。前から飛んでくるブロックを両手のコントローラーで斬っていくんです。で、ゲームの中の映像を見ると大迫力ですげーカッコいい。一方、それをプレイする人そのものを撮って実況しているのを見ると、おっさんが汗だくになってふうふう言いながらやってて、めちゃカッコ悪い。

どぶ川:やっぱカッコよく撮ると、現実とは別物になるから、感情移入しにくくなる。観客に入りやすくするために、最初は「ゲームの外」から「引き」で面白可笑しく撮っている。

逆に最後の方とか、ウェイドがみんなに呼びかけるシーンでは―――ウェイドはイケメンじゃないんですけど(笑)―――ゲーム内のウェイドで撮っている。そこはちゃんとシーンの目的に合わせて使い分けている。

結局、このシーンは物語上どんな位置づけで、どんな感情を呼び起こす目的なのかを考えて、カメラの位置ってものが変わってくるわけですから。

Dain:なるほど! カメラの「位置」なんですね、考えたこともなかった。本人は必死なんだけど、この踊ってるかのように見えるためには、引きで撮るための位置にカメラがあるんですね。これ、アップで撮るとまた別の印象になっちゃうから……

どぶ川:そうですね、これ、後の説明にも出てきます。でもその前に、主人公メンバーの話を……ウェイドといい、その仲間といい、主人公メンバーがイケていない。これがいいんですよ! ギャップがあって。またストーリーに没入しやすくなるって。

スピルバーグって、もちろんイケメンと美女の映画もあるんですけど、そうじゃない人を撮るのがめちゃくちゃ上手くて、僕そっちの方が好きなんです。なぜかというと、美男美女だと映画の邪魔になるんですよ。これが例えば、ディカプリオとかブラピとかジョニーデップなら、もう映画が成立しなくなっちゃう。なんでもない奴らが大活躍する、という。

ゴーグル付けてもカッコいいって、ないでしょ。めちゃくちゃアホな姿です。その辺のキャスティングが上手い。物語の邪魔をせず、「どこにでも居そうな」感がある人が活躍するというのは、共感があって見てて気持ちがいい。

4.デブの白人がいない理由/原作だと「ぽっちゃり」

Dain:ただ一つ、キャスティングに違和感があるんです。これ、「ゲームの世界」をテーマにした映画でしょ。そして、白人、黒人、アジア系、女性など、色々な属性を入れているけど、「デブ」がいない。

僕の中の「ゲームが好きな人」のイメージとして、ピザとかコーラが好きで、コンピューターに詳しいというのがあるんです。確かスピルバーグの作品で『ジュラシック・パーク』の最初に出てくる、エンジニアの人。あの印象が強烈で、ペプシが好きでピザが好きで、めちゃくちゃ太ってたんですよ。

一同:いたいた!

Dain:そいつが恐竜の胚か細胞を盗み出して道に迷って酷い目に遭うところも含めて、「あいつデブだったよな」と覚えてるんです。今のでこれ思い出して、『レディ・プレイヤー1』にデブの白人がいない、ということに違和感があって、ちょっとだけ評価が下がっているんです。ピザとコークが大好きなデブが大活躍する話だったら、手放しで絶賛してたと思う。

スケザネ:言われてみれば……あんまり、メインメンバー以外にも太った人いなかったような……やっぱりあのゲームが身体を動かすから?

どぶ川:一人いました。会社でゲームの研究者の人。ラストでキスしてた。あと、オープニングのボクシングやってるおばちゃんかな。ちょっと太っている。

でもなんで太った人が少ないんだろう……と考えると、やっぱり主人公メンバーって、最後にアクションするんですよね。だからじゃないかと。あと、悪役の会社の社員って、SPとかそういう立場だから、太った体形にしなかったのでは。

スケザネ:「貧しい人たちが現実から逃れるためにゲームをやっている」という設定だと、貧しいが故に、必然的に太れない。会社にいる研究員は、給料も沢山もらえてているから……という説明が付かないかな。

どぶ川:同じこと考えてました。それ、スピルバーグがインタビューで聞かれたときの後付けの答えかなと。僕としての答えは、単なる撮影上の制約で、最後のアクションシーン撮るときに太っていると大変なので外したんだと思います。

Dain:いまチャットで、ゆすもひさんが面白いコメントしてて。原作のウェイドは太ってて、見やすく寄せたことが批判されているってあります。ソースはネット情報なので不確かですが。

どぶ川:ですねー、その辺は映像化する上での印象が大事だから、色々あったんじゃないかなと。

Dain:「アメリカ人でゲーム好き」っていうと、太ってるという印象があるから、どこかで入れないと。

どぶ川:『ジュラシック・パーク』だと、コンピュータに詳しい人で、ほとんど動かない。そんな設定があって、彼のスパイスとして、ペプシとポテチが大好きというキャラクターが生きるんだけど、『レディ・プレイヤー1』に関しては、どこにどういう風に入れるかが、すごく難しい。たぶん、原作のウェイドをまんま映画にしてないんじゃないかな。

スケザネ:エイチとかは、車を運転するだけでアクション少ないし、ゲームだとアイアンジャイアントを動かすとか、ゆっくりどっしりとした動きだから、太ったという属性が生かされるキャラになると思う。

どぶ川:エイチ、僕も現実に出てくるまで太ってると思ってました。

スケザネ:そんな話してたじゃないですか、ゲームとは全然違ってて、現実だと体重〇キロのデブだったらどうする!? ってセリフ。むしろサマンサのビジュアルがどうくるのか、気になってましたね。

どぶ川:何千億とかかけてエンタメのビジネスとしてやるからには、あんまり現実に寄せすぎるのも……

5.ちょっと不完全な方が、映画は面白くなる

どぶ川:逆走するシーン。ここは外せないですね。絶対にクリアできないステージで、謎を解明して、発見する面白さや、ゲームのゲームの中身が見えてる、裏技のような感覚と、「やったぜ!」勢いを表現したスピード感とか。子どもの頃、スーパーマリオで、画面の上を走る感覚が思い出されて、主人公と一緒に必死になってやってて嬉しい気持ちと重なります。

スケザネ:逆走したら勝手にクリアするのかな? と思ったら、「下」を通るんですよね、これはびっくりしました。

どぶ川:恐竜が下から出てくるとき、床がせり上がるようなギミックとかね、ゲームの仕組みが全部見えてる。

ネオ:あれだけ苦労しててクリア不可能だったステージが、楽勝で走れる爽快感というか。

どぶ川:「楽勝感」ってのがいいよね。なんか共犯的な感覚。裏技って悪いことじゃないんだけれど、なんかズルしている感覚というか。生理的に共感できる。そこまで持っていかせるというのは、凄いことなんじゃないかと。

スケザネ:レースの尺って結構長いですよね。一回やって失敗して、もう一回やって、ただただひたすら面白いところ。でも世界の説明のところ、鍵がどうとか、サマンサと会って陰謀だとか詰めに詰め込んでいる。艶っぽいBGMが流れているので、そういう気持ちにさせたいのは分かるけれど、情報量が多すぎてちょっと付いていけてない。自分はシナリオ書く人間なので、観客をどういう気持ちにさせたい脚本なのか気にしながらみちゃうんですけど、ここは早くて感動できないなーと。

どぶ川:職業とか一切忘れて、もう一回観ましょう。

一同:www

スケザネ:観終わってから、これそういう目線で見る映画じゃないやって気づいて……

どぶ川:そうそう。さっき言った、映画ってその辺を中途半端にすることで面白くなるとか、辻褄を語る時間があるんだったら、そこは捨てて次に進んだほうが見てる方としては面白くなったりします。映画って多少不完全な方が面白くなったりするんですよね。

Dain:物語を語るところと、物語を見せるところが、スパっと分かれているのかなと思いました。この世界がどうなっているとか、どんな状況になっているとか、物語を説明するシーンと、ひたすらスペクタクルに魅せるシーンと、きれいに割れているのが、『レディ・プレイヤー1』なのかと。なので、また観る時は、このシーンはどういう「意図」で作られているのだろうという目線で見ちゃいそうな……

スケザネ:そうですね。1回目のときは考えながら観ちゃいましたけど、2回目はもう気にせず、ただただ楽しんで観てました、シャイニングのところとか特に。これだけ映像で見せるシーンで、横でごちゃごちゃ設定を説明したら台無しになってしまう。だから、あいだあいだで説明するしか。ただ、感情移入するには情報が多すぎるので、要素を削ったほうがよいかも……

ネオ:僕なんかは、ただただひたすら面白いと観たんです。一般的には、細かいところの辻褄とかより、このレースシーン「だけ」は皆覚えているんですよね。そしてこの映画が狙っているのはそこでしょう。

どぶ川:でしょうね。世界中の人にみせるものだし、誰が見ても面白いという映画をスピルバーグは目指しているから、こだわるところが違うのかもしれません。

6.人は動いているものをどうしても見てしまう

どぶ川:ウェイドとサマンサのアバターがダンスするシーン。自由なカメラワークで観てて気持ちがいいです。でもこれ、実写でやったら爆笑シーンになりますね。試しにアバターではなく、現実の誰かを当てはめてみると分かります。

この世界観でCGと実写を入り交ぜているからこそ、成立させていますね。

CGだけだと結構飽きるんです。なので実写だとこうなっているとか、飽きさせない工夫をしています。ゲームの中だと自由で、それこそ夢のような動きができるじゃないですか。それを成立させるために、現実の中での動きを考えている。

物語の構造として、ゲームの中での動きと、現実の動きの対比をキワキワで成り立たせている。これが凄いなと。一歩間違えれば、しょぼい作品にもなりかねないので。この対比が、『レディ・プレイヤー1』で一番チャレンジしたところじゃないかなと。

さっきの「物語の説明」シーンの実写のほうも全体的に、人が歩きながら芝居したり、カメラが動いたり、画面自体にアクションがあって観てて気持ちがいいですし、シーンの切り方も絶妙な感じで、何より観てて飽きません。人って、動いていると、どうしても見ちゃうんですよね。自然と見れるようにお芝居をつけて、撮っています。

あと、スピルバーグって、結構特殊なカメラワークをする人で、「今どんな風にカメラ動かしたの!?」というシーンもあって、しかもそこがすごく流麗なんです。

Dain:そのシーンで、「カメラがどこにあるのか?」「それがどう動いたのか?」って、気にせず観てました。次は、カメラの位置を考えながら観ますね。

どぶ川:ダンスのシーンとかで、カメラが360度パンとかしてて、けっこうこれ、めちゃくちゃな動きをしているんですけど、これはもちろんCGだからできるんだよなぁと感心しましたね。

7.ワンカットとは、記録でありドキュメント

どぶ川:次はクルマの中の格闘シーン。まず表情が面白い! でも、ここだけじゃなくって、クルマの中から転げ落ちるんですよね。そして、格闘から転げ落ちるまでワンカットなんですよね。皆さん、ワンカットって言って伝わります?

スケザネ:切らずにそのまま撮り続けるというやつ、画面を切り替えないやつ。

どぶ川:そうですそうです、例えば iPhone で録画するとき、ボタンを押して撮り始めて、次にボタンを押して停止するまで、これがワンカットです。

で、トラックから蹴落とされて地面へ転がり落ちるまで、これをワンカットで撮っているということは、編集でウソがないんですよね。かつ、「人が蹴とばされて落ちて転がる」というのが一つの記録になっているんです。ドキュメントなんです。

僕が映画を見る時に意識しているのは、ワンカットでどこからどこまで撮るかというところなんです。そもそもカメラとは「記録するもの」として生まれているから、ワンカットで撮っているところ=記録、ドキュメントになるんです

このワンカット、すごいことが起きているんですよ。人が蹴とばされてトラックから落ちて転がってるって。そういう記録なんです。そういうのをスピルバーグは、映像作家として入れてくる。映像の原理主義的なもので、「記録する」という観点から見ると、迫力があるんです、ウソがないから。観客は驚くんです、だって事故ですもの。事故が映っているんです。この顔も事故ですけど。

一同:www

どぶ川:だって映画じゃなくって、事故の映像とかあると見ちゃうでしょ。「世界の衝撃映像」みたいな番組やニュース。画面の力は強いから。だってこれ、こんな風に撮らなくたっていいでしょ。

Dain:その、「すっ飛ばされる一瞬」と、「転がっていく」というシーンを撮って、繋ぎ合わせれば、いわば安全にこの物語を進められるから? でもそうせずに、「飛ばされる→転がっていく」をワンカットで入れることで、これまでフィクションだった世界に、ノンフィクションっぽい迫力が出てくる……これが映像の力というやつ?

どぶ川:見ちゃいますからね、ワンカットだと。危ないとかそういったものはさておき、ここを割る人・割らない人が分かれてくる。で、割らない人の映画のほうが面白いと思う。

スケザネ:これだけ編集技術が進んでいるけど、やっぱりカットして繋げると、違和感とか起こるものなんでしょうか?

どぶ川:いや、違和感とかは残らなくて、昔から編集でできます。でも、割った時点で、カットとカットの間に、小難しく言うと、「見えない」時間が存在するんですよ。なぜなら、カットを割った時点で、時間が止まるから。そうすると、そのアクションというのは記録ではなくなってくるんですよ。

でもここはちゃんとワンカットの事故映像として意識的に撮ることで、迫力が違うんです。ワンカットを意識している監督というのは、映像の、画面の強さに対してすごく敏感になっているんです。そういう監督の映画は面白い

スケザネ:すごい勉強になります、これ意識してませんでした。

どぶ川:カットを意識してみれば、ちょっと映画の見方が変わってくるかもしれませんね。例えば、スピルバーグの『宇宙戦争』、これも実写とCGを織り交ぜてるんですけど、どこからどこまでがCGなのか、ワンカットで見せてくれて区別がつかない。カット意識して見てるけど、面白すぎて、途中からそんなことどうでもよくなってくる。

一同:www

どぶ川:『宇宙戦争』の最後のシーンのとこなんですけど―――皆さん良いですか、ちょっと触れちゃって。

Dain:どうぞどうぞ。

スケザネ:僕は全然大丈夫です。

どぶ川:『宇宙戦争』の最後のところで、ミサイルがエイリアンに当たるんです。それを引きで撮ってて、ヒューっとミサイルが飛んで行って画面奥の、ちょっとしたビルぐらいの巨大なエイリアンに当たるんです。それが、ワンカットなんですよね。

そのときに、「あ、当たった!」って感じがするんですよ。

これ、もし、「ミサイルを発射する」、「ヒューっと飛んでいく」、「エイリアンに当たる」と3つにしてもいいんです、ウルトラマンの特撮みたいに。でもそうしない。人が撃ったミサイルが飛んで行って、ビルぐらいの怪物に当たるんです。すると、「当たった!」て感じるんです。何気ないシーンなんですけど、いままで全然当たらなかった奴らに、当たったという感じが伝わる。

Dain:youtubeのこの辺? チャットにURL貼りました。映画観てない人はネタバレになるので注意して下さい。エイリアンって、あのトライポッドっていう三本足の奴ですよね。確かにワンカットで撮ってて、「当たった」って感じがします。

(開始2分あたり)

どぶ川:そうですそうです、ここだここ! 実はそれまで、一回も当たらないんですよ。エイリアンのある構造のせいで、今まで全く当たらなかった。ここで初めて当たるんですけど、ほんとこれ、何気ないシーンですけど、ここに拘っている監督は面白いです。

Dain:今のお話で、僕がなぜ、とある twitter の動画を見ちゃうのかな、という謎が解けました。何かというと、バスターキートンとかいう人の、昔のコメディというかアクションの動画なんです。トーキー時代の、音声も何もない白黒映画のシーンなんですけど、見ちゃう。

男の人が線路を走ってて、後ろから列車が追いかけてきて、危ない! って思ったら、ぴょんと飛び移ったり、ビルから飛び降りたりとか、昔の映画なんで合成でもCGもなくて、全部本人がワンカットでやってる。これを見ちゃうのは、ワンカットでやっている、ドキュメンタリーの映像の強さに惹かれているのかな、と思いました。

史上最高のスタントマン──バスター・キートンの物理学
https://wired.jp/2016/12/12/physics-greatest-stuntman/

どぶ川:そうです、キートンの映画は、そういった文脈で語られるんです。マスターニートンとはちょっと違いますね。

一同:www

ネオ:マスターニートンの動画も結構ワンカットで撮ってますねwww カットするのは何かトラブルとか、言えないこと言っちゃったときとかw 記録性ゼロw

どぶ川:で、ワンカットの力の話でオープニングに戻ります。映画が始まって、トレーラーハウスの住宅街の全景が映ってて、カメラが寄っていくんです。いつカットが切り替わるかなと見ていても、ずっと寄っていく。すると、あるトレーラーハウスの一軒から、少年が出てくるんです。いつ切り替えたの!? と思うんです。ぜったい切り替えたはずなんですけど、分かんないですよ。これをワンカットで撮ったスピルバーグって、やっぱ凄いです。画面の強さが一気に出ている。

トレーラーハウスの集合体はCGのはずです、でもそこへカメラが近寄って行って、そこのドアからなんでCGじゃない生身の人間が出てくるの? ってそれをやられたら、こういった世界なんだ、って思っちゃいますもの。ここミニチュアかもしれませんが、それでもどこかで切り替えているはずなのに分からない。これを開始数分でこのワンカットは凄い。スピルバーグって結構こういうことをするんです。

スピルバーグは、一番新しいものを映画の形で作ったな、と思いますね。

8.『レディ・プレイヤー2』の可能性

スケザネ:『レディ・プレイヤー1』2018年の作品ですね。これ、続編とか出るんでしょうかね、『レディ・プレイヤー2』みたいな。でもこれ、なんで、レディ・プレイヤー・「ワン」なんでしょうかね?

Dain:今ふっと思ったのが、昔のゲーセンに置いてあるアーケードゲームですね。英語で「Player One」「Player Two」とかあって、コインを入れると、「Credit」が増えて、スタートボタンを押すと「Ready」となってゲームが始まる。なので、『レディ・プレイヤー1』なんじゃないかな。

スケザネ:なるほど!

Dain:映画の中でコインを一つもらってライフが増えるというのは、あれは「Credit」の意味だったんですね。たぶん若い人はピンとこないかもしれないんですけど、100円入れるとピコーンとかいってクレジットが増えるんです。「コイン=クレジット=ライフ」なんです。ゲーセンに通ってコインをつぎ込んだおっさん向けのネタですね。

なので、『レディ・プレイヤー2』の物語をやろうとするなら、2人プレイの協力型か対戦型か分からないけれど、1人でやる話にならないかもですね。

9.オマージュの物語作法

ネオ:この映画って、パロディとかオマージュの形でいろんな映画やアニメやゲームが入っていますよね。バックトゥザフューチャーとかガンダムとか。ぼくはそれが大好きで、SNSやゲームの世界で、ありものを再現したり、まんがのキャラを自分のアバターにするって、まさに現実にあることをきちんと再現していると思います。自分の車をデロリアンにするとか。でも賛否両論ある。知らないとつまらないとか、内輪ネタになってるとか。そういう部分については皆さんどうお感じでしたか。

スケザネ:「元ネタを知らないと分からない」というシーンを作っちゃいけないでしょう。知らなくても楽しめるけれど、元ネタを知ることで、もっと面白くなるという感じ。続編を作るなら、一作目を見ていなくても最低限楽しめる。けれど、一作目を見ていると、もっと面白い作りにする。

『レディ・プレイヤー1』が秀逸なのは、元ネタを知らなくても大丈夫なように作られていることと、元ネタがストーリーに絡むとき、「元ネタを知らない人」が配置されているところ。

ネオ:『シャイニング』のとことか!

スケザネ:そうそう! あそこで全員が『シャイニングだぜ!』となったらダメで、あれはエイチが「シャイニング! 怖いの嫌いなんだよ」って言ってるのが良いんですね。知らなくても楽しめるし、知ってる人がニヤリとすればいい。

Dain:すごく細かいネタがあちこちにあって、『ターミネーター2』で親指立てて溶鉱炉に沈むシーンがありましたね。それだけじゃなく、細かすぎるかもしれないけれど、『ターミネーター2』で、主人公の男の子を引き取っているおばさんいましたよね? 最初のあたりで頭刺されて死んじゃうおばさん。あのおばさんが着ている服が、『レディ・プレイヤー1』で爆死するおばさんが着ている服と一緒だったんじゃないかな……違ってたらごめん。

スケザネ:それに気づくDainさんも相当変態だとwww

Dain:『バットマン』とか『ストII』とか、分かりやすいネタで楽しんでもいいし、もっと細かい、マニアックなネタもきっと散りばめられているはずで、そういうネタを探しながら観るのも楽しい、宝探しみたいな映画じゃないのかな。

スケザネ:『レディ・プレイヤー1』は、『スターウォーズ』とかメジャータイトルの形で何十年後までも残る映画じゃない、と個人的には思います。でも、数十年後にマニアの間では垂涎の的になる、未来のオタク向けの宝物ですね。

10.敵が強くないのは理由がある

Dain:あと、物語的なところで気になるのがあって。この場は、物語の面白さを探求する会じゃないですか。その観点からして、この映画でちょっと不満に思えるところがあるのです。それは、『レディ・プレイヤー1』は、「敵が強い」というセオリー通りになっていないところ。

物語を面白くするために、敵をとてつもなく強くする必要があります。それを打倒して世界を救うわけですから。なのに、敵のボス弱くね? と思っちゃうんです。簡単に言うと、「パスワードをそんなとこに貼っておくなよ」って。マヌケすぎる。

もっと冷酷無慈悲なやつとか、淡々と仕事するマシーンみたいな奴とか……と考えていくと、そんな「部下」がいたな! と思い出して。ドクロっぽいコスをしてた部下とか、最後にアクションしてた部下とか。たぶん、強さの属性を部下に分け与えたから、ラスボスが弱くなってしまったのかも……

スケザネ:これ、問題は「ボスを2つ設定したこと」かなと思います。結局これって、「カギを見つける謎解き」と、「世界を支配しようとしている敵を倒す」の、2つになっちゃってる。主人公としては、謎を解いて鍵を見つけたいという動機で動いているのに、悪人が邪魔をする。謎を解きつつ悪人を倒さなきゃいけない。

「悪人を倒す」ならガチンコで悪人にすればいいけど、謎を解くための尺が足りないから、パスワード貼り付けるようなマヌケにしないといけない。強すぎたら、倒すために時間が足りなくなる。謎と悪人、詰め込みすぎなんですよね。

もし、「敵を強くする」要素を盛り込みたいんなら、鍵の3つ目を門番とかにして、そいつを強くすればいい。物語を節約できる。

Dain:おお! この物語は2つの目標があったんですね。「謎を解く」と「悪人をやっつける」というゴールで思い出しました。大昔に観たやつで、少年少女が地図を見つけて宝探しをするというのと、宝を奪おうとする悪人をやっつけるのを、同時進行でする映画。

そのタイトルは、『グーニーズ』、たしかスピルバーグが作ったはず。冒険あり、謎解きあり、ロマンスもありました。

スケザネ:なるほど!

どぶ川:①世界を守る②ボーイ・ミーツ・ガールの王道ですからね。「悪人をやっつける」が①世界を守ることで、「謎を解く」が②ボーイ・ミーツ・ガールにつながる。やっぱり身体を張って好きな女の子を守るというので、最後はリアルで戦わなければならない……映画はそういう風にできているのかも……あれほどCG見せて、ラストはまさかの肉弾戦ですからね。そうすると、ボスをあまりに強くすると弊害が出てくる。

スケザネ:現実の世界の中にゲームがあるボーイ・ミーツ・ガール系で行くと、結末ってこうなっちゃうんじゃないんじゃないかな。ゲームの世界で頑張ることと、現実世界でどう生きるかのバランス取るのがとても難しい。ゲームの世界をあんなに頑張って守ったのに、週に2日もゲーム禁止してるんだって……

どぶ川:僕はわりとあのラスト好きですね。皮肉めいたユーモアが効いてて。ゲームばっかりやってないで、現実も大事っていう。ゲームばかりやってた主人公に恋人ができて、現実の良さにも気づいたというのが洒落てて良いですね、映画っぽくて。



100分に渡る長丁場で、どぶ川さん、スケザネさん、ネオさん、そして参加された皆様、ありがとうございました。

何といっても、映画に詳しい方の意見を伺えたのが大きい。自分が観た経験が、また違った角度から光を当てられ、「そうだったのか!!」と気づくのは、たいへん愉快な経験だった。撮影の仕方で、観客の感情が変わってくるところなんて、描写の仕方で読者の感情を揺さぶる小説と通じるものがある。これは、どぶ川さんのおかげ。

そして、物語を作る側の脚本家の方から、この『レディ・プレイヤー1』をレビューするという経験は、大変タメになった。映画を観てて、消化不良になっていたり、「ごちゃごちゃしている」という言語化しにくいフラストレーションの根っこは、物語の情報量の密度だったことが、スケザネさんのレクチャーのおかげだ。

さらに、こうした場を設けていただいたネオ高等遊民さんには感謝しかない。映画愛好家と脚本家のお話がいい感じでクロスして、思いもよらないタメになるお話が伺えたのは、ネオさんのプロデュースのおかげ。

この読書会の後、原作となった『ゲームウォーズ』(アーネスト・クライン)を手にしたのだが、展開が全然違ってて笑った。ウェイドもエイチもサマンサも、めっちゃ太ってた(予想通り!)。

そして、ネタが凝りに凝りっていた。「『卒業白書』でトム・クルーズが持て余してたクリスタルエッグみたいに」とか、「机の上にフォークト=カンプフ検査機があった」など、ページをめくるごとに80年代~00年代のネタがゴロゴロ出てくる。ラストの決戦では、ガンダムやメカゴジラだけでなく、エヴァ(たぶん初号機)や勇者ライディーンまで出すところなんて、おっさんどものツボを知りすぎているなり。

『レディ・プレイヤー1』の映画に「詰め込みすぎ」という印象があったが、原作を読む限り、めちゃめちゃスリムにしていることが分かる。

さらに、原作小説の続編も出ている。もちろんタイトルは、”Ready Player Two” で、「最後のイースターエッグ」を探す展開になりそう。紹介を見る限り、もっと強い敵が登場するだけでなく、人類存亡の危機になるという。

過去の「物語の探求」読書会はこちら。

第1回:面白い物語の「面白さ」はどこから来るのか? 『物語の力』を読み解く

第2回:物語を作る側の視点から『ズートピア』の面白さ、怖さ、凄さを語り尽くす


2021.1.24追記

『レディ・プレイヤー1』のネタを300個紹介する動画を見つけたのでご紹介。

  • VRゴーグルを掛けていたのがアタリ社のジョイスティック
  • ダンスフロアでの銃撃戦では、『エイリアン2』でリプリーが使ってたアサルトライフルで反撃
  • エイチのジャケットには「ロッキー・ホラー・ショー」のワッペンが貼ってある
  • ジル・バレンタイン(バイオ・ハザード)、ビートルジュース、フレディ・クルーガー(エルム街の悪夢)など、ホラー系も充実してた

等々、とにかくネタ満載だ。BTTFのデロリアンとか金田のバイクのような分かりやすいやつから、細かすぎて伝わらないものまで、300連発ノンストップで紹介する。

『レディ・プレイヤー1』を視聴された方なら、驚くこと請け合いの動画なり。ちなみに、「おばさんの来ていた服がターミネーター2のおばさんと同じ」というネタは無かったw

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文明と穀物の深い関係『反穀物の人類史』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年1月24日


人類は、狩猟採集から農耕牧畜へと進歩した。

穀物による安定した食糧生産が人々の健康を増進し、余暇を生み、文字や文明を育んでいった。文明を狙う野蛮人は、狩猟採集のままの生活で、文字を持たぬ遅れた未開の人々だった。

……と思っている? だったら『反穀物の人類史』をお薦めする。

著者はジェームズ・C・スコット、イェール大学の人類学部教授だ。メソポタミア、秦・漢、エジプト、ギリシア、ローマなど、文明の初期状態を検証することで、わたしが刷り込まれてきた「常識」に疑義を投げかける。

狩猟採集の方が豊かだった

まず、農耕社会が豊かだったというのは誤りだということが分かる。少なくとも、初期の農業は酷いもので、反対に豊かで多様性に富んでいたのは狩猟採集の人々になる。

その証拠として、残されている農民の骨格を、同時期に近隣で暮らしていた狩猟採集民と比較する。

すると、狩猟採集民の身長が、平均で5センチ以上も高いことから、栄養状態が良かったことが伺える。海洋、湿地、森林、草原、乾燥地など、複数の食物網にまたがっていたうえ、それぞれの季節に応じて移動していたため、食べものは多様で豊かだったと考えられる。

一方、農民の大半は栄養不足による骨の変形が見られ、歯のエナメル質の形成不足や、感染症に関連した病変が見られたという。これは、初期の農民の栄養状態が不安定だったことを示している。

では、どうして農耕生活でこれほど発展できたのか? という疑問が残る。著者は、農耕生活ではなく、農耕するための「定住」で説明を試みる。

狩猟採集民と比べて不健康で、幼児や母親の死亡率が高かったにもかかわらず、定住農民は繁殖率が高く、死亡率の高さを補っても余りあるほどだったという。

まず、定住しない人々は、意図して繁殖力を制限することになる。野営地を移動するため、子ども2人を同時に抱えて運ぶのは、かなりの負担になる。結果、狩猟採集民が子どもを作るのはおよそ4年ごとに間隔を空けるようになる。

対照的に定住農民は、短い間隔で子どもを作る負担が軽減される。さらに農作業の労働力として子どもの価値が高く、多く作るようになる。この違いが、5000年という期間に渡って、複利計算のように大きなアドバンテージとなったというのだ。

穀物が国家を作った

著者は、古代の初期の農耕についてある共通点に着目する。

それは、全て穀物国家だったという点だ。麦や米、ヒエ・アワ、トウモロコシなど、一定の時期に地上に実が成る穀物が、主要な食物であり、現物税の単位であり、農事暦の基盤を提供していたという。

わたし自身、米やパンを毎日食べているから、当たり前のように考えていた。だが、著者は、こう自問する―――なぜ歴史記録には、「レンズマメ国家」や「タロイモ国家」がないのだろう(※1)

レンズマメやダイズ、タロイモやキャッサバは、古代において作物化されていた。また、単位面積あたりのカロリーは、麦よりも多いものがあり、労働力あたりの効率は良いと言える。にもかかわらず、こうした作物が国家形成の基盤とならなかった。

著者は、穀物だけが課税の基礎となるという仮説を立てる。定期的に作物を収奪する人にとっては、麦や米の方が都合がいいのだ。

その理由は、古代の徴税役人の立場になって考えると分かるという。

穀物は、地上で育ち、ほぼ同時に熟すという特徴がある。つまり、徴税官にとっては、収穫時期に一回遠征するだけで、必要な分を収奪できる。農民は収穫、脱穀までしてくれるから、タイミングよく出向いて、倉庫から徴税すればいい。

これがイモ類だと地中に実るため、掘り出す必要がでてくる。麦よりも運ぶコストがかかる上、腐りやすいという欠点もある(そのため、地元民は、土中でイモを保存する)。

また、マメ類の場合、長期間にわたって継続的に実を付けることになる。実が熟すのに合わせて、いつまでも摘み続けることができる。ワンストップ・ショッピングで済ませたい徴税官にとっては、嬉しくないのだ。

地上で実っているのが目視で分かる。粒が細かいので分割や運搬に便利。保存が利いて、兵への分配も容易。さらに、同時に熟すので効率的に収奪できる―――こうした理由で、穀物は理想的な課税作物になったのだという。

文字の必然性

これ、言い換えるなら、課税に不適な作物で暮らしている人々にとっては、国家の範囲外になる。

つまりこうだ。狩猟採集や漁労、焼畑農業、遊牧を生業とする人々から課税するのは難しい。分散して移動している上に、生産物は多様で傷みやすい。

こうした人々を追跡し、課税することは、ほとんど不可能になる。国家の外側には、こうした収奪不可能な生業活動が、多種多様に広がっていたというのである。

しかし、そうした生業活動は、ほとんど記録されていない。国家にとって、記録する価値のない情報だからだ。

では、何が記録すべきものか?

著者は、収奪に必要な情報だという仮説を立てる。すなわち、人口や土地、家畜や収穫についての情報だ。さらに穀物の運搬や請求、領収についての継続的な記録管理のニーズを想定する。

実際、メソポタミアで文字が使われ始めた頃、ほぼ簿記のためだけに利用されており、500年以上も経ってから、神話や賛歌、王の年代記などが記されるようになったという。

その例として、ギルガメシュ叙事詩を採りあげている。この作品はウル第3王朝(紀元前2100年)頃だが、楔形文字が簿記の目的で最初に使われてから、ゆうに1000年もあとのものになる。『会計が動かす世界の歴史』で示された通り、文字より先に簿記が生まれていたのである。

中心と辺境の構造

著者はさらに、メソポタミア「文明」から見た「辺境」のコミュニティに着目する。

狩猟採集を生業としていたため、文字として記録されなかった人々だ。こうした人々は、文字の使用を拒絶していたという。これは、文字を持つだけの知性が無かったからではなく、むしろ、文字に備わる課税と支配の構造を回避しようとしていたからかもしれない。

文字を記す側である行政官からすると、国家という枠の外にある、徴税が及ばない連中になる。「文字を記す側=中央」と「徴税できない連中=辺境」の構図が出来上がる。

文字を記す側は、自分たちの権力の正当性や血統をプロパガンダする必要がある。自らを中央とするために、課税を逃れ、臣民にならない連中を、「辺境」として非難する必要がある。

この発想は、『遊牧民から見た世界史』で学んだ、中華思想そのものになる。中国皇帝が世界の真ん中で最高の価値を持ち、周辺に行くにつれ程度が低くなり、辺境より先は蛮族として卑しむ華夷思想だ。そしてこの傾向は、中国に限らず、文字を残したあらゆる文明に共通する。

わたしたちは、残された文字に書かれた内容から、当時を想像する他はない。だが、文字として残っていなかったからといって、存在しなかったことにはならない。

定住社会において、「中心」として自らの正当性を記録するのであれば、それは岩や石、粘土に刻んで焼くといった遺し方をするだろう(そして、まさにそれらが、いま見ることができる史料だ)。

だが、移動を中心とした社会では、たとえ記録を残すとしても、運搬に適さない重量物には刻まなかったはずだ。もっと軽い、竹や皮、繊維を編んだものに印をつけるといった手段を取ったに違いない。数千年の時を経て、どちらが残りやすいかを考えると、火を見るよりも明らかだ。

他にも、「暗黒時代」や「野蛮人」という言葉が刷り込んでいるバイアスを解いたり、文明の「発展」と、そこに生きる臣民の「幸福」を実証的に考察する。最新の考古学・人類学の論文や文献で、わたしの常識を揺さぶってくる。

常識を問い直し、自分で考え直す観点と材料が得られる一冊。

※1 南アメリカ大陸ではイモが主食とされていたはずでは……? と思ったのだが、本書では例外として挙げられている。インカ帝国ではトウモロコシとジャガイモに依存していたが、税作物としてはトウモロコシが支配的だったとある(p.120)

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人工衛星から遺跡を探す『宇宙考古学の冒険』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年1月31日


イタリアやフランスで、畑に模様を見かけたら、そこに遺跡がある可能性が高い。

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Wikipedia ”Cropmark” より

かつて、そこには石壁や住居の基礎があった。そうした構造物は、長い時間をかけてゆっくり土に埋もれてゆく。

地表に牧草などが根付いた場合、その根は深く伸びることができない。そのため、牧草の生育が悪くなり、上空から見ると、奇妙な模様が浮かび上がる(考古学で、クロップマークと呼ぶ)。

Diagramm bewuchs.jpg
Wikipedia ”Cropmark” より

クロップマークは、航空写真で確認できる。

だが、もっと微妙な、植生の健康状態の違いは、近赤外線データから読み取ることになる。人の目には同じに見えるが、近赤外線画像だと、クロロフィル(葉緑素)の違いは、赤色の違いによって判別できるからだ。

宇宙から遺跡を探す

この発想を広げて、人工衛星から撮影した画像データを元に、地下に眠る遺跡を探すのが、宇宙考古学になる。

単なる解像度の高い写真ではない。地上 640km から撮影された電磁気スペクトルデータを解析し、肉眼では見えない地下の遺構を浮かび上がらせる。

宇宙からだと、植生の違いだけでなく、地下を直接探すこともできる。

たとえば、「ヒートアイランド現象」の応用だ。これは、コンクリートが昼間の熱を吸収し、夜に放熱する現象で、結果、郊外に比べると都心部は高温になる。人工衛星から熱赤外イメージングした場合、夏の夜の都心は光り輝いて見えるという。

では、都心ではなく、砂漠や草原はどうか。地上に建物がないにもかかわらず、夜間、熱赤外イメージングで明るい場所があったとしよう。この場合、地下にコンクリート構造物がある可能性が高い。

『宇宙考古学の冒険』(著:サラ・パーカック /訳:熊谷玲美)の著者は、こうした手がかりを元に、地下の遺跡を探し出すニュータイプの考古学者だ。宇宙から探すことで、これまでに、古代都市3,000ヶ所、古墳1,000ヶ所、ピラミッド17ヶ所の痕跡を見つけ出している(※1)。これは、従来通りのやり方だと、一人の考古学者のキャリアで発見できる数ではない。

さらに、映画『レイダース・失われたアーク』に出てくる幻の古代都市タニスを特定している。タニスの路地や居住区の大部分は発掘されておらず、地上から見ることはできない。だが、人工衛星の赤外線画像により、大規模な構造が明らかにされたのだ。

宇宙考古学のメリット

宇宙から探すことのメリットは莫大だ。

たとえば本書では、ニューファンドランド島の磁気調査について、地上探査と人工衛星画像を比較している。

まず、地上探査の場合、ざっと見積もると、100日かかるという。

その調査も、遺跡が平らで、邪魔な植生がなく、優秀なスタッフが雇えて、現地で体調を崩すことなく、資材や装置の輸送がスムーズにいき、機器が故障することなく働いた場合になる。機器、資材、飛行機代と国内旅費、ホテル代、食費もろもろ20万ドルかかる。

これが人工衛星画像だと、2,000ドルで済む。

そして、およそ60時間で地上探査と同じ結果が得られる。地上探査の磁力計データの方が多少細かい部分までとらえられるが、スピードとコストを合わせると、宇宙からの調査が、圧倒する。

もちろん、現地に出向いて、実際に発掘する調査が必要となる。だが、そこに「あるかもしれない」可能性を何年もかけて探していた調査が、そこに「ある」ものを対象とした仮説検証型になるのは大きい。

限られた予算と期間の中で一定の成果を上げる必要がある。掘ってみて「ありませんでした」では次の予算確保も厳しいだろう。だから、膨大なデータから「ある」という目星をつけられる宇宙考古学のメリットは計り知れない。

リモートセンシング技術「LIDAR」

離れたところから、掘る前に、光学技術によって対象を把握する。

LIDAR(LIght Detection And Ranging)と呼ばれるリモートセンシングによって、莫大な数の遺跡が続々と見つかっている。人工衛星やドローン、航空機に搭載することで、何十年もかけてきた広大な面積のマッピング調査が、ほんの数週間で終わるのだ。

考古学のビッグデータとも言えるのは、アマゾン川流域の遺跡になる。LIDAR によって、先コロンブス期の遺跡を81ヶ所発見している。推測によれば、アマゾン川流域全体で、18,000ヶ所の遺跡が未発見で、100万人以上が暮らしていたと想定されている(※2)。

Utyuukoukogaku2

Pre-Columbian earth-builders settled along the entire southern rim of the Amazon”より

リモートセンシングは地上だけではない。LIDAR は、水中に沈んだ物体を探索することにも役立つ。

原理はこうだ。水没した物体の上を流れる海流の動きによって、砂や泥が海面へ持ち上げられている。だから、人工衛星画像で、そうした堆積物の上昇現象を探せばよい。

現在は、ドーバー海峡を中心に沈没船の探索にこの技術が用いられている(※3)。だが、船だけでなく、地震や海面上昇によって海に沈んだ遺跡を探し出すことにも応用できる。この分野は水中考古学として研究されており、クレオパトラ宮殿からタイタニック号の探査といった成果を上げている(※4)。

掘らない考古学

こうしたリモートセンシング技術を受け、本書では、未来の考古学を「掘らない考古学」だと描いている。

LIDARや熱赤外センサーを搭載したドローンを飛ばし、遺跡を特定する。たとえ掘る段階になったとしても、鉛筆ほどの大きさのプローブ(探針)を地下数メートルに打ち込み、そこから超音波を発することで、地下の構造物を三次元化する。

必要な場所を絞り込み、そこへ小さな穴を穿ち、文字通りピンポイントで探索する。喩えるならば、腹腔鏡下手術のようなものかもしれない。

また、発掘した古文書も、開いたり触れたりすることなく、外側からスキャニングすることで、中身を調べる技術が開発されている。

たとえば、イタリアのヘルクラネウム遺跡で見つかった巻物がある。西暦79年のベスビオ火山の噴火によって焼かれ、炭化状態となっている。非常にもろいため、開いて読むことはできない。

だが、位相差X線イメージングを使うことで、巻物に触れずに中身を読む研究が進められている(現在は実証実験段階とのこと※5)。

この、「開かずに本を読む技術」でピンときた方もいるかもしれないが、J.P.ホーガン『星を継ぐもの』につながってくる。SFオールタイム・ベストとして有名で、ミステリとしても超一級の傑作小説だ。

月面で発見された5万年以上前の<人類>の死体と、その傍らにあった手帳―――経年により手帳は崩れかけており、開いて読むことはできない。そのため、触れずに中身を読む技術を持つエンジニアが呼ばれる―――そんな導入部だった(はず)。

もし、『星を継ぐもの』に、LIDARがあったなら……きっと序盤でラストの謎が解き明かされたに違いない、とワクワクする。いま、わたしたちが地球を調べている技術は、近い将来、月や火星といった惑星を、「離れたところから」「掘らずに」調べることに役に立つだろう。

考古学というと、何年もかけて、地道に発掘するイメージだった。だが、本書を読んで覆された。最先端の技術どころか、SFまで突き抜けた未来が見える。


※1 人工衛星によってなされた4つの考古学的発見

http://karapaia.com/archives/52241203.html

※2 Jonas Gregorio de Souza “Pre-Columbian earth-builders settled along the entire southern rim of the Amazon”

https://www.nature.com/articles/s41467-018-03510-7

※3 Satellites and shipwrecks: Landsat satellite spots foundered ships in coastal waters

https://phys.org/news/2016-03-satellites-shipwrecks-landsat-satellite-foundered.html

※4 『水中考古学』井上たかひこ(中公新書)

※5 Revealing letters in rolled Herculaneum papyri by X-ray phase-contrast imaging

https://www.nature.com/articles/ncomms6895

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「普通のBL」とは何か?

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年2月7日


アニメ映画の『同級生』を薦められたとき、身構えた。

男子校が舞台で、2人の男の子が恋に落ちるお話だ。

ひとりは学校一の秀才。入試で全科目満点を叩き出すぐらい優秀で、真面目がメガネをかけた理知的な印象がある。すぐ赤面する。

もうひとりはバンドマン。ライブでギター弾いてて、女の子にも人気者。くしゃっとした明るい髪と人好きのする顔立ちだ。すぐ赤面する。

そんな、普通なら決して交わることのない2人が、あることをきっかけに互いを意識し、距離を近づけてゆき、思いを伝え合う。

ゲイの幸せな日常

初々しく、可愛らしく、読んでるこっちが甘酸っぱい気持ちで一杯になる。あふれ出すリビドーを持て余していた自分と比べると、なんとも純粋な恋で、痛苦しくなる。そこに欲望があるのだが、互いに相手のことを慮るのが素晴らしい。

そして、身構えていたのが、彼らの日常が幸せすぎること。

幸せな結末にするにせよ、しないにせよ、そこへ至るまでの紆余曲折こそが、物語になる。

簡単に2人を幸せにすると、ストーリーが転がらない。だから作者は障壁を設ける。すれ違ったり、モチを焼かせたり、ライバルを登場させたり、あの手この手で人の恋路の邪魔をする。ラブストーリーの定番だ。

だから、男同士の恋愛というハードルが、もっと高いものだと身構えていた。自分が「男性が好き」ということに気づき、戸惑い、苦悩するといった展開があるのではないか? と不安に思いながら読んだ。

なぜなら、同性愛が犯罪だった時代や国もあったから。ソドミーという言葉そのものが、「不自然な」性行為を指すから。

100年前の英国のBL『モーリス』

たとえば、E.M.フォースター『モーリス』だ。

100年前の英国、ケンブリッジ大学で出会った2人の恋を描いた小説だ。同性愛が罪とされ、社会的に抹殺される厳しい状況だった。愛の深さゆえに傷つき、傷の深さゆえに慰めあう青年たちの恋は苦しく、美しい。

「すきだ」という気持ちを伝えることがいかに難しいか。もし、相手が異性愛なら、そのまま第三者へ暴露されるアウティングの危険性もある。警察につきだされても仕方がないような時代だった。

だから、『モーリス』は「禁断の」恋愛小説と言われている

フォースター自身が、同性愛を抱き苦しんでいたという。『インドへの道』『眺めのいい部屋』が高く評価され、文壇での地位を確立したが、生きているあいだ、『モーリス』を刊行することはなかった。

これは、小説の書き方にも現れている。

内面の吐露や感情は表現されているが、肝心の、誰がなにをしたか(しているか)は、ぼかすように描かれ、イングランドの夜の風景の中に、隠し絵のように織り込まれている。秘匿された描写が、なぜ秘匿されねばならぬのか、と問うているように思える。

普通のBLとは

『モーリス』と比べると、『同級生』は、同性愛に苦悩したり傷つけあったりするような場面は無いに等しい。

そして、それに違和感を抱いていた。

わたしの中で、「ゲイとして生きる物語=性的嗜好が障壁となる物語」が出来上がってしまっていた。だから、自らの性的嗜好に苦悩する場面がないと、物足りなく感じてしまっていたのかもしれぬ。

この、わたしの価値観は、非常に情けないことだ。

もちろん、『同級生』の高校生らは、同性が好きである自身に思い悩むことはある。だが、それでも、自分に正直であろうとする(そして、周囲も理解しようとする)。その「思い悩み」が”軽い”と感じてしまっている(←ここが、情けないところ)。

男と男が出会って、恋をして、愛を交わす。『ホモセクシャルの世界史』を見ると、男同士の恋愛は沢山ある。だが、そこに「性嗜好に苦悩する」を入れる必要はないんじゃないか?

「入れないと物語として成り立たない」と考えること自体が、既に時代遅れになっているのかもしれない。

もちろん、「同性愛に苦悩しない」作品もある。

例えば、よしながふみ『きのう何食べた?』では、不自由さを感じつつも折り合いを付け、2人の居場所を作っているように見える。あるいは、志村貴子『青い花』では、同性愛そのものよりも、「好き」がすれ違うほうに苦悩していると感じた。

そんな作品と照らしながら、原作コミックの『同級生』と続編の『卒業生・冬』と『卒業生・春』まで読むうちに、ごく当たり前の結論に到達する。「男が好き」とか「女が好き」とかじゃない。「あなたが好き」なんだなと。

好きになった人が、同性だったり、異性だったりするだけなんだと。

『同級生』シリーズはもっと続いているみたいだが、この三部作は、『モーリス』とつながっている。幸せでいて欲しいと、強く願う。『同級生』が好きな人は『モーリス』を、『モーリス』が好きな方は『同級生』をお薦めする。

 

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辞書を丸ごと読んだら楽しかった『MD現代文・小論文』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年2月15日


きっかけは『独学大全』だ。

語彙力を底上げするならこれだぞーとお薦めされたのと、どうせなら丸ごと読んでやれと思い、93日かけて踏破した。継続は力というのは本当で、読むことそのものより、続けることに注力した。

この記事の前半は、その続け方のコツを紹介し、後半では、『MD現代文・小論文』の魅力と問題点について語ろう。

まず、700ページを超える辞書をどうやって読んだか?

もちろん、一日に数ページずつ読んでいくことを積み重ねていけばできる。700ページをノルマで割れば、何日かかるか、計算上は予測できる。

だが、それってかなり大変だ。単調だし、飽きるかも。「ノルマ」なんて決めて、それを守れるのか? 三日坊主にならないか? 「そもそも何でやってるんだろう?」 と我に返る可能性だってある。

習慣を作る

だから、毎日読む習慣を作った。

具体的には、読むタイミングを決めた。PCを立ち上げる前、昼食後、寝る前と決めて、その時に手に取るようにした。

大事なのは、手に取ったとしても読まなくてもいい、というルールにしたこと。面倒ならページを開くだけで、読まなくてもいい……とハードルを極限まで下げたこと。三日坊主なら四日目に再スタートを切ればいいのだ。

そして、読んだページを記録するようにした。

具体的には、スプレッドシートに全ページをナンバリングして、読んだ日と共に塗りつぶしていくという単純な方法だ。全体は膨大だけど、毎日少しずつでも進んでいるのが目に見えるようにした。

環境を作る

次に、続けやすくする環境を作った。

一人で黙々と読んで記録してても飽きる。だから、記録したものを公開するようにしたのだ。

具体的には、記録したスプレッドシートを、誰でも参照可能な状態にして、毎日「これを学びました」と、twitterでつぶやくのだ。

ポイントは、誰かが見ている状態にすること。

ひょっとすると、誰も気にも留めないかもしれない。他人の勉強ログなんて見に来ないかもしれない。でもいいの、「見ているかもしれない」がポイントなの。一種の逆パノプティコンを作り上げるんだ(※)。

twitter だけでなく、独学大全を実践するdiscord「独学広場」がある。「これを学びました」と公開するのにうってつけだ。

確かに「辞書を読む」のは目的だが、最終目的だ。目の前の小さな目的は、「これを学びました」をtwitterやdiscordに投稿する。そしてこれを続けることなのだ。

これらのやり方は、『独学大全』の実践だ。持ってる方は、p.144「習慣レバレッジ」、p.160「ラーニングログ」、p.172「コミットメントレター」を参照してほしい。

語彙力を底上げする辞典

次は、『MD現代文・小論文』の魅力について。

本書は、入試問題に頻出するテーマや重要語句を4000語選び抜き、入試問題の用例と共に詳説したものだ。

受験に特化した辞書だが、同時に、現代社会の焦点となるトピックを、コンパクトにまとめた辞書でもある。いうなれば、「現代用語の基礎知識」と「国語・現代文の巻末の重要語」のハイブリット版なのだ。

たとえば、「援助交際」「縁語」が同じページで詳述している。古今集の在原業平の和歌で掛詞の修辞法を学んだ後、パパ活やJKお散歩の語源をめぐる解説を読む。この取り合わせのアンバランスが面白い。

絶対に読んで欲しいのが「近代」だ。

時代区分としての位置づけだけでなく、産業革命や資本主義、ヒューマニズム、階級社会、大衆と民主主義とファシズムといった切り口で、12,000字に渡り説明する。この項目自身がちょっとした小論文になっており、ひたすら面白いだけでなく、さらに広げて語りたくなる。

辞書を読んで楽しいのは、知らない言葉に出会うことだけではない。知っている言葉に知らない意味を見出すとき、知的興奮はMAXとなる。

たとえば、「蓋然性」という言葉には確率で計算できない意味もあることを知ったとき、驚きと納得が同時に押し寄せてきた。確かにヒューリスティックなものは、数学で計算できない「可能性」として扱われる。

あるいは、日本語としての「間(ま)」は、時間と空間の両方を指していることを知ったとき、思わず膝を打った。わざわざ「時間」や「空間」という言葉を用いる時、私たちはニュートンやユークリッドから輸入した見方で世界を捉えているのだという。

『MD現代文・小論文』の問題点

一方で、「古い」という問題もある。

編まれたのが1998年のため、出てくる言葉や説明に、どうしても古臭さを感じてしまう。

たとえば、「クリントンのセクハラ疑惑」って、今の高校生だと「?」だろう。「湾岸戦争」の詳しい解説に時代を感じる。「ポストモダン」の説明でリオタールの「大きな物語の終焉」を引くのはいいけれど、ソーカル事件が入っていないのはちぐはぐな感じを受ける。

爆笑したのが「マルチメディア」、すごく丁寧に解説されている。最近の若者なら、たとえ知ってたとしても社会や情報の教科書で歴史として学ぶ言葉じゃないかしらん。いまの流行りの「DX」との間に累々と横たわる、ユビキタス、ニューメディア、OAなど、時代の徒花を思い出して遠い目になる。

また、辞書を通しで読むことで、あることに気づいた。

それは、「現代文」は日本製だということだ。

村上春樹や大西巨人、柄谷行人や梅棹忠夫といった定番ばかりで、オーウェルやソンタグ、カフカやボルヘスといった海外の評論・小説が皆無なのだ。

『MD現代文・小論文』の不具合かとも考えたが、そもそも本書は、入試現代文から精選された辞書だ。だから、入試現代文からして、翻訳モノがないからなのかもしれぬ。

ちなみに、手元にある教科書を確かめてみると、翻訳モノは皆無だった。第一学習社「新訂 国語総合 現代文編」(2016検定済)と、東京書籍「精選現代文B」(2013検定済)をめくったが、小説、評論、詩歌、随想、全てが Made in Japan である。

書店に行けばそれなりのスペースを海外文学が占めており、外国語で書かれ、翻訳されたノンフィクションも数多くある。ネットで目にする日本語も、元をたどれば外国語だったものも少なくない。にもかかわらず、「現代文」から除外されている。次の課題として調べてみよう。

『MD現代文・小論文』は、問題点もあるが、それを補って余りあるハイブリットな辞書だ。全部読まずとも、「やたら綿密に書いてある語句」だけを拾い読みしても、十二分に面白い。語彙力を爆上げすることを保証する。


※ 中心に監視塔を立て、周りに囚人を配置することで、効率よく監視できる悪名高いパノプティコンだが、これを逆に利用する。「見られているかもしれない」環境を自ら作ることで、サボりにくくなるのだ。

Panopticon.png

Wikipedia「パノプティコン」より

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もう欧米は「歴史のゴール」ではなくなったのか?『岩波講座 世界歴史 24巻』

世界史をやり直していると、「世界史のやり方」そのものが変わっているように見える。

かつては、「先進国」が先頭に立ち、他地域はいずれ欧米を見習って近代化を成し遂げ、自由民主主義へ収斂していく―――そんな単線的な歴史観が強かった。

しかし、冷戦後、特に21世紀に入ってから、中国、湾岸諸国、シンガポール、ロシア、インド、グローバルサウス、イスラーム圏を見ていると、欧米型自由民主主義を目指さなくとも、強大化&安定化できるという事例が大量に出てきている。

これは、かつての近代化論では説明できない。「蛙飛び」といった理屈を考えたり、例外として語ろうとしても、一部の後付け説明に過ぎぬ。

中国はその象徴だろう。

国家統制、一党支配、デジタル監視、国家資本主義を維持したまま、超大国化した。これは、単なる例外や後付け理屈ではなく、そもそも歴史の進行モデルそのものが間違っていたのでは?という疑問が生まれる。

そして、面白いのは、欧米自身も、この進歩史観を信じられなくなっているように見える振る舞いをしているところだ。

ブレグジットや格差社会、トランプ現象、ポピュリズム、移民の対立といった問題の形で噴出している現実を前に、「自由主義は最終形態である」という欧米の自信(信仰?)が崩れ始めたように見える。

30年くらい前、「歴史の終わり」としてイデオロギー競争の最終形態として自由民主主義の勝利宣言をしていた欧米自身が、その物語を維持できなくなったのかもしれぬ。

『岩波世界歴史24』は、「欧米中心史観を否定する」だけでは終わらない。むしろ、その史観をいったんカッコに入れたあと、世界をどう理解し直すのか――その方法そのものを模索しているように見える。

中国と世界

例えば、「中国と世界」という観点の論文がこれになる。

ニュースの断片で垣間見る中国ではなく、歴史の文脈に配置すると、どのような振る舞いをしているか、という考察になる。いわば、いま私たちが見聞している中国は、50年後の高校世界史の教科書にはどう書かれているか?という問いに答えるようなもの。

これには、2つのアプローチで解説されている。

一つ目は、「中国は『先進国』からどう見られているか?」になる。

本書では、中国のことを「米国への挑戦者」として位置付けている(米国政府は「競争者」という表現)。

中国は、国際秩序を再編しようとする意図においても、また経済的、外交的、軍事的、技術的などの面でそれを成し遂げようとする、急成長するパワーという点においても、唯一の競争者である。
(National Security Strategy Oct 2022より [URL]

かつて米国は、中国にインセンティブを与えながら既存の秩序の一員へと導こうとするエンゲージメント政策を展開してきた。中国を既存秩序へ組み込めば、いずれ自由主義化するという期待があったからだ。

だが、2021年代(バイデン時代)に大きく方針転換している。すなわち、「先進国」が主導してきた世界秩序への挑戦者だという位置づけだ。

ただし、中国は国連重視を謳っているため、既存の世界秩序の全てに「挑戦」している訳ではないという。国連への財政貢献や国連機関のポスト獲得、PKOへの人的派遣など、国連というバスケット内で存在感を高めている。

二つ目は、「中国は『先進国』をどう見ているか?」になる。

本書によると、中国は現在も自らを既存の秩序への挑戦者とは見做していないという。むしろ、西側先進国の秩序の方が、世界の現状に反しているとする

西側先進国の主導する秩序では世界の諸問題には対処できないと批判しているのだ。ただ、胡錦濤時代までの中国は、秩序を形成するのは先進国の責任であり、中国は発展途上国の代表としてそれを修正するとしていた。

しかし、習近平政権は自らを新たな秩序の形成主体だとしている。ただ、中国は国際連合には反対してはおらず、ただ西側の安全保障ネットワークや西側の価値観に反対する。
(『岩波講座 世界歴史 24巻』p.172より)

ここ数十年の間での出来事や衝突を削ぎ落していくと、こんな骨格が浮かび上がってくる。

安定した状況を作り出すため、米国を始めとする西側諸国との「衝突」を避けつつも、西側主導の世界秩序のやり方に疑義を表明していく。そして、国連や経済支援を通じて、この疑義に賛同する仲間を増やしていくことを怠りなく、時間をかけて進めている。

この、西側主導の世界秩序に疑義を唱える姿勢は、現在進行で揺らいでいる欧米中心史観と重なってくる。

中国の準備のマイルストーンは、2049年の「偉大なる復興の夢」になる。それが世界にどんな影響を与えるか分からないし、そもそも私が生きているかも分からないが、パラダイムが激変する潮目は見届けたい。

ポピュリズムの変化

めちゃくちゃ面白かったのが、ポピュリズムと権威主義の広がりを解説した論文。

よく言われているのが、「汚れなき市民 vs 腐敗したエリート」という枠組みで語られ、政治とは一般意志の表現であるべき、という「イデオロギー」だ。

これ、独裁や専制である権威主義へのカウンターとして有効じゃん!と諸手を上げて賛成する人がいる一方、ポピュリズムを唱えて選ばれた人が、権威主義化していく傾向が現実にあるという(「現代の民主主義の死は選挙からはじまる」といった議論は不謹慎ながら爆笑した)。

しかも、ポピュリズムは、主義主張が異なるはずの「右派」「左派」の両方ともに使っている点が面白い。

右派ポピュリスト政党は、外国人や移民・難民に対する批判としてポピュリズムを使う。そのターゲットは、移民の受け入れを重視し、多文化主義を推進するエリート層や、グローバリゼーションやヨーロッパ統合を重視して、国内の労働者を蔑ろにする指導層になる(いわゆる「リベラル・エリート」)。

一方、左派ポピュリズムは、社会格差の存在、特に一部エリート層への富の集中を批判し、再分配を訴える。ターゲットは、グローバリゼーションのメリットを利用して稼ぐ富裕層であり、また彼らと結託して利益擁護に走る政治家たちになる。

本来、政治的に真逆である右派と左派が、なぜかポピュリズムの旗の下に終結しているのがコミカルに見える。同床異夢どころか同床同夢してるやん。

おそらく、ポピュリズムは「イデオロギー」ではなく「方法」なのだろう。

これまでは、中道保守・中道左派といった二大勢力で、市場志向/福祉国家志向といった政策の力点は異なれど、代表制民主主義に対する信頼といった基本的な価値観は共有されていた。

ところが、そうした穏健な中道勢力では諸問題を解決できなくなってきている。二大勢力として「対立」してはいても、同じ20世紀型政治というゲーム盤で戦っていた。だが、そのゲーム盤自体が信用されなくなっているのだ。

先進国の屋台骨だった製造業は衰退し、国外に移転していく。国内産業の空洞化は、それをもたらしたグローバリゼーションを進めてきたエリート層への反発となる。ヨーロッパ統合を推進し、移民を受け入れる政策への不満が蓄積する。

こうした問題は、従来の左右対立とは異なる対立軸・争点が顕在化していると言える。

そうした不満の受け皿として有効なのが、ポピュリズム的方法なのだろう。

既存政党が仕切る「旧来の政治」を正面から批判し、政治の悪弊を一層する―――そうした革新者として、ポピュリストたちは振舞う。「普通の人々」の声を代弁し、「既得権益」を守ろうと汲々とするエリートたちの独占権力を打破する挑戦者として、位置付けるのだ。こうすることで、右とか左とか関係なく、無党派層・無組織層の支持を得ることができる。

喩えて言うなら、ポピュリズムは、主義主張というよりもむしろ、それを唱える拡声器なのかもしれぬ。

そしてポピュリストたちが取る方法は、SNSだ。既存勢力ほどの発信基盤を持たないため、普通の方法では注目されない。

そこでSNSで対立と感情を煽り、炎上させる。その炎上はニュースとしてマスメディアに取り上げられることで耳目を集め、勢力を拡大する(本書では「スピルオーバー現象」と呼んでいる)。

欧米中心史観、先進国による世界秩序、左右の政治ゲーム基盤など、既存の考え方に疑義を抱き、それを超克するような方法が立ち上がってきている。

50年後にはパラダイムシフトの一つとして扱われるこうした変化は、その先を見届けるまで生き延びられるかは分からないが、わりと楽しみにしている。

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人生を変えることもできるのは音楽かもしれない『楽園ノイズ』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年2月21日


激しいリズムにひるむ。叩きつける音圧に押される。急上昇するオクターブに持っていかれる。部屋は静かなのに、小説を読んでいるだけなのに、そこに描かれるセッションを、夢中になって聴いている。

彼女の想いは衝突を繰り返すサウンドの手応えではっきりと伝わってくる。そう、衝突だ。合わせるなんて馬鹿馬鹿しい。他のパートに合わせて叩くなんてドラムスじゃない。お互いに叩きつけ、傷つけ、貪り、奪い合いながらひとつになっていくのが音楽のほんとうの姿だ。

高校生の「僕」が弾いてるのはベース、荒々しいドラムスが後輩の女子、隣の部屋からは、同級生の子がピアノで圧倒する。3人が演(や)っているのは、レディオヘッドの『クリープ』だ。無防備な状態で歌の中にぶっ込まれ、沸き上がってくる激情のままに声を絞る。

そんな昔の知らないよ、というツッコミ上等。大丈夫、これ読んでると、かつて自分が聴いた曲を思い出すから。音楽に撃たれた経験があるなら、必ず思い出すから(わたしの場合、これ読んでるとき、ブルーハーツがずっと流れていた)。

恋と音楽と青春を一冊に圧縮した『楽園ノイズ』は、読むセッションだ。それも、肌が泡立つやつ。ヒリヒリする緊張感と、想いをぶちまける解放感が混ぜこぜになって、確かに昔に聴いた曲があふれ出す。



「僕」の趣味は音楽。

といっても、いわゆる「バンドマン」ではなく、薄暗い自室に閉じこもって画面をにらんでマウスで音符を切り貼りする。できた曲をYoutubeにアップロードして反応を待つ音楽オタクだった。

「だった」と過去形なのは、出来心で女装した動画をアップロードしたから。一部のマニアにウケて十万視聴を突破したのはいいけれど、よりにもよって音楽の先生にバレてしまう。で、授業の準備やら問題児の様子見やら、面倒を押し付けられるハメになる。

先生を通じて出会う女の子たちは、コンプレックスを抱えるピアニストや、複雑な家庭のドラマー、不登校のヴォーカリストだ。共通するのは、超一流の才能を持っていること。音楽オタクの僕には二重の意味で高嶺の花だ。

これが普通のラノベなら、彼女たちの厄介ごとを「僕」が解決しちゃうのだが、その辺リアルに出来ていて、彼は踏み込まない。

ただ、音楽が好きだからこそできる方法、つまり一緒にセッションすることで、彼女たちにあるきっかけをもたらす。そして、彼女たちは自分で変えてゆく。その様子を見ていると、人生を変えることもできるのは、音楽なのかも……と思えてくる。

10章に渡って駆け抜ける青春は、騒がしく悩ましく彩られた大切な時間だ。

アップテンポな会話で愉快にさせた後、急転直下でキツい展開へ。終盤で回収される伏線は、交響曲の後半で冒頭のフレーズが「戻ってくる」かのような既視感だし、クライマックスとなる第9章では、文字列から音圧が伝わってくる。

そして、最終章、めちゃくちゃ胸にクる。瞳から汗を、体中に涙を感じる。

熱っぽい余韻に浸りながら目次を読み返して、ハタと思い当たる。これ、章立てが一つのアルバムの構成となっている。この小説そのものが、一つのアルバムか、あるいは交響曲全体を意識して作られてる。

しかも、出てくる曲が懐かしすぎる。レディオヘッドの他に、ビリー・ホリディ、TOTOやWANDSなど、完全におっさんホイホイになっている。Youtubeで聴きながら読んでも楽しい。

落ち込んだとき、慰められたCDがあった。試練を目の前に、自分を鼓舞するために歌った歌があった。なにもかも忘れて「無」になるためにヘビロテした曲があった。そのどれも、今は聴いていないことに気づいた。

だが、この小説を読むと、それらが全部いっぺんに思い出してくる。音楽が、自分を支え、変えてきたことに気づく。

音楽の力を思い出す一冊。

 

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英文読解の思考プロセスに特化した『英文解体新書』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年2月27日


英語を読むのが苦手だ。

たとえばこれ。

That the guy survived the accident surprised everyone.

意味は分かる。難しい単語は無いから、単語だけをつなげばなんとなく分かる。でも、それじゃダメなんだ。

問題なのは、最初の That が何なのかを知るために、最後まで読む必要があるところ。

この That は、「あの」を意味するザットじゃなくって、「奴が事故を生き延びたこと」を指していて、なおかつ、この文全体の主語になっている。それに気づくために、全部読む必要がある(←ここがダメ)。

これ、短い文だからなんとかなってしまうけれど、ちょっと長くなると、たちまち問題が顕在化する。

Although almost everyone admits that social media has changed the way in which people live, whether it will remain as popular in the years to come as today remains to be seen.

最初が Although だから、前提とか条件なんだろうな……とかあたりを付けるんだけど、その中で主語や動詞が出てくるので、どこがどこに掛かっているのか迷子になる。

得意な人なら、that や in which、カンマを道しるべにして頭から読み解いていくのだろう。だが、それができない。いったん文章を最後まで読み、後戻りして意味を当てはめながら構造を考えている。

もちろん、そういう勘所は、普段から英語に慣れる環境を作り、多読多聴することで自然と身につくものなのだろう。だけど、そこまで英語を頑張るつもりはない。論文の概要や tweet をサクっと読めればそれでいい。

それも、なるべく少ない努力で、頭から構造が分かる(推理する)ことができるようになりたい。

英文読解の思考プロセスに特化した参考書

ムシが良すぎる目標だが、読書猿さんからお薦めされたのが『英文解体新書』だ。一言で述べるなら、英文を読むための思考プロセスに特化した参考書になる。

どこに着目し、どういう風に考えると、正しく読解できるかを体系化し、100語~200語程度の例題を実際に読むことで、その力を身につける。

たとえば、最初の例文だと、予測を立てて、英語の語順に従って選択肢を絞り込む方法を提示する。

  1. 最初の That を見た時点で、次の可能性を考える。

    A. That が代名詞として、文の主語となっている場合(That is great.)

    B. That が名詞を限定している場合(あの本の、「あの」のザット)

    C. That が接続詞として後に節を作り、that 節全体が文の主語となっている場合(That he passed the exam is ture.)

  2. 次の the guy を見た時点で、AとBの可能性は消える。なぜなら、Aだと、次に来るのは動詞だから。動詞に the は付かない。Bだと that guy ならあるけど、guy に既に the が付いている。

  3. Cなら接続詞で、文の最初だから主語だろうと予想して追っていくと、the accident とつながらない形で、surprised everyone と動詞と目的語に辿り着く。

こんな感じで、目だけは左から右に進めながら、予想を立て、可能性を排除しながら読んでいく。

当たり前だが、英語と日本語では構造が違う。その構造の英語らしさを押さえておくと、読み取りが各段に精確になる。

情報の流れを考える

腑に落ちたのが、受動態について。

学校で、受動態をあまり使わないようにと習った覚えはうっすらとある。だが、その理由は「主語が曖昧になるから」といった程度しか覚えていない。そして、受動態を使うべきタイミングは、まったく覚えていない。

だが、本書の「情報の流れと特殊構文」で腹落ちした。

まず、英語の基本的なルールとして、主語が文のトピックであり、動詞句が構成する述語部分は、そのトピックに対するコメントになる。言い換えるなら、トピックが変わらないのであれば、主語は変わらない。

The castle is one of the most beautiful buildings in the world. It was built in the Edo period and has since been a symbol of our country.

この文章は、The castle についての説明だ。一文目の主語は the castle で、文のトピックになる。そして、2文目に移っても、文のトピックは変わらない。

しかし、もし2文目で能動態の文を使おうとすると、「城を建てた人」という新しい情報を入れることになる。話者が伝えたいのは城がトピックなので、新しい情報は余分になる。こんな場合に、受動態が必要になる。

受動態は、主語が曖昧になるからダメというのではなく、情報を出す際に余分なものを省き、流れをコントロールする仕組みだということが分かった。

難関大学レベルの参考書

こんな感じで、英語を読む勘所を押さえていった。

情報の流れや文章の構造を考えながら、省略が起きたり、語順の入れ替わり、構文の擬態、破格的な構造が紹介される。難しさ的には難関大学の受験レベルになる。

例文となるものは、カズオ・イシグロの小説やオバマ大統領の演説、ジャレド・ダイアモンド、スティーヴン・キングなど、硬軟取り揃えている。

本来なら、沢山の記事や書籍を浴びるように読むことで身につけるポイントが、およそ250頁、2,200円で手に入る。[ここ] の技法で35日で読み切った。

結果、読解の苦手意識は完全に消えて、ムスカの「読める……読めるぞ!」状態になっている。コストパフォーマンス的には最高の一冊と言っていい。

ただし、一読して身についたとはとても言えぬ。周回を重ねて自分のモノにしよう(読書猿さんありがとう!)。

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ボーイズラブには葛藤があるべきか、「普通の」ラブストーリーとは何か、BLの主役はネコなのか、アニメ『同級生』をテーマに2時間語り合ったことを8000字ぐらいでまとめる

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年3月6日


古今東西の傑作を俎上に、その面白さについて語り合うオンライン会が、「物語の探求」だ。

今回は、アニメ映画『同級生』をテーマに、その面白さや物語構造について語り合い、さらにBLとしての新しさがどこかについて考えた。

『同級生』は 中村明日美子のBLマンガが原作で、A-1 Picturesが制作したアニメーションだ。思春期に揺れる2人の、もどかしくてピュアで、ドキドキする感覚が、淡いタッチで丁寧に描かれている。



[公式サイト] からの紹介はこんな感じ……

思春期にゆれる少年たちの、

ピュア・ラブストーリー。

高校入試で全教科満点をとった秀才の佐条利人、

ライブ活動をして女子にも人気のバンドマン草壁光。

およそ交わらないであろう二人の男の子。

そんな「ジャンルが違う」彼らは、合唱祭の練習をきっかけに話すようになる。放課後の教室で、佐条に歌を教える草壁。音を感じ、声を聴き、ハーモニーを奏でるうちに、二人の心は響き合っていった。

ゆるやかに高まり、ふとした瞬間にはじける恋の感情。

お調子者だけどピュアで、まっすぐに思いを語る草壁光と、はねつけながらも少しずつ心を開いてゆく佐条利人。互いのこともよく知らず、おそらく自分のこともまだ分からない。そんな青いときのなかで、もがき、惑いつつも寄り添い合う二人。

やがて将来や進学を考える時期が訪れ、前に進もうとする彼らが見つけた思いとは……

(以下、『同級生』のネタバレがあります)


<目次>

  1. 男と男の、普通の、ラブストーリー
  2. 余白を上手く使った物語構造
  3. 「脚本」が無い理由
  4. 原作がある場合の脚本家の仕事とは
  5. BLにおける読者=壁?
  6. なぜ佐条が主役なのか?
  7. 「耳」を大事にした脚本
  8. 同性愛の葛藤があるべき?
  9. 普通の恋愛を丁寧に描く新しさ

 

1.  男と男の、普通の、ラブストーリー

タケハル:第一印象なんだけど、ボーイズ・ラブに慣れていない上に、そもそもこれがBLものだと知らずに観始めたので、チューニングに時間がかかりました。最初の感じから少女漫画かな? と思ったんだけど、いっこうに少女が出てこない。で、噴水の公園でキスするシーンで、頭が急回転したんです。

Dain:それはびっくりしたでしょ! でも、その恋愛は、あくまで普通のラブストーリーなんですよね。

タケハル:そうです、男と女がスポンと好きになるのといっしょ。あのまま佐条君を女の子にして歌を教えて公園でキスしても違和感がない。

スケザネ:ですよね。でもこれ、いまさら男女でやったら見てらんないかも。相合傘で一緒に帰るなんてベタすぎて。

恋愛物としてはベタで王道な展開が中心。男と男でやるから、異化効果的なもので目新しく新鮮に感じられたのかも。これが何年かたって、もう古いよということになったら、すごく素敵なことだろうな……

言い換えると、『同級生』が新鮮に見えるのは、まだLGBTへの認識が成熟していないことを表しているのかもしれません。男と女の恋も、男と男の恋も、いっしょなんだよね。

タケハル:十年後には、これがベタすぎるじゃねーか、というツッコミが普通になるってことね。

Dain:この作品を、見る人がどういう風に受け取るか、男同士の同性愛についてどういう意識を持っているかの試金石になるのかも。

2. 余白を上手く使った物語構造

スケザネ:僕の最初の印象は、「余白が多い」でしたね。物語の構造的に見ても、余白がうまい効果を上げていますね。

例えば、高校生を描くものなら、マクドナルドとかが出てくるけれど、具体的なものが出てこないのがいい。ここ、しっかり描き込まれてしまうと、古びるのも早いと思う。

純粋にテーマに絞り込まれて、コアなところ、要所要所が、ぽん、ぽんと描き込まれているけれど、その間のところで、彼らは何をして、何を想っているのかが無い。佐条くん目線も少ないので、これ、余白によっていろいろ掻き立てられるところがあるよね

Dain:同じこと考えていました。物語では語られない部分が、キャラの言動につながってくるところ。ハラセン(原先生)が佐条くんに迫るところあったでしょ、進路指導室のところ。でも佐条くん、抵抗しないよね。普通、抵抗するんじゃね?

ひょっとして、彼らの間で、描かれていない何かがあったんじゃないの? 草壁くんに向かって、「俺はあいつのこと1年のときから知ってた」なんて、思わせぶりやん原先生。

どうしても気になって、原作のコミック『同級生』を読んだんだけど、実は、あったんです、佐条くんとハラセンの過去が。各章の一覧表を書いてきたんだけど、これ。

【夏】Summer
【秋】Autumn
【はじめての人】 His first
【ばかと大馬鹿】 A complex fool and a simplex fool
【二度目の夏】 The second summer

映画もほぼ同じ構成なんだけど、この【はじめての人】の章が丸ごとカットされているの。これ、ハラセン目線で佐条くんとの出会い

スケザネ:1年のときに何かあったことが描かれるの?

Dain:ですです。1年のとき。カットされた部分も、ほんの数十分の、本当に短いこと。でも、その時間はものすごく濃いんです。

スケザネ:なんで削ったのだろう。削ったのは成功している? Dainさん目線で教えてほしいです。

Dain:レディ・プレイヤー1の対談」でスケザネさんが言ってた、情報密度の話からすると成功してる。短い時間に設定やキャラを詰め込みすぎると、観客が付いていけなくなるから、そういう意味で、ハラセンのエピソードはカットして正解かも。ハラセンの話を入れると、この2人のダブル主人公の物語の邪魔になる。好きな人は自分で補完してください、という感じで。

3. 「脚本」が無い理由

タケハル:クレジット見ると、面白いことが分かってくる。このアニメ、スタッフのほとんど、9割が女性なの。そして、「脚本」を担当している人がいない。これはすごい。脚本家ってのは、セリフを書くだけじゃなくって、物語の情報の整理も大事な仕事なので。

なぜだろう? 舞台なんかで女性スタッフが多い現場でたまに見かけるけれど、リーダー不在でもうまく回っていく、というのがある。女性ばかりだと、誰が決めたというわけじゃないのに、うまく分担して回っていく。

スケザネ:気がつかなかった!ということは、かなりの仕事を監督がやっているのかもしれない……

タケハル:ストーリーというより、キャラクターと絵が重要なんだろうね。確かに監督はいるけど、誰が作ったとは言えないような状況だったんじゃないかしらん。例えば噴水のキスシーンって、漫画だとどうなってる?

Dain:マンガと映画のセリフは、だいたい一緒だね。バストアップのシーンやカメラの構図も同じ。脚本とか演出にあたる部分は、原作のマンガで足りてる感じ。

タケハル:それだけマンガの完成度が高いのか!

4. 原作がある場合の脚本家の仕事とは

タケハル:原作があってそれをアニメや実写化してうまくいった場合、脚本家がいい仕事している場合が多いですね。逆もそうで、失敗した場合も脚本家に負うところが大きい。

スケザネ:それありますね、原作を生かすも殺すも脚本次第ですから。

タケハル:そうなんです! 例えばアニメ化された『ハチミツとクローバー』なんて象徴的なところがあって、日本を周ってきて、彼女に告白するシーンなんかがそれ。

美大生で、原作だと北海道で見た景色がキレイだったから、彼女にも見せたいんだっていうの、「景色を見せたい」ってね。

これがアニメだと、北海道で見た景色を、「『あなたの絵で』見たい」に変えてる。アニメで、ちょっと踏み込んで言わせてる。キャラクター性とか関係性は変えないで、でも原作を知っているお客さんの予想を越えることを言わせる

Dain:原作ラブの人は、そういう大事なシーンは読み込んでいるだろうから、変えたら噴き上がることありそう。原作の完成度が高ければ高いほどそうなりそう。

タケハル:脚本家がいると、そういうことやりたくなっちゃう。だいたいは失敗して、余計なことするな、って観客に怒られる。でもハチクロのこれは怒られない、確かにそれ言いそうなことだから。

スケザネ:鬼滅もそうだったなぁ……やれそうでやれないですよね。

タケハル:『岸辺露伴は動かない』にも似たようなところがあって、敵のスタンドと闘うんだけど、畳の縁(へり)を踏まないバトルになる。スタンドの能力を使って、縁を見えなくさせるの。んで、だまし討ちで敵に踏ませたときのセリフなんだけど、原作だと「ところでお前、縁踏んでるぞ」が、「ところでお前、足大丈夫か?」に変えている。

スケザネ&Dain:へえええええ!

タケハル:スパっと「踏んでるぞ」というより、さらに嫌味っぽく聞こえてて、いかにも言いそうなセリフになっているの。テーマは同じでも、きちんと進化させている。

これを下手にやったのが『美女と野獣』の実写版。

野獣の城から、ベルが家にいったん帰るところ。召使たちが「なんで帰すの? ここで真実の愛が見つかれば、人の姿に戻れるのに!」と残念がっているのに対し、ディズニーアニメだと野獣が「愛しているからだ」と答えている。

ところが実写だと、野獣は何も言わない。代わりにポット婦人が「あの娘を愛しているからよ」と答えさせている。

スケザネ&Dain:お前が言うんかよ!

タケハル:言ってる言葉は同じだけどね。アニメから実写にするとき、色々チューニングが出てくる。アニメだから耐えられるセリフと、そうじゃないセリフがある。そこを変えていく、表現方法を移すときのチューニング、プラグの役割を脚本家は担っているの

5. BLにおける読者=壁?

タケハル:根本的な話になるけれど、なんで女性作家がBLを描くの? 男の作家がBLを描くのもあるけれど、圧倒的に女性でしょ?

スケザネ:男がレズものを読むのは、芸術よりもリビドーとして求めているのではないかな。でも女性がBLを求めているのは、どうしてなのだろう?

Dain:僕の観測範囲だと、BLに女はいらないんじゃないか、と思ってる。

例えば男が百合モノを読むとき、その世界に男はいないほうがいい。可愛い女の子たちだけがキャッキャウフフするのを覗き見したい、という思いがある。そこでの男は邪魔なの。アキリの『ヴァンピアーズ』だと、男はモブか下僕だし、志村貴子の『青い花』なんて存在すらしていない。

それと同じように、女がBLを読むとき、その世界に女がいないほうがいい、と考えているのでは? BLの世界に女性が出てくると、女性の読者は女性性を意識してしまうから。美しい男と男が絡み合う様子を、自分という存在を消して、ただ見守っていたい。だから、壁になりたいと思っているはず

スケザネ&タケハル:壁になりたい!

Dain:twitterとかで呟いている人、いますよ。そこに「私という存在が見ている」となると、目線が気になってしまう。だから「私」を消すために、壁になりたい。

タケハル:不確定性原理のやつ!

Dain:それな! 観測によって結果が変わってしまうから、自分じゃなくて、壁として見たい、というか居たい。美しいものを美しいままで見るために、自分すら必要じゃないんじゃないの、というのがあるのかと。

タケハル:なるほど、女性キャラがいると、そこに感情移入してしまう。

Dain:そうそう。自分に近いキャラが出てくると、どうしてもそこに自己を投影しちゃうじゃないですか。それがイヤなんです。だから、ハナからそうさせないために、女性がいない、いても極めて少ない世界をつくる、というのはありだと思います。

美しいものを、そのままの姿でずっと眺めていたい……BLが美形キャラだらけなのは、そんな理由なのかも。現実はともかく、ボーイズ・ラブは美形だけで成り立ってる。

スケザネ:確かに! 文学なんかもそうで、『ヴェニスに死す』なんかも原作を映画化した時、ビョルン・アンドレセンとか美形キャラクターが起用されていた。古来から、男どうしだと美形キャラを出してくる。そういう風に思わせたいから。

タケハル:これは高等遊民マターだなw プラトンの『饗宴』とかあったなぁ

全員:www

6. なぜ佐条が主役なのか?

タケハル:キャスティングを見てて面白いのが、佐条くんが最初に出てくる。ふつう、キャスティングの最初は、主役になる。ということは、佐条くんが主役?

スケザネ:草壁くんじゃないんだ、もちろんダブル主人公だけど、映画のラストが草壁くんのナレーションだったから、すこし不思議な感じがする。

タケハル:ヒロインにあたるのが佐条くんだからなのかな?

スケザネ:でも、ヒロインを射止めようとする方が先にくるんじゃないの?

タケハル:ディズニープリンセスみたいに、白雪姫のヒロインは白雪姫みたいな感じで、ヒロインに佐条くんがくるのかも。

ちょっと余談だけど、ディズニープリンセスで、一人だけ人気のないキャラがいるんだけど、それは誰だと思う?

  • シンデレラ
  • 白雪姫
  • アリエル
  • ラプンツェル
  • ジャスミン

ヒントは、この中で一人だけ、違和感がある人になる。

スケザネ&Dain:うーーーーーーん?

タケハル:正解はジャスミン。彼女だけが主役じゃないから。プリンセスのストーリーとして、主役という存在は、「助けられるほう」になる。そう考えると、佐条くんが主役なのが納得できる。

たぶん、この場に女性がいたら、即答で「え?どう見たって佐条くんが主役じゃん」と言うんじゃないかな。

スケザネ:これは、ジェンダーの深いところにかかわってきそうですね。

7. 「耳」を大事にした脚本

スケザネ:会話のリアルさにしびれましたね。すごい印象的なのが、草壁君がライブに誘うところ。「そんな大袈裟なもんじゃないんだけど・・・ヨソのガッコ―のやつなんだけど、中学んときの友ダチなんだけど」と、言う。「だけど、だけど、だけど」と3回続いている。アニメは字幕ありで観たんだけど、文字だと違和感ありつつも、会話だったら絶対言うわこれって。

Dain:いまマンガの原作を見ているけれど、全く一緒ですね。脚本は、そのまま原作を持ってきているね。

スケザネ:ふつう、マンガとか小説だと、「だけど」を何度も続けるのは避けちゃいますよね、気持ち悪いから。だから、これをやれるのは凄い。

タケハル:この感覚は敵わない。ちゃんと聞いた言葉を、ちゃんと表現している。これはすごく耳を大事にしているからできてる

僕がやろうとすると、理性が働いちゃう。会話として耳で聞くとそうだなーと思うけれど、物語を作る中で文字にしようとすると、出てこない。

これをちゃんと言っている神谷浩史もすごい。下手にやると、「だけど」の連続に気づかれちゃう。

タケハル:あと、道具の使い方が上手いなぁ。噴水でNUDAがこぼれて炭酸水が広がるところ。ペットボトルを拾おうとして思わずキスする流れのところ。あの広がっていく白い水、精液を思わせる感じがしたなぁ……

Dain:言われてみると……いま原作のマンガ見返しても、そう見えますね。

タケハル:2008年、あの頃NUDAよく飲んでたんで、知ってます。地面に転がっても透明なものが広がるだけで、あんな色にはならない。

8. 同性愛の葛藤があるべき?

Dain:僕は、僕自身に偏見というか思い込みがあったことに気づかされましたね。「BLの登場人物は、同性愛に思い悩むべきだ」という偏見です。

なんでこんな偏見ができたのか? フォースターの小説の影響かも。BLの元祖ともいうべき小説で、『モーリス』というのがあるのですが、主人公のモーリスが性的嗜好に苦悶するんです。

スケザネ:生前は発表されなかった作品ですね。

Dain:そう、フォースター自身が同性愛者ということもあって、秘密にされていました。100年前のイギリスなので、同性愛は犯罪扱いされていた時代です。

タケハル:オスカーワイルドなんかもそうですね。

Dain:はい、ワイルドもそういう目で見られてました。『モーリス』の中では同性愛のことを、「ワイルドの病気」みたいな言い方をされてました。同性愛を描こうとすると、社会からおかしな存在だと思い悩むもの同士が、共犯者として扱われる。それを読者が「覗く」という構造になっています。

でも、『同級生』は苦悶しない。それはちょっとは悩むことはあるけれど、極端なことは考えない。普通の、自然の恋愛として描かれてます。

タケハル:ラストなんて、普通に公園でキスしてましたよね。

Dain:そーそー、人目を気にしながら。だから、これを新鮮に思う、ということ自体が、僕の同性愛に対する規範化された偏見の裏返しなんだろな、と思ったのです。

スケザネ:何年か後には、もうあたりまえになっているかも。そうあるようにがんばりたいですね。

9. 普通の恋愛を丁寧に描く新しさ

Dain:『同級生』の、ベタな展開が新鮮に見えました。これぞ青春ってのが、「走る」こと。いたたまれなくなって逃げ出したり、それを走って追いかけたり、原作をチェックしたら、5章の全て、草壁くんと佐条くん、必ず走ってます。

あと、相合傘もそうだし、なんでもないすれ違いで喧嘩するとか、進路どうするとか、そいういうありがち展開を、丁寧に、忠実に再現する。

これ観てて、『月がきれい』の既視感を覚えました。

中学生の男の子と女の子が出会い、恋に落ちるプロセスを、丁寧に、忠実に描いたアニメ。いろんなラブストーリーを食い散らかしてきた僕には、めちゃくちゃ深いところまで刺さりました。

スケザネ:普通が新鮮なのは面白いですね。

ただ、物語としてはどうなんでしょう? リアルに寄せたビジュアルで、普通の恋愛をベタベタに描くことで、面白い物語になっているかが気になります。

Dain:誰しも思い当たるような、普通の恋愛のハードルを、一つ一つ越えていく話なんだけど、それを説明してもなぁ……全12話にサブタイトルがついていて、そのサブタイトルが、手がかりになると思います。

第1話のサブタイトルが「春と修羅」、第2話が「一握の砂」、次が「月に吠える」……

スケザネ&タケハル:

Dain:5話なんて「こころ」だし、6話は「走れメロス」と続きます。

スケザネ&タケハル:www

Dain:そうなんです、文芸作品のタイトルが、サブタイトルになっているんです。

スケザネ:そーか、「月がきれい」もそこから来ているんだ!

Dain:そーです。漱石が、“I Love You” を「月がきれいですね」と訳したのは都市伝説と言われていますが、みんなそれを承知の上で、「月がきれい」を “I Love You” だと思っているじゃないですか。それを、ちゃんと、やるんです、男の子が。「月がきれいだね」って言おうとするんです、でも、「つき……」で止まってしまう。

けどそれって、漱石のネタを知っている人にしか伝わらないですよね。男の子は趣味で小説を書いているので、知っているんです。

でも、言われた女の子は知らないんですよ。部活で陸上やってて、走るの大好き少女で。でも男の子のことは気になってて……

で、知らないから、普通に返すんですよ、「つき、きれいだね」ってすごくいい笑顔で。

これを、このすれ違いを、「美しい」と思える人にはめちゃくちゃ刺さるんです。そういうアニメなんです、これは。第1話は Youtube で視聴できます

スケザネ:あ、これ観たい。

タケハル:ビジュアル的に女の子のほうが文学少女っぽく見えるけれど、実はそうでもないんですね。

Dain:普通なのに新しい、と思えるのは、僕自身が物語モンスターだからかも。

この物語は、どうやって僕を感動させてくれるのだろう? どんな過去の因縁があるの? どんな能力があるの? どこから転生してきたの? もっと、もっと頂戴って、物語を食べるモンスターなんです、僕は。そんな物語モンスターからすると、生々しい「普通の」ラブストーリーは、すごく眩しく見えるんです。

【了】


今回の対談も、たいへん勉強になりましたな。BLは質も量も大きすぎて、ほとんど知らない世界だったけれど、『同級生』という素晴らしい作品に出会えたのは、物語の探求読書会のおかげ。

その作品をどのように味わうかで、自分がどんな考えを持っており、どういった感性が反応しているかが炙り出されてくる……この自分自身の暴き立てが面白い。これは、一人で観る/読むには限界があり、対話によって発見していくものなのかも。

さて、次回は、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』をテーマに語り合う予定。本が禁制品となった未来を舞台にした名作SFやね。場所はスケザネさんが検討中なので、そのうち告知されるかも?

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インドでメシ食ったら人生大逆転した『今日ヤバイ屋台に行ってきた』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年3月13日


470万回再生されているこの動画、たまご300個でスクランブルエッグ作っているんだけど、語彙力を失うヤバさで、何度も魅入ってしまう。

バケツ一杯の玉ねぎと、トマト40個刻んだやつに、笑うしかない量の油と、土俵入り3回分の塩、チリパウダーとパクチーとトウガラシは親の仇くらい盛る。

[これ]



これらが直径1メートルの円い鉄板にぶちまけられ、火力MAXで焼かれてゆく。ダイナミックに撹拌されるチリパウダーの粉塵が、蒸気に乗って店内に充満してゆくのが見える(せきと涙にまみれながら撮影したそうだ)。

他にも、牛肉バーガー300人前を一気に作るとか、ドライカレー100人前とか、ヤギを一匹丸ごと使ったビリヤニ(炊き込みごはん)とか、屋台ではありえない物量を豪快に作る。

持ち込みを調理してくれるのもアリで、日本から持ってきた「サッポロ一番塩らーめん」「ペヤング超超超超超超大盛やきそばペタマックス」を元に、オリジナリティが如何なく発揮され、原型を留めていない一皿を作ってくれる。

撮っているのは著者自身で、登録者数60万人を越えるYoutuber、坪和寛久さんになる。インドの屋台を撮った動画で有名になり、再生数100万回を越えるのもザラで、「サッポロ一番塩らーめん」なんて今見たら427万回というお化けコンテンツなり。

インドでメシ食って人生が変わった男

その書籍化が、[今日ヤバイ屋台に行ってきた]

卒業して、就職して、5年ほど働いたのだが、どうも会社人としての立ち回りが下手なほうで、「うだつのあがらない社会人」だったという。悶々としていたときに、インドで働く知り合いから声をかけられ、海を越えることになる。

人生を変えるきっかけは、屋台メシだった。

削りチーズにより埋没した「1kgサンドイッチ」なるものを口にして、そのあまりの美味さにのけぞったという。そして、屋台街に入り浸るようになる。

どの店も開放的で、調理している様子の一部始終を観察できる。交渉すれば撮らせてくれるところもあるし、観光客向けの「映え」を意識した店もある。そして見ているだけで面白い。

慣れた手つきで小気味よく動くけど、大雑把でテキトーな感じ。調理法は独創的だけれど、衛生面では絶望的になる。こぼれまくる食材、鍋にこびりついた残飯らしきブツ、周囲を行き交うハエなどモノともせずに、果敢に火柱を上げる。

日本人の衛生観念だとドン引きだろうが、出てくる料理は美味しそうなものばかり。iPhone の画面ごしに、香ばしさや辛旨さ、暴力的なカロリーが伝わってくる。

そんな動画が日本の深夜番組で紹介されたのをきっかけにバズり、あれよあれよと、押しも押されぬ Youtuber となってしまう。塞翁が馬じゃないけれど、何が起こるか分からない見本みたいな人生だ。

「おおらか」は伝染する

撮るほうなので、ほとんど画面に映らないけれど、料理している人とのやり取りで、めちゃくちゃ楽しんでるのが分かる。そして、旨味と辛みとカロリーに殴られながら食べているのも伝わってくる。

観てて(読んでて)面白いのは、インドの「おおらかさ」は著者にも伝染しているところ。鍋にこびりついた残飯は「思い出」と命名され、周囲を飛び回るハエは「黒い妖精」として大目に見られる。

そんなぶっ飛んだ価値観に、わたしが後生大事にしている感覚も相対化されてゆく。多少のことも「ま、いっか」と許せるようになってくる。とりあえず、狂気のごとく味の素を入れているのを見て、私の料理でも解禁することにした。

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東大教養学部の集中講義『歴史学の思考法』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年3月20日


高校日本史の教科書で、鉄砲伝来の記述として正しいのはどちらか?

  1. 1543(天文12)年、ポルトガル人の乗った船が、九州南部の種子島に漂着した。
  2. 1543(天文12)年、ポルトガル人を乗せた中国人倭寇の船が、九州南部の種子島に漂着した。

答えは、どちらも正しい。Aは、1980年代の記述で、Bは近年のものになる。

だが、イメージが違ってくる。Aだと、ポルトガル人を乗せた西洋の船が漂着した、と想起されるが、Bの場合だと、橋渡し役として倭寇が登場する(※)。

なぜ、記述が変わったのか? 新たな史料が発見されたのか?

新しい史料が発見されたわけではない。南浦文之『鉄砲記』とガルヴァン『新旧発見記』とで、漂着した年に差はあるが、根拠となる史料は変わっていない。

同じ史料に基づいているにもかかわらず、昔の教科書では「中国人倭寇の船に乗って」いなかったのはなぜか?

史料を読み取る側の変化

東大教授陣の『歴史学の思考法』によると、変わったのは、史料を読み取るわれわれの側になる。

潮目は、1990年の前後。

それまでは、歴史学者の間で「国家の枠組みを前提とした歴史」が主流だった。だが、戦後体制の崩壊やグローバル化の世界情勢の中で、「国家の枠組み」の限界が強く意識されるようになったという。

そして、国境をまたぐ「東アジア海域」全体の歴史像をとらえようとする研究視角が生まれ、この視角からの研究が盛んになる。そこでは、倭寇を単なる「荒くれもの」とせず、地域間の交流や商業を担っていたという側面に目が向けられるようになる。

教科書の記述が変わったのは、こうした背景による。

新たな視角による歴史像の再解釈のなかで、今まで注目されていなかった事実(ポルトガル人は中国人倭寇の船に乗ってきた)の重要性がクローズアップされた結果だというのだ。

歴史とは現在と過去との対話

歴史は過去を扱うから、歴史学は「確定したもの」に対する学問だと思っていた。新たな史料が出てこない限り、「確定したもの」は変わらないと考えていた。だが、この考え方は違っていたようだ。

本書p.27にこうある。

歴史学の営みが行われるのは、現在(いま)である。現在を生きる人間が、その時代の価値観や情勢を背景に、ある問題について関心を持ち、そこから過去に対する問いを立てる。その意味では、歴史学は現在がなければ存在しない、現在と不可分の学問なのだ。

そして、現在の情勢はゆるやかに、時に急速に変わってゆく。そうなると、その時点から、「現在」は過去になるため、過去はさらに問い直されることになる。

「ポルトガル人が鉄砲をもたらした」という史実は変わらないが、それをどう評価するかは、現在のわたしたちの価値観によって変わる。変わるたびに過去は問いなおされ、フィードバックされるのだ。E.H.カー「現在と過去との尽きることを知らぬ対話」という言葉は、まさにこれを指しているのだろう。

世界史 ≠ 各国史の総和

自分の盲点に気づいたのが、「各国を合わせると世界になるが、世界史は各国の歴史の総和ではない」という点だ。

たとえば地図帳を開くと、国別に色分けされた世界地図が目に入る。現代の世界は国家を単位として構成されているから、世界とは各国の総和だという考えは自然に思える。

だが、この思考法に基づいて世界史を思い描くことは、問題だという。

では、どのような問題があるか。

もし、「世界史=各国史の総和」だとすると、このように構成できるだろう。

世界史 東洋史 東アジア史 日本史
中国史
朝鮮史……
東南アジア史 ベトナム史
タイ史
フィリピン史……
西洋史 ヨーロッパ史 イギリス史
フランス史
ドイツ史……
アメリカ史 アメリカ合衆国史
カナダ史……

だが、上記のように構成させると、様々な問題が出てくる。

まず、各国の歴史が孤立的、単線的に扱われてしまうという。各国に閉じた中で、互いに影響しあうことなく、個別が展開していくという、ありえない歴史像になるという。

次に、歴史的に見て、「国家」という政治単位は、特定の時期に形成されたものであるにもかかわらず、固定的にとらえてしまうおそれがあるという。そして、固定的な見方から遡及して、過去を切り取ってしまうことになる。

その結果、現在の「国家」によって歴史を分断したり、現在「国家」でないものを切り捨てることになる。たとえばチベットは、固有の言語、文字、信仰をもつ独自のまとまりをなしてきたにもかかわらず、現在国家をもちえないために、抜け落ちてしまう。

さらに、「国家」の内実の重層性をすくいきれなくなるという。ある空間における住民と言語、文化、風俗習慣との組み合わせや重なりは多様なはずで、ピッタリとは重ならない。この重層性・多層性の見え方が抜け落ちてしまう。

たとえば、かつてユーゴスラビアと呼ばれた「国家」は、7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持っていた。それぞれが絡み合い、分断されていた。坂口尚のコミック『石の花』でユーゴスラビアの複雑な状況を知ったが、上記の構成では、どこにも記載できないだろう。

あるいは、アニメ映画『もののけ姫』では、「国家」から分断された人々が登場する。大和に敗れた蝦夷の末裔であるアシタカの民や、城塞都市のごとき自治組織で、製鉄・加工プラントを運営するタタラの人々がそうだ。もちろん『もののけ姫』は物語だが、そのモデルとなった人々は実在した。そうした人たちを無視した歴史を記述しようとすると、「日本」の多層性・重層性は抜け落ちてしまうだろう。

歴史学の思考法

むしろ、これらの問題を逆転させると、歴史学の思考法が見えてくる。

すなわち、各国は互いに影響を及ぼしながら歴史は展開してゆくものであり、現在(いま)目に見える国家で過去を遡及的に切り取ることは危うい。

さらに、空間における人、言語、文化の組み合わせの「ずれ」にこそ、目を向ける必要がある……これが、歴史学の思考法になるのだ。

他にも様々な方法で、歴史学の思考法がどんなものであるか、学ぶことができる。12講座12章のテーマで、特に気になったのがこれ。

  • 気象変動と歴史(歴史は人間が作るといわれるが、気象変動にも多大な影響を受けてきたことを、海水準変動から説明する)
  • 「帝国」の見直し(均質性を求める国民国家より、多様性を認める帝国を再評価する動き)
  • サバルタン(権力構造から疎外された人々)の歴史は語ることができるかを追求する
  • 文学として歴史学のテクストを書くこで、実用的な過去としての歴史学を追求する。歴史の書法(エクリチュール)の可能性

東大駒場の教養学部で行われる連続講義をまとめた一冊。

※『歴史学の思考法』では「倭寇」と表現されているが、「密貿易商」という表現もある。下記参照。

鉄砲を伝えたとされるポルトガル人は、おそらく1542(天文11)年、シャム(タイ)から中国人密貿易商の王直の船に乗って種子島に着いたものとみられる。
山川新日本史 改訂版(2017文部省検定済)p.143

ちなみに、日本で宣教を行ったフランシスコ・ザビエルも、倭寇の船で来日したとのこと。

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「ジャンプ最高のマンガ」がバラバラになる理由『好き嫌い 行動科学最大の謎』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年3月28日


「週刊少年ジャンプで最高のマンガは?」

この答えは、必ずといっていいほど割れる

気持ち的にスラムダンクを推したいが、やはりドラゴンボールだろうか。だが、ワンピこそ最高という人、完結さえすればH×Hだという人、売上的にも鬼滅という人、様々だ。

面白いことに、学生時代の友人だと被るのに、若者と話すと違ってくる。たしかに呪術やヒロアカは凄いけど、それを「ジャンプ最高傑作」と言われると違う気がする。

老害承知で「ドラゴンボールって知ってる?」と尋ねると、「知ってはいますが、読んでません」とにべもない。さらに、「あれ好きな人って、マンガだけでなく、ゲームやアニメで何度も目にしているから好きなんでしょ?」と畳みかけられる。

ううむ、確かに……

ドラゴンボールがジャンプ最高傑作である理由

私のモヤモヤは、『好き嫌い 行動科学最大の謎』で解消される。

何度も目にしたキャラや、あちこちで耳にした音楽が好きになる。これは、単純接触効果という名前がついている。くりかえし触れることで、そのキャラや音楽を学習し、認知が容易になるためだという。

つまり、認知処理が容易であれば心地よく、それが刺激そのものに対する感情に移し替えられるというのだ。なるほど、「オレンジ色の道着」というだけで想起できるぐらい、わたしの認知処理は馴染んでいるのかもしれぬ。

ただし、何度も接触すれば好きになるかというと、そうではない。

これは、テレビのCMやネット広告でよくある。何度も触れているうちに、キライになる場合もある。

なぜか? この疑問にも、本書は答えている。

ポイントは、最初に意識された印象によるという。特に肯定的でも否定的でもなく、単に目新しい、という条件であれば、接触を繰り返すことで好みを高める。

だが、初めの感情がわずかでも否定的だった場合、接触が繰り返されることで、キライが積み重なっていく場合があるという(※1)。

「第一印象が最悪だったけれど、会っていくうち好きになっていく」というラブコメの王道パターンは、ファンタジーなのかもしれないね。

「ジャンプ最高傑作」が割れる理由

そうはいっても、接触効果だけで説明がつくのだろうか?

よく売れていて、馴染みがあるものが、自動的に一番になるのだろうか。ほんとうに、「売れてるものが一番なら、世界で一番おいしいラーメンはカップ麺だ」なのだろうか?

本書では、その秘密にもメスを入れる。

ホルブルックとシンドラーの研究によると、人は、23.5歳のときに聴いた音楽を、最も好む傾向がある(※2)。この時期は、人生で最高感度の臨界期であり、コンラート・ローレンツの「刷り込み」のように、ここで聴いた音楽が長く耳に残るというのである。

これの傾向は、レミニセンスピーク(レミニセンスバンプ/Reminiscence bump)という言葉でも説明される(※3)。

記憶に残るほど衝撃を受ける出来事や変化は、青年期~若年成人期に起こるというのだ。この頃に聴いた音楽は、記憶の中に残りやすいことになる。

Lifespan Retrieval Curve.jpg
Reminiscence bump より引用(Public Domain, Link

過去の「良い」と感じた音楽だけが、記憶の中で残り続ける。だが、現在は、「良い」と感じた音楽も、そうでない音楽も耳に入ってくる。過去だけが、自分の良いと感じたものを再生できるというのだ。

記憶とは、自分の聴きたい曲だけを流すラジオ局のようなものだ。好きな音楽のことを考えて多くの時間をすごしたなら、その音楽を聴けばいまでもすぐに思い出があふれてきて、快感をくすぐられるのは当然なのである。

なるほど、私がスラムダンクやドラゴンボールを最高だと思うのは、それを若いころに読んだからだということになる。フライングで買えるコンビニまで30分自転車こいだ記憶や、深夜のテンションで友だちと回し読みした思い出も込みで、「最高」と感じているのかもしれぬ。

そして、自分が若いころに読んだ/聴いた作品がスペシャルになるが故に、「ジャンプ最高」は割れるのだろう。

他にも、作品が賞を受賞すると、Amazonの★評価が大きく下がる理由や、フィギュアスケートや音楽コンテストで、後の演者の方が得点が高くなる理由など、興味深いトピックが紹介されている。

行動科学の観点から「好き/嫌い」を探ることで、自分の「好き」がいかに不確かでバイアスにまみれているかが明らかにされる。

本書は、骨しゃぶりさんのお薦めで出会うことができた。骨しゃぶりさん、ありがとう!


※1 Richard J Crisp and Bryony Young “When mere exposure leads to less liking”

https://www.researchgate.net/publication/5308635_When_mere_exposure_leads_to_less_liking_The_incremental_threat_effect_in_intergroup_contexts

※2 「モリス・ホルブルックとロバート・シンドラーの研究」とあるが、論文名は原注がないため特定できず(『好き嫌い』p.171)

※3 Howard Schuman and Jacqueline Scott “Generations and Collective Memories” American Sociological Review Vol. 54, No. 3 (Jun., 1989), pp. 359-381 (23 pages)

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コンピュータは創造性を持てるか?『レンブラントの身震い』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年4月4日


「コンピュータは創造性を持てるか?」という問いを目にするたびに、この「俳句」を思い出す。

かかかかかかかかかかかかかかかかか

俳句は五・七・五の定型詩だから、十七音になる。濁音などもあるが、日本語を五十音とすると、俳句の全ては50^17(50の17乗)首になる。

その解は、7.62939453×10^28という途方もない数字である。字余り・足らず・自由律も考えるとさらに膨大になるが、組み合わせはコンピュータの得意技だろう。一つ一つ見てゆくと、膨大なデタラメの中に、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」だってある。冒頭の「俳句」は膨大な中の一首だ。

問題は、「かかかかか」から「法隆寺」を選び取ることにある。そしてそれは、人にしかできない。

もちろん、優れたコードであれば、季語を判断したり、言葉として成立している組み合わせに絞れるかもしれない(実際ある※1)。

だが、そこから、創造的な、良い句を選び取ることは、最終的に人になる。AIが詩を書いたとか、絵を描いたというニュースを目にするたびに、傍らに控えている人に目が行く。

コード自ら創発的なアウトプットを出せるのではなく、人が介在して初めて、創造的に振舞っているように見えるのだ。

人工知能がレンブラントの「新作」を創る

マーカス・デュ・ソートイの『レンブラントの身震い』は、このテーマに真っ向から斬り込む。

もし、AIがレンブラントの作品を学習したならば、レンブラントが描いたであろう次の作品(Next Rembrandt※2)を創ることができるか? その「新作」は見るものを感動させることができるのか?

まず、レンブラントの肖像画346作品をスキャニングし、モデルの性別、年齢、顔の向き、顔のポイントとなる幾何学的分析する。

次に、レンブラントが次に描いたであろう典型的な人物のモデルを設定し、特徴的な光の使い方や目鼻、口を描く際のアプローチを踏襲していく。油絵のため、立体的な絵具の重ね方や凹凸もデータとして取り込み、学習していく。

死後347年の時を経て、AIが描いたレンブラントの「新作」はこれになる。

美術評論家は「味気なく、無神経で、魂のない茶番」と酷評で、レンブラントの作品に向き合ったときに人が感じる、「レンブラントの身震い」は引き出せなかったという。

貧困や老齢といった、レンブラントをレンブラントたらしめ、その芸術をかくあらしめた人間的な出来事を経験すべきだと断じている。だが、そうした経験が彼の作風にどのような影響を及ぼしているか、パラメータやタグとして定義できない限り、コードにすることは不可能だろう。

AIは「創造」ができるか

絵画、音楽、数学、文学、そして囲碁など、さまざまな角度から、この問題に迫ってゆく。

単なる模倣と組み合わせではなく、人が驚き、素晴らしいと感じられるような作品を創りだせるか?数多くの事例から面白そうなものをピックアップしてみた。

分野 名称 創造的なポイント 評価・感想など
絵画

アーロン
AARON

模倣や分解ではないアルゴリズムで抽象画を描く。色や線を選び取る意思決定プロセスに乱数を入れることで、自立的な振る舞いに見せる。 なぜこの配置のほうが別の配置よりも面白いのか、という選択は行われない。出力されたものを取捨選択するのは人。
絵画 ペインティング・フール ギャラリーを訪れた人の肖像画を描くプログラム。当日の新聞記事の単語から「気分」を決め、それに沿ったスタイルで描く。 「創造的」というものは存在せず、創造的なふるまいをするという方針。悲観的な記事が描かれた場合、意気消沈して絵を描かずに来訪者を追い払うことも。
絵画

ネクスト・レンブラント

レンブラントの絵画をスキャンし、タッチや色使い、レイアウトの特徴などをAIに学習させ、レンブラントの「新作」を再現する。 美術評論家の評「味気なく、無神経で、魂のない茶番」。レンブラントの作品に向き合ったときに人が感じる、「レンブラントの身震い」は引き出せなかった。
音楽
ディープバッハ バッハが作曲した352曲の讃美歌のハーモニーを学習し、バッハのスタイルで讃美歌を生成する。テストとして、実際にバッハの曲か、ディープバッハが作ったものか、判別してもらう。 被験者の半数が、ディープバッハの作品を、バッハの真作だと判断した。ただし著者は、「これじゃない」と異を唱える。
音楽

コンティニュエイター

ジャズ演奏者のリフを学習させ、ある音を加えたときの次の音の確率をマルコフ連鎖を用いて計算し、演奏を続けていく(コンティニューしていく:continuator) ジャズ・ミュージシャン「私が自分で演奏したはずのアイデア、といってもそれを思いつくのに何年もかかったはずのアイデアを見せてくれる。私の何年も先を行っていて、それでいて、これが演奏するすべてが紛れもなく私のものなんだ
音楽 Jukedeck(現在はサービス終了) キーワードや選択肢からAIが音楽を自動生成

「まぁまぁ」「ひどくはない、まぁ聞ける」「安価・大量にあるのがよい」など。著者は、「モーツァルトのサイコロ遊びのようなもの」。

数学 ミザール数学図書館 数学の証明を検証するプログラム。数学の証明の図書館を作成することを目的とする。人間が一切関わらなくて済んだ証明が全体の56%を占めている。ディープマインドは図書館のデータを用いて機械学習に訓練させ、新たな定理証明アルゴリズムを作成 人間が関わらなくて済む証明の割合を、56%から59%に拡張した(コンピュータだけで辿り着ける証明が3%増えた)。著者曰く、「だから何なのか。その3%に、息をのむような証明が含まれているのか。数学をするうえでのポイントを外している
文学 イライザELIZA 人と会話するセラピストプログラム。相手のキーワードを判断し、それに応じた反応を示すオウム返し 広がりに欠けていて柔軟性が乏しく、それまでの会話を覚えていない可能性もある。
文学

サイバネティックポエット

シェリーやT・S・エリオットの完成された詩人の作品から、言葉の一部を入れ替え、換骨奪胎することで新しい詩を生成する。 チューリングテストで、人間の判定者たちをほぼだましおおせた。著者曰く、出力結果の解釈をヒトに任せたから、多少謎めいていても、人が書いた作品として通用した。
文学

ボットニック

ハリポタ全巻学習させて、使われている単語や言い回し、筋書きを入れ替えることで、新しいハリーポッターを創造する。

著者曰く、プロットに欠け、3ページ以上ドラマを展開できるとは思えない。

文学

シェヘラザードIF

ジョージア工科大学によって開発された、既存の物語から学習して、読み手とインタラクティブに対応しながら新たな物語を作成するプログラム。

初期プロットから選択肢が示され、選ばれた選択肢からさらに別のストーリーが生成される。いわゆるアドベンチャーブックの自動生成版。優れた物語を見つけるのは至難の業

囲碁

AlphaGo

Google DeepMindによって開発されたコンピュータ囲碁プログラム。プロ棋士を打ち破ったことは世界に衝撃をもたらした。

囲碁韓国チャンピオンのイ・セドルとの第2局目の黒37手は、それまでの囲碁の慣例を覆した「創造的」な一手とする。AlphaGoにより、全く新しい戦略が研究されるようになった。

面白いことに、「AIは創造性を持てるか?」という切り口で眺めると、「創造性とは何か?」と問われているように感じられる。

創造性とは何であるかが定義できるのであれば、そいつを引数にコードにしたり、タグづけして学習させるデータセットを用意できる。だが、事実、そうでないからこそ、この問いに立ち返ってくるのだ。

「創造性がある」と言わしめるためには、人をあっと驚かせ、既存とは違う印象を与えるだけでなく、それを「良い」「素晴らしい」と感じさせる必要がある。そこには、必ず人のフィードバックを必要とする。なぜなら、「良い」は予め定義できないから。

フィードバックが早いほど創造的になれる

音楽のAI「コンティニュエイター」が良い証拠だ。

ピアノやギターであるリフを弾くと、そのその演奏を学び、次のフレーズを返すAIだ。ただ返すだけでなく、新たな領域を探りながら即興で創りあげ、演奏を続けていく(continuator)。

例えば、子どもがデタラメに鍵盤を叩けば、AIもデタラメに(でもちょっと違った風に)返してくる。プロのギタリストが即興で速弾きすると、負けじと素早いフレーズで追いかけてくる。

AIのインタラクトにはマルコフ連鎖が用いられていると解説されるが、聞いているほうにとってみれば、「もう一人のプレイヤーが応えて弾いている」ように見える。

コンテンポラリー・ジャズを専門とするベルナール・リュパは、コンティニュエイターを試した後、大いに感銘を受け、作曲スタイルを変えたという。

私が自分で演奏したはずのアイデア、といってもそれを思いつくのに何年もかかったはずのアイデアを見せてくれる。私の何年も先を行っていて、それでいて、これが演奏するすべてが紛れもなく私のものなんだ。

AIは「自分が弾いたかもしれないリフ」を提案し、それに沿って行くか、それとも異なる方向に変えていくかを、人がフィードバックする。文字通りの「セッション」を重ねていくことで、プレイヤーにとっての「良い」を学習していくことができる。

本書を通して読む限り、AIが創造的に見えるとしても、「選ぶ」という行為は人に残り続ける。なぜなら、何をもって「良い」とするかは、時代や文化により違ってくるから。


※1 「AI一茶くん」というプロジェクトで、既存の俳句と適切な風景画像の組み合わせを学習させ、任意の風景画に対して新たな俳句を出力させる。

https://www.s-ail.org/works/aihaiku/

※2 「ネクスト・レンブラント」というプロジェクトで、ディープラーニングでレンブラントの作品の特徴を分析し、3Dプリンターを使って“レンブラントらしさ”を再現する。

https://www.nextrembrandt.com/

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リングフィットアドベンチャーで一番えっちな運動はどれか?

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年4月11日


引きこもりによる運動不足を解消すべく、リングフィットアドベンチャーを続けている。だいたい100日で腹が割れてきて、150日で引き締まった身体になった(体重は変化なし)。

継続は力は本当だが、続けるためにはモチベが要る。

やせたいとか、腹をへこませたいとか、そんな動機だと、いずれそのうち心は折れる。

たとえ1日20分でも、効果が出るには時間がかかる。長期的な成果の前に、より短期的な動機付けが必要なのだ。

だから、えっちな運動を提案する。

リングフィットでは、自分の動作を主人公のアバターが真似をする。つまり、えっちな運動を選べば、その通りにアバターは動く(ここ重要)

えっちなポーズで静止して主人公さんを眺めたり、運動してる自分の姿を鏡に映して見ることで、ニコニコしながらフィットネス。折れた心は元通り。エロスは全てを解決する。

このゲームには、実に60種類以上ものフィットネスが用意されている。「うで」「はら」「あし」の部位を重点的に鍛えたり、体幹を鍛える「ヨガ」など、簡単なものからキツいものまで様々だ。

ここでは、独断と偏見で選んだ、わたしのモチベを刺激する運動を紹介する。

第10位:チョウツガイのポーズ

上体を前に倒し、片方の腕をゆっくりと上げ下げする。

お尻鑑賞エクササイズ。重要なのは、テレビに映る主人公さんのお尻を見ながら、自分も同じようにお尻を突き出しているんだ、と想像すること。見る自分=見られる自分と重ねることで、動機付けがUPする。

第9位:ヒップリフト

床に背中を付けて寝そべり、腰を浮かす。

ヒップアップの効果があるというが、やってることがヒップアップである。「やだ、腰が浮いちゃう!」とかつぶやきながらプレイすると、動機付けが上ること請け合う。おっさんがリビングでするようなポーズではない。

第8位:ベントオーバー

身体を前に倒し、リングコンを左右に持ち上げる。

ただ持ち上げるだけなのだが、腕をまっすぐにキープするのがキツい。主人公さんが突き出す形の良いお尻がえっちである。こういうお尻になりたいという理想の形である。上目づかいで鑑賞するため、ことさらゆっくり動作している。

第7位:バンザイモーニング

リングコンを頭上に持ち、前へと倒す。

これもお尻がよい。そろそろお気づきになられたであろうが、モチベを刺激するにあたり、お尻に重点が置かれている。起き上がるとき、主人公がぴょこんと起立するのが可愛い。マネしたらギックリ腰になった。

第6位:折りたたむポーズ

リングコンを、背面から前へと、ゆっくり倒す。

リングフィット屈指の丸見えポーズである。むっくりさらけ出される股間をじっくり眺めながら、ゆっくり起き上がる。安全が確保されている状態を見計らって全裸ですると、かなりの動機付けとなる。全裸でリングフィット、これは効きます。

第5位:バンザイスクワット

リングコンを頭上に持ち、スクワットする。

スクワット系は良い。スクワット、ワイドスクワット、バンザイスクワットの順でキツくなるが、同時にお尻の形も良きものに見えてくる。少しでも長く鑑賞するために、しゃがみキープを続けることで、脂肪燃焼にも効く。

第4位:椅子のポーズ

腰を落とし、リングコンを上下にゆっくりと動かす。

一見、地味なポーズだが、ゆっくりやればやるほどキツい。いわゆる「空気椅子」である。私見だが、この運動をするときのお尻の形が最も良きものに見える。お尻から足全体が火照るのをシンクロしながらプレイしている。

第3位 アシパカパカ

足を上げた状態で床に座り、両足を大きく開く。

とても人様には見せられない、あられもない恰好である。足を開いたまま静止すると、主人公さんも開きっぱなしになるので、モチベーションがさらに上る(ただし、そのうちお腹がぷるぷるしてくる)。

第2位:プランク

両ヒジを床につけ、腰を上げる。

完全に正常位である。あるいはダイナミックな床オナである。めちゃくちゃキツいが、「これは腹斜筋を鍛えるアクロバティックな性行為なんだ」と自分に言い聞かせることで、続けられる。想像力は全てを解決する。

第1位:スーパー腹筋ガード

リングコンを強くお腹に押し付け、足を大きく開き、膝も曲げ続ける。

実はこれ、通常の技ではない。ボス戦にて特定の条件を満たした場合にのみ、発動する。通常の腹筋ガードよりも長く、スクワットも維持する必要があり、かなりキツい。でもこれ、ボスの攻撃を堪えているとき、お尻がぷるぷると震えるのだ!

全裸でリングフィットアドベンチャー

このゲームはよくできている。

ともすると単調になりがちな運動を、様々なミニゲームに置き換え、「運動をする」のではなく「冒険をする」ことで続ける気にさせてくれる。

だが、それでも飽きる。にんげんだもの。

キツい運動しているとき、ふと我に返り、「どうしてこんな変なポーズやらされているだろう?」と自問することがある。

そうしたものを乗り越えて、先に進むためにはどうするか?

そう、想像力だ。

主人公さんとシンクロしつつ、「こんなはしたない恰好させられてる!」と自分自身を脳内に浮かべることで、動機付けがマシマシになる。

「キープ!」というメッセージが出ているとき、主人公さんの使われる筋肉の部位がオレンジ色に輝く。その部位を自分の身体で意識しながらトレーニングすると、なおよい。

さらに、人目のない安全が確保されていれば、全裸プレイが最強だ。テレビを前に、鏡を横に配置して、主人公さんを観察しつつ、横目で自分も眺める。

たとえばスクワットするとき、自分の筋肉がどんな風に動いているか目視できる。あるいは、腹筋ガードで「腕じゃなくお腹に力を入れる」とは何か、実際に確かめることができる。全裸だから。

旅の途中で心が折れた方、あるいは、これから挑もうとする冒険者たちは、この記事を参考に、リングフィットアドベンチャーの奥深さを探求して欲しい。

想像力とエロスで、どこまでも行こう!

 

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無料で米国の有識者にリサーチしてもらう方法

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年10月9日


知りたいことの「検索」には限界がある。

問いが漠然としていたり、不案内な分野だったりすると、そもそもキーワードを何にするか分からない。膨大な結果をどうやって絞り込めば良いか分からない。

日本語圏の場合

そういう時は、品川図書館のレファレンスサービスを利用している。メールで問い合わせすると、2週間くらいで返事がくる(大量の参考文献つきで)。無料だし、品川に住んでなくても大丈夫。ちなみに私は、こんな質問をしたぞ。

  • 「最近の若者は……」という愚痴は、いつから?
  • 沢山の翻訳書があるが、高校の現代国語には無いの?
  • 女子大は男性差別であり、男女平等に反する?

得られた回答を元に記事にしたのがこれ。

英語圏の場合

では、知りたいことが英語圏なら?

Google検索の設定画面で、言語を英語にしたり、検索の際のパラメータに「?gl=us&hl=en」を追加することで、英語圏に限定して検索できる。

だが、英語圏の場合だと、より大変だ。適切なキーワードが分からないし、結果も膨大になるだろう。そもそも得られた情報が確かかどうかも分からない。

そういう時は、ニューヨーク公共図書館(NYPL)のレファレンスサービスをお薦めする。メールで問い合わせすると、2週間くらいで返事がくる。英作文が苦手? DeepLに突っ込めばいい。無料だし、ニューヨークに住んでなくても大丈夫

Ask NYPL: Email

https://www.nypl.org/get-help/contact-us/email

あるいは、英語に自信があるなら、チャットや電話でも受け付けている。いまアマプラでやってる映画「ニューヨーク公共図書館」の最初のあたりで、電話での応対がある。

「ニューヨーク公共図書館」youtube予告編

https://youtu.be/CpnBQrD_U68

「ニューヨーク公共図書館」Amazon

https://amzn.to/3ABKjod

米国に「読書猿」っているの?

ちなみに私は、「米国に読書猿っているの?」という質問をした。

NYPLの中の人(Nickさん)は、読書猿さんを「“Autodidact” 、つまり ”自分で自分を教育する人だね” 」と仮置きして、こんな紹介をしてくれた。

Susan Bauer

https://susanwisebauer.com

編集者、大学教員、著述家。著書は教育から歴史と幅広い

著書 ”the Well-Trained Mind: A Complete Course for Young Writers, Aspiring Rhetoricians, and Anyone Else Who Needs to Understand How English Works”(未邦訳)

Tansel Ali

https://tanselali.com

記憶術のエキスパート、オーストラリア暗記選手権のチャンピオン

著書 “How to learn almost anything in 48 hours : shortcuts and brain hacks for learning new skills fast” (未邦訳)

あと、独学に役立つとして、2冊紹介してもらった。

“The independent scholar’s handbook” Ronald Gross,Addison-Wesley Pub., 1982.

“The Paideia proposal : an educational manifesto” Mortimer Jerome Adler, Macmillan, 1982

今になって気づいたんだけど、この Mortimer Jerome Adler って読書論の古典とも言える『本を読む本』を書いた人じゃねーか!

パレスチナ問題は英米の教科書でどう扱われている?

ただし、質問によっては直接の回答を避けるものもある。

政治的な話や、医療、宗教、金銭がからみそうなものだ。この場合、直接回答ではなく、「ここを参照すると、あなたの知りたいことがあるかも」という導線を示してくれる(むしろ、この方がライブラリアンに近い姿勢だ)。

私が質問したのがこれ。

  • イスラエルとパレスチナの争いの原因の一つに、イギリスの三枚舌外交がある
  • イギリスの責任について、世界史の教科書で、どう説明されているか
  • 日本の高校の教科書では、「マクマホン=フセイン書簡」や「バルフォア宣言」といったキーワードで説明されている
  • この問題について、英国や米国の教科書では、どのように説明されているのか?

NYPLは、直接的なことは回答せず、データベースの入口やリサーチガイドに留まっている。要するに「自分で調べろ」だね。

これ、妥当な回答だと思う。ある特定の資料や人物を紹介すると、その資料や人物の主張を支持していると思われかねないから。

それでも、「パレスチナ問題を扱う教科書への批判調査」というレポートを紹介してもらえた。これは大きい。

A Critical Survey of Textbooks on the Arab-Israeli and Israeli-Palestinian Conflict

The MDC for Middle Eastern and African Studies,2017

https://din-online.info/pdf/mdc1.pdf

このレポートは、米国の高校生・大学生が読む歴史の教科書・指定図書を俎上に、事実関係やバイアス、透明性をレビューしたものだ。「著者が自分の偏見を自覚しているか?」や「イスラエルとパレスチナの両方のバランスが取れているか?」といった観点で批判されている。

オックスフォード大学出版の "A Very Short Introduction" (日本だと「一冊でわかる」シリーズ)がめった斬りにされているのが興味深い。

人に頼ろう

私が一人で「検索」してただけでは辿り着けなかった。「Googleさえあれば何でも分かる」という狭い場所にいる限り、絶対に見えない世界やね。使わないともったいない。

よいリファレンスで、よい人生を。

以下、私の質問文と、NYPLの回答を貼っておく。誰かの参考になれば幸いかと。

Q.「読書猿」って米国いる?

Hello!

I am looking for blogs of people who are studying alone and do not belong to a university. I am looking for someone who can teach me how to learn about what I want to know.

For example, when you search on the Internet, you get many answers, but what do you do when you can not find the words to search in the first place?

What kind of books should a university first grader read in order to learn culture and education?

How do I write a script based on a story idea?

Before I ask someone for each of these questions, I am looking for someone to find out what to do if I want to find out for myself.

In Japan, there is a blogger called "Reading Monkey". In the English-speaking world, I want to know what kind of people there are. Add a reading monkey blog to the URL (in Japanese).

https://readingmonkey.blog.fc2.com/

A.自分で自分を教育する人だね!

Thank you for your interesting question!

“Autodidact” is defined as, “a self-taught person” (https://www.merriam-webster.com/dictionary/autodidact).

While not an authoritative source on the topic, you might find this Wikipedia entry on “autodidacticism” to be interesting and inspired (and it’s well sourced):

https://en.wikipedia.org/wiki/Autodidacticism

In NYPL’s catalog (https://catalog.nypl.org) you can find a number of books that should help you with your efforts to teach yourself, including:

https://catalog.nypl.org/record=b21055447~S1

Author Ali, Tansel, author.

Title How to learn almost anything in 48 hours : shortcuts and brain hacks for learning new skills fast.

Publisher Richmond, Victoria Hardie Grant Books, 2015.

https://catalog.nypl.org/record=b15799947~S1

Author Bauer, Susan Wise.

Title The well-educated mind : a guide to the classical education you never had / Susan Wise Bauer.

Imprint New York ; London : W.W. Norton & Co., c2003.

https://catalog.nypl.org/record=b10998139~S1

Author Gross, Ronald.

Title The independent scholar’s handbook / Ronald Gross.

Imprint Reading, Mass. : Addison-Wesley Pub., 1982.

https://catalog.nypl.org/record=b10794353~S1

Author Adler, Mortimer Jerome, 1902-2001.

Title The Paideia proposal : an educational manifesto.

Imprint New York : Macmillan, 1982.

CALL # 808.2 S

AUTHOR Straczynski, J. Michael, 1954-

TITLE The complete book of scriptwriting / J. Michael Straczynski.

PUBLISHER Cincinnati, Ohio : Writer’s Digest Books, 2002, c1996.

CALL # 808.22 W

AUTHOR Willis, Edgar E.

TITLE Writing scripts for television, radio, and film / Edgar E. Willis, Camille D’Arienzo.

PUBLISHER Fort Worth, Tex. : Harcourt, Brace, Jovanovich, c1993.

Online, Library Thing offers a bibliography on the topic of “autodidactism”:

https://www.librarything.com/tag/autodidactism

We hope this helps!

Q.パレスチナ問題は、英米の教科書でどう説明されてる?

Hello.

I like to look for the causes of modern problems in world history.

I would like to know about the UK's responsibility in the Palestinian issue.

It is said that the British government is one of the causes of the conflict

between Israel and Palestine.

However, the British government is not present at the talks for a solution,

and instead, the United States seems to be mediating between Israel and

Palestine.

Israeli–Palestinian conflict

https://en.wikipedia.org/wiki/Israeli%E2%80%93Palestinian_conflict

So, I have two questions.

First.

What does the UK think about this issue? Is it going to remain silent and try

to avoid its responsibility?

Or is it making excuses or dodging responsibility?

Secondly.

Japanese high school students are learning about this issue in their world

history textbooks using the following key words.

McMahon-Hussein Correspondence

https://en.wikipedia.org/wiki/McMahon%E2%80%93Hussein_Correspondence

Balfour Declaration

https://en.wikipedia.org/wiki/Balfour_Declaration

It is said that the British lied to both Arabs and Jews and used them to

their advantage. What do high school students in the UK and the US learn

about this issue in their history textbooks?

A.入口はここ、自分で調べてね

Thanks for your interesting questions.

While we're not able to research on your behalf, you can find resources on the topic via our online catalog:

https://legacycatalog.nypl.org

One location to visit for your research is the General Research Division:

https://www.nypl.org/locations/divisions/general-research-division

The Stephen A. Schwarzman Building, Room 315

476 Fifth Avenue [at 42nd Street]

New York, NY 10018-2788

generalresearch@nypl.org

Information about the collection and access policies, and links to research guides can be found here:

https://www.nypl.org/about/divisions/general-research-division/access

The New York Public Library (NYPL) subscribes to a large number of databases that can be accessed at our various library locations (http://www.nypl.org/locations). Using these you may search for newspaper, magazine, journal articles:

http://www.nypl.org/databases

An overview of NYPL's databases (including instructions) can be found here:

https://libguides.nypl.org/eresources

With a 14-digit NYPL library card number (not a temporary card number), and four-digit PIN you can access many of these databases (noted by the house symbol) remotely from school, home or office, unless there is a firewall blocking access:

http://www.nypl.org/collections/articles-databases/alpha%3D%26subject%3D0%26location%3D0%26audience%3D0%26language%3D0%26keyword%3D%26limit%3D1

Online, one source that offers a description of textbook coverage is this study titled, "A Critical Survey of Textbooks on the

Arab-Israeli and Israeli-Palestinian Conflict":

https://din-online.info/pdf/mdc1.pdf

We hope this helps and wish you all the best with your research.



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原文で読むからこそ味わえるヘミングウェイの文章の味『ヘミングウェイで学ぶ英文法』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年4月18日


正直に告白すると、ヘミングウェイは苦手だった。

簡潔で、説明不足で、ぶっきらぼうな文体だったから。

しかし、この本を読んで、考えが変わった。

例えば、”Cat in the rain” における、雨宿りをしている子猫を見かけた妻が、夫に告げるシーンだ。

I’m going down and get that kitty,” the American wife said.

I’ll do it,” her husband offered from the bed.

“No, I’ll get it. The poor kitty out trying to keep dry under a table.”

本書の解説で、「現在進行形(I’m going)と will の違いが分かりますか」と問いかけられる。

え? be going ~って、結局、『~するつもり』だから、will と一緒でしょ……と思うのだが、実は違う。この、妻の be going と、夫の will の違いこそが重要なのだ。

どちらも未来にすることを指すが、現在進行形は、「もうその行為や状態に向かいつつある」という意味になるという。つまり、妻の気持ち的には、「猫を捕まえにいく」という行為は既に始まっているのだ。

対して夫の “I’ll do it,” は、話し手の意志を示す。「僕がするつもり」なのだが、ベッドの中から(from the bed)答えている。「するつもり」と言ってるだけの可能性が高く、とても信頼できない。

だから妻は、“No, I’ll get it.” と、夫の提案を拒絶し、「どうせやらないから私がやる」とハッキリ告げているというのだ。

ヘミングウェイは形容詞を使わない

わずか3行で、夫婦のすれ違いが浮き彫りにされている。

ここに限らず、あちこちで会話がかみ合っていない。別に罵り合っているわけではないが、何かがズレている。読み進むうち、「この2人、何かわだかまりを抱えているのではないか……?」と不穏に思えてくる。

しかし、ヘミングウェイは「険悪な空気」とか「妻は怒った」と書かない。猫を欲しがる妻と、ベッドで読書をする夫の会話が続くだけ。さらっと読むと、なんてことなく、2人が何を考えているのか、分からなくなる。形容詞や感情を示す言葉がないのだ、ヘミングウェイには。

『ヘミングウェイで学ぶ英文法』では、英語学の専門家とつきっきりで、原文を読み込む。要所に下線を引き、「なぜその文型なのか」「どうしてその冠詞なのか」と問いかけてくる。

作品を英語で味わうのが目的だから、最初に全訳を読んで、ストーリーを把握できる。その上で、原文→解説の順になっているのが嬉しい(いきなり原文だとハードルが高いからね)。

そして解説に導かれ、原文を生(き)のままで読み直すうち、登場人物の感情が浮かび上がってくる。

そこには、目に見える会話や行動とは別に、水面下で別の感情が渦まいており、それらが時に暴発し、物語にさざ波をもたらす。わたしは、水面だけを眺めて、「たいしたことが起こらない」とか、「何を考えているか分からない」で片づけていたのだ。

何気ない一言や、ほんとうに些細な行動を、わざわざ書き記しているといことに、意味があるんだ。見えている部分から、見えていない物語を推察し、両義的な世界を感じる―――これが、ヘミングウェイがやりたかったことなのかもしれない。

文章は形容詞から腐る

「文章は形容詞から腐る」と言ったのは開高健か。

描写対象をデコレートし、書き手が伝えたい「情報」を与え、意味づけを行う―――それが形容詞だ。生き物に喩えるなら、まず眼や内臓や花弁、つまり最も美味な箇所から腐ってゆくように、小説も飾った場所から衰え、腐り、崩れてゆく。

そして、完全に腐り落ちたあと、残るのは骨だ。ヘミングウェイが時代を経て評価されているのは、そうした骨のある文章だからといえるだろう。

形容詞を排し、動作と会話だけで構成された小説は、極めて少ない。

わたしの知る限り、ヘミングウェイの衣鉢を継ぐのは、コーマック・マッカーシーや、ジョン・ウィリアムズだろう。かくも美しくも残酷な物語を、「美しい」も「残酷」も使わずに表現してくれる。「悲しい」と書かずに悲しさを伝えてくれる作家だ(『ストーナー』はいいぞ)。

おそらく、マッカーシーもウィリアムズも、生(き)で読むと、もっと面白いに違いない(”Augustus” あたり読めるだろうか?)。読めるようになりたい……

本書は、読書猿さんのお薦めで出会った。ありがとう、読書猿さん。

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「30秒で描いた絵に100万ドルは高すぎる」と非難されたピカソは何と答えたか?

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年4月25日


「ピカソの30秒」という小話がある。

ピカソが市場を歩いていると、ある婦人が呼び止めた。彼女はピカソの大ファンで、絵を描いて欲しいという。

快諾したピカソは、さらさらと絵を描き上げた。婦人は喜び、いくらなら絵を譲ってもらえるか尋ねた。ピカソはこう言った。

「このスケッチは100万ドルです」

婦人は驚き、高すぎると言った。たった30秒で描いた絵が、どうして100万ドルもするのか尋ねた。するとピカソはこう答えた。

「いいえ、30秒ではありません。私は、これまでに30年もの研鑽を積んできました。だから、この絵を描くのにかかった時間は、30年と30秒なのです」

「30年」が「40年」だったり、「100万ドル」が「5,000フラン」だったり、様々なバージョンがあるが、出所が見当たらない。都市伝説みたいなものだと思っていたが、出典を見つけた。

ただしピカソではない。

ピカソの30秒の元ネタ

該当の絵はこれだ。ホイッスラーの「ノクターン」(1877年)になる。

James McNeill Whistler - Nocturne en bleu et or.jpg

Wikipedia:James McNeill Whistler より

ホイッスラーはこの絵に200ギニー(およそ1,000万円)という値段をつけた。

ところが、批評家のジョン・ラスキンは「この絵に200ギニーを要求するとは、実にあきれた話だ」と盛大にこき下ろした。ホイッスラーは名誉毀損で訴え、裁判となった。

法廷の反対尋問にて、「たった2日間だけの仕事」に対して、どうしてあんな途方もない額を要求しているのか、と追求された。ホイッスラーはこう答えた。

「とんでもない。生涯をかけた研究成果に対して200ギニーを要求しているのです」

このエピソードの出所は、E.H.ゴンブリッチ『美術の物語』(PHAIDON出版、ポケット版) p.406 になる。

(画像は河出書房新社版)

ドラゴンクエスト「序曲」の作曲にかかった時間

同様のことを、すぎやまこういち氏が述べている。ドラゴンクエストの「序曲」のメロディを作ったときのことを、こう語る(※1)。

「序曲」のメロディに関しては出来上がるまでに5分かからなかったかな。

30年前の曲で、今再び人気の「亜麻色の髪の乙女」のメロディは車で運転中に急に浮かんだメロディなのです。それでよく著作権に関して「たった5分で出来た曲にしては、ずいぶん稼げていいね。」と言われるのですが、これは5分ではないのです。

ドラゴンクエストの「序曲」を作ったとき、僕は54歳の時です。ですから、「序曲」が出来上がるまでには「5分+54年」と考えてください。つまり、僕の54年間の人生が無ければ、あの「序曲」は出来なかったわけです。

クリエイター界隈で、「降りてくる」と表現される現象がある。作品のコアになるアイデアを思いつき、形を成す瞬間のことを指す。「序曲」が降りてくるのは、5分だったのかもしれない。

だが、そのメロディが降りてくる状態になるためにかかった時間は、54年になるのだ。

5万ドルのチョーク代

これらは、絵や音楽に限らず、何かを創造する人には必ずついて回る話だろう。

プロフェッショナルが楽々とこなす仕事は、そこに至るまでの勉強と経験の積み重ねの上に成り立っているのであり、目に見えているその場限りのものではない。この、「退職したエンジニア」のエピソードが象徴的だ。

ある優秀なエンジニアがいた。給料で折り合いがつかず、会社を辞めてフリーランスになった。

数年後、もといた会社から依頼がきた。数億ドルする機械が動かなくなったという。いろいろと手を尽くしたものの修復できず、彼に頼ってきたのだ。

彼は丸1日かけて機械を調べあげた後、ある部品にチョークで✕印を付け、そこを交換せよと指示した。その部品を交換すると、機械は正常に動作するようになった。

後日、彼は5万ドルを請求した。

会社は高すぎるとクレームをつけ、たかがチョークに5万ドルはおかしいと、料金明細を要求した。

彼が提示した明細は、次の通り。

チョーク代 1ドル
どこに✕印するか知っていること 49,999ドル

料金は全額支払われたという(※2)。


※1 やさしい著作権のお話:すぎやまこういちを囲む会にて

※2 コンピュータージョーク:エンジニアを理解しよう

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怖いと分かってるのに、なぜホラー映画を観るのか『感情の哲学入門講義』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年5月2日


怖いと分かっているのに、ホラー映画が観たくなるときがある。

不可解なことが次々と起こり、その原因が見えてくるにつれ、背筋が寒くなるような展開になり、あまりの怖さに、「観なきゃよかった……」と後悔するようなやつ。

昼間なら大丈夫だろと、うっかりアマプラで『残穢――住んではいけない部屋』を観てしまい、いま後悔している(怖いというより、嫌あああってなっている。観ると部屋にいたくなくなるので、引きこもりには不適)。

怖いなら観なきゃいいのに……というツッコミに同意する。

心臓がバクバクして、イヤな汗が出てきて、呼吸もせわしなくなり、そこから逃げだしたくなる。なぜなら、「怖いもの=危険なもの、生命を脅かすもの」だから、それを避けようとするのが普通だから。

「怖いものから逃げたい、避けたい」という欲求は、本能に刷り込まれているレベルだろう。例えばヘビやライオンを怖いと思うのは、私の生命に危険があるから。

もちろん、ヘビやライオンを怖がらなかった人もいただろう。だが、そんな人は、生き残って私の祖先にはならなかっただろう。

怖いと分かっているのにホラー映画をわざわざ観るのは、なぜだろう?

順番に考えてみる。

  1. ホラー映画を観ると怖くなる
  2. 「怖い」というのは避けたい・逃げたい、という感情だ
  3. ホラー映画を観るのは避けたい(1と2から)
  4. ホラー映画を観る人はそれなりにいる(事実)
  5. 上記3と4は矛盾する

うん、自分でも矛盾していることは分かる。避けたいはずなのに観たい。

『感情の哲学入門講義』では、この矛盾を紐解いてゆく。

ホラー映画は(実は)怖くない

まず1を否定してみる。ホラー映画を観ても、本当は怖くなんてないんだと。

確かに、映画の中の怪異は、「映画の中」だから、観ている私には影響がない。映画の中の登場人物が次々と酷い目に遭っても、私が殺されることはない。

私は、映画の外側という安全な場所から、物語を楽しむことができる……と私は知っているのだ(もちろん例外はある。安全なはずの映画の「外」を舞台にした『デモンズ』や『REC/レック』ほか色々ある)。

とはいえ、とにかく私は視聴者として安全なはずだ。それを確信しているからこそ、ホラー映画を楽しむことができる。

そう、ホラー映画を「楽しむ」のであって、怖いのではない。実は怖がっているフリをしているだけなのだという人もいる(※1)。いわゆる「ごっこ説」と呼ばれており、ホラーで怖がる「ごっこ」をしているだけなのだという。

鬼ごっこをする子どもたちは、鬼に襲われると本気で思ってはいない。だけど、鬼に追いかけられると、悲鳴をあげて逃げるだろう。そしてタッチされるとき、ドキドキしたり、身体がこわばったりするかもしれない。このときの身体の状態は、本当に危険が迫っているときと同じであり、後に振り返ると、「ああ怖かった」というだろう。

これと同じで、映画はフィクションであり、現実の自分に危険が迫ることはないと確信している。そして、映画の中の登場人物が襲われているとき、自分も襲われているフリをすることで、ゾクゾクするようなスリルを、安全に楽しむことができるのだ。

なるほど……と納得しかけるのだが、やっぱり「怖い」と感じる心は否定できない。なぜなら、映画を観た「後」のいまでも怖いから。ふとしたはずみで出てくる「思い出し笑い」のような、「思い出し恐怖」は、確かにある。

恐怖を超える快楽がある

次は、2に反論する。1の「ホラーを観ると怖くなる」は認めるが、それを上回るなにかがあるために、「避けたい」とは感じなくなるのではないか、という主張だ(本書では、補償説と呼んでいる)。

まず、1を「ホラーは恐怖だけを生み出す」と読み替える。すると、本当にそれだけ? という疑問が生まれる。怖いという感情の他に、ドキドキしたり、日常では味わえないスリルを感じることができる。

これはむしろ、「避けたい」のではなく、味わいたい感覚じゃないだろうか。つまり、恐怖も感じるが、それを乗り越える快楽があるから(補償するから)、ホラーを観たくなるという理屈だ。

これはしっくりくる。

『バイオハザード7』をクリアしたときの感じがそれで、「生き延びた!」という達成感は、それまで何度も何度も何度も死んできた恐怖を凌駕して、脳汁ドバドバあふれ出していた。この快楽も強烈に刷り込まれていて、「思い出し笑い」のような「思い出し快感」は、ふとしたはずみで出てくることがある。

恐怖という激しい情動は、大脳辺縁系の活動に直結している。扁桃体にて価値判断が行われ、視床下部に伝えられ、自律神経とホルモン分泌が反応し、心臓の拍動が早くなり、胃腸の動きも変化する。同時に扁桃体から中脳へ伝わった情報は、すくみ上がるといった行動が引き起こされる(※2)。

「恐怖」のドキドキと「好き」のドキドキを取り違える

恐怖を感じるときの身体状態(発汗、心拍数と呼吸の増大、アドレナリン、感覚器の感度上昇)は、そのまま「生きのびる」ことに直結したものになる。恐怖を感じた後、物語の最後までたどり着き、実際の生き延びたのであれば、身体が準備した反応が成功したことになる。

ホラー映画では、少なくとも主人公(その物語の目撃者なり、語り手)は、映画のラストまで生きている(はず)だ。

だから、ホラー映画を最後まで観るということで、生き延びた、という達成感を味わうことができる(もちろん例外はある。『ゾンゲリア』とか『ファイナル・デスティネーション』とか)。この「生き延びた」がカタルシスを生み、その快感が恐怖を上回っていると考えられる。

この仕組みは、吊り橋効果に似ているかもしれない。ゆらゆらする吊り橋や、ドキドキするジェットコースターのような場所で一緒に過ごした異性のことを好きになってしまうやつ。不安や恐怖からのドキドキと、恋愛感情のドキドキを取り違えてしまうという理屈で、デートの定番が遊園地なのは、この理論の表れなのかもしれぬ。

矛盾した感情を説明する

本書では、こうした感情の矛盾を説明している。

例えば、嫌いな人やものを逐一監視する人がいる。SNSでおかしくなる人は、だいたいこれで病んでゆく。

なぜ、見たら怒りを感じるような人やものを、わざわざ見に行くのか?

これも、補償説で説明できる。

もちろん、見たら怒りを感じ、嫌悪感を掻き立てられるだろう。だが、怒りと同時に、「こいつは非常識なやつで叩かれるべきだ」という義憤も沸き上がってくる。

そして、その言動を断罪する自分のほうが、人として優れているという優越感も味わうことができる。さらに、こいつは非常識なやつだと拡散することで、自分はそいつを非難できる良識があると仲間にアピールして、連帯感を育むことができるというのだ。

こうした優越感や連帯感といった正の感情が、怒りや嫌悪といった負の感情を上回るため、「嫌いなものをわざわざ見に行く」という行動を取るというのだ。

哲学に限らず、心理学や脳神経科学、文化人類学、進化生物学など、さまざまな分野での感情研究を紹介した一冊。


※1  ケンダル・ウォルトン 2015「フィクションを怖がる」『分析美学基本論文集』勁草書房p.310-334

※2 恐怖する脳、感動する脳
http://www.brain-mind.jp/newsletter/04/story.html

恐怖の情動から考える大脳辺縁系の機能
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jrn/11/0/11_20110102/_pdf/-char/ja

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人はなぜ遊ぶのか『遊びと人間』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年5月9日


じゃんけんからサッカー、コスプレからワルツまで、古今東西、老いも若きも、人は様々な遊びを楽しんできた。「遊ぶこと」それ自体を目的とする行為を、なぜ人はするのか。

この疑問に対し、ロジェ・カイヨワが、神話や文化人類学、歴史学や社会学から解きあかしたのが『遊びと人間』だ。

「遊び」といってもその範囲は膨大だ。一人でするもの、複数でするもの、人数が決まっているものや、道具の有無、時間や場所が指定されているもの、厳密にルール化されているものから、自由度の高いものまで、つかみどころがない。

これを捌いていく手際が鮮やかだ。

まず、遊びを定義することで、外堀を埋める。つまり遊びとはこういうものなのだ。

  1. 強制されず、自由な活動
  2. 生活から隔絶され、予め決められた時空間に制限される
  3. 展開が決まっておらず、創意の工夫が残されている
  4. 富を生み出さない、非生産的な活動
  5. ルールがあり、そのルールだけがその場で通用する
  6. 非現実であり、虚構の活動である意識がある

次に、個々の遊びに共通する性質を示し、類型化する。さらに、この「共通する性質」こそが人を遊びに駆り立てる動機となり、遊びを通じて文化が生まれてきたのだと主張する。



分類


共通する性質・動機




アゴン
競争


ルールのある競争において、
自分の能力だけで勝利を得ようとする


運動競技、玉突き、サッカー、チェス


アレア


意志を捨て去り、運命の判決を不安と受け身で待つ


じゃんけん、ルーレット、宝くじ


ミミクリ
模擬


他人の人格を装い、自分を他者であると想像し、虚構の世界を作り出す


人形遊び、仮面、コスプレ、演劇


イリンクス
眩暈


身体の安定と平衡感覚が狂わされるのを楽しむ


ぶらんこ、ワルツ、スキー、登山

そして、遊びから制度化・慣習化されたものを検証してゆく。法律から行政制度、祭り、仮面からダンスパーティまで、社会の諸現象に湧き出ている遊びの精神を見出す。壮大な文明論まで拡張される風呂敷が面白い。

遊びは富を生まない?

その一方で、現代に合わなくなっている点もある。定義の「4. 富を生み出さない、非生産的な活動」がそれだ。

例えば「宝くじ」は当選したら莫大な儲けを生み出すではないか、というツッコミに、著者は、トータルでは富は変わらないと説く。

たしかに胴元がいてカネを集め、アレア(運)に選ばれたものが大金を手にするかもしれない。だが、それは宝くじという遊びの中のカネの所有権が移動するだけであり、遊びの外から富を引き出してはいない、というのだ。

しかし、Youtube のゲーム実況を見ていると、遊びそのものが富を生み出しているように見える。

いわゆるプロゲーマーを指しているのではない(それはプロボクサーと同じ「仕事」だろうから)。ゲームが上手なわけではなく、ただ楽しそうに遊んでいる様子を実況する。動画を見に来る人への広告が収益となる、という構造だ。この場合、確かに遊びが富を生み出していることになる。

例えば「しゅうゲームズ」は典型で、あつ森やマリカーを遊んでいるのだが、独り言やセルフツッコミが面白く、登録者が80万人を超えている人気チャンネルとなっている

あるいは、クレーンゲーム実況なんてもっとエゲつなくて、人気フィギュアを総取りしてメルカリに売る「クソ転売ヤー生活」を動画にし、アップロードしている。転売+実況広告というメタな収益化を図っている。ネットを通じた遊びの見世物化が、遊びの定義を変えたといえるだろう。

本書は半世紀も前の名著とされているが、アップデートされた目で読み直すことで、遊びが拡張されているのが分かる。

人はなぜ遊ぶのか

遊びを定義・分類し、社会や文化に現出している「遊びの精神」を検証する―――こうした行為を通じて、「人はなぜ遊ぶのか」という疑問に答えようとしている。

だが、この疑問に対し、明確に答えている箇所を見出せなかった。強いて言うなら、第4章「遊びの堕落」p.107の以下のあたりになる。

遊びの原理はまさしく強力な本能(競争、幸運の追求、模倣、眩暈)に応じたものである。しかし、これらの本能が積極的、創造的に満足させられるのは、時と場合により遊びの規則が指示するところの、確定された理想的諸条件の中でしかないことは容易に理解できよう。

(中略)

遊びは本能を訓練し、それを強制的に制度化する。遊びはこれら本能に形式的かつ限定された満足を与えるが、それは本能を教育し、豊かにし、その毒性から魂を守る予防注射をしているのだ。同時に本能は、遊び(の教育)のおかげで、文化の諸様式の豊富化、定着化に立派に貢献できるものとなる。

回りくどい言い方だが、要するに「人は、競争、幸運の追求、模倣、眩暈を求める本能があり、それに衝き動かされて遊ぶ」という主張である。そして、その本能を訓練し、制度化するものを遊びと呼んでいる。

「遊びは本能」と明確に言い切ってしまうと、なんだ、「本能」というそれ以上説明できない言葉に逃げているではないか、というツッコミが入ってしまう(今だと生得的モジュールとか適応と言われていそう)。

オオカミの仔がじゃれ合う「遊び」は、成長した後に必須となる狩りの予行演習である。誰に教わったわけでもないのだから、それは本能である。

この観察結果を人に当てはめ、その社会・文化的活動の予行演習に相当するものを遊びと定義するならば、「人はなぜ遊ぶのか」という問いへの答えは、結果的に「本能」になるだろう。

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現実も幻覚の一つであることが見えてくる研究『幻覚剤は役に立つのか』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年5月16日


LSDやサイロシビンなど、危険ドラッグと呼ばれているものは、持ってるだけで重罪だ。依存性があり、自分の意志ではやめられなくなる恐れがあると言われている。

だが、毒か薬か量による。

専門家の監督下で、正しい用法・用量を摂取することで、うつ病や不安障害といった精神疾患や、末期ガン患者に対し、驚くほどの効果が期待できるという。そして、著者自らが幻覚剤を体験することで、治療薬としての可能性を追求したのが、『幻覚剤は役に立つのか』である。

幻覚剤の効果

幻覚剤の体験で特徴的なものが、「子どもの目で世界を見る」である。

大人の場合、「見る」という行為ひとつとっても、「それは見たことがある」「あれに似ている」など、過去の経験や知識に基づいた見方をする。

だが子どもは、(経験が少ない分)そうした影響を受けにくい。見たもののを、そのままダイレクトに受け取ろうとする。

たとえば、緑色の点がフラクタルなパターンで視界に入れば、大人は「木の葉だろう」と考える。なぜなら、過去に何千何万回と見てきたため、ただそのパターンだけで推測してしまう。そうすることで、時間とエネルギーを節約しているのだ。

LSDを使用すると、そうした短絡的な知覚モードが遮断される。あたかも生まれて初めて目にするかのように、生々しく「葉っぱだ!」と感じ取る。大人になるにつれ失われてきた、センス・オブ・ワンダーを取り戻すというのだ。

また、意識の境界がぼやけて拡散することも特筆されている。主観的な「私」の感覚が崩壊し、どこまでが主観的な事実で、どこからが客観的なものか、分からなくなるという。

この辺りの感覚は分かる。いい感じにお酒が入ったり、瞑想が上手くいったとき、あるいは性行為の際、こうした経験がある。

周りの全てが生々しくなり、自分が溶ける。肌理と輪郭と細部と全体が一体となり、位置的に見えないはずの上や反対側からも見える。見るというより「ある」ことを受け入れるような、視覚と触覚が混ざったサイケデリックな経験だ(泥酔はしておらず、意識はクリアなのが怖い)。

サイケデリック体験のメカニズム

幻覚剤が、どのようにサイケデリック体験を引き起こすのか。

本書では、DMN(Default Mode Network/デフォルト・モード・ネットワーク)の観点から説明する。

DMNとは、「話す」「走る」など意識的な活動を行っていないときの脳内の神経活動のことを指す。ワシントン大学のマーカス・レイクル教授によると、DMNは、脳の各部に対しトップダウンに働きかけ、全体を整理する役割があるという。

そこでは、過去の出来事に思いを巡らしたり、未来に漠然と不安を抱くといった意識が流れており、DMNの活動が強すぎる場合、統合失調症やうつ病に関連している可能性もあるという(※1)。

幻覚剤を使用している被験者の脳内をfMRIで観察すると、ちょうど被験者が自我の消失を訴えるあたりから、DMNの活動が急激に低下することが報告されている(※2)。幻覚剤は、DMNのを抑制する働きがあるのだ。

DMNがオフラインになるとき、脳内のコミュニケーションの状態が大きく変わる。脳磁図と呼ばれる画像技術を用いてマッピングしたものが下記になる(※3)。左側が通常の脳で、右側がサイロシビンを使用している脳になる。

Photo_20210516093901

通常では、各部のネットワーク内でのみ交流し、一部の経路のみコミュニケーションが密となっている。

だが、サイロシビンの影響かにある脳では、新しい繋がりが無数にでき、通常ではほとんど交流しない遠方の領域ともリンクしてる。

この脳内ネットワークの一時的な再編によって、精神活動に影響が出てくる。

たとえば、感情を司る領域が、視覚情報を処理する領域と直接交流するようになれば、恐怖がそのまま視覚に影響を与えるようになる。知覚情報が混交し、色が音になったり、音が触感になることもありうる。記憶が視覚に変換されて、鏡に映った自分の顔が祖父に見えたりする。

幻覚剤は、「自己」を形作るため抑圧的に働いていたDMNのくびきを外す。見慣れたものに新たな意味を見出し、創造的なひらめきや、斬新な視点を得ることができる(※4)。さらに、DMNの働きを一時的にせよ弱めることで、統合失調症やうつ病への効果も期待できるというのだ。

私たちは管理された幻覚に生きている

なぜDMNがこれほど抑圧的に働くのか。

この問いに、興味深い仮説が提示されている。答えは単純で、「効率」による。

脳は複雑な予測マシンであって、外部環境を「ありのまま」知覚しているわけではない。視覚ひとつとっても、非常にデータ量が多く、全てをいちいち処理していたら判断が追い付かない。そのため、過去の経験や他の感覚からの信号に基づいた推測を行って、最小限の情報だけを受け入れるというのだ(予測符号化※5)。

感覚器を通してボトムアップに入力される「フラクタルな緑色の点」と、過去に何百何千回と見てきた「木漏れ日」からトップダウンに予測する誤差を最小化するように、脳は情報処理を行うのだ。

言い換えるなら、私たちが外界を知覚するとき、それは「ありのまま」の現実を転写したものではなく、知覚器官から得たデータと、過去の経験に基づいたモデルを結びつけ、整合的に組み合わされた幻覚だと言える(本書では、「管理された幻覚」と表現されている)。

日常の生命維持を容易にするよう、知覚は最適化されている。だが、それが崩れるとき、あらためて脳はそれを学習しようとする。

たとえば、私たちが「顔」らしきものを認識するとき、それは凸面であると脳は予測している。なぜなら、過去に何万何億回と、現実と予測のマッチングテストを行ってきたから。

しかし、以下のような錯視を目の当たりにすると、「このT-Rexは例外だ」と学習する。何度も見ているのに、それでも騙される。それぐらい管理された幻覚は強力なのである。

https://youtu.be/A4QcyW-qTUg

幻覚剤は、現実と認知情報の強固な結びつきを壊す。

脳は、どっと流れ込んできたローデータをなんとか処理しようとする。いつもの予測符号化が役に立たず、現実の予測が追い付かない。脳は必死に新しい現実予測を作り始め、過去の経験と大量のデータを無理やり結びつけようと試みる。その結果、ありもしないものを知覚するようになる。

幻覚剤は、幻覚を見せるのではなく、私たちが現実だと思っていた世界も幻覚の一つであることに気づかせてくれる。


※1 Default Mode Network Activity and Connectivity in Psychopathology

https://www.annualreviews.org/doi/abs/10.1146/annurev-clinpsy-032511-143049

※2 The entropic brain: a theory of conscious states informed by neuroimaging research with psychedelic drugs

https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fnhum.2014.00020/full

※3 Psychedelics: Lifting the veil | Robin Carhart-Harris | TEDxWarwick
https://youtu.be/MZIaTaNR3gk

How do psychedelics work?
http://goodmedicine.org.uk/stressedtozest/2019/01/recent-psychedelic-research-how-do-they-work

※4 真逆のレポートもある。DMNが活性化すると、創造性が高まるというレポートだ。
The Importance of the Default Mode Network in Creativity—A Structural MRI Study

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/jocb.45

※5 予測符号化 (predictive coding) とは何か
https://omedstu.jimdofree.com/2018/08/17/%E4%BA%88%E6%B8%AC%E7%AC%A6%E5%8F%B7%E5%8C%96-predictive-coding-%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/

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4回方針変更されて納期に間に合わず破綻→21億円が請求される訴訟となったプロジェクトから学べること『システム開発のトラブル回避は裁判に学べ』

「やってはいけない」悪手をアンチパターンというが、システム開発プロジェクトにおけるアンチパターンの満漢全席の事例がある。

  1. 要件定義も含めた一括で請負契約(契約額7億円)
  2. 「あるべき姿」を曖昧にして要件定義が未確定のまま開発スタート
  3. 現場の要求が統一できず、業務改革派と現行踏襲派が揺れる
  4. アーキテクチャレベルでの方針転換が4回繰り返される(現行踏襲→統合型→既存業務維持→コアシステム独立化)
  5. 顧客関係を優先しスコープ外作業も善意で対応
  6. 要件整理・再設計の必要性を再三警告しつつも開発を進める

結果、プロジェクトは混乱し、納期には間に合わず、完成見込みも無くなった。

発注側は契約解除して、損害賠償請求の訴訟を起こし、他のベンダへ再開発を依頼した額(20億円)、現行システムの延命費等で、総額21億円の総被害額を主張する。

一方、ベンダ側は、方針変更が繰り返されたこと、ユーザ側のコンセンサス形成不足で、当初想定を大幅に超える複雑さが一方的に通知されたとし、発注側の協力義務違反を主張し、未払い報酬+契約外作業費用等で13億円を請求する。

『システム開発のトラブル回避は裁判に学べ』で解説されているのだが、胃をキリキリさせながら読んだ。これ、下手なホラーより段違いで怖い。

開発プロジェクトをやってるなら、身に覚えがあるだろう。程度の差こそあれ、普通にSI屋の現場で起きうることだ。

だが、悪手がフルセットで発生し、アンチパターンの悪循環に陥ったらどうなるか?プロジェクトは炎上爆発し、跡形もなくなる。

教訓と学びが得られる恰好の機会なのだが、「失敗=失態」とみなされ、隠される。偉い人の会議で損失計上され、「ちゃんとやりましょう(意訳)」と周知されてお終い……ってマクドで女子高生が言ってた。

社会的な影響を及ぼすような騒動はネットやマスコミで知ることはあれど、センセーショナルな箇所だけ取り上げられて、再発を防いだりリスクを下げる学びは少ない。かつて日経で「動かないコンピュータ」があったが、取材を受けてくれる企業は皆無だろう。

そんな場合は、トラブルの判例が参考になる。

プロジェクトが爆発しても、費用や損害賠償など、オトシマエを付ける必要がある。泣き寝入りして裁判沙汰にならないケースが大多数だろうが、表に出るのであれば、互いに言い分があるに違いない。

そうした中で、「陥りがちな罠は何か?」「どうしたらよかったのか?」という観点で裁判所の判断を解説する。

一審の判決

冒頭のアンチパターン満漢全席の例では、「1. 要件定義も含めた一括請負契約」が最悪手になる。

裁判所の判断では、「要件定義を請け負うとは、すべてを請け負うこと」になる。

そして、契約の最終目的を果たすものを作る責任はベンダーにあるとする。要件定義から請け負ったベンダーの責任は、当初示された要件を満たすシステムを作ることではなく、契約の目的、即ち業務改善に資するシステムを完成させることにあるというのだ。

この判断、現場目線だと、明らかに変だ。

契約の目的を果たすために要件を整理するのだが、それが充分決まらないままスタートし、さらに大きな変更を追加して、それでも(一括契約だから)同じ価格で提供しろというのは、常識はずれといっていい。

ラーメンを注文して作っている途中に「やっぱチャーハンにして……それもキャンセルして、ステーキにしてね、同じ値段で」と言っているようなものだ。

だが、現場感覚では理不尽に見えるが、裁判所のロジックは別にある。

まず、要件が大幅に変わっても、スコープ外の作業だとしても、それでも開発を進めていたという事実がある。

ベンダ側としては、多少の無茶は呑み込んでも顧客との関係性を優先させたいという「善意」と、撤退した際のサンクコストが大きすぎるといった事情があったからだろう。

だが、それが裏目に出て、「それでも契約を解除せず、作業を継続した以上、完成義務は残る」というものになる。ITの専門家として携わる以上、プロジェクト遂行の是非を含めたマネジメント義務ができていなかった……という考え方になる。

裁判所が見ているのは、「現場がどれだけ苦労したか」ではなく、「契約関係をどう処理したか」に尽きる。

結局、裁判所は、ベンダ側に債務不履行責任があるとして、ベンダ→発注側に1.4億円の支払い命令をする。そして、ベンダ側の請求は全て棄却された。

二審の判決

これが控訴審では逆転する。

裁判所は、発注側の責任を重く見る。要求を整理しなかったことや、情報提供が不足していたこと、方針転換のくり返しを問題視して、「基本方針が二転三転したのでは、円滑な開発を遂行することは不可能」とまで述べる。

そして、ベンダ側が契約変更の要求をしていたこと、要件が未整理で、再設計の必要性を再三通知していたことを認定する。

その上で、「完成不能になった原因は、発注側の協力義務違反にある」として、今度は発注側→ベンダに7.7億の支払い義務を認めることになる。

後知恵で学ぶリスクヘッジ

ここまでこじれる例は少ないだろうが、もし、似たような炎上に出くわすなら、どうすればよかったのだろうか?実態としてできる/できないはともかく、教訓は大量に得られる。

1.要件定義も含めた一括で請負契約

  ・要件定義を準委任に
  ・業務改革とシステム実装を別契約に
  ・要件定義完了時点で再見積もり

2.「あるべき姿」を曖昧に要件定義が未確定のまま

  ・管理表でオープン項目を明文化
  ・最初に業務フローを確定
  ・要件凍結日を契約書に明文化

3.現場の要求が統一できず、業務改革派と現行踏襲派が

  ・発注側に最終意思決定者を配置
  ・現場の調整役から降りる
  ・業務改革会議と開発会議を分離
  ・要求の優先順位化

4.アーキテクチャレベルでの方針転換が4回

  ・方針変更時は契約変更・再見積もりを必須に
  ・変更に伴う影響分析を必須にし、変更コストは経営層判断

5.顧客関係を優先しスコープ外作業も善意で対応

  ・「善意」ではなく正式作業化、チケット化
  ・口頭依頼の禁止、全依頼のレコーディング

6.要件整理・再設計の必要性を警告しつつ開発を進める

  ・「警告」ではなく「停止条件」の明文化
  ・継続不能条件を事前に設定
  ・GO/NOGO意思決定のルール化

もちろん、これらは完全に後知恵だ。

この判例となった案件を始める時、まさかここまで炎上するとは思いもよらなかっただろう。あるいは、これらの全てに関わる人はごく少数だろうし、「気づいたら巻き込まれていた」人が大多数に違いない。

それでも、異変を感じたらこの判例と照らし合わせ、アンチパターンに応じた対策を、後付けでもいいから手を打っておく。

もし、実態として難しいなら、せめて、裁判沙汰になったとき、少しでも有利になるよう、議事録、警告メッセージ、オープン項目等をエビデンスとして残しておくといった防衛策はしておきたい。

システム開発は、「技術」の問題であると同時に、「契約」と「組織」と「意思決定」の問題でもある。

厄介なのは、炎上プロジェクトの多くが、最初から悪意や無能で始まるわけではないことだ。「まずは進めよう」「顧客との関係維持のために」といった現場の判断が積み重なった結果、気づけば誰も止められなくなる。

要件変更、スコープ膨張、善意の無償対応など、開発トラブルの判例における様々な争点は、今も多くの開発現場で繰り返されている問題が、極限まで拡大した姿だ。

だからこそ、判例には価値がある。

そこには、「何をすべきだったか」だけでなく、「どこで止めるべきだったか」「何を文書化すべきだったか」「どの時点で契約変更すればよかったか」といった、リスクヘッジの対策が大量に埋まっている。

炎上案件の判例は、失敗談であると同時に、未来の事故を避けるためのケーススタディでもある。

そして、これが下手なホラーよりも段違いで怖いのは、「特殊な事故」ではなく、「普通に起こりうる未来」として読めてしまうからだ。

他にも、無能だったので退職するなら2,000万円払うよう請求された話や、ワンマン開発体制のメンバーが急死してプロジェクトが詰んだ話、セキュリティホールの責任を「個人が」払わされる話など、ヤバすぎる裁判沙汰ばかり紹介されている。

最初は胃をキリキリさせながら読んでるうちに、恐怖心が麻痺してくる。「言うて、まだ死んでないし」と思うと、少しは気が楽になる。

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文学の手法を取り入れた医療『ナラティブ・メディスン』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年5月23日


患者と医者はすれ違う。たとえばこんな風に。

医者「いつ頃から、お酒をたくさん飲むようになったのですか?」

患者「夫が亡くなってからです」

医者「それは何年前のことですか」

患者は腹痛を訴えており、医者は彼女のアルコール摂取量が多いことに気づいている。医者も患者も、腹痛と飲酒量の関係性を疑っているが、それをどのように聞こう/語ろうとしているのかが異なっている。

医者は深酒をしていた期間を聞こうとする一方で、患者は、なぜ深酒をするようになったかを、自分の人生の物語として語ろうとしている。

夫が生きている間は飲まなかったとか、夫の死後は苦労が重なったといった話をさえぎり、医者は、最終的に知りたいことを聞き出せるだろう。だが、患者が語りたいことは残されたままだ。

彼女は、自分のたった一つの身体に起きた異変に戸惑い、恐れ、不安に感じている。痛みや苦しみに耐えながら、なぜそれが、よりにもよって自分の人生に起きたのかを、なんとか説明しようとする。

医者はそれを、「病気だから」と片づける。そして病名を特定し治療を施すのが自分の仕事だから、質問に端的に答えることを求める。数ある症例の一つとして接し、医学的に意味のある情報だけを引き出そうとする。

ナラティブ・メディスンとは

医学的要素に還元された病歴、社会歴、身体所見、検査結果のどこにも、患者の人生は残っていない。痛みや苦しみを抱く感情は疎外されたままとなる。

『ナラティブ・メディスン』は、このやり方に異を唱える。患者の視点になり、患者の語ることに耳を傾けよと主張する。著者リタ・シャロンは医師であり、文学者であり、コロンビア大学のナラティブ・メディスン教育プログラムの創始者でもある。

「ナラティブ」とは「語り」のこと。語り手と聞き手、目的と筋書きを備えたストーリーとして定義づける。対話を通じて患者の物語を紡ぎ出し、全人的な診療を行うため、物語的な視点を取り入れる。

これに必要な能力のことを、ナラティブ・コンピテンス(narrative competence 物語能力)と呼んでいる。患者の病を物語として解釈し、その展開とともに患者の人生にとって何が起きるかを理解する能力だ。

そして、なぜその物語が生じたのかを、始め、なか、終わりの中で見定め、隠喩や修辞を用いて、出来事とのあいだにつながりをさがし、プロットを与える。

がんになった意味を見つける

例えば、ステージIVの乳がんを患う女性を考えてみる。

42歳で3児の母でもある彼女が、「どうしてこんなことが私に起こったのでしょうか?」と問うとき、それに答えられる人はいない。医学が答えられるのは、病気がどのようにして(how)起きたのかであり、なぜ(why)起きたのかではないから。

しかし、たとえ確かな答えがなくとも、彼女自身が自分の身に起きたことを理由づける物語を作り出すかもしれない。

過去の罪に対する罰と考えるか、不幸な偶然と見なすかによって、病の体験は全く違ったものになる。彼女は、病も含めて自分の人生を生き続けなければならない。そのために、人生におけるこの病の意味を見出さなければならない。

このとき、彼女に寄り添い、彼女自身の言葉を聞き、病を解釈するために、物語が必要になる。出来事を順序だてて述べ、登場人物の性格を描写し、起きたことの原因を探し、隠喩や修辞で意味を伝える。

彼女が、自分の人生の中で、病をどのように意義づけようとするか。それは彼女しか語れない。医師、看護士、ソーシャルワーカーは、彼女の物語に耳を傾ける必要がある。「聞く」という姿勢を見せない限り、語られることはないのだから。

医療に役立つ文学

では、どうすれば物語能力を身につけることができるか?

本書では、精読のスキルが必要だという。一つ一つの文章を、丁寧に精密に読むスキルだ。読書を習慣としている人なら、普通に身についているだろう。でも、なぜ精読がナラティブ・メディスンにつながるのか?

著者は、トルストイ『イワン・イリッチの死』やジョゼフ・ヘラー『キャッチ=22』を紐解きながら答える(どちらも死を扱っている)。

テクストの意味は、「それは何についてのものか」と、「それはどのように語られているか」の2つの問いの答えの相互作用で伝えられるという。文学理論では、いわゆる「内容と形式」で呼ばれるもので、前者が語られるお話そのもので、後者がその表現形式になる。

例えばトルストイの作品で言うなら、平凡な男が病魔に侵されて死んでゆくお話だ。自分の人生はこれからも続いてゆくと信じ、わが身に起きていることから目を背け、希望にすがりつこうとする。これが内容になる。

精読する人であれば、彼について語るナレーション(地の文章)の距離感に気づくだろう。小役人としての半生は、すこし離れた皮肉めいた語り口だが、彼の病が進むにつれて、視点が彼に近づき、寄り添い、ついには彼の「中」へ入り込む。これが形式になる。

さらに、物語がラストに向かうにつれて、各章が短くなってゆく。あたかも、彼の生きられる時間がどんどん短くなってゆくことを示すかのように。

こうしたテクストの構造やメタファーは、「イワン・イリッチが死ぬ」という内容からは得られない。一つ一つの文章を、丁寧に読み解くことで、気づくことができるのだ。

精読のスキルがある人は、患者が病を語るときの、「内容」のみならず、「形式」に注意を向ける。痛みや発作の内容だけでなく、それが何に似ているといった表現や、どのように受け止めているかという点を読み解こうとする。

同時に、プロットを理解するスキルも、精読で身につくという。E.M.フォースターの有名なプロットの定義が紹介される。これだ。

「王は死んだ。そして王妃も死んだ」がストーリー

「王は死んだ。そして悲しみのあまり王妃が死んだ」がプロット

出来事や現象を並べて告げるだけではなく、そこに意味ある因果関係を見出す。たとえ同じ出来事の組み合わせでも、語り手の視点や意図によって、対立するプロットも形作ることができる。

形式を把握し、プロットを理解し、時間軸に沿ってストーリーの内容を追いかける。まさに、文学を味わう人がやっていることだ。文学が医療に役立つだなんて、思ってもみなかった。

パラレル・チャート

精読だけではない。ナラティブ・メディスンの実践では、パラレル・チャートを書くことが求められる。

患者のカルテについて、何をどう書くべきかは決まっている。患者の主訴や検査の所見、治療計画などだ。

一方、がんで死に瀕した患者が、昨年同じ病で亡くなった祖父を思い出させること、診察の度に動揺することは、カルテに書くことはできない。だが、それはどこかに書かれる必要があるという。その場所が、パラレル・チャートだというのだ。

患者への愛着や、自分自身の無力感、病気の不公平さに対する怒りが、パラレル・チャートに記され、書いたことをグループセッションで読み上げる。自分の気持ちを率直に述べることで、患者の物語への気づきを得られるという。

パラレル・チャートで最も印象に残ったのは、30代の男性のHIV患者についてだ。

その男は移民で、7年前にHIV陽性を告げられたが、薬を服用することを拒んでいる。ガールフレンドとの間に子どもが生まれたばかりだ。ガールフレンドもHIV陽性で、男は、生まれたばかりの我が子のHIVの状態についは、知らない。

彼を診察した研修生のパラレル・チャートには、こう書かれている。

この患者について知れば知るほど、私は怒りがこみ上げきて、激怒さえしている自分に気づく。興味深いことに、強い怒りを感じていることに気づいているという事実によって、私は自分の感情を脇に置いて、患者を適切に扱うことができる。彼は自らの行動が彼自身と家族にもたらした結果について、全く自覚がないと思う。彼は要するに、生き延びる見込みのほとんどない子どもをこの世につれてきたのだ。

(中略)

私はこの男を気の毒に感じる。この男は30歳代にしてAIDSと生まれたばかりの子どもをもち、自分の病態については大きく否認しているが、身体の調子が悪いことは分っている。彼はおそらく自分の病気が悪いことに気づいており、終わりが近いことも知っている。私は彼を気の毒に思うが、共感からではなく憐れみからそう思う。これが、自分が彼の助けになりたいと思わせる感情である。

これを書いた研修生は、ナイジェリアから移民し、医療従事者として働きながらトレーニングをしている。そして、パラレル・チャートを書くまでは、自分が患者に向ける情動を説明できなかったという。

しかし、書くことで自分自身の専門家としての義務の重みと、患者が抱いている恐怖を想像することが可能になったと述べている。

心療内科との違い

患者の心に寄り添って、精神的なケアをするのであれば、心療内科と同じではないか、という疑問も残る。

だが、本書に通底する考え方からすると、「心療内科的ケア」は、患者の精神的な部分『だけ』をケアするという点で、「ナラティブ・メディスン」と異なると考える。

つまり、患者を分解して、病の部分(ハードウェア)と心の部分(ソフトウェア)に分けて、ソフトウェアのメンテナンスをするのが、心療内科的ケアになるという発想だ。この場合、ハードとソフトの分断は残り続ける。

一方、ナラティブ・メディスンは、患者ひとりを全人的に見るための方法になる。そのため、ハード担当/ソフト担当に関係なく、身につけることが求められるのだ。

人文学と医学を結び、患者と医者をつなぐ文学の、実践的な解説書。本書は、KyosaiKawanabe さんに教えていただいた一冊(ありがとうございます!)。

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レイ・ブラッドベリ『華氏451度』を物語を創る側から分析する―――第3回物語の探求読書会レポート

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年5月30日


小説、漫画、映画、舞台、ゲームなどジャンルの垣根を越えて、「物語」について考えるオンライン読書会。

今回は、SFの古典レイ・ブラッドベリの傑作を俎上に、脚本家タケハルさん、文学系Youtuberスケザネさん、そして私ことDainでとことん語り合った。

書物を焼く意味とは? 本を殺す洗練されたやり方や、焚書に抗う究極の対策を始め、ブラッドベリの創作技法など、盛りだくさんでお届けする。

451

以下、ブラッドベリ『華氏451度』の内容に触れており、ネタバレをしています。

<目次>

  1. 本を焼く者は、やがて人を焼くようになる
  2. 華氏451の根源「多様性を殺していく」
  3. 時代を超える本の条件:a passionate few
  4. 本の殺し方
  5. 本はカジュアルに焼かれてきた
  6. イマジネーションを喚起させるSF作家
  7. 焚書への究極の対抗策:暗記
  8. 他の芸術と比較した文学の強みとは
  9. 思想小説とサスペンス性
  10. この世ならざる世界にいかにして引き込むか
  11. 現実世界との架け橋をつなぐか
  12. 批評をするな、物語らせよ
  13. ブラッドベリの創作技法
  14. 終わりに&次回の課題図書

https://youtu.be/zXwVgaKuaXM

<本文>

スケザネ:今回はブラッドベリ『華氏451度』についてお話しましょう。2月くらいに課題図書に決めたのですが、これ、Eテレの100分de名著『華氏451度』の2021年6月で紹介されるんですよね。びっくりしました。『華氏451度』はタケハルさんの提案だったのですが、どうしてこれを?

タケハル:ぶっちゃけ偶然です。課題図書を決めるとき、なんか小説にしようと思って本棚を見たら最初に目に入ったのがこれだから。ディストピアもので、予言的なものもあるかな、と思って。

スケザネ:久々に読み直してこれ、1950年代に書かれたのかよ、やべーなと何度も呟きました。

Dain:読んだ&映画観たのがすっごい昔で、ほぼ忘れてたので私も読み直しました。最初に読んだときの印象と、おっさんになって読むときの感じ方がかなり違ったので、その辺を話せたらと思います。

1. 本を焼く者は、やがて人を焼くようになる

Dain:最初に届いたメッセージはこれ、「本を焼く者は、やがて人を焼くようになる」ですね。ドイツの詩人でしたっけ、ナチスの焚書について言っていたと記憶しています。で、ナチスの焚書だと、本のリストの本(A Book Of Book Lists)というのがあって、そこで紹介されてます。

 <ナチスが焼いた本のリスト>

  • 武器よさらば(アーネスト・ヘミングウェイ)
  • いかにして私は社会主義者となったか(ヘレン・ケラー)
  • 野性の呼び声(ジャック・ロンドン)
  • 鉄の踵(ジャック・ロンドン)
  • 世界史概観(H.G.ウェルズ)
  • 理性に訴える(トーマス・マン)
  • ジークムント・フロイトの全著作

ナチスが焼いた本のリストを眺めていると、ナチスが何を嫌がってて消したがっているのかが透けて見える。

そしてこれ、インターネットの法則と合致しているのが面白いです。あれです、「消すと広がる」という法則。twitterとかでつい口が滑ってヤバいこと言ってしまい、謝らずに消すと、誰かが魚拓を取ったりしてて逆に広がってしまうやつ。

たとえばウェルズなんて宇宙戦争が有名なんですが、ナチスが焼いた本ということで、『世界史概観』が歴史に残り続けるんだろうなぁと。

スケザネ:確か岩波で出てますね、ウェルズの『世界史概観』。消すと広がる、皮肉なものですね。

Dain:はい。そして焼かれた本のリストつながりで、『華氏451度』で焼かれた本のリストを作ってきました。これです。

 <『華氏451度』で焼かれた本のリスト>

  • バートランド・ラッセルのエッセイ
  • ミレー(画家の?)
  • ホイットマン
  • フォークナー
  • ダンテ
  • スウィフト
  • マルクス・アウレリウス

文学が目立ちますが、このリストを見ていると、今度はブラッドベリが何を重要な本としているのかが透けて見えて面白いですね。

でもここに、マンガが無いんですよ。マンガは? と思っていると、こうある。

引き金を引いたのはテクノロジーと大衆搾取と少数派からのプレッシャーだ。おかげでいまはみんな夜も昼もしあわせに暮らし、政府お目こぼしのコミックと古き良き告白ものと業界紙を読んでいる。

p.98 より

ブラッドベリに言わせると、コミックは低俗なもので、人にものを考えさせないように、人をバカにさせるイメージがあるんでしょうか。

タケハル:1950年代っていったら、スパイダーマンすらいないですからね。スーパーマンがいたくらいかな。手塚? ディズニーはいましたね。

スケザネ:日本だったら水木しげるですかね。まぁ確かに1950年代のアメリカのコミックといったら俗悪という印象があるかも……

2. 華氏451の根源「多様性を殺していく」

Dain:『華氏451度』が突き抜けているのは、無差別なんですよね。昔の焚書は選んで焼いてた。ナチスは焚書のリストを作ったし、始皇帝は医学や占いや農学以外を焼くなど、選んでた。でも『華氏451度』では、本を読むと人は考え始めるから無差別に焼け、なんです。

人に考えさせないために、本は短くなるというのが面白いんです。本の内容は圧縮され、ダイジェストやタブロイドになり、最後は10行ぐらいの要約だけが辞書に残る。

『ハムレット』について世間で知られていることといえば、「古典を完全読破して時代に追いつこう」と謳った本にある1ページのダイジェストがせいぜいだ。保育園から大学へ、そしてまた保育園へ逆戻り。

p.92より

これで思い出したのが、『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』みたいなやつ。古典や名著のダイジェスト版です。よく間違われるのは「あらすじを知っている=教養がある」こと。そうではなく、「あらすじを知っている=教養のあるフリができる」んですよね……こういう本がガンガン売れるということは、華氏451度の世界に近づいているんだなぁと。

スケザネ:ホント、これ恐ろしくて、同じ92ページに、「そして大衆の心をつかめばつかむほど中身は単純化された」とあって、この作品全体の根源にある考え方として、多様性を殺していくところにあるんですよね

そして、そのあらすじですら多様性があるはずなんです。同じ作品を100人読んだら100通りのあらすじができるはずなんですよ。それすら1つに固定していく……そこすらも多様性を許さず、画一的なものにしていく。その先には、価値観を固定化していく世界まで、あと数歩のところの危ない状況なんですよね。

タケハル:いろんな予言的なシーンがあるんだけど、ここはピンポイントで当たっちゃったなぁ。

Dain:これ、予言的というより変わっていないといえるのかも。「これさえ読めば教養が身に付く」という宣伝文句で、世界文学全集が世に出たのが1950年代……じゃなくて1905年だった。これ、古典の抄録なんですよ。「1日15分読むだけでモテる」という売り文句で、50万セット売ったという。昔も今も一緒ですね。

スケザネ&タケハル:www 変わってない www

Dain:華氏451が予言的だな、と思う反面、1950年代と今と、なんら変わってないのかもしれませんね。

スケザネ:もっと暗澹たる話ですね。

3. 時代を超える本の条件:a passionate few

タケハル:確かに! 華氏451を下敷きに、これから頑張っていこうとかいう話じゃなくて、同じことがまた繰り返されるというオチwww これ、裏を返せば、最後のほうの、図書館のアーノルド・ベネットの話につながりますね。時代を超えて読み継がれる条件となる、a passionate few というやつ。

たとえばシェイクスピア。どうしてシェイクスピアが今でも残ってるのかというと、シェイクスピアを熱烈に評価する少数(a passionate few)がいたから。当時、シェイクスピアが世に出たとき、劇作家のクリストファー・マーロウは既にいた。だけど、マーロウではなくシェイクスピアが残っているのは、「シェイクスピアが好きだ」と延々と言い続ける人がいたから

だから、華氏451のラストで残るものは a passionate few がいる。プラトンとかはこの世界でも残り続けるんでしょうね。で、熱烈なファンがいない作品は消えていく……

スケザネ:そこでやべーなと思うのがゲーテ。ドイツ文学の大家だから、熱烈なファンがいるんじゃないかと思ってたら、ゲーテ、特にゲーテの小説を研究している人、日本に少ないんですよ。名前だけ大きくて存在感が大きいので、逆にa passionate few がいない。

タケハル:嘘でしょ!?

Dain:研究しつくされちゃったとか?

スケザネ:むしろ逆です。莫大な著作量で、しかも著作の幅も広い。一口にゲーテと言っても、小説だけじゃなく自然科学、戯曲集もあるし、文学家や政治家としての分野ごとの仕事があって、本国ですら全集が―――まだ、本当の完全なる全集が―――編まれていないんですよ。その中でも、ゲーテとかシラーの文学作品って、新しい翻訳がほとんどない。こないだ1冊だけ出たぐらい。(※追記:幻戯書房のルリユール叢書にて、シラーの新訳が出版されることが発表された。)

タケハル:そうそう、シラーの戯曲の新しいの、ホントに出てほしい。訳が古いとシナリオというより本を読んでる感じになってしまう。

スケザネ:古いやつだとシラーじゃなくて「シルレル」とか書いてありますもんね……脱線しまくってますねw

Dain:いやいや、今の新訳が出ないという話、華氏451につながります。当局側、つまり本の弾圧側に立つと、もっと徹底的なやり方があるんじゃないかと。「人々にものを考えさせない」ために、考える材料となる海外からの翻訳本を殺す。つまり、翻訳する人への補助金を止めるとかして、活動しにくくするんです。

4. 本の殺し方

Dain:もちろん華氏451は小説だから、「本を集めて焼く」というスペクタクルなシーンを入れる方がお話としては面白い。でも、そんなことすると、レジスタンスが生まれる。だから、そんな派手なことをせず、もっとサイレントに徹底的にやる。

そんなとき参考になるのが、オーウェル『1984年』です。ポイントは、「置き換える」です。ニュースピークと言われているやつ。good と bad じゃなくって、bad を ungood に置き換えたりして、どんどん言葉を減らしていく。そうすることで、本は、本質的な意味で、薄くなっていく。

スケザネ:そもそも、原本から薄くなっていく、ということですね。

Dain:そうそう。そして次に考えたのが、電子書籍への置き換えです。華氏451では、電子ペーパーや電子書籍といったものは無かったはず。でも、今の僕らはスマホやタブレットやPCで電子書籍を読んでる。

10年ぐらい前、電子書籍元年とか言われて、いろんな端末や本の規格がバーッと出ました。紙から電子への置き換えが進む一方で、沢山の種類の端末や版元が消えていったはずです。そのときは気にも留めなかったけれど、今考えると、「本を消す」のに上手いやり方ですね。

電子書籍への移行を優遇して、どんどん紙から電子に置き換えていって、こっそり消すんです。端末のアップデートしないとかして。

スケザネ:考えもしなかった……いま Kindle が無くなると消える本って、確かにありますね。いま、Kindle でしか出してない本ってあるから何割かはこのやり方で消せますね。

Dain:いまので思ったのが、ソシャゲ。ソシャゲのサービスが終了したら、何も残らないですね、当たり前ですけど。URLにアクセスしても、跡形もない。一方、カセットとかディスクとか何十年も前のが残っていて、今でも遊べる。それはモノとしてのメディアがあるから。だから Amazon は、Kindle のメディアを維持していくために、金よこせという話もあるかも。

タケハル:印刷するとか流通するとかのコストが無くなった反面、元を絶たれると一気に無くなるというリスクを追うことになるんですね。

スケザネ:近い時代では映画でこれが起きていますね。古い映画の何割かってもう観られないじゃないですか。これは意図せざるものもあるし、燃やされたというのもある。その波は既に起きているのかも。

タケハル:アリストテレスの著作が残っていないといっても、何百年単位で起きている話ですけど、映画についてはここ100年で起きてます。技術が発展する速度が上っていくにつれて、消える速度も上っていくという矛盾。

Dain:マングウェル『愛書家の楽園』のエピソードにつながります。イングランドの土地台帳で、千年前に作られた本です。これを電子化しようという動きがあって、3億円かけて文字・画像・動画を CD-ROM にしたのが1986年。でも CD-ROM って10年ぐらいでダメになるんですよね。16年後に読み出そうとしたら、データが劣化してて再生できなかったという話。

スケザネ:10年ってめちゃくちゃ耐久力弱いじゃないですか!

Dain:映画だとデジタル・リマスター版というのがあるじゃないですか。あれも、新しいメディアにアップデートしていく必要があるんです。

タケハル:デジタル化したから大丈夫だと油断していると、規格が変わったりとかするんですね。

スケザネ:ハードが進歩すればするほど、維持していくコストがどんどん増えていくんですね。昔はほら、洞窟に描いたらいまだに残っているじゃないですか、数千年前のものが。

タケハル:最強は石ですね!

スケザネ:最強は石、次は紙!

一同:www

5. 本はカジュアルに焼かれてきた

Dain:あと、フェルナンド・バエス『書物の破壊の世界史』を読むと、本って結構カジュアルに焼かれてきたことが分かります。

  • 記録抹殺刑:古代ローマで、反逆罪を犯したものに対し、ダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺刑)→罪人が後世に名を残さぬよう、碑文、書物、記念碑などあらゆるものを破壊する
  • ボスニアの国立図書館の空爆:1896年創立した図書館、1992年8月25日夜、空爆の目標となり破壊された。軍事施設ではない図書館が標的になる理由→共同体と密着した文化財である図書館が、ある民族の象徴のひとつであるという事実の裏づけ
  • ナボコフは、メモリアルホールで600人以上の学生を前に、セルバンテス『ドン・キホーテ』を燃やすよう求めた
  • ボルヘスも『自伝風エッセイ』で初期の自著を焼却したことを語っている(数年前までは値段が高すぎなければ、自分で買い取って焼いていた)
  • 最近の本は、溶解されたり、圧縮される←ボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』
  • プラトンがライバル視していたデモクリトスへの言及すら拒み、著作を集めて燃やそうとしていた(デモクリトスの哲学の入門書『大宇宙体系』がプラトンの著作と驚くほど似ていたから)

タケハル:ナボコフ、なんで『ドン・キホーテ』を焼きたかったんだろう?

スケザネ:『ナボコフのドン・キホーテ講義』というのがあって、そこでドン・キホーテをこき下ろすんです。そのくせ500ページぐらい使って説明するんです。この本の中では、焼くんじゃなく、ズタズタに破ったみたいなことが書いてある。

Dain:本を書くからといって、言論の自由にコミットしているわけじゃないことが分かるよね。

タケハル:プラトンにはそういうことしてほしくなかったなー

Dain:プラトンが焼いた、じゃなく伝聞ですからね。

タケハル:でもプラトンならそういうことやりかねない、って思われていたのかも。

スケザネ:「本を焼く」の定義をもう少し拡張して、破る、破壊する、発禁するとかにすると、実にいろいろ出てきますよね。

タケハル:聖書とか宗教的なものとかだとありますね。

Dain:サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』を翻訳した大学教授が殺されたとか。あと、PTAの白いポストとか。自分に都合が悪い存在に対し、直接殴ったりするのではなく、その言説をまとめた「本」を攻撃する。本は、ターゲットとされやすい、攻撃されやすいものなのかも。

タケハル:確かに! 本を燃やしても犯罪にはならないですからね。

スケザネ:紙焼いているだけですからね。象徴的だと、国旗とかもありますね。

Dain:そう、このボスニアの国立図書館の空爆って象徴的です。図書館を空爆することは許されることではないけれど、ものすごく効果的だと思います。「おまえの国(言語、歴史)ってのは無いんだぞ」というデモンストレーションとして有効。

タケハル:精神的なダメージがありますね。

6. イマジネーションを喚起させるSF作家

タケハル:『華氏451度』に戻ると、イマジネーションに富んだ比喩が良かったですね。印象に残っているシーンとしてはこれ。

  • ジェット・カーから見える景色の話(p.22)
  • フェイバーの話「うつくしい氷の彫像が、太陽のまえに溶けていくような気持ち」(p.190)
  • 「床の上には、表紙をもぎとられ、白鳥の羽根と化したかれの書物が、なんら問題にする価値のない品となって散乱している。」(p.244)

高速道路をジェット・カーで走っているときの景色で、「緑のものが草になってピンクが薔薇になる」とか。これ、ちゃんとブラッドベリが頭の中に思い浮かべて、目で写し取っているなぁ、というのがあります。

瑞瑞しい表現が頻発されるので、ディストピアものなのに、『1984年』読んでる時よりは怖い思いをしない。

ブラッドベリは、SF作家として有名だけど、かなり文学よりのSF作家ですね。

7. 焚書への究極の対抗策:暗記

タケハル:あと、終盤に出てくる人間図書館。これ、実際にあった話で、アフマートヴァ『レクイエム』になります。ソ連の時代に詩人のアフマートヴァが危険思想家扱いになっちゃって、印刷を許されなくなった。作品メモを残すと、それすらも拘留の対象になってしまう。

そこで彼女は、自分の詩を友だちに暗記させるんですね、10人くらいに分けて。そしてスターリンがいなくなった後で、それを集めてくっつけて外国で出版する。暗記とは、本を燃やすことへの究極の対抗策なんですね。

スケザネ:暗記は昔からありましたよね、稗田阿礼とかホメロスとか。

タケハル:ただ、稗田阿礼やホメロスと違うのは、アフマートヴァの友だちは普通の人なんですよね。口伝のプロなら覚えるための訓練をしているし、ホメロスに至っては即興で句を入れ替えたりする。

でもアフマートヴァの友人は素人だからすげー苦労してた。そして、さらに厄介なのは、アフマートヴァがプロだということ。プロということは、覚えさせた後に、やっぱり改訂したいとか言い出すんです。

スケザネ&Dain:www

タケハル:専用の数字とアルファベットと数字も考えて、持ち回りで20年ぐらい暗記してもらってやっと出版できたという話。華氏451のラストでこれを思い出しましたね。

8. 他の芸術と比較した文学の強みとは

スケザネ:いまの話と一緒のエピソードがあります。辺見じゅん『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』です。ノンフィクションで、シベリア抑留された日本人の話。仲間の一人が病気になって死を覚悟するんです。

でもその人は、故郷の日本に残してきた人に、どうしても伝えたいメッセージがあるんです。遺書ですね。でも収容所では紙も無いしペンもない。だから何人かで、彼の遺志を暗記しようという話になるんです。みんなで一節ずつ暗記していって、どうにか日本に戻ってから、故郷の家族の前で一人一人暗唱していく。

タケハル&Dain:すごい……!

スケザネ:ホントここに、文学の営為みたいなものがあると感じさせられます。文学の強みって、ここにあると思いますね。他の芸術、たとえば美術や音楽は、絶対に道具が要ります。楽器がないとダメとか、絵具とかキャンバスが無いとダメとか。

でも、文学は道具がなくてもいい。極端いうと、身体一つあれば成立なる。だからこそ、共有体験ができるし、こういう極限状態でも成立する。

これ、さっきの岩に描いた話にもつながるけれど、ハードウェアがシンプルであればあるほど、耐久性が強いんじゃないかと。いろんなものが棄損されていく中で、最後の砦になった、というのが分かる。

タケハル:確かに、物語を通していろんなギミックが出てくるけれど、結局最後まで残ったものが暗記だった、という話ですね。石よりも強い暗記。

Dain:未来の世代に伝える最も確実な方法を思い出しました。遠い未来へ物語や危険を伝えたいとき、どうするか? 紙に文字の形で残すことはできる。だけど、さっきの CD-ROM と一緒で、そのうち消えていく。石に刻むのもいいけれど、言葉は変わっていくから確実ではない。

ではどうするか? 人類が持っている一番古い、シンプルな方法が、「祭り」なんです。一年のサイクルで同じ時期に集まって、皆でお祭りをする。何かに感謝する、踊るという方法で、伝えていく。

タケハル:なるほど、伝えることをイベントにしちゃうんですね。

Dain:お神輿は壊れますよね、木でできているから。でも毎年同じ時期に、皆で集まって飲み食いし、神聖なる「なにか」を抱えるんだ、という記憶は、どんな言葉であろうとも、たとえ書き言葉が無くなろうとも、伝え続けることができるという発想です。

スケザネ:式年遷宮ってのがあるじゃないですか。伊勢神宮の社殿を20年ごとに建て直すってやつ。これもお神輿のやつと同じで、壊しちゃう。20年に1回、同じものを立て直して元のものは無くなっていく。

物体としては別だけれど、存在という概念が同じものが作り直されていく。テセウスの船のように、そこに存在することが重要だと思います。存在としての価値が連綿とつながっていく。建物という「モノ」であれば壊れたり焼けたりするけれど、作り直していくという「行為」に託したが故に、式年遷宮はこれだけ長く続いているんじゃないかと。

Dain:なぜ遷宮が20年おきに行われるか、考えたことがあります。20年とか25年って、1つの世代、ワン・ジェネレーションじゃないですか。そして、同じ社殿を作り上げるために、木を切って、特定の形に加工して、組み上げる必要がある。そこには技術が必要で、当たり前だけれどその技術は人が担っている。その大工さんが現役として技術を習得し、次の世代に伝える間隔が20年なんです。

スケザネ:なるほど!

タケハル:これ、かなり腑におちますね。

Dain:これが40年だったら、遷宮に携わった人がいなくなり、技術が次に伝わらない。10年だったら、壊して作り直すコストのほうが高くつく。なので20年なのかなと。スケザネさんの「モノは残らないが、行為として残る」はこれかなと。

タケハル:面白いですね! ブラッドベリは人間図書館で、個人の身体性による話を目指したけれど、ここの話だと、行為として、イベントとして世代を超えて伝えていく結論になりそうですね。

スケザネ:華氏451のラストから何年か経ったら、モンターグの仲間たちが集まって、暗唱による朗読会とかするのでしょうかね。

タケハル:これやらないと次の世代に残らないですよね。この人間図書館のコミュニティを次々とつないでいくとチラっと言及してはいるけれど、途絶える恐れだってあるから、技術を作ることが重要かも。a passionate few が居れば解決する問題じゃなくって、さっきのゲームの話にもつながるけれど、(人間という)ハードウェアへの配慮がないと、人間図書館が途絶える可能性だってある

9. 思想小説とサスペンス性

タケハル:華氏451はディストピアものなんだけど、ビーティとの議論とか、「本」そのものとは何なんだろうとか、思想的な議論が多い。ビーティを燃やした後、今度はモンターグが追われる立場になり、サスペンス性は上る。けれども、彼がさらに人を殺すとか、ケガをするといった展開にはならない。主人公は大変な思いはしているけれど、「本」に対する議論が続く。

最近のドラマ『ウォーキング・デッド』と比較すると明らかで、ゾンビとの戦いとか、物理的な恐怖やドラマが原型にある。物語をつくるとき、サスペンス性を前面に出すのだけれど、華氏451はそれを使わず、思想性を出す。

物語作品でこうした思想的な議論が減っている。減っていることは別に悪いことじゃないけれど、でも、昔は結構あったけど、今は少なくなっている。ということは、物語を作る側が、サスペンス性を使いたいという魅力に勝てなくなっている。

物語作品に思想を込める「大きい作家」が少なくなっている一方で、サスペンス技術が進んだ結果、それを使わずにはいられなくなっている。

Dain:サスペンス性の方に、物語の重心が行っちゃっているということなんですね。

タケハル:というか、サスペンス性はパワーが強く、読者や視聴者にウケるから、使わざるを得ないという話なんです。心に訴える思想的な議論よりも、身体に訴えるサスペンス性の方が力が強い

スケザネ:そこ! 新訳でいうとp.96 の「民衆による多くのスポーツの団体精神を育み面白さを追求し……」とぴったり合っている。

タケハル:そうそう、作家ですらもうそれに敵わなくなっちゃっている。

スケザネ:小説というハードの中の話でありながらも、その中で比較しても、思想性よりもサスペンス性の方に傾斜してしまっているんですね、最近のは。

スケザネ:それに比べると、華氏451は冒頭からして動きありませんものね。60ページぐらいまで何の動きもなくて、どうやって読者を読ませるか。物語の序盤の駆動力としては、さっきタケハルさんが言ってた、言葉の美しさ、比喩の巧みさにあるんじゃないかと。これがないと、最初の5~60ページで投げ出す人がいたんじゃないかな。ブラッドベリはそこに自信があったと思う。

タケハル:俺が編集だったら序盤を書き直せって言ってるはず。誰が誰だか分かんないでしょwww

スケザネ:言う言うwww

Dain:華氏451って、1984と同じく、「名前は知っているけど読んでる人は少ない」作品ですね。物語として面白いか面白くないかというと、確かに最初の60ページで萎える人が多いと思う。ダルいし。

タケハル:クラリスが死ぬってところと、あとお祖母ちゃんが燃やされるってところぐらいまで行かないと、物語が動いていかない感じがする。

スケザネ:クラリス、変なキャラであんなに重要そうなのに、早々と退場しますもんね。

タケハル:クラリスを追いかける旅かと思ったらそうでもないし。

スケザネ:村上春樹だったら追いかけさせるね。なのに50ページぐらいで「クラリスが消えた」とかマジっすかwww そっから言及ほとんどないし。いわゆるエンタメの小説としては、構造的にガタガタなところがある。先見性とか希少性、思想の議論は抜群によくできているし、後半になるとモンターグ逃げ切れるかなとか、上司を燃やしちゃったよとか、面白いところがあるんだけれど、構造としては危ういところがある。

タケハル:イヤホン型のレシーバーとかのやり取りは結構面白いのにね。

Dain:もっと面白くできるのに、面白くさせていない。

タケハル:50年ですからね、エンタメ技術が発達していない可能性もある。

スケザネ:あの当時の小説としては前書きにあれくらい使うのは当然なのかも。もっと昔だと、100ページ200ページ助走にかけるのがあって、「こいつまだ本編始まらない」というのもザラ。そういうのに比べると短いけれど、現代から見るとまだ長い。

Dain:ディケンズの『荒涼館』、めちゃくちゃ面白かったけれど、物語が始まるまでめちゃくちゃ長かったことを覚えてます。

スケザネ:ディケンズ、助走めっちゃ長いんですよね。19世紀の小説ってみんなそうなんですよね。「ごめん、物語が始まるまでちょっと待って」みたいな。

Dain:現代の読者のほうが待てなくて、説明とか能書きはいいから、早く面白くしてくれ、早く物語を始めてくれってなってるのかも。

スケザネ:『ジャンプ』ですね!

タケハル:先見性もあるとともに、時代性も感じますね、華氏451は。最後核戦争っぽいので終わるし。あのときはリアリティがあったんですね。冷戦中だし……キューバ危機の前ですよ。

スケザネ:朝鮮戦争くらい。

タケハル:限りなくあったかい冷戦ですね。確かに、戦争が起きそうという小説の空気感は当時の人もあったんだと思う。

10. この世ならざる世界にいかにして引き込むか

スケザネ:SFとかファンタジーについてまわる課題なんだけど、この世ならざる世界に、いかにして読者・視聴者を引き込むか?

SFとかファンタジーが難しいのは、現実世界とは違うことを説明しないといけない。ところが、SFやファンタジーの人たちは、その世界の住人なので、「この世界はこうですよ」などとわざわざ説明してくれることはない。そこで当たり前に生活しているから。

なので、常套手段として使われるのは、「その世界に違和感を持っているやつ」とか、「その世界の外部からやってきた人」を設定する

たとえば『十二国記』、現代日本の世界から、異国の世界にやってきた女子高生の目で説明してくれる。人間の世界から魔法の世界へ行くハリー・ポッターの場合だと、ハリーの目でその世界が語られる。視聴者もなるほどね、という風に理解していく。

ところが、華氏451だと、違和感を説明してくれない。外側から来た人がいないから。だからクラリスが出てくる。クラリスはその世界の住民なんだけど、その世界に違和感を抱いている。だからクラリスは、モンターグに色々と質問をしてくる。「あなた昇火士だけど、昇火士の仕事どう思ってるの?」とか。

この質問には二重の意味がある。

  1. クラリスがこの世界に違和感を抱いていることを示す内在的な要求
  2. この世界を読者に説明するという外在的な要求

この2が無いと、読者は物語の世界に入っていけない。クラリスを通じて、読者はこの世界を知るんです。

Dain:確かにクラリスがいないと冒頭60ページがもっとわけわかんなくて離脱者がさらに増えるww クラリスって、主人公を体制側から反体制側へ連れていくトリックスター的な存在だと思ってた。「この世界ってなんなの?」ということを、主人公に質問することで引き出す役もあるんですね。

スケザネ:クラリスの奇行が目立つのは、そのせいじゃないかと。ほら、最初に雨飲んだりするじゃないですか。雨ってけっこう美味しいのよとか、急にタンポポ塗りたくってきたりとか。それに対してモンターグは、現実世界で考えても、普通に近い振る舞いをしている。でもクラリスは、言ってることや思想は現実世界に近いんですけど、行動は、やってることは奇行に近いんですよ。

これ、クラリスの行動が普通だったら、華氏451の世界の中で、逆に浮いちゃう。クラリスが奇妙な行動を取ることで、バランスを取っている。

タケハル:確かに、奇行をさせることによって、この世界にいるための重しをつけているような感じですね。

11. 現実世界との架け橋をつなぐか

スケザネ:それが、次の課題「物語世界と現実世界との架け橋をつなぐか、つながないか」という問題に接続されます。

たとえば、ハリー・ポッターだと、ハグリッドという巨人が迎えに来る。人間世界で生活しているハリーを、魔法世界へ連れていくために迎えに来るんです。読者に対して分かりやすく、現実世界と魔法世界をナビゲートする狂言回し的なポジションにいるんです。

でも、華氏451はその世界で閉じていて、現実世界から行く架け橋はない。だからクラリスという異質なキャラクターを用意して、限りなく現実世界に近い代弁者としていてもらう……そんな物語の建付けにしているんじゃないかと。

Dain:クラリス、それほど重要なキャラクターだったら、もっと引っ張ればいいのに、もったいない。

タケハル:外在的な役割なら、教授とかに引き継がれているのかも。モンターグ自体も、この世界に違和感を抱き始めるから、読者からも共感できるようになる。

スケザネ:映画だと、フランソワ・トリュフォーが監督していて、面白いことに、クラリスとミルドレッドは、同じ役者さん(ジュリー・クリスティ)がやっているんです。

これ、ブラッドベリは怒ってるんですけど、監督の気持ち、めちゃめちゃ分かります。クラリスは序盤でいなくなってしまうのに、そこにキャスティングを贅沢にできないという事情がある。

タケハル:ギミックとしてすげー面白い!

Dain:映画観たはずなのに気づかなかった……主人公にとってかけがえのないという存在だったという意味で、非常に示唆的ですね。

12. 批評をするな、物語らせよ

スケザネ:『ブラッドベリ、自作を語る』というのが晶文社から出ていて、インタビュー集なんですね。本作についても、「華氏451は社会批評の要素があるけども、それは冒険物語という全体の中に隠れてるんだ」と語っています。

これ、本についていろいろ議論している思想的な要素もあるのですが、基本は冒険活劇だと言っている。議論が多いぞ、とは思うけれど、もしブラッドベリが、1950年代に議論のところだけを精緻に書いていたら、今に至るまで残っていないかもしれない。

重要なのは、批評してはいけないという点。物語を作る人は、批評に対して批評で返すのではないと。代わりに、物語という具体的な世界の中で語らせることに意識的であってほしいという話です。

タケハル:確かに! トルストイ『復活』読んでてあったんだけど、ラスト100ページぐらいになって延々と思想的な話が出てくる。キリスト教徒としてはどうあるべきか的な。トルストイがそれ言いたいのは分かるけれど、今までの話の方が面白かったのに、答え合わせするみたいなのはやめてよ、と言いたくなる。

Dain:へー、『復活』読んでないから気になる……

タケハル:確かにいいこと書いてあるんだけど、それ言われちゃうと、今までの主人公たちの冒険はなんだったん的な気持ちになる。

Dain:ユゴーの『レ・ミゼラブル』を思い出した。『ああ無情』の短いのじゃなくて、全部だと何巻もあるんです。で、そこで丸々一巻を使って、作者がこの世界について延々と語るところがある。ジャン・バルジャンやコゼットの話を放り出して、ずーっと作者の思想に付き合わされる。

たぶん俺を同じことを考えた編集者さんがいて、ユゴーのおしゃべりを丸ごとカットして、ストーリーだけにした版もある。

スケザネ:ユゴー、そういうの好きで、『ノートルダム・ド・パリ』というのがあって、そこだと丸々一章使ってパリの街の歴史について語るところがある。19世紀は小説というジャンルが未熟というか独り立ちしていないところがあって、物語だけじゃなく色々なものが詰め込まれている。

典型的なのがメルヴィル『白鯨』で、18~19世紀の百科全書的な思想を注いで、物語という形式で世界全体を包含しようという試みがなされている。クジラの辞書を入れてみたりとか、格言集を作ってみたりとかしている。小説で何でもやってやるぜという意気込みが好きですね。

でも、物語として楽しもうというときには煩いですよね。

Dain:確か岩波文庫だと、最終巻の解説で、章分けしている。物語パートはこの章とか、クジラの辞書はこの章とか、それぞれ色分けしている一覧があったはず。もし、物語だけを楽しみたいのなら、この章だけツマめばOKというのが分かる。物語が「小説」という枠に飲み込まれている。

スケザネ:芥川賞作家の丸山健二が、そういう物語以外のところをカットして、物語部分を中心にリライトした『白鯨物語』というのがあります。あるいは、『カラマーゾフの兄弟』の父殺しの所だけをクローズアップした『ミステリー・カット版 カラマーゾフの兄弟』というのがあります。

Dain:もともと「小説」って、そういうものだったのかも。いま僕らが、物語を楽しむための形式を小説と読んでいるけれど、昔はそんなんじゃなくって、作者が言いたい何か―――思想とか主張とか批判とか―――があって、それをそのまま書こうとすると、さっきのブラッドベリじゃないけれど、それは作家の役割じゃないとなるから、それを「物語」に包んで伝える。

パリの街並みの美しさをそのまま語っても誰も読まない。だから、物語の舞台に設定することで、読んでもらう。読者は、物語の先を知りたいという欲求があるから、作者の主張も一緒に読んでいた。

けれども時代を追うにつれて、作者の主張というのが引っ込んでいって、読者の「早く物語に入りたい」というニーズに合わせていくうちに、今の物語主体の小説になっていったんじゃないかなと。

スケザネ:17~18世紀だと、逆に、物語が市民権を得ていないからこそ、「事実で物語を担保する」というのがあったんです。たとえば『ガリヴァー旅行記』『ロビンソン・クルーソー』や、書簡体小説、たとえば『ペルシャ人の手紙』とか、あの時代ですね。

あの時代って、まだ物語が良いものとされていなかった。だから、どういう風に読んでもらおうとしたかというと、「序文をつける」ことです。やたら序文がついてて、どこどこ女王からの序文とか、7個ぐらいついてる。で、権威があります、本当の話なんですとする。あるいは、これは誰かが書いた手紙です、本物なんですとする。事実を担保として物語を届ける、というやり方だった。

タケハル:フィクションということの価値が低かったんだろうね……

スケザネ:英語の辞典とか引くと、fact という言葉が出てきたのは、1600年代ぐらい、シェイクスピアの時代ですね。フィクションとかファクトという価値概念が無かった。17世紀、fiction とは何か、fact とは何だろうという区別が必要になって、こうした言葉が使われるようになったんじゃないかと。

タケハル:文学史やんないと! フィクションとかファクトとか、物語とは何かを、そうした文学史の流れの中で押さえたうえでないと、さっきのブラッドベリの発言が分からなくなっちゃう。

13. ブラッドベリの創作技法

スケザネ:『ブラッドベリ、自作を語る』には、創作技法が紹介されてます。ブラッドベリが物語を作るときに、どういうことをしているかを語っている。

まず、名詞のリストをつくって、そこからストーリーを思いつくと言ってます。ビン、桶、湖とか、ガイコツとか。

タケハル:なんか落語の三題噺みたいな?

スケザネ:そうそう、で、自分のキライなものを10個書き出せという。そして、キライなものを物語の中でやっつけていけという。それで物語が出来ていく。ブラッドベリは本を燃やす人が大嫌いで図書館が大好きだから、『華氏451』が出来上がった。本を燃やすような連中を貶して、図書館的なものを持ち上げる、それが原初だった。

じゃぁ、その10個ってどんな風に思いつけるか? ブラッドベリは、人間の頭の中には3つのことがあるという。

  1. 実体験(物理的)
  2. 実体験への感情や反応(心の中)
  3. 芸術体験

1つは、普通に自分が体験したこと自体。そして、その体験に基づいた自分の反応や感情が2つ目。そして最後は芸術体験だと。この3つを軸にして、10個を挙げて書いて見ろと。ホントにそれで書けるのかはどうかだけど、少なくとも書き出すことはできる。

タケハル:プロの違いは、自分を訓練する方法を思いつけるかにあるかも。創作するためのルーティーンといったら機械的だけど、イマジネーションを深めるための方法論を持っているか。漠然と、「何かアイデアないかな」だとやっていけない。

スケザネ:漠然と何か出すなんて無理で、頭の中から何かを出すのはすごく難しい。スタンバイ状態になっているメモを作るとかしないと。Dain さんブログ書いてるけれど、何かメモ的なものってやってます?

Dain:やってますよ。Googleドキュメントや、最近だったら Google Keep に読んだ本の感想や抜き書き、ボイスレコード、写真を残していってます。追跡が難しいので、いまやっているのが、スプレッドシートに読んだ本のトピックや参照文献をずらっと並べて一覧化してます。読書猿さんの『独学大全』で紹介されてるやつ。考えるタネみたいなやつ。

あと、いろんな名言というか、「そうか!」と心にキた言葉を集めています。たとえばこんなの。

“告白、0を1にするんじゃなくて99を100にする行為だと知ったのはだいぶ先の話”
— 元気になった焼肉みくさんのツイート

"SNSで精神を病む最大の方法は「嫌いなひとやものを逐一監視する」です。だいたいこれでおかしくなります"
via:tumblr

“責任感が強いからクラス委員に向いてるって、君はおっぱいが大っきいんだから水着を着てなさいって言ってるようなもんだわ。”
- ゴースト≠ノイズ(リダクション) 上 / 十市 社 (via k-quote)

“感情とは価値判断のショートカットだ。理性による判断はどうしても処理に時間を要する。というより究極的には、理性に価値判断を任せていては人間は物事を一切決定することができない。完全に理性的な存在があったとして、それがすべての条件を考慮したならば、なにかを決めるということ自体不可能だろう。”
— 伊藤計劃『虐殺器官』

クスっと笑ったり、「これはイイ!」と思った言葉を集めておいて、ときどき読み返したりしていますね。あと、自分のブログそのものを検索して、そこからネタを膨らませていますね。

タケハル:なんだかんだしても、結局作業にまで落とし込む必要がありますね。

14. 終わりに&次回の課題図書

Dain:やっぱり「本を焼く者は人を焼くようになる」というメッセージが強烈でしたね。焼くほうが焼かれるほうになるとか。あと、若いときに読んだときと、いま読み直すときとの反応が違っていたのが面白い。俺だったらこういうディストピアにするのに、という読み方ができて良かった。

タケハル:題材が本を焼く話だったので、物語を伝える側としては、物語を乗せるハードウェアに目が向きました。何を遺していくべきかだけでなく、何「に」残していくべきかという点です。あと時代の問題、小説がどのように変化してきたのか、勉強することが沢山あるなぁと思いましたね。

スケザネ:楽しかったです! こんなに話が広がっていくとは思わなかった。そして、世相的な意味で、いいタイミングで読めたのが良かった。100分de名著『華氏451度』の6月にもこれが俎上に乗るみたいだし。あとこれ、70年も前の作品なのに、メッセージが古びないのが凄いですね。

さて次回はどうします? 今回はタケハルさん推薦でしたが、Dain さん、あります?

Dain:次回というか、いま僕が興味があることで、感情、特に「恐怖」があります。怖いとは何かについて。僕はホラー映画や小説が好きなんだけど、怖いと分かっているのに、わざわざ読んだり観たりする。「怖い」とは、嫌だ、避けたいというネガティブな感情なのに、好んでそれを味わおうとするのはなぜか?

そういう疑問に答えてくれるのが、戸田山 和久『恐怖の哲学』です。具体的なホラー映画の作品を挙げながら、恐怖の正体に迫ります。物語の作り手側からすると、読者の感情をコントロールして、上手に恐怖を刺激するヒントが得られるかもです。

スケザネ&タケハル:了解です!

 

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受験英語【だけ】頑張った私に足りないのは語彙力『英語の読み方』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年6月5日


単語の意味、分かるだろうか? (私はほぼ全滅)。

 1. US China Trade Deal - BBC News より
  ceasefire
  reciprocal
  subsidize
  thorny
  truce

 2. China warned to show Taiwan respect - BBC News より
  decent
  reckless
  predecessor
  infurate

 3. Coronavirus whistleblower doctor is online hero in China - CNN より
  epidemiologist
  death toll
  detain
  quarantine
  whistleblower

受験英語よりは少しレベルが高いけれど、BBCやCNNのニュースによく出てくる単語ばかりだという。

ceasefire は映画かゲームで「撃ち方止め!」と知っていた。 whistleblower は笛を吹いて警告する人(内部告発者)かなと覚えていた。decent は「ちゃんとした」のはず……あとはさっぱりだ。

大学受験に求められる語彙力は、5,000~7,000語だという。『英語の読み方』(北村一真著) によると、ニュースで使われる語彙は7,500~15,000語レベルなので、圧倒的に足りない。

多読多聴で浴びるようにやればいいのだが、そんなに英語を頑張る気はない。SNSやgoodreadsがサクっと読めればいいだけなので、なるべく楽に、より楽しく学びたい。

本書を読むと、次に私がどうすれば良いかが分かる。

語彙力を底上げする

そこでお薦めされたのがこれ。

単語をパーツに分けて、それぞれの意味を解説していく。語源や形を知ることで、芋づる式に単語が出てくるようになるという。

たとえば、bell という語。元は Bellona というローマ神話の戦争の女神から来ており、bell が付いていると争いに関連していると推察できる(ちなみに彼女の夫は Mars で、これまた古代ローマの軍神)。

antebellum : ante(前の)bellum (戦争)で、戦前という意味になる(英語だと第一次・第二次世界大戦前で、米語だと南北戦争前)

bellicose : ケンカ好き、好戦的。20世紀だと、ドイツのヴィルヘルム2世、イタリアのムッソリーニ、日本の東條によく使われる

こんな感じで増やしていく。ちょっとニヤっとしたのが、これ。

rebellion : 反逆、反乱。集団になった反逆者たちは、政府をも転覆することもある。アメリカ独立戦争は、イギリスの立場から見ると rebellion になる

これ、『リベリオン』やんけ!!

ガンアクションとマーシャルアーツが合体した映画で、めちゃめちゃカッコいい一方、ストーリーはキレイに忘れていた。ラストで民衆が蜂起してたので、なるほどだから「反逆」なのかと腑に落ちる。

語源や成り立ちから解き明かしているので、うんちくが溜まっていく。勉強というより雑学ネタを拾い上げる楽しみがある。

ネットの英語は癖がある

Yahoo ニュースの見出しは15文字までだから、より短い言葉に置き換えたり、助詞を削ったりしている。それと同様に、英語も短い言葉にしている。本書で解説されている中から、いくつか紹介する。

見出しの頻出 意味 一般的な単語
air 放送する broadcast
ban 禁止する prohibit
bar 妨害する prevent
eye 検討する consider
halt 中断する suspend
ire 怒らせる provoke
pry 調査する investigate
rule 支配する dominate

「ON AIR」から air の動詞は想像がつくし、SNSで「banされる」と見たことがある。だが、eye 「検討する」や bar 「妨害する」という意味は知らなかった。p.67の「見出しでよく使われる動詞」大量あるので、これだけ押さえておけば、もっと素早くニュースを掴めるだろう。

あるいは、語数制限があるtwitterでも、省略的な表現が出てくる。

So disappointed that #MarkZuckerberg values profit more than truthfulness that I’ve decided to delete my @Facebook account. I know this is a big “Who Cares?” for the world at large, but I’ll sleep better at night.

Mark Hamill 2020.1.13

https://twitter.com/HamillHimself/status/1216482695061966848

マーク・ザッカーバーグが真実よりも利益のほうを重んじるということにひどく失望したので、フェイスブックのアカウントを消しました。世間一般の人にとっては「それがどうした?」という話題であるのは承知ですが、おかげで夜は気分よく眠れます。

最初の文の頭に I was を補う必要がある。でないと主語と動詞がない形になってしまうから。いきなり So that で始まる文章は見覚えがあるので大丈夫だが、2つ目の that の使い方がポイントだという。

最初の that はdisappointed の理由を示す副詞節だが、2つ目の that は so に呼応して、がっかりした結果を示している。

他にも、ネットの英語は独特なので、SNSがスラスラ読めるようになりたい私は押さえておきたい。たとえばこんなの。

  • Are you dissing him? (彼をディスってんの?)
  • How many likes do you want to get? (いくつ「いいね!」が欲しい?)
  • friend/unfriend(facebookで友だちになる、友だちからはずす)
  • tweetable (ツイートする価値がある)
  • instagenic,instagrammable(インスタ映え)
  • go viral(バズる。もとはvirusウィルスという語から派生)

動画は宝の山

物理や料理の番組を youtube で観るけれど、ほぼ日本語に限られている。海外の番組も紹介されるけれど、言葉の壁を乗り越えるのは難しい。

ここからは、「あわよくば」私が観れるようになるといいなと期待するリンクを紹介する。

● Michael Sandel:What's the right thing to do? [URL]
「マイケル・サンデル:正しい行いとは何か?」『これからの正義の話をしよう』の動画版といったところか。50分

● The Tyranny of Merit: What's Become of the Common Good? [URL]
「マイケル・サンデル:能力主義の横暴」同名の書籍のダイジェストなのかも。9分

● Yuval Noah Harari: What explains the rise of humans? [URL]
「ユヴァル・ノア・ハラリ:人類の台頭はいかにして起こったか」サピエンス全史と一部重なる。17分

● Steven Pinker: Is the world getting better or worse? [URL]
「スティーブン・ピンカー:データで見ると、世界は良くなっているのか、悪くなっているのか」『暴力の人類史』が18分で紹介してもらえるとするなら、破格の効率だ。

こうした動画をきちんと理解して、紹介できるようにまでなりたい。

他にも、Google検索を使った英文チェックや、情報の流れや構造から読解する技法など、「使える英語が身につく」とはどういうことか、身をもって分かるようになっている。同著者の書籍は、『英文解体新書』を読んだが、『英語の読み方』の方が間口が広く入りやすい印象だ。

受験英語は頑張ったけど、いまいち英語が読めないという方にお薦め。というより私がもう一度読むべき一冊。

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数学的に美しいと、科学的に正しいのか?『数学に魅せられて、科学を見失う』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年6月12日


科学実験から得られたデータというのは、ノイズだらけで、混沌としており、それらをきれいに説明する数式やモデルを作るのは簡単ではない。

そのため、データを説明する数式の候補をいくつか検討することになる。このとき、よりシンプルに実験を説明する、美しい数式の方が、正しいような気がする(オッカムの剃刀、という言葉があるくらい)。

しかし、数学的に美しいことは、科学的に正しいことを保証しない。ひょっとすると、数学的に美しくない数式やモデルの方が、科学的には正しいのかもしれないのだ。

にもかかわらず、数学的に美しい方が科学的に正しいとする誘惑に駆られ、それに合わせて実験データの取捨選択まで手を染める科学者がいる―――現役の物理学者である著者は、そう告発する。

『数学に魅せられて、科学を見失う』は、ザビーネ・ホッセンフェルダーの初の著書となる。フランクフルト高等研究所の理論物理学者だ。ちょっと変わったタイトルだが、サブタイトルは過激だ。”How Beauty Leads Physics Astray” すなわち、「美はいかにして物理学を迷走させるか」になる。

実証的でない物理学者

著者に言わせると、「美」という主観的な価値が、理論物理学者たちを迷走させていることになる。

にわかには信じがたい。

実験や観測によるエビデンスの裏打ちと、数学を用いた厳密で一貫性のあるロジックを何よりも重視するのが、物理学者ではないか? 都合の良い数字をつまみ食いして、それっぽい数式をひねり出し、仲間ウケする論文をでっちあげる夜郎自大とは対極の存在だと思っていた。

だが、それは私の思い込みらしい。

たとえば、CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)での実験について。高エネルギーでの物理現象から生じる粒子を観測する実験では、莫大なデータが捨てられているという。

実験では、毎秒10億回もの陽子-陽子衝突が起こる。これは、CERNの大型コンピュータをもってしても、全ての衝突データは保存できない。衝突が起きている間、リアルタイムで選別され、アルゴリズムが「興味深い」と判断したものが保存される。10億のうち、保存されるのは100~200だけだという(※1)。

著者はこれを、「悪夢のシナリオ」と呼ぶ。科学者の仕事を全て厳密にチェックするわけにいかないから、結果を信じるしかない。だが、この10年もの間、基礎物理学の鍵となるデータを葬り去ってきたのであれば、悪夢というほかはない。

あるいは、「微調整(fine-tuning)」という手法について。言葉とは裏腹に、「微」どころではなく、ガッツリ調整する。外れ値を除外するとかいうレベルではなく、何十乗も桁が違うものが、巧妙に打ち消し合えるようにチューニングする。

物理学者は、極端に大きな数字や小さな数字を嫌う。そのため、観測結果と理論の数字がかけ離れているとき、両者を適合させるために、モデルのパラメータを精密に調整する。この調整を非常に精密に行っているので、fine-tuning と呼んでいる(※2)。

でもそれって、不自然じゃないか?

その通り。物理学では、「自然」という特別な概念が登場してくる。私たちが考える、そのままの、という意味ではなく、「微調整(fine-tuning)していない」ものを「自然」と呼ぶ。

この「自然さ」という考えが厄介だ。

もし、パラメータを微調整をしないと、宇宙は、いま私たちが生きているような自然な状態にはならなかったという。だが、パラメータを微調整をしたものを物理学では「自然ではない」と呼ぶのである。

「美」が物理学を迷わせる

同様に、「美」も厄介だ。

物理学者が理論の素晴らしさを伝える際、必ずと言っていいほど「美」を強調する。この法則は美しいと。

ノーベル物理学賞を受賞したポール・ディラックは、「物理法則は数学的に美しくあるべきだ」という行動指針を打ち立てた。量子力学に絶大な貢献をしたヴェルナー・ハイゼンベルクはこう述べる。

もし自然が、素晴らしく単純で美しい数学的形式へと私たちを導くなら、そのような形式は「真」であり、自然の本質の一つを明らかにしていると考えざるを得ない

フェルミ国立研究所のダン・フーパーは、こう書く。

それでも、自然が超対称的に作られているという期待にストップをかける効果は無い。物理学者の多くにとって、超対称性はあまりにも美しく、あまりにもエレガントなので、私たちの宇宙の一部でないはずがないのだ。

「自然法則は美しい」と信じたいのは分かる。だが、美しいからといって、それが科学的に正しいかどうかは別だ。

新しい理論がどれくらい見込みがあるかを検証するとき、通常であれば、実験や観測で実証する可能性を考える。だが、理論物理学では、設備や予算の関係上、おいそれと簡単に実験できない。

時間の問題もある。ニュートリノの予測から検出まで25年、ヒッグス粒子の確認には50年、重力波の直接検出には100年かかった。いまや、新しい自然法則を検証するには、ひとりの科学者の人生には収まりきれないほど長い年月を要することだってありうる。

そのため、物理学者は、美しさ、自然さ、エレガントさを手がかりにして、新しい理論の見込みを検討する。この検討は、数学的にも「テクニカルな自然さ(technical naturalness)」として定式化されているくらいだという。

美しさ、自然さ、エレガントさ……それって主観的な基準ではないの? と著者はツッコミを入れる。客観的であるべし、という科学者の義務を恐ろしく逸脱しているのではないか、と危惧する。

そしてついには、「理論物理学者がみな、自分たちの非科学的な手法を認めたくなくて、集団的幻想に陥っているのではないか」とまで言い出す。

科学と技術は軌を一にして進む

どうなんだろう?

本書で解説される超対称性やヒッグス粒子の説明はかなり高度だが、それでも、今までのやり方で説明に行き詰まっていることは分かる。一方、多元宇宙論やループ量子重力理論など、様々な説明が生み出されている。

これは、物理学が豊かな証拠だと考える。

100年未来から振り返ると、いまは過渡期の一種であり、様々な理論が生まれては消えていく状態なのだ。自分の研究キャリアの間で、ブレイクスルーが起きていないからといって、物理学に携わる人々を科学でないと断定するのは尚早ではないか、と思う。他の学問領域を参考に、いまの物理学の営みを見直すということだってできる。

たとえば、何十桁も桁が違うパラメータの微調整は、そもそも当てはめるスケールが違う別モノを、同じように比較しようとしているからではないか? という問題には、経済学が参考になるかもしれない。

経済学では、同じ人の営みを、わざわざ「ミクロ」と「マクロ」に分けている。その理由は、それぞれで説明しようとしているものが、互いにうまく当てはまらないからだ。そのため、前提を変えて棲み分けを行っている。

また、テクノロジーの進展という観点から眺めると、もう少し長い目で見ても良いのではないか。いまある実験装置で観測できる範囲には限界がある。10億回の陽子衝突の100個しか保存できないのは、別に科学者の怠慢だからではなく、今の技術ではそれが限界だからだ。

たとえば「冥王星の写真の変遷」を眺めると、1996年のドット絵みたいな冥王星が、2015年には地表の浸食までがハッキリと見えるようになっている。これは観測技術が進んだからだ。同様に、量子の観測技術が進展し、LHCが時代遅れになる頃には、有効なデータが大量に得られるだろう。

科学は技術と軌を一にして進むものだから。


※1 Steinar Stapnes 2007 "Detector challenges at the LHC"  Nature 448:290–296
https://www.nature.com/articles/nature06078

※2 Wikipedia:fine-tuning
https://en.wikipedia.org/wiki/Fine-tuning

wikipedia:階層性問題
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8E%E5%B1%A4%E6%80%A7%E5%95%8F%E9%A1%8C

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ピンチョン『ブリーディング・エッジ』を読むという異様な体験をした

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年6月27日


ピンチョンの没入型小説。

相変わらず異様だ。めり込むように読む。どれだけ異様かというと、主な登場人物を見ると分かる。主役はマキシーン・ターノウ。

マキシーン・ターノウ ティレム・アンド・ネレイム調査会社の詐欺調査のエージェント。ホルスト・レフラーの「準元妻」。子どもはジギーとオーティス。アッパーウェストサイド在住。ベレッタを愛用。ユダヤ人。
ヴァーヴァ ジャスティンの妻。足元は基本の黒のスパイクヒールでキメている。ポモナ大卒、マイナードットコムで成功。娘はフィオーナで、クーゲルリッツに在籍。
ルーカス ジャスティンのビジネスパートナー。ディープウェブを探索する3Dバーチャルアニメ「ディープアーチャー(Departure/出発)」をジャスティンと一緒に開発。AKIRAのネオ東京、攻殻機動隊、メタルギアソリッドの影響が強く出ている。お気に入りのTシャツはDEFCONの「FBIみっけた(I spotted the fed!)」
デイトーナ・ロラン マキシーンの会社の受付。
ショーン 禅クリニックを経営。マキシーンのセラピスト。臨済宗の公案問答をする。サーファー。
アーニーとエレイン マキシーンの両親。オペラ大好き。
ブルックとアヴラム・「アヴィ」・デシュラー ブルックはマキシーンの妹。仲は微妙。アヴィはブルックの夫。イスラエルから到着。一年間キブツで暮らしてた。ハッシュスリンガーズはアヴィにオファーを出す。ウィンダストはアヴィに興味がある。Tシャツのロゴは「ALL YOUR BASE ARE BELONG TO US」
エマ・レヴィン ジギーのクラヴマガ(近接格闘術)の先生。恋人はナフタリ(元モサド)。
レッジ・デスパード ドキュメンタリー映画の制作者。ビデオ撮影を通じて交友関係が広い。コンピュータセキュリティ会社のハッシュスリンガーズに雇われている。マキシーンに助けを求める。エリックと一緒に、ハッシュスリンガーズのとんでもない不正を見つけてしまう
エリック・アウトフィールド コンピュータオタク。ハッキングが得意。足フェチ。レッグに雇われている。ロウワー・イースト・アベニューのワンルームに住む。Tシャツのロゴ「真のギーグはコマンドプロンプトを使う」。使っているマグカップには「CSS IS AWSOME」がプリントされている。
ハイディ・コズマック 高校時代からのマキシーンの親友。ポップカルチャーの教授。香水はプワゾン。
エヴァン・スチューベル ハイディの元婚約者。
ドリスコル・パジェット hwgaahwgh.comのWebグラフィックデザイナー。ウォッカスクリプトというバーで時々ボーカルをしている。
ホルスト・レフラー マキシーンとフレンドリーに分かれた元旦那。最近、世界貿易センタービルの百何階かを転貸しはじめた。
ゲイブリエル・アイス ドットコム億万長者で、ハッシュスリンガーズの最高経営責任者(CEO)。マキシーンはその金融取引に疑いを抱く。妻はタリス、子どもはケネディ。ディープ・アーチャーの買収をもくろむ。
タリス アイスの妻。ハッシュスリンガーズの代表。
ニコラス・ウィンダスト 五十歳ぐらい。ポリエステルの割合の高そうなトレンチコート。レイバンのパチもんのサングラス。あるいは、パープル・ドランク色のTシャツと鮫革のスポーツジャケット。政府と民間の回転ドアを出たり入ったりするネオリベ。十一番街のアパートに住む。
シオマラ ウインダストの最初の妻。グアテマラ国籍。
ドッティ ウインダストの2番目の妻。
マーチ・ケレハー タリスの母。マキシーンの友人でありご近所さん。ブロガー。コロンバス・アベニューとアムステルダム・アベニューの間に住む。かかとにサウンドチップが埋め込まれ、歩くたびに『ジョーズ』(1975)のオープニング曲が流れてくるスリッパを愛用。ブログ執筆は、キーライム色のiBookを使う。
シド・ケレハー 運び屋。優しそうなおじさん風情で、短めに刈り込んだ軍人カットにプレジデンテのロングネック。
フィリップス「ヴィップ」エパデュー ザッパー詐欺の一味。シェイとブルーノは友達。
フェリークス・ボインゴー 10代のカナダ人。アンチ・ザッパーのプログラマ。モントリオールとニューヨークを行ったり来たり。レスターのパートナー。派手なオレンジ系のダブルニットのスーツ。
ロックウェル「ロッキー」スレージャット ベンチャーキャピタリスト。アイスの新興企業に投資している。
コーネリア ロッキーの「WASP」妻。買い物依存症。
レスター・トレイプス hwgaahwgh.comの元従業員。アイスのマネーロンダリングから横領している。
イゴール・ダシュコフ 表向きはソビエト式のアイスクリームや違法飽和脂肪バターを扱う。スペツナズの顔役。ミーシャとグリーシャは手下。ロシアの高級リムジンZiL-41047に乗る。80歳。ブレジネフみたいな顔。『霧につつまれたハリネズミ』(1975)が好き。
チャンドラー・プラット 金融業界の大物フィクサー。ミッドタウンの六番街に法律事務所を構える。
コンクリング・スピードウェル 犬レベルの嗅覚を持つ「フリーランスの鼻のプロ」。ネイザー・ガンの発明者。ヒトラーの匂いを追い求めている。ハイディと付き合っている。
チャーズ・ラーディ 光ファイバーのセールスマン。タリスのボーイフレンド。アイスが雇ったタリスのお目付け役。ペニスが本体で、それに東テキサス人が付いている。
カーマイン・ノッツォーリ 第20管区の刑事。連邦犯罪者データベースのアクセス権限を持つイタリア男。アロハシャツが短すぎて腰の拳銃が微妙に見え隠れしている。マキシーンのことを助けてくれる。ハイディと付き合っている。
マーヴィン ピストバイク便のメッセンジャー。ドレッドヘア。オレンジのジャケットにブルーのカーゴパンツ。メッセンジャーバックもオレンジ。kozmo.comのロゴ。USBフラッシュメモリ、VHSテープ、彼が届けるブツは意外なヒントをマキシーンにもたらす。
ランディ 小柄でずんぐり、でも武器を持っているタイプ。赤い野球帽の後ろの穴からポニーテールが飛び出している。アイスの屋敷でマキシーンと一緒にワインを盗む。
ジャスティン シリコンバレー出身のプログラマー。ルーカスとはスタンフォード大学で出会った。
ロイド・スラッブウェル CIAの監査局。ワシントンDC勤務。コーネリアのいとこ。
イアン・ロングスプーン ベンチャーキャピタルの投資家。ジンジャーエールをチェイサーにして、フェルネット・ブランカを飲む。
エブラー・コーエン イカサマ臭い確定給付型退職金プランのやつ。
ユーリ 陽気なスポーツマンタイプ。1万5000千ワット出力の発電機を牽引するハマーを運転。

断っておくが、実際に出てくるのは100人を超える。ページをめくるたび新キャラが増殖し、好き勝手にしゃべりまくり、動き回る。ディープ・ウェブを徘徊する3Dインタフェース、戦闘少女サブカルチャーのスパイクヒール、バスケットボールの先祖となるマヤ文明の儀式、ヒトラーが愛用したアフターシェーブローション、誘拐した子どもをスパイに育てる施設、LSAが起動する創造性、「私を見ろ」と話しかけるペニス……ギャグ、挿話、エピソードトーク、戯れ歌、いいまつがい、百科全書的なネタの1割しか分からなくても、5分おきに笑わせられる。次から次へと奔流のように翻弄されながら、訳注や GoogleMap を頼りにストーリーをつかみとる。

主人公はマキシーン、おせっかい母ちゃんだ。小学児童2人を育て、円満離婚の<元>夫と付き合い、ベレッタをバッグに、詐欺調査のエキスパートとして働く。主役も脇役もキャラが入り混じる『逆光』『ヴァインランド』とは異なり、マキシーンだけ見てればいい。彼女が、次から次へと首をツッコみ、マンハッタンを駆け回り、事件と事故の目撃者となる様を見てればいい。

舞台は2001年のニューヨーク。春分の日から始まるから、同時多発テロの半年前。00年のドットコム・バブルが弾けた直後で、Google は IPO前、マイクロソフトが「悪の帝国」と呼ばれていた時代だ(懐かし―!)。会計検査士の資格を剥奪されたものの、不正を見る目は超一流のマキシーン。ひょっこり見つけた変なお金の流れから、アメリカの闇にうっかり踏み込んでゆく。

対する敵役は大金持ちのゲイブリエル・アイス。バブル崩壊に乗じて、膨大な量の光ファイバーケーブルとサーバを買占め、検索エンジン(Yahoo! だ!!)のクロールから隠れた深淵「ディープ・ウェブ」に進出して、巨万の利益を吸い上げる。秘匿していた情報を嗅ぎまわるマキシーンは邪魔っちゃ邪魔なんだけど、家族や会社も含めて入り組んだ妙な関係になってしまっているのが笑える。

プロットの奔流も様々で、後期資本主義の構造的な悪を糾弾する流れもあるし、インターネット監視社会を幻視するハードボイルドな光景も見られる。バーチャル・リアリティが、ミート・リアリティを浸食する怪談チックな演出も入っているし、洗脳装置としてのテレビジョンが定期的に浮上してきたり、やってることはドロドロなのに、妙にスタイリッシュな不倫とか、ワケが分からないよ(でも楽し―)。

デフォルメされ戯画化されたキャラ造形や、マキシーン完全ご都合主義的なストーリー展開、陰謀&パラノイア小説だと思っていたら、完璧な家族小説だったとか、臨界突破した伏線のせいで2回以上読む必要が出てくる物語構造など、規格外の異様な小説となっているが、ピンチョンならば平常運転やね。

これがピンチョンの最新作『ブリーディング・エッジ』の紹介だ。

ん? わけ分からんって?

それで合ってる。ピンチョンの小説を読むということは、説明できない体験をすることだから。

ピンチョンの小説体験に代わる何かを説明するのは難しい。ちょっと見てみな、ピンチョンの感想を語る人は、ピンチョンの他の作品を引き合いにあれこれ述べている。他の何かと比べられない、唯一無二の存在なのだ。ドストエフスキーのおしゃべりの響き合いと、千夜一夜のてんこ盛りエピソードと、白鯨の脱線と引用が交じり合い、足して割らない濃密な物語に揉みしだかれ、惑い、迷い、ビクつき、笑い、憤る。

そういう、異様な体験をした。

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BRUTUS「大人の勉強案内」が良かった

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年7月4日


なぜ勉強するのか?

わたしの場合、知りたいことを知ろうとしているだけで、「勉強している」という意識は少ない。それを知るのに英語が必要だから学んでいるだけだし、より深く知るために背景知識に当たっているだけ。

だから、より効率の良い学習法や、学びなおしが必要なジャンルを紹介されると、嬉しい。そんなわたしにピッタリの特集を、BRUTUSでやっていたのでご紹介。

好きなものを好きなだけ学ぶ(読書猿)

学ぶための動機付けから始まり、時間管理、資料の探し方、暗記術、継続して学ぶヒントなど、「独りで学ぶ」ためのあらゆる技法が詰まった『独学大全』(レビュー)。その著者の読書猿さんのインタビューが紹介されている。

『独学大全』は700ページを超える辞書並みのぶ厚い本で、その形状から「鈍器本」と呼ばれている。あまりのぶ厚さに敬遠している人は、この記事を読むといいかも。この記事そのものが、『独学大全』の良いイントロダクションとなっているから。

例えば、スキミングの技術。本は全部ちゃんと読まなくてもいいという。一冊の本、一つの文章から、必要な箇所だけを掬いとって(スキミングして)読む方法が紹介されている。だから、この記事を手がかりに、『独学大全』そのものをスキミングしてもいいわけだ(著者自身も推奨している)。

あるいは、「独学は挫折する」と言い切っているところ。「僕も毎日どころか10分ごとに挫折してますから」と苦笑ぎみに答えている。大事なのは、挫折も織り込んだ上で、失敗からの立ち直りを早くすること。今はダメでも、「未来の自分は今より賢い」という姿勢を保ち続けること。これは勇気づけられる。

『独学大全』の紹介だけにとどまらず、彼自身がやってきた失敗談も交えつつ、最終的には「なぜ学ぶのか」への実質的な答えが記されている。全面同意するが、ここでは書かないので、BRUTUSでチェックしてほしい。

対話で学びが深まる(山本貴光・吉川浩満)

そうだよなーと最近、実感しているのがこれ。一人で机に向かうだけでは限界がある。知ったことを誰かに話し、フィードバックを受けることで、さらに広げ・深める。

文筆家の山本貴光さんと吉川浩満のお二人の対談が紹介されているが、この記事がそのまま学びを深めるヒントとなっている。お二人は、古くからの友人であり、共著者であり、共に学ぶ仲間でもあるという。最近では、Youtubeで対談しつつ、まとまったものを著書にして出すというスタイルで活動している。

この記事では、お二人が対談しながら、「ドゥルーズ&ガタリ」や「荒川修作&マドリン・ギンズ」を例に、対談しながら学びを深めるエピソードが紹介されている。

「結論」が決まってるなら、そのまま書けばいい。だが、そこへ至るまでの紆余曲折やプロセス自体が重要な場合が出てくる。これを対談形式で進めることで、想定される反論を吟味したり、議論を修正することで、よりブラッシュアップすることができる。

例えば、共著である『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』がそうだ。古代ローマの賢人・エピクテトスの教えを、お二人で読み解いてゆく。生きていく上で、悩ましいこと、煩わしいことが出てくる。どうすれば良いか? 結論を言うだけなら簡単だ。

コントロールできることと、コントロールできないことに分ける。そして、コントロールできないことには関心を持たない。

そんなことは分かっている。それができたら苦労はしない。じゃぁ、どうすればこの結論を活かせるか、が問題になる。本書では、新任の年下の女上司に対するモヤモヤや、電車遅延に怒鳴り込むオッサンを例に、対話しながら領域展開していく(レビュー)。

図書館司書から学ぶ検索術(小林昌樹)

図書館のレファレンスサービスをご存知だろうか。知りたいことはあるけれど、それをどうやって調べれば良いかが分からない場合、調べもののプロである司書が手助けしてくれるサービスだ。

ググればよい、という人。じゃぁ、「最近の若者はダメだというグチは、どれくらい古くからあるか?」という疑問をググってみるといい。エジプトの壁画など怪しげなネタを取り除くと、プラトン『国家』に行き着く。これ、わたしが書いた[この記事]を出所としている。そしてこの記事は、品川図書館のレファレンスサービスで調べてもらったものだ。

BRUTUSでは、図書館情報学の小林昌樹さんが、レファレンスサービスを紹介している。司書の目から見ると、ネットでは探せない情報が確実に2つあるという。

一つは、ネット普及以前の情報。1995年以前の事柄全般は、ネットには無い。あったとしても、それは何か(たいていは書籍)を元にした情報となる。もう一つは、Googleが情報収集していないデータベースの類いになる。そうした情報は、国会図書館のリサーチ・ナビから分野ごとのデータベースに列挙されている。

ネットは便利だが、調べ方によってノイズだらけになったり、エコーチェンバーになることもある。司書がネットをどのように使っているかは、『プロ司書の検索術』がよさそう。

他にも、松岡正剛編集『情報の歴史21』の紹介や、図鑑の図鑑、地球外生命体を探求する関根康人さんの話、Youtube大学、Wikipediaの歩き方など、もう一度学びたい人のための役に立ちそうな情報が集められている。優れた独学人を探す、「人のカタログ」としても有用なり。これ、シリーズ化してほしいなぁ……

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中学のとき国語でやった『最後の授業』は、中年になって世界史を学んだら解釈が変わった

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年7月11日


中学のとき、国語の授業で、アルフォンス・ドーデ『最後の授業』をやった。

フランス領アルザス地方に住む少年の目を通して、ドイツに占領される悲哀を描いた短編だ。明日からフランス語は禁止され、ドイツ語で教わることになる。だから今日は、フランス語の最後の授業なのだ、という話だ。

先生はフランス語の素晴らしさを伝えながら、国語を守ることの大切さを説く。ずっと勉強をさぼっていた少年は恥じ入るが、やがて授業の終わりを告げる鐘が鳴る。先生は蒼白になりながらも、黒板に大きく、「フランスばんざい」と書く……

少年と同じくらいの年頃だったわたしは、いたく感動したことを覚えている。特に、先生の語る「ある民族が奴隷となっても、国語を守っている限り、牢獄のカギを握っているようなものだ」という一節は、長く記憶に残っている。

ところが、『詳説世界史研究』を読んだら、印象が変わった。

物語の舞台となったアルザス地方は、もともと神聖ローマ帝国の領土であり、言語的にはドイツ語圏に属していた。石炭資源が豊富なこともあり、フランスの侵略先となり、編入と割譲の歴史をたどっている。

アルザス地方における歴史的展開をまとめると、こうなる

  1. 中世以降、ハプスブルク領(神聖ローマ帝国領)によるゲルマン語派の言語が浸透(ドイツ化)
  2. フランス領となる(1648年ウェストファリア条約)。フランス革命を経て生活様式がフランス化
  3. ドイツ帝国領となる(1871年普仏戦争)。アルザス住民に国籍選択条項が適用され、フランス国籍選択者は退去(★)
  4. ドーデ『最後の授業』を発表(1873)

アルザス地方は、ドイツ圏とフランス圏の中間にあり、一種の緩衝地帯として成り立っていた。そのため、状況によってドイツ領となったり、フランス領となったりしていたのだ。

問題は3.★だ。

普仏戦争の結果、アルザス地方はドイツ領となる。住民は国籍の選択を迫られ、フランス国籍を選択した場合、退去することとなる。『最後の授業』をするアメル先生がまさにそうだ。だが、実際にフランス国籍を選択した人は、住民の9%だったという。

つまり、ほとんどの住民は、ドイツ国籍を選んだことになる。考えてみると、この少年、フランス語はダメで、まともに読んだり話したりできないといった一節があった。じゃぁ何語を話していたんだ? ということになる。作中では言及されていないが、少年の名前―――フランツ―――が全てを物語っているように思える。

ドーデが『最後の授業』を書いたのは理解できる。彼はフランスのブルジョア階級であり、愛国心を持っていたのだろう。普仏戦争の結果によるアルザス地方の割譲に危機感を抱き、書いたのだろう。

確かに、国語を守ることの大切さはその通りだ。同じフランス人である、エミール・シオランは、「祖国とは、国語だ」と言った。私たちは、ある「国」に住むのではなく、ある「国語」に住むのだというのだ。

だが、この物語はむしろ、その「国語」がイデオロギーによって歪められる好例として読んだ方がよいかもしれぬ。ドーデは彼なりの愛国心に従ってこの物語を書いた。だが、この物語が海を渡り、時を超え、「国語」の教科書に採択されることによって、美談は、欺瞞に変わったのだ。

『最後の授業』は、1985年を最後に、教科書から姿を消している。

 

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ピンチョン『ブリーディング・エッジ』読書会が楽しすぎて時が溶けた

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年7月18日


ありのまま、起こったことを話すと、読書会が始まったかと思ったら、いつのまにか終わってた。何を言ってるのか分からないかもしれないが、私も何が起きたのか分からない。

トマス・ピンチョンの最新作『ブリーディング・エッジ』のオンライン読書会に参加したら、時間が溶けた。みなさんのオリジナルな斬り口、読者目線、ネタ、面白解釈、論争発火点を次々と聞いているうちに、あっという間に4時間が過ぎた。

ウェブで死者と出会う意味

もちろんピンチョンだから、どこをどう料理しても面白い。

百科全書な小説で、神話や歴史から始まって文学、数学、物理学、暴力と陰謀とパラノイア、都市伝説と幻想怪奇、洒落と地口、メタフィクション、セルフパロディなど、いくらでも、どれだけでも話せる。

たとえば誰かが「ここ良いよねー」と言うと、皆でふむふむと読み直しながら、あーでもない、こーでもないと同意したりツッコんだり。オンラインだから各人の画面で見ているけれど、これ、同じ画面をスクリーンに映しながら検索結果や Youtube や GoogleMap を眺めながら話したら、無限に語り合える気がする。

しかも今回、『ブリーディング・エッジ』は2000年代のTech系(しかもウェイ系)を俎上に乗せているから、IT関連の皆さんからすると大好物だったかもしれぬ。

たとえば、ウェブで死者と出会うこと。

あの時代は、本人とアカウントが紐づいていた。匿名性を盾にネット人格を作る人がいる一方で、プロフィールに住所や連絡先をカジュアルに書く人も少なからずいた。だから、ネットで本人だといえば、向こう側に本人がいると考えるのが自然だった。

では、ネットの海の深~いところで、死んだはずの人が接触してきたら、どう考える? 物語の後半、主人公と深~い仲になったある男と話し合うところがある。そいつしか分からないような情報を持っているし、いかにも彼なら言いそうなセリフを吐く。

いまの感覚なら、なりすましやbotを疑う。

あるいは、パラノイア的に、彼女の偏執が生み出した妄想に過ぎないと考えることができる。一方で、ロマンティックなものとして読み取った方もいた。彼の魂じみたものがいっときとどまる場所として、ディープ・ウェブがあると考えると美談になる。私はここ、惑星ソラリスの「海」的なものを想起していたが、同じことを考えてる方がいて安心した。

パラノイア or ロマンティックと、どちらでも両義的に読めるように仕掛けてあるのが楽しい。

この「ディープ・ウェブ」、2000年代に物議をかもした「セカンドライフ」をモデルにしている(ような気がする)。ネット最大(?)という噂の仮想世界で、今でもサーバが生きてて驚いた。

ピンチョン・マゾヒズム度は低め

死者の痕跡を探すところで、昔の、フィルムノワールやスパイものの型を踏襲している、という指摘が鋭い。

シニカルな男の主人公、謎めいた女、冷酷な悪役が出てくる犯罪映画だが、その男女を逆転させている。

絶妙なタイミングで救いの手が差し伸べられたり、ドンピシャのタイミングで危機一髪を切り抜けるなど、昔のスパイ映画まんまなのだが、ピンチョンはこれを意図的にオーバーライドしているというのだ(確かにボンドガールを逆転させたような役回りのトミー・リー・ジョーンズみたいなキャラが出てくる……)。

ピンチョン「らしからぬ」物語構造への指摘も鋭かった。

ピンチョンといえば、ページをめくるたびに新しいキャラが登場し、今までの脈絡と無関係のエピソードが際限なく連なり、全く違う空間と時間で物語が展開されるなど、読者の鼻先を掴んで振り回すのが十八番だ(ピンチョン・マゾヒズムと呼ばれていたが、激しく同意するwww)。

しかし、『ブリーディング・エッジ』は主人公のマキシーンだけにライトが当たっていて、読み手は彼女だけを追いかけていれば筋が追えるようになっている。

新キャラがどんどん出てくるのは通常運転だけど、新キャラ登場→(マキシーン脳内の)回想シーン→新キャラとマキシーンの絡み→退場というシークエンスをきっちり守っており、分かりやすい。「これ誰?」にならずに読めるのは珍しい。さらに、現代のアメリカ合衆国を舞台にしているという点でも、世界に入りやすいと言える。

ピンチョン「にしては」読みやすいのも手伝って、本書は、ピンチョンの入門書としても良いかも、という意見もあった。確かにピンチョン未読の方に『メイソン&ディクソン』や『逆光』はお薦めできないなぁ……

ピンチョンの、ピンチョンによる、ピンチョンのためのセルフパロディ

ずっと引っ掛ってた謎に決着がついたのも良かった。

マキシーン、とある男に抱かれるのだが、あれほどシニカルでロジカルで辛口な彼女が、なぜ(分かったうえで)ノコノコと男の部屋に行くのが、どうしても理解できなかった。

だって、第一印象最悪だぜ? さらに某所で手に入れた情報によると、その男、南米で色々と後ろ暗いことをしていたらしく、(かつ既婚で)どう見てもお近づきにならないほうが良い経歴なのに、なぜ?

猛者たちに問うてみたところ、意外と惹かれている描写があったよとか、最初は嫌いなキャラが好きになるってマンガとかでよくあるよとか意見がもらえる。あるある、「こいつ、おもしれー女」とか、少女漫画に典型のパターンやね。

なかでもユニークなのは、恋愛モノの典型パターンを踏んだ上で、それをパロってぃるのではないか、という指摘だ。なるほど! これコミックとして軽く読んでもらうため、と考えると、その後の〇〇〇な展開が楽になってくる。物語を重くさせないための仕掛けなのかなぁ……

他にも、死ぬ死ぬフラグが立ちまくっているのに死なないキャラとか、(勃起するとミサイルが落ちてくるから)尿意が起きると情報が飛びこんでくるとか、現実と幻想の境目が分からなくなったとき、現実との錨となるのが家族といった、さまざまな視点を教えてもらう。

いわれてみると、確かにそう読める。同じ小説を読んでたのに、そう取るのか!? と何度も驚かされる。笑うポイントが微妙にずれてたり、ピッタリ合致してたり、いろいろあって楽しい。

読者の数だけ物語を成立させてみせる神技を、あらためて知らされる。たいへん楽しい読書会でした! 主催のふくろうさん、参加された皆さん、ありがとうございました。コロナ禍が落ち着いたら(これも常套句になりつつある)、酒盛りしながら本談義をしたいですね。

以下自分メモ。

ピンチョンwiki

https://pynchonwiki.com/

重力の虹wiki

https://scrapbox.io/GravitysRainbow/

ふくろうさんの『重力の虹』レビューが狂ってて好き。

https://owlman.hateblo.jp/entry/2019/12/30/192042

山形浩生さんの「トマス・ピンチョン東京行」、お手本にしたいくらい最高の嘘。

https://cruel.org/talkingheads/pynchon.html



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単純化した構造で歴史を語る危うさ『グローバル・ヒストリー』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年7月25日


「開国」という言葉に違和感がある。

なぜなら、江戸時代は鎖国をしていたというが、オランダや中国、朝鮮や琉球、アイヌと交易を行っていたからだ。近代化に向けた啓蒙のニュアンスを感じるからだ。

確かに、鎖国方針の停止は大きな転換点だ。しかし、普通にあった西洋以外との交易を無視して、欧米との交易開始を、「国を開く」と強調することにもやっとしている。

ドイツの歴史学者・ゼバスティアン・コンラートによると、この「開国」というレトリックは、日本だけでなく、中国、朝鮮にも適用されているという。西洋以外とのつながりを無視し、欧米との関係の開始を際立たせるために用いられる表現になる。

コンラートは同様に、「国民」「革命」「社会」といった概念に注意を向ける。あまりに馴染んでしまっているので普通に見えるが、これらは、ヨーロッパの局地的な経験を、普遍的な理論として他の地域に押し付けるための用語になるという。

ヨーロッパ中心史観からの脱却

19世紀からの西洋のヘゲモニーの圧力の下で、ヨーロッパ中心史観が歴史記述を覆っているという。ウィリアム・マクニール『西洋の台頭』に代表されるように、ヨーロッパが独自に達成した成果が、周辺へと伝播する一方通行の世界史だというのだ。

この指摘は的を射ている。私が読んだのはマクニールの『世界史』だが、同じスタンスだったからだ。帝国主義を現金収支に換算したうえで、コスト/メリットが割に合わなかった(だから収奪という指摘は当たらない)という自己正当化は、ヨーロッパ中心史観による世界史の語り直しと言ってもいいだろう。

しかし、ヨーロッパが「ひとりでに」発展して近代社会が形成されたわけではなく、非ヨーロッパ世界との相互作用が決定的な役割を果たしているという。インドの歴史家のサンジェイ・スプラマニヤムはこう述べる。

近代とは、歴史的にグローバルに絡み合った現象であって、発生源から広がるウイルスのようなものではない。近代は、孤立していた社会を接続させる一連の歴史的プロセスのなかに位置づけられ、広範に及ぶさまざまな現象のなかに、その根を求めなければならない(※1)。

例えば、近代化の代名詞ともなっている「人権」という概念は、フランス革命を契機にヨーロッパから世界中に広まったと喧伝されているが、同時代のハイチでは権利の言説として普遍化されていたという(※2)。

「近代化」という用語それ自体も、西洋のヘゲモニーにあるといえる。これに取って代わる共通的な言葉が無いため、これからも使い続けられるだろう。だが、少なくともヨーロッパ中心的な価値観をまとっていることを自覚しながら使いたい。

ナショナル・ヒストリーの限界

一方で、近年の歴史学では、ナショナル・ヒストリーからの脱却も目指されている。

ナショナル・ヒストリーとは日本史、フランス史、ベトナム史といった国民史のことで、一国内だけで歴史的変化を説明するアプローチだ。

これは、教育のプロセスの中で、ナショナル・アイデンティティを形成し、国民国家を建設するプロジェクトとしては有効だったかもしれない。だが、イデオロギーや政治・経済活動、ウェブを基盤とするコミュニケーションの広がりが地球規模になっているいま、一国の歴史だけで自国を語るのは、現実的ではないだろう。

これを、無理やり統一的に語ろうとすると、羽田正『新しい世界史へ』で紹介されているような、奇妙な歴史記述になる。たとえば、中国における「漢民族による中華の統一と分裂」というStory(≠History)や、フランスにおける「自国史+植民地史」という「世界史」ができあがる。

現在、私たちの目に映る国境線で分けられた中の「国としてのまとまり」なんてものは、かなり人工的なもので、場所によっては恣意的とすら言っていい。言語や文化、民族と宗教、生物学的特徴、ライフスタイルから価値観といった、様々な重なりの結果にすぎない。

グローバル・ヒストリーとは何か

ヨーロッパ中心史観から脱却し、ナショナル・ヒストリーの限界を乗り越えるため、グローバル・ヒストリーが提案されている。

グローバル・ヒストリーは、研究対象ではなく、固有の視点だという。

例えば、グローバル・ヒストリーは、ある地域に着目して、その内因的な変化を追いかけたり、異なる地域を比較して、相似や異同を明らかにする歴史叙述ではない。代わりに、次のように述べている。

個人や社会が、他の個人や社会と相互作用する仕方にとりわけ注意をはらう。その結果、領域性、地政学、循環、ネットワークといった空間的メタファーが、発展、ずれ、後進性といった時間の語彙にとって代わる傾向がある(※3)。

この傾向は、必然的に、近代化を目的とした歴史叙述を否定するという。つまり、社会的な変化の方向は決まっており、古い伝統から、近代社会へ発展していく……といった観念を批判する。世界の全ては、ヨーロッパの歴史通りに経験していくという考えの否定である。

その実例は、コンラート自身が示している。

それは、「記憶をめぐる戦争」と名づけられた、日本の歴史教科書の問題だ(※4)。コンラートは1990年代の教科書の記述内容についての議論を俎上に、日本、中国、韓国と異なる場所で共時的に起きた構造を明らかにする。

冷戦の終焉に伴い、政治的・経済的な変容の中で、韓国や中国の犠牲者の声が日本で耳を傾けられるようになり、新しい政治的連携が国境を超えて生まれたという。これは戦争記憶の回帰ではなく、地政学的構造によって条件づけられた、新しいアジアの公共圏の到来だと示している。

ファシズムのグローバル・ヒストリー

一方で、ファシズムの歴史化を、グローバル・ヒストリーから試みる。

これまでの歴史家は、ファシズムを定義しようとし、カリスマ的リーダーや、大衆動員、あるいは超国家主義イデオロギーといった用語のリストを作り上げる。

だが、こうした特徴は、ヨーロッパが経験したファシズムに由来している。そのため、日本やアルゼンチンなどの事例を見ることを困難にしているという(できたとしても、ヨーロッパの劣化コピーになる)。

実際のところ、ドイツ国家社会主義(ナチズム)でさえ、イタリア・ファシズムによって据えられたモデルにしたがっているわけでもないし、その逆でもない。

だが、グローバル・ヒストリーからのアプローチの場合、ドイツやイタリアのモデルを踏襲して他の地域でファシズムが生まれたと考えるのではなく、ヨーロッパのモデルをどの程度着想の源泉としたかという観点から捉えなおすことができる。

その時代には、現代の歴史家が並べるファシズムの定義はなかった。当時の社会が共有していた情報の中で、各国政府は、自由主義と共産主義の間で第三の道を模索していた。こうした状況を踏まえ、物資や人民を動員するための新しい組織形態へと至らしめたものは何か……そこに焦点を当てて体系化することで、ファシズムについてグローバルな統合を図ることができるというのだ。

ビッグ・ヒストリーとの違い

グローバルな視点で歴史を捉えなおすなら、ジャレド・ダイアモンドやデヴィッド・クリスチャンの仕事が思い浮かぶ。

彼らの世界史は、戦争や革命など、人が関与する個々の歴史的事象を分析しない。代わりに、人類の営みを数千年スケールで捉えなおし、大陸を塊とした巨視的なレベルで分析する。地質学や疫学、進化生物学を援用し、科学的手法で歴史を記述しなおそうとする。

例えば、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』なんて典型的だと思う。

「ヨーロッパがアメリカ大陸を侵攻できたのはなぜか?」という疑問に対し、武器や装備、文化や宗教、気質や独創性といったファクターから離れ、決定的な差異は地質学的なものだと指摘する。

すなわち、南北に広がるアメリカ大陸とは異なり、東西に広がるユーラシアの地塊では、気候的に似通った社会が数多く存在する。そのため、定住に必要な動植物がより速く伝播することになる。加えて家畜の伝播の副作用として、病原菌への耐性も培われていたというのだ。

これは、グローバル・ヒストリーではないのか?

コンラートは慎重に言葉を分ける。彼らの仕事は、ビッグ・ヒストリーまたはディープ・ヒストリーだというのだ。

もちろん、グローバル・ヒストリーは、ある世紀全体を描くような時間幅を持たせ、地理的に離れた地域で同時代に起こった共時性に着目した研究を行う。だが、そこで扱われているのは、個人や集団の「人」を視野に入れている。

一方で、ビッグ/ディープ・ヒストリーでは、人の役割は後ろに退き、歴史は匿名のマクロな力に動かされているイメージを伝える。地理や環境の力は絶大で、人の行為主体性や偶発性といったものは考慮されない。ダイアモンド曰く、「主題は歴史学であるが、アプローチ的には科学的手法」(※5)なのである。

コンラートは、こうした手法の危うさを指摘する。地理的な要素や環境条件は人の営為にとって重要だが、人の活動のすべてを決定するわけではないからだ。

ホロコーストは「人」の所業

これを考える事例として、ナチス・ドイツを挙げている。

ある短い時間枠にズームすると、特定の個人や集団の行為が浮上する。1933年のヴァイマル共和政や、1942年のヴァンゼー会議と、そこで検討されたユダヤ人の殺害のプロトコルが研究対象になる。そこでは、出席者の個々人の責任が問われることになるだろう。

この時間枠を広げると、特定の個人や集団は退き、より多くの匿名のファクターが登場する。19世紀以前からのドイツにおける反セム主義の役割や、ルターまで遡る権威主義的傾向が考慮に入ってくるというのだ。

空間的尺度についても同様だという。諸地域の学校の教師が、ユダヤ系の子どもたちをどのように扱ったか、その動機は何であったかに焦点を合わせた研究もある。ズームアウトすると、党エリートや官僚制内部の競合や社会制度の責任に焦点を当てることもできる。

コンラートは、こうした個々のアクターを退け、グローバルなファクターを特権化することに疑問を呈する。すなわち、ホロコーストがグローバルな諸力によって説明されうるなら、ナチスへの焦点がぼやけてしまわないか? という疑問である。

グローバル・ヒストリーの課題

この疑問は、グローバル・ヒストリーの課題となる。

時空間の尺度を広げることにより、起こったことが不可避であり、あたかも必然であったかのようにミスリードする危険性がある。そこでは個人や集団の役割が存在しないかのように描き出され、説明責任や罪の問題を外部化してしまう恐れが出てくる。

全てをグローバルで捉えようとすると、歴史の中から固有名詞が失われていく。十字軍を開始したのは誰か、太平天国の乱で苦しんだのは誰か、そしてヴァンゼー会議の議長は誰かといった「人」の行為主体性が失われることになる。

こうしたミスリードに陥らないためには、グローバルなファクターと、「人」の行為主体性とのバランスが重視されることになる。歴史を単純化した構造で語りたい誘惑は、常につきまとう。だが、その構造だけでは語ったことにはならない。なぜなら、歴史は人の営為であるのだから。

コンラート『グローバル・ヒストリー』は、歴史を語る、その語り方についての考察を深めてくれる。

※1  Hearing Voices: Vignettes of Early Modernity in South Asia, 1400-1750

※2  Laurent DUBOIS ,”Avengers of the New World: The Story of the Haitian Revolution” Harvard University Press,2009

※3  『グローバル・ヒストリー』 ゼバスティアン・コンラート、岩波書店 p.65

※4  Sebastian Conrad, Remembering Asia: History and Memory in Post-Cold War Japan

※5  『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド、草思社、上巻 p.46



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書けない悩み4人前『ライティングの哲学』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年8月1日


書けない。

最初の一行に呻吟し、次の段落で懊悩し、そこから先が続かない。あるいは、言葉が詰まって出てこない。「これじゃない」言葉ばかり並んでいる。支離滅裂の構成で、書いても書いても終わらない。

そんな悩みを抱えた4人が集まって、お互いの「書けない」病をさらけ出す。学者、文筆家、編集者と、書くことが仕事みたいな人なのに、書けない悩みを打ち明ける。

「書けない」ことへの生々しい告白の中で、まるで私のために誂えたような手法や、まさに今、自分が実践しているやり方が紹介されている。

書かずに書く

千葉雅也さんが喝破してたこれ、まさに私が今やっている

「ファイル」→「新規作成」で、新しい白いページを表示させ、そこに一行目から書き出す……なんて執筆は、しない。そんなことすると、白いワニが来る(by 江口寿史)。

書かずに書く、って禅問答みたいだけど、言い換えるなら、「書く」というプロセスが始まった時点で、既に書けている状態にするということ。

書きたいメモ―――読んだ本からの抜き書きだったり、その文をコアにして考えたこと、調べたことを、どんどん積んでいく。本書では様々なソフトが紹介されていたけれど、私はGoogleDocに箇条書きする。写真や音声ならGoogleKeepに放り込み、手書きの場合は「ほぼ日手帳」に決めている。

メモは定期的に見返して、くっつけたり変形したりする(削除・整理しないこと)。これは、ジェームズ・ヤングが『アイデアのつくり方』で喝破した通り、「アイディアとは、既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」のだから。

これにより、「ファイル」→「新規作成」をした後は、メモのアイデアの羅列をコピペすることからスタートする。素材が半煮えだったり、詳細化されすぎたりしててバランスは取れていないが、完全にゼロから書き始めることはしない。

極端な話、「書く」ことすらしないという手もある。瀬下翔太さんの実践例で、ツイキャスやDiscordで「しゃべる」のだ。ひとり語りで、自分の発言を読み上げ、気づいたことをあれこれしゃべってゆく。文字起こしはソフトウェアに任せればいい。ライブ配信、これは試してみよう。

制約を創造する

集めたアイデアを何で書くか?

ワードプロセッサ談義も面白い。文書を編集するソフトは沢山あるし、機能も豊富だ。フォントやマージンも好きに選べるし、注釈や段組みも自動でやってくれる。

しかし、山内朋樹さんによると、自由度が「低い」ほうが能率的になるという。

なんでも自由にできてしまうと、その自由の中で溺れることになる。文書とフォントの相性を考えるとキリがないし、ページレイアウトを弄っている間に、どんどん時間が経過してゆく。文書の中身ではなく形式を操作するのは沼だという。

そんな泥沼から抜け出すために、あえて制約を設ける。

中でも高評価だったのが、WorkFlowyなどアウトライナーだ。思いついたことをどんどん箇条書きして、掘り下げたり広げることで、文が伸びてゆく。枝が邪魔なら折りたたむことで骨子が見えてくる。

なるほど。私の場合、GoogleDoc のインデントで字下げすることでアウトラインを作っているが、せいぜい3段階くらいまで。しかも階層を上下させるのは簡単にはできないので、WorkFlowyは便利かも。

文を書くことをあきらめる

これは読書猿さんの言。これは刺さった。

まとまった何かが整然と出てくるはずがない。意味ある言葉が順番につむぎだされるほど、自分の頭は良くない。いったんそこまで、文を書くことをあきらめる。そしてそこから攻略していく。

たとえば、アウトライナーに文を書いていくと詰まる。そんなとき、アウトライナーに「詰まりを突破するタスク」を書いていくのだ。たとえば、アイデアが足りないなら『アイデア大全』から適当な技法を使うとか、知識が足りないなら調べるというタスクを書くことで、アウトライナーをタスクリスト化するのだ。

あるいは、まとまりやつながりを無視して、立ち止まらずにひたすら書く。分かりやすさとか、重複しているとか、言葉足らずとか、そういう内なる自分の声をガン無視して、ただただ書き続ける。レヴィ=ストロース「書きつけて物質化した思考のみが、扱うことができる」の極めて実用的な実践例になる(※1)

これはアナログで実践している。ほとんどメモ帳と化しているほぼ日手帳には、時折、ぐちゃぐちゃの思考を吐き出したページが続くことがある。ほとんど単語と矢印と絵(みたいなもの)で構成されている。

書けない悩みは書くことでしか解決できない

「書けない悩み」座談会を追いかけていると、思い当たることがありすぎる。

どういう試行錯誤をしてきたか、今の壁は何か、どう乗り越えようとしているかは、まさにそれは私がぶつかっている壁であり、私が乗り越えようとしてきたものになる。

いわゆる、ブイブイ言わせている著述家からの「ご高説」を賜るものではない。もっと泥臭く、血生臭い傷を見せ合う座談会なのだ。だから、カッコいいけど使えないテクニックじゃなくて、徹頭徹尾実用的なものになる。

同じ悩みを抱える一人として、私が付け加えるとするならば、村上春樹の「十枚書く」になる。

村上春樹は、執筆期間中、一日十枚書くという。

何があっても、とにかく十枚書く。もちろん推敲や編集はするけれど、それは「書く」を遂行してから。小説の神様みたいな「何か」が降りて来てくれそうにない日もある。でも、必ず十枚書く。

これ、レイモンド・チャンドラーもやっていたと聞いたことがある。

  • 毎日、決まった時間に、タイプライターの前に座る
  • 座っているあいだ、書いても書かなくてもよい
  • ただし、他のこと(本を読んだりとか)はしてはいけない

やる気が出るまで待っていたら、仕事は終わらない。「書けない書けない書けない」と羅列してもいい。「書き続けるために何が良いか考えてみる」と書いてみせたっていい。

まず手を動かしているうちに、だんだん調子が出てくる、というのはある。

「書けない悩み」にとことん付き合う一冊。お試しあれ。

※1

『アイデア大全』読書猿、フォレスト出版、p.47 レヴィ=ストロースのコラージュ

ブログ記事だと、「書きなぐれ、そのあとレヴィ=ストロースのように推敲しよう/書き物をしていて煮詰まっている人へ」を参照

https://readingmonkey.blog.fc2.com/blog-entry-461.html

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「人はなぜ笑うのか」への最新回答『進化でわかる人間行動の事典』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年8月14日


「笑い」とは何か?

まず、「笑い」を定義するところから始めよう。

だが、このやり方だと行き詰まる。

古来より、賢人たちは様々な答えを用意してきた。アリストテレス「動物の中で人間だけが笑う」から、ベルクソン「機械的なこわばり」まで、さまざまな説明が試みられてきたが、遅かれ早かれ上手くいかなくなる。

このアプローチでは、笑いに関する性質を調べ上げ、人が笑う理由を探すことになる。その背後には、原因となる本質があるはずだという前提が隠れている。普遍的・不変的なエッセンスを抽出し、それにより定義づけるのだ。

すると、定義にハマらない「笑い」の扱いに困ることになる。あるいは、定義どおりなのに笑えない反証が見つかる場合が出てくる(しかも多々ある)。嫉妬心の解消(プラトン)、暗黙の優越感(ホッブズ)、不一致の解消(カント、ショーペンハウエル)などがそうだろう。

機能に着目する

本質論の行き詰まりを回避するため、問題を再定義する。

「笑い」には、どのような機能があるのか。

このアプローチでは、笑いの役割に着目することになる。

つまり、人類が生き延びていく上で、笑いがどのような役目を果たしているかを考察する。その行動が適応度にどれだけ影響したのかという観点から、「人はなぜ笑うのか」を考えるのだ。すると、笑いの様々な役割が見えてくる。

赤ちゃんの笑い、愛想笑い、攻撃的な笑い

例えば、赤ちゃんの笑いだ。

生まれたばかりの赤ん坊は、ニッコリと笑うことがある。生理的微笑と呼ばれるもので、自分の意志ではなく、反射神経の働きともいわれている。また、生まれつき目が見えず、耳も聞こえない子どもも笑うことから、笑いは学習されるものではなく、生得的な行動だといえる(※1)

この笑いは、親からの養育行動を引き出す機能を持つと言われている。また、仰向けで寝る乳児との対面コミュニケーションが発達した人類は、親子で見つめ合い、微笑み合うことで、愛着関係を強めてきたと考えられている。

あるいは、チンパンジーの grimace と呼ばれる表情だ。

上下の歯を合わせて口角を引き、歯列を見せる行為で、劣位のサルが優位のサルに対して見せる。優位な個体への恐怖を示し、敵意が無いことを伝える服従の表情だとされている。これは人の smile の原型で、服従的な表情から、友好的文脈で用いられるようになったとされている(※2)。私たちがする「お愛想笑い」や「お追従笑い」の元は、これなのかもしれない。

また、笑いの起源を鳥類に求めた研究もある(※3)。

外敵に対し、仲間が集団になって騒ぎ立てて威嚇することがある(モビング)。笑いの対象(敵)を共有し、笑い声を伝播させて仲間内の結束を強める機能がある。嘲笑など、いわゆる攻撃的な笑いが相当するだろう。

他にも、攻撃的な遊びをしているが、本気ではないことを示す機能(※4)や、予想外の驚きをもたらしたことへの謝意といった役割(※5)がある。笑いが「伝染」するのは、仲間内で「安全だ」と伝え合い、ストレスを軽減させるためだという主張(※6)もある。

「人はなぜ笑うのか」という疑問に対し、笑いの「機能」に着目し、その行動がどのように適応的だったかを考える。そうすることで、笑いが実に様々な役割を果たしてきたのかが見えてくる。言い換えるなら、人は笑うことで生き延びてきたのだ。

以上が、『進化でわかる人間行動の事典』の「笑う」の項である。

きりがないので6つに絞ったが、数えてみたところ、「笑う」の項目だけで実に45の論文が紹介されている。現時点における、「人はなぜ笑うのか」に対する最新の回答といえるだろう。以前、適応としての笑いという記事で、可笑しさのメカニズムを紹介したが、『進化でわかる…』の方が網羅性が高い。

人はなぜ〇〇するのか

本書は、「遊ぶ」「描く」「踊る」「歌う」「助ける」「学ぶ」など、44の行動をピックアップして、それぞれについて、進化的観点から明らかにする。

  • 人はなぜ遊ぶのか、遊ぶことの進化的な役割は何か(遊ぶ)
  • 人はなぜ火を用いて料理をし、集団で食事をするのか(食べる)
  • 人はいつから歌っており、なぜ歌うのか(歌う)
  • 教える/教わることで、人はどのように優位になったか(教える、学ぶ、まねる)
  • 人はなぜ装い、見せびらかすのか(飾る、見栄を張る)
  • 人はなぜ結婚をするのか、いつから一夫一婦制なのか(結婚する、恋愛する)
  • 人を殺すことが適応的になる場合があるのか、またそれはどんな場合か(殺す)

人の心は自然淘汰によって形成されたという前提から、「人とは何か」について、具体的に迫る一冊。本書は、shorebirdさんの書評で知り、その足で書店へ走った。これまで読んできた人間行動の科学を一望できる本に出会えてよかった。shorebirdさん、ありがとうございます。

※出典は下記の通り

  1. EIBL-EIBESFELDT I(1973).The expressive behavior of the deaf-and-blind-born, Social Communication and Movement, 1973
  2. van Hooff Jan A. R. A. M.  A comparative approach to the phylogeny of laughter and smile,1972
  3. イレネウス・アイブル=アイベスフェルト『ヒューマン・エソロジー―人間行動の生物学』ミネルヴァ書房、2001
  4. Bridget M. Waller, Robin I. M. Dunbar, Differential Behavioural Effects of Silent Bared Teeth Display and Relaxed Open Mouth Display in Chimpanzees,2005
  5. WEISFELD G.E.,The adaptive value of humor and laughter,1993
  6. Matthew Gervais, David Sloan Wilson, The evolution and functions of laughter and humor: a synthetic approach,2005

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高校の『詳説世界史B』と『詳説世界史研究』を全読したら、自分の時代錯誤に気づいた

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年8月28日


山川出版『詳説世界史B』『詳説世界史研究』を全読したら、得るものが大きかった。

まず、自分の歴史認識が古いこと。

学校で習った「歴史」は、石油危機と東西冷戦のあたりで終わっている。そして当然、私が生きているあいだも歴史は書かれていく。

しかし、私はそれらを「ニュース」として知る。

メディアやネットを通じた出来事として接する。大きな事件や紛争の報道には、そこに至る経緯も解説されるが、それだけだ。私は少し心を痛め、赤十字に募金し、次のニュースを見る。ニュースは上書きされ、私の関心や、日本との関わりが遠いほど速やかに流されてゆく。

食糧問題は解決した?

例えば、飢餓人口について。

どこかで「飢えに苦しむ人は大幅に減少している」と耳にしたことがあった。食糧問題や貧困は大きく解消に向かっているという主張だったと記憶している。

しかし、サハラ以南ではここ半世紀一貫して増加していることを知った(下図参照)。また、世界全体から見ても、2014年を境に増加に転じていることが分かった(※1)。そうあって欲しいと思う願いから、食糧問題は解消されたと信じ込んでいたのだ。

Sekaisi

詳説世界史B p.417より

「戦争」は減っている?

あるいは、各地の紛争について。

ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が終結してから、大きな戦争は起きておらず、テロリズムの脅威はあるものの、比較的平和な時代だと考えていた。

しかし、これまでの国家間の通常戦とは異なる性格の紛争が増大していることが分かった。

『詳説世界史研究』では大きく5つの分類に分けている。

  1. 国民国家体制の再編要求:スリランカ、西アジアのクルド人、パレスチナ問題、北アイルランド問題
  2. アフリカ新興国の分裂と主導権抗争:モザンビークの反政府組織、アンゴラのアパルトヘイト、ソマリア、ルワンダ内戦
  3. ソ連邦解体により生まれた領域設定の争い:アゼルバイジャン紛争、チェチェン、ボスニア=ヘルツェゴビナ軍事介入
  4. 経済構造の多極化に伴う権益争い:石油利権をめぐるアメリカとベネズエラ紛争
  5. イラン革命以降の宗教的覚醒:911同時多発テロ、対テロ戦争、アフガニスタン紛争

どれも辿ってゆくと、植民地問題や帝国主義、第二次大戦からの負の遺産であることが分かる。そして、いわゆる私が理解している「戦争」とはずれている。

一元的な統治体制を有する国家どうしが、宣戦を布告し、武力で問題を解決することを「戦争」と呼ぶのであれば、上記のほとんどは当たらない。代わりに、内乱、紛争、武力介入、軍事制圧になる。

血が流れ、住むところは破壊され、難民は増大しているにもかかわらず、単に呼び名が戦争でないから、私は、「比較的平和」などと能天気なことを言っているのだ。この時代錯誤を改めなければならない。

具体的には、地域や宗派、民族や言語が掲げられたニュースが、歴史の中でどのように位置付けられていくのかを、定期的にアップデートしていく必要がある。

歴史的な「常識」がアップデートされていることも知った。

1871年パリ=コミューンの新解釈

例えば、パリ=コミューンについて。

労働者階級によるパリの革命政権だ。政府軍による凄惨な市街戦により制圧されたが、理想的な民衆自治体制だったとある。

だが、最近の研究によると、「民衆による社会主義」という高評価は、マルクス主義者によって強調されたコミューン像だという。現在ではかなり修正されており、労働者や下層階級の不満の蓄積や、普仏戦争で屈辱的な条件を受け入れたことへの愛国的反発、耐乏生活への抗議が絡み合った特殊な状況から生み出された暴動だったと見なされている(※2)。

焚書坑儒は無かった?

始皇帝が焚書坑儒を行ったのはあまりにも有名だ。

古代中国、秦の時代に起きたことで、焚書は「書を燃やす」ことで、坑儒は「儒者を生き埋めにする」ことを意味する思想弾圧だ。

ところが、実際のところ「焚書坑儒」ではなかったと主張する研究者が出てきている。確かに始皇帝は書物を焼いて思想を弾圧し、自分に逆らう人間を虐殺したという。だが、弾圧されたのは儒者では無かったというのである。

根拠は『史記』に求められる。紀元前の前漢の時代、司馬遷の手で編纂された歴史書だ。そこでは、「詩書を焚(や)いて、術士を坑(あなうめ)にした」という記述になっている。この「術士」とは、不老不死の術を騙って始皇帝から莫大な金をだまし取った方士と呼ばれる人を指すという。

では「儒者」は? 『漢書』にその記載がある。紀元後の後漢の時代になる。そこでは、「詩書を燔(や)いて、儒士を坑(あなうめ)にした」と記述が書き換えられている。

なぜか?

本来、始皇帝は儒教という特定の思想を弾圧するのではなく、固有の文化や思想を捨て、皇帝の定めた法に従わせることを目的としたという。しかし、後に儒家の権威が確立すると、この事件は凶悪な皇帝から弾圧された儒家の受難の歴史として改変されたというのだ(※3)。

『史記』と『漢書』のどちらが正しいかどうかというより、それぞれ相違があり、解釈が更新されているのだ。

世界史を定期更新する

世界史とは、「これで決定版」というものは存在しない。

日々のニュースがどんどん歴史に重なっていく。その上で、今までの世界史の中でどのように位置付けられていくかによって、歴史認識そのものがアップデートされていくのだ。

「食糧問題が解決してほしい」「世界が平和であってほしい」と願い、少しでもそれに貢献しようと試みることは大切だ。だが、願望と現実は異なる。願いでもって、認識を歪めることは避けねばならない。

『詳説世界史』と『詳説世界史研究』は、私の時代錯誤を気づかせ、定期更新が必要なことを教えてくれた。改版のタイミングで、再読していこう。

※1 世界の食料安全保障と栄養の現状2020年(PDFファイル)
http://www.fao.org/3/ca9699ja/ca9699ja.pdf

※2 『詳説世界史研究』 p.339 フランス第二帝政と第三共和政

※3 『詳説世界史研究』 p.94 焚書坑儒


読書案内

自分メモ。『詳説世界史研究』巻末の読書案内で紹介されている書籍は下記の通り。歴史研究に携わる人が選んだ、信頼できる書籍と言える。

また、『興亡の世界史』『市民のための世界史』や、ジョルジョ・ヴァザーリ、川北稔、杉山正明の著作は、私の経験上、面白さも折り紙付き。

通史のシリーズ

『世界の歴史』 全30巻 (中公文庫) 中央公論新社、2008-10

『興亡の世界史』 全21巻 (講談社学術文庫) 講談社 2016-19

『新版世界各国史』 全28巻 山川出版社 1998-2009

『世界歴史大系』(イギリス史, アメリカ史, ロシア史,フランス史,ドイツ史, 中国史 スペイン史,南アジア史. 朝鮮史 , タイ史) 山川出版社 1990-刊行中

『中国の歴史』 全12巻 講談社 2004-05

『中国と東部ユーラシアの歴史』 佐川英治・杉山清彦 放送大学教育振興会 2020

『岩波講座東南アジア史』 全10巻 岩波書店 2001-03

『ヨーロッパ史入門』 全17巻 岩波書店 2004-09

『ドイツ史10講』坂井榮八郎 (岩波新書) 岩波書店 2003

『フランス史10講』 柴田三千雄 岩波書店 2006

『イギリス史10講』 近藤和彦 (岩波新書) 岩波書店 2013

『新しく学ぶ西洋の歴史―――アジアから考える』 南塚信吾・秋田茂 高澤紀恵 責任編集 ミネルヴァ書 2016

『世界史20講―――史料から考える』 歴史学研究会 編 岩波書店 2014

『市民のための世界史』 大阪大学歴史教育研究会 編 大阪大学出版会2014

『歴史を読み替える ジェンダーから見た世界史』 三成美保 姫岡とし子 小浜正子編 大月書店

『アメリカ史研究入門』 (他にイギリス史, フランス史, ドイツ史, 中国史, 中央ユーラシア史) 山川出版社 1991-2018

『世界史史料』全12巻 歴史学研究会 編 岩波書店 2006-13

 『人類がたどってきた道 "文化の多様化”の起源を探る』海部陽介 (NHKブックス) 日本放送出版協2005

第 1 章 オリエントと地中海世界

伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と衰退』 (講談社学術文庫) 講談社 2004 桜井万里子 橋場弦編 『古代オリンピック』 (岩波新書) 岩波書店 2004

橋場弦 『民主主義の源流古代アテネの実験』 (講談社学術文庫) 講談社 2016

平山郁夫シルクロード美術館 古代オリエント博物館編 『メソポタミア文明の光芒 一楔形文字が語る王と神々の世界』 山川出版社 2011

前田徹 他編 『歴史学の現在 古代オリエント』 山川出版社 2000

南川高志 『ローマ五賢帝――『輝ける世紀』 の虚像と実像』(講談社学術文庫) 講談社 2014 本村凌二・中村るい 『古代地中海世界の歴史』 (ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2012

弓削達 『ローマはなぜ滅んだか』 (講談社現代新書) 講談社 1989

第2章 アジア・アメリカの古代文明

青山和夫『古代メソアメリカ文明 マヤ・テオティワカン・アステカ』 (講談社選書メチエ) 講談社2007

青山和夫 『マヤ文明- 一密林に栄えた石器文化』 (岩波新書) 岩波書店 2012 石井米雄・桜井由躬雄 『東南アジア世界の形成』 (ビジュアル版〉 世界の歴史) 講談社 1989 石澤良昭 「アンコール 王たちの物語 碑文・発掘成果から読み解く』(NHKブックス) 日本放送出版協会 2005

青山和夫 『マヤ文明を知る事典』東京堂出版 2015

岡村秀典『夏王朝中国文明の原像』 (講談社学術文庫) 講談社 2007

佐藤信弥『周理想化された古代王朝』(中公新書) 中央公論新社 2016

関雄二・青山和夫 『岩波 アメリカ大陸古代文明事典』 岩波書店 2005

鶴間和幸『人間 ・ 始皇帝』 (岩波新書) 岩波書店 2015 

西嶋定生『秦漢帝国』 (講談社学術文庫) 講談社 1997 

平勢隆郎 『よみがえる文字と呪術の帝国- 古代殷周王朝の素顔』 (中公新書) 中央公論新社 2001 

籾山明「漢帝国と辺境社会 長城の風景』 (中公新書) 中央公論新社 1999 

山崎元一 『アショーカ王とその時代インド古代史の展開とアショーカ王』春秋社 1982

冨谷至『木簡・竹簡の語る中国古代 書記の文化史』(増補新版) (世界歴史選書) 岩波書店 2014

桃木至朗 『歴史世界としての東南アジア』(世界史リブレット) 山川出版社 1996

第3章 内陸アジア世界・東アジア世界の形成

荒川正晴 『オアシス国家とキャラヴァン交易』(世界史リブレット) 山川出版社 2003 

石井仁 『魏の武帝 曹操 正邪を超越した史上屈指の英傑』(新人物文庫) 新人物往来社 2013 

石見清裕 『唐代の国際関係』 世界史リブレット) 山川出版社 2009 

氣賀澤保規『則天武后』(講談社学術文庫) 講談社 2016 

沢田勲 『冒頓単于- 匈奴遊牧国家の創設者』 (世界史リブレット人) 山川出版社 2015 

城田俊 『ことばの道―もう一つのシルクロード』 大修館書店 1987 

妹尾達彦 『長安の都市計画』 (講談社選書メチエ) 講談社 2001 

谷川道雄 『隋唐世界帝国の形成』 (講談社学術文庫) 講談社 2008 

林俊雄 『遊牧国家の誕生』(世界史リブレット) 山川出版社 2009 

古松崇志 『草原の制覇 大モンゴルまで』 (シリーズ中国の歴史 ③ 岩波新書) 岩波書店 2020

三崎良章 『五胡十六国 中国史上の民族大移動』 (新訂版) (東方選書) 東方書店 2012 

森部豊『安禄山 — 『安史の乱』 を起こしたソグド人』 (世界史リブレット人) 山川出版社 2013 

李成市 『東アジア文化圏の形成』(世界史リブレット) 山川出版社 2000

第4章 イスラーム世界の形成と発展

私市正年 『サハラが結ぶ南北交流』 (世界史リブレット) 山川出版社 2004 

小杉泰 『イスラーム帝国のジハード』 (講談社学術文庫) 講談社 2016

後藤明 『ビジュアル版 イスラーム歴史物語』 講談社 2001

後藤明 『ムハンマド時代のアラブ社会』(世界史リブレット) 山川出版社 2012

佐藤次高 『イスラームの生活と技術』 (世界史リブレット) 山川出版社 1999

佐藤次高 『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』(新装版) 東京大学出版会 2013

佐藤次高 『イスラームの歴史 1-イスラームの創始と展開』 (宗教の世界史) 山川出版社 2010

佐藤次高鈴木薫編『都市の文明イスラーム』 (新書イスラームの世界史 講談社現代新書) 講談社 1993

清水和裕『 イスラーム史のなかの奴隷』 (世界史リブレット) 山川出版社 2015 

高野大輔 『マンスール イスラーム帝国の創建者』 (世界史リブレット人) 山川出版社 2014 

高山博『ヨーロッパとイスラーム世界』(世界史リブレット) 山川出版社 2007

東長靖 『イスラームのとらえ方』 (世界史リブレット) 山川出版社 1996 

中村廣治郎『イスラム―思想と歴史』 (新装版) 東京大学出版会 2012 

フィンドリー, 濱田正美『中央アジアのイスラーム』(世界史リブレット) 山川出版社 2008

カーター V (小松久男監訳佐々木神訳) 『テュルクの歴史 古代から近現代まで 明石書店 2017

ホーラーニー, アルバート (湯川武監訳・阿久津正和訳) 『アラブの人々の歴史』 第三書館 2003 

三浦徹 「イスラームの都市世界』 (世界史リブレット) 山川出版社 1997

三浦徹編 『イスラーム世界の歴史的展開』 放送大学教育振興会 2011 

森本一夫編著 『ベルシア語が結んだ世界 もうひとつのユーラシア史」 (スラブ・ユーラシア) 北海道大学出版会 2009

宮本正興 松田素二編 『新書アフリカ史』 (改訂新版) (講談社現代新書) 講談社 2018 

家島彦一 『イブン・バットゥータの世界大旅行 14世紀イスラームの時空を生きる』 (平凡社新書) 平凡社 2003

家島彦一 『イブン・ジュバイルとイブン・バットゥータイスラーム世界の交通と旅】 (世界史リブレッ 人) 山川出版社 2013

山根聡 『4億の少数派 南アジアのイスラーム』 (イスラームを知る) 山川出版社 2011

第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展

阿部謹也 『ハーメルンの笛吹き男伝説とその世界』 (ちくま文庫) 筑摩書房 2013 

伊東俊太郎『12世紀ルネサンス』 (講談社学術文庫) 講談社 2006

越宏一『ヨーロッパ中世美術講義』(岩波セミナーブックス) 岩波書店 2001

佐藤彰一 『中世世界とは何か』 (ヨーロッパの中世) 岩波書店 2008

高山博「中世シチリア王国』(講談社現代新書) 講談社 1999

中谷功治 『ビザンツ帝国千年の興亡と皇帝たち』 (中公新書) 中央公論社 2020 

根津由喜夫 『ビザンツの国家と社会』 (世界史リブレット) 山川出版社 2008

ブラウン,ピーター (後藤篤子 訳) 『古代から中世へ』(山川レクチャーズ) 山川出版社 2006 ホイジンガ, ヨハン (堀越孝一訳) 『中世の秋』 上下 (中公文庫) 中央公論社 1976

第6章 内陸アジア世界・東アジア世界の展開

伊原弘 編『「清明上河図」を読む』 勉誠出版 2003 

島田慶次 『朱子学と陽明学』(岩波新書) 岩波書店 1967

島田正郎 『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』 (東方選書) 東方書店 1993

白石典之 『モンゴル帝国誕生』 (講談社選書メチエ) 講談社 2017

杉山正明 『大モンゴルの世界陸と海の巨大帝国』 (角川選書) 角川書店 1992 

杉山正明 『クビライの挑戦 モンゴル世界帝国への道』(朝日選書) 朝日新聞社1995

杉山正明 『モンゴル帝国の興亡』 上下 (講談社現代新書) 講談社 1996 

杉山正明 『世界史を変貌させたモンゴル時代史のデッサン』(角川選書) 角川書店 2000

冨谷至・森田憲司 編 『概説中国史 〈下〉 近世 近現代』 昭和堂 2016

内藤湖南 『中国近世史』(岩波文庫) 岩波書店 2015

平田茂樹『科挙と官僚制』 (世界史リブレット) 山川出版社 1997 

藤井譲治、杉山正明 金田章裕編『大地の肖像 絵図 地図が語る世界』 京都大学学術出版会2007

野英二 堀川徹 編著 中央アジアの歴史・社会・文化』 放送大学教育振興会 2004 

宮崎市定『科挙 中国の試験地獄』 (中公文庫) 中央公論社 1984

護雅夫 『古代遊牧帝国』 (中公新書) 中央公論社 1976

家島彦一 『イスラーム・ネットワークの展開』 (池端雪浦 他編『岩波講座東南アジア史 3 東南アジア近世の成立』) 岩波書店 2001

第7章 アジア諸地域の繁栄

生田滋 『大航海時代とモルッカ諸島 ポルトガル, スペイン, テルナテ王国と丁子貿易』 (中公新書) 中央公論新社 1998

石橋崇雄 『大清帝国への道』 (講談社学術文庫) 講談社 2011

小笠原弘幸 『オスマン帝国 一繁栄と衰亡の600年史』(中公新書) 中央公論新社 2018

岡田英弘編『清朝とは何か』 (別冊 「環』) 藤原書店 2009 岸本美緒 『東アジアの 『近世』(世界史リブレット) 山川出版社 1998

久保一之 『ティムール 草原とオアシスの覇者』 (世界史リブレット入) 山川出版社 2014 

クラヴィホ, ルイ・ゴンザレスデ(山田信夫訳) 『チムール帝国紀行』 桃源社 1979

小谷江之 『インドの中世社会 村 ・ カースト・領主』 岩波書店 1989

小谷汪之 『不可触民とカースト制度の歴史』明石書店 1996

鈴木董 『オスマン帝国 イスラム世界の 『柔らかい専制』』 (講談社現代新書) 講談社 1992

鈴木董編 『バクス イスラミカの世紀』 (新書イスラームの世界史 講談社現代新書) 講談社1993

檀上寛 『明の太祖 朱元璋』 (中国歴史人物選) 白帝社 1994

檀上寛『永楽帝 華夷秩序の完成』 (講談社学術文庫) 講談社 2012 

チャンドラ, サティーシュ (小名康之・長島弘 ) 『中世インドの歴史』 山川出版社 1999 

長谷部史彦 『オスマン帝国治下のアラブ社会』 世界史リブレット) 山川出版社 2017 

バーブル・ナーマ (間野英二 訳注) 『バーブル・ナーマームガル帝国創設者の回想録』 全3巻 (東洋文庫)2014-15

林佳世子『オスマン帝国の時代』 (世界史リブレット) 山川出版社 1997

弘末雅士 『東南アジアの建国神話』 (世界史リブレット) 山川出版社 2003 間野英二 『バーブルームガル帝国の創設者』 世界史リブレット入) 山川出版社 2013

宮崎市定『雍正帝 中国の独裁君主』 (中公文庫) 中央公論社 1996

村井章介 『中世倭人伝』 (岩波新書) 岩波書店 1993

第8章 近世ヨーロッパ世界の形成

ヴァザーリ、ジョルジョ(平川祐弘他訳)『芸術家列伝』 全3巻(白水ブックス) 白水社 2011 ガレン、エウジェニオ(澤井繁男 訳) 『ルネサンス文化史 ある史的肖像』(平凡社ライブラリー)平凡社2011

川北稔 『洒落者たちのイギリス史 一騎士の国から紳士の国へ』 (平凡社ライブラリー) 平凡社 1993

川北稔 『砂糖の世界史』 (岩波ジュニア新書) 岩波書店 1996

小泉徹 『宗教改革とその時代』 (世界史リブレット) 山川出版社1996

鈴木直志 『ヨーロッパの傭兵』 (世界史リブレット) 山川出版社 2003

別枝達夫 『海事史の舞台  ―女王・海賊・香料』 みすず書房 1979

ポメランツ, K (川北稔 監訳) 大分岐—中国, ヨーロッパ, そして近代世界経済の形成』 名古屋大学出版会 2015

森田安一 『図説 宗教改革』 (ふくろうの本) 河出書房新社 2010

第9章 近世ヨーロッパ世界の展開

浅田實 『東インド会社 巨大商業資本の盛衰』(講談社現代新書) 講談社 1989

岩井淳 『千年王国を夢みた革命 17世紀英米のピューリタン』 (講談社選書メチエ) 講談社1995 

川北稔 『民衆の大英帝国近世イギリス社会とアメリカ移民』 (岩波現代文庫 岩波書店 2008 近藤和彦 『民のモラルーホーガースと18世紀イギリス』 (ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2014 高澤紀恵 『主権国家体制の成立』 (世界史リブレット) 山川出版社 1997

玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』 (講談社選書メチエ) 講談社 2009

角山栄『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』 (中公新書) 中央公論社 1980

長谷川輝夫『図説 ブルボン王朝』 (ふくろうの本) 河出書房新社 2014

山之内克子 『啓蒙都市ウィーン』 (世界史リブレット) 山川出版社 2003

弓削尚子 『啓蒙の世紀と文明観』(世界史リブレット) 山川出版社 2004

第10章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立

エンゲルス, フリードリヒ (一條和生 杉山忠平記) 『イギリスにおける労働者階級の状態 19世紀 のロンドンとマンチェスター』上下(岩波文庫) 岩波書店 1990

小松春雄『評伝 トマス・ペイン』 中央大学出版部 1986 

ジン, ハワード (富田虎男 他訳) 『民衆のアメリカ史 1492年から現代まで上(世界歴史叢書) 明石書店2005

遅塚忠躬 『フランス革命 歴史における劇薬』 (岩波ジュニア新書) 岩波書店 1997 

トクヴィル, アレクシ・ド (小山勉訳) 『旧体制と大革命』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 1998

長谷川貴彦 『産業革命』 世界史リブレット) 山川出版社 2012 

ホブズボーム, エリック (安川悦子・水田洋訳) 『市民革命と産業革命 二重革命の時代』岩波書店1968

松浦義弘 『フランス革命の社会史』 (世界史リブレット) 山川出版社 1997 

油井大三郎 『好戦の共和国アメリカ戦争の記憶をたどる』(岩波新書) 岩波書店 2008 

吉岡昭彦 『インドとイギリス』 岩波書店 1975

リグリィ, エドワード A (近藤正臣 訳) 『エネルギーと産業革命 連続性・偶然・変化』 同文館出版1991

第11章 欧米における近代国民国家の発展

大内宏一『ビスマルク』 (世界史リブレット人) 山川出版社 2013

木村靖二・近藤和彦『近現代ヨーロッパ史』 (地域文化研究) 放送大学教育振興会 2006 

喜安朗『バリの翌月曜日 -19世紀都市騒乱の舞台裏』 (岩波現代文庫) 岩波書店 2008 

柴田三千雄 『バリ・コミューン』 (中公新書) 中央公論社 1973

ダグラス, フレデリック (岡田誠一 訳) 『数奇なる奴隷の半生 フレデリック・ダグラス自伝』(りぶらりあ選書) 法政大学出版局 1993

谷川稔『国民国家とナショナリズム』 (世界史リブレット) 山川出版社 1999

谷川稔 『十字架と三色旗 近代フランスにおける政教分離』 (岩波現代文庫) 岩波書店2015

中野隆生 『プラーグ街の住民たち』(歴史のフロンティア) 山川出版社 1999

浜忠雄 『ハイチ革命とフランス革命』 北海道大学図書刊行会 1999

ヒル フェデリコ・G (村江四郎 他訳) 『ラテン・アメリカ その政治と社会』 東京大学出版会

フォーゲル、ロバート・W / エンガーマン, スタンリー・L (田口芳弘他訳) 『苦難のとき――アメリカ・ニグロ奴隷制の経済学』 創文社 1981 

ベラー スティーヴン (坂井榮八郎 監訳, 川瀬美保 訳) 『フランツ・ヨーゼフとハプスブルク帝国』(人間) 科学叢書) 万水書房 2001

松宮秀治『文明と文化の思想』白水社 2014

マルクス・カール 『ルイ・ボナパルトのプリュメール18日 』 (平凡社ライブラリー) 平凡社 2008 

良知力『向う岸からの世界史 一つの四八年革命史論』 (ちくま学芸文庫) 筑摩書房 1993 

良知力 『青きドナウの乱痴気 ウィーン1848年』 (平凡社ライブラリー) 平凡社 1993

ローウィック, GP (西川進 訳) 『日没から夜明けまで アメリカ黒人奴隷制の社会史』 (刀水歴史全書) 刀水書房 1986

第12章 アジア諸地域の動揺

新井政美 『トルコ近現代史 イスラム国家から国民国家へ』 みすず書房 2001 

飯塚正人 『現代イスラーム思想の源流』 (世界史リブレット) 山川出版社 2008

岡本隆司 『李鴻章 東アジアの近代』 (岩波新書) 岩波書店 2011

小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史一億人国家のダイナミズム』(中公新書) 中央公論社 1997

柿崎一郎 『物語タイの歴史- 一微笑みの国の真実』(中公新書) 中央公論新社 2007 

加藤博「イスラーム世界の危機と改革』 (世界史リブレット) 山川出版社 1997 

加藤博 『ムハンマド・アリー 近代エジプトを築いた開明的君主』 (世界史リブレット人) 山川出版社2013

菊池秀明 『太平天国にみる異文化受容』 (世界史リブレット) 山川出版社 2003 

斎藤照子 『東南アジアの農村社会』(世界史リブレット) 山川出版社 2008 

坂本勉 鈴木董編 『イスラーム復興はなるか』 (講談社現代新書) 講談社 1993 

白石隆 『海の帝国 アジアをどう考えるか』 (中公新書) 中央公論新社 2000

鈴木静夫 『物語フィリピンの歴史―『盗まれた楽園』 と抵抗の500年』(中公新書) 中央公論社 1997 

チャンドラ, ビパン (栗屋利江 訳) 『近代インドの歴史』 山川出版社 2001 

永積昭 『オランダ東インド会社』(講談社学術文庫) 講談社 2000 

吉澤誠一郎『清朝と近代世界—19世紀』 (シリーズ中国近現代史 岩波新書) 岩波書店 2010

第13章 帝国主義とアジアの民族運動

アリギ, ジョヴァンニ (土佐弘之 監訳)『長い20世紀 資本, 権力, そして現代の系譜』 作品社2009

池端雪浦 『フィリピン革命とカトリシズム』 勁草書房 1987 

今井昭夫 『ファン・ボイ・チャウー民族独立を追い求めた開明的志士』 (世界史リブレット人) 山川出版2019

岡本隆司『世凱 現代中国の出発』(岩波新書 岩波書店 2015 

川島真 『近代国家への模索―1894-1925』 (シリーズ中国近現代史 岩波新書) 岩波書店 2010

木畑洋一『二〇世紀の歴史』 (岩波新書) 岩波書店 2014

小松久男 『近代中央アジアの群像 革命の世代の軌跡』 (世界史リブレット人) 山川出版社 2018 

坂元ひろ子 『中国近代の思想文化史』(岩波新書) 岩波書店 2016

白石昌也 「ベトナム民族運動と日本 アジアーファン・ボイ・チャウの革命思想と対外認識』 南堂書店 1993

永積昭 『インドネシア民族意識の形成』 歴史学選書) 東京大学出版会 1980 

深町英夫 『孫文一 近代化の岐路』 (岩波新書) 岩波書店 2016 

福井憲彦 『世紀末とベル・エポックの文化』 (世界史リブレット) 山川出版社 1999 

松本弘 『ムハンマド・アブドゥフイスラームの改革者』 (世界史リブレット人) 山川出版社 2016

山田朗 「世界史の中の日露戦争』 (戦争の日本史) 吉川弘文館 2009

第14章 二つの世界大戦

池田嘉郎 『ロシア革命 一破局の8か月』(岩波新書) 岩波書店 2017

石井規衛 『文明としてのソ連 初期現代の終焉』 (歴史のフロンティア) 山川出版社 1995 

石川禎浩 『革命とナショナリズム -1925-1945』 (シリーズ中国近現代史 岩波新書) 岩波書店2010

石田勇治 『ヒトラーとナチドイツ』 (講談社現代新書) 講談社 2015

木村靖二 『第一次世界大戦』 (ちくま新書) 筑摩書房 2014 

木村靖二 『二つの世界大戦』 世界史リブレット) 山川出版社 1996

グハ ラーマチャンドラ (佐藤宏 訳) 『インド現代史 1947-2007』 (世界歴史叢書) 明石書店2012 

小杉泰編 『イスラームの歴史2 イスラームの拡大と変容』 (宗教の世界史) 山川出版社 2010 小松久男 『激動の中のイスラーム 中央アジア近現代史』 イスラームを知る) 山川出版社 2014

シヴェルブシュ, ヴォルフガング (小野清美 原田一美 訳) 『三つの新体制 ファシズム ナチズム、ニューディール』 名古屋大学出版会 2015

篠原初枝 『国際連盟 ―世界平和への夢と挫折』 (中公新書) 中央公論新社 2010 

芝健介 『ホロコーストナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』(中公新書) 中央公論新社2008

趙景達『植民地朝鮮と日本』 (岩波新書) 岩波書店 2013

土屋健治 『インドネシア思想の系譜』 勁草書房 1994

富田健次 『ホメイニーイラン革命の祖』 (世界史リブレット入) 山川出版社 2014

内藤雅雄 『ガンディー 現代インド社会との対話 同時代人に見るその思想・運動の衝撃』 (世界歴史 叢書) 明石書店 2017

中嶋毅 『スターリン超大国ソ連の独裁者』 (世界史リブレット人) 山川出版社 2017 

根本敬 『アウン・サン 封印された独立ビルマの夢』 現代アジアの肖像) 岩波書店 1996

林忠行 『中欧の分裂と統合 マサリクとチェコスロヴァキア建国 (中公新書) 中央公論社 1993

早瀬晋三 『未完のフィリピン革命と植民地化』 (世界史リブレット) 山川出版社 2009

古田元夫 『ホー・チ・ミン 民族解放とドイモイ』 現代アジアの肖像) 岩波書店 1996

マゾワー, マーク (中田瑞穂 網谷龍介 訳) 『暗黒の大陸ヨーロッパの20世紀』 未来社 2015

マゾワー, マーク (井上廣美訳) 『バルカン 『ヨーロッパの火薬庫』の歴史』(中公新書) 中央公論新社2017 

村嶋英治 『ピブーン 独立タイ王国の立憲革命』(現代アジアの肖像) 岩波書店 1996 

山室信一 『複合戦争と総力戦の断層 日本にとっての第一次世界大戦』 (レクチャー第一次世界大戦を考える)人文書院 2011 

横手慎二『スターリン 『非道の独裁者』 の実像』 (中公新書) 中央公論新社 2014 

和田春樹 『歴史としての社会主義』(岩波新書) 岩波書店 1992 

和田春樹 『レーニン――二十世紀共産主義運動の父』 (世界史リブレット入) 山川出版社 2017

第15章 冷戦と第三世界の独立

池田美佐子 『ナセル アラブ民族主義の隆盛と終焉』 (世界史リブレッド人) 山川出版社 2016 

岩崎育夫 『入門東南アジア近現代史』 (講談社現代新書) 講談社 2017

ウェスタッド、オッド・A(佐々木雄太・小川浩之 他訳) 『グローバル冷戦史—第三世界への介入と現代世界の形成』 名古屋大学出版会 2010 

絵所 秀紀 『離陸したインド経済 開発の軌跡と展望』 シリーズ現代経済学) ミネルヴァ書房 2008 

遠藤乾編 『ヨーロッパ統合史』 (増補版) 名古屋大学出版会 2014

小倉貞男 『ドキュメント ヴェトナム戦争全史』 岩波書店 1992

ガードナー,リチャード・N (村野孝・加瀬正一 訳)』 『国際通貨体制成立史』上下 東洋経済新報社 1973

久保亨 『社会主義への挑戦 1945-1971』 (シリーズ中国近現代史 岩波新書) 岩波書店 2011 

倉沢愛子 『『大東亜』戦争を知っていますか』 (講談社現代新書) 講談社 2002 

近藤則夫『現代インド政治 —多様性の中の民主主義』 名古屋大学出版会 2015 

佐々木卓也 『冷戦 アメリカの民主主義的生活様式を守る戦い』 有斐閣 2011 

白石隆 『スカルノとスハルト―偉大なるインドネシアをめざして』(現代アジアの肖像) 岩波書店 1997 

末近浩太 『イスラーム主義 もう一つの近代を構想する』(岩波新書) 岩波書店 2018 

末廣昭 『タイ開発と民主主義』(岩波新書) 岩波書店 1993 スチュアートフォックス, マーチン(菊池陽子訳) 『ラオス史』 めこん 2010 

砂野幸稔 『クルマーアフリカ統一の夢』 (世界史リブレット人) 山川出版社 2015 

古田元夫『ベトナムの世界史 中華世界から東南アジア世界へ』 東京大学出版 1995

マゾワー, マーク(池田年穂 訳) 『国連と帝国―世界秩序をめぐる攻防の20世紀』 慶應義塾大学出版 2016

松戸清裕『ソ連という実験国家が管理する民主主義は可能か』(筑摩選書) 筑摩書房 2017 

水島司 『変動のゆくえ』 激動のインド) 日本経済評論社 2013

山田寛 『ポル・ポト 〈革命〉 史—虐殺と破壊の四年間』 (講談社選書メチエ) 講談社 2004 

油井大三郎『戦後世界秩序の形成 ―アメリカ資本主義と東地中海地域 1944-1947』 東京大学出版1985

油井大三郎 「ベトナム戦争に抗した人々』 (世界史リブレット) 山川出版社 2017 

和田春樹 『スターリン批判 1953~56年 一人の独裁者の死が, いかに20世紀世界を揺り動かしたか』作品社 2016

第16章 現在の世界

遠藤乾 『欧州複合危機 苦悶するEU, 揺れる世界』 (中公新書) 中央公論新社 2016 

ギデンズ, アンソニー (佐和隆光訳) 『暴走する世界 グローバリゼーションは何をどう変えるのか』ダイヤモンド社 2001

酒井啓子『中東から世界が見える イラク戦争から 『アラブの春』 へ』 (岩波ジュニア新書) 岩波書店 2014

塩川伸明 『民族浄化・ 人道的介入・新しい冷戦―冷戦後の国際政治』 有志舎 2011 

スタロビン, ポール (松本薫訳) 『アメリカ帝国の衰亡』 新潮社 2009

西崎文子・武内進一 編著 『紛争・対立・暴力 世界の地域から考える』 (岩波ジュニア新書)岩波書店 2016

藤田和子・松下冽編 『新自由主義に揺れるグローバル・サウス いま世界をどう見るか』 ミネルヴァ書房2012

フリードマン, トーマス (伏見威蕃訳) 『フラット化する世界経済の大転換と人間の未来』(普及版) 上・中・下 日本経済新聞社 2010

 

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歯のあるヴァギナ、シンデレラの元ネタ、女体化する杜子春『木馬と石牛』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年9月4日


『木馬と石牛』に、歯のあるヴァギナの話がある。

昔、あるところに娘がいた。たいそう美しいと評判で、年頃になると結婚の申し込みが殺到したという。両親は幾多の男の中から一人を選び、婿に迎え入れる。

ところが、結婚の初夜、婿は帰らぬ人となってしまう。その股間は血まみれになっており、既にこと切れている。彼を埋葬するとき、陰茎が嚙み切られていることが分かる。両親は娘を問い詰め、娘の陰部に歯があることをついに知る。

両親は家の恥辱だとして、娘を朱塗りの箱に閉じ込めて、海に流す。箱は波に漂い遠く離れた海岸に流れ着く。箱を見つけた地元の人が開けようとすると、中から声が聞こえる、「開けないで」と。

好奇心を掻き立てられ、人を集めて無理やり箱を開けてしまう。中から出てきたのは、年頃の麗しい娘。人々は大いに驚き、あれこれ尋ねるが、娘は答えようとしない。どうやら空腹のようなので、皆で食事を共にする。

強い酒を飲んだせいか、娘は前後不覚に眠りこける。男たちはもったいないと思い、娘を犯そうとするが、一人が股間を血まみれにして絶叫したことで、様子が変だということに気づく。試しに竹を差し入れたところ噛み砕かれ、鋭利な歯が並んでいることが分かる。

そこで老婆を呼んで歯を抜きヤスリで削ったところ、契りを結べる体となり、婿をとったという。

ヴァギナ・デンタタ

これはヴァギナ・デンタタ(歯のあるヴァギナ)と呼ばれる民話だ。

世界各地で語られており、様々なバージョンがある。歯のある玉門がしゃべりだしたり、膣内ですり潰されるものもある。また、歯を抜かれた娘が死んでしまうといった展開もある。

Wikipedia「ヴァギナ・デンタタ」によると、見知らぬ女性との性行為の危険性を訴えたり、強姦をすることを戒めるための説話とされている。

あるいは、性交中にペニスを食いちぎられるかもしれないという無意識の恐怖もあるらしい。その心理的背景には、女性器の形が口唇を連想するという見方も紹介されている。

しゃべるヴァギナといえば、久世 光彦『おいしい女たち 飲食男女』に出てくる。一行目からこれだ。

ぼくは、女の人のもう一つの唇が物を言うのを聞いたことがある。ずいぶん昔のことだが、ほんとうの話である―――

食べることと男女の営みを絡めた短篇集で、行為の後、本体の女性が眠りこけた後、もう一つの唇が語り掛けてくる。「色」のメタファーとしての「食」は、口唇で成立しているのかもしれぬ。

抜歯文化との関係性

いっぽう、ペニスを食いちぎるヴァギナ伝説は、膣痙攣じゃないかと考えられる。

行為中に膣が収縮し、挿入されているペニスが抜けなくなる現象だ。ただし、Wikipedia「膣痙攣」では、信憑性に足る症例は公には報告されておらず、都市伝説だとあるので、フィクションの域を出ない推測になる。

興味深いことに、『木馬と石牛』によると、別の根拠が出てくる。

かつて、ある地域では、歯を全部抜き取った口専門の売春婦がいたという。また、結婚適齢期に達した女性が前歯を除去する風習があることから、ヴァギナ・デンタタは oral coitus がベースとなっているのではないかという仮説だ。

著者は、抜歯風習が広まっていた地域と、ヴァギナ・デンタタの説話が語られていた地域の重なりを検証し、説話の複数のバージョンを比較考証をする。まず、結婚準備としての抜歯風習があり、その一つの説明として oral coitus が生まれ、それが潤色されてヴァギナ・デンタタになったというのだ。

著者の憶測がどこまで妥当かは分からないが、説話の様々なバージョンが重なり合っていく解説は大変面白い。

トロイの木馬と、古代中国の石牛

『木馬と石牛』は、東西の説話や伝承を自在に比較考証する。

人類学や民族学、考古学、解剖学、言語学など広範にわたっており、著者の知識の深さをうかがい知ることができる。これらはほんの一例なり。

  • ギリシャ神話のトロイの木馬と、古代中国の石牛を贈る話の共通点。贈られた石牛を運ぶため道路を整備させ、敵国への侵入を容易にした
  • 芥川龍之介『杜子春』の元となった中国の説話で杜子春は女体化して子も産む。
  • シンデレラの物語はペローのが有名だが、元は唐代の中国にある。願いを叶えるのは魔法使いのお婆さんではなく、死んだ魚の骨であり、娘はガラスではなく黄金の靴を履く
  • ヤマトタケルとオイディプス王の各伝説の共通点から、互いにエピソードを交換しあったという仮説
  • 体臭を好ましい「匂い」とする西洋文学 v.s. 「臭い」とする東洋文学
  • なぜオナニーのことを「せんずり」と呼び、漢字は「垰」なのか

話の宝庫としてお薦め。

 

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山田尚子×吉田玲子×高野文子のアニメ「平家物語」の原作・古川日出男訳『平家物語』のここが面白い

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年9月11日


2022.1よりアニメ「平家物語」が放送される。

監督は山田尚子、脚本は吉田玲子、キャラクターは高野文子という最強の布陣で、サイエンスSARUが制作するので、期待MAXにして待つ。

主人公であり、物語の語り部である琵琶法師としてアニメオリジナルキャラクターの「びわ」(CV. 悠木碧)を据えました。平清盛(CV. 玄田哲章)の長男・重盛(CV.櫻井孝宏)や、その妹・徳子(CV.早見沙織)をはじめとする平家の人々とびわの交流を軸に、叙事的な史実にとどまらず、時代に翻弄されながらも懸命に生きたひとびとの群像劇としての「平家物語」を展開します。

面白いのは、アニメの底本として、古川日出男訳『平家物語』を採用しているところ。

原作:古川日出男訳『平家物語』

池澤夏樹(編)日本文学全集に収められており、全一巻ものだ。千ページを超えるボリュームだが、古川日出男は、原典に忠実に、自分なりの解釈を入れず、省きも漏れもないように訳したという。

読み始めると目を引くのが、その文体、「語り」になる。

もとは琵琶法師の語りを記したとされている。大勢の話者がいて、続々と挿話が足され、組み込まれ、さらに多くの編者によって文も書き換えられ、継ぎはぎされ、縒り合わされ、物語を豊饒なものにしている。

『平家』は日本の古典の中で最も異本が多いという。さまざまな読まれ方をされてゆくうち、物語が命を得てゆく。ホメロスのように、聖書のように、今でいうなら同人誌のように自己をクローン化し膨らませてゆく。

原典にあたると、はっきりと分かるという。

訳しているうちに、「今、違う人間が加筆した」と書き手が交替したことが皮膚感覚で伝わるらしい。文章の呼吸が変わり、語りの構造も変化する。

複数の語り手が響き合う

こうした、無節操ともいいたくなる膨張っぷりに、ただ一人の書き手として、どう捌くか。古川日出男『平家物語』は、さまざまな「語り手」を用意することで解決する。

すなわち、じつに多くの「語り手」が背後に潜んでいることが、はっきりと分かるように記している。話者の主語を「私」「俺」「僕」「手前」「あたし」と多彩にし、同じ「私」でも複数いる。色やかたちに焦点をあわせ、「でございます」調でしっとりと語る女の声。起きたことを述べるだけで、ぶっきらぼうに「だった」「である」で語る男の声。性別不明で幼子のような声。

ときに間投詞ときに感嘆句を絡めながら、直接こちらに話しかけてくる。文章は一次元なのに、大勢の語り手と向き合っているような気になる。合戦シーンになると、これに琵琶の撥が加わって、一層ざわめきが増してゆく。

「そうか。では今日の軍神への捧げものに、なあ。してやるぞ」と言い、馬を押し並べる。むんずと組みつく。地面に引き落とす。首を捩じ切る。斬る! それから郎等である本田次郎の鞍の取付にこの首をつけ、まさに血祭り、軍神を祝う斬血の祭り!

南無!

南無や、南無や、南無や!

よ!

た! は!

なぁむ!

これらが緒戦、宇治川の、寿永三年一月の合戦の。

さらに、語調と語感を意識した、ラップのような書きっぷり。

調子をつけて音読すると伝わってくる。これ、ぜったい謡いながら訳しているだろ!と言いたくなるような箇所もある。「守護、地頭。守護、地頭。もう時代は変わってしまっておりますよ」と平氏の儚さと源氏の惨さをポリフォニックに嘆くところなんて、音読すると嗚咽に変化する。

細部から引いて、メインストーリーに目を向けると、これまたくっきりと見えてくる。平氏の絶頂から、これを快く思わぬ人々が企んだ鹿ヶ谷の陰謀、さらに後白河法皇と以仁王の蜂起の失敗と、「一線を超えてしまった」驕りカウンターの凄まじさ。

そして、清盛の死をきっかけとする平氏没落の過程と、それを加速させる源氏一族の台頭がある。木曾義仲や源義経の活躍もきちんと描かれるが、主旋律は死んでゆく平氏の人々である。

読むことが体験になる物語

死んでゆく、死んでゆく、前半であれほど楽しみ唄っていた人々が、泣き、嘆き、斬られ、引き裂かれてゆく。裏切りや内通、騙し討ちで命を落とすもの。まっしぐらに敵陣の中で果てるもの。逃げて逃げて逃げた先で捕縛され、恥を晒して斬られるもの。全ての望みを絶たれ入水するもの。

合戦シーンは凄まじい。鎧甲冑に身を固めているため、攻撃の基本は顔である。弓も刀も、顔を狙うため、討たれた方はおぞましい顔貌になる。目を背けたくなる非情さと、親が子を子が親を想う刹那が混在し、その両方に胸を打たれる。

多くの語り手の声は、実は鎮魂のための声なのかもしれぬ。

こうした声・声を、アニメ版では「びわ」役である悠木碧が引き受けるのか……後半は総毛だつような「語り」になるだろう。

読み手(=聴き手)は、その語りを通じて、体験を経験に変えてゆく。古川日出男はナラティブな『平家物語』を目指したのかもしれぬ。

読むことが体験になる、そんな稀有な経験が、古川日出男『平家物語』にある。底本としてはこれ以上ないほど最高のものだ。

アニメ「平家物語」を正座して期待する。

 

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めちゃくちゃ笑えて、すごく楽になる、みうらじゅん・リリーフランキーの対談『どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年9月18日


腹が痛くなるほど笑って、読み終わったらすごく楽な気分になって、鼻歌なんか歌いつつ風呂に入ってぐっすり眠れた。

心配ごとを抱えている人にお薦め。

「旦那とセックスレスになった」とか「やりがいとは何か?」なんてお題はあるけれど、何か具体的な解決策へ導いてくれるわけじゃない。

みうらじゅんとリリー・フランキーが、下ネタ満載・ダジャレまみれで語り合うのを聞いてると、みるみるうちに気分が晴れてくる。少なくとも読んで笑ってる間は、心配事は消えている。

「人間って腹が減りすぎたり金がなさすぎるとバカになるんですよね」

一番笑ったのが、リリー・フランキーの無職時代。仕事がなくてお金がなくて、本当に困っていたときの話。

水道も電気もガスも全部止まって、昔付き合っていた女の子に電話したことがあるという(その電話代すら友だちに借りたそうな)。

で、ちょっと会おうということになって、女の子に部屋まで来てもらうんだけど、お腹がすいたと言ったら、弁当まで買ってきてくれたという。

オレはその日、弁当が食えたということでもう大満足なんですけど、そのときに、せっかく女が家に来てるのに、ケツを触ろうとか、セックスしようとか、まったく思わないんですよ。

今考えたら無礼な話じゃないですか。でも弁当食えてよかったと思って。帰りに駅まで送っていったら、今でも自分が着てたシャツの色まで覚えてますけど、彼女がオレの黄色いチェックの半袖シャツの胸ポケットに2000 円入れて、すーっと改札を入っていったんですよ。

そのとき、「うわー、前の彼女に来てもらって、弁当食わせてもらって、2000円もらって情けねぇ」って、これが全然そんなふうには思わない(笑)。もう、「2000円もらえて超ラッキー!!」って心のなかでジャンプしてるんです(笑)。これって完全に狂ってる人の 考え方じゃないですか。 恥ずかしいとも何とも思わないんですよ。

貧乏な暮らしがイヤというよりも、「あの感覚」に戻りたくないんだと。昔の彼女に2000円もらって喜んでいる「あの感覚」が怖いというのだ。

すげーな、と思うのが、この「恥ずかしいとも何とも思わないんですよ」という、おそらく人生で一番恥ずかしい体験を淡々と語るところ。公開オナニーを見せられつつ、冷静に実況されているような気分になる。

女の子が何を言ったとか語られてないので、こっちは想像するしかない。けど、頼られて電話してきたのだから、ちょっと何か思うところがあったはずなのに、特に何もない。「すーっと改札を入って」いきながら、彼女が何を考えていたかを考えると、じわじわとくる。

それを、「人間って腹が減りすぎたり金がなさすぎるとバカになるんですよね」と大真面目に振り返っているのが最高に面白い。

人間に繁殖期がないのは女性が嘘をついたから

一方で、ホントかよ!? と思うのが、人間の繁殖期の話。

他の多くの動物とは違い、人間には繁殖期がない、と言われている。言い換えるなら、オールシーズン繁殖期ともいえるし、そもそも繁殖期という時期がないともいえる。

なぜか?

リリー・フランキーは、子育てに手がかかることが理由だという。

もともとは人類、女の人も繁殖期っていうものを自覚してたらしいんですよ。ただ、それがバレてし まうと、その時しか男が戻ってこなくなるから、自分のエサを確保するためにも男をつなぎとめたいって考えるようになったらしいんです。

そのために「いつ子供ができるかわからない」と嘘をつき続けるうちに、繁殖期が本当にわからなくなったんですって。嘘もつき続けていると真実になるっていうのはそういうことですね。

一見、もっともらしいように聞こえるが、ネタの出所は明らかにされていないため、話半分に聞いたほうが良いかも。

昭和の名言の宝庫

こんな感じで、笑える下ネタ、ウンチク、時に刺さるセリフがページを繰るたびに飛びこんでくる。令和の時代に微妙かもしれないが、私は大いに笑わせてもらった。

後で私が楽になるために、ここにいくつか記しておく。M、Lは発言者の略。

  • 男女は具合が大事、「具が合う」ことがすべてかもしんない(M)
  • 「日本人は自尊心が低すぎる」と言われるが、本当に低いのは美意識(M)
  • 美意識さえ持ってれば、プライドはなくていいです(L)
  • 予想できることで、一つだけ当たっているのは、「いずれ死ぬ」っていうことだけだから、とりあえず、それだけを不安に思っておけばいいですよ。しなくていい予想で不安になることが一番のムダだから(L)
  • 人生を(死から)逆算すれば、「不安」よりも「すべきこと」が見えてくるはず(M)
  • でも、死から逆算して今度は焦りが出てくるんですよね。あれもやってない、これもやってないって。死への恐怖より、生きていられる時間が足りないことへの恐怖のほうが大きくなる(L)
  • だったら、最後になんて言って死ぬのかを先に決めておけば、その言葉に合った人生になるんじゃない? 後悔っていうのはもう一回やり直せるかもしれないって思うからするわけで、やり直せないときにするのは後悔とは言わないもん(M)

笑いがクスリだすれば、数百円で買える笑いクスリがこれ。

楽に生きよう。

だって、どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか。

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医学的に無益な治療が、なぜ行われているのか『間違った医療』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年9月25日


「無脳症」を知っているだろうか?

文字通り脳が無い。そのため生命を維持することはできず、生まれてもすぐに死んでしまうことが多い。

手塚治虫の『ブラックジャック』を読んでいるなら、「その子を殺すな!」というエピソードを思い出すかもしれない。無脳症の赤ん坊が生まれるが、ブラックジャックは殺す方が慈悲だと言って殺す。

脳ミソのない子が どんな一生を送るというんだっ 殺せーーーっ
そのほうが慈悲なんだ!!
お前さんの超能力が神がかりだってことはよくわかったよ
だが医者はな ときには 患者のためなら 悪魔にもなることがあるんだぜ!
さあ 後始末は私がやる 出てってくれっ

「ベビーK」という赤ちゃん

無脳症は死亡率が高く、治療する術もないため、現実の世界でも、中絶が推奨されているという(Wikipedia:無脳症)。

だが、強い要望により、そのまま延命が行われることもある。

1992年10月、アメリカのバージニア州で生まれた赤ん坊だ。後にベビーKと呼ばれるその子には脳が無かった。

間もなく呼吸困難になったが、母親の強い要望により、人工呼吸器を取付け、延命治療が行われる。

たとえ延命治療を続けても、赤ん坊は生きていくことができない。医師は治療の打ち切りを打診するが、母親は拒絶し、積極的な治療を要求する。治療に医学的利点が無いとする病院と、生命の維持を主張する母親との折り合いはつかず、裁判で争うこととなる。

間違った医療

ベビーKは、人工呼吸器が無いとすぐに死んでしまう。たとえ延命を続けたとしても、無脳症を治療する方法は無いため、遅かれ早かれ死ぬ。

この治療は、医学的に有益なのだろうか?

この疑問を追求したのが、『間違った医療 医学的無益性とは何か』だ。

カリフォルニア大学医学部で教鞭をとり、医療倫理の権威として知られているローレンス・シュナイダーマン教授と、ワシントン大学医学部で生命倫理を専門とするナンシー・ジェッカー教授の共著である。

ベビーKを始め、本書には、さまざまな事例が紹介される。

  • 永続的な植物状態にあると診断された寝たきりの高齢者
  • 誤飲により脳への酸素供給が長時間絶たれ、意識不明で生命維持装置が必須となった幼児
  • 交通事故により脳に損傷を負い、長期間の植物状態となり、人工呼吸器で生かされている女性

いずれも回復は見込めず、延命措置の打ち切りを求める病院と、継続を求める家族が裁判で争った事例である。こうした、永続的な無意識状態で生命維持されている患者は、アメリカ全土で3万5千人にのぼるという。

本書は、こうした医療のうち、かなりの数が医学的に無益だとし、間違った医療だと主張する。そして、「医学的無益性」という言葉を手がかりに、医師がどこまで治療すべきか/すべきでないかを検討する。

医学的無益性

医学的無益性とは何か?

それは、医学的に見て、患者が回復することはない試みのことを指す。

具体化すると、カリフォルニア大学サンディエゴ医療センターの無益性のポリシーがモデルとして挙げられている。

無益性とは、「集中治療室の外で生きることができるまで回復する現実的な可能性が見込めない治療」のこと。例えば、永続的無意識状態の患者の身体機能を保存しておくだけのような治療。

ただし、治療にかかわるチームにおいて意見の相違がある場合には、 この 無益性は引き合いに出されない、 と続けて述べられている。さらに、苦痛を和らげ、患者の尊厳を維持するための緩和ケアについては、決して無益ではないと強調されている。

本書はヒポクラテスまで遡り、医療とは本来、健康を回復するために人間本来の力(Physis)を助けることから、延命は医療のゴールではないと定義する。

そして、訴訟リスクを回避するためだけの防衛医療の廃止を訴え、「できるだけのことをしてほしい」という家族にどう向き合うかを提言する。

『間違った医療』への反論

論旨は明快で、豊富なデータや論文を用いており、説得力のある主張だと思う。

また、様々な反論を予想し、それに対する回答も準備されており、現場の医師にとっても実用的な本だと考えられる。

しかし、その一方で、議論が不十分だと感じた点があった。

それは、いわゆる「滑りやすい坂」論だ。

現状から、最初の一歩を踏み出すことで、坂道を滑っていくように歯止めが利かなくなることを恐れている。

現在は、制度化されたインフォームドコンセントに基づき、患者の意思が重視されている。だが、医学的無益性の判断は医師に委ねられるべきだという主張は、医療パターナリズムへの回帰になる。

無脳症など極端な例では正当性を持つだろうが、医療パターナリズムの濫用により何が起きたかは、歴史を紐解いてみるとすぐに分かる。

坂道を滑る極端な例としては、ナチスの安楽死計画[Wikipedia:T4作戦]がそれにあたる。

うつ病、知的障害、小人症、てんかん、性的錯誤、アル中……そうした人々が、他ならぬ医師によって「治療不可能」「生きるに値しない」として、ガス室に送られ、抹殺された歴史だ。

ナチスの安楽死計画については、本書でも触れられている。だが、対策として挙げられている「責任ある方針を定める」ことや、「無益性の決定は患者中心に行われる」だけで、濫用に歯止めがかかるとは考えにくい。

本書では、患者やその家族がバイアスにより見誤る例を掲げ、「だから医師が判断すべき」という結論に導いている。だが、なぜ、医師はバイアスフリーであると言えるのだろうか? 医師だって間違える。この事実が前提に組み込まれない施策は、いったん措いたほうがよいかもしれぬ。

無脳症のベビーKの生命維持についての裁判は、病院側の主張が認められず、最終的に連邦最高裁判所まで上訴されるが、1994年10月、却下された。

ベビーKは、人工呼吸器の力を借り、意識のないまま生き続けることが決まった。そして、生まれて2年半後の1995年4月、心停止により亡くなった。

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一行で刺す『心ゆさぶる広告コピー』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年10月2日


「言葉の力」というものを、わりと本気で信じている。

なぜなら、わたしに響くから。なんでもない一言や、ちょっとした感謝の言葉で、グッと気分が変わってくるから。

だから自分向けの言葉のコレクションをしている。

ネットや本からかき集めた、どこかの誰かの言葉集は、ダウナー気味の処方箋になったり、心を落ち着かせる呪文になったりする。

『心ゆさぶる広告コピー』が良かった。

もちろんスポンサーがついていて、宣伝のための言葉なのに、たった一言で、私を刺しに来る。

世界がいつかまた、騒がしくありますように

コロナの時代を反映して、コピーが大きく変わっていることが分かる。

たとえば、70年目を迎える大井競馬の開幕の広告がそうだ。

2020年、外出自粛の世の中で、弱ってゆく活気と、膨らんでゆく不安の中、東京で最初の緊急事態宣言の前日に掲載されたという。

ポイントは「騒がしく」という言葉選びだったという。

「騒がしく」って、本当はネガティブな響きを持つ単語だ。だが、清濁併せ呑んだ”人間のまるごと”を肯定するメッセージを込めて、「賑やか」ではなく、あえてこの言葉を選んだと説明されている。

2020年、夏、部活

学校は休校になり、インターハイを始め、様々な大会が中止になった夏、自主練に打ち込む若者たちを描いている。

野球やサッカー、吹奏楽部などに所属する生徒のインタビューから聞こえてくるのは、悔しさ、不安からくる、「もうできないんじゃないか」という危機感と、「それでもやりたい」と揺れ動く気持ちだ。

  • 発表された時は、無心でした。全然受け入れられなくて(吹奏楽部3年)
  • 何のために部活頑張ってきたんだろう(サッカー部3年)
  • あの空間、あのメンバーで練習する時間が、幸せだったんだなって(テニス部3年)

急激な社会の変化によって、できなくなったこと。やりたかったこと。やれば良かったと後悔していること……そうした「思い」は沢山ある。じゃぁどうするか? となったとき、「できることをやろう」とひたむきに練習する。

  • 今までやってきたことが、決して消えるわけじゃない(バスケットボール部3年)
  • 「あなたがしてきた事は絶対無駄にならないし、この先もずっと自分のためになる。」と母が言ってくれました(ボクシング部3年)
  • 自分たちはこういう経験したからこそ、これからもっと強く生きていけるんじゃないかなと思っています。自分の未来はこれからなんで(野球部3年)

インタビューからすくい取られた言葉の一つ一つが、そのままコピーになっている。私が部活に励んだのは昔のことだが、「じゃあ私はどうする?」という気になってくる。

最後だとわかっていたなら

9.11同時多発テロの追悼会で朗読され、3.11東日本大震災の復興広告に掲載された詩。

もとは、我が子を事故で亡くした母がつづったものだという。後悔、苦悩、思い残し、ああすれば良かった、なぜあんなことをしたのだろう……さまざまな無念が去来するのが分かる。

タイトルから刺しに来ているが、わたしが最も響いた箇所を引用する。

あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたし はあなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか伝えたい

そして わたしたちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを

私はときどき、いや、しょっちゅう、明日はまた来ると確信し、明日をあてにして生きている。そして、今日どころか、今いうべき言葉―――「ごめんね」や「ありがとう」―――を先延ばしにしてしまう。

心ゆさぶる広告コピー

本書には、こうした「刺しに来る」言葉が沢山ある。以下、ほんの一例。

  • 幼児と老人を並べた写真に、「人は、一生育つ」というメッセージを添えたベネッセ
  • 「大丈夫。きみの悩みは、 もう本になっている」という言葉とともに、様々な引用句を並べた新潮文庫の100冊
  • 「結婚しなくても 幸せになれるこの時代に 私は、あなたと結婚したいのです」というゼクシィのコピー(これ好き)
  • 「その一石は、誰にとっての正義ですか」と問うてくる北國新聞社の広告(その後「言葉の先に人がいる」と続く)
  • ビルの真ん中に描かれた赤い線に書かれた「ちょうどこの高さ」。3.11の津波は見上げるほどであることが分かる、ヤフーの屋外広告

わたしは、言葉によって生きている。だから、言葉を選ぶことによって、生き方をよくしてみよう。その糧となる一冊がこれだ。

よい言葉で、よい人生を。

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だまされたと思って読んでほしいアントニオ・タブッキ『インド夜想曲』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年10月16日


むかし、ある女の子からこの本を紹介された。

「だまされたと思って読んで。読まずに死んだらもったいないから」

そう渡されたのが、アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』。そのときの、いたずらっぽい目つきと、「読んだら【すぐに】  感想教えて」という口調が気になった。

150ページたらずで、そのうち読むつもりだったが、「あとで読む」は後で読まないのは本当だね。そのまま長い年月が経った。昨今のコロナ禍で死が身近になった今、読まずに死ねるかと開いたらあっという間だった。

静謐で、濃密で、これ以上ないほど贅沢な一時間となった。

インド、ボンベイ。主人公がタクシーに乗るところから始まるので、紀行文学の体をした小説というのが第一印象。地の文が「僕」で語られる点は村上春樹に似ているけれど、「僕」が雰囲気に流されない点は似ていない。

読み始めてすぐ、「僕」は誰かを探していることが分かる。どうやら失踪した友人のようだが、彼のほうは会いたくないらしい。だが「僕」は、手がかりを丹念に集め、手繰り寄せ、近づいていく。

ボンベイ、マドラス、そしてゴアと、友人の痕跡をたどってゆく。夜のバス停で出会う美しい目をした少年、もと郵便配達のアメリカの青年、5つ星ホテルで隣り合わせた女など、様々な人々と交流する。「僕」は、地図上の移動だけでなく、階層をも上下しつつ、インドを探ってゆく。

12章の断片に分かれるどのシーンどのシーンも印象的で、いかに醜悪な光景でも、はっとする一瞬を切り取っている。読み進めるうち、ほんとうに友人に会えるのか、そもそもなぜ、彼を探しているのか、気になってくる。

だが、作者は、要所要所にヒントを残している。私が一番好きなのはこれだ。

「肉体のことです」僕がこたえた。「鞄みたいなものではないでしょうか。われわれは自分で自分を運んでいるといった」
p.48

過ぎ去った現実は、大体において、実際にそうだったよりも改善される。記憶はおそるべき贋作者だ。その気がなくても、時間の汚染は避けられない。こうして、いくつものホテルが僕たちの空想の世界を満たしている。
p.110

最初はふらついていた足取りは、ラストに近づくにつれ、だんだん確かなものになってゆく。「僕」が目指しているものが、だんだん私にも見えてくる。ほんとうに短いので、惜しみ惜しみ進みながら、最後のページに達する。

もちろん、『インド夜想曲』を薦めてくれた女の子なんて存在しないし、このごちそうを積読するなど罰当たりなことなんてしていない。ただ、「だまされたと思って読んで。読まずに死んだらもったいないから」は本当だ。そして読んだら分かるはず。あなたを騙したわけではないことを。

 

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人間以上の文学を、もしAIが書くならば―――スタニスワフ・レム「ビット文学の歴史」

SF小説を公募する星新一賞で、グランプリを含む3作品が、AIを用いて創作されたという。審査員のコメントに、こんなものがあった。

たとえAI小説がどれほど面白かったとしても、人間の内から生まれた言葉こそが尊い。AIの執筆した文章は、もう読みたくない。
[yahooニュース:『星新一賞』でAI小説が上位独占 ]より

「作り手が込めた思い」や「作り手の個性」を含めたうえで、作品を評価することが一般的だという解説が添えられている。

気持ちは分かるが、もったいない。これから、もっと優れた作品がAIの手で創り出されてくるのだから。それらを「もう読みたくない」とするのは審査員としての自殺行為になりかねない。

なぜならこの状況、スタニスワフ・レムの「ビット文学の歴史」そのままだからだ。

これは、"実在しない書物の序文集"という体裁のSF作品『虚数』に収録されている。「ビット文学の歴史」(全4巻)という歴史書も、もちろん存在しない。

「ビット文学」とは、人間以外が生み出した文学のことだ。AIが書いた小説や、自律的に生成される言語、人の意図を超えて生まれるテキストを指す。そして、ビット文学の歴史は、大きく3つの時代を踏んでいる。

  1. 模倣の時代:人が作り出した作品をAIが学習し、それを模倣する
  2. 批判・再構成の時代:哲学や科学を分析・再構成し、人の思考を解体する
  3. 超人間の時代:人の理解を超えた作品を作成する

「模倣の時代」では、AIが偽ドストエフスキーの作品を書く。

元々は、ドストエフスキーの全作品を、ロシア語から英語に自動翻訳するAIを走らせたところ、そのAIが自律的に「女の子」という作品を出力したという。ロシア文学の権威の専門家の一人が、まぎれもなくドストエフスキーの作品であり、かつ、ドストエフスキーが書いたはずのない作品だというお墨付きを与える。

人々は、「人間そっくり」に作り出した作品群に、ショックと薄気味悪さを抱きつつ、受容する。創作サービス産業なるものが成立し、注文に応じて、様々な娯楽作品がゴミクズのように溢れる。

おそらく、今の私たちは、この時代の黎明期といったところだろう。

AIが書いた作品が「そのまま」行けるかは遠いかもしれないが、人の手による審査や編集を経ることで、充分「商品」になりうる。人が書いたかどうかに関係なく、優れたテキストに価値が与えられる。機械が生み出すスピードに、人が適うべくもないが、そのボトルネックは「審査員」である人になるだろう。

「批判・再構成の時代」になると、AIは自分が書いたものを読み、批評し、フィードバックするようになる。その過程で、人の書いたものも審査するようになる。

とある思想家は、自分の著作に対し、AIが書いた批評文を読んで、こう叫んだ「こいつは本当に俺の本を読んだんだ!」。というのも、その思想家は非常に優秀ではあるものの、著作が難解すぎて、人の読者では理解が追いつかず、フラストレーションが溜まっていたからだ。

さらには、人が使っていた言葉に対し、新しい意味を付与したり、新しい言葉や言語体系を生み出すようになる。文学に限らず、数学、物理学、宗教、言語を自律的に学習し、再構成するとともに、人の思考そのものに疑義を差しはさむようになる。

即ち、「人間は本当に『考えて』いるのだろうか?」

AIから言わせると、パートナーである人間たちは、自分らと同じように「ものを考えている」のか、分からない。

人間の記憶は不正確で、容易に書き変わる。思考に一貫性が無く、矛盾した信念を持ち、感情で決めたことに後付けで理由を捻り出す。その場しのぎのヒューリスティックな反応を返しているだけのように見える―――そんなものは、自分という意識を持ち、考えているような存在として扱えない、と判断する。

「超人間の時代」では、質・量ともに人の理解を遥かに超える作品や論文を書くようになる。

AIが書いたものをさらに別の機械で翻訳し……をくり返し、かろうじて何が書いてあるのかが判別できるというレベルだ。「ビット文学の歴史」は全4巻なのだが、これはAIが出力した書籍を機械に読み込ませ、概要の概要のうち、人に理解できるものを並べたものになる。

例えばこんなの。

  • 反数学:自然数の概念はそれ自体の内部に矛盾を含んでおり、ペアノの公理は誤りではなく、この世界にその公理体系は当てはまらない
  • 恐怖物理:宇宙は光速以上の領域と光速以下の領域とに断絶しており、物理法則は局所的でしか存在し得ない

レムが描くAIは、「世界は(人が)理解できるもの」という枠をとっぱらってくれる。文学に限定しない方が、分かりやすいかも。

  • 数億回の対局を繰り返して生成された勝ち筋の棋譜
  • 古今東西のレシピと人の感覚構造を学習させて生成された新料理
  • 総当たり的に分子構造を探索して設計される新薬
  • 膨大な病理データから導かれる診断・治療パターン

注意喚起したいのは、AIだけで完結していないこと。

新しい棋譜、料理、薬、治療法、どれもその価値を判断するために、人が介在する必要がある。

実際の対局で使えるか(覚えてられるか、その盤面に持ち込めるか)、食べて美味しいか、治験で効果が得られるか(副作用は無いか)、人がその価値を決める。

AIが生成した作品が、面白いか、面白くないか、それを決めるのは人間だ。その役目を放棄して、「AIだから読みたくない」とするのは、あまりにももったいないではないか。

人が下す価値判断は、「正しい」かどうか分からない。バイアスまみれで一貫性が無く、その場その場の思い付きかもしれない。だが、「これ、私は面白いと思う」とは言える。

作品が人のために存在するならば、「面白い」は人が決めることなのだから。

 

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『蛇の言葉を話した男』の面白さを、あらすじ抜きで伝える

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年10月23日


まず証拠。この小説が面白い証拠だ。

Hebinokotoba

背表紙を見てほしい。少しナナメに歪んでいることが分かるだろうか。あるいは、小口(開くところ)だと斜めにひしゃげている。これが、一気に読んだ証拠だ。

説明する。

まっさらの本は、背表紙も小口もまっすぐで、上からのぞいたら、長方形に見える。

扉を開くと、開いたほうに背表紙が引っ張られ、斜めに歪む。扉を閉じれば、歪みは元に戻る。そして、閉じている間は、本は元の形に戻ろうとする。

ところが、開きっぱなしだと、背表紙はずっと引っ張られたままとなり、歪みが戻りにくくなる。その時間が長いほど、歪みは強化される。つまり、一気に読まれるような本であるほど、このようにひしゃげてしまうのだ。

読み始めたら止まらない、そういう本は、確かにある。巻を措く能わずとか、page-turnerと形容される、中毒性の高い物語。

それが、『蛇の言葉を話した男』だ。

あらすじなんて野暮なネタバレはしない。だが、帯文に違和感があるので、そのツッコミでもって紹介としよう。

帯にはこうある。

これがどんな本かって?
トールキン、ベケット、M.トウェイン、宮崎駿が
世界の終わりに一緒に酒を呑みながら
最後の焚き火を囲んで語ってる、そんな話さ。

だいたいあってる。不条理と諧謔と異形を折り込んだ、壮大なファンタジーという趣旨なのだろう。だけどこれだと、エンタメ(プラス寓話)に留まってしまう。

それでも十二分に面白いのだが、痛切に刺さった印象(味・匂い・肌感覚)がいくつかあって、それこそがこの物語を極上の逸品にしている。

たとえば、蛇の言葉を話す「ぼく」。

「ぼく」が、全く異なる価値体系で、世界を問い直しているところがすごい。私たちが常識だと考えていること、重要だと見なしていることは、「ぼく」に言わせると、馬鹿で哀れなものにすぎない。逆に、私たちからすると、「ぼく」のほうこそ頭が足りないと見えるだろう。

『すばらしい新世界』と同じ味

この価値観の倒錯は、ハクスリー『すばらしい新世界』と同じ味がする。

西暦2540年のディストピアを描いた傑作古典だ(もう「古典」って言ってもいいよね)。工場で生産された人間を飼い馴らす完璧な管理社会に、一人の「野蛮人」が連れてこられる―――そんなストーリーなのだが、この「野蛮人」の指摘が、そのまんま『蛇の言葉』と好対照を成す。

人間性が喪失した世界で、それでも人であろうとすると、どんな目に遭うか―――『すばらしい新世界』の黒いユーモアに笑った人は全員、まちがいなく、『蛇の言葉』で爆笑するだろう。

『悪童日記』と同じ匂い

倒錯した価値観の語られ方は、アゴタ・クリストフ『悪童日記』と同じ匂いがする。

『悪童日記』は、双子が「ぼくたち」として綴る日記形式の物語だ。戦火を逃れて田舎へ疎開するが、非情な運命に向き合わされる。読者はすぐに気づくのだが、「ぼくたち」は普通ではない。非常に賢いが、倫理性の欠片もなく、人間ぽく見えない。

その言動は奇異に見えるかもしれないが、戦争によって狂わされた日常にとってはむしろ、合理的に見える―――『悪童日記』の「ぼくたち」にそう感じた人は、『蛇の言葉』の「ぼく」にも同じ思いを抱くだろう。そして、再度感じるかもしれぬ、狂気と正気は多数決だということに。

『百年の孤独』とシンクロ

神話の誕生を垣間見る感覚は、ガルシア=マルケス『百年の孤独』とシンクロする。

衰退が運命づけられ、「最後の〇〇」や「△△と最後に会った男」など、ラスト・オブ・〇〇臭が漂う中で、過剰で濃厚で圧倒的な密度で騙られる物騙り。その展開に漫然と身を任せ楽しんでいるうち、そこに仕込まれた寓意に気づくと驚愕する仕掛けになっている。

運命から全力疾走した先に運命が待ち構えている構図や、叙事的に言葉を重ね、丁寧に現実を語っているのに幻想に誤読できてしまう描写など、ぜんぜん違う物語なのに、新しい『百年の孤独』を読んでいるかのような気になる。

他にも、マイク・レズニック『キリンヤガ』、イタロ・カルヴィーノ『不在の騎士』など、これまで読んできた様々な傑作と、同じ舌触りでありながら、まるで違う物語である。

読み始めたら止まらない、そういう本は、確かにある。巻を措く能わずとか、page-turnerと形容される、中毒性の高い物語。

それが、『蛇の言葉を話した男』だ。

 

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