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経済学は「科学」なのか?『社会科学の哲学入門』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年10月30日


経済学は「科学」だろうか?

頻繁に書き変わる教科書は、物理学のと好対照を成す。経済学の研究者は好きなことを勝手な方法で分析し、主張し、何やら数式モデルは出てくるけれど、再現性も説得力も無さそうに見える。

わたし自身、もう経済学の勉強はしていない。なぜなら、やればやるほど分からなくなるから。

現実を追いかける教科書

例えば、経済学の教科書は数年で書き変わる。

『クルーグマン国際経済学 理論と政策』が象徴的だ。3~4年で更新され続け、今冬12版が出る。更新のたび、理論が書き変わり、モデルが追加されてゆく。

世界金融危機やブレグジット、中国の台頭といった新しいトピックに対応していると言えば聞こえはいいが、その度に新しいモデルやパラメーターを導入し、既存の理論との整合性を(ムリヤリ?)取る。

そしてひとたび、想定外の事象が起きたら、「ブラック・スワン」などというカッコイイ名前を付けて説明できたことにする。現実の経済に経済学が追いついていない証拠に見える。既存の理論を疑うのではなく、新しい出来事が起きたものと見なすために、新しい名前を付けることで、経済学者の精神は守られる。

結果、経済学の教科書は順調に厚みを増し、理論やモデルの補注だらけ、パラメーターまみれになる。

お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな

いやいや、経済学の古典とも言える思想を辿るなら、そこは揺るがない(はず)。

そう信じて、マルクスやケインズを齧ると、別の疑いが出てくる。

教科書の元となる彼らの思想そのものが、なんら客観性もなく、個人の価値観で歪められたバイアスではないか、という疑いだ。いわゆる「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」疑惑である。

例えば、大学教授への道が閉ざされ、借金に追われて住居を転々としたマルクスが構想したのは、「破滅へ向かう資本主義」だった。一方で、絵画や古書への造詣も深く、裕福なパトロンとして人生を愛したケインズは、「持続可能な資本主義」の立役者となった。

同じ「資本主義」でも偉い違う。これは、二人の生きた時代の違いだけでなく、二人の出自や生活環境、持てる者/持たざる者に因る歪みではないか。ハイルブローナー『世俗の思想家たち』を読むと、この思いは一層強まってくる。

そして、その時代ごとの風潮や為政者の思惑に、「たまたま」マッチした思想がもてはやされ、一世を風靡した後、共に消えていく(そして時が流れ、また流行や思惑に合いそうなとき、ゾンビのように復活する)。

経済学に疑いを抱いているのは、わたしだけだと思っていた。

だが、吉田敬『社会科学の哲学入門』を読むと、誤りだと分かった。

社会科学の教科書がない理由

経済学を始めとする社会科学への欺瞞は、何十年も前から議論されており、現在進行形で続いている。

社会科学の教科書がない理由は、トマス・クーンにまで遡る。

「いや、経済学の教科書はあるぞ」という反論は、私もしたい。だが、時代や地域だけでなく、学派によって偉い違う。だいたい、教科書そのものが数年おきに書き変わる現状では、「パラダイムが無い」と言われても仕方ないかも。

1958年から59年にかけ、クーンはスタンフォード大学の行動科学高等研究センター に滞在していた。そこでは、社会科学者たちが共通的な前提を一切せず議論をしていた。クーンは一種のカルチャーショックを受けることになる。

物理学なら、研究者全員に共有される「なにか」がある。それは前提や教科書、あるいは枠組みだったりする。クーンは興味を抱き、その「なにか」を概念化したものをパラダイムと名づけ、『科学革命の構造』を著すことになる。

つまり、クーンの立場からすると、物理学にはパラダイムがあるが、社会科学にはパラダイムが無いのだ。

クーンのパラダイム論に対し、社会科学者は賛否両論だった。

科学史において中心的な位置を占めてきた物理学と比べると、社会科学はどうしても見劣りする。そのため、社会科学もパラダイムを持つべきだという意見が現れるようになった。

一方、反対する人もいる。スティーヴ・フラーが代表的で、「パラダイムを受け入れる=基本的前提を疑うことなくそれに従って研究を進める」ことがダメだという。社会科学とは、皆が常識と考えるまさにその前提に、批判の目を向ける学問だ。従って、パラダイムを受け入れるのは、自殺行為だというのである。

フラーの立場からすると、経済学の教科書は幾つあってもいいし、どんどん書き変わることこそが、正しいことになるのだ。

経済学にやたら数式が出てくる理由

数式をありがたがる(?)理由も紹介されている。

物理学や天文学がこれほどまでに成功した理由は、数学のおかげだ。数式に基づく数学に基づく形式的な言語に置き換えることで、自然現象の説明や予測に成功してきた。

そのため、社会現象も同様に、数学的ないし形式的に説明したり予測するようになることが、科学的であることの証だと考えるようになったという。言い換えるならば、物理学のようになることが科学的とされたのである。

この考えを「物理学羨望」と呼ぶという。そして羨望のあまり、社会科学の方法は、自然科学と同じであり、前者は後者に還元できるという立場の者も現れるようになる。

一方で、物理学羨望を批判する者も現れる。物理学を科学の典型としてマネする態度を、フリードリヒ・ハイエクが「科学主義」と呼び、攻撃する。

自然現象を分解し、再構成する機械論的な自然科学のアプローチ(自然主義)と異なり、社会科学は、個人の意図や信念といった主観的な要素を取り扱う。そのため、同じ方法ではダメで、意図や信念といったものを解釈を通じて研究する(解釈主義)必要があるという。

同じ学問領域の中でも、自然主義と解釈主義という、まるで正反対のアプローチが存在している。それだけ社会科学が豊かなのか、とりとめのないのか……

自然科学と社会科学は違わない

「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」疑惑も、見事に喝破されている。

ただしこれ、経済学に限ったことではなく、社会科学、自然科学も含め、同じ轍を踏んでいるという主張だ。文化相対主義という。

文化相対主義とは、生まれ育った環境や、現在の立場やグループの慣習によって、「正しさ」が形成されるという考え方だ。あるものが「正しい」「合理的」と判断する基準は、その文化や慣習に内在しており、客観的に判断できるような基準は存在しないという。

仮に、何らかの判断を客観的に正しいと言い切る科学者がいるのなら、その科学者こそ、自分のバイアスに気づいていないことになる。

これ、経済学ならそうだよね、と大きく頷けるだろう。だが、自然科学はそうした価値判断のバイアスから程遠いのではないか? と考える。

本書では、マックス・ヴェーバーやアーネスト・ネーゲルを引きつつ、科学的論証には、科学者の価値判断が混入している主張を紹介している。

私が気づいた例だと、自然科学の研究において、以下のバイアスに陥っている研究者がいる。

  • キリスト教的世界観から「ビッグバン=光あれ!」縛りから離れられず、ビッグバン以前は「現在利用できるデータ・理論から説明できない」と言うべきところを、「無」と答えてしまう。「説明できない=無」ではないことに気づけない
  • 神に創られし人が住まう地球こそ唯一無二という価値観から、生命の誕生は地球説に固執し、地球外で生命が誕生する可能性を否定
  • 太陽系モデルを標準としてしまい、ホット・ジュピターなど系外惑星を見落とす等、自己中心とした宇宙観

上記は、現在進行形で更新されつつあるので見てて楽しい。

科学者も人であり、人である限り何らかの価値観を持っている。だからといって、全てを相対的に見てしまうと、何をもって「正しい」とするか分からなくなる。自然科学、社会科学に限らず、自分のバイアスに自覚的になることが肝要ですな。

科学哲学の観点から営みの根本へとガイドする恰好の入門書。

本書は読書猿さんに教えてもらって読んだ素晴らしい一冊。ありがとうございます! 読書猿さん。

 

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イギリスの歴史の教科書に嘘は書いていないが本当の事も省かれている

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年11月14日


世界史を学ぶほど、イギリスが嫌いになる。

奴隷貿易、インド支配、アヘン漬け、三枚舌外交など、悪い印象しかない。アフガニスタン紛争やパレスチナ問題など、今なお続く厄介な問題を手繰っていくと、きっとイギリスの悪行が見つかる。にもかかわらず、イギリスが代償を支払ったことは見たことがない。

仮に、歴史の審判なるものがあるのなら、その目はイギリスを素通りしている。でなけりゃ、審判自体が存在しないか。

そんなイギリスが、自国の教科書に何と書いているか?

植民地支配を「なかったこと」にしているのか。あるいは、不都合な事実を歪曲してほっかむりをするのか。さもなくば、嘘八百を並べ立てているのか。

イギリスの中学の教科書『The Impact of Empire/帝国の衝撃を読んでみた。

イギリスには、日本のような教科書検定制度は無い。

だが、学習指導要領に相当する、ナショナル・カリキュラムに準じる必要がある。カリキュラムの「指示」に従い、「イギリス帝国の存在が、イギリスと、海外の異なる地域や人々に与えた影響力を学ぶ」方針に沿って執筆されたのが、これだ。

イギリスの教科書に書いてあること

結論から言うと、嘘は書いていないけれど、本当のことも省かれていた。

まず、植民地支配の歴史は書かれている。

日の沈まぬ国としての大英帝国の栄光の記録が、教科書の大半を成している。どんな試行錯誤を経てインドを支配するに至ったか、帝国の建設者となったのは誰かといった経緯が、物語られている。

奴隷貿易も書かれているし、虐殺は虐殺として書かれている。

例えば、セポイの反乱への鎮圧は、「正義」を超えた報復だとも認めている。

反乱者だと思われる人を片っ端から捕え、裁判抜きで処刑する。さらに、普通に殺すのではなく、大砲の口に縛り付けて粉々に吹き飛ばしたことも書いてある。ヒンドゥー教とやイスラム教徒が確実に地獄に行けるよう、強制的に牛や豚の肉を食べさせた後に処刑したことも書いてある。

あるいは、偽の外交文書で騙したことも書いてある。

アフリカのベナン王国と貿易条約を結ぶ際、英語を読める人が少ないのを良いことに、「ベナンの支配権を譲渡する」という文言を滑り込ませたという。当然、関係は険悪化するが、近代兵器で武装したイギリス人の敵ではなく、都は焼き払われ、財宝はエクセターの博物館に運び去られたことも書いてある。

イギリスの教科書に書いていないこと

一方で、清国をアヘン漬けにしたことは書いていない。

中国産の茶の需要が高騰したが、中国に売るものが無いため、インドからアヘンを持ち込んだことは書いてない。銀の流出を危険視した清国とアヘン戦争が行われ、南京条約や香港の割譲、不平等条約の流れは、一切ない。

これらは、帝国の圧力に曝されるアジア側にとっては危機感を煽られるものとして重視される一方、大英帝国にとっては相対的に「小事」なのだろう。

そもそもこの教科書、時系列に沿って歴史を記述する方法になっていない。

奴隷制や囚人植民地など12のテーマに絞り、その範囲で限定的に説明されており、網羅性は見るべくもない。アヘン戦争が書いてないのと同様に、小事として書かれていない暴力は、まだありそうだ。

しかも、特定の人物を主人公にして、その目を通して描写するという、いわば「歴史物語」の体裁を取っているため、「なぜそれが起きたのか?」「その後どうなったのか?」といった背景や影響は抜け落ちることになる。

三枚舌外交はどう書かれているか

象徴的なのは、イギリスの三枚舌外交だ。

アラブ側の軍事行動の見返りのため、ユダヤ人からの財政援助を求めるため、フランス・ロシアとの協定のため、イギリスは、相矛盾する3つの約束をした。フサイン・マクマホン協定、バルフォア宣言、サイクス・ピコ協定と呼ばれている。

そして、この三枚舌外交により民族対立が先鋭化し、現在まで続くパレスチナ問題が生じることになった―――と、日本の教科書(山川出版、帝国書院)やWikipedia[Balfour Declaration]にある。

もちろん、イギリスの教科書にも、この3つの矛盾した約束が書いてある。

だが、とあるイギリス人の物語という形で描かれている。

名前はガートルード・ベル、熱烈なアラブ主義者で、イギリス政府から高く評価された行政官である。彼女は、矛盾した協定を知ると、大いに心配し、アラブとユダヤの確執を恐れるようになる。

それだけだ。

3つの協定について、丁寧に書かれてはいる。どのような立場の人物が、どんな思惑で、誰と話し、どういう協定を結んだか……は書いてある。民族問題になることを懸念し、ガートルードが孤軍奮闘することも書いてある。

だが、彼女の努力は実を結ばず、睡眠薬で自殺するところでこの物語は終わる。

これは、とても奇妙に見える。

なぜなら、矛盾した協定を問題視しているのが、あたかも彼女一人であるかのような書き方をしているからだ。そして彼女の死が、問題視を帳消しにしているように見える。さらに後日譚のように、石油利権の話や、イスラエル支持のアメリカに対するアラブの反発が添えられている。

ナラティブの必要性

まるでヒトゴトのような書きっぷり。

この教科書で鍛えられたイギリス人は、矛盾した協定がなぜ結ばれたのか、それぞれの立場や思惑を説明できるだろう。そして、問題の複雑さ、解決の困難さについて、一家言を持つに違いない。

そして、決して、「自国のせい」とは思わないだろう。そのため、パレスチナ問題がどのように(how)生じたのかは分かっても、なぜ(why)起きたのかという疑問に向き合うことはないだろう。

しかし、この態度は「正しい」のかもしれない。

もし、問題の原因を過去に探し、その過ちの償いを求めようとするならば、どれだけ支払っても払いきれないぐらいの責務を背負うことになる。金銭的な補償だけでなく、精神的にも耐えられないだろう。良心の呵責に苛まれず、イギリス人が歴史を直視するためには、こうした物語の形で示す必要があるのかもしれぬ。

問題はもはやイギリス一国に閉じず、多数の国家、民族、宗教をまたがり、解決不可能とまで言われている。関わる人々の立場や意志があまりにかけ離れているため、問題そのものを客観的に記述することすら難しい。

そんなとき、歴史を、登場人物の出来事として語らせるナラティブが役に立つのかもしれぬ。「その人の目からは、こう見える」とすることで、少なくとも記述を最後まで続けることができるから。

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人生は残酷だが美しい『地上で僕らはつかの間きらめく』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年11月20日


この小説は、母に宛てた手紙の形で綴られている。

もう一度、最初から始めよう。

母さんへ

僕は今、あなたに声を届けたくて手紙を書いています―――ここに言葉を一つ記すたびに、あなたから遠ざかることになるのだけれど。僕が手紙を書いているのは、あの時に戻るためだ。

「母さん」は読み書きができない。ベトナムからアメリカに渡り、女手一つで家族を養っている。きちんとした教育を受けていないので、英語はほとんどできない。

そんな母に向けて、「僕」は、母との思い出とともに今の思いを綴る―――

―――こんな設定だと、すれっからしの私にピンとくる。ケン・リュウ『紙の動物園』みたいじゃないかと。中国系移民である母の自己犠牲が、涙腺を刺しにくる話だ。

この小説は、そんなお手軽な展開にならない。

「僕」は、母から割とパワフルな虐待を受けていたからだ。じゃぁ、暴力を振るっていた母への恨みつらみの物語かというと、そっちでもない。「僕」は、母が受けてきた痛みも分かるからだ。

人生を擦り減らす痛み、生きるために身体を差し出す苦しみ、この小説には、様々な痛みが描かれている……読んでいると、まるで生きることは痛みだ、と思えてくる。

『地上で僕らはつかの間きらめく』は、ベトナム系詩人であるオーシャン・ヴォンの、最初の小説になる。

語り手の「僕」は、ヴォンとよく似た境遇の、ベトナム系アメリカ人の青年になる。

学校ではいじめられ、家では母から暴力を振るわれた子供時代、バイト先で知り合った青年に恋をしたハイスクール時代、そして詩人となった現在までの、さまざまな出来事が、母への手紙の中で綴られてゆく。

生きることは痛みだという通底音の中に、時折、恐ろしいほど美しい一瞬が輝きを放つ。それは、海と空の広がりを喚起させるイメージだったり、欲望の輪郭を逆光のように染め上げる光景だったりする。

美しいな、と感じたのは、タバコ農場で出会ったトレヴァーの視線だ。

でも、僕がそのとき感じたのは欲望ではなく、静かに蓄積する電荷のような可能性だった。僕をその場にとどめたまま、自身の重力を発散する感情みたいなもの。畑で僕を見たときのあの目。目の前に積み上がっていく緑色のたばこの葉を見ながら、肩を並べて作業をしたあの短い時間、僕たちの腕は時々互いに触れ合った。

人を好きになり始める「あの感覚」を、「静かに蓄積する電荷のような可能性」という表現に撃たれた。

まだ自分の「好き」に気づいていない感覚……これ、切り取った引用だけで伝わるか不安だが、人を好きになったプロセスに注意を払ったことがある人なら分かるだろうか。

スイッチのON/OFFのようにデジタルに切り替わるのではなく、身体の内側を満たしていくなにか―――普通だと「熱」として描かれることが多いが、この熱は発散するのではなく方向を持っている―――を感じたことがあるなら、分かるかもしれない。

「僕」とトレヴァーとの恋が美しい。

自分の中の性的志向に戸惑いながらも、おずおずと歩み寄り、自分の殻を破り、外へ出ると同時に、自分の欲望にも踏み込む。僕もトレヴァーも同じものを欲望していることを自覚して、実行する。その決然たる所作の一つ一つが、美しい。

そうした輝きも束の間の出来事になる。

フラッシュバックやフラッシュフォワードを織り交ぜ、「僕」の語りは行きつ戻りつしながら、現在に向かう。ベトナム戦争のナパーム攻撃やオピオイドの薬害や全身をがんに蝕まれ迎える壮絶な死を描き、生きることは痛みだという基底に戻ってゆく。

読み手は、埋め込まれた輝きの一つ一つを拾い上げるように進めてゆく。私が見つけたきらめきをいくつか並べよう。

だってあなたは覚えているのだから。そして思い出は二度目のチャンスだから。

永遠に続くものなんて存在しない、と人は言う。でも本当は、何かが自分の愛より長続きするのを恐れているだけだ。

本当のことを言うと、アメリカは神の下にある一つの国ではなく、薬物の下、ドローンの下にある国だ

本当は「あなたは幸せなの?」と言いたいのに、いつも「元気?」と言ってしまってごめんなさい

美しいものには命をかける価値がある、と僕は学んだ

私が一番気に入っているのはこれ。

完璧な喜びは、うれしいという感覚さえ排除する。なぜなら、対象によって満たされた魂には、"私"という部分さえ残されてはいないからだ。

これは、「僕」がトレヴァーに乗られた状態での言葉だ。自分がまだそこに存在していること、僕が僕であることを確認するため、背後に手を伸ばす。そこで手に触れたのが、自分の身体ではなく、トレヴァーだったことに気づく。そこには、「僕」すらいないのだ。

人生は残酷な痛みでできている。そこにきらめきを見いだす、詩のような小説。

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神が創ったにしては杜撰すぎ、偶然にしては精緻すぎ『進化の技法』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年12月6日


生物は、神が創ったにしては杜撰すぎるし、偶然の進化にしては精緻にできすぎている。

進化と発生のメカニズムを解きほぐした本書を読むと、そう感じる。

本書によると、生物の進化は、転用と闘争の歴史らしい。それは、文字通りの食うか食われるかだけでなく、取り込むか取り込まれるかの歴史になる。

ヒトについて言えば、全体を構成するゲノムのうち、私たち自身の遺伝子が占める割合は、たったの2%に過ぎない。では残りの98%は何か? 太古のウイルスや、跳躍する遺伝子が暴走した配列になるという。

この太古のウィルスや跳躍遺伝子は、もとは「私」では無かったものになる。いや違うか、言い方がよろしくない。今は「私」とは不可分の要素だが、生命史を遡ると、「私」の外からやってきたものになる。

生命のM&A

例えばミトコンドリア。

生命は電動であり、そのエネルギーはミトコンドリアで生成されていることは、ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』で学んだ。

そして、ミトコンドリアは「私」の細胞核のDNAとは似ておらず、むしろ、細菌の一種であるシアノバクテリアの近縁となる。つまり、「私」の中にいる別の存在なのだ。

生命現象として見た場合、シアノバクテリアを取り込み、エネルギー供給役として融合させることで、「私」は生きている。もとは別個の生物だったものが一つになり、より複雑な新しい生命になったという(細胞内共生説)。複数の企業が合併・併合する、いわば生命のM&Aといえるだろう。

本書では、細胞内共生説を提唱したリン・マーギュリスが紹介されている。残念なことに、マーギュリスの主張は1970年代の生物学会では受け入れられず、嘲笑されるか無視されたという(『土と内臓』を読むと、生物学の泰斗スティーヴン・ジェイ・グールドは、一顧だにしなかったことが分かる)。

やがてテクノロジーが追いつき、DNA配列決定法により、マーギュリスの正しさが立証される。本書では、技術が学術を塗り替える様が、ドラマティックに描かれている。

ウイルスが私たちを作った

あるいは、シンシチン。

哺乳類に共通して存在するタンパク質の一種で、胎盤形成に大きな役割を果たしているという。子宮に胚を付着させ、栄養を供給するためには、シンシチンが不可欠なのだ。

興味深いのは、シンシチンの遺伝子配列がウイルスそっくりであるところ。だが、シンシチンはウイルスのように感染しない。そこから、次の説が導かれている。

すなわち、シンシチンとは、感染能力を奪われたウイルスになる。

つまりこうだ。太古の時代、とあるウイルスが、私たちの祖先の体内に侵入した。ゲノムを乗っ取って、自分のコピーを作らせようとしたのだ。ところが返り討ちに遭い、感染能力を奪われた、こき使われるようになった……その成れ果てが、シンシチンになる。

それだけではない。もっと「使える」ウイルスであれば、積極的に利用しようとするというのだ。本書ではフランスの研究が紹介されているが、東京大学の研究成果によると、同じ機能を別のウイルスにバトンタッチする、「Baton pass仮説」が提唱されている。

DNAというレシピ

この発想は面白い。

わたしの常識では、遺伝子とは「親から子へ」受け継がれていくイメージがある。だが、使えるものなら同世代でもコピーしていこうというのだ。『見えない巨人 微生物』で、同様のアイデアに触れた。遺伝子の水平伝達と呼ばれる事象で、抗生物質に耐性を持つDNA分子が、同世代間で伝播していくことに似ている。

このアイデアは、料理のレシピにも似ている。

親から子へ受け継がれていくのは、あくまでも「作り方」の情報であって、素材はその時にあるものであり合わせる。最初のタンパク質は親からもらうが、後は自前で調達する。

同世代からもっと良いものを教わったら、それを転用したり、手に入りにくいなら別のもので代用する。「もとはウイルスだったけれど、シンシチンとして働いてもらう」もありだ。

何を変えていくか、あるいは変えないかは、資源や栄養など物理的・環境的な制約によって左右される。つまり進化の方向はランダムではなく、特定の目が出やすいサイコロになっているというのだ。

各世代の生物は器官や体づくりにまつわる(遺伝子や細胞、胚に書き込まれた)レシピを受け継いでいる。こうした遺伝情報は未来を物語っていて、ある進化の道筋を別の道筋よりも選ばれやすくしている。すべての生物の体と遺伝子の内部では、過去、現在、未来が渾然一体となっているのだ。

進化とは、転用と闘争の40億年の歴史だ。私たちは、私たち自身の中に過去を見、未来をも見ることができるのだ。

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いかに良く生きるかは猫が知っている『猫に学ぶ』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年12月13日


  • 生きる意味とは何か
  • いまの自分に満足できない
  • 人生の価値が分からない
  • 自分は何者かになれるのか、あるいは、何者にもなれないのか

これらを考えている人に、「猫を見ろ」とそそのかす。人は猫にはなれないし、猫のように生きることもできない。

なぜこんな悩みを抱えているのかまで掘り下げると、超リアリスティックな解に行き着く。いかに良く生きるかは、猫に学べと。人は、猫のように生きることはできない。だが、猫が生きるように生きることはできるという。

人生に意味を求める理由

そもそも人は、なぜ生きる意味を求めるのか? 自分自身の生活を超えたところに「価値」だの「生きがい」を探すことをやめられないのはなぜか?

この疑問に、古今東西の哲学者や文学者を召喚する。プラトン、ピュロン、エピクロス、マルクス・アウレリウス、パスカル、スピノザ、モンテーニュ、ウィトゲンシュタイン、コレット、谷崎潤一郎、ゲイツキル……引き出しの数がハンパない。著者はオックスフォード、ハーバード、イェールで教鞭をとった政治哲学者で、博覧強記が服着ているようなもの。

様々なエピソードや引用を紹介しながら、人生に意味を求めるのは、死の意識が裏側にあると結論づける。人生が終わることを恐れるあまり、人は、哲学や宗教を発明したという。そこで説かれる「人生の意味」*は、自分が死んだ後も続いていくからだ。主義や宗派が説く物語に対し、ひとまず自分の人生を任せることで、安心を得ることができる。

その結果、自分が作り上げた人生の物語に支配されることになる。その物語の登場人物になろうと努力するあまり、人生は自分のものではなくしてしまうというのだ。

そして、大切な人を喪うとか、生活が危険にさらされるといった出来事が起きるたびに、物語は壊れる。自分の人生を悲劇に仕立てることも可能だが、最も恐ろしいのは、「そんな物語なんて、最初からなかった」ことに気づくことだろう(そうならないために、ますます強く、物語にしがみつくことになる)。

猫から学ぶ良い人生

著者は説く、猫を見ろと。

猫は哲学を必要としない。自分の本性に従い、自分の人生(猫生?)を肯定して生きている。

人間という動物は、自分ではない何かになろうとすることをやめようとせず、そのせいで、当然ながら悲喜劇的な結末を招く。猫はそんな努力はしない。人間生活の大半は幸福の追求だが、猫の世界では、幸福とは、彼らの幸福を現実に脅かすものが取り除かれたときに、自動的に戻る状態のことだ。

猫がやっていることは、良い人生を「選ぶ」のではなく、「発見」することだという。自分が望む人生を追い求めるのではなく、そこで自分が満たされる生き方を見出すことだというのだ。

猫は、「いまを生きる(carpe diem / seize the day)」を実践している。あるいは、「人生がレモンをくれるなら、レモネードを作りなさい」なのかも。レモンという不遇に「意味」なんて探すことが、苦悩の始まりかもしれぬ。

いかに良く生きるかについて、ヒントが10、まとめられている。哲学や宗教からではなく、著者が、猫から学んだヒントになる。

  1. 人生は物語ではない
  2. 理性的になれと説教しない
  3. 時間が足りないと嘆くのは馬鹿げている
  4. 苦しみに意味を見出すのはやめよ
  5. 他人を愛さなくてはならないと感じるよりも、無関心でいるほうがいい
  6. 幸福を追求することを忘れれば、幸福が見つかるかもしれない
  7. 闇を恐れるな。大事なものの多くは夜に見つかる
  8. 眠る喜びのために眠れ
  9. 幸福にしてあげると言ってくる人には気をつけろ
  10. 猫のように生きる術を学べなかったら、気晴らしという人間的な世界に戻れ

ヒント1は、この記事で紹介した。他は6章「猫と人生の意味」をあたってほしい。もっとも、猫と暮らしている人には自明すぎることなので、本書は必要ないかもしれぬ。

表紙は可愛いが、かなり深いところまで連れ込まれる哲学エッセイ。


* もちろん「人生に意味などない」という宗教もあるが、「『人生に意味は無い』という意味」は引き継がれている。

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「死にたくなったら読む本」は本当に辛いとき役に立つのか

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2021年12月25日


読書は自殺の時間稼ぎになる。そう信じている人はいないだろうか。

自死を考えている人に本を渡し、「本を読んでいるあいだは、死のことを考えずにすむ」というコメントを目にしたことがある。

あるいは、「死にたくなったら読む本」と紹介される本がある。NHK「理想本箱」では、「大丈夫だ」と励ましたり、「自分の価値は自分で作ることができる」と支えてくれる本が紹介されている。

だが、本当に辛いときは、本を読んでられない。その苦しみや悲しさを、やり過ごすのに精いっぱいで、目は頁を滑り、文字を追うことすらままならない(経験あるだろう?)。

ただし、「この本がある」と思うことで支えになる、そんなお守りのような本は、確かにある。辛いとき、読まなくてもいい。触っているだけでも、その場所に目をやるだけでもいい。

例えば、クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』という本を推す。

心に痛みを抱きながら、日々をなんとかしのいでいる人がいる。事故や病気、子どもや配偶者の死など、わが身に降りかかった突然の災厄に、文字通り「なぜ私がこんな酷い目に遭うのか?」と悲嘆に暮れる人がいる。

そんな人が望んでいることは、ただ傍にいて、嘆きを聞いてくれることだという。理不尽な不幸は、神の試練でもなく、神が引き起こしたことですらないという。神は災厄の側ではなく、犠牲者と共にいると説く。

人に運命を選ばせるという自由を与えた以上、人がどんな選択をするのかを、神はコントロールすることができない。たとえ、それが隣人や自分自身を傷つけるとしても。

だから、どんなに悲惨なときでも、怒りに我を忘れて「神よ、なぜわたしだけが苦しむのですか?」と問うのではなく、「神よ、この困難に立ち向かう勇気を、わたしにください」と祈れというのだ。

辛いとき、非道な目にあったとき、この本を読んだという記憶があれば、わずかでも和らぐことがあるかもしれない。そのときに、読まなくてもいい、「本棚のあそこにある」と思うだけでいいのだ。

あるいは、頭木弘樹『絶望読書』を知っておいてほしい。

辛いときが数日、数週間から数年になるとき、どうすれば良いか。大病を患った経験のある著者が、お薦めと、お薦めでないものを紹介する。

入院中に渡された、いわゆる「元気の出る本」はダメだという。ポジティブシンキングとか、引き寄せとか、「信じれば願いはかなう」系は、どんどん気分が沈んでいったという。

ほんとうに辛いときに必要なものは、激励や克服などではなく、ただ傍によりそってくれることだという。そして、ドストエフスキーから桂米朝まで、本に限らず「よりそってくれる」作品を選んでいる。

絶望の底では、本は読めない。それでも、「あそこにあの本がある」と心のどこかに引っ掛けておくことで、お守りにはなる。

数少ないそんな本を知っていることは、生きていく保険になる。

だいじょうぶ、本は待っていてくれる。

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なぜ人は物語に引き込まれるのか?『ストーリー・ジーニアス』が示すシンプルすぎる答え

読者はなぜ、架空の人物の運命に、自分の人生のように反応してしまうのか?

作家や編集者、脚本家が探し求めてきたこの問いに、本書は一つの明快な答えを提示する。

シナリオライティングのハウツー本は沢山あるが、『ストーリー・ジーニアス』がユニークなのは、「なぜ、”それ”が読者の心を揺さぶるのか」という理由にまで踏み込んでいる点にある。

本書の主張はシンプルだが、その単純さゆえに、それで小説の全てを語られると、モヤるところもある。

とはいえ、作品の良し悪しを見極める「軸」を与えてくれる点で、本書はかなり有用だ。私を含め、何かしらの物語を書いた人/書こうとした人には使えるツールになるだろう。

人は物語で考える

本書は、「人の脳には物語が組み込まれている」という。

ここで言う物語は、いわゆる小説や映画のストーリーに限らない。

私たちの身の周りの、この「現実」というやつからやってくる情報は膨大だ。視聴触味嗅覚のみならず、身体内奥からの感覚も含めると、とてつもない量になる。

さらに、そうした感覚的なものから、頭で活性化された概念や記憶も併せて判断の根拠になる。粒度も精度も種々雑多な情報を取捨選択し、理解・判断していかなければならない。

もちろん、ほとんどの情報はパターン化されており、無意識に処理されているものの、それでも判断が必要なものがあり、一説によると、人が一日に直面している判断は、およそ3万5千にも及ぶという。

しかし、そのパターンが崩れ、新しい場面に直面するとき、どうしてそうなっているのか? 何かに似ていないか? といった理由や類似を探し、筋道立てて理解しようとする(パターンへの渇望と呼ばれている)。

脳とは、投げ込まれた情報からたえず意味を引き出そうとし、因果を見出そうとする装置だという。

そして、物語とは、人間が現実を理解し、生き残るために獲得した、最古のバーチャル・リアリティだというのだ。

物語の本質

本書に言わせると、人が物語を求める理由も明快になる。

ただでさえ情報量が多く、目まぐるしく変化するこの現実を、ぶっつけ本番で向き合う前に、物語で準備する。自分自身や他の人間の行動を理解し、予測できるように物語で予習する。

現実から逃げるために物語を読むのではなく、現実でうまくやっていくために物語を読むのだという。

では、そうした現実でうまくやっていくための物語とは何か? 本書ではこう述べる。

物語とは困難なゴールを追い求めている誰かに対し、起きている出来事がどう影響するか、そしてその結果、その人物がどう内面的な変化をとげるか、なのだ。
『ストーリー・ジーニアス』p.30 リサ・クロン

よく、「物語とはプロットだ」という人がいるが、これは間違いだという。

プロットとは、物語の中で起きる表面的な出来事のことで、物語の本質とは異なる。プロット上で起きている出来事が、主人公を揺さぶり、内面を変えていく。出来事の意味を理解し、出来事に取り組み、評価し、主人公にとって何が重要かを決定し、行動を進めていく。

その結果、望んだ出来事になるかもしれないし、反面、意に添わぬ出来事に陥るかもしれない。

物語とは主人公の内面的な変化であり、プロットは外面的な出来事になる。両者が互いに影響し合いながら循環していくパワーが、読者を物語に引き込む力になるという。

最初に主人公をつくる

理屈は分かった。

では、どうすれば良いのか?

本書の指針は明確だ。

プロットを考える「前」に、まず主人公を作れ。どんな過去を持ち、どんな思い込みに縛られ、何を恐れ、何を願っているのか。主人公の内面を徹底的に掘り下げよと説く。その内面がどのように揺さぶられ、変わっていくのかが、最初に考える青写真になる。

プロットは、その結果として生まれる。出来事は、主人公の内面を揺さぶり、葛藤させるために存在する。物語で起きたことが、主人公にとってどんな意味を持つのか。どう感じ、どう動くのか。それを知りたくて、読者はページを繰るのだから。

では次は?

主人公の青写真はできた。プロットはどう作るのか?

出来事が主人公に行動を強要し、もはや動くほかなくなる状況を作り出す。望むものを手に入れるのか、あるいは恐怖から逃れるのか――先送りできない局面を作る。これがプロットの本質だという。

人は本来、変化を嫌う生き物だ。

だからこそ物語は、登場人物を強制的に状況へと巻き込み、変化を迫る。

その人物は抗うかもしれないし、受け入れるかもしれない。いずれにせよ、その選択の「理由」を追いかけることで、読み手は現実を理解するための新たな因果のパターンを手に入れることになる。

読者が知りたくてたまらないもの

「プロットよりも、主人公の内面の変化を優先せよ」という原則、一般論で語るよりも、「親友からの電話の話」のほうが、しっくりくるかも。親友は運転中で、電波状態がよくないところから電話している状況での会話だ。

彼女はこう言う「私の上司が怒鳴るたびに、私がどれだけ黙って耐えてきたか、知ってるよね? あのね、今日その上司が……」

そこで言葉が途切れ途切れになり、あなたは彼女の車が通話圏外を走っていることに気づく。あなたはしばらく「ごめん、聞こえない」と何度か言う。

ようやく声が戻ってくる。「......そのとき私は気づいたの、自分はちゃんとした人間だし、あんなふうに怒鳴る権利は誰にもないって。だから辞めてきてやったわ」。ちょっと待ってよ、とあなたは思うだろう。何があって急に悟りをひらいたわけ?

あなたの読者が知りたくてたまらないのもその部分だ。それこそが、あなたの主人公が本当はどんな人間なのかを伝えてくれる部分だからだ。そして、読者が自分を知る機会にもつながることもしばしばある。だから読者は物語を読むのだ。人間の性質、自分の性質について理解し、世界をもっとうまく渡り歩くために。

おそらく、上司が「トドメの一言」を言い放ったのだろう。

もちろん、その言葉自体も気になる。だが、それ以上に知りたいのは、それがなぜ、彼女の行動につながったのか、という理由だ。その理由を知ることで、私たちは、自分が似たような状況に置かれたときどう振る舞うかを理解しようとする。

人は、そのために物語を読むというのだ。

『ストーリー・ジーニアス』の射程圏

物語とは「困難なゴールを追い求める誰かに対し、起きている出来事がどう影響するか、その結果、その人物がどのような内面的な変化をするか」なのだという。

そして、作品をこの形に近づけるために、物語は、主人公の内面的な変化と、外面的な出来事のプロットが循環しながら拡大していくものにするための様々な技法やチェックポイントを紹介する。

本書の方法に従えば、「出来事が羅列されただけの作品」や、「次に何を書けばよいか分からなくなる」といった行き詰まりは、かなり避けられるだろう。

ただし、この理論には見過ごせない前提がある。

『ストーリー・ジーニアス』で述べられている「物語」や「小説」の概念は普遍的なものというより、特定の形式に限定されているのではないか。

それは、ハリウッド映画や、テレビドラマ、ベストセラー小説に典型的に見られる形式だ。

そこには、困難なゴールがあり、そこに至る障害があり、それを乗り越えるための内面の変化があり、出来事は因果として連鎖し、最終的に何かしらの意味へと回収される。みんなが大好きな、行きて帰りし物語や貴種流離譚、ビルドゥングスロマン、ヒーローズジャーニーになる。

だが、この構造にハマらない作品が好きな私には、「これこそが物語だ!」と言い切られると、違和感が拭えない。

例えば、因果が曖昧でゴールが不明確で、変化が循環的だと言えるマジックリアリズムがこれにあたる。『ストーリー・ジーニアス』の定義に従うなら、ガルシア=マルケス『百年の孤独』は、小説や物語ですらなくなる。

あるいは、理解不可能な因果のもとで、意味が回収されない作品を書いた、フランツ・カフカを代表とする不条理系も同様だ。ゴールや成長が描かれないことが多い私小説、あるいはゴールや障害はあるものの、変化や葛藤が起きているのは主人公ではなく、むしろ世界の方だと言える俺TUEEE系や異世界転生モノは、この枠組みからこぼれ落ちるだろう。

そう考えると、「内面の変化」×「変化を促す出来事」というモデルは、物語の一類型を明解に説明する一方で、それだけでは捉えきれない領域が確かに存在するように思える。



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嘘を嘘と見抜けない人に小説は難しい『詐欺師の楽園』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年1月8日】


プロチェゴヴィーナ公国のレンブラントと称せられる画家アヤクス・マズルカ―――美術史上最大の意義をになう人物のひとりとされているこの巨匠は、実はかつて実際にこの世に存在したことはない。彼の作品は後世の偽作であり、彼の評伝は虚構である。

ヴォルフガング・ヒルデスハイマー『詐欺師の楽園』は、こう始まっているが、一行目どころか、一言目からして嘘である。

欧州の地図を広げるまでもなく、「プロチェゴヴィーナ」なんて国は存在しない。もちろん、美術史のどこを探しても、アヤクス・マズルカという画家なんていない。

しかし、彼が描いた作品は確かに存在し、レンブラントに匹敵する傑作だという。あまりの素晴らしさに、贋作までが登場するくらいだという。

唯一の語り手「私」による手記の体裁をしたこの小説、さて、どこまで信用できるのか?

徹頭徹尾フィクションで塗り固めているのではなく、ところどころに史実や真実を折り込ませているので、自分がどこまで騙されてて、何を信用していいかが分からなくなる。

ここで、本書のあらすじをかいつまむような野暮なことはしない。

ただ、この小説には、様々な詐欺師、ペテン師、いかさま師が化かし合う。恩を仇で返す奴、芸術レベルのゆすり&たかり、まっとうな人間はほぼ出てこない(出てきたとしてもカモにされる)。

どれくらい眉を湿らせるべきかのご判断は、読者に任せる。まぁ、語り手自身が「読者が信頼してくれようとは思わない」などと最初に断っている。「信頼できない語り手」を自任しているかごとき人を食った態度はページの端々ににじみ出ており、風刺が小気味よい。

偽物を本物にする条件

この詐欺の手法は、たいへんタメになる。

存在しない画家が描いた、いわば「本物の偽物」が、どのように真作として成り立つかを考えると、芸術の虚構性が見えてくる。本書のあらすじを紹介しない代わりに、この詐欺の手法について考えてみよう。

たとえばレンブラント。

光と影の魔術師という異名を持ち、油彩だけでなく、エッチングや銅版画、デッサンも含めると数千点に及ぶ膨大な作品を遺している。その分、贋作や偽作も数多いとされている。

いかにもレンブラントがモチーフにしそうな人物を、当時の絵具や画材を忠実に再現して、構成・構図、光の当て方、色使い、細部のこだわりも含めて完璧なレンブラント・タッチで描いたとしたら、それは「レンブラントの作品」になるのだろうか?

これに挑戦したのが、「ネクスト・レンブラント」だ。AIにレンブラントの肖像画を学習させ、もしレンブラントが347年の時を経て蘇ったら描いたであろう「新作」を制作したのがこれだ。

専門家のコメントは酷評で、発表会場では「味気なく、無神経で、魂のない茶番」とこき下ろされ、レンブラントの作品に向き合ったときに人が感じる、「レンブラントの身震い」は無かったという。

真贋を決めるのは人

この経緯は、コンピュータは創造性を持てるか?『レンブラントの身震い』に詳しいが、ポイントは、レンブラントを真作たらしめているのは、専門家であるということ。

たとえば映画の『THE GAME』や小説『白昼の死角』よろしく、レンブラントの発表会場そのものがフェイクで、ギャラリー全員がグルだったら? いわゆるカゴ脱け詐欺をすれば「レンブラントの身震い」も自ずと出てくるだろう。雰囲気でどうとでもなる人の気持ちなんて、いくらでも変えられる。

真贋を決めるのは、結局のところ「人」だ。

そして、プロフェッショナルはそこを巧妙に衝く。

顕微鏡やX線、化学分析で贋作を見破れる、という人がいる。そんな人には、本書で紹介される手法や、天才贋作家ハン・ファン・メーヘレンがヒントになるだろう(当時の画材を用いて、年数経過を偽装する)。贋作の作り手は、それがどのように見破られるかも含めて研究している。そして、「人」さえクリアすれば、数値は誤差として扱われるのだ。

フィクションの中の嘘が嘘だとしたら?

ちょっとした実験を提案する。

虚構と現実のあわい目を巧妙に衝いたこの傑作、信頼できない語り手をいったん信頼してみよう。そして、読み終えた後、「この本で語られている虚構そのものが嘘だったら?」と、想像してみるのだ。

つまり、このフィクションそのものが偽物=ホンモノだったとしたら?

開始2頁目で「私」は、アメリカやヨーロッパの名だたる美術館には、少なからずの贋作が紛れ込んでいることを暴露する。なるほど、それはありうるだろう。だとするなら、冒頭で虚構だと指摘された人物「アヤクス・マズルカ(Ayax Mazyrka)」が、本当にいないのかどうかは、じゅうぶん疑ったほうがよいのではないだろうか。

「私」に限らず、本書に出てくる詐欺師たちは、様々な偽名を使いこなす。そして、偽名がいつのまにか本当になったりもする。

ひょっとすると、アヤクス・マズルカは、小説の中だけの偽名で、現実の世界では別の名前で呼ばれているのではないか。そして、その別名を、私たちは後生大事に信じている可能性だって、じゅうぶんありうる。

ちなみに、「アヤクス・マズルカ(Ayax Mazyrka)」をアナグラムで入れ替えると、ポーランド語で「karyzma xaya (カリシズム・サーヤ)」になる。

意味は、「最初の非難」である。

『詐欺師の楽園』を現代にアレンジする

もし、現代に応用するなら、こんな風になるだろう。

  1. AIに学習させて名画を描かせる(例:レンブラントを真似させる)
  2. その絵画を、オークションにかけて落札させる

……という詐欺ビジネスを持ちかけて、金持ちに出資してもらう。

オークションは秘密裏に行われ、集まってくるギャラリー、司会者、スタッフは全員フェイクだ。そこで落札される額は数千万をくだらない。だから、十分にお釣りが来る。

しかも、やってきたカモを信じさせるため、出資者自身に参加してもらい、入札してもらう。顔出しが不安なら、ネットで参加すれば良い。カモと競り合い、頃合いを見て降りてもらえれば、稼ぎは数億にのぼるだろう……

さて、ここまで読んできたら、本当のカモが誰か、お分かりだろう。

この詐欺ビジネスに出資する人が、本当のカモになる。オークション会場がフェイクなのはもちろん、そこにやってくるカモも、「カモの演技」をする。出資者は顔出しを嫌がるだろうから、ネットで参加してもらうだろう(その場合、オークション会場は、スタジオになる)。

出資者から巻き上げたお金と、オークションでの値を釣り上げるための見せ金と、ダブルで騙し取れる。

既に誰かがやってそうだけど、まんま『スティング』なので、騙される方も途中で気づくかもしれない。

信頼できない語り手の「嘘」は本当か嘘か

『詐欺師の楽園』を読んでいると、どこまでが本当で、どこからが嘘か、分からなくなる。

ぜんぶ嘘だとしたら、作中に出てくるレンブラントやモナ・リザまでも嘘なのか。信頼できない語り手が、「これは嘘なんだけどね……」と切り出したら、それを嘘だと思うのが正しいのか、それとも、クレタ人の嘘として信じるのが正しいのか。

信じようと、信じまいと、騙されている気になる。

眉を十分に湿らせて、確かめてほしい。

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世界の人々をつなげる歴史として『岩波講座 世界歴史01』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年1月1日】


歴史のイメージを壊し、再構築してくれる。

歴史とは、過去を扱うものだから、確定したものを選ぶ作業だと思っていた。起きたことは動かないし、その証拠は残っている。特定の観点や主義に合うよう選び、編集しすることが、歴史の実践だと考えていた。

だから、編集者が国家の場合、国民のアイデンティティを創出するストーリー(≠ history)は、神話のように国ごとにあり、学校教育制度によってくり返し上書き保存されていく記憶になる。歴史を学ぶほど、国家単位の記憶の分断が強化される。

あるいは、特定の主義主張を持つ人の場合、自説に都合の良い断片を寄せ集めて膨らませたものが歴史となり、自分のセクトを拡張し、反対する者を根絶やしにすることが歴史実践となる。歴史を学ぶほど、反対者を殴りやすくなる。

そういう、権力者や主義者に道具を差し出すことが、歴史家の仕事になると思っていた。やってる本人の自覚はともかく、歴史は、結果としてそのように扱われてしまうしかない、と諦めていた。

ところが、わたしの視野が狭いことが分かった。

もちろん歴史には、国民を育成する機能や、主義者にとっての便利な棒になることもある。だが、歴史には、「つなぐ」役割もあるのだという。

『岩波講座 世界歴史 01』のサブタイトルにこうある―――世界の人々を「つなげる」歴史を―――そこに込められた意志は、序文の小川幸司氏にはじまり、本書の隅々にまで行き渡っている。

加害者と被害者の共通教科書

たとえば、国民のアイデンティティを育成する教科書について。

「殺す/殺される」の両側が、同じ土俵に立てるなんて、想像もつかなかった。侵略、植民、虐殺と、言い回しはさておき、「したほう」は自己正当化に勤しみ、「されたほう」はその不当を刻む、それが教科書だと思っていた。

ところがドイツでは、事情が違ってくる。ヨーロッパで統合された歴史教科書を作る営みが進められており、ドイツ・フランスでは共通のものが実際に出ている。より溝が深いポーランドとの間でも、教科書改善の国際協力が進められているという。

重要なのは、共通教科書の一方的な押し付けではないところ。国民による見解の相違は当然であり、歴史認識の対立を是とする考え方だ。歴史認識の統一に向けて、対立は「克服されるべきもの」ではなく、複数の世界史像を認め合うことが大切だとある。

同じ動きは、日本・中国・韓国でも進められている。

歴史教科書における「侵略」「進出」に始まる外交問題や、「慰安婦」や「竹島」に対する抗議デモは記憶に新しい。こうした認識の相違について、歴史家は無力だと思っていた。

日中韓の歴史認識をアップデートする

しかし、これは単に、わたしが無知だった。

2001年には日韓、2006年には日中の共同研究プロジェクトが政府主導で始められ、2010年に『日中歴史共同研究報告書』が公開されていることを知った。その序文で、「戦争の責任について基本的共通認識があることを前提として学術的に討論」した結果「相互の理解を深め認識の隔たりを縮めることができる」成果が得られたとある。

面白いのはマスコミの対応だ。

この成果を評価する報道をした中国とは対照的に、日本では、歴史認識の「溝」を強調する報道が目立ったという。わたしは、この「溝」の方だけで判断していたのかもしれぬ。

どの要素を強調するかによって、解釈や記述は変わってくる。たとえ相手の意見に賛同できなくても、「なぜ相手がそう考えるのかは理解できる」という点で、研究者どうしが理解し合えたことが、重要なのだ。

研究者レベルではなく、教科書レベルでもある。

日本・中国・韓国の研究者や教師が集まって、『未来をひらく歴史』が作られた経緯が紹介されている。日本の植民地支配と抵抗の歴史は、中国・韓国の執筆者がそれぞれ担当し、出来上がった原稿を三者で相互に批判しながら修正されたとある。

実際に、『未来をひらく歴史』を手にしてみたところ、歴史イベントと解説を並べたコラム集のような構成だった。背景となったロシアの南下圧力や英仏の画策があまりなく、日中韓だけで歴史が動いているような印象を抱いた。

つなぐ=共感するための世界史

被害者・加害者の認識をめぐって、対立する叙述に引き裂かれてきたのが、世界史の歴史になる。両者をつなぐためには、「出来事レベルでの認識を共有し、解釈レベルでの対立が一定の範囲内に収まる努力をする」指針が提言されている。

高校教師でもある小川幸司氏は、こう説く―――たとえ相手がヘイト思想を振りかざしたとしても、何が相手の中で憎悪を生み出したのか、その思想自体に何か学べるのかという姿勢を持つべきだと。

それ、本当にできるの? と疑問を抱くかもしれない(わたしは疑問を感じた)。

だが、小川氏の授業で起きたことを読むと、可能かもしれない、と思うようになった。

たとえば、笠原十九司が南京事件を起こした日本兵たちの追いつめられた心理状態を考察したとき、あるいはラウル・ヒルバーグがユダヤ人大虐殺を遂行した巨大なメカニズムに膨大な人が積極的または消極的に加担していった様子を明らかにしたとき、そのテキストを教室で読んだ高校生と私の中に湧きおこったのは、加害者の非人間性を告発する憤りではなく、弱い自分が同じ状況に置かれたらどのような行動をとっただろうかという、強い痛みの自覚であった。

この痛みの自覚こそが、過去と現在をつなぎ、同時に、いま認識の違う人同士のつながりになるのだろう。

「歴史とは過去と現在の対話である」と言ったのはE.H.カーだが、『世界歴史』では、「歴史とは世界の人々との対話をつなぐものである」になる。

『岩波講座 世界歴史』の特徴

これから読もうという方へ。第1巻を読んだ時点で気づいた点をまとめておく。誰かの参考になれば。

  1. 各巻が対象地域と時代をマトリクスによって示せる(例:3巻がローマ帝国と西アジア、5巻が古代中華など、全体構成図参照)
  2. 各巻は単なる地域史ではなく、その地域から見た「世界史」になっている(★)
  3. 近世・現代史など特定の巻は、同時代を地域横断的に見る構成(20・21巻「2つの大戦と帝国主義」)
  4. 全巻に共通し、各巻「展望」「問題群」「焦点」の3部構成
  5. 「展望」で通史・枠組みを示し、「問題群」でテーマを取り上げて解説し、「焦点」でトピックを補完する
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特に目を引いたのが★だ。

ふつう「世界史」は、ヨーロッパを中心とした(あるいはヨーロッパが最終的に中心となるように)一体化する動向を描いたものに慣れていた。だが、このシリーズでは、ヨーロッパは、一定の影響を与えたものの、一つの「地域」として描かれている。

つまり、帝国支配や科学技術としてのヨーロッパと、ユーラシア大陸の端っこという欧「州」としてのヨーロッパが、分けられた構成となっている。ヨーロッパはいち地方なのである。

非常に気になっているのが、索引が無いこと。

第1巻には索引頁が無かった。各論文の末尾に、引用・参照書籍の一覧があるだけで、トピックや用語を串刺しで調べたいとき、強力な助っ人となる索引が存在しない。これ、致命的かも。

ただし、今までのシリーズを振り返ると、「索引巻」というものがあるため、今期も問題ないかも。まだ発表されていないだけで、全24巻+別巻1、2といった構成になると期待する。

『岩波講座 世界歴史』について語る

本書について、読書猿さんと熱くお話したのがこれ。

「本好きの度肝を抜く! 年末年始に必読の「世界史スゴ本」ラスボス的一冊」

「本好きもうなる!「歴史の学び直し」に最強のスゴ本ベスト4」

読書猿さんは、もっと端的に、本書の本質を語る。

歴史は人に何かあった時に、自動的に立ち上がる何かなんです。そうやって歴史を参照しながら考え、行動し、世界にほんの少し影響を与えて、現在を作り出す。それによって、次の歴史ができるのだと。歴史実践というのは、そういう循環的なものなんです。そして、歴史研究者の仕事も、そうした歴史実践と無縁のものではなくて、むしろ大切な歴史実践の一部なんだというんです。

また、本書を、スケザネさん、タケハルさんに熱くお薦めしたのがこれ。

【生放送】Dainさん・タケハルさんとともにオススメの歴史本を紹介しまくります!

なんであれ、深く・広く学ぼうとすると、必然的に世界史に分け入ることになる。いろいろと歴史本を読んできたが、本書は、ラスボス的なシリーズとして追いかけていきたい。

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伊坂幸太郎が薦める極上の短編小説19選『小説の惑星』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年1月15日】


面白い小説が読みたい人に、「はいこれ」と渡せる。

いまの時代、面白いアニメやゲーム、映画が沢山ある。しかも、Amazonやネトフリで、居ながらにして楽しめる。じゃぁ、どうして小説を読むの?

その答えが、この2冊だ。小説の面白さを語るより、まずはこれを読んで欲しい。これを読んでダメなら仕方がない……という最強ばかりを集めたという。

名前は知っている作家だけど、未読が多かったので、たいへん楽しめた。

嫌悪感を抱きつつ、こいつ酷い目に遭えばいいのに……と思ってたらナナメ上の展開で吹き出してしまったり、まんま『はたらく細胞BLACK』やんけと思ったら、こっちが本家なことに気づいたり、ダブルプロットにしては変な構成だなぁと不思議だったのが、全てがカチっと噛み合う怖ろしいほど美しいラストに化けたりと、読む悦びに浸りまくった。

本書が良いのは、理由が書いてあるところ。数ある中から、なぜその作品なのか、どんな思い入れがあるのかが、あとがきにまとめられており、参考になる。

たとえば、「悟浄歎異」。

中島敦なら、「山月記」「名人伝」がいいんじゃね? と思うのだが、西遊記の沙悟浄の手記という、いっぷう変わった作品を出してくる。しかもこれ、前・後編の後編になる(前編は「悟浄出世」)。普通こうした場合、前編が採用されるのだが、なぜ後編なのか?

謎があとがきで明かされると、その箇所を、もう一度読みたくなる。その理由が、とても繊細で、ちょっと「かわいい」と思ってしまう。でも分かるわーという気持ちになる。

あるいは、大江健三郎「人間の羊」。

主人公が酷い目に遭うのだけれど、なんとかして彼を助けてあげたい、そして加害者を懲らしめてやりたい、と憤りながら読み進める。すると、読み手である私の感情にシンクロする展開になるんだけれど、その展開が私を追い越してしまい、「私の憤り」を背後から眺めることになる。

私の中から「怒り」という感情を取り出して、「ほら、これだよ」と見せてみせる。その手さばきが鮮やかすぎて、私は直視できない。でも、その気まずさ、居心地の悪さこそが、この作品が選ばれた理由になる。

小説を読む悦びを、言葉で語るのは難しい。

プロットや構成の妙だとか、文字という媒体でしか伝えられない重みとか、時間差で腑に落ちる可笑しさは、話すほど暑苦しく、ウザがられるかもしれぬ。

だから、「はいこれ」と渡して、味わってもらう方が早いかもしれぬ。ラインナップは以下の通り。珠玉の短編集なり。

オーシャンラズベリー篇

永井龍男「電報」
絲山秋子「恋愛雑用論」
阿部和重「Geronimo-E, KIA」
中島敦「悟浄歎異」
島村洋子「KISS」
横光利一「蠅」
筒井康隆「最後の伝令」
島田荘司「大根奇聞」
大江健三郎「人間の羊」

ノーザンブルーベリー篇

眉村卓「賭けの天才」
井伏鱒二「休憩時間」
谷川俊太郎「コカコーラ・レッスン」
町田康「工夫の減さん」
泡坂妻夫「煙の殺意」
佐藤哲也『Plan B』より「神々」「侵略」「美女」「仙女」
芥川龍之介「杜子春」
一條次郎「ヘルメット・オブ・アイアン」
古井由吉「先導獣の話」
宮部みゆき「サボテンの花」

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面白い世界史の本を3人で2時間お薦めしあった中から厳選した12冊(後編)

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年1月29日】


世界史を学びなおす最適な入門書から、歴史をメタに語る一冊まで、徹底的に熱く語り合った2時間をまとめた。

前編はこちら
youtube動画はこちら

世界をバズらせる

スケザネ:「書かれたものが世界を変える」という観点だと、これにつながりそう。『「世界文学」はつくられる:1827-2020』(秋草俊一郎、東京大学出版会)という本で、「世界文学」という概念がどのように作られ、変わっていったかがテーマです。以前の対談でも話題になってたやつです。

そこに、ゴーリキーの世界文学叢書が出てきます。ソビエト連邦という国家が誕生し、当代一流の世界文学を集めて出版しようという話になった。実はここに、政治的な動機がありました。

ロシア文学だけでなく、世界各国の言語から優れた作品を選び取り、なおかつ全集として出せるというのは、それだけロシアが文化的に先進的だという政治的なメッセージになるのです。国や言語を越境して発信する、コスモポリタンな思想が徹底されていることが分かります。

ほら、最近の映画って、世界同時公開やりたがるじゃないですか。国や言語を越えて全世界一斉配信する。あれがあるから、一斉に話題になったりするんじゃないかと。

Dain:それ、つながりますね。世界一斉公開の映画の話と、さっきのスケザネさんの共産党宣言の話と。

コンテンツを持っている人と、それを発信する人が違うと、情報の受け渡しにズレが起きます。さらに、発信したものが人から人へ伝播したり、翻訳による時間的なずれ。

このズレを一気に乗り越えているのが、youtuberになりますね。しゃべった内容を字幕にして、さらに同時翻訳すれば、コンテンツを持っている人が、世界に向けて一斉配信できる。共産党宣言がバズったように、一斉発信できる仕組みはもうある。youtubeは、情報を持っている人と世界一斉発信する人を揃えている。

youtubeに限らず、DiscordでもスペースでもClubhouseでも同じことが言えますね。

作者と発信者と消費者の一体化

タケハル:情報の発信者と媒介者とのずれは、今までの歴史が物語ってきましたね。作家と活版印刷者から始まって、発信者とマスメディア、検閲される人とする人の争い。これからは、インターネット基盤を持っている人や企業と、その人や企業の倫理観を問う人との戦いになるかもしれませんね。

スケザネ:いまの話で、『チェンソーマン』の作者・藤本タツキの『ルックバック』を思い出しました。SNSで今年すごく話題になったやつだから、ご存知の方も多いと思います。無償でアップされて、2日か3日のあいだにもの凄い勢いで拡散し、読まれ、批判され、さらにそれがフィードバックで修正されるという全てのプロセスが爆速で進みました

こないだ単行本になって発売されていましたが、あの出た当初のスピード感と熱量は感じませんでした。SNS時代のマンガ発信と消費のスピードは、作者と発信者が混然一体となっているところにあるのかもしれませんね。

Dain:それ、確かにありますね。歴史本から横道にそれるのですが、『からかい上手の高木さん』を思い出しました。今はアニメ化もされたメジャーですが、私の第一印象は、twitterで「ちょっと面白いマンガを見つけた」というイメージですから(高木さんのキャラも違う)。1話読んで、これ面白い! という感想が拡散してバズっていく。作者=発信者となれる仕組みがあるのはすごく強みです。

同じノリで、発信者と媒体の一体化からすると、「書評」もそうですね。メディアの書評を一切見なくなりました。昔は、新聞の日曜の書評欄を毎週チェックしていました。また、主な雑誌の書評欄、つまりプロが書いた、フィルタリングされたレビューを参考にしていました……が、今は見向きもしなくなりました。

代わりに、SNSやレビューサイト(Goodreads、読書メーター)を見るようになりました。特に、twitter での作者自身の呟きや、動画(スケザネさんのやつも!)での発言を参考にするようになりました。作者と消費者と媒体が一体化しています。プロの書評家は、私には要らないですね。

スケザネ:それあれですね、tiktok での本の紹介について、プロの書評家が呟いた話につながりますね。

Dain:その話する? www

スケザネ:超リスキーなwww

あれは、書評の質がどうこうの話じゃないと思います。いい本があって、まずはそれを知ってもらう、手に取ってもらうというフェーズがあって、その一歩目のパワーは、tiktok にあると思います。マーケティングの世界で、圧倒的だと思います。それと、書評の「質」とは別の話なんです。

そうしたパワーは、その時々のメディアに依拠していると思います。ある時代だと新聞がその力を持っていましたし、別の時だとテレビがそうでしょう。なんか歴史本からどんどん拡散していく~ 面白いけどw

『近世日本国民史 明治維新と江戸幕府』

スケザネ:そろそろお時間が近づいてきましたけれど、「これは!」というのがあればどうぞ。

タケハル:ええ!もう? じゃぁ『近世日本国民史』(徳富蘇峰、講談社学術文庫)を紹介しないと。歴史学者でもありジャーナリストでもある徳富蘇峰が、明治という偉大な時代を描こうとした本です。

徳富蘇峰は明治を書こうとしたのですが、明治だけでは収まらない。明治を知るためには江戸時代を知る必要がある、そして江戸を知るために戦国をしらなければならない、と遡って、結局、織田信長まで射程を伸ばしています。

近世(安土桃山時代、江戸時代)以降の日本の通史なのですが、これさえあれば他は要らない、というぐらい詳細で、日単位で書かれているものもある。書簡の引用も充実しているだけでなく、同時代に生きていた勝海舟、伊藤博文といった維新の元勲に直接インタビューしているから、史料としても最強です。

ただボリュームもハンパなく、時間とパワーが必要。全部読んだら人格変わるくらいのインパクトがあります

スケザネ:講談社学術文庫で全50冊ありますからね。

Dain:すごい! 全部読むのは骨が折れそう……タケハルさんからして、「ここだけは読んでおけ」という巻はあります?

タケハル:幕末と明治維新のところですね。「明治維新と江戸幕府」の巻です。僕が読んだのもここなのですが、面白かったです。一通り日本史をやって、司馬遼太郎を読んでいるヒトなら、余裕で楽しめます。でも全部読むのは大変でしょうね……

歴史の記述そのものが変化している『岩波講座 世界歴史』

Dain:これを残り時間で紹介するのは難しいですが、『岩波講座 世界歴史』は言わせてください。

歴史って、結局「勝ったほうが書いたもの」になります。負けたほうは皆殺しにされるか飼い殺しにされるかはともかく、ほとんど残らないんです。乱暴な言い方ですが、私たちがあたりまえに歴史だと思っているものは、ヨーロッパやアメリカという覇者が書いた歴史がベースになります。

それが当たり前に思えているから、「当たり前」を揺さぶるようなものが出てくる。先ほど紹介した『反穀物の人類史』のような研究なんかがそうです。

『岩波講座 世界歴史』は、そうした揺さぶりをかけるようなシリーズです。

今の歴史は、欧米が中心で成立するグローバル経済という「結果」になるように逆算して書かれています。でも現実がそうではなくなりつつあり、そこから抗おうとする動きが、高校世界史の教科書ではないかと考えています。

『岩波講座 世界歴史』では、各巻が特定の地域+時代で構成されており、ヨーロッパは一つの「地方」として描かれています。世界に大きな影響を与えたのは確かですが、欧米は一つの地域にすぎないということが分かる構成になっているのです。

もう一つ。いま、世界のあちこちで、歴史の教科書を合同でつくるプロジェクトが進んでいます。例えばドイツとフランス。タケハルさんの地政学のお薦めで指摘された通り、国境が川一つで仲が悪いことで有名ですが、共同教科書は、実際に世に出ています(※1)。また、ドイツとポーランドでも、教科書を共通化する動きがあります。

重要なのは、共通の教科書を押し付けるのではなく、見解が分かれるところは、その両方を是とする姿勢で書かれている点です。スケザネさんが紹介した『論点・西洋史学』と同じ。史実として共通認識している所と、主張が分かれるところを分けて書く。そこが従来の教科書と違う点です。

同じ動きが、日本と中国、日本と韓国でもあります。歴史的事実を共同研究するプロジェクトを通じて相互理解を深める目的で、サブテキストの形で出版されています(※2)。

『岩波講座 世界歴史』には、こうした、歴史の歴史が紹介されています。私たちが知る歴史の記述そのものが、動いていることが分かります。

スケザネ:その動きを受けて2022年に大きく変わるのが、高校の「歴史総合」ですね。日本史とか世界史とかの区別なく、融合した科目が誕生します。近現代史に特化しており、グローバル化に対応していると言われています。

この動きの旗振り役の一人が、イスラーム史を研究されている羽田正さんです。岩波新書『新しい世界史へ』の中で、歴史とは、一国一国のナショナルな記述の積み重ねではなく、つながりのある本当の意味でのグローバルな記述が必要だと述べています。

Dain:これ、私からもお薦めです。「もし、全人類に共通する世界史を書くとするならば、それはどんなものになるか」を議論したものです。いわばメタ世界史、世界史論といったものです。

全人類共通の世界史には、何が書かれるかというと、それは「価値観の歴史」になります。現代で共通する価値観、例えば「人間の尊厳」「法の支配」「暴力の否定」「民主主義」といった価値観を拾い出し、その価値観が、それぞれの地域や社会、体制の中で、どのように尊重され、育まれていったか(あるいは疎外され、弾圧されていたか)を語ったものになります。この方針は、『岩波講座 世界歴史』にもつながります。

スケザネ:そろそろ時間が迫ってきたので、振り返りまとめつつ、最後に私からお薦めして、締めようと思います。

まず、全時代・全地域に渡って記述した、通史的なお話がありました。世界史の入門として、高校の教科書や図鑑は、うってつけだということで意見が一致しました。

次に、テーマ史的な話になりました。「地政学」を通じて、歴史における地理の重要性が明らかになりました。むしろ地理からやるべきかもしれませんね、世界史は。「反穀物」では、中心と周辺という世界システム論を逆転させるような話にまで発展して、とても興味深かったです。

そして最後に、メタ世界史、つまり世界史をどのように語りなおすかという視点から、『岩波講座 世界歴史』のご紹介がありました。

そうした流れで、歴史学とは何か、歴史とはそもそも何を語ろうとしているのかを考えると、お薦めなのが、この2冊です。

20世紀初頭、ソシュールによる言語の恣意性について議論が隆盛を極めました。つまり、私たちが使っている言葉、言語は、社会慣習としての約束事にすぎず、客観的なものではないという議論です。そして、そんな言語によって記述されている歴史、これもまた恣意的なものにすぎないという議論へと繋がります。

この議論に、フランスにおける文学と歴史学の変遷から考察をしたのが、『歴史をどう語るか』(小倉孝誠、法政大学出版局、2021)になります。

「歴史をどう語るか」というテーマを遡っていくと、古代ギリシャに至ります。アリストテレスは『詩学』で詩学(文学)と歴史の関係性をこう語ります。文学は過去・現在・未来を語ることができるが、一方で歴史は、起きたもの、具体的なものしか語りえない。つまり、文学は普遍的なものを書くことができるのに対して、歴史は具体的な一つの事しか記すことができないという見方です。

西洋ではアリストテレスの歴史観を長いこと引きずって、歴史は、文学作品に対して低い地位に貶められてきました。しかし、19世紀になると、歴史も科学たりえようという動きが出てきます。当時は「科学」という客観的で、実証主義的な考え方が徐々に生まれてきた頃ですから、歴史も「歴史学」として、王権を正当化するためとか、偏った主張を支える物語のような役割から、いかに脱却するかが求められました。

そんな動きの中で、フランスの歴史家ミシュレや、ドイツのランケが、近代歴史学を切り開いてきます。歴史を科学にするために奔走し、どうやって文学と差別化していったか、あるいは相互補完していったかが描かれています。

本書は、特にフランスの歴史学と文学とが、お互いにどのような影響を与えあいながら発展してきたかについて詳細に語られます。『ボヴァリー夫人』のラストがいかに歴史的かという記述はかなり震えます。

類書として、『歴史は現代文学である』(イヴァン・ジャブロンカ、名古屋大学出版会、2018)があります。なかなか挑発的なタイトルですが、結局歴史とは、「今の視点から過去を振り返る」行為なので、必然的に今の視点が持つ偏りや特徴をはらんでいることになり、究極的には現代文学なんだ、という考えです。

『歴史をどう語るか』に比べると、フランス以外も視野に入っており、現代史にも紙面が割かれていますが、少し難しい印象でした。

そして最後、『歴史学の思考法』(東京大学教養学部歴史学部会、岩波書店、2020)。東大教養学部の歴史学の講義を全12回の形でまとめたもので、歴史を語るうえで出てくる様々なトピックを網羅しています。さっきの「現代文学としての歴史」という視点や、出来事を双方の立場から見るとか、歴史の法則性があるのかなど、今日の対談で出てきた論点がほぼ網羅されていると思います。オムニバス形式なので、好きなところを拾い読みしても良いかもしれません。

学問としての「歴史」(歴史学)について考えるためには必携の一冊と言えるでしょう。

歴史とは何か、歴史とはそもそも語れるのかについて、お薦めしたい本のご紹介でした。

さて、そろそろお時間なので、皆さん一言ずつ頂いて締めましょうか。

タケハル:歴史って一口に言っても、人によって様々な切り口があり、その味が楽しめました。「反穀物」は読みたい!

Dain:本についてしゃべっているけれど、権力の話とか、Google や youtube の話など、どんどん脱線していくのが楽しかったです。

スケザネ:どんどん脱線していくのが愉しいので、またやりましょう。ありがとうございました。

タケハル&Dain:是非やりましょう! 本日はありがとうございました。

おまけ:お薦めされたブックリスト

3人が紹介した本に加えて、チャット欄でお薦めされたものもあわせてリスト化した。太字は対談の前に考えてた12冊だけど、話していくうちにドンドン広がるのが良い。

最初は世界史について語っていたはずなのに、歴史のダイナミズムを生むのは何かから、youtube や Google のパワーに飛び火し、新しい本との出会い方など、色々転がっていって楽しかった。

「歴史の本じゃない!」というツッコミ上等、その通り(でも歴史の話につながる)。「それが良いならこれなんてどう?」というお薦めがあれば、ぜひどうぞ。

  • 『詳説 世界史B』(山川出版社)
  • 『詳説 世界史研究』(山川出版社)
  • 『詳説 日本史研究』(山川出版社)
  • 『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』(ハンス・ロスリング、日経BP)
  • 『独学大全』(読書猿、ダイヤモンド社)
  • 『新詳 世界史B』(帝国書院)
  • 『最新世界史図説 タペストリー』(帝国書院)
  • 『恐怖の地政学』(T.マーシャル、さくら舎)
  • 『サクッとわかる ビジネス教養  地政学』(奥山真司、新星出版社)
  • 『マッキンダーの地政学』(H.J.マッキンダー、原書房)
  • 『赤毛のエイリークのサガ(他) (1000点世界文学大系 北欧篇)』(山元 正憲、pプレスポート)
  • 『高校 世界史を ひとつひとつわかりやすく』(鈴木悠介、学研プラス)
  • 『論点・西洋史学』(ミネルヴァ書房)
  • 『論点・東洋史学』(ミネルヴァ書房)
  • 『歴史に残る外交三賢人-ビスマルク、タレーラン、ドゴール 』(伊藤貫、中公新書ラクレ)
  • 『反穀物の人類史』(ジェームス・C・スコット、みすず書房 )
  • 『実践 日々のアナキズム』(ジェームス・C・スコット、岩波書店 )
  • 『ゾミア―― 脱国家の世界史』(ジェームス・C・スコット、みすず書房 )
  • 『物語創生』(マーティン・プフナー 、早川書房)
  • 『「世界文学」はつくられる:1827-2020』(秋草俊一郎、東京大学出版会)
  • 『ルックバック』(藤本タツキ、集英社)
  • 『からかい上手の高木さん』(山本崇一朗 、小学館)
  • 『葬送のフリーレン』(山田鐘人、小学館)
  • 『近世日本国民史 明治維新と江戸幕府』(徳富蘇峰、講談社学術文庫)
  • 『岩波講座 世界歴史』(岩波書店)
  • 『新しい世界史へ』(羽田正、岩波書店)
  • 『歴史をどう語るか』(小倉孝誠、法政大学出版局
  • 『歴史は現代文学である』(イヴァン・ジャブロンカ、名古屋大学出版会)
  • 『歴史学の思考法』(東京大学出版会)
  • 『ジョルジョ・ヴァザーリと美術家の顕彰 16世紀後半フィレンツェにおける記憶のパトロネージ』(古川萌、中央公論新社)
  • 『虐殺器官』(伊藤計劃、早川書房)
  • ​『宇宙・肉体・悪魔』(J.D.バナール、みすず書房)
  • 『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎、新潮社)
  • 『タイムマシン』(H.G.ウェルズ、光文社古典新訳文庫)
  • 『歴史の起源と目標』(カール・ヤスパース)
  • 『New Scientist 起源図鑑 ビッグバンからへそのゴマまで、ほとんどあらゆることの歴史』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)
  • 『世界哲学史シリーズ』(ちくま新書)
  • 『ジオコスモスの変容』(山田俊弘、勁草書房)
  • 『現代版 魔女の鉄槌』(苫米地英人、フォレスト出版)
  • 『想像の共同体』(ベネディクト・アンダーソン、書籍工房早山)
  • 『東京の生活史』(​岸政彦、筑摩書房)
  • 『歌う国民―唱歌、校歌、うたごえ 』(渡辺 裕、中公新書)

※1 『ドイツ・フランス共通歴史教科書』(ペーター ガイス、ギヨーム・ル カントレック、明石書店、2008)
※2 『未来をひらく歴史―日本・中国・韓国=共同編集 東アジア3国の近現代史』(日中韓3国共通歴史教材委員会、高文研、2006)

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面白い世界史の本を3人で2時間お薦めしあった中から厳選した12冊(前編)

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年1月22日】


お薦めの世界史の本について、3人で2時間語り合った。

世界史を学びなおす最適な入門書や、ニュースの見方が変わってしまうような一冊、さらには、歴史を語る意味や方法といったメタ歴史まで、脚本家タケハルさん、文学系Youtuberスケザネさん、そして私ことDainが、熱く語り合った。

全文はyoutubeで公開しているが、2時間超となんせ長い。なのでここでは、そこから厳選して紹介する。


因果関係を補完する『詳説 世界史研究』

スケザネ:大学生、あるいは社会人の方々にも、世界史を学ぶには、まず真っ先に「高校世界史」をオススメしたいです。世界の歴史を幅広く知るという観点から、高校世界史はベストだと思います。

代表的な高校世界史の教科書は、山川出版社の『詳説 世界史B』。世界史の概観が400ページぐらいにまとめられてて良い本なんですが、これだけだと記述が簡素で、理解するには少ししんどい。

実際、自分が高校生の頃にこれで初めて勉強したとき、マジで意味が分かんなかった(ちなみに最終的に、教科書は東京書籍の『世界史B』を使用していました。)。

そんなとき、世界史ができる同級生にお薦めされたのが『詳説 世界史研究』です。これは、『詳説 世界史』を何倍にも詳しくしたもので、字も細かいし、ページもぶ厚くなっています。

ボリュームがあるからちょっと怯むんですが、めちゃくちゃ良いです。『詳説 世界史』では語られていない(省略されていたり、簡素化されていたりする)因果関係や背景が書いてあって、なぜそれが起きたのか、その出来事がどうつながっていくのかが、詳しく説明されている。確かに分厚いけれど、説明が詳しいので気合いさえあれば読み通せる。

高校生の頃は、学校の授業や実況中継シリーズのような通史解説を読んでいって、特に分からないところは『詳説 世界史研究』で補うようにしていました。今でも辞書的に手元において重宝している一冊です。お薦めです。

Dain:以前、スケザネさんにお薦めされ、『詳説 世界史B』と『詳説 世界史研究』を並行で読み切りました。ありがとうございます。

そこで気づいた最大のものが、歴史をアップデートする必要があること。私が知ってる世界史は、米ソ冷戦の雪解けまで。それ以降は、テレビやネットで知った「ニュース」になります。ニュースの蓄積で、現代を知ったつもりでいるけれど、歴史としての検証を経ていない。だから、私の思い込みの可能性もある。

たとえば貧困問題。ネットニュースで「貧困問題は大きく解消に向かっている」と知り、それが事実だと思い込んでいました。ですがそれは、都合の良い情報を切り取っただけであることが、『詳説 世界史B』分かりました(※1)。世界の食糧問題は、依然深刻なままです。

あるいは紛争問題。とある学者が「戦争は大幅に減少している」というの耳にしたことがあります。ですが、国家同士が宣戦布告する従来の戦争が減っているだけのこと。代わりに、内乱、紛争、武力介入、軍事制圧になっています。これは、『詳説 世界史研究』に記されています(※2)

ニュースに敏感になるのも大事ですが、ニュースは検証をしません。なので、歴史としてどう記されているかを知るために、教科書は重要だと思います。

ボリュームもあり、一気に読めないのですが、コツがあります。「今日、ここまで読んだ」とツイートするんです。みんなが見ているから、引っ込みがつかない。読書猿さんの『独学大全』で教わったやりかたです。

そして、「全部読んだぞ!」とツイートしたら、読書猿さんから「次はこれなんてどう?」と教わったのが、私のお薦めの1冊目になります。

プーチン大統領が怒った理由を『新詳 世界史B』で知る

それは、帝国書院『新詳 世界史B』。300ページと薄くて、図版が多いのが嬉しい。真ん中に本文があって、周囲に史料や写真が囲むような構成になっている。本文、つまり史実は、その周りの史料によって支えられていることが伝わってきます。

嬉しいのが、見出しと本文の間に2~3行ぐらいのリード文があることです。いわゆる、トピックセンテンスですね。本文の予告みたいになっていて、おかげで、そこで何を扱うかが素早く押さえられる。

Dain:今日の対談のために、『新詳 世界史B』を見直してたら、最近のニュースにつながる話題がありました(※3)。ロシアのプーチン大統領が、ウクライナ問題について語ったコメントです。ウクライナ国境にロシア軍を集結させていることへの批判に対し、「NATOがウクライナを取り込もうとしているのが原因だ」と怒りをあらわにしたとあります。数か月前、住民投票が行われ、ロシアへの編入を望んでいるという結果があり、それも受けたコメントです。

でも、『新詳 世界史B』のp.204「現代につながる諸問題:ロシアによるクリミア編入」を見ると、問題はもっと複雑なことが分かります。

ウクライナのあるクリミアは、ちょうどロシアと黒海の間に挟まる地政学的な要衝です。もともとクリム=ハーン、つまりモンゴル由来で、ロシアの南下政策の対象となった国です。古くからいるクリミア=タタール人、ウクライナ人に、ロシア人が入り混じっているのです。

そんな状態で、一部地域の住民投票だけで、ウクライナ全土がロシアへの編入を求めているというロジックは成り立ちにくいことが分かります。こうしたクリミアの歴史的背景から目を逸らせるために、外交戦術の一環として、プーチン大統領は怒ったんじゃないかと

世界史の図鑑『タペストリー』

スケザネ:世界史を学ぶことで昔のことがわかるだけじゃなく、それを通じて現代のことをより深く知ることができます。特に教科書にはコラムという形であちこちにあるトピックがまさにそれで、例えば中東問題とか、アフリカの国境の問題というのが、記述試験の論述問題に役立つ、なんて受験界隈で囁かれていました。

実際、受験勉強で学んだことが、現代の国際情勢を考える上で、ダイレクトに役に立っています

Dainさんの帝国書院の紹介で「図版が多い」というお話がありましたが、図版はめちゃめちゃ大事。なので、もう1冊推しを紹介させてください。

それは、帝国書院の『最新世界史図説 タペストリー』です。

やっぱり教科書の文章だけではしんどい。言葉や文章は確かに大事ですが、理解を助けるために、写真と史料、あと年表や地図といった視覚情報がとても役に立つ。『タペストリー』は、いわば世界史の図鑑とでもいうもので、必携ですし、とりあえずその手の内容であればこれ一冊で十分といってもいい。

地理から歴史を見る『恐怖の地政学』

タケハル:自分の本棚をざっと見たのですが、私の場合、いわゆる世界史の通史というものは少ないです。受験は地理だったし。

なので、私の推しはT.マーシャル『恐怖の地政学』です。

地政学とは、地理から歴史を見るものです。世界各国の地政学的な状況を分析することで、地理が世界史にどうかかわっているかを知ることができます。

Dainさんが言ってた、ロシアとウクライナの位置関係がまさにそれ。こんな話があります―――プーチン大統領はロシア正教徒のはずだから、毎晩熱心にこう祈るはず。

「神よ、なぜあなたはウクライナに山岳地帯をお作りにならなかったのですか」

スケザネ&Dain:www

タケハル:どういうことかというと、平地でつながっちゃっていると、人の行き来が簡単で、戦争もすぐ起こせちゃう。さっきのクリミア問題なんてまさにそう。

でももし(神の思し召しで)山岳地帯があれば、人の行き来が難しくて、そこで文化が分断される。すると、統治のために大軍を配備しなくてすむようになる。

こういう発想で世界を見ていくのが地政学。

たとえば、ロシアと中国は国境を接しているけれど、あんまり戦争してきたイメージはない。それは、ロシアと中国のあいだにゴビ砂漠があるから。砂漠地帯を挟んだ国同士は、戦争が起きにくいんです。

砂漠があるとどうなるかというと、軍隊が来るのが見える。移動が大変だし、砂漠の真ん中で戦争するわけにもいかないし……というわけで、距離が近いけど戦争を仕掛けにくい関係になっている。

ドイツとフランスの仲が悪いのも同じ発想です。間に遮るものが無いから。境界線が川だけで、すぐに攻め入ることができる。イタリアはアルプス山脈があるから攻めにくい。

目から鱗だったのが、ペリーです。あの黒船の。日本に来た時、出発地点がどこか分かります?

Dain:(捕鯨基地の)ハワイとか? 

タケハル:違うんです。その頃アメリカ西海岸は発展していませんでした。実は、スタート地点は東海岸なんです。黒船はいったんヨーロッパを経由して喜望峰をまわって日本に来たんです。

なぜなら、パナマ運河が無かったから。だからわざわざぐるりと地球を回って、日本へやってきた。

国同士の関係性や、歴史上の出来事には、物理的な理由=地理に因ることを教えてくれるのが、『恐怖の地政学』なんです。

地理は歴史の定数

スケザネ:歴史において地理は重要ですね。フランスの歴史学者フェルナン・ブローデルの三層構造という考え方があります。ブローデルは、歴史を三つの構造に分けました。

一つは、政治的な事件や出来事です。いわゆる政治史と呼ばれる階層で、世界史の中心とも言うべき内容ですが、早いテンポで変わっていきます。

二つ目は、社会の動き。人口動態や国家の枠組みです。歴史による変化はありますが、一つ目よりは緩やかで、変わりにくいです。

三つ目は、地理です。自然環境や気象、山岳や河川、砂漠といった地質的条件です。これは上の二つと異なり、そう容易く変わることがありません。

戦争や社会の動きといった、動きのあるところだけを見ていると、見逃してしまう、歴史の根っこにあたるのが地理ですね。地理は、世界史の定数と言っていいでしょう。

イギリスとフランスの間にあるドーバー海峡、これは百万の陸軍に相当する、という言葉があります。もし両国の間に海がなかったなら、イギリスとフランスの関係はまるで違ったものになっていたことでしょう。ナポレオンも、ヒトラーも、海はそう簡単に渡れないですから。

地政学がここ数年元気になってきたのは、日本特有の事情があると思います。

地政学は、アルフレッド・マハンやマッキンダーという、軍人や政治家が基本的な理論を打ち立てた学問です。彼らが生きた19世紀末から20世紀初頭頃は、帝国主義全盛の時代で、世界地図をゲームの盤上に見立てていました。つまり、地政学とは、極めて政治的な学問だったということです。

そのために、第二次大戦後、日本がアメリカのGHQに占拠されたとき、地政学はあまりにも危険すぎるということで、地理学から政治的要素を抜いて、人文地理学だけにしました。

時が流れ、今では政治がかった文脈の中で地理が語られるようになりました。こうしたキナ臭い背景も含め、地政学の取り上げられ方の動向も、気になりますね。

タケハル:「地政学の歴史」があるというわけなのですね。

Dain:いま気づいたのですが、山川の『詳説 世界史B』と『詳説 世界史研究』、そして帝国書院の『新詳 世界史B』の3つに共通するものがあります。それは教科書の表紙を開いた見返しのところ、世界地図なんですよね。それも、国境のないやつ

主な河川や山脈、海、砂漠、高原が描いてあります。帝国書院の教科書だと、海流や偏西風、季節風まで記されている。戦争のしやすさだとか、交易のしやすさ、文化の伝わりやすさというものは、こうした地理環境によって左右されているんじゃないかと。

スケザネ:そこでお薦めしたいのが、『高校 世界史を ひとつひとつわかりやすく』(鈴木悠介、学研プラス)です。面白いのは、最初にひたすら地理の話をしているところ。世界史の参考書なのに、ここは何半島だとか、山脈だとか、地図の話で始まっている。

これは感激しましたね。というのも、高校で世界史を始めたとき、国や地域の位置関係がいまいち掴めず、苦労してたから。

タケハル:地理が分かると、世界史の理解が一気にあがりますもんね

Dain:チャットの方のコメントで「地政学といえば奥山真司 」「原書房の『マッキンダーの地政学』が良かった」といただいています。ありがとうございます、めちゃくちゃ気になります。

スケザネ:『赤毛のエイリークのサガ』のお薦めコメントありがとうございます。コロンブスに500年先駆けてアメリカ大陸へ足を踏み入れた人たちの歴史みたいですね。これも気になります!

史実と主張を分ける『論点・西洋史学』『論点・東洋史学』

スケザネ:では2周目に行きましょう。『論点・西洋史学』『論点・東洋史学』をお薦めします。歴史学の中から、論点だけを120個ぐらい集めたもの。どんな論点かというと、注目を集めている事実関係やキーワード、現代につながるものなど。

たとえば、最初の論点として「ホメロスの社会」があります。ホメロスによって作られたとされる英雄叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』が、ギリシャ社会の中でどのように受容されていったかが議論され、シュリーマンに至る時系列の中で紹介されています。

他にも、ポリスがどのように形成されていったかとか、キリスト教がどうやって拡大していったかなど、通史的なところを押さえつつ、ポイントになるものを見開き1ページにギュッと解説してくれている。

特に良いのは、最初のパラグラフで、史実が記されているところ。どんな主張を支持していていようとも、確からしいところ=ファクトが十数行ぐらいに並んでいる。その次に、考察ポイント=論点とその背景が並んでいる。横に注釈が並んでいて、分かりにくいところはサポートしてくれるのも嬉しい。

『詳説 世界史研究』の次に、通史からもう一歩進みたい人にお薦め。

タケハル:読みたい! これは手元に置いて、都度つど「使う」本ですね。

Dain:これは欲しい! 『論点・西洋史学』と『論点・東洋史学』はペアになっているように見えます。なので、同じ「史実」でも、侵略する側/される側によって、描かれ方が違っていると思います。そういった論点を両側から比較するようなことはできるでしょうか?

スケザネ:両方を見比べると、できます。たとえば『論点・東洋史学』には、「アヘン戦争」や「インド大反乱」「フランスのアフリカ支配」といったトピックが並んでおり、アジア・アフリカの抑圧された側からの視点も含めて論じられています。一方『論点・西洋史学』には「大西洋奴隷貿易」「植民地と近代」という論点で、帝国主義的な立場が議論されています。なので2冊セットで読むと、より立体的に理解できると思います。

Dain:ギャラリーの方で「買いました」というコメントが! 私もポチってしまいそう。

スケザネ:コメント欄からのお薦めいただきました、ありがとうございます。『歴史に残る外交三賢人 ビスマルク、タレーラン、ドゴール』(伊藤貫、中公新書ラクレ)ですね。この三人が並んでるだけでめちゃ面白そう。新書だしお財布に優しい。

タケハル:それ読みました! すごく良かったです。ドイツのビスマルク、フランス革命のタレーラン、そしてこれまたフランスのドゴールのそれぞれの外交&戦略論です。ドゴールが一番面白かった。これ読むまで、第二次大戦のドゴールに強い印象がなかったんですが、見方が変わりました。

第二次大戦後の歴史って、米国 v.s. ソ連の構造だと思っていたんですが、フランスが独自路線を敷くことで、東西の対立だけじゃなくなった、その立役者としてのドゴールを描いています。

先入観からの解放感がスゴい『反穀物の人類史』

Dain:僕からは、2021年に読んだ中で一番の『反穀物の人類史』(J.C.スコット、みすず書房)をお薦めします。読書体験の中で最高のものである、「読んだら世界がひっくり返る」を生々しく味わった一冊です。

これを読むまで僕の中で、「農耕社会が豊かな文明をつくる一方、狩猟採集は野蛮で遅れていた」というイメージがありました。ですが、これは私の思い込みであり、全く逆であったことが示されています。

残されている農民の骨格を、同時期に近隣で暮らしていた狩猟採集民と比べると、狩猟採集民の身長が、平均5cm以上も高いことが判明しています。また、農民は、栄養不足による発育不足や、感染症に罹りやすかったことが骨から分かっています。

一方、狩猟採集では、海や河川、湿地、森林、草原と、季節に応じて移動することで、十分な栄養を安定して得ていました。

じゃぁ、なぜ農耕民族は栄えたのか。著者は「定住」だと答えます。

狩猟採集民は野営地を「移動」します。家財道具一式を持って移動する際、最も負担になるのが子どもです。だから子どもを育てるのは4年ごと、つまり自分で歩けるまで、間隔をあけるんです。結果、狩猟採集民が育てる子どもの数は、限られてくることになる。

この問題は「定住」が解決します。移動することがないから、いつでも子どもをつくることができる。しかも農耕民族にとって子どもは大事な労働力です。だから、どんどん産んで、たくさん育てようとする。もちろん子どもの死亡率も高いのですが、生涯出生率を5,000年で複利計算すると、農耕民族は狩猟採集民を圧倒するとしています。

他にも、「国家は穀物で発展した」という主張が目を引きます。古代国家は麦や米、ヒエなどの穀物が主要な食物であり、税の単位であり、暦の基盤でした。なぜか?

それは、徴税が楽だからです。穀物は地上で育ち、ほぼ同時期に熟すため、一回の遠征で収奪可能です。しかも土地の広さ=収穫量なので、おおよその税も見積もれます。こうした税収を見積もったり記録するために、数字や文字が発達したのではないか、と考えられます。

私たちが知る「歴史」とは、文字として残された史料からです。そして、それらを書いてきたのは、穀物で発展した国家です。当然、自分たちの支配を正当化し、それに馴染まない狩猟採集民を低く評価する記録となるでしょう。私の先入観は、「文字による史料」という段階から刷り込まれているのかもしれません

スケザネ:面白そう! 穀物からの恩恵を受けた人たちによって書かれたのが歴史だという発想は、考えたこともなかったです。

書かれた言葉が世界を変える『物語創生』

タケハル:「文字によって書かれた世界」という観点からだと、『物語創生』(M.ブフナー、早川書房)がお薦めです。サブタイトルが「聖書からハリー・ポッターまで、文学の偉大なる力」というんですが、微妙に翻訳のピントがずれている。

これは、文字や言葉がどのように人々の心を動かし、歴史を形作り、文明を発展させていったかを解説した本です。

もちろん聖書やハリポタも出てくるし、ホメロスのオデュッセイアやギルガメッシュ叙事詩も俎上に上るのですが、「文学」というジャンルからだけではなく、そもそも「書かれるとは何か」からスタートしています。なぜそれが語られるだけではなく書かれたのか。そしてなぜそれが残ったのかまで掘り下げています。

例えば、アッシュルバニパル王と楔形文字の関係について。楔形文字の保護をしましたが、それによって王の支配力が高まったとされています。

なぜか? それは、戦争にヒントがあります。召集や行軍、戦術を指示するとき、それまでは口頭で行っていました。しかも将から直接全員に言うわけではないので、伝言ゲームになります。

すると、微妙にずれてくる。味方の勢力や徴発した物資の数が変わったり、指示内容が変わってくる。これを回避するために、「記された言葉」すなわち文字が役立ちます。文字により正確に情報を伝えられるようになったのです。文字は戦争を有利にしたのです

あと、「記された言葉から見た歴史」だと、アメリカの画期的なところも紹介されています。活版印刷術が普及していくと、「印刷する設備や技術者を持っている人」こそが情報を握っており、権力者となりました。作家と印刷者からすると、印刷者のほうが強い。これがヨーロッパでした。

一方アメリカでは事情が違ってきます。ベンジャミン・フランクリン。科学者でもあり政治家でもあるフランクリンは、文章が書ける人でした。そして印刷する設備も持っていました。書く人+印刷する人の両方が揃っている新聞社が力を持っているのは、こうした理由になります。

さらに、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』、世界を大きく変えた一冊として有名ですが、これが凄い勢いで広まった理由は、ちゃんとあるのです。

それは、同時翻訳・同時印刷したからです。

普通なら、作者の言語で書かれた後、評判によって他国語に翻訳され、だんだん広まっていくものです。ですが、共産党宣言は最初から複数の言語に翻訳され、印刷され、出版されたのです。そのためヨーロッパ全土でバズったのです

こんな感じで、文学や物語というより、文字が人類に与えたインパクトがテーマなのです。原題が一目瞭然で、”The Written World” (書かれた世界)まんまですね。サブタイトルは、”The Power of Stories to Shape People, History, Civilization” (人、歴史、文明を形作った文字の力)です。カッコつけて、キャッチーなタイトルにしようとして焦点がずれてしまって勿体ない。

物語の力もあるけれど、もっと政治的・歴史的な話なんです。

スケザネ&Dain:知らなかったーー! 気になるーーー!


※1 『詳説 世界史B』(山川出版、2020)p.417 課題:世界の食糧危機問題を考える
※2 『詳説 世界史研究』(山川出版社、2020)p.536 地域紛争の激化
※3 BBC:ロシアはウクライナを侵攻するのか 現状について数々の疑問

後編へ続く)

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名著!「デッドライン」

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2006年9月14日】


 長くなりすぎたこのエントリのレジュメ …というか、見出しの一覧。これ見てご興味ある方はお読み下さいませ。

  • マネジメントの4つの本質
  • マネジメントおける簡潔で痛切なエッセンス(一部)
  • 設計とデバッグに関する恐ろしい事実
  • 残業と生産性とプレッシャーに関する恐ろしい事実
  • 生産性の測定について
  • 管理者の怒りについて
  • 会議を効率よく行うための、たったひとつの冴えたやりかた

 大事なことが、ずばり書いてある。背中を押したのは「ソフトウェア開発の名著を読む」なんだけど、確かに名著だ。初読は物語を楽しみ、再読、再々読で血肉にすべきだな。

 延ばし延ばしにしてた一冊を読み始めて「どうして今まで読まなかったんだあぁぁっ」と叫びだすような逸品がある。本書がまさにそう。デマルコは「ピープルウェア」がピカイチと決め付けてた自分が恥ずかしい。

 「ピープル」がプログラマ・チームリーダーの視点で書いているが、「デッドライン」ではプロジェクトマネージャをテーマとしている。この業界でPMやっている方なら、沢山の気づきが見つかるだろう。いや、気づきだらけといってもいい。

マネジメントの4つの本質

 そのうち、アタマガツンとやられる「気づき」がある。正しい管理の四つの本質がそうだ。簡潔で、痛烈だが、真実だ。

正しい管理の四つの本質
   ・適切な人材を雇用する
   ・その人材を適所にあてはめる
   ・人びとの士気を保つ
   ・チームの結束を強め、維持する

ふむふむ、人材、適材適所、士気、チームワークか、あったりまえじゃねーかと思いながら、最後の一文で凍る。

   (それ以外のことは全部管理ごっこ)

 確 か に そ の 通 り 。ぐぅの音も出やしない。この本質を疎かにしたら、プロジェクト計画書やWBS、ガントチャートはまるで意味をなさない。それらはツールでしかないから。ツールを玩ぶのは"ごっこ"そのもの。

 ソフトウェア・システムは人が作る。自動化が喧伝されるが、本質は不変だ。だから、次の式が常に成り立つ。

   ソフトウェア・システムの問題 = 人の問題

 この「人」の中に自分も含めていい。だから、何らかの問題が発生するならば、その原因(の根っこ)には、自分も含めた人が存在する。あるいは、その解決策(の根っこ)には、やっぱり人がいる。

 小説じたてでエッセンスが紹介されるのは、制約条件理論の「ザ・ゴール」と一緒。しかし、導師(グル)の教えをレクチャーする話ではなく、メンバー同士の会話が問題解決への突破口となっており、気が抜けない。

 つまり、架空の自分をそこに紛れ込ませて、「自分だったらどうするか?」をあれこれ考えるというわけ。「ご教授を賜る」ための読書ではなく、自分の経験・ノウハウを当てはめながら一緒になって悩むことができる。

マネジメントおける簡潔で痛切なエッセンス(一部)

 エッセンスの一部を紹介する。簡潔で、痛切だが、真実だ。

  • 戦闘が始まるときには、管理者のほんとうの仕事はもう終わっている
  • 変更は、あらゆるプロジェクトの成功のために必要不可欠だ
  • 人は安全だとわからないと変更を受け入れない。安全が保証されていないと、リスクを避けようとする
  • どれほど強い脅しをかけても、最初に割当てた時間が足りなければ、やはり仕事は完成しない
  • 短期的に生産性を高める方法などない。生産性は、長期的な投資によって向上する
  • リスクを管理することでプロジェクトを管理せよ
  • 一日をむだにする方法はいくらでもある…しかし、一日を取り戻す方法は一つもない

設計とデバッグに関する恐ろしい事実

 ただ「気づき」をもらうだけではない。自己の苦い経験を思い出させ、そこからどうすればよかったかを過去に戻って気づかされることもある。第14章では、例えばこんな風に――

【スケジュールが圧縮され、デバッグに割当てられる時間がほとんどない状況で】

「デバッグの時間がなかったら、どうやってプロジェクトを運営すればいいんです」とトムキンスは疑い深げに言った
『デバッグにかかる時間は、バグの数に比例するんだろう』ケノロスは無知な人間に話しかけるかのように言った
「ええ、でもデバッグに時間をかけないということは…」
『バグがあっちゃいけないってことだ。わかってるじゃないか。そのとおりだ。覚えがいいぞ』
「バグがない!」
『あんたが言ったんだぞ』
「どうすればバグをなくすことができるんです?!」
『さあ、考えてみろ、あるモジュールの中でバグを見つけた。バグはどこにある?』
「モジュールの中です」
『ちがう。モジュールの端にあるんだ。一番端のとこだ。たしかに、真ん中へんにも簡単なバグはある。そのモジュールの内部だけのやつだ。だが、そいつらは調べれば簡単にわかる。ほんとに時間のかかるバグは、そのモジュールとその他の部分のインタフェースにからむやつだ』
「そうです、だれでも知ってることです。それで?」
『それで、あんたたちはデバッグ中にそんなバグを見つけると、まちがったところを見るんだ』
「なにを見るんですって?」トムキンスはいらだってたずねた
『モジュールと、その内部を見るんだ。コードを見ている』
「なにを見ればいいっていうんです」
『設計だ。目の前に並んでいるインタフェースに関する情報は、みんな設計の中にある』
「でも、設計をレビューするときに、欠陥は取り除くように努力しています。それはもうやっています。それでももぐり込む欠陥を見つけ出すために、膨大なデバッグ作業が必要なんです」
『ちがうな』
「ちがう? 設計のレビュー中にバグがもぐり込むのがちがうっていうんですか」
『いや、設計中にほんとにバグを取り除こうとしているってのがちがうんだ』
「どうしてそんなことが言えるんですか」
『わかってるとも。おれは何年も見て回ったが、レビューをする価値があるぐらい、実際のコードに十分近づくまで設計をしているやつはほとんどいなかった』
「設計はやるにきまってます。だれでもやります」
『あたりまえさ。でも、設計段階でやってないんだ。設計のときは、チームはドキュメントを作成する。"理念"なんてものをでっちあげて、ファイル・レイアウトなんかを一つ二つ作って、形だけのレビューをやる。連中が考えてるのは、管理者にうるさく言われないために必要なことをやって、早くコーディングに進むことだけだ。最後に、管理者がオーケーを出す。次の段階に進める。チームは喜んで、いわゆる設計は棚に放り込んで、二度と見ることもない。ただの棚飾りだ。そして、コーディングの段階になってほんとの設計をやっている。コーディングの最中に、だ。そのころになって、実際のモジュールをどうするか、実際のインタフェースをどうするか決めてるんだ。しかも、そういう決定はレビューされない

 太字はわたし。ここまでなら周知の事実かもしれない。わたし自身、この会話は誰かとしたことがある。では、この状況でどうすべき『だった』か、つまり、主人公トムキンスがこの後どのように行動したか、そしてその結果は――ご自身でお確かめあれ。結論はできすぎた話かもしれないが、理解はできる。ただし、自分がその打ち手を選ぶためには、【勇気】が必要。

残業と生産性とプレッシャーに関する恐ろしい事実

 第15章。小説だから書けた話なんだろうが、薄々分かっていたけれど、ひょっとすると――ひょっとしなくても、本当のことなんだろう→「残業時間が増えれば増えるほど、生産性はガタ落ちすること」

 ええまぁ、わたしの経験からしても、「昼間は雑務や電話応対で、アタマを使う設計やプログラミングは夜間の仕事」と分けていたから。顧客の電話の相手や、くだらない書類・メールに邪魔されて、昼間は落ち着いて仕事ができない、というのが原因だ。

 生産性とは、ホントのところ、時間あたりのライン数などではなく、利益をコストで割ったもので計るべきなんだろう。利益は、仕事からの収益や削減できた金額で計ることができるし、コストは全体コスト(退職者の補充・要員の追加に伴う教育費を含む)で算出できる。この観点に立つなら、メンバーの士気をすり減らし、燃え尽きへ追いやる残業は即ち「悪」といえる。

 じゃぁ、管理者は何をしたらいいのか? 「残業時間を増やすこと→より多くの結果を出すこと」が間違いなら、管理者にはすることが無くなってしまうではないか。この質問にはスゴ腕のPMであるベリンダ(ただしホームレス)がこう答える。

「ほかのこと。むずかしいことばかりね。採用、刺激、チームの力学、優秀な人材を保ちつづけること、手法から非効率的な部分を取り除くこと、ミーティングを減らすこと、オーバーヘッドを減らすこと、余分なドキュメンテーションを削減すること」

 そして、時間外労働に突入しようとするメンバーには、こういういうべき→「家へ帰れ。今から10分以内に電気を消すぞ、本気だからな」ってね。

 しかし、そうはいっても締め切りが、プレッシャーが、デッドラインが…と反論することは可能だ。まさに本書の題名どおり、勘ドコロを突いているのが次の回答だ。

【質問】
 プレッシャーがプログラマーに与える影響が、6%の生産性向上
 だけで平坦化してしまうのはなぜですか?

【回答】
 プレッシャーをかけられても思考は速くならない

 この一行は10回読んだ。絶対に忘れてはならない一行なり。

生産性の測定について

 「生産性を測定することは不可能だ」←この意見に反発を覚えたことがある。この業界のグルの御発言なので、めったな反論は差し控え、実践で証明してみようと色々試みている。

 わたしの場合、完全新規のスクラッチなんて無い。たいていは以前に似たもの(あるいはプロトタイプ)を作っている。過去の類似プロジェクトから類推できる部分と、新技術を導入したことで不明確な部分とに分け、後者を段階的に係数化して見積もり・管理してきた。

 リスクテイクしなければならない部分を最初から切り分け、予実の乖離は発見次第、即反映している。FP法の猿真似だが、似たようなプロジェクトを任される限り、かなり精確に出せている。

 そんなわたしにとって、第12章「プロジェクトの数量化」の以下のくだりでは、強力な味方ができたようで、大いに励みになった。

  • 測定単位を気にするな。客観的な尺度ができるまでの間は、主観的な単位を使えばよい
  • 考古学的なデータを収集し、これまでに完了しているプロジェクトから生産性を算出する
  • 過去のプロジェクトをもとにトレンド・ラインを引き、予想される労力を合成尺度の値の関数として示す予想をたてるべき

管理者の怒りについて

 これまた陳腐な話題かもしれないが、どこの職場にも必ず一人はいる「怒れる管理者」。高圧的で、嫌味ったらしく、みんなの嫌われもの(本人はそれが"管理者のあるべき姿"だと思い込んでいる)。

 しかし、感情は伝染する。笑顔やアクビが伝染するように、怒りも伝染する。上の管理者が怒鳴ると、下の管理者も同じような行動をとる。虐待された子どもが自分の子どもを虐待するのと同じだ。本書では怒れる管理者をズバリ「管理者としての能力不足」と断ずるが、それだけではない。なぜ管理者が怒るのか? についてこれまたズバリと書いている。

 なぜ管理者は怒るのか? 第16章にこうある。

 それは、恐れているから。与えられた役割をまっとうできないのではないか、会社の期待に背くのではないか、立場を失ってしまうのではないか、失敗するのではないか… 仕事場では、恐怖を表に出すことは許されない。けれども、何かを吐き出す必要があるとき、たいてい怒りが選ばれる。以下の文章をもっと早く知っていたら、どれだけ(過去の)わたしが救われたことだろう。

  • 怒りは恐怖である。部下に対して罵倒の行動をとる管理者は、ほとんどの場合、恐いからそうしているのである
  • 怒っている人は、恐怖を表に出したくない。つまり、怒りが恐怖の表れだと分かってしまったら、怒りを吐き出すこともできなくなる
  • これは怒っている人の問題は解決できないが、他の人の悩みは軽減できるだろう

 怒れる管理者の心がよーくわかった。あの人はだからいつも怒ってるんだな、と思うと、少し気持ちが軽くなった(この秘密は今怒鳴られているアイツにも教えてやろう)。

会議を効率よく行うための、たったひとつの冴えたやりかた

 第20章、これは知っていた――というか、何百回もひどい目に遭って、ようやくたどり着いた、たった一つの冴えたやりかた。十年前に知っていたなら、考えたくないほど莫大な時間と労力を節約できていただろう。それは、これだ↓

  • 会議は、重要ではない人物が出席しなくても心配ないように、小さくする必要がある。欠席者が安心するための最も簡単な方法は、議事予定表を発行し、それに厳密に従うことである

 何百時間も自分の時間を費やして、同じ結論だ。だからわたしは、自分が主催するミーティングでは必ず、

  • 議事予定表(日時、場所、議題一覧)をメールで事前共有
  • ミーティング前に、ホワイトボードの端に議題一覧を書いておく(終わったらチェック印)
  • 開始の呪文「今から皆さんの時間を○○分使って、まず□□、次に△△… を決めます」で始める

を実践している。また、上記の条件を一つも満たさない会議には出席しない(あるいは退席する)ようにしている。

 会議のやり方に限らず、他にも、多すぎるメンバーが招く問題や「製品の部品=プロジェクトの構成」からくる問題(第19章)、プロジェクトをめぐる病んだ政治にまきこまれた場合に気をつけねばならぬこと(第21章)などなど、思い当たることばかり。

 身におぼえのある会話、何度も悩んだことがある問題と対策が【ぜんぶ】書いてある。いちいちヒザを打ってたなら、真っ赤になるね。わたしゃもう若くないので、若い人――20代かな――に読んで欲しい。そして、わたしが自分の時間や労力を浪費してたどり着いたシンプルな真実を、こいつを読むことで先回りして知っておいて欲しい

 これは、そんな名著。いい本を読んだ。2回読んだけど、もう一度読もう、そうしよう。

 

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「土」について知るほどに「命」の話になっていく『土と生命の46億年史』

本書は、地球誕生から現在に至るまでを「土」を軸に描いたもの。

地球46億年の歴史を丸ごと扱い、粘土を起点に生命誕生を説明し、現代の環境問題に接続する。土を主役に生命と地球史を再構成している。分子結合から大陸の運動を自由にあやつるスケール感と、1億=1年に換算して、地球を46歳のお母さんに例える視点が面白い。

著者は土壌学者、いわば土の専門家だ。スコップ片手に世界中を飛び回っては掘り返し、「人工的に土を作れるか?」というテーマを追いかけている。土フェチであり土のプロフェッショナルが、土を通して世界の見え方をひっくり返す。

土を中心に世界を考えるスタンスは、デイビット・モンゴメリー『土と内臓』『土の文明史』と似ているが、本書はよりサイエンス寄りにまとめられている。。

土とは何か

一言で表すなら、土とは物質+生命のハイブリッドだ。

岩石が崩壊してできた粒子と、腐植の混合物になる。岩石が崩壊したものはイメージできる。砂や粘土といった粒子だろう。

では「腐植」とは?

動植物や微生物に由来する物質なのだが、まだよく分かっていないらしい。腐植の成分で、化学構造を特定したものは数十万種類に及ぶが、それでも全体の数%にすぎない。

つまり、腐植の大部分は構造が特定できず、名前すら無いことになる。リチャード・ファインマンは「自分で作れないなら、理解したと言えない」と書いたが、「自分で作る」以前に、構造や名前すら分かっていないことになる。

土は無機物だけでは成立せず、生物と土は循環関係にあり、生命が誕生する40億年前、さらにいうなら、陸上に植物が上陸する5億年前まで、地球に腐植は無かったという。

つまり、「土を作る」とは「生命を作る」ことと、ほぼ同義になる。

この難題に、著者はスコップ片手に熱帯雨林から永久凍土まで飛び回り、掘り返す。土の違いを、気候や植生、微生物や鉱物の観点から観察し、土とは場所ごとの無機物と生命との相互作用の結果であることを導き出す。

土のレシピ

さらに、「土のレシピ」を地球46億年史に求める。

土がどうやってできたかを逆算し、粘土→微生物→植物→動物の生命史から紐解く。生命の出発点として「粘土」に着眼する。粘土の吸着能力や電気的性質を解説する(化学記号がモリモリ出てくるが、イラストで理解を補完し、「苦手なら飛ばしていい」とまで言ってくれる親切設計)。

土の中の微生物の集合体を分析し、微生物どうしの相互作用と遺伝子交換に注目する(土は遺伝子の欠片の宝庫)。岩石を砕いた粉末を準備し、自然環境に埋めて長期間観察し、数十年スケールで、風化や微生物の定着、有機物の蓄積を追跡する。

ほぼ執念のように、岩から土への変化を人工的に再現しようとするのだが、結論としては、「土は作れない」になる。

土を構成する要素である粘土、腐植、微生物、そして時間の相互作用が再現できない以上、イチから土を作り出すのはムリゲーになる。極端に言うなら、土を作るためには、地球一個を丸ごとやり直す必要になるからだ。

土が生物を作り、生物が土を作った

土とは、生命由来の痕跡を含んだ、物質と生物の相互作用の場であることが分かる。

では、生命はどこから来たのか?

まず粘土があった。地球初期には鉱物としての粘土が形成された。粘土は粒径が非常に小さいため、同じ体積でも表面積が大きい。

さらにマイナスに帯電しており、カリウム・カルシウムなどの陽イオンを引き寄せる効果があった。そこに有機分子が吸着・濃縮され、反応が起きやすい粘土表面にバイオフィルムが形成されたという。粘土の表面という場で、原始的な生命の共同体が誕生したという。

普通の説明だと、原始のスープで有機物から誕生したとか、深海の熱水噴出孔における高温高圧反応からだとされる。だが本書では、粘土という「場」における相互作用から生命誕生の謎を解こうとする。これは面白い。

私自身、生命とは、何かが反応した結果の「存在」というよりも、外的環境とのやり取りの中で形を留めるプロセスのようなものだと考えているので、著者のアプローチはしっくりくる。

生命とは、どこからか合成されたものというよりも、物質と環境の相互作用の中から立ち上がってきた現象のように思えてくる(もちろん、地球外からやってきたパンスペルミア説は捨てがたいが……)。

土の歴史には、主人公がいない。目的もなければ、結末もない。あるのは、物質と生命の相互作用が連なっていくプロセスだけになる。

それでも、そこから全てが生まれている。



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知識は料理を美味しくする『おいしく食べる 食材の手帖』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年2月5日】


ブロッコリーの塩ゆで、私がするのと、妻のとでは、味が違う。

妻がゆでると、コリッとした食感の中にピリッと辛みが交じり、何もかけなくても美味しい。一方、私のだと、ただの「茹でた野菜」になり、ドレッシングが必須だ。

同じ西友なのに、どうして違うのか?

『おいしく食べる 食材の手帖』に、その秘密があった。これだ。

Oishiku01

私は、沸騰させた熱湯に放り込んで、ぐらぐら煮たてながら茹でていた。一方、妻は、ふつふつ程度のお湯で、少し時間をかけていた。その違いだ。

ブロッコリーの「ブロッコリー感」は辛み成分にあるという(生で食べてみると分かる)。この持ち味を生かすには、熱湯ではなく、80℃で茹でると良いという。お湯の温度が80℃だと、野菜の芯温が40℃になる。この温度でブロッコリーは火が通り、かつ、辛みが働く。

「ゆでる=熱湯に放り込んで柔らかくする」だけの発想だったので、これは目鱗だった。単に「ゆでる」一つとっても、温度と時間を工夫するだけで、こんなに美味しくなるとは……知ると知らぬとで、かなり違ってくる。

こんな感じで、先人の知恵と科学の知識を合体させ、より美味しくする工夫を紹介する。なんでもかんでも「こうすべし」と押し付けるのではなく、原則と応用という形にしているのもいい。

  • ゆでたら水にとる/とらない野菜の基本ルールとケースバイケース
  • ホウレンソウは熱湯で、小松菜は80℃でゆでる理由
  • 白菜は焼け、もしくは干して水分を飛ばせ
  • 水からゆでる野菜と、湯でゆでる野菜の原則(土もの/葉もの)
  • 野菜の縦横の切り方で美味しさをデザインする
  • 肉調理のコツは保水性のある65~80℃
  • まぐろは万能、刺身だけではもったいない
  • えびは殻付き70℃で5~6分、殻と背わたは冷めてから

いわゆる「レシピ」は検索すればいい。だが、美味しくするためのベストプラクティスを集めたものは、なかなかお目にかかれない。

知ってるだけで美味くなるTipsばかり。凝った料理ではなく、一工夫で美味しくなる知識だ。料理上手とは、献立のレパートリーを増やす前に、食材の力を引き出せる人なんだね。

ちゃんとやろうと考えを改めたのが、肉料理だ。

肉の美味しさとは、ジューシーさ。そして、ジューシーさとは保水性。保水性を保ちつつ、かつ、火を通すには、65℃(肉が固まり始める)から80℃(肉から水分が脱け出る)が最適だという。

Oishiku02

80℃を保つため、フライパンなら冷たいうちに入れて火をつける。煮るなら、後入れ/途中取り出しする。ゆでるなら水からにする。揚げるなら余熱で火を通す。それぞれのコツには、ちゃんと理由があったのだ。

今までは、沸騰したお湯に放り込んでガンガン加熱していたが、これだと、表面が一気に過熱され、「よろいを着てしまう」状態になるという。なので、水から火にかけ、湯気が立つか立たないかぐらいの状態で、ゆっくりゆらゆらゆでるのが良いという。

今晩はゆで豚、やってみよう。

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寝る前の眠れなくなるボルヘス『記憶の図書館』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年2月12日】


「もし愛だと言われなければ、抜き身の剣と思ったことだろう」

ボルヘスが記憶の底から汲み出したセリフだ。キプリングの短篇に出てきたという。驚くべき言葉だ。この一行は、私に<届いた>。

ボルヘスは続ける。驚くべきは形式だと。

もし、「愛は剣のように容赦がない」と直喩で言ったなら、何も言ったことにならない。あるいは、愛を武器に喩えたとしても同様になる。もちろん、愛と抜き身の剣を取り違える人なんていない。

ただ、ありえない混同が、想像力にとってありえるものになり得る。しかも、文の構造のおかげで、混同が起こっている。なぜなら、「最初はそれを剣だと思ったが、やがて愛なのが分かった」と言っても馬鹿馬鹿しいものになる。

確かに、ボルヘスの指摘する通りだ。このセリフは、このシンタックスでないと成立しない。ちょっとでも言い換えたり、構造をいじっても、私には届かなくなる。「もし愛だと言われなければ、抜き身の剣と思ったことだろう」は、これで完璧になる。

ラジオ対談をまとめた『記憶の図書館』の一節なのだが、ボルヘスの記憶の深さ、魅力的な語り、無尽蔵の洞察に驚く。

ポー、ワイルド、カフカ、メルヴィル、ダンテなど、偏愛する作家への想いや、創作のインスピレーションの源泉、一つの挿話をどう育てるかといった指南など、汲めども尽きない118の対話を一冊に集成したものがこれだ。

枕元に置いて、夜、眠る前に二つ三つ読むのだが、ついつい耽ってしまう。気になる作品をネットで検索したり(深夜テンションで注文したり)、夜更かしの友やね。

blanc(仏)とblack(英)で意味が真逆な理由

ラジオ番組なので、話の転がっていく先が突拍子もなくて面白い。

たとえば、ポーの最高傑作として『アーサー・ゴードン・ピム』を挙げて、そこに登場する「白を怖がる人々」から、メルヴィルがこれを読んでいたはずだという。そして、『白鯨』のクジラがなぜ白色だったか、という話につながる。

さらに「白」という言葉そのものに注意を向ける。白は、ロマンス語圏でどう言われているかを次々と挙げる。

フランス語ではブラン(blanc)
ポルトガル語ではブランコ(branco)
イタリア語ではビアンコ(bianco)
スペイン語ではブランコ(blanco)

そして、英語でブラック(black)は「黒」であることを指摘する。白と黒が逆の意味になっている!?

ボルヘスは解説する。これらの語は、もともとは同じ意味―――色が無いこと―――を持つという。例えば、英語のブリーク(bleak)は、「色を失った」という意味になる(※)。

最初、ブラックは「黒」そのものではなく、色の無いことを意味していた。色が無いことが、影の方に転んで、ブラックが黒になったのが英語になる。一方で、光の方、澄明さに転んだのが、ロマンス諸語になるというのだ。

確かに、言われてみれば英語にもblank(空白)という語がある。「無い」ということの語源はここにありそうだ。

天の賄賂から解放される

もう一度、読み直そうと思ったのが、バーナード・ショー。

ボルヘスはショーを高く評価しており、さまざまな警句やエピソードを紹介してくれる。中でもピカイチだったのが、「わたしは天の賄賂から解放された」だ。

ここで言う賄賂とは、「善行には報いがある」という考えだ。あるいは、同じことになるが、「罪は罰せられる」という恐怖だという。信心を強化する上で、まさに天国は賄賂であり、地獄は脅迫になる。ボルヘスは、ショーの言葉を続ける(ボルヘスは盲目なので、諳んじていることになる、すげぇ!)。

「神の務めをそれ自体として果たそう。その遂行のために神はわれわれを創造された。なにしろ今生きている男女だけがそれを遂行できるのだから。わたしが死んだとき、借りがあるのは神であって、わたしではありませんように」

この発想が凄い。

これは、プラトンやカントが回避した問題への最適解になる。因果応報を神意と徳の問題にすり替えたプラトンや、幸せと徳が一致する条件として、理性を持ってきたカントには合意できない(なぜなら、2人は「運」の問題をスルーしているから)。

神は万能とされているらしい。だが、その神に向かって「借り」を作ることができるという発想が秀逸だ。人どころか、人が住まう世界そのものを創り出した神に向けて、何か贈り物ができる……そう考えるだけで、嬉しくなる。

寝る前の眠れなくなるボルヘス

以下、お気に入りのボルヘスの言葉を引用する。射程が広くて深すぎるので、どこが刺さるかは人によるが、少なくとも私にぶっ刺さったやつばかり。

おそらく未来は取り消しがきかないものです。しかし過去は違います。過去は思い出すたびに―――記憶の貧しさや豊かさのおかげで―――望みのままに、どこかしら修正されますから。

今は世界大戦と呼ばれる最初のヨーロッパの内戦

記憶は嘘をつくでしょうけれども、その嘘もすでに記憶の一部であって、わたしたちの一部なのです。

音楽と同じく詩は翻訳できない。

わたしたちがシェイクスピアを読むとき、一時的にであれ、わたしたちはシェイクスピアなのです。

多くの本は各々のページではなく、その本が残す記憶のために書かれます。

寝る前の、眠れなくなる一冊としてどうぞ。


※「blue」も同じ語源という説もあり

http://hidic.u-aizu.ac.jp/result.php?tableName=gokon&word=bhel-1

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歯を食いしばって読んだので血の味がする小説『アニマ』(この記事には残虐描写があります)

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年2月19日】


冒頭で、妻が殺されているのを見つける。くり返し刺され、血だまりの中で絶命している。

妻は暴行されていた。普通ではなく、腹部を裂いた傷口を性器代わりにしてレイプされていた。最後に刺したナイフは性器に深々と潜り込んでいた。その刃先は、二人の初めての胎児の頭に打ち込まれていた。

奇妙なのは、「妻を殺された夫」が主人公なのに、それを語るのが飼い猫であること。あくまでも猫の視点で、凄惨なシーンが描写される。夫が受けている衝撃は相当なものだろうが、いかんせん猫経由なので隔靴搔痒の思いだ。

警察が来て、夫は入院し、精神的ケアを受ける。警察は犯人捜査を始めるのだが、描写は、スズメの視点になる。夫と警察の一連のやり取りは、病院の窓に集まるスズメの物語として表現される。

猫、スズメ、犬、金魚、ウマ、キツネ、クモなど、様々な生き物たちの目を通して、「妻を殺された男が犯人を探す旅」が語られる。生き物たちには生き物たちの生活があり、事情があり、そこを通り過ぎていく男は、非日常として扱われる。

どうやら男は罪悪感を抱いており、もっと早く帰っていれば妻を救えていたはずだと後悔している。だから、自分が妻を殺したようなものだと思い込み、犯人が自分でないことを確かめるために、会おうとする。

読み手としては、男の悲しみに寄り添いたい思いや、犯人への憤り、警察は何をしているのかという歯がゆさを感じたい。だが、男の行動、会話の断片ともに、生き物たちを経由しているため、部分的にしか分からず、もどかしい。

モントリオールからカナワク、レバノンと、悲しみと痛みをひきずっていく男の足取りを追いかけていくうちに、全く違う、でも同じ話に円環していることに気づく。

たくさんの生き物たちの「語り」から離れ、この物語が真の姿を表わすとき、わたしは、ようやく血の味に気づく。ずっと長いあいだ、歯を食いしばって読んでいたのだ。

そして、「妻を殺された男の話」で終わっていたら、どんなによかったかと思う。生き物たちの、断片的で変遷する描写は、人の倫理を超えたものを語ろうとする意図だと思い知り、むしろ感謝したくなる。

なぜなら、これは直視できない地獄だから。

『アニマ』は、オデュッセイアのように帰還する物語でもあり、神曲のように地獄を巡る話でもある。だが、決して目的地へ辿り着くことはできない物語に化ける。このとき、本は爆発物になる。

物語によって傷つけられることは可能だ。これがその証拠になる。読みながら吐くような経験は、おそらく、ジョー・サッコ『パレスチナ』以来だろう。

本書は、ふくろうさんの[【2021年まとめ】海外文学の新刊を読みまくったので、一言感想を書いた]で気になって手にした。「2021年で、最もえぐられた小説」という評に激しく同意する。ありがとうございます、何物にも代えがたい経験でした。

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ダメージからの「回復」に焦点を当てた医療福祉の物語『ビター・エンドロール』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年2月26日】


大きな病気をした人が、どうやって立ち直るか。そこに焦点を当てたドラマが『ビター・エンドロール』だ。

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病気のほうは医者に任せる。だが、ダメージを負うのは、身体だけではない。

後遺症で仕事を続けるのが困難になったり、家族や友人との人間関係が変わったり、さらには、生きていくために必要なもの―――お金―――の問題が浮き彫りになる。病気「以外」の問題を、どう扱えばいいのか。

そんなとき、医療ソーシャルワーカー(通称MSW)の出番になる。MSWは、医師や看護師と連携しながら、社会福祉の観点から患者を支援する。患者の社会復帰の支援や、医療費・などの経済的問題への助言、患者や家族の精神的な負担の軽減など、病気「以外」の様々な問題を扱う。

  • 脳梗塞で倒れ、一命を取り留めたものの、体が不自由になった28歳の男性
  • 家事と育児に疲れ果て、お酒がやめられなくなった一児の母
  • 多発性骨髄腫で入院しているが、無保険・無年金の68歳の男性
  • 頭脳明晰・容姿端麗で仕事も充実していたが、乳がんになった27歳の女性

脳梗塞、がん、アルコール依存など、他人事ではない。病気は平等で公平だ。リスクの軽重があるだけで、私がいつなってもおかしくない。

そうなったとき、どう病気と向き合えばよいのか。それだけでなく、家族や周囲の人への負担や申し訳なさを、どう扱えばいいのか。

もちろん、正解なんて無い

だが、『ビター・エンドロール』は、新人のMSWが、患者や家族と一緒に考え、答えを見出そうとする。自分の人生に起きるかもしれない出来事の予行演習になる。

これを強く薦めたい理由の一つとして、「家族」の存在がある。病気になるのは、私だけではない。私の家族が病気になる可能性は、私以上にある

そのとき、私は、どういう態度を取ればよいのか。

私が病気になったら、覚悟は決められる(決めようとしている)。でも、私が大切にしている人が病気になったら、私はどうすればよいのか、分からない(そして、もちろん正解なんて無い)。

MSWは、患者本人だけでなくその家族も含めて支援する。『ビター・エンドロール』では、家族も巻き込み、主人公は考える。

もう一つ、これが一番重要なのかもしれない。それは、私がいちばん撃たれた「元に戻らなくてもいい」という言葉である。

早く治りたい、回復したい……そう願うのは、間違いじゃない。病院とは、そういう場所だ。ダメージを負った身体を回復させ、一刻も早く社会復帰するためのところ。

でも、それだけだったら、「この辛い思い」を抱えていることが、まるで許されないかのように思えてくる。いまの、この辛い立場、傷ついている事実のほうが大切だ……この言葉は刺さった。

先のこととか、家族のこととか、自分のこの不自由な身体を受け入れられないこととか、前を向けなくて苦しいって思ってて、本当にいいのか……?

「それでもいいんだ」と受け容れられる。許してくれる、そんな言葉を、予め受け取っておけるのが、素晴らしい。

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私が大きな病気になって、身体が不自由になったり、回復が思わしくないとき、この本を思い出すことができるから。辛いとき、この作品で出会った言葉を、もう一度読めば良いから。

脳卒中のお話は無料で読める。いま、あなたが元気なら、ぜひ、今のうちに読んでほしい。病気やケガでダメージを負ったとき、この物語を思い出せるように。

無傷で人生を終えられる保証なんてない。病気のことはひとまず医者に任せるとしても、病気「以外」を予行するために『ビター・エンドロール』を薦める。

 

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脳汁あふれる英単語パズル「Wordle」

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年3月5日】


Wordleは、5文字の英単語を当てるパズルだ。脳汁ドバーってなり、中毒性が高い。

調子が良いと10分で解けるが、長い場合、1時間くらい悩まされる。単語力だけでなく、推理力、閃き、戦略性も必要とする、窓口広く、奥深いパズルだ。

  • 5文字で成立する、1つの英単語を当てる
  • 6回まで挑戦できる
  • ヒント1:その文字が無いとき、灰色
  • ヒント2:正しい文字が正しい場所にあるとき、緑色
  • ヒント3:正しい文字だけど、場所が違うとき、黄色

やってみせるほうが早い。こうだ。

最初は適当な5文字の単語、例えば「YOUNG」を入れる。するとこうなる。

Wordle002

「N」だけが緑色になって、他の文字(Y、O、U、G)は、灰色に変化している。「N」が緑色になっているのは、これが正解の単語の4番目に位置する文字であることを示している。他の灰色の文字は、正解の単語には使われていないことを意味している。

ここから考えるのは、灰色に変化していない文字から、単語を組み立てる。「SWEAT」を入れてみる。するとこうなる。

Wordle003

「T」が緑色になっているので、5番目に位置する正しい文字だ。なので、正解の単語は末尾が「NT」で終わることが分かった。

さらに、「A」が黄色になっている。これは、「Aという文字は正解の単語に含まれているが、この場所(ここでは4番目)ではない」ことを意味する。

4番目と5番目が「NT」であることは分かっているから、「A」は、1、2、3番目のいずれかに入ってくる。こんな感じだ。

 A??NT
 ?A?NT
 ??ANT

まず、「A??NT」。Aで始まってNTで終わる単語……思いつかない。探せばあるだろうが、ちょっと留保。

次に、「?A?NT」。2番目にAがくるパターン。これはありそう。なぜなら、子音+母音の組み合わせはありがちだから。「PAINT」や「SAINT」が浮かぶ。

そして、「??ANT」。3番目にAがくるパターン。これよく見かける。接尾語「-ant」はよくあるから。だが、5文字という制約があるので、「GIANT」とか「PLANT」とか。

ここで、灰色に変化した文字が効いてくる。「SAINT」の「S」や、「GIANT」の「G」は灰色になっているので、これらは無い。なので、「PAINT」と「PLANT」のうち、「PLANT」に賭けてみる。

Wordle004

この時点で分かっていること。

  • 正解は、「??ANT」
  • 灰色の文字は使えない
  • 英単語である 【←重要】

言い忘れていたが、いい加減な文字を入れることはできない。5文字で一つの英単語として成立している必要がある。

ここで、戦略が問われてくる。

  1. まだ灰色になっていない文字、例えば「C」や「M」を使った単語を作ることで、文字を絞り込む戦略
  2. 末尾が「ANT」で終わる単語を総当たりで入れる戦略

「末尾ANT総当たり」だと、思いつかないので、文字を絞り込む戦略を採る。この時のコツは、「できるだけ灰色の文字を避ける」ことになる。使える文字を減らすのが目的だから、使えないと既に分かっている文字を使ってしまったら、もったいないからね。

私はここで、「CHILL」を入れたが、悪手だ。なぜなら、「L」は既に使えないと分かっているから。しかも2文字も使ってしまっているので、非常にもったいないことをしている。ただ、これしか思いつかなかったのだ。

Wordle005

ただし、結果オーライとなった。「CH」は正しい文字が正しい位置にあることが分かり、正解は「CHANT」だね。

今回は、比較的早い段階で、緑や黄色に変わったが、数手進めても全部灰色ばかりの場合がある。すごく焦るのだが、これはヒントにもなる。つまり、以下の方向性が出てくるのだ。

  • 使える文字が絞り込まれているため、4手目からアナグラムの問題として対応できる
  • 同じ文字が使われている可能性がある(「VIVID」とか「MIMIC」とか)

こんな風に緻密に考え推理しながらもできるし、使える文字が減っていく中で単語を思いつくゲームとしても遊べる。

知らない単語だったら解けない、といった印象もある。確かにスラングが正解という場合もあった。だが、英語的な綴りを推理する力からアプローチすることもできる。例えば、通貨のルピー(rupee)は綴りを知らなかったが、推理だけで解けた(ここがまた脳汁出るところ)。

もう一つ、絞り込むべき「場所」について。

先頭、中ほど、末尾のうち、どこを優先して絞り込むべきか。他の空き具合にもよるが、優先すべきは、先頭と末尾になる。

たとえば、「PA??T」よりも「?AIN?」の方が難しく「GI??T」よりも「?IAN?」の方が難しいと感じるだろう。それは、私たちが単語を読み解くとき、先頭と末尾で判断する傾向があるからだ。

これは、単語の頭と末尾が正しく、真ん中を入れ替えても読めてしまう現象(タイポグリセミア/Typoglycemia)に関係しているのかもしれない。そのため、まず先頭、次に末尾を攻略しよう。

全力で考えていると、時と溶かす危険なパズルであるが、うまい具合に、1日に1題しか出題されない。

Wordle、お試しあれ。

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『土と内臓』はスゴ本

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2017年1月15日】


 人体をトポロジー的に見ると、消化器官を中心とした「管」となる。もちろん胃や腸には逆流防止のための弁が備えられているが、位相幾何学的には「外」の環境だ。

 この見方を推し進め、内臓をぐるりと裏返しにしてみる。くつ下を裏返すように、内側を外側にするのだ(このグロい思考実験は、クライヴ・バーカーのホラー小説でやったことがある)。裏返しにされた小腸や大腸を見ると、そこに植物の根と極めてよく似た構造と営みを見出すことができる。「水分や栄養素を吸収する」相似だけでなく、そこに棲む微生物との共生関係により、健康や成長面で重要な物質がやり取りされている。根と腸は、微生物とのコミュニケーションや分子取引をする市場なのだ。

 本書の結論は、微生物を中心とした人体の腸と植物の根の相似型であり、これに頭をガツンとやられた。ばらばらに得てきた知識が本書で一つにまとまるとともに、わたし自身が囚われていた先入観がぐるりと―――そう、くつ下を裏返すようにぐるりと逆転されたから。

 マクニール『疫病と世界史』が人類と微生物の負の歴史なら、本書は正の歴史として双璧を成す。しかも、歴史だけでなく、進化生物学、医化学、分子生物学、植物生態学、土壌生物学の知見を取り込んだエビデンスベースドなものになっている。

 原題は "The Hidden Half of Nature" 「隠された自然の半分」になる。目に見えるものが自然(nature)の全てではない。小さすぎて肉眼では見えない微生物や、地面や体内に隠れている根や内臓に光を当てることで明らかになる本質(nature)こそが重要なのだ―――そんなメッセージが込められている。

 土に隠された半分として、「根圏」が紹介される。植物の根の分泌物と土壌微生物とによって影響されている土壌空間のことだ。そこでは、根細胞から糖質が豊富な化合物が分泌され、微生物の餌となる一方で、植物にとって有益なミネラルが微生物によってもたらされる。クローバーや枝豆の根にある根粒菌が微生物と共生し、窒素化合物を生産することは知っていた。これは『植物は「知性」をもっている』で知ったが、常識が書き換えられることを請合う。

 だが、最近の研究ではもっと多様な栄養素が供給されているという。例えば、植物にたどりついた微量栄養素のうち、リンの80%、亜鉛の25%、銅の60%は菌根菌が運んでいる研究が紹介されている。根は、単純に養分や水分を吸収するだけでなく、植物にとって不可欠なフィトケミカル(植物栄養素)を生産する場所でもあるのだ。

 体内に隠された半分として、「内臓」それも腸に焦点をあてると、驚くほどよく似た世界が現れる。そこでは、栄養分や水分を吸収するだけでなく、そこで一種の生態系を成している腸内細菌とのやりとりを通じて、生きていくために必要な栄養素を生成していることが見えてくる。小腸の内側は絨毛と呼ばれる繊維状の小さな突起で覆われており、植物の根毛のように表面積を何倍にも増やし、栄養吸収を大幅に向上させている。

 そして、同時にそこは微生物たちの餌場でありお花畑(腸内フローラ)なのだ。ヒトは食べたものを吸収しているだけでなく、「ヒトが食べたもの」を食べる微生物の代謝物をも吸収している。生体リズムや睡眠に重要な働きをするセロトニンは、脳よりも腸の微生物群で生成されるほうが多いと聞いたことがある。それだけでなく、腸内細菌は、ドーパミンや短鎖脂肪酸、各種のビタミンを合成している。これらは、健康にとって不可欠でありながら、ヒト単体では生成することができない。言い換えるなら、こうした微生物群をもひっくるめて、「わたし」なのである。

 では、どうしてそうした本質(nature)が半ば隠されてきたのか? もちろん、小さすぎたり覆われていたりして物理的に困難だったというのもある。だが、本書に描かれている人類と微生物の歴史を追いかけていくうち、「人は見たいものしか見ない」カエサルの箴言が浮かび上がってくる。

 たとえばコッホ。結核菌やコレラ菌を発見した近代細菌学の開祖であり、その功績は人類史に残る大きなものだ。病原体の特定の指針「コッホの原則」は教科書にも載っているし、細菌を培養する寒天培地やペトリ皿は、今日でも使われている。その一方、「微生物研究=培養できる微生物の研究」に限られてしまったという見方ができる。

 つまり、培地で殖やせない微生物は分類できず、したがってコッホの原則を用いて研究できない。コッホの細菌論が広く受け入れられたことにより、自然(nature)から切り取られた微生物が研究の中心となり、土や内臓に宿る生態学的な研究は後手に回ったといえる。

 あるいはスティーヴン・ジェイ・グールド。動植物の化石に着目したグールドは、微生物の融合に着目し、細胞内共生説を主張するマーギュリスの考えを一顧だにしなかったという。

マーギュリスは、遺伝子の水平伝播やゲノム総体の獲得(単一の遺伝子内で起きる小さな変異ではなく)が、生命進化の初期には決定的に重要だったと考えた。細菌のような単細胞生物が別の細胞と合体すると、ゲノムは2倍になる。一方、多細胞生物は、新しく細菌を獲得しても、全体として数多くの細胞に新しい細胞が1つ加わるだけだ。
(「第4章 協力しあう微生物───なぜ「種」という概念が疑わしくなるのか」より引用)

 今日では細胞内共生説はほぼ定説化しているといえる[Wikipedia:細胞内共生説]が、これも隠された本質(nature)の一部なのかもしれぬ。

 隠された自然の半分が明らかになるにつれて、その本質にどのような攻撃を加えてきたか見えてくる。人体への抗生物質の過剰投与により微生物の生態系が乱れ、免疫性疾患や代謝異常が起きている事象は、そのまま化学肥料の過剰投与により土壌微生物の生態系が乱れ、作物の生育に悪影響を及ぼしている事象とつながる。人体に焦点を当てたのが、ブレイザー『失われてゆく、我々の内なる細菌』なら、土壌に焦点を当てたのがモンゴメリー『土の文明史』になる。どちらもスゴ本なり。

 『土と内臓』は、このモンゴメリーが妻と共に著したもの。根と腸、科学と歴史、医療と病気、見えている半分と隠された半分が、「微生物」というキーで一気通貫する。世界の見え方をも変えるスゴ本。

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『土の文明史』はスゴ本

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2010年4月28日】


 土壌の肥沃さと土壌浸食から歴史をとらえなおす快著。文明の発展は土壌の搾取と放棄のくり返しによるものだということが分かる。

結論

 本書のシンプルな結論を図で説明する(p.17より引用)。「土」はもっとも正当に評価されていない、かつ、もっとも軽んじられた、それでいて欠くことのできない天然資源である。肥沃な土壌は、地下からの岩石の風化と地表での侵食、およびその間の微生物・昆虫・ミミズなどの生物と植物類の生態系のバランスの上に成り立っている。あらゆる文明の興亡は、「いつこの土壌を使い尽くすか」「肥沃度をどのように保(も)たせるか」に依拠する。土壌の生成を上回るペースで浸食を加速させる農業慣行により、肥沃な土壌を失ったときが、文明の滅ぶときである。つまり、土の寿命こそ文明の寿命なのだ。
Tuti
超広角で大深度で人類史的な視座

 環境破壊が歴史を変えた着眼点に「土」をもってくるところがユニークだ。しかも著者は、堆積物のコアを放射性炭素年代測定で調査する。どの年代にどの程度の侵食/風化がなされたか、さらに遺跡物からどのような農耕慣行がなされていかをファクトベースで主張しており、非常に説得力がある。土地の劣化がそのまま帝国の衰亡の直接的な引き金ではないにしろ、社会の基盤そのものを脆弱にしたのは、土壌の流出による人口を養うコスト増を指摘する。

 そして、面白い/恐ろしいことに、同じ指摘はくり返されてきたという。古代ギリシア・ローマ帝国の衰亡、ヨーロッパの植民地制度、北米大陸におけるアメリカの西進において、土壌肥沃度の重要性はさまざまな形で訴えられてきたというのだ。家畜の放牧や肥料などにより、土地に再投資することで土壌を維持する方法を試みた者もいる。土壌肥沃度を高めることが重要であるとわかっていながら、その主張はくり返し無視され、土壌は喪失されてきたという。

 著者は、あたりまえのように使われてきた農耕技術についても、土壌の荒廃を加速するものとしてダメ出しする。たとえば灌漑には、隠れた危険があるという。灌漑をくり返すことにより、地下水が毛管現象で蒸発し、土中に塩分が残るようになる(塩類化)というのだ。また、鋤の使用により単位面積あたりの生産高は向上したが、風雨による侵食スピードと土壌の流出を加速することで、土地は荒廃しやすくなるという。目先の収穫のために長期的な生産量が犠牲にされ、数百年で土地は使い物にならなくなる。

 この著者の広角視点により、人類が土地を消費してきた歴史があらわにされる。土壌の形成は非常にゆっくりとしたものだから、それを捕らえる視線も長期スパンになる。だいたい文明は800年から2000年、おおむね30世代から70世代存続している。簒奪や植民地化により、新たに耕作する土地があるか土壌生産性が維持されている限り、社会は発展し反映する。いずれも可能でなくなったとき、すべては崩壊する。

アスワン・ハイ・ダムの皮肉

 この例外であるナイル河流域の運命は、笑ってはいけないのだが笑い話にしか見えない。エジプトの農業はファラオからローマ帝国を経てアラブの時代に至るまで7000年ものあいだ持続可能だったが、これにはちゃんとわけがある。ナイル河の毎年の氾濫により、塩類がほとんど含まれない肥沃なシルトが沿岸に運ばれているからなのだ。

 しかし、アスワン・ハイ・ダムの建設により、農業環境が破壊される。氾濫がなくなり灌漑用水のおかげで二毛作・三毛作が可能となったが、シルトは運ばれなくなり塩類化が進んでいるという。氾濫防止と灌漑用水を目的として建設されたダムが、逆にそれを加速するなんて、皮肉な話だ。

 さらに、低下する収穫量を回復させるため、農業生産は化学肥料で維持されるようになるのだが、その化学肥料は、アスワン・ハイ・ダムで発電される電気によって生産されるのだ。いまではナイル河沿岸の農家は、世界有数の化学肥料の消費者となっている。アスワン・ハイは、もはや皮肉は通り越したところにある記念碑だな。

植民地化→グローバル化=土壌搾取のアウトソーシング

 近現代の欧州および北米の歴史は、土壌流出のアウトソーシングの歴史だといっていい。ヨーロッパは繰り返される飢餓問題を、食料を輸入し人間を輸出することで解決した。言い換えると、ヨーロッパは食糧生産をアウトソースしながら、工業経済を築き上げたというのだ。

 著者の視線があまりに幅広なのでピンとこないのだが、要するに、遠く離れた大陸の土壌肥沃度を搾取するいっぽうで、自国の経済の工業化を推進するものが植民地政策の本質なのだそうな。結果、その流れは現代の「市場のグローバル化」につながる。より豊かな市場を求めて農産物が海外流通するのが、今日のグローバル化した農業だ。これは、ヨーロッパの都市への食糧供給を助けるために成立した植民地プランテーション遺産の反映なのだ。つまり、土を現金に換えているだけにすぎない。そして収穫物が搾り取れなくなった土は棄てられ、新たな市場を含めた開拓がなされる。植民地は、文字通り「食い物にされた」というのだ。

 北米も同様だという。植民地の拡大ではなく、農地の西進化が土壌を搾取した歴史になる。タバコと綿花栽培は、手っ取り早く農作物を現金化することで大いに開墾されたが、農場経営者は地力を回復させるためになんの努力もしなかったという。土が与えるものを受け取り、何も与えてくれなくなれば捨てる。古い土地を蘇らせるより、新たな土地を開墾するほうを好んだ結果、土地の荒廃が西へ西へ―――太平洋へ達するまで続くことになる。

ローマ、欧州、北米の土壌搾取の歴史に共通するもの

 良好な土地が無造作に使い捨てされるのを見て、アメリカ農業の愚かしさを嘆くイギリス人の手記があるが、自国も同じ歴史をたどってきたことに反省しない罠に笑ってしまう。ローマ、欧州、北米における土地荒廃の歴史には、共通した罠―――地主制度が潜んでいる。

 つまり、プランテーションの所有者が、自らの土地を耕していなかったことが問題の本質だという。土壌疲弊の問題をもっとも認識すべき人々が、実際に農地で働いていなかった。そこでは雇われた監督と小作人が働いており、彼・彼女らは出来高で給料が支払われる。土壌肥沃度を維持して地主の利益を守るよりも、各年の収穫を最大にするほうを目指すことになる。土地が荒廃すれば、次の場所を開拓し、開拓する土地がなくなれば、他国を収奪する。二千年前の古代ローマと同じように、不在地主制度が土地を浪費するシステムを助長したのだという。

 さらに現代では、この土壌搾取の構造が、より巧妙になっている。地代や農耕機械・化学肥料のローンだ。かつてのような植民地の支配-被支配構造に取って代わり、農業を営む人は、機械化と化学肥料の購入費を稼ぐために、土壌を収奪する。機械化されてた大規模農場は「経営」されるものなのだ。つまり、買ってきた養分を"インプット"し、もっとも市場で求められている収穫物を"アウトプット"する。その間の"メンテナンスコスト"を最小化することが求められており、土壌喪失だとか持続可能性だとかは問題にすらされない―――今のところは。

地球という「島」

 人類史をたどりなおすようにして、土壌が果たした本質的な役割を探る試みは、とても新しく感じた。さらに、農耕の発達が人口増をもたらす一方、それらをたゆみない収穫量の増加によって養うという終わりのないレースだと喝破する視点はスゴいと思う。広く、深く、長いスパンを持った目線でないと、見えない。

 そして、ちと恐ろしいシミュレーションを、過去の「実験」に求めている。大ざっぱにいって、文明の寿命は、農業生産が利用可能な耕作適地のすべてで行われてから、表土が侵食されつくすまでにかかる時間を限界とする。もちろん気候や地質学的条件は異なれど、土地の荒廃は文明の生命線を断つことにつながる。このシミュレーションを、土地利用が限定されたイースター島の歴史に求めている。限られた土壌資源を使い果たし、ついには互いに喰い合う食人にまで行き着いた事例はヒトゴトに思えない。

 荒廃のテンポは非常にゆっくりしているので、なくなったことに気づかないのだ。そして、次の、次の次の世代では、「なくなったこと」がデフォルトとしているため、失いつつあることに気づかないのだ。土壌を地球の「皮膚」に喩え、地球を「島」に喩える著者の皮肉は、ジョークにしたくでもできない。

では、どうすればよいか?

 これだけ脅してきたのだから、対策について考えているかな?かな?とおそるおそる読むのだが、めぼしいものはない。ペルーの「土地を耕さない独特の農法」「輪作・休耕・堆肥と灰の使用」の事例を挙げたり、地産地消を目指す農業の非グローバル化や、都市農業の可能性を模索している。バイオテクノロジーはほんの触れる程度で、土を一切使わない水耕栽培も含めると、別の可能性も見られたかも。さらに、流れ出した「肥沃さ」の行き着く先―――海洋についてまったく触れていない。土壌の肥沃さを吸収する海洋資源を目指すのが近未来だと予測しているので、このテーマは別の本で追ってみよう。「土」に軸足があるのだから仕方ないかもしれないが……

 もちろん人類史をひっくり返して「土」の面から再評価を行ったのはスゴい労作だが、どうすれば土壌を保全する動機付けができるとか、非グローバル化の潮流を作り出せるかとか、持続可能性を高めるテクノロジーについては、別の資料を探すべきなのかもしれない。ただ、すべてをゼニカネで換算するグローバル資本主義の下では、泥の価値は非常に低くみられがちだ。けれどもさらに見方を変えると、銭金を泥に換えられるのなら、地球という土壌を使い尽くす未来を変えられるかもしれない。そして、「銭金を泥に換える」方法(慣行、技術、事業)を見つけた人は、そのまま世界を手にすることになるだろう―――ずいぶんとスケールがデカい話になったが、読み手をそうさせてくれる危機感と視野感覚を煽って広げてくれる、それが「土の文明史」なんだ。

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大学教師が新入生に薦める100冊

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2014年6月17日】


 ドカ読み上等!若さに任せて読みふけろ、読むべき本を読み干すべし。

 このリストは、以下の4500冊超の中から、読むべき100冊を選んだもの。だから、「大学新入生に薦める」というより、若かったわたしに読ませたいリストであり、もう若くないわたしが読むべきリストなのだ。しょうもない新刊ばかり追いかけて踊らされているわたしの目を覚まし、叱咤激励するリストなのだ。

 書籍『東大教師が新入生にすすめる本』文藝春秋編
 書籍『東大教師が新入生にすすめる本<2>』文藝春秋編
 書籍『教養のためのブックガイド』小林康夫ほか
 書籍『大学新入生に薦める101冊の本』広島大学101冊の本プロジェクト編
 書籍『大学新入生に薦める101冊の本 新版』広島大学101冊の本委員会編
 書籍『必読書150』柄谷行人ほか
 サイト[東京大学 学科別 分類による推薦図書]  サイト[本は脳を育てる 北大教員による新入生への推薦図書]  TV番組[NHKBS 私の1冊日本の100冊]  雑誌特集「21世紀図書館 必読の教養書200冊」(文藝春秋2008.12)
 雑誌特集「東大教師が新入生にすすめる本」(UP1994-2014)

 すぐ効く本はすぐ効かなくなる。「即効性のある」とか「教養が身につく」と謳う輩に気をつけよう。下心まるだしで読むのはかまわないが、遅効性で基礎体力よりのリストだと思ってほしい。単に知識を広げるだけなら、ネットを眺めてればいい。単に知見を再確認したいなら、そこらの新刊を漁っていればいい。本におもしろさ「だけ」を求めるのであれば、それが本である必要なし(俺ならネトゲに耽るなぁ)。本で「知的武装」するのは若者の特権だが、今のわたしがやるならば、痴的愚僧ができあがる。そうならぬよう、気をつけよう。人生は短く、読む本は多い。良い本で、良い人生を。

最初の三冊

 まず読むべき三冊。たくさん類書を追いかけるより、これ読んでからにしてほしい。一読したら、似た奴は放っておいてもいいことが分かるから。言い換えると、似たような新刊ばかり読んでいても、いつまで経っても消化不良の不安なまま。今度はその「不安」が次を買う動機になってしまう。買わせるほうも上手なもので、カモの不安を煽って財布を開ける立派なビジネスモデルになっている。学生よ、カモリーマンになる莫れ。

1. 『理科系の作文技術』木下是雄(中央公論社)[レビュー]
2. 『知的複眼思考法』苅谷剛彦(講談社α文庫)[レビュー]
3. 『アイデアのつくり方』ジェームズ・ヤング (TBSブリタニカ)[レビュー]

 

『理科系の作文技術』は、文系理系関係なし。インプットとアウトプットの双方に有効な、最初に読むべき一冊だ。学生は必ず読め(命令形)。類書は沢山出ているし、「文章の書き方指南」は雑誌やジコケーハツ本でも不動の人気だ。だが、このn番煎じに過ぎない見栄えだけのいい出涸らしだ。ライティングの基本の「あたりまえ」がコンパクトにまとまっている。

 たとえば、「事実と意見は分けて書け」という常識。本書は、そもそも「事実とは何か」から入る。事実とは、「自然に起こる事象や自然法則、過去の事件などの記述で、しかるべきテストや調査によって真偽を客観的に確認できるもの」を指す。そして、「事実の書き方」と「意見の書き方」を指南する。「分けて書け」とは、その記述が事実なのか意見なのか、読み手に分かるように区別して書くことなのだ。

 

『知的複眼思考法』は、凡百のロジシン本を蹴散らすスゴ本。「ロジカルシンキング」や「クリティカルシンキング」もジコケーハツで人気があるが、セミナーも新刊も無用、まずはこれを読め。問いの立て方と展開の仕方、批判的・創造的読書の手法を、完全に噛み砕き、腹に落ちるまで説明してくれる。MECEやロジックツリーを作るとき、裏でどのように手を動かしているか、どんなやり方で「自分の頭で考えている」のか、デッサンと思考の跡を見ることができる。

 先行研究を元にリサーチクエスチョンを立てる方法は、大学のみならず社会に出てからの方が頼りになる。わたしの場合、学生のうちに読んでおけば、いらぬ苦労をせずに済んだ一冊。これの劣化コピーを漁るより、学生は必ず読め(命令形)

 

『アイデアのつくり方』には、一時間で読めて一生役立つアイディアのつくり方が書いてある。シンプル&パワフル&忘れがたい方法なのだが、これを実践している人は、あまり見かけない。「アイディアとは、既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」と喝破する方法は、マネして→習慣化→血肉化してこそ意味がある。付せん貼ってブックマークして終わりなら、読まなかったことと同義。「いま」「すぐ」動かなければ、タタミの水練以下。実行すれば人生を変える一冊となる。わたしの場合、「yahooメモ帳」(今は「yahooボックス」)にネタ元を保管し、ほぼ日手帳で組み合わせるやり方で実践し続けているぞ。

若さにまかせて読破せよ

 ボリューム満点、歯ごたえ満点であっても、若さがあれば大丈夫。遮二無二読み干してしまえ。そしていったん最後のページにたどり着いたら、必要に応じて再読すればいい。物量に怯んで「そのうちに読もう」と思ったらおしまいだ。「あとで読む」とは、きっと読まないだろうから。

4.『ゲーデル、エッシャー、バッハ』ダグラス・ホフスタッター(白揚社)[レビュー]
5.『ドン・キホーテ』ミゲル・デ・セルバンテス(岩波書店)[レビュー]
6.『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー(光文社古典新訳文庫)[レビュー]
7.『ローマ人の物語』塩野七生(新潮社)[レビュー]
8.『オリエンタリズム』エドワード・サイード(平凡社ライブラリー)
9.『野生の思考』レヴィ=ストロース(みすず書房)
10.『レ・ミゼラブル』ヴィクトル・ユゴー(岩波書店)
11.『精神の生態学』グレゴリー・ベイトソン(新思索社)

 

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』は、一生モノの一冊。天才が知を徹底的に遊んだスゴ本。不完全性定理のゲーデル、騙し絵のエッシャー、音楽の父バッハの業績を"自己言及"のキーワードとメタファーで縫い合わせ、数学、アート、音楽、禅、人工知能、認知科学、言語学、分子生物学を横断しつつ、科学と哲学と芸術のエンターテイメントに昇華させている。この一冊を読むための「予習」が偉い大変だった。わたしの失敗は、不完全性定理をこれで学ぼうとしたところ。何度も挑戦しては挫折したのだが、ふと思い立って『数学ガール』で回り道をしたらすんなり行けた(それでも最初に手にしてから8年かかった)。これは柔軟で賢いアタマを持つ若者こそが読むべきだろう。

 

『ドン・キホーテ』は、なるべく早いうちに読んでおいたほうが吉。なぜなら、あらゆる物語が持つ感染力への免疫ができるから。これを、騎士道物語(今ならラノベ)に熱中するあまり、自分を伝説の騎士だと思い込んでしまったこじらせ中年の狂気のロードストーリーと読むこともできる。前半分がまさにその通りだから。だが後半になると、物語がメタ化してくる。「ドン・キホーテの物語」が本編に登場し、偽者が登場したり、ファンに付きまとわれたりするのだ。それだけでなく、ドン・キホーテ自身が前編の狂気と整合性を取ろうとし始める。物語がページを乗り越えて、読み手に感染してくるのだ。人によると、これを換骨奪胎して自らの物語として創造しなおすかもしれない。盗める古典の宝の山としておすすめ。

 

『カラマーゾフの兄弟』は、小説のラスボスだ。「東大教師が新入生に薦める本」としてランキングしたとき、ダントツで一位だったのが、これなのだ。わたしが小説を読む理由は、そこに欲望が書いてあるから。欲望は様々な形を取る。権力欲、支配欲、愛欲、性欲、意欲、我欲、禁欲、強欲、財欲、色欲、食欲、邪欲、情欲、大欲、知識欲、貪欲、肉欲… 「カラ兄」には、ありとあらゆる「欲望」が書いてある。アリョーシャの、ドミートリーの、イワンの、そしてフョードルの持つ、気高いものから残酷な欲望まで、わたしは、読む行為を通じて彼らの欲望をオーバーライドするのだ。

教養としてのサイエンス

 なぜそれが正しいのか?これを理解できるということは、どこまで裏づけが噛み砕いてあれば、確信が持てるのかにつながる。最新科学に騙される人は、似非科学に騙されるのに似ている。やり方は古典的といってもいい。自ら学ばない人を信じ込ませるだけ。

12.『ご冗談でしょう、ファインマンさん』リチャード・ファインマン(岩波現代文庫)
13.『パワーズ・オブ・テン』フィリップ・モリソン(日経サイエンス)
14.『医学の歴史』梶田昭(講談社学術文庫)
15.『ホーキング、宇宙を語る』スティーヴン・ホーキング(早川書房)
16.『宇宙は何でできているのか』村山斉(幻冬舎新書)
17.『フェルマーの最終定理』サイモン・シン(新潮社)[レビュー]
18.『エレガントな宇宙』ブライアン・グリーン(草思社)
19.『ワンダフル・ライフ』スティーヴン・グールド(早川書房)
20.『植物は何を見ているか』古谷雅樹(岩波ジュニア新書)
21.『磁力と重力の発見』山本義隆(みすず書房)
22.『自然界における左と右』マーチン・ガードナー(紀伊国屋書店)
23.『生命とは何か』エルヴィン・シュレーディンガー(岩波書店)[レビュー]
24.『ヒトは食べられて進化した』ドナ・ハート、R・W・サスマン(化学同人)
25.『物理学とは何だろうか』朝永振一郎(岩波書店)
26.『文系のための生命科学』東京大学生命科学教科書編集委員会編(羊土社)
27.『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス(紀伊国屋書店)[レビュー]

 

『フェルマーの最終定理』は、知的没入感が圧倒的だ。生々しい感情たっぷりの、ゾクゾクずるほど人間くさいドラマだ。多くの数学者をロマンと絶望に叩きこんできた超難問「フェルマーの最終定理」、これに関わる歴史をひもとくことは、人類にとっての数学を振り返ることになる。完全な秘密主義で、たった一人で仕事を進めていったワイルズは、集中力とプレッシャーの中で、精神的にかなり辛い思いをする。この産みの苦しみは、ワイルズと著者と読み手が一体となって味わうといい。そして、「現代の数学と未来へのインスピレーションとの完璧なる統合」とも讃えられる証明に至ったとき、一緒に歓喜の涙を流すことだろう。

 

『生命とは何か』は、量子力学の巨人が生命の本質に迫ったスゴ本。表題へのズバリの回答よりも、むしろ「生命体」や「生命活動」とは何かという問い直しへのアプローチが素晴らしい。生きている細胞の営みを物理的に定義しなおした場合、どのようになぞらえることができるか? この疑問について、実にうまく言い表す。「原子はどうしてそんなに小さいのか」という問いを、「(原子と比べて)人はどうしてそんなに大きいのか」に置き換えるのだ。そして、時計仕掛けの生物という「発見」から、染色体は生物機械の歯車になるし、生命活動を遺伝子のパターンの維持と読み替えられる。メタファーの力を利用して、物理学と生物学の両方から手を伸ばして握らせようとしている。

 

『利己的な遺伝子』は、読んだふりをしやすく、かつ誤解を招きやすい。タイトルどおり「利己的な遺伝子」なる遺伝子がいて、生物の行動ひいては運命を操っていると言うならば、「まえがき」すら読んでいない可能性大。誤読する人のあまりの多さに、「それは違うぜ」とドーキンス自身がまえがきで憤慨している。

 彼が本当に言いたかったことは、「生物のあり方や行動様式を説明するとき、遺伝子の自己複製というレベルからだと整合的に理解できるよ」になる。自然淘汰の単位を「種」に求めたり、種内の「個体群、集団」と考えたり、あるいは、「個体」を単位とする人もいる。この単位を「遺伝子」とし、淘汰を説明しようとしたのが本書なのだ。ただし、あたかもこの「遺伝子」が意志を持ち、自分の遺伝子を最大化するように個体を操っているかのような書き方をしているのも事実だ。だから、彼の憤慨も自ら招いたようなものだろう。

あなたを拡張するフィクション

 自分を縛る日常であれ観念であれ、いったん脇において置けるのがフィクションのいいところ。「わたし」の範囲を拡張できるのだ。他人の人生を生きるリスクを犯すことで、自分のリアルのリスクを回避できる。いわば、昨日までの日常を新しい目で見るのだ。人生が旅なら、本当の旅の発見とは新しい風景を見ることではなく、新しい目を持つことだから。

28.『一九八四年』ジョージ・オーウェル(ハヤカワ文庫)
29.『アンナ・カレーニナ』レフ・トルストイ(光文社古典新訳文庫)[レビュー]
30.『イワン・デニーソヴィチの一日』ソルジェニーツィン(新潮文庫)[レビュー]
31.『ワイルド・スワン』ユン・チアン(講談社文庫)
32.『ガリヴァー旅行記』ジョナサン・スウィフト(岩波文庫)
33.『塩狩峠』三浦綾子(新潮文庫)
34.『こころ』夏目漱石(新潮社)
35.『外套』ゴーゴリ(岩波文庫)
36.『モモ』ミヒャエル・エンデ(岩波書店)
37.『もやしもん-TALESOFAGRICULTURE-』石川雅之(講談社)
38.『三国志』吉川英治(講談社)
39.『山月記・李陵』中島敦(岩波文庫)
40.『大聖堂』ケン・フォレット(新潮社)[レビュー]
41.『蒼穹の昴』浅田次郎(講談社)
42.『高野聖』泉鏡花(新潮文庫)
43.『春の戴冠』辻邦生(新潮社)
44.『夕凪の街桜の国』こうの史代(双葉社)
45.『幼年期の終わり』アーサー・C・クラーク(早川書房)[レビュー]
46.『竜馬がゆく』司馬遼太郎(文藝春秋)
47.『魔の山』トーマス・マン(新潮社)
48.『西部戦線異状なし』エーリヒ・マリア・レマルク(新潮社)
49.『百年の孤独』ガルシア=マルケス(新潮社)

 

人生を滅ぼした女から、何を学ぶか?『アンナ・カレーニナ』は、結婚が捗るぞ。「女とは愛すべき存在であって、理解するためにあるものではない」といったのはオスカー・ワイルド。これは、夫婦喧嘩という名のサンドバック状態になってるとき、かならず頭をよぎる。論理的に分かろうとした時点で負け、相手の感情に寄り添えるならば、まだランディングの余地はある。しかし、アンナの夫と不倫相手は、そこが分かっていなかった。体裁を繕うことに全力を費やしたり、売り言葉に買い言葉で応じたり。優越感ゲームや記憶の改変、詭弁術の駆け引きは目を覆いたくなるが、それはわたしの結婚でもくり返されてきたことの醜い拡大図なのだ。結婚前のわたしに読ませたかった、そして結婚後のわたしには涙なしには読めないスゴ本なり。

 

『イワン・デニーソヴィチの一日』は、平凡な極限が淡々と描かれる。スターリン時代の強制収容所における極めて特殊な状況なのに、出てくる人物像はどこまでも普遍的だ。「人間ってやつは、どこまで行っても、人間なんだ」と思えてくる。密告、裏切り、処罰、労働……苛酷な状況下で、人の心が折れようとするとき、イワン・デニーソヴィチはそれでも生き延びようとする。どう見ても地獄の毎日の中で、どうやって幸せを感じるのか?その方法は、「いま」「ここ」の「わたし」と、これっぽっちも変わらないことがよく分かる。どんな世の中であっても、生きている「かもしれない」、確信めいたものを受け取れる一冊。

若さ=未熟

 四十にして惑わずというが、迷わないくらい自分がしっかりしている意味ではない。年とってくると、やれることが限られてきてしまう。要するに、「めぼしい選択肢がなくなりました」という意味なのだ。そのくせ、未熟だった部分は熟さないまま腐っている。厭な部分は頑固に堅く、大切なところは腐り、やりたいこと/やれることは限定される……これが、老いなのだ。そうなる前に、これで経験を積め。

50.『愛するということ』エーリッヒ・フロム/鈴木晶訳(紀伊國屋書店)[レビュー]
51.『君たちはどう生きるか』吉野源三郎(岩波文庫)
52.『自分の中に毒を持て』岡本太郎(青春出版社)
53.『生きがいについて』神谷美恵子(みすず書房)
54.『自分のなかに歴史をよむ』阿部謹也(ちくま文庫)
55.『人間臨終図巻』山田風太郎(徳間書店)
56.『高校生のための東大授業ライブ』東京大学教養学部編(東京大学出版会)
57.『夜の果てへの旅』ルイ・フェルディナン・セリーヌ(中央公論新社)

 好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合うオフ会で、「恋愛」についてブックトークをしたことがある[スゴ本オフ:LOVE]。そこでダントツで集まったのが、この『愛するということ』だ。お薦めの恋愛本を紹介する目的なのに、だんだん話が「恋愛とは何か?」にシフトしていくのが面白かった。なぜその本がオススメなのか?についての説明が、そのまま「自分にとって"恋愛"とはこういうもの」に換えられる。

 

そこでの最大公約数的な一冊が、これになる。フロムはこう言い切る―――「愛は技術だ」とね。愛とは、人が自らの孤独を癒そうとする営みであり、愛するとは、幸福に生きるための「技術」なのだという。ただし、よくあるハウツー本と受け取ってしまうと失敗する。この「愛」とは、(私が相手から)愛される技術ではなく、(私が相手を)愛する技術なのだ。読み手は、自分の中での「愛」の定義が逆転していくことに気づくだろう。

この古典を読め

 迷ったら古典。時空にフィルタリングされても、読む対象としてあるのなら、それだけで手にする理由になる。全ての新刊がダメだというつもりはない。ただ多すぎて玉石混交すぎて拾いきれないのだ。しかもオススメ屋たちが寄って集って持ち上げるので、誘惑に流されないために多大な精神力を要する。新しい本に手を出す前に、この古典と比べてみよう(これは、わたし自身への戒めでもある)。

58.『国家』プラトン(岩波書店)[レビュー]
59.『詩学』アリストテレス(岩波文庫)[レビュー]
60.『戦史』トゥキュディデス(岩波書店)
61.『神曲』ダンテ・アリギエーリ(集英社)
62.『職業としての学問』マックス・ヴェーバー(岩波書店)
63.『雇用・利子および貨幣の一般理論』ジョン・メイナード・ケインズ(岩波文庫)[レビュー]
64.『君主論』マキアヴェッリ(岩波書店)
65.『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ヴェーバー(岩波書店)
66.『エセー』ミシェル・ド・モンテーニュ(中央公論新社)
67.『方法序説』ルネ・デカルト(岩波書店)
68.『リア王』シェイクスピア(白水Uブックス)
69.『オデュッセイア』ホメロス(岩波書店)[レビュー]
70.『ファウスト』ゲーテ(新潮社)[レビュー]
71.『リヴァイアサン』トマス・ホッブズ(岩波書店)

 

『国家』を読めば、ソクラテスは死刑になって当然だということが分かる。質問には質問で返す。詭弁術を駆使し、言葉尻をとらえて後出しジャンケンする。「無知の知」とは、「知らないということを知っている」よりも、「僕は無知だから教えて」と先にジャンケン出させるための方便だ。論敵を排し、取り巻きを並べたら、後はずっと俺のターン。比喩でもって説明した後、その比喩が事実であるという前提で論を重ねる。反論もそう、極端な例外を持ってきて事足れりとみなし、一点突破全否定オッケーとするのは酷すぎる。さらに多重レトリックが汚い。AをBに、BをCに言い換えて、最後のCにだけ噛み付く藁人形のメソッドだ。

 騙されるな、ソクラテスは、とんでもない食わせものだ。太ったソクラテスよりも、痩せたブタのほうがマシだ、ブタは食えるが、ソクラテスは食えない奴だから。レトリカルな口先三寸の言論人は、現代にもいる。そのご先祖様のやり口を確かめるべし。そして、沸々と煮えたぎりながら、こうつぶやくべし。「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」

 

『詩学』は、創作のデザインパターンだ。小説、シナリオなど、創作にかかわる人は必読。「現代にも通ずる古典」というのではない。二千年以上も前に答えは書かれていて、今に至るまでめんめんとコピーされてきたことに驚いた。本書が古びていないのではなく、新しいものが創られていないんだね。本書によると、恐怖、怒り、憎しみ、嫉妬、喜楽、哀切など、登場人物が抱く感情を観客に伝染させるのは、「おそれとあわれみ」によるという。これを引き起こすことが悲劇の目的であり、その効果的な方法が伝授されている。

 面白いのは、これを読んでいると、今まで観てきた映画、読んできた小説やマンガが次々と思い起こされ、その劇的構造がどんな影響を及ぼしたのか分析してしまう。物語をメタ化するだけでなく、その物語を見せる側と受ける側を含めた、劇場が丸ごと見えてくるのだ。

このルポルタージュを読め

 新しい知識を得るだけでなく、新しい見方を身につけられるルポ、ノンフィクション、論文を集めた。自分の知識や見解を裏付けるような、「自分の世界の本」ばかり読む人がいる。どれを手にしても、自分を確かめるだけの読書になってしまう。いわば、自己承認欲求を満たす読書だ。井の中の蛙の自慰読書に陥る莫れ。知識の面でも観念の上でも、想像を凌駕するノンフィクションを読むべし。世界の遠さや認識の広さ、そして人の業の深さを思い知れ。

72.『ベスト&ブライテスト』D・ハルバースタム(朝日文庫)
73.『アフリカ――苦悩する大陸』ゲスト(東洋経済新報社)[レビュー]
74.『ルワンダ中央銀行総裁日記』服部正也(中公新書)
75.『チベット旅行記』河口慧海(講談社)[レビュー]
76.『深夜特急』沢木耕太郎(新潮社)
77.『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ(二見書房)
78.『沈黙の春』レーチェル・カーソン(新潮文庫)
79.『夜と霧』ヴィクトール・フランクル(みすず書房)[レビュー]
80.『アフォーダンス-新しい認知の理論-』佐々木正人(岩波科学ライブラリー)
81.『誰のためのデザイン?』ドナルド・A.ノーマン(新曜社)
82.『フォークの歯はなぜ四本になったか』ヘンリー・ペトロスキー(平凡社)[レビュー]
83.『言語の脳科学─脳はどのようにことばを生みだすか』酒井邦嘉(中公新書)
84.『統辞構造論』ノーム・チョムスキー(岩波文庫)

 

『アフリカ――苦悩する大陸』では、「なぜ、アフリカは貧しいままなのか?」の疑問に対し、明快に答える。すなわち、政府が無能で腐敗しているからだという。私腹を肥やす権力者、国民から強奪する警察官、堂々とわいろを要求する官僚――これら腐りきった連中がアフリカを食い物にし、援助や支援が吸い取られる。資源に恵まれた国であっても同様だ。奪い合い→内戦化→国土の荒廃を招くか、あるいは、外資が採掘場所を徹底的に押さえ、オイルダラーが国民まで行き渡らない構造になっているという。

 ただし、その一刀両断っぷりに疑問を感じる。「アフリカ」という一言で多様すぎる大陸を丸めてしまっているところや、為政者さえ良ければ全て解決するという姿勢に疑問を抱く。内戦の火種を煽って兵器を売りつける先進国の武器商人や、その対価を紙幣ではなく資源で求めるグローバル企業の存在がスルーされている。本書を批判的に読むと、次の一冊が見つかる(わたしの場合は、アビジット・V・バナジー『貧乏人の経済学』だった)。

 

『夜と霧』は、人類必読のホロコーストの記録だ。強制収容所に囚われ、奇蹟的に生還した著者の手記。目を覆いたくなるのは、その姿の痛々しさや残酷さだけではない。そんなことを合理的に効率的に推し進めていったのが、同じ人間だという事実―― このことが、どうしても信じられなかった。旧版、新版の両方を読んでも、まだ信じられぬ。

 極限状態に陥ったとき、目の前の苦悩そのものの意味を問わない。わたしは、そこから逃れようとするだろうし、適わないのなら、次元を変えてでも達成しようとするだろう。つまり、物理的に逃げられないのなら観念の世界へ逃げるとか、外界をシャットアウトするとか。しかし、著者フランクルは違う。ニーチェの言葉「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」を思い出させ、別の結論にたどり着く。「なぜ生きるのか」―――この答えは、あなた自身の目で確かめてほしい(旧版をお薦めする)。

学問のOS

 正しさとは何かを突き詰めてゆくと、正しさの根っこについていかに自分が不勉強かに行き当たる。そのツケを相変わらず支払っているのだが、自分で探さずとも良書は既に紹介されている。あとは読むだけというが、固くなった頭で読みほぐせるか。かえすがえすも、学生さんが羨ましい。

85.『システムの科学』ハーバート・サイモン(パーソナルメディア)
86.『論理哲学論考』ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(光文社古典新訳文庫)[レビュー]
87.『オイラーの贈物』吉田武(ちくま学芸文庫)
88.『無限と連続-現代数学の展望』遠山啓(岩波新書)
89.『論理トレーニング101題』野矢茂樹(産業図書)[レビュー]
90.『科学革命の構造』トーマス・クーン(みすず書房)[レビュー]

 

『論理哲学論考』は、要するに「数学」である。同音異義や様々なニュアンスを含む日常言語を用いて、哲学の問題を論じることはできない。プラトン以来、西洋哲学の歴史は、言語の論理を理解していないことによるナンセンスな言説の積み重ねだという。これを克服して、問題をクリアにすることが、哲学の目的になるという。日常言語からくる混同を回避するために、厳密に論理的なシンタックスに則った記号言語を構築する必要があるといい、実際にそれを成し遂げたのが本書だ。論理的な人工言語を用いて、哲学のするべきことは、考えることのできるものの境界を決めると同時に、考えることのできないものの境界に線引きをするのだ。薄い本なのに、ずっと後回しにしてきたのが悔やまれる。

 

『科学革命の構造』は、科学的な正しさとは、フレームワーク上の定義に過ぎないことが分かる。科学の大発見をしたときの最初の言葉は、「エウレカ!(見つけたぞ)」ではなく、「こりゃおかしい」だ。何と比べて「おかしい」のか?それこそが、その時代・場所での正しさのフレームワーク(=パラダイム)になる。

 これは、「科学とは何か」について本質的なところで答えた名著だ。科学における「進歩」について新たな見方をもうけ、コペルニクスやニュートン、アインシュタインが人類にもたらした「知」を問い直す。ただし、科学を純朴に信仰する人にとっては劇薬級だろう(あるいは、いちゃもんつけて理解を拒むかもしれぬ)。なぜなら、何か統一理論みたいなものがあって、そこへ連続的に進化していくような「科学」について、疑問を投げかけ、揺さぶってくるから。科学を鵜呑む前に、読み干すべし。

リベラルアーツの世界へようこそ

 教養とは何かについて、詠み人知らずのメッセージがある。「学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ」―――ずいぶん詩的な言い回しだが、言わんとしていることは分かる。知識をひけらかす人には、「検索早いね」で済む。だがその知識がどのように形になったかは、自分で辿らない限り分からないままだろう。

91.『知の技法』小林康夫(東京大学出版会)
92.『日本人の英語』マーク・ピーターセン(岩波新書)[レビュー]
93.『疾病と世界史』ウィリアム・マクニール(中公文庫)[レビュー]
94.『堕落論』坂口安吾(新潮文庫)
95.『本はどう読むか』清水幾太郎(講談社)
96.『民族という虚構』小坂井敏晶(東京大学出版会)
97.『理系のための研究生活ガイド』坪田一男(講談社)
98.『歴史とは何か』エドワード・ハレット・カー(岩波書店)
99.『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド(草思社)[レビュー]
100.『レトリック感覚』佐藤信夫(講談社)[レビュー]

 

『疫病と世界史』は、感染症から世界史を説きなおしたスゴ本。宿主である人と病原菌の間の均衡に焦点を当てて、歴史を捉えなおす。人類史とは疫病史、ヒトが病気を飼いならす歴史なのだ。「人類の出現以前から存在した感染症は、人類と同じだけ生き続けるに違いない。人類の歴史の基本的なパラメーターであり、決定要因であり続ける」メッセージは、人類が肉体を有する存在である限り有効だろう。

 古い文書から、人に有害な微生物や寄生生物を探り出すことは、ほとんど望み薄だ。だが著者は、この難問に「移動手段の発達」と「疫病の地域性」というツールを使う。当時の移動手段(徒歩、馬、帆船)でどれくらいの人数がどこまで到達できるか、というアプローチをとる。例えば、帆船時代は、海があまりにも広すぎたがため、ペスト菌が拡散するより前に宿主を殺してしまっていた。汽船の出現が船脚と容量を増すことにより、感染が長時間循環できるようになり、海は突然、かつてないほど通過しやすい場所になったという。このような「あぶりだし」のアプローチ手法は、他でも応用が利きそうだ。

 

『銃・病原菌・鉄』は、「なぜ西欧が世界の覇権たりえたか」という疑問に対し、非常に明快かつ説得力のある形で答えている。著者は、遺伝学、分子生物学、進化生物学、地質学、行動生態学、疫学、言語学、文化人類学、技術史、文字史、政治史、生物地理学と、膨大なアプローチからこの謎に迫る。直接の原因は、西欧が「銃・病原菌(への免疫)・鉄」を持っていたからになる。

 ではなぜ、西欧が「銃・病原菌・鉄」を最初に持ちえたのか?ここからが面白い。歴史を逆に回し、紀元前11,000年から西暦1,500年の間で、何がおこっていたのかを追求し始める。人口稠密、定住化、家畜の存在や余剰食糧、技術発達の下地を説き明かす。そして、適正ある野生種の存在や種の分散の容易性は、東西方向に伸びる陸塊、すなわちユーラシア大陸の形にあったというのだ。つまり、アフリカやアメリカ大陸は南北に長いため、先の要因において西欧に遅れをとったという。シミュレーションゲームのように、初期設定が今を決定付けている理解に達したとき、きっと慄くこと請け負う。

 

『レトリック感覚』は、名著中の名著になる。ことばを扱う全ての人にとって、強力な武器となる一冊。「言葉」という、使い慣れた道具の構造が分かり、より効果的に扱えるようになる。これまでヒューリスティックに馴れていた手段が、一つ一つ狙い撃ちできるようになる。

 レトリックというと、言葉をねじる修飾法とか、議論に勝つ説得術といった印象がある。アリストテレスによって弁論術・詩学として集大成され、ヨーロッパで精錬された修辞学は、言語に説得効果と美的効果を与える技術体系だ。著者に言わせると、科学・実用主義が、技巧に走るレトリックを駆逐してしまったのが現代であり、せっかく手にした道具を自ら捨ててしまったことになる。この、言葉への感覚を取り戻すのが本書になる。見えないところで基礎体力となる一冊。

 100冊リストはこれでおしまい。定期的にリストを見直すと、自分の課題図書が整理されるのでありがたい。わたしの課題は、チョムスキー『統辞構造論』とベイトソン『精神の生態学』、そしてレヴィ=ストロース『野生の思考』を攻めていきたい。そして山を越えたら吉田武『オイラーの贈物』を攻略するんだ……なんて書くと死亡フラグになってしまう。「いつか読む」は、きっと読まない。だから今から読み始めよう。

 「これが入ってないなんて!」気持ちは分かる。100冊に絞るのに幾度となく涙を呑んだ。だから、以下の全リストから選んだ、あなたのオススメを伝えてほしい。なぜなら、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のだから。

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 人生は短く、読む本は多い。良い本で、良い人生を。

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いま本を書いている人、これから書く人の宝物となる一冊『本を書く』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年3月12日】


いま本を書いている人、これから書こうとする人、あらゆる「書く人」にとって、宝物となり、お守りとなる一冊。

作家が答えるべき2つの問い

巷に数多に散らばっている、量産型のハウツー本ではない。もっと根っこの、書く意志を焚きつけるメッセージが連なっている。「本を書きたい」人は、ぐっと背中を押されるだろうし、「いま書いている」人は、挫けそうな心を励まされるだろう。

どの本を書いているときでも、作家は二つの問いに答えなければならない。この本は完成するだろうか? そして、私にそれができるだろうか?

もちろん、だれも保証してくれない。

書き始めの興奮がおさまってくると、この疑問が沸き上がってくる。どんなに書いても終わらない日々が続いたり、書くべきことが言葉にならずにぐるぐる廻っていると、この不安が沸き上がってくる。

そして、何かとんでもない間違いをしでかしているような気になってくる。部分的な修正では対処できない、本の全体におよぶ構造的な問題に陥っているのではないか。あるいは、まるっきり見当違いのことを追いかけているのではないかと。

この問いについて、正解はない。抱えている不安も込みで、この問題に対処できるのは、書き手その人だけだから。構造的な問題を見つけ出し、欠陥があれば、それを最小限にする方法を考える(場合によっては書き直すことも辞さず)。

書く仕事とは薪割りのようなもの

書く「コツ」みたいなことは書いてない。だが、「書くということはどういうことか」をうかがい知ることはできる。

ソロー『森の生活』を見習って、やったことのない薪割りに挑戦するシーンなんてそうだ。

カナダの片田舎に引きこもって執筆するのだが、冬は極寒となる。「薪は人を二度暖める」と言ったソローを実践し、薪割りに励む。しかし、激しい労働の結果、木っ端にまみれ、ザクザクとなった木片ができあがる。

何度か失敗をくり返した後、夢のお告げであることを知る。それは、「狙いを薪割り台に定めること」だ。割ろうとする木のてっぺんではなく、「台」を狙って振り下ろすのだ。

薪割り台に乗っている木を、まるで透明なものであるかのように素通りしなければ、その仕事を片付けることはできない。

薪割りエピソードは伏線で、薪と台の関係は、ヴィジョンと作品の比喩として語られる。

ヴィジョンとは、書こうとする意志のコアになる。その外面は、問いや落書きで埋めつくされたメモや、本に引かれた傍線や(手書きの)注釈だったりする。だが、それをそのまま紙に書きつけようとしても、言葉はまとまらず、バラバラな木っ端になるだろう。

だから、ヴィジョンを明確に心に置いたまま、まるで透明なものであるかのように素通りして、作品に集中するのだ。

取っておくな、使い尽くせ

テクニカルなものは無いが、心構えのようなアドバイスはある。

「自分の骨を知れ」や「いまにも死にそうな人のように書け」、あるいは「自分が愛するテーマではなく、自分だけが愛するテーマを探せ」とか、「取っておくな、全て使い尽くせ」など、𠮟りつけ、励まし、尻を叩き、手を引っ張る。

そして、どんなに書くのに苦労しても、どれほど愛着がある文章であろうとも、それを入れることで全体が弱まるのであれば、大胆に捨てろと言い切る。これには勇気が要るけれど、それをしなかったが故に、水増しされた本がなんと多いことか。

それでも、書くのは自分だ。なにをどう書くのかも含めて、書き手の仕事である。お手軽なヒントを求めようと縋りつく人には、「プロセスに意味はない。跡を消すがいい。道そのものは作品ではない」とバッサリ斬りおとす。

この章の最後に、ミケランジェロが弟子に宛てた手紙が引用されている。こうある。

「描け、アントニオ、描け、アントニオ 描け、時を無駄にするな」

私自身、本を書くという長い長い作業をしているとき、支えとなった。挫けそうなときに開くだけで、薪をくべ、心を燃やし続けることができた。

本書は長らく絶版となっていたが、この度復刊された。旧版はべらぼうな中古価格となっていたが、ようやくお薦めできて嬉しい。

どのページを開いても、勇気づけられるメッセージが並んでいる。『本を書く』は、あらゆる「書く人」に贈りたい。

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読んで悶えて尊くて死ねるラブストーリー『僕の心のヤバイやつ』『純粋男女交際』『その着せ替え人形は恋をする』『お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年3月19日】


『僕の心のヤバイやつ』が好きだ。

中二病ど真ん中の「僕」と、学校イチの美少女のラブストーリー。青春の眩しさと後ろめたさに、うわああぁぁってなるよね。読むたびにゴロンゴロンして体力使うよね。

ここでは、そんな青春の甘酸っぱさに身悶えする作品を紹介する。『僕の心のヤバイやつ』が好きな人にお薦めのやつ。

もどかしくってじれったい一方で、そんな青春が1㍈たりともなかった過去を塗りつぶし、エロスがグロスで汚れちまった今の心を浄化する、そんな作品ばかりだ。

ドキドキしすぎて心が保てなくなるか、あまりの輝きに灰化するか、選べ。

まず、ゴールがスタートのやつから。

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面白いことに、これが第1話の最初のページになる。

普通のラブストーリーは、すったもんだの挙句、カップルが成立するところで終わる。物語としての恋愛の本質は遅延であり、恋の成立をできるだけ先送りしようとする。

だが、『純粋男女交際』は、ここから始まるのだ。

ん? もう相思相愛なんだから、何も起こらないんじゃない? いや、言い方が正しくない。物語としての特殊性なんて無くて、カップルなんだから、やることは同じなんじゃない? いや、これは邪な言い方だな。デートしたり、まったりしたり、年頃の男女がするようなことをするだけじゃないのか?

違うんだなこれが。

二人とも礼儀正しくて、わきまえている優等生なんだ。互いに相手のことを思いやり、嫌なことはしたくない(でもリビドーはある)。なのでめちゃくちゃ気を遣い、気を遣う自分を意識して恥ずかしくなる。

そこに煩悶があり、葛藤がある。

結果、読者はニヤニヤが止まらなくなる。

もっと面白いのは、この物語と並行して、隣のクラスの日常が別のストーリーとして進むこと。男女6人による、色恋のカケラもない日々が淡々と描かれる。弁当代を節約する涙ぐましい努力や、半透明のトレーシングペーパーで折り紙する話とか。男子って、本当、バッッッカじゃねーのwww、と思えてくる。

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初々しい高校生カップルと、ゆるぐだな男女グループの日常のコントラストが眩しい。どっちの青春にも1㍈たりとも関わっていないので、羨ましい妬ましい。『純粋男女交際』は『日々是平坦』に収録されている。

お次はアニメ『その着せ替え人形は恋をする』である。コスプレ ✕ ギャル  ✕ 陰キャ男子の化学反応がめちゃくちゃ面白い。「クラスの美少女が俺にだけ優しい」という、誰もが抱く妄想をトコトン推し進めてくれる。

恋愛をした人ならきっと「わかる」と言ってくれると思うが、ほら、あるでしょ、あの「ぶわっ」とくる感覚。相手から風が吹いてくるような、なんかの圧(光?熱?視線?)を受け手、身体が刷新するような感覚。火照りとか、羞恥心とか、欲求(性欲含む)を自覚するのは、その後。

その「ぶわっ」とくる瞬間までは、そもそも自分が相手のことを好きかどうかも分からない。けれど、それが来たとき、「わかる」やつ。

『着せ恋』だと第5話のラストになる。光と影と音の演出が恐ろしいほどハマっている。その瞬間の顔を見切れている状態にしてジらした後、しっかりと彼女の表情を見せてくれる。これ神演出やな。

5話に限らず、もう何度も何度も周回している。これほど繰り返すアニメは、『TARI TARI』『花咲くいろは』『冴えカノ』以来。視ろ。そして悶えろ。

最後はライトノベル『お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件』だ。自堕落な生活を送る男子高校生と、たまたまお隣さんとなった女子高生の交流を、極甘に描いている。

TVアニメ放送決定とのこと。

素直じゃない二人が出会い、ぎこちない時を重ね、ゆっくりゆっくり関係性を築いていく。好意を抱いていても、それが「好意」であることから目をそらしたり、うまく伝えられずに煩悶する様は、見てるこっちがもどかしい。

マンションが隣で、毎日ご飯を作ってもらい、掃除もしてもらってるような仲なのに、「付き合っている」という自覚の無いところの破壊力が凄まじい。アテられている感がすごい。

読むたびに、「くそっ…じれってーな、俺ちょっとやらしい雰囲気にしてきます!」のセリフが頭をよぎる。相手を大事に思うが故に、耐え難き性春を耐え、忍び難きベーゼを忍ぶ。

じゃぁこれが「恋愛の遅延」になるのか?

恋愛を成就させずにストーリーを引き伸ばし、宙ぶらりんのままにするのかというと、そうではない。段階を踏みながら、時にはすっ飛ばして、二人それぞれの「自分の気持ち」に気づかせる。尊すぎて死者が続出するレベルやな。

リビドー全開のダークな時代だった私には、これほど光属性にあふれた青春を見ると心にクる。そういう、メンタルに灯油と糖分をぶちまける夜があっていい。これは、私を甘やかすファンタジーなんだから。

「完全なる純粋異性交際」とか「お隣さんが一人暮らしJKかつ同学年」なんて、ぶっちゃけありえない。だから、これはファンタジーなんだ、ありえない青春を上書きして幸せになるためのフィクションなんだ。

だから俺はこれを、青春ファンタジー(Seishun Fantasy:SF)と呼ぼう。

読んで悶えろ。観て死ぬがいい。尊すぎる青春ファンタジー。

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なぜ悪口は悪いのか『悪い言語哲学入門』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年3月26日】


「おまえのカーチャンでーべーそ」が悪口なのは、すぐ分かる。しかし、「キミのお母さん綺麗だね、鶯谷で見かけたよ」が悪口になるかは、すぐには分からない。

「どういうつもりで言ったのか」が絡んでくるからだ。

鶯谷に風俗街があることを折り込み済みで語っているのであれば、「おまえの母親は着飾って風俗街をうろつくような女だよ」という悪意が透けて見える。悪意を問い詰めると、「単に事実を言ったまで。本当の事を言って悪いのか?」と居直られるかもしれない。

また、「バカ」という単語ひとつとっても、「バカぁん」と言い方を変えるだけで罵倒していないことになる。惣流・アスカ・ラングレーの「あんたバカぁ?」は、他のメッセージも伝わってくる。

「悪い言葉」があって、それを使うことが悪い、ということだけではなさそうである。言葉の使われ方や話者の意図、さらに使う状況によって、言葉は「悪く」なる。言葉の善悪について、言語学的アプローチから迫ったのが、『悪い言語哲学入門』になる。

トランプ一流の悪口

悪口の巧妙な例として、トランプ前米大統領のスピーチを紹介している。メキシコ移民について、排外主義的な発言をしたとされるこの一節だ。

When Mexico sends its people, they're not sending their best. They're sending people that have lots of problems, and they're bringing those problems with us. They're bringing drugs. They're bringing crime. They're rapists.

メキシコがアメリカへ送ってくるのは、最良の人々ではない。彼らが送る人々といえば、問題を抱えた奴らばかりだ。奴らは私達に問題を持ち込む。麻薬を持ち込む。犯罪を持ち込む。強姦犯だっている。

「移民=犯罪者」とするトリックが隠されており、反駁が難しいという。

なぜなら、何千万ものメキシコ移民のうち、犯罪者がゼロというのはないから。たとえ1件でも、麻薬の密輸が摘発されたなら、「ほら、俺が正しい」と言えるから。

もう一つ巧妙なのは、言い逃れができるという点にある。反対者に「全てのメキシコ人がレイプ犯だと言った」と糾弾されるが、「すべての」とは言っていないとして、批判をかわしている。

正しくは、「移民の一部には犯罪者もいる」と言うべきだろう。そして、「すべての移民は犯罪者である」というのは誤っている。

しかし、「移民は麻薬を持ち込む」「移民は犯罪を持ち込む」という「AはBだ」という断定を繰り返すことによって、「移民=犯罪者」と思わせることができてしまうのだ。

デカい主語には気をつけて

この「AはBだ」という言い方は、総称文と呼ぶ。

  • 蚊はデング熱を運ぶ
  • 男子は握力がある
  • チーターは走るのが速い

特徴や習性を記述した文章で、ヒトの認知システムがもたらす基本形式を反映したものになる。単純ながら強力であり、実際のところ、総称文を使わずに生活することはほぼ不可能だという。

重要なのは、総称文を使う時、単に出来事の報告だけでなく、ある社会集団の価値観(ステレオタイプ、偏見、認識)を表明している点にある。だから、総称文に出会った時、それはどんな価値観の表明であるのかを吟味する必要が出てくる。

シンプルな判断方法としては「主語がデカいとき警戒せよ」になる。

「日本人は」「男は」「高齢者は」で始まる表現は、すこし引いたほうが良いかもしれぬ。そこには、個人的な見解をグループ全体の総意としたり、少数しか当たらない事実を集団全体に当てはめていることがあるから。そして、中傷しながらも「本当のことを言ってるだけ」という言い訳も通してしまう可能性もあるから。

悪口とは何か

罵倒語を使っても悪口にならない場合がある。一方で、事実を述べても悪口になる場合がある。

では、悪口とは何か? 悪口の「悪」とは何なのか?

本書では、言語学的な事例を用いながら、悪口の言語行為を掘り下げる。単なる罵りや悪態だけでなく、相手をランク付けしたり、従属化させることも悪口に当たるとする。

さらに、罵り言葉を挙げながら、そこに共通する「相手を貶める」点を指摘する。

例えば、ムシケラ、悪魔など、卑小な存在だったり、邪悪なものを引き合いに罵倒する例が多々ある。つまり、相手のランキングを下げることが、悪口の機能なのだ。

そして、悪口の「悪」とは、あるべきでない序列や上下関係を作り出し、押し付けようとするところにあるという。本来であれば、人は平等な存在であるにもかかわらず、相手を貶め、低いランクづけにしようとする。平等という価値を蔑ろにしている点が、悪口の「悪」だというのだ。

言葉は「道具」というよりも「巨大な乗り物」

腑に落ちたのがこれ。言葉は、ハンマーのような一人で使う道具ばかりではなく、蒸気船や大型タンカーのようなものである可能性も考慮せよ、という指摘だ。

もちろん、言葉は個人が使うものだから、こうした「個人用の道具」でもある。

例えば「ことば狩り」という用語には、「刀狩り」のような、個人で使う道具のようなイメージがついてまわる。あるいは「寸鉄人を刺す」の寸鉄は、警句のような短い言葉だ。

しかし、個人が発した言葉がSNSやマスコミで増幅され、大きな影響力を持つようになったのも事実だ。「AはBだ」という言葉が、特定の社会的序列を作り出し、それを正しいものとして繰り返し使われるようになった場合、それはもはや、「個人の道具」どころではないだろう。

最初の発言者が退場しても、そのメッセージは残り続け、そのメッセージから派生する別の悪口が妥当なものとして登場するだろう。そして、そういう序列があるのだという、共通的な基盤が出来上がることになる。差別的な表現が無くなりにくいのも、言葉が個人の道具ではない証左になる。

私は無邪気に「バズる」と言うが、良かれと思った場合であっても、かなり恐ろしいことをしているのかもしれない。

「ことば」への見方をガラリと変え、すこし tweet に慎重になる一冊。

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ヨーロッパ偏重のローマ帝国から離れる『岩波講座 世界歴史 03』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年4月2日】


皇帝ネロの時代、ローマは火の海となった。炎は6日と7晩かけて、首都の大半を焼き尽くした。

「都を新しくしたいネロの陰謀」という風評をもみ消そうとして、ネロ帝はキリスト教徒を放火犯に仕立て上げ、火刑に処したという。

しかし、本書よると、これはキリスト教徒のプロパガンダらしい。

ネロの時代において、ユダヤ教とキリスト教は、はっきりと分化しておらず、「キリスト教徒」という集団では認知されていなかった。あくまでユダヤ教内での対立として、暴動を引き起こしていたという。

暴動の首謀者としてクレストゥス(Chrestus)とユダヤ人たちが追放されたという記録があるが、写本を引き継ぐ中で、イエス・キリスト(Christus)に書き換えられたのではないか、という説だ。つまり、刑に処せられたのはユダヤ人集団であり、キリスト教徒だけを狙い撃ちしたわけではないというのだ(※)。

一方、キリスト教徒に対する「迫害」が量産されるのは、4世紀以降になる。

それまでに記されなかった過去を振り返って「当時のキリスト教徒は迫害された」という文書が大量に残されるようになる。

なぜか? 教会指導者たちは、迫害を耐え抜いた、殉教の後継者としてのアイデンティティを確立するために、こうした「伝説」を創りあげたというのだ。

頭をガツンとされたような衝撃を受けた。

ローマ大火やキリスト教徒の迫害については、塩野七生『ローマ人の物語』や徹夜小説『クオ・ワディス』で、歴史的事実だと思っていた。

だが、歴史的事実とは、各時代の書き手が取捨選択したものの集積であり、そのまま受け取る前に、それぞれの書き手のバイアスを意識して読み解く必要が出てくる。4世紀から見るローマと、21世紀から振り返るローマは、別物だと思ったほうがいい。

例えば、近代におけるローマは、自由と文明の象徴として描かれていた。帝国を拡張することを「正義の戦い」と主張し、征服した「野蛮人」に「自由と文明」をもたらすのが、ローマになる。これは、植民地における「支配-被支配」の構造に落とし込み、帝国主義を正当化させるレトリックとしてのローマだろう。

あるいは、20世紀末になると、ヨーロッパ統合の進展を受けて、政治面においてローマ帝国が脚光を浴びることになる。統合された広大な領域と、ローマ全体で通用する共通通貨を踏まえて、「EUは古代ローマ帝国に匹敵」(プロディ欧州委員会委員長)とされる。

「ローマ帝国をどう見るか」というテーマは、そのまま「ローマをどう見たいか」につながり、それぞれの時代の写し鏡になる。

『世界歴史03 ローマ帝国と西アジア』は、前3~7世紀のローマ帝国がテーマとなる。特徴的なのは、昔ながらのヨーロッパ偏重から離れ、西アジアとのつながりが重視されている点にある。

ヨーロッパにとってのローマは精神的な故郷のようなものだろう。そのため、ローマ的なものを受け継ぐのは自分たちだという意識から、西側に重心がかかった「支配側からのローマ帝国」が描かれることになる。

しかし、実像としてのローマは、圧倒的多数かつ多様な「被支配者」や、その外側の西アジアの人々とのつながりの中で成り立っていた。こうした実態を踏まえ、本書では、女性やマイノリティからの視点や、ユーラシア規模での経済活動から、多角的にローマを活写する。

ヨーロッパ人が見たいローマではなく、逆側・裏側・外側からのローマが見えてくる一冊。お試しは、ここ[PDF]で読める。面白さは保証する。


The Historicity of the Neronian Persecution: A Response to Brent Shaw,Christopher P. Jones,Cambridge University Press,2016

https://www.cambridge.org/core/journals/new-testament-studies/article/historicity-of-the-neronian-persecution-a-response-to-brent-shaw/72A73656C0F1372963C197F8945D38D3

この論文の結論は、「『大火の責で、ネロがキリスト教徒を罰した』というタキトゥスの主張を反証できなかった」になる。この記事の主旨と合わないため、削除する。
(@JEREMIA10732539 さん、ありがとうございます)

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科学は人間にとっての約束事にすぎない『科学と仮説』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年4月9日】


10進数が一般的なのは、手の指が10本だからだ。

指の数が8本なら8進数だったろうし、四足歩行のままなら20進数かもしれない。〇進数の〇の中にどの数字が入ったとしても、表記が違うだけで、数は同じだ。単に10が人にとって自然に見えるだけである。10進数なら真で、8進数なら偽なんてことはない。

ポアンカレは、ユークリッド幾何学で同じことを考える。

三次元に座標がマッピングされた空間で、個体として運動する生命にとって、最も使い勝手の良い幾何学が、ユークリッド幾何学の空間になる。非ユークリッド幾何学が今の人間に支配的ではないのは、単純に、ユークリッド幾何学のほうが便利だからにすぎない。

ユークリッド幾何学と、非ユークリッド幾何学の、どちらが真かを考えるのは、メートル法とヤードポンド法のどちらが正しいかを議論するようなもので、ナンセンスだという。

人間が空間を認識する上で、三次元で、一様かつ連続的であるといった性質を前提としている。その性質を本質として備えているのがユークリッド幾何学のため、人間に採用されている規約にすぎないのだ。

ただし、人間が意図的に採用したというのであれば、適切ではないだろう。人間が数学を始めるとき、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の2つがあって、どちらにするかを選べたわけではないのだから。

ヒトが存在する環境だとか、ヒトの身体や認知のデザインによって、ほとんど必然的にユークリッド幾何学になったというのが実際のところだろう。

偽装された定義

この「人間にとっての規約」を出発点として、幾何学から力学、電磁気学にまで及ぶ幅広い分野に共通する客観性を掘り下げたのが、『科学と仮説』だ。人間がする営みであるにもかかわらず、人間が抱く主観を取り去った「客観」なるものの存在が疑わしくなる。

科学理論とは、人間というフィルターで濾された観察の蓄積から、人間が把握しやすい約束事の移り変わりに見えてくる。科学とは、自然の真理なんてものではなく、観察結果を上手に説明できたり、再現させるのに使いやすい約束事に過ぎないのだ。

ポアンカレはこれを、偽装された定義と呼ぶ。

例えば、ニュートンの運動法則がある。世界を統べる原理のように扱われてきたが、これは物理現象を統一的に説明するための約束事にほかならないという。

あるいは、「エーテル」という媒体は、光の性質を説明するために導入された後、捨てられた。宇宙の質量を説明するために導入された「ダークマター」は、それが本当にあるかどうかはどうでもよく、人が理解できる範囲の理屈に合わせるための約束事なのだ。

「力とは何か」を形而上学で語ろうとすると議論は終わらない。だからいったん、質量と加速度の積だと定義して、そのフィルターで世界を観察しなおすのだ。そこで再現性のあるもの、定義の組み合わせで矛盾なく説明できそうなものを選び取って体系化したものが、その時代の科学になる。科学がトートロジカルに見えるのは、こうしたわけなのだ。

しかし、時代と共に技術が洗練され、より細かく、より遠く、より精密に観察できるようになるほど、定義の組み合わせでは説明するのが困難になる。

なぜ科学は複雑化するのか

あたりまえだ。人間が理解できる範囲に留めるべく、単純な定義とシンプルな組み合わせで始まった理屈のため、より精密な観察結果を説明しようとすると、辻褄が合わなくなる。

だから、パラメーターを追加したり、定数を加えることをくり返し、なんとか理論を存続させようとする。結果、オッカムの剃刀はどこへやら、複雑怪奇な体系ができあがる。

この体系を存続させるため、体系に合わないデータは捨てられることになる。

例えば、CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)が象徴的だ。

ホッセンフェルダー著『数学に魅せられて、科学を見失う』によると、この実験では莫大なデータが捨てられているという。

高エネルギー下での粒子を観測する実験では、毎秒10億回もの陽子-陽子衝突が起こる。CERNのスパコンでも、全ての衝突データは保存できない。衝突が起きている間、リアルタイムで選別され、アルゴリズムが「興味深い」と判断したものが保存される。その数はせいぜい100~200程度だという。

著者はこれを、悪夢のシナリオと呼ぶが、仕方がないだろう。別に科学者の怠慢なのではなく、今の技術ではこれが限界であり、人間が説明できる範囲での理屈に合わせるためには、こうした取捨選択が必須となる。結果、現在の理論に基づいて説明できそうなデータを集めたものが「エビデンス」となる。

理論を逆算する

技術とともに複雑化する科学を、逆手に取ることもできる。

この100年で、どれほど遠くまで観測することができ、どれほど小さいものまで観察することができるようになったかを考えてみよう。言い換えるなら、宇宙の果てから素粒子の奥まで、どれくらいのスピードで把握できるようになったか。

『ズームイン・ユニバース』が参考になる。極大だと10^27まで、極小だと10^-35になる。これは、観測可能な宇宙の果てから、「場」に満ちた世界までになる。

一人の科学者のキャリアを四半世紀とすると、25年後に観測・説明可能な極大・極小の範囲は、これまでの技術のスピードから推計できる。そして、その世界で立証できる範囲で理屈を組み立てるのだ。

このとき、ポアンカレの偽装された定義を思い出そう。あくまで、25年後の人間に理解できる範囲での約束事にするのだ。科学者としてのキャリアの間に立証できない絵空事は描けない。一方、複雑怪奇な理屈の正当性を擁護すべく弥縫策に奔走するのも馬鹿馬鹿しいだろう。

科学を、客観的な事実の集積としてではなく、人間が取り決めた規約の集積とみなす。そうすることによって、「科学」の見通しはうんと良くなるだろう。

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原書と翻訳で読む The English Patient / イギリス人の患者



  • 砂漠で燃え上がる飛行機から助けられた「イギリス人の患者」
  • たった一人で「イギリス人の患者」を看病するハナ
  • 拷問で親指を失った泥棒のカラバッジョ
  • インドで生まれイギリスで訓練された工兵キップ

時代は第二次大戦の末期、舞台はイタリア北部の廃教会。この四人を軸に、折りたたまれた過去が少しずつ開かれるように、物語は進んでゆく。

歴代ブッカー賞の中でも最も優れた傑作として名高い『イギリス人の患者』なのだが、これ、かなり難しい。

というのも、視点が頻繁に切り替わり、時間が直線的に進まない。主語が曖昧なまま進み、比喩が多用され、何が起きているのか、非常に分かりにくい。

ある一文がハナの内面の語りに見えても、読み進めると作者の声のようにも響く。同じパラグラフに砂漠の回想と廃教会の描写が重なり、回想というよりもむしろ、イギリス人の記憶の断片が現在に侵入してくるような感覚に陥る。

一つの物語として読むならば、「イギリス人の患者とは誰か?」というミステリが解き明かされるにつれて浮かび上がる美しくも悲惨なラブストーリーになる(実際、映画『イングリッシュ・ペイシェント』はそういう<枠>に押し込んだ)。

だがこれを、一人のヨーロッパ人と三人の非ヨーロッパ人の話として読むならば、別物になる。ヨーロッパが引き起こした大戦争に巻き込まれた者たちの物語になる。ただし、彼らは単なる被害者ではなく、ヨーロッパ的価値観を内面化しているが故に苦悩する。

あるいはこれを、二人の若者と二人の年配者の物語として読むならば、別の旋律が重なる。ハナとキップは、これからの時間を生きる存在でありながら、既に戦争によって決定的な傷を負っている。一方、中年を過ぎた二人は、過去の選択と記憶に縛られ、その重力に囚われている。

音と言葉が喚起する感覚を愉しむ

このように物語を解体して読むこともできる。だが、細かいことは脇に置いて、イメージが喚起させる美しさと心地よさに身を任せてもいい。

作者のマイケル・オンダーチェは詩人でもある。今回(ようやく)英語で読めたのだが、ふんだんに音韻を踏まえている文章は、音とイメージの両方が湧き上がってくる。

 I’ll be looking at the moon, 
 but I’ll be seeing you.

That old Herodotus classic. Humming and singing that song again and again, beating the lines thinner to bend them into one’s own life.

月を見る。
見えるのは君。
これこそ、ヘロドトスの本質だ。私は節をつけて何度も口ずさんだ。そのたびに、自分のことだと思った。

歌詞からすると、ビリーホリディの I'll Be Seeing Youだろう(女と別れたバーで飲んだくれたときのセリフだし)。ヘロドトスの言葉として語られるこの言葉、実際には古典ではなく、20世紀のポピュラーソングに由来する。

'They declare war, they have honour, and they can’t leave. But you tw . We three. We’re free. How many sappers die? Why aren’t you dead yet? Be irresponsible. Luck runs out. '

「あいつらは戦争を宣言して、名誉を重んじて、だから立ち去ることができん。だが、おまえたち二人は……おれたち三人はちがう。自由だ。いったい何人の工兵が死ねば気がすむんだ。おまえはなぜまだ死んでいない。もっと無責任になれ。運がいつまでもつづくとはかぎらんのだぞ」

不発弾の処理で部下を死なせてしまったキップに向かって、カラバッジョが言ったセリフだ。ヨーロッパの金持ち連中が始めた戦争に、律儀につき合う必要はないという。律儀につき合った挙句、両手の親指を失うことになったカラバッジョが言うセリフだから、重い。

この作品は、意味を理解する前に、まず音として受け取るべきなのかもしれぬ。むしろ音読することで、言葉の響きとイメージの連なりが、鮮やかに立ち上がってくる。

He wants the minute and secret reflection between them , the depth of field minimal , their foreignness intimate like two pages of a closed book .

閉じた本の隣り合う二ページのように、反射の距離を最小にし、異質のものどうし親密に寄り添うこと……

minute、minimal、intimateと踏む m 音はエロティックであるだけでなく、隣り合う二ページの本は、ヘロドトスの『歴史』を指す。男がいつも携帯し、メモや備忘録代わりにしている一冊だ。

男は考古学者でもあり、ヘロドトスが記した遺跡を見つけ出そうとする探検家でもある。そしてこの一冊をきっかけとして彼女と結びつき、裏切り、そこに記されたエピソードをなぞるような出来事が起こる。

『イギリス人の患者』は何度も読んできたが、ヘロドトスが、一種の予言の書のようにも読めることに、今更ながら気づいた。

死姦の含意に気づく

他にも、原書で読むことによる気づきがあった。慣れない英語なので、どうしてもスローペースで読むことになり、代わりに、引っ掛かった一つの語を緻密に掘り下げるような読みをしたからだ。

最も強烈なのはここ。

We forgive selfishness, desire, guile. As long as we are the motive for it. You can make love to a woman with a broken arm, or a woman with fever. She once sucked blood from a cut on my hand as I had tasted and swallowed her menstrual blood. There are some European words you can never translate properly into another language. Félhomály. The dusk of graves. With the connotation of intimacy there between the dead and the living.

恋人にはすべてが許されるのではないのか。身勝手も、欲望も、策略も。恋する心から出たことなら、すべてが許されるのではないか。女が腕を折っていても愛せる。女に熱があっても愛せる。ならば、なぜ……私が手を切ったとき、女は傷口から流れる血を吸った。私も女の月経の血を含み、飲んだ。ヨーロッパの言語には、他の言語に翻訳しきれない言葉がいくつかある。たとえば、フェルホマリ。墓場の夕暮れ。死者と生者の親しい交わりをいう言葉。

何かがおかしい。

愛の言葉として語られているはずのものが、どこかで倫理の境界を踏み越えている。

いままで、普通にスルーして読み流してきたが、ゆっくり読むと、改めて異様さに気づく。傷ついた女を洞窟に残してから、既に三年の月日が経過している。女の身体は蜘蛛の巣で覆われている。このとき男は裸で、横たわる女に近づき、かつてしたように、女の服を脱がせ、愛したかったと語る。

彼は、生と死の境界すら無効化しようとしたのではないか。

félhomályという言葉が示すように、生者と死者のあいだの曖昧な領域に踏み込み、その危うさを強く意識させる。そこには、死姦を想起させるほどの過激な含意が漂っている。この後、三年前の腕を折った彼女と言葉を交わし、愛し合うシーンが混じりあう。深く読めば読むほど、何が起きていたのか分からないように描かれている。

そもそも、「イギリス人の患者」はイギリス人でもなんでもない。

フェルホマリ/félhomályはハンガリー語である。この物語を紡ぎ、登場する他の三人を言葉ひとつで引き込んできたのは、彼自身だ。だとすれば、彼こそがこの物語の語り手であり、同時に、最も信頼できない語り手でもある。

今回は、日本語訳を傍らに原書に挑戦したわけだが、英文を読めば読むほど、翻訳の絶妙さに惚れ惚れした。「ヨコのものをタテにする」と謗る人がいるけれど、とんでもない、ものすごく苦労して訳している。作者がどの情報をどこまでコントロールしようとしているかを見積もり、それに応じた明瞭さ(不明瞭さ)で訳出していく。機械的な翻訳ではムリだろう。

次回は、音読して沼るつもりだ。



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良い記事を書く3つのコツ『誰よりも、うまく書く』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年4月16日】


良い記事を書くコツは3つある。

 ①読みたくなるようなタイトルにする
 ②最初の文を読んだら、次を読みたくなるように書く
 ③次を読んだら、もっと読みたくなるようにして、最後まで読んでもらう

そんなことは分かっている。知りたいのは、最後まで読んでもらうには、具体的に何をどう書けばよいのか?

その答えは、物書きのバイブルである本書にある。

『誰よりも、うまく書く 心をつかむプロの文章術』は、全世界で150万部売上げ、50年近く読み継がれてきたロング&ベストセラーの文章読本だ。ライター・記者・作家志望が必ず紐解くノンフィクション・ライティングの名著とされている。

一読すると、すぐに分かる。最後まで読んでもらう文章を書く上で、必須のこと、NGのこと、ネタの探し方、書き方、推敲の仕方、お手本がそろっている。

ブロガーの端くれとして、このテの本は、さんざん漁ってきたつもりだった。だが、それでも沢山の気づきが得られたので、いくつか紹介してみよう。

どんな立場から書くのか

これは、書き始める前に答えを決めておく必要がある。

ある題材を記事にするとして、それを、自分(=書き手)がどんな立場から語り掛けようとしているのか、という質問だ。

  • 記者としてか、その道のプロとしてか、あるいは、一般人としてか
  • どんな代名詞、時制を使うのか(≒無個性な報告調か、個性的でくだけたものか)
  • 題材に対してどういう態度をとるのか(深くかかわるのか、距離をおくのか、皮肉っぽくあしらうのか)

これらを練っていくと、「この記事は、誰に向けて書くのか」も一緒に考えることになる。知らない人向けに解説するのか、既知なのに意外な事実を暴露するのか、あるある話として共感を集めるのかを考える。

すると、文の調子や用語選び、一文とパラグラフの長さ、最終的には構成のアウトラインまで決まってくる。その題材を知らない人向けに紹介するのなら、なるべく興味を惹きそうなトピックを冒頭に持ってきたり、専門用語の後に例え話を添えるなど、文章そのものが変わってくる。

ほとんどの形容詞と副詞は不要

これマジ。わたしは開高健から「文は形容詞から腐る」と教わったが、本書でも釘を刺してくる。

文をリッチにするため、形容詞を加えたくなる気持ちはわかる。だが、やるほど逆効果になる。

例えば、「茶色い土」や「黄色いスイセン」など、よく知られた目的語の色をわざわざ書く必要は無い。文章が無駄に長くなるだけだから。

形容詞を使うことは、その目的語に書き手の価値判断を加えることだ。だから、書き手の価値判断が、読み手と似たようなものになるのなら、その形容詞は冗長になるだけだ。削れ。

その上で、名詞単独だと、自分の価値判断が伝わらないのであれば使えばいい。どうしてもスイセンを価値判断したいなら、「けばけばしい」のような形容詞を選ぶべきだ。

同じことは副詞にも言える。

動詞と似た意味の副詞を加えると、文章は乱雑になり、読者をうんざりさせる。「ラジオが喧しくがなり立てる」がダメなのは、「がなり立てる」の中に「喧しさ」が含まれているから。「歯をきつく噛みしめる」がダメなのは、「噛みしめる」中に、「きつく」が入っているから。

さらに、限定子も消せという。「いささか」「少しの」「一種の」「ある意味では」といった言葉だ(※)。書き手が見たこと、感じる、考えていることに条件を付けるこうした言葉は、文体を薄め、説得力を弱めてしまうという。

かっこ( )に括れ

では、どうすればよいか?

無駄なセンテンスを削って、読みやすい文章にするには、具体的にどうすれば良いか。本書には、沢山の方法が紹介されているが、わたしにとって白眉だったのは、かっこ( )に括る方法だ。

完全に削除するのは精神的にダメージがくる。だからいったん、役に立っていない構成要素を全て、かっこ( )に括る。

分かり切った形容詞「(高い)摩天楼」や、動詞と同じ意味を持つ副詞「(楽しそうに)微笑む」、文を薄める修飾語「(いささか)分かりにくい」、無意味なフレーズ「ある意味」を丸ごとかっこ( )に入れてしまう。

さらに、一文全体を括ることもあるという。前文のくり返しだったり、読者が知る必要のないことが書かれていると、丸ごとかっこに入れられる。

推敲前の第一稿は、だいたいの場合、半分に削っても情報や著者の声が失われることはない

本当か!? と思うかもしれない。でも本当だ。なぜそう断言できるかというと、わたし自身がそうしてきたから。

自分の文章が良くないことに気づく人はほとんどいない。過剰さや曖昧さがどれだけ自分の文体に忍び込み、どれだけ自分の伝えたいことを邪魔しているかを誰も教えてくれないからだ。

かっこに括るのは、なくても意味は通じることを、自分自身の目で確認するため。自分の文章を組み立てなおす前に、徹底的にそぎ落とし、縮めることをお薦めする。

また、お手本となるノンフィクションが大量に紹介されており、わたしの既読 or 積本リストに照らし合わせても、鉄板でお薦めしたい(以下ほんの一部をご紹介)。

  • ステ ィーヴン・ジェイ・グールド『パンダの親指』
  • オリヴァー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』
  • フランク・マコート『アンジェラの灰』
  • ウラジーミル・ナボコフ『ナボコフ自伝 記憶よ、語れ』

他にも、「ユーモアをいつ、どのように使うか」「上手な終わらせ方」「受動態の使いどころ」など、記事を書く上で役立つ手法が並んでいる。

わたしがよく使っている「面白いことに~」という前フリはダメだという。面白いことがあるなら、もったいぶらずに、さっさと書け、というわけ。

サマセット・モームは、「書くことには3つのルールがあるが、それが何なのか、誰も知らない」と言った。3つに限るなら、冒頭の①②③だ。増やしてもいいなら、本書をお薦めする。


※文中では、以下の英単語が並んでいる
a bit, a little, sort of, kind of, rather, quite, very, too, pretty much, in a sense

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物語を書く人・楽しむ人のバイブル『面白い物語の法則』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年4月23日】


面白い物語には法則がある。

剣と魔法の冒険譚であれ、銀河帝国の逆襲であれ、身分違いの恋物語であれ、面白いとされる物語に共通する法則だ。

そんな魔法みたいなものがあるのか? もし面白さを形式化できるなら、AIに学ばせることだってできるだろう。眉唾しつつ読んだら腑に落ちた。確かに、面白い物語には法則がある。

『面白い物語の法則』は、ハリウッドの第一線の脚本家による、実践的な指南書だ。『美女と野獣』『ライオンキング』の一流のストーリーテラーが使っている手法が惜しげもなく解説されている。

物語やシナリオ、ネームを書く人のみならず、出来上がった映画やドラマ、小説作品を味わう人にとっても役に立つ。なぜなら、「その作品がなぜ面白いのか」を言語化することで、作品をより深く味わい尽くすことができるから。

テーマとログライン

最も私に刺さったのは、テーマとログラインだ。

テーマを決める、なんて当たり前のことに見えるが、本書はもっと徹底的だ。自分が書こうとしている物語について、3ページのシノプシス(あらすじ)、短い文のログライン、最終的には、人間の衝動や性質を言い表す一つの言葉にまで突き詰めよという。

たとえばマクベス。「大勢の人を殺して王になろうとしたスコットランドの領主のお話」なんて説明ではない。物語の感情を、たった一言で定義するなら何になるか。本書では、「野心」すなわち支配への衝動だと説明する。

『マクベス 』で「野心」は三回出てくる。まず、マクベス夫人が焚きつける「野心はあるが毒気がない」、そしてマクベス自身の「野心はないが野望はある」、最後は「おのれの命を食いつぶす愚かを極めた野心」の三回だ。

野心は避けがたい破滅を招くのだが、マクベス自身にはそう見えない。見えたときには手遅れになる。「無情になるための野心」ではなく「慈悲に抑制された野心」だって選べたはずだ。だがマクベスは、最後の人間性も切り離し、破滅への道をひた走ることになる。

では、なぜテーマが最重要なのか。

テーマは、物語を統一し、首尾一貫した感覚を与える要素だという。言い換えるなら、テーマさえはっきりしていれば、どんな雰囲気や感情を生み出せばいいのかが分かる。セットの基調色が何になるか、どんな音楽を使うかも考えやすくなる。

テーマに合わない部分はバッサリ斬ったり改変する必要も出てくるし、物語が複雑化したとき、テーマを頼りに本線に戻すこともできる。

テーマを抽出するトレーニング

自分が扱う作品のテーマは何か、徹底的に突き詰める。そして考え抜いたテーマを、様々な試練にさらすのが、物語作家の役割になる。

しかしテーマというもの、腕組みして考えると浮かんでくるものでもないし、口開けていると、空から降ってくるわけでもない。どうすれば突き詰めることができるのか? 

本書では、単純だが厳しいトレーニングが課されている。

100日で100本の脚本を読めという。そして、読み終えるごとに、シノプシス3ページ、ログラインを一文、そしてテーマを書くトレーニングだ。実際、やろうとすると、細部は大幅に割愛され、中心となるキャラクター、主眼となる対立とアクションなど、物語の根幹を見つけ出す作業になる。

ほとんどのテーマは、第一幕の早い段階で、示される場合が多い。登場人物が声高に口にする願いや主張に隠されており、それを受け容れるか否かはともかく、物語全体に反響し続ける。

テーマが響く箇所が物語の根幹であり、それを手繰っていくとシノプシスが出来上がる。そして、シノプシスを削いでゆけば、ログラインになる。著者はシェイクスピアを全て読んで実践したというが、四大悲劇だけでもやってみたい。

ログラインの重要性は、『SAVE THE CAT の法則』で何度も繰り返されていた。多くの人を巻き込み、商業的に成功するためには、一行でその気にさせなければならない。ログラインやテーマは、物語の背骨だと言っていい。そのトレーニング方法が詳述されている分、『面白い物語の法則』は実践的だと言えるだろう。

キャラクターの方程式

キャラクターの作り方は、方程式が紹介されている。これだ。

キャラクター=求めるもの+動き+障害+選択

言い換えるなら、キャラクターとは、何かを求めて物語に現れ、それを求めるために動きまわり、何らかの障害によって阻まれ、それを乗り越えるために選択を迫られる存在になる。

求めるものを手に入れて早く満足したいという欲求とは裏腹に、開始2ページで終わらせるわけにはいかない。物語作家はあらゆる障害を放り込み、同じものを求めるライバルを登場させ、第二の求めるものを出現させる。物語が「動く」とは、キャラクターが求めるものを手に入れようとすることと同義なのだ。

この辺り、カート・ヴォネガットの小説家の心得で聞いたことがある。「たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにも何かを欲しがらせること」というやつ。ポイントは、「たとえコップ一杯の水でも」だね。物語に出てくる人それぞれに、運命の重荷やあり得たかもしれない人生を背負わせる必要はない。たとえコップ一杯の水でも、それを求めることで動きが生まれる。

あるいは、『キャラクター小説の作り方』で知った、物語の原則を思い出す。この本によると、あらゆる物語には原理原則があり、それは、「主人公は何かが『欠け』ていてそれを『回復』しようという『目的』を持っている」になる。主人公が満ち足りてて、何も求めるものが無かったら、そもそも物語が始まらないからね。

しかし、「求めるもの」って何だろう? 大丈夫、本書には膨大なリストがある。「金」や「セックス」、「正義」といった分かりやすいものから、「記憶の再生」「アイデンティティ」「孤独」など、それだけで面白い物語になりそうなものまで、大量に並んでいる。

キャラクターは道具箱のようなものだから、沢山用意しておけという。ポピュラーソングは求めるものの宝庫だし、テオプラストス『人さまざま』には典型的なリストが網羅されているという。

ヒーローズジャーニー

本書の目玉の一つが、ヒーローズジャーニーだ。

慣れ親しんだ日常から離れ、冒険へ召喚される。賢者のアドバイスに従い、試練を乗り越え境界を超越し、力の源泉を得て、再び日常へと戻ってゆく。賜物を手にした後は、対決/チェイス/バトルがある。

メドゥーサの首級を持つペルセウスから、冥界に降りるイザナギ、フォースを使うルーク・スカイウォーカーなど、地域や時代によって異なるが、伝承で示される英雄像は、驚くほど似通っている。

本書では、『千の顔をもつ英雄』を俎上に、このヒーローズジャーニーを徹底的にしゃぶりつくす。この円環構造こそが、面白い物語の法則になるとして、ヒーローズジャーニーを12のパターンに分け、様々な映画への応用例と共に紹介する。

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重要なのは、アイテムやキャラや世界ではなく、この構造そのものだという。魔法の剣を手に入れる英雄、洞窟に潜むドラゴンとの戦いなどは、単なる象徴なのだ。

たとえば、年老いた賢者は、面倒見のいい上司やセラピストにしてもいいし、現代のヒーローは洞窟ではなく、宇宙や海底、自分自身の心を探索してもいい。自分の書く物語に合わせていくらでも差し替えることができる。

さらに、特定のキャラに機能を固定させる必要すらないとまで言う。賢者、ライバル、助言者は、キャラクターたちが交代で身につけてもいいという。人の根源的な感情を掻き立てる役目を果たしてくれれば、同じキャラが演じ分けるようにしてもいいのだ。

プロップの物語カタログ

本書のもう一つの目玉がこれ。ウラジミール・プロップの「物語のカタログ」だ。

誰でも直感的に理解できるお昔話・伽話を体系的に捉え、共通する機能や構造を30あまりに分類したのが、プロップだ。個々の機能から、物語の普遍的手法を読み取ることができる。

「主人公にあることを禁じるが、禁が破られてしまい、痛手を負う」とか、「難題を課された主人公が、見事に解き明かし、資格を得る」なんて、どこかで聞いたことがあるだろう。時代や場所を問わず、物語の原型が紹介されている。

 1. 家族の一人が家を留守にする
 2. 主人公にあることを禁じる
 3. 禁が破られる
 4. 敵が探りをいれる
 ……

『面白い物語の法則』が優れているのは、前述のヒーローズジャーニーの12パターンと、プロップの物語のカタログとを照らし合わせ、物語に共通する「機能」を炙り出す点にある。

極端なことを言うと、このカタログから適当にピックアップして組み合わせるだけで、誰にでも伝わる物語の骨格が出来てしまうのだ。順列組み合わせならコンピュータの得意とするところ。「それっぽい」お話なら、AI に書けてしまうだろう。

本書では、さらにプロップの応用を解説する。プロップは、登場人物の行動、すなわち「動詞」に着目する。動詞は行動を呼ぶ。強くて機能的な動詞は、そのまま良いシナリオにつながる。キャラクターを表現する動詞を吟味することで、そのキャラを定義しやすくなるという。

テーマを構造的に隠す仕掛け=環境的事実

私が一番学んだのは、環境的事実というやつ。ストーリーから手がかりを読み取り、結論を引き出す方法だ。自分の脚本について、それぞれの環境的事実を短文で書けという。6パターンある。

 ・日付
 ・場所
 ・社会的環境
 ・宗教的環境
 ・政治的環境
 ・経済的環境

例えば「日付」。

よりによって、なぜ「その日」を描いた脚本なのかを考える。サメが大海を泳ぐだけでは何も起きないが、独立記念日に海沿いの街を襲ってくるとなると話が違ってくる。植物採集にやってきた異星人と「その日」に出会わなければ、エリオット少年の人生は平凡なままだっただろう。

普段とは違うある特定の日に、たまたまそこにいたせいで、がらりと人生が変わってしまう。これを自覚するために、自分の脚本が「その日」をどう位置付けているかを、できるだけ沢山の短文で表現せよという。

そうすることで、なぜ「その日」にしたのかを考え抜くことになる。そして、「その日」をどのように描けば面白くなるかを、自分自身に問いかけることになる。独立記念日はアメリカ人にとって特別な日だ。しかも、海水浴客でにぎわう日でもある。だから海開きを強行する他なかったという確執が生まれる。確執は物語を面白くする。

他にも、それぞれの観点から「なぜその場所か」「なぜその社会か」を考える。すると、「その場所」「その社会」ならではの理由が見えてくる。そして、その理由をテーマやログラインと結びつけることで、物語の中にテーマを隠すことができる(本書では、手がかりを脚本に埋め込むことで、構造を三次元化せよと説いている)。

物語作家のバイブル

面白い物語に共通する法則を理解し、身につけ、実現する方法が、大量の映画の紹介とともに解説されている。

ひょっとすると、これは手品のネタばらしのように見えるかもしれない。いや、それは大丈夫。本書を理解するほど、自分がどのように夢中になっているか、なぜそんなに面白いのかを、より深く知ることができるから。

そう、本書は、物語を書く人だけでなく、物語を楽しむ人にも役に立つ。

これ読みながら、アマプラの『SUIT/スーツ』を観ているのだが、本当に教科書通りに作ってある。

面白いかって?

もちろん! ニューヨークの法律事務所を舞台にした痛快なドラマなのだが、本書のおかげで一層楽しめるようになった。

なんとなく感じてた面白さの味が、ハッキリと自覚できるようになったから。セリフ回しやBGMに潜んでいるテーマに気づきやすくなっただけでなく、立ち位置やカメラアングルにまで、ログラインが徹底されていることが容易く分かるようになった。

それは、プロの料理を食べる前に、そのレシピを読むことで、料理の表現や奥行きが理解しやすくなるようなもの。

物語やシナリオ、ネームを書く人のみならず、出来上がった映画やドラマ、小説作品を味わう人にとっても役立つバイブルになる。

一点ご注意を。本書は『物語の法則 強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術』の新書版で中身は同じになる。

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歴史認識をアップデートする『世界史の考え方』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年4月30日】


歴史を学ぶ意義について、物理学の教授と話したことがある。

  • 歴史とは、過去を扱う学問だ
  • 過去は既に確定しており、覆ることはない
  • 新たな史料が発見され、史実が変わることは滅多にない

だから、歴史を学ぶことは、昔の出来事を覚える作業になる。過去は確定しているから、教科書はほとんど変わらない―――そう教授は断言した。

「過去は変えられない、確定した出来事だ」という一言は妙に刺さり、なるほどなぁと納得したことを覚えている。

しかし、世界史を学びなおし、最近の教科書を読み直してみると、これは誤っていることが分かった。「過去は変えられない」は正しいが、「過去に対する認識」は変化するからだ。

現代は「平和な時代」か?

例えば、次の文を読んでみよう。

長い歳月のあいだに人間の暴力は減少し、今日、私たちは人類史上、最も平和な時代に暮らしている

スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』の主張で、かつては、頷いた方もいたかもしれない。だが、今は違う。緊迫したウクライナ情勢の報道に接し、認識が大きく変わっている。

以前は、当たり前に感じていたものに、違和感を覚える。過去は変わらない。だからこそ、認識の変化に自覚的になるために、世界史をアップデートすることは有効だ。

この認識の変化を歴史の本を使って実践したのが、『世界史の考え方』だ。

まず、歴史学の古典を挙げ、かつては常識とされていた考え方を紹介する。次に、その主張に疑義を呈し、ひっくり返すような書籍をぶつける。いわば、「歴史の歴史」を語ろうとする。

その中で、前提として常識だと思い込んでいたことが、相対化され、乗り越えられてゆく。古い思考に囚われていたことに気づかされ、文字通り、蒙が開かれる思いだ。

植民地主義は「ジェノサイド」か?

例えば、植民地主義の「罪」を問う動き。

第二次世界大戦後の世界秩序は、植民地主義の責任追及を回避することで成り立ってきた。そこへ援用されたのが、「人道に対する罪」になる。植民地における先住民の排除や、そこで行われてきた戦争を問う罪になる。

この「人道に対する罪」は、元はと言えば、ニュルンベルク裁判の際に、従来の戦争犯罪では捉えきれないナチスの犯罪を裁くために導入された概念である。罪刑法定主義という法の常識を超えて、事後的に作り出された、新しい「罪」の概念となる。

「ジェノサイド」の概念も同様だ。特定の集団の抹殺を目指した組織的な行動で、ナチスによるユダヤ人迫害を性格づけるために作り出された。

現代では、「人道に対する罪」も「ジェノサイド」も、当たり前の概念として扱っている。だが、これらは後から発明された「罪」であり、歴史をさかのぼってその罪を問い、償わせるために行使されてきた。

であるならば、その「罪」は、植民地における破壊行為にも適用できるのではないか、という考えも出てくる。もともとそこに住んでいた人々を排除し、収奪し、抹殺してきたことは、ジェノサイドであり、人道に対する罪ではないか、という考え方だ。

つまり、直接的な虐殺や物理的破壊だけではなく、土地の収奪は経済的ジェノサイドであり、先住民を隔離したり同化することは文化的ジェノサイドになる。程度の差こそあれ、「近代化」する上で必然の産物であることが炙り出されてくる。

そうしたことへの責任を問い、償いを求める動きが、アフリカや南北アメリカやアフリカ系の中から沸き上がっている。過去そのものではなく、過去に対する認識が変化した例と言えるだろう。

欧米は歴史の「先頭」なのか?

あるいは、欧米中心主義。

欧米を特別なものとし、他を劣位とみなす考え方だ。イギリス、フランス、アメリカが歴史発展のモデルを作り、後発の国はそれを追いかける、という構造になる。

私は、「先進国」「発展途上」という言葉を当たり前のように使う。もとは工業化や経済的発展の進み具合を示す用語だ。だが、あたかも国の発展が、ただ一つの方向に従っており、欧米が最も進んでいるかのように考えてしまっている。

この欧米中心主義は、歴史学に根を下ろしている。短冊状に国ごとの歴史を並べて、政治と経済の革命を順調に進めた国のパターン、遅れている国のパターンを比較するといった方法が流行していた。欧米的な普遍性から、どれくらい逸脱しているかによって、その地位を割り当てる考え方だ。

これに異を唱えるのは、川北稔『砂糖の世界史』。砂糖、茶、コーヒー、チョコレートといった「世界商品」を手がかりに世界史を読み解き、世界のつながりを説明する。

17世紀、カリブ海の島々のプランテーションによって砂糖きびが栽培され、ヨーロッパ諸国がその砂糖を消費していた。アフリカ(奴隷)、アメリカ(生産)、ヨーロッパ(消費)の三角貿易と結びついた非対称の関係は、現代のカリブ海の人々を「発展途上」に留めているという。

ウォーラーステインの世界システム論を援用しながら、世界商品の生産と消費の関係には、支配と従属の関係が入り込んでいる構造を解析する。資本集約的で先端技術を持つ「中心」と、労働集約的で時代遅れの「周辺」のグローバルな分業体制だ。

では、これは確定した過去なのか? いまの支配-被支配の構造は既に出来上がっており、欧米の覇権を印象付ける歴史叙述に過ぎないのか?

『世界史の考え方』では、この視点をさらに乗り越える。

世界の諸地域を、「支配する側」と「支配される側」に構造化していったのが資本主義の歴史と見て、その世界システムが、現代の格差問題につながっている見方を提示する。この考えには、かなりの人が頷くだろう。

すると、この議論の最初に掲げた「欧米は歴史の『先頭』なのか?」の設問そのものがおかしいことに気づくかもしれない。先頭、後続といった発展段階で一元化するのではなく、そこに住む人々の多様性が浮かび上がるような参照軸で考える必要が出てくる。

欧米を先端モデルとするのではなく、別の考え方で捉えなおせるようになる。過去は確かに変わらないかもしれないが、歴史認識を変えることによって、現在を見通しよくできるようになる。

中国は「自由」か?

例えば、「自由」について。

欧米と対比すると、中国には自由が無いように見える。国家の専制的な性格や束縛が強調され、自由市場とは程遠いと見なしていた。

本書では、清朝の社会政策を取り上げながら、中国の「自由」について興味深い視点を提示する。18世紀の清朝の時代は、自由放任で競争の激しい社会だったという。だが、本当に何もしない政府かというと、そうではなかった。

例えば、各地に穀物貯蔵庫を造っておき、食糧不足の問題が生じると、穀物を分配したり、価格調整を行ったりしている。同時代のヨーロッパと比べて、はるかに大規模なセーフティーネットを構築している。

ただし、介入の仕方に特色があった。国家が市場に入っていって、大規模に穀物を買い付ける。一種の特権的プレーヤーとして、直接介入するやり方になる。これは、ヨーロッパ諸国家と大きく異なる。

ヨーロッパの国家は、法制度を整備して、民間で競争するためのインフラ、いわば競技場を作り、その中で自由に競争させる。国家自らは民間と競争せず、競技場の秩序の維持者として振舞おうとする。

この対比は、現代でも見ることができる。現代の中国でも激しい市場的競争が行われている(テクノロジーや金融市場が顕著だ)。そこに「自由な」民間経済の活力を感じることができる。

だが、それを支えるのは、ジョン・ロックが唱えた不可侵の権利や、所有権に基づく経済的な自由とは異なった「自由」だ。国家が介入する余地は、大きく開かれている。同じ「自由」という言葉でも、それを支える歴史認識が異なっていることが分かる。

欧米の自由をモデルにして、それとは異なるから「遅れて」いるわけではない。中国には別の「自由」があると考えると、これはこれで興味深い。

ただし、反対に、欧米と比べて中国の「自由」が優れているというわけでもない。清朝のセーフティーネットが可能だったのは、財政的に豊かな時期だけであり、財政難になると放任せざるを得なくなったことは、歴史が物語っている。

財政難や国際ルールの圧力により、「いちプレイヤーとしての振る舞い」をかなぐり捨て、ルールを変えたり、市場を閉鎖する未来は、ありうる。それは、中国に自由が無いからというよりも、むしろ、中国の「自由」を支える基盤に、所有権の概念が存在しないから―――と理解すると、腑に落ちる。

高校科目「歴史総合」を実践する

私が、所与のものとして扱っていた考え方は、実は確定していた過去ではなく、それをどう見なすか―――歴史認識によって支えられていることが分かる。

本書は、小川幸司と成田龍一、さらにゲストを加えた鼎談形式になっている。どのテーマ、どのトピックでも、私が当たり前に感じていた考えに揺さぶりをかけてくる。「100%正しい」歴史認識なんて存在しない。だからこそ、対話を重ねながら、歴史認識を共有していくことが重要になる。

  • アメリカ合衆国の成長は、人種・民族に基づく「選び捨て」による移民の選別と、黒人を搾取可能な「自由労働者」することで、労働力創出に成功したことによる
  • パレスチナにおける非対称の紛争は、戦争ではなくテロとして扱われることによって、歴史教育から不可視化されている
  • ヘーゲルやマルクスが定式化した「国民国家を主体とした認識の枠組み」は、歴史学の前提として機能しており、移民の影響を捉えにくくしている

本書は、世界史と日本史を一体化した高校の必修科目「歴史総合」を学ぶ実践そのものとなる。読者は、歴史像の形成過程を学び、問いや対話に基づきながら、歴史認識をアップデートしていくことになる。

 

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「面白い!」と感じるとき脳で何が起きているのか『ストーリーテリングの科学』

「人はなぜ物語を求めるのか」という問いは、しばしば「なぜ映画や小説やマンガが求められるのか」と言い換えられる。

そして、その答えもだいたい決まっている。「都合よくいかない現実の辛さをまぎらわすため」とか「予定調和の世界に癒されるため」なんて語られる。

だが、この本はその前提ごとひっくり返す。

物語は娯楽でもないし、逃避でもない。

むしろ逆で、「物語が無ければ、人は現実を理解することすらできない」と言い切る。さらには、「人を人たらしめているのは物語だ」とまで踏み込む。

大胆だけど、荒唐無稽なものではない。というのも、本書は、映画や小説のワンシーンを膨大に引きながら、脳科学の研究成果と接続し、この主張に理論的な足場を与えていく。

変化を検知するための認知システム

まず、人の認知そのものが、限定されたものだという。

例えば、眼によって認識できるものは、光のスペクトルの10兆分の1にも満たない。現実世界に色は無いが、人が見ている「色」は眼球内の錐体のブレンド結果だという。

「痛み」や「音」など、人が現実だと思っているものは、生き延びるために仕込まれた知覚の範囲の電気パルスに過ぎないという。

確かに、私が見ている海の色は、他の人にどう見えているか分からない。

熟した果実を見分けるため「色」を判別できるようになったと言われているが、人よりも錐体の多い鳥やシャコには、もっと”カラフル”に見えているかもしれぬ。錯覚やバイアスの実験結果を見せられると、人の認知はあてにならないことが分かる。

限定された現実の中で、知覚は変化の検知に敏感だという。

人の知覚システムは、基本的に検知すべき「変化」が無い限り機能しない。しかし、ひとたび変化を検知すると、その事象はすぐさま神経活動の急増として認識されるというのだ。草原のパターンから捕食者よりも先に認知してきた結果だとすれば、分かりやすい。

物語=感情の変化

そして、物語とは、変化の検知を体現したものだと言える。

その例として、大規模テキスト分析による研究では、物語とは感情の上下パターンだとする研究がある(※1)。

プロジェクト・グーテンベルクで公開されている1,700作品を元にした研究だ。物語は「出来事」ではなく「感情の変化」として捉え、時間軸に沿った感情の上昇・下降としてパターン化すると、6つの型に収束すると述べている。

この「感情」は、単語ごとに付与された幸福度(happiness score)を文章単位に平均化することで、物語の感情の流れを数値化している。例えば、happy や love だとポジティブ、pain とか death だとネガティブとして判別し、読み手が受け取る「テキストの感情の雰囲気」をスコア化するのだ。

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The emotional arcs of stories are dominated by six basic shapes ,Figure4より

つまり、「何が起きたか」ではなく「読み手がどういうトーンの感情を受けているか」を見えるようにすると、成功譚、悲劇、逆転劇、成長譚など、6つのパターンに収束する。

もちろん、「何も起きない物語」もある。カフカの『城』やベケットの『ゴドーを待ちながら』など、出来事はあるが、意味を蓄積させないような作品だ(ただし、そういうものは「不条理劇」としてレッテルが貼られる)。めちゃくちゃ身に詰まされるが、【物語としては】異端扱いなのだろう。

「変化」を仕込む

では、人の認知システムに対し、物語はどのように「変化」を与えるのか? 

簡単なやつだと、どん底の主人公が立身出世したり、幸福の絶頂のキャラクターが堕落するプロットにすればいい。

だが、優れた物語は、こうしたストーリーラインに加え、もっと巧妙に仕込む。本書では、様々な例が紹介されている。例えば、『ハリー・ポッターと賢者の石』の冒頭だ。

プリベット通り四番地の住人ダーズリー夫妻は、「おかげさまで、私どもはどこからみてもまともな人間です」と言うのが自慢だった。
(J・K・ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』)

青文字にしたのは私。読み慣れた人なら、ここで引っ掛かるかもしれない。「どこから見てもまとも」じゃなくなる展開が飛びこんでくることを予感する(実際そうなるのだが)。

ジェイン・オースティンも上手にこの仕込みを行っている。

エマ・ウッドハウスは、美人で、頭が良くて、お金持ちで、明るい性格と温かい家庭にも恵まれ、この世の幸せを一身に集めたような女性だった。もうすぐ二十一歳になるが、人生の悲しみや苦しみをほとんど知らずに生きてきた。
(ジェイン・オースティン『エマ』)

賢明な読者なら、エマが巻き込まれる運命が、あんまり良いものではないと察知するに違いない。「人生の悲しみや苦しみ」をどんな風に味わうのだろうかという期待を抱かせることに成功している。

好奇心は、「欠けている」から生じる

そして、「どこから見てもまとも」じゃなくなったり、「人生の悲しみや苦しみ」を味わうことになると、人の変化を察知する認知システムが起動する。何が起きているのか、なぜ起きているのかが気になりだす。

これに対し、ローウェンスタインの「好奇心の心理学」の論文にて、情報ギャップ理論が紹介されている。「どのくらい知らない状態だと、最も知りたくなるか」というテーマで行われた一連の実験を元に、人間の好奇心を定義している。

人は、知らないことに気づくと、知的欠乏による不快感を感じる。それを解消するために情報を求めようとする。このとき、完全に未知のものではなく、「少しだけ知っている」対象に最も強く欲望が生じるという。

面白いのは、好奇心は何か楽しいもの「ではない」、としている点だ。好奇心とは一種の緊張状態であり、追加情報によって一時的に満たされるものの、次の情報や他の対象を求めるようになる。

そして、好奇心を誘発させる4つの方法を紹介している。

  1. 疑問や謎を提示する
  2. 解決策は予想できるが判明していない一連の事象に触れさせる
  3. 見込みがはずれ、説明を求めたいという気持ちを触発する
  4. 「他の誰かが情報を持っている」ことを知らせる

これ、ミステリや推理小説の定番パターンと一緒になる。ミステリの作法として「まず死体を転がせ」と言われる。いきなり「変化」を叩き込むことで、読み手の認知システムを強制的に作動させる。

すると、「何が起きたのか」「なぜ起きたのか」「誰がやったのか」といった情報ギャップが一気に生まれる。そんな疑問に少しずつ答えながら引っ張っていき、答えのいくつかを途中で裏切り、誰か(犯人や探偵や目撃者)を示唆する。

面白い物語の王道パターンが、認知科学の論文に出てくるのは不思議ではない。王道パターンとは、結局のところ、人の認知システムの脆弱性を衝くよう、長い年月を経て練られてきたのだから。

物語は、世界を分かりやすくする。

混沌とした現実に因果関係を与え、善悪で判断できるようにし、意味を与える。私たちはそれによって安心するし、納得するし、ときには救われる。

だが、その「分かりやすさ」は、どこから来ているのか。

変化に敏感な認知システムに、感情の上下を与え、情報ギャップを仕込み、都合よく因果をつなぎ合わせる。これって、私たちが物語を理解しているというよりも、物語によって現実の理解の仕方を適応させられているといえるのではないか、と思えてくる。

「面白い!」と感じるとき、何が起きているのか。

それは、世界を理解しているのではなく、世界を単純化された「物語」に変換してしまう、認知システムが作動している瞬間なのかもしれぬ。

※1 “The emotional arcs of stories are dominated by six basic shapes”,
Andrew J. Reagan, Lewis Mitchell, Dilan Kiley, Christopher M.Danforth & Peter Sheridan Dodds, EPJ Data Science 5, 4 November 2016, Article number: 31.  [URL]

※2 "The Psychology of Curiosity”', George Lowenstein, Psychological Bulletin 116(1), 1994, pp. 75-98. [URL]

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エロと美のあいだ『ヌー道』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年5月8日】


みんながマスクをしてるから、人間の口がだんだん猥褻なものに見えてくる。

もちろん、私の性癖が常軌を逸していることは自覚してる(例:釘宮病)。

だが、「秘すれば花」と世阿弥が言う通り、隠されているという意識にエロスが発生することを止められぬ。

というのも、久しぶりに出社したとき、マスクをちょっとずらして、コーヒーを飲む同僚(女性)を目にしたから。そのとき、プライベートな場所を目撃したかのように感じたから。

私が異常なのか?

イエス。

だが、私だけなのか?

などと悶々としていたら、みうらじゅん&辛酸なめ子の対談に出会えた。同じことを考えてるみたいで、「マスクは口にはく下着」「尊さとエロは同じ」など、さらに発展させており、学ぶところが大きい。

タイトルは『ヌー道』、nudeと道をかけている。ハダカの芸術も、究めればそれは道になる。ロダン、ルノワール、裸の/着衣のマハ、グラビア誌などを俎上に、古今東西の裸談義を繰り広げる。

お二人の話を聞いていると、芸術だから無罪だったものが、時代の変化に曝されたり、当時はスルーされていたのに、今では惹起させるものになったことが見えてくる。

エロは変わる

典型的なのは、言葉だろう。かつて「猥褻(わいせつ、漢語)」と呼ばれたものは「エロ(Erōs、ギリシャ語)」になり、今じゃ「エッチ(HENTAI、日本語)」なものになっている。ポイントは、この3つの言葉は同一のものを指していない点にある。微妙に重なり合いながらもズレが生じており、さらにそのズレは動いている。

例えば、「抱かれたい男ランキング」だ。

雑誌やテレビなどでアンケート調査して、抱かれたい芸能人を格付けする。この「男」を「女」にした「抱きたい女ランキング」は今では完全にセクハラだが、なぜ「抱かれたい男」の方は許容されているのか。

この疑問への応答が面白い。

みうら:(世の男性は)悔しくは思うんでしょうが、それが励みにもなるからじゃないですかね。ま、妄想の中の「抱きたい、抱かれたい」をどこまで容認するかってことですよね。

辛酸:誰かを傷つけたり、犯罪になってしまったら問題ですが。そうでなければという風にも。

そのうち、「抱かれたい男ランキング」も程なく消えていくように思える、表からは。あるいは、「抱かれたい」を「癒されたい」にするなど表現を変えて生き延びるかもしれぬ。

さらに、「エロスクラップ」には度肝を抜かれた。

みうらじゅんは、雑誌のグラビアや写真集のページを切り貼りしているのだが、40年間欠かさず続けており、その量も膨大なものになる。これだ。

Nudou

「みうらじゅんフェス:エロスクラップ」より

450巻を超えるというエロスクラップをカラーコピーして、横浜スタジアムの床一面に並べるとこうなる(コピー機が2台壊れたそうだ)。

単純に、「この娘いいなあ」と残しておくだけでなく、どういうレイアウトにすると、より「映える」とか、ストーリーになるような相手や場面、組み合わせを考えながら貼る。自分の性癖にトコトンつきあう熱量に脱帽する。

最初は自分のために始めたのだけれど、友人から「貸して欲しい」と頼まれるようになってから、編集者としての意識が芽生え、エンターテイメント性をも追求するようになる。まさにヌー道(どう)なり。

これ、風俗の史料になるのでは……と思えてくる。

もちろん、いち個人の性癖フルスロットルの集大成なのだが、そこに残されている画像は、その時代を切り取ったものになる。シチュエーション、ヘアスタイル、ポーズ、アングル、身につけているものと肌面積、露出、キャプションといった要素のデータベースともいえる。

未来のヌー道

ダヴィデの包茎からマハの乳輪の色づき、観音菩薩が微乳である理由など、エロとアートの共犯関係を見ていくと、未来のヌー道を考えたくなる。

その際、本書に加えて『官能美術史』を取り上げたい [レビュー]

西洋美術における性愛の歴史に焦点をあてた名著だ。西洋の中で「愛」がどのように定義され、変化していったか、さらに美術史におけるヌードと身体意識の変遷を知ることができる。

レンブラントの冷たい裸体や、中性的なダヴィデ像の中で、ひときわ目立つのが、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた男女の輪切り図になる。表面を覆っているものを取り去るだけでなく、その奥にあるものを視覚化している。

タブーであるハダカは、世界じゅうにまみれている。具が見たいのなら、クリック一つで済む。そんな世界で、あえてハダカを見るのか?

なんて考えると、見たいのは、裸体なのではなく、覆われているものなのではないか、と思えてくる。マスクで隠された口唇のように、見えないからこそ、見たくなる。この追求は、ダ・ヴィンチの「性交断面図[リンク先注意]」を始めとし、現代のエロマンガでも脈々と息づいている。

その未来は、スタニスワフ・レム『虚数』にある[レビュー]。これは、実在しない本の序文集なのだが、未来のポルノグラフィーとして、セックスする人々のレントゲン写真集が紹介されている。衣服を脱がせたポルノと、肉を剥がしたレントゲンが合わさったポルノグラムと呼ぶらしい。

隠すほど、見たくなる。

世阿弥の「秘すれば花」の意味は、「花を隠しなさい」ではなく、「隠してあるからこそ花になる」になる。秘密にしなければ、花にはならないのだ。

ずっと見たくて仕方なくって、長い間追い求めていたものを、ようやく直に「見」たときの感動と達成感は、ハンパなものではなかったはずだ。

自分は何が見たいのか、現代は何が隠されているのかを考え直し、己の性癖と向き合うのにうってつけなのが、『ヌー道』だ。

健闘を祈る。

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「おいしい」を伝える技術『おいしい味の表現術』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年5月14日】


「おいしい」としか言えないのがくやしい。

食べたときの、その「おいしさ」をどう伝えるか?

  • ふわとろ
  • 肉汁がジューシー
  • コクがあるのにキレがある

陳腐すぎて、何のコマーシャルだよ? とツッコミたくなる。

私のアタマが染まってしまっているのだろう。宣伝に洗脳されすぎて、自分が感じたことを言葉にする代わりに、グルメ番組の定番セリフをあてはめるだけのような気がしてくる(肉料理ならジューシー、麺類ならコクとか)。

それはクリシェ、常套句みたいなものなんだから、あまり考えず、手垢にまみれた言葉を使えばいいんだよ、という声も聞こえてきそうだ。あるいは、「筆舌に尽くしがたい」に逃げるとか。

だが、くやしいのだ。

「おいしい!」と感動したのなら、その感動をなんとかして伝えたい。具体的に想像できるような言葉で、同じ感覚を追体験できるような表現で伝えたい。

そんな人にとって、福音となる一冊が、『おいしい味の表現術』だ。

「おいしい」を体系化する

「おいしい」に関わる膨大なデータを分析して、その表現を体系化している。味覚や食感といった感覚的な側面だけでなく、食材や調理プロセスなど、「おいしさの情報」も含めて掘り下げる。

例えば、「おいしい」を表現する言葉は、こんな風に体系化される。

  1. 味評価:うまい、ヤバい、舌鼓を打つ、甘露、ほっぺたが落ちる
  2. 味覚:甘、酸、塩、苦、旨、辛、渋
  3. 共感覚:視覚(こんがりキツネ色)、嗅覚(こうばしい、芳醇)、聴覚(じゅうじゅう)、触覚(コリコリ、アツアツ)
  4. 味まわり:揚げたて、炭火焼き、三ツ星レストランの味、国産小麦100%の手打ち

食をめぐるエッセイや小説、マンガを例に、たくさんの表現技法が紹介されているが、特に参考になるのが、「共感覚」と「味まわり」だ。

まず、ジュージューといった音で期待値を上げ、たちのぼる香ばしさと温かさを顔面で感じ、こんがりついた焼き目を目で味わう。箸で崩せる柔らかさに感動しながら一口をほおばる。旨味を舌で受け止めるだけでなく、歯ぐきや口蓋でテクスチャ―を感じとる。

そして、噛むとともに変化する味わいと食感を惜しみながら、香りが鼻へ抜ける広がりに自然と笑顔になり、喉ごしを堪能する。さらに、素材やスパイス、調理プロセスを知り、「情報を食べる」ことで、より深く味を理解することができる。

以上、「おいしい」という言葉を使わずに書いてみた。これに、味のメタファー(広がる、閉じ込める、駆け抜ける、奥行きがある)を交えると、膨大な組み合わせになる。食べる場所の雰囲気や、合わせる飲み物との相乗効果も考えると、「おいしい」は好きなだけ再生産できそうだ(文章生成は、AI と相性がよさそうな気がする)。

「おいしい」をマンガで伝える

なるほどなぁ、と唸ったのは、マンガにおける「おいしさ」の表現方法について。

文章もそうなのだが、マンガは味もしないし、香りもない。でも確かに、マンガを読んで「おいしそう!」と思ったり、その味を想像することができる。

本書では、マンガの表現技法は3つに分類できるとする。

  1. 説明ゼリフ
  2. モノローグ
  3. 心象風景

説明ゼリフは、会話(フキダシ)の中で、おいしさを伝える方法になる。実際に食べたり飲んだりしながら、感じたものを説明する。代表例が『美味しんぼ』で、数多くのグルメ漫画で踏襲されている。オーソドックスな手法ながら、どうしても解説チックになってしまい、情報量が多く、わざとらしく不自然なセリフになる傾向があるという。

これを改良したのが、モノローグになる。マンガ手法だと、白枠の中で表現したり、フキダシを雲状にすることで、「心の中」を伝える。『孤独のグルメ』や『ワカコ酒』のように、ひとりで食べる/呑む設定に見られ、食べた感想を、思考の形で伝えることができる。

説明であれ、モノローグであれ、どちらの場合も、言葉=文字で「おいしさ」を伝えるしかない。この限界を、マンガならではの手法で打ち破るのが、心象風景だ。

料理そのものではなく、それを感じ取った内面を比喩的な絵で表現する。極上のワインを飲んだ瞬間、森の奥に古城が見えたり、おいしさが全身を駆け巡るあまり、全裸になったりするあれだ。『神の雫』や『食戟のソーマ』が思い浮かぶ。読者の視覚そのものに訴えることができる。

実際のところ、料理をテーマにした漫画は、これらの組み合わせで「おいしい」が表現されている。第5章「マンガな味」を読むと、グルメ漫画がよりいっそう「おいしく」感じるだろう。

他にも、おいしさにまつわる様々なテーマについて掘り下げている。どれも、それだけで一冊の本になりそうなほどの濃厚で味わい深いネタばかりだ。

  • よく使う割によく分かっていない「コク」と「キレ」の正体は、どんな味なのか
  • 男は「うまい」、女は「おいしい」といったジェンダー差異はあるか
  • 生ビール、生チョコレート、生醤油、生味噌などの「生」をめぐる表現

各章の末尾には大量の参考文献が紹介されており、それらを押さえるだけでも、おいしそうなグルメレポートが出来上がることを請け合う。

特に、「『おいしい』を感じる言葉Sizzle Word」レポートと、『おいしさの表現辞典』は有用だろう。AI に学習させて、画像からレポートを出力させるようにすれば、食べずに「おいしさ」を伝えることができる(本末転倒だが)。

最後に注意する点を一つ。

カレーについての第6章と、ラーメンについての第7章だ。1章を丸々使って、おいしさの表現技法を徹底的に解説する。普通、「飯テロ」は画像だが、これは読む「飯テロ」である。くれぐれも、深夜に開かぬよう、忠告する。




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「美しさ」のサイエンス『美の起源』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2020年8月2日】


問題:世界で最も美しい数式は、式の①と②のいずれか?

Binokigen

多くの方が、直感で式①を選ぶだろう。正解だ。

式①の[オイラーの等式]が、世界で一番美しいとされる。ちなみに、式②の[ラマヌジャンの無限級数]は、最も醜いとされる数式だという。

最も美しい数式を探す実験は、認知科学者のセミール・ゼキが行った。

まずゼキは、fMRI装置を用いて、美しいと感じている人の脳の活性化している部位を特定した。美しい絵画を鑑賞する人の脳のうち、眼窩前頭皮質が活性化するという(*1) 。眼窩前頭皮質は、ちょうど眼球のソケットにあたる箇所に接している部分になる。

次にゼキは、数学者の協力を得て、多くの数式の中から、最も美しいと感じるものを選んでもらい、そのときの眼窩前頭皮質の状態を測定した。予想通り、美しい数式を見るとき、この部分の活性化が認められたという(*2)。数学的な美しさは、シンプルさなのかと考えると、興味深い。

問題:次の①と②のうち、どちらが美しいと評価されるか。



Landscape1



Landscape2

これも、分かりやすい。①を答える人が多いだろう。

しかし、なぜ①を選ぶのか?

その理由は、デニス・ダットンが解き明かしている。ダットンは、普遍文法や普遍道徳と同じように、「普遍美」があると仮定し、それは国や民族、地域や文化に関係なく、好ましいとされるものだと考えた。

そして、1993年、ケニアからアイスランドまで10か国におよぶ調査を行い、どの風景が好ましいか、そして好ましいとされる特徴を突き止めた(*3)

  1. 広い空間に丈の低い草と、藪や密生した木がある
  2. 近くに水がある
  3. 鳥や動物がいる
  4. 植物が多様である

これは、ヒトが好む原風景は、アフリカのサバンナに似ているところから、「サバンナ仮説」と呼ばれる。ダットンは、この嗜好を、ヒトが進化の過程で獲得した可能性が高いと主張する。

つまりこうだ。開けた空間なら、敵や獲物を発見しやすい一方で、丈の低い草で身を隠すことができる。水があり動植物が豊富だということは、それだけ食べ物にアクセスしやすいことになる。ダットンは、この特徴は風景画のみならず、公園やゴルフコースにも適用されているという。

特定の景観を好ましく感じる美的判断の起源は、ヒト科の狩猟採集者の生存可能性を高める場所にあるのかもしれぬ。この観点からヒト共通の美しい色を探すなら、それは水の青か植物の緑になるだろうね。

しかし、緑や水を好む傾向があるからといって、それで美を全て説明できるのは疑わしい。確かに、緑豊かな公園は好ましいし、美しいと感じる。

しかし、その一方で、枯山水は水を使わず、石や砂で表現される。水墨画や山岳風景画で描かれる自然は、サバンナの景観とは程遠い。こうした美的価値観は、適応の結果ではなく、歴史や文化の洗練を経て、変わっていったのかもしれぬ。

美とは何か?

哲学者や芸術家、科学者たちが答えようとしてきた疑問に対し、進化から考えるのが、渡辺茂著『美の起源 アートの行動生物学』だ。

ヒトの美意識の基礎には進化的な基盤があるとし、その美意識を行動生物学の視点から解き明かそうとする。

本書がユニークなのは、上述の数学的な美や適応としての景観美に加え、動物と人間との比較によって、ヒトの美の特殊性に光を当てているところだ。ハトにバッハを聴かせたり、マウスにピカソを見せたりする。

そもそも美は測定できるのか? ヒトが美しいと感じるものは、動物も区別がつくのか? 動物は芸術を楽しめるのか? そして、種を超えた美というものが存在するのか? など、興味深い研究の現状を垣間見ることができる。

*1: Ishizu.T,Zeki.S(2011) Toward a brain-based theory of beauty. PLoSONE,6: e21852

*2: Zeki.S, Romaya,J.P., Benincasa, D.M.T., Atiyah, M.F.(2014) The experience of mathmatical beauty and its neural correlates. Front Hum Neurosci, 8:68.

*3: Dutton.D(2009) The Art Instinct: Beauty, Pleasure and Human Evolution Bloomsbury.

画像① https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Frederic_Edwin_Church_-_West_Rock,_New_Haven.jpg

画像② https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Desert_in_Umm_al-Quwain_20060531.jpg

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美は進化の産物か

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2020年12月6日】


問題1:この女性、左と右、どちらが魅力的見えるだろうか。

Limbalring1

問題2:この男性、左と右、どちらが魅力的に見えるだろうか。

Limbalring2

注意が必要なのは、この画像が小さいこと(わたしは小さい画像で見てしまい、ピンとこなかった)。できればPCなどディスプレイで、実物大に拡大して見比べてほしい。

これは、顔を魅力的にさせる要素を研究したペシェクの実験(※1)で使われたものになる。被験者は2枚の写真を見せられ、より魅力的に見えるほうを選ぶように求められた。

結果は明白で、問題1も問題2も、右の顔を魅力的だとする被験者が多かった。

なぜか。

実はこの写真、フォトショップによって、一か所だけ加工されている。それは、リンバルリング(limbal ring)だ。

リンバルリングとは何か。

鏡などでよーく目を見てみよう。まず、目の中心に瞳孔があって、その周囲に虹彩(茶や青など色のついている円盤状の膜)があって、その外側に白目がある。この白目との境界に、虹彩を縁取るような暗い円があるだろうか。それがリンバルリングだ。

リンバルリングは若さと健康を示唆する

はっきりとしたリンバルリングは、その人の魅力を増す。ペシェクの実験では、左右反転した場合でも、写真をさかさまに見せても、リンバルリングのある方が魅力的だと判断する人が多かった。

株式会社メニコンはそれを熟知しており、虹彩模様を変化させることでリンバルリングのコントラストを強調するコンタクトレンズの特許を取っている(※2)。リンバルリングと白目の領域のバランスが、眼の美しさに影響を及ぼすという。

あるいは、ナショナルジオグラフィックの表紙で有名な「アフガンの少女」が、なぜ見る人をはっとさせるかは、ひょっとすると、この際立ったリンバルリングのおかげなのかもしれない。

Afgan

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Sharbat_Gula.jpg

では、なぜ、リンバルリングが際立つと、魅力的に感じられるのか?

ドナルド・ホフマンは、進化心理学の観点から、解き明かす(※3)。

まず、リンバルリングは、若いほど厚く、はっきりとしているが、年齢とともに低下していく特徴があるという。加齢により角膜が白っぽくなる老人環は、リンバルリングを目立たなくさせる。

次に、はっきりしたリンバルリングは、健康をも示唆するという。緑内障や角膜浮腫などの疾病は、角膜を曇らせ、リンバルリングを不明瞭にする。つまり、顕著なリンバルリングは、その人が若くて健康であることの手がかりの一つになる。

白目から若さと健康を読み取る

ホフマンは、強膜(白目の部分)も、その人の美しさ、魅力に影響するという。

ヒトの白い強膜は、視線の方向を告知し、社会的コミュニケーションのツールとして機能すると言われている。だが、それだけでなく、当人の若さや健康も示唆している。

強膜は、細い血管を含む結膜に覆われており、アレルギーや結膜炎は、この血管を拡大させ、強膜を赤くする。また、肝臓病や老化は、強膜に黄色の色調を加えることがある。いっぽう、乳児の強膜は薄く、下層にある脈絡膜が青みがかったように見える。年齢を重ねるにつれ強膜は厚くなり、この青い色調は失われてゆくという。

言われてみると、思い当たる。子どもが幼いころ、その目をのぞき込むと、白目の部分が透き通った青色だったことを覚えている。また、二日酔いの朝、鏡をのぞき込むと、目を真っ赤にさせた不機嫌な顔がある。どう見ても健康そうに見えない。

つまり、青みがかった白目は、若さと健康の証になる。この仮説は、実験で検証されている(※4)。

  1. 被験者に一連の顔を見せる
  2. 被験者はスライダーを用いて、強膜の色を変えることができる
  3. スライダーを動かすと、青から黄色へと色調を変えられる
  4. 被験者は、それぞの顔が最も魅力的になるよう、スライダーを調整する

実験の結果は明白で、男性、女性ともに、強膜が青くなるように調節した。しかも、被験者が男性の場合、白目をより青くするように調節したという。

ハイライトの重要性

ホフマンは、目にハイライトを加える重要性についても力説する。

ハイライトは、目の中の輝きのことで、その人を魅力的に見せるという。

涙腺から分泌され、角膜と強膜を覆う涙の薄い層に光が反射して放たれる。年齢を重ねたり、シェーグレン症候群、関節リウマチ、甲状腺疾患などでこの膜は薄くなり乾いていくことになる。乾いた目はあまり光を反射しなくなり、ハイライトが目立たなくなるという。

プロの写真家はハイライトを熟知しており、「キャッチライト(瞳に移り込ませる光)」を用いて、目にハイライトを加える。丸いレフ板を使えばキャッチライトは丸になり、四角いレフ板を使えば四角になる。写真家だけでなく、フェルメールの『真珠の首飾りの少女』や、アニメやイラストのキャラクターなど、キャッチライトの応用はいくらでもある。

一方、その人の魅力を減らすために、キャッチライトを避ける例もある。映画製作では、悪役の俳優の目にハイライトを映り込まないようにする(もしくは、後で加工して消す)。要するに、黒目だけにすることで、極悪で生命感が欠如しているように見せるというのだ。

「美=生殖能」仮説

美とは何か?

「美は観察者の目の中にある」と言われる。美はその物自体の性質ではなく、それを見る観察者の心の中にしか存在しないことを意味する。ホフマンは、「なぜこの美の基準が、あの観察者の目のなかにあるのか?」という問いに置き換える。

そして、美とは、複雑で無意識的な計算に由来する知的判断だという。長い進化の過程を経て、慎重に選択されてきた手がかりは、たった一つのことを私たちに教えてくれる。生殖能だ。あの人は健康な子を生み、育てられるのか?

もちろん、私たちは通常、この問いを明示的に考えたり、判断を導く手がかりを意識しているわけではないという。そうではなく、判断そのものをさまざまな感情の形で経験しているというのだ。

美は、観察者の気まぐれなどではない。長い年月をかけて自然選択の論理によって構築された、観察者の脳内で生じる無意識的な推論の結果に生じる、観察者の感情こそが、目の中の美なのだという。

この推論を頻繁に間違える観察者は、健康な子を育てられそうにもない相手を好むこととなり、その結果として、間違った推論が次世代に受け渡される可能性は低くなるという。要するに、美を読み違える遺伝子は、情け容赦のない自然選択の論理によって淘汰されるというのである。

生殖の観点から男性の魅力を解いた「生理的に受け付けない男の正体」という記事を書いたが、ホフマンの主張は、その実証版になる。あるいは、ヒトの美意識の根底にある生存可能性を示した『美の起源』を見ると、わたしたちは適応の結果、あるものを「美しい」と評価するようになっているのかもしれぬ。

進化心理学からのアプローチは強力だ。なぜなら、いまある姿から逆算して、「それは進化の結果だから」という事後諸葛亮(後知恵)を自由に適用することが可能だから。これに注意しつつ、進化心理学のアプローチに加えて、『美の歴史』『醜の歴史』などの芸術からのアプローチからも、美を追いかけてみよう。

※1 ”Preliminary Evidence that the Limbal Ring Influences Facial Attractiveness”,Darren Peshek,Negar Semmaknejad,2011,[URL]

※2 虹彩模様の印象等を容易に調整することができるコンタクトレンズ

https://astamuse.com/ja/published/JP/No/2013250351

※3 『世界はありのままに見ることができない』ドナルド・ホフマン、青土社、2020

※4 ”Facial Attractiveness: The Role of Iris Size, Pupil Size, and Scleral Color”,Negar Sammaknejad,2012

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脳の中に美を探す『脳は美をどう感じるか』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2016年4月18日】


 人はどのように「美」を感じるのか? 美学、脳科学、心理学の知見から、美の本質を探った一冊。

 著者のスタンスは明確だ。人が美しいと感じる対象はさまざまだが、美を感じているときの脳の働きには共通性があるはずだという。この仮説を検証するため、欲求と美の関係を分析し、美術作品を見ている際に起きている脳内反応の研究を紹介し、さらには視覚認識のメカニズムから画家たちの意図や手法をもとに、美をリバース・エンジニアリングする。こうした、「美と脳」のアプローチから得られる知見やトリビア、可能性がめっぽう面白い。

 たとえば、絵を見せて「美しい」「醜い」「どちらでもない」と判断してもらう際、脳内での反応を研究した成果が紹介されている。その結果、「美しい」と評価される絵を見るとき、報酬系の部分が活発に反応しているという。これは、前頭葉の下部にある眼窩前頭皮質で、欲求が満たされるときや、その満足への期待があるときに働く部分だ。つまり、美しさは、「欲しがる脳」で感じているといえる。

 あるいは、美学の文脈で、ラマチャンドランの「ピークシフト仮説」を紹介する。誇張された特徴により、より「らしく」感じられる人の視覚機能だ。これは、認知科学の研究で近年になって明らかにされてきたものだが、昔から芸術家たちは経験的に理解・応用していた。例としてモンドリアンの画面構成が挙げられている。その線分と色彩は、視覚脳の働きを最大化するような表現がなされているという指摘は、自分の目をもって納得することができる。アート/美術は視覚の神経科学的な法則に従うといい、「優れた芸術家は優れた神経科学者」と仮説づける。この発想がユニークだ。

 だが、その一方で、あえて「美」を定義づけていない。その結果、本書を散漫にも幅広にもしてしまっている。美の美的なところは、かならずしも描かれたモチーフの美しさにあるものではない。何が美しいのか、年齢、性別、パーソナリティ、文化的背景から個人的感情まで、千差万別だろう。アトリビュートやアレゴリーは、美を理解するための手がかりにもなるにもかかわらず、そいつを無視して完全に色彩や構成だけで語るには無理があろう。著者はそこを認めたうえで、そこから受け取る体験は共通性が認められるのではないかと踏みとどまる。

 つまり、その体験の仕方を分析したところに、美の共通概念を探す。howを突き詰めることで、共通的なwhatが見えてくるというアプローチから、美を微分する。「何が美か?」に答えようとする限り、古今東西の哲学者や美術家が束になっても終わらない議論に陥る。だが、「美を感じるとき、何が起きているのか」をボトムアップで分析するなら、集合知としての「美」があぶりだされてくるという発想なのだ。

 この研究はまだまだこれからだけど、実は、わたしの中で一つの「結論」がついている。

 それは、「美とは、パターン認識における調和とズレ加減が"わたし"と合っていること」だ。これは音楽から学んだ。音楽の快や美について研究した『音楽の科学』『響きの科楽』によると、耳に入ってくる情報は選択的に減衰されて処理されている。そして、耳に入ってくる情報(=聞こえ)から次の音律やリズムパターンを予測し、予測と「聞こえ」が調和していれば、快や美を感じる(ただし、ずっと"正解"ばかりだと飽きるので、一定のズレも必要となる)。耳に入ってくる情報の処理パターンは、"わたし"の経験によって学習づけられている。音楽がどう聞こえるかは、聞こえた音そのものだけによって決まるのではなく、その人が何を聴いてきたか、ひいてはどういう音楽が聞こえると予測するかによって、「聞こえ」が変わってくる。

 ヒトの感覚の本質は、「外界から情報を得る」だ。視覚であれ聴覚であれ、情報処理の過程で、予測と実際の調和やズレを絶えずフィードバックしながら高度に発達させてきた。本来ならば、外敵から身を守り、未来の危険を予測し、子孫を残すための聴覚情報・視覚情報の処理プロセスだったが、人類にとってサバイバルな時期を越えても、このプロセスは生き残った。

 その経験の最適化が、いま聴いている・観ている"わたし"に美を感じさせる。あまりにも予測を裏切られる旋律ではなく、あまりにも予定調和な構成でない、「いい感じで経験を裏切り、更新する」ちょうどいい最適化こそが、美しい音楽であり、美しい絵画になる。音楽は、経験によって最適化された「聞こえ」の快であるように、美術は「見え」の快なのだ。

 巻末の参考資料も充実しており、読みたい本がまた増える。知的探究心を刺激するだけでなく、わたしの知見と化学反応を起こす一冊。

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説明を「押し付ける」技術と「押し返す」技術

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年5月18日】


説明を「押し付けられた」経験はないだろうか。

 

「この変更は、今月中に対応してリリースすべきです。お客さんも喜ぶし、ウチの利益につながるので、絶対に必要です。逆に、なぜできないのでしょうか? できない理由を聞きたいのではありません。どうすれば間に合わせることができるのか、そのために何をすればよいのか、それを考えるのは、エンジニアの仕事でしょう!」

 

逃げられない会議の席上で、こんな風に言われたことはないだろうか。私はある。しょっちゅうだ。

  • そもそもスケジュール的に無理がある
  • 変更のインパクトがどの程度なのか分からない
  • 当初の予算内に収まるかも分からない

できない理由をしどろもどろに言わされて涙目になる。できないことが私の罪で、その罪を免れるための言い訳をしているような気にさせられる。

 

そんな私に、ぜひお薦めしたい本を、レバテックLABにまとめた。

 

詳細はリンク先に任せるが、私が失敗したのは、「なぜできないのでしょうか?」という質問に、答えようとしたから。

 

人というのは不思議なもので、「なぜですか?」と聞かれると、反射的に答えてしまうもの。そしてエンジニアというのは真面目なもので、できるだけ正確に答えようとしてしまう。

 

それは罠だ。 

 

できない理由を裏返すと、それさえクリアすればできるから、それをクリアするための方法を皆で考えよう、という流れになってしまうから。「詳細が分からないから回答できない」と正確に答えようとすると、「じゃぁ明日じゅうに回答してね」と宿題になる。それおかしくない!?

 

正しくは、「その質問に、なぜ私が答えなければならないのか?」という視点だ。

 

いま進行しているプロジェクトは、決められたリソース内で、合意された成果物を生み出すためのものだ。それを、わざわざ変更したい、と言い出しているのは、営業(ないし客)だ。だったら、なぜ変更しなければならないのかについて、答えなければならないのは、言い出しっぺの営業(もしくは客)になる。

 

その変更に対応できる/できないとかの議論の前に、それを今しなければいけない理由を、きちんと説明してもらおう。

 

これは「立証責任のルール」と呼ばれている。要するに、言い出しっぺが証明しなければならないというルールだ。議論が上手い人は、立証責任を押し付けるのが上手い人だと言える。

 

これは悪用もできる。たとえ自分が言いだしっぺで、立証しなければならない場合でも、「あなたは反対なのですか? なぜ反対なのですか?」と質問することで、立証責任を相手に負わせることができる。本書では、立証責任の負わせ方、かわし方が沢山の事例とともに紹介されている。

 

私がぶつかってきた様々な障壁は、書籍という形で、抜け路・回り道・バックドアがあった。一人泣きながら何日も苦悩したり、周りとぶつかってぎすぎすしてきたことは、実は、数千円と数時間で「答え」が既にあったのだ。

 

そんなお薦め6冊をレバテックLABにまとめたので、ぜひ読んで欲しい。

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なぜ空からの大量虐殺が許されるのか『空爆の歴史』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年5月21日】


無抵抗な人に向けて、殺傷力の高い武器で、一方的に攻撃する。される側は、男女・子ども関係なく、住んでいる場所を焼かれ、家族を殺され、命が奪われる。

空爆がそれだ。無防備の市民を、空から皆殺しにする。これほど残虐で、非人道的な行為はないだろう。

しかし、なぜか、空爆は「普通に」まかり通って来たように見える。市街地一帯、ひいては都市全体を火の海にするために実行されてきた。

非難や反対の声は挙がるものの、それにより空爆が制限されたり抑止されるかというと、そうはならない。

なぜ、空爆による大量虐殺が正当化されるのか?

この疑問に応えたのが、『空爆の歴史』だ。

空からの植民地支配を振り出しに、ゲルニカ、重慶、ドレスデン、東京、広島、ラオス、コソヴォと続く空爆の歴史を辿りながら、空爆する側のロジックと、黙殺された抗議の両方を知ることができる。

空爆は戦争犯罪

もちろん、空爆による大量虐殺は、戦争犯罪だ。

加害側の圧倒的な優位性を背景に、一般市民を一方的に殺戮する。いくら戦争という非常時とはいえ、そんなことは許されるわけがない。

だから、空爆は何度も禁止されてきた。ハーグ平和会議(1899年)、空戦に関する規則(1923年)、ジュネーヴ諸条約(1949年)と、くり返し宣言されてきた。人口稠密な都市に対し、空から無差別に攻撃することは、明確に国際法に違反するものとみなされていた。

特に、1923年の空戦規則は、当時のルーズベルト米大統領、イギリス政府、日本政府、ドイツのヒトラーでさえ、守るべき規則だと宣言していた(ヒトラーは議会演説および米大統領宛の回答書で約束している)。

ただし、この規則には抜け穴がある。

第22条 普通人民を威嚇し、軍事的性質を有しない私有財産を破壊もしくは毀損し、または非戦闘員を損傷することを目的とする空中爆撃は禁止する。

軍事用でない施設や、一般の市民に対しては攻撃を禁止する、とある。ということは、軍事設備や戦闘員に対してはOK、という理屈だ。

そして、どれが軍事用で、どれが軍事用でないか、あるいは、誰が市民で誰が兵士かを判別してターゲットとするのは、攻撃する側が決める

そして、空爆側のロジックにより、無差別な爆撃は繰り返された。

空爆側のロジック

本書には、空爆する側の「理屈」が紹介されている。

まず、植民地主義における「文明」から「未開」への攻撃になる。帝国主義の時代には、重化学工業の発展に伴い、ヨーロッパが圧倒的な軍事力を持った。同時にヨーロッパ中心的な世界観が普及し、「文明vs未開」の構造のもと、飛行機が軍事利用される。

「未開」側の対空戦力がゼロであり、「文明」側の人命コストを考えると、空爆が高く評価されるのは当然の成り行きとなる。スペインやイタリアが植民地に対して行った空爆が、その嚆矢となる。従来の地上兵力と異なり、機動力に優れ、低コストで攻撃できるという理屈だ。

さらに、「未開」に対して恐怖を与えることができるという。戦線から遠く離れて暮らす人たちを恐怖に落とし、心理的なダメージを与えることができる。空爆には、敵の戦意をくじくテロ効果があるというのだ。

このロジックは、日本軍における重慶爆撃(1938)、イギリスによるドイツ諸都市爆撃(1945)および米軍における日本の諸都市爆撃(1945)、そして広島と長崎への原子爆弾投下(1945)に引き継がれる。

地上部隊の場合の膨大なコスト(戦費および人命)に比べると、より安上がりに、敵国の人命を(兵士・民間人限らず)殺傷することができるからだ。161のドイツの都市から60万人の人間を殺害したイギリス、日本の67都市から60万人を殺したアメリカ合衆国の被害は、(殺された人々の数と比較すると)軽微なものだった。

空爆側のロジックの現実

では、空爆する側の「理屈」は正しかったのだろうか。

本書によると、真逆の結果を招いているように見える。より安く、より大量の市民を効率的に殺害できる、という点においては正しい。しかし、敵国の戦意をくじくことで、戦争を早期に終わらせるという点においては、間違っている。

日本軍の空爆後の、中国・台湾の人々の調査結果や、ドイツ爆撃後のイギリスの爆撃調査班の報告によると、真逆になる。同じ場所を攻撃されたことで、団結心を得て、ナショナリズムを高揚させる効果があった。

これは、アフガニスタンにおける対露感情、ベトナムにおける対米感情も然り。空爆をする側は、週・月単位でのプロジェクトになる。

しかし、空襲を被る側は、何十年に渡って敵愾心を燃やし続けることになる。ここで強調する必要すらないだろうが、2001年9月11日にニューヨークとペンタゴンで起きたことは、その証左だろう。

非人道的なだけでなく、効果の面から見たとしても、空爆する側のロジックは正しくないのだ。

空爆のダブルスタンダード

ロジックの矛盾は、日本やドイツの戦争犯罪を裁く場においても噴出する。

戦後の東京裁判やニュルンベルク裁判において、「人道に対する罪」で日本やドイツが裁かれた。だが、その中に空爆における罪は含まれていなかったというのである。都市を爆撃し、一般市民を殺害したことは、正当化できない。

「人道に対する罪」は、従来の戦争犯罪では捉えきれないナチスの犯罪を裁くために導入された概念だ。罪刑法定主義という法の常識を超えて、事後的に作り出された、新しい「罪」の概念となる。

国家による大量殺人が人道に対する罪であるならば、その第一等に当たるのが、空爆だろう。日本は中国各地で、ドイツはイギリスやフランスに対し、大量の爆弾を落としてきた。それが、なぜ裁かれなかったのか。

答えは、「同じ罪を連合国側でも問われることになるから」だろう。だから、俎上にすら乗らなかったのだ。

ニュルンベルク裁判で訴追主席であったテルフォード・テイラーは、裁判から25年後にこうコメントしている。

都市破壊のゲームは、連合軍のほうがはるかに成功をおさめたので、ドイツや日本を訴追する根拠がなく、事実そのような訴追は持ち出されなかった。連合国側も枢軸国側も空爆をきわめて広範かつ残酷におこなったので、ニュルンベルクでも東京でも、この問題は戦犯裁判の一部にもならなかった。

空爆は、低コストで一方的に殺戮を行うことができる。戦闘で死亡する兵士としての「戦死者」の数を、極小にすることができる。これは、軍部にとっては何者にも得難いメリットだろう。

そして、「軍事施設のみを目標にする」という名目でありながら、何をターゲットにするかは攻撃側に委ねられている。さらに「早期に戦争を終わらせることで互いの被害を最小化できる」という理屈は、未来の火種を無視し続ける限り、有効になる。

空爆のダブルスタンダードを暴き出す一冊。

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水の中のタイムカプセル『世界の水中遺跡』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 20221年5月29日】


水の中には、すごい遺物が眠っている。

考えてみてくれ、地球の大部分は水に覆われている。しかも、風雨にさらされ、人が歩き回る地表と比べ、水の底は安定している。そう考えると、人の手が届きにくく、探し当てられなかっただけで、水中には数多くの遺物・遺跡があるはずだ。

それが、最新技術のおかげで、そうした遺跡が続々と見つかっている。『世界の水中遺跡』では貴重な画像とともに紹介している。

  • 縄文時代の貝塚(当時の有機物が残存している状態)
  • ヒエログリフが刻まれた紀元前300年の石碑
  • 古代ギリシャの暦の計算装置(アンティキセラ装置)
  • 元寇のモンゴル兵が用いた火薬兵器
  • 中世のヴァイキング船が丸ごと

縄文時代の有機物が大量に残っているのは、琵琶湖の粟津湖底遺跡だ。何千年も前なのに、なぜそんなに保存状態が良いのか? 遺跡の上には粒子の細かな粘土やシルトが積み重なっており、空気と遮断されていたためだという。

砂や泥が数十センチも堆積すると、バクテリアが生息できず、ほぼ完全に真空パックされた状態(不活性)になる。水中では温度も安定しているため、保存には最適な状態となる。いわば、水の中のタイムカプセルなのだ。

長崎県の鷹島海底遺跡には、元寇の新兵器も丸ごと残されていた。「てつはう」と呼ばれる火薬兵器で、鉄片が詰まった手りゅう弾のようなものだ。丸ごと残っていた発掘品をX線CTスキャンで解析し、3Dプリンタで復元したものまである。

20220529

Wikipedia:元寇『蒙古襲来絵詞』より。爆発している黒い欠片が「てつはう」

youtube【海底遺跡】海に沈んだタイムカプセル 水中考古学の世界 | ガリレオX 第28回

こうした遺物は、もし地表に残されていたとしても、風雨にさらされ朽ち果てるか、人の手によって持ち去られていただろう。だが、水中に没したからこそ、700年の時を経て再びまみえることができたのだ。

ビザンツ帝国の沈没船が大量にある黒海も有名だ。

かつて黒海は淡水湖だったが、気温上昇に伴う海水の流入で塩分濃度が急激に上がり、無酸素状態の海になった。生物にとっては過酷だが、60隻の沈没船を保存するには理想的な状態だという。歴史の教科書で学んだコグ船が、ほぼ完全な状態で見つかっている。

近年、こうした水中遺跡が続々と見つかっているのは、最新の科学技術による。

離れたところから対象物を分析するリモートセンシング技術や、水中ドローン(Underwater Drone)が多方向から撮影・実測したデータを再構成する技術(フォトグラメトリ)のおかげで、ダイバーが現地を「発掘」する前に、かなりの情報を手に入れることができる。

以前、人工衛星やドローン、航空機から遺跡を調査する技術のことを書いた(人工衛星から遺跡を探す『宇宙考古学の冒険』)。それと同じ技術革新が、水の中でも起きているのだ。宇宙から遺跡を探すのは、宇宙考古学と呼ばれているが、水中遺跡を探すのは、深海考古学とも、水中考古学とも呼ばれている(Deep Sea/Water Archaeology)。

歴史の手がかりとして残されているものは、文字情報が主なものだ。

石や竹に刻まれたり、皮や紙に残された文字が書き継がれて、今に至る。あるいは、宝飾品や美術品など、貴重なものとして保存されたものに限る。それ以外のものは、捨てられたり、朽ち果てることに任されてきた―――地上では。

また、水中の場合、盗掘されにくいという点も大きい。巨大な墳墓に隠された宝は、何百年、何千年もの間、人の手を免れるのは極めて困難だ。だが水の中なら、盗人も追ってはこない(ただし、潜水技術やソナーの普及により、海に沈んだ宝物を漁る輩がいることも事実だ)。

本来ならば決して見ることも叶わなかったものが、水の中から、続々と発掘されている。十字軍が交易したオリーブオイルの壺や、アラビア文字が墨書きされた唐代の茶碗、ドイツの潜水艇Uボート、沖縄戦で米艦隊に特攻した零戦など、歴史を語る「モノ」が現れている。

地球最後のフロンティアで、活躍が著しいのは水中考古学だ。そう確信させられる一冊。



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なぜイヤな映画をわざわざ観るのか

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年6月6日】


いわゆる「胸糞映画」というジャンルがある。

下品だったり悪趣味だったり、観た後に気分が落ち込むような作品だ。

ずばり恐怖を主題としたホラーの枠に限らない。幽霊や殺人鬼がいなくても、おぞましく理不尽な展開を描いた映画はあるし、鮫やゾンビが出なくても、残虐バッドエンドに至る作品はある(体感だが、普通の人しか出てこない胸糞映画の方がエグい)。

わざわざお金と時間をかけるのだから、泣いて笑って感動するようなものを観たがるのではいのだろうか? もちろん普通はそうなのだが、胸糞映画も一定の需要がある(さもなくば、跡形もなく消えているだろう)。

私がそうだ。

読み手の心を抉り、読後感がトラウマになるものを「劇薬小説」と呼び、好んで摂取してきた(「危険な読書」にまとめた)。読書は毒書なのだ。

映画も然り。自ら切開することで、自分の皮膚という境界が分かるように、精神的に痛めつけることで、自分の心がどこにあるかを知らしめる子どもが酷い目に遭うシーンを観て「痛い」と感じる場所こそが、わたしの心の在処なのだ。

だが、なぜ、そういう作品を観るのか?

ただ「好きだから」だけでなく、その「好き」を支える動機は何か。私の個人的な好みを越えて、一定の需要がある理由はあるのか。

「ざまあみろ」という感情

よく言われるのが、「人の不幸は蜜の味」というやつ。

妬みの裏返しだ。他人の幸福―――例えば、お金、美貌、健康な身体、若さ、素敵な恋人や配偶者―――そういう「持てる」人に対し、羨ましいと感じる。その嫉妬が募りすぎると、やがて自分自身の身を焼くようになる。

だから、芸能人や政治化のスキャンダルが暴露され、みじめな姿を目にすると、この上もなく甘美に癒される。メシウマ(他人の不幸で飯がうまい)や、シャーデンフロイデ(ドイツ語)とも呼ばれる。

この「羨ましい」という感情と、「ざまあみろ」という感情は、苦痛と報酬のメカニズムだという研究がある(※1)。

若い男女が集められ、あるシナリオを読むように指示される。その際、主人公を自分に置き換えて読むように条件づけられる。シナリオの主人公は異なる設定になっている。

①被験者と同じような境遇だが、学業成績や能力に優れている

②被験者とは異なる境遇で、平均的な能力

様々なバリエーションの中で、上記①の場合に、被験者は強い羨望を感じ、前帯状皮質が活性化した。そして、妬まれた主人公が不幸になると、より強い活性化が見られたという。

前帯状皮質は、ACC(Anterior cingulate cortex)と呼ばれ、脳の左右の神経信号を伝達する脳梁を取り巻く"襟"のような形をしている。血圧や心拍数のような自律的機能、共感・情動といった認知機能、そして、身体の痛みに関係しているとされている。

この研究により、自分に似た境遇だが、自分よりも「持てる」人に対して、羨ましいという苦痛が生じ、その人が不幸になると報酬が得られるのではないかという仮説が立てられている。

では、この「ざまあみろ」という感情を味わうために、人が酷い目に遭う映画を観るのだろうか?

例えば、『ファニーゲーム U.S.A.』という作品で考えてみよう。ミヒャエル・ハネケ監督で、映画史上、最も”不快”な暴力が描かれている。ある家族が酷い目に遭うのだが、まったくもって楽しめない。

湖畔の別荘でバカンスを楽しむくらい裕福で、上品で教養のある3人家族だ。そこに現れたのが、純白の手袋をし、純白のポロシャツを着た2人の青年。最初は礼儀正しく振舞うものの、徐々に残忍な本性を露わにしていく……

もし、メシウマの副菜としてこの映画を観るのなら、その純粋な暴力に打ちのめされるだろう。観客を本気で嫌な気にさせようと、監督が本腰で悪意を込めているのが分かる。覚悟を決めないと、正視すら難しいかもしれぬ。

おそらく、「ざまあみろ」という感情が成り立つためには、他人に降りかかる不幸のバランスが必要となるのかもしれぬ。株価の暴落で成金が貧乏になるとか、出世頭だったのに不倫がばれてクビだとか、そういった幸・不幸のバランスだ。

そして、天秤の不幸側があまりに重すぎる場合、「ざまあみろ」と感じた自分すら含めて打ちのめされるに違いない。

不安の排泄「カタルシス」

哲学・演劇からのアプローチだと、カタルシスを得るために観ると言える。

アリストテレスが『詩学』の中で主張している、精神の浄化のことだ。

身体の中に溜まった感情から解放されるとき、快楽をもたらすという理屈だ。物語を通じ、不安や恐怖、哀切や怒りといった、様々な感情を抱く。それは、登場人物の感情が観客に伝染する場合もあれば、監督の演出によって掻き立てられるときもある。

そこで呼び起こされた「怖れ(ポボス)」と「憐れみ(エレオス)」によって、観客が抱いていた感情は排出され、魂の浄化を得ることになる。これがカタルシスである。

ポイントは、怖れや憐れみを引き起こすためには、「不幸」の要素が必要だということ。多かれ少なかれ、物語の中には不幸がある。観客は自分に似た人物が不幸な目に遭うのを見て、自分もそうなるのではないかと怖れる。あるいは、理不尽な不幸に遭うのを見て、憐れみを覚えるのだ。

登場人物の行動が観客に及ぼす影響については、ミラーニューロンの研究が傍証になる。

ミラーニューロンとは、自分が行動するときと、他人の同じ行動を見るときの両方において活性化する神経細胞を指す。他人の行動を見て、まるで自分が同じ行動をしているように、「鏡」のような反応をすることから名づけられている。

ミラーニューロンは、新生児が他者の行動を理解し模倣する助けとなるとされている。身体の運動や、相手の表情を観察し、それを真似ることで、複雑な動作や経験を伝達していくことができる(※2)。

また、最近の研究では、扁桃体を含む大脳辺縁系や島皮質にも関与していることが明らかになっている。この部位は、情動や共感に深く関わっている。

他人の感情を自分のことのように感じるメカニズムは、ミラーニューロンの研究によって、明らかにされつつある。映画を観て、私たちが怖れや憐れみを感じる時、ミラーニューロンが活性化しているのかもしれない。

では、このカタルシスを得るために、人は胸糞映画を観るのだろうか?

もちろん、心を動かされ涙を流したり、溜まった鬱屈が解放されることで、スッキリするラストになる映画はあるだろう。むしろ、そういう作品の方が普通だ。

だが、観客の感情を捉えたまま、最後まで離さず、そのまま沼に引きずり込むような映画もある。モヤモヤした心を抱えたまま、一生忘れないことになる。

ジャック・ケッチャム原作の『隣の家の少女』がそうだ。原作であれ、映画であれ、この物語に触れたら、傷痕が残り続けることになる。

主人公はアメリカの片田舎の少年だ。隣に引っ越してきた少女に、淡い恋心を抱くところから物語は始まる。この作品のテーマは「痛み」だ。虐待・監禁・陵辱を受ける少女を、少年は、ただ眺めることしかできない。そのもどかしさに、観客は大いにミラーニューロンが活性化するに違いない。

だが、観客は、カタルシスを得ることはない。少女に襲い掛かる不幸に、怖れや憐れみを感じるかもしれない。それにもかかわらず、ラストに至っても感情は排出されない。物語は終わるし、因果の決着はつくが、傷痕は開いたままだ。

「物語はカタルシスを得るためのもの」という思い込みを逆手にとった作品なのかもしれない。

まとめ

この記事では、「なぜイヤな映画をわざわざ観るのか」という疑問に対し、以下の観点からアプローチしてみた。

  • 「ざまあみろ」という感情と、苦痛と報酬のメカニズム
  • 哲学・演劇の「カタルシス」と、ミラーニューロンの研究

少し抽象度を上げて、「なぜ悲劇を見るのか」という設問にすると、さらに以下のアプローチが生まれる。次のテーマとして追いかけてみよう。

公正世界説の援用:悲劇には不幸が生じる。「幸福→不幸」か、あるいは、「不幸→幸福」の順番の違いはあるが、必ず不幸がある。幸福~不幸の推移は、何らかの因果が示される。通常その因果は聴衆にとっての正義(=世界がそうあるべき、必ず正義は勝つ)に則っている。それを観ることで、世界が公正であることを再確認できる。

人生の予習:悲劇をもたらすものには、普遍性がある。持てるものを失う(金、地位、若さ、信頼、健康など)ことが、物語の中心になる。そのとき、登場人物は、どう振舞うのか(どう振舞うと、どんな結果になるのか)を学習するため。自分に降りかからない安全な場所から、安心して悲しみを味わう知的な喜び。社会や人間の醜い部分、汚い側面を拡大し、2時間で消費できるくらいのストーリーとして提供してくれる。本来であれば、そうしたえげつない部分は、危険を伴ったり、起きてしまったら避けることができない不幸として遭遇する。だが、映画館のシートという安全な場所から眺めることができる。不幸に繋がりそうなことを予測したり、それを回避するために先人(映画の主人公たち)が何を考え・行動してきたかを学習することができる。現代社会での適応率を高める人生の予習としての悲劇。

悲劇は「悲しみ」でない:アウグスティヌス『告白』第3章の悲劇論より。悲劇は悲しみではなく、「偽りの悲しみ」を扱っている。悲しい曲が悲しみを歌っているのではなく、短調の曲であれば人は悲しいと感じる。熟した果物が甘いのは糖分を含んでおり、摂取する側は栄養効率がいいし、果物側は種子を遠くまで運んでもらえる。人はネガティブに反応しやすいため、物語を遠くまで伝達してもらえる。文化的ミーム論。

人はなぜ悲劇を愛するのか : アウグスティヌス『告白』Conf.3.1.2~3.1.3の悲劇論

https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282814198178816

悲しい音楽はロマンチックな感情ももたらす

https://www.riken.jp/press/2013/20130524_1/#note2

Why Do We Like Sad Stories?

https://www.verywellmind.com/why-do-we-like-sad-stories-5224078

Why do we love tragedy?

https://www.quora.com/Why-do-we-love-tragedy

注釈

※1

 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/19213918/

Hidehiko Takahashi 1, Motoichiro Kato, Masato Matsuura, Dean Mobbs, Tetsuya Suhara, Yoshiro Okubo

When Your Gain Is My Pain and Your Pain Is My Gain: Neural Correlates of Envy and Schadenfreude,Science, 323,937-939,2009

※2

『進化でわかる人間行動の事典』p.210、小田 亮など、朝倉書店、2021




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