幻想文学の最深部へようこそマルセル・シュオッブ『黄金仮面の王』
マルケス『百年の孤独』の文庫化は事件だった。だが、シュオッブの文庫化は、奇跡といっていい。幻想文学の最深部が、まさか文庫で読めるなんて想像だにしなかった。
シュオッブは「知る人ぞ知る」「作家がハマる作家」と評される。
だが、ボルヘスが示す偽の世界や架空の伝記を貪り、モザイク化された世界を探索するボラーニョの魔術に翻弄され、怪奇と偏執に満ちたポーを読み耽り、渋澤龍彦の人工的な耽美を追っていくと、遅かれ早かれ、マルセル・シュオッブにたどり着く。
幻想文学が沼ならば、その最深部がシュオッブになる。奇しくも翻訳者・西崎憲が、「シュオップがいきどまり、そのさきはない」という評を紹介しているが、まさにそれ。幻想文学は底なし沼ではなく、シュオッブが底になる。
シュオッブの面白さは、物語を「語らない」ところに宿る。そこにあるのは筋でも結末でもない。ただ、異様な人物や出来事が、あたかも博物館の標本のように配置されている。もちろん、読み手を連れていくためのストーリーは用意されているものの、読書はある種の体験で、そこに意味や教訓もない、ただ異様で消えないイメージだけが残る。
「未来のテロ」なんて強烈だ。切り取った部分で伝わるかどうか分からないが、引用してみよう。
断頭機械を停めた馬どもは、嘶(いなな)きながら、障害を越えて進もうとはせず、緑色の内臓の渦を蹄鉄で踏みにじった。ひくひく動く肉の間、生命を失って絶望的に硬直した手の枝の間には、流れる血の啜り泣きがあった。
「未来のテロ」より
革命が起きたらしいこと。首都にロケット弾が撃ちこまれたこと。建物はぎざぎざの破片となり火の玉が花咲いたことが克明に描かれる。痩せた男どもが人間のかたまりに孔を穿ち、心地よさそうに腹を引き裂く様子が詩的に記される。
しかし、「なぜ」そんなことをしているのか、「どう」なってしまうのか、一切語られない。タイトルからして未来の予言として汲み取ってもいいし、かつて人類が犯した虐殺のシーンを思い出してもいい。シュオッブは、「恐ろしい」とか「禍々しい」といった出来事を評価する形容を注意深く避けながら、異様なシーンをひたすら並べる(評価するのはおまえだ、と言わんばかりに)。
シュオッブの作品を「博物的」というのはここにある。作者がやりたいのは、読者の心に一生消えないイメージを植え付けること。それで苦しむのかもがくのか、あるいは陶然と反芻するのかは、読者に懸かっている。
だから、心が弱っているとき、うっかり読むと抜けられなくなる。物語から何かしら教訓なり意味を見出そうとして、伸ばした手の先を掴まれて引きずり込まれる。意味らしきものが欲しいなら、表題作の「黄金仮面の王」や「列車〇八一」「卵物語」だろうか。
それでも、ある種の神話を見させられているような気になる。だが、そこに教訓は無く、抜け出せないイメージだけが残る。顔全部を削り取られた二人の兵士。すれ違う列車の向こうからこっちを見ている自分自身。一切の音と動きが停止した都市。
意味を持たない幻想の標本が、私の頭に沈殿する。幻想文学の底とは、そういう場所なのだ。
そんな体験が得られる、稀有な一冊。
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