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幻想文学の最深部へようこそマルセル・シュオッブ『黄金仮面の王』

マルケス『百年の孤独』の文庫化は事件だった。だが、シュオッブの文庫化は、奇跡といっていい。幻想文学の最深部が、まさか文庫で読めるなんて想像だにしなかった。

シュオッブは「知る人ぞ知る」「作家がハマる作家」と評される。

だが、ボルヘスが示す偽の世界や架空の伝記を貪り、モザイク化された世界を探索するボラーニョの魔術に翻弄され、怪奇と偏執に満ちたポーを読み耽り、渋澤龍彦の人工的な耽美を追っていくと、遅かれ早かれ、マルセル・シュオッブにたどり着く。

幻想文学が沼ならば、その最深部がシュオッブになる。奇しくも翻訳者・西崎憲が、「シュオップがいきどまり、そのさきはない」という評を紹介しているが、まさにそれ。幻想文学は底なし沼ではなく、シュオッブが底になる。

シュオッブの面白さは、物語を「語らない」ところに宿る。そこにあるのは筋でも結末でもない。ただ、異様な人物や出来事が、あたかも博物館の標本のように配置されている。もちろん、読み手を連れていくためのストーリーは用意されているものの、読書はある種の体験で、そこに意味や教訓もない、ただ異様で消えないイメージだけが残る。

「未来のテロ」なんて強烈だ。切り取った部分で伝わるかどうか分からないが、引用してみよう。

断頭機械を停めた馬どもは、嘶(いなな)きながら、障害を越えて進もうとはせず、緑色の内臓の渦を蹄鉄で踏みにじった。ひくひく動く肉の間、生命を失って絶望的に硬直した手の枝の間には、流れる血の啜り泣きがあった。
「未来のテロ」より

革命が起きたらしいこと。首都にロケット弾が撃ちこまれたこと。建物はぎざぎざの破片となり火の玉が花咲いたことが克明に描かれる。痩せた男どもが人間のかたまりに孔を穿ち、心地よさそうに腹を引き裂く様子が詩的に記される。

しかし、「なぜ」そんなことをしているのか、「どう」なってしまうのか、一切語られない。タイトルからして未来の予言として汲み取ってもいいし、かつて人類が犯した虐殺のシーンを思い出してもいい。シュオッブは、「恐ろしい」とか「禍々しい」といった出来事を評価する形容を注意深く避けながら、異様なシーンをひたすら並べる(評価するのはおまえだ、と言わんばかりに)。

シュオッブの作品を「博物的」というのはここにある。作者がやりたいのは、読者の心に一生消えないイメージを植え付けること。それで苦しむのかもがくのか、あるいは陶然と反芻するのかは、読者に懸かっている。

だから、心が弱っているとき、うっかり読むと抜けられなくなる。物語から何かしら教訓なり意味を見出そうとして、伸ばした手の先を掴まれて引きずり込まれる。意味らしきものが欲しいなら、表題作の「黄金仮面の王」や「列車〇八一」「卵物語」だろうか。

それでも、ある種の神話を見させられているような気になる。だが、そこに教訓は無く、抜け出せないイメージだけが残る。顔全部を削り取られた二人の兵士。すれ違う列車の向こうからこっちを見ている自分自身。一切の音と動きが停止した都市。

意味を持たない幻想の標本が、私の頭に沈殿する。幻想文学の底とは、そういう場所なのだ。

そんな体験が得られる、稀有な一冊。



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荒木飛呂彦が選ぶホラーBest20と『ゾンビ(’78完全版)』を観ると人生が豊かになる理由

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年6月12日】


まだ小学生だった息子を連れて、サッカー観戦したことがある。

試合が始まるのは少し先で、選手たちはシュート練習をしていた。プロを生で観るのは初めてなので、息子はえらくはしゃいでいたことを覚えている。

ボールにインパクトが加わると、すこし遅れて「キィン」という金属音が響いたり、ゴールを外したボールが飛んでくる「シューッ」という音が印象的だった。

その音で、ある映画のシーンを思い出した。トラックに積んだガラスが横滑りして、そこにいた男の首が切断されてしまう場面だ。

ほとんど意識せず、息子の顔の前に、私の右手を差し出した。同時に強い痛みが走り、「キィン」という音が届いた。

シュートを外した選手、練習を観ていた人、そして私自身が一番驚いていた。ボールが当たっていたら、子どもの頭は吹き飛んでいたと言えば大袈裟だが、ただでは済まなかったはずだ(後ろはコンクリの階段だった)。

最悪を予感して人生を楽しむ

たまたま不幸を免れたものの、突然の不運は起こり得る。

見通しの悪い交差点からは自転車が飛び出してくるものだし、老人はブレーキとアクセルを踏み間違えるものだ。工事中のビルから落ちてくるのは鉄骨で、急ブレーキを踏んだトラックから滑り出るのは強化ガラスである。

そこに居合わせたとき、不運は不幸になる。

これを、ありえない、と切って捨てることも可能だ。

旅先の田舎でチェーンソーを持った男に襲われたり、偶然に乗り合わせた客船が沈没したり、致死力の高い疫病に感染する、なんてあり得ない。そう考える人もいる。

だけど、どこまでの「ありえなさ」だろうか? 最悪のことはいつだって起こり得る。そう考えて生きている。

世の中は危険で醜くて、不運はそこここで起きているけど、たまたま不幸になっていないだけ。巧妙に隠されているだけで、死は、いつだってそこにある。だから、最悪を予感しつつ人生を楽しむようにしている。

この「最悪を予感して人生を楽しむ」上で、最も役に立つのが、ホラー映画だ。

人を怖がらせることを目的として作られたホラーは、「ありえなさ」に振り切って描かれている。人の命は現実世界ほどの価値をもたず、残酷さ、非道さ、おぞましさをありありと見て取ることができる。

誰でもウンコはするし、身体には大量の血が詰まっている。それが見えにくいだけで、確かにそれは存在する。ホラーは、ナイフや牙やチェーンソーを使って、明るいところに出してくれる。社会や人間の厭な面や、キレイでないほうの真実を暴き立ててくれるのだ。

安全圏から暗黒面を見る

『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』で同じような熱い主張に出会った。

ホラー映画の良いところは、「世界の醜く汚い部分をあらかじめ誇張された形で、しかも自分は安全な席に身を置いて見ることができる」点にあるという。人生のキレイでない部分に向き合う予行演習としては、ホラーは最高の教材となる。

倫理学の問題で「5人の命を救うために1人を見殺しにできるか?」という問いがある。何が正義なのかは選択肢があるが、そこからさらに「その1人が君の愛する人ならどうするか?」という形で、主人公が追い込まれていく。ホラーの醍醐味はそこにあるという。

極限状態が描かれているので目を覆いたくなるかもしれませんが、自然災害や犯罪に遭遇したらそういう選択を迫られることもあり得るという現実の可能性を、フィクションの形でエンタメとして見せてくれるのがホラー映画なのです。

だから皆さんには、せめて映画の中だけでも、きちんとそういうものに向き合ってほしい。「見るべき」映画という以上に、「見なければならない」のがホラー映画とまで言っていいかもしれません。

そして、ロメロ監督の『ゾンビ』の魅力を滔滔と語る。

ノロノロとした動き、人を襲って食べる様子は、それまでのホラー映画のモンスター(狼男、吸血鬼)と大きく異なり、徹底的に無個性な存在になる。それは、サラリーマン集団や街を歩く人々を遠くから眺めたときの無個性性に通じるものがあるという。

無個性な、人っぽく見えない存在だから、ためらいなく頭を打ち抜くことができる。むしろ、撃たないとこちらが殺られるルールになっている。人なのに人ではないという矛盾、元は人間なのにゾンビは殺してもいいパラドックスが、ゾンビ映画の世界観になる。

荒木飛呂彦が選ぶホラー映画Best20

実は、「ジョージ・A・ロメロ監督のゾンビ」といっても複数ある。どのゾンビを見るべきなのか。

  1. Night of the Living Dead
  2. Dawn Of The Dead
  3. Dawn Of The Dead (The Directors Cut) 

1と2は視聴済みだが、氏曰く、3こそ必見だという。いわゆる『ゾンビ(完全版)』らしい。これは観る。『ゾンビ』から始まって、『サンゲリア』『バタリアン』『ブレインデッド』『死霊のはらわた』『28日後…』とゾンビの傑作を語りつくす。

さらに、「田舎に行ったら襲われた」系のホラー(テキサスチェーンソーとか)、13金などの猟奇殺人、SFホラー(エイリアン)や構築系ホラー(CUBE)など、縦横無尽に語っている。「荒木飛呂彦が選ぶホラー映画Best20」を挙げるので、このリストでピンと来る人はぜひどうぞ。

  1. ゾンビ完全版(’78)
  2. ジョーズ
  3. ミザリー
  4. アイ・アム・レジェンド
  5. ナインスゲート
  6. エイリアン
  7. リング(TV版)
  8. ミスト
  9. ファイナル・デスティネーション
  10. 悪魔のいけにえ(’74)
  11. 脱出
  12. ブロブ/宇宙からの不明物体
  13. 28日後…
  14. バスケットケース
  15. 愛がこわれるとき
  16. ノーカントリー
  17. エクソシスト
  18. ファニー・ゲーム U.S.A.
  19. ホステル
  20. クライモリ

本書で知った、私が見るべきホラーを挙げておく。

『プレシャス』

「ホラー」というジャンルではない。ニューヨークのハーレムという過酷な環境で、16歳の黒人少女がありとあらゆる不幸の中で生きている。ジャンクフードで育ったことをうかがわせる肥満した体、母親からの虐待、もう十分悲惨なのに、それだけでは終わらない。これは殺人鬼も怪物も出てこないけれど、まぎれもなくホラー映画。

『REC/レック2』

ドキュメンタリータッチで描かれた作品。テレビ局のレポーターが取材中のアパートで事件に巻き込まれ、そこで起きる惨劇と脱出劇が、手持ちカメラで撮影した体で映し出される。最初の『REC/レック』を観たとき、たいへん怖い思いをしたのだが、氏曰く、2は1のラストシーンから始まっており、よりパワーアップしているので、通しで観ろとのこと。観る。

『ホステル』

「痛み」の映画。想像力が及ぶ限界に近いくらい「痛い」映画。東欧を旅する若者があるホステルを訪れて、そこで悲惨な目に遭う。プロット、ストーリー含めて語り口が非常にうまく、不気味さ100点満点。製作総指揮がクエンティン・タランティーノだから作れた映画で、普通の投資家なら、企画段階で、「これを作っちゃまずいだろう」と思うはずの内容とのこと。観る。

よいホラーを観た後は、「生きてるッ」って実感がする。生き延びたというか、死を免れた嬉しさがジワる。残酷な結末に「私はこうはならないぞ」と思いつつも、「運が悪けりゃしょうがないか」と諦めもつく。生きているなら、必ず起こり得るのは死だ(今の私がゾンビでないかぎり)。

よいホラーで、よい人生を。

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読書猿「大人のためのBESTマンガ36」から3つ選んだ

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2021年8月9日】


「お薦めのマンガを紹介しあおう!」という企画で膨大なリストを作り、読書猿さんとマンガ対談(第1回第2回)をしたんだけど、とにかく物量がハンパない。収拾つかないと思ってたら、読書猿さんから「大人のためのBESTマンガ」が出てきた。

「人間を理解する」という目的で36作に厳選されており、「知」「意」「情」の切り口から12作品ずつ紹介されている。

何度も読んだ『プラネテス』や、未読だけど気になってる『紛争でしたら八田まで』、全然知らない『ナビレラ』など、見ているだけで楽しくて、気づいたら「注文を確定する」ボタンを押していた。

ここでは、そこから3つ、読書猿さんお薦めでハマった作品を紹介する。最初に言っておくと、読書猿さんありがとう。お薦めされなかったら、きっと知ることもなかった興奮と感動を教えてくれて。

『アオアシ』小林有吾・小学館

めちゃくちゃ面白いだけでなく、読んだらサッカーの観方が180度変わった。

これまで、敵陣を貫くキラーパスや、神技のようなボールコントロール、突き刺さるようなロングシュートなど、ボールを扱うプレイヤーを中心に観ていた。

だが、『アオアシ』を読んだら、ボールの周りにいない選手の方が気になるようになった。ボールを持っていない選手がどこに居て、何を見て、何をしようとしているかを見たいと感じるようになった。

主人公は、サッカー大好き中学3年の青井葦人(あおいアシト)。粗削りながら特異な才能を秘めており、努力と根性でJリーグのユースをのし上がっていく王道マンガ……と思いきや、180度違ってた。

もちろん努力と根性もある。サッカーが好きな田舎の少年が、エリート養成のユースチームで技術的に通用するはずがない。それこそ寝る間も惜しんで練習する。

でも、当たり前だけど、みんな練習してきたんだ、積み上げてきた質と量が違う。そんな単純に、努力と根性でクリアできるはずがない。

だから葦人は考える。いまは「できない」、じゃぁ「どうする」と問いを立て、考える。そして、仲間、監督、はたまた敵役からヒントを求め、考え抜き、実行する。葦人の名前は、パスカル「人は考える葦である」から採っているんだと思うくらい、考える。

葦人の武器は一つだけ。ストーリー開始時点、本人は気づかない能力で、フィールド全体を俯瞰し、記憶することができる。私たちが観戦しているとき、「あそこスペースが空いてる」とか「反対サイドがフリーなのに」と、もどかしく感じることがあるだろう。その「目」を持っているのだ(※1)。

足りない技術、高いハードル、限られた時間という制約の中で、葦人は、それを乗り越える以上のことをやってくれる。そういうシーンを目の当たりにすると、全身が総毛だつ。

Aoashi

第16話「クロウ」より

そのゾッとする 場面はゴールだけじゃないんだ。もちろんゴールシーンも印象的だけど、ボールを持っていないときが多い。どのように自分が動き、周囲を動かすか、そのために何を見、どうやってメッセージを伝え、エリアを連携しあっていくかこそが大切なんだ、ということが分かる。

もちろんボールは大事。だってボールをゴールに入れることでしか得点にならないから。でも、そのためには、ボールを持っていない人がどう動くかこそが、サッカーの見どころの一つなんだということが、めちゃめちゃ腑に落ちる。

『せんせいのお人形』藤のよう・KADOKAWA

人は「知る」ことで運命を変えることができる。その運命を目の当たりにできる物語がこれ。そして、「人はなぜ学ぶのか」への一つの応答でもある。

ネグレクトされ、親戚中をたらい回しにされていたのを表紙の男(昭明)があずかり、マイフェアレディよろしく育てる。『うさぎドロップス』が頭に浮かんだが、ぜんぜん違っていた。誰からも愛されることなく、流されるがままに生きてきたスミカが、彼の元で心を取り戻していく過程の一つ一つが胸に響く。

たとえば、スミカが名前を呼ばれるところ。

名前を呼ばれるとは、その一人の存在を認めること。名前を呼ばれたことすらないということは、「いない子=いらない子」としてずっと生きてきたこと。自分の存在を認めることがない世界で生かされてきたこと。それがあたりまえだったスミカが、自分の思いを、昭明に向かって、身を絞るように吐き出す。そのセリフだけで胸がいっぱいになる。

「なぜ人は学ぶのか」のわけを、スミカが自分自身で見つけだすところ。最初の「知りたい」から始まって調べていくと、どんどん「知りたい」が広がってゆく。数学について調べていたら天文学になり、歴史になり、科学になる。

誰にも顧みられず、孤独の中で生きてきたスミカが、知が有機的につながっていること、その真ん中に「知りたい」と思う自分がいること、そしてその気持ちを持っている限り、決して一人ではないことに覚醒するシーンは、読んでるこっちが戦慄した。ここ、読書猿さんが言ってた「同じものを読む人は、遠くにいる」と同じだ。

Senseino

第20話「学問の鳥観図」より

この直後、昭明の、「それは君が手放さない限り 君をどこまでも連れていくものだ」「ほかの誰にも奪えないものだ」という言葉が刺さる刺さる。これは、タイガーウッズの母が、子どもに向かって言い聞かせていたセリフと同じであり、わたしが、わが子に向かって言い聞かせているセリフと同じだ。

変わってゆくのはスミカだけではない。

彼女に挨拶を教え、礼儀を教え、本を読むことを教え、知る方法を教え、約束を守ることを教えてゆくうちに、昭明自身が変化してゆく。スミカが初めて(おそらく、生まれて初めて)家に帰ってきて、「ただいま」というのだが、このシーンは何度見ても泣いてしまう。これはスミカの魂の再生だけではなく、昭明の心、ひいては読み手の心を溶かしてゆく物語でもある。

『チ。』魚豊・小学館

人は「知る」ことで自分と世界を変えてしまう。そして、いったん知ってしまったら、「知らなかった」世界へ戻ることはできない。

知的興奮という言葉がある。いままで知らなかったことを知るだけではなく、知っていたはずのものに、別の解釈があることを知りなおしたときの、肌が粟立つような、世界の解像度が上るような感覚だ。この感覚を味わえる。

タイトルの『チ。』は、地動説の「チ」だ。

中世のヨーロッパが舞台で、天動説が絶対である世の中だ。そんな世界で地動説を研究することは、ほとんど自殺行為に等しい。社会的身分を剥奪されるだけでなく、異端として拷問を受けたり、火炙りで処刑されてしまうことになる。

それが分かっていても、地動説を追い求める人がいる。

もし、天動説を元にして、月や太陽や星々の観測結果を説明しようとすると、非常に複雑で無秩序な「宇宙」ができあがる。二重三重に絡み合った軌道の星が空を覆うだけでなく、ふらふらと動き、まるで惑っているような星が存在することになる。

そんな不確かな宇宙を、神が設計したのだろうか? この宇宙を神が作ったとするならば、それはもっと確かで美しいものではないのだろうか?

地動説を追い求める人は、神の絶対性を信じるが故に、自分の「目」を信じ、自分の「知」を信じようとする。

そして、いったん地動説を受け入れると、もうそれで世界の見え方がガラリと変わってしまう。なぜ世界がそうなっているのかが分かってしまう。

私は教育のおかげで地動説を所与のものとしているが、そうではなく、新しい形で宇宙を見る知性を手に入れたなら、きっとこうなるだろうな、という感覚になる。タイトルの『チ。』は「知」でもあるのだ。

Ti

第1話より

ただ一つ、この人々へ問いたいことがある。地動説や天動説の話ではなく、(この時代にはまだ無い)科学についてだ。

「美しさと理屈が落ち合う、だから真理である」という考え方だ。

自分の仮説を説明しきれないとき、科学者が使う「美」というレトリックに危うさを感じる。ある理論が美しいかそうでないかは、理解も同感もできる。

だが、それが美しいからといって正しいとは限らないことに、科学者は自覚的になっていないように感じる。この危うさは、『数学に魅せられて、科学を見失う』のレビューにまとめたが、同じものを、『チ。』にも感じている。

以上、3作品を紹介したが、あくまで読書猿さんに教わって最近読んだものに限っている。「大人のためのBESTマンガ」は良質なリストなので、ぜひ手に入れて欲しい。週刊ダイヤモンドの別冊付録なのだが、Kindleだと掲載されていないように見える。できれば紙媒体で勝った方が無難かも。確認したところ、Kindle版でも付録は付いているとのこと。

良いマンガで、良い夏休みを。

※1 『黒子のバスケ』のイーグルアイかなと思ったが、その「目」が発動するときは、カラスが象徴的に描かれているので、クロウアイとでも言うべきか。

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大学教師が新入生にすすめる100冊

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2009年5月22日】


 恒例の100冊リスト。

 ただし、これまでの趣向を外した。「ベスト100ランキング」は楽しいが、変わりばえしない。毎年似たような「ベスト100」をヒネり出すのも飽きた。ホントのところ、「大学新入生」と銘打っているものの、わたしのためのブックリストなのだ。読んできたやつ、未読のやつ、読みたいやつを抽出したりふり返るためのきっかけなのだから。

 だから、今回はランキングをしない。母体のリストは、「大学教師が新入生にオススメする本」なんだけれど、そこからの選出はわたしの手になるもの。今までのリスト作成の過程で知り合えたものや、「読まねばリスト」に追加したもの。積読山に刺さったまま、課題と化しているものを中心に100挙げた。

 もちろんこの100冊を参考にしてもいいし、母体リストから自分専用の一覧を作ってもいい。母体のリストは三千弱になるが、元となったのは、以下のリスト。ブックガイドは多々あるが、「大学新入生」をターゲットにしたもので、一定の質・量があるのは、これぐらいだろう。

  1. 東大教師が新入生にすすめる本
  2. 東大教師が新入生にすすめる本2
  3. 教養のためのブックガイド
  4. 広島大学新入生に薦める101冊
  5. 広島大学新入生に薦める101冊 【新版】
  6. 必読書150
  7. 京都大学新入生に勧める50冊の本
  8. 北海道大学教員による新入生への推薦図書


















 わたしの場合、計画読書には程遠いけれど、少なくとも毎年「これだけは読みたい」ものを見直すために、このエントリは有用なのだから。

 このblogを続けるようになって犯した失敗は、「楽に読める本≒すぐ記事にできる本」を意識して選ぶようになったこと。来るもの拒まずで漫然と読み流していたら、一生はあっという間に終わる。せめて、読むべき本は選びたい。

 そのための、戒めとしてのブックリスト。

■ 理科系の作文技術(木下是雄)[レビュー]

 文系理系無関係、学生は全員読め。

 大事なことだから、もう一度いう。学生は必ず読め。論文・レポートの作成技術に関する本は沢山あるが、コンパクトな新書にここまで丁寧+徹底して「学生のレポート」に特化したものはない。類書が沢山でているが、真っ先にこれを読め。ライティングの手ほどきを受けている方なら、「あたりまえ」のことばかりが書いてあるが、その「あたりまえ」が大切なんだ。

 たとえば、「事実と意見は分けて書け」という。当然だ、どこまでが事実の報告で、どこからが仮説・意見なのか分からない文書だと、まともに扱ってすらもらえないだろう。

 本書では、そもそも「事実とは何か」から定義している。事実とは、「自然に起こる事象や自然法則、過去の事件などの記述で、しかるべきテストや調査によって真偽を客観的に確認できるもの」を指す。しかも、「事実の書き方」と「意見の書き方」まで指南してくれる。「分けて書く」とは、分割して書けというだけではない。その記述が事実なのか意見なのか、読み手に分かるようにすることが重要なんだ。

 何度でも言う、学生は全員読め(かくいうわたしは読まなかったので、しなくてもいい苦労をしたと告白しておく)。

■ 詩学(アリストテレス)[レビュー]

 創作にかかわる人は、必読。

 古典というより教典。著者アリストテレスは、悲劇や叙事詩を念頭においているが、わたしはフィクション全般に読み替えた。フィクションを創造するにあたり、観客(読み手)に最も強力なインパクトを与え、感情を呼び起こすにはどうすればよいか?構成は?尺は?キャラクターは?描写は?「解」そのものがある。

 これは、「現代にも通ずる古典」というのではない。二千年以上も前に答えは書かれていて、今に至るまでめんめんとコピーされてきたことに驚いた。本書が古びていないのではなく、新しいものが創られていないんだね。

 著者に言わせると、わたしたちヒトは、「再現」を好むのだという。この概念はミーメーシスといい、模倣とも再生とも翻訳される。現実そのものを見るのは不快で、その現実を模倣したもの――演劇だったり彫刻、絵画だったりする――を見るのを喜ぶのだという。彫刻や舞台を用いることで、これは「あの現実を模倣したのだ」とあれこれ考えたり語り合うことに、快楽をおぼえるのだ。そのカラクリが明かされている。

■ 生命とは何か(シュレディンガー)[レビュー]

 量子力学の巨人が生命の本質に迫る。

 アプローチは秀逸だが、「生命」そのものに対するズバリの答えはない。むしろ、「生命体」や「生命活動」とは何か、といったお題が適切かと。生きている細胞の営みを物理的に定義しなおした場合、どのようになぞらえることができるか? について、実にうまく表している。

 半世紀を経てなお刺激的なのは、シュレーディンガーの「問いの立て方」が上手いからだろう。たとえば、「原子はどうしてそんなに小さいのか」という問いへのブレークスルーな答えがある。それは、この問いの言い換えによる。つまり、本当は逆で、「(原子と比べて)人はどうしてそんなに大きいのか」という疑問に答えているのだ。

 さらに、生物を「時計仕掛け」と見なすことで、さまざまな「発見」が得られた。染色体は生物機械の歯車になるし、生命活動を遺伝子のパターンの維持と読み替えられる。遺伝子の突然変異を非周期性結晶の「異性体的変化」に置き換えてしまうところはお見事。メタファーの力を利用して、物理学と生物学の両方から手を伸ばして握らせようとしている。

 余談になるが、福岡伸一は「生物と無生物のあいだ」にて、シュレディンガーを批判している。そして、改版された「生命とは何か」の解説のなかで、そんな福岡がバッサリと斬られている。分かりやすさと正確さは、さじ加減が難しい。

■ 日本人の英語(マーク・ピーターセン)[レビュー]

 「英語の本質がわかると言っても過言ではない」とか、「全学共通科目の英語なんぞ 100 年続けても、この1冊には適うまい」といった最大級の賛辞が贈られている。

 著者は明治大学で教鞭をとっていたそうな。その経験が活かされている。新入生の「異様な英語」から、修士や博士論文に出てくる「イライラする文」までを、達意な「日本語」で説明してくれる。なぜ「異様」なのか、そしてなぜ「イライラ」するのかを理解するとき、英語の壁を一つ越えるだろう。

 本書を読むか否かを判断する、簡単なテストをしてみよう。

     a) Last night, I ate chicken in the backyard.
     b) Last night, I ate a chicken in the backyard.

 「どちらが正解?」という問題ではない。実は、どちらも正解。ただし、どちらも正しい英文として読むと、ある一方はスゴい光景になる。その想像がつくのであれば、本書は読まなくてもOK。ピンとこないようなら、ぜひ手にとって欲しい。わたし自身、「学生のときに読んでおけばよかった…」と強く感じる、薄くて濃い一冊。

■ 知的複眼思考法(苅谷剛彦)[レビュー]

 学生向けの、論理思考指南書。そこらのロジシン本を蹴散らす出来。

 読むべきは、第3章「問いの立てかたと展開のしかた」。ここでは、MECEとなるための思考方法を説明してくれる。実は、優れたツリーの裏側に何十枚もの「デッサン」がある。書いちゃ捨て、拾っては直しのスクラップ&ビルドが必要なんだが、フツーの指南本はそこを省く。本書には「デッサン」の線が沢山見えてくる。

 あるいは、アウトプットのための手法に限らず、インプットも批判的にできる。第1章「創造的読書で思考力を鍛える」が素晴らしく、ここを読むだけで、以降、目的を持った読書ができることを請合う。学生さんを想定しているため、噛み砕き具合がハンパじゃなく、まさに「読めば分かる」一冊として仕上がっている。

■ 一九八四年(オーウェル)

 全体主義国家による監視社会を描いたディストピア。

 だが、「小説の技巧」でアッと驚く"読み方"を知った。主人公とヒロインをアダムとイヴに置き換えて解説している。すると、偉大なる指導者(ビッグ・ブラザー)の密やかな監視と処罰は、たちまち別の光沢を帯びてくる。ラヴ・ロマンスと二人がたどった運命が、違った色合いで見えてくる。陳腐な言い回しだが、宿命付けられた悲劇を、「近未来小説」で読むという皮肉に、自嘲したくなる。

■ 幼年期の終わり(クラーク)[レビュー]

 SF史上不朽の名作。

 地球上空に、突如として現れた巨大な宇宙船――というベタな話と思いきや、SFとしてだけでなく、ミステリとしても超一級のおもしろさをお約束。あるいは、感傷を超越して、自分ではどうしようもない、取り返しのつかないものを眺めている―― そんな気分を味わうこともできる(わたしの場合、ラストの件で思わず涙してしまった)。

 ハヤカワ文庫で読んだのだが、光文社から新訳が出ている。第一部が改稿されており、amazon評を見る限り、新訳のほうが良い出来とのこと。このblogを読むような方なら既読だろうが、万が一、未読なら、是非読むべし

■ カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキー)

 最強の小説。これぞ小説のラスボス。

 毎年くりかえしになるが、この blog で「すごい本」を探している方には、これがそうだと断言できる。「なんか面白い小説ないかなー」というなら、これ読め(命令形)。最強・最高の読書体験を約束する。とっつきにくいって? 大丈夫!光文社から出ている新訳、これが信じられないぐらい読みやすくなっている。読むなら、いまだ。

■ ガリヴァー旅行記(スウィフト)

 「子どものころに読んだよ」という方がほとんどだろうが、童話ではなく完全版を読むべし。エロいしバッチイし強烈だぞ。風刺が利きすぎて鼻につくぐらいだし、おもわず「アチチ」と声が出るぐらい恥ずかしい思いをするかも。

 読むべきは最終章、馬の国の話。児童書だと間違いなくカットされているだろうが、これこそスウィフトの真骨頂だろう。究極のユートピアを描くことで、人間社会がいかに矛盾に満ち、汚れきっているかがよく分かる。しかもそのユートピアでの人間ときたら!

 童話しか知らない人はきっとガツンとやられる。読了後に[貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、且社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案]を読むと二度おいしい。

■ チベット旅行記(河口慧海)[レビュー]

 面白スゴ本。

 著者は明治時代の坊さんで、鎖国中のチベットに入国した最初の日本人。ただ独りで、氷がゴロゴロする河を泳ぎ、ヒマラヤ超えをする様子は、「旅行記」ではなく「冒険記」だな。

 ではこの坊さん、どうしてチベットまで行かなければならなかったのか?

 サンスクリットの原典は一つなのに、漢訳の経文は幾つもある。意訳、誤訳、適当訳が沢山ある。翻訳をくりかえすうちに、本来の意義から隔たってしまっているのではないか? それなら原典にあたろうというわけ。インドは小乗だし支那はアテにならん。だから西へ行くんだ。

 まるで三蔵法師!住職を投げ打ち、資金をつくり、チベット語を学び始める。周囲はキチガイ扱いするが、本人はいたって真剣。しかも、普通に行ったら泥棒や強盗に遭うだろうから、乞食をしていくという。

 この実行力がスゴい。最初は唖然とし、次に憤然としているうちに、だんだんと慧海そのひとに引き込まれる。これはスゴい人だ、と気づく頃には夢中になっている。ヒマラヤの雪山でただ一人、「午後は食事をしない」戒律を守る。阿呆か、遭難しかかってるんだって!吹雪のまま夜を迎え、仕方がないから雪中座禅を組む。死ぬよ!

■ 目玉の話(バタイユ)[レビュー]

 旧タイトルは「眼球譚」。新訳では、告白体のしゃべりがくだけた感じになり、さらに読みやすくなっている。

 特に目を引いたのが「玉」の語感。原文にある、"oeuf","oeil","couille"(ウフ、ウエ、クエ)の音感を、「目玉」、「玉子」、「金玉」と「玉」でつなげて訳しているのは素晴らしい。また、性器一帯を「尻」で統一しているのも良い感じ。

 エロスの極限に神性をもってきているのが鼻に付くが、冒涜行為は「神」相手でないとできないから仕方ないか。より強いショックを受けるには、キリスト教に入信するか、ヘーゲルを読んでおくといいらしい。

 わたしの脳に、「セックスと排尿」をバインドした張本人がバタイユ。愛し合う男女はセックスの際、尿をかけあうという誤った刷りこみのおかげで、変態あつかいされますた。余談だが、かわいい女の子が顔まっかにしておもらしするエロマンガの最高峰はぢたま某「聖なる行水」。「目玉」に辟易したらどうぞ。

 バタイユを含む、「人生を狂わせる毒書案内」は→「読んではいけない」をどうぞ

■ 何でも見てやろう(小田実)

 「外へ出ること」「遠くへ行くこと」を強く動機づけた一冊。

 「ガイコクを旅すること」がマイナーだった時代に、欧米・アジア22ヶ国を貧乏旅行した記録。「まあなんとかなるやろ」といった楽天的な態度とバイタリティーに影響され、わたしも一人旅したぞ。この「旅に出たい熱」ってハシカのようなものだね。古くは芭蕉やケルアック、最近だと沢木耕太郎や藤原新也あたりが、この熱病をバラまいている。

 免疫のない中高生が読んだら一発でかかる一冊。もちろんわたしもかぶれたぞ。大学生になってからがちょうどいいのかも。

■ ガルガンチュアとパンタグリュエル(ラブレー)

 おっぱい星人には悪いが、女は、尻だ(異論は認めない)。なぜなら、おっぱいの谷底と、尻のあわいめ、どちらが見たい?と自ら質みればいい。しょせん、おっぱいは尻の代替物なのだ――などと、お尻について情熱的に語っていたら、コメント欄で本書を教えてもらった。

 ルネサンス文学を代表するラブレーの傑作大長編だそうな。しかも新訳版が出ていたので、そいつに手を出してみる。いわゆる風刺+冒険譚を密度の濃い文体で連弾するように描いているみたいだ。底抜けに明るいスカトロジーを楽しめそうナリ。

■ コインロッカー・ベイビーズ(村上龍)

 新聞や週刊誌で見かける経済時評は全く評価しない。読み物としても情報源としても痛々しいのだが、かつてこんなスゴい物語をつむいでいたんだよな。

 コインロッカーを胎内としてこの世に生まれ出た罪の子らの、痛みすら伴う憎しみが伝わってくる。これを fairly tail として読むのは勝手だが、実行してきた若者はマスコミで見かけたことがあるだろう。彼らは「ダチュラ」を手にしていなかっただけ。その代わりにダガーやハンマーを握ったわけだ。強烈な破壊のエネルギーと疾走する文体に酔いしれるべし。

■ 安土往還記(辻邦生)[レビュー]

 「西洋人」というフィルターを通したからこそ見える、信長の行動原理を描く。

 同時代の日本人の視点ではとても捉えきれないとし、日本の外側から、イタリアの船員という語り部を持ってきている。

 ひたすら虚無をつきぬけ、完璧さの極限に達しようとする意志と、生死のぎりぎりの場にあって「事が成る」ために全力の生の燃焼の前に、妥協や慈愛は一蹴される。狂気のように、理(ことわり)を純粋に求め、自己に課した掟に一貫して忠実であろうとする生き様が書簡断片に輝いている。

 辻邦生は「春の戴冠」を読むべし、と誉れ高い。積読リストに入れて幾年月…

■ リア王(シェイクスピア)[レビュー]

 シェイクスピアは「リア王」が一番ドラマティックで面白い。新訳で読めるぞ。

 かの松岡正剛は「シェイクスピアの最高傑作である」と断言しているぞ。人間の弱さ・醜さ・おぞましさが、スラスラ読めるおそろしさを噛みしめるべし。

 親子の確執と愛情(陰謀も!)と、物語へのからまり具合が絶妙―― と、覚めて読んだ自分がかわいそう。これは夢中になって読むもの。以前は愛憎劇と斬っていたが、親子だけでなく、男女のもドロドロに混ざっていることに、ようやっと気づいた。不倫と駆引き、姉妹丼、さらに嵐の一夜のリアと○○○の掛け合いは、老人と若者の同性愛のように読める。

 コアを担うキャラクターが幾幕ごとに「ストーリー」を渡していく様が見事だ。ストーリーという道があって、サブストーリーが脇を走ってて… ではない。もつれた人間関係を話者が光を当てるように行き来していき、だんだん浮かび上がらせていくような感覚。でも全員が乗っている「場」がある運命に向かって船のようにずんずん進んでいく。小説の延長として読むよりも、演劇の下読みとして接すると面白いかも(そう、気に入った役になりきるわけだ)。

■ アイディアのつくり方(ジェームズ・ヤング)[レビュー]

 「一時間で読めて一生役立つアイディアの作り方」

 そんな惹句どおり、確かにシンプルで強力な方法だ。しかし、こいつを愚直に実践していくことはかなりの努力を要する。「アイディアとは、既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」と喝破する方法は、マネして→習慣化→血肉化してこそ意味がある。付せん貼ってブックマークして終わりなら、読まなかったことと同義。「いま」「すぐ」動かなければ、タタミの水練以下。実行すれば人生を変える一冊となる。言うは易く、JUST DO IT.

■ アブサロム、アブサロム!(フォークナー)[レビュー]

 南北戦争時代のアメリカを舞台にした、繁栄と没落の物語。重層的な語りの中に、呪われた血の歴史が浮かびあがる。わたしは、どろり濃厚なミステリとして読んだ、2008年のスゴ本ランキング入り。

 ただし、最近のエンターテインメントに甘やかされた読者には、ちと辛いかも。物語は複数の語り手の視線によってさらされ、吟味されているのだから。ストーリー消化率を向上させるための「何でも知ってる説明役」は一切ない。たとえ三人称であってもだまされるなかれ。聞き手の内省であったり対話(!)だったりするのだから。

 同じ描写、同じシーンが、微妙に異なる言葉・視点でくりかえし述べられている。ジグソーパズルを外側から埋めていくように、行きつ戻りつ繰言がくりかえされる。さらに、先ほどまで聞き手だった者が、次は語り手となって地の文に参入してくる。過去へ過去へと遡るうちに、おぞましい過去が追いかけてくる。

 物語そのものが語りだす声を訊くべし。

■ オリエンタリズム(サイード)

 歴史とは自らを正当化するためのラベリングの歴史そのものだということを暴く。つまり、「オリエンタル」という言葉・概念は西洋によって作られたイメージであり、文学、歴史学、人類学の中に見ることができる。「オリエンタル」というレッテルのおかげで西洋は優越感や傲慢さや偏見でもって、東洋と接することができたという主張を念入りに検証している。

 皮肉なのは、オリエンタリズムを批判する証拠物として、東洋で作られた著作物や芸術作品が提示されていないこと。そして、「西洋から見た東洋」の作品が挙げられていること。もちろん事実上「東洋」で作成されたものもあるが、それは「こういう『東洋』なら西洋は買ってくれるに違いない」という意図のもとで、自分で自分をステレオタイプ化しているに過ぎない。レッテルを貼られた被告人の告発ではなく、まさにそのレッテルこそが証拠なのだ。

■ ゲーデル、エッシャー、バッハ(ホフスタッター )

 未だに積読山に刺さっている。「読みます」宣言を毎年繰り返し、本棚の一番目立つところに鎮座したまま、幾年か。

 テーマは「自己言及」。ゲーデルの不完全性定理が、エッシャーのだまし絵やバッハのフーガをメタファーとして渾然と展開される。導入部のアキレスと亀の会話で分かった気になり、本編で叩きのめされる。いまは「単純な数学システム(MUパズル)で完結しているにもかかわらず、証明できないことが存在することを証明する」あたりでひっかかっていたが、「ゲーデルの哲学」[レビュー]のおかげでようやく理解できた。毎年、このシリーズを書くたびにエンジンかけている。これは、少しずつ読んでもダメだな。外堀埋めて、一気に読まないと。

■ 銃・病原菌・鉄(ジャレド・ダイアモンド)[レビュー]

 昨年の、「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」の第一位。そして、「この本がスゴい2008」の第一位もこれ。

 世界の富や権力は、なぜ現在あるような形で分配されてしまったのか? たとえば、なぜヨーロッパの人々がアフリカや南北アメリカ、オーストラリアを征服し、どうしてその逆ではないのか? この究極の問いをとことんまで追いかける。

 数千~数万年単位の歴史を、猛スピードでさかのぼり、駆け下りる。大陸塊を横長・縦長で比較しようとする巨大視線を持つ一方で、たった16キロの海峡に経だれられた文化の断絶ポイントを示す。時間のスケールを自在にあやつり、Google Earth をグルグルまわす酩酊感と一緒。地球酔いしそうな人類史から明かされる「富の偏在」の謎――それは、驚くとともに納得できるだけの理由をもっている。

■ アフリカ――苦悩する大陸(ロバート・ゲスト)[レビュー]

 「なぜ、アフリカは貧しいままなのか?」という問いに、ひとつの結論が出る一冊。

 アフリカの貧困問題に対し教科書どおりに答えるならば、植民地時代からの搾取、不安定な政府、内戦や伝染病、人種差別、部族主義や呪術主義、インフラや教育の欠如からHIV/AIDSの跋扈――と枚挙に暇がない。

 著者はこの質問に明快に答える。すなわち、政府が無能で腐敗しているからだという。私腹を肥やす権力者、国民から強奪する警察官、堂々とわいろを要求する官僚――これら腐りきった連中がアフリカを食い物にし、援助や支援が吸い取られる。資源に恵まれた国であっても同様だ。奪い合い→内戦化→国土の荒廃を招くか、あるいは、外資が採掘場所を徹底的に押さえ、オイルダラーが国民まで行き渡らない構造になっていると一刀両断している。

 もちろん本書だけでもってアフリカ問題を語りだすのは危険だし、そういう思考の失敗も見せてもらった。非常に興味深いことに、自説を強固に主張する方であればあるほど、その一面的な観点から一歩も出られないことがわかった。同じ愚を犯さないために、(相反する)類書をいくつか読んだが、それはそれだけアフリカ問題の巨大さを実感することとなった。

■ フォークの歯はなぜ四本になったか(ヘンリー・ペトロスキー)[レビュー]

 モノの見方が確実に変わる一冊。

 フォーク、ナイフ、クリップ、ジッパー、プルトップなど、身近な日用品について、「なぜそのカタチを成しているのか」を執拗に追求する。日ごろ、あたりまえに使っているモノが、実は現在のカタチに行き着くまでに途方も無い試行錯誤を経たものだったことに気づかされる。

 いわゆるデザインの定説「形は機能にしたがう(Form Follows Function)」への論駁が面白い。著者にいわせると、「形は失敗にしたがう(Form Follows Failure)」だそうな。もしも形が「機能」で決まるのなら、一度で完全無欠な製品ができてもいいのに、現実はそうなっていない。モノは、先行するモノの欠点(失敗)を改良することによって進化していると説く。これが膨大なエピソードを交えて語られるのだから、面白くないわけがない。

■ 不都合な真実(アル・ゴア)[レビュー]

 写真の持つ訴求力はスゴい。例えば、同じ場所の2枚の写真。まるで「使用前」「使用後」のように明らかだ。特に目を引いたのが、1975年のブラジルの衛星写真。一面緑に塗りつくされているのが、2001年では同じ場所とは思えない無残さ。あるいは、p.222の禿山が連なるハイチと、隣のp.223の緑に覆われたドミニカ共和国の国境を真ん中にすえた写真は、政策の違いが如実に「見える」。

 また、夜の地球の写真が面白い。むかし親父が教えてくれた「宇宙から地球を見たとき、三つの光が見える。都市の白い光、焼畑の赤い火、そして油田の黄色い炎だ」に加えて、もうひとつ、青白い光があることが分かった、日本海に集中して見える漁火だ。

 だが、何かが足りない。

 それは、事前に「百年の愚行」を見たから。人類が地球環境と自分自身に対して及ぼした数々の愚行の「象徴」が、れっきとした「現実」として写っている。近々人類が滅びるとするならば、その原因が写っているのは、「不都合な真実」ではなく「百年の愚行」だろう。環境プロパガンダ本としては「愚行」の方が上。大学教師オススメのリストには「愚行」が入っていなかったが、両者は合わせて読みたい。

■ 夜と霧(ヴィクトール・フランクル)[レビュー]

 ホロコーストの記録。強制収容所に囚われ、奇蹟的に生還した著者の手記。限界状況における人間の姿が、淡々と生々しく描かれる。

 極限状態に陥ったとき、目の前の苦悩そのものの意味を問わない。わたしは、そこから逃れようとするだろうし、適わないのなら、次元を変えてでも達成しようとするだろう。つまり、物理的に逃げられないのなら観念の世界へ逃げるとか、外界をシャットアウトして自分を外在化してしまうとか。しかし、著者フランクルは違う。

すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。

 そして、この経験を通じ、人間とは何か、に結論を出す。「人間とは、人間とは何かをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」――生きる目的を未来に託すのではなく、さりとて過去に取り付くのでもない。目の前の現実に対し、自ら決定していく存在を、思い知らされる。それは、わたしであり、あなたなのだ。

■ 誰のためのデザイン?(ドナルド・ノーマン)

 ありとあらゆる「ユーザーインタフェース」の基底となる本。

 これは、コンピュータのGUI に限らない。モノの持つ属性(色や形)が、そのモノ自身をどう取り扱ったら良いかについてのメッセージをユーザに対して発している、いわゆる affordance の根っこが分かる。「使いやすいとはどういうことか」が肌で分かる。ボタンの配置だとか見出しの色だとか、Webデザインネタが巷に数多にあるけれど、あくまで表層的なもの。もっと根源的な「どうしてそうだと分かるか」についてここまで実例を掘り下げて書いてあるのはめったにない。

 デザイン本をいくつも漁るよりも、デザイン本とは縁遠いようなコレをしっかりと読み込むほうが近道。同著者の近著として、「未来のモノのデザイン」があるが、「誰のための」の方が良い出来。

■ 哲学、脳を揺さぶる(河本英夫)[レビュー]

 オートポイエーシスの練習問題。慣れ親しんだ世界が「揺さぶられる」感覚を訓練できるぞ。

 本屋で見かけたとき、タイトルどおり「哲学」のエリアに置いてあったけれど、中身はちがうような気が。むしろ自己啓発書として使いたい。

 著者曰く、「学習」と「発達」を区別せよという。視点や観点の選択肢が一つ増えることは、学習の成果で、それに伴い知識も増える。けれども、能力そのものの形成や、能力形成の仕方自身を習得するのでなければ、テクニックが一つ増えたにとどまるという。
。つまり、思考技術や、フレームワークの紹介ではなく、「あたらしい感覚・あたらしい経験を再獲得するやり方」が書いてあるんだ。「自転車の乗り方」が書いてあるのではなく、「自転車に乗れるようになるとき、何がはたらいているのか」が書いてあるんだ。

 感覚のエクササイズに対し、既に知っていることと関連付けたり、今の知識に加えようとするのは禁物。学習の「前」に、その意味をカッコに入れ、自分の経験そのものを「動かす」ことを訓練してゆく。意味によって経験をラベリングするのではなく、再・経験する(創・経験する)のだ。

 100リストは、以下のとおり。

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1.「安土往還記」(辻邦生、新潮文庫)
2.「蝉しぐれ」(藤沢周平、文春文庫)
3.「こころ」(夏目漱石 、新潮社 )
4.「コインロッカー・ベイビーズ」(村上龍 、講談社 )
5.「ドグラ・マグラ」(夢野久作、現代教養文庫)
6.「宮本武蔵」(吉川英治 、講談社 )
7.「鍵」(谷崎潤一郎 、新潮社 )
8.「孤高の人」(新田次郎 、新潮社 )
9.「枯木灘」(中上健次、小学館文庫)
10.「高野聖」(泉鏡花、新潮文庫)
11.「笹まくら」(丸谷才一 、新潮社 )
12.「三国志」(吉川英治 、講談社 )
13.「山月記・李陵」(中島敦 、岩波文庫 )
14.「春の雪」(三島由紀夫 、新潮社 )
15.「春の戴冠」(辻邦生 、新潮社 )
16.「春琴抄」(谷崎潤一郎、新潮文庫)
17.「万延元年のフットボール」(大江健三郎、講談社)
18.「夕凪の街桜の国」(こうの史代、双葉社)
19.「果しなき流れの果に」(小松左京 、徳間書店 )
20.「神聖喜劇」(大西巨人、光文社)
21.「蒼穹の昴」(浅田次郎 、講談社 )

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│□□□ フィクション(海外)
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22.「アブサロム、アブサロム!」(フォークナー 、講談社 )
23.「アンナ・カレーニナ」(トルストイ 、岩波書店 )
24.「イワン・デニーソヴィチの一日」(ソルジェニーツィン、新潮社 )
25.「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー 、新潮社 )
26.「ガリヴァー旅行記」(ジョナサン・スウィフト、岩波文庫)
27.「ガルガンテュアとパンタグリュエル」(ラブレー、岩波文庫 )
28.「ドン・キホーテ」(セルバンテス、岩波書店 )
29.「ハムレット」(ウィリアム・シェイクスピア 、白水社 )
30.「ボヴァリー夫人」(フローベール、新潮文庫)
31.「ファウンデーション」(アイザク・アシモフ 、早川書房 )
32.「オデュッセイア」(ホメロス 、岩波書店 )
33.「リア王」(シェイクスピア、白水Uブックス)
34.「レ・ミゼラブル」(ヴィクトル・マリー・ユゴー 、岩波書店 )
35.「外套」(ゴーゴル、岩波文庫)
36.「完全な真空」(スタニスワフ・レム 、国書刊行会 )
37.「眼球譚」(ジョルジュ・バタイユ 、河出書房新社 )
38.「神曲」(ダンテ・アリギエーリ 、集英社 )
39.「大聖堂」(ケン・フォレット 、新潮社 )
40.「緋文字」(ナサニエル・ホーソーン 、新潮社 )
41.「百年の孤独」(ガルシア=マルケス、新潮社)
42.「不滅」(ミラン・クンデラ 、集英社 )
43.「幼年期の終わり」(クラーク 、早川書房 )
44.「一九八四年」(オーウェル、ハヤカワ文庫)

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│□□□ ノンフィクション(国内)
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45.「「甘え」の構造」(土居健郎 、弘文堂 )
46.「オイラーの贈物」(吉田武 、筑摩書房 )
47.「この数学書がおもしろい」(青木薫他、数学書房)
48.「自分のなかに歴史をよむ」(阿部謹也、ちくま文庫)
49.「知的複眼思考法」(苅谷剛彦、講談社α文庫)
50.「チベット旅行記」(河口慧海 、講談社 )
51.「読書からはじまる」(長田弘、NHKライブラリー)
52.「ミラノ 霧の風景」(須賀敦子 、白水社uブックス )
53.「何でも見てやろう」(小田実、河出書房新社)
54.「ローマ人の物語」(塩野七生 、新潮社 )
55.「理科系の作文技術」(木下是雄、中央公論社)
56.「論理トレーニング101題」(野矢茂樹、産業図書)
57.「本はどう読むか」(清水幾太郎 、講談社 )
58.「福翁自伝」(福沢諭吉、岩波文庫)
59.「人間臨終図巻」(山田風太郎 、徳間書店 )
60.「知の技法」(小林康夫 、東京大学出版会 )
61.「定本言語にとって美とはなにか」(吉本隆明 、角川書店 )
62.「哲学、脳を揺さぶる」(河本英夫、日経BP)
63.「日本語の作文技術」(本多勝一 、朝日新聞社 )
64.「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎、岩波文庫)
65.「言志四録」(佐藤一斎 、講談社 )
66.「自分の中に毒を持て」(岡本太郎 、青春出版社 )

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│□□□ ノンフィクション(海外)
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67.「アイデアのつくり方」(ジェームズ・ヤング 、TBSブリタニカ )
68.「アフリカ――苦悩する大陸」(ゲスト、東洋経済新報社)
69.「イェルサレムのアイヒマン」(ハンナ・アーレント、みすず書房)
70.「エセー」(モンテーニュ 、中央公論新社 )
71.「エレガントな宇宙」(ブライアン・グリーン 、草思社 )
72.「オリエンタリズム」(エドワード・サイード、平凡社ライブラリー)
73.「ゲーデル、エッシャー、バッハ」(ホフスタッター 、白揚社 )
74.「システムの科学」(ハーバート・サイモン 、パーソナルメディア )
75.「銃・病原菌・鉄」(ダイアモンド、草思社)
76.「沈黙の春」(カーソン、新潮文庫)
77.「パワーズ オブ テン」(フィリップ・モリソン、日経サイエンス)
78.「フェルマーの最終定理」(サイモン・シン、新潮社)
79.「フォークの歯はなぜ四本になったか」(ペトロスキー 、平凡社 )
80.「不都合な真実」(アル・ゴア、ランダムハウス講談社)
81.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(ヴェーバー 、岩波書店 )
82.「ホーキング、宇宙を語る」(ホーキング 、早川書房 )
83.「夜と霧」(フランクル、みすず書房)
84.「リスク」(ピーター・L.バーンスタイン 、日本経済新聞社 )
85.「愛するということ」(エーリッヒ・フロム、新訳版紀伊國屋書店)
86.「宇宙のたくらみ」(ジョン・D.バロー 、みすず書房 )
87.「君主論」(ニッコロ・マキャヴェリ 、岩波書店 )
88.「詩学」(アリストテレス、岩波文庫 )
89.「自然界における左と右」(マーチン・ガードナー 、紀伊国屋書店 )
90.「人はなぜエセ科学に騙されるのか」(カール・セーガン、新潮社)
91.「世論」(リップマン、岩波書店)
92.「生命とは何か」(シュレーディンガー、岩波新書)
93.「精神の生態学」(グレゴリー・ベイトソン 、新思索社 )
94.「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン 、NTT出版 )
95.「誰のためのデザイン?」(ドナルド・A.ノーマン 、新曜社 )
96.「統計はこうしてウソをつく」(ジョエル・ベスト、白揚社)
97.「日本人の英語」(マーク・ピーターセン、岩波新書)
98.「罰せられざる悪徳・読書」(ヴァレリー・ラルボー 、みすず書房 )
99.「方法序説」(デカルト、岩波書店)
100.「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス、紀伊国屋書店)

 全リストは、以下のリンク先に置いた。

「2009年版_大学教師が新入生にすすめる100冊.csv」をダウンロード

 読みたいリストは決して消えないし、それどころか、あっという間に増殖してゆく。人生は有限なのに、読みたいリストは無限だ。せめては、定期的に振り返ってブラッシュアップしていきたい。

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amazonのアフィリエイトIDがBANされて10日間にしたこと

3行でまとめる。

  • amazonアフィリエイトIDが閉鎖された
  • 直近の200件を除き、このブログの過去記事を公開停止にした
  • 新IDを取得し、API経由でamazonへリンクを作成する方式にした

以下、わたしと同じ轍を踏まないようにするためにまとめる。

アフィリエイトIDの閉鎖

2/4、amazonより奇妙なメールが届いた。内容はこんな感じ。

  • コンプライアンス違反している可能性がある
  • アカウントサービスに登録されたウェブサイトにアクセスできない、または機能していないことが判明した
  • アカウントの停止を防ぐために、「ホーム>アカウントの管理>ウェブサイトとモバイルアプリの変更」に登録したURLを確認し、機能していないURLを更新するか、削除すること
  • 2/12までに実施すること

言われた通り、このブログのURLが登録されていることを確認した。たまにココログはアクセスできなくなることがあるので、そのタイミングでamazonがクロールしに来たのかな?と考えた。

2/10、同様のメールが届いた。もう一度、同じ確認をしたが、URLは間違いなかった。

2/17、こんなメールが届いた。

  • 警告通知を2度送ったが、問題が解決されていない
  • アカウントサービスに登録されているすべてのウェブサイトにアクセス不可能、もしくはそれらが機能していない
  • そのため、アフィリエイトIDを完全に閉鎖した
  • 未払いの収入は発生しない
  • amazonへの全てのリンク、タグ、コンテンツを削除すること

寝耳に水で、問い合わせメールを送ったが、木で鼻を括った返答(これは最終かつ恒久的な措置)だった。

過去記事の公開停止

このブログが「アクセス不可能」という可能性は薄いが、「機能していない」とはどういうことだろう?

更問いしても回答が得られない。GPTさんに相談したところ、「悪質と判断された場合、最悪、アカウント閉鎖もありうる」とのこと。これまでつぎ込んできたKindleが読めなくなるのはヤバすぎる。

ブログ自体はアクセスできているが、amazonへのリンクの仕方に問題があるのだろうと想定した。このブログでは、以下のリンクが入り混じっている。

  1. amazonウィジェット画像リンクを書き換え
  2. amazonから直接取得
  3. Product Advertising API(PA-API)による生成

1.は、アフィリエイトの画面で、画像リンクを生成すると、出てくるコードで、それをそのままココログに貼っていた。

2.は、どこかのライフハック記事で知った方法で、amazonの画像やアフィリエイトリンクを直接HTMLに書くやり方。コードが単純で、ASIN番号を差し替えるだけなので手軽に利用していた(詳細は[ここ])。

3.は、2023年の規約更改により、PA-API経由でアクセスするやり方。API経由のサーバを立てるのが面倒なので、テストツールが吐き出すHTMLを貼っていた(詳細は[ここ])。

他にも、ツールバー(SiteStripe)から生成したリンクもあるが、おそらく1か2が問題なのだろうとアタリをつけ、直近の200件を除き、過去記事(2,300件くらい)を全て公開停止にした。

その上で、おそるおそる、新しいアフィリエイトIDを申請したところ、あっさり通った(直近の200件は、PA-APIで生成されている)。

ここからは仮定だが、おそらく、2(amazon直リン)が問題だったのではないか。直接リンクの場合、価格や在庫が同期されず、またamazon側からのトラッキングができない。

amazonからクロールして、直リンである「images-jp.amazon」が大量にあるこのブログをNGと判断した可能性は、大いにありうる。

API経由でリンクする

新しいアフィリエイトIDで、amazonの書影ができればいいのだが、同じ轍は踏みたくない。

また、PA-APIは2026/4末で廃止予定のため、Creaters APIにする必要がある(つまり3.はダメ)。クラウドサーバ(Cloudflare)を借りて、そこからAPIを叩くように変更した。

ココログ(HTMLでamazonリンク、画像はCloudflareへリクエスト)
 ↓
Cloudflare(ASIN番号からCreaters APIを叩く)
 ↓
amazon(商品画像を返す)

アプリケーションIDやクレデンシャルIDの扱い、規約に則ったコードなど、めんどくさいのは基本的にGPTに任せて、人間はチェックするだけという作業でもなんとかなった。

懸念があるとするなら、ココログのimgをクロールすると、Cloudflareが出していることになるので(=amazonが出していないことになるので)、amazon側がこれを再配信と見なす可能性が残っている点だ(皆さん、どうやって解決しているのだろう?個人ブログとクラウドAPI連携は一般的じゃない?)

まとめ

現時点で、amazonから理由は開示されていないものの、状況的に、amazon画像直リンク(images-jp.amazon)が大量に残っていたことが、最も疑わしいと考えられる。

公開停止した大量の記事は、リンクを修正次第、順次公開していく。優先的に公開してほしい記事があれば、リクエストしてほしい。

ココログの仕様上、URLが新たに払い出されるので、過去の内容が新着記事としてエントリされてしまう。悪しからず。再公開の記事の一行目には以下の注釈を入れておく。

【初出 〇〇〇〇年〇月〇日】



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なぜ田村玲子は逃走も反撃もしなかったのか?哲学から読む『寄生獣』読書会(追記あり)

食べたパンの数と同じくらい、『寄生獣』を読んだ回数は覚えていない。何度読んでも面白いし、何度読んでも考え込んでしまう。”寄生獣”とは何なのか、シンイチはなぜあんなことをしたのか(あるいはしなかったのか)。田宮良子から田村玲子へどのように変化したのか。一つの疑問が解けると、また次の疑問がわいてくる。

一人で考え込んでてもしょうがない。なので『寄生獣』の読書会があるというので行ってきた。6人で2時間、みっちり語り合ってきた。哲学カフェの読書会ということで、哲学の切り口から『寄生獣』を眺めることができた。

物語構造からすると、最も変化するキャラクターが主人公になる。天涯孤独の身から栄光を手に入れたり、幸運の絶頂からどん底に転落したり、失われた愛・友情・宝を手に入れて、登場人物の中で劇的に変化する存在となるのは、主人公だ。

その意味で、シンイチほど大きく変化したキャラクターはいないだろう。だが、その変化は判別がしやすく、寄生獣という物語の中で一貫性を保っている。

しかし、田宮良子も、シンイチとは別の意味で、大きく変化したキャラクターだと言える。だろう。単純に捕食する「獣」から生前の経歴を乗っ取り、その人格として生きていこうとする。「この種を食い殺せ」という”命令”に反し、人間のような食生活で生きていこうとする。

さらには子を産み、その子どもを守ろうとする。

寄生生物として生まれた存在が、母になるのだ。

この変化は、シンイチの変化と本質的に異なる。シンイチは、ミギーとの共生によって「人間とは何か」を問い直す。身に掛かる火の粉を振り払ううちに、人間としての感情を喪失してゆき、さらには取り戻していく(涙が……)。

一方、田宮良子(田村玲子)は別のやり方で同じ問いを繰り返す。人間を観察し、人間のように振る舞い、人間の感情に触れていく。大学の講義(たぶんモグリ)を聴講し、人を含めた生物の利他行動を学ぼうとする。

このとき「なぜ人は子どもを守るのか」という疑問を抱いたに違いない。

サピア=ウォーフ仮説を田村玲子に適用する

読書会で挙げられた中で、「人間を研究していくうちに、人間のような感情を抱くようになったのではないか」という意見が面白かった。

田村玲子の行動を、サピア=ウォーフ仮説で説明するのだ。この仮説は、簡単に言うと「認識や思考は、使用している言葉に影響される」という考え方だ。

人は、自分が使う言葉の枠組みの中で世界を理解する。小雨、霧雨、春雨、にわか雨、夕立、時雨など、季節や時刻や状況によって細かく呼び名を変えている文化と、rainで済ませている文化がある。そのとき、同じ気象現象に出会ったとしても、異なる経験をしている可能性がある。

本を読んで人間社会を学んだミギーと、映画のビデオで日本語を学んだジョーの「個体差」にも現れている。相手を観察し、持っている知識と状況から合理的に結論を導こうとするミギーと、まずは行動し手っ取り早くカタを付けようとするジョーの性格が対照的だ。

この仮説を田村玲子に当てはめると、少し面白いことが見えてくる。”彼女”は、人間を観察するだけでなく、人間社会の中で生き始める。人間の言葉を使い、人間の制度の中で生活し、人間の学問を学ぶ。

最初は単なる擬態だったのかもしれない。だが、使い続けるうちに、その言葉が前提としている世界観もまた、彼女の中に入り込んでいったのではないだろうか。例えば「母」や「子」、「守る」や「利他」は、寄生生物の世界には存在しない概念だろう。こうした言葉を理解し、使っていくうちに、田村玲子はその概念の中で認識を深め、思考するようになる。

田宮良子の時は、子どもとは、「何かの実験に使う」ための素材であり、「用がなければ食う」ための食糧だった。

田村玲子になり、生物としての母だけでなく、母という概念を内面化していった結果、「子どもを守る」ことを最優先とするようになった。倉森との最後の会話で「自分でも驚いているわ……」と呟いたのは、その証左だろう。

これが、ミギーのこの疑問(そして私の疑問でもある)への答えとなるのかもしれない。

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『寄生獣』第48話「ただいま」より

銃撃の中に身をさらすのは、自殺行為のように見える。もし、”彼女”が寄生生物としての論理で行動するなら、自分の生存を第一に考えるはずだ。

抱いた子に自分のDNAは無い。だが、シンイチから「その子供はおまえのか?」と聞かれたとき「そう……あたしのよ」と答えた(第36話、「あたしの」には傍点)。人間の言語で思考するうちに、選択の基準は変化し、「自分」ではなく「自分の子ども」を守る存在となった。その瞬間、田村玲子は人間の倫理の中で行動する生物となったと言えるだろう。

田村玲子は東福山市で何をしようとしたのか?

なぜ、寄生獣たちは、市長を擁立し、市ぐるみで群れをつくろうとしたのか?

この疑問に対し、第29話でミギーが答えているが、「静けさを保ちつつ食糧を確保していくために、数十万単位の人間個別の情報を管理・把握するため」が正解に近いだろう。

だが、田宮良子はこれに、どのように関わっていたのか?作中ではあまり語られず、シンイチからの質問には「さあ、よく知らない」とはぐらかし(人間っぽい!)ている。

この疑問に、ハンナ・アレントの『人間の条件』を援用した解説が面白かった。

アレントは人間の営みを3つの段階に分けている。

  • 労働:食べ物を得る、生き延びるといった生命維持
  • 制作:道具や制度、文化など、持続する人工物の創造
  • 活動:人と人との関係を結び、公共空間での言論や政治活動

アレントは、人間の自由とは3つ目の「公共空間での言論や政治的活動」にあるとし、消費社会や全体主義により、この自由が奪われていると主張した。

この視点から見ると、寄生生物は、最初の「労働」の段階にいる。つまり、「食べる」ことだけが目的だ。人間を捕食し、生き延びる。それだけになる。

だが、”彼ら”は次の段階に入る。寄生生物どうしが連絡を取り合い、役割を分担し、組織的に行動する。市長を擁立し、都市の行政に入り込み、社会の仕組みを利用する。これは、単純な捕食ではなく、「制作」の段階になる。

田宮良子は広川と組むことで、「食料を確保するための社会システム」を作ろうとしたと言えるだろう。東福山市の人口は約50万、これだけあれば、寄生生物は安定した食糧を確保できる。

そして、田宮良子は次の段階を考えていたのかもしれない。

それは「活動」だ。単なる組織ではなく、「人と共に生きる社会」を作る段階になる。もし、寄生生物がこの段階に到達できたなら、それは単なる捕食者ではなく、一つの政治的存在になる。第1話のモノローグや、第55話の広川の演説により「増えすぎた人間を間引くため」という文脈に引っ張られがちだが、軍事利用できるプレデター部隊としての未来もありうる。

その未来が、どんな未来なのか、ついぞ知ることはできないが、寄生生物と人間が、どのような関係を結ぶことができるのか、その問いを考え続けていたのかもしれぬ。

“彼女”の計画は破綻し、「仲間」だったはずの寄生生物からも狙われるようになる。合理的に考え、一糸乱れぬ組織づくりができるという見込みは、予想外なほどの個体差、個性の衝突により崩れ去った。

その意味で、田宮良子は寄生生物としての限界を感じていたのかもしれぬ。「後藤」のような、か弱い最強の個体を作り上げることはできても、統率された組織として活動を維持していくことは適わない。人間ならそこで絶望を感じるかもしれないが、田村玲子は「ああ そうか」と思うだけだろう。

もちろん、田村玲子は市役所の包囲戦など知らない。だが、このままでは人間に追われ、狩り取られていく未来が見えていたのかもしれない。だから、警官隊に囲まれたとき、逃げることも戦うこともしなかったというのは、人間という生き物を理解してしまったが故の選択だったのかもしれない。

こんな感じで、『寄生獣』を哲学から読む読書会だった。

私は、『SFマンガで倫理学』を紹介しながら、生物全体のバランスや生態系そのものに価値があるとする「エコセントリズム」vs「人間中心主義」という人間が生きるために生態系を守る価値観との戦いの構図を紹介した[URL]

他にも、(初期プロットで※)シンイチが後藤を殺さなかった理由を、望遠鏡の倫理で読み解いたり、ガイア思想に抗い主人公が最後にした決断を『風の谷のナウシカ』と比較したり、「母という存在」を泉信子と田宮良子を重ねてみたり、ラカンの大文字の他者をシンイチの行動に適用したり、さらなる深読みの手がかりをもらえた。

哲学カフェ アテナイの散歩道の主催の藤沢さん、参加者の皆さん、ありがとうございました。


(3/17追記)

※シンイチは後藤を殺したが、初期プロットではあのナタを振り下ろさず、「あのままスタスタ帰ってしまう」(第10巻付記)。読書会ではこの初期プロットが話題になり、望遠鏡の倫理(望遠鏡的博愛:Telescopic Philanthropy)が紹介された。これは、遠いアフリカの貧しい人たちを望遠鏡で覗いて気にかけてばかりいて、足元は見向きもせず、荒れ放題にしている婦人を揶揄する風刺画だ(ディケンズ『荒涼館』)。

  • 後藤を殺さない理由:人類全体から見ると、捕食者としての天敵は必要(遠い博愛)
  • 後藤を殺す理由:復活した後藤に狙われる可能性や、父や里見を巻き込むリスク(近い博愛)

単純な善悪の問題ではなく、どの距離の他者に責任を負うべきか、という倫理の優先順位を突きつけるところが、「正しさとは何か」考えさせられる。

※のカッコ()は、普通に読むと、シンイチが後藤を殺していないかのように読めてしまうので、追記した(はてブでご指摘いただきました、ありがとうございます!)。

おまけ:会場近くの青島食堂のラーメンがめちゃくちゃ美味しかった。

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暴力は減っているのか?――『暴力の人類史』を読み直す

長い歳月のあいだに人間の暴力は減少し、今日、私たちは人類が地上に出現して以来、最も平和な時代に暮らしているかもしれない

膨大な統計・歴史資料・考古学データを用い、心理学・神経科学・進化論を横断し、「暴力は減っている」と主張する、スティーブン・ピンカー著『暴力の人類史』の一文だ。

原著が出たのが2011年、日本語訳が2015年で、ビル・ゲイツをして「私が読んだ中で最も重要な一冊。それも『今年の』ではなく『永遠の』一冊だ」と言わしめたことで、読書人の間では絶賛されていたように見える。

一方、私は違和感を抱いた。

結論ありきで暴力の定義を伸び縮みさせるレトリックに辟易し、かなり批判的に評した(おめでたいアメリカ人『暴力の人類史』)。「欧米からは減っている」かもしれないが、減ったと見なされる暴力は、不可視になったり形を変えて移動しているのでは?……という考えだった。

いま、この冒頭の文を読み直すと、どう感じるだろう?「最も平和な時代」に暮らしていると言えるだろうか?

ウクライナの塹壕のドローン映像、ガザの瓦礫の山、イラン上空を飛ぶミサイルの軌跡。リアルタイムでタイムラインに流れてくる。私は、10年前よりも遥かに頻繁に「暴力」を目撃している。

「暴力は増えている」はバイアスか?

だから、暴力は増えていると言えるのだろうか? 

それは違うとピンカーは言う。血生臭いニュースに触れていると暴力が増えていると考えるのは、『暴力の人類史』で提示されたバイアスだ。ニュースの本質は「変化」であり「例外」だから、平和や安全が維持されていることは、あまりニュースにならない。

そして、人は思い出しやすい事例に引っ張られて、実際よりも多く見積もってしまう(利用可能性バイアス)。その結果、暴力は増えていると感じてしまっているというのだ。

では、この私の感覚は、認知の歪みなのか?

例えばOCHAのデータ(ガザ地区における死傷者数)を見ると、2023年以降の大規模な衝突により数万人規模の犠牲者が出ている。

このデータは、あくまで武力衝突による数字であって、インフラの破壊や食糧不足による犠牲者はカウントされていない。それでも、少なくともガザ地区では暴力は激増しており、認知の歪みとは言えない。

『暴力の人類史』への違和感

このデータを提示しても、トータルで見ると減っているというかもしれない。

ピンカーの理屈はこうだ。歴史を振り返ると、おぞましい虐殺行為がある一方、技術が発達した近代での戦死者数は膨大なものになる。異なる時代において、暴力が増えているか・減っているかを測るためには、単純な「死者数」ではなく「発生率」で測れという。

「もし自分が、ある特定の時代に生きていた人の一人だったとしたら、自分が暴力の犠牲になる確率はどのくらいあったか?」ということだ。この二番目の論理にしたがえば、異なる社会間の暴力の有害性を比較する際には、暴力的行為の数ではなく、その発生比率に注目すべきだという帰結になる。
(ピンカー『暴力の人類史』上巻 p.108)

そして、人口当たりの割合で考えるなら、個々の戦闘での死者数が数万人増えようと、平和に暮らしている人の母数が遥かに多いため、トータルの割合は極めて低いものとなる。

ピンカーは、自説を裏付けるため、2005年のイラク・アフガニスタンでの武力衝突を例に挙げ、米国人の暴力死の「割合」を計算する。過去最大の武力衝突において、米国人の戦死者は945人に上るが、同年のアメリカ人の総死者数の0.0004%しかならないという。

そして、ピンカーは Correlates of War Project (COW)の統計情報を取り上げ、戦闘による死者数を当時の人口で割った「割合」でもって、暴力が減少していると主張する。

私は、COWの「戦闘による死者数(battle deaths)」という指標に違和感を覚える。これは基本的に、兵士と兵士が戦闘のなかで死亡するケースを想定している。民間人が死ぬとしても、それは「コラテラルダメージ(付随的被害)」として扱われる。

だが、近代戦争ではむしろ都市爆撃やミサイル攻撃、包囲戦、インフラ破壊などによって、戦場にいない民間人が大量に死亡するケースがある。この死者は、戦争の現実を考えるうえでは周辺的な存在ではない。

それにもかかわらず、「戦闘死」という指標を中心に据えると、戦争による暴力のかなりの部分が統計の外側に押し出されてしまう。

例えば、COWによると、第二次大戦で174万人の日本兵が死んでいる。だが、この中には日本本土の空襲で死傷した100万人と被災した970万人[Wikipedia:日本本土空襲]は含まれていない。

爆撃機による攻撃を、「空襲」と呼ぶか「空爆」と呼ぶかによって、価値判断は逆転する。空爆したが反撃を受けた結果の戦死者はカウントされるが、空襲による一方的な被害は「戦闘死」ではないのだから。

暴力死の割合を説明する際、ピンカーが「米国人」を例に挙げていることは象徴的だ。2005年のイラク戦争やアフガニスタン戦争で死亡した人々の大多数は、米国人ではない。ピンカーは話を分かりやすくするための例だと言うかもしれない。だが、まさにその方法によって、戦争による暴力の現実が見えなくなっていることを示しているように思える。

「戦闘による死者数」という統計は客観的な数字のように見えるが、実際には「どの死を戦争の死として数えるのか」という価値判断を含んでいる。ピンカーの議論には、殺される側の論理が十分に考慮されていないように見える。

歴史専門家からの反論

ピンカーへの違和感は、私だけではないようだ。

オックスフォード大学出版の「ベリー・ショート・イントロダクション」というシリーズがある。特定のテーマを専門家がコンパクトにまとめたものになる。このシリーズで、ずばり『暴力』をテーマに、ニューカッスル大学の歴史学部教授フィリップ・ドワイヤーが書いている。

ピンカーが、身体的な暴力や殺人、あるいは戦闘死といった統計的にカウントできるものに焦点を当てた一方、ドワイヤーは暴力の定義は歴史・文化的にも変化するものだとした。

だいじな問題は「暴力とはなにか?」ではなく、「ある社会において、なにが暴力となり、それはどういうものなのか?」なのです。これは暴力とは、たんに主観的なものであるという意味ではなく、それぞれの社会において、個別の文化的、社会的、経済的、政治的文脈のなかで暴力を理解しなければならないという考えです。
(ドワイヤー『暴力』第1章 暴力、その過去と現在)

この考え方のほうが、しっくりくる。何をもって暴力とするかは、時代や文化によって異なると、私も思っているから。

「暴力死の数」で例えるなら、「そもそも異教徒は人でないから死者ですらない」と見なされていただろう。

キリスト教圏、イスラム教圏、ユダヤ教圏のそれぞれが、それぞれにとっての「異教徒」と争うことがあっても、それは戦争ではなく駆除として扱われていた時代があったはずだ。人ではないから何をしても許されていた時代では、その人ならざりき存在に対する破壊は、そもそも暴力ですらなかった。

ドワイヤーはレイプを例に説明する。

「レイプ」という言葉ひとつ取っても、文化的背景によって異なるという。妻が夫の所有物とされていた時代では、夫婦間レイプは存在しなかった。奴隷はモノとして扱われていた文化では、児童レイプは存在しなかった。男性へのレイプはレイプとして認められていない文化だってある。

こうした背景の下、特定の指標値でひとくくりに判定してしまうのには無理がある。夫婦間のレイプは20世紀後半まで犯罪ではなかったから、統計情報を取ろうとすると、ゼロになる。これは、「夫婦間のレイプが無かった」ということではなく、統計情報では測れないことを示している。

ドワイヤーは他にも、内戦の増加、強制労働、人身売買、収監の拡大を取り上げる。これらは「戦争死者数」で多寡を判定する価値観の外側にある暴力になる。

透けて見える啓蒙主義

私の違和感の中心にあるものは、「暴力は減っている」という言い方そのものが、ある特定の文明観を前提にしているのではないか?という疑問だ。

ドワイヤーは、暴力の理論が欧米中心のアプローチになっていることを指摘する。

そこでは、国家が暴力の独占機関となる歴史が語られ、暴力は「文明的」とは見なされない規範の内面化が是とされ、暴力は合理的な思考を進めることで解決できる問題とされている。暴力は文明や合理性とは正反対なもので、啓蒙や文明化によって解消できるものだとする。

これは、ウェーバー、エリアス、フーコーを系譜とし、ピンカーが主張する価値観だ。

もちろん、私自身もこの価値観の下に教育を受け、この文明観に染めあげられている。だが、この価値観で全てを測ろうとするならば、事実として私が目にしているものが取りこぼされてしまってはいないか、と感じるのだ。

ヨーロッパ人は、植民地支配を「未開人」や「原始人」に文明と啓蒙をもたらす行為だと正当化していました。また先住民が「無知」であるとして、日常的な暴力の使用も容認されていましたが、この点には人種的要因も関係しています。ヨーロッパ人はしばしば先住民を「害獣」のように見なしていたからです。
(ドワイヤー『暴力』第6章 暴力と国家)

ドワイヤーは、植民地大国が現地の人々に対して行った暴力の大部分は、記録に残されていないという。

統計情報として測れるものを暴力として定義し、それを元に人類史を振り返る試みは、大変な仕事だと思う。数字というエビデンスベースで語れるし、客観性や説得力もあるだろう。

『暴力の人類史』を最初に読んだとき、テーマにより暴力の定義を変えていることに反発したが、それは客観性を担保するための方策であり、人類史という時間軸の中で比較するために必要だったことは、今では納得できる。

しかし、これがある種の価値判断に基づいた言説の一つであるという認識が無いままであれば、独善の罠に陥ることになる。

「暴力は減っているのか?」という問いに答える前に、まず「何を暴力として数えるのか」を問わなければならない。



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ダメな人生は何度やってもダメか?―――6人で2時間語り合った『セールスマンの死』読書会(ネタバレあり)

ピュリッツァー賞受賞作の戯曲『セールスマンの死』読書会が、濃厚だった。

かつては敏腕セールスマンだったが、今では落ち目のウィリーが主人公だ。家のローン、保険、車の修理費、定職につかない息子、夢に破れ、すべてに行き詰まったウィリーが、ある選択を迫られるのだが――という話を、参加者6人で2時間かけて語り合った。

皆さんの第一印象はこんなん。

  • しんどい、冷静に読めない
  • 他人事(ひとごと)じゃない
  • 「私の話じゃない」と言い聞かせながら読んだ

確かにそう。ローンのために働いているウィリーに、自分が重なる。日常を維持していくために、ラットレースのように走り続けなければならない絶望が描かれている。

かつての、あったかもしれない成功へのチャンスは、ただの幻なのに、その夢想が現実を侵食する。「こんなはずじゃない」と思うのは自由だが、それを声に出し、暴れる姿には、読んでるこっちがヒリヒリしてくる( [アマプラ]を見ると胸が痛くなるはずだ)。

父の「嘘」を信じる家族

ウィリーは、妻子の前だけでも「稼ぐお父さん」「特別な存在」「みんなの人気者」を演じ続けようとする。セールスマンは歩合制だから、売上が無ければ給料は無い。どうしても打ち明けられないウィリーは、叔父から借りたカネを給料と称して妻に渡す。

妻のリンダは、ウィリーの嘘に気づいている。

だが、知らないフリをして「給料」を受け取り、家計が大変な妻の役を続けようとする。少なくともニューヨークに庭付きの一軒家を持ち、冷蔵庫や車など、物質的に豊かな生活は続けていけるから。

この態度について、肯定派と否定派に分かれた。

ウィリーの嘘を暴いたところで、どうすることもできない。だから、なんとか日々をしのいでいく。そうするうちに、風向きが変わってくるかもしれない。そう前向きにとらえる意見があった。

一方、それは単に上辺だけを取り繕っているにすぎないとする意見もあった。リンダの「あなたは疲れているのよ」というセリフは、一時的な痛み止めのように繰り返される。お金が無いことを知っていたのなら、「無理しないで、暮らしをささやかにすればいい」と言うことだってできたはずだ。だが、上辺の幸福を守るため、ウィリーの嘘に付き合い続けた。

肯定派と否定派、どちらの解釈も分かるし、どっちが正しいと一概に言えぬ。

ただ、どちらの立場でも、一致する点があった。それは、この家族は共依存に陥っているという指摘だ。

ウィリーの嘘を信じることで、家庭の平穏が守られ、ウィリーのプライドも保たれる。ウィリーは(嘘がバレているかもしれないと薄々感じながらも)、自分のプライドを守り続けることができる。

さらに、「この物語に悪人はいない」という指摘も鋭かった。

悪い人は出てこない。ウィリーは嘘をついたが、死ななければならないような嘘ではない。妻リンダは上辺の幸せを守ろうとしただけだし、長男のビルは盗癖があるものの、罪を償おうとする。次男のハッピーは、父と兄を仲直りさせようと奔走した。

それぞれが懸命に生きようとし、誰も悪くないのに、破滅へ向かうのを止められない。因果が玉突き事故のように連鎖して、「どうしてこうなった」というラストへ向かう。

そこで出てきたのは、「もし、やり直すとしたらどうすればよかったか?」という問いだ。

確かにウィリーはどこかで間違えた。

馘を言い渡される前に、プライドを引っ込め、頭を下げていれば、仕事を続けられていたかもしれない。

出張先での浮気が息子にバレた夜、腹を割ってよく話し合っていれば、息子は落第しなくて済んでいたかもしれない。

手遅れになる前に、カネを稼げなくなったこと、精神的に不安定なことを正直に打ち明け、家を手放し、引退してささやかな生活にするといった未来だって選べたかもしれない。

やり直すポイントは、いくらでもあった。

ダメな人生はやり直してもダメ?

読書会での主な意見は、「繰り返しても同じ破滅だろう」になる。

頭を下げる。話し合う。打ち明ける……上手くいかなかった人生を振り返り、変化もたらす諸々の行動を、拒絶したのがウィリーだ。

確かに、ウィリーは息子と抱擁し、後悔の涙を流した。

だが、最後はウィリーのプライドが勝った。人生の負けを認めることができず、変化を拒絶し、夢の世界へ逃げきるために死を選んだ。

だから、ウィリーの人生はどこでやり直したとしても、「プライドが勝つ」人生となっただろう。

一方、ウィリーの墓前で、リンダはすすり泣きながらこう言う。

ねえ、ウィリー、どうすればいいの、あたしは泣けないんですよ。まるで、またお仕事でおでかけになった時みたい。お帰りを待っているのよ。なぜ、あんなことをなさったの?考えて、考えて、考えぬきました。でも、わからない、どうしても。

家の最後の払いは、今日すませました。今日ですよ。でも、もう住む人はいない。借りも払いも、なくなったのよ。これで、自由になったのよ。

胸がぎゅっと締め付けられるラストだが、リンダは、この期に及んでも、ウィリーの死を受け入れられず、出張に行ったかのようにしたいと思っている。ショックのあまり受け入れられないという解釈もできるが、死を表面化させないようにしているとも取れる。

死亡保険でローンが完済した一軒家で、リンダはこの繰り言を唱えながら、残りの人生をひっそりと生きていくことが示唆される。

リンダもまた、人生を繰り返したとしても、変化を受け入れられず、表面を取り繕った態度を取り続けるだろう。

やり直せる=変化を受け入れられる

しかし、仮にやり直しができるとする人生があるとするなら、それは長男のビフだ。

なぜなら、ビフだけが、嘘から抜け出そうとしてたから。物語の後半、「俺は特別じゃない」と告白し、嘘の人生を認めていたから。それは、「特別になれなかったら負け」という父の教えと真っ向対立する。

大学進学を棒に振ったのは、落第したから。落第したのは追試を受けなかったから。追試を受けなかったのは、泥棒して警察に捕まっていたから。さらに、新しい職を求め、面接したけれどダメで、いつもの手癖で万年筆を盗んでしまったことを告白する。

盗み癖があること、腰を据えた仕事ができないこと、誰かに指図されるのが嫌なことを正直に認める。そんな自分がたまらなく嫌で、自分を変えたいともがく。「お父さんに認めてもらおう」とするあまり、偽りの自分を作り上げてきた人生を変えようとする。

物語の中で、何かしらの変化があるのはビフだけだ。ウィリーやリンダと違い、ビフだけが嘘を認め、偽りを否定し、変化を受け入れようとする。だから、もしも、やり直しができるのなら、それはビフの人生になる。

もっとも、盗癖は治っていないため、悪の道に踏み入るというやり直しかもしれないが。

みなとシェア読書会の主催者さま、参加者の皆さま、濃ゆい時間をありがとうございました。より深く多様に、この物語を堪能できました。



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