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暴力は減っているのか?――『暴力の人類史』を読み直す

長い歳月のあいだに人間の暴力は減少し、今日、私たちは人類が地上に出現して以来、最も平和な時代に暮らしているかもしれない

膨大な統計・歴史資料・考古学データを用い、心理学・神経科学・進化論を横断し、「暴力は減っている」と主張する、スティーブン・ピンカー著『暴力の人類史』の一文だ。

原著が出たのが2011年、日本語訳が2015年で、ビル・ゲイツをして「私が読んだ中で最も重要な一冊。それも『今年の』ではなく『永遠の』一冊だ」と言わしめたことで、読書人の間では絶賛されていたように見える。

一方、私は違和感を抱いた。

結論ありきで暴力の定義を伸び縮みさせるレトリックに辟易し、かなり批判的に評した(おめでたいアメリカ人『暴力の人類史』)。「欧米からは減っている」かもしれないが、減ったと見なされる暴力は、不可視になったり形を変えて移動しているのでは?……という考えだった。

いま、この冒頭の文を読み直すと、どう感じるだろう?「最も平和な時代」に暮らしていると言えるだろうか?

ウクライナの塹壕のドローン映像、ガザの瓦礫の山、イラン上空を飛ぶミサイルの軌跡。リアルタイムでタイムラインに流れてくる。私は、10年前よりも遥かに頻繁に「暴力」を目撃している。

「暴力は増えている」はバイアスか?

だから、暴力は増えていると言えるのだろうか? 

それは違うとピンカーは言う。血生臭いニュースに触れていると暴力が増えていると考えるのは、『暴力の人類史』で提示されたバイアスだ。ニュースの本質は「変化」であり「例外」だから、平和や安全が維持されていることは、あまりニュースにならない。

そして、人は思い出しやすい事例に引っ張られて、実際よりも多く見積もってしまう(利用可能性バイアス)。その結果、暴力は増えていると感じてしまっているというのだ。

では、この私の感覚は、認知の歪みなのか?

例えばOCHAのデータ(ガザ地区における死傷者数)を見ると、2023年以降の大規模な衝突により数万人規模の犠牲者が出ている。

このデータは、あくまで武力衝突による数字であって、インフラの破壊や食糧不足による犠牲者はカウントされていない。それでも、少なくともガザ地区では暴力は激増しており、認知の歪みとは言えない。

『暴力の人類史』への違和感

このデータを提示しても、トータルで見ると減っているというかもしれない。

ピンカーの理屈はこうだ。歴史を振り返ると、おぞましい虐殺行為がある一方、技術が発達した近代での戦死者数は膨大なものになる。異なる時代において、暴力が増えているか・減っているかを測るためには、単純な「死者数」ではなく「発生率」で測れという。

「もし自分が、ある特定の時代に生きていた人の一人だったとしたら、自分が暴力の犠牲になる確率はどのくらいあったか?」ということだ。この二番目の論理にしたがえば、異なる社会間の暴力の有害性を比較する際には、暴力的行為の数ではなく、その発生比率に注目すべきだという帰結になる。
(ピンカー『暴力の人類史』上巻 p.108)

そして、人口当たりの割合で考えるなら、個々の戦闘での死者数が数万人増えようと、平和に暮らしている人の母数が遥かに多いため、トータルの割合は極めて低いものとなる。

ピンカーは、自説を裏付けるため、2005年のイラク・アフガニスタンでの武力衝突を例に挙げ、米国人の暴力死の「割合」を計算する。過去最大の武力衝突において、米国人の戦死者は945人に上るが、同年のアメリカ人の総死者数の0.0004%しかならないという。

そして、ピンカーは Correlates of War Project (COW)の統計情報を取り上げ、戦闘による死者数を当時の人口で割った「割合」でもって、暴力が減少していると主張する。

私は、COWの「戦闘による死者数(battle deaths)」という指標に違和感を覚える。これは基本的に、兵士と兵士が戦闘のなかで死亡するケースを想定している。民間人が死ぬとしても、それは「コラテラルダメージ(付随的被害)」として扱われる。

だが、近代戦争ではむしろ都市爆撃やミサイル攻撃、包囲戦、インフラ破壊などによって、戦場にいない民間人が大量に死亡するケースがある。この死者は、戦争の現実を考えるうえでは周辺的な存在ではない。

それにもかかわらず、「戦闘死」という指標を中心に据えると、戦争による暴力のかなりの部分が統計の外側に押し出されてしまう。

例えば、COWによると、第二次大戦で174万人の日本兵が死んでいる。だが、この中には日本本土の空襲で死傷した100万人と被災した970万人[Wikipedia:日本本土空襲]は含まれていない。

爆撃機による攻撃を、「空襲」と呼ぶか「空爆」と呼ぶかによって、価値判断は逆転する。空爆したが反撃を受けた結果の戦死者はカウントされるが、空襲による一方的な被害は「戦闘死」ではないのだから。

暴力死の割合を説明する際、ピンカーが「米国人」を例に挙げていることは象徴的だ。2005年のイラク戦争やアフガニスタン戦争で死亡した人々の大多数は、米国人ではない。ピンカーは話を分かりやすくするための例だと言うかもしれない。だが、まさにその方法によって、戦争による暴力の現実が見えなくなっていることを示しているように思える。

「戦闘による死者数」という統計は客観的な数字のように見えるが、実際には「どの死を戦争の死として数えるのか」という価値判断を含んでいる。ピンカーの議論には、殺される側の論理が十分に考慮されていないように見える。

歴史専門家からの反論

ピンカーへの違和感は、私だけではないようだ。

オックスフォード大学出版の「ベリー・ショート・イントロダクション」というシリーズがある。特定のテーマを専門家がコンパクトにまとめたものになる。このシリーズで、ずばり『暴力』をテーマに、ニューカッスル大学の歴史学部教授フィリップ・ドワイヤーが書いている。

ピンカーが、身体的な暴力や殺人、あるいは戦闘死といった統計的にカウントできるものに焦点を当てた一方、ドワイヤーは暴力の定義は歴史・文化的にも変化するものだとした。

だいじな問題は「暴力とはなにか?」ではなく、「ある社会において、なにが暴力となり、それはどういうものなのか?」なのです。これは暴力とは、たんに主観的なものであるという意味ではなく、それぞれの社会において、個別の文化的、社会的、経済的、政治的文脈のなかで暴力を理解しなければならないという考えです。
(ドワイヤー『暴力』第1章 暴力、その過去と現在)

この考え方のほうが、しっくりくる。何をもって暴力とするかは、時代や文化によって異なると、私も思っているから。

「暴力死の数」で例えるなら、「そもそも異教徒は人でないから死者ですらない」と見なされていただろう。

キリスト教圏、イスラム教圏、ユダヤ教圏のそれぞれが、それぞれにとっての「異教徒」と争うことがあっても、それは戦争ではなく駆除として扱われていた時代があったはずだ。人ではないから何をしても許されていた時代では、その人ならざりき存在に対する破壊は、そもそも暴力ですらなかった。

ドワイヤーはレイプを例に説明する。

「レイプ」という言葉ひとつ取っても、文化的背景によって異なるという。妻が夫の所有物とされていた時代では、夫婦間レイプは存在しなかった。奴隷はモノとして扱われていた文化では、児童レイプは存在しなかった。男性へのレイプはレイプとして認められていない文化だってある。

こうした背景の下、特定の指標値でひとくくりに判定してしまうのには無理がある。夫婦間のレイプは20世紀後半まで犯罪ではなかったから、統計情報を取ろうとすると、ゼロになる。これは、「夫婦間のレイプが無かった」ということではなく、統計情報では測れないことを示している。

ドワイヤーは他にも、内戦の増加、強制労働、人身売買、収監の拡大を取り上げる。これらは「戦争死者数」で多寡を判定する価値観の外側にある暴力になる。

透けて見える啓蒙主義

私の違和感の中心にあるものは、「暴力は減っている」という言い方そのものが、ある特定の文明観を前提にしているのではないか?という疑問だ。

ドワイヤーは、暴力の理論が欧米中心のアプローチになっていることを指摘する。

そこでは、国家が暴力の独占機関となる歴史が語られ、暴力は「文明的」とは見なされない規範の内面化が是とされ、暴力は合理的な思考を進めることで解決できる問題とされている。暴力は文明や合理性とは正反対なもので、啓蒙や文明化によって解消できるものだとする。

これは、ウェーバー、エリアス、フーコーを系譜とし、ピンカーが主張する価値観だ。

もちろん、私自身もこの価値観の下に教育を受け、この文明観に染めあげられている。だが、この価値観で全てを測ろうとするならば、事実として私が目にしているものが取りこぼされてしまってはいないか、と感じるのだ。

ヨーロッパ人は、植民地支配を「未開人」や「原始人」に文明と啓蒙をもたらす行為だと正当化していました。また先住民が「無知」であるとして、日常的な暴力の使用も容認されていましたが、この点には人種的要因も関係しています。ヨーロッパ人はしばしば先住民を「害獣」のように見なしていたからです。
(ドワイヤー『暴力』第6章 暴力と国家)

ドワイヤーは、植民地大国が現地の人々に対して行った暴力の大部分は、記録に残されていないという。

統計情報として測れるものを暴力として定義し、それを元に人類史を振り返る試みは、大変な仕事だと思う。数字というエビデンスベースで語れるし、客観性や説得力もあるだろう。

『暴力の人類史』を最初に読んだとき、テーマにより暴力の定義を変えていることに反発したが、それは客観性を担保するための方策であり、人類史という時間軸の中で比較するために必要だったことは、今では納得できる。

しかし、これがある種の価値判断に基づいた言説の一つであるという認識が無いままであれば、独善の罠に陥ることになる。

「暴力は減っているのか?」という問いに答える前に、まず「何を暴力として数えるのか」を問わなければならない。



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ダメな人生は何度やってもダメか?―――6人で2時間語り合った『セールスマンの死』読書会(ネタバレあり)

ピュリッツァー賞受賞作の戯曲『セールスマンの死』読書会が、濃厚だった。

かつては敏腕セールスマンだったが、今では落ち目のウィリーが主人公だ。家のローン、保険、車の修理費、定職につかない息子、夢に破れ、すべてに行き詰まったウィリーが、ある選択を迫られるのだが――という話を、参加者6人で2時間かけて語り合った。

皆さんの第一印象はこんなん。

  • しんどい、冷静に読めない
  • 他人事(ひとごと)じゃない
  • 「私の話じゃない」と言い聞かせながら読んだ

確かにそう。ローンのために働いているウィリーに、自分が重なる。日常を維持していくために、ラットレースのように走り続けなければならない絶望が描かれている。

かつての、あったかもしれない成功へのチャンスは、ただの幻なのに、その夢想が現実を侵食する。「こんなはずじゃない」と思うのは自由だが、それを声に出し、暴れる姿には、読んでるこっちがヒリヒリしてくる( [アマプラ]を見ると胸が痛くなるはずだ)。

父の「嘘」を信じる家族

ウィリーは、妻子の前だけでも「稼ぐお父さん」「特別な存在」「みんなの人気者」を演じ続けようとする。セールスマンは歩合制だから、売上が無ければ給料は無い。どうしても打ち明けられないウィリーは、叔父から借りたカネを給料と称して妻に渡す。

妻のリンダは、ウィリーの嘘に気づいている。

だが、知らないフリをして「給料」を受け取り、家計が大変な妻の役を続けようとする。少なくともニューヨークに庭付きの一軒家を持ち、冷蔵庫や車など、物質的に豊かな生活は続けていけるから。

この態度について、肯定派と否定派に分かれた。

ウィリーの嘘を暴いたところで、どうすることもできない。だから、なんとか日々をしのいでいく。そうするうちに、風向きが変わってくるかもしれない。そう前向きにとらえる意見があった。

一方、それは単に上辺だけを取り繕っているにすぎないとする意見もあった。リンダの「あなたは疲れているのよ」というセリフは、一時的な痛み止めのように繰り返される。お金が無いことを知っていたのなら、「無理しないで、暮らしをささやかにすればいい」と言うことだってできたはずだ。だが、上辺の幸福を守るため、ウィリーの嘘に付き合い続けた。

肯定派と否定派、どちらの解釈も分かるし、どっちが正しいと一概に言えぬ。

ただ、どちらの立場でも、一致する点があった。それは、この家族は共依存に陥っているという指摘だ。

ウィリーの嘘を信じることで、家庭の平穏が守られ、ウィリーのプライドも保たれる。ウィリーは(嘘がバレているかもしれないと薄々感じながらも)、自分のプライドを守り続けることができる。

さらに、「この物語に悪人はいない」という指摘も鋭かった。

悪い人は出てこない。ウィリーは嘘をついたが、死ななければならないような嘘ではない。妻リンダは上辺の幸せを守ろうとしただけだし、長男のビルは盗癖があるものの、罪を償おうとする。次男のハッピーは、父と兄を仲直りさせようと奔走した。

それぞれが懸命に生きようとし、誰も悪くないのに、破滅へ向かうのを止められない。因果が玉突き事故のように連鎖して、「どうしてこうなった」というラストへ向かう。

そこで出てきたのは、「もし、やり直すとしたらどうすればよかったか?」という問いだ。

確かにウィリーはどこかで間違えた。

馘を言い渡される前に、プライドを引っ込め、頭を下げていれば、仕事を続けられていたかもしれない。

出張先での浮気が息子にバレた夜、腹を割ってよく話し合っていれば、息子は落第しなくて済んでいたかもしれない。

手遅れになる前に、カネを稼げなくなったこと、精神的に不安定なことを正直に打ち明け、家を手放し、引退してささやかな生活にするといった未来だって選べたかもしれない。

やり直すポイントは、いくらでもあった。

ダメな人生はやり直してもダメ?

読書会での主な意見は、「繰り返しても同じ破滅だろう」になる。

頭を下げる。話し合う。打ち明ける……上手くいかなかった人生を振り返り、変化もたらす諸々の行動を、拒絶したのがウィリーだ。

確かに、ウィリーは息子と抱擁し、後悔の涙を流した。

だが、最後はウィリーのプライドが勝った。人生の負けを認めることができず、変化を拒絶し、夢の世界へ逃げきるために死を選んだ。

だから、ウィリーの人生はどこでやり直したとしても、「プライドが勝つ」人生となっただろう。

一方、ウィリーの墓前で、リンダはすすり泣きながらこう言う。

ねえ、ウィリー、どうすればいいの、あたしは泣けないんですよ。まるで、またお仕事でおでかけになった時みたい。お帰りを待っているのよ。なぜ、あんなことをなさったの?考えて、考えて、考えぬきました。でも、わからない、どうしても。

家の最後の払いは、今日すませました。今日ですよ。でも、もう住む人はいない。借りも払いも、なくなったのよ。これで、自由になったのよ。

胸がぎゅっと締め付けられるラストだが、リンダは、この期に及んでも、ウィリーの死を受け入れられず、出張に行ったかのようにしたいと思っている。ショックのあまり受け入れられないという解釈もできるが、死を表面化させないようにしているとも取れる。

死亡保険でローンが完済した一軒家で、リンダはこの繰り言を唱えながら、残りの人生をひっそりと生きていくことが示唆される。

リンダもまた、人生を繰り返したとしても、変化を受け入れられず、表面を取り繕った態度を取り続けるだろう。

やり直せる=変化を受け入れられる

しかし、仮にやり直しができるとする人生があるとするなら、それは長男のビフだ。

なぜなら、ビフだけが、嘘から抜け出そうとしてたから。物語の後半、「俺は特別じゃない」と告白し、嘘の人生を認めていたから。それは、「特別になれなかったら負け」という父の教えと真っ向対立する。

大学進学を棒に振ったのは、落第したから。落第したのは追試を受けなかったから。追試を受けなかったのは、泥棒して警察に捕まっていたから。さらに、新しい職を求め、面接したけれどダメで、いつもの手癖で万年筆を盗んでしまったことを告白する。

盗み癖があること、腰を据えた仕事ができないこと、誰かに指図されるのが嫌なことを正直に認める。そんな自分がたまらなく嫌で、自分を変えたいともがく。「お父さんに認めてもらおう」とするあまり、偽りの自分を作り上げてきた人生を変えようとする。

物語の中で、何かしらの変化があるのはビフだけだ。ウィリーやリンダと違い、ビフだけが嘘を認め、偽りを否定し、変化を受け入れようとする。だから、もしも、やり直しができるのなら、それはビフの人生になる。

もっとも、盗癖は治っていないため、悪の道に踏み入るというやり直しかもしれないが。

みなとシェア読書会の主催者さま、参加者の皆さま、濃ゆい時間をありがとうございました。より深く多様に、この物語を堪能できました。



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