ヨーロッパ文学の継承者としてのラテンアメリカ文学:磯﨑憲一郎・寺尾隆吉トークイベント
ラテンアメリカ文学の位置づけが目ウロコだった。
「面白そうなものを読む」という動機で、言語や文化にかまわず手を出してきた。文学の美味なるところをつまみ食いした自覚はあるものの、どうやってこの出汁が取れたのかは分からない。小説技法やテーマ、物語構造は、世代や社会を超えて受け継がれていくものだが、それがどのように行き渡ってきたのかは、皆目見当がつかなかった。
そんな私にとって、ラテアメ文学の立ち位置が示されたこの対談は、大変ありがたいものだった。
ヨーロッパ近代文学の継承者
ラテアメ文学は、いわゆる「ブーム」のように扱われがちだが、全く異なるという。
確かに、昭和の終わりのマジックリアリズムの流行と、令和の初めの『百年の孤独』文庫化のお祭り騒ぎは、一時的な熱狂のように見える。
しかし、これは(日本から見た)表面的なものだという。ラテンアメリカ文学は、むしろ文学の継承者だというのだ。
20世紀の後半はヨーロッパ近代文学が終焉を迎えた時代になる。ロブ=グリエやミシェル・ルトールといったヌーヴォー・ロマン系は、実験小説の袋小路に入り、「つまらない」「中身がない」と言われる局面にあった。
この行き詰まりを打破したのが、ラテンアメリカ作家の五人衆(マルケス、ジョサ、ドノソ、コルタサル、フエンテス)だという。ボルヘスが翻訳したフォークナーを読み、同時にウルフやカミュやサルトルを通じて、ヨーロッパ近代文学を受け継いだ五人衆になる。
つまり、ラテンアメリカ文学は、辺境からの突然変異ではなく、近代文学の正統な後継者という視点だ(これは寺尾隆吉氏の近著で詳説されているという。読んでみよう)。
この視点のおかげで、色々と腑に落ちる。
例えば、フォークナーが作り上げた、土地・歴史・血縁・暴力が複雑に絡み合うヨクナパトーファのサーガは、マルケス『百年の孤独』のブェンディア一族のサーガにつながっている。もちろん両者は異なるが、同じ「血」が流れている物語のように感じられる。
他にも、ウルフ『灯台へ』における、1人称でも2人称でも3人称でもない、無人称とでも呼ぶべき描写は、『族長の秋』や『予告された殺人の記録』に受け継がれているという。『灯台へ』は未読なので、答え合わせが楽しみだ。
「現実と虚構を対比させる」←この枠組みそのものが揺さぶられ、行き詰まっているのがヨーロッパ近代文学なら、そのリアリズムが取りこぼしてきた現実を、「そもそも現実とは何?」と問い返す試みが、マジックリアリズムだったのかもしれぬ。
この、ヨーロッパ文学の継承者としてのラテンアメリカ文学という
新しい世代として思い浮かぶのは、グアダルーペ・ネッテルや、マリアーナ・エンリケス、エルビラ・ナバロ、サマンタ・シュウェブリンになるだろう。
いくつか読んで感じるのは、狂気が自然現象のように語られることや、政治的トラウマが通底音のように響く点だろうか(『寝煙草の危険』と『花びらとその他の不穏な物語』)。
巨大な物語が解体されたと言われて久しい。だが、解体された物語がどこへ行ったのかは分からない。もし、ヨーロッパ文学の後継者としてラテンアメリカ文学を位置付けるなら、解体された物語は、より私的で身体的で、不穏な領域に引き受けられているように見える。
「黄色」の秘密
他にも、『十二の遍歴の物語』なら「聖女」が一番好きという話や、『百年の孤独』で黄色い蛾をまとうマウリシオが印象的なのに、登場するのはたった数頁という驚き(←私も同感)など、様々なネタがあり、あっという間の2時間だった。
質問コーナーは無かったが、終了後、寺尾さんをつかまえて、長年の謎をぶつけてみた。読書会で謎だった「黄色」についてだ。
Q.『百年の孤独』に「黄色」が象徴的に使われています。日本でピンク映画、米国ならブルーフィルムのように、色に込められた文化的な意味があります。作中に散りばめられている黄色には、ラテンアメリカ圏でどんな意味があるのでしょうか?
・不眠症の仔馬
・ マウリシオが連れている蛾
・ 小町娘のレメディオスに捧げられる薔薇
・ マコンドに最初にやってくる汽車
・ 葬式の朝、マコンドじゅうに降る花
A.「幸せ」という意味かもしれませんね。ホームパーティに呼ばれるとき、黄色いアイテム―――ハンカチとかボールペンとか―――を身に着けてきてね、と言われることがあります。黄色いものを身に着けておくと、願いが叶うと言われています。
なるほど!いわゆる「幸せの黄色いハンカチ」のような、一種のゲン担ぎかもしれぬ。「今日のラッキーカラー」のような、めざましテレビの占い的なものだと考えると、親近感がわく。
地球の反対側のラテンアメリカ文学が、急に身近に感じられる一夜だった。
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