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手遅れとなった人生からどう生きるか

自分にウソをつき、無為に時を過ごし、カラッポとなった人生から、世界はどのように見えるのか? 終わりがくるのを待つだけになったら、どう感じるのか?

[人生の手遅れ感を養う3冊] で、自分の人生を生きなかった人の末路を紹介した。自己欺瞞が暴かれ、絶望に向き合わされるとき、私は「この人生は、私の人生でもあったのだ」と身震いする。

しかし、同時に「私の人生ではなかった」ことにだってできる。なぜなら、まだ時間があるから。現実として死の床に就いているなら別だが、そんな人は本すら読めない(もちろん、この文章も)。

やりたいことを全部やるのに、遅すぎるかもしれない。

それでも、残り時間はゼロじゃない。消化試合として過ごすのか、アディショナルタイムに足掻くのか。

家族のために始めた「悪」なのに

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『Breaking Bad』は、パンツで仁王立ちする、冴えないオヤジ(ウォルター・ホワイト)が主人公だ。

高校の化学の先生なのだが、家のローンに追われ、妻と子を養うためにバイトまで掛け持ちしている。肺がんで余命宣告されることにより、彼の人生は大きく変わる。

借金はまだ残っているし、子どもの大学進学のお金も要る。何よりも、妻が身ごもっており、このまま死ぬわけにはいかない。

そこで持ち前の化学の知識を生かし、超高純度のドラッグを精製して売りさばくという、人生最大の賭けに出る。

ドラッグの品質はダントツで、人気が出るのだが、他の売人やマフィアが黙っちゃいない。そうした連中に巻き込まれていくうち、このおっさん、どんどん悪くなっていく。最初は愛する妻子のためにお金を稼ぐのだが、カネがカネを呼び、愛が憎しみを呼び、引き返せないところまで疾走していく。

その経緯を、ときにコメディタッチ、ときに残虐に、あますことなくつぶさに見させられるのだが、「どうしてこうなった」という言葉しかでてこない。第1話にすべてが込められており、1話を見ると2話を、2話を見ると次々と観たくなる、麻薬のようなドラマだ。

ウォルターは、馬鹿正直な人生から、悪の道に踏み入るようになるにつれ、より自由に生きているように見える。妻のため、息子のため、そして生まれてくる娘のために、必死になって生き延び、カネを稼ぎ、敵を排除しようとする。

だがそれは、彼の承認欲求を満たし、プライドを満足させ、支配欲を暴走させる行為へとなる。人生の残り時間で自由に生きようとする物語から、欲望が倫理を破壊する物語へと変貌する。

愛によって始まった物語が憎しみによってドライブする。ウォルターの人生は手遅れとなったと言えるが、どの時点で手遅れとなったのかを見極められない。

最近の研究で、ブレイキング・バッド効果というものがあるらしい。がん宣告と犯罪率の急上昇の可能性を示唆している。治療費や失職による金欠と、余命宣告による「失うものは無い」心理により、犯罪に手を染める人が多いという。

Breaking Bad: How Health Shocks Prompt Crime - American Economic Association

「得たもの」でなく「あげたもの」で決まる人生

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『生きる LIVING』は、堅物なおっさん(ウィリアムズ)が主人公だ。

ロンドン市役所の課長で、几帳面・寡黙・冗談が通じない(部下からは、Mr.ゾンビと呼ばれている)。息子夫婦と同居しているものの、どちらかというと疎遠だ。

長年、規則正しく仕事をこなしてきたが、ある日、末期がんで余命わずかと宣告される。息子夫婦に伝えようとするが、普段から冷ややかな応対なので、言いそびれてしまう。

ショックのあまり仕事をサボり、茫然と時を過ごすようになる。

ウィリアムズは「自分は何もしてこなかったのではないか?」と自問する。これまでの人生が、空虚な習慣の積み重ねに過ぎないことに向き合わされる。手遅れとなった人生を取り戻すかのように、夜の街に繰り出し、享楽的に過ごそうとする……が、満たされない。

そんな中、かつて部下だった女性と出会い、時を重ねるにつれて、自分が「何か意味のあること」を成し遂げたいと願っていることに気づく。

そこでウィリアムズは、かつて陳情として受けていた、空き地を子どもの遊び場にする計画を、自らの使命として引き受ける。煩雑な手続きや官僚的な無責任を乗り越え、断固たる決意でプロジェクトを前に進めていくのだが……というお話。

余命宣告により人生の手遅れ感に気づくところは、『Breaking Bad』と同じだ。だがその後の生き様はまるで異なっており、面白い。

黒澤明監督『生きる』を思い出す方もいらっしゃるだろうが、御察しの通りリメイクだ。カズオ・イシグロが脚本を手がけており、ストーリーも若干変えてある。原作の方は何回見ても涙でよく見えなくなるので、こちらのリメイク版を観たのだが、やはり涙でぐしゃぐしゃになった。

「生きるとは何か」について知りたい方は、ぜひ。ただし、「あなたが生きるとは何か」は、あなたのための問いとして描かれている。

わたしの人生を、あなたの人生にする方法

「死期を覚ることで、生きる意味を見出す」なら、マイケル・キートン主演『マイ・ライフ』も号泣モノやね。

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ただ、この記事では、死期を覚った状況で「どう生きるか」がテーマなので、『死ぬまでにしたい10のこと』を推す。

主人公はアン、失業中の夫ドンと娘2人でトレーラーハウスに住んでいる。

冒頭、23歳という若さで、余命2か月のがんと宣告される。アンは、この事実を誰にも告げないと決め、「死ぬまでにしたい10のこと」をノートに書き出す。そして、一つずつ実行していく。ただそれだけの物語だ。

映画には、上手い仕掛けが施してある。アンは、モノローグで自分自身を指して、「あなた」(you)と呼ぶ。死と向き合い、冷静に言い聞かせるように、「あなた」と呼びかけるのだが、これ、観ている私に向けられた you と聞こえる。まるで、アンが私に呼びかけているようで、私の人生が有限であることを、改めて気づかせてくれる。

死ぬまでにしたい10のこと

  1. 娘たちに、毎日何度も「愛してる」と伝える
  2. 娘たちが好きになれる、新しい妻をドンに見つける
  3. 娘が18歳になるまでの毎年分の誕生日メッセージを録音する
  4. みんなでホエール・ベイ・ビーチにピクニックに行く
  5. 好きなだけタバコを吸って、好きなだけお酒を飲む
  6. 思っていることを、ちゃんと口に出す
  7. 他の男性と愛し合ってみる(どんなものか確かめるために)
  8. 誰かに好きになってもらう
  9. 刑務所にいるお父さんに会いに行く。
  10. きれいなネイルをしてもらう(髪もやってもらう)

ささやかなリストで分かるのだが、生活は苦しい。貧乏だからビデオカメラが無いんだ。だからカセットテープに「声」を吹き込んで、タイムカプセルに封印するかのようにメッセージを遺す。そして、毎年毎年、娘たちが誕生日を迎えるたびに、「声」を再生してもらうのだ。

勘のいいオタクなら、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の第10話を思い出すかもしれない。5歳の娘のために50通の手紙を残そうとする母親の話だ。母の死後、娘は毎年誕生日に、ヴァイオレットが代筆した手紙を受け取ることになる(ちなみに、娘の名前は「アン」という)。

『死ぬまでにしたい10のこと』の原題は、”My Life without me” だ。人生が手遅れとなっていても、言葉は遺せる。「ありがとう」であれ「あいしてる」であれ、私が居なくなった人生は、言葉で渡すことができる。

人生は有限だが、今から始まっている

余命宣告によって「手遅れ」と思えた人生は、どこから本当に手遅れになるのか?

欲望に暴走したウォルター、何かを残そうとしたウィリアムズ、「声」を未来に託したアン―――共通するのは、タイムリミットが可視化された人生だ。

そして、可視化されていないだけで、私の人生も有限であることに変わりはない。さらに、この事実を私は忘れがちだ。

もし、本当に手遅れの人生というなら、『イワン・イリイチの死』だろう。

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イワンは、成功人生を送ってきたが、病を得、どんどん篤くなっていく。家族の冷淡な様子や、ひとりぼっちで惨めな思い、そして、自分の人生がまったくの無駄であったことを徹底的に思い知らされる。

恐れ、拒絶、戦い、怒り、取引、抑うつ、そして受容といった典型的な段階を経ながら、死と向かい合う心理的葛藤を容赦なく暴きたてる。死とは他人にだけ起きる事件だとタカくくっていた順番がまわってきたとき、どういう態度をとるのか。否が応でも「自分の番」を考えさせられる。

気楽・快適・上品――健康だった頃の価値尺度は、そのまま彼の人生の虚構度合いを示している。他者との精神的なかかわりを避け、自分の人生を生きてこなかった彼が、死を自覚することで、ムリヤリ向き合わされる。これこそが、取り返しのつかない、手遅れとなった人生だ。

イワンを通じて、私の身に将来起きる、私の死をシミュレートする。やり残したことがあるに違いない。後悔したこと、償いたいこと、読みたかった本、行きたかった場所、会いたかった人……そんなことばかりだろう。

そして、こんなギリギリになって、無駄ばかりの恥多い人生を、後悔することしきりだろう。だから、神様か仏様に頼んで、「今」に戻してもらったことにしよう。

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だが、その神様か仏様の計らいで、後悔の記憶も消されてしまっている。そのため、その残り時間を、消化試合だとかアディショナルタイムと揶揄したくなるかもしれない。そんな私のために、この言葉を残しておく。

今、やり直せよ。未来を。
十年後か、二十年後か、五十年後から
もどってきたんだよ今。



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ヨーロッパ文学の継承者としてのラテンアメリカ文学:磯﨑憲一郎・寺尾隆吉トークイベント

ラテンアメリカ文学の位置づけが目ウロコだった。

「面白そうなものを読む」という動機で、言語や文化にかまわず手を出してきた。文学の美味なるところをつまみ食いした自覚はあるものの、どうやってこの出汁が取れたのかは分からない。小説技法やテーマ、物語構造は、世代や社会を超えて受け継がれていくものだが、それがどのように行き渡ってきたのかは、皆目見当がつかなかった。

そんな私にとって、ラテアメ文学の立ち位置が示されたこの対談は、大変ありがたいものだった。

ヨーロッパ近代文学の継承者

ラテアメ文学は、いわゆる「ブーム」のように扱われがちだが、全く異なるという。

確かに、昭和の終わりのマジックリアリズムの流行と、令和の初めの『百年の孤独』文庫化のお祭り騒ぎは、一時的な熱狂のように見える。

しかし、これは(日本から見た)表面的なものだという。ラテンアメリカ文学は、むしろ文学の継承者だというのだ。

20世紀の後半はヨーロッパ近代文学が終焉を迎えた時代になる。ロブ=グリエやミシェル・ルトールといったヌーヴォー・ロマン系は、実験小説の袋小路に入り、「つまらない」「中身がない」と言われる局面にあった。

この行き詰まりを打破したのが、ラテンアメリカ作家の五人衆(マルケス、ジョサ、ドノソ、コルタサル、フエンテス)だという。ボルヘスが翻訳したフォークナーを読み、同時にウルフやカミュやサルトルを通じて、ヨーロッパ近代文学を受け継いだ五人衆になる。

つまり、ラテンアメリカ文学は、辺境からの突然変異ではなく、近代文学の正統な後継者という視点だ(これは寺尾隆吉氏の近著で詳説されているという。読んでみよう)。

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この視点のおかげで、色々と腑に落ちる。

例えば、フォークナーが作り上げた、土地・歴史・血縁・暴力が複雑に絡み合うヨクナパトーファのサーガは、マルケス『百年の孤独』のブェンディア一族のサーガにつながっている。もちろん両者は異なるが、同じ「血」が流れている物語のように感じられる。

他にも、ウルフ『灯台へ』における、1人称でも2人称でも3人称でもない、無人称とでも呼ぶべき描写は、『族長の秋』や『予告された殺人の記録』に受け継がれているという。『灯台へ』は未読なので、答え合わせが楽しみだ。

「現実と虚構を対比させる」←この枠組みそのものが揺さぶられ、行き詰まっているのがヨーロッパ近代文学なら、そのリアリズムが取りこぼしてきた現実を、「そもそも現実とは何?」と問い返す試みが、マジックリアリズムだったのかもしれぬ。

この、ヨーロッパ文学の継承者としてのラテンアメリカ文学という

新しい世代として思い浮かぶのは、グアダルーペ・ネッテルや、マリアーナ・エンリケス、エルビラ・ナバロ、サマンタ・シュウェブリンになるだろう。

いくつか読んで感じるのは、狂気が自然現象のように語られることや、政治的トラウマが通底音のように響く点だろうか(『寝煙草の危険』『花びらとその他の不穏な物語』)。

巨大な物語が解体されたと言われて久しい。だが、解体された物語がどこへ行ったのかは分からない。もし、ヨーロッパ文学の後継者としてラテンアメリカ文学を位置付けるなら、解体された物語は、より私的で身体的で、不穏な領域に引き受けられているように見える。

「黄色」の秘密

他にも、『十二の遍歴の物語』なら「聖女」が一番好きという話や、『百年の孤独』で黄色い蛾をまとうマウリシオが印象的なのに、登場するのはたった数頁という驚き(←私も同感)など、様々なネタがあり、あっという間の2時間だった。

質問コーナーは無かったが、終了後、寺尾さんをつかまえて、長年の謎をぶつけてみた。読書会で謎だった「黄色」についてだ。

Q.『百年の孤独』に「黄色」が象徴的に使われています。日本でピンク映画、米国ならブルーフィルムのように、色に込められた文化的な意味があります。作中に散りばめられている黄色には、ラテンアメリカ圏でどんな意味があるのでしょうか?

・不眠症の仔馬
・ マウリシオが連れている蛾
・ 小町娘のレメディオスに捧げられる薔薇
・ マコンドに最初にやってくる汽車
・ 葬式の朝、マコンドじゅうに降る花

A.「幸せ」という意味かもしれませんね。ホームパーティに呼ばれるとき、黄色いアイテム―――ハンカチとかボールペンとか―――を身に着けてきてね、と言われることがあります。黄色いものを身に着けておくと、願いが叶うと言われています。

なるほど!いわゆる「幸せの黄色いハンカチ」のような、一種のゲン担ぎかもしれぬ。「今日のラッキーカラー」のような、めざましテレビの占い的なものだと考えると、親近感がわく。

地球の反対側のラテンアメリカ文学が、急に身近に感じられる一夜だった。

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人生の手遅れ感を養う3冊

万人に手渡せる「人生を変える運命の一冊」という魔法のような本は無い。人にもよるし、タイミングも重要だ。

ただし、人生の見方を一変させるような本はある。

強制的に生き方を振り返り、「これでよかったのか?」という疑問を投げかけ、自分が自分に吐き続けてきたウソと向き合わされる。

ずっと正しいと信じてきたことが間違いで、それを認めざるを得ない状況に追い込まれる。素直になればいいのに、できない。過ちを認めることは、それまでの人生を否定することになるから―――そこで、どういう決断をするか?

有名なのはスクルージだろう。

ディケンズの『クリスマス・キャロル』に出てくる、高慢で傲慢なエゴイストだ。財を築き、社会的にも成功しており、「正しい人生」を生きてきたと信じていた。

だからこそ、過去・現在・未来を強制的に見させられ、自分が積み上げてきたものが誤りだったかもしれない―――その可能性を突き付けられる。これを受け入れることは、単なる後悔や反省を超えた残酷なものになる。自分の人生そのものを、根こそぎ問い直すことになるからだ。

スクルージは逃げ道を塞がれ、選択を迫られた。「選択をしない」という選択はできなかった。だから人生を変えることができた、とも言える。

多くの人は、スクルージを見て、「私はこんなヤツとは違う」と感じるだろう。ストーリーの都合により戯画化され、前半に冷酷であるほど、ラストの涙は尊く見える。

しかし、私こそがスクルージであることに気づかされる―――そういう作品が存在する。そればかりか、選択しなければならないのは、他でもない私の人生なんだということを、強制的に思い知らされる。

人生の「手遅れ」感に苛まれる『タタール人の砂漠』

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ある種の読書がシミュレーションなら、これは人生の「手遅れ感」の予行演習になる。

この感覚は、カフカ『掟の門』のラストだ。かけがえのない人生が過ぎ去って、貴重な時が自分の手からこぼれ去った、あの「取り返しのつかない」感覚に呑み込まれる。

大事なことは、これから始まる。だからずっと待っていた。ここに来たのは間違いだから、本気になれば、出て行ける。けれど、もう少し様子を見ていた......習慣のもたらす麻痺が、責任感の強さという虚栄が、自分を飼いならし、日常に囚われ、もう離れることができない―――気づいたらもう、人生の終わり。

わずかな残りの時間ぜんぶを使って、後悔しながら振り返る。

そして、なにか価値があることが起っているのに、自分は一切関与できない、それも自分から動こうとはしないために。そういう焦りのようなむなしさに苛まれる。そうやって、じっと待ち続けるあいだにも、時は加速度的に、容赦なく流れ去る。

だが、遅すぎた。何も始まっていなかった人生であることを、人生の最後になって知るということは、なんと残酷なことか。これが、自分の人生でなくてよかった。確かに日々は短調な積み重なりにすぎず、むなしく時が流れてゆくのみ。

期待と、言いしれぬ不安と、焦燥の中で宙吊りになった苦しみから解き放たれるような「なにか」を待つのが日常である限り、いつまで経っても、自分の人生は始まらない。

若い人こそ読んで欲しいが、分からないかもしれない。だが、歳経るごとにダメージが増加し、40超えたら大ダメージになる。手遅れにならないうちに、読んでおきたい。

日々の積分が人生であり、私の命を微分すると「今」になる。だから、今を蔑ろにするということは、私の命を無駄にすることになる。

自己欺瞞が暴かれるとき『春にして君を離れ』

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自分が自分に吐くウソ―――これに気づくのは難しい。

誰かの矛盾を突くのは簡単だし、マスコミの不備を指摘するのは易しい。だいたい『言葉』や『記憶』こそあやふやなもの。しかし、そんな私が最も疑わない―――あらゆるものを疑いつくした後、最後に疑うもの―――それは、自分自身だ。

私は、自分を疑い始めるのが怖くて、家族や周囲に注意を向けて気を紛らわしているのかもしれない。自己正当化の罠。

では、こうした日常の諸々から離れたところに放り出されたら? たとえば旅先で交通手段を失い、宙吊りされた場所に居続けたら? 読む本も話し相手もいないところで、ひたすら自分と向き合うことを余儀なくされたら?

そんな中年女性が主人公だ。クリスティーにしては異色作、誰も死なないし、犯人もいない。中年の女性の旅先での数日間が、一人称で描かれる。

しかし、暴かれるものはおぞましい。読み手はきっと自分になぞらえることだろう。

最初は、直近の出来事を思い出し、何気ないひとことに込められた真の意味を吟味しはじめる。それは次第に過去へ過去へとさかのぼり、ついに自己欺瞞そのものに及ぶ。

  • 私は人格者であり、人生の成功者だ
  • アイツのような惨めな境遇ではない
  • パートナーのダメな部分は、私が正してやらないと

こうやってリストアップすると、この女の「自己中心」が見える。しかし、それは「ほんとう」なのだろうか?疑いはじめるとキリがない。自分の人生が蜃気楼のようなものだったことに気づく恐ろしい瞬間が待っている。

「自分の人生」を生きなかった男の末路『セールスマンの死』

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かつては敏腕セールスマンだったが、今では落ち目の男が主人公。

家のローン、保険、車の修理費、定職につかない息子、夢に破れ、すべてに行き詰まった男が選んだ道は――という話。だれもが自由に競争に参加できる一方で、競争に敗れたものはみじめな敗者の境涯に陥るアメリカ社会を容赦なく描き出している。

見どころは、このセールスマンの葛藤。

前向きで、強気で、ひたむきだ。人生の諸問題はプラス思考でなんとかなると押しまくる。今で言う「ポジティブシンキング」の成れの果てを突きつけられているようだ。自分に都合よく現実を解釈し、自らを欺き続ける主人公への違和感は、そのまま自分の人生への違和感になる。

そしてついに、目を背け続けてきた現実が、過去が、彼をつかまえる。自己欺瞞が徹底的にあばかれるとき、読み手は思わず自分を振り返りたくなる。私の人生はカラッポなんかじゃないって。同時に、彼がおかしい――いや、狂っているのかどうかも分からなくなってくる。いっそ「狂気」のせいにしてしまえれば救われるのに、と願いながら読む。

興味深いのは、彼が何を「売って」いるのかという謎だ。

戯曲では、彼が持ち歩くサンプル・ケースの中身は明らかにされていない。彼が売っているのは委託された商品などではなく、「自分そのもの」であるという解釈が適切だろう。成果や結果を期待されながらも、結局は時間を切り売りしているわたしにとって、この解釈は痛い、痛いぞ。

彼の狂気が私に同期する。彼の絶望が私に浸透する。

「お話」と分かってはいても「ひとごと」ではないのだ。終盤、追い詰められれば追い詰められるほど、全てを捨てて、やり直したくなる。リセットへの誘惑の演出がまたいい。フラッシュバックを多用し、過去の人物と現在の彼との対話を繰り返す。彼がたどりついた結論は、そのまま私の未来になるかもしれない。

自己欺瞞の人生を直視する

 『タタール人の砂漠』のジョヴァンニ・ドローゴ
 『春にして君を離れ』のジョーン・スカダモア
 『セールスマンの死』のウィリー・ローマン

偶然か必然かにかかわらず、主人公たちは、自分の人生を直視することを余儀なくされる。そして、自分にウソを吐き続けてきたことを認めざるを得ない状況に追い込まれる。

私は物語の最後までたどり着き、主人公たちの絶望に寄り添いながら、読者という安全な場所から、「これが物語でよかった、私の人生でなくて、本当によかった」と胸をなでおろす。

でも、本当?

安全圏にいるというのは幻想で、他ならぬ私自身が、私の人生から目を逸らして、他人の人生を見て安心しているんじゃないの?「自分の人生を生きる」ことから逃げる言い訳を吐き続けているのは、私じゃないの?

その通り、私がスクルージなのだ。私はドローゴのように無為に時を過ごし、ジョーンのように事実を歪め、ウィリーのように自分に嘘を吐き続けてきた。自分の人生を生きなかったことを思い知らされるのは、こんなに酷い気分なのか。

そして私は知っている。「自分の人生を生きる」選択ができた時まで、時を戻すことはできない。人生にはリセットボタンなどなく、あるのは電源ボタンだけなんだと。

そして私は、これも知っている。人生はオートセーブだから、「いま」選択をやり直すことだってできる。自分が好きだと言える方、後悔しない方の選択なら、いまからでもできる。

走馬灯を眺める時に味わう苦悩を、いま味わうことで、自分の人生を生き直すことができる。そんな3冊だ。

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