正気が侵食される毒書――劇薬小説『夜のみだらな鳥』三度目の報告書
他人の悪夢を覗いているうちに、私自身がそこに居る。
夢だから、断片的で支離滅裂で、因果も時系列もデタラメだ。なのに、そこで起きた感覚だけは、べっとり肌身に粘りつく。
忌まわしい、ふりほどきたい、逃れたいのに、なぜか顔を近づけて嗅ぎたくなる。歯をむき出しにして齧りたくなる。語りかける口調に、思わず耳を傾ける。知りたくない(最悪の)展開を、目を凝らして待ち構える。嫌悪感と接近衝動の両方に衝き動かされるように読む。
そういう、中毒のような効果をもたらすのが、ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』だ。読んだことを後悔するような劇薬小説だ。
14年前、7年前、そして今回で3度目の毒書なのだが、何回読んでもわけわからぬ(でもそれがいい)。だが、3度も悪夢につき合ってきたので、どんなやり方で、私の精神に大ダメージを与えているのか、その手口は分かるようになった。免疫というか耐性が付いたのかもしれぬ。
さらに、東京ガイブン読書会の12人がかりで読み解いたので、より多様なアプローチでこの悪夢に迫ることができた。ここでは、ネタバレ全開で『夜みだ』を腑分けする。
『夜みだ』の読みかた
まず、筋を追おうとするとロストする。
読書会で教えてもらったのだが、読書SNS(読書メーター?)では、「読んでる間ずっとカオス」「理解不能な混沌」といった感想が多いという。粗筋を知るためにSNSを開いたら、余計に混乱するだろう。
筋をまとめながら読むのは私もするが、こればっかりは苦労する(というか、あきらめた)。なので、語り手に任せて読む。
「おれ」という一人称の語り手らしき人物(=ウンベルト)は、誰かを見つめながら、その誰かに話しかけるように物語を進める。どうやら修道院が舞台のようで、ここに引き取られた老婆たちと一緒にいるらしい。
ではひとまず、彼の言うことを元にストーリーを追ってみる(もちろん、信頼できない語り手という余地は残しながら)。
しかし、進めるうちにおかしくなる。人称が変わり、話者が変わり、呼びかけ先が変わり、時系列が変わり、場所が変わる。話者だけでなく、語られている人・場所も変わる。
普通の小説なら、作者は読者に注意を与えるための印をつける。例えば、カギカッコ「」で括られたら、それを一人の発言だとする。「おれ」「わたし」「ぼく」という人称ごとにキャラクターが区別される。場面が変わるなら段落や章で区切る。
いわゆる「お約束」だ。
そういう「お約束」をぶっ壊しているのが『夜みだ』だ。
じゃぁそういう小説だと思えばいい。かと思いきや、お約束は守りつつ、壊す。いきなり全壊させるのではなく、最初はフツーに読めているのに、「あれ?」と思ったり「なんかヘンだぞ?」と気づかせる。
ウンベルト:語り手(おれ)
ヘロニモ:大地主
イネス:ヘロニモの妻
ボーイ:子
例えば、ヘロニモが死んでいることになっているが、普通に生きている。別に生き返っているわけではなく、時系列が入れ替わっているわけでもない。
読み手は仕方なく、「ヘロニモの死」は誰かの頭の中の妄想として考えるしかない。最近だと「世界線」という便利な概念があるので、それを使うなら、「ヘロニモが死んだ世界線」があるという前提で読む。
あるいは、語り手がウンベルトだと思っていたら、自然に地続きで「ボーイ」が語っている。同じ文章の中で「おれ」「わたし」「ぼく」が次々と切り替わり、ポリフォニックな残響にまみれ、誰がしゃべっているのか分からなくなる。「あなた」は呼びかけ先の人物なのか、あるいは読者である私なのか、分からなくなる。
読み手を混乱させる仕掛けは、そこらじゅうにある。
イネスと同姓同名の女が出てくるし、「イリス」という別の女も出てくる。話の流れ上、ボーイはヘロニモとイネスの子に思えるが、ウンベルトが孕ませたように取れる描写も出てくるし、それに重なるように、ウンベルトが老婆を犯すシーンもあり、かつ、その老婆にイネスが変身する展開も待っている。
しかも、語り手ウンベルトもおかしい。
最初は使用人だったのが、修道院に隠れるように暮らす老人だったり、うわごとを呟く瀕死の病人になる。ペニスを奪われ老婆になり、四肢を(少しずつ)奪われ胴体だけの達磨状態となる。それでも、「おれ」は、狂うことなく普通に語る。
こんな小説を読まされる方は、諦める他ない。狂気や妄想が正当化された作品も読んできた。「そういう作品」なら、夢野久作『ドグラマグラ』やカフカ『審判』が有名だし、キャサリン・ダン『異形の愛』やガルシア=マルケス『百年の孤独』の後半を推したい。
『夜みだ』の唯一無二なところ
でも『夜みだ』は違う。
語り手の妄想という可能性は残しつつ、語られている対象はクリアに伝わる。物語られるモノは、極めて明瞭に描写される。
例えば、畸形のわが子のために、世界中から畸形ばかりを集めて、畸形の楽園を作るエピソードがある。ヘロニモの跡取り息子として誕生した赤ン坊は、その醜い姿形から「ボーイ」とだけ呼ばれる。
大富豪であるヘロニモは、カネに糸目を付けず、世界中から様々な畸形を集め、大金を払って「ボーイ」の周囲に侍らせる。捻くれた背中や非対称な顔面、欠損した器官はむしろ「美」であり、私たちが普通だと感じる手足や姿かたちは、むしろ「醜」とされる。
ヘロニモは、屋敷の周囲一帯を買い取り、全体を一つの街として、世間から隔離する。そこで異形の者たちと共に、ボーイを管理しようとする(管理者はウンベルトである)。
ウンベルト自身は(その頃はまだ)普通の姿のため、異形の世界の中でただ一人、正常な人間として振舞う。屋敷では美と醜が逆転しているため、ウンベルトは「異形」として扱われる。
あるいは、修道院で老婆に囲まれ、ウンベルトはインブンチェとなる。インブンチェとは、”縫い塞がれた”存在だ。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた妖怪だ。
ウンベルトは少しずつ切り取られ、老婆たちが吸収する。生きていくために必要な器官は、老婆たちのものと取り替えられ、元の身体は20%しか残っていない。
老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも手を借りなければならなくなるから。
成長しても、決して部屋から出さない。いることさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をする。このおぞましさは、江戸川乱歩『芋虫』や早見純の劇薬マンガ『ラブレターフロム彼方』を思い出す。
畸形や欠損が「前提」として扱われ、自然に語られる。そこには、忌避感も痛みも伴わない語りだけが続けられる。どんなに異様な内容でも、普通に起きるのが夢だ。だからこれを夢だとしてもいい(でも誰の?私の?)。
極彩色の悪夢を強制的に見させられているうちに、私は、語りの対象がオーバーラップしていくことに気づく。最初にウンベルトがいた「修道院」と、ボーイがいた隔離「屋敷」が、同じ場所に重なっていく。ウンベルトがボーイとなることを暗示しているが、時系列的におかしい。美しい「イネス」は貧乏な老婆になろうとし、赤ン坊の若い器官は老婆のために使われ、支配者だったヘロニモは男性性をウンベルトに奪われる。窃視しているはずの「おれ」が実は「ボーイ」に見られてたり、経験していないはずの記憶を「おれ」が持っていたりする。現実から逃げようとした先が悪夢になる。あちこちに現れ、不吉を暗示し、物語を駆動していた「黄色い牝犬」は、読み手である私の視線の代わりだったことに気づかされる。
私は、安全な場所からの読者ではなかったのだ。
強者と弱者が入れ替わり、支配する者される者が転倒する。奪う/奪われる、見る/見られるといった立場の倒錯と、屋敷と修道院のそれぞれのキャラが相似形となっていることに気づき、融合し、闇の奥に閉じられる。語り手が完全に縫い括られる感覚と共に、物語は終わる。
狂気が正気の世界に呑み込まれる感覚は、こんなものなのだろう。あるいは、私が死ぬとき、現実に起きたことと頭の中で想像したことが、一度に一挙に超早送りされるなら、こんな光景なのだろう。
正気を確認するための再読
なぜ『夜のみだらな鳥』を、何度も読み返してしまうのか。
理解できなかったからではなく、むしろ逆で、「理解したと思った感覚」が、読み返す度に裏切られるからだ。分かった瞬間が罠で、ページをめくると、足元が崩れ去る。物語は崩れない。私の読みが崩れるのだ。
誰が語り、誰を見ているのか(見られているのか)、どこまでが記憶で、どこからが妄想か。判断基準が、普通の読み方では太刀打ちできず、毎回書き換えられていく。初読で「読んでる間ずっとカオス」「理解不能な混沌」と判断するのは簡単だ。だが、ひとたびこの悪夢に魅入られたなら、逃れるのは難しい。
つまり、再読は答え合わせではなく、別の悪夢を見るためのトリガーなのだ。読むたびに、読んでいる私の輪郭が、少しずつ奪われていく。信頼できないのは語り手ではなく、私自身なのだ。物語に理性を混濁させられる感覚は、一種の自傷行為なのかも。この悪夢に耐えられるか、正気でいられるかを、ぎりぎりで味わう。
その感覚が、たまらなく愉しい。
| 固定リンク



コメント