« 「本」にする必要性と「本」である必然性―――仲俣暁生・finalvent 座談会 | トップページ | ピンチョン『重力の虹』の「主要」登場人物122人の相関図を作ってみた »

劇薬小説『夜のみだらな鳥』を味わう読書会レポート

<この記事はネタバレを含むが、バレているものが本当なのか分からない(たぶん、誰にも分からない)。なので、安心して読んで欲しい>

N/A

ドノソ『夜のみだらな鳥』は、読めば読むほど分からなくなる。

「読むクスリ」とも言える中毒性が高い傑作だ(『百年の孤独』よりも酔えるぜ)。もう3回も読んだのに、蠕動するストーリーに呑み込まれ、もみくちゃにされ、おぞましい感覚だけを残して茫然となる。

これ、一人で読むから混乱するのではないか?

つまり、読書会でみんなで攻略すれば、全容をつかめるのではないか。最後まで読んでも分からなかった謎や、回収されていないように見える伏線、あるいは物語構造そのものの見落としが、目玉2つよりも二十四の瞳の方が拾えるのではないか。

そんな期待を軽々と越えてくる読書会だった。

全員が共通しているのは「カオス」の一言だけで、後は種々雑多な感想が飛び出てくる。

Photo_20251227212701

面白いのは、同じ一つの小説なのに、見えているものが違うところ。

注目した点が異なるというよりも、同じものを見てたはずなのに、違うものに見えているところ。ウンベルトが犯した相手は誰? 「ボーイ」とは誰で、結局は死んだのか?(そもそも「ボーイ」は何人なのか?)。なぜ畸形ボーイは畸形なのか?黄色い牝犬の正体は?

見事に答えがバラバラになる。

これ、ドノソが読者を騙すために仕組んだ罠に、全員が全員ハマっている証拠なり。

語りかける一人称の「おれ」が信頼できない語り手であることは承知していても、文の途中で人称が変わり、話題が変わり、呼びかけ先が変わり、時系列が変わり、場所が変わる。話者だけでなく、語られている人・場所も変わる。読み手を混乱させ、物語と共にドロドロにさせる罠なり。

それでも、12種12様の「読み」がある。

そのバラバラの読みを繋ぎ合わせ、私の脳内と辻褄が合うようにしたのが上の絵だ。

物語構造の相似形

物語の舞台として、「リンコナダ屋敷」と「エンカルナシオン修道院」がある。前者はヘロニモの屋敷であり、後者はイネス(尼僧)が奇跡を起こした修道院だ。どちらも物理的に違う場所で、屋敷→修道院という時間軸で語られているように見える。

しかし、読み進めていくうちに、両者は融合されつつあるか、あるいは違う世界線なのに一時的に同じ時空に重なっているように見えてくる(スティーヴン・キング『タリスマン』や今敏『パーフェクトブルー』を思い出してほしい)。

そして、2つの舞台のそれぞれにシンメトリックなキャラが配置されている。同一人物であるが異なる役回りだったり、違う人物が同じ運命に遭ったりする。

例えば「屋敷」のクレメンテと「修道院」のヘロニモ。両者は親戚で、最初は堂々たる人物として扱われているのだが、虐待され、最終的にキチガイ扱いされて拘束具を着せられ、強制的に物語から退去させられる。さらに、この拘束のモチーフは袋詰め→インブンチェ→語り手のウンベルトへ引き継がれる。

インブンチェとは、”縫い塞がれた”存在だ。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた妖怪だ。ウンベルトは臓器を少しずつ入れ替えられ、体の80%を失い、赤ン坊のような存在になる。これが「ボーイ」なのか老婆なのかも意見が割れた)。

ラテンアメリカ文学の傑作として、ガルシア=マルケス『百年の孤独』とホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』は、双璧を成すと言われている。

物語構造の相似として考えるなら、『百年』は年代記として時系列的にくり返されている(似た名前のキャラは似たような運命に辿り着く)。一方『鳥』は舞台設定と役回りが相似する(2つの舞台を折り曲げると、同じ役割として重なる人物がいる)。『百年』が家系図として縦方向に、『鳥』は空間的に横方向にシンメトリックなのかもしれぬ。

基本テーマ「入れ替わり」

一方で、屋敷も修道院も両立しないという意見もあった。屋敷編で死んでいるはずのアスーラ博士は、時間的に後になる修道院編で手術をして、イネスを老婆に、ウンベルトをインブンチェにする。

この場合、どちらかが創作か、どちらも創作という可能性が出てくる。誰かが嘘をついているか、すべてが嘘なのかもしれぬ。

語り手は、基本的にどちらもウンベルトだが、ヘロニモとして語ったり「ボーイ」として語ったりする。しかも、ヘロニモになり替わったウンベルトが語ったり、ウンベルトに憑依したかのように「ボーイ」が語ったりしているので、本当である保証は無い。

そしてこの「成り代わり・入れ替わり」は、『鳥』の重要なテーマの一つになる。

ヒガンテと呼ばれる巨大な仮面を被るだけで、股を開きヤらせてくれるのがイリスだ(イネスとは別人)。なので、男たちはこぞって仮面を被り、イリスと交わる。屋敷編ではインポテンツだったヘロニモが、仮面を被り、ヒガンテに成り代わり、イリスと交わる。そしてヘロニモに成り代わり、男性機能を果たすのがウンベルトだ。さらにウンベルトが犯す相手としてイネスに成り代わるのがペータ・ポンセだ。

他にも、様々な入れ替わりがある。弱者と強者、不能とギンギン、美形と醜悪、親と子、使用人と雇い主、男と女など、手を変え品を変え、キャラや設定や因果を入れ替える。

読者はどこにいるのか?

この入れ替えは語り手と読者にも当てはまる。

重要なシーンの端々に、「黄色い牝犬」が出てくる。夜伽話で語られる老婆が憑依先だったり、賭け双六で走らされるコマだったり、青姦で残された体液を舐める存在だったりする。この犬は何だろう?という話になったとき、「これは読者そのものではないか?」という仮説が提示された。

なるほど、物語の節目節目に現れ、語り手とは独立してうろつき、邪魔ものとして追い払われるだけなのに、執拗に出来事を「目撃」しようとする存在―――これは、何が起きているのかを見極めようとする読者のメタファーなのかもしれぬ。

これを手掛かりにするならば、黄色い牝犬が見ていることが、本当に起きていることと見なせるかもしれぬ。そして、本当に起きていることを繋ぎ合わせて、もう一度読み直すなら、さらに別の物語が浮かび上がるかもしれない。

さらなる深みへ

おぞましい物語に魅入っているうちに、魅入られて、自分自身が物語の中にいる感覚。

これ、ヒエロニムス・ボスまんまやね(『快楽の園』を思い浮かべる人もいた)。

El jardín de las Delicias, de El Bosco.jpg
ヒエロニムス・ボス - Galería online, Museo del Prado., パブリック・ドメイン, リンクによる

快楽の溺れる男女、異形の怪物、脆くて崩れやすい世界に魅入られているうちに、「これは他人の物語ではなく、おまえ自身の選択の寓意ではないか?」と問われている気分になる。

読者は、物語を理解しようともがくうちに、物語に取り込まれ、役割を与えられる存在として入れ替わる。ヒエロニムス・ボス『快楽の園』と同型で、他人の地獄を覗いているつもりが、自分自身の寓意を見せられている構造となっている。

『夜のみだらな鳥』は、ストーリーを読み解き、「分かった」気分になる小説ではなく、読み手を混乱させ、(文字通り)夢中にさせ、理解しようとする「わたし」を歪ませる猛毒なのかもしれぬ。

東京ガイブン読書会の方、参加された皆さま、ありがとうございました。おかげで4回目も捗りそうです。

このエントリーをはてなブックマークに追加

|

« 「本」にする必要性と「本」である必然性―――仲俣暁生・finalvent 座談会 | トップページ | ピンチョン『重力の虹』の「主要」登場人物122人の相関図を作ってみた »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「本」にする必要性と「本」である必然性―――仲俣暁生・finalvent 座談会 | トップページ | ピンチョン『重力の虹』の「主要」登場人物122人の相関図を作ってみた »