未来予想ではなく、未来に介入するための科学『数理モデルはなぜ現実世界を語れないのか』
「科学的に正しい」という言葉が揺らいだのは、2020年、世界がCOVID19のパンデミックに直面したときだと思う。「科学的に正しい」数理モデルに基づき、感染者数の推移と予想のグラフと「最悪のシナリオ」が毎日のように報道された後の話だ。
人々はグラフを見つめ、「科学」が未来を予測してくれると信じていた。
ところが、現実はモデル通りには進まなかった。
感染者数が想定を上回ると「『想定外』を言い訳にする専門家は間違っている」と非難が沸き上がり、予想よりも被害が軽いと「オオカミ少年が経済を殺す」と叩く連中もいた。「科学的に正しい」とはデータに基づき客観的な立場から判断したものだから、現実世界を最も合理的に説明できる―――そんな期待を裏切られたと感じた人もいたかもしれぬ。
その一方で、各国政府がとった施策や人々が自主的に取った行動が(吉凶に関わらず)何かしらの影響を与え、モデル通りの未来にはならなかったと考える人もいる。
『数理モデルはなぜ現実世界を語れないのか』を読むと、この混乱そのものが、数理モデルの本質を見誤った結果だということに気づかされる。
先回りして結論を述べるとこうだ。モデルとは、現実を映しだすカメラではなく、未来に介入するエンジンである。数理モデルは、未来を当てるためのものではなく、未来に備える道具として使うべし―――これが本書のメッセージになる。
モデルは現実を語れない?
本当に数理モデルは現実世界を語れないのだろうか?
この問いへは、「天気」と「気候」の事例が分かりやすい。
現代の天気予報は、数学でできているといっていい。
「天気」は、大気の運動の物理法則(流体力学・熱力学)を微分方程式で表現する。グリッド分割した区域ごとで変数(気圧・風速・温度等)を割り当て、隣接区域との相互作用を考慮しつつ、その方程式を解くことで数値的に表すことができる。複数のモデルや初期条件がある場合、ベイズ統計を用いることでモデルの不確実性を取り込んでいる。
明日の降水確率から台風の進路状況まで、かなり正確にできるのは、同じ条件で予想結果が高頻度で利用できるからだ。気象モデルは数十億ドルを節約し、多数の命を救っているといえる。
では、この数理モデル(群)を用いて、「気候」を予測できるか?
「気候」は、数日ではなく数十年~数世紀スケールで、より粗い空間スケールで、天候の平均的傾向や統計的分布をシミュレートする。初期値が少しズレるだけで予想が大きく外れる気象モデルを、そのまま用いることはできない。
さらに、気候モデルは未経験の未来を予測する必要があり、データの蓄積はほぼ無い。同じ条件の観測データは無いため、これまで測定したデータを元に推測するしかない。モデルが正しいかどうかは、翌日の天気ではなく、何十年も経たないと分からない。
気象モデルと気候モデルは、同じ数学的基盤を持っていたとしても、目的が異なり、予想する対象・範囲も大きく違う。
すなわち、「モデルは現実を語れない」というのではなく、「現実の一部を語れるモデルが存在する」というべきだろう。あるいは、「どの現実を語るのか」という目的に応じて、モデルを使い分ける必要がある。
モデルが語るのは現実そのものではなく、「どの現実を語るか」を選び取る私たちの価値観なのだ。
モデルは水晶玉ではない
めちゃくちゃ当たり前のことなのだが、私はこれを間違える。
数理モデルが登場すると、それは何かしらのデータセットやエビデンスに裏打ちされ、その分野の専門家によって「正しい」とお墨付きを得ているものだと確信する。「数式」なのだから、定量的なインプットがあれば、定量的なアウトプットが得られる―――そう考えてしまう。
だが、モデルとは、現実を映すカメラではなく、現実のある側面を切り取り、強調し、他を捨てた後、何かしらのロジックで組み立てた仮説に過ぎない。
だから、モデルが当てはまる現実もあれば、全く通用しない範囲もある。それはモデルが間違っているのではなく、スコープを越えているからだ。
テクノロジーの進展により、観測の精度が上がるほど、モデルと現実のズレは顕著になる。そんなデータセットが蓄積するたび、科学者たちはパラメータを調整し、定数を入れ替え、数理モデルを【精密化】する。
それでも辻褄が合わなくなると、新しい理論が生まれる。ミクロ経済学がそうだったし、素粒子物理学もそうやって誕生した。これらは、観測結果に即してそう取り決められた言明に過ぎぬという。
現在はうまくいっているということだけで「実用的」と言えるが、それが「真実」かというと違う。問題なのは、科学者が大事にするモデルこそが真実であり、全てを説明できると信じ込んでしまう点にある。
最近では、超ひも理論で全てが説明できると豪語するブライアン・グリーンのような人は減ったが、こうした素朴なモデル信奉者はたまに見かける(経済学と物理学に多いような気がする)。
モデルの歪みに気づく
モデルのスコープに気づくだけでなく、モデルが形成される際の歪みにも注意を払いたい。
数式で表されるため、数理モデルはロジカルで合理的に見える。だが、そのモデルの作り手の関心や価値判断、作り手自身が学んできた前提が含まれている。
モデルは、ある主張を伝えるための論理装置であり、世界をどう見るかという視点を押し付けるのだから。
本書では、私たちが目にするモデルは、大なり小なりWEIRDのバイアスに影響を受けているという。
Western:西洋の
Educated:教育のある
Industrial:工業化された
Rich:裕福な
Democratic:民主主義の
例えば、感染症が経済に及ぼす影響をモデル化する事例が紹介されている。モデルの作成者は、ウイルス性疾患にかかりやすい高齢者という立場は容易に想像できる一方で、低収入で不安定なパートタイムの仕事をしながら幼児を育てるシングルマザーという立場は、なかなか想像できないという。結果、出来上がるモデルは前者を優先したものになる。
本書では、疫学や経済学におけるバイアスに焦点を当てているが、私は、自然科学におけるキリスト教のバイアスを追記したい。
「神に選ばれ、救世主が誕生した特別な場所」でなければならない地球は、かつて宇宙の中心とされた。もちろん現代で天動説を信じる人はいない。だが、ごく近年まで系外惑星が見つけられなかったことから、太陽系や地球をあるべきモデルとするバイアスがあると考える[『系外惑星と太陽系』]。
さらに、地球外生命が存在するこれだけの証拠を前に、「地球こそ生命誕生の地」と強弁するニック・レーンのような 人がいるのは、生命誕生のモデルを(神に選ばれた)地球に限定する思考に偏っているからだ。WEIRD バイアスにChristian(キリスト教徒の)を加えたい。
[『生命の起源はどこまでわかったか』]。
科学の世界観そのものも、無色透明ではない。重力定数も光速も「測れる」と信じるその信念自体が、特定の文化的・宗教的価値体系の上に築かれていると言えるだろう。
バイアスが悪と言いたいのではない。人である限り、あらゆるバイアスから完全に自由になることは不可能だ。これはAIが作成したモデルについても言えると本書は指摘する。その「設計者」やデータセットを用意した「人」がいる限り、必ず歪みが生じる。重要なのは、そのバイアスに意識的になることだという。
全てのモデルは間違っているが、それでも役に立つ
モデルは限られた現実しか語れず、バイアスを意識する必要がある。統計学の格言「全てのモデルは間違っている」を真に受けるなら、モデルは使い物にならないのでは?
だが、それでもモデルは役に立つ。
地図をめぐる寓話を紹介しよう。
ある探検隊がアルプス山脈で吹雪に襲われた。道に迷い、雪崩に遭い、大半の装備を失ってしまう。死傷者はなかったものの、一行は死を覚悟する。そのとき、一人がポケットに地図が入っていたことに気づく。一行は冷静に地図を確認し、残された装備でキャンプを張り、なんとか生還する。そこで気づくのだが、その地図はなんとピレネー山脈の地図だったのだ。
「無いよりマシ」という教訓が得られるが、ことモデルにおいては【それでも役に立つ】と言える。
それは、モデルを用いて意思決定をする場合だ。リスクと不確実性を踏まえた上で、それでも何かしらの手を打つ必要があるとき、モデルは説得の道具となり、議論を闘わせる手段となる。
マスクを付けるべきか、ワクチンを打つべきか、どんな人が家にこもっているべきか、どこの国がどの程度CO2の排出を制限すべきか……こうした疑問を考えるとき、モデルは科学だけの問題では無いことがよく分かる。
対策する/しないとコストとの間のトレードオフ、どの対策がどの程度の効果が得られるかと副作用、どの程度の損失なら許容できるのか等を検討するとき、モデルは確かに役に立つ。ピレネーであれアルプスであれ、基準とする観点や思考を誘導する立脚点となる。
モデルは物語として現実を動かす
モデルは現実と離れているかもしれぬ。
それでも、モデルを生み出すプロセスは、状況を合理的に説明させようと促す。不確実であったとしても、それでもなお行動を起こさせようとする。これを、コンビクション・ナラティブ(確信を持たせる物語)という。
非常に悪い結果になる可能性があり、しかもその事態は回避可能だったことが、後になって判明する―――意思決定者にとって、これは最も避けたいパターンだ。そんなことになるより、過剰反応だったと思われる方がマシだ。
西暦2000年問題(Y2K)を覚えているだろうか?
メモリやディスクを節約するため、昔のプログラムは年を下2桁で表していた。1998年は「98」で、2000年は「00」だった。そのため、2000年1月1日になると、「00」が1900年となり、期限やログ、日付計算など、年を扱うあらゆる処理で誤動作が起き、大混乱になると懸念されていた(「飛行機が墜落する」とまで警告してた記事もあった)。
これを回避するため、1990年代後半に大規模なソフトウェア改修やデータパッチが行われた。古いソースコードを解析するため、リタイアしたエンジニアまで狩り出されたこともあった。
結果的に大きなトラブルにはならなかった。2000年生まれの赤ちゃんが100歳として登録されるような軽微な誤作動や誤表示に留まった。あれほど騒がれていた「世界が止まる」ようなことにはならなかった。
これは、モデルの予想が外れた過剰反応だったのだろうか?
そうではない、と本書は主張する。モデルの予想が外れたとしても、それは失敗ではない。最悪のシナリオを回避するために行動を促したからだ。検証しようがないが、それでも対策した結果が今の世界線だといえる。
同じことは、ロックダウンをした結果の世界線が今だろうし、京都議定書が形骸化した今を、私たちは生きていると言えるだろう。モデルは現実のリスクを「予言」ではなく「物語」として動かす。その意味で、モデルは現実に介入するエンジンになる。
モデルとは未来を予言するためのものではなく、未来を引き受けるために必要不可欠なのだ。
これは読書猿さんのお薦めで手にした一冊。アイゼンハワー大統領「計画は役に立たないが、計画を立てることは絶対に必要だ」を捩るなら「モデルは役立たないけれど、モデルを作ることは絶対に必要だ」と言える。素晴らしい本に出会えてよかった、ありがとうございます!
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コメント
「現実の一部を語れるモデルが存在する」モデルが語るのは現実そのものではなく、「どの現実を語るか」を選び取る私たちの価値観は正しい認識だと思います。
ガリレオから続いている「自然は数学的法則性の現象」の概念は、量子力学で示されるミクロな現象と複雑系のマクロな現象両面から揺らいでいます。
客観的実在とは、非常に複雑で多面的であり、科学理論(モデル)は実在のある側面しか投影させる事しかできません。例えば、ニュートン力学で示される重力、質量の物理量でさえ実在そのものではなく、実在のある側面が投射された概念でしかなく、測定者の主観に影響されます。
投稿: 田澤勇夫 | 2025.10.26 17:30
>>田澤勇夫さん
ありがとうございます。おっしゃる通りだと思います。その一方で、ご指摘いただいたことを分からず(分かろうとせず)、理論を現実そのものと見誤る人がいることも事実です(昔も今も)。これは、客観的実在なるものが人間味溢れるという矛盾の証左かもしれません。
投稿: Dain | 2025.10.27 22:19
Dainさん
「客観的実在とは、非常に複雑で多面的であり、科学理論(モデル)は実在のある側面しか投影させる事しかできません」について、
https://tzwrd.co.jp/nsh/uploads/2025/08/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%8F%B2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC%E8%B3%87%E6%96%99.pdf
の29ページ目の「科学革命の構造」に分かり易くまとめています。
投稿: 田澤勇夫 | 2025.10.31 06:43
>>田澤勇夫さん
ありがとうございます。物理学におけるパラダイムシフトの歴史を眺めると、人が観測・理解できるレベルを、技術や数式(≒理論)が拡張してきた軌跡のように見えて、面白いですね。
投稿: Dain | 2025.11.01 08:46
理数系から数学の女王 歴史から見た数論入門
/ジェイ・R.ゴールドマン/共立出版をおすすめします!
投稿: ししまる(kyosai kawanabe) | 2025.11.17 20:38
>> ししまるさん
お薦めありがとうございます!
数学者を取り上げながら数論の歴史を振り返るやつですね。まずは手に取ってみます。
投稿: Dain | 2025.11.17 21:20