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土木が好きになる22の物語『DISCOVER DOBOKU』

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高速道路の立体交差を見上げるときや、建築途中で剥き出しの構造物を眺めるときに、胸の奥で何かが滾る―――そんな経験がないだろうか。

実物でなくて画像でもいい。スーパーカミオカンデの静謐な空間や、首都圏外郭放水路の神殿じみた威容を見て、ぞっとするような畏怖と共に、一種の構造美を感じたことはないだろうか。

本書は、そんな人が築いた巨大構造物を愛でるための一冊だ。著者は東京都市大学(旧 武蔵工業大学)工学部教授で専門は鉄筋コンクリート・耐震設計で、ガチの土木オタクだ。

というのも、本書で紹介されている構造物の一部がこれなのだが、どのページを開いても、土木のロマンに溢れており、土木エンジニアへの尊敬で一杯だから。

例えば、表紙にもなっている首都圏外郭放水路。

洪水時に荒川の水を一時的に溜め、江戸川へと逃す地下施設だ。6.3キロにおよぶトンネル空間と、59本の巨大な柱列が立ち並ぶ、地下神殿のような放水路なのだが、「見えない」防災インフラになっている。

本書で知ったのだが、あの巨大空間は調圧水槽であり、そこへ至るために5つの巨大立杭がつながっているという。もちろん構造システムの全体は目で見ることはできないものの、人類の叡智を結集した地下建築の芸術といっていい。

あるいは、黒部ダム。

北アルプス3000m級の山に囲まれた地形で、もろくて崩れやすく地下水だらけの破砕帯を突破し、多くの犠牲者の上に作られた巨大ダムのカリスマだという。建築当時の写真も紹介されているが、(人は映っていないものの)難工事であることを伺い知ることができる。

黒部ダムは、水力発電や治水としての構造物だけでなく、「見せるインフラ」としての文化の始まりとしても有名だという。映画『黒部の太陽』でドキュメンタリードラマとして知られ、ダムそのものが観光地となったという。NHK紅白において、中島みゆきが黒部第四発電所で歌い、「リアル地上の星」としても話題になったという。

他にも、横浜ベイブリッジ、京極揚水発電所、東京湾アクアライン、瀬戸大橋、羽田空港D滑走路、高尾山インターチェンジ、ユーロトンネルなど、土木遺産という名に相応しい作品が、豊富な図版や画像と共に紹介されている。著者の早口オタクトークの熱気に当てられて、思わず知らず引き込まれてしまう。

すごいと思ったのは、アンダーパス。

道路や鉄道など既存の交通施設の直下に構築する地下道路や共同溝のことだという。道路や鉄道の直下に潜り込む地下立体交差は、「非開削工法」で施工するという(要するに、地面を掘り返さずに構造物を敷設する工法)。

交通量が多く、上下水道やガス・通信などのライフラインが密集している都市部では、工事のために止めるわけにいかない。あるいは、止めるにしても最低期間に留め、周囲への影響を最小限にするため、様々な工法があるという。

本書では、「東京外郭環状道路京成菅野駅アンダーパス」が紹介されている。京成菅野駅の真下に高速道路を通すのだが、完全にブッ飛んでて頭おかしい。

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日本建設連合会より引用 [引用元]

  1. 駅直下に6階建てのビルが入る空間を作り、そこに2階建て高速トンネルを作る
  2. 駅も鉄道も稼働中のままで、一本たりとも止めない、揺らさない、漏らさない
  3. 普通に掘ったら崩れるので、駅の地盤に薬剤を注入してガチガチに固める
  4. さらにシールド鉄板を差し込んで駅全体を固定する
  5. 総重量7000トンのコンクリの箱を作り、ピアノ線と油圧ジャッキの力で少しずつ押し込んでいく(押し込む空間も少しずつ掘っていく)

都市の血管の下を通す、外科手術のような土木工事なのだが、この作品、今では目にすることができない。車で通るだけの空間なのだが、土木の狂気的な美しさを感じる。

横浜や品川、渋谷でも駅の改良工事をずっとやっている。特に渋谷駅は、銀座線ホームの移設や通路の再構築で動線が複雑怪奇になっているが、考えてみると、あれだけの工事を、列車の運行を止めずにやっていることが驚異だ。

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新南口近辺からのJR渋谷駅(筆者撮影)

水が流れ、道路を通り、列車が走る。

私はこれを、当たり前のように思っている。

だが、その「当たり前」を支えるのが、土木技術という人類の叡智なのだ。『DISCOVER DOBOKU』は、構築ガイドというより、巨大建築に宿る人間の情熱と機能の美を描いた、土木賛歌の書といえる。



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未来予想ではなく、未来に介入するための科学『数理モデルはなぜ現実世界を語れないのか』

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「科学的に正しい」という言葉が揺らいだのは、2020年、世界がCOVID19のパンデミックに直面したときだと思う。「科学的に正しい」数理モデルに基づき、感染者数の推移と予想のグラフと「最悪のシナリオ」が毎日のように報道された後の話だ。

人々はグラフを見つめ、「科学」が未来を予測してくれると信じていた。

ところが、現実はモデル通りには進まなかった。

感染者数が想定を上回ると「『想定外』を言い訳にする専門家は間違っている」と非難が沸き上がり、予想よりも被害が軽いと「オオカミ少年が経済を殺す」と叩く連中もいた。「科学的に正しい」とはデータに基づき客観的な立場から判断したものだから、現実世界を最も合理的に説明できる―――そんな期待を裏切られたと感じた人もいたかもしれぬ。

その一方で、各国政府がとった施策や人々が自主的に取った行動が(吉凶に関わらず)何かしらの影響を与え、モデル通りの未来にはならなかったと考える人もいる。

『数理モデルはなぜ現実世界を語れないのか』を読むと、この混乱そのものが、数理モデルの本質を見誤った結果だということに気づかされる。

先回りして結論を述べるとこうだ。モデルとは、現実を映しだすカメラではなく、未来に介入するエンジンである。数理モデルは、未来を当てるためのものではなく、未来に備える道具として使うべし―――これが本書のメッセージになる。

モデルは現実を語れない?

本当に数理モデルは現実世界を語れないのだろうか?

この問いへは、「天気」と「気候」の事例が分かりやすい。

現代の天気予報は、数学でできているといっていい。

「天気」は、大気の運動の物理法則(流体力学・熱力学)を微分方程式で表現する。グリッド分割した区域ごとで変数(気圧・風速・温度等)を割り当て、隣接区域との相互作用を考慮しつつ、その方程式を解くことで数値的に表すことができる。複数のモデルや初期条件がある場合、ベイズ統計を用いることでモデルの不確実性を取り込んでいる。

明日の降水確率から台風の進路状況まで、かなり正確にできるのは、同じ条件で予想結果が高頻度で利用できるからだ。気象モデルは数十億ドルを節約し、多数の命を救っているといえる。

では、この数理モデル(群)を用いて、「気候」を予測できるか?

「気候」は、数日ではなく数十年~数世紀スケールで、より粗い空間スケールで、天候の平均的傾向や統計的分布をシミュレートする。初期値が少しズレるだけで予想が大きく外れる気象モデルを、そのまま用いることはできない。

さらに、気候モデルは未経験の未来を予測する必要があり、データの蓄積はほぼ無い。同じ条件の観測データは無いため、これまで測定したデータを元に推測するしかない。モデルが正しいかどうかは、翌日の天気ではなく、何十年も経たないと分からない。

気象モデルと気候モデルは、同じ数学的基盤を持っていたとしても、目的が異なり、予想する対象・範囲も大きく違う。

すなわち、「モデルは現実を語れない」というのではなく、「現実の一部を語れるモデルが存在する」というべきだろう。あるいは、「どの現実を語るのか」という目的に応じて、モデルを使い分ける必要がある。

モデルが語るのは現実そのものではなく、「どの現実を語るか」を選び取る私たちの価値観なのだ。

モデルは水晶玉ではない

めちゃくちゃ当たり前のことなのだが、私はこれを間違える。

数理モデルが登場すると、それは何かしらのデータセットやエビデンスに裏打ちされ、その分野の専門家によって「正しい」とお墨付きを得ているものだと確信する。「数式」なのだから、定量的なインプットがあれば、定量的なアウトプットが得られる―――そう考えてしまう。

だが、モデルとは、現実を映すカメラではなく、現実のある側面を切り取り、強調し、他を捨てた後、何かしらのロジックで組み立てた仮説に過ぎない。

だから、モデルが当てはまる現実もあれば、全く通用しない範囲もある。それはモデルが間違っているのではなく、スコープを越えているからだ。

テクノロジーの進展により、観測の精度が上がるほど、モデルと現実のズレは顕著になる。そんなデータセットが蓄積するたび、科学者たちはパラメータを調整し、定数を入れ替え、数理モデルを【精密化】する。

それでも辻褄が合わなくなると、新しい理論が生まれる。ミクロ経済学がそうだったし、素粒子物理学もそうやって誕生した。これらは、観測結果に即してそう取り決められた言明に過ぎぬという。

現在はうまくいっているということだけで「実用的」と言えるが、それが「真実」かというと違う。問題なのは、科学者が大事にするモデルこそが真実であり、全てを説明できると信じ込んでしまう点にある。

最近では、超ひも理論で全てが説明できると豪語するブライアン・グリーンのような人は減ったが、こうした素朴なモデル信奉者はたまに見かける(経済学と物理学に多いような気がする)。

モデルの歪みに気づく

モデルのスコープに気づくだけでなく、モデルが形成される際の歪みにも注意を払いたい。

数式で表されるため、数理モデルはロジカルで合理的に見える。だが、そのモデルの作り手の関心や価値判断、作り手自身が学んできた前提が含まれている。

モデルは、ある主張を伝えるための論理装置であり、世界をどう見るかという視点を押し付けるのだから。

本書では、私たちが目にするモデルは、大なり小なりWEIRDのバイアスに影響を受けているという。

 Western:西洋の
 Educated:教育のある
 Industrial:工業化された
 Rich:裕福な
 Democratic:民主主義の

例えば、感染症が経済に及ぼす影響をモデル化する事例が紹介されている。モデルの作成者は、ウイルス性疾患にかかりやすい高齢者という立場は容易に想像できる一方で、低収入で不安定なパートタイムの仕事をしながら幼児を育てるシングルマザーという立場は、なかなか想像できないという。結果、出来上がるモデルは前者を優先したものになる。

本書では、疫学や経済学におけるバイアスに焦点を当てているが、私は、自然科学におけるキリスト教のバイアスを追記したい。

「神に選ばれ、救世主が誕生した特別な場所」でなければならない地球は、かつて宇宙の中心とされた。もちろん現代で天動説を信じる人はいない。だが、ごく近年まで系外惑星が見つけられなかったことから、太陽系や地球をあるべきモデルとするバイアスがあると考える[『系外惑星と太陽系』]

さらに、地球外生命が存在するこれだけの証拠を前に、「地球こそ生命誕生の地」と強弁するニック・レーンのような 人がいるのは、生命誕生のモデルを(神に選ばれた)地球に限定する思考に偏っているからだ。WEIRD バイアスにChristian(キリスト教徒の)を加えたい。
[『生命の起源はどこまでわかったか』]

科学の世界観そのものも、無色透明ではない。重力定数も光速も「測れる」と信じるその信念自体が、特定の文化的・宗教的価値体系の上に築かれていると言えるだろう。

バイアスが悪と言いたいのではない。人である限り、あらゆるバイアスから完全に自由になることは不可能だ。これはAIが作成したモデルについても言えると本書は指摘する。その「設計者」やデータセットを用意した「人」がいる限り、必ず歪みが生じる。重要なのは、そのバイアスに意識的になることだという。

全てのモデルは間違っているが、それでも役に立つ

モデルは限られた現実しか語れず、バイアスを意識する必要がある。統計学の格言「全てのモデルは間違っている」を真に受けるなら、モデルは使い物にならないのでは?

だが、それでもモデルは役に立つ。

地図をめぐる寓話を紹介しよう。

ある探検隊がアルプス山脈で吹雪に襲われた。道に迷い、雪崩に遭い、大半の装備を失ってしまう。死傷者はなかったものの、一行は死を覚悟する。そのとき、一人がポケットに地図が入っていたことに気づく。一行は冷静に地図を確認し、残された装備でキャンプを張り、なんとか生還する。そこで気づくのだが、その地図はなんとピレネー山脈の地図だったのだ。

「無いよりマシ」という教訓が得られるが、ことモデルにおいては【それでも役に立つ】と言える。

それは、モデルを用いて意思決定をする場合だ。リスクと不確実性を踏まえた上で、それでも何かしらの手を打つ必要があるとき、モデルは説得の道具となり、議論を闘わせる手段となる。

マスクを付けるべきか、ワクチンを打つべきか、どんな人が家にこもっているべきか、どこの国がどの程度CO2の排出を制限すべきか……こうした疑問を考えるとき、モデルは科学だけの問題では無いことがよく分かる。

対策する/しないとコストとの間のトレードオフ、どの対策がどの程度の効果が得られるかと副作用、どの程度の損失なら許容できるのか等を検討するとき、モデルは確かに役に立つ。ピレネーであれアルプスであれ、基準とする観点や思考を誘導する立脚点となる。

モデルは物語として現実を動かす

モデルは現実と離れているかもしれぬ。

それでも、モデルを生み出すプロセスは、状況を合理的に説明させようと促す。不確実であったとしても、それでもなお行動を起こさせようとする。これを、コンビクション・ナラティブ(確信を持たせる物語)という。

非常に悪い結果になる可能性があり、しかもその事態は回避可能だったことが、後になって判明する―――意思決定者にとって、これは最も避けたいパターンだ。そんなことになるより、過剰反応だったと思われる方がマシだ。

西暦2000年問題(Y2K)を覚えているだろうか?

メモリやディスクを節約するため、昔のプログラムは年を下2桁で表していた。1998年は「98」で、2000年は「00」だった。そのため、2000年1月1日になると、「00」が1900年となり、期限やログ、日付計算など、年を扱うあらゆる処理で誤動作が起き、大混乱になると懸念されていた(「飛行機が墜落する」とまで警告してた記事もあった)。

これを回避するため、1990年代後半に大規模なソフトウェア改修やデータパッチが行われた。古いソースコードを解析するため、リタイアしたエンジニアまで狩り出されたこともあった。

結果的に大きなトラブルにはならなかった。2000年生まれの赤ちゃんが100歳として登録されるような軽微な誤作動や誤表示に留まった。あれほど騒がれていた「世界が止まる」ようなことにはならなかった。

これは、モデルの予想が外れた過剰反応だったのだろうか?

そうではない、と本書は主張する。モデルの予想が外れたとしても、それは失敗ではない。最悪のシナリオを回避するために行動を促したからだ。検証しようがないが、それでも対策した結果が今の世界線だといえる。

同じことは、ロックダウンをした結果の世界線が今だろうし、京都議定書が形骸化した今を、私たちは生きていると言えるだろう。モデルは現実のリスクを「予言」ではなく「物語」として動かす。その意味で、モデルは現実に介入するエンジンになる。

モデルとは未来を予言するためのものではなく、未来を引き受けるために必要不可欠なのだ。

これは読書猿さんのお薦めで手にした一冊。アイゼンハワー大統領「計画は役に立たないが、計画を立てることは絶対に必要だ」を捩るなら「モデルは役立たないけれど、モデルを作ることは絶対に必要だ」と言える。素晴らしい本に出会えてよかった、ありがとうございます!

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「なぜ?」を「いつ?」にすると上手くいく『「なぜ」と聞かない質問術』

 「なぜ遅刻が多いの?」
 「どうしてミスしたの?」
 「できない理由は?」

職場や家庭で話をするとき、理由を聞きたくなる瞬間がある。問題解決のため、原因や課題を洗い出すための定番だ。

だが、『「なぜ」と聞かない質問術』は、この「なぜ」を使うなと説く。質問を「なぜ?」から始めると、事実の誤認や関係性がねじれ、議論が空中戦になり、コミュニケーションが上手くいかないからだという。

なぜ、「なぜ」を使ってはいけないのか?

「なぜ」は理由を聞いているようでいて、相手を問い詰め、言い訳を強要することになるからだという。例えばこう。

 花子「なぜ遅刻が多いの?」
 太郎「朝ギリギリで、電車に間に合わないことがあるので」
 花子「じゃあ、余裕をもって起きてください」
 太郎「はい……スミマセン」

質問者は純粋に知りたいだけかもしれないけれど、問われている方は責められているように感じている。ここから得られる解決策も、問題の裏返し(遅刻する←→早く起きる)になる。

「なぜ質問」は、原因や理由を聞いているようでいて、実は「(あなたは)なぜだと思う?」と聞いている。しかし、人である以上、とっさに理由や原因が出てくるはずがない。ましてや自分でも良くないと思っていることについて問われると、詰められているように受け取るだろう。

そこで出てくる「理由」は、思いつきレベルのものであり、事実に基づいた問題の把握や分析には程遠いものになる。こうしたやり取りは、どれだけ積み重ねても期待した解決には結びつかないという。

では、どうすればよいか?

本書では、「なぜ?」と聞きたくなったら「いつ?」に置き換えて聞けという。

 花子「いつから遅刻が多くなったの?」
 太郎「先月くらいからですかね」
 花子「その前は?」
 太郎「ほとんどなかったはず」
 花子「先月と今月の違いは何だろう?」
 太郎「あ!ダイヤ改正して乗り継ぎが上手くいかないからだ。一本早く乗ります」

他にも、「今月から残業が多くなり、十分な睡眠時間が取れない」とか「今月は飲み会が増えて朝起きれなくなった」といった理由もあるかもしれない。いずれにせよ、「なぜ」から始めた場合、本当の原因にはたどり着かない。

「なぜ」と聞いた時に出てくるのは、理由ではなく、「回答者が理由だと思い込んでいること」や「理由に見せかけた自己防衛のための言い訳」だという。

これを回避するためには、「なぜ質問」ではなく「事実質問」をせよという。

事実質問とは、「答えが1つに絞られる質問」と定義している。迷ったり考えたりしなくても、素直にシンプルに答えることができる質問になる。事実質問は、以下の特徴がある。

  • 「なぜ?」「どう?」を使わない
  • 「いつ」「どこ」「誰」「どれくらい」を使うか、「はい/いいえ」で答えられる
  • 過去形・現在進行形
  • 主語が特定されている

具体的には、以下のような言い換えをすることを推奨する。事実質問に言い換えることで、返ってきた答えに対し、さらに話を深掘りすることができる。

元の質問 言い換え後
なぜ遅刻したの? 今日はいつ家を出たの?
会議、どうだった? 会議は何時間ぐらいだった?
みんな、ふだん運動してますか? あなたが最後に運動したのはいつだった?

推論の梯子

これ、推論の梯子をやり直すときに有効だ。

推論の梯子とは、認識の前提を見直すためのメタファーだ(読書猿『問題解決大全』で知った)。

私たちは、何かを認識したり行動するとき、推論の梯子の上にいるという。

  • 行動:私は確信に基づいて行動する
  • 確信:私の結論は事実だ
  • 結論:私は結論を引き出す
  • 推論:私は自分が付け加えた意味に基づいて推論する
  • 意味:私は(文化的・個人的な)意味を付け加える
  • 選択:私は観察しているものから事実を選ぶ
  • 事実:(ビデオに記録できるような)観察可能な事実や経験

ベースとなっているものは「事実」であっても、そこから何を選び、そこに意味を汲み取り、推論し、結論を見出し、行動するかは段階を踏んで行っている。本当はこのような段階を踏んでいるにもかかわらず、順番をすっ飛ばしたり無視すると、認識の違いが起きる。

自分の認知を再検討したり、相手との認識の相違を確認する際、この梯子を下りてゆくことで、どこからズレが起きているかを明らかにすることができる。

そして、一番下の事実である「遅刻が多い」からスタートして梯子を上るとき、「なぜ?」を持ってくると、認識が歪む可能性が高くなる。以下は、事実からの選択に「なぜ?」と問いかけた失敗例だ。

  • 事実:太郎は遅刻が多い
  • 選択:「なぜ?」という質問に、太郎は「ギリギリまで寝ている」と答えた
  • 意味:花子は「ギリギリまで寝ている太郎は怠惰だ」という意味を加える
  • 推論:花子は「太郎は怠惰だ」という意味に基づいてさらに問う
  • 結論:花子は「太郎は怠惰だ」という結論を引き出す
  • 確信:花子は太郎を怠惰だと確信する
  • 行動:花子は太郎に「余裕をもって起きろ」と指示する

問題解決のための理由を考えるのは、推論の梯子の上の「意味」「推論」の段階だろう。だが、選択の段階で「なぜ?」と問うてしまっため、検討すべき事実に基づかないまま、推論が進んでしまう。

一方、「選択」の段階で、「いつから?」「その前は?」を問うことで、太郎に事実を思い出してもらうことができる。太郎に理由を考えてもらうのではなく、事実を思い出してもらうために、問い方を変える。

「なぜ?」を「いつ?」に変えるだけで、一緒になって事実を見直し、原因を探る建設的な会話になるのだ。

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(ネタバレ全開)ナボコフ『ロリータ』に耳まで浸かる読書会

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ロリータいいよロリータ。いくら読んでも楽しさが尽きぬ。そして、どんなに読んでも「読んだ」気にならぬ。

先日、ロリータ読書会に参加したので、再読の楽しみが倍増した。ここでは、読書会で教わったネタも交えつつ、再々々読に向けたメモをまとめる。

むかし、「変態男の少女愛」だけで思考停止していた俺、もったいない。ストーリーの表層をなぞって満足するのは初読時だけで、面白くなるのは再読から。面白さは細部に宿るし、その細部を追っていった目を上げた瞬間に広がる全体にも宿っている。

これは、小説読みが好きなあらゆる要素が詰まっている。

ぱっと思いつくだけでも、宙吊り、オマージュ、信頼できない語り手、どんでん返し、多声性、異化、ミステリー性、寓意、内的独白、間テクスト性、エピファニー、デウスエクスマキナ、アポリア、アイロニー、自由間接話法、、視点変更、メタフィクション、入れ子構造、非線形叙述、ギャグ、カタルシス、不気味の谷、オノマトペ、パロディ、パスティーシュ、言葉遊び……たぶん、「『ロリータ』に出てくる小説技巧」で、世の中の小説の技巧はほぼ網羅できるかも(足すならマジックリアリズムぐらい)。

どこをどんなに読んでも、必ず宝が詰まっている。それに気づくか、気づかないかだけ。

もちろん上辺の筋を追うだけでもいい。「起きたこと」を並べるだけならこうなる。

年月 場所 出来事 H.H. Lo
1910 パリ ハンバート・ハンバート誕生    
1923夏 パリ ハンバート、アナベルと出会う 13    
1923冬 コルフ島(ギリシャ) アナベル、発疹チフスで死亡 13    
1911 オーシャン・シティ クィルティ誕生 14    
1935-01-01 ピスキー (ミッドウェスト) ドロレス(ロリータ)誕生 25 0  
1935-04 パリ ハンバート、娼婦モニークから「本物の快楽」を得る 25 0 1-6
1935 パリ ハンバート、ヴァレリアと結婚する 25 0 1-8
1939夏 パリ ハンバートの伯父死亡、遺産相続の話 29 4 1-8
1939夏 パリ ヴァレリアの浮気、離婚 29 4 1-8
1940春 ニューヨーク ハンバート、合衆国に到着 30 5 1-9
1943-44 ニューヨーク ハンバート、神経衰弱で入院 33 8 1-9
1945 ラムズデール ヘイズ一家がピスキーから転居 35 10  
1947-05 ラムズデール ハンバート、ヘイズ家に下宿開始 37 12  
1947-06-26 キャンプQ ドロレスが夏のキャンプへ出発 37 12  
1947-06末 ラムズデール ハンバート、シャーロットと結婚 37 12  
1947-07末 チャンピオン湖 ドロレス、処女喪失 37 12  
1947-08-05 ラムズデール シャーロット、ハンバートの秘密を知る 37 12  
1947-08-06 ラムズデール シャーロット、交通事故で死亡 37 12  
1947-08-14〜15 ラムズデール ハンバート、ドロレスを迎えに行き、Trip One開始 37 12  
1947-08-15 ブライスランド 最初の宿泊 37 12  
1947-08-16 レッピングヴィル ハンバート、シャーロットの死をドロレスに告げる 37 12  
1947-09 ソーダ(ミズーリ) 中西部を通過 37 12  
1947-09 スノウ (ワイオミング) ハイプレーンズ地域を通過 37 12  
1947-10 チャンピオン(コロラド) チャンピオンホテルに滞在 37 12  
1947-11 カスビーム(アリゾナ) チェスターナットに滞在、クィルティ尾行 37 12  
1948-04 エルフィンストーン ドロレスが体調を崩す 38 13  
1948-08 ビアズレー(オハイオ) 旅を終え、定住開始ドロレスが学校に通う 38 13  
1948-12 ビアズレー(オハイオ) ハンバート、プラット校長と面談 38 13 2-11
1949-5 ビアズレー(オハイオ) ドロレス、「特別なリハーサル」に参加 39 14 2-12
1949-05-29 ビアズレー(オハイオ) Trip Two開始 39 14 2-14
1949-06上旬 チェスターナット・コート ドロレス、クィルティと密会 39 14 2-16
1949-06下旬 チャンピオン チャンピオンホテルでテニス 39 14 2-20
1949-06-27 エルフィンストーン ドロレスが体調悪化、入院 39 14 2-22
1949-07-05 エルフィンストーン ドロレスが病院を去り、ハンバートと別れる 39 14 2-23
1950 ケベック(カナダ) ハンバート、リタと関係を持つ 40 15 2-26
1951-09〜1952-06 カントリップカレッジ  ハンバート、教職に就く 41 16  
1952-09-22 コールモント (ワシントン) ドロレスからの手紙:結婚と妊娠の知らせ 42 17 2-27
1952-09下旬 コールモント付近 → 旅路 ハンバート、手紙を受け取る 42 17  
1952-09末 コールモント ハンバート、ロリータと再会 42 17 2-27
1952-09末 クィルティ邸 ハンバート、クィルティを銃撃・殺害 42 17  
1952-09末 (未詳) ハンバート逮捕後、獄中で回想録(『ロリータ』)を執筆 42 17  
1952-11-16 (獄中) ハンバート死亡(心臓疾患) 42 17  
1952-12-25 グレイ湖付近 ドロレス死去(難産のため) 42 17  

人は書物を読めない、ただ再読するだけ

表の最後を見てほしい。ドロレスは難産で死ぬ。享年17歳。

ん?作中でドロレスが死ぬシーンなんてあった?

ハンバートがドロレスと再会する場面(2-27)で、いつか一緒に暮らす提案を拒絶されたとき、自動拳銃を取り出したり、「あなたが本書を読んでいる頃には彼女はもう死んでいて」なんて物騒な記述はあるにはあった。だが、拳銃が使用されるのはクィルティに向けてであり、ドロレスではない。一体いつ、ドロレスが死んだことになったのか?

この謎、初読時には絶対に分からない。なので、最初のページに戻ってほしい。冒頭の「序」だ。ジョン・レイ博士なる人が、この小説の由来を述べている。正式なタイトルは『ロリータ、あるいは妻に先立たれた白人男性の告白録』であるとか、プライバシーのため登場人物は変名だとか、作者のハンバート・ハンバートは初公判の前に他界していることが書いてある。

「リチャード・F・スキラー」夫人は1952年のクリスマスの日に、北西部最果ての入植地であるグレイ・スターで、出産中に亡くなり、生まれた女児も死亡していた。

一度でも読んだ人なら、リチャード・F・スキラーが誰であるのかは明白だ。だが、一回読んだだけでは、彼女の運命がどうなったのかは分からない。この小説は、そういう風に書いてある。他の登場人物がどうなったかは「序」に全部書いてある。そこには「読者」も含まれる。初読時に受けたときの衝撃や感情も記されている(自分のことが書かれていると気づいて、慄く読者もいるかもしれぬ)。

再読することで、初めて見えてくる世界がある。この小説は、そういう風に書いてあるのだ。これ、ナボコフが「小説を読むこと」について述べていることと一致する。『ナボコフの文学講義』のここだ。

ひとは書物を読むことはできない。ただ再読することができるだけだ。
(『ナボコフの文学講義 上』ナボコフ、河出文庫、p.57)

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この一行だけ切り取られていることが多いが、その真意は直後に明かされている。本を読むということは、一行一行、一頁一頁、目を追って動かす作業そのものだ。「その書物に何が書かれているのか」を知る過程そのものに、時間的・空間的なハードルがある。絵画の鑑賞のように、絵をパッと見た後、細部を楽しむ―――そういう風に書物はできていないし、私たちの肉体もできていない。

だから、再読、再々読を繰り返すことでしかないというのだ。再読を繰り返すことで、初めて作品全体と向き合いながら細部にも目を行き渡らせることができる―――これを実践したのが『ロリータ』になる

Qについて

再読を誘う仕掛けはいくらでもある。読書会で知った最大の成果は「Q」だ。

ドロレスを唆し、ハンバートから引き離したクィルティ(Quilty)。「唆した」のかどうかは、ツッコミたくなるが、彼はあちこちに、本当にあっちこっちに登場している。

劇作家の名前として初登場(1-8)するだけでなく、近所の歯医者、彼の戯曲名「魅惑の狩人(The Enchanted Hunters)」はそのままハンバートとドロレスの「初宿泊」のホテル名(1-25)、ドロレスがサマーキャンプに出かけるのは「キャンプQ」であり(1-25)、ドロレスを連れ去って移動しながら宿泊するモーテルの宿帳に記すのは「Q」である(2-24)

そもそも、ハンバートが教養をひけらかすために要所要所でフランス語を使っているのだが、フランス語でWhatにあたる「Que」が登場する(1-8、2-2、2-6、2-14等多数)。ハンバート自身が無自覚にQを使って手がかりを残していると考えると面白い。

そして、queは英語だと「手がかり」「合図」になる。「Q」は見失ったロリータを探す手がかりでもあるし、ストーリーにきっかけを与え、展開を促す合図でもあるのだ。英語で「Q」で始まる言葉は少ない。そんな言葉を、イメージや暗示、連想を紡ぎつつ、ハンバートだけでなく読者が読み解く手がかりとしても残していく。その響きから、読み手はQで始まる重要な単語―――Question―――を思いつくかもしれぬ。

あるいはQuest(ニンフェットの探索、1-12)、Queen(ドロレス、2-6)にも結びつく。原文で読むとき、「Q」を探しながらだとより捗るだろう。

チェホフの銃の向き先

これは初読時の衝撃だが、チェホフの銃が効果的に使われている。

チェホフの銃とは、「物語の冒頭で銃が壁に掛かっているなら、最後には発砲されなければならない」というルールのことだ。登場させる小道具には何かしらの意味があり、無意味な小道具を出すなという約束事になる(こと銃のような物騒なものは特に)。

『ロリータ』におけるチェホフの銃は、元々はドロレスの実父のものだった。それをシャーロットが譲り受けて(2-17)、最終的にはハンバートが手に入れる。32口径、8連装の自動拳銃だ。

当然、この銃はクライマックスで使われるのだろうな……ということは想像できる。

では誰に向けて?

初読時、私が引っ掛かっていたのは、ドロレスの呼び方だ。ハンバートは彼女のことを、ロリータ、ロー、ローラ、ドリーと呼んでいた(これらはドロレスから派生した呼び名)。あるいはニンフェットとも呼んでいた(これは9~14歳までの女の子で、その2倍以上の年上の魅せられた旅人に対してのみ発動するニンフ/nymphic、1-5)。

この他に、カルメン(カルメンシータ)とも呼んでいた。

最初はドロレスのお気に入りの曲「小さなカルメン」からだが(1-11)、心の中だけでの呼びかけだったのが、実際にドロレスに向かって「カルメン」と呼ぶようになっていた(2-2)。

そして、カルメンといえばメリメの悲劇だろう。平凡な兵士ドン・ホセが、ジプシー女カルメンと出会い、恋に落ち、破局していく物語だ。妖艶で奔放なカルメンは、自由を愛し、社会の規範に抗おうとする一方、ドン・ホセは彼女に執着するあまり脱走し、彼女と一緒になろうとする。

束縛しようとするドン・ホセに対して、彼女の心は離れてゆき、闘牛士エスカミーリョを愛するようになる。彼女のことが忘れられず、ドン・ホセは復縁を迫るものの、自由を失うくらいなら死を選ぶと言い放つカルメン。逆上したドン・ホセは、持っていた短刀で刺し殺してしまう……というストーリーだ。

なので、メリメの悲劇を踏襲して、ハンバートはドロレスを撃ち殺すのだろう、と考えていた。

自由を愛するドロレスと、執着するハンバートは、まんまカルメンとドン・ホセになる。

しかし、チェホフの銃の向き先は、闘牛士エスカミーリョになる。

これには二重の意味で驚いた。ハンバートがドロレスではなくクィルティを撃ったことだけでなく、「ドロレスを撃つだろう」という私の(読者の)予想を巧みに出し抜いたことにも驚いた。ドロレスを「カルメン」と呼んだのはハンバートだが、ハンバートがクィルティに向けて銃を撃たせたのはナボコフだ。

その意味で、ハンバートとナボコフが結託して私を騙したことになる。古典的な作劇テーマを借用しながらも、その予想を出し抜くアイロニー。これは初めて読むときしか味わえない初読者の叫びなり。

『ロリータ』攻略本

引っ掛かるところには全てネタがあると思っていい。そして、ネタは調べるほど宝になるし、宝に注釈をつけると、本文より膨大になるだろう(それこそ『青白い炎』ぐらいに!)。

読書会で教えてもらったのだが、研究者による注釈本があるとのこと。ポー、プルースト、シェイクスピア、ドン・キホーテ等の文学的引用の典拠、言葉遊びや語呂合わせの読み解きがなされている。

ハンバートはもちろん信頼できない語り手だが、それでも信頼するならば、その境界はどこになるか?といった線引きをしている。また、序文・裁判調書・手記といった物語構造のメタ化や、銃、蝶、色彩、地名など、作品に登場するアイテムやモチーフ、文化的背景を解説している。いわばロリータ攻略本なのだろう。

N/A

答えは一つと限らないが、一つの答え合わせとして読むといいかもしれぬ。

翻訳の妙・注釈の妙

翻訳者の若島正がすごい。

引っ掛かるところは原文と突き合わせながら読んだのだが、何度も何度も唸らされた。読み手が知っている情報量を玩味した意訳が超絶技巧なり。

生きた肉鞘(p.46):原文では「animated merkin(1-8)」。merkinは女性用のカツラ(ただし陰毛のカツラ。剃毛してパイパンになった娼婦が生えているフリをするために使う)。現代なら「生オナホ」だけど、これを「肉鞘」と訳すのが凄い。シャーロットの人権とは?

我が情熱の笏杖(p.27):原文「the scepter of my passion(1-4)」まんまだけど、「彼女(アナベル)の不器用な手の中に握らせた」の訳が好き。原文だと彼女が握って拳(fist)になるイメージだけど、アナベルも初体験なので、不器用さが滲み出てる。

クィルティ殺しを悔いている(p.57):原文だと「Guilty of killing Quilty(1-8)」で、ギルティ、キリング、クィルティと子音の韻を踏んでいる。これを、クィルティ、殺し、悔いていると韻を踏みながら日本語にしている。さらに、クィルティのアナグラムが「悔いている」になっている(天才かよ!)。ここ絶対、ニヤニヤしながら翻訳してたはずwww

我が恋人よ、紫の上よ(p.392):原文だと「my darling, my own ultraviolet darling(2-18)」で、紫(violet)には「高貴」というニュアンスがあり、それを超えた(ultra)ものとして、ハンバートがドロレスに呼びかけている。これを源氏物語に引き寄せて紫の上と訳したのがスゲェ(もちろんロリコン光源氏に見染められた若紫のこと)。

片方の靴下(p.17):靴下を片方だけ履くロリータ。注釈で若島は、「もう片方がどこにあるか探せ」と出題してくる。ちなみに答えはp.69(1-10)で床に白い靴下が片方、落ちている。

こんな風に、延々と(永遠と)読める。いわゆる顕微鏡的な読みをしても、十分耐えられるほどの強靭さを、この小説は持っている。

さらなる読み解き

ハンバート・ハンバートは、明らかに嘘だと分かることを重ねている。

読み手(陪審員もしくは小説の読者)にもすぐにバレるような、辻褄の合わない嘘のつき方だ。例えば、ホテル「魅惑の狩人」での最初の夜、ドロレスから誘ったかのような書きっぷりになっている(1-29)。あるいは、記憶の混濁を自ら告白している(2-28)。

だから読み手は、信頼できない語り手として接するのだが、書き手はそれ以上に読ませるのが上手い。

ついつい引き込まれてしまうものの、ハッと気づいて「これは本当のことなのだろうか?あるいは少女性愛を正当化させるための虚言なのだろうか」と自問することになる。

だが、たとえ全てが嘘だったとしても、この小説は成り立つ。仮に、嘘もしくは嘘と思われる箇所を塗りつぶしたとしよう。すると、ほとんどのページは真っ黒になり、文は消え、言葉は失われていくが、それでも残るものがある。

それは、ハンバートからドロレスへの愛、だと思う。

二人は、性的搾取と支配で成り立つグロテスクな関係であり、彼は「理想の少女像」を重ねているに過ぎない。

だが、それでもなお彼の言葉が文学として魅惑的であるため、嘘と知りつつもそこに愛(?)を汲み取りたくなる。

もちろん、ドロレスもハンバートも存在しないフィクションのキャラクターだ。それでも、そこに真実の愛(「真実の愛」ってなんだ?)があるとするなら、フィクションが語るからこそ「真実の」と言えるのかもしれぬ。

Fiction is the lie through which we tell the truth.
フィクションとは、真実を語るための嘘だ
アルベルト・カミュ

Art is the lie that enables us to realize the truth.
芸術とは、私たちに真実を悟らせる嘘である
パブロ・ピカソ

もちろん現実ではあり得ないし、あってはならない。だが、フィクションの中でなら成立する真実なのかもしれぬ。

現実では、カルメンを刺したのは「痴情のもつれ」かもしれないし、ドロレスを連れて旅したのは「未成年者略取」になるだろう。同意の有無に関わらず「強姦」は成立する。

だが、フィクションの中では、これを何と呼ぶのか。たとえ全てが嘘でも、どうしても「愛らしきもの」が残ってしまう。 それは現実では成り立たないが、フィクションだからこそ成立する「真実」だと言える(そう思ってしまうのは、それこそH.H.の策略なのかもしれぬ)。

『ロリータ』は、少女愛を綴ったエロ小説としても読める(肩透かしするかもしれないが)。アメリカを横断・縦断するケルアック的ロード・ノヴェルとしても読める(On the Roadの方が後発だが)。僅かな手掛かり(cue)を元に姿なき誘拐犯を追いかけるミステリとしても読める。そして、全てがハンバート・ハンバートの妄想だという読みもできる(←この読み方は読書会で知った!)。

物語は物騙りと言われる。

フィクションとはずばり「嘘」だ。それでも、嘘の中に真実があるとするならば、それは何か?何だと思いたいか?これは読者に委ねられたテーマだろう。

『ロリータ』はどんな読み方にも答えてくれる強靭さと多様さを兼ね備えている。

次は、どんな風に読もうか。

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むいさん、ロリータ装丁のネイル、素敵でした(まさにultravioletですね!デラウェアみたいで美味しそうだと思ったことは秘密です)。 東京ガイブン読書会の中のお二方、楽しい会をありがとうございました(ドノソの会は期待しています、もし席が取れたら3回目を読みます)。他の方も、もっと長くお話したかったです。また会える日を楽しみにしています!

 

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