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(ネタバレ全開)『存在の耐えられない軽さ』読書会が楽しすぎた

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ダンジョン化しつつある渋谷で行われたリアル読書会に行ってきた。課題本はミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』だ。11名で3時間、あっという間だった。

『存在の耐えられない軽さ』は3回読んだ。邦訳が出た30年前に1回、世界文学全集で新訳が出た15年前に1回 [書評]、そして今回 [書評]なので、テーマもストーリーも承知しているので、もう味わうところは無いかな……と思っていたら大間違いだった。

この読書会で新たな発見があり、再々々読が楽しみとなった。対話を通じて意見の相違を確かめあい、さらに深く広く読む手がかりを得る―――読書会のおいしいところはここやね。

序盤で作品の感想を言いながら、「この会で皆と話したいテーマ」を述べる点が良かった。全員が一巡すると、『存在の耐えられない軽さ』で解きたい謎の一覧ができあがる。

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なぜトマーシュとテレザは別れないのか?

複数人が疑問に思っていたのは、「なぜトマーシュとテレザは別れないのか?」になる。トマーシュとテレザは恋人として一緒に暮らし、結婚している。トマーシュはテレザを愛し、テレザはトマーシュに身も心も捧げている。にも関わらず、トマーシュは他の女と情を通じる。生まれてこのかた、いったい何人の女と?友達に追求されると、トマーシュはこう答える。

「まあ、二百人くらいかな。それほど多いってわけじゃない。女たちとおれの関係はだいたい二十五年つづいている。二百を二十五で割ってみろよ。一年に新しい女が八人ほどになるのがわかるだろ。別にたいした数じゃないんじゃないの」
(第5部9章より)

一方でテレザはトマーシュを愛し、トマーシュただ一人に愛されようとする。彼の裏切りを知った後も、その意志を貫こうとする。

愛についての認識は、二人ではあまりにも違っていた。愛と性は別物であり、愛はテレザに、性欲は他の女に振り分けることができるトマーシュと、ふたつは分かち難く結びついているとみなすテレザとは、全く合わない。こんな二人が一緒にいられるはずがない。でもなぜ?

二人が別れない理由は、あちこちに埋め込まれている。読書会は、その理由を掘り起こす作業となった(かなり楽しい)。

なかでも面白かったのは、重荷のメタファーを用いた共依存の関係だ。二人は互いを背負い合っているのではないかという観点だ。

テレザは重いスーツケース一つもって、故郷と母を捨てて、トマーシュのところへやってきた。「女とは寝ても女は泊めない」ことを信条とするトマーシュからすると、重荷でしかない。それを「松脂で塗り固めた籠に入れられ、河の流れに放り出された子供」として引き受ける(もちろんこの子供とはモーゼで、重荷=愛=モーゼのメタファーは、彼の立場を危うくする論説にもつながるのだが、これは別のテーマなので割愛する)

もう一つは、「眠る」と「寝る」の違いだ。「ベッドを共にする」と語られるとき、睡眠と性交の二つの意味が重なっている。トマーシュの手を握り眠り続けるテレザは、一緒に眠ることができる唯一の存在としてあるのかもしれぬ。

トマーシュはつくづく思った。ひとりの女と寝るのとその女と眠るのとは、たんに違っているばかりか、ほとんど矛盾さえする二つの情熱なのだと。愛情は性交したいという欲望ではなく(この欲望は数かぎりなく多くの女に適用される)、眠りをともにしたいという欲望によってこそ現れる(こちらの欲望はただひとりの女にしか関わらない)のだと。
(第1部8章)

俺はここに、テレザの美しさを加えたい。トマーシュが抱いてきた二百人の誰よりも美しかったからではないかと想像する。

ポイントは、テレザの「美しさ」は直接的に言及されていないこと。一方、テレザの母親の美しさは徹底的に描かれている。「ラファエロのマドンナに似ている」と言われ、求婚の季節がやってきたとき、彼女には九人の求愛者がいた。金持ち、ハンサム、スポーツマン、芸術家等の中から、誰を選んでよいか分からなかったから、九人目の最も男らしい男を選んだ。その男とデキてしまったのがテレザになる。

九人の求婚者から愛を捧げられるくらいなのだから、テレザの母親は、きっと美しい女性だったに違いない。そんな母親から生まれ、母に似ており、かつ、母親から嫉妬されるくらいだから、この上もなく美しい見目をしているだろう―――想像を掻き立てられる。

にもかかわらず、テレザについて「美しい」と述べている箇所は、ほぼ無い。目の色、髪の色、背格好、顔つき、姿形、服を脱ぐとどんな肉付きかといった描写は無い。わずかに、彼女の就職祝いの飲み会で、トマーシュの同僚の医師がダンスに誘ったとき(トマーシュは踊るのが好きではない)、「美しい」が出てくる。

ふたりがフロアのうえを滑るように見事に進み、テレザはかつてないほど美しく見えた。彼女がどれだけ正確かつ従順にパートナーの意志をほんのちょっとだけ先取りするのかを見て、彼は唖然とした。
(第1部7章)

美しい存在を「美しい」と描かないのは、小説の基本的な技法だ。二百人以上の女と懇ろになるトマーシュはきっと美男子だろうし、「ラファエロのマドンナ」と呼ばれた母親が嫉妬するテレザは美女だろう。しかし、クンデラは「二人は美男美女だった」なんて書かない。

なぜ2人の死が途中で明かされるのか

あえて直接的に描かれないテレザの美は、小説の構造にまで及んでいることに気づかされた。

『存在の耐えられない軽さ』のメインキャラクターは、トマーシュ、テレザ、サビナ、フランツの4人だ。そして中心的な位置にいるのは、トマーシュとテレザになる。

全部で第7部まである小説の、ちょうど真ん中あたりで、トマーシュとテレザの死が明かされる。芸術家として成功する一方、空虚な日々を過ごすサビナの元へ届いた一通の手紙がこう明かす。

ふたりは近年とある村で暮らし、トマーシュはトラックの運転手として働いていた。彼らはしばしば連れだって隣町へ行き、ちいさなホテルで夜を過ごすことがあった。道路は丘をいくつも横断し、カーブが多かった。そのためトラックが峡谷に転落した。すっかり押しつぶされた死体が発見され、警察はブレーキの状態がひどく悪かったのを確認した。
(第3部10章)

通常、物語は時間に沿って進んでゆく。そして、主人公やメインキャラクターの死といった大きなイベントは、物語のラストに持っていくことが多い。もちろん、冒頭にクライマックスを持ってきたり、フラッシュバック/フォワードやキャラの想起といった時間軸の逆転はあるが、ど真ん中で主人公を殺すのは珍しい。

一般的に読者は「この物語の主人公はどうなるのだろうか?」という疑問を持って作品に向かう。不遇な状況を逆転させたり、未知の運命に翻弄されたりする主人公を見て、「それからどうなる?」という期待をもってページをめくる。

しかし、この作品では、メインキャラの2人は半分のページのところで唐突に死ぬ。そして、残りのページでその死に向かって起きることが、死とは関係なく紡がれてゆく。どうしてこんなイレギュラーな構成になっているのか?

面白かった意見としては、「これは恋愛小説ではないから」というものがあった。

もし『存在の耐えられない軽さ』が恋愛小説なら、小説の物理的なラスト(最後のページ)は、物語の時間軸としてのラスト(二人の恋愛の結末や、エピローグ的なもの)にするだろう。「そして二人は、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」や、生き別れであれ死に別れであれ「もう二度と会うことがなかった」的に終わらせるだろう。

しかし、クンデラはこれを恋愛小説としたくないが故に、二人の死を真ん中に持っていったのだというのだ。なるほど、確かにこれ、恋愛を描いているけれど、いわゆる「恋愛小説」にしてしまうと、込められている様々なテーマ(重さと軽さをはじめとする様々な二項対立、ニーチェの永劫回帰と人生の選択、キッチュの自己陶酔)から外れてしまう。

なるほどーと納得する面々に、参加者の一人が集英社文庫の帯を見せる。

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「20世紀恋愛小説の最高傑作」らしいwwwということで一同爆笑する。二人の恋愛は物語をドライブする推進力にはなっている(この二人はどうなるのか?という宙吊り)けれど、これを恋愛小説にしてしまうのは、表層的すぎるかもしれぬ。

そして、二人が若くして死ぬのは「二人をハッピーエンドにするため」という説も語られる。愛と性は一緒だとする女と、心と肉は分離できる男が、いつまでも一緒にいられるわけがない。プラハの春による翻弄が二人を結びつけはしたが、政情が落ち着き、生活が続くなら、どこかで破綻する。そうなる前に死ねば、少なくとも死ぬまでハッピーだったといえるから。

これにもう一つ、俺の考えを加える。クンデラ(というより物語の仕掛け上)、物語的結末を「その後二人は、いつまでも幸せに暮らしました」とすることはできない。だから、二人は一緒に、小説のページの途中で死ぬ必要があったと考える。

順に説明する。テレザの美しさは(直接的には描かれていないものの)伝わっている。一方で、テレザの母がそうであったように、その美貌は時間とともに変化してゆく。テレザは母のようになることを恐れていたはずだ。母が女らしさを否定するような素振りをしたり、老いの醜さを見せつけるような態度をする(もちろん、テレザの美貌を否定するため)。

この母の呪いは伝わっており、それゆえに、テレザは年齢を重ねることで醜くなることを恐れている。自分が老いても、トマーシュは愛してくれるのだろうか、と。二人の間に子どもはおらず、二人の絆と呼べるものは互いの想いだけになる。テレザが美しいままで死ぬためには、若くして死ぬ必要がある―――そういう物語上の要請により、運命が決められていったと考えることはできないだろうか。

音楽のアーキテクチャが組み込まれた物語

目次がちょっと変わっている。

第1部 軽さと重さ
第2部 心と体
第3部 理解されなかった言葉
第4部 心と体
第5部 軽さと重さ
第6部 <大行進>
第7部 カレーニンの微笑

「軽さと重さ」が1部と3部で同じタイトルだし、「心と体」も2部と4部で重なっている。その間に3部「理解されなかった言葉」が挟まり、シンメトリーな構造になっている。「軽さと重さ」をA、「心と体」をB、「理解されなかった言葉」をCとするなら、こんな構造だ。

A-B-C-B’-A’

各部では同じテーマ「軽さと重さ」や「心と体」を様々な人物や立場、象徴、事件でくり返し描こうとしている。同一の出来事を複数の視点から語り分けられ、多声的に聞こえることもあれば、性格のズレから不協和に聞こえたりする(墓地に対するサビナとフランツの見方とか)。

これは、音楽の構造を意識した物語構成となっているのではないか?

私のこの疑問は、この読書会で解消された。副主催の方より、これはソナタ形式を念頭においた構成となっているという。導入→展開→再現のそれぞれの中で、主調A、主調Bが繰り返される。A-B-C-A’-B’というのが普通だが、後半のA’とB’を逆転させるのもアリだという。

確かに小説の章立てはソナタ形式に則っているのかもしれない。第1部の後半で、ベートーベンの弦楽四重奏のモチーフを、わざわざ楽譜付きで引用している。

“Muss es sein?”(こうでなければならないのか?)
“Es muss sein!”(こうでなければならない!)
(第1部15章)

この問答は、物語のあちこちで、様々なキャラ、イベントの中で応答される。これはヒントの一種として読むと面白いかも。

音楽と物語を重ね合わせて読むという試みは、パワーズでやった(再読すれば再読するほど夢中になるリチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』)。バッハの変奏曲(Goldberg Variations)をyoutubeで聞きながら、スコアと首っ引きで綿密に読んだのだが、かなり幸せな読書だった。

ひょっとすると、同じ仕掛けが『存在の耐えられない軽さ』にも施されているかもしれない。GPTさんに「ベートーベンで7楽章まである組曲は?」と聞いてみたところ、「弦楽四重奏曲第14番」とのこと。4回目に読むときは、これを流しながら重ね読みしてみよう。

誰がキッチュか

読書会で問いかけられた謎の一つに「誰がキッチュか?」というものがあった。

一般的なキッチュ―――大衆ウケはいいけど俗悪で美的価値は低く、けばけばしい作品―――という用法から離れ、小説では別のニュアンスが与えられている。サビナの目線から語られているように見えるが、これ、作者の代弁者「私」の主張になる。

そのニュアンスとは、世界の汚れや禍々しさ、不協和、不合理を否定するものとしての「キッチュ」だ。「このキッチュ」は異議を排除し、一致団結の情動に結びつこうとする。

キッチュは立て続けにふたつの感動の涙を流させる。最初の涙が言う。「なんて美しいんだろう、芝生のうえを走っているちびっ子たちは!」
第二の涙が言う。「なんて美しいんだろう、芝生のうえを走っているちびっ子たちを見て、全人類とともに感動するのは!」
この第二の涙だけがキッチュをキッチュたらしめるのである。
(第6部8章)

読書会に参加する前までは、単純に、フランツ=俗物=キッチュと考えていた。カンボジアの恵まれない子どもたちを助ける運動(=大義)のために身を捧げるが、その大義とは何の関係もない事件に巻き込まれてカンボジアで死ぬ。これぞ俗物の鑑!と思っていた。

だが、読書会ではもっと刺激的な読みを得られた。私なりに再解釈すると、現実のリアクションから離れて、理想主義に走るとき、このキッチュは現れる。

不幸な目に遭う人々にに心を痛めるのはキッチュではない。「不幸な目に遭う人々にに心を痛める自分に酔う」ところからキッチュが始まる。サビナが感じていた熱狂的なものへの嫌悪は、このアピールに酔う人々に向けられたものだろう。読書会では、もっと生々しい(ネットに書くと叩かれそうな)固有名詞や作品名が飛び交っていたが、ここでは自重しておく。

こんな風に、次から次へと、様々なネタや読み方が提案され、捏ねられ、飛び交わされた。命の軽さからマッカーシー『ブラッド・メリディアン』が提案されたり、クンデラの最高傑作として『不滅』が強く推されたりした(これは私)。二次会では『桐島、部活やめるってよ』の映画版が強く推されたので、手を出してみる。

分からないものは分からないでいいし、裏読み・深読みは自由でいい。互いのリスペクトや礼儀正しさは必要だが、必要以上に政治的な正しさは求められない。「私とあなたの意見は違う」が、そのままの意味でやり取りできる喜び。そういう意味で、リアルの読書会は大変楽しかった。

同じ本を読む人は、わりと近くにいることが確かめられて、嬉しい会だった。これはやはり、ネットのおかげなり。

東京ガイブン読書会の主催の方、ご参加の方、ありがとうございました!

 

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