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ふわっとした議論を終わらせる『解像度を上げる』

N/A

  • ふわっとした議論
  • 問題を裏返しただけの対策
  • それは症状であって原因じゃない
  • 説得力が弱い

言い方は色々あるが、結局のところ、取り組むべき課題が不明瞭な状態だ。「部門統合でシナジーを得る」とか「顧客満足度が低いから顧客満足度を上げる」など、何も言っていないに等しい妄言を聞くのもウンザリだ。

では、どうすればいいか?

この問いかけに対し、具体的に応えているのが『解像度を上げる』になる。

画像描写がキメ細かく、イメージが明瞭であることを解像度が高いというが、ビジネスの現場でも用いられている。物事への理解度や表現の精緻さ、事例の具体性や思考の明瞭さのメタファーとして「解像度」という言葉が用いられる。

解像度が高い場合、取り組んでいる領域について、明確で簡潔で分かりやすい答えが返ってくる。顧客が困っていることを深く知り、解決のためにどんな競合製品を使っており、そこでどんな不満を持っているかも把握している。その上で、取るべき打ち手と打つべき布石が、(その打ち手である理由・どうしてその順番かも含めて)納得させることができる。

本書では、解像度を高くするために「深さ」「広さ」「構造」「時間」の4つのアプローチから迫っている。

  • 深さ:原因や方法を、細かく具体的に掘り下げる
  • 広さ:考慮する原因や方法の多様性を確保する
  • 構造:「深さ」や「広さ」の視点で見えてきた要素を、意味ある形で分け、要素間の関係やそれぞれの相対的な重要性を把握する
  • 時間:要素の変化や機序、プロセスの流れを捉えることになる

本書は起業家向けのスタートアップ製品やサービスの例を紹介している。スタートアップが気になる人はそちらを参照してもらうとして、この記事では、私がいま取り組んでいる問題「加入中の顧客の離脱を防止する」に適用してみる。

「深さ」を掘り下げる

最初は「顧客が他社に移る離脱を防止したい」になる。具体性も何もない。

「深さ」は、何よりも事実ベースで原因や方法を考えろとある。だから、年間で見た解約率や、解約したユーザからのヒアリング調査(料金が高い等)に取り組むのが初手だろう。また、解約はどのタイミング(契約〇ヶ月目~1年目が全体の〇%)か、解約の前の行動(コールセンターへの問い合わせ)が洗い出される。

すると、割引キャンペーン終了直後に解約申込が集中していたり、解約の〇%が『解約申込の連絡の前に』何らかの問い合わせをしているといった事実が見えてくるだろう。解約の予兆が洗い出されるはずだ。

また、解約の主な理由として、「料金が高い」といった不満や、競合他社がさらに安価な提案をしている事実が見出されるかもしれぬ。解約リスクとなる予兆データ(加入〇ヶ月目で問い合わせが来た)がシステム連携されておらず、離脱防止に向けた全社施策につなげられていないことも分かるだろう。

こんな風に、現場や顧客にインタビューをして、事実ベースから洞察を掘り下げていく。掘り下げる問いは “Why so?” (なぜそうなのか?)を自問自答していく(いわゆるイシューツリー/ロジックツリーの下へ行くときの問いやね)。

ちょっと面白いなと思ったのは、”Why so?” だけでなく、”Why not so?”(なぜそうではないのか?)という視点も併せよという。例えば「なぜその課題がこれまでに解決されなかったのか?」という視点から考えるのだ。

すると、「これまでは事業の成長に重きを置いており、解約が課題視されていなかった」という問題も炙り出されてくるかもしれぬ。経営層は「新規獲得数」をKPIに重視しすぎており、そもそも顧客を維持するコストに投資していないといった不都合な事実が明るみ出てくる。

「広さ」を確保する

離脱防止のための方法や多様性(=広さ)を確保するために、視点を変えろと説く。離脱防止の課題について、顧客視点と社内視点で考えてみる。

顧客視点だと、サービスや自社の価値をどう見ているか?といった疑問に置き換えることができる。

そこから、サービスの価値を上げるために、料金や契約面の見直しが検討できるかの議論になるだろう。長期割引やより細やかな料金プラン、バンドルやセットサービスを思いつく。提携店舗とのポイント還元もありだろう。

さらに、AIボットによるサポートの充実、顧客満足度調査とフィードバックを定期的に実施する、地域イベント・社会貢献活動を通じてブランド・信頼を向上させるといった泥臭いやり方もある。

社内視点からだと、もっと顧客データを活用できないかといったアプローチになる。例えば、解約予兆モデル(利用低下や問い合わせ増・料金の変動)を作り、このモデルに沿った行動を取った顧客を事前にアラートし、ハイリスク顧客には特典やサポートを自動提示する仕組みを入れる。

本書で紹介されている「リフレーミング」を取り入れるなら、「解約する顧客」とは「継続しなかった顧客」になる。両者は同じなのだが、「継続しなかった顧客」というワードから、「継続した顧客」が導かれる。

すると、両者はどう違うのか?という疑問が生まれる。それまで(解約しなかった)普通の顧客として扱われてきたが、解約リスクのある期間で辞めなかった理由を調査する。「解約しなかった顧客」を分析することで、継続要因を特定できるかもしれぬ。

「時間」と「構造」で要素を整理する

順番的には、最初に「深さ」で事実ベースで要素を分解しつつ、「他にないか?」という視点で問題要素を広げていくのが「広さ」だろう。そこに「時間」軸を導入し、顧客ライフサイクルや季節性に沿って、解約が起きるタイミングを含めて要素を洗い出していく。

出てきた要素は、MECEを意識しながら関係性に応じて要素をまとめたり分けたりする。おそらくキレイなMECEにはならないだろうが(しなくてもいいが)、Excelでツリー図を広げていく。

この記事では、問題の精緻化と打ち手の検討を並行して行ったが、本書では、まず問題の解像度を上げろという。その上で、レバレッジポイントとなる課題(おそらくここでは「顧客を維持するコスト」)に取り組む。現実的に対応できる範囲で、かつ、課題を十分に解決できる打ち手を選べという。『イシューからはじめよ』にある「本質的で質の高い、かつ、答えの出せる問い」がこれになる。

優れた問題解決本に共通するのはここだろう。解くべき問題や意思決定すべき判断ポイントは、実際に取り組んだり判断する前に、問題そのものを見極めることが重要だ。

ふわっとした問題は、意思決定の速度も精度も奪う。解像度を上げる問いを続けることで、問題を見極め、課題に落とし、具体策に落とすことができる。そんな一冊。

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(ネタバレ全開)『存在の耐えられない軽さ』読書会が楽しすぎた

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ダンジョン化しつつある渋谷で行われたリアル読書会に行ってきた。課題本はミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』だ。11名で3時間、あっという間だった。

『存在の耐えられない軽さ』は3回読んだ。邦訳が出た30年前に1回、世界文学全集で新訳が出た15年前に1回 [書評]、そして今回 [書評]なので、テーマもストーリーも承知しているので、もう味わうところは無いかな……と思っていたら大間違いだった。

この読書会で新たな発見があり、再々々読が楽しみとなった。対話を通じて意見の相違を確かめあい、さらに深く広く読む手がかりを得る―――読書会のおいしいところはここやね。

序盤で作品の感想を言いながら、「この会で皆と話したいテーマ」を述べる点が良かった。全員が一巡すると、『存在の耐えられない軽さ』で解きたい謎の一覧ができあがる。

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なぜトマーシュとテレザは別れないのか?

複数人が疑問に思っていたのは、「なぜトマーシュとテレザは別れないのか?」になる。トマーシュとテレザは恋人として一緒に暮らし、結婚している。トマーシュはテレザを愛し、テレザはトマーシュに身も心も捧げている。にも関わらず、トマーシュは他の女と情を通じる。生まれてこのかた、いったい何人の女と?友達に追求されると、トマーシュはこう答える。

「まあ、二百人くらいかな。それほど多いってわけじゃない。女たちとおれの関係はだいたい二十五年つづいている。二百を二十五で割ってみろよ。一年に新しい女が八人ほどになるのがわかるだろ。別にたいした数じゃないんじゃないの」
(第5部9章より)

一方でテレザはトマーシュを愛し、トマーシュただ一人に愛されようとする。彼の裏切りを知った後も、その意志を貫こうとする。

愛についての認識は、二人ではあまりにも違っていた。愛と性は別物であり、愛はテレザに、性欲は他の女に振り分けることができるトマーシュと、ふたつは分かち難く結びついているとみなすテレザとは、全く合わない。こんな二人が一緒にいられるはずがない。でもなぜ?

二人が別れない理由は、あちこちに埋め込まれている。読書会は、その理由を掘り起こす作業となった(かなり楽しい)。

なかでも面白かったのは、重荷のメタファーを用いた共依存の関係だ。二人は互いを背負い合っているのではないかという観点だ。

テレザは重いスーツケース一つもって、故郷と母を捨てて、トマーシュのところへやってきた。「女とは寝ても女は泊めない」ことを信条とするトマーシュからすると、重荷でしかない。それを「松脂で塗り固めた籠に入れられ、河の流れに放り出された子供」として引き受ける(もちろんこの子供とはモーゼで、重荷=愛=モーゼのメタファーは、彼の立場を危うくする論説にもつながるのだが、これは別のテーマなので割愛する)

もう一つは、「眠る」と「寝る」の違いだ。「ベッドを共にする」と語られるとき、睡眠と性交の二つの意味が重なっている。トマーシュの手を握り眠り続けるテレザは、一緒に眠ることができる唯一の存在としてあるのかもしれぬ。

トマーシュはつくづく思った。ひとりの女と寝るのとその女と眠るのとは、たんに違っているばかりか、ほとんど矛盾さえする二つの情熱なのだと。愛情は性交したいという欲望ではなく(この欲望は数かぎりなく多くの女に適用される)、眠りをともにしたいという欲望によってこそ現れる(こちらの欲望はただひとりの女にしか関わらない)のだと。
(第1部8章)

俺はここに、テレザの美しさを加えたい。トマーシュが抱いてきた二百人の誰よりも美しかったからではないかと想像する。

ポイントは、テレザの「美しさ」は直接的に言及されていないこと。一方、テレザの母親の美しさは徹底的に描かれている。「ラファエロのマドンナに似ている」と言われ、求婚の季節がやってきたとき、彼女には九人の求愛者がいた。金持ち、ハンサム、スポーツマン、芸術家等の中から、誰を選んでよいか分からなかったから、九人目の最も男らしい男を選んだ。その男とデキてしまったのがテレザになる。

九人の求婚者から愛を捧げられるくらいなのだから、テレザの母親は、きっと美しい女性だったに違いない。そんな母親から生まれ、母に似ており、かつ、母親から嫉妬されるくらいだから、この上もなく美しい見目をしているだろう―――想像を掻き立てられる。

にもかかわらず、テレザについて「美しい」と述べている箇所は、ほぼ無い。目の色、髪の色、背格好、顔つき、姿形、服を脱ぐとどんな肉付きかといった描写は無い。わずかに、彼女の就職祝いの飲み会で、トマーシュの同僚の医師がダンスに誘ったとき(トマーシュは踊るのが好きではない)、「美しい」が出てくる。

ふたりがフロアのうえを滑るように見事に進み、テレザはかつてないほど美しく見えた。彼女がどれだけ正確かつ従順にパートナーの意志をほんのちょっとだけ先取りするのかを見て、彼は唖然とした。
(第1部7章)

美しい存在を「美しい」と描かないのは、小説の基本的な技法だ。二百人以上の女と懇ろになるトマーシュはきっと美男子だろうし、「ラファエロのマドンナ」と呼ばれた母親が嫉妬するテレザは美女だろう。しかし、クンデラは「二人は美男美女だった」なんて書かない。

なぜ2人の死が途中で明かされるのか

あえて直接的に描かれないテレザの美は、小説の構造にまで及んでいることに気づかされた。

『存在の耐えられない軽さ』のメインキャラクターは、トマーシュ、テレザ、サビナ、フランツの4人だ。そして中心的な位置にいるのは、トマーシュとテレザになる。

全部で第7部まである小説の、ちょうど真ん中あたりで、トマーシュとテレザの死が明かされる。芸術家として成功する一方、空虚な日々を過ごすサビナの元へ届いた一通の手紙がこう明かす。

ふたりは近年とある村で暮らし、トマーシュはトラックの運転手として働いていた。彼らはしばしば連れだって隣町へ行き、ちいさなホテルで夜を過ごすことがあった。道路は丘をいくつも横断し、カーブが多かった。そのためトラックが峡谷に転落した。すっかり押しつぶされた死体が発見され、警察はブレーキの状態がひどく悪かったのを確認した。
(第3部10章)

通常、物語は時間に沿って進んでゆく。そして、主人公やメインキャラクターの死といった大きなイベントは、物語のラストに持っていくことが多い。もちろん、冒頭にクライマックスを持ってきたり、フラッシュバック/フォワードやキャラの想起といった時間軸の逆転はあるが、ど真ん中で主人公を殺すのは珍しい。

一般的に読者は「この物語の主人公はどうなるのだろうか?」という疑問を持って作品に向かう。不遇な状況を逆転させたり、未知の運命に翻弄されたりする主人公を見て、「それからどうなる?」という期待をもってページをめくる。

しかし、この作品では、メインキャラの2人は半分のページのところで唐突に死ぬ。そして、残りのページでその死に向かって起きることが、死とは関係なく紡がれてゆく。どうしてこんなイレギュラーな構成になっているのか?

面白かった意見としては、「これは恋愛小説ではないから」というものがあった。

もし『存在の耐えられない軽さ』が恋愛小説なら、小説の物理的なラスト(最後のページ)は、物語の時間軸としてのラスト(二人の恋愛の結末や、エピローグ的なもの)にするだろう。「そして二人は、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」や、生き別れであれ死に別れであれ「もう二度と会うことがなかった」的に終わらせるだろう。

しかし、クンデラはこれを恋愛小説としたくないが故に、二人の死を真ん中に持っていったのだというのだ。なるほど、確かにこれ、恋愛を描いているけれど、いわゆる「恋愛小説」にしてしまうと、込められている様々なテーマ(重さと軽さをはじめとする様々な二項対立、ニーチェの永劫回帰と人生の選択、キッチュの自己陶酔)から外れてしまう。

なるほどーと納得する面々に、参加者の一人が集英社文庫の帯を見せる。

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「20世紀恋愛小説の最高傑作」らしいwwwということで一同爆笑する。二人の恋愛は物語をドライブする推進力にはなっている(この二人はどうなるのか?という宙吊り)けれど、これを恋愛小説にしてしまうのは、表層的すぎるかもしれぬ。

そして、二人が若くして死ぬのは「二人をハッピーエンドにするため」という説も語られる。愛と性は一緒だとする女と、心と肉は分離できる男が、いつまでも一緒にいられるわけがない。プラハの春による翻弄が二人を結びつけはしたが、政情が落ち着き、生活が続くなら、どこかで破綻する。そうなる前に死ねば、少なくとも死ぬまでハッピーだったといえるから。

これにもう一つ、俺の考えを加える。クンデラ(というより物語の仕掛け上)、物語的結末を「その後二人は、いつまでも幸せに暮らしました」とすることはできない。だから、二人は一緒に、小説のページの途中で死ぬ必要があったと考える。

順に説明する。テレザの美しさは(直接的には描かれていないものの)伝わっている。一方で、テレザの母がそうであったように、その美貌は時間とともに変化してゆく。テレザは母のようになることを恐れていたはずだ。母が女らしさを否定するような素振りをしたり、老いの醜さを見せつけるような態度をする(もちろん、テレザの美貌を否定するため)。

この母の呪いは伝わっており、それゆえに、テレザは年齢を重ねることで醜くなることを恐れている。自分が老いても、トマーシュは愛してくれるのだろうか、と。二人の間に子どもはおらず、二人の絆と呼べるものは互いの想いだけになる。テレザが美しいままで死ぬためには、若くして死ぬ必要がある―――そういう物語上の要請により、運命が決められていったと考えることはできないだろうか。

音楽のアーキテクチャが組み込まれた物語

目次がちょっと変わっている。

第1部 軽さと重さ
第2部 心と体
第3部 理解されなかった言葉
第4部 心と体
第5部 軽さと重さ
第6部 <大行進>
第7部 カレーニンの微笑

「軽さと重さ」が1部と3部で同じタイトルだし、「心と体」も2部と4部で重なっている。その間に3部「理解されなかった言葉」が挟まり、シンメトリーな構造になっている。「軽さと重さ」をA、「心と体」をB、「理解されなかった言葉」をCとするなら、こんな構造だ。

A-B-C-B’-A’

各部では同じテーマ「軽さと重さ」や「心と体」を様々な人物や立場、象徴、事件でくり返し描こうとしている。同一の出来事を複数の視点から語り分けられ、多声的に聞こえることもあれば、性格のズレから不協和に聞こえたりする(墓地に対するサビナとフランツの見方とか)。

これは、音楽の構造を意識した物語構成となっているのではないか?

私のこの疑問は、この読書会で解消された。副主催の方より、これはソナタ形式を念頭においた構成となっているという。導入→展開→再現のそれぞれの中で、主調A、主調Bが繰り返される。A-B-C-A’-B’というのが普通だが、後半のA’とB’を逆転させるのもアリだという。

確かに小説の章立てはソナタ形式に則っているのかもしれない。第1部の後半で、ベートーベンの弦楽四重奏のモチーフを、わざわざ楽譜付きで引用している。

“Muss es sein?”(こうでなければならないのか?)
“Es muss sein!”(こうでなければならない!)
(第1部15章)

この問答は、物語のあちこちで、様々なキャラ、イベントの中で応答される。これはヒントの一種として読むと面白いかも。

音楽と物語を重ね合わせて読むという試みは、パワーズでやった(再読すれば再読するほど夢中になるリチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』)。バッハの変奏曲(Goldberg Variations)をyoutubeで聞きながら、スコアと首っ引きで綿密に読んだのだが、かなり幸せな読書だった。

ひょっとすると、同じ仕掛けが『存在の耐えられない軽さ』にも施されているかもしれない。GPTさんに「ベートーベンで7楽章まである組曲は?」と聞いてみたところ、「弦楽四重奏曲第14番」とのこと。4回目に読むときは、これを流しながら重ね読みしてみよう。

誰がキッチュか

読書会で問いかけられた謎の一つに「誰がキッチュか?」というものがあった。

一般的なキッチュ―――大衆ウケはいいけど俗悪で美的価値は低く、けばけばしい作品―――という用法から離れ、小説では別のニュアンスが与えられている。サビナの目線から語られているように見えるが、これ、作者の代弁者「私」の主張になる。

そのニュアンスとは、世界の汚れや禍々しさ、不協和、不合理を否定するものとしての「キッチュ」だ。「このキッチュ」は異議を排除し、一致団結の情動に結びつこうとする。

キッチュは立て続けにふたつの感動の涙を流させる。最初の涙が言う。「なんて美しいんだろう、芝生のうえを走っているちびっ子たちは!」
第二の涙が言う。「なんて美しいんだろう、芝生のうえを走っているちびっ子たちを見て、全人類とともに感動するのは!」
この第二の涙だけがキッチュをキッチュたらしめるのである。
(第6部8章)

読書会に参加する前までは、単純に、フランツ=俗物=キッチュと考えていた。カンボジアの恵まれない子どもたちを助ける運動(=大義)のために身を捧げるが、その大義とは何の関係もない事件に巻き込まれてカンボジアで死ぬ。これぞ俗物の鑑!と思っていた。

だが、読書会ではもっと刺激的な読みを得られた。私なりに再解釈すると、現実のリアクションから離れて、理想主義に走るとき、このキッチュは現れる。

不幸な目に遭う人々にに心を痛めるのはキッチュではない。「不幸な目に遭う人々にに心を痛める自分に酔う」ところからキッチュが始まる。サビナが感じていた熱狂的なものへの嫌悪は、このアピールに酔う人々に向けられたものだろう。読書会では、もっと生々しい(ネットに書くと叩かれそうな)固有名詞や作品名が飛び交っていたが、ここでは自重しておく。

こんな風に、次から次へと、様々なネタや読み方が提案され、捏ねられ、飛び交わされた。命の軽さからマッカーシー『ブラッド・メリディアン』が提案されたり、クンデラの最高傑作として『不滅』が強く推されたりした(これは私)。二次会では『桐島、部活やめるってよ』の映画版が強く推されたので、手を出してみる。

分からないものは分からないでいいし、裏読み・深読みは自由でいい。互いのリスペクトや礼儀正しさは必要だが、必要以上に政治的な正しさは求められない。「私とあなたの意見は違う」が、そのままの意味でやり取りできる喜び。そういう意味で、リアルの読書会は大変楽しかった。

同じ本を読む人は、わりと近くにいることが確かめられて、嬉しい会だった。これはやはり、ネットのおかげなり。

東京ガイブン読書会の主催の方、ご参加の方、ありがとうございました!

 

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問題を再定義すると解法は変わる『ライト、ついてますか』

枠組みを変えることで問題を再定義することを「リフレーミング」と呼ぶ。リフレーミングの見事な例は、孫正義のこれ。

頭頂部で起きていることは1㍉だって変わっていないのに、ネガティブからポジティブへ再定義されている。こういう発想って、どうやって生まれてくるのだろう?

おそらく、これを読んでいたのではないか?

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本書は、見方を変えることで問題を別の角度から捉えなおし、問題を「再発見」する本だ。ユーモア小話仕立てのエピソードを俎上に、「問題は何か」「それは本当に問題なのか」「それは誰の問題なのか」「それを本当に解きたいのか」を分析していく。

「エレベーター問題」は誰の問題か

有名なやつだと、「エレベーター問題」がある。

とあるビルのオーナーが問題を抱えている。様々な企業が利用するテナントビルなのだが、「エレベーターの待ち時間が長い」という苦情が寄せられているのだ。

普通なら、「エレベーターの待ち時間が長い」という入居者の不満を問題だとみなし、エレベーターの増設や速度を改善するといった解決策を考える。

だが、この問題を「誰の問題か?」という観点から問い直すと、ビルのオーナーにとっては別の対策が見えてくる。

  • 賃貸料を値上げして入居者を減らす
  • 待ち時間はゆったりとした働き場所だからこそだと入居者を説得する
  • 歩行時間と消費カロリーの表を張り出し、階段を使う気にさせる

もっと多くの対策が出てくるのだが、どれも「エレベーターの待ち時間が長い」という利用者の問題ではない点に注意してほしい。代わりに、オーナーに苦情が行くことが問題となっている。

採用された解決策は、「エレベーターの前に鏡を置く」になる。これにより、利用者は自分の顔色を確認したり、身だしなみを整えることができる。エレベーターが来るまでの間は、「待ち時間」でなくなったというわけ。

エレベーター問題は古典的な事例だが、「ネットが繋がらないときに出てくるChromeのミニゲーム」は現代の応用例になる。

すぐ「問題」に飛びつく弊害

「これは問題だ」と言われたとき、私たちは自動的に解答を探そうとする。

著者に言わせると、これは、「学校に通いすぎたことによる弊害」らしい。問題に集中しようとするあまり、最初に目についた「問題」らしく見える文章に飛びつき、速く解こうとする。なぜなら、試験ではスピードがものを言うからだ。

しかし、「問題」は変えられる。

例えば「先着順のチケット予約受付に、人気アーティストのリクエストが殺到し、予約処理が間に合わない」という悩みがあるとする。これを解くべき問題だとするなら、「より強力なサーバを増やす」「同時接続セッション数を増やす」といった対策が浮かぶだろう。

だが、「その悩みは本当に問題か?」という視点で捉えなおすと、どうなるか?

すると、「予約処理を間に合わせる」のではなく、リクエストにさえ応えられれば良いのではないか……という発想を得られる。そこから、予約処理や課金処理に時間がかかっていることに気づき、「リクエスト受け付けと予約を分ける」という考え方につながる。

最終的には、「一定期間リクエストを受け付け、そこから抽選で当選者を確定し、後日、予約処理をしてもらう」ことだってありだろう(Switch2の招待販売制を思い出そう)。

一見「問題」に見えるものに飛びつき、解こうとすると、取れる打ち手は限られてくる。代わりに、「本当に解くべき問題は何か」という観点から、問題を再定義することで、より抜本的な対策が見えることもある。

ライト、ついてますか?

タイトルにもなっているこの「問題」が面白かった。

長いトンネルの先に、世界一眺めの良い展望台があった。トンネルの中では車のライトをつけて欲しいので、トンネルの入口に「ライトをつけて下さい」という標識を立てた。

ところが、問題が発生した。トンネルを抜けて展望台に到着してもライトがつけっぱなしで、展望台を散策した後、バッテリーが上がってしまうというトラブルが多発したのだ。

もし問題が「バッテリーが上がる」なら、展望台に充電施設を置けば解決する。だが、維持費がそれなりにかかる。トンネルの出口に「ライトを消せ」という標識を出せばライトを消し忘れることは無くなるだろうが、夜中にライトを消してしまう可能性だってありうる。

色々考えて、こういう標識の案が出たという。

「もし昼間でライトがついてるなら、ライトを消せ
 もし夜間でライトが消えてるなら、ライトをつけろ
 もし昼間でライトが消えてるなら、ライトを消したままにしろ
 もし夜間でライトがついてるなら、ライトはついたままにしろ」

厳密性はいいのだが、車を運転しているとき、こんなに大量の文章を読まされ・判断させられるのは酷だろう。本当に解くべき問題は「バッテリーが上がる」ではなく、「ライトを消す」ことでもない。ドライバーに気づいてもらい、(必要なら)つける/消すの判断をしてもらうことだから、標識はこれでいい。

ライト、ついてますか?

これ、要件定義の泥沼にハマっているときに思い出したい。

顧客が突き付ける条件付け・場合分けの迷宮を彷徨っているとき、「結局何がしたいのか」をしばしば忘れる。「この要件で、業務やビジネスの上で何を解決する(改善する)のか?」という視点から捉えなおすと、別の解法が浮かぶかもしれぬ。

そういう意味で、お守りになってくれる一冊。

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後知恵バイアス・事後孔明の寓話として読む『失敗の本質』

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経営幹部の必読書として有名な『失敗の本質』が面白かった&タメになった。

太平洋戦争における失敗の本質は、「国力で圧倒的に差がある米国にケンカを売ったこと」に尽きる。人を含めたリソース差が決定的であり、他の理由は後付けに過ぎない。「もし~だったら」と歴史にIFを求めても、いわゆる後知恵だ。

だが、この後知恵をあえてやったのが『失敗の本質』だ。

「なぜ開戦したのか」という問いはスルーすると序章で謳っている。代わりに「日本軍はどのように負けたのか」というテーマで日本軍の組織構造を研究する。インパール作戦やミッドウェー海戦など代表的な負け戦を6つ選び、いかに日本軍がダメで、米国や英国が優れていたかを力説する。

日本軍ダメダメ論

本書の前半は失敗の事例研究になる。各作戦(ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテなど)の背景や経緯は、膨大な戦史資料から引かれている。緊迫していく戦場の空気や、臨場感あふれる戦闘描写は、結果が分かっていてもハラハラさせられる。

この、見てきたような書きっぷりは、塩野七生『ローマ人の物語』と重なる。

ただし、『ローマ人の物語』は「ローマ軍TUEEEEEE!!」と激賞する一方、『失敗の本質』では「日本軍YOWEEEEEE!!」で塗りつぶされている。曖昧な作戦目的、兵力の逐次投入、兵站軽視、陸海軍の反目、代替案の欠如、「空気」が場を決める等、日本軍のダメっぷりがこれでもかと糾弾されている。

「日本軍のここがダメ」の非難が激しすぎて、ちょっと可愛そうに見えてくる。たとえば、ミッドウェーで完敗した理由の一つに、暗号解読されていて作戦が筒抜けだったところ。だが本書はそうではないと断ずる。

たとえ暗号解読よって日本側の作戦計画を知られていたも、第一機動部隊が慎重な索敵と厳重な警戒、そし周到な奇襲対処策を講じ、適切な航空作戦指導を行っていたならば、この要因は必ずしも致命的マイナスとはならなかっただろう。
(p.99 ミッドウェー作戦)

作戦がバレていても、実行段階で気づいて対処すべきという理屈はさすがにキツすぎる。「もし~だったら」のタラレバ方式で撫で斬りにする論調は、いっそ清々しい。

所要の航空兵力は、米機動部隊の存在の可能性に備えて控置しておくべきであった。また、米空母の存在を確認したら、護衛戦闘機なしでもすぐに攻撃隊を発進させるべきだった。
(p.104 ミッドウェー作戦)

このときルンガ沖の米輸送船団は、まったくの無防備となった。もし三川艦隊が攻撃を続行し輸送船団を撃破していたならば、ガダルカナル戦の形勢は変わっていた。
(p.114 ガダルカナル作戦)

もし陸軍が偵察機を出していれば、三日前には、この大部隊を補足できたであろう。
(p.195 レイテ海戦)

結果が分かった後で、「あのとき撤退すればよかった」とか「補給するべきだった」と言うが、当時は分かるはずもない。当時の不確実性や情報制約を無視して、「当然そうするべき」と結果論に基づく評価は、事後孔明(英語だとhindsight bias:後知恵バイアス)という。

実際、著者(6人いる)も自覚があるのか、随所に「後知恵によれば」「後知恵の結果論」という表現が散りばめられている。さらに、開き直ってこんな宣言が序章になされている。

われわれは、いわゆる後知恵によって日本軍の失敗を誇張したり、特定の人間に対して過酷な評価・批判に傾いた嫌いがあるかもしれない。しかし、われわれは、日本軍の失敗に籠められた教訓を探るため、ときにはあえて、失敗の誇張や過酷な批判という危険性を承知のうえで分析を進めたのである。
(p.32 日本軍の失敗から何を学ぶか)

さらに、著者たちは元々のテーマ「組織論から日本軍を研究する」に落とし込むために、「日本軍の組織文化が究極の原因である」と後付けを一般化している。

これ、歴史書っぽい体裁をしているけれど、歴史書からピックアップしたケーススタディ集と見たほうがよいかもしれぬ(※注)。その辺りを考えず、手放しに絶賛しているおっさんがいるみたいだが、危うい。

日本軍の失敗の本質と教訓

では、後知恵バイアスにまみれたチェリーピッキングだからダメかというと、そうでもない。バイアス(bias)は斜めに歪んだという意味だから、その偏りを考慮すれば使える教訓が得られる。

以下、偏りを考慮して抽出した「失敗の本質」とそこから得られる教訓を並べてみた。幹部研修で本書を読まされる人には参考になるかもしれぬ。

失敗の本質 教訓(経営・組織戦略への応用)
目的の不明確さとグランドデザイン欠如 ミッドウェー作戦:基地攻略か空母撃滅か目的が不統一。戦争全体の出口戦略なし ビジョン・ミッション・ゴールを明確化、全社共有。OKRやKGIで上位目標と施策を連結
短期決戦・攻撃至上の戦略志向 真珠湾後:短期決戦で米国の戦意を挫く想定。ガダルカナルで逐次投入 短期利益に偏らず持続可能性を重視。撤退基準や中長期戦略を設計。短期・長期の整合性を取りつつロードマップを各層で設計
兵站軽視と補給設計の脆弱さ インパール作戦:補給を軽視し「3週間で決着」と前提。ガダルカナルで補給線崩壊 サプライチェーン、人材、資源配分を現実的に設計と投資
情報・偵察・通信の軽視 ミッドウェー:暗号解読を軽視、索敵不足。レイテ:情報錯綜で「謎の反転」 データドリブン判断。市場調査・顧客情報・KPIを活用し、思い込み排除
陸海空の統合作戦欠如 ガダルカナル:陸軍・海軍の作戦不一致。FS作戦 vs ミッドウェーで戦略が乖離 部門間分断をなくし、クロスファンクショナルチームや共通KPIで統合
価値・情報・作戦構想の共有失敗 山本五十六と南雲忠一の間で作戦意図の齟齬(ミッドウェー) 上下・部門間での情報共有と透明な意思決定を徹底。経営方針の浸透
コンティンジェンシープラン欠如 インパール:撤退計画を立てず、撤退は「敗北を前提にする」として忌避 代替案や撤退戦略、組織のダメコン計画を事前に策定(プレモーテム分析、BCP設計)
学習(フィードバック)不全 ガダルカナル:失敗の教訓が次戦に反映されず、同じ逐次投入を繰り返す 失敗を組織的にレビュー。ポストモーテム/レトロスペクティブの制度化
科学的思考より「空気」に依存 インパール:補給困難の指摘を「精神力で克服」と黙殺 心理的安全性を確保し、異論を歓迎する文化醸成。データに基づく意思決定
組織文化としての「和」優先 インパール許可の過程で「反対は和を乱す」とされ、合理性より融和が優先 合理性・透明性の重視。検証ウェルカムの合議制。客観的な成果測定。第三者評価や外部監査の取り入れ
合理的官僚制と実態の乖離 作戦立案では合理的検討を装うが、実態は忖度と暗黙合意(例:大本営会議) 忖度や暗黙合意ではなく、明文化されたルールと責任を重視。

本書が主張している「日本軍の組織文化が究極の原因である」は過剰な一般化かもしれぬ。だが、「過去の成功体験の過剰適応(過学習)が、時代の変化に対応できなくさせた」という視点は鋭いと感じた。

  • 陸軍は、日露戦争で成功した銃剣突撃白兵戦を信奉し続け、火力中心・機動戦を重視する近代戦の流れに取り残された
  • 海軍は、日露戦争で成功した艦隊決戦思想に固執し、航空機・潜水艦・レーダーの台頭による統合システム戦に遅れた

つまり、組織からすると「過去の成功体験=正しいやり方」という前提から抜け出せなかったと言える。

さらに、第一次世界大戦を通じて西欧諸国が経験した「総力戦」「航空戦力の勃興」「塹壕戦の膠着」という現実を、日本は当事者として体験できなかった。環境の変化を直視する機会を欠いたまま、自国の成功パラダイムを絶対視したのだ。

ここから得られる教訓は、現代にもつながる。

  • 「過去の成功パラダイム」は強みでもあるが、同時に最大のバイアスにもなる
  • 環境変化や技術革新が速い時代には、勝ちパターンに囚われない柔軟性が生死を分ける

日本軍の失敗は「組織文化」というよりも「変化に対する鈍感さ」に置き換えるとしっくりくる。

「過去の成功が選択を見誤らせる」例なら、KodakのフィルムとかNokiaの携帯電話が有名だろう。現在進行中のやつだと、NikeのBoC戦略だろうか。コロナ禍の外出制限で成功した直販モデルが、ポストコロナの消費者や小売チャネルの離反を招いている。

結局のところ、『失敗の本質』を歴史研究として読むと事後孔明のオンパレードになるが、寓話として読むと現代的な教訓を与えてくれる。「勝ちパターン」に固執すると環境の変化に適応できなくなる。

このあたりまえで冷徹な真実は、過去の戦争からも、ビジネスの失敗例からも学ぶことができる。そういう意味で、「経営者にとっての名著」と呼ばれているのだろう。


※注:GPTに聞いたら、こんな感じ。かなりの批判があったみたいだ。GPTさん間違えることもあるので、裏取りはするつもり。半藤一利『昭和史』は積読山にあるはずなので、掘り出してみよう。

半藤一利『昭和史 戦前篇 1926-1945』平凡社ライブラリー, 2009

  • 日本軍の敗因は国力差に尽きる
  • 文化や組織論で説明するのはわかりやすいが、真因をぼかす危険がある

戸高一成『零戦と戦艦大和』NHK出版新書, 2012

  • 戦史を組織論に都合よくはめ込んだ物語
  • 成功例(マレー作戦、真珠湾)を無視して敗戦例だけを集めた「事後的な一般化」

秦郁彦『昭和史の謎を追う(上・下)』文藝春秋, 1993

  • 精神主義や空気による意思決定の強調は「説明過剰」

 

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問いの質を底上げする『問いの技法』

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問いの感度を上げると、的を射たコミュニケーションができる。

 太郎 『あのプロジェクトは失敗だ』
 花子 『それはなぜ?』

一見シンプルなやり取りだが、この「なぜ」には二つの意味がある。

 1.なぜプロジェクトは失敗したのか(原因を問う)
  例:要件追加や人員不足が影響したのか

 2.なぜ失敗だと判断したのか(根拠を問う)
  例:納期遅延やコスト超過など、どの指標を根拠にしたのか

前者は「失敗」を事実として深掘りする問い。後者は「失敗」かどうかを確定させるための問いだ。

これを区別しないと、誤解を招く。例えば偉い人が「なぜ失敗したのか」と問うた場合、その背後には「どの指標を根拠に失敗と見なしたか」が隠れている。根拠を確認せずに原因を語れば、相手の意図とズレることになる。

偉い人がコスト超過を問題視しているのに「人員不足のせいです」と答えれば、「不足なのにコスト増?」と、しなくてもいい説明責任を背負わされるハメになる。

問いへの感度を上げ、問いの背後を明確にすることは、余計な誤解や責任を避ける最初の一歩になる。「ご質問の主旨を腹落ちさせるため、ご判断の根拠を教えてください」のように的を絞り込むことも可能になる。

質の良い問いができるようになるのが、『問いの技法』だ。「問い」とは何かを明確化し、多様な問いを分類・整理して理論化したものになる。

問いの理論を学ぶことで、「問い」の形をしていないものの、暗黙のうちに問われていることに気づけるようになる。あるいは、「問い」の形をした巧妙な説得術も見抜けるようになる。

「問い」とは何か

本書で示される定義は、次の通り。

問いとは条件に合う答えをある範囲のなかから選択することである

上記を分解すると、問いとは、①予め何かしらの前提条件が与えられており、②ある範囲の中から答えを選ぶことで、なおかつ、③その答えは何らかの基準(価値判断)に沿って選ぶことになる。つまり問いとは、前提、選択、基準の3要素によって構成されるという。

ただし「選ぶ」という言葉に違和感を覚えるかもしれない。例えば「方程式の解を求めよ」は「求める」であり、「犯人は誰だ?」は「探す」が自然だろう。

ここで注目すべきは、答えを導く方法(計算や捜査)ではなく、「答えがどの範囲に属するのか」という点だ。数式なら「数値」、犯人探しなら「人物」という範囲が決まっている。

「問い」と「答え」とセットであり、その答えは文脈や意図に依存する。一意に定まるもの(1+1は?)、人によって変わるもの(ここのラーメンは好き?)、状況で変わるもの(面接と職務質問での「あなたは誰?」)がある。

したがって、「問いとは、前提のもとで基準に沿って選ぶこと」と考えると、その性質を整理しやすくなる。

誰かから問いを投げかけられたとき、あるいは、自ら問いが生まれたとき、「その問いとは何か?」と、問いそのものに目を向ける時に役に立つ。そして、「問いの前提、選ぶ基準と範囲は何か?」に置き換えることで、焦点がハッキリとするだろう。

「事実の問い」と「評価の問い」

本書では、様々な問いの分類がなされているが、最も重要なものは「事実の問い」と「評価の問い」だろう。

 太郎 『あの店のラーメン、どうだった?』
 花子 『豚骨スープに細麺で、けっこう美味しかった』

一見シンプルなやり取りだが、この「どうだった?」には「事実の問い」と「評価の問い」がある。

事実の問いは、基本的に答えが一つに定まる客観的なもので、「豚骨スープ」や「ストレート細麺」がその答えになる。一方、評価の問いは、答えは人それぞれのもので、「美味しかった」という主観が答えになる。

事実か評価か、どちらを想定した問いなのかを念頭に置くと、どんな回答が適切か見えてくる。どちらか分からないような問いなら、両方を示すのが良いだろう。ITプロジェクトでよくある問いだと、こんな風になる。

この機能追加に、なぜこんなにコストがかかるの?
→見積もり工数は90時間ですが(事実)、他の要件と並べると割高に感じるかもしれません(評価)

この画面のバグがなんで残っているの?
→再現条件が複雑だからですが(事実)、テスト設計が甘かったせいでもあります(評価)

この状況でリリースしても大丈夫?
→致命的なバグはありませんが(事実)、サポートの工数が増える可能性はあるので不安ですね(評価)

「事実の問いは一つに定まるもの」とはいえ、実際には定めるのが難しい場合がある。あるいは、一度定めても後に変わることもある。例えば「どの政策を採択するか」や「どんな刑罰を科すか」といった問いだ。

この答えは、人によって評価が分かれるが、最終的な結論は所定の手続きで決まる。問題は、「なぜこの政策を選ぶのか」「なぜ死刑にしないのか」のように、あたかも事実の問いであるかのように評価を押し付ける場合である。

これらの問いの背後に、「この政策は現状にそぐわない」「この犯罪には厳罰が妥当だ」といった主観的な評価が隠れている。それを明示しないまま「事実の問い」の形式で突きつければ、相手に説明責任を押し付けることになる(SNSで炎上する「問い」はたいていこれ)。

問いの類型モデルの全体を表にしたものがこちら。上段は事実の問いで、下段は評価の問いとなっている。

もちろん、厳密に分けられないものもあるし、重なるものもある。だが、「問われているもの」はどれに相当するか?という観点で見ると、問いの解像度が上がるだろう。

問いのモデル 説明
記述の問い 事実の問い(答えは一つ) 関ケ原は何年?
評価の問い(人それぞれ) そのラーメン美味しい?
推論の問い 根拠の問い(エビデンス) なぜこの政策が有効なの?
理由の問い(動機や判断の根拠) その本を選んだのは?
説明の問い 原因の問い(客観的な根拠) なぜ雷が発生する?
理由の問い(心の意思) なぜ会社を辞めたのか?
討論の問い 主張の問い(合意形成を目指す) この法案を通すべきか?
意見の問い(多様な立場を表明) この法案をどう思うか?

 

暗黙の問い

問いは必ずしも「質問」という分かりやすい形になっているとは限らない。

相手が答えを返すとき、その背後には暗黙の形で「問われていること」が存在する場合がある。本書ではこれを「問いの先取り」と呼ぶ。問いの先取りは2種類ある。

一つ目は、「予想による先取り」だ。新しい職場に配属されたとき、あいさつとともに簡単な自己紹介をするだろう。誰も「あなたの役割や意気込みは?」などと尋ねてはいないが、そう問われるだろうと予想して答える。

二つ目は、「要請による先取り」だ。会議が4時から始まるのだが、Aさんは作業に没頭して時間に気づいていないとする。その時「もう4時ですよ」と声をかける。

普通なら、これは「今何時?」の答えだが、Aさんが時刻を尋ねていないのに答えだけが返ってくる。Aさんが尋ねるべき「今何時?」という問いを先取りしているからだ。

「相手が何を問うてくるのか?」を見越した上でその問いへの回答もすることは、かなり重要なコミュニケーションスキルになる。ITの現場だとこうなる。

  • 先ほどDBアクセスでエラーログを検知しました。原因とユーザ影響は調査中です(「原因と影響は?」という問いを先取り)
  • 先ほど追加要件のレビューが終わりました。納期とコストへは響きません(「追加要件がプロジェクトに与える影響は?という問いを先取り」

問いに気づく

「何が問題か?」とか「どのようにすべきか?」といった問いなら分かりやすい。だが、問いは質問文の形を伴っているわけではない。暗黙の問いや、5W1Hすら伴わない問いだってある。

そうした問いをキャッチするためにはどうすればよいか?

すぐに使えるのは、語彙に「は?」「か?」をつける方法だろう。「影響は?」「リスクは?」「可能か?」「甚大か?」など、名詞、形容詞、形容動詞につけるのだ。

もう一つは、選択肢を見つける。

問いの定義を思い出そう「問いとは条件に合う答えをある範囲のなかから選択すること」。選択肢が提示されているとき、そこに問いが隠れている。

私が当選した暁には、高齢者福祉に力を入れてい参ります

隠れた問いは「限られた任期の中で、最も力を入れるべき施策は何か?」である。候補者の施策を並べて比較すれば、「子育て支援や経済活性化は?」といった他の選択肢が浮かび上がる。

さらに、「否定」を探すと良いという。普通なら肯定文で伝えられるところを、あえて否定文にしているということは、そこに何かしらの「問い」が示唆されている可能性が高いという。

 太郎 『今日は晴れているね』
 花子 『今日は雨が降っていないね』

花子の場合「雨が降っているかどうか」に何かしらの含みがあることが分かる。わざわざ否定形で述べていることは、「傘を持っていく?」「植木鉢の水やりいる?」といった問いが隠れている可能性がある。ITプロジェクトだとこういうのがある(カッコ内は隠れた問い)

  • 今回のリリースは遅れていない(前は遅れたけれど今回は納期守れる?)
  • 予算はまだオーバーしていない(予算内だけど、予算超過の可能性はあるの?)

否定形は聞き手の想定するリスクを前提にした、「隠れた問い」への返答であることが分かる。そこから隠れた問いを炙り出し、ストレートに答えることで安心させることができるだろう(「納期は守れます」とか「予算内で収まりそうです」)。

問いの感度を上げることは、相手の意図を正しく読み取り、自分の思考をクリアにするための技法だ。知的営みを支える、思考の筋トレといってもいいだろう。

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