人生は一回だから軽いのか、重いのか『存在の耐えられない軽さ』
「人生は一回だけ」という。
だが、もし、その一回が繰り返し繰り返し、寸分狂いなく同じ内容・同じタイミングで未来永劫リピートするなら、「その人生」をするか?(選びたいか?)
天国(キリスト教)とか来世(仏教)とか、”やり直し”を期待して今を雑に生きるのではなく、「いま・ここ」を丸ごと肯定し、その選択を(不都合な結果も含めて)引き受けられるか? そういう覚悟で今日という日を、今という瞬間を生きろ。
そう考えると、人生は途方もなく重くなる。ニーチェの永劫回帰である。
ミラン・クンデラは、この人生の「重さ」と対照を成すものとして、『存在の耐えられない軽さ』を差し出す。
Einmal ist keinmal(一度は数のうちに入らない)と、トマーシュはドイツの諺をつぶやく。一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。
トマーシュは主人公だ。「一度は数のうちに入らない」と嘯くトマーシュは「軽い」。プラハの優秀な外科医で、美形で、女大好き。とっかえひっかえ200人くらいと寝ている。
現実はニーチェの思考実験とは異なり、たとえリピートしていたとしても、その記憶は残っていない。だから、何度目のリピートだとしても、生きるのはただ一度であり、それ以前の人生を比べることも、それ以後の人生を訂正することも無い。
そんなトマーシュが出会ってしまったテレザと、トマーシュの愛人サビナ、サビナの愛人であるフランツの四重奏が、この物語の骨格だ。
四人の物語に覆いかぶさるように、チェコの民主化運動が吹き荒れる。プラハの春と呼ばれ、ソ連の軍事介入によって潰えた運動だ。
歴史の風圧のもとで、登場人物たちは様々な選択をする。「発言を撤回する/しない」とか「帰国する/しない」など、選んだ結果を引き受ける。生活どころか、運命をも変えてしまう選択を、あえて軽やかに引き受けるのは、ニーチェへのあてつけかもしれぬ。
女との偶然の出会いを「一度は数に入らない」と受け流してきたトマーシュは、テレザのために、かなり重い―――取り返しのつかないほど重い―――決断をしてしまう。トマーシュを求める一方、トマーシュの浮気性という「軽さ」に我慢ならないテレザは、性愛においても重くあろうとする。
テレザは、性は遊戯などではなく、身体と分かち難く結びついた「私という存在」を丸ごと承認するものだと捉える。セックスはイベントではなく、愛の儀式として扱おうとするため、「愛と性は別物」とするトマーシュと正面衝突する。
両親、友人、愛、祖国を裏切り続けたサビナは、人生というドラマから能動的に「軽く」なろうとしたのかもしれない。トマーシュとの愛も、フランツとの不倫も裏切り、その関係に名前を与えることを拒絶し、自由であろうとする。代償は孤独と空虚となるが、一通の手紙が持つ引力に打ちのめされる運命が待っている。
サビナの愛人であるフランツ。今回は彼に注目して読んだ。
実はこの作品、再々読になる。最初に読んだときは私自身が独り身だったこともあり、メインの三角関係(トマーシュ/テレザ/サビナ)ばかり追いかけていた。再読のときのレビューは [ここ] に書いた。あれから四半世紀、既婚者で不倫の愛に溺れるフランツの運命が響いた。
関係から軽くなろうとするサビナとは逆に、フランツは、関係に名前を与え、公開しようとする(フランツは「重さ」担当だ)。愛が真実なら、それが不貞であっても隠さず宣言するべきだとする。善良で、不器用で、愛を貫こうとする態度は潔いのかもしれない。
その結果、彼の運命にとって重すぎる決断を、いともあっさりと、軽く選んでしまう。傍から見れば愚かとしか思えない結末に至るが、それこそが、「存在の耐えられない軽さ」なのかもしれない。
人生の選択を重くも軽くもしているのは、結果の引き受け方にほかならない。選んだ方がどれほど深刻でも、そう受け止めるか否かの問題なのだ。
「もう一度でも同じ選択をするか?そう生きているのか」というニーチェの問いに、クンデラはこう応えているように見える。「何度繰り返すにせよ、今を生きるのはその一回だけだから、選んだものを引き受けよう(軽くても重くても)」。
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