物語の暴力に抗う『物語化批判の哲学』
現代社会は「物語」だらけだ。
感動的なアニメや映画だけではない。テレビのCM、SNSの投稿、就職活動のエントリーシート、選挙候補者のPR動画など、私たちの心を揺さぶる多くのものは「物語」によって駆動している。
例えば、不登校だったけれど努力と工夫で難関大に合格した体験記や、学生時代に片思いだった人と再会して勇気をもらったエピソード、マナーを守らない傍若無人なイキリト君が逆に恥をかかされる話は、「感動した」「エモい」「スカッとした」といったコメントと共に拡散され、消費されていく。
あるいは、就職活動では「学生時代に力を入れたこと(ガクチカ)」が求められ、「私は〇N〇という困難を△△という工夫で乗り越え、□□を得ました」などと定型的な「エピソード」が評価される。
政策の具体性や実質的な数値のデータよりも、候補者の「過去の苦労」や「理想を抱いたきっかけ」がドラマティックに語られる。そして「苦しんでいる”あなた”に寄り添う私」というキャラとして、有権者の共感に訴えかけようとする。
一見したところ、こうした手法は、自己や他者を理解する上で役立つように思える。あるいは、共感を中心としたムーブメントを起こす強力な方法だろう。実際のところ、物語は人間が世界を意味付け、秩序立て、理解するだけでなく、感情的に共感し、その感情を伝える非常に有効な形式といえる。
感動ポルノ・情動加速装置
しかし、本書『物語化批判の哲学』が問題にするのは、まさにその「強力さ」ゆえの過剰さにある。物語の力が、あまりにも多くの領域で安易に用いられ、かえって私たちの感情や理解を貧しくし、時には暴力的な効果すらもたらしているというのだ。
例えば、ある人の辛い経験が、本人の意思とは無関係に「感動できる物語」として仕立て直され、SNSやマスコミによって再構成されるとき、そこには「物語的不正義」が生じるという。他人の人生を勝手にまとめ直し、「わかった気になれる」ことで、その人が自分の人生を解釈する権利を奪うことになるというのだ。本当はもっと複雑で未解決な部分が、分かりやすくするためにカットされてしまう。
また、SNSで拡散される“共感の物語”には、怒りや悲しみといった感情を強制的に誘導する力がある。「いいね」やリポストされる物語は、さらに同質の感情を掻き立てる物語を呼びたてる。「あいつら vs 私たち」という物語構造は典型的で、特定の意図によって現実から抽出され、配置されたエピソードに、いとも容易く誘引される。
私たちは、スクロールしているだけで、複数の運動や敵対的な抗争に動員されてしまう。そのときの怒りは、本当に自分の怒りなのか、それとも作り出された怒りなのか、その瞬間には判別し難いものだ。
『物語化批判の哲学』(難波優輝、講談社現代新書)p.49より
このようにして、物語は本来の役割である「世界を理解するための道具」から、「情動を調節し、加速する装置」と変質しているというのだ。
典型的なものは、テロリストによる「物語の武器化」だという。テロリズムは、人々に恐怖の物語をばらまくことで、政情不安を煽り、人々が疑心暗鬼になることを目指す。1995年の地下鉄サリン事件は、それまで日常的に利用していた「地下鉄」が危険な密室となり、そこらじゅうにある「中身が見えないゴミ箱」を薄気味悪い存在にした。
物語化に抗う
では、こうした物語の暴走から、どのように距離を取ればよいのか?
著者が提示するのが、「遊び」という概念だ。本書の後半で、ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃといった”物語でない構造”に注目する。そこには、物語のように明確な起承転結もなければ、意味や成長の物語もない。ただ、ルール、偶然、操作、反復、失敗、快楽といった要素があるだけだという。
たとえば「ギャンブル」には、「何かを学び、成長する」というプロットがない。あるのは、単なる偶然と一時的な勝敗、そして搾取のシステムだけである。しかしそこには、物語的な意味づけから解放された「ひりひりする生の瞬間」だけがある。
対して「おもちゃ」には、意味や勝敗のような目標すらない。ただ、触る、眺める、転がす、といった身体的・感覚的な体験があるだけで、それは決して「自己成長の物語」にはならない。しかし、このような非物語的な出会いこそが、「今この瞬間の自分自身の情動」に触れる、まったく異なる自己理解のスタイルとなりうる。
著者は、こうした代替物を分析しながら「物語に回収されない経験」を用いることで、物語以外の理解の仕方を提案する。
善悪や感情、成功や幸福の枠組みまでもが“物語的”に構築されていることに、本書は、冷静なカウンターを提示する。感情マーケティング、自己啓発、SNS人格、政治的キャンペーンなど、「分かりやすく」「共感できる」物語化されたものが全てではないと説く。
私たちの経験や感情、関係性には、意味づけできない曖昧さや、言葉にできない違和感、説明不能なズレがある。それらを無理に「いい話」に仕立てようとすること自体が、私たちを狭め、他者との関係を型にハメてしまうと警告する。
本書は、そうした物語依存症(私やね)に対して、新しい自己理解の技法を提示する。物語によって生き方を正当化するのではなく、物語以外のやり方で、自分の感情や世界との関係を確かめてみる。そのための哲学的ヒントが、ギャンブルやパズル、そして遊びの中にあるというのだ。
著者は、物語そのものを否定するわけではない。物語化は強力な手法だが、世界を理解するための一つの手段に過ぎないのであり、「どうか物語に吞み込まれないように」と、ほとんど願いのように提示する。
良いも悪いもリモコン次第
たいへん面白い一方で、どっぷり物語に漬かっている私には、たいへん耳に痛い話ばかりだった。
存在しなかった甘酸っぱい青春の埋め合わせをするためラブコメを摂取し、ショート動画の「エモい話」に泣かされ、タイムラインに流れてくる戦争の悲惨さに激怒する。ずばり著者の言う、「スクロールするだけで情動が動員されている」状態だ。
だが、「せやな!」と頷きながらも、端々に違和感を覚える。
著者は、「物語そのものを否定するのではない」とエクスキューズしつつ、物語を分別する。
例えば、シェイクスピアの『マクベス』やトールキンの『指輪物語』は、現実とは異なる世界だというサインを出しながら「安全に」喜怒哀楽を味わい、「これは物語である」と熟考できる物語だとして、「よい物語」だと評価する。
一方、現実の物語は、情動喚起のストッパーが外れ、私たちの情動を手に負えないところまでに掻き立てる、危険なものとして「野生の物語(wild narrative)」と名づける。
しかし、この対比は本当だろうか? フィクションなら安全という仮説自体に危うさを感じる。歴史を振り返れば、フィクションが現実の行動に重大な影響を及ぼした例は枚挙に暇がない。
例えば、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』に感化された若者が模倣自殺をしたり、近松門左衛門『曽根崎心中』に触発され心中が流行したと言われている(ウェルテル効果という名前まである)。
あるいは、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』がジョン・レノンの暗殺犯に「殺害の正当性」を与えたとされる事例などは、むしろ「熟考可能な物語」が「野生化」してしまった例といえる。
フィクションであっても、それが信じられ、共感されるとき、物語は簡単に現実へ侵入する(その究極の形は聖書かもしれない)。逆に、たとえ現実の体験談であっても、それが誰かにとっての「慰め」や「意味の再構成」になることだってある。
つまり、物語の善悪や安全性を、物語の形式だけで判断することはできないのだ。
さらに言えば、物語は現実を生き延びるための精神的なシールドになり得る。現実という不確実で不条理で都合の悪いものと、なんとか折り合いをつけるために、物語という形式を用いる。酷いことを言われた時、「あいつはああいうキャラだから、仕方がない」と考えたり、「今は雌伏の時だから、耐え忍ぶしかない」と自分に言い聞かせるのは、物語化によって今の辛さに一時的にでも耐える理由を見出すことだ。
本書の立場からすると、そうした物語化に凝り固まって「あいつはあんなヤツ」というレッテルを貼って、それ以上の理解を拒むのが「物語の悪さ」になる。あるいは、現在の苦しみを全て未来のためと思い込み、「今ここ」の痛みに麻痺してしまうことを悪いと説くだろう。
それもその通り。だから、物語化には良い面も悪い面もある、というだけの話になる。
つまり、問題は「物語化が有害だ」という単純な話ではない。理解を決め付ける物語や、一方的に感情を揺さぶり続ける物語など、物語の濫用が批判の対象となる。刃物が危険だからといって、すべての刃物を否定することはできない。良いも悪いもリモコン次第なのだ。
だから、本当に批判すべき対象は、物語を悪用する存在ではないだろうか。それは、物語の力を使って私たちを疑心暗鬼にさせるテロリストかもしれない。あるいは、「あいつら vs 私たち」の物語構造で分断を煽り対立を強調する風潮かもしれない。そうした、物語を悪用する存在に目を向けることなく、物語化の危険性だけ語られても、的が外れているように見える。
この的を真ん中に据えて、物語の力の悪用に警鐘を鳴らしているのが、『ストーリーが世界を滅ぼす』になる。本書の次にはこれをお薦めしたい。
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