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失敗の質を上げる『「正しく」失敗できるチームを作る』

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誰だって失敗なんてしたくない。

自分のミスが原因で、手戻りが起きたり納期が遅れたりしたら、自分自身を責めたくなる。さらに「なぜ起きたのか?」「再発防止は?」などと責任追及されたら、いたたまれない。

失敗の不安と恐怖に圧し潰されそうになる。そんな現場のリーダーに向けた失敗とリカバリをエンジニアリングしたのが本書になる。

本書は面白いことに、「正しい失敗」と「間違った失敗」に分ける。そして、どうせするなら「正しく」失敗しなさいと説く。

「正しく」失敗?それは何だろうか。

速く失敗せよ

例えば、速く(早く)失敗する。

ITプロジェクトならDevOpsやアジャイルといった「小さく作り、駄目ならロールバックする」という技術革新の恩恵が受けられる。一般に適用するなら、まず少し手を付けて、見積もった想定とズレたら修正していく。出来の良さより「終わらせる」ことを優先し、周囲や上司のフィードバックを貰うといったやり方だ。

「事前に失敗する」というやり方もある。プロジェクトが始まる前に集まって「このプロジェクトは大失敗しました」と皆で絶望する。そしてその後、なぜ失敗したのか、どんな失敗の可能性が高いのかを話し合うのだ。

これ、プレモーテムというのだが、私もよく使う。始まってすらいないから、みんな気軽にノッてくれる。重要度×緊急度のマトリクス表にプロットしていく。自分の失敗だけでなく、他部署の怖い話をしてもいい(開発機と本番機を間違えたとかが定番)。

未来の後知恵をつけることで、「このプロジェクトにどんなリスクがあるか」を共有することができる。

失敗を歓迎せよ

あるいは、失敗を称賛する。

もちろん、失敗なんて誉められたものではない。だが、失敗を報告する人を褒め称える姿勢が重要だという。

これは「バグを厳罰化した課長の話」が良い例になる。その課長は、着任早々、プロジェクトメンバーに「高品質のソフトウェアを開発するため、バグを作り込んだらペナルティを課す」と宣言した。

オチはもう読めると思うけれど、一応言っておくと、バグが報告されないプロジェクトとなった。不具合は大事になるまで隠され、最終的には管理者責任となった。

「失敗したら非難される」という恐怖や、「私のせいにされるかもしれない」という不安が、報告をためらわせる。その恐怖や不安を取り除くために、失敗を報告してきた勇気を称えろという。

私が気を付けているのは、トラブルの第一報を受けたとき、必ず(必ず!だ)「ありがとう」から始めるところだ。「いま教えてくれたおかげで、リスケジュールできるかもしれない」とか「もっと後だったらゾッとすることになってた」なんてフォローする。

そして、失敗や課題はホワイトボードなどで外在化させる。原因は「人」ではない。たとえ人為的なミスだとしても、そうさせた仕組みなり、トラブルに発展するまで見つけられなかったプロセスが真の原因だ(「人為トラブル撲滅」というスローガンに違和感を覚えるのは、トラブルの原因を「人為」としているように読み取れるところだ)。

失敗を歓迎し、失敗から学ぶ姿勢は、医療現場の方が進んでいる。例えば『なぜエラーが医療事故を減らすのか』ではその実践的な事例が紹介されている。

同じ失敗を繰り返す

では、「間違った失敗」とは?

例えば本書では、「同じ失敗を繰り返す」事例が出てくる。

同じ失敗を繰り返すなんて、学習していない証拠なのだが、実際にある。

例えば、失敗を非難する空気の中だと、原因について振り返ったり再発防止を検討するプロセスはなおざりになる。その失敗の悪影響を回避する対策「だけ」にリソースを使い果たし、メンバーを疲弊させてしまう。

これは、「同じ失敗をしている」と認識していないことからも生じている。

マーチン・ファウラーによると、失敗の定義はこうなる。

プロジェクトの失敗はスケジュールの遅れや予算の超過による失敗ではなく、見積りの失敗です。プロジェクトが遅れた、またはコスト超過したために失敗したと言うのではなく、失敗したのは見積りなのです。

失敗とは何か(What Is Failure)

表面上では、「納期遅れ」や「予算超過」という事象だが、結局のところ、失敗とは、見積もった予想からの逸脱が大事に至った現象だ。

だから、失敗の事象の原因を特定するとき、「どの見積もりが失敗していたのか?」という視点から分析することで、学習することができる。

例えば、「納期遅れの原因は、途中で仕様変更が捻じ込まれたから」で思考停止するのではなく、「その仕様変更を受け入れて間に合うと見積もった根拠は何だったか?」という問いに置き換えることができる。その上で、その根拠の見通しの甘さや、再発防止策を考える。

失敗しないプロジェクトは無い。大なり小なり、仕事に失敗はつきものだが、その扱い方は学べる。「正しい」失敗は学びにつながり、チームを成長させる。「間違った失敗」は恐怖と不安を招き、同じ過ちを繰り返すことになる。

失敗を味方につけ、恐怖と不安を乗り越える一冊。



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人生は一回だから軽いのか、重いのか『存在の耐えられない軽さ』

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「人生は一回だけ」という。

だが、もし、その一回が繰り返し繰り返し、寸分狂いなく同じ内容・同じタイミングで未来永劫リピートするなら、「その人生」をするか?(選びたいか?)

天国(キリスト教)とか来世(仏教)とか、”やり直し”を期待して今を雑に生きるのではなく、「いま・ここ」を丸ごと肯定し、その選択を(不都合な結果も含めて)引き受けられるか? そういう覚悟で今日という日を、今という瞬間を生きろ。

そう考えると、人生は途方もなく重くなる。ニーチェの永劫回帰である。

ミラン・クンデラは、この人生の「重さ」と対照を成すものとして、『存在の耐えられない軽さ』を差し出す。

Einmal ist keinmal(一度は数のうちに入らない)と、トマーシュはドイツの諺をつぶやく。一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。

トマーシュは主人公だ。「一度は数のうちに入らない」と嘯くトマーシュは「軽い」。プラハの優秀な外科医で、美形で、女大好き。とっかえひっかえ200人くらいと寝ている。

現実はニーチェの思考実験とは異なり、たとえリピートしていたとしても、その記憶は残っていない。だから、何度目のリピートだとしても、生きるのはただ一度であり、それ以前の人生を比べることも、それ以後の人生を訂正することも無い。

そんなトマーシュが出会ってしまったテレザと、トマーシュの愛人サビナ、サビナの愛人であるフランツの四重奏が、この物語の骨格だ。

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四人の物語に覆いかぶさるように、チェコの民主化運動が吹き荒れる。プラハの春と呼ばれ、ソ連の軍事介入によって潰えた運動だ。

歴史の風圧のもとで、登場人物たちは様々な選択をする。「発言を撤回する/しない」とか「帰国する/しない」など、選んだ結果を引き受ける。生活どころか、運命をも変えてしまう選択を、あえて軽やかに引き受けるのは、ニーチェへのあてつけかもしれぬ。

女との偶然の出会いを「一度は数に入らない」と受け流してきたトマーシュは、テレザのために、かなり重い―――取り返しのつかないほど重い―――決断をしてしまう。トマーシュを求める一方、トマーシュの浮気性という「軽さ」に我慢ならないテレザは、性愛においても重くあろうとする。

テレザは、性は遊戯などではなく、身体と分かち難く結びついた「私という存在」を丸ごと承認するものだと捉える。セックスはイベントではなく、愛の儀式として扱おうとするため、「愛と性は別物」とするトマーシュと正面衝突する。

両親、友人、愛、祖国を裏切り続けたサビナは、人生というドラマから能動的に「軽く」なろうとしたのかもしれない。トマーシュとの愛も、フランツとの不倫も裏切り、その関係に名前を与えることを拒絶し、自由であろうとする。代償は孤独と空虚となるが、一通の手紙が持つ引力に打ちのめされる運命が待っている。

サビナの愛人であるフランツ。今回は彼に注目して読んだ。

実はこの作品、再々読になる。最初に読んだときは私自身が独り身だったこともあり、メインの三角関係(トマーシュ/テレザ/サビナ)ばかり追いかけていた。再読のときのレビューは [ここ] に書いた。あれから四半世紀、既婚者で不倫の愛に溺れるフランツの運命が響いた。

関係から軽くなろうとするサビナとは逆に、フランツは、関係に名前を与え、公開しようとする(フランツは「重さ」担当だ)。愛が真実なら、それが不貞であっても隠さず宣言するべきだとする。善良で、不器用で、愛を貫こうとする態度は潔いのかもしれない。

その結果、彼の運命にとって重すぎる決断を、いともあっさりと、軽く選んでしまう。傍から見れば愚かとしか思えない結末に至るが、それこそが、「存在の耐えられない軽さ」なのかもしれない。

人生の選択を重くも軽くもしているのは、結果の引き受け方にほかならない。選んだ方がどれほど深刻でも、そう受け止めるか否かの問題なのだ。

「もう一度でも同じ選択をするか?そう生きているのか」というニーチェの問いに、クンデラはこう応えているように見える。「何度繰り返すにせよ、今を生きるのはその一回だけだから、選んだものを引き受けよう(軽くても重くても)」

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物語の暴力に抗う『物語化批判の哲学』

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現代社会は「物語」だらけだ。

感動的なアニメや映画だけではない。テレビのCM、SNSの投稿、就職活動のエントリーシート、選挙候補者のPR動画など、私たちの心を揺さぶる多くのものは「物語」によって駆動している。

例えば、不登校だったけれど努力と工夫で難関大に合格した体験記や、学生時代に片思いだった人と再会して勇気をもらったエピソード、マナーを守らない傍若無人なイキリト君が逆に恥をかかされる話は、「感動した」「エモい」「スカッとした」といったコメントと共に拡散され、消費されていく。

あるいは、就職活動では「学生時代に力を入れたこと(ガクチカ)」が求められ、「私は〇N〇という困難を△△という工夫で乗り越え、□□を得ました」などと定型的な「エピソード」が評価される。

政策の具体性や実質的な数値のデータよりも、候補者の「過去の苦労」や「理想を抱いたきっかけ」がドラマティックに語られる。そして「苦しんでいる”あなた”に寄り添う私」というキャラとして、有権者の共感に訴えかけようとする。

一見したところ、こうした手法は、自己や他者を理解する上で役立つように思える。あるいは、共感を中心としたムーブメントを起こす強力な方法だろう。実際のところ、物語は人間が世界を意味付け、秩序立て、理解するだけでなく、感情的に共感し、その感情を伝える非常に有効な形式といえる。

感動ポルノ・情動加速装置

しかし、本書『物語化批判の哲学』が問題にするのは、まさにその「強力さ」ゆえの過剰さにある。物語の力が、あまりにも多くの領域で安易に用いられ、かえって私たちの感情や理解を貧しくし、時には暴力的な効果すらもたらしているというのだ。

例えば、ある人の辛い経験が、本人の意思とは無関係に「感動できる物語」として仕立て直され、SNSやマスコミによって再構成されるとき、そこには「物語的不正義」が生じるという。他人の人生を勝手にまとめ直し、「わかった気になれる」ことで、その人が自分の人生を解釈する権利を奪うことになるというのだ。本当はもっと複雑で未解決な部分が、分かりやすくするためにカットされてしまう。

また、SNSで拡散される“共感の物語”には、怒りや悲しみといった感情を強制的に誘導する力がある。「いいね」やリポストされる物語は、さらに同質の感情を掻き立てる物語を呼びたてる。「あいつら vs 私たち」という物語構造は典型的で、特定の意図によって現実から抽出され、配置されたエピソードに、いとも容易く誘引される。

私たちは、スクロールしているだけで、複数の運動や敵対的な抗争に動員されてしまう。そのときの怒りは、本当に自分の怒りなのか、それとも作り出された怒りなのか、その瞬間には判別し難いものだ。
『物語化批判の哲学』(難波優輝、講談社現代新書)p.49より

このようにして、物語は本来の役割である「世界を理解するための道具」から、「情動を調節し、加速する装置」と変質しているというのだ。

典型的なものは、テロリストによる「物語の武器化」だという。テロリズムは、人々に恐怖の物語をばらまくことで、政情不安を煽り、人々が疑心暗鬼になることを目指す。1995年の地下鉄サリン事件は、それまで日常的に利用していた「地下鉄」が危険な密室となり、そこらじゅうにある「中身が見えないゴミ箱」を薄気味悪い存在にした。

物語化に抗う

では、こうした物語の暴走から、どのように距離を取ればよいのか?

著者が提示するのが、「遊び」という概念だ。本書の後半で、ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃといった”物語でない構造”に注目する。そこには、物語のように明確な起承転結もなければ、意味や成長の物語もない。ただ、ルール、偶然、操作、反復、失敗、快楽といった要素があるだけだという。

たとえば「ギャンブル」には、「何かを学び、成長する」というプロットがない。あるのは、単なる偶然と一時的な勝敗、そして搾取のシステムだけである。しかしそこには、物語的な意味づけから解放された「ひりひりする生の瞬間」だけがある。

対して「おもちゃ」には、意味や勝敗のような目標すらない。ただ、触る、眺める、転がす、といった身体的・感覚的な体験があるだけで、それは決して「自己成長の物語」にはならない。しかし、このような非物語的な出会いこそが、「今この瞬間の自分自身の情動」に触れる、まったく異なる自己理解のスタイルとなりうる。

著者は、こうした代替物を分析しながら「物語に回収されない経験」を用いることで、物語以外の理解の仕方を提案する。

善悪や感情、成功や幸福の枠組みまでもが“物語的”に構築されていることに、本書は、冷静なカウンターを提示する。感情マーケティング、自己啓発、SNS人格、政治的キャンペーンなど、「分かりやすく」「共感できる」物語化されたものが全てではないと説く。

私たちの経験や感情、関係性には、意味づけできない曖昧さや、言葉にできない違和感、説明不能なズレがある。それらを無理に「いい話」に仕立てようとすること自体が、私たちを狭め、他者との関係を型にハメてしまうと警告する。

本書は、そうした物語依存症(私やね)に対して、新しい自己理解の技法を提示する。物語によって生き方を正当化するのではなく、物語以外のやり方で、自分の感情や世界との関係を確かめてみる。そのための哲学的ヒントが、ギャンブルやパズル、そして遊びの中にあるというのだ。

著者は、物語そのものを否定するわけではない。物語化は強力な手法だが、世界を理解するための一つの手段に過ぎないのであり、「どうか物語に吞み込まれないように」と、ほとんど願いのように提示する。

良いも悪いもリモコン次第

たいへん面白い一方で、どっぷり物語に漬かっている私には、たいへん耳に痛い話ばかりだった。

存在しなかった甘酸っぱい青春の埋め合わせをするためラブコメを摂取し、ショート動画の「エモい話」に泣かされ、タイムラインに流れてくる戦争の悲惨さに激怒する。ずばり著者の言う、「スクロールするだけで情動が動員されている」状態だ。

だが、「せやな!」と頷きながらも、端々に違和感を覚える。

著者は、「物語そのものを否定するのではない」とエクスキューズしつつ、物語を分別する。

例えば、シェイクスピアの『マクベス』やトールキンの『指輪物語』は、現実とは異なる世界だというサインを出しながら「安全に」喜怒哀楽を味わい、「これは物語である」と熟考できる物語だとして、「よい物語」だと評価する。

一方、現実の物語は、情動喚起のストッパーが外れ、私たちの情動を手に負えないところまでに掻き立てる、危険なものとして「野生の物語(wild narrative)」と名づける。

しかし、この対比は本当だろうか? フィクションなら安全という仮説自体に危うさを感じる。歴史を振り返れば、フィクションが現実の行動に重大な影響を及ぼした例は枚挙に暇がない。

例えば、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』に感化された若者が模倣自殺をしたり、近松門左衛門『曽根崎心中』に触発され心中が流行したと言われている(ウェルテル効果という名前まである)。

あるいは、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』がジョン・レノンの暗殺犯に「殺害の正当性」を与えたとされる事例などは、むしろ「熟考可能な物語」が「野生化」してしまった例といえる。

フィクションであっても、それが信じられ、共感されるとき、物語は簡単に現実へ侵入する(その究極の形は聖書かもしれない)。逆に、たとえ現実の体験談であっても、それが誰かにとっての「慰め」や「意味の再構成」になることだってある。

つまり、物語の善悪や安全性を、物語の形式だけで判断することはできないのだ。

さらに言えば、物語は現実を生き延びるための精神的なシールドになり得る。現実という不確実で不条理で都合の悪いものと、なんとか折り合いをつけるために、物語という形式を用いる。酷いことを言われた時、「あいつはああいうキャラだから、仕方がない」と考えたり、「今は雌伏の時だから、耐え忍ぶしかない」と自分に言い聞かせるのは、物語化によって今の辛さに一時的にでも耐える理由を見出すことだ。

本書の立場からすると、そうした物語化に凝り固まって「あいつはあんなヤツ」というレッテルを貼って、それ以上の理解を拒むのが「物語の悪さ」になる。あるいは、現在の苦しみを全て未来のためと思い込み、「今ここ」の痛みに麻痺してしまうことを悪いと説くだろう。

それもその通り。だから、物語化には良い面も悪い面もある、というだけの話になる。

つまり、問題は「物語化が有害だ」という単純な話ではない。理解を決め付ける物語や、一方的に感情を揺さぶり続ける物語など、物語の濫用が批判の対象となる。刃物が危険だからといって、すべての刃物を否定することはできない。良いも悪いもリモコン次第なのだ。

だから、本当に批判すべき対象は、物語を悪用する存在ではないだろうか。それは、物語の力を使って私たちを疑心暗鬼にさせるテロリストかもしれない。あるいは、「あいつら vs 私たち」の物語構造で分断を煽り対立を強調する風潮かもしれない。そうした、物語を悪用する存在に目を向けることなく、物語化の危険性だけ語られても、的が外れているように見える。

この的を真ん中に据えて、物語の力の悪用に警鐘を鳴らしているのが、『ストーリーが世界を滅ぼす』になる。本書の次にはこれをお薦めしたい。

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危機管理のプロが教える実践知『その対応では会社が傾く』

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「私は寝てないんだよ」

2000年に起きた雪印乳業の集団食中毒事件における社長の発言だ。

発端は停電事故の汚染だが、商品の回収や告知が後手に回り、被害が拡大した。結果、スーパーからは雪印製品が消え、トップが辞任。最終的に雪印乳業は解体され、メグミルクで再生した。

対応を見誤り、記者会見で頭を下げる経営層を見るたびに、このセリフを思い出す(マスコミに上手く「切り取られてしまった」感もあるが)。

企業のトップだから、その立場では有能で仕事ができる方だろう。だが、愚かとしか言い様のない問題発言をすることがある。あるいは、マスコミから逃げ回ったり、「ノーコメント」を繰り返して火に油を注ぐことがある。

トップの不手際に限らない。システム障害、社員の犯罪、顧客情報の流出、クレームからの炎上など、企業組織を揺るがす危機は、突然襲ってくる。

そんなとき、どうすればいいのか?

これを具体的に解説したものが本書になる。無味乾燥な「危機管理マニュアル」とは異なり、豊富な実例を下敷きに、「その対応は、どうすればよかったのか」「そこから得られる教訓は」をまとめている。

危機の初動

よくあるのは、何かの危機が生じたとき、きちんと事実関係を把握しないまま、その段階で記者会見を開いてしまう。結果、「原因はよく分からない」とか「責任は再発防止にある」などと、中途半端なことになるという。

だが、食中毒の疑いが食品会社にあるとき、情報開示を遅らせることはできない。被害の拡大を防ぐ必要があるからだ。とはいえ、事実や原因が分からないまま発表すれば、無用な混乱や要らぬ損害を引き起こす可能性もある。

そんな場合は、まず「現時点では」と断った上で、判明している事実と原因を公表する。それと同時に、今後の調査の予定や次回の情報開示の予定を示しておけと説く。

マスコミは特ダネを追いかける一方、自社だけが取りこぼされる「特落ち」を嫌う。だから、次回予告をする。「保健所の判断が出てから」とか「一審の判決が出てから」といったイベントをトリガーとしてもいいし、「明日〇時」という時間指定でもいい。

次回予告をすることで、記者に安心感を与え、過激な取材を抑制できるメリットもあるという。

これ、私の現場でやっている方法と同じだ。

プロジェクトが炎上したり、システム障害が起きたとき、原因がよく分かっていない段階で、顧客や上層部に説明する必要がある。「早くなんとかしろ」とプレッシャーをかけてくるのだが、思い付きのまま原因や対策を口走って上手くいった試しがない。

なので、「現時点では」と断りを入れた上で、確定状況を述べる。

  • いま目に見えている事象(炎上とか障害)
  • 想定される影響範囲
  • 原因の仮説(複数あるならあるだけ)
  • 原因の仮説ごとの想定打ち手
  • 次回の報告タイミングと予告(仮説の検証がどこまで進むかの見込み)

鉄則は、「事実」と「仮説」を分けて説明する点だ。具体的には、事実を述べる時は「事実として~」を頭につけて、仮説の時は「私の想定では~」と断りを入れる。

これにより、仮説の独り歩きを防止できる。メールやホワイトボード等の書きものには、<事実>と<仮説(意見)>とをカッコ書きで注記することで、後になって「話が違う」と言わせないようにするのだ。

ありがちなのは、原因が自社の責任ではない可能性があるとき、まだ仮説であるにも関わらず、それに飛びつくことだ。これ、上層部がやらかしがちで、「ウチじゃない」と言い張った挙句、間違った場合、尻ぬぐいはこちらになる。だから<仮説>だと明記することで、安易な責任転嫁に釘を刺しておく。

「鳥の目」と「虫の目」

また、危機の対策にあたり、2つの目が必要だという。

船場吉兆の事例が特徴的だ。名門の高級料亭だったのだが、2007年に食品偽装が発覚し、廃業に追い込まれたケースだ。

最初は「黒豆プリン」の賞味期限のラベルを張り替える偽装から始まったが、ゼリーやタルト、ケーキの偽装も発覚し、地鶏や味噌漬けの産地偽装も明るみになったという。最終的には、客の食べ残しを次の客に提供していたことまで暴露されていた。

なぜ偽装を隠していたのか?最初の発覚時に全て開示しておけば、このような事態には追い込まれていなかっただろうに……と思う。最初は上層部の指示で隠していたのだろうが、調査が不十分なまま会見に臨んでいたため、後追いで出てくる不具合に対処しきれなくなったのだ。

叱責を恐れて、現場は最小限のことしか報告しないということがある。雪印乳業のケースでも、現場は菌の増殖を把握していたが、後回しになったという。

懲戒処分を恐れる自己保身の心理からでしょうが、それが現場の習性というものです。「現場は必ず嘘を言う」を肝に銘じてください。同時に「露呈した不具合は氷山の一角」ということも。
『その対応では会社が傾く』(田中優介、新潮社)p.70より

一つの不具合が見つかったら、類似した不具合が起きていないか、水平に調査する。不具合の原因や影響から、別の不具合が起きていないか、垂直に調査する。本書では、ズームアップする「虫の目」と俯瞰する「鳥の目」という表現で説明されているが、大きな不具合が起きた時の水平調査・垂直調査はセットで考えろという。

ITエンジニアに当てはめるなら、障害の原因から障害区分を見て、そこから横展開(ヨコテン)する流れやね。

例えば、インタフェースの誤りで障害が起きたとき、調べたら新しいリターンコードが追加されていたのに通知が漏れており、そのコードに対応する処理が無かった……なんてことがある。「対応していないのはそのリターンコードだけ?」とか、「その通知だけが漏れていたの?インタフェース仕様変更に関わる全ての通知を洗い出して、対応済みだと言える?」といった観点で調べる。

言ってはいけない言葉

起きてしまった不祥事は取り消せないから、企業は腹をくくってコメントしろという。

ただし、その場で言ってはいけない「べからず語」も紹介されている。事態を鎮静化するチャンスとも言えるのに、火に油みたいなコメントをするトップもいる。例えば……

  • 誠に遺憾:「残念」という意味なので、申し訳なさが伝わらない、上から目線語
  • 誤解を招いた:(誤解した)相手にも半分の責任があると言っているに等しい
  • お騒がせした:起こしたことではなく、発覚したことを詫びているだけ
  • 知らなかった:知らないことが問題なのに、無責任な逃げ口上
  • 邁進する:責任を取らずに、そのまま居座りますという意味

よく聞く言葉だらけじゃねーか!

不祥事が生じた時、広報室は過去の応対例を検索しようとするけれど、それがダメだという。検索して出てくるのは、対応に失敗した事例ばかりだから。

じゃぁ何て言えばいいんだよ!というツッコミたくなる。

本書では、社員が刑事事件を起こした場合に、広報室や渉外担当がどのように対応すればよいかのケースで応えている。現行犯逮捕のようなものではなく、あくまで可能性があり、捜査が進行中の微妙なケース―――例えば情報漏洩など―――を想定する。

安易な情報開示は捜査妨害になるおそれがあるため、「捜査にかかわる事なのでコメントは控えさせて頂きます」で済ませたくなるかもしれないが、不愛想な印象があり、後に立件された場合、心証は悪くなる。

マイクを突き付けるマスコミを介して、「申し訳ない」という心証も伝えたい。とはいえ、司直の顔も立てたい。でもコメントはしたくない。ベストプラクティスとしては、これになる。

  • このたび報道されている事件については、関係者の方に多大なご迷惑、ご心痛をおかけしており誠に申し訳ありません
  • 現在、さまざまなお問い合わせをいただいておりますが、捜査の有無も含めて詳細な情報開示につきましては、司直の側の専権事項と認識しております
  • この段階で弊社がコメントすることは、事情聴取その他捜査にも影響を及ぼしかねないため、起訴の段までは控えさせていただきます

「申し訳ない」を最初に持っていくことで、まず詫びる。次に、コメントしない理由として、「司直を尊重した公益のため」を説明する。その上で、「コメントしない」旨を告げるのだが、どのタイミングでコメントするのかも一緒に伝える。

詫び言葉は、「相手の言いたいことを先に言う」ことを心がけよという。相手の「痛み」に理解を示し、それを引き受ける態度を示せという。

他にも、様々な危機管理の手法が紹介されている。

  • マスコミによる責任追及をどうやってしのぐか(=時間稼ぎするか)
  • 膨大な想定問答集(Q&A集)を調べながら会見するよりも、開示条件をまとめたQ&P(ポリシー)集を作る
  • ある条件を満たしたら自動的に対策を発動させる「サーモスタット型」の危機管理の勧め

広報室に「危機管理マニュアル」はあるだろうが、無味乾燥で実用的ではないだろう。本書を血肉化することで、より実践的で使えるものになるに違いない。




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