「正しさ」ではなく「マシな悪」を引き受ける『政治哲学講義』
時速100km以下で即爆破する新幹線を描いたNetflix『新幹線大爆破』では、様々な選択が突き付けられる。中でも強烈なのがこれだ。
- 強制停止する:はやぶさ60号の乗客・乗務員は助からないが、被害は限定的
- 何もしない:終点の東京駅で、新幹線が大爆発を起こす
これは有名な、トロリー問題における運転手の選択になる。
【運転手】路面電車が暴走している。そのまま進めば5人が轢かれ、待避線に逸れると1人が轢かれる。運転手は進路変更すべきか?
旅客機をハイジャックし、満員のスタジアムに墜落させようとするテロリストがいる。これ阻止するため、戦闘機のパイロットがやったことを描いたのは、シーラッハの戯曲『テロ』になる。これは、トロリー問題の別バージョンだ。
【歩道橋】路面電車が暴走している。そのまま進めば5人が轢かれるが、歩道橋の上にいる男を突き落とせば止められる。突き落とすべきか?
トロッコ問題とも呼ばれるこのジレンマ、「運転手」バージョンと「歩道橋」バージョンで、別物に見える。「運転手」の方は問題として取り組むことができるが、「歩道橋」は問題以前の前提のところで禁忌を犯しており、問題として成立していないように思える。
言い換えるなら、「運転手」バージョンで、待避線を選び、1人を殺すことと、「歩道橋」バージョンで、男を突き落とすことついて、同じ「1人の命」なのに、本質的に違うように見えるのだ。
あくまでも<私には>そう見える話なのだが、なぜだろうか?
「人を傷つけるな」 vs. 「善いことをせよ」
『政治哲学講義』によると、それは衝突している義務が異なっているからだという。
義務には、「消極的義務」と「積極的義務」がある。「人を傷つけるな」といった義務が、消極的義務となる。一方で、「善いことをせよ」というのが積極的義務となる。両者は裏表のようで、このような関係になっている。
消極的義務 | 積極的義務 | |
遵守 | 加害しない(不作為) | 善行する(作為) |
違反 | 加害する | 善行しない |
「運転手」の問題は、どちらを選んでも「加害する」になる。そのため、「1人か5人か」を選ぶ消極的義務の中での問題となり、義務違反を最小化するために1人を犠牲にするという理屈は、一応は、成り立つ。
一方、「歩道橋」バージョンは、「善行する(5人を助ける)」と、「加害する(1人を殺す)」の衝突が起きている。
この場合私たちは、それぞれの義務を果たす、あるいはそれに背くといった、行為の性質の違いを考慮に入れなければならない。「歩道橋」の一人の加害が許されない理由は、異なった義務が衝突する場合、より厳格な消極的義務が優先されるからではないか。
『政治哲学講義』p.93より
たとえ5人を見捨てることになるとしても、「加害しない(消極的義務の遵守)」ことを優先する。作為の方が不作為よりも責任を問われることは、医療倫理の「何よりも害を与えてはならない(Primum non nocere)」にも繋がるという。
この考え方は、安楽死(尊厳死)の議論にも見出される。薬物注射で患者に死を直接もたらす積極的安楽死と、生命維持装置につながず、死にゆくままに任せる消極的安楽死だ。前者は殺人罪に抵触するとして規制されている場合が多いが、後者は法的・倫理的に許される余地があるという。
悪さ加減を選ぶ
世の中には、様々なジレンマがある。あちらが立てば、こちらが立たない。トロリー問題は、こうした問題を抽象化した思考実験の一つだろう。
私たちは、「限られたワクチンを誰に渡すのか」とか「感染拡大を防ぐために経済活動を制限するのか」といった生々しい問題に直面させられてきた。利害の対立が生じるときや、どちらを選んでも悪い結果を招くことが明白なとき、どうすればよいか。
普通であれば、「どちらが正しいか」といったべき論で考察されることが多い。正義論の原理原則があって、そちらに即したほうの選択肢こそが「あるべき」であるという組み立てだ。
だが本書は、そうした正義の命ずるままに選択を行ったとして、果たして「正義は達せられた」と胸を張れるかと問う。やむを得ない選択だとしても、そこに何かが損なわれたと感じたり、やりきれなさを感じるのではないかと指摘する。
そして、そうした割り切れなさを考えるために、考える立場として「どちらがマシな悪か」という悪さ加減からアプローチする。「正しさ」というポジティブな視点からではなく、「悪さ」というネガティブな見方から、選択の重さを測る。
特に政治的な問題がそうだ。
どちらを選んでも、非難されることになる。ひょっとすると選択したことにより自分自身が破滅する場合もある。それでも「よりマシな悪(lesser evil)」を選び、引き受けるために、どのように考えることができるかが、紹介されている。
- 人望ある船員1人の命か、隊の規律か:メルヴィルの『ビリー・バッド』
- 国家への忠誠か、家族の愛か:ソポクレス『アンティゴネー』
- 燃え上がる邸宅から誰を先に救うか:ゴドウィン『テレマコスの冒険』
- ハイジャック機の164人を撃墜してスタジアムの7万人を救うのか:シーラッハ『テロ』
- サルトルの「汚れた手」vs.カミュ「正義の人びと」
- 我が子を放置して貧しい人々に募金する:ディケンズ『荒涼館』
本書が優れているのは、このように具体的な事例として文学作品を選んでいること。トロリー問題のように、「問題」とするために背景や他の選択肢を切り捨てるようなことはしていない。「他にやれることは何か」「どう考えれば”悪さ”を減らせるか」という取り組み方をしているので、一件落着という形でスッキリしない。
だが、それが現実なのだろう。「正しい答え」なんてものはなく、どちらを選んでも手が汚れるし、後悔もする。であれば、よりマシな悪を引き受ける他なかろう。

| 固定リンク
コメント
突き詰めると最大多数の最大幸福を選択するのがロジカル、となる(と思う)がジレンマがある。
(多数の見ず知らずの人が救われるが、身内1名が犠牲になるとか)
そして結局なにを幸福と定義するかによって選択肢は変わる、という仕立て方になっている気がします。その定義とか解釈が味わうところでしょうか。
投稿: ts | 2025.06.09 10:36
>>tsさん
ありがとうございます、参考になります。
「なにを幸福と定義するかによって選択肢は変わる」はまさにその通りで、本書ではそこからさらに踏み込んで「幸福と定義したものをどのようにカウントするか」という観点からも考察しています(流行りのAIと倫理は、おそらくここが論点になると思います)。
投稿: Dain | 2025.06.09 20:59