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読むほどに酔うほどにハマる呪術的リアリズム『やし酒飲み』

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読み始めた瞬間、何かがおかしい。文を二度見し、首をひねりながら先を追う。冒頭からしてこれだ。

わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。

「だった」と「でした」とが入り混じっている。誤植?まさか岩波文庫がそんなわけない。対等関係の常体(だ・である)と、フォーマルで丁寧な敬体(です・ます)が混在し、独特の語調を生み出している。

そして原文(英語)の方が違和感マシマシになる。

I was a palm-wine drinkard since I was a boy of ten years of age. I had no other work more than to drink palm-wine in my life.

「10歳の頃からずっとsince)やし酒のみだった」とsinceを使うなら、I have been~とする方が自然だろうし、「やし酒を飲む以外more than)何もしない」ならば more than じゃなくて except が普通じゃね?と思う。

この違和感は意図的で、わざと正しくない(broken)使い方をしているという。書かれた文章だけど肉声で語られているような感覚で、読むと酔うような文章に仕立てられている。もっとも原文が壊れているので、そのまま翻訳できない。「翻訳不能性」を逆手に取って、歪んだ日本語で語ることで、ねじれたリアリティを醸すように訳している(合わない人は悪酔いするかも)。

さらに、物語そのものは王道の「行きて帰りし」なんだけど、展開がブッ飛んでいる。

あらゆる死者が集まる街があり、親指が破裂して子どもが生まれる(急激に成長し大食漢になり親とバトルする)。木から腕が生えて木の内部に取り込まれた先に街がある。「死」は売買できて、「恐怖」は貸し出せる。

そもそも主人公が妙な術を使う。

やし酒を飲むしか能が無かったはずなのに、神でありジュジュマン(juju-man)だと名乗り、ピンチになると火や煙に姿を変えて難を逃れる(jujuとは西アフリカにおける呪術・まじないを意味する)。攻撃はもっぱら銃やナイフを使ったりする、神なのに。自分の死を売り渡してしまったので不死になるが、「恐怖」は返却されてきたので、「不死身なのに怖い」思いをする(←こういう発想が出てくる文化圏なのだ)。

現実の中に説明されないまま超自然現象が語られるのは、マジックリアリズム(魔術的リアリズム)と呼ばれ、マルケスやドノソが粘り気のある傑作を書いている。これに比べると、幻想色が強く、まじないや呪術が説明抜きで語られる本作は、ジュジュリアリズム(呪術的リアリズム)なのかもしれぬ。

これ、マルケスの魔術的リアリズムよりも、ずっと「まじない」に引き寄せられている。だから、物語に理屈や象徴を読み取る前に、まず呪われる。そんな、物語に呪われる語りの力がある

まるで見てきたように語られるのだが、「妖怪」とか「幽霊」といったラベルが通用しないところが幻想譚とは違うところ。カフカのような圧ある不条理文学なのかと思いきや、妙に具体的な数字を挙げてくる。

突拍子もない筋立てに、「四百人ばかりの赤ん坊の死者」とか「収容能力四十五人、直径百五十フィートの袋」あるいは「七ポンド十八シリング六ペニーで私たちの死を売り」なんて言われると、思わず想像してしまう。

これは詐欺師のやり方で、大真面目にウソを語るんだけど、数字を入れることで信憑性を増やす。最初に提示された数字に引っ張られて、その後の判断に影響を及ぼすことをアンカリング効果というが、その異種とも言える。数字を出すことで具体的に考えさせる思惑があるのだろう。この辺は、「ほら吹き男爵」として有名なミュンヒハウゼン男爵で用いられた手法なり。

こんな風に、読むほどに酔うほどにハマれる。空想の赴くままの寝物語か、酔っぱらいの回顧録を、クダ巻きながら聞かされるという感覚だ。いずれにせよ、読み終えたときには、こちらの意識まで千鳥足になっている。

これ、17年前の再読なんだけど、物語に酔っぱらって書いていることが分かる。無制限の想像力が爆発する「やし酒飲み」



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「正しさ」ではなく「マシな悪」を引き受ける『政治哲学講義』

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時速100km以下で即爆破する新幹線を描いたNetflix『新幹線大爆破』では、様々な選択が突き付けられる。中でも強烈なのがこれだ。

  • 強制停止する:はやぶさ60号の乗客・乗務員は助からないが、被害は限定的
  • 何もしない:終点の東京駅で、新幹線が大爆発を起こす

これは有名な、トロリー問題における運転手の選択になる。

【運転手】路面電車が暴走している。そのまま進めば5人が轢かれ、待避線に逸れると1人が轢かれる。運転手は進路変更すべきか?

旅客機をハイジャックし、満員のスタジアムに墜落させようとするテロリストがいる。これ阻止するため、戦闘機のパイロットがやったことを描いたのは、シーラッハの戯曲『テロ』になる。これは、トロリー問題の別バージョンだ。

【歩道橋】路面電車が暴走している。そのまま進めば5人が轢かれるが、歩道橋の上にいる男を突き落とせば止められる。突き落とすべきか?

トロッコ問題とも呼ばれるこのジレンマ、「運転手」バージョンと「歩道橋」バージョンで、別物に見える。「運転手」の方は問題として取り組むことができるが、「歩道橋」は問題以前の前提のところで禁忌を犯しており、問題として成立していないように思える。

言い換えるなら、「運転手」バージョンで、待避線を選び、1人を殺すことと、「歩道橋」バージョンで、男を突き落とすことついて、同じ「1人の命」なのに、本質的に違うように見えるのだ。

あくまでも<私には>そう見える話なのだが、なぜだろうか?

「人を傷つけるな」 vs. 「善いことをせよ」

『政治哲学講義』によると、それは衝突している義務が異なっているからだという。

義務には、「消極的義務」と「積極的義務」がある。「人を傷つけるな」といった義務が、消極的義務となる。一方で、「善いことをせよ」というのが積極的義務となる。両者は裏表のようで、このような関係になっている。

  消極的義務 積極的義務
遵守 加害しない(不作為) 善行する(作為)
違反 加害する 善行しない

「運転手」の問題は、どちらを選んでも「加害する」になる。そのため、「1人か5人か」を選ぶ消極的義務の中での問題となり、義務違反を最小化するために1人を犠牲にするという理屈は、一応は、成り立つ。

一方、「歩道橋」バージョンは、「善行する(5人を助ける)」と、「加害する(1人を殺す)」の衝突が起きている。

この場合私たちは、それぞれの義務を果たす、あるいはそれに背くといった、行為の性質の違いを考慮に入れなければならない。「歩道橋」の一人の加害が許されない理由は、異なった義務が衝突する場合、より厳格な消極的義務が優先されるからではないか。

『政治哲学講義』p.93より

たとえ5人を見捨てることになるとしても、「加害しない(消極的義務の遵守)」ことを優先する。作為の方が不作為よりも責任を問われることは、医療倫理の「何よりも害を与えてはならない(Primum non nocere)」にも繋がるという。

この考え方は、安楽死(尊厳死)の議論にも見出される。薬物注射で患者に死を直接もたらす積極的安楽死と、生命維持装置につながず、死にゆくままに任せる消極的安楽死だ。前者は殺人罪に抵触するとして規制されている場合が多いが、後者は法的・倫理的に許される余地があるという。

悪さ加減を選ぶ

世の中には、様々なジレンマがある。あちらが立てば、こちらが立たない。トロリー問題は、こうした問題を抽象化した思考実験の一つだろう。

私たちは、「限られたワクチンを誰に渡すのか」とか「感染拡大を防ぐために経済活動を制限するのか」といった生々しい問題に直面させられてきた。利害の対立が生じるときや、どちらを選んでも悪い結果を招くことが明白なとき、どうすればよいか。

普通であれば、「どちらが正しいか」といったべき論で考察されることが多い。正義論の原理原則があって、そちらに即したほうの選択肢こそが「あるべき」であるという組み立てだ。

だが本書は、そうした正義の命ずるままに選択を行ったとして、果たして「正義は達せられた」と胸を張れるかと問う。やむを得ない選択だとしても、そこに何かが損なわれたと感じたり、やりきれなさを感じるのではないかと指摘する。

そして、そうした割り切れなさを考えるために、考える立場として「どちらがマシな悪か」という悪さ加減からアプローチする。「正しさ」というポジティブな視点からではなく、「悪さ」というネガティブな見方から、選択の重さを測る。

特に政治的な問題がそうだ。

どちらを選んでも、非難されることになる。ひょっとすると選択したことにより自分自身が破滅する場合もある。それでも「よりマシな悪(lesser evil)」を選び、引き受けるために、どのように考えることができるかが、紹介されている。

  • 人望ある船員1人の命か、隊の規律か:メルヴィルの『ビリー・バッド』
  • 国家への忠誠か、家族の愛か:ソポクレス『アンティゴネー』
  • 燃え上がる邸宅から誰を先に救うか:ゴドウィン『テレマコスの冒険』
  • ハイジャック機の164人を撃墜してスタジアムの7万人を救うのか:シーラッハ『テロ』
  • サルトルの「汚れた手」vs.カミュ「正義の人びと」
  • 我が子を放置して貧しい人々に募金する:ディケンズ『荒涼館』

本書が優れているのは、このように具体的な事例として文学作品を選んでいること。トロリー問題のように、「問題」とするために背景や他の選択肢を切り捨てるようなことはしていない。「他にやれることは何か」「どう考えれば”悪さ”を減らせるか」という取り組み方をしているので、一件落着という形でスッキリしない。

だが、それが現実なのだろう。「正しい答え」なんてものはなく、どちらを選んでも手が汚れるし、後悔もする。であれば、よりマシな悪を引き受ける他なかろう。

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読書会に参加すると「問い」が増える―――『イギリス人の患者』読書会

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『イギリス人の患者』の読書会に参加した。

戦争で人生を破壊された四人の男女の物語を、詩的でイメージ豊かに描いた傑作だ。人生で3度読み、いまは原書に取り組んでいる。ブッカー賞受賞。

読書会では、予想を完全に裏切られたのが面白かった。何度も読んだので、答え合わせのつもりで参加したのだが、違う意見・異なる「読み」が飛び交い、たいへん刺激的だった。

それだけでなく、議論が白熱し、話をつなげていくうちに、私の中から新しい読み方が生まれたことに驚いた。一種の仮説に近いが、おそらく、この「読み」は新しい正解なのだろう。

作品をどう読もうと、それは読者の勝手だ。だが、より面白い読みや、さらに小説世界を深める読みの方が、「正解」なのだと思う。つまり小説の「正解」とは、その作品を面白くする視点の数だけある、と考える。

この記事では、読書会で得られた/気づいた「正解」を、問いの形でまとめてみる。なぜなら、これらの「正解」たちの裏付けは、これから私が読んで確かめる仮説にすぎないのだから。ネタバレを回避するよう、可能な限り配慮する。

「イギリス人の患者」とは誰なのか?

この謎が、読者を宙吊りにさせ、先を読ませる仕掛けになっている。

燃える飛行機の中から救出され、全身を火傷し、モルヒネのおかげで痛みをしのぐことができる状態の男だ。周りからは「イギリス人」とだけ呼ばれており、自分以外のあらゆることを知っている。

「あらゆること」とは、銃器や爆弾や航空機について、サハラ砂漠に棲む動植物について、トスカーナ地方のワインについて、何を問うても、即座に、明晰に答えてくれる。しかし、自分の名前や出自、過去については一切答えようとしない。

イギリス人を看護するハナ、彼女のおじさんであるカラバッジョ、爆弾処理にやってきた工兵のキップとの交流によって、現在と過去とが絡み合い、次第に明らかになってゆく。

初読時に私が抱いた印象は、「自分の過去を隠している」だった。身の危険を及ぼすことになるワケアリの立場のため、自分が誰であり、何を知っているのかを隠し、記憶喪失のフリをしているのではないか……そういう考え方だ。

もう一つ、「自分の過去を封印している」という考えだ。自分の愛が(結果的に)招いたことになる悲しすぎる出来事を、二度と思い出したくないがために、周囲からも自分からも心を閉ざしているのではないか……読書会では主流の意見だった。

それが、ハナやカラバッジョ、キップたちとのやり取りによって、次第に心を開いてゆく。最終的なトドメとなるのは、カラバッジョの「おまえ、分かっていたはずだ」という指摘だ。自分が隠していたこと、封印していたことが、実はそうではなく、筒抜けだったこと―――それを知らされたことがきっかけとなって、最後の告白になる。そういう物語構造だ。

とても納得感があるのだが、読書会で熱く語っているうちに、一つの仮説を思いついた。

「イギリス人」が誰か?この謎は、もちろん読者は知らない。だが、それだけでなく、「イギリス人」と呼ばれた男も、知らないのではないか?物語が進行していくにつれ、過去が断片的に描写されてゆくことで、男は、自分が誰なのかを思い出していく。同時に読者も、彼が誰なのかを知ってゆく。

死期を悟った男が「死ねば三人称になる」とカラバッジョに告げるのは、過去の中での自分を三人称で呼べる(名前で呼べる)ようになった、即ち、自分の名前を取り戻したからなのかもしれぬ。

この作品の裏テーマは、実は「記憶」であり、イギリス人の患者の「記憶」と、読者の「物語を読む」ことで知ることになる「記憶」を同期させる構造が仕込まれているのではないだろうか?

他にも、様々な問いがある。

ハナの恋愛

若く、美しい女としての一番の季節を、血と包帯と膿に費やしたハナ。ハナは、なぜ「イギリス人の患者」に惹かれたのか?

読書会で出した私の答えは、「名前が無いから」だ。死んでいく兵士たちを名前で呼んでやるのに精いっぱいだった日々を過ごすことによって、親しくなった人たちは皆死んでしまうことに打ちのめされる。それくらいなら、最初から名前の無い存在としての「イギリス人の患者」の傍らに居たほうが、心を痛めなくて済む……そう考えたのではないか。

しかし、この仮説だとハナがキップに惹かれる理由が必要になる。キップは健康な男だからと考えていたが、そこは、もう一度読む中で探してみよう。

物語に登場するオンダーチェ

読書会での指摘で気づいたのだが、作中に作者が出てくる。

地の文で明らかに作者としか見えないような形でコメントが為される。『ドン・キホーテ』のセルバンテスみたいに作者を自称してこないが、はっきり物言いをする。

語られている内容と語り手の知識にズレが生じるとき(イギリス人の患者が知らないはずの過去が語られるとき)、オンダーチェが語っていることが分かる。ここを鍵に、再読してみる。

ラストのキップの衝動的な行動にも、オンダーチェの「手つき」が透けて見える。戦争によって破壊された人生を、この上もなく美しく描くことで、戦争の醜さ、狡さ、邪なところを浮き彫りにしよとする「目つき」も見える(サハラ砂漠に引かれた戦線を獲りあうヨーロッパ諸国と、易々と交易するベドウィンたちの対照描写)。「物語への介入」とまでは言わないが、探すほど、作者の手つき・目つきが垣間見える。

何度も読んだはずの作品に、さらに「問い」が生まれることになった。4度目の読みで、これを確かめてみよう。これは読書会のおかげ。ちいさな読書部さん、ありがとうございました。



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