読むことで完璧になるメタフィクション―――フエンテス『アウラ』とカサーレス『モレルの発明』
多くの作家は、見切ったと思っても手元に残すものはある。フエンテスは見切ったけれど、彼の『アウラ』はすばらしい作品だ。彼は自分が知的に細部まで構築できる短編や中編ではものすごい力を見せる。
山形浩生『翻訳者の全技術』より
この人をしてここまで言わせしめるのは、相当なものなんだろうと手を出したら、確かにもの凄い作品だった。どれくらい凄いかというと、斬られたことに気づかないまま、倒される感覚だ。
「君は広告に目を止める。こんないい話はめったにあるもんじゃない」―――から始まる『アウラ』は、ぬるっと読ませるくせに、斬れ味するどい達人の技にやられた。
カルロス・フエンテス『アウラ』は、わずか50ページ程度の短編に、私を強烈に惹きつける異様な魅力を放っている。その最大の特徴は、全編が二人称現在形で語られていることにある。
言い換えるなら、読者自身が主人公となり、「君は手を差し出す」「君は彼女の目をみつめる」と語られていく構造になっている。この語り口が不穏な没入感を生み、読み手の現実感覚を揺らし始める。
物語は、古風な屋敷に住む老婦人の依頼で、回想録の整理にやってきた青年が、アウラという女性に出会い、不可思議な出来事に巻き込まれていく……という筋書きだ。幻想文学でありながら、構造やテーマは極めて精緻で、時間と記憶、そして欲望が絡み合っている。
卑怯とも言えるのは、「君」という書きっぷりでありながら、情報がコントロールされている点だ。老婦人に紹介され、アウラを見つめるのだが、アウラはきちんと描写されない。
「君=読者」なんだから、目の前にいて言葉を交わす人を「見て」いるはずだ。なのに、アウラがどんな顔立ちで、どういう姿かたちなのか描かれない。「ふくれあがる海のような目」とか「緑色の服を着た君の美しいアウラ」といった、曖昧な言い回しになる。
それでも、「君=主人公」の反応からしてアウラは若い女性であることは分かる。アウラを美しいと思い、欲しいとさえ願う。アウラもまんざらでもない様子だ。
時折はさまれる未来形に疑問を感じつつも、短編だからあっという間に読み終わる。宙吊り状態から降ろされ、物語の中で用意された答えを受け取りはするけれど、達人に斬られたことに気づくためには、すこし時間が必要だ。
そして、「これは読むことで完成する小説だ」と思い至る必要がある。これに近い感覚だと、アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』だろうか(私のレビューは [ここ] )。
絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、一団の奇妙な男女に出会う。《私》はフォスティーヌと呼ばれる若い女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示し、《私》を完全に無視する。やがて《私》は彼らのリーダー、モレルの発明した機械の秘密を……
『モレルの発明』は、普通に読むと、SF冒険小説になる。絶海の孤島で秘密裏に行われた実験といえば、H.G.ウェルズ『モロー博士の島』が有名だが、そのオマージュとなる。
だが、『モレル』の方は、読者がこれを読み進める行為を経て、初めて完成するという多重構造を持っている。名前を持たない《私》の一人称の、二重の語り/騙りによって仕掛けられた奇妙な傑作だ。
『モレル』が発表されたのが1940年で、『アウラ』が世に出たのは1962年だ。『モレル』は《私》の一人称で、『アウラ』は「君」の二人称によって語られ/騙られる。
特筆すべきは、どちらも読者が物語をメタフィクションとして読むことで、物語の中の願望が完遂される構造だ。単なるプロットではなく、「読む」という行為そのものが《私》と「君」の運命を変える装置になっている。
そのくせ、「ようこそこちら側へ」なんてベタな展開は用意していない(『MYST』というアドベンチャーゲームは、まさにそんなラストだった)。もちろん、『モレル』『アウラ』は、普通の小説としても読める。メタフィクションとして扱うかも含め、読み手に委ねられている。
そこまで考えが至って、ようやく、私は『アウラ』に完全に魅了されていることに気づく。そしてこれ、『モレル』と同じように、くり返し読まされることになるんだろうな……と、ぼんやり覚悟する。
フエンテスのポリフォニックな語りは『老いぼれグリンゴ』でお腹いっぱいになったけれど(レビューは [ここ] )、こんなに斬れ味鋭い傑作があったなんて! 山形浩生さんに感謝。

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