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読書猿の薄くて濃い本『ゼロからの読書教室』

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そもそも「本を読む」って良いことなのだろうか? どうして本を読むのだろうか?

恒常的に本を読む人なら誰しも、一度は(何度も?)問いかけたこの疑問に、正面から向き合ったのがこれ。その答えは、あとがきにある。

読書は誇るべき立派な行いではない。どちらかというと後ろ暗いことだ。こっそり楽しむ楽しみだ。(中略)我々の誰もが好きな本を読んでいいのと同じように、読まないことを好きに選んだって構わない。

私もそう思う。ここでは、楽しむための読書に焦点を当てているが、小説に耽るのはあまり誉められたことではない。

なぜなら、小説は「なんでもあり」だから。神話や叙事詩、戯曲、定型詩といった形式を経て生まれた小説には、韻律や構成の制約がなく、また、英雄譚や恋愛といったテーマの縛りもない。現実に起き得ないことも可能になるし、倫理や論理も超えるし、読者の中で完結するような曖昧さも許される。

さらに、世界を「知る」ことで支配したいという欲望を満たすことができる。物語を通して自分が経験し得ない人生や感情をシミュレートし、「私は知っている」という知的征服感覚を得られる。

一方、都合が悪い現実から目を背け、都合のよい(性癖に合致した)世界に耽溺できる。自分の価値観にぴったりの物語の中にいれば、現実に傷つけられず安全に承認欲求を満たせる。小説に耽るのは、一種の自慰行為―――精神的なオナニーなのかもしれぬ。

『ゼロからの読書教室』は、NHKの基礎英語に連載していた内容をまとめたものだ。中高生向けなので、もちろん「オナニー」という言葉は出てこない。だが、読書の「後ろめたい」愉しみを知っている人には伝わるだろう。

なぜ小説が良いのか?

では、フィクションを読むのは、楽しみのためだけなのだろうか? それでいいと思っていたが、面白い視点を得た。

それは、”物語は、事実の「意味」を変える” という視点だ。物語は、起きてしまう事実を変えることはできない。だが、その起きた出来事の解釈を変えることができる。つまり、同じ出来事であっても、物語があれば出来事の意味が変わる。

例えば、同じ人と同じ映画を見に行くとしても、その人が好きだから一緒に行くと思うなら、それは恋をしており、恋愛という物語を生きていると言える。相手のちょっとした言動が、嬉しかったり悲しかったりする。出来事が同じでも、どんな物語にするかで、人生における意味が変わってくるというのだ。

物語によって変えられた「意味」は、今度は現実に影響を及ぼす。「あの人の仕草は自分への好意?」という思い込みから始まる告白しちゃう流れは、ラブストーリーでよく使われる。

ラブストーリーなら微笑ましいが、ストーリーの力は悪用できる。普通の社会では殺人は最悪の犯罪だが、戦争を賛美する社会なら殺せば殺すほど英雄扱いされる。人殺しは極端な例とはいえ、「あいつらが私たちの平穏を脅かす」という「ストーリー」は、どのSNSにも溢れている

このストーリーの力に抗うにはどうすればよいのか?

そこで小説が登場する。小説を読むということは、物語の力とうまく付き合う方法を学ぶことになるのだという。

つまりこうだ、今まさに物語を生きている人は、その物語をウソだとは思わない。恋をしている人は、「この恋はフィクションであり現実とは関係ありません」とは思わない。

一方、小説を読む人は、それがフィクションだと自覚しながら楽しむ。密室で死体が発見されても、パニックにならずに、冷静に手がかりを探したり、前のページに戻って怪しい言動やアリバイを探したりする。

どれだけ没頭しても、小説の物語は、自分が生きているものとは違う。物語に対して、ちょっと距離をおいて冷静に眺められるようになる

物語の摂取なら、映画やドラマでもできる。だが小説は、知識と想像力を働かせて能動的に読む必要がある。自分のスピードで繰り返すことで、その嘘とうまく付き合うことができる。多様な物語に触れることで、嘘に対するある種の免疫がつくという。

これ、とても実感が湧く。

私一人のささやかな経験だが、フィクションに慣れ親しんでいる人ほど、嘘への耐性が強く見える。現実で語られるストーリーを、いったん「ストーリー」として受け止め、吟味できる(疑り深いということだが)。陰謀論にハマる人は、「話の出来過ぎ感」への感度が低いように見える

世の悩みのほとんどは、既に誰かが悩んでいた

では、小説だけが特別なのか?

世の大人(特に、中高生にとっての大人である先生や親)は、小説を読むことを読書と考えがちだ。取扱説明書や問題集や便覧を熟読する子に、「こんなの読書と呼べない」と言い放ち、挙句の果てに「子どもが本を読まなくなった」と嘆く。

もちろん間違っているのだが、本書はわりとキツい言い方をしてて笑う。そして、本は問題解決の手引きにもなってくれると言う。

世の中の悩みのほとんどは、既に誰かが悩んだことがあり、悩みを克服した人が本に書き残してくれているという。

もちろん、全ての悩みの解法が本にあるなんて言えない。だが、「ここまで考えた」経過までは残されているはずだ。だから、その本を探し当てることで、自分で悩むだけでなく、先人の悩みの足跡もたどることができる。

この「本に相談する」という発想から、本の探し方、知らない(でも必要な)本との出会い方、図書館の使い方、テーマの広げ/深め方が解説される。本に限らず、「信頼できるサイトの見つけ方」なんて、いまの中高生に最も伝えるべき情報だろう(国会図書館のリサーチ・ナビは義務教育のレベル)。

いま自分が抱えている悩みや問題と、それと同じ悩み・問題を抱えていた人をつなぐのが本だ。そのつなぎかた、言い換えるなら、「悩みを解決する調べ方」の調べ方が書いてあるのが本書だ。

もちろん、そこに印刷されているQRコードを読み取り、手を動かし始める中高生もいるかもしれない。しかし、すぐに反応しないかもしれない。それでもいいと思う。この本に、悩みの解決法の調べ方が書いてある―――それだけが伝われば、将来、自分がぶつかったときに思い出すことができるから。

そういう、次の世代への種となるような一冊。

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「色とは何か」を歴史、科学、芸術から解析する『色の歴史図鑑』

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「色は、実在しない」という、刺激的な一文から始まる。

え? そこらじゅうに「色」あるじゃない? むしろ色が無いなんてものは存在しない。色は常に実在し、たとえ私がいなくても、ずっと存続し続けるように思える。

ところが、これは誤解だという。私たちが知覚している色は、私たちの頭の中以外には存在しない。色は、いわば光のトリックであり、生物がそれを見て初めて現れるものだと言うのだ。

では、色とは何か? 

この難題に対し、物理学、美術史、心理学、文化人類学など、様々な分野から光を当て、浮かび上がらせたのが本書になる。さらには、宗教や絵画、食品・医療における配色の応用や、コマーシャリズムにおける色の役割にも踏み込む。

色は主観か客観か

様々な人が「色とは何か」の問題に取り組んできたのだが、中でも面白かったのが、ゲーテとニュートンだ。

色とは、客観的に測定できる光の性質に過ぎないとするニュートンと、色は見る人の主観的な存在だとするゲーテの主張が対決調で描かれる。

まずは、アイザック・ニュートン。17世紀の科学者に言わせると、色は、光そのものの中にあるという。

光をプリズムで分光する実験を通して、色とは白色光に含まれる物理的な性質だとし、客観的に測定可能なものだとした。例えば、プリズムで分光した「赤」は、さらにプリズムを通したとしても赤色のままになる(赤はそれ以上に分けられない)。

彼にとって、赤や青といった色は光の波長に対応付けされた自然の事実であり、見る人の感覚とは関係なく存在するものだとした。

次は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。19世紀の文学者に言わせると、色は我々の見るまなざしの中にこそ宿るという。

たとえば、白い壁にある赤い丸をしばらく見つめたあと、目を逸らすと、うっすらとした青緑が現れる。赤色を見続けると「赤」への感応度が下がり、その直後に白を見ると、赤が欠落した色(=赤の反対の色相の色)が残像として見える。

補色残像という現象は、物理的な光の性質だけでは説明がつかない。ゲーテは、色とは感覚であり、私たちが世界と出会う経験の一部だとする主観的な現象だとした。

実はこれ、どちらも正しい。というか、主観 or 客観という二分的なものではない。物理学(光学)はニュートンの理論をベースにしながらも、色覚理論や認知科学はゲーテの主張に支えられている。

私たちが「赤」を感じるとき、それはニュートンの言う物理現象でありながら、ゲーテの言う見るという行為の結果でもあるのだ。

色覚理論を応用したゴッホ

「色は、我々の見るまなざしの中に宿る」という観点を絵画に応用した画家の一人に、ゴッホがいる。本書では、「包帯をしてパイプをくわえた自画像」がその応用例として紹介されている。

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画像:Wikimedia Commons より(出典
ライセンス:パブリックドメイン

この作品では、衣服の青緑と背景のオレンジが補色の関係(色相環の反対の色の組み合わせ)になっており、並べることで双方がより鮮やかに見える効果が生まれている。

人間の眼には、それぞれ特定の色に反応する細胞がある。ある色を長く見続けると、その細胞が疲労し、脳はその色に「対応する反対側の色」を補って知覚しようとする(ゲーテが観察していた「補色残像」の現象も、まさにこの仕組み)。

したがって、補色の組み合わせは、単に視覚的な対比を生むだけでなく、生理的にも脳が“補完的な色”を足すことで、色が一層強く感じられることになる(味覚でたとえるならば、お汁粉にひとつまみの塩を加えると、甘さが際立つやつ)。

本書ではこの自画像が取り上げられているが、より強烈な青とオレンジの対比として、私は「星月夜」や「夜のカフェテラス」を思い出す。どちらも、空の濃い群青~コバルトブルーに浮かび上がる、赤みがかった黄~オレンジの対比があまりにも鮮やかで、色が発光しているかのように感じられる。

……というか、私の中のゴッホ像は、ほとんど「オレンジとブルーの画家」だと言ってもいい。この組み合わせで、デヴィッド・マレルの『苦悩のオレンジ、狂気のブルー』を思い出したので、再読しよう(傑作ですぞ)。

ゴッホは、自力で色覚理論に到達したわけではない。

色覚理論の元を辿ると、19世紀のタペストリーの織工場におけるトラブルになる。

現場の作業員から「指定された色の通りに織っているのに、出来上がったタペストリーの色がくすんでいる」という申告が上がっていた。フランスの科学者ミシェル・シュヴルールは調査と実験をくり返し、染料や繊維の問題ではなく、人の認知が起こす錯覚によるものだと突き止める。

シュヴルールはこの知見をまとめ、一種の科学的な声明として出版する。万人の視覚に共通する、再現性のある現象として広く普及したという。「色が何であるか」というよりも、「色がどう見えるか」という考え方は、染織工や建築家、画家に影響を与えたという(印象派なんてまさにこれ)。これが巡り巡って、ゴッホの目に留まったという寸法だ。

科学が芸術に与えた影響は計り知れないが、「色」を切り口にすると、より鮮やかに見ることができる。

他にも、「紫が高貴な色とされたのは、染料を抽出するプロセスに莫大な費用がかかったから」という身も蓋も無い話や、「晩餐会のコースの最中に、青色の照明に切り替える実験」といった迷惑な話など、色にまつわる様々なネタが詰め込まれている。

また、古今東西の「色の図鑑」が収められているのも嬉しい。自然科学者、職工、デザイナー、医師、冒険家、料理人など、それぞれの立場に裏打ちされたカラーチャート、色見本、カラーグルーピングがこれでもかと紹介されている。ユザワヤの色見本のサンプルが好きな人にはたまらないだろう(私だ)。

 

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「色は、実在しない」からスタートして、人類が色をどのように理解していったのかの歴史を辿る―――本書は、いわば色の世界史と言えるだろう。

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読むことで完璧になるメタフィクション―――フエンテス『アウラ』とカサーレス『モレルの発明』

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多くの作家は、見切ったと思っても手元に残すものはある。フエンテスは見切ったけれど、彼の『アウラ』はすばらしい作品だ。彼は自分が知的に細部まで構築できる短編や中編ではものすごい力を見せる。
山形浩生『翻訳者の全技術』より

この人をしてここまで言わせしめるのは、相当なものなんだろうと手を出したら、確かにもの凄い作品だった。どれくらい凄いかというと、斬られたことに気づかないまま、倒される感覚だ。

「君は広告に目を止める。こんないい話はめったにあるもんじゃない」―――から始まる『アウラ』は、ぬるっと読ませるくせに、斬れ味するどい達人の技にやられた。

カルロス・フエンテス『アウラ』は、わずか50ページ程度の短編に、私を強烈に惹きつける異様な魅力を放っている。その最大の特徴は、全編が二人称現在形で語られていることにある。

言い換えるなら、読者自身が主人公となり、「君は手を差し出す」「君は彼女の目をみつめる」と語られていく構造になっている。この語り口が不穏な没入感を生み、読み手の現実感覚を揺らし始める。

物語は、古風な屋敷に住む老婦人の依頼で、回想録の整理にやってきた青年が、アウラという女性に出会い、不可思議な出来事に巻き込まれていく……という筋書きだ。幻想文学でありながら、構造やテーマは極めて精緻で、時間と記憶、そして欲望が絡み合っている。

卑怯とも言えるのは、「君」という書きっぷりでありながら、情報がコントロールされている点だ。老婦人に紹介され、アウラを見つめるのだが、アウラはきちんと描写されない。

「君=読者」なんだから、目の前にいて言葉を交わす人を「見て」いるはずだ。なのに、アウラがどんな顔立ちで、どういう姿かたちなのか描かれない。「ふくれあがる海のような目」とか「緑色の服を着た君の美しいアウラ」といった、曖昧な言い回しになる。

それでも、「君=主人公」の反応からしてアウラは若い女性であることは分かる。アウラを美しいと思い、欲しいとさえ願う。アウラもまんざらでもない様子だ。

時折はさまれる未来形に疑問を感じつつも、短編だからあっという間に読み終わる。宙吊り状態から降ろされ、物語の中で用意された答えを受け取りはするけれど、達人に斬られたことに気づくためには、すこし時間が必要だ。

そして、「これは読むことで完成する小説だ」と思い至る必要がある。これに近い感覚だと、アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』だろうか(私のレビューは [ここ] )。

絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、一団の奇妙な男女に出会う。《私》はフォスティーヌと呼ばれる若い女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示し、《私》を完全に無視する。やがて《私》は彼らのリーダー、モレルの発明した機械の秘密を……

『モレルの発明』は、普通に読むと、SF冒険小説になる。絶海の孤島で秘密裏に行われた実験といえば、H.G.ウェルズ『モロー博士の島』が有名だが、そのオマージュとなる。

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だが、『モレル』の方は、読者がこれを読み進める行為を経て、初めて完成するという多重構造を持っている。名前を持たない《私》の一人称の、二重の語り/騙りによって仕掛けられた奇妙な傑作だ。

『モレル』が発表されたのが1940年で、『アウラ』が世に出たのは1962年だ。『モレル』は《私》の一人称で、『アウラ』は「君」の二人称によって語られ/騙られる。

特筆すべきは、どちらも読者が物語をメタフィクションとして読むことで、物語の中の願望が完遂される構造だ。単なるプロットではなく、「読む」という行為そのものが《私》と「君」の運命を変える装置になっている。

そのくせ、「ようこそこちら側へ」なんてベタな展開は用意していない(『MYST』というアドベンチャーゲームは、まさにそんなラストだった)。もちろん、『モレル』『アウラ』は、普通の小説としても読める。メタフィクションとして扱うかも含め、読み手に委ねられている。

そこまで考えが至って、ようやく、私は『アウラ』に完全に魅了されていることに気づく。そしてこれ、『モレル』と同じように、くり返し読まされることになるんだろうな……と、ぼんやり覚悟する。

フエンテスのポリフォニックな語りは『老いぼれグリンゴ』でお腹いっぱいになったけれど(レビューは [ここ] )、こんなに斬れ味鋭い傑作があったなんて! 山形浩生さんに感謝。



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映像美に酔うか、読む悦びに徹するか―――映画『イングリッシュ・ペイシェント』と原作『イギリス人の患者』のあいだ

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映画『イングリッシュ・ペイシェント』を観た。長年の思い込みを改めることになった。

実はこれ、公開時にも観たので、28年ぶりに再会したことになる。

当時は、原作『イギリス人の患者』を読んだばかり。記憶と感情がもつれあうような感覚が印象的だった。アカデミー賞やゴールデングローブ賞を総ナメした前評判は上々で、間違いなかろうという判断の下、お付き合いしていた女の子を誘ってゴールデンウイークに観に行ったのが運の尽きだった。

ストーリーは大幅に改変(?)というよりも、背景だけ拝借しただけで、原作とはまるで違う装いだった。人生を破壊された4人の生き様を重ね合わせた原作とは異なり、主人公の愛と喪失だけに焦点を絞ったラブストーリーになっていた。

登場人物の設定も別物で、メインキャラの関係性を捻じ曲げ、まるで別の役割を与えたため、キャラの行動原理がペラペラになっていた。特に、私のお気に入りのインド人の工兵がモブみたいになっていたのが残念だった。

映像美はさすがに素晴らしかったものの、映画音楽が煩わしく、「ほら、ここが感動する場面ですよ」と言わんばかりに弦楽器を奏でるのが耳障りだった。

そんなわけで、映画館から出る頃にはすっかり不機嫌になっていた。酷評する私の横を歩いていた彼女の感想は「可もなく不可もなく?」と当り障りのないもので、さんざんなデートだったことを覚えている。

昨年、原作を再読し、昨日、映画を改めて観たのだが、この2つは別の世界線の物語だと思う方が、より堪能できることが分かった。

『イギリス人の患者』の読みどころ

まず原作の『イギリス人の患者』。

著者のマイケル・オンダーチェは詩人でもあり、比喩や象徴に満ちた文章となっている。さらに、エピソードは直線的ではなく、断片的な記憶やトラウマに沿って行ったり来たりしながら浮かび上がっていく形式のため、「何が起きたのか」を読み手が解きほぐすしかない。

普通の小説とは一線を画し、「誰が何をしているのか」は、読み進めないと分かるような仕掛けにしている。これ、一歩間違えると「分からない」と投げ出す読者が続出するだろう。だが、タイトルにもなっている「イギリス人の患者」とは誰なのか? という謎が、読み手の心を掴んで離さない。

この謎に導かれて、彼とその周囲の人たちの記憶をまさぐり、想像し、確かめていくことで、読者自身が物語を編みなおすような読書体験ができる。読者は、登場人物の記憶の深いところで重なっているため、その心情の揺れがダイレクトにシンクロする。

ここが、この小説を唯一無二にしている点だ(感想は [ここ] )。

『イングリッシュ・ペイシェント』の見どころ

次に映画化された『イングリッシュ・ペイシェント』。

監督のアンソニー・ミンゲラは、構図や光の使い方が叙情的で、風景が感情を語るような作風だ。『イングリッシュ・ペイシェント』では廃墟や砂漠を、『コールドマウンテン』では雪景色と南部の風土を、絵画のように映し出す。

なので、とにかく絵がきれいだ。カメラワークや色彩設計をはじめ、俳優の演技や音楽ですら、「あれは美しい物語だった」というインパクトを観客に与えるという一点に集中している。

そのため、物語の時間軸は整理され、映画のストーリーの流れが明確になっている。ラブロマンスだけを中心に据え、他のものはカットして、単線的に映像美を目指している。そこにミステリー的な要素はなく、原作の謎である「イギリス人の患者とは誰なのか?」は、パッケージに描かれている。

王道のラブストーリーを、ひたすら美しく哀しく描いたのがこれだ。「小説とは別物」という姿勢で、もう一度観たら、きちんと胸を揺さぶられた。

観てから読むか、読んでから観るか

小説と映画、どっちが先かと言うならば、『イングリッシュ・ペイシェント』が先になる。

一般に、映画は感情の直接的な共鳴を求めるメディアだ。そのため、詩的で抽象的な小説の語りは、そのままでは伝わりづらい。観る人に訴える力を最大化するために、様々なエピソードを削ぎ落し、設定を変えている。それでもいい、まずは直接的に感動してほしい。

その上で小説を読むと、登場人物が霧に包まれたように「見えなく」なるだろう。それぞれのモノローグを通じて、各人の行動原理を改めて探し出すことを、煩わしく感じるかもしれない。でもそれこそが、記憶を手繰るという小説の悦びにつながる。

映画は、「何を失ったか」を美しく描くことで、観る人の心に直接届くように仕立てられている。小説は、「失ったものをどう記憶するか」を多層的に描くことで、読む人の心を深く沈めるように書かれている。

28年ぶりに観て(読んで)ようやく腑に落ちた。『イギリス人の患者』と『イングリッシュ・ペイシェント』は、同じ素材からまったく異なる物語が紡がれた、いわば”別の世界線”の作品なのだ。

などと感動している私の隣にいる嫁様の感想は、「可もなく不可もなく!」だったと申し添えておく。

なお、『イングリッシュ・ペイシェント(吹替版)』はアマゾンプライムで観ることができる。



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