手放してもいい。けれど、忘れたくない物語 こうの史代『空色心経』
ほんとうに苦しいとき、指一本すら動かせない。起き上がることはもちろん、眠ることすらかなわず、「早く終わりにしたい」という気持ちで一杯になる。
そういうときに、寄り添ってくれる本がある。
もちろん、辛いときは本なんか読めない。それでも、「あそこにあれがある」と思える本、読まずとも握りしめられる、お守りのような一冊がある。私にとってのお守りとなる本は、クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』と頭木弘樹『絶望名言』だ。
これに、本書を追加したい。予感として、ほんとうに辛い日が来ることは分かっている。こんな日々が続くわけがない。出会ったならば別れがあるし、存在するなら(それが何であれ)失われる日が来るだろう。
そのときに、この人のお話を思い出したい。
舞台は現代日本、新型感染症による不安が充満する、少し前の日々を描いたものだ。主人公は麻木あい、スーパーで働きながら、「ワクチンは毒」とする夫とのすれ違いに苦しんでいた。
一方、遥か昔のインド、観自在菩薩が釈迦が独話と対話を重ねる。「在る」とは何か、なぜ私たちは悩むのか、この苦しみから抜け出すには?―――意図してやっているのか、中性的に描いている。
麻木あいは黒色の線で描き、観自在菩薩は青色の線で描かれている。時空を隔てた二つの世界を、代わる代わる二つの色で描く様子は、まるでエンデの『はてしない物語』のギミックのようで面白い。
そしてこの仕掛けは、黒で描かれる麻木あいの苦悩の一つひとつに、青色の文字で答えが示されていることで発動する。もちろん彼女は、青色は見えない。夫婦生活を続けていく上での未練や、「こうすればよかった」といった後悔なんてものは、一切空の立場からすると、実体を持たない。
「苦しい」とか「悲しい」といった感情は、(そもそも存在しない)体や心に執着するから生じるものであって、全てが空っぽであることに気づけば、消滅するはず。そんな千年以上も前の「答え」が青色で重なる。
でも、苦しい思いは確かにある。これを否定しないでほしい。
この「悲しい」と感じる心は確かに存在する。なぜなら、物理的な痛みや、胸が潰されるような感覚があるから。般若心経だろうが何だろうが、この苦しみを無かったことにはできない。そういう思いも含めて青色の線とフキダシですくい上げる。
一切空は、痛苦を否定しているわけではない。「空」は実体がないことを言っているだけであり、「痛い」「苦しい」という意味はちゃんとあるのだから。その痛みや苦しみは、そう感じる私から生じている。
ちょっと面白いなと思ったのは、ギリシャの哲人・エピクテトスと呼応するところ。
自分が死ぬことを恐れている青年に、エピクテトスが告げた言葉だ(『語録』のどこかにあるはずだが、発掘できなかった)。
死は何ら恐ろしいものではない。
むしろ死は恐ろしいという死についての考え、
それが恐ろしいものなのだ。
私は、自分が死ぬとか、大切な人との別れ、病気や事故を恐れる。だけど、私を苦しめるのは、死とか別れとか病気そのものよりも、それに対する思いのほうなのだ。もちろん、「死」という出来事そのものがもたらす苦痛はあるだろう。だけど、それよりも「死んだらどうしよう」などと思い悩む私の感情や判断こそが、私を苦しめるのだ。
これ、言い方を変えるならば、死に対する私の思い悩みから離れることができるならば、たとえ死が訪れたとしても、淡々と死んでいけるだろう。外的な出来事はいかんともしがたい。だが、それへの反応や解釈を見直すことで、それに振り回されずに済む。
この考え方は、知識としては知っている。二ーバーの祈りとか、イチローのコントロールの話とか、耳にしたことがあるかもしれない(変えられないものをスルーして、変えられるものだけに集中する技術)。
しかし、ギリシャの哲人や仏教の教えでも、私たちのリアルな悩みは容易に解決しない。不安をやり過ごす最適解だと知ってはいても、どうやってそれが自分の身に起きるのかが分からない。
それを、物語の演出として上手いこと忍び込ませている。読者は、「麻木あい」という一人の女性の身に起きた出来事に立ち会うことで、こうしたリアルな不安とどのように向き合うのかを知ることができる―――そういう作品なのだ。
黒い線で描かれた世界に交じる青い線に、いつ、彼女は気づくだろう? 苦しみの世界のすぐそばにある青い線に触れさえすれば、その悩みを正しく見つめ直すことができるはずなのに……そういう、もどかしい思いを抱えながら、読み進めるうちに、般若心経の考え方がストンと腑に落ちる。ああ、彼女は私なんだと、未来の私なんだと気づく。
そして、分かってしまえば、なんのことはない。もうこの本を所有していることすらいらない。
次に、私が苦悩するとき―――ひょっとしてそれは、彼女の苦悩かもしれない―――でもそんな時は、この物語を思い出しさえすればいいのだから。モノとしての本は不要で、だれか必要とする人に差し上げてしまってもいい。
手放してもいい、けれど、忘れたくない一冊。

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コメント
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
投稿: | 2025.05.06 03:02
>>名無しさん@2025.05.06 03:02
ありがとうございます。
麻木あいは悟りの境地にまでは至ってないものの、執着からは離れることには成功しています。過去の思い出にすがるのではなく、「いま」過去と向き合う……そんなシーンがありました。
投稿: Dain | 2025.05.06 11:09