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耐久性のある漫画の作り方『マンガの原理』

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何度も読み返す漫画がある。

例えば、こうの史代『長い道』と森薫『乙嫁語り』がそれ。筋もオチも味わい尽くしているのに、気づくと読み返して、噛みしめる度に良さを感じている(読んでる時間が好きなのだ)。こういう「しみじみと好き」な漫画は、インパクト重視のキャラは出てこないし、ド派手な演出は少ない。

では、地味(?)だけど滋味があり、何度も噛みしめたくなるような作品は、どう違うのか?

『マンガの原理』(大場渉、森薫、入江亜季)によると、耐久性を重視した作品だという。読み捨てられるような作品ではなく、心に残り続けるためには、どのようなセオリーがあるか。漫画を読む体験を心地よく感じてもらうには、どんな技法があり、それは具体的にどの作品のどこに反映されているか。

漫画は技術

こうし原理原則を、4つの章と68の技法に分解して紹介している。

 1. コマ割りと視線誘導の原理
 2. 絵の原理
 3. フキダシとセリフの原理
 4. キャラ・ネタ・ストーリーの原理

本書は「漫画は技術だ」と言い切る。「センス」というふわっとした表現ではなく、技術だから言語化できるし、努力によって身に着けることもできる。「漫画のセンスがいい」とはどういう技術に裏打ちされたものかが説明されている。

技法と適用例により、「何がマンガを面白くさせているのか」という根本的なところが見えてくる。私が無意識のうちに「好き」とか「楽しい」と感じていたことが、どういう技術によって支えられていたのかが、言葉と例(実際の漫画の引用)で見える。

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マンガを描く人にとってのバイブル本としては、『マンガの創り方』がある。こちらは「今のネタを面白いネームに落とし込む方法」に特化したものになる。『マンガの原理』は、これに加えて、具体的な視線誘導やセリフ回し、キャラの立て方など、ネームの先まで指南してくれる。

例えば、視線誘導の原理。

「何かある」と読者に予見させ→それをキめるコマを配置する「フリとウケ」や、右ページ左下から、左ページ右上のコマへ視線を「跳ね上げる」技術、次のページをめくらせるために読み手の意識を途切れさせない方法など、読者を最後のページまで連れていくための、様々な視線誘導の技法が紹介されている。

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『マンガの原理』p.33より

こうしたテクニックに共通しているのは、「読むコストを下げる」だろう。スムーズに読んでもらい、読み手の期待を上げて受け止め、目を留めてほしいコマを凝視してもらう―――これらの技法は全て、より少ない読者のコスト(=集中力や意識)でもって、ストレスなく物語に没入してもらうためにある。

ジャンプの漫画講義録(松井優征)で、「防御力をつければ勝率も上がる」という記事があるが、あれの実践編といっていい。

種明かしされても読みたくなる

一番驚いたのが、『乙嫁語り』の解説だ。

何度も読み返していたまさにそのシーンが俎上に上がっており、「なぜこのように描かれているのか」が徹底的に説明されている。作品を解剖することで種明かしをしてしまうと、面白さは半減しそうかと思いきや、むしろ逆で、舐めるように味読した。

例えば、「見せ場では絵とセリフは別のコマに」という技術がある。大事なセリフを言わせる時のコマは、「セリフを印象的に見せるための構図」で描かれるべきだという。さらに、そのセリフの結果としての表情やリアクションは、「表情やリアクションを見せるのに最適な構図」で描けとアドバイスする。

その例として『乙嫁語り』の第66話「馬を見に」のシーンが紹介されている(以下に引用する)。12歳で結婚し、大人の男になり切れず、自信を失っている少年カルククに、妻のアミルがまっすぐな思いを伝えるところだ。

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乙嫁語り 10巻より

アミルの「私が好きなのはカルククさんです」というセリフは、まっすぐ目を見ている構図で描かれているし、「信じられませんか?」のリアクションは、セリフ無しの3コマを使って(しかも「跳ね上げ」の箇所で)、描かれる。

まさにセオリー通りなのだが、本当に重要なシーンは、この次の見開きページになる。

『乙嫁語り』の10巻では、第62~65話を使って、「強い男になるために努力するけれど、まだ成長途中のカルクク」が描かれる。大人でない、男らしくないと感じている様子が、彼の言葉や態度の端々で4話かけて伝わってくる。それを跳ね飛ばし、ストレートに好きだと伝えるアミルの思いと、それを受け止めるカルククの感情が一気に広がるのが、この次の見開きなのだ。

にもかかわらず、この次の見開きのページは、『マンガの原理』では引用されていない。ずりぃwwwとは思いながらも、本書を読む人は当然『乙嫁語り』も読んでるだろうし、この次のシーンも、もう一度読むでしょ(ニッコリ)という、編集者の目くばせなのかもしれぬ。

ワンピースのネームは手抜き?

「なるほど!」と思う一方で、「ホント?」と半信半疑になる技法もある。

例えば、1段分を1コマにする「ヨコ1コマは原則禁止」のルール。これは、作者がラクできる一方で、コマ割りの技術が身につかなくなるからダメだという。あるいは、「変形ゴマは必要なし」という指摘。変形ゴマとは台形だったり斜めのコマで、映画の中でレンズが見えてしまうようなメタ表現による雑味が出てしまうという。他にも「汗と照れ線はNG」といったルールがあるが、その真偽はともかく、作者の持ち味だったりするので、一概にNGでは無いような気がする。

さらに、私では判別つかなかったのが、『ONE PIECE』のネームについて。

毎週一定のページを描かねばならない週刊誌での連載は過酷です。『ONE PIECE』(尾田栄一郎)みたいにちゃんとコマを割る方が正しいし人気が出ると分かっていても、ネームがずるずる遅れる担当作家に対して「このままだと原稿が落ちちゃいそうだから、今回は大ゴマを多くして、少ないコマ数で締め切りに間に合わせよう」と言ってしまう編集者はたしかに存在します。

これ、オブラート(?)に包みつつ、言ってることは「ONE PIECEは大ゴマが多くて少ないコマ数で間に合わせている」ということなのだろうか。

私自身、ほとんど『ONE PIECE』を読んでいないので、是か否か分からないが、その後の指摘で「清書が間に合わないのは目立つが、ネームで手を抜くのはバレにくい」「ヨコ1コマばっかり並ぶ、単調な漫画ができあがる」と述べている。

GPT御大に調べてもらったところ、「(アラバスタ編と比較して)1話あたりの情報量が低下し、コマ割りや構成の不自然さが目立つ」という否定的な意見と、「(ある意味斬新な)演出上の工夫であり、手抜きではない」という意見と両方あるという。この辺、マンガを沢山読んでいる人の意見を伺いたいものだ。

激しく同意するコメントもあるし、気づかなかった指摘もある。その一方で、ちょっとヘンかも?と感じる主張もある。本書への意見が賛否両論なのも分かる。

でもこれって、それだけマンガが多様な証拠なのではないだろうか。

もし「マンガの原理」なるものが統一的で画一的であるならば、誰もがそれを学んでマネした結果、単調で画一的な作品だらけになるだろう。でもそうではなく、「原理」とはいえど、あるジャンルや特定の条件で発動するルールであるならば、例外も起きうるのだから。

こんな感じで、頷いたり反発したりする、忙しい読書と相成った。マンガを描く人・創る人向けのバイブル本だが、読む人にも発見がある、マンガライフを充実させる一冊。

 

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手放してもいい。けれど、忘れたくない物語 こうの史代『空色心経』

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ほんとうに苦しいとき、指一本すら動かせない。起き上がることはもちろん、眠ることすらかなわず、「早く終わりにしたい」という気持ちで一杯になる。

そういうときに、寄り添ってくれる本がある。

もちろん、辛いときは本なんか読めない。それでも、「あそこにあれがある」と思える本、読まずとも握りしめられる、お守りのような一冊がある。私にとってのお守りとなる本は、クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』と頭木弘樹『絶望名言』だ。

これに、本書を追加したい。予感として、ほんとうに辛い日が来ることは分かっている。こんな日々が続くわけがない。出会ったならば別れがあるし、存在するなら(それが何であれ)失われる日が来るだろう。

そのときに、この人のお話を思い出したい。

舞台は現代日本、新型感染症による不安が充満する、少し前の日々を描いたものだ。主人公は麻木あい、スーパーで働きながら、「ワクチンは毒」とする夫とのすれ違いに苦しんでいた。

一方、遥か昔のインド、観自在菩薩が釈迦が独話と対話を重ねる。「在る」とは何か、なぜ私たちは悩むのか、この苦しみから抜け出すには?―――意図してやっているのか、中性的に描いている。

麻木あいは黒色の線で描き、観自在菩薩は青色の線で描かれている。時空を隔てた二つの世界を、代わる代わる二つの色で描く様子は、まるでエンデの『はてしない物語』のギミックのようで面白い。

そしてこの仕掛けは、黒で描かれる麻木あいの苦悩の一つひとつに、青色の文字で答えが示されていることで発動する。もちろん彼女は、青色は見えない。夫婦生活を続けていく上での未練や、「こうすればよかった」といった後悔なんてものは、一切空の立場からすると、実体を持たない。

「苦しい」とか「悲しい」といった感情は、(そもそも存在しない)体や心に執着するから生じるものであって、全てが空っぽであることに気づけば、消滅するはず。そんな千年以上も前の「答え」が青色で重なる。

でも、苦しい思いは確かにある。これを否定しないでほしい。

この「悲しい」と感じる心は確かに存在する。なぜなら、物理的な痛みや、胸が潰されるような感覚があるから。般若心経だろうが何だろうが、この苦しみを無かったことにはできない。そういう思いも含めて青色の線とフキダシですくい上げる。

一切空は、痛苦を否定しているわけではない。「空」は実体がないことを言っているだけであり、「痛い」「苦しい」という意味はちゃんとあるのだから。その痛みや苦しみは、そう感じる私から生じている。

ちょっと面白いなと思ったのは、ギリシャの哲人・エピクテトスと呼応するところ。

自分が死ぬことを恐れている青年に、エピクテトスが告げた言葉だ(『語録』のどこかにあるはずだが、発掘できなかった)。

死は何ら恐ろしいものではない。
むしろ死は恐ろしいという死についての考え、
それが恐ろしいものなのだ。

私は、自分が死ぬとか、大切な人との別れ、病気や事故を恐れる。だけど、私を苦しめるのは、死とか別れとか病気そのものよりも、それに対する思いのほうなのだ。もちろん、「死」という出来事そのものがもたらす苦痛はあるだろう。だけど、それよりも「死んだらどうしよう」などと思い悩む私の感情や判断こそが、私を苦しめるのだ。

これ、言い方を変えるならば、死に対する私の思い悩みから離れることができるならば、たとえ死が訪れたとしても、淡々と死んでいけるだろう。外的な出来事はいかんともしがたい。だが、それへの反応や解釈を見直すことで、それに振り回されずに済む。

この考え方は、知識としては知っている。二ーバーの祈りとか、イチローのコントロールの話とか、耳にしたことがあるかもしれない(変えられないものをスルーして、変えられるものだけに集中する技術)。

しかし、ギリシャの哲人や仏教の教えでも、私たちのリアルな悩みは容易に解決しない。不安をやり過ごす最適解だと知ってはいても、どうやってそれが自分の身に起きるのかが分からない。

それを、物語の演出として上手いこと忍び込ませている。読者は、「麻木あい」という一人の女性の身に起きた出来事に立ち会うことで、こうしたリアルな不安とどのように向き合うのかを知ることができる―――そういう作品なのだ。

黒い線で描かれた世界に交じる青い線に、いつ、彼女は気づくだろう? 苦しみの世界のすぐそばにある青い線に触れさえすれば、その悩みを正しく見つめ直すことができるはずなのに……そういう、もどかしい思いを抱えながら、読み進めるうちに、般若心経の考え方がストンと腑に落ちる。ああ、彼女は私なんだと、未来の私なんだと気づく。

そして、分かってしまえば、なんのことはない。もうこの本を所有していることすらいらない。

次に、私が苦悩するとき―――ひょっとしてそれは、彼女の苦悩かもしれない―――でもそんな時は、この物語を思い出しさえすればいいのだから。モノとしての本は不要で、だれか必要とする人に差し上げてしまってもいい。

手放してもいい、けれど、忘れたくない一冊。



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見切る読書で積読を解毒する『翻訳者の全技術』

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何十年も向き合ってきて、今でも何度も読み直す本がある。辛いとき・キツいとき「あの棚にあの本がある」と思い浮かべるだけで励みになる本がある。もし出会わなかったら、今の私は無かったと断言できる本がある。ガチガチの価値観を更新し、アンパンマンの頭のように「私」を取り換えてしまった本がある。

おそらく数十冊、多くても百冊ぐらいの、そんな本を、エッセンシャルブックと呼んでいる。沢山の本をとっかえひっかえ読んだり、新刊本をブックハンティングするのは、そんな本と出会うためだと思ってきた。

だが、そろそろ振り返って、積読山と向き合わねばならぬ。

理由は2つある。

ひとつは、量こそ遥かに多いけど、クズみたいな本が大量にある書店よりは、年月をかけて賽の河原のように積んできた山の方が、「あたり」を引く確率が高いこと。

もう一つは、残りの人生ぜんぶ費やしても、この山を読みつくせないことは明白であるばかりか、この山から選んだ「あたり」を読む時間すら残されていないから。

とはいえ、本を読むスピードと、本を買う+借りるスピードは、比ぶべくもない。積読は山ならぬ山脈を成し、家のあちこちで繁殖する。仕方がないのだとあきらめるか、自虐的になるか、それでもあがく。

そんな時に、山形浩生『翻訳者の全技術』を手にした。これは、翻訳に限らず、山形浩生の読書論であり人生論であり「知との向き合い方」を語った本だ。

読書家の悩み「積読」

で、山形に言わせると、積読は、本に対する裏切りだという。どこかの誰かに読まれるだろうという期待を込めて作られた本を読まずに積むのは、期待を踏みにじる行為だという。死蔵された本は文字通り死んでいる。

痛い。ド正論で、めちゃくちゃ痛い。

でも、そういう自分はどうなん?と思う。

彼は、ピケティ『21世紀の資本』をはじめ、様々な領域で大量の本を翻訳してきた。Linuxのようなオープンソースの古典『伽藍とバザール』、囚人実験の先駆け『服従の心理』、Netflixでドラマになってる『エレクトリック・ステイト』などを翻訳している。めちゃくちゃ引き出しがある人で、真の教養人といえる(彼の紹介する本や解説には、めちゃくちゃお世話になった)。

彼の本棚の写真を見たことがあるが、とにかくデカくて横幅のあるやつだった(もちろんそれだけじゃないだろう)。

だから、その正論は諸刃の剣ともいえる。自分も積読に悩まされるんじゃないの?

正解だった。

彼は白状する、本棚の前を通るたびに「すみませんすみません」と罪悪感に囚われていたという(ここ笑った)。積読とはそういう後ろめたいものであり、借金の督促状みたいなものだという。

この先は、twitterでやってる半分自虐、半分自慢みたいな積読話になるかと思った。あるいは、『積読の本』に登場する12人の積読家のように開き直るのだろうかと半ば期待した。

しかし山形は、正論パンチを続ける。

20代、30代ならご愛敬だが、「いつか読む」という可能性は、先送りすればするほど失われる。「読まない本にこそ価値がある」などと言ってみせるのは倒錯であり、放置すればするほど精神は淀み、知は腐敗するという。

積読について開き直ったりやせ我慢をしたり、何かしらポジティブな主張するのが流行っている。そうしたエクスキューズを一つひとつ抽出し、丹念に潰してゆく。言い訳を先回りして塞ぎ、弁解や逃げ口上をつるし上げる。

以下なんて、完全なホラーだ。心拍バクバク、血圧マシマシ、冷や汗タラタラしながら読んだ。

そうした無価値の山と化した積ん読を放置しているのは、その人の怠慢であり、未練でしかない。そしてそれを「読まなくったっていいんだ」とうそぶくのはごまかしであり、自分が目を向けられずにいる己の失敗やまちがい、自分のかつての浅はかさ、そして何より、自分の怠慢と先送り。やると言ってやらなかった数々の小さな積み重ね。果たせなかった約束の数々。できもしないことを、できる、やると大見得切ってしまった恥ずかしさ。もう読むことはないと自分でもわかっている積ん読には、そのすべてが淀んでいる。 そうした無数の無責任、不義理。かつてのプライド。

しかし、なんだか様子がおかしい。

この本は、インタビュアーを相手に放談会を行ったもののまとめだ。そのため、話が突然スライドしたり深みにハマったりしている。だが、この積読の箇所だけは妙に腰を据えて神妙に語っている。

おそらく、これは彼の体験であり、反省であり、告白なんだろう。

本を読む人なら誰だって、言われなくても分かっている。それをあえてド正論で追い詰めても仕方ないことは分かっている。だから、これは、かつての自分に向けた正論パンチなんだろう。

積読を解毒する

では、そんな山形が、どのように積読山を崩していったのか。

読まない本とは、かつて自分が自分にした約束の不履行だ。他の誰にも任せられない後ろめたさは、時間が経つほど毒を持つ。

私の場合、「『あとで読む』は、後で読まない」と肝に銘じ、一頁でも一行でも「読んだ」ことにしている。

本当は、そんなことをしても読んだことにならず、単に自分をごまかしていることは百も承知だ。それでも、莫大なお金と時間を費やして集めてしまった山を前にして、正気を保つために必要な儀式だと思っている。

彼の場合、一冊ずつ取り組んでいったという。「これはすごい本に違いない」というハードルを、手元の一冊を読むことで下げる。相手の手のうちを見抜きながら、その著者や分野への期待効用を下げていく読み方だ。

本書で自身が述べているが、山形浩生は頭がいい。

この「頭がいい」とは、対象の本質をすばやく理解し、自分の言葉で説明できるという意味だ。「結局何が言いたいの?」という問いを常に発している人だ。

もちろん「結局何が言いたいの?」というスタンスは誰だって持っているだろう。だが彼の場合、これを徹底している。本を読むとき、頭(テーマ)と尻(結論)を先に読んで、あらましを捕まえる。推理小説でも末尾の種明かしから読むとのことだ(もったいなくない?)。

「結局何なの?」と突き詰めていくと、大したことを言っていないことに気づくという。トロツキーはスターリンの罵倒を繰り返しているだけだし、ピンチョンは思わせぶりなネタを並べるだけで無内容だし、フエンテスも反近代的な妄想をまぶしているものばかりだという。

すごいと思い、いつか読んでやろうと積んでいた本は、実はそんな大したことないことに気づく。自分で勝手に期待していたものに、自分で幻滅していく。「こんなものか」と気づいてしまう

これは、知的対象を神棚から引きずり下ろすような態度だ。山形の読書は、「崇高な対象への崇敬心」を丁寧に解体していくベイズ推定的なプロセスとも言える。

つまりこうだ。そもそも積読山に刺さっているということは、「これはすごいに違いない」とか期待したからそこにある(事前確率やね)。

でも、実際に本を読み進めていくと、それっぽいネタが並んでいるだけで整理もされていないし、前作と似たような展開だと気づいてしまう。

もし本当に「すごい本」なら、きっとこんな内容であるはずという期待との一致度(尤度)が乖離している……なので、「読んでみたけど、大したことないかも」という事後確率が更新されていく。

こんな風に、主観的に信じた仮説(=すごい本)を、実際の検証(=読書)によって体系的に修正していく。このやり方、多かれ少なかれ、誰もがやっていることだろう。だが彼の場合、それを徹底的にやる。本質をつかみ取る頭の良さを発揮して、「結局何なの?」を突き詰める。必要なら原著にあたり、自分が理解するために翻訳する(彼が翻訳してきた膨大な本は、もとはと言えば自分の理解のために始めたものが多いという)。

私なら「エラい人が誉めているけど俺に理解できないのは、俺が足りないから」と尻込みするところを、原著に当たった上で「そいつ自身が分かってないまま有難がってるだけじゃねーか」と切断する。

これだと、ガッツリ崩していくことができる。彼は10年かけて、「見切って」いったという。彼が若いころに影響を受けた橋本治と対談をした後、強く失望して、「見切る」ところなんてかなりキツかったと思う。

これ、すごく分かる。というか、分かりすぎて怖い。

例えば、私はコーマック・マッカーシーが好きだ。

『すべての美しい馬』なんて好きすぎて何回も読んでいる。おまけに英語を勉強しぃしぃ、あの難解な原文にも挑戦している。けれども、『すべての美しい馬』から始まる国境三部作も、『ブラッド・メリディアン』も『地と暴力の国(ノーカントリー・フォー・オールドマン)』も『チャイルド・オブ・ゴッド』も『ザ・ロード』も読んできた。

なので、だいたい手の内は分かる。モチーフを変えてもテーマは変わらない。読後感も想像できる。だから、最後の2作とされる『ステラ・マリス』『通り過ぎゆく者』は、積んだままだ。「こんなものか」と思いたくないから。

おそらく、積読山を本格的に崩すには、こうした自分でかけた呪い(幻想)を解呪していく覚悟が必要なんだろう。

でも、そんな「見切る」ような読み方をしていったら、どれもこれも「大したことない」になってしまうのでは?それは山を崩すには効率的かもしれないが、本を楽しむというより、本を読む自分を評価するような読書になってしまうのでは?

それでも、残るものはあるという。見切るとは「こいつはダメ」ということではなく、もうこれ以上読まなくてもいいということ。その作家なり分野の本質的な輝きを見せる本は手元に残しておく。フエンテスの『アウラ』やディレーニの『時は準宝石の螺旋のように』は保存してあるという。

おそらくそれが、彼にとっての、エッセンシャルブックなのかもしれぬ。

私の場合は何だろうか。それを見限ったら、私でなくなってしまう作品。マッカーシー『すべての美しい馬』やウィリアムズ『ストーナー』だろうか。開高健は全て隈なく読んだが、『オーパ!』だろうか。レイコフ、ベイトソン、ボルヘスは、新しく手を出すよりも再読したい(せねば)と考える。

何が残るかと「見切る」ことによって、積読を解毒していく。そういう読書が、必要なのかもしれぬ。

……とはいえ、彼が絶賛していたフエンテスの『アウラ』は手に入りそうなので、新たに積読山に入れるんだけどねw

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狂気で片づけるにはあまりにも人間的な物語『花びらとその他の不穏な物語』

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すべての人間はモンスターであり、
人間を美しくしているのは、
私たちのモンスター性、
他人の目から隠そうとしている部分なのです
(グアダルーペ・ネッテル)

この著者の言葉どおりの短編集。すごく好き。人間の不穏当な部分に光を当て、そこで育まれる狂気を静かに描き出す。人の持つモンスター性から、一切の暴力を削ぎ落すと、こんな人生になるのかしら?と考えると愉しい。

例えば、夜な夜なパリのトイレを探し回る男を描いた「花びら」。男が探しているのは、ある女性が残した痕跡だ。

並々ならぬ嗅覚へのこだわりがある男は、人目にさらされない唯一の場所に残された印(しるし)を匂いのかたちで思い出にしていた。白い便器についた一筋の液体に心身の不調を嗅ぎ取ったり、鴨のマンゴーソースといった料理がどのように「解釈」されたかを分析していた。

女性用トイレを探索するたび、新しい解釈を見出し、刺激的な発見に心をときめかせていたのだが、ある日、独特の香りと出会う。第一印象は控えめなものの、生命深部から湧き出る生々しさに虜になる。「フロール(花)」と名づけ、その痕跡の主を探そうとする。

見咎められるリスクを慎重に回避しつつ、毎晩毎晩、フロールを探し求める―――読者は、その異常性を目の当たりにしつつ、これは極めて自然に描かれるラブストーリーであると考えざるを得ない。

果たして男はフロールを見つけられるのか?出会った二人に何が起きるのか?

不穏な雰囲気のまま、読者はラストにたどり着く。これも一つの愛の物語なのだろうと自身を納得させるしかない。そんなストーリーが6つ、用意されている。「まぶた」の写真を撮り続けるうち、理想のまぶたを追い求める男や、男の私生活を、道一つ隔てた部屋から覗き見する女など、歪んだ、でもひたむきな執着心と向き合う。

なぜ、こんなに不安にさせられるのだろう?

すぐに気づくのは、「理由」がないことだ。

どの物語でも、誰が何を求めているのかが詳細に説明される。全てのストーリーは一人称で語られているため、隠されるものは無い―――にも関わらず、「なぜ」については、塗りつぶされたように現れてこない。

主人公の目を通して、読者は、物語の目撃者となるのだが、何が起きているのかクリアなのに、どうしてそうなったかは自分で考える他ない。もちろん「こいつは狂ってる」と一言で片づけることだってできる。でも、そんな風に考える人は、そもそもラストまでたどり着けないだろう。それほど、ひたむきで、執拗で、自然な想いなのだ。

小説好きなら、他の作家のオマージュのようなものを嗅ぎ取って、嬉しくなるかもしれない。

例えばこれ、「盆栽」の冒頭だ。

結婚して以来、ぼくは日曜日の午後、青山植物園を散歩する習慣があった。仕事を家事―――週末に家にいれば必然的に、妻のミドリにあれこれ用事を頼まれる―――から解放され、のんびり羽を伸ばすひとつの手段だ。ブランチをすますと、何か本を手に近所をぶらぶらし、新宿通りに出て東門から園内に入った。

名前のない「ぼく」が語り手で、感情を抑制させ、淡々とした日常から入るやり方、読みやすさと軽やかさを兼ね備えた翻訳調……と言えばあの人を思い浮かべる人も多いだろう。『ノルウェイの森』を読んだ人なら、「妻のミドリ」に反応するかもしれない。

これが村上春樹の小説なら、「ぼく」はこの後、謎めいた女と出会って深い仲になるのが定番だ。だが、「ぼく」は謎めいたお爺さんに出会うことになる(お爺さんの名前は「ムラカミ」だ)。ハルキ風味を醸しつつ、まるで違う未来へ連れていかれる(これが二重に愉しい)。

あるいは、ある男の生活をひたすら覗き見する女を描いた「ブラインド越しに」もそうだ。男を「あなた」と呼び、その行動を観察し、見えない部分は妄想し、反応する女の様子はエロスよりも執念じみたものを感じる。

なぜ女がそのような行動をするのか、理由は一切説明されない。一方、覗き見される男も不可解な行動をとるのだが、その理由は分からないままだ。

読んでるときは気づかなかったのだが、これ、ホーソーンの「ウェイクフィールド」のオマージュのように見える。

「ウェイクフィールド」とは、妻子ある身でありながら、ある日、「ちょっと出てくる」と家を出て、そのまま帰ってこなくなった男の名前だ。彼は、自分が家出した家の通りを挟んだ向かい側に部屋を借り、妻の暮らしを観察しながら、何年もひっそりと暮らす―――のだが、この男女を逆転すると、「ブラインド越しに」が成立するように見える。

「なぜ、そんなことをするのか?」が説明されない宙吊りの状態が続くと、読み手は、無理にでも理由を持ってこようとする。不穏さを楽しむにはちょうどいい。

作者は、「もともと人はそういうモンスター性を秘めた存在だ」という動機があり、それをどういうモチーフにすると面白いか?といった設計で、これらを書いているように見える。

そこで描かれる登場人物のモンスター性は、読み手が内に秘めたモンスター性とは異なっている。そのため読者は、自分の習癖(性癖・手癖・執着)に気づくことなく、安全な場所から読んでいられる。

安全に狂気を楽しめるものの、読み終えると、それは、狂気ですらないことに気づかされるかもしれない。

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