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脳は不確実性を最小化する推論エンジンだ『脳の本質』

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まず結論、脳の本質は「予測」になる。

脳とは、過去・現在・未来に生じる不確実性を最小化する推論エンジンというのが、本書の主旨だ。

私たちは、感覚データそのものを見たり感じたりすることはできない。知覚できるものは、知識(生成モデル)に基づき「予測」した世界になる。身体の外だけでなく、身体内部の環境を予測するため、感覚データと予測との間に生じる誤差(予測誤差)を最小化するサイクルが稼働している。

私たちはよく、「現在の状態から未来を推論する」というが、その現在ですらリアルタイムに把握しているわけではなく、過去の推論に拠るものだ。刻々と変化する環境において、脳は、ひたすら予測と後付け(予測の上書き)を続ける。「現在」とはそこにあるものではなく、私たち一人ひとりの脳により決定されたものなのだという。

ベースは、神経科学者カール・フリストンの「自由エネルギー原理(Free Energy Principle)」だ。脳の機能をベイズ的推論として捉え、生物の知能を統一的に説明することを目指している。

これまでの研究成果と、そこから生じる疑問をあまりに上手く説明してくれるので、手品のタネを見るような読書となった。

「見る」とは何か

「見る」という行為の説明が面白かった。

私たちが「見る」とき、カメラで撮影した画像を解析しているかのように「見て」いると思っていた。だが単純に画像データを分析して、線や面や光の当たり具合を判別して、そこに写っている対象を認知しているわけではなく、もっと複雑なことをしているようだ。

脳は直接外界を「見る」ことはできない。一方、網膜に写った映像から得られるものは感覚データだ。脳はこのデータを元に、外界の状態を知覚するのだが、ここにベイズ推論が行われている。

脳はあらかじめ「このような状況であれば、こういうものが見えるはず」という事前分布を持っていて、そこに感覚データが入ってくると、それに基づいて「今、何が見えているのか?」という事後分布を推定する。これはまさにベイズ推定の枠組みであり、脳は確率的な推論装置として働いているとも言える。

このとき脳は、「予測(=事前分布)」と「感覚入力」の差(予測誤差)をできるだけ小さくしようとする。この差異を最小にするように内部モデルを更新していく働きが、自由エネルギー理論における「自由エネルギー最小化」と呼ばれる原理である。

私たちが「見る」とき、見る対象といきなり対峙するのではなく、その場所や身体の向き、光源や視覚の状況から「こういうものが見えるはず」が分かっている。一方で、見る対象の一部が何かで覆われていたり、本来の色や形でないことがある。それでも見たものを認知することができる。

例えば、白熱電球に照らされると、白いものはオレンジ色がかっている。しかし私たちは、(オレンジ色に見えてても)白いものだと分かる。あたかもカメラのホワイトバランス調整がされたように認識できるのはなぜか。

それは、脳が「この照明のもとでは、白いものがオレンジがかって見える」という環境モデルをすでに持っているからである。そのため、網膜にオレンジ色の刺激が届いていても、脳は「これは白熱電球のせいだ」と判断し、“本来の色”として白を知覚する。

これは感覚入力をそのまま受け取っているのではなく、脳が状況を加味して予測誤差を修正している結果だ。この一連のプロセスは瞬時に行われるため、普通、私たちは意識の上にすら上ってこない。

優れたバッターは「未来」を打つ

バッティング経験が豊富な打者の例も面白かった。

打者の瞳に映ったボールが視覚野に入力されるまでに0.1秒かかる。さらに、脳からの信号によって筋肉が収縮するまでに0.1秒。つまり、打者が「見た」と思ってから実際に体が反応するまでに、合計0.2秒のタイムラグが存在する。

マウンドとバッターボックスの距離は18.44m。時速150km(=約41.7m/s)のストレートなら、およそ0.44秒でキャッチャーミットに到達する。

つまり、見てから判断して振るならば、わずか0.2秒ちょっとのあいだに、ストレートなのか変化球なのか、どんなコースに来るのか見極めなければならない。人間の処理能力としてはほとんど限界に近く、実際には「見てから判断する」だけでは間に合わない。

にもかかわらず、経験を積んだバッターは、ボールを「見て」いると言う。投手のモーション、肩や肘の角度、指先のリリースの仕方、ボールの初期回転など、わずかな情報を総動員して、球種や軌道を瞬時に「予測」している。いわば、打者の脳は、ほんの一瞬の映像から、未来のボールの位置を計算している。

加えて、打者の体は、運動を先取りするように準備を始めている。構えた状態からの体幹のひねり、バットの角度、手首の使い方、スイングの速度や加速度——それらを実現するための指令は、脳の運動野から発せられ、少し先の未来である「ミートの瞬間」を想定して、筋肉に伝わる。

このとき脳が目指しているのは、「未来の筋感覚」、つまりまだ来ていないはずの感覚を先取りして打ちにいくことだ。これが自己受容感覚(筋感覚)としての「予測」であり、打者の内部モデルがもたらす運動の設計図である。

一方で、打者の腕や体幹の筋肉から脊髄を通って脳へと送られる信号は、現在の身体の状態に関する情報だ。

現在の感覚信号と予測信号の差が予測誤差になる。これがゼロになるように、脊髄の運動ニューロンはリアルタイムで修正を加えながら、わずか数十ミリ秒先の未来に向けてスイングを完成させる。

バッターに限らず、私たちの脳は、身体を動かす前に、未来の筋感覚を予測した信号を発する。運動ニューロンは、筋肉の収縮度合いだけでなく、関節の曲がり具合や曲がる測度、加速度まで符号化している。

これは、実際に身体を動かさなくても、スイングしている人を見た場合や(ミラーニューロン)、自分でイメージする場合でも発せられるという。運動は期待の自己実現といわれるが、私たちは脳だけでなく、身体によっても認知を行っているのだ。

「怒り」の正体

推論エンジンとしての脳は、運動だけでなく、感情についても同じように説明できる。

「感情は伝染する」と言われるが、怒り狂う人を見ていると、こちらも不快な気分になり、怒りっぽくなる。また、呼吸や脈拍など、内臓の状態にも左右されることが多いという。

スタンリーとシンガーによる研究で、被験者にアドレナリンを投与する実験があった。あるグループには、投与される薬剤は血圧や心拍数を上げる作用があるという説明があり、別のグループには何の説明もなかった。

被験者の中にはサクラがいて、投与後の効果を測定する部屋で、わざと皆を怒らせるような言動をする。被験者は自分の感情や生理的興奮度を報告する……といった実験だ。

予想通り、薬剤の説明があったグループの人は冷静だった一方で、説明の無かったグループでは、サクラに振り回され、一緒に怒る人が多かったという。

心臓はドキドキするのだが、その理由が分かっているならば、怒りという感情に至らず、身体に生じていることの理由が不確実である場合は、感情に振り回される。

私たちが感情を言い表す際、「腸が煮えくり返る」「心臓をワシづかみにされる」「肝を冷やす」など、内臓を使う表現が多い。内臓と感情は結びつきがある証左ともいえる。

だが、脳からすれば、直接内臓を把握することができない。血圧や脈拍や感覚データから判断するしかないという点では、身体の外の認知と同様だ。脳は、身体に生じているデータ(内受容信号)から原因を推定しようとする。その予測の差が小さければ何も生じないが、差が大きく、不確実であるほどネガティブな感情―――例えば怒りが生じるというのだ。

実際には、不確実性が増した場合、そのときの感情価(快不快)と覚醒度によって、喜びや恐れ、怒りといった感情につながるという。

脳の推測が期待したものに添わないほど不確実性が増し、ネガティブになるという理屈は、私の感覚にも合う。また、これを逆手に取るならば、怒りが生じたとき(生じそうになったとき)、原因をできるだけ早く突き止めるだけで、怒りを治めることができるかもしれないという考えにも同意できる。

この怒りを観察するという姿勢は、仏教の「正見(しょうけん)」に通じるものがあって面白い([恐怖なしに生きる]に書いた)。

私たちは、絶えず変化する環境に対し、モデルを学習する。このモデルは現在を推論するだけでなく、未来を予測するためにもある。世界を探索し、適応的で予測可能な知識を用いることで、「こうしたらどうなる?」という疑問に答える能力を鍛えている。

予測誤差が生じた場合、モデルを書き換え、記憶し、知識を更新する。それは、過去・現在・未来に起こりうる、推測と現実の差を最小化することで、私たちの究極の目的―――生き延びる―――を実現するというのだ。



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「自分は大丈夫」という人に『だます技術』

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大学を卒業したてのころ、詐欺にひっかかった。

手口はこうだ。

まず、私宛に郵便が来る。

  • あなたの年金保険料に未納があり、受給できなくなる
  • 〇月✕日までに、未納分(4万円ぐらい)を振込め
  • 不明点は、XX-XXX-XXXX(担当者名)まで連絡すべし

宛先の住所氏名は合ってるし、ちょうど親から「4月から社会人なんだから、保険料は自分で払え」と言われたばかりだった。さらに、引っ越しの準備で切羽詰まっていたので、「早く振り込まないと給付資格が失われる」と焦って振り込んでしまった。

なぜ詐欺なのか分かったのかというと、ホンモノの督促状が来たから。引っ越しのドタバタで郵便物や振込控えは失われており、あきらめるしかなかった。

4万円の授業料は高くついたが、このおかげで、「自分はそんなものにひっかかるわけない」と思っていた人生から変わった。

つまり、私の人生には、「詐欺にひっかかる」という選択肢があると思うようになった。そのため、郵便物、メール、美味しい話、個人情報の入力、口座決済、明細や控えなどを、「騙されているかも?」という目でチェックするのが自然になった。

もし、あなたの人生において「詐欺にひっかかる」ことがあるならば、それはどのような選択肢になるのかを解説したのが『だます技術』だ。

  • AIで音声や顔を変えて有名な投資家になりすます
  • 「サッカーの代表試合をリアルタイムで見たいのに間に合わない人」を狙う
  • 期間限定・場所指定で「お得なチラシ」と思わせる
  • ワンタイムパスワードでも騙せるやり方

本書には、24の詐欺の手口が紹介されている。エッセンスだけ抜き出しているから、「こんなのに騙されるわけがない」と思うかもしれない。だが、リアルではもっと巧妙で複雑で、様々なテクを組み合わせて仕掛けてくる。

あるいは「騙されるほどカネ持ってないし」と思うかもしれない。だが、大金ではなく僅かな金額を少しずつ騙し取られていくこともある。「騙されている?」という目で見ないと分からないようにカモフラージュしてくる。

さらには、あなたではなく家族が狙われることがある。どんなにあなたが注意深く気を付けていても、家族から攻略されるなら、防ぎようがない。

そんな現実に、予防保全として本書が役に立つだろう。おそらく、本書で紹介される詐欺の手口はニュース等で知っていることが多いかもしれぬ。だが、騙される側がどのように考えているかは、発見があるはずだ。

生成AIやスマホアプリといった、現代的なものもあるが、基本的な詐欺の手口は変わらない。詐欺チームは、あなたの感情に訴えかけ、認知を歪ませ、判断を誤らせるプロフェッショナル集団だ。巻頭に折り込みがあって、24の詐欺の例が書かれている。キリトリ線で切り取って、家族の目につくところに貼るだけでも、魔除けになるかもしれぬ。

「詐欺にひっかかる」という選択肢が人生に現れたとき、「これ進研ゼミでやった」と言えるようになりたい。

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税とは略奪である『課税と脱税の経済史』

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税の本質は略奪だ。

こん棒を手にしてた昔よりは洗練されてはいるものの、「ある人から奪い、ない人からも奪う」という本質は変わらない。こん棒が別の呼び名になり、略奪システムが巧妙になっているだけ。本書の前半を読むと、様々な試行錯誤と権力闘争の元に、人類の英知を結集し進化してきたものが、現代の税制だということが分かる(不完全じゃんというツッコミ上等。それは人類が不完全である証左なり)。

一方、脱税は多角的な側面を持つ。

上に政策あれば下に対策あり。税回避は、国家の略奪への対抗手段ともいえる。あるいは、政府よりも最適な資源配分をするための経済合理性を追求する行為だ。あるいは、法の抜け穴やグレーゾーンを見出し、そこで資源を最大化する戦略的なゲームだ。本書の後半を読むと、貧民から富豪まで、創意工夫を尽くして進化してきたものが、税回避のいたちごっこであることが分かる(これは人類の歴史が続く限り続く)。

『課税と脱税の経済史』は、奪う側と奪われる側の双方の視点から、古今東西の歴史を振り返り、「なぜ我々は税金を納めるのか」「そもそも税とは何なのか」を炙り出す、いわば「税の世界史」ともいえる。

税逃れの爆笑エピソードから、強制力の行使による無慈悲で残酷な結末、人間の行動心理の裏を衝いたやり方など、豊富な事例を眺めていくうちに、私が囚われている税への偏見と刷り込みが、クリアになってゆく。そこでは、人類の最悪な部分と最善な部分の両方を垣間見ることができる。この知的興奮がたまらない。

源泉徴収制度の「自然さ」と「不自然さ」

税への見方が360度ひっくり返ったのが、源泉徴収だ。

会社が給料を支払う際、予め税金を差っ引いた額が振り込まれる。わたしが受け取る時には税金は徴収済みというわけだ。召し上げられた税金は、会社がまとめて国に納める。取られた税金は、年末調整で返ってくる。面倒くさい確定申告は会社がやってくれる―――そんな風に考えていた。

だが違う。

源泉徴収の起源は古く、ナポレオン戦争の時代まで遡る。もとは、住み込みの使用人の納税義務を主人が肩代わりする制度だった。「賃金を支払う」というプロセスの一環で行われ、使用人一人ひとりから徴税するよりも、効率的に集めることができる。

所得税なのだから、被雇用者である「わたし」に対して課税されるにも関わらず、実際に納付するのは雇用主である故、納税しているという感覚が薄い。こういう巧妙な仕組みを発明したのはどこかというと―――世界史のなかで最も悪徳を積み重ねてきた国とだけ言っておこう。

今では賃金だけでなく、金利や配当、株式売却によって得られるキャピタルゲインの課税にまでこの方式が用いられている。また、途上国では、スマホなどの輸入品にまで源泉課税の対象となっているという。

このように「自然に」納税しているシステムだが、本書を読みながら改めて考えるとヘンだ。こうある。

年末になると年間の税額が再計算され、源泉徴収された金額と照合される。源泉徴収されていた額が過多だった場合、納税者から政府に無利子貸し付けを行ったことと同じことになる。
(『課税と脱税の経済史』p.366より)

この「納税者から政府に無利子で貸し付けられた」という発想は無かった。

言われてみれば確かにそうだ。納税が遅れると、延滞税という形で利子が課される。これは、延滞利息のようなものだ。延滞利息は取るのに、還付金(わたしの給料の一部)の利子は付かないの?

年末調整で返ってくるのは、税金ではなく、わたしの給料だ(「還付金」という別名になっているので、勘違いしやすい)。「わーい、【税金が】返ってきた」と無邪気に喜んでいたが、政府に貸してた【わたしの給料が】返ってきたのだ。だから、利子の一つも貰いたいもの―――と発想が転換される。それほど長期間でもないし、微々たるものかもしれない。だが、会社全体、いや、法人全体からすると、結構な額になるだろう。

こういう風に考えられてしまうのは、政府にとってかなり都合が悪かろう。

源泉徴収制度は、戦費調達のために1803年のイギリスを皮切りに世界中に広まった。アメリカの源泉徴収制度の設計者の一人であるミルトン・フリードマンは、後に大いに後悔したという。

「反乱を引き起こすことなくここまでの増税が可能になったのは、政府が国民の金を、彼らが目にする前にとりあげているからだ」
(『課税と脱税の経済史』p.368より)

数百年かけて浸透し、当たり前のように運用され、この制度ありきで世の中が回っているため、いまさら異を唱える方が異常なのかもしれない。だが、本書を通じて知った源泉徴収制度に対する不自然な感覚は、忘れずにいたい。

経済学者もお手上げの税の帰着問題

税の帰着問題は、税の負担が、最終的に誰に行き着くのかを特定する問題だ。

課税が企業や市場や投資家や消費者にどのように影響を影響を与えるのかが見えにくいため、厄介な問題だという。

ん?簡単じゃん。

税は、ものごとや人に対して課税される。だから、その「対する」ものが、税の名前の由来となっている。名は体を表すというように、税金の名前を見れば一発でしょう―――と考えていた。

だが、わたしの考えは甘いようだ。

例えば、一般的な法人税について。「法人」に課税するのだから、株式会社だったら株主が最終的に負担する……のではない。

利益に対する法人税が引き上げられると、短期だと株価が下がって株主がワリを喰う。だが、長期で見ると利益水準が低下するから、投資先としての魅力が減る。株主や投資家は、より税負担の小さい分野の企業や、海外の投資先を代替するので、税負担は感じにくいという。

法人税課税を行なう国においては資本ストックが減ることになり、そのために労働生産性が下がり、やがて賃金率も下がる。いずれにせよ、法人税の負担を引き受けるのは富豪ではなく、彼らに雇用されている勤勉な労働者である。
(『課税と脱税の経済史』p.207より)

他にも、より税負担の小さい小規模法人へ企業体を変えたり、租税回避のために負債を増やして資本を調達するという手もあるという。借入金の利息は損金になるので、(税引き前の利益が減るので)税率が引き上げられたとしても影響を受けにくい。

もちろん、シナリオ通りに進むとは限らない。だが、「法人税の最終負担は株主」という図式は一面的であり、著者によると、「法人税の帰着は闇の中」だという。

税の名前が、最終的な負担者だという発想は安直すぎる。

最近だと、トランプ大統領による関税200%のニュースがあった(朝令暮改に終わったが)。特定の産業を保護する意図があったかもしれないが、税の帰着先を考慮せずに強行した場合、短期的には米国内の消費者への負担増や、(米国を含む)経済全体への悪影響が起きていただろう(そして、歴史に学ばないケーススタディとして、経済学の教科書がさらに厚くなっていただろう)。

法に触れない税回避(ただし大企業に限る)

節税ネタや脱税の話が満載だが、庶民レベルだと涙ぐましい話になる(そしてオチは残酷なものが多い)。一方、多国籍企業の有名どころがやっている税回避は、様々な法の目をかいくぐる、高度な知能ゲームのように見えてくる。

例えば米国のここ。

場所は、デラウエア州ウィルミントン市北オレンジ通り1209番地だ。なんの変哲もない建物が見える。だがここには、28万5,000もの企業が入居しているという。

デラウェア州は法人税率が低く、特に法人に対する税制優遇が充実しているため、税負担を軽減するために、ここに本社を置くことが多い。さらに、法人の設立手続きがネットで完結し、匿名性が保持され、連邦税法からも回避できるというメリットがある。

いわゆるタックス・ヘイブンなのだが、本書ではタックス・サンクチュアリと呼んでいる。ヘイブン(避難所)ではなくサンクチュアリ(聖域)という方が、ネーミングセンスがあるといえる。法人税を納める必要があるのなら、可能な限り低税率である場所で納めるほうが、結果的に安く済ませることができる。それだけでなく、連邦法や国際法の司直の手が届きにくいという意味でも、聖域なのだろう。

税回避の基本レシピはこうだ。

世界を見渡すと、税率の低い国と高い国がある。税率の低い国にある子会社Aで資金を調達して、税率が高い国にある子会社Bへ貸し付ける。

子会社Bは、貸付金の利息をAに支払う必要があるものの、利息は経費として計上できるし、税控除の対象となるため、法人税の負担を圧縮できる。

一方、子会社Aは、利息の収入が得られる。この収入には税が適用されるが、そもそも税率が低いため、企業グループ全体として節税ができるという仕組みだ。

移転価格操作と呼ばれるこの手法、さすがにあからさまなので、各国の税務当局にもバレバレだろう。だが、カネではなく、株式や出資などの所有権を提供したり(エクイティファイナンス)、特許や商標などのロイヤリティをやり取りにするといった形にすることで、ある程度の偽装は可能だ。

この手法で、イギリスのスターバックス社は、およそ30億ポンド(4,200億円)に対し、納めた法人税は860万ポンド(12億円)に留めていたという。商標のロイヤリティはオランダの関連会社に支払い、コーヒー豆や焙煎の代金をオランダやスイスの子会社に支払うことで、スターバックス本体は借金まみれにする―――2013年に明るみになったこの手法は、「限りなくグレー」と言われている。

こうしたサンクチュアリについて、ちょっと邪悪な発想を思いついた。

こんな狭い場所に「本社」が集中しているならば、放火や爆破といった「事故」を意図的に起こすことで、名目上は本社機能を停止させることが可能だ。

株は一時的に下がることは明白だから、下がった瞬間に買い、回復したら売ればいい。28万5,000もの企業に及ぶから、その差額は莫大なものになるだろう。実際に爆破しなくても、「爆破予告」だけでも効果が見込まれる(ジョン・グリシャムあたりが既に書いてそう)。

マルサの女

本書は、元IMF財政局次長マイケル・キーンと、公共政策を専門とする経済学教授ジョエル・スレムロッドの共著になる。

そのため、フィクションへの言及があまりなかった。史実の方が小説より奇なりだったのは、リアルの人は、「フツーこんなことはやらんやろ」という馬鹿なことをしでかすから。

なので、本書にフィクション作品を加えたい。史実や現実がこれほど馬鹿馬鹿しい&面白いのだから、脱税をテーマにした作品は、必然的に面白くなる(はず)。日本の税制にも詳しい著者たちにお薦めしたいのはこれ(ひょっとして観ているかもしれないが)。

脱税摘発の超プロフェッショナルであり、日本のタックス・ポリス―――国税局査察部―――人呼んで、彼らをマルサという。

マルサ(税務調査員)として働く女を主人公に、コメディと社会派を融合させた映画だ。脱税する人々をどうやって炙り出し、摘発まで持っていくかを緻密に、執拗に描いている。これ観てきた昭和のオッサンなら、脱税は割に合わないと身に沁みる一方で、旨い汁を啜っている人はカメラにすら写らないんだなーと学習していることだろう(私含む)。

あるいは、スコセッシ監督の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』とか、ケビン・コスナー主演『アンタッチャブル』、トム・クルーズ主演『法律事務所』が浮かぶ。

本書は、経済史という体裁を取っているものの、そのサブタイトルに「【悪】知恵で学ぶ租税理論」がついてくる。これに脱税をテーマとしたフィクションをラインナップとして付ければ、『脱税大全』と銘打ってもいいだろう。

税とは略奪だ。やり方は変わっても本質は変わらない。奪われる者、抵抗する者、逃げる者、隠したりごまかしたりする者、『課税と脱税の経済史』には、人類の英知と不完全さ、そして馬鹿さ加減が詰まっている。

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古事記は音読すると面白い『口訳 古事記』(町田康)

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「音読」をテーマにしたオフ会でお薦めされたのがこれ。

日本最古の歴史書であり、神話と伝承の源泉である古事記。とっつきにくいイメージがあったが、河内弁でしゃべりまくったのが町田康の『口訳 古事記』になる。

町田康の文体って、リズム感があって、言葉に勢いがある。大量殺人事件「河内十人斬り」を一人称で描いた『告白』には独特のグルーヴ感があり、ハマると止められない中毒性の高い徹夜小説だった

だから彼の小説は、音読すると面白さマシマシになる。漫才のようなノリツッコミや、寄席のような口上は、声に出して読みたい物語なり。例えばこれ、日本最凶の問題児・スサノオノミコトがスーパーサイヤ人よろしく空を飛んでくるシーンだ。

なにしろ泣くだけで山の木が枯れ海が干上がるほどのパワーの持ち主がもの凄いスピードで昇っていくのだから、コップが落ちた、茶碗がこけたみたいで済む訳がなく、震度千の地震が揺すぶったみたいな感じになって、山も川もまるでアホがヘドバンしてるみたいに振動、国土全体が動揺してムチャクチャになった。

このことがすぐに天照大御神(アマテラスオオミカミ)のところに報告された。

「ご注進、ご注進」
「何事です、騒騒しい」
「えらいこってす、芦野原中国(アシハラノナカツクニ)が動揺してムチャクチャになってます」
「マジですか」
「マジです」

一つ一つの行動が災害級の大迷惑で、読んでる方が「どうすんだよこれ」と呆れていると、「マジですか」「マジです」とすっとぼけた会話でシメる(これ、狙ってやってるリフレインだな)。なお、カミサマの名前の読みはルビがふってあるので安心して音読できる。

声に出すのも憚られるような、糞尿・ゲロ・おっぱい・女陰・エログロ描写が丸だしで、ゲラゲラ笑いながら音読する。ギャグ漫画よりもマンガ的で、神話だから規制無しで、しかもカミサマだからなんでもあり。

ぶっ飛んだストーリーなのだが、さすが神話、どこかで聞いた話と繋がるのが面白い。

例えば、お供えのために、オオゲツヒメという女神が料理を任される。オオゲツヒメは、自分の鼻や口や尻穴からひり出したもので食事をこしらえるのだが、どう見ても鼻汁・ゲロ・糞尿なので、スサノオノミコトが激怒して殺してしまう。

すると不思議なことに、女神の屍骸から穀物が生えてくる。具体的には、眼から稲、女陰から麦、尻穴から大豆が生えてくるのだが、これ、インドネシアのハイヌウェレ神話と酷似している。

ハイヌウェレは尻から大便ではなく食べものをひり出す少女で、彼女を気味悪がった村人から殺されることになる。少女の死体からは多種多様なイモが生えてきて、その地域の主食となったという。

生命を生み出すのは女性。その死体から食べものが生えてくるという食物起源神話は、赤坂憲雄の『性食考』で知った。生きることと食べることの源を女に求めるのは、考えているよりも普遍性を持つのかもしれぬ。

Wikipedia[ハイヌウェレ型神話]より

XRF-Hainuwele

By Xavier Romero-Frias (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

また、女陰を見せつけて大騒ぎするシーンがある。天岩戸に隠れたアマテラスを呼び出す宴会の件だ。天宇受売命という女神が踊り狂ってトランス状態となる。

踊るうちに、玉やら鏡やら神聖な御幣やら、後は祝詞の力、天の香山の木や草の力やら、後は桶の律動的な拍子、踊りそのものなどが合わさって、天宇受売命(アマノウズメ)は神がかって、思考がなくなり神の力そのものとなって、のけぞって衣服の前を両手で左右に引っ張って乳を丸出しにし、それから、下半身に巻いた裳を結んだ紐を押し下げ、腰を前に突き出した。

その結果、女陰が丸出しになった。

その乳と女陰が丸出しになった状態で、首を振り、頭につけた蔓草を振り乱し、手に結んだ笹を振り回し、なお踊り狂った。

神々が集い、天地を揺るがすほどの大爆笑の騒ぎに、「なんだろう?」と気になるのは仕方ない。気になったアマテラスが岩戸を少し開けた後のお話はご存知の通り。問題はヴァギナ・ディスプレイになる。

女性器の世界史とも言えるブラックリッジの『ヴァギナ』で知ったのだが、古今東西、女陰には、魔物を祓い、幸運を呼び込むパワーがあると信じられていた。

ヨーロッパやアジアの神話において、女性がスカートをたくし上げることで、敵を威嚇したり、荒ぶる海を鎮めたり、戦争において士気を高めたという伝承が多々ある。クールベの『世界の起源』の通り、お釈迦様を除いた人類の源なのだから、そこに神秘性を見出すのは、普遍的なものなのかもしれぬ。

こんな風に、破茶滅茶で奇天烈なのだが、どこか懐かしさを覚えつつ読み上げる。アタマで読むのではなく、ボディで味わう感じ。詩のような歌のような呪文のような神々の名が、最終的には地名や言葉の由来となる。自らの正統性のエビデンスとするために編まれた物語が、これほどのエンタメになるなんて。

まさに音読するための一冊なり。

なお、ビジュアルで古事記を攻めたいという方には、こうの史代『ぼおるぺん古事記』をお薦め。ボールペンだけで書かれた絵物語とでもいうべき古事記。エロもグロもエッチなところも余さず丁寧に描かれているのがいい。

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「悪の美学」――魅力的な悪役の作り方『荒木飛呂彦の新・漫画術』

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「悪役が物語を面白くする。魅力的な悪役がいることは名作に欠かせない条件だ」―――累計発行部数で1億2千万部を超える『ジョジョの奇妙な冒険』の作者・荒木飛呂彦は、こう喝破する。

優れた知性やカリスマ、才能と意志の強さ、あるいは独自の哲学を持つ悪役は、単なる「倒されるべき存在」ではない。バットマンに対するジョーカー、ルークにとってのダースベイダーのように、主人公との対立構造をよりドラマティックに仕立て上げ、物語の魅力を大きく引き上げる肝と言える。

しかも、悪役は人である必要はない。荒木先生に言わせると、あらゆる物語は「主人公 vs. 悪役」の構造になっている。主人公の目的や望みを阻むものであれば、なんであれ「悪役」とすることができる。ドキュメンタリーなどでは、社会システムや法制度が「敵」になることだってありうる。

なぜ「悪役」か?

悪役とは、主人公がぶつかり、対峙し、乗り越えるべき困難を体現している存在であり、その障壁が巨大で強大であればあるほど、作品は面白くなる。そのためにも悪役は徹底的に「悪」で「強い」という設定にするのが基本になるという。

僕は『ジョーズ』(1975)が大好きなのですが、何度観ても「素晴らしい!」と思えるのは、海の王者としてのサメを凶悪な殺人兵器のように描き、その圧倒的な恐怖を「これでもか」とばかりに表現しているからだと思います。

確かに!信じられないほど巨大かつ凶暴で、人肉の味を覚えてしまったホオジロザメが、ひたすら怖かった。ただデカいだけではなく、用心深く狡猾で、人間が仕掛ける罠を見抜くほど頭がいい。

『ジョーズ』は、鮫のパニック映画というのでは不十分で、圧倒的に勝てない状況で悪意を持った怪物と対峙する恐怖を描いた物語といえる(最初に見た時、沈みゆくオルカ号のシーンで絶対に勝てないと絶望した)。最近なら『ゴジラ -1.0』で、その絶望を踏まえた上でさらに絶望を上書きする仕掛けになっている。

悪役は、単に強いだけでなく賢く狡猾でなければならない。必ず主人公とセットで考えて、主人公の一歩も二歩も先を行き、読者や観客を「どうやって勝つんだこんなヤツに……」と絶望させなければならない。

悪役が強くて賢く圧倒的であればあるほど、それを乗り越える主人公が輝く。絶望的な状況を逆転するカタルシスに読み手は歓喜する。物語を面白くする要素や仕掛けは多々あれど、「良い」悪役こそが人気の要だ―――『ジョジョ』に登場する強烈な悪役であるディオ・ブランド―や吉良吉影を生み出した荒木先生が言うと、説得力が増す。

ディオ・ブランド―の作り方

では、この「良い」悪役は、どうやったら作ることができるのか?『荒木飛呂彦の新・漫画術』は、悪役の作り方を中心に、面白い漫画やストーリーの秘密を開陳する。

本書を唯一無二にしているのは、ディオ・ブランド―や吉良吉影をどうやって作ったのかを、具体的かつ実践的に解説している点だ。「いわば企業秘密を公開するに等しい」と言われている理由はここにある。

まず、悪役は、主役とセットで考えろという。悪役を魅力的にするために、主人公をどういうキャラクターにするのかが軸になるという。『ジョジョ』第一部では、主人公はジョナサン・ジョースターになる。

そして、必ずしも「善と悪」を拮抗させる必要はないという。ディオのように強烈なキャラにすることもできたが、そうしてしまうと、読者との乖離ができてしまう。

だから、平凡な役回りで、ホームズにおけるワトスンのような「基準点」という位置にしたという。『ジョジョ』第四部の康一くんのような、読者と同じ常識を持っているキャラクターという「ゼロ地点」があるからこそ、そこに悪とのギャップの激しさが浮き彫りになるという。

そうした上で、主人公には絶対に勝てないような強さ、美しさ、カッコよさ、知性、才能を対比させていったという。作品には表現しない可能性があるが、家族関係や生い立ちも考えたという。

そうしたキャラのバックグランドを「身上調査書」としてまとめる。身上調査書とは、キャラの特徴をまとめたもので、名前や身長・体重、出身・経歴といった属性から、性格や生い立ち、将来の夢、何を恐れているのかといった思想的なものまで考える。いわばそのキャラクターの世界観を一貫したものにするペーパーだ。

当時の身上調査書は失われているらしいが、記憶で再現してもらったものがこれになる。

Dio

身上調査書を記入していくことで、ディオ・ブランド―の存在が浮かび上がっていくという。「性格」の欄を埋めていくと「嘘と虚飾」「支配」「排除」といった言葉が並んでいく。

要するにディオはパラサイトなんです。自分の本心を隠してジョースター家という貴族に寄生し、奪えるものを奪いながら、乗っ取っていく。そのときジョナサンが邪魔なので、排除しようとすわけです。そこから、ジョナサンとディオの戦いが始まっていきます。

ディオの悪役がハマっていくことで、「吸血鬼」のアイデアとつながっていったという。当時の『少年ジャンプ』に連載されていたのは、『ドラゴンボール』『キン肉マン』『シティハンター』といった名作&傑作揃いで、その中で自分の個性を出していくためには、ジャンプで誰もやっていないダークな世界につなげる存在が必要だと考えたそうだ。

当時の編集部は、時代を反映してか、もっと明るくイケイケの世界を描くようアドバイスがあったという。しかし、身上調査書のディオとのキャラとは合わないため、自分の意志を貫き、最終的に「吸血鬼」になった。もし、編集部の圧に負けていたら、おそらくジョジョはこれほどメジャーにはならなかっただろうし、本書も無かったと思うと感慨深い。

こんな風に、ディオ・ブランド―を始め、吉良吉影、ファニー・ヴァレンタイン大統領といったジョジョの歴代悪役の身上調査書を公開しながら、どのように悪役を作っていったかを解説する。

悪役の哲学

面白いと思ったのは、悪役を作るときは、その時代時代の価値観が反映されている点だ。

例えば、吉良吉影のデザインには、バブル経済が終わり、「アゲアゲのキャラクターはちょっと違う」という感覚が反映されている。ディオのような最強のカリスマといった、ある意味分かりやすい敵とは一線を画し、日常の中に潜んでいるヤバい悪を目指したという。

これは、猟奇的殺人鬼レクター博士が登場する『羊たちの沈黙』(1991年)や、コリン・ウィルソン『殺人百科』のシリアルキラーが該当する。どこにでもいる普通で目立たずに生きながらも、残虐な罪を犯す存在こそが、時代に相応しい悪役になる。

そして、ジョジョに限らず、その作品が生まれた時代ならではの、カルチャー的な「悪」に目を向けよという。

本書で紹介されているのは、大英帝国の時代を生きたアガサ・クリスティーやコナン・ドイルの作品になる。注意深く読むと、謎やトリックの話を書いているように見えて、その背後には帝国主義が生み出した闇が存在しているという。

それは、ひたすら利益追求を目指すイギリス商人の強欲さだったり、彼らに蹂躙された新大陸の呪いだったりする。そういう時代の影のようなものまでも描くことができるのであれば悪のキャラクターに深みが出てくるという。

このように、悪役には「悪とは何か」という問いに対する、作者の哲学が反映されているというのだ。正しさに相対する悪をとことん考えることによって、「良い」悪役を生み出す―――これが、悪役の作り方の基本になるという。

この考え方は面白い。私は作品を享受する側だが、悪役を通じて作品の価値観のベースラインを伺い知ることはある。

一般に、正義というものは、普遍的な価値観として語られることが多く、一貫性を求められるために画一的で変化に乏しく、いわゆる「お約束」になりがちだ。

一方、「悪」というものは、その時代や社会の価値観に応じて形を変え、個性的な存在として描かれることが多い。怪物的な存在だったり、退廃的で道徳的な側面がクローズアップされたり、あるいは、社会的な格差や構造そのものを「悪」とすることだってできる。

悪には、その時代時代において抑圧された欲望を体現する自由がある。昔は「家父長制」から「ジェンダー優位」「多様性の尊重」まで、それぞれの時代の「お約束」を守らなければならない正義とは異なり、「悪」は計算高く変化し、社会の不条理を衝くことができる。

例えば、「女が自由に生きること」が抑圧されていた19世紀では、若い女を誘惑する吸血鬼は、伝統的な家父長制を揺るがす「悪」として機能していた。あるいは、消費社会において飼い馴らされた男性性を暴力で破壊する『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンは、「良い」悪役と言えるだろう。

正義という秩序の外側に悪を相対させ、その葛藤が物語を動かす。立ち位置の象徴が、主人公と悪役であり、両者の乖離が激しく、悪が絶対的であるほど、その時代に生きる私たちは、物語を面白く感じるのかもしれない。

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