めちゃくちゃ笑った後で「美とは何か?」「ホンモノとは?」と悩まされる『モナ・リザのニスを剥ぐ』
「チェーホフの銃」という小説技法があるが、これは大砲だった。
「序盤で銃を出したら、それは発砲されなければならぬ。さもなくば最初から出すな」というお約束だ。ストーリーの早い段階で導入された要素は、後々になってその意味なり重要性が明らかになるというやつ。
そういう意味では、この作品は銃だらけだ。
「モナ・リザ」のニスを剥ぐという、ルーブル美術館始まって以来の歴史的なプロジェクトが物語の主軸となる。ただし、そこに集まってくる人たちが癖だらけでなかなかに危うい。
カネの亡者でビジネスチャンスとする館長、巧緻の限りに世論操作に奔走するマッキンゼー&カンパニーの面々、カリスマ天才修復士と美人妻(2名)、モナ・リザにガチ恋してしまった清掃員など、どいつもこいつもヤバい奴らだ。
でも、「モナ・リザ」のニスを剥ぐとはどういうことか?
実は、「モナ・リザ」には何層ものニスが塗られている。作品を保護するためなのだが、同時に、色鮮やかにする効果もある。だが、長い時間の経過により、ニスが変質して作品を緑がかった暗い色にしてしまっている。ニスの上塗りで発色は良くなるのだが、一時的なものだ。
だから、繰り返し塗られたニスの層により、私たちが見ている「モナ・リザ」は暗い霧の奥にいる。
これを救い出そうとする試みは何度も検討されてきた。だが、経年劣化でひび割れだらけのポプラ板や、顔料層を傷づけるリスクが大いにあった。歴史的・文化的な価値が極めて高く、現実のルーブル美術館は、修復を避け、温湿度が管理された特殊なケースの中での保存を優先している。
だが、フィクションのルーブル美術館長は、カネ儲けの為に、主任学芸員オレリアンに命じる「やれ」と。古きよきものを愛する彼だけがまともに見えるのだが、いささか心もとない。修復に反対する世論、返還の要求をし始めるイタリア、政府や国家を巻き込んだ騒動に巻き込まれ、絶対に失敗してはいけないプロジェクトを任される。
この「絶対に失敗してはいけないプロジェクト」というのがミソで、こんなん、小説作品として描かれるなら、「押すなよ、絶対に押すなよ!」に決まってるじゃん。登場してくる連中はほぼ全員どこか変だし、なにかやらかしてくれる予感しかしない。
そういう意味でチェーホフの銃だらけなんだけど、すごい意味で裏切られてよかった。銃じゃなくて大砲に撃たれ、息できなくなるくらい笑って涙で読めなくなった。
これ読む人へのアドバイス。手元にスマホがあるといいかも。
「なぜスマホ?」といぶかる方もいるかもしれないが、要所要所に美術作品が散りばめられており、検索したくなるはずだから。
カネの亡者の館長はユレヒトの「リューベックの若き女性の肖像」になぞられ、文化省の官僚に呼び出されて行く先にはピュランの円柱が立ち並ぶ。ポンピドゥーセンターの醜悪さのネタは何度も擦られ、メッシーナの「受胎告知」のポーズがハマるシーンもあれば、『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンのサングラスも出てくる。著者によるオマージュやトリビュートの遊びだけれど、検索して見ると、小説内描写と不思議とピタリとハマるだろう。
スマホの小さな画面にスクロールされる膨大なコンテンツがある。youtubeのまとめ動画と、ルーブル美術館に展示されている名画が、同じサイズのサムネイルで並んでいる。その中で「モナ・リザ」はどのように位置付けられるのか。ルーブル美術館やダ・ヴィンチの業績といった歴史的文脈から切り離され、視覚の洪水の中でアイコンとして見える「モナ・リザ」は、あの笑顔でなければならない―――そう感じるかもしれぬ。
同時に、私はなぜ「モナ・リザ」が好きなんだろう?「モナ・リザ」の何を美しいと感じているのだろう?とマジ考えさせられた―――本書をラストまで読めば、答えはすぐに思い至るのだけれど、それって本当に「美」なのだろうか?という恐ろしい疑問が待っている。
最近のコメント