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傑作を名訳で『アメリカン・マスターピース 準古典篇(柴田元幸翻訳叢書)』

N/A

名作オブ名作。

単に素晴らしい作品と称されるだけでなく、時代を超え場所を超え、普遍的に良きもの、「〇〇といえばこれ」とまで言える傑作を、敬意をこめて「マスターピース」と呼び、集めたものがこのシリーズだ。

なので、知ってる作家なら知っている作品だと思いきや、未読を並べてくれるのが嬉しい(私の見聞不足かもしれないが)。パワーズ、オースター、エヴンソン、エリクソンと、この人のおかげで出会えた傑作も数知れず、感謝しかない。多くの小説を翻訳し紹介してきた柴田元幸が推すから信頼できる。

ヘミングウェイ「インディアン村」

私にとって衝撃的だったのが、ヘミングウェイの短編「インディアン村」だ。いろいろ読んできたつもりだが、これは読んでいなかった(つまり、これが収録されているデビュー作『われらの時代』を読んでなかった)。

形容詞を徹底して排し、簡潔で、ぶっきらぼうに紡がれる物語は、一見、何が起きているのか判別しがたく感じられる。だが、会話の端々や、主人公が「見ているもの」を注意深く読み解くと、蠢いている感情やドス黒い苦悩に、直接、触れことができる。

原文は平易で簡素で、難しい単語はほとんどないのに、この機微を汲むのが難しい(つまり、私の英語力が足りない)。原文で読んでもピンとこなかったこの感触を、見事な訳文で伝えてくれる。

少年がある出来事を眺めるシーンがあるのだが、原文の ”It all took a long time.”「何もかもすごく時間がかかった。」と訳しているのが凄い。彼が何に立ち会っているのかは、父が医師であることと、それまでの短い会話から理解できる。

しかし、具体的に少年が見ている人の姿勢や動き、使われているモノについての描写は、一切ない。会話と動作を手がかりに、「何もかも」を想像するほかないのだが、それがめちゃくちゃ生々しい。書いてあることで書いてないことを掻き立てるスタイルについて、ヘミングウェイは最強なのかもしれない。

フォークナー「納屋を焼く」

「納屋を焼く」は、緊張感に満ちたフォークナーの短編だ。寝る前のお楽しみに、布団の中で一篇ずつ読んでいたのだが、これだけは読んでいるうちに布団から出て座りなおした。

破壊的な父とその支配に抗う息子との葛藤を縦軸に、家族の絆と正義の問題、アメリカ南部の階級社会間の対立が織り込まれている。

フォークナー、肝心なところは目的語を省いたり、動作や断片的な会話だけで炙り出そうとする。切羽詰まった状況なのに、どういう危機が迫っているのかを掴むため、何度も同じところを繰り返し読むことになる。読みやすく、流れるような文体なので、もどかしさは一層つのるような仕掛けになっている。

破壊と再生の象徴的な火、すなわち納屋を焼く炎は直接的には描かれないものの、シルエットのように絶望を浮かび上がらせている。

かつて、「アメリカン・ドリーム」と呼ばれていた自由とチャンスの国は、現在、極端な貧富の格差や不平等といった問題に直面している。

でもこれ、フォークナーが100年前に描いた姿と本質的に変わっていないように見える。テクノロジーや経済の進歩がある一方、根本的な不平等は構造として残り続けていることが分かる。フォークナーを【いま】読むのは、この怒りの炎が現在でも燻り続けていることの確認かもしれぬ。

ラルフ・エリスン「広場でのパーティ」

これはすごい。

ひとりの黒人を、集団の白人がリンチする一部始終を物語ったものなのだが、その語られ方がすごい。

広場に集まった白人たち(銃で武装している)と、その視線に晒され、縛られ、ガソリンをかけられる黒人の様子が、一人の少年の目を通じて語られている。残虐な行為が、まるで日常の延長の非日常―――お祭りかパーティのように、淡々と「普通に」語られている。

白人たちの一人一人の顔と名前はハッキリと区別され、普段の良き市民としてのエピソードが語られているのに、「パーティ」の間は興奮した一つの群衆として扱われ、非人間的なものとして描写される。

しかも、「パーティ」は暴風雨に見舞われ、飛行機が墜落し、衝撃で電線が切れ、白人女性が感電死する。白人の焦げ臭い肉は淡々と処理された後、人々は再び、燃え上がる黒人男性を取り囲む。この、異常なものを普通に語るディストピア感がすごい

そして、この舞台設定となった1920年代からまだ100年しか経っていないことにも注意を向けるべきだろう。人種差別や階級間の対立は今なお続く構造的な問題であり、黒人やマイノリティを「敵」として描くスケープゴート化は、歴史的に繰り返されてきたことを改めて思い知らさせてくれる。

他にも、有閑マダムのマウンティングが意外な過去を暴くウォートン「ローマ熱」や、ユーモアすれすれのグロテスクな運命を描いたウールリッチ「三時」など、読ませる名作ばかりが並んでいる。

シャーウッド・アンダーソン「グロテスクなものたちの書」
アーネスト・ヘミングウェイ「インディアン村」
ゾラ・ニール・ハーストン「ハーレムの書」
イーディス・ウォートン「ローマ熱」
ウィリアム・サローヤン「心が高地にある男」
デルモア・シュウォーツ「夢の中で責任が始まる」
コーネル・ウールリッチ「三時」
ウィリアム・フォークナー「納屋を焼く」
F・スコット・フィッツジェラルド「失われた十年」
ラルフ・エリスン「広場でのパーティ」
ユードラ・ウェルティ「何度も歩いた道」
ネルソン・オルグレン「分署長は悪い夢を見る」

最後に。フィッツジェラルドについては、傑作と名高い「リッチ・ボーイ」「バビロンに帰る」ではなく、「失われた十年」が収録されている。編訳者あとがきによると、「リッチ・ボーイ」「バビロンに帰る」は、村上春樹が既に名訳をものにしているため、自身で訳し直すことに意義が持てなかったからだという。フォークナーの「あの夕日」も同様で、平石貴樹による翻訳が無かったら、「納屋を焼く」とどちらを選ぶかで迷ったと述べている。

これ、見方を変えるなら、「リッチ・ボーイ」「バビロンに帰る」が収録されている『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』や、「あの夕日」が収録されている『アメリカ短編ベスト10』が、次のお楽しみとなるに違いない。



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