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アメリカ文学の最高峰であるフォークナー『響きと怒り』を読んだので、可能な限り言語化してみる(脳汁は出た)

N/A

二十世紀アメリカ最高の作家と評されるウィリアム・フォークナー。

その最初の傑作である『響きと怒り』を読んだのだが、正直これ、面白いと言っていいのか、分からない。

1回目の通読に、何度も読み直しさせられたり、辻褄の合わないフレーズを理解するのに苦労させられた(後にそれはフォークナーの超絶技巧であることが判明する)。仕掛けだらけの難解さに加え、同名の別人が登場し、読み手の混乱に拍車をかける。

「この”クエンティン”って、あのクエンティンだよな?」などと呟きながら、行ったり来たりするうちに、散りばめられたピースが組み合わさり、物語の全容が浮かび上がってくる。300ページの長編小説を読み通すのに一週間もかけたのは珍しい。

さらに、全てを読み終えたいま、改めて1ページ目から読み直している。河出書房の新訳だけでなく、岩波文庫とも読み合わせながら読む。歯ごたえはあるものの、噛みしめると滋味あふれる、中毒性のある読書なり。

意識の流れを体感する

第一印象を一言で表すと、ピカソのヴァイオリンだ。

Pablo Picasso, 1912, Violin and Grapes, oil on canvas, 61 x 50.8 cm, Museum of Modern Art.jpg
By Pablo Picasso - [1], PD-US, Link

「ヴァイオリンと葡萄」パブロ・ピカソ、1912

ヴァイオリンがどんなものかなんて、みんな知っている。写真でも実物でも、いくらでも見ることができるから。だが、「ヴァイオリンとは何か?」「ヴァイオリンを『見る』とはどういうことか」を考える時、私たちはヴァイオリンの様々な側面―――渦巻きのあの形、胴体の木目や弦、特徴的なf字孔―――などを思い浮かべる。

ピカソのヴァイオリンは、そうした断片を組み合わせて、手で触れられそうな立体を構造化するゲームをしている気にさせられる。キュビズムは、様々な側面から表現したモチーフをキャンバスという同一平面上に展開している。多視点を融合し、形態の断片からの再構築を促している。

フォークナーは、ピカソが絵画でやったことを、小説でやっている。

つまりこうだ。『響きと怒り』では、キャディという女性がヴァイオリンになる。20世紀初頭にアメリカ南部の没落貴族に生まれ、性的に自由奔放でありながら母性的な魅力も併せ持ち、崩壊する一家の象徴のような女だ。

物語の中心でありながら、直接的な語り手としては登場しない。なおかつ、物語の進行とともにキャディは一家から遠ざかり、その不在だけが強調されるようになる。

彼女は、三人の兄弟(ベンジー、クエンティン、ジェイソン)の目を通して語られる。愛情と安心の源泉だったり、純粋さと葛藤の対象だったり、一家の没落の原因として語られるのだが、各人の思いや立場によって歪んでいる。そのため、信頼できない語り手として読み解くしかない。

彼女のイメージ、声、におい、触れた感じを呼び覚ますさまざまな縁は残されており、それらをトリガーにして記憶が蘇り、語り手の「いま」の内面に、描写に、直接挿入されてゆく。時間や論理は線形ではなく、フラッシュのように瞬く。「意識の流れ(stream of consciousness)」というやつだ。

ピカソは各部分の断片からヴァイオリンを描いたが、フォークナーは三人の意識の流れからキャディを描く。読み手は、三人の断片からキャディの存在と不在をありありと感じ取ることができる仕掛けになっている。

『響きと怒り』の難解なところ

その一方で、読むほうにも骨折りを必要とする。咀嚼しやすい一口サイズに調理された文章を期待すると、ひどく難解に感じるだろう。

まず、冒頭からしてよく分からない。

くるんとした花がさく場所たちのあいだの、柵のすきまから、打っている人たちが見えた。その人たちは旗があるところに歩いてきて、ぼくは柵にそって歩いた。ラスターは花の木のそばの草のなかでさがしていた。その人たちは旗をぬいて、打っていた。それから旗をもどして、テーブルに行って、一人が打って、もう一人が打った。

すぐに分かるのは、この文章に目的語が無い点だ。「何か」を打ったり、「何か」をさがしているのだが、それが何なのか書かれていない。読み進めていくうちに、打っているのはゴルフボールで、探しているのは25セント玉なのは分かるのだが、この章では、目的語―――すなわち、人物の意図や動機を推察するワード―――が欠けている。

しばらくすると分かるのが、第一章の語り手はベンジーで、三十三歳で、知的障碍者であることだ。まともな会話ができず、うめいたり叫んだりするだけだ。もちろん言葉なんて知らない。そんな障碍者が語り手となったとき、どのような読書体験となるのか?フォークナーは、ベンジーの見たもの、聞いたことを「そのままの形」で描写することで再現する。

しかも、何かがおかしい。ひとつの語りの中で、冬の描写や春の情景が連続してつむがれている。ベンジーのお世話係の名前も違う。子ども時代としか思えない出来事も、「いま」として語られている。太文字で印字されている箇所が、過去の回想なのかと思いきや、その過去も複数に飛び飛びなので、いつの話なのか分からなくなる。

一見、ランダムに切り替わる場面転換は、ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』を彷彿とさせる。極限状態かつ脱出不可能におかれた主人公が時系列に語った物語を切り刻み、シャッフルして構成された不条理小説だ。彼の視線は正確で、思考がクリアでまともに見えるほど、語りのカオス度にゾっとさせられる。

だが、ベンジーの思考は、支離滅裂では無いようだ。知的障碍者なのは周囲とのコミュニケーションだけで、彼の思考の焦点はただ一つに定まっている―――姉のキャディだ。

「いま」の時点ではキャディはいない。ベンジーは、姉を愛し、姉を追い求めていたが、もういない。知的障害である故、ベンジーは姉の名前をつぶやくことすらできない。だから彼は、ゴルフをする人たちを執拗に見つめ、その口から「キャディ!」と発せられる音を聞くことで彼女を思い出そうとする。

ともするとベンジー意識の流れに吞み込まれそうに思えても、キャディの思い出と不在によって「いま」に立ち戻る。この作品が喪失と破滅の物語であることが、うすうす分かってくる。

意識の流れ=思考の横滑り

ジョイスやウルフやフォークナーで有名なので、「意識の流れ」は文学臭がぷんぷんするが、日常でもよくあるやつ。何かのイメージや臭いをきっかけとして、昔のことを思い出したり、今の状況と関係のない思考に横滑りしたりすることはあるだろう。人は、放っておくと、とりとめもないことを思い浮かべたり、しなくてもいい考えに取り憑かれたりする。あれだ。

その思考を垂れ流すだけなのか、読者に与える影響をきちんと計算して書くのかは、作家の力量になる。

たとえばスティーヴン・キング。怪物が潜んでいる暗がりに向かう人は、その暗がりから想起される過去の「いやな出来事」を思い出す(いじめられた記憶や、家族を失った事故とか)。最初は独り言として「」に書かれていたのが、地の文で執拗に内面が掘り起こされ、気づいたら「いま」目の前に怪物いる……というパターン。

原文だとイタリック体で、翻訳版だとゴシック体で記載されている。キングフリークスにはお馴染みのゴシック体を用いた回想と現在との接続は、『響きと怒り』が発祥だったと考えると面白い。

他にも、「どこかで読んだ気がする」感が呼び覚まされる。

例えば、キャディらの母・キャロラインの毒親っぷりと嫌味ったらしい繰り言は、ガルシア=マルケス『百年の孤独』で4ページにわたり一度も句点「。」を使わず延々と愚痴をこぼすフェルナンダの長広舌そっくりだ。

あるいは、読点を一切使わないまま、過去の対話と眼前の光景を重ね合わせるクエンティンの独白のような地の文は、コーマック・マッカーシー『越境』で何度も目にした。

これ、過去に経験した作品が、「いま」と重なったことがある人にはピンとくるだろう。映画に喩えるなら『スターウォーズ』や『アキラ』を初めて観る人が感じるデジャヴと似ているかもしれない。

ストーリーの骨子はベタな、それこそ新聞の三面記事にありそうなやつだ。ピカソのヴァイオリンがありふれたモチーフであるように、この家族に起きる破滅も、よくある悲劇にすぎぬ。

それを、語り手からダダ漏れる騒々しい声を重ね合わせ、炙り出そうと四苦八苦するうちに、この悲しみが、主観的な出来事として私の内側で再構成されてゆく。キャディに対するベンジーの思いが溢れ出し、彼の意識を埋め尽くすとき、その悲しみを、「そのままの形」で感じることができる。

どこに持ってゆくこともできず、何かに昇華することもできず、それでも人生が続くことを受け入れるしかないことを思い知ることになる。

シェイクスピアは、妻の死を嘆くマクベスにこう言わせた。

Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.

明日また明日、そしてまた明日と、
一日一日、小刻み這いずってく。
〝時〟そのものが消滅する、終末のその瞬間まで。
そしてわれらのすべての昨日は、
愚者が死に塵に還る道を照らしてきた。
消えろ、消えろ、短いロウソク。
人生はただ、うろつき回る影法師、あわれな役者。
出番のあいだは舞台の上で大見得を切り、
がなり立てても、芝居が終われば、
もうなんの音も聞こえぬ。
人生とは愚者の語る物語、
響きと怒りすさまじいが、
意味するところはただの無だ。

人生とは「愚者の語る、響きと怒りに満ちた物語」であるならば、そこからタイトルを得た本作は、人生の虚無をそのままの形で受け取ることができる。



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