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この本がスゴい!2024

「あとで読む」と思った本が、後で読まれた試しがない。

毎年毎年、おんなじことを言っている。好きで読書しているわけだから、「あとで読む」ことにして積む本は、煩悩の山だとも言える。「いずれ」「そのうち」と言い訳して、自嘲したり開き直る己の愚かさにホトホト嫌気がする。

死を前にして人生を振り返り、己の愚かしさに気づき、改心する人物は、スクルージが有名だ。だが本当は、奇跡も魔法もないんだよ。「もう一度やりなおす」はあり得ない。イワン・イリイチのように後悔したまま、死んでゆくのが現実だ。

もっと怖いのは、生物としての死じゃなくって、読書人としての死だ。

命が尽きるずっと前に、本が読めなくなる。目がかすれ、感性と体力、そして集中力が失われる。寿命よりも健康寿命が短く、健康寿命よりも読書寿命はもっと短い。積読には賞味期限がある。読書余命が尽きたあと、長い長い余命のあいだ、後悔しながら積読山を眺めるのは、いくら後悔しても足りないだろう。

かつて知識人として仰ぎ見た先輩たちが、「最近の〇〇は質が落ちた」「イマドキの〇〇はダメ」と嘆いているのを見ていると、「ダメになったのはお前の感受性じゃないの?」と問いたくなる。

味読という言葉があるように、味わえるうち、味覚が残っているうちに、知ること、楽しむことに貪欲でありたい。

一方で、「本なんて気楽に読めばいいじゃない?」というツッコミもあるかもしれぬ。のんびりと、読める時に読める作品を手にすればいい。その通りだ。だが私は、気楽にも読むし貪欲にも読む。

だから、読める「いま」のうちに、読む。未読の本に手を出し、既読の一冊を読み返す。そんな心持ちで、この一年を読んできた。

この記事では、2023年12月~2024年11月に読んできたなかで、「これは!」というスゴ本を選んだ。ほとんどが、誰かの呟きで巡り合えた一冊だったり、強力にお薦めされた作品だったりする。私一人では、けっしてたどり着けない傑作ばかりだ。わたしが知らないスゴ本を読んでいる「あなた」のおかげ。ありがとうございます!


努力できる才能こそが才能だ
『ルックバック』藤本タツキ

N/A

「才能がある」というのは誉め言葉だと思ってたけど、結果を出している人には、誉め言葉にすらならない。よくいう「天賦の才」や「ギフテッド(gifted)」という言葉には、生まれつきの特別な能力を強調するニュアンスがある。

だが、才能を開花させている人は皆、努力を積み重ねている。「好きだから続けられる」というのはその通りだけど、結果に結びつかないときや、成長が見えないときに、それでも研鑽を重ねられるか。

結果を出せる人は、生まれつきの得意に加えて、後天的な努力を継続できるマインドセットを持っている。だからこそ、成長の停滞期でも黙々と頑張れるのだと思う。

絵の分野では特に顕著で、最初から高い技術やセンスを持っている人もいるが、描き続けてフィードバックを受け取り、それを改善に活かすプロセスが、最終的な成果を左右する。この「描き続けること」こそが、才能なんだ。

この、努力を続けられる才能は、何によって焚きつけられるのか。『さくらの唄』では鬱屈した日常から目を背けるためだったり、『かくかくしかじか』のスパルタ教師の強制だったり、あるいは『ブルーピリオド』では藝大受験の名を借りた自己実現のためだったりする。

『ルックバック』は、嫉妬になる。

自分より絵の上手い奴がいるのが許せない!という嫉妬に衝き動かされて、他の全てを犠牲にして、ひたすら絵の練習に励むシーンがある。学校の授業中も、家に帰ってからも、休みの日も、四六時中、起きているときは全て絵を描き続ける。描き続ける背中と、積み重ねられたブックと教則本で、彼女がどれだけ努力をしてきたかが語られる(小学生だぜ?)。

彼女の努力は、やがて一つの出会いをもたらすことになる。その出会いを契機に、マンガという共通した夢を目指すようになる。誰かの背中を追いかけるとはどういうことか、ものを創り出すということの苦しみ、いまのままではいられないという葛藤、そして心からの感謝を味わうことになる。

表紙だけでなく、かなりのシーンが「背中」を映している。机に向かい、ひたすら描く(セリフは少なく、まさに背中が語る物語なのだ)。

もし、未読の方がおられたら、幸せもの。ぜひ読んで欲しい。「心揺さぶられる」ではなく、心揉みしだかれるレベルなので、うかつに読むと大変なことになる(140頁の中編なのだが、読むたびに揉みしだかれる)。

劇場で2回観た傑作。アマプラでは前半だけ10回観てる(「私、部屋から出てよかった」のところまで)。


高品質の課題を定義する技術
『イシューからはじめよ』安宅和人

N/A

間違ってはいないけれど、的外れのことに努力を注いだ結果、労力と時間だけが失われ、結局、結果に結びつかない―――そんなことに悩んでいる人向けの一冊。例えば

  • お客の要望を100%満たすことに全ての努力を捧げる
  • 「問題かもしれない」ことを片端からトライ&エラーで解決する

あながち間違いには見えないのだが、生産性が悪すぎる。無限の体力と時間があれば、数をこなしているうちに当たるかもしれない。だが、リソースが限られている現場で的を射るには技術が必要だ。

そして、この的を射る技術を言語化したものが、『イシューからはじめよ』である。

イシュー(issue)とは、一般的に「課題」「問題点」などを意味する。ビジネスの上で明確に特定され、解決していくことが目指されるものになる。本書では「本当に白黒はっきり区別する必要のある問題」と述べられている。

「問題かもしれない」と言われることが100あるとすれば、本当に白黒はっきりさせるべき問題は、せいぜい2つか3つくらいになるという。

普通の人なら、がんばって100を分析 ⇒ 優先順位付け ⇒ 対処していこうとするだろう(それだけでヘトヘトになるはずだ)。これを絞り込み、適切な問題にする方法論が、本書の目的になる。ノリ的にはこれだ。

「世界を救うために1時間与えられたなら、55分を問題を定義するのに使い、5分で解決策を見つけるだろう」

要するに「課題の質を上げよ」ということなのだが、アインシュタインのセリフらしい(真偽不明)。間違った問題に全力投球する愚を犯すより、「これは何に答えを出すためのものか」「そもそも求めるレベルで答えを出せる課題か」といった自問を繰り返すことで、イシュー度(=課題の質)を高めてゆく。

『イシューからはじめよ』は、この55分をどう使うかに全振りしている。読むだけでなく、自分の今の目の前の仕事で実践していくことで、課題の質を磨き上げることができる。

では、具体的にどうしていけばよいか?

本書では様々な手法が紹介されているが、ここでは地球温暖化問題について、「So What?」を繰り返していくことにより、イシューである度合いがが高まっていく例を挙げる。

この手法は、漠然としたイシュー候補に対して、「So What?(だから何?)」という仮説的な質問を繰り返すことで、検証すべきイシューが磨かれていくやり方だ。トヨタ自動車のカイゼン活動における「なぜなぜ5回」のアプローチに似ているが、「なぜなぜ5回」は原因究明のためである一方、「So What?」は課題見極めのためにある。

最初の見立て①の仮説に対し、「So What?」を投げかけることで、②の仮説になり、さらにその②に質問することでより具体化され③になり……と、イシュー度(白黒はっきりさせる具合)が高まっているのが分かる。


見立て


本質的な問い


①地球温暖化は間違い


何を「間違い」としているのか曖昧


②地球温暖化は世界一律に起こっているとは言えない


地球の気候に多少のムラがあるのは当然


③地球温暖化は北半球の一部で起きている現象だ


地域が特定されたので白黒つけやすい


④地球温暖化の根拠とされるデータは、北米やヨーロッパのものが中心であり、地点にも恣意的な偏りがある


地域がさらに特定されたので、検証のポイントが明確になる


⑤地球温暖化を主張する人たちのデータは、北米やヨーロッパの地点の偏りに加え、データ取得方法や処理の仕方にも公正さが欠けている


「データ」に加えて「取得方法・処理の仕方」に問題があるという仮説があるため、答えを出すべきポイントが明確なイシューとなる

p.97 「So What?」の繰り返しによるイシューの磨き込みより

①の「地球温暖化は間違い」といった焦点の定まらない主張だと反論しようがないが、⑤にまで磨き込まれていれば、白黒はっきりさせるために何をどう検証すればよいか、見えてくる。

「So what?」の他に、「空・雨・傘」といった技法が登場するため、気づく方もいるだろうが、これはマッキンゼー&カンパニーのコンサルになる。ただし、本書が他のマッキン本と異なるのは、完全に血肉化されているところだろう。

本書は、「コンサルティングファームの報告書のリード文に最終的に何を書くか」を丁寧に解説したものだ。だがこれは、そのまま、「どの課題に取り組めば、成果が出たといえるか(そしてそれをどう伝えるか)」という現場の問題に応用できる。

与えられた問題に疑問をいだかず、唯々諾々と取り組んでいるうちに終業時刻となる。怖いのは、頑張って残業しても終わらないところ。ドラッカー『現代の経営』にこうある。

重要なことは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを探すことである。間違った問いに対する正しい答えほど、危険とはいえないまでも役に立たないものはない

間違った99の課題を正しくクリアしようとする行為は、端的に言って「悪」だ。だから、正しい1つの課題を見出すことに注力しよう。

どうせなら成果が出る仕事に取り組もう。価値のある仕事とは、質が高い課題に宿るのだから。


このホラーがすごい!2024 国内編1位
『禍』小田雅久仁

N/A

ホラーのプロが選んだ「本当に怖いベスト20」の国内編第1位がこれ。

ホラーのプロとは、ホラー作家だったり編集者だったり、海外ホラーの翻訳家だったりホラー大好きな書店員だったりする。ベスト20のラインナップを見る限り、相当の目利きであることが分かる。

予備知識ゼロで飛びついたのだが、結論から言うと、これはすごい。

『禍』は、7つの短編が収録されている。それぞれの短編にはモチーフがあり、それに因んだり、そこを契機として物語が転がったりする―――思いもよらぬ方向に。

モチーフは、口、耳、目、肉、鼻、髪、肌と、どれも人体にまつわるものばかり。

私にも、あなたにもある、ごくありふれたパーツだ。そして、普通の人の日常から描かれるのだが、最初は微細な違和感だったものが、どんどん嫌悪感に膨らんでいって、どうしようもないほど「汚された」気分にさせられる。なんとも言えず気持ちが悪く、胸の奥がえずくようにモヤモヤする。

例えば、耳がモチーフの短編を読むうちに、知らず知らず自分の耳を触りたくなるだろうし、肌がモチーフの短編だと、服の布地と触れている私自身の肌が粟立ってくるのが分かる。鼻の話を読みながら、何度も鼻をつまんで「ある」ことを確認した。物語に感覚が侵食されていくのがたまらなく嫌らしい。この汚物感、短編を読み終えるごとに増してゆく。「怖い」というよりも薄気味悪い小説なり。

もう一つ。ここに出てくる女がいい。吐息の湿り具合やむっちりした肉感、全裸に点々と浮かぶ黒子が生々しく伝わってくる。バスに乗り合わせた女が押し付けてくる肉の重みと温みを感じるシーンや、深夜のエレベーターにうずくまって甘い匂いを立てているところなんて、一歩間違えると恐怖以外の何物でもない。

ふと、二の腕や腰に女の体がねっとりと柔らかく押しつけられるのを感じた。気づかぬうちにバスが発車してロータリーを回りはじめており、遠心力で女の肉が重たく押しよせてくるのだ。しかもその感触は、まるで女が故意に溢れんばかりの肉をこちらにあずけてきているかのようだったが、そんなはずはない。こちらが意識しすぎているのだろう。そうおのれに言い聞かせつつも、女と触れあっているあたりに籠もる、じりじりと炙ってくるような温みを無視することができなくなっていた。

『禍』「柔らかなところへ帰る」より

現実ではありえない感覚へ連れていかれるのは小説ならではの醍醐味だろう。映像化やコミカライズは可能だろうが、おそらく、どことなく間抜けな絵面になるかもしれぬ。読み手の想像力を振り回し、とんでもないところに投げ飛ばす奇天烈な短編でもある。


このホラーがすごい!2024 海外編1位
『寝煙草の危険』マリアーナ・エンリケス

N/A

海外編でぶっちぎり1位だったのがこれ。今年読んだホラーで私も推したい。

ふつう、物語って、現実から逃避するために読む。現実はそれだけで酷い世界であり、頭の弱い女は利用され、貧乏な老人は虐げられ、居場所のない子どもは食いものにされる。ポリティカル・「イン」コレクトネスな世間だから、物語の中に逃げこみたくなる。

せめて物語のなかだけは、予定調和に進んでほしい。ご都合主義と言われてもいい、悪いものが潰えて、弱き人、良き人が救われる、そんなストーリーになってほしい。

そんな現実逃避を踏みにじってくるのが、これだ。

頭のイカレた老人が、通りでいきなり排便する(しかも下痢気味)。通り一帯に悪臭がたちこめ、近所の人が袋叩きにするのだが、どちらも救われない。ホームレスの老人も、正義感に満ちたその人も、その通りに住む全ての人が、救われない。

一応、老人の呪いという体(てい)で話は進むのだが、それを目撃した人たちは次々と不幸に遭う。強盗に遭って破産する、飼い猫を殺して食べた後自殺する、解雇される、店をやっていけなくなる、大黒柱が事故で死ぬなど、酷い運命が待っている。

悪いことがおきるとき、それに釣り合うカウンターが用意されているのがセオリーだ。だが、何のバランスもない。そんなに非道なことをしていないのに、したこと、していないことに見合わない非道な目に遭う。

そして、物語なら、なぜそんなことになったのか、因果の説明がある。本当に「呪い」なら、呪う側の出自や呪われる側の過去が語られるはずだ。だが、無い。

悪いことが起きることに何の理由もない、これが最も恐ろしい。なぜなら、それは現実で嫌というほど味わっているから。

これが最初の短編「ショッピングカート」のお話だ。20ページに足らないのに、ひどく嫌な気にさせられる。ラストの救いようのないナナメ上の展開にゾッとするあまり、引き攣った笑い声が漏れる。

こんな話が次から次へと畳みかけられる。世界が狂っているのか、私が狂い始めているのか、確かめてみたくなるストーリーばかりなり。

私のホラーベストと、最近怖かったやつ

すぐれたホラーを読むと、「生きてるッ」って実感できる。これは、登場人物が酷い目に遭えば遭うほど、「生きてるッ」って思う。現実にすり潰された心に、まだ、怖いと思える場所が残っていることに、ホッとする。

これは「文学ラジオ空飛び猫たち」の藤ふくろうさんのコメント「どんどん数が増えてくるイキイキとした死者」「異常心音が大好きで録音して聞きまくるフェチ」で惹かれて手にしたら大正解だったふくろうさん、ありがとうございます!)

よいホラーで、よい人生を。


科学者は嘘吐きではない。嘘吐きが科学者にいるだけ
『サイエンス・フィクションズ』スチュアート・リッチー

N/A

詐欺、バイアス、過失、誇張など、様々な手口により、科学の世界では悪質な不正が蔓延しており、再現性の危機に瀕していると警鐘を鳴らすのがこれ。

例えば、pハッキング

査読ウケの良いp値を求めるあまり何度も実験するのは論外で、結果が得られない実験(NULL結果)として公表するべきだという。だが、科学者はそうしたネガティブな結果を避ける傾向にあり、NULL結果はお蔵入りとなる。そのため、出版されているデータはポジティブな方に偏るというバイアスが発生するというのだ。

あるいは、HARKing

本書では「テキサスの狙撃兵」と呼んでいる。納屋の壁を適当に撃って、弾丸が集中的に当たったところに的の絵を描いて、ここを最初から狙っていたと主張するやり方だ。詐欺師なら自分のやっている詐欺を自覚しているが、科学者は無自覚にこれをやっている分、悪質だという。

さらには、データの改ざん

ヒトの胚のクローンのデータを捏造したファン・ウソク、STAP細胞の画像を改ざんした小保方晴子、論文の撤回件数の世界チャンピオンの藤井善隆が紹介されている。権威ある学術誌である『サイエンス』や『ネイチャー』に掲載されたことで、世界中の注目を集め、詮索にさらされ、結果、不正が暴かれることになった。

最高峰の学術誌でないならどうか。生物学の40タイトルの学術誌から2万を超える論文を調査したところ、フォトショップを利用したファン方式のトリミングや、小保方流の画像の切り貼りが検出され、3.8%の論文に問題が発覚したという。

または、チェリーピッキング

新しい抗がん剤となる化合物の薬効を検証するとき、予想された結果が出ない場合、実験者は仮説を疑うのではなく、自分の技術が未熟なせいだと考える。特に、教授が考えた仮説を助手が実験する場合がそうだ。

助手は、あきらめることなく何十回も実験をくり返し、ついに望む結果を得ることになる。教授は大いに喜び、助手を高く評価するだろう。問題は、誰も悪意を持っていないことだ。むしろ、熱意と野心を持った教授のもとで懸命に努力する若き研究者の美談にすら見える。

だが、やっていることは結果の出なかった実験(NULLの結果)の棄却だ。不都合な事実に目を向けず、売れる(=論文になる)サクランボだけを結果とするチェリーピッキングという技法だ。

悪意の有無に関係なく、自分が携わっている分野の常識が「正しいはず」という前提で、データを分析し、結果にまとめる。さらに、その結果を元にして「正しいはず」という思い込みの元、別の実験が行われ、バイアスが再生産されてゆく。

こうした確証バイアスが分野全体に及んでいたのが、アルツハイマー病のアミロイドカスケード仮説になる。この仮説は、アミロイドβの蓄積が病気の要因とするもので、莫大な研究資金が投入されてきた。だが、アミロイドβと病気は、因果ではなく相関関係であることが明らかになっている。

にもかかわらず、アミロイドカスケード仮説を支持する研究者がいる。かつて教科書で学び、慣れ親しんだ「常識」があまりにも強固であるため、バイアスに気づけないのだ。マックス・プランクがいみじくも言ったように、「古い間違った考えは、データによってではなく、頑迷な支持者が全員死んだときに覆される」まんまだ。

性善説に則った査読システムは、限界に達しているという。

右肩上がりに出版される莫大な論文数や、研究プロジェクトの巨大化、インパクト・ファクターにより決まる人事査定、「論文数=ボーナス」とするインセンティブ、資金提供する企業との癒着、「出版か、さもなくば死を(publish or perish)」とする風潮がある。

これらが、査読による学術論文の品質を歪め、ひいては科学システムの本性を捻じ曲げているという。

査読する人は、そのデータが改ざんされていることなんて考えない。まっとうな科学者がまっとうに研究をした成果なのだから、当然、そのデータは正しいものだとして受け取る。もちろん、データの整合性や生データの乖離をチェックするツールはある。だが、そうしたチェックを見越して改ざんされたデータの場合、悪意を見抜くことはできない。

こうした問題解決のためには、オープンサイエンスを突破口にせよと説く。

オープンサイエンスとは、科学的プロセスのあらゆる部分を、可能な限り自由にアクセスできるようにする試みだ。研究論文の全てのデータと、それを分析するために使用した全てのコードやソフトウェア、関連する全資料が公開され、ダウンロード可能とする。

実験を始める前に、仮説はワーキングペーパーの形でオープンサイエンスフレームワークに登録される。タイムスタンプ付きで記録されることにより、HARKingを困難なものにできる。全ての論文は出版される前のプレプリントの形で公開され、学術誌の編集者は自分が掲載したい論文を選ぶキュレーターのような役割となる。

そして、「再現できなかった」「仮説が否定された」ことを公開するNULL論文の拡充を提唱する。「刺激的だが根拠が薄い」研究よりも、「退屈だが信頼できる」研究を重視し、再現研究により多くのインセンティブを与えることによって、歪められた科学を正せという。

オープンサイエンスの試みは重要だろうし、科学の品質保証の一つとして、取り入れていく必要があるだろう。

科学の歴史は、発見と反証の歴史だ。

天動説、瀉血、エーテル、フロギストンなど、広く受け入れられていた理論が、後に誤りであったことが明らかになった例は枚挙にいとまがない。アルツハイマー病の仮説が誤っていた例を始め、科学的発見が間違っていたエピソードが多数紹介されているが、誤りを発見できたというまさにその点で、科学はきちんと機能していると考えていい。

また、改ざんしたり虚偽のデータを捏造する科学者がいるのは認める。科学者だって人間だから、カネや名声の誘惑に負ける人だっているはずだ。だがそれは、嘘吐きの科学者がいるだけであって、科学者が嘘吐きであることにはならない。

そして、エーテル理論の話と同様に、嘘吐きの嘘はいずれバレる。バレたからこそ、本書で紹介されることになったのだから。全ての嘘を即座に暴けるほど、今のシステムは洗練されていないが、遅かれ早かれ、誤りは正されていく。

科学は人間の活動であるが為に、人間の欠点である偏見や傲慢や不注意や虚栄心などが刻み込まれている。だが、科学は人間の活動であるが故に、自分で自分の誤りに向き合うことができる。

科学の「正しさ」とは何か?本書にツッコミを入れながら読むと、さらに一層面白い。

本書は、骨しゃぶりさんのブログ「9割の人が知らない再現性の危機 - 本しゃぶり」で知った。翻訳版でようやく読めた骨しゃぶりさん、ありがとうございます!)


山形浩生訳で再読したら驚くほど面白かった
『1984年』ジョージ・オーウェル

N/A

有名だけど退屈な小説の代表格は、『一九八四年』だ。全体主義による監視社会を描いたディストピア小説として有名なやつ。

2017年、ドナルド・トランプが大統領に就任した際にベストセラーになったので、ご存知の方も多いだろう。「党」が全てを独裁し、嘘と憎しみとプロパガンダをふりまく国家が、現実と異なる発表を「もう一つの事実(alternative facts)」と強弁した大統領側近と重なったからかもしれぬ。

これ、学生の頃にハヤカワ文庫で読んだことがある。「ディストピア小説の傑作」という文句に惹かれたのだが、面白いという印象はなかった。

主人公のウィンストンは優柔不断で、あれこれグルグル考えているだけで、自ら行動を起こすというよりも、周囲の状況に流され、成り行きで選んでゆく。高尚な信念というより下半身の欲求に従っているように見える。

「党」を体現する人物との対話も、やたら小難しく何を言っているのかさっぱりだった。

例えば、「二重思考(double think)」という概念が登場する。「2つの矛盾する信念を同時に抱き、かつ両方とも受け入れる」というのだが、そんなことが可能だとは思えなかった。党のプロパガンダを洗脳するだけで充分じゃないの?と考えていた。

ところが、山形浩生訳の『1984年』を手にしたら、今までの読みが一変した。

主人公はノスタルジックな記憶にしがみつき、現実が何なのか分からなくなっている不安定なキャラが浮かび上がる。「書く」ことで自分を確かめようとする態度がいじらしくも哀れに見える。

  オレンジにレモン、とセントクレメントの鐘

  お代は三ファージング、とセントマーチンズの鐘

  お支払いはいつ、とオールドベイリーの鐘

  ……

折に触れて言及される詩の意味も分かった。子どもの頃の童歌だったのだが、中年になったウィンストンは、どうしても続きが思い出せない。その内容のノスタルジックな響きと、続きを思い出させてくれる人たちの立ち位置が秀逸なり。

初めて読んだとき、適当に読み流していたけれど、これ、物語の根幹に関わるキーとなっている。特に最後のフレーズを教えてくれる人物の皮肉が利いている(まさに「過去を支配する者は今を支配」する!)。これを伏線として読み直すことができたのは、本書のおかげ。

恋仲となるジュリアも、別のキャラになった。

乙に澄ました女というイメージが壊され、いたずらめいた下品さが醸しだされ、性に(生にも!)忠実であることがよく伝わってくる。原文は読んでいないが、翻訳だけでここまで生き生きとキャラが立ってくるのか、と驚いた。彼女がウィンストンに持ちかける内容に似合った口汚さがいい。

そして「党」の主張も、よく理解できるようになった。これも、分かりやすい翻訳のおかげ。

二重思考の「矛盾する信念を同時に抱く」とは、その信念を適用させる対象をコントロールすればいい。辞書を編纂し、人々を教育し、その言葉が指し示す範囲のうち、党に不利益となるものをキャンセルする。ある概念を適用する範囲を狭めることで、本来であれば並び立たないような表現を成立させるのだ。

例えば「自由(free)」という言葉について。「フリーランチ(無料の食事)」や「アレルギーフリー(アレルギー原因物質を含まない)」という意味として使える。しかし、「言論の自由」や「信教の自由」といった使われ方はしない。「自由」という言葉を適用する範囲から、知的や思考を指し示す概念そのものが存在しなくなっているのだ。

それでも、昔を知る人は「知的自由」という言葉が成立していた時代を覚えているかもしれない。知的には党に従うのが当然のため、知的自由という言葉の代わりに知的には隷属することになる。

「知的自由」を知る人は粛清されるか年老いて死んでいくだろうが、そこに至るまでは「自由」という言葉は矛盾した使われ方をしているように見えるだろう。アレルギーからの束縛を受けないという意味で自由である一方で、思想や信仰、知的には党の束縛を受けることが「自由」になる。

「矛盾する信念を同時に抱く」という定義のキモはここにある。二重思考というのは、そこに至るまでの過渡期として、推奨される考え方なのだ。「党」が意味付けたい言葉が完全に浸透したならば、そこに矛盾は無くなり、二重思考という概念すら不要となる。

ある時期までは「『自由』という言葉の定義が変わった」といえる。それは「元はこういう意味だった」ことを知っている人が存在することが前提だ。だが、元の意味を知っている人が粛清されるか追放されれば、そもそも「元の意味」なんて存在しないことになり、結果、言葉の定義が変わったことにならない。その状態へ至るまでの過渡期が、二重思考なのだ。

作品は変わらないが、作品を読む「私」が変化する。

別の作品に触れたり、人生経験を通じて識ったことにより、より豊かな読み方ができるようになった。

例えば、意味をコントロールすることで思考を変えることについて。かつて、無邪気にも、そんなことはあり得ないと考えていた。

だが、新しい言葉が古い言葉を上書きすることは、普通にあり得る。

そして、当たり前のことだが、昔の意味を知らない人にとっては、今の意味が全てになる。「スパム」は缶詰ではなく迷惑メールだし、「KY」は捏造報道ではなく「空気を読む」意味に上書きされている。これらはコントロールされたと思いたくないが、全体主義国家がやれば意図的に変えることも可能だろう。

あるいは、ウィンストンが101号室で被る壮絶な恐怖も、より生々しく感じられるようになった。

その人にとって最も恐ろしいものを突き付ける展開は、スティーヴン・キング『IT』やクライブ・バーカー『腐肉の晩餐』を読んだ身としては、気持ち悪い汗が出るほどエグかった。

死んだ方がマシというよりも、早く殺して欲しいと心から願うくらい、「死ぬことが希望」になる。目的は洗脳ではないのだから、これは効果的だろう。

『一九八四年』が、あらためてディストピア小説の傑作だと思い知った。それと同時に、ウィンストンの悲しみに寄り添えるようになった山形さん、ありがとうございます!)


13歳を攻略するマンガかと思ったら13歳が攻略する話だった
『恋文と13歳の女優』じゃが

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N/A

『恋文と13歳の女優』第一話より

子役少女とマネージャー、この恋を応援していいものやら。ギャラリーとして見ているこっちがハラハラさせられる。

13歳の中学生と、14歳年上のマネージャー。年上にあこがれる女の子と、彼女の才能を開花させたいと奔走するマネージャー。アイドルマスター的な話なのかと思ってたら、もっと複雑で芸能界の生々しい現実をも見させられる展開に引き込まれる。

天才子役として芸能界でブレイクし、幼いころから大人びた振る舞いをする文乃(あやの)。演技力も抜群で、子役から女優へのキャリアを歩み始めようとしている。

そんな彼女のマネージャーを任されることになった一色(いっしき)。テレビ業界での顔が広く、仕事ができる27歳だが、何かのトラウマを抱えているように見える。

もちろん一色は大人なので、どんなに彼女に迫られても、大人としての態度を保ち続け、やさしさと愛情は違うということを諭そうとする。その一方で、彼女の寂しさやメンタルを支えてあげたいという葛藤が、不幸な記憶を呼び覚ますことになる。

対する文乃は、大人よりも大人びた態度と、持ち前の演技力を駆使して、一色に想いを伝えようとする(この、あざとかわいさが可愛いくていじらしい)。このアンバランスさがめちゃくちゃ惹かれる。

これ、漱石で知った”Pity is akin to love”(同情は愛情の始まり)を思い起こす。文乃の、すこし陰のある家庭環境と、それに触れないように接する優しさは、「可哀そうたぁ惚れたってことよ」になりかねない。同情と愛情の勘違いから始まる恋もある。

危ういんだけど、お互いに立場があることを了承しつつも、相手を大切にしようとする想いが伝わってくる。きっと、文乃の恋は叶わないだろう。そして、彼女を通じ、一色は過去と向き合うことになるだろう。その結果、お互いが傷つくことになるかもしれぬ。それでも、この想いは見届けたいと感じさせられる。

1~2巻はアンリミで読めるし、comicFUZでは無料で第1話が読めるので、ぜひ。


死ぬときに思い出す傑作
『イギリス人の患者』マイケル・オンダーチェ

N/A

死ぬときに思い出す小説の一つ。

あれを読めば良かったとか、これがまだ途中だったとか、未練は必ずあるはずだ。どんなに読んでも足りることはないから。そんな後悔の中で、エピソードや描写を思い出し、読んでよかったと言える作品の一つが、『イギリス人の患者』だ。

映画が公開されたときだから、20年以上前に読んだのだが、いま再読しても美しい。詩的で情緒豊かに紡がれる、四人の男女の破壊された人生の物語だ。

あらすじはシンプルだ。

第二次世界大戦の終わり、イタリア北部の半ば廃墟となった修道院が舞台となる。そこで生活を共にするのは、看護婦のハナ、泥棒のカラヴァッジョ、インド人の工兵のキップ、そしてイギリス人の患者となる。人生のわずかな期間にすれ違う男女が、自身の半生を思い出す。

ただし、けっして読みやすい、ストレートなお話ではない。

時系列は無警告で前後するし、エピソードの粒度や解像度はバラバラだ。後になって、作者が計算ずくでやっていることに気づいて舌を巻くのだが、わざとつかみどころのないようにしている。全ての登場人物から距離を置いた書き方で、読み手が、感情移入させないように仕組んでいる。

例えば、家族の死が登場人物に知らされるシーンがある。普通の物語なら、そんな重要なイベントを出すときは、登場人物が知る時と、読者が知るタイミングを合わせる(その方がドラマチックになるから)。

だが本書は、先に読み手に知らせる。読者には事前予告しておき、後に、登場人物に知らせる。読み手は、普通の小説とは異なり、一歩引いて、枠の中の世界を観察するかのように感情を眺めることになる。これに描写の分からなさ感と相まって、「幻想的な」とか「詩的な」と評されている。

これは「合う人にだけ深く刺さり、そうでない人はそれなりにすら楽しめない」と言われるくらい読み手を選ぶ作品だ。再読すると、そのサービス精神の無さを改めて感じる(若書きだからではない。マイケル・オンダーチェが49歳の脂の乗り切った時に書いた3作目だ)。万人ウケする作品ではないのに、映画公開時、テレビや新聞で激賞されていたのを思い出し、なんだかなぁと呟く(映像美が凄まじいので、そこを評価されたのかもしれぬ)。

じゃぁこれ、世界の描写の美しさだけを目指した、表層的な作品かというと、違う。

世界的に権威ある文学賞であるブッカー賞を受賞するだけでなく、ブッカー賞の50周年を記念して、「ブッカー賞の中のブッカー賞」となったのが本作だ。そんな作品が表層をなぞるはずがない。

4人の被写界深度はめちゃくちゃ浅い。だから、体言止めが多用された彼・彼女の心は手で触れられるくらい露わになる。一方、周囲は朧になる。重要イベントは読者にだけ予告されているので、観察よりは窃視するように見て取れる。作者は登場人物が嫌いなのだろうかと、ふと思う(ただし工兵のキップを除く)。

一方、周囲は霧の中のようにかすんでいる。ピントが全然合わないので書割ですらない。このコントラストが強すぎるので、ストーリーとして何が起きているのかつかみにくくなっている。醒めつつある夢の中で自己はハッキリしているのに、周りがぼんやりしている、そんなもどかしさを感じたことはないだろうか。それに似ている。

じゃぁ読み手を煙に巻くような不親切な小説かというと、そうでもない。

タイトルにもなっている、イギリス人の患者がカギになる。

炎上する複葉機から救い出された時には既に全身が燃えさかっており、地上に激突した衝撃で両足は破壊され、身じろぎもままならない。皮下組織まで熱傷を負い、特にひどいのは脛から上で、紫色を通り越して骨だ。

幸いにも喋ることはできる。とはいえ第二次世界大戦の末期だ。エジプトとリビアの間の砂漠で撃墜されたため、当然、スパイとして疑われる。取調官に対し、イギリス人の患者は、十字軍とサラセン人の歴史のこと、フィレンツェの聖母マリアのこと、キプリングの文体のことを並べ立て、煙に巻く。

唯一燃え残った携行品はヘロドトスの『歴史』で、非常に細い文字で詩句警句、観察日記、備忘録が書きこまれているものの、男の身元が分かる情報は一切無い。

一体、この男は誰なのか?というミステリーが、読み手を牽引する要素となる。男の運命を追っていけば、一応、話のスジは追えるようになっている。けれども、ドラマティックな要素は全て過去の中で、いま進行するのは、終わってしまった愛、戦争、欲望、裏切りを振り返るしかない感情に襲われる。

痛み止めのモルヒネで朦朧となって呟くひと言、ふた言に惹かれる。その言葉にお構いなしに、けれども献身的に尽くす看護婦ハナとの絡みが好きだ。

やがて戦線が移動し、より安全な施設へ移動しようということになっても、男とハナの二人だけは残る。そして、廃墟同然の場所でささやかな生活を始める。

男の人生がどんなもので、なぜそんな運命となったかは、後に明らかになるのだが、私はそれよりも、この二人だけの生活の方が好きだ。後に、この生活に加わるカラヴァッジョとキップの半生も心痛むが、物語スタート時点の、戦争に破壊された人生を拾い上げて、それでも生きている限り生活を続けていく態度が好きだ。

私が死ぬときに思い出すシーンの一つは、ここ。

物語にいくら穴があいていても、女は頓着せず、聞いている男への配慮もしない。とばした章の粗筋など語らず、ただ本を持ってきて、「九十六ページ」「百十一ページ」と言って読みはじめる。ページ数だけが位置を示す標識だった。女は患者の両手を取り、持ち上げて匂いをかいだ。まだ病人臭がする。

瓦礫の山で入れない部屋がいくつもあり、階下の図書室には砲撃で穴があき、月の光や雨が自由に入ってきて、年中ずぶ濡れの肘掛け椅子がある。女は図書室に忍び込み、適当な本を取ってきて、男に読み聞かせるシーンだ。

ここから犬の足の裏の臭いの話になり、彼女の父親の話になり……と取り留めもなく過去が紡がれてゆく(どれも好き)。他にも沢山ある。物語の本筋に関わらない、なんてことのない描写なのだが、惹かれる。誰かの思い出や、他人の夢の出来事を共に眺めるような読書になる。

「誰が何しているのかよく分からない」という人には映画をお薦めする。観て聴く芸術だからこそ、被写界深度は深く、何が起きているのかを映(ば)えるように枠内に収めてくれる。(私を含め)泳ぐ人の洞窟のシーンに心撃たれた人も多いが、ここも思い出してしまうだろう。

何もかもが手遅れになって、自分ではどうすることもできず、ただ、終わるのを待つしかない。それでも、生きている限り、生きていることを続けていくしかないし、生きていくということは、(ここで書くのを含め)語り続けていくことなんだと思わせる。

最期は、こういう記憶と共にしたいと思う傑作。

映画がお好きな方なら、驚異的な映像美でアカデミー賞で作品賞をはじめ最多9部門受賞した『イングリッシュペイシェント』をご存知かもしれぬ。その原作がこれ。美しすぎるこのシーンは、走馬灯の一つになるに違いない(アマプラで観れるぞい)。


ビジネス交渉での虎の巻
『戦略的交渉入門』田村次朗、隅田浩司

N/A

「その価格では厳しい、30%下げてほしい」と、初手から無理な数字をふっかけてくる。それは難しいと答えると、「なぜですか?どの程度なら下げられますか?」と畳みかけてくる。答えに窮すると、「できるのか、できないのか、答えてください。できないなら議論は終わりです」と言い放つ。

価格交渉や要件定義の場で、高圧的な態度で話す人がいる。相手を説き伏せ、自分の思い通りの結論に持っていきたがる。一方的にまくし立てて、質問に質問を重ね、相手に話す機会を与えない。

典型的なパワープレイ、二分法、アンカリングの交渉術である。これらはビジネス上の技法であることを、そもそも知らなかった若いころは、さんざんやられたものだ。顧客だけでなく営業や上司からもやられたことがある。

そして、交渉の「術」だから対策がある。『戦略的交渉入門』には、こうした交渉「術」への対策がふんだんに盛り込まれている。

まず、この質問をすること自体がおかしいことに気づく必要がある。

「30%値引きせよ」と言ってきたのは相手だ。「その価格が厳しい」のはなぜか?価格だけが論点であり、他は交渉の余地が無いのか?そもそも、なぜ「30%」なのか?(30なんてバカの数字じゃねーか!)。

冷静に考えるならば、こうした疑問点が湧き上がり、そんな質問にまともに応対する必要すらないことに気づく。だが悲しいかな、人間は質問されると答えなければならないと感じてしまう生き物なのだ

質問されると、それが思考のトリガーとなって回答を探し始めてしまう。礼儀正しく質問されると、たとえ答える必要のないものでも、社会的礼儀上、無視することができない。その結果、できない理由を考え始めてしまう。

さらに「30%」という大きな数字に引っ張られることになる(アンカリング)。「30%は無理」→「それなら20%ならどうか?」などと、前提も整理しないまま、数字の交渉になってしまう。結果、「アンタでは話にならない。持ち帰って検討してくれ」と言われてしまい、「どうしたらできるか」と「20%ならできるか」が宿題にされてしまう。

そして、できない理由を並べ立てても、その一つ一つを「それをクリアすればできるのか」「どうやったらできるのか」の議論に持っていってしまう。最終的には、「できないできないと文句を言うのではなく、どうすればできるのかを考えるのがあなたの仕事だ」とまで言い放つ。

この返し方は、「説明を押し付ける技術」として、『議論の技術』とともに解説している。「なぜ30%下げられないのか?」という議論の前に、そもそもの言い出しっ屁が「なぜ30%下げて欲しいのか?」を説明する必要がある(立証責任のルール)。そこを端的に聞くことで、押し付けられた立証責任を相手に打ち返すことができる。

このとき、相手の放った質問に質問で答えることになる。よく、「質問に質問で答える」ということは良くないことだと言われる。しかし、この場合は失礼ではない。なぜなら、立証責任は相手方にあるからだ。「どうしてそんな質問が出てきたのか、その理由や背景を教えてください。そうすることで、あなたの質問の意図をつかめますから」と返すのだ。

すると相手は、「価格競争が激しくなってきて~」とか「社内での圧力が厳しくて~」とか理屈を色々と言ってくるだろう。営業担当は即席で理屈をでっち上げるのが上手なので、思わず「なるほど」と思ってしまうかもしれぬ。

『戦略的交渉入門』は、理由にならない理由に納得してはいけないと説く。理由っぽく聞こえる「激しい」とか「厳しい」には、何の数字も根拠もない。「それ、あなたの感想ですよね?」とか「データやエビデンスを出してみろよ!」とツッコミを入れたくなるが、そこは我慢して、「形容詞を説明してもらう」ことに専念せよという。

相手の根拠を疑うようなので、角が立つかもしれないと心配になるかもしれぬ。だが、ここが重要だ。「値引きが必要であるということを社内でも通すために、価格競争においてどんな状況なのか、何がどの程度『厳しい』のか、もう少し詳しく教えてください」というのだ。

相手の主張を支えるデータや根拠を求め、相手に答えてもらう。結果が曖昧であやふやであってもいい。「厳しい状況が~」とか「昨今の情勢で~」といった抽象的であってもいい。「30%値引き」という要求には具体的な裏付けがなことを間接的に理解させ、「その要求で説得することは難しい」といことを分かってもらうために、答えてもらうのだ。

そして、そこで返ってきた言葉は、必ず記録すること。交渉の終了時、メールでの返信時に、その言葉をそのまま使うのだ。「厳しい状況が~」という相手のセリフそのまんまを使う。そしてこちらは、提示した価格が妥当である根拠を、具体的に説明すればいい。

他にも、「できるか、できないかで、答えてください」と二分法で迫ってくる人への対応法や、最重要のリソース「集中力」を確保するためのBATNAなどは、[この記事] にまとめた。人間のバイアスを利用して交渉を有利に進めるやり方と、その対応策だ。

ハーバード・ロースクールで培われた、交渉による問題解決能力の入門書。痛い目に遭った人ほど「あるあるwww」と頷きながら読むに違いない。そして、幸いにもこれから交渉に臨む人であれば、「これ進研ゼミでやった」というガイド本になるだろう。

若かりし頃に知っておけばよかった一冊。


『「あのときやっときゃ良かった」という後悔は、実際にはやれる可能性などなかったのだからソク忘れよう』裏モノJAPAN編集部

N/A

おっさん初心者に向けた名言集。

これは友人の話なのだが、「やれたかも」というのは確かにある。

「飲み会で意気投合した女の子と帰りの電車がたまたま一緒で、飲みなおそうという流れからカラオケへ」とか、「夏合宿の雑魚寝が寝苦しくて抜け出したら、後輩の子がついてきた」とか。

だが、イイ感じなのはそこまでで、「朝まで歌っただけ」とか、「ちょっと雑談してから部屋に戻って寝た」とか、他愛のないものに収束する。

まんざらでもない態度や視線に、選択を間違えなければチャンスをモノにできるはず……だが悲しいかな、ヘタレ童貞は何をどうすれば良いかわからない。ギャルゲ―なら2つか3つの「選択肢」だけだが、リアルは無限だ。深夜、女の子と二人っきりというシチュに、胸の鼓動がドキドキ目先はクラクラ、何も思い浮かばない。

かくして何も無いままとなる。その後の進展もなく(むしろ素っ気なくなる)、「やれたかも」は、「かも」のまま、思い出となる……と、その友人は言っていた。

「あのときやれたかもしれない」―――そんな美しい思い出を、全力でブッ壊しにくるのが、本書である。

これは、飲み屋街でクダ巻いているおっさんの名言集だ。アルコールが入っている分、下卑たものや差別的なヨタも交じっているものの、じんわり沁みるセリフや、刺さる至言もある。表立っては聞けない人生の経験則がこれだ。

例えば、「やりたいことは、やれるうちに」というアドバイス。当たり前といえば当たり前のことなのだが、彼の話を聞くとまた変わってくる。

歳とってからやればいいと思っていても、
いざ歳をとってしまうとしんどくてやらない
(男・48才)

就職して最初のボーナスが出た時、両親に海外旅行をプレゼントしようとしたという。彼が23才で、両親が50前後の時の話だ。ところが両親は、旅行なんて歳とってからでも行けるから、いらないって断ってしまう。

そんなもんかと話は立ち消えになるのだが、月日が経ったいま、あのとき行っておけば良かったと両親の後悔を聞かされる。歳をとると、時間はあるけどしんどくて意欲が無くなってしまうのだと。

これ、わたしの自戒の言葉「あとで読むは、あとで読まない」に通じる。いずれ、そのうち、ヒマになったら読もうと積む本は、必ずといっていいほど、あとで読まない。そうこうするうち、気力が萎えて読めなくなり、積読山に囲まれて衰えていくだろう。問題なのは、積読山に囲まれて死ぬのではなく、死ぬまでの長い時間を、読む気の失せた積読山に囲まれて過ごすことだ。

あるいは、かなり刺さったのがこれ。

今生の別れは 気づかない
(男・59才)

「今生の別れ」とは、これを最後にして、生きている間はもう会うことがない別れのこと。ドラマや映画で、遠い異国に旅立つといった場面でお馴染みかもしれない。酒を酌み交わしたり、ホームで抱き合って泣いたりするあれだ。「今がその時」とはっきり分かっている形で演出される。

でも現実はそうじゃない。そんなドラマチックなものではなく、「あいつ死んだの?こないだ飲んだのに」という形で、突然に訪れる。人は死ぬ。これは絶対だ。だが、いざ死んでしまった時、「なぜ?」と問うてしまう。

だからこそ、人と会うときを大事にしたい。この気持ち、一期一会やね。

せやな!と膝を打ったのはこれ。

親とちがって、先輩は選べる
(男・55才)

人生で誰に一番影響を受けるか―――親とか恩師とかいう人もいるけれど、ほとんどの人は少し上の先輩に影響されているのでは?という。

進路を決めるときや、仕事を決めるとき、身の回りの少し上の人に憧れて決めてきたという。そのとき目指す先輩は、それぞれ違う人だったかもしれないけれど、大なり小なり影響を受けてきたのではないかというのだ。

そして、親や上司は選べないけれど、先輩は選べるという。しょうもない先輩につかまるのではなく、敬えない先輩とは付き合う必要なしと説く。代わりに、「あの人だ!」と言える人を探せというのだ。

これは確かにそうかも。決定的な指針をもらうというよりも、「なんとなく良いかも」という「なんとなく」は、思い返すと先輩からもらってきたような気がする。新しい環境になったとき、無意識のうちにロールモデルを探していた。

これは読書猿『アイデア大全』で紹介されている「ルビッチならどうする?」につながる。人生の師匠・メンターを予め決めておき、行き詰まったときにその人に問うのだ。ポイントは、その人が先輩のような身近な人でなくてもいいこと。既に他界した人でも、フィクションに登場する人でもいい。孟子の「私淑」を実践してきたといえる。

タイトルにもなっているこれは、童貞時代の美しい思い出を殺しにかかってくる。

「あのときやっときゃ良かった」という後悔は
実際にはやれる可能性などなかったのだから、
ソク忘れよう
(男・42才)

このおっさんの理屈はこうだ。

―――もっと色んな女の子と、あのときヤレたのにヤレなかったのがもったいない……なんて悔しい気持ちになることもあるかもしれぬ。

しかし、ヤル気になればヤレたのに、その子とヤレてないというのは、そのときの自分が最適だと思った行動の結果なんだという。どう転んでもその行動に向かっていった末に、やれなかったのだ。だから、最初からその子とヤルという選択肢など無かったことと同じ。

機会損失だと考えるから後悔するって発想になる。初めからそんなチャンスなんて無かったんだと考えたら、後悔することなんてないというのだ―――

その通りなんだけど、ミもフタも無いんだけど、涙が止まらないのはなぜだろう……

人生は巻き戻しても同じ人生だ。

なぜなら、巻き戻される私も、同じように、未熟で童貞で女心を分かっていないあの頃に戻されるだけから。「ループもの」が物語として成立するのは、ループする存在が記憶なり経験を保ったまま、もう一度やり直せるから。

だけど、いま「やり直したい」と考える理由を、言葉にして伝えることができる。なぜ後悔しているのか、後悔しないためにどうすれば良かったのか、かつての自分にメッセージを託せるなら……本書は、そんなおっさんたちの魂の叫びを集めたものかもしれない。

本書は、はてなブックマークでmaketexlsrさんから教わった(maketexlsrさん、ありがとうございます!)。はてブの人たちは、タメになる情報や、鋭い分析をしてくれて本当にありがたい(ちょっとヘンな人がいるのも嬉しい)。


ミスを責めるとミスが増える
『失敗の科学』マシュー・サイド

N/A

人はミスをする。これは当たり前のことだ。

だからミスしないように準備をするし、仮にミスしたとしても、トラブルにならないように防護策を立てておく。人命に関わるような重大なトラブルになるのであれば、対策は何重にもなるだろう。

個人的なミスが、ただ一つの「原因→結果」として重大な事故に直結したなら分かりやすいが、現実としてありえない。ミスを事故に至らしめた連鎖や、それを生み出した背景を無視して、「個人」を糾弾することは公正なのか?

例えば、米国における医療ミスによる死亡者数は、年間40万人以上と推計されている。イギリスでは年間3万4千人もの患者がヒューマンエラーによって死亡している。

回避できたにもかかわらず死亡させた原因として、誤診や投薬ミス、手術中の外傷、手術部位の取り違え、輸血ミス、術後合併症など多岐にわたる。数字だけで見るならば、米国の三大死因は、「心疾患」「がん」そして「医療ミス」になる。

うっかり見落としたり、忘れてしまうといったミスは、人間だからあたりまえだ。だが、あまりにも多すぎるこの数字は何を物語っているのか。

本書は、ミスそのものよりも、ミスに対する「姿勢」に着目する。

無謬主義である医療業界には、「完璧でないことは無能に等しい」という考え方が是とされる。失敗は脅威であり不名誉なこととされているため、スタッフはエラーマネジメント(ミスの防止・発見)のトレーニングをほぼ受けていないという。

ミスが起きたとき、人は失敗を隠そうとする。自分を守るために、失敗を認めようとはしない。ちょうど映画のシーンを編集でカットするように、失敗の記憶を消し去ってしまう。自分の過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまうこともある。

1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300のヒヤリ・ハットが存在するという。ヒヤリ・ハットは揉み消され、インシデントが共有されることはない。

ひとたび事故が起きて、予期せぬ結果について説明が必要なとき、どう答えるのか?

医療事故の調査によると、「ミス」ではなく「複雑な事態が起こった」と表現されるという。「技術的な問題が生じた」「不測の事態によって」といった婉曲法によって明らかにしない。情報開示に対する抵抗は強く、「患者が知る必要がない」「言っても理解できない」という言葉を盾に取り、事実を語ろうとしない。

疫学的調査によると、受診1万件につき、医療ミスを原因とする深刻な損傷が44~66件発生しているという。しかし、実際にヒアリングをしたところ、この結果通りの申告をしている病院は1%に過ぎなかったという。また、50%の病院は、受診1万件につき5件未満と報告していた。つまり、大半の病院が組織的に言い逃れをしていることになる。

ミスを認めない体質により、インシデントが共有されず、再発が繰り返され、重大事故につながる―――この負のスパイラルは、医療業界に限ったことではないという。あり得ない証拠をでっち上げる検察官や、自己保身のあまり事実を捻じ曲げる経済学者が登場する。

では、こうしたミスを無くすにはどうすれば良いか?

「失敗は悪」として罰則を設ければよいという考えがある。ミスを厳罰化することで規律を正そうとする発想である。

この仮説を検証するためにリサーチが行われた。投薬ミスが慢性化している複数の病院が選ばれ、一つのグループは懲罰志向で、ミスを厳しく問い詰めさせた。もう一つのグループは非難をしない方針で運営した。

もうお分かりかと思うが、懲罰志向のグループにおいては、ミスの報告は激減した。一方、非難しないグループでは、報告件数は変わらなかった。そして、実際にミスが起きた件数は、懲罰志向のグループが遥かに多かったという。

これと似た経験がある。かつて「品質を向上させるため、バグをゼロにする」というトチ狂った信条の上司が着任し、エラーを見つけ次第、厳しく叱責するようになった。バグは激減したのだが、それは品質が良くなったわけではなく、報告されなくなったに過ぎない(その上司が離任するまで、報告用とは別の管理簿を作ってしのいだ)。

同様に、かつて「いじめ撲滅」を目標にして、いじめが起きた学校や教室を処罰対象にする試みが行われた。数字の上ではいじめは減ったが、告発の手紙を遺して自殺した子どもに対しても、「いじめではなかった」と強弁されていた(レビュー『測りすぎ』参照)。

では、どうすればよいか?

失敗を認め、そこから学習することで、再発させない。どうすればこれが実現可能になるのか?

本書では、ミシガン州立大学での実験が紹介されている。被験者に単純なテストを受けてもらい、ミスをした時にどのように反応するかを、脳波測定する実験だ。

着目するべき脳信号は2つあるという。1つ目は、自分のミスに気づいた後50ミリ秒で自動的に現れる信号だ。これは「エラー関連陰性電位(ERN)」と呼ばれ、エラーを検出する機能に関連する前帯状皮質に生じる反応になる。

2つ目は、これはミスの200~500ミリ秒後に生じる信号になる。「エラー陽性電位(Pe)」と呼ばれ、自分が犯したミスに意識的に着目するときに現れる。

自分のミスに気づくERNの信号と、そのミスを意識的に着目するPeの信号、この2つの信号が強いほど、失敗から素早く学ぼうとする傾向があることが分かった。さらに、Peの信号が強い人ほど、「知性や才能は努力によって伸びる」と考える傾向があったという。

ミスから学ぼうとするマインドセットは、個人のみならず組織でも育成できる。

本書では、究極の失敗型アプローチとして「事前検死」が紹介されている。

人の死の原因や状況を明らかにする「検死」は、あたりまえなのだが、人が死んだ「後」に行われるものだ。だが、「事前」とはどういう意味だろうか?

これはpost-mortem(検死)をもじった造語で、pre-mortem(事前検死)になる。プロジェクトが終わった後に振り返るのではなく、実施前に検証するのだ。

まだ始まってもいないのに、「プロジェクトは大失敗でした。なぜですか?」という問いを立て、失敗していないうちから失敗を想定して学ぼうとする手法である。メンバーは、プロジェクトに対し否定的だと受け止められることを恐れず、懸念していることをオープンに話し合うことができる。

これはわたしも行っている。ディスカッションで「もし上手くいかないことがあるとしたら、それはどんな理由?ヤバい順に考えてみよう」と問うて反応を見るやり方だ。荒唐無稽なやつから割と現実的なものまで出てくる。

人だから、ミスが起きるのは当然のこと。そのミスを再発させず、トラブルにまでつなげない仕組みが必要となる。そのためには、まずエラーを受け入れるオープンな姿勢が肝要となる。

フランスでの試みだが、エラーを称賛し、学習・共有する文化を広げようとする『なぜエラーが医療事故を減らすのか』(レビュー)は、まさにこれだろう。

ヒヤリ・ハットから事故への連鎖を止めるための、様々な事例が紹介されている。例えば、成人向けと小児向けの薬剤を同じ棚に置かない。会話のプロトコルをルール化し、「入力の"打つ"」と「注射の"打つ"」と分けて復唱させることで、単に「打つ」だけで伝えないようにする(「この薬剤を打っておいて」と言われたら、「その薬剤データを入力しておくのですよね」と復唱する)。あるいは、多すぎる薬量がオーダーされた場合にはシステムが警告する。

有形無形のさまざまな関所が設けられている。

こうした関所のことを、並べたスイス・チーズで視覚的にモデル化する。一つ一つのチーズは穴だらけだが、並べることにより、エラーという矢の通り道を塞ぐ。幾つもの穴をすり抜け、刺さったチーズが「ヒヤリ・ハット」になる。それぞれのチェックは完璧ではないが、エラーの原因は一つとは限らない。刺さった最後のチーズは確かに目立つかも知れないが、そこへ至る一連の流れを見なおし、各ステップでの不具合を見つけ出し、システム全体としての改善を図ることが必要になる。

スイス・チーズ・モデルに基づけば、不幸にして最後のチーズとなった医療者を責めるのは意味がない。事故の当事者は、たくさんあったはずの防御装置の欠陥を明るみに出した者にすぎないのだから。

ヒューマンエラーは原因ではなく、むしろ結果なのだ。これを報告・学習できる組織になるために、マネジメント層へ『失敗の科学』をお薦めしたい。


毎日を楽しむことが人生を楽しむこと
『三拍子の娘』町田メロメ

N/A

この魅力、読んでもらった方が早い。「卵10個割った」

この一話で取り込まれ、追いかけてるうちに完結した(全3巻)。

  • 苦労の星のもとに生まれたが、奇跡的に楽天的に育った長女・すみ(28歳)
  • めんどくさがりで自堕落だけど、愛嬌だけでねじ伏せてきた次女・とら(22歳)
  • 秀才で美少女で健気な女子高生・ふじ(18歳)。

この三人が一つ屋根の下で暮らす毎日を描いたのが、『三拍子の娘』だ。特別なことなんてなく、穏やかで楽しくて愛おしい日々がつづられるのだが、母に死に別れ、父に捨てられるという、わりとキツい過去を抱えている。

それでも、ポジティブに向き合おうとする姿勢に共感する。下向いててはやってられねーという気分にさせられる。日常の切り取り方がエッセイのようにさりげない一方で、脳内で展開される壮大な宇宙や菩薩像とのアンバランスも楽しい。

健気さにグッくるセリフもある。例えばこれ。

大人になったら
自分で自分を幸せにしなくちゃいけないの!
だから今のうちくらいは
私たちが幸せにしてあげる!

で、どんな風に幸せにするかは第46話「この土曜日はわたしのもの」で確認してほしい。「この土曜日はわたしのもの」と叫びたくなるくらいハッピーになるには、自分にとって何なのか、思い巡らせたくなるから。


ナチスを神話にさせないために
『ナチスは「良いこと」もしたのか?』小野寺拓也、田野大輔
『縞模様のパジャマの少年』マーク・ハーマン監督

N/A

「ナチスがしたことは悪行だけではない。良いこともした」という言説を見かける。悪の代名詞とも言われるナチスだが、評価できる部分があるという主張だ。

例えば、公共事業を拡大して失業者を減らすことで経済復興を果たしたり、充実した家族政策により出生数を向上させた。もちろんそれでナチスの蛮行が減殺されることはありえないが、これらは「良いこと」と言えるのではないか、という意見だ。

『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』は、こうした見方に異議を唱える。ナチスがした「良いこと」とされる政策の一つ一つを取り上げ、その背景や目的を精査し、ナチスのオリジナルなものだったか、さらに成果を生んだものかを考察する。

結論を一言で述べると、著者のこのツイートになる。著者は歴史学者であり、ドイツ現代史を専門としているプロフェッショナルである。

例えば、経済政策だ。

ヒトラーが政権に就いてわずか数年でドイツの雇用状況が劇的に改善され、失業問題がほぼ解決したのは事実だという。雇用の安定と共に経済も回復し、国民総生産も急増したという。

ドイツの経済の奇跡はどのように成し遂げられたのか。その理由として、アウトバーンの建設や、様々な雇用創出計画が挙げられる。ナチスは「良いこと」もしたという人は、こうした経済政策を指摘する。

これに対し、前政権のパー ペン・シュライヒャーの政策を引き継いだものに過ぎないという。ナチスが何か新機軸を打ち出したわけではなく、いわば手成りの政策を踏襲しただけである。そのため、ナチスの功績として称えるには当たらないという。

さらに、ナチ政権下での雇用回復の原因は、ヒトラーが政権を握る前に、ドイツ経済が景気の底を脱し、回復局面に入ったからだという。恐慌時に大量解雇やコスト削減を進めた企業努力や、前政権の対策が効果を上げ始めていたが、それら全ては「総統の功績」としてプロパガンダされた。

まだある。ヒトラーの「ドイツ経済は4年後に戦争可能になっていなければならない」という計画の下、なりふり構わず軍備拡張に注力した。ダミー会社が発行する擬似公債「メフォ手形」を導入することで、軍需取引を国内外の目から隠し、最終的には国家支出の61%に達したという。爆発的に増えた財政支出を軍備に振り向けた結果、1936年頃から軍需産業を中心に好景気に沸くことになる。

これに加え、占領地域に対する経費・分担金の要求や、ユダヤ人からの収奪、外国人労働者の強制労働など、ナチスがした「悪いこと」が挙げられている。こうした背景を考えると、「ナチス政権で経済は回復したのだから、『良いこと』もした」というのは一面的すぎるという。

なお、ナチス体制を経済から捉えなおした白眉といえばアダム・トゥーズ『ナチス 破壊の経済』がある。訳者・山形浩生氏によると、「ナチスが果たした経済回復」という通俗的な理解を、膨大なデータを実証的に用いて覆しているとのこと [ALL REVIEWS ナチス 破壊の経済]

あるいは、ナチスがした家族政策だ。

例えば、結婚したばかりのカップルに100ライヒスマルク(現在の価値で70万円強)が貸与され、子どもを1人産むごとに返済が一部免除され、4人産めば全額もらえるという制度がある。あるいは、母親学校を開催し、乳児の下着やベッド、食料品などの現物支給があった。

だが、こうした支援策は、どんな政策とセットで行われたのかを考慮する必要があるという。支援対象となったのは、ナチスにとって政治的に信用ができ、人種的・遺伝的な問題もクリアされていることが前提となる。ナチスが「反社会的分子」とした人々はここから排除され、障碍者の場合は断種されていた。さらに、支援対象となっていても、子どもを産まない「繁殖拒否者」には罰金が科されていた。

こうした背景には、人種主義的な「民族共同体」を作るという目的があったことを指摘する。「人種的に価値の高い」ドイツ人を増やすための施策であり、結婚資金の貸付を行ったという部分だけを切り取って、「良いこと」とするのは短絡的だというのだ。

出生数の増加についても容赦がない。事実として、1000人あたりの出生数は、1933年には落ち込んでいた(14.7人)が、1939年に増加した(20.3人)。だがこれは、景気回復により結婚の絶対数が増えたためであり、出産奨励策の影響は限定的だという。

他にも、労働者のための福利厚生や、環境保護政策、タバコ撲滅運動など、ナチスがした「良いこと」とされる政策について、背景や有効性を検証する。

一見「良いこと」に見えても、到底同意できない目的の下に実施されていたり、プロパガンダによってナチスの功績とされたことが次々と指摘される。

冒頭に引用したツイートに対し、賛同する声が上がる一方で、「ナチスはこんな『良いこと』もした」という反対意見が殺到し、炎上状態になった。本書は、そうした意見に対する、歴史学の知見からのアンサーとなっている。

この知見は、いま・ここでも適用できる。一見「良い」とされる施策でも、その目的が何であり、どのような政策とセットで行われるのかを吟味する必要がある。さらに、ある施策の一部分だけを切り取って「悪い」とみなす短慮も抑制すべきだろう。

「良い」「悪い」といった言葉は、主観的で、個人の価値観や社会的な規範、そして時代や文化によっても定義が変わってしまう。「ナチスは『良いこと』もした」という人は、どこを切り取り、どういう価値観に則した上でそう言えるのかを明らかにしないと、水掛け論の沼にハマるだろう。

ナチスがらみでもう一つ。

見ると確実に胸糞が悪くなる映画ワーストNo2である、『縞模様のパジャマの少年』を観た。このワースト順位は『後味が悪すぎる49本の映画』で付けられたものだ。

N/A

胸糞映画としてよく挙げられる『ミスト』(第10位)や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(第4位)をブチ抜いているから、さぞかし嫌な気分になるだろう―――とワクワクしながら観た。

結論から述べると、Amazonの紹介文の通りだった。

忘れられない映画だ力強く、言葉にできないほど感動的だ」(ピート・ハモンド)。純真無垢な8歳の少年ブルーノは、母親の言うことを聞かずに林へ冒険に出かける。すぐに一人の少年と出会い、奇妙な友情を育んでいく。舞台は第二次世界大戦下。人間の魂の力をテーマとするこの感動的で素晴らしいストーリーは、あなたの心をつかんで離さないだろう。

『後味が悪すぎる~』では「唯一無二の絶望感」と評するが、同じ絶望感は、ドラム式洗濯機にまつわる事故を知ったときに味わったことがある(検索しないように!)。

最初は、ナチスが流ちょうな英語をしゃべるのに違和感があるし、100回観た『大脱走』と比べると警備が甘いんちゃう?とツッコミを入れたくなるが、そこは仕方がない。

「縞模様のパジャマ」とは、収容所の囚人服だ。劣悪な環境でろくな食事も得られず、常に飢えている。そんな彼(シュムール)と出会い、鉄条網越しに友情をはぐくむ主人公ブルーノの物語だ。

これ、胸糞映画という警告抜きで、単純にポスター見ただけで映画館に入った人にとっては、酷すぎることになっただろう。少年の運命に唖然とし、その理不尽さに憤り、可哀そうに思って涙するだろう。

そして、その少年を不憫に思っている自分が、たまらなくイヤになるだろう。一緒になって収容されている他の人々は?背景のモブのように描かれているが、その一人一人が同じ運命に向かっていくのに、その少年を呼ぶ声だけに胸を裂かれている自分は?と思えてくる。

素晴らしく胸糞悪いラストは、絶対に忘れることが無いだろう。そして、嫌な気分になりたいときに、このポスターを眺めるだけで味わえる。

収容所で行われたことは悪魔の所業そのものだが、ラストは、運命が悪魔に抗っているとみなすこともできる。悪に抗っているという一点だけを切り取れば、「良いこと」といえるだろうか? いや、決してそうは言えない。どう切り取っても悪でしかなく、悪いことしか起きない映画として傑作だ。

N/A

ナチスを神話にさせないために、定期的に観返していくつもり。


最先端テクノロジーを哲学する
『技術哲学講義』M.クーケルバーク

N/A

「セックスロボットは悪なのか」という議論がある。

精巧につくられた等身大のドールで、触れると温かい。センサーとAIにより、ユーザーが望む反応を学習して応答する、ロボット工学と人工知能の粋を集めたアンドロイドだ。

愛情を深め合うコミュニケーション手段としてのセックスが蔑ろにされ、女性蔑視や暴力へつながるかもしれない。一方で、感染症の心配もなく安心して愛情を注げるパートナーに救われる人もいるだろう。

あるいは、「アンドロイドが運転する車が事故を起こしたら、誰に責任を問うべきか?」という議論がある。

AIは人間よりも安全運転できるだろうから、自動運転をベースとした車社会を設計すべきだという意見がある。一方で、プログラムや学習データの不具合によってAIが暴走する可能性は残されており、その影響は計り知れないという人もいる。

こうした議論は、論点が噛み合わないか、漠然とした話になりがちだ。意識とは何かが曖昧なまま「AIには心がある/ない」といった水掛け論になったり、トロリー問題を引き合いにしつつ「功利主義なら倫理をプログラミングできる」といった「can(できる)」と「should(すべき)」をすり替える話になる。

ともすると堂々巡りに陥りがちな議論を整理し、概念や価値観を明確にしながら、新たな視点を提供するのは哲学の出番だ。そして、技術にまつわる領域において、技術とは何か、技術の発展は社会にどんな影響を与え、幸福をもたらすのかといった問題を考えるのが、技術哲学になる。

『技術哲学講義』(M.クーケルバーク、丸善出版、2023)は、技術哲学について書かれた教科書だ。技術と社会で生じる様々な課題が整理され、議論の最先端が紹介されている。日本語で読める網羅性の高い一冊で、文系・理系、アカデミック・実社会という枠を超えてお薦めできる。

例えば、冒頭の「AIと倫理」について。様々な主張が飛び交っており、どれかを決めるというより、決め方をどうすればよいか?という所で袋小路に行き当たっていた。

ところが本書では、私が行き詰まっている前提に、プロパティアプローチがあるという。プロパティ(属性)から道徳的な権利が導かれるという考え方だ。つまり、単なるモノに過ぎないのか、あるいは人間とのパートナーなのかといった立場は、対象の属性が決めているという論法である。

ロボットについて考えてみよう。

 1. あらゆる意識をもつ存在は、道徳的な権利を持つ

 2. この存在(このロボット)は、意識を持たない

 3. ゆえに、このロボットは道徳的権利を持たない

ここでは「意識を持つ」かどうかが判断の基準となっているが、「感じることができる」「人間らしい反応をする」など、様々なプロパティ(属性)が挙げられる。これが絶対というものを決めるのは難しいだろうし、そもそも正しい組み合わせがあるのかも分からない。

著者・クーケルバークは、問題は2つあると指摘する。

ひとつめの問題は、そうした属性が何かというのではなく、この1~3の決め方そのものにある。1の「あらゆる意識を持つ存在は、道徳的な権利を持つ」という前提は、なぜそう言えるのか?「意識」の箇所を、感情、心、経験などのいくつか、あるいは全てに置き換えたとしても、その前提が正しいと確信できるのか(いやない)

もう一つの問題は、そうした「意識」「感情」「心」といったものが特定できていない点にある。ロボットが経験し、感じていることが、私たちの「感情」や「経験」と同じだと断定できない。それにもかかわらず、両者を同じだとする前提から始めていることが問題なのだ。

議論の対象となる存在の属性を分解し、どの属性を満たせば合格とするかといったプロパティアプローチでは、遅かれ早かれ行き詰まることなる

では、どうすればよいか?

著者はデリダやレヴィナスの現象学からのアプローチを紹介する。他者の属性を分解するのではなく、他者と自己の関係性に着目し、他者が自分にとってどのような存在であるか、自分の経験や意識の中で他者がどのように現れるかに焦点を当てる。

例えば、ロボットやAIについて議論をするとき、私たちは、対象を何と呼んでいるかに着目してみる。ある人は、それ(it)と呼ぶだろうし、あるいは彼女(her)と呼ぶ人もいるかもしれない(AIのフランス語 intelligence artificielle は女性名詞)。名詞だけでなく、ロボットを「使う」やロボットと「会う」、ロボットに「話しかける」といった表現にも関係性が現れてくる。

ロボットをモノ(it)として使役する人と、ヒト(her)のように扱う人の意見が異なってくるのは、当然の帰結だろう。前者からは、セックスロボットは「モノ」なのだから壊そうと何しようと勝手だという話になる。後者からは、「ヒト」のようなパートナーだから人倫にもとる扱いは、その人の人間関係にまで悪影響を及ぼすという主張になる。

そして、その人がロボットをどのように語るかは、それ以前のロボットにまつわる経験に依存する。未来の世界のネコ型ロボットに馴染んだ人と、未来から送られてきた殺人マシーンを見てきた人では、全く印象が異なるだろう。

そこには時代や地域性があるかもしれない。ロボットにまつわる物語は、時代や地域によって変わるからだ。「アメリカ製人工知能が暴走すると世界征服を目論むが、日本製人工知能が暴走すると冴えない男と恋に落ちる」という冗句の通り、ロボットとの関係性に地域差があるのかもしれぬ。

著者は、道徳的態度は文化に依存すると説く。

道徳のコミュニティに「誰(who)」が含まれ「何(what)」が排除されるのかの違いを決定する際、それぞれの単語は、「含む」「排除する」という行為の一部となっていて、道徳的に中立ではないのだ。

つまり、対象についての関係性を語るときに、私たちが使っている言葉の中に、既に価値判断や思考が反映されている。従って「AIと倫理」という問題は、関係性の分析によって見えるコミュニティごとに、取り組み方が変わってくるだろう。

ここでは、AIと倫理を巡る議論の一部を紹介したが、本書では、他にも様々な問題が扱われている。ごく一部を紹介する。

採用試験のプログラムに偏りがあり、黒人男性は犯罪リスクが高めに判定されていた。裁判沙汰になりプログラムは改修されたが、そもそもAIがモラル判断をしてもよいのか?

私たちはSNSに個人情報や興味や時間を「搾取」されているのか?あるいはSNSは新しい大衆社会の成立に寄与しているのか?

文字を使うことで記憶力が弱まり知識が表層的になるとプラトンは主張したが、Googleなどの強力な検索エンジンによって、ますます人は覚えなくなるのではないか?

超音波検査によって胎児の異常が把握できるようになる一方、ダウン症などの重い病気の場合に人工中絶するかの判断が求められるようになった。これは「よい」ことなのか?

よく、「哲学は正解の無い不毛な問いに取り組んでいる」とそしる人がいるが、的外れだ。

「正解」を単純に計算したり測定できる問題は、それぞれの学問領域に引き取られており、簡単には出せないものが、哲学に引きつけられている。そして、正解に近づけるための問答が積み重ねられている。

積み重ねを無視して問題に取り組もうとすると、前提の取り違えや議論のすり替え、詭弁によって堂々巡りに陥るだろう。

技術と社会を巡る問題を、より深く・効率的に考えるための一冊。


人生で一番お薦めしたマンガ
『寄生獣』岩明均

N/A

「あなたにとって、人生最高のマンガは?」というお題は、かなり難しい。

鋼の錬金術師、アドルフに告ぐ、HUNTER×HUNTER、ハイキュー!!、ゴールデンカムイ、ザ・ワールド・イズ・マイン……二度と忘れられぬ斬新な表現だったり、魂を撃ち抜くストーリー、感情をぐちゃぐちゃにする展開に数日茫然としたり、脳汁ダダ漏れのカタルシスに多幸感あふれまくりだったり、マンガの最高を決めるのは不可能だ(だいたい、そのときの気分や心の向き先によって最高がコロコロ変わるのが常)。

しかし、「わたしが一番お薦めしたマンガは?」と質問を変えるなら、『寄生獣』一択になる。

計算され尽くした物語としての面白さだけでなく、込められたメッセージの消化率、読む度に考えさせられ「自分ならどうする?」とぐるぐるさせられる哲学的な問題など、自分ひとりだけで考えて語るのはもったいない、もっと沢山の人に読んでもらわねば……!と布教し続けてきた。単行本、デラックス版、文庫版、さまざまなバージョンを買っては布教し、買っては布教した結果、紙媒体のものは手元にない。

『SFマンガで倫理学』で紹介されていたのをきっかけに、電子版を購入して一気読みして、アニメ『寄生獣 セイの格率』を観て、さらに本編の裏側を描いた『寄生獣 リバーシ』も読んだ。どちらも素晴らしかったナリ。

ただ、今回の再読で気付いた疑問がある。ネタバレに配慮しつつ書くと、「なぜ市役所は包囲されたか」だ。

”それ”の存在は、部分的には知られていたものの、組織立てて行動をして、市役所ひいては彼をターゲットとして大規模な人員を動員するほどまでは、確証が無かったはずだ。だいたい、あの作戦を誰が許可するか(許可できるか)を考えると、”それ”の存在よりも困難に思えてくる。

この謎について、『寄生獣 リバーシ』で一部明かされていたので、喉のつっかえが降りた気分になった。

N/A

もう一点、アニメの寄生獣で気づいたのだが、いわゆるグロシーンは極端に暗い画像になっている。これは寄生獣だけでなく、Reゼロ、魔女の旅々などでもそうなので、時代がそうなっているのだろうと感じた。子どもに言わせると「原作がグロすぎる」ということで、アニメの配慮が妥当だそうな。

万が一、あなたが寄生獣を知らなかったなら、幸せものだ。この傑作をまっさらな状態から読めるなんて、素晴らしい体験になるに違いない。読むべし、読むべし。


このフィクションがスゴい!2024
『百年の孤独』ガブリエル・ガルシア=マルケス

N/A

人生で3冊読んだけど、3冊とも面白かった。

最初は水色のハードカバー版で、次は白黒のやつ、そして最近出た新潮文庫を読んだことになる。ストーリーは知っているし、あのラストの感情の奔流は何度も味わっているのに、それでも無類に面白い。

何度も読んだのに、なぜ、面白いのだろうか?

まともな人間が(ほぼ)誰もいないブエンディア一族の奇妙な生きざまや、日常的に非日常が描かれるマジックリアリズムの磁力、あるいは、奇妙で悲惨でユーモラスなエピソードが隙間なく詰め込まれているストーリーは、どこから見ても面白い。

しかし、3冊目の新潮文庫を読みながら、そうしたストーリーやキャラだけでなく、『百年の孤独』そのものに面白さが練り込まれていることに気づいた。

ここでは、物語の展開や登場人物の運命にはできるだけ触れずに、ネタバレ抜きで、『百年の孤独』の面白さを語ってみる。

例えば、中毒性のある文章について。『百年の孤独』の書き出しだ。

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。
(新潮文庫版 p.9)

銃殺隊?
ブエンディア大佐?
「あの遠い日の午後」って?

疑問が次々と湧き上がるが、説明は一切無い。

そもそも、この文章はヘンだ。「長い年月が流れて」なら、未来の話だろうし、「あの遠い日の午後を思い出した」のは過去の話になる。では、これをしゃべる語り手はいつの場所にいるのか?あるいはこれを聞いている(読んでいる)私は、どの時代にいるのか?

もちろん、すべての物語が終わった後、神の目線から、過去のお話を聞いているのだという解釈は成り立つ。事実、ほとんどの文章は過去形なので、昔話の民話だと見なすことは可能だ。

だが、語り手自身が分かっていないことをしゃべっているようにも見える箇所がある。まだ起きていない未来の出来事だからと留保付きで述べるのだ。「思い出したに違いない」なんてまさにそうで、違和感がついてまわる(普通なら「思い出した」に留めるはずだ。なぜなら、すべてが終わった過去を振り返っているのだから)。

物語は進んでゆくうちに、「あの遠い日の午後」も語られるし、アウレリャノ・ブエンディアが「大佐」になるエピソードも紡がれるし、銃殺隊の前に立つシーンも出てくる。しかし、彼が夏の日の午後を思い出したかどうかは、そのシーン、つまり銃殺隊の前に立つ場面にならない限り、語り手自身も分かっていないのではないか―――そういう予感がついてまわる。

そんな文章が要所要所に練り込まれている。

大丈夫、ほとんどの文は普通に読めるのだが、アウレリャノ・ブエンディア大佐のエピソードはくり返し触れられ、語られているので分かりやすいのだが、他にも、こうした違和感を掻き立て、目を留める引っ掛かりが設けられている。

これを一種のフラグ、伏線の変異体と見なしてもよいが、引っ掛かる度に、聞いている(読んでいる)この瞬間が、いつなのかを見失う。。

読み進めていくうちに、違和感の正体は、「銃殺隊の前に立つ」時と、「初めて氷というものを見た」時間、そして「思い出したに違いない」と語るときが、同じ瞬間に集約されているのではないかという疑いに変化する。そして読み終わるとき、この違和感は、『百年の孤独』そのものを貫く巨大な伏線だったことが明らかになる。

既視感と未視感が混ざったような、軽い吐き気を覚える。『百年の孤独』で感じる中毒性の正体の一つがこれ。

物語で繰り返される変奏が、この既視感+未視感をさらに加速させる。

例えば、「この会話は以前にした(はず)。それも別の人が別の時に」という既視感(聞いているから既聴感か)。

「何をぼんやりしているの」。ウルスラはほっと溜め息をついた。「時間がどんどんたってしまうわ」
「そうだね」とうなずいて、アウレリャノは答えた。「でも、まだそれほどじゃないよ」
(新潮文庫版 p.196)

事態は切迫しており、取り返しのつかない状況になりつつある。話ができる時間は限られているのに、言いたいことは言えなくて沈黙が長引き、ありふれた日常の会話に戻っていくシーンだ。

そこから2世代たってから、こんな会話が交わされる。

曾祖母の声に気づいた彼はドアのほうを振り向き、笑顔を作りながら、無意識のうちに昔のウルスラの言葉をくり返した。

「仕方がないさ。時がたったんだもの」つぶやくようなその声を聞いて、ウルスラは言った。「それもそうだけど。でも、そんなにたっちゃいないよ」

答えながら彼女は、死刑囚の房にいたアウレリャノ・ブエンディア大佐と々返事をしていることに気づいた。たったいま口にしたとおり、時は少しも流れず、ただ堂々めぐりをしているだけであることをあらためて知り、身震いした。

(新潮文庫版 p.508)

この、くり返しのテーマは、時を超え形を変え、さまざまなバリエーションで語られる。

はっきりと登場人物の会話や独白に現れるものもあれば、違う人物が同じ行動をするといった描写に表現されるものもある。さらには、世代を超えて似通った選択をし、同じ運命にたどり着くことでも描かれている。

ただし、くり返しのテーマは、分かりやすくない。むしろ、わざと複雑に、錯綜させて書いているように見える。会話の端々に現れる「堂々めぐり」「くり返し」は分かりよい方で、読み解きというよりも、聴き手の印象を操作するように描いている。

その顕著な例が、名前だ。

ホセ・アルカディオ・ブェンディア
ホセ・アルカディオ
アウレリャノ(大佐)
アルカディオ
アウレリャノ・ホセ
ホセ・アルカディオ(法王見習い)

これら全て別人物だ。「アルカディオ」や「アウレリャノ」が並んでおり、一読しても、誰が誰の話なのか、すぐに分からなくなる(似たような行動や似たような運命を辿るので、最初に読んだときは迷子になったものだ)。まるで、うっそうと茂った樹木の葉っぱの見分けがつかなくなるように、意図的に混同させるように名づけを行っている。

家系図は樹木構造をするのだが、ブエンディア一族の家系図は、ツリー状に広がっていきつつ、一族内での混交も起きている。女を共有したり、一族同士で結ばれることによって、広がった枝が畳み込まれ、一体化しているようにも見える。

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初読のときは迷子になって、家系図と人物相関図を作ったりしたものだが、そのうち諦めた。代わりに、誰の話なのかというよりも、むしろ、何の話なのかを注視するようにした。

そうすると、度胸があって面倒見がいいけれど、短絡的な性格が災いを呼び寄せる「アルカディオ」と、物静かで頭が良く、コツコツと時間をかけて運命を変えてゆく「アウレリャノ」という、2つの資質が練り込まれていることに気づく。

そして、度胸があって面倒見がよく、物静かで頭もいいのが、一族の祖である、ホセ・アルカディオ・ブェンディアであることが見えてくる。そして、彼の行動や言葉を、その子孫たちがなぞっているようにも見える。つまり、ホセ・アルカディオ・ブェンディアの人生の中に、一族の運命が練り込まれていると読むことだってできる。

つまり、一族の全体の構造が部分にも同じ形で現れているのだ。

例えば、ホセ・アルカディオの生き様をアルカディオがなぞり、ホセ・アルカディオ(法王見習い)が受け継いでいる。各人の資質が同じ形で運命に現れる。男だけでなく女の運命も互いに似通っており、一人の女の話をしているのか、他の誰かの巡りあわせをなぞっているのか、分からなくなる。

もつれあい、絡み合う部分は、カメラを引くと一族の全体になる。やろうとすれば、この物語は無限に続けることができるだろう。

しかし、物語はいつか終わる。

既視感と未視感と違和感、物語のフラクタルな構造、浮かび上がってくる再帰的なテーマ、これらを抱きつつ後半に差し掛かると、怒涛の奔流に呑み込まれ、もみくちゃにされるだろう。そしてラスト、(ゆっくり読んだ方がいいのに)巻き上がる風に吸い込まれるように、急いで最後のページまで読もうとするだろう。

そして読み終えるとき、自分が完全にこの一冊に取り込まれており、この小さな一冊に、無と無限が詰め込まれていることに気づくだろう。

ハードカバー版よりも小さい新潮文庫版だと、この思いがより一層強く感じられる。全てが入っていながらも、無である世界。それが『百年の孤独』だ。

『百年の孤独』の読書会も楽しかった。「どこに付箋を貼ったか」「『百年』の後に読みたい一冊は何か?」など、読めば語りたくなるし、語るほどさらに読みたくなるお話ばかりだった。はてなブックマークの皆さんへの応答も入れて、[『百年の孤独』をみんなで読むと100倍面白い]にまとめた。主催のマヤさん(@Mayaya1986)、楽しい会をありがとうございました!

文庫版『百年の孤独』の解説で、筒井康隆がベタ誉めをしていた『族長の秋』がある。命令形で「読め」とまで言っているので、こりゃ読まねばと読んだら凄まじい一冊だった。わたしへのインパクトは、[筒井康隆が『百年の孤独』を読んだら絶対に読めと命令形でお薦めしたガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』はどこまで笑っていいグロテスクなのか分からないバケモノみたいな傑作だった]に書いてある。

けして万人にお薦めしない(できない)傑作なのだが、なんとこれ、来年、新潮文庫で復刊されるとのこと。エグすぎる傑作なので、心して取り組んで欲しい。


このノンフィクションがスゴい!2024
『美術の物語』エルンスト・ゴンブリッチ

N/A

世界で最も読まれている美術の本。原始の洞窟壁画からモダンアートまで、西洋のみならず東洋も視野に入れ、美術の全体を紹介している。これほど広く長く読まれている美術書は珍しい。「入門書」と銘打ってはいるものの、これはバイブル級の名著として末永く手元に置いておきたい。

『美術の物語』は、ハードカバーの巨大なやつと、ポケット版がある。ポケット版は、長らく絶版状態となっており、べらぼうな値段がついていたが、今秋、復刊された(めでたい!)。

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PHAIDON社のポケット版(絶版)

本書のおかげで、興味と好奇心に導かれるままツマミ食いしてきた作品群が、社会や伝統のつながりの中で捉えられるようになった。同時に、「私に合わない」と一瞥で判断してきたことがいかに誤っており、そこに世界を理解する手段が眠っていることに気づかされる。さらに、美術品の善し悪し云々ではなく、人類が世界をどのように「見て」きたのかというテーマにまで拡張しうる、まさに珠玉の一冊なり。

まず、軽妙で明快な語り口に引きよせられる。このテの本にありがちな、固有名詞と年代と様式の羅列は、著者自身により封印されている。代わりに、「その時代や社会において、作品がどのような位置を占めていたか」に焦点が合わせられている。今でこそ美術館や博物館に陳列されている作品は、最初から「美術作品」として制作されていなかった。それは、儀式を執り行うための呪術具であったり、文字の読めない人々に教義を説く舞台装置だったり、視覚効果の実験場として扱われていた。

ゴンブリッチは、そうした文脈から切り離されたところで美術を語ることはできないという。すなわち、時代のそれぞれの要請に対して、画家や彫刻家たちが、置かれている状況や前提、制度、そして流行に則ってきた応答こそが、美術の物語たりえるというのだ。

これこそ「美術」というものが存在するわけではない。作る人たちが存在するだけだ。男女を問わず、彼らは形と色を扱うすばらしい才能に恵まれていて、「これで決まり」と言えるところまでバランスを追求する。

そして、エジプト美術から実験芸術まで、色と形のバランスの試行錯誤が、物語の形で一気に展開されるのだが、これがめっぽう面白い。というのも、これは克服と喪失の歴史だからだ。

単純に「見ているものを見たまま描く」ことに収斂するならば簡単だ。しかし、そうは問屋が卸さない。この問題を追及するとき、必ずぶつかる壁があるからだ。三次元の空間をいかに二次元で表現するか、「光」をどう表現するか、静止したメディアの中で、いかに動きを生み出していくか、細部の明瞭さと再現性のトレードオフ、そして、「ちょうどいい構成」とは何かという最重要課題がある。さまざまな時代の芸術家たちがこの課題に取り組み、成果を挙げ、ときには危機に陥りながらも技術をつないできた。

たとえば、「見たままを描く」問題について。古代エジプトの画家は、「見たまま」ではなく、「知っている」ことを基準に描いた。つまり、人体を表現するとき、その特徴が最も良く出ている角度からのパーツを組み合わせたのだ。顔は横顔だが目は正面から、手足は横からだが、胴体は正面図といった描き方は、古代エジプト美術の様式としてルール化された。絵を描くことに慣れていない人や子どもが、この描き方をする。

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ツタンカーメンの「目」は正面、「足」は横からになっている

絵に短縮法(foreshortening)を入れたのは、ギリシャ人だという。手前のものは大きく、奥のものは小さく描くことで、「見えている」ことを表わそうとした。ルネサンス期においても、遠近法や解剖学の知見により、「世界はこう見えるはず」という前提に則って描かれてきた。

しかし、世界は本当に「見えるように」描かれてきただろうか。美しい肉体美を生き生きとした形で「リアルに」表現した作品であるならば、それは、「見えるように」ではなく「見たいように」描かれた理想像にすぎない。また、毛の一本一本や各部分の輪郭を精密に描いたとしても、それは拡大された世界であって、決して見る人(≠描く人)が見る像ではない。本書では、ダ・ヴィンチとミケランジェロ、ラファエロとティツィアーノ、コレッジョとジョルジョーネ、デューラーとホルバインといった巨匠たちの作品を一つ一つ挙げながら、こうした問題がどのように取り組まれていったかを詳しくたどる。

いちばん驚いたのが、レオナルドの『モナ・リザ』だ。これは、見る人に想像の余地を「わざと」残している作品だという。人間の目の仕組みを知り尽くしているからこそあんな風に描いているというのだ。人は「そこにある」ことが分かっている物については、適切なヒントを与えることで、目が勝手に形を作り上げてくれる。輪郭線をくっきりさせず、形が陰の中に消えて、形と形が溶け合うように、柔らかい色彩でぼかして描く。この仕掛けを教わった後、図版と向き合うと、まるで初めてかのように見え、動いていないのに残像を見るような思いがする。この喜びは、新しい目をもらったようなもの。

それでもしかし、とまだ続く。ロマネスクからロココまで、さまざまな様式や手法どおりに世界は「見えている」のか、と逆照射する人が出てくる。茶色の縦線は木、緑の点は葉っぱ、肌の色あい、水、空、光……自然の事物にはそれぞれ決まった色と形があり、その色と形で描いたときに、対象を見分けることができる───この信念に疑問を投げかけ、乗り越えるために傑作をものにした人がいる。マネとその後継者が色の表現にもたらした革命は、ギリシャ人が形にもたらした革命に匹敵するという。

つまり、人が世界を「見て」いるとき、対象のそれぞれが固有の色や形をもってそこにあるのを見ているのではなく、視覚を通じて受けた色彩の混合体を感じていることを発見したというのだ。そしてその発見を絵というメディアにするとき、犠牲になったのは「正確さ」だという。

セザンヌは、色彩によって立体感を出すという課題に没頭していた。色の明るさを殺さずに奥行きを感じさせ、奥行きを殺さずに整然とした構成にするために労苦を重ねた結果、多少輪郭がいびつでもよしとした。ゴッホは、写実を至上としなかった。本物そっくりに描いてある絵を指して、「立体メガネ」で見ているようだと言ったという。彼は、絵によって心の動きを表わしたかったという。感情を伝えるためなら、形を誇張し、歪曲することさえあったというのだ。

著者は、ピカソに代わって言う。「目に見える通りに物を描く」などということを、われわれはとっくにあきらめている。そんなことは所詮かなわぬ夢だったのだと。描かれた直後から、いや描いている途中から、モティーフはどんどん変化してゆく。はかない何かを模写するのではなく(カメラが一番得意だ)、なにかを構成することこそが、真の目的だと。あるモティーフ、たとえばヴァイオリンを思うとき、人はヴァイオリンの様々な側面を同時に思い浮かべることができる。手で触れられそうなくらいクッキリ見えているところ、ぼやけているところ、そうした寄せ集めこそが「ヴァイオリン」のイメージなのだと。

本書を読むまで、わたしには、ピカソのヴァイオリンが理解できなかった。これをヴァイオリンの絵として見ろというには無理があると思っていた。が、これはゲームなのだという。つまり、カンヴァスに描かれた平面的な断片を組み合わせて、立体を思い浮かべるという、高度なゲームなのだと

二次元で三次元を表現するという、絵画にとって避けられないパラドクスに対し、これを逆手に取って新しい効果を出そうとする試みが、キュビズムになる。見るとは何か? から出発し、これほど明快なキュビズムの説明は受けたことがない。分からないから、と忌避していた自分が恥ずかしい。

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ヴァイオリンと葡萄

このように、「見たままを描く」テーマで駆け足で眺めたが、ほんの一端だ。ラファエロの構図の完璧さや、フェルメールの質感が、なぜ世紀を超えた傑作たりうるかなど、歴史の中に位置づけて説明されると腑に落ちる。いわゆる名画を単品でああだこうだと眺めてきたなら、絶対に見えない場所に連れて行ってくれる。

制作を支える技術から、それを成り立たせる社会情勢まで視座に入れているため、ずっと抱いていたさまざまな疑問に答えてくれているのも嬉しい。たとえば、偶像崇拝を禁じたキリスト教で、なぜ聖画があるのか? という長年の謎に対し、図像擁護派の巧妙な主張を示してくれる。

慈悲深き神は、人の子イエスの姿をとってわれわれ人間の前にあらわれる決心をされたのですから、同じように、図像としてご自分の姿を示すことを拒否されるわけがない。異教徒とちがって、われわれは、図像そのものを崇拝するのではない。図像を通して、図像の向こうの神や聖人たちを崇拝するのです。

宗教画は、読み書きができない信徒たちにとって、教えを広めるのに役立つ。すなわち、文字が読める人に対して文がしてくれることを、文字の読めない人に対しては絵がしてくれるというのだ。もちろん容認されるモチーフや構図に制限がついてまわるが、その範囲でなら作り手たちの創造性に任されていたという。

読んでいくうちに、過去の記憶がどんどん呼び起こされていくのも面白い。出だしのラスコー壁画のトピックは中学の国語のテストで、レンブランドの生々しい自画像の話はZ会の英語の長文問題で、そして教会建築のアーチ断面におけるヴォールト構造の記述はケン・フォレットの『大聖堂』で、読んだことがある。

本書は美術の権威として、さまざまな種本となっているのだ。本書は、これからわたしが見る/見なおす美への新しい視点のみならず、かつて通り過ぎるだけで見落としていた美について、新しい光をもたらしてくれる。

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前半が文章、後半が図版で、照らし合わせながら読める(そんな読者のためにスピンは2本ある)

一生つきあっていける、宝のような一冊。


スゴ本2024

「あとで読む」と思った本が、後で読まれた試しがない。

この「あとで読む」は、「あとで再読する」も含まれる。わたしが明瞭な状態で読み・書き・語れる時間は限られている。

「あとで」と開き直り、積読のメリットを語っても、虚しいだけ。その「あとで」は決して来ない。他人はともかく、何よりも未来の自分が許さない

だから、いま読む。最初の一頁だけでも、背表紙だけでも読む。焦りながらも読むし、のんびりとも読む。精読も再読も耽読も音読も速読も遅読もする。クリティカルにも読むし、斜めに読み飛ばし読みもする。だが、「あとで読む」という選択肢はない。

一方で、本は待っていてくれる。わたしが手にして、読み始めるのを、辛抱強く待ち構えている。それに甘えて、読むべきと思っている山に手を付ける。

読書猿さんからお薦めされた『経済人類学入門』(鈴木康治)、半分まで読み進めた『なぜフィクションか』(シェフェール)は読み切る。『統計学を哲学する』(大塚淳)は動画とともに学びを深めるつもり。

『ストーリーの起源』(ブライアン・ボイド )は図書館の貸出期間の2週間で読み切れないので原書に挑戦する。ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』は一読で腹落ちしないので再読する。

再読の優先順は、マングウェル、漱石、ナボコフ、川端だ。再読すると、驚くほど「私が」変化していることに気づかされる。テキストは変わらず私を待ってくれるのだが、読んでる私の感性と経験が変わってしまっているのだ。

もちろん、新しい本も読む。「新刊本」という意味ではなく、私にとって未知の出会いとなる本に、積極的に手を伸ばしていく。

私を震わせ、揺るがせ、行動を変えていくようなスゴ本は、これからもブログや twitter で発信していく。

もしあなたが、「それが良いならコレなんてどう?」というお薦めがあれば、ぜひ教えて欲しい。それはきっと、わたしのアンテナでは届かない、震わせ、揺るがせ、行動を変えていくようなスゴ本に違いない。

なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

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