本を読むときに起きていることを、この本を読むことで体感させてくれる『本を読むときに何が起きているのか』
本を読むときに私の中で起きていることを説明するのは難しい。それは本によるだろうし、私の状況(読んでいる時と場所、私自身の体調)にもよる。そして、私がその本を手にするまでに読んできた本や人生経験にも左右される。
けれども、それでも、カフカのを読んでいるときの、「あの言い様の無い不安な感じ」は、分かってくれるだろうか?ビジュアルにするとこんな感じ。
一文が長く、複雑な構造を持っており、説明的である一方、そこで何が述べられているかを解くのが難しい。具体的な説明が省かれ、曖昧で無機質な表現が解釈の余地を持たせつつも、物語がどちらに向かっているのか分からないため、読み進むにつれ、不安感や圧迫感を抱くようになる。
「本を読む」とはそこに書かれている内容を読み取ることだから、己の動機(カフカを読もう!)に従って読もうとはするのだが、先に述べた(説明的だけど)曖昧な描写から逃れられず、目が泳ぎ、「これはなんだ?」と自問するようになる。
画像はカフカ『アメリカ』(『失踪者』の方が有名かも)を読むときの、視線のさまよいをビジュアルにしたものだ。ニューヨークの景色が光の乱反射として描かれているため、視覚模様は直線的になっているが、私の心象だと蛇行した光線のイメージになる。
あるいは、ボルヘスを読んでいる時のイメージはこれ。
ボルヘスを読んでいると、何か巨大で複雑な構造体が描かれているような気になってくる。語り手は、構造を順序だてて語ろうとするのだが、大きすぎて全貌がつかめないような印象になる。
引用したイメージは、『エル・アレフ』の迷宮的構造に落とし込んだ文章だ。一文は部分だけど、見切れた先もまだ続いていることが分かる。さらにそれぞれの文が何かしらのルールに則って構成されているようで、その構造体の一部分がいま目に見えている……そういうビジュアルだ。
物語全体が無限の構造を暗示しつつも、抽象概念と具体的なディテールの絶妙なバランスを保った書きっぷりなので、分かるけれど分からない不安感に襲われる。ボルヘスの魅力は、読者に認識可能な部分だけを提示し、全体像を暗示することで、まるで巨大な迷宮に入り込んだかのような体験を提供する点にある(『エル・アレフ』は空間的構造だが、「八岐の園」だと時間的になるので、合わせて読むとさらに酔える)。
『本を読むときに何が起きているのか』がユニークなのは、本を読むときに私の中で起きていることを、この本を読むことで私に示そうとしている点にある。ある個所は、上述のように視線のベクトルや心象をビジュアライズして「起きていること」を解説する。
あるいは、「起きていること」を音で説明しようとする。もちろん印刷された言葉そのものは、音を発しない。だが、それを読んでいる私たちの頭の中で音が出ているというのだ。
例として、イーディス・ウォートン『歓楽の家』の人物描写を持ち出してくる。彼女と並んで歩いている時に感じる幸せでいっぱいになる描写だ。
彼女が並んで、足取りも軽く、大股に、歩き始めると、セルデンは、彼女に連れ添っていることに、贅沢な心地よさを感じた。小さな耳の肉づけ、細かく上向きにカールした髪のウェーヴ―――髪はわざと少し明るい色に染めているのだろうか?―――それに長い豊かな黒いまつげなとにも、同じような満足感を感じた。
As she moved beside him, with her long light step, Selden was conscious of taking a luxurious pleasure in her nearness: in the modeling of her little ear, the crisp upward wave of her hair—was it so ever so slightly brightened by art?—the thick planting of her straight black lashes.
彼女と並んで歩いている時の幸せな気持ちは、描写に含まれる「音」にあるという。翻訳だと聴こえないが、ここだ。
Long light step...luxurious pleasure...black lashes...
L(ラ)だけ抜き出すと、まるで「ラララ~」と歌っているようではないかという。さらに、lo と ligh (ロとライ)、xur と sure (ジュアとシュア)、bla と la(ブラとラ)と、リズミカルな音が浮かび上がってくる。
これ、音読すると聴こえてくる。普通、小説を読むときは音読しないが、文字列を目で追ううちに頭の中で「ラララ~」が再生される。彼女と一緒に歩く幸福感が、意味的にではなく、音響的に伝わってくる。
言葉が持つリズムや音域、擬音は、読者との間に共感的な影響を与えることになる。詩人が使う技法がこれだ。
かなり興味を惹かれたのが、「本を読むこと」と「読んだ本を思い出すこと」は違うという主張だ。
ある物語が書かれた本について、「その本を読んだ」というとき、私たちは、その本に描かれた物語を知っている。そして、「私たちが知っている」こととは、「心象」と「描写すること」の物語にすぎない(←これは、「本を読む経験」そのものとは異なる)。
読んだ本を思い出す時、私たちは、そこに描かれた物語で展開されるイメージ群を見ている。そのため、読書体験は、映画鑑賞のようなものだと想像しがちになる。
だが、じっさいはそうではないという。読書は映画鑑賞ではないし、映画鑑賞のようなものですらないという。そこに展開された言葉や文章に没頭し、頭だけでなく自分自身の体感も含め、再構成しようとする。その本に没頭すればするほど、この再構成の経験(=読書体験そのもの)が無自覚的になる(文字通り、「夢中」になっているから)。
読書の物語は、記憶された物語だ。私たちは読書する時、没頭する。没頭すればするほど、経験に対して分析的な思考を向けることが難しくなる。だから、読書の感想を語る時、私たちは「読んだ」記憶について話しているに過ぎない。
そしてこの読書の記憶は正確ではない。
本書の狙いはここにある。「読んだ本を思い出すこと」という話なら、数多くの書評や感想が既にある。そうではなく、「本を読むこと」そのものが、どのような経験なのかに焦点を当て、「その経験」がどう感じ取れるかを説明しようとする。
言葉のビジュアルの間にあるものと、目と頭の間にあるものを可視化する一冊。
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