人はどういう思いで積読するのか? 12人の積読家へのインタビュー『積読の本』
読むスピードより買うスピードの方が早いのだから、棚からあふれた本が積まれていくのは当然のこと。後はフトコロと置き場所と罪悪感の折り合いをどうつけるかの話にすぎぬ。
にもかかわらず、積読ネタの本が出回っているのが面白い。積み人たちそれぞれの言い分(言い訳?)を聞いていると、「あるあるw」と首がもげるほど頷いたり、「こいつ正気か?」とドン引きしたり、楽しいひとときとなった。
「なぜわたしたちは本を積んでしまうのか?」と問いかけながら、12人の積読家たちの溢れんばかりの書棚とともにインタビューしたものがこれ。全員が全員、答えが違っているのが面白い。
- 本棚に入れてしまうと積ん読じゃない
- 読まない本を買っているのではなく、自分のための図書館を建てている
- モノとして残らない電子本は、浪費している気がする
- 背表紙が見えない本は他人の本みたい
私の感覚と違っているのが、「積ん読に罪悪感をおぼえる段階は通り過ぎた」という人。その気持ちは分かるし、そう言えれば自分を慰めることだってできるのだが、こうなったらオシマイだと思っている。
積ん読になってしまうのは仕方ないとしても、そこに後ろめたさを感じつつ、新たに買ってきてしまう業に身を焦がすのが人の常。積読は必要なんだと自分に言い聞かせ、まだ読んでない本がこんなにあるという喜びと、これらを読む前に自分の命が尽きるだろうという焦りに挟まれる。読みたいけど積んでしまう、アンビバレンツな煩悩が積読なんだ。
しかし、そこを開き直ってしまうのは、やせ我慢を通り越して危うさを感じる。
私の、生物としての命が尽きるよりも、かなり前に、本が読めなくなるだろう。目がかすれ、集中力が落ち、なによりも体力が続かなくなる(そう、本を読み通すのには体力が必要だ)。寿命よりも健康寿命が短く、健康寿命よりも読書寿命はもっと短い。
その時は、罪悪感どころか、はっきりと後悔することは目に見えている。山を前にして、なによりもまず、自分自身が許せないと責めたくなるだろう。
そうなる前に、「読みたい!」と感じる本は、わずかでも齧っておきたい。味読できるうちに、楽しめるうちに、味わっておきたいのだ。積読には賞味期限がある。おいしく味わって読める時間は、あとわずかだ。
そうではなく、単に「あとで読む」「いずれ使う」と積んでいるだけの人にとっては、それは「本」などではなく「資料」なのだろう。
全部が全部とは言わないが、学者や作家、編集者が蒐集しているのは飯の種に過ぎぬ。面白さや楽しさよりも、飯の種を「読んでいる」のではなく「参照している」のだ。そのフトコロから出した代金のいくばくかは経費として落ちる資料と、なけなしの財布をはたいて買い求めた挙句、わたしの傍で焦燥感を掻き立てている山は、本という形をしているものの、別物なんだという気になる。
どうあがいても焦っても、読めないものだとあきらめても、読むしかない。コツコツと積んでは崩し、積んでは崩していくのだろう。
12人の積読感に触れながら、そんなことをつらつらと思った。
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コメント
頑張れば現有本棚に収まるくらいの低レベル積ん読だけど、読んでいない本のリストを眺めると自分がどういう人間かがぼんやり浮かび上がってくる、というのが「積ん読」というものの意義ではないかと思いますね。
僕はいわゆる「文系にもわかる理系解説系」の本が積ん読に。
昨日「なぜE=mc₂なのか?」を久々に引っ張りだしましたとさ。
投稿: 青達 | 2024.11.17 15:02
>>青達 さん
本棚や積山から、その人となりが浮かび上がってくるというのは確かにそうですね。
ブリア・サヴァランの格言「どんな料理が好きか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言い当ててみせよう」を思い出しました。
これをもじって「どんな本を積んでいるか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言い当ててみせよう」にすることもできそうです。
ただ最近だと、「本」だけで把握できるほど一様ではなく、次のようなリストも含める必要がありそうですね。
・スマホのアプリ
・アマプラのウォッチリスト、ネトフリマイリスト
・ブラウザの履歴
投稿: Dain | 2024.11.19 14:08
積読本は私にもあります。これはいかん、と思っているのが「失われた時を求めて」大判。「小林秀雄全集」です。こればかりは何としても読んでから死にたいと思います。しかしできるかどうかは不明。ただ積読しているなと思っていた本などに線などが引いてあるのを発見すると、愕然とします。仏教本とか哲学本など。ただもっとショックを受けるのは、昔読んだサルトルなどの本の解釈の仕方など、最近は変化していることに唖然とする。人生最後には鈴木大拙の仏教本にしたいと意気込んでいます。サイトの管理人様に本による限りない幸福が訪れることを望みます。ありがとうございました。
投稿: みつめ和紀 | 2024.11.20 00:16
>>みつめ和紀 さん
コメントありがとうございます。物理的な「本」は変化しないため、それを読む私たちの変化を示す基準点のような働きもします。人間は変わるのが当たり前だから、その変化を楽しむほうが吉かもしれません。積読本を「読み通す」というよりも、積山のてっぺんの一冊の、「最初のページと最後のページだけ読む」とか「途中の一節だけを音読してみる」という接し方をすると、もっと気楽に山を崩せるかもしれません。
投稿: Dain | 2024.11.21 09:51