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本を読むときに起きていることを、この本を読むことで体感させてくれる『本を読むときに何が起きているのか』

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本を読むときに私の中で起きていることを説明するのは難しい。それは本によるだろうし、私の状況(読んでいる時と場所、私自身の体調)にもよる。そして、私がその本を手にするまでに読んできた本や人生経験にも左右される。

けれども、それでも、カフカのを読んでいるときの、「あの言い様の無い不安な感じ」は、分かってくれるだろうか?ビジュアルにするとこんな感じ。

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『本を読むときに何が起きているのか』p.316より

一文が長く、複雑な構造を持っており、説明的である一方、そこで何が述べられているかを解くのが難しい。具体的な説明が省かれ、曖昧で無機質な表現が解釈の余地を持たせつつも、物語がどちらに向かっているのか分からないため、読み進むにつれ、不安感や圧迫感を抱くようになる。

「本を読む」とはそこに書かれている内容を読み取ることだから、己の動機(カフカを読もう!)に従って読もうとはするのだが、先に述べた(説明的だけど)曖昧な描写から逃れられず、目が泳ぎ、「これはなんだ?」と自問するようになる。

画像はカフカ『アメリカ』(『失踪者』の方が有名かも)を読むときの、視線のさまよいをビジュアルにしたものだ。ニューヨークの景色が光の乱反射として描かれているため、視覚模様は直線的になっているが、私の心象だと蛇行した光線のイメージになる。

あるいは、ボルヘスを読んでいる時のイメージはこれ。

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『本を読むときに何が起きているのか』p.317より

ボルヘスを読んでいると、何か巨大で複雑な構造体が描かれているような気になってくる。語り手は、構造を順序だてて語ろうとするのだが、大きすぎて全貌がつかめないような印象になる。

引用したイメージは、『エル・アレフ』の迷宮的構造に落とし込んだ文章だ。一文は部分だけど、見切れた先もまだ続いていることが分かる。さらにそれぞれの文が何かしらのルールに則って構成されているようで、その構造体の一部分がいま目に見えている……そういうビジュアルだ。

物語全体が無限の構造を暗示しつつも、抽象概念と具体的なディテールの絶妙なバランスを保った書きっぷりなので、分かるけれど分からない不安感に襲われる。ボルヘスの魅力は、読者に認識可能な部分だけを提示し、全体像を暗示することで、まるで巨大な迷宮に入り込んだかのような体験を提供する点にある(『エル・アレフ』は空間的構造だが、「八岐の園」だと時間的になるので、合わせて読むとさらに酔える)。

『本を読むときに何が起きているのか』がユニークなのは、本を読むときに私の中で起きていることを、この本を読むことで私に示そうとしている点にある。ある個所は、上述のように視線のベクトルや心象をビジュアライズして「起きていること」を解説する。

あるいは、「起きていること」を音で説明しようとする。もちろん印刷された言葉そのものは、音を発しない。だが、それを読んでいる私たちの頭の中で音が出ているというのだ。

例として、イーディス・ウォートン『歓楽の家』の人物描写を持ち出してくる。彼女と並んで歩いている時に感じる幸せでいっぱいになる描写だ。

彼女が並んで、足取りも軽く、大股に、歩き始めると、セルデンは、彼女に連れ添っていることに、贅沢な心地よさを感じた。小さな耳の肉づけ、細かく上向きにカールした髪のウェーヴ―――髪はわざと少し明るい色に染めているのだろうか?―――それに長い豊かな黒いまつげなとにも、同じような満足感を感じた。

As she moved beside him, with her long light step, Selden was conscious of taking a luxurious pleasure in her nearness: in the modeling of her little ear, the crisp upward wave of her hair—was it so ever so slightly brightened by art?—the thick planting of her straight black lashes.

彼女と並んで歩いている時の幸せな気持ちは、描写に含まれる「音」にあるという。翻訳だと聴こえないが、ここだ。

Long light step...luxurious pleasure...black lashes...

L(ラ)だけ抜き出すと、まるで「ラララ~」と歌っているようではないかという。さらに、lo と ligh (ロとライ)、xur と sure (ジュアとシュア)、bla と la(ブラとラ)と、リズミカルな音が浮かび上がってくる。

これ、音読すると聴こえてくる。普通、小説を読むときは音読しないが、文字列を目で追ううちに頭の中で「ラララ~」が再生される。彼女と一緒に歩く幸福感が、意味的にではなく、音響的に伝わってくる。

言葉が持つリズムや音域、擬音は、読者との間に共感的な影響を与えることになる。詩人が使う技法がこれだ。

かなり興味を惹かれたのが、「本を読むこと」と「読んだ本を思い出すこと」は違うという主張だ。

ある物語が書かれた本について、「その本を読んだ」というとき、私たちは、その本に描かれた物語を知っている。そして、「私たちが知っている」こととは、「心象」と「描写すること」の物語にすぎない(←これは、「本を読む経験」そのものとは異なる)。

読んだ本を思い出す時、私たちは、そこに描かれた物語で展開されるイメージ群を見ている。そのため、読書体験は、映画鑑賞のようなものだと想像しがちになる。

だが、じっさいはそうではないという。読書は映画鑑賞ではないし、映画鑑賞のようなものですらないという。そこに展開された言葉や文章に没頭し、頭だけでなく自分自身の体感も含め、再構成しようとする。その本に没頭すればするほど、この再構成の経験(=読書体験そのもの)が無自覚的になる(文字通り、「夢中」になっているから)。

読書の物語は、記憶された物語だ。私たちは読書する時、没頭する。没頭すればするほど、経験に対して分析的な思考を向けることが難しくなる。だから、読書の感想を語る時、私たちは「読んだ」記憶について話しているに過ぎない。

そしてこの読書の記憶は正確ではない。

本書の狙いはここにある。「読んだ本を思い出すこと」という話なら、数多くの書評や感想が既にある。そうではなく、「本を読むこと」そのものが、どのような経験なのかに焦点を当て、「その経験」がどう感じ取れるかを説明しようとする。

言葉のビジュアルの間にあるものと、目と頭の間にあるものを可視化する一冊。



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人はどういう思いで積読するのか? 12人の積読家へのインタビュー『積読の本』

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読むスピードより買うスピードの方が早いのだから、棚からあふれた本が積まれていくのは当然のこと。後はフトコロと置き場所と罪悪感の折り合いをどうつけるかの話にすぎぬ。

にもかかわらず、積読ネタの本が出回っているのが面白い。積み人たちそれぞれの言い分(言い訳?)を聞いていると、「あるあるw」と首がもげるほど頷いたり、「こいつ正気か?」とドン引きしたり、楽しいひとときとなった。

「なぜわたしたちは本を積んでしまうのか?」と問いかけながら、12人の積読家たちの溢れんばかりの書棚とともにインタビューしたものがこれ。全員が全員、答えが違っているのが面白い。

  • 本棚に入れてしまうと積ん読じゃない
  • 読まない本を買っているのではなく、自分のための図書館を建てている
  • モノとして残らない電子本は、浪費している気がする
  • 背表紙が見えない本は他人の本みたい

私の感覚と違っているのが、「積ん読に罪悪感をおぼえる段階は通り過ぎた」という人。その気持ちは分かるし、そう言えれば自分を慰めることだってできるのだが、こうなったらオシマイだと思っている。

積ん読になってしまうのは仕方ないとしても、そこに後ろめたさを感じつつ、新たに買ってきてしまう業に身を焦がすのが人の常。積読は必要なんだと自分に言い聞かせ、まだ読んでない本がこんなにあるという喜びと、これらを読む前に自分の命が尽きるだろうという焦りに挟まれる。読みたいけど積んでしまう、アンビバレンツな煩悩が積読なんだ。

しかし、そこを開き直ってしまうのは、やせ我慢を通り越して危うさを感じる。

私の、生物としての命が尽きるよりも、かなり前に、本が読めなくなるだろう。目がかすれ、集中力が落ち、なによりも体力が続かなくなる(そう、本を読み通すのには体力が必要だ)。寿命よりも健康寿命が短く、健康寿命よりも読書寿命はもっと短い。

その時は、罪悪感どころか、はっきりと後悔することは目に見えている。山を前にして、なによりもまず、自分自身が許せないと責めたくなるだろう。

そうなる前に、「読みたい!」と感じる本は、わずかでも齧っておきたい。味読できるうちに、楽しめるうちに、味わっておきたいのだ。積読には賞味期限がある。おいしく味わって読める時間は、あとわずかだ。

そうではなく、単に「あとで読む」「いずれ使う」と積んでいるだけの人にとっては、それは「本」などではなく「資料」なのだろう。

全部が全部とは言わないが、学者や作家、編集者が蒐集しているのは飯の種に過ぎぬ。面白さや楽しさよりも、飯の種を「読んでいる」のではなく「参照している」のだ。そのフトコロから出した代金のいくばくかは経費として落ちる資料と、なけなしの財布をはたいて買い求めた挙句、わたしの傍で焦燥感を掻き立てている山は、本という形をしているものの、別物なんだという気になる。

どうあがいても焦っても、読めないものだとあきらめても、読むしかない。コツコツと積んでは崩し、積んでは崩していくのだろう。

12人の積読感に触れながら、そんなことをつらつらと思った。



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「なぜ30%値下げできないの?どれくらいなら下げられるの?」「できるか、できないかで答えてください」と高圧的に言われたらどうするか?『戦略的交渉入門』

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「その価格では厳しい、30%下げてほしい」と、初手から無理な数字をふっかけてくる。それは難しいと答えると、「なぜですか?どの程度なら下げられますか?」と畳みかけてくる。答えに窮すると、「できるのか、できないのか、答えてください。できないなら議論は終わりです」と言い放つ。

価格交渉や要件定義の場で、高圧的な態度で話す人がいる。相手を説き伏せ、自分の思い通りの結論に持っていきたがる。一方的にまくし立てて、質問に質問を重ね、相手に話す機会を与えない。

典型的なパワープレイ、二分法、アンカリングの交渉術である。これらはビジネス上の技法であることを、そもそも知らなかった若いころは、さんざんやられたものだ。顧客だけでなく営業や上司からもやられたことがある。

そして、交渉の「術」だから対策がある。『戦略的交渉入門』には、こうした交渉「術」への対策がふんだんに盛り込まれている。

「なぜ30%下げられないの?」への対策

まず、この質問をすること自体がおかしいことに気づく必要がある。

「30%値引きせよ」と言ってきたのは相手だ。「その価格が厳しい」のはなぜか?価格だけが論点であり、他は交渉の余地が無いのか?そもそも、なぜ「30%」なのか?(30なんてバカの数字じゃねーか!)。

冷静に考えるならば、こうした疑問点が湧き上がり、そんな質問にまともに応対する必要すらないことに気づく。だが悲しいかな、人間は質問されると答えなければならないと感じてしまう生き物なのだ

質問されると、それが思考のトリガーとなって回答を探し始めてしまう。礼儀正しく質問されると、たとえ答える必要のないものでも、社会的礼儀上、無視することができない。その結果、できない理由を考え始めてしまう。

さらに「30%」という大きな数字に引っ張られることになる(アンカリング)。「30%は無理」→「それなら20%ならどうか?」などと、前提も整理しないまま、数字の交渉になってしまう。結果、「アンタでは話にならない。持ち帰って検討してくれ」と言われてしまい、「どうしたらできるか」と「20%ならできるか」が宿題にされてしまう。

この、質問することで有利な立場に立とうとするやり方は、交渉相手のみならず、上司や営業の連中も使ってくる。上司の上司や、お客の要求にハイハイ言ってきた自分自身を棚に上げ、「どうすればできる?」と質問する。

まずオマエが真っ先に、「なぜ『できる』なんて答えたのか?」を説明しなければならないのに、どうしてオレが「できない理由」を考えなきゃいけないのか?小一時間問い詰めたい。

そして、できない理由を並べ立てても、その一つ一つを「それをクリアすればできるのか」「どうやったらできるのか」の議論に持っていってしまう。最終的には、「できないできないと文句を言うのではなく、どうすればできるのかを考えるのがあなたの仕事だ」とまで言い放つ。

この返し方は、「説明を押し付ける技術」として、『議論の技術』とともに解説している。「なぜ30%下げられないのか?」という議論の前に、そもそもの言い出しっ屁が「なぜ30%下げて欲しいのか?」を説明する必要がある(立証責任のルール)。そこを端的に聞くことで、押し付けられた立証責任を相手に打ち返すことができる。

このとき、相手の放った質問に質問で答えることになる。よく、「質問に質問で答える」ということは良くないことだと言われる。しかし、この場合は失礼ではない。なぜなら、立証責任は相手方にあるからだ。「どうしてそんな質問が出てきたのか、その理由や背景を教えてください。そうすることで、あなたの質問の意図をつかめますから」と返すのだ。

すると相手は、「価格競争が激しくなってきて~」とか「社内での圧力が厳しくて~」とか理屈を色々と言ってくるだろう。営業担当は即席で理屈をでっち上げるのが上手なので、思わず「なるほど」と思ってしまうかもしれぬ。

『戦略的交渉入門』は、理由にならない理由に納得してはいけないと説く。理由っぽく聞こえる「激しい」とか「厳しい」には、何の数字も根拠もない。「それ、あなたの感想ですよね?」とか「データやエビデンスを出してみろよ!」とツッコミを入れたくなるが、そこは我慢して、「形容詞を説明してもらう」ことに専念せよという。

相手の根拠を疑うようなので、角が立つかもしれないと心配になるかもしれぬ。だが、ここが重要だ。「値引きが必要であるということを社内でも通すために、価格競争においてどんな状況なのか、何がどの程度『厳しい』のか、もう少し詳しく教えてください」というのだ。

相手の主張を支えるデータや根拠を求め、相手に答えてもらう。結果が曖昧であやふやであってもいい。「厳しい状況が~」とか「昨今の情勢で~」といった抽象的であってもいい。「30%値引き」という要求には具体的な裏付けがないことを間接的に理解させ、「その要求で説得することは難しい」ということを分かってもらうために、答えてもらうのだ。

そして、そこで返ってきた言葉は、必ず記録すること。交渉の終了時、メールでの返信時に、その言葉をそのまま使うのだ。「厳しい状況が~」という相手のセリフそのまんまを使う。そしてこちらは、提示した価格が妥当である根拠を、具体的に説明すればいい。

「できるか、できないかで、答えてください」への対策

「できるか、できないか、どちらですか?」―――典型的な二分法だ。

稚拙なバージョンだと、「A案かB案のどちらかありません」というのがある。営業がよく使う手で、「顧客の要望どおり30%値引きするか、この案件は失注しかありません。どちらにするんですか?」とか迫ってくるやつ。

もちろん失注はイヤだし、失注させた責任を取らされるのもイヤだ。イヤなら値引きを受け入れろという卑怯なやり方だ。

しかし、これも冷静になって考えると分かる。C案やD案は無いのだろうか。例えば、30%までは無理だとしてもある程度の値下げを飲みつつ長期契約に結びつけるとか、値下げをしない代わりに他の要望が無いかを探るといった絡め手は考えられないだろうか。

A案B案で迫ってくる人には、「他の案は考えたのでしょうか?なぜその二択しか無いと考えるのでしょうか?」と返せばいい。

厄介なのは「できるか、できないか」の二択で詰めてくる連中だ。

この場合「できる/できない」しかない。この二択以外の選択肢は無いのだから、C案やD案は論理的に存在しない。

そして「できない」と答えると、「なぜできないのか?」と畳みかけてくる。この場合、できないと言っているのはこちらだから、できない理由の立証責任はこちらにある。「できる」と答えると、それで言質を取ったつもりになって、「じゃぁ、やって」と結論づける。

「できるか、できないか、言ってみろ!」という状況は、かなり切羽詰まっている。だから、この問いの中に無い前提が見えにくくなっている。問いかける方も答える方も、感情的になっているかもしれぬ。

「できるか、できないか」の選択肢にある欺瞞は、「目的語が無い」という点にある。この問いで詰めてくる連中の戦略は、まず目的語を省略することで、言質を取る。次に、目的語に相当する「何を」とか「いつまでに」とか「どれくらいの品質で」といったものは、フリーハンドにさせるのだ。

ひょっとすると、「できるか、できないか」の判断は、「何を」に依存するかもしれぬ。例えば、機能を削減したり、構成を簡略化したり、1回あたりの出荷数を減らしたりといった工夫によって、「できる」になるかもしれぬ。

あるいは、「いつまでに」を調整して、「できるけれど、リリース時期を後ろ倒しさせてほしい」という前提なら、「できる」かもしれぬ。さらには、最初はお試し版にしてリリースした後、後からブラッシュアップするといった交渉が可能かもしれぬ。

こうした交渉の中身をすっ飛ばして、「できるか、できないか」を迫るのは、言質を取って有利に進めたり、有利な立場に立つための戦略なのだ。

本書では、こうした連中に対し、「まともに答えない」という対策を提案している。

つまり、この話題から離脱するという、「はぐらかし」の戦術が有効だという。例えば、「そのお話に行く前に、御社からご要望いただいている品質について調べてまいりましたので、ご説明したいのですが~」とか、「その話をする前に、前提となる条件について整理したいのですが~」と、問いをかわしてしまうのだ。

もし、相手が話題の転換を拒否したり、渋った場合は、開き直ればよいと説く。すなわち、「現時点ではあなたのご提案にお答えすることになると、私どもとしても厳しい条件しか提示できません。これはかえってお互いにとっての利益にならないのではないでしょうか」と諭す。この場で即答すると、こちらとしても最低限のラインになるという含みを持たせるのだ。

できるか、できないかという二択の前に、「何を」、「いつ」までに、どの程度の「品質」でといった前提の上での議論が必要だ。さらに、契約期間や内容をどうしていくかも含めて交渉する必要がある。そうした前提を飛ばすのなら、交渉が成立しないという「正論」で攻める。

パワープレイには「対話」で攻める

こちらの正論に対し、高圧的な態度で来る人がいる。

矢継ぎ早に質問をすることで優位に立ち、議論の方向性をリードしようとし、極端な数字をふっかけ、「二分法」で決着をつけようとする、パワープレイヤーだ。

パワープレイヤーは、自分と相手との力関係を測定し、自分が強いと分かったら相手に対し強硬な姿勢を取り、自分が弱い立場なら相手には低姿勢や従属的な態度を取ることで合意を形成しようとする。

たいてい発注者や上司といった立場的に上の人がやりがちな戦略で、言葉や態度でプレッシャーをかけなくとも、温厚な発言で交渉決裂を匂わせるといったスタイルの人もいるので、非常に厄介だ。

たしかに厄介なのだが、攻略の方法はある。

まず、パワープレイヤーの交渉スタイルは、比較的ワンパターンだという。基本形は、自分の強さや立場に依存し、相手を威嚇するというもの。威嚇手段も簡単で、こんなロジックで自分の利益を一方的に主張する。

  1. 交渉が決裂したとしても自分が失うものはない
  2. だから、私はあなたよりも強い
  3. したがって、あなたは譲歩するべき

このような交渉スタイルに決定的に欠けているものは、「対話」という発想だという。

交渉のテーブルに着いているのは、利害や立場の異なる人にある。そのため、最初の時点では、それぞれの主張は、当然ながら異なる。しかし、意見の相違を確認した後、そこを出発点として、アイデアを出し合い、互いに利益にある選択肢を形成していく。どちらかが優位に立つとか、相手を従属させなくても、双方が満足できる合意があるはずだと考え、話し合いにより探っていく。こうしたアプローチは、パワープレイヤーが最も苦手とするやり方だ。

一般的に、パワープレイヤーは強烈な自尊心を持っており、自身の意見や価値観に対する防衛本能が強いという。つまり、「自分の意見を受け入れてくれるかどうか」に強い関心を抱いている。自分の意見を受け入れさせるためには、自分の優位性を強調しなければならず、敵対する相手に対して常に威嚇し続けるしかないという発想に囚われているというのだ。

まず、パワープレイヤーの戦術に乗ってはいけないという。カッとなったり不安を抱いたりしたら、相手の思うツボになる。交渉相手を批判せず、冷静に自分たちの主張を維持し、そしてパワープレイヤーの意見を理解することだけに集中しろという。

相手に対して何かを主張する場合は、必ず次の3点セットでアプローチせよという。

  1. 自分たちの提案や要求の内容
  2. なぜその内容や提案が合理的なのかの説明
  3. その提案によって互いの合意がどのように変化するのか(特に相手にとってどのようなメリットがあるのか)

パワープレイヤーに対して敵対的になるわけでもなく、ましてや卑屈な態度になるわけでもなく、一貫して「提案」「合理性」「相手のメリット」を言い続ける(アサーティブな主張という)。相手の態度に左右されることなく、淡々と理詰めで行くのだ。

するとパワープレイヤーは、なんとかして話を捉えて説得しようとする。いつもより饒舌になり、こちらの質問に答えようとするだろうし、自説のメリットを説明しようとする。

このとき、あえて反論しようとせず、積極的に相手の言い分を聞くことが重要だという。「なるほど」と軽く相づちを打ちながら、相手の話を理解しようとする姿勢を見せる。

ここで注意すべき点は、理解することと譲歩することをハッキリ態度で分けることになる。例えば、相手の話の中で、自分に不都合な内容が出てきたとき、あえて相づちを打つのをやめたり、「なるほど」という発言を行わず、沈黙&注視するのだ

パワープレイヤーは、交渉相手に強硬な姿勢を取ってはいても、どこかで相手から何かしらの承認を得たいと考えている。自分の意見を認めて欲しい、自分の優秀さや存在意義、そして自分が交渉上手であることを承認してほしいという欲求があるという。

このような承認欲求の強いパワープレイヤーは、こちらの反応に対して強い関心を持っている。そのため、傾聴しつつも、ところどころで相づちや反応が無くなると、非常に不安になってくるというのだ。

「意見は理解しようとしつつも、譲歩はしない」こうした態度を取り続けていると、いつものやり方では通用しないことが分かってくるはずだ。パワープレイヤーはいらだちを見せ、決裂をちらつかせたりするかもしれない。しかし、こちらはそれに対抗して強硬な態度を見せない限り、パワープレイヤー側の打ち手は無くなってしまう。

そして、パワープレイヤーの主張に対しては、真っ向から否定するのではなく、パワープレイヤー自身に考えてもらえと説く。具体的には、「あなたのご提案を受け入れた場合、最終的にどのような合意内容になるのか、教えていただけませんか?」といった問いかけ効果的だという。

パワープレイヤーの提案を前提にすると、当然、こちらに不利な帰結になる。それを、パワープレイヤー自身の口から説明させることに効果があるというのだ。一般に人間は、自分のことを公正なものだと思っている。そんな自分が、相手に著しく不利なことを主張している―――それを自分自身の口から語ることに抵抗があるだろう。しかし、それをあえて説明してもらうことによって、パワープレイヤーの主張がこちらにとって受け入れがたいものであることを、気づいてもらうのだ(まぁ、この対策は、納得づくでパワープレイを仕掛けてくる人には通用しない。そういう邪悪だがビジネスとしては「正しい」やり方をする人に当たったら、諦めるしかない)。

相手の態度に反応せず、相手の提案や発言内容に集中して交渉する。口調や表情から読み取るのではなく、相手の意図を言葉から判断する。いわゆる空中戦にさせず、ホワイトボードやテキストの画面共有など、「書きもの」に落とし込んで、そこで是々非々を語るのも良いかもしれぬ(「相手/自分」の主張と、合意した場合の「メリット/デメリット」の四象限の表にまとめるのもあり)。

最重要のリソース「集中力」を確保するためのBATNA

アンカリング、二分法、パワープレイ等、本書で紹介される様々な対策は、私の経験に照らし合わせて見ても、極めて有効だ。

その中でも、最も蒙を開かされたのはBATNAの価値だ。BATNA(バトナ)とは、Best Alternative to a Negotiated Agreementの略で、交渉がまとまらなかった時の打ち手のことだ。例えば、部品調達の交渉において、交渉相手とは別の調達先を検討しておくことがBATNAになる。

ただ、ビジネスの現場では、簡単に別の調達先が見つかるとは限らない。交渉相手も、それを知っているからこそ、足元を見てくる場合もある。

しかし、そうした場合であってもBATNAは有効だという。交渉決裂時の状況をシミュレートしながら、現在の取引の価格や条件を、別の視点から再評価するツールとして使えというのだ。

例えば、「その部品を必ず使わなければならないのか」といった観点や、「代わりの取引先が見つからないまま、プロジェクトを進めるとどうなるか」といった視点から、交渉の価値を見つめ直すのだ。

その結果、交渉が決裂した場合、「代替品を使うことによるコストが〇%増加」や、「〇年まで製品の出荷が半減する」といったリスクが見えてくる。

もちろんコスト増や出荷減は避けたいものの、そうしたリスクを、交渉前に予め把握しておくことができる。交渉決裂時の損失を冷静に見出すことで、「コスト増に対する打ち手」や「出荷減による対策」を念頭に入れて、スタートラインに立つことができる。

交渉のテーブルに着く時、「もし、相手と合意できなかったらどうしよう?」と漠然とした不安に駆られるだろう。交渉相手はそうした不安を煽ったり利用しようとするかもしれない。

しかし、BATNAを検討し、交渉の目的をゼロベースで考えることにより、「漠然とした不安」は、「(困難かもしれないが)打ち手のあるリスク」に変化させることができる。

おそらく、あなたは、コスト増や出荷減への打ち手を検討する権限はないかもしれぬ(あくまでも、いち交渉人なのだから)。「それは私の権限ではない」「そんなの机上の空論だ」と言いたくなるかもしれぬ。それでも、上手くいかなかった場合の影響を掌握することで、「恐怖そのものに恐怖する」といった心理状態から脱出することができるだろう(いわゆる、腹をくくるというやつ)。

また、交渉決裂時の状態をシミュレートするにあたり、交渉相手の損失も検討することになる。ひょっとすると、自社よりも相手の損失被害が少ないということが判明するかもしれぬ。それでも、相手の損失がゼロでなければ、そこに打ち手はある。

交渉が上手くいかなかった場合を冷静に検討し、不安要素を言語化しておく。アンカリング、二分法、パワープレイが為された時の打ち手も対策しておく。こうした事前準備により、交渉中に不安や怒り、恐怖といった感情に流されたり、不合理な意思決定に身をゆだねてしまう危険性を、可能な限り除外することができる。

人のリソースは限られている。そして、交渉中に最も必要なリソースは「集中力」だ。集中力を損なわせる感情のゆらぎを排し、「協議事項とお互いの利益」に振り分けるために、予めBATNAを検討しておくのだ。

ハーバード・ロースクールで培われた、交渉による問題解決能力の入門書。痛い目に遭った人ほど「あるあるwww」と頷きながら読むに違いない。そして、幸いにもこれから交渉に臨む人であれば、「これ進研ゼミでやった」というガイド本になるだろう。



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人事評価の脆弱性を衝く7つのバイアス『人材マネジメントの基本』

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人には何らかのバイアスがある。そこから、あなたを評価する人が犯す過ちが生まれる。本書では、そうした評価エラーのうち、代表的なものを7つ挙げ、注意を促している。

1. ハロー効果
2. 期末効果
3. 逆算化傾向
4. 中心化傾向、極端化傾向
5. 寬大化傾向・厳格化傾向
6. 対比誤差
7. 論理的誤謬

こうした認知バイアスは、言い換えるならば、評価者を攻略する弱点だともいえる。バイアスを逆手にとって利用することで、自分の評価にゲタを履かせることだってできるかもしれぬ。

人事制度を攻略する

人事評価の攻略シリーズ。人事制度のハッキングの続き。

「なぜ、あの人が出世するのか?」「どうして、私は評価されないのか?」など、人事にまつわる様々なモヤモヤがある。

運の要素もあるが、会社が社員を出世させるルールは確かにある。このルールをハックすることで、「同じ仕事をしても出世しやすくなる」「結果が報いられやすくなる」行動様式を炙り出す。

前回は、人事「制度」に着目した。

上手くいっている会社の人事制度の構造の共通項である「目標管理シート」や「MBO(Management by Objectives and Self Control)シート」における脆弱性を炙り出した。Chat-GPTの支援で、より評価されやすいシートに改善し、半期~1年後に結果を出す方法を具体的に記した。未読の方は、上述のリンク先をご覧いただきたい。

今回は、人事「評価」に着目する。

実際に評価する「人」を攻略する。あなたを評価するのは上司だ。だから、上司がどのように評価するのかを分析し、その脆弱性を洗い出すことで、ハッキングすることができる。

ダシにするのは『人材マネジメントの基本』だ。これまでの人事評価の流れを振り返りつつ、ダイバーシティやテレワークなど、新たな潮流を取り込んで、今の評価基軸となっているものを解説したものだ。

具体的には、評価者のために、1on1を通じた「ジョハリの窓」を開く方法や、Yahooの「部下のための時間」、360度評価など、様々な技法が紹介されている。その一方で、評価の際に陥りがちな「罠」も併せて解説している。

評価者する人は、特別な能力を持っているわけではない。たまたま「評価者」としての立場にいるだけで、「上司」という役をしているにすぎない。

また、評価者は、対象となる人の行動をすべて把握しているわけでもない。見落としもあるだろうし、過大評価や過少評価の可能性だって大いにある。さらに、人事制度に則って評価はするものの、評価者がその制度に納得していないかもしれぬ。

そうした中で行われる評価は、どうしても歪みを生じさせることになる。システマティックに運用しようとすればするほど、制度と人事評価の間に立つ「人」に負担がかかり、評価者が持つバイアスが、そのまま評価の歪みにつながりかねない。

ハロー効果の利用法

評価エラーの中で最も多いのが、ハロー効果だという。

ハロー(halo)は英語で後光・降臨の意味で、まばゆい光が差してくると、目が眩んで光の前にあるものが正しく見えなくなってしまうことを指す(ハローエラーとも呼ばれる)。

よくあるのが、評価対象の優れた部分や目立つ箇所ばかりに目が行ってしまい、他の箇所の評価もそれに引きずられてしまうことだ。例えば、社交的な一面にフォーカスしてしまうと、営業力もあると誤認してしまうことだってある。

学歴や資格のグレードなど、「ハロー」に相当するものはいくつかある。幸運にもそうした要素を持っているならば、そうした要素が今の仕事にどのようなプラスをもたらしているかを強調するのはアリだろう(ただし、学歴や一部の資格は賞味期限があるため、いつまでも使い続けられるカードではないことを肝に銘じておこう)。

重要なのは、「この人はできる」と上司に思われることだ。これは、本当に仕事ができるかどうかよりも重要かもしれぬ。

では、そうした分かりやすい「ハロー」がない人はどうするか?

自分をプラスに印象付けるやり方は色々ある。きちんと整った身だしなみや、自信のある態度、ポジティブに取り組む姿勢を見せることで、「この人はできる」印象をもたらすことになる。同僚や上司との交流を積極的に行い、普段から良好な関係を築くことで、仕事の実力以上に「良く」見られることだってできるだろう。

「その通りかもしれないが、見てくれるとは限らない」というツッコミがあるだろう。なんでもオンラインのご時世、身だしなみや態度は伝わりにくいだろうし、ポジティブな姿勢をきちんと見てくれる上司は少ないかもしれぬ。

そんな場合は、「良い」という点を明確に言葉にして、上司に覚えてもらうのだ。1on1などで過去の実績を説明する際に、定量的で具体的な箇所を「数字で」強調するのだ。

例えば、「AIを用いたアドインを試験的に導入し、コード補完やエラーチェックすることで、前回よりもバグの発生を10件減らし、リリースまでの期間を4日間短縮できた」と述べる。単純に「コーディング作業をAIで効率化しました」というのではなく、「10件減」や「4日短縮」といった実績を数値にする。数字にすることで、覚えられやすく、思い出されやすい形にするのだ。

これは、「マクナマラの誤謬」とも呼ばれる。ベトナム戦争時のアメリカの国防長官ロバート・マクナマラが、あらゆる戦果を数値だけで評価したことに由来する。測定可能なデータを重視するあまり、重要な要素や質的側面を無視する誤謬を指しており、「ミスが全くない仕事を目標にすると、ミスが報告されなくなる『測りすぎ』」で解説した。

ここでは、この誤謬を逆手にとって(悪用してとも言う)、「この人は実績を出した」と上司に思わせる。重要なのは、本当に実績を出したかどうかよりも、「上司にそう思わせる」ことであり、そのための数値なのだ。

期末効果の利用法

実績の数値化は、上司の上司にも効く。

あなたの上司はさらにその上から、「なぜこの人を評価するのか?」と問われることだろう。その根拠として、定性よりも定量が効いてくる。上司から上司への伝言ゲームでは、数字が伝えられやすい(「この人の改善によりリリースを4日も前倒しできたんです」ってね)。

前提条件が無視された数値が、あたかも絶対値のように議論される「数字の独り歩き」という言葉があるが、これはそれを悪用するやり方だと言っていい。

「実績が上司に覚えてもらいやすい」という観点からだと、期末効果バイアスも利用できる。

期末効果バイアスは、最後に示された情報の方が印象に残りやすく、結果、意思決定や評価においてその情報が強く影響を与えるという認知バイアスのことだ。これにより、後から得た実績の方が、より評価されやすくなる。

例えば面接の場面では、最後に面接を受けに来た候補者の方が印象に残りやすく、その人を有利に評価してしまうことがある。プレゼンやスピーチにおいても、最後のメッセージが聴衆に強く印象を残すことがあるため、結論やまとめの部分を効果的に伝えることが重要だという(いわば「シメの言葉」)。ディベートで後攻が有利だと言われるのも、期末効果バイアスによるものだ。

このバイアスを逆用するなら、評価されやすい実績を期末の近くで形にする。具体的には、上司が評価しやすい実績を期末に出せるようにコントロールする。人事制度のハッキングで示した目標管理シートの「期末」の欄に、定量的な数字の形で表しやすい実績を記述する

プロジェクトのスケジュールの都合上、期首や期中に実績が数値化されるのであれば、上司との1on1の振り返りの最後に、その数値を伝える。

あるいは、最後の1on1にしてもらう。上司は、振り返りの期間で、メンバー全員と1on1をする必要がある。そのメンバーの中で、可能な限り最後の面談にしてもらうようにするのだ。そうすることで、他のメンバーと比べ、あなたの実績をより覚えてもらいやすくなる。

こんな風に、評価エラーを逆用したり、評価者の罠を回避することで、同じ仕事をしても、より良い実績を残したのだと思ってもらう。認知バイアスをうまく活用して、効率的に高評価を得よう。

注意していただきたいのは、本書では、あくまでも「人事マネジメント」のお話であって、その悪用方法までは書かれていない。バイアスを逆援用するのは、これを参考にする「あなた」が工夫すべきことになる。

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