人生を微分すると今になる『朝と夕』(ヨン・フォッセ)
「死ぬ前に小学生の一日をやってみたい」2chのコピペ。
俺思うんだ・・・
俺、死ぬ前に小学生の頃を一日でいいから、またやってみたい
わいわい授業受けて、体育で外で遊んで、
学校終わったら夕方までまた遊ぶんだ
空き地に夕焼け、金木犀の香りの中家に帰ると、
家族が「おかえり~」と迎えてくれてTV見ながら談笑して、
お母さんが晩御飯作ってくれる(ホントありがたいよな)
お風呂に入って上がったらみんな映画に夢中になってて、
子供なのにさもわかってるように見入ってみたり
でも、全部見終える前に眠くなって、部屋に戻って布団に入る
みんなのいる部屋の光が名残惜しいけど、そのうち意識がなくなって…
そして死にたい
このコピペ、tumblrで定期的に流れてくる度に染み入ってしまう。悩みとか不安とか何もなかった日常がいかに大切で、生きるとは何気ない日々の積み重ねだということが分かる(さらには、そんな日々がいかに貴重だったかは、失われて初めて気づくことも)。
にもかかわらず、わたしは気づかないフリをする。目先の雑事と、先々の不安で頭を一杯にし、振り返っても後悔ばかりしている。人生を微分したのが今日なのだから、幸せだと思って今日を生きないと、あっという間に人生が終わってしまうことを忘れる。
だが、ごくまれに、これを思い出させてくれる作品と出会うことがある。
例えば、カフカの再来と称されるブッツァーティの『タタール人の砂漠』や、アメリカ演劇史上の傑作と名高い『わが町』(ソーントン・ワイルダー)、あるいは語り手の幸せと完全に同期できるヴァージニア・ウルフの『灯台へ』が、私にとってそうだった。生活の中にこそ幸福があることを、しみじみ染み込ませてくれる大切な作品だ。
そんな大切な作品に仲間が増えた。
2023年にノーベル文学賞を受賞したヨン・フォッセの『朝と夕』だ。現代演劇の巨匠であり、ヨーロッパを代表する劇作家が著した中編小説だ。ノルウェーの漁村に生まれた男の、たった二日間を描いたお話だ。
小説全体は一つの長いモノローグにもメタローグにも見える。メタファーも含めたくり返しが多用され、句点が無いのが特徴だ。描写と感情と会話が一息に語られ、独特のリズムを生み出している。巧妙に(?)埋め込まれたキリスト教の表象や暗喩がイメージを喚起し、ある日常を何重にも深読みさせることもできる。
予備知識ゼロで、それこそ見返しのあらすじすら目もとめずに読み始めたのだが―――これが正解だった。序盤に抱いた違和感がどんどん膨れ上がり、「おいおい、嘘やろ?」と微妙な緊張感を保ちながら核心にたどり着いたとき、言い様の無い感情に襲われた。
この感情、表現が難しい。「言い様の無い感情」という常套句で逃げているわけではなく、言葉にするなら、「旅先ですこし話し相手になってくれた人と、連絡先を交換せずにさよならするとき」に近い。
これを名残惜しさ、さみしさと呼んでしまうと、取りこぼされる気がする。話し相手になってくれた人とは、もう二度と会えないわけではないし、もう一度、会えるはずだ。でも、そのときの「わたし」は今の私ではないことは確かだ……という気持ち。帯の惹句の「言葉にできないものに声を与えた」の通りだと思う。
人は、自分の人生を生きる他ないというが、これは、自分の日常を積み上げていくしかないことに等しい。この意味で、わたしは自分の人生を生きたあとで、もう一度、この人に会える気がする。
「人生」という大仰な言葉で伝えようとすると、卒業や就職、結婚といった「イベント」で考えてしまいがちだ。だが、その間を埋める圧倒的な「日常」こそが人生なのだろう。
「人生を微分すると今になる」と言われるが、本当は、人生を微分すると日常になるのかもしれない。
言葉にできない感情が通り過ぎた後、今日を、今を生きようと自覚させられる一冊。
| 固定リンク
« 筒井康隆が『百年の孤独』を読んだら絶対に読めと命令形でお薦めしたガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』はどこまで笑っていいグロテスクなのか分からないバケモノみたいな傑作だった | トップページ | 寄生獣、鋼錬、攻殻、進撃、火の鳥…SF×倫理学で現代を理解する『SFマンガで倫理学』 »
コメント