60ワットの電球で遊ぶ女子中学生「食べちゃいたいくらい可愛い」を実行した虚無僧「見たい」「食いたい」「殺してやりたい」ナマの欲望が蠢く宇能鴻一郎の傑作短編集『姫君を喰う話』
開高健の言葉だと思うが、「女と食いものが書ければ一人前」という言葉がある。
小説の技術は、単に物語をつむぐだけではなく、人間の欲望や感情を描く能力が求められる。特に食と女は、根源的な欲望や美に関するテーマであるが故、これが書けるということは、作家としての成熟が求められる―――などと解釈している。
宇能鴻一郎はその最強に位置する。昭和的で猥雑な香ばしさの中から、おもわず喉が鳴るような女と食いものが登場する。
例えば、もうもうと煙が立ち込めるモツ焼き屋でレバ刺しを食べるところ。
何といってもまず新鮮な、切り口がビンと角張って立っている肝臓である。それが葱と生姜とレモンの輪切りを浮かべたタレに浸って、小鉢のなかで電燈に赤く輝いているのを見ると、それだけで生唾が湧く。
口に入れて舌で押しつぶすと、生きて活動しているその細胞がひとつひとつ、新鮮な汁液を放ちつつ潰れてゆくのがわかり、薬味でアクセントをつけられた味わいがねっとりと舌の表面をおおいつくし、いくら唾液で洗っても、甲州葡萄酒を一口、ごくり、とやるまでは消えさらない。
「切り口がビンと角張って立っている」レバーなんて、なかなかお目にかかれない。新鮮なレバーを口に含んだときの崩れつつある、あの感触と風味を見事に表している(ああ、レバ刺し食べたくなってきた)。
あるいは、女性のある部分を緻密に描いたこのシーン。
けれども、私が幸福だったのか、その部分を見せる女は自信があるのか、醜悪な蕾は一つも見なかった。
花びらの方にはずいぶん枯れかけたのや、爛熟の極に達して崩壊寸前のもあったが、この部分だけはいずれも初々しく、貞操堅固な感じで、固く収縮しているのです。
この後、一人ひとり異なる特徴をバラエティ豊かに描く。鋭角にひねりあげられたもの。平たいもの。体内に絞り込まれたようにくぼんでいるもの。そこに触れた時の反応や、独特のにおいについても余すことなく説明してくれる(けっして不快なものではないという)。
食べものであれ、女であれ、ユーモアと情緒と欲望が仲睦まじく同居した洒脱な文章に、読んでるこっちは「せやな」というほかない。
愛する人と一体化したい欲望
白眉はタイトルにもなっている、「姫君を喰う話」だ。
物語の前半で、ねっとりしたレバ刺しの舌触りや、コリコリしたモツの歯ごたえを丁寧に描き、なめたり眺めるような場所ではない部分への異常な執着心を念入りに解説した後、後半では時代も場所も超越し、幻想的で官能に満ちた世界へ誘う。
下品スレスレの欲望を忠実に描いた前半と、大自然の下に繰り広げられる秘めごとを情緒あふれる筆致で描いた後半のギャップに萌える。ヤってることは一緒なのに、かくもこう純粋で尊く見えるのが不思議なり。
その勢いで、愛情と執着に導かれて食人に向かうラストは、とても自然に感じられる。このテーマは『雨月物語』の「青頭巾」にもつながる。愛する人をしゃぶったり、噛んだりしたくなるのは自然なこと。「食べてしまいたいくらい好き」という言葉には、愛する人と一体化したいという欲求があらわれている。
これを戦慄と見るのか、愛と見るかは人それぞれだろう。
青頭巾が童の肉を啜ったように、デンジがマキマさんを料理したように、食べて一つになることは、様々な愛情表現の発露の一つと見なすならば、人の業の深さ広さを垣間見ることができる。
ちなみに、「もし君が先に死んだら、すこしお肉を食べてもいい?」と嫁様に提案したところ、路傍の犬の糞を見るような嫌悪に塗れた目で見られたことを告白しておく。
ガラスではなく口金を使う
永年の謎が解けた作品もあった。「ズロース挽歌」だ。
子どものころに流行った都市伝説があった。
それは旧校舎の女子トイレの話で、一人の少女が大怪我をして亡くなったという。彼女の家庭は厳格で、厳しく躾けられた結果、かなりストレスが溜まっていたのか、電球で遊ぶことを覚えたらしい。
ある夜、密かに遊んでいたのだが、感極まって割ってしまったのだ。場所が場所なだけに、恥ずかしくて言い出せず、そのまま出血多量で亡くなったという。そして夜な夜な、血を滴らせた彼女が「出る」という噂だけが広まった。
子どもながらに想像力と股間を膨らませた結果、「電球が入るのはおかしい」という結論に至った。もちろん、赤ン坊が通るくらいは広がるのだから、電球サイズでもいけるはず。だが、未開通の女子中学生にとっては無理すぎる。だからこの話は嘘だ、と考えていた。
その答えとなるものが、本書の「ズロース挽歌」にあった。語り手の男は、私と同様のことを考えるのだが、「口金を使う」という画期的な結論にたどり着く。何十年もの時を経て、この答えを知ったときは嬉しさのあまり変な声が出た。ついでに言うと、都市伝説の出所は、この作品なのかもしれぬ。
滑稽で切実な「見たい」という欲望
「ズロース挽歌」は、成熟し損なった男の悲しみが、詩情豊かにつづられる。ブルマやセーラー服にフェティッシュな感情を抱きつつ、女子中学生のアソコを見たいという思いは、切実というより滑稽に見える。
ちょっと感動したシーンは、黄金男のところ。
汲み取り口はあいていた。みなぎりわたった光りのなかで只一つ、地獄のようなその暗さのなかから、男の頭があらわれた。裸の逞しい肩が、胸が出てきた。筋肉隆々とした全裸の男が、やがて汲み取り口から這いあがってきた。
男の全身は糞尿にまみれ、午後の太陽に金泥を塗ったように燦然と光り輝いていた。棒をかまえた教師たちも、遠まきにしたまま、手が出せなかった。
黄金の汁をしたたらせつつ、男は不敬な微笑を浮かべて、まわりを見まわした。視線をむけられた教師たちは、たじろいで後ずさりした。私ははっきり覚えている。全裸の男の、下腹の神像は、なおもすさまじく、そそり立っていた。
今はほぼ見かけなくなったが、かつて、汲み取り便所(ボットン便所)というものがあった。大であれ小であれ、チリ紙であれ新聞紙であれ、なんでも受け入れ、強烈な臭気を放っていた。かがむ前に覗き込むと、わずかな光に照らされて蠢くウジたちの饗宴を見ることができた。
あの中に入り込み、女子中学生の糞尿を浴びながら、見る。完全に変態なのだが、「そうまでして見たいのかよ!」というツッコミを飲み込む。そうまでして見たいのだろう(それで命を落とした男もいる)。
新鮮なレバ刺しであれ、女子中学生の糞尿であれ、むせかえるような描写は淫靡と同時に儚い。宇能鴻一郎は、 「正義」や「愛」といった人工的な概念は空々しく、信ずるに足りないと思っていたのかもしれぬ。
「見たい」「食いたい」「殺してやりたい」など、ナマの欲望がひしめき合った傑作短編集。
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