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センスが良くなるだけでなく、新しい目を得る一冊『センスの哲学』

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「センスが良くなる」というふれこみで読んだが、ハッタリではなく腑に落ちた。さらに、「予測誤差の最小化」という視点からの芸術論に出会えたのが嬉しい。『勉強の哲学』もそうだったが、私にとって得るものが大きい一冊。

「音楽のセンスが良い」とか「着る服のセンスが良い」というけれど、この「センス」とは何ぞや?から始まり、小説や絵画、映画の具体例を挙げつつ、芸術作品との向き合い方を生活レベルで語り明かす。読んだ後、次に触れる作品を別のチャネルから感じ取れるようになるだけでなく、生活感覚が違ってくるかもしれぬ(感覚が底上げされる感覚、といえば分かるだろうか)。

本書の切り口はフォーマリズムだ。形式や構造に焦点を当てることで、作品が持つモチーフやテーマが示す意味や目的からいったん離れ、メタな視点から、対象をリズムやうねりとして「脱意味的」に楽しむ―――この考え方は、ゴンブリッチや佐藤亜紀の指摘で薄々気づいていたけれど、こう順序だてて明確に述べられると、沁みるように分かる。分かると嬉しいし、すぐに応用できて楽しい。

ポークソテーでセンスを良くする

たとえば、ポークソテーのマスタードソース。

脂の旨味の上にピリッとした粒マスタードが効いてて、噛みしめるごとに旨み酸みがテンポよくやってくる。柔らかいロースにマスタード粒のプチプチした食感がアクセントになって口中を刺激する。クレソンの苦味が加わると、さらに複雑な味わいが奏でられる。「食べる」という行為に自覚的になり、味や舌触り、見た目、噛む音にも感覚を研ぎ澄ませると、味のリズムが感じ取れるようになる。

ただ食べて漫然と「おいしい」と感じるだけでなく、「おいしい」がどのような構造で、どんなリズムで自分に押しよせているものが何かに着目して味わう。そうすると、この料理のどこが気に入っているのかが、「自分にとって」分かってくる(←ここ重要)。

これを全芸術で考えたのが本書になる。ただ眺め、読んで漫然と「おもしろい」と感じるだけでなく、「おもしろい」がどのような構造を持っているのかに着目する。

ゴダールやセザンヌ、カフカ、ラウシェンバーグなどの作品を引きつつ、形から受ける印象や、(自分の)目の動きから引き出される反応を、「リズム」や「引っかかり」という表現で捕まえる。芸術とはある並び、すなわちリズムを作り出し、それを鑑賞する振る舞いだと喝破する。「芸術とはお手本通り完璧になぞることである」という考えに囚われている人には、頭ガツンとなるだろう。

小説の面白さは細部に宿る

新たな目を得られたのは、「小説」をリズムで捉える試み。

わざわざカッコ書きで「小説」と述べたのは、ふだん私が読んでいる小説とは別物なのかもしれないという可能性を残すため。

小説(映画も可)のメインテーマ―――愛と喪失や、善悪対決、アイデンティティの探求、自由と抑圧といった大テーマを受け止めて、「感動」する。これは、まぁ普通のことだ。

でも本書は、それはそれとして、いったん置いといて、作品の細部で何が起きているのか―――プロットの欠片でも言の葉っぱでもいい―――細部に宿る「小意味」を掘り下げて、その絡まり合いを楽しめという。言葉どうしの距離感や、言葉とそこから引き出されるイメージとプロットの絡まりこそが愉しい(←これが定形化されると、チェホフの銃とかタイトル回収などと名づけられる)。

ぶっちゃけ、小説の本質は「遅延」だ。愛と喪失、善悪の対決、探求の冒険、自由と抑圧の結果がどうなるのか?この答えの欠如に衝き動かされて、ページをめくる。しかし、次のページにいきなり答えが書いてあったなら、小説を読む意味が無い(というか、小説にならない)。

だから愛にはハードルを、対決には戦闘力のインフレを、探求には解くべき謎を設定する。ハードルや敵や謎のおかげで、読み手はサスペンス=宙吊りのまま進むしかない。カフカがなぜ面白いのか?端的な答えはこれだ。

小説とは、大きく言えば、何かの欠如を埋めるという、生物の根本運動にドライブされながら、その解決を遅延し=サスペンス構造を設定し、長々と無駄口を展開していくことであり、結果としてあのようなボリュームになるのだ、と言える。小説のこの原理的なあり方を代表的に示しているのが、カフカだと思います。結局何なのか、という大意味を宙づりにし、延々と無駄なサスペンスが展開される。

『城』を読んだら分かる。言葉は良くないが、この「無駄口」のリズムの巧拙を吟味し・味わうのが小説の醍醐味になる。「結局何なの?」だけが知りたい人には、小説は向いてない。

「おもしろい」は予測誤差から生じる

本書をきっかけに、さらに深く知りたいと感じたのは、カール・フリストンの「自由エネルギー最小化原理」だ。

この「エネルギー」とは、物理学で使われる位置エネルギーや運動エネルギーのようなものだと理解した。そして「自由エネルギー」とは、「脳の予測と実際の経験の間にあるズレ」を意味している。

そして自由エネルギー最小化原理とは、脳がこのズレ(予測誤差)をできるだけ小さくしようとするプロセスのことを指す。

例えば、飛んでくるボールをキャッチしようとするとき。スピードや方向を考慮しながら、ボールの軌道を予測する。しかし、風や回転によって実際のボールの動きが予想と異なる場合、そのズレを検出し、素早く身体の動きを修正する。

身体が受け取る感覚は膨大なものになる。その全てを完全な状態で把握していこうとすると、脳はその処理だけに追われ続けることになる。だから、大雑把に把握して、必要な場合にそちらに注意を向けることで、リソースを確保している。

リズムで語るなら、「トン・トン・トン」と続いた後、「パン」が入るなら、そこで1小節になると予測するだろう。そして、次も「トン・トン・トン・バン」が続くと考える。

そこで、次の小節も「トン・トン・トン・バン」だったなら、予測が合ってたと感じて、報酬(快楽)を感じる。予測誤差が最小化されたからだ。ところが、この小節がずっと反復されるなら、飽きてしまうに違いない(もう予測しなくてもよい、と判断するため)。

しかし、次の小節で「トン・トン・トトトン」となったら、「お?さっきと違うぞ」と興味が出てくる。そして、この違う小節をベースにして、次の予測を立てるだろう。

映画や小説においても、予想される展開や描写と、その差異にズレが生じるとき、「お?」と興味が出てくる。読者が能動的に「予測」を立てているとは限らないが、「こうなるかも」と無意識に思っていたものが裏切られると、そこに快楽が生じる。

ただし、この裏切りはこれまでのベースを踏襲し、読み手の期待に応えつつ、意外な形にする必要がある。「トン・トン・トトトン」なら、最初の1小節をベースにしているが、「トン・くぁwせdrftgyふじこlp」ではダメだ。

本書では、さらにこの予測誤差をメタ化して、「予測が外れても振り回されないようにする」「予測外れに楽観性を持つ」ところから、楽観性をシミュレートすることに、遊びの本質を見出す。

遊びやゲーム、フィクションの鑑賞は、世界の不確定性を手懐けるための、習慣に似たものであり、それは「自分自身にリズムを持つこと」だと言える。しかしながら、です。どの理論で想定し反復に対して生じる差異の魅力は、それ自体としては、ダイレクトな危機感から来ているはずです。それが無難に楽しめる程度になる、というのがリズム化(習慣と遊び)ですが、根本にあるのは予測誤差というネガティブなものによる緊張状態であり、それは即物的に言えば、神経系におけるエネルギーの高まりでしょう。

センスの話から芸術論、認知科学や精神のありようにまで踏み込んでおり、知りたい世界がどんどん広がってくる。読み手を刺激してくる名著。



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