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プロジェクトを成功させる2つの技法『BIG THINGS どデカいことを成し遂げたヤツらはなにをしたのか?』

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超巨大ビルを建設したり、前例のないプロジェクトを成功させるなど、どデカいことを成し遂げたヤツらはなにをしたのか?

サブタイトルの答えは、ITエンジニアにおなじみの「モジュール化」「イテレーション」になる。

モジュール化とは、システムやアプリケーションを独立した部品(モジュール)に分割する設計手法のこと。分割することで複雑なシステムを管理しやすくし、保守性や品質を向上させることができる。

イテレーションとは、アジャイル開発において、計画・開発・テストを繰り返し行う短い開発サイクルのこと。反復を繰り返すことで、顧客からのフィードバックやリスクの発見を早期に行い、対策を講じやすくする。

モジュール化とイテレーション、この2つが、プロジェクトを成功に導く鍵になる。そしてこの手法を、システム開発ではなく、巨大プロジェクトに応用せよという。本書では、エンパイアステートビルの建築や、ピクサー映画の制作などで、モジュール化とイテレーションがどのように実現されているかを紹介している。

成功したビル建設と映画製作に共通するもの

例えば、エンパイアステートビルの建設は、モジュール化とイテレーションの好例だ。

ニューヨークで最も高い443mの標高を誇る102階建てのビルディングだ。著者に言わせると、特筆すべきなのは建てる前の計画になる。十分な時間をかけ、階層ごとに必要な建材と作業者の配置、必要な工数の設計と見積もりを行い、そのプロセスを繰り返すことで進められたという。

施工も階層ごとに行われ、まず最初の階を作り上げ、2階、3階と順番に建設されていった。これにより、建設チームは建設プロセスに習熟し、効率と品質を高めることができた。建設チームのメンバーは、102階のビルを建てるというよりも、一つのフロアの建築を102回繰り返したのだ

102階という巨大なビルディングを、「ひとつの階層」を102個に分けた組み合わせとして見なす(本書では「レゴのように」と表現されている)。そして、一つの階層を建設することを反復(イテレーション)したのだ。その結果、13ヶ月という驚異的なスピードで予算内で達成したというのだ。

あるいは、ピクサーの映画製作のプロセスは、「創造性という偶発要素を、いかに巨大プロジェクトに織り込むか」という課題への回答となっている。

『トイ・ストーリー』や『ファインディング・ニモ』、最近だったら『インサイド・ヘッド2』など、高いクオリティの作品を次々と生み出しているピクサーだが、「創造性」と「計画性」という、一見相反する要素を、どのように折り合いをつけているのか?

他の製作会社と同様、アイデアを作り出し、脚本を書き、絵コンテを書く。ピクサーが違うのは、この構想段階において、一度完全な作品を作り上げる手法を取っている。

初期段階で詳細化したストーリーボードを元に、アニマティック(簡易アニメーション)を作り上げてしまう。そうすることで、映画全体のストーリー、シーンの構成、キャラの動き、カメラアングルを視覚的に確認することができる。

次にこれを社内の複数のチームでくり返しレビューを行い、ストーリーの問題点やキャラ設定の整合性を見直し、改善点を見つけ出す。この段階で何度も修正を行い、ストーリーテリングを改善させてゆく。創造的なアイデアは、この段階で試され、評価され、フィードバックされてゆく。

そうした上で、実際の製作(アニメーションやモデリング、レンダリング)に入っていく。つまり、構想段階で一度「完成」した映画を持つことで、根幹が確立され、製作途中の大幅な変更や修正を最小限に押さえることができるというのだ。

この手法は、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオでも採られている。『ズートピア』ではシナリオを400本書いては捨て、なおかつ最初に作られたアニマティックでは、キツネのニックが主人公だった。それを見てダメ出しが出たため、いったん捨てて、主人公をウサギのジュディにして作り直されたというのだ([物語を作る側の視点から『ズートピア』の面白さ、怖さ、凄さを語り尽くす]にまとめた)。

試行錯誤のコストは少額で済むが、製作フェーズに入ると、コストは一気に膨らむ。だから、創造的なアイデアは初期段階で反復検証しておくのだ。そうすることで、緻密な計画と作品の創造性を両立させることができる。

契約を2つにする裏技

プロジェクトはプログラミングと違う。

プログラムのようにモジュール化ができるわけがない。そういうツッコミもあるだろう。だが本書では、プロジェクトの中で反復可能な箇所を探して、それをレゴのように扱えと説く。

本書では、地下鉄の建造から道路網の構築まで、さまざまなモジュール化の例が挙げられている。プロジェクトそのものを一つのモジュールと見なしてはどうだろうか?つまり、ミニ・プロジェクトを先行して動かすのだ。

企画段階から参加できる場合、私が意図的にやっているのは、「契約を2つにする」になる。

これを提案すると、オーバーヘッドが増えるので、契約を2つにするのは自社も顧客もとても嫌がる。それでも、「見積もりのためのフェーズを入れましょう」とか何とかゴリ押しして、「検証フェーズ」「実行フェーズ」に分けるようにしている。分割統治は古代ローマからの知恵だが、プロジェクトも然り。大きくなりそうなとき、動かす前に(←ここ肝心)プロジェクトを分けるんだ。

そして、検証フェーズで初期検討から構築まで、一通りやってみることで、大きな問題はあらかた出てくる。ミニとはいえ、プロジェクトを1回まわすことでメンバーは習熟し、実行フェーズでは、おおよそ見積もった通りに進めることができる。

これはプロジェクトが形を成す前に介入できる立場だからできる技なので、いつでも使えるわけではない。だが、「契約を2つにするコスト」の方が、「見切り発車で引き起こされる様々なトラブルを乗り越えるコスト」よりも、うんと安い。アジャイル開発だと、製品の開発までを繰り返すが、クラウドやネットワークの構築も込みで、反復させるのだ。

失敗プロジェクトの筆頭はオリンピック

では、上手くいかないプロジェクトには、どんな特徴や共通点があるか?

本書では、様々な事例が紹介されているが、その最たる例はオリンピックになる。

データ入手が可能な1960年以降、夏・冬のオリンピックは、全て予算超過をしているという。つまり、開催費の見積もり範囲内で行われたオリンピックは、一つも存在しないという。コスト超過率の最高(最悪)は予算を720%超えた、1976年のモントリオール大会になる。

スポンサーから国家、行政、委員会、運営団体など、ステークホルダーが大きすぎ&多すぎることと、威信とかプライドとかにトチ狂った偉い人の横ヤリが入りやすいリスクは容易に想像がつく。

だが、本書によると、オリンピックの失敗の主要因は「経験不足」にあるという。

オリンピックには常時開催地というものがない。そのため、開催の権利を勝ち取った都市は、開催経験をまったく持たないことになる。「いや、東京オリンピックは過去に2回やっているよ?」と反論したくなるが、1964年と2021年なので、初回の関係者は引退しているか死んでる。イテレーションとは真逆の、一発勝負なのがオリンピックなのだ。

ひとたび開催国となるや否や、ステークホルダーは「早く決めたい」衝動に衝き動かされることになる。

超大型プロジェクトなのだから、早く始める必要がある。早く予算を決めて、早く契約し、人を集めて、着手したい……「とにかくプロジェクトを早く始動させたい」という衝動、これが罠になる。

この衝動が、計画軽視の姿勢につながる。作業が始まるのを見届けたいという欲求が、計画立案を蔑ろにし、まるでプロジェクトに本格的に着手する前に片づけるべき、厄介ごとのように扱うようになる。

結果、予算稟議を通すため、契約締結を間に合わせるため、ロクに検討されていない計画がまかり通ってしまう。「本当にそれでいいの?」というチェックもしないまま、形式的な審議でOKとされてしまうという。

これ、本当の問題は、計画立案の段階で、「計画を立てる人」がいないことだろう。スポンサーや利害関係者、行政関係ぐらいで、全体のプロジェクトマネージャー(とそのチーム)が不在のまま、計画が成立してしまうことが元凶だと考える。

本書では、プロジェクトを泥沼に沈める「戦略的虚偽」という方法も出てくる。契約を勝ち取ったり、関係者の承認を得たいとき、計画を表面的なものにする。つまり、重要な課題や予算に跳ねそうな要件を伏せておくのだ。そうすることで、コストや期間の見積もりを低く抑え、通しやすくなる。

いったん通った計画は、実行段階で火を噴く。当然だ、しゃんしゃん会議にするためにスルーしていた問題だから、遅かれ早かれ予算超過や工期遅延として目に見えるようになる。

重要なのは、この段階ではプロジェクトは後戻りできない状態になっていることだ。既に承認は下りており、対外的にも発表している。いまさら計画が間違っているとは口が裂けても言えない。火を噴いている各所で逐次的に人やカネを投入して鎮火する―――という展開になる。

戦略的虚偽の狙いはまさにここで、「後戻りできない時点までプロジェクトを進めてしまう」のだ。いったんそうなってしまえば、追加予算の逐次投入をくり返し、とにもかくにもプロジェクトは完了する。メインスタジアムが完成しなかった開催国はあったが、だからといってオリンピック開催を中止した国は無い。要するに、嘘でもなんでも通したもん勝ちなのだ。

モントリオール市長は、1976年のモントリオールオリンピックについて、「コストが予算オーバーすることはありえない。男が妊娠するのと同じくらいありえない」と断言し、ゴーサインを出した。

予算を720%オーバーしたとき、風刺マンガで市長の妊娠姿が描かれ、市民は憤慨した。

だが、それがどうしたというのか?ドラポ―市長はオリンピックの誘致に成功した。モントリオール市は巨額の債務を返済するのに30年以上かかったが、それを負担したのは納税者だった。ドラポ―は落選さえせず、オリンピックの10年後に引退した。

本書には書かれていないが、このイベントを、何度も繰り返しているのは、オリンピック委員会(とそこに関わる愉快な面々)だろう。過去の開催国の人たちとのつながりもあり、プロジェクトを管理しやすいモジュールに分割する知見もあるだろう。

スポンサーとの癒着や、オリンピックを食いものにする姿勢など、批判もあるものの、「モジュール化」と「イテレーション」について経験豊富なのは、オリンピック委員会なのかもしれぬ。

台所のリフォームから巨大プロジェクトまで、何が失敗要因で、どうすれば上手くいくかを、豊富な事例で語った一冊。



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『美術の物語』ポケット版が復刊されるぞい!

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『美術の物語』は世界で最も読まれている美術の本だ。

原始の洞窟壁画からモダンアートまで、西洋のみならず東洋も視野に入れ、美術の全体を紹介している。これほど広く長く読まれている美術書は珍しい。「入門書」と銘打ってはいるものの、これはバイブル級の名著として末永く手元に置いておきたい。

『美術の物語』は、ハードカバーの巨大なやつと、ポケット版がある。ポケット版は、長らく絶版状態となっており、べらぼうな値段がついていたが、今秋、河出書房新社から復刊されるぞ。新装版と銘打っているので、このPHAIDON版とほぼ同じだと予想する。もった感じとかはこの写真で想像してほしい。

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PHAIDON社のポケット版(絶版)

本書のおかげで、興味と好奇心に導かれるままツマミ食いしてきた作品群が、社会や伝統のつながりの中で捉えられるようになった。同時に、「私に合わない」と一瞥で判断してきたことがいかに誤っており、そこに世界を理解する手段が眠っていることに気づかされる。さらに、美術品の善し悪し云々ではなく、人類が世界をどのように「見て」きたのかというテーマにまで拡張しうる、まさに珠玉の一冊なり。

まず、軽妙で明快な語り口に引きよせられる。このテの本にありがちな、固有名詞と年代と様式の羅列は、著者自身により封印されている。代わりに、「その時代や社会において、作品がどのような位置を占めていたか」に焦点が合わせられている。今でこそ美術館や博物館に陳列されている作品は、最初から「美術作品」として制作されていなかった。それは、儀式を執り行うための呪術具であったり、文字の読めない人々に教義を説く舞台装置だったり、視覚効果の実験場として扱われていた。

ゴンブリッチは、そうした文脈から切り離されたところで美術を語ることはできないという。すなわち、時代のそれぞれの要請に対して、画家や彫刻家たちが、置かれている状況や前提、制度、そして流行に則ってきた応答こそが、美術の物語たりえるというのだ。

これこそ「美術」というものが存在するわけではない。作る人たちが存在するだけだ。男女を問わず、彼らは形と色を扱うすばらしい才能に恵まれていて、「これで決まり」と言えるところまでバランスを追求する。

そして、エジプト美術から実験芸術まで、色と形のバランスの試行錯誤が、物語の形で一気に展開されるのだが、これがめっぽう面白い。というのも、これは克服と喪失の歴史だからだ。

「見たままを描く」問題

単純に「見ているものを見たまま描く」ことに収斂するならば簡単だ。しかし、そうは問屋が卸さない。この問題を追及するとき、必ずぶつかる壁があるからだ。三次元の空間をいかに二次元で表現するか、「光」をどう表現するか、静止したメディアの中で、いかに動きを生み出していくか、細部の明瞭さと再現性のトレードオフ、そして、「ちょうどいい構成」とは何かという最重要課題がある。さまざまな時代の芸術家たちがこの課題に取り組み、成果を挙げ、ときには危機に陥りながらも技術をつないできた。

たとえば、「見たままを描く」問題について。古代エジプトの画家は、「見たまま」ではなく、「知っている」ことを基準に描いた。つまり、人体を表現するとき、その特徴が最も良く出ている角度からのパーツを組み合わせたのだ。顔は横顔だが目は正面から、手足は横からだが、胴体は正面図といった描き方は、古代エジプト美術の様式としてルール化された。絵を描くことに慣れていない人や子どもが、この描き方をする。

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ツタンカーメンの「目」は正面、「足」は横からになっている

絵に短縮法(foreshortening)を入れたのは、ギリシャ人だという。手前のものは大きく、奥のものは小さく描くことで、「見えている」ことを表わそうとした。ルネサンス期においても、遠近法や解剖学の知見により、「世界はこう見えるはず」という前提に則って描かれてきた。

しかし、世界は本当に「見えるように」描かれてきただろうか。美しい肉体美を生き生きとした形で「リアルに」表現した作品であるならば、それは、「見えるように」ではなく「見たいように」描かれた理想像にすぎない。また、毛の一本一本や各部分の輪郭を精密に描いたとしても、それは拡大された世界であって、決して見る人(≠描く人)が見る像ではない。本書では、ダ・ヴィンチとミケランジェロ、ラファエロとティツィアーノ、コレッジョとジョルジョーネ、デューラーとホルバインといった巨匠たちの作品を一つ一つ挙げながら、こうした問題がどのように取り組まれていったかを詳しくたどる。

いちばん驚いたのが、レオナルドの『モナ・リザ』だ。これは、見る人に想像の余地を「わざと」残している作品だという。人間の目の仕組みを知り尽くしているからこそあんな風に描いているというのだ。人は「そこにある」ことが分かっている物については、適切なヒントを与えることで、目が勝手に形を作り上げてくれる。輪郭線をくっきりさせず、形が陰の中に消えて、形と形が溶け合うように、柔らかい色彩でぼかして描く。この仕掛けを教わった後、図版と向き合うと、まるで初めてかのように見え、動いていないのに残像を見るような思いがする。この喜びは、新しい目をもらったようなもの。

それでもしかし、とまだ続く。ロマネスクからロココまで、さまざまな様式や手法どおりに世界は「見えている」のか、と逆照射する人が出てくる。茶色の縦線は木、緑の点は葉っぱ、肌の色あい、水、空、光……自然の事物にはそれぞれ決まった色と形があり、その色と形で描いたときに、対象を見分けることができる───この信念に疑問を投げかけ、乗り越えるために傑作をものにした人がいる。マネとその後継者が色の表現にもたらした革命は、ギリシャ人が形にもたらした革命に匹敵するという。

つまり、人が世界を「見て」いるとき、対象のそれぞれが固有の色や形をもってそこにあるのを見ているのではなく、視覚を通じて受けた色彩の混合体を感じていることを発見したというのだ。そしてその発見を絵というメディアにするとき、犠牲になったのは「正確さ」だという。

セザンヌは、色彩によって立体感を出すという課題に没頭していた。色の明るさを殺さずに奥行きを感じさせ、奥行きを殺さずに整然とした構成にするために労苦を重ねた結果、多少輪郭がいびつでもよしとした。ゴッホは、写実を至上としなかった。本物そっくりに描いてある絵を指して、「立体メガネ」で見ているようだと言ったという。彼は、絵によって心の動きを表わしたかったという。感情を伝えるためなら、形を誇張し、歪曲することさえあったというのだ。

ピカソのヴァイオリンを「ゲーム」として見る

著者は、ピカソに代わって言う。「目に見える通りに物を描く」などということを、われわれはとっくにあきらめている。そんなことは所詮かなわぬ夢だったのだと。描かれた直後から、いや描いている途中から、モティーフはどんどん変化してゆく。はかない何かを模写するのではなく(カメラが一番得意だ)、なにかを構成することこそが、真の目的だと。あるモティーフ、たとえばヴァイオリンを思うとき、人はヴァイオリンの様々な側面を同時に思い浮かべることができる。手で触れられそうなくらいクッキリ見えているところ、ぼやけているところ、そうした寄せ集めこそが「ヴァイオリン」のイメージなのだと。

本書を読むまで、わたしには、ピカソのヴァイオリンが理解できなかった。これをヴァイオリンの絵として見ろというには無理があると思っていた。が、これはゲームなのだという。つまり、カンヴァスに描かれた平面的な断片を組み合わせて、立体を思い浮かべるという、高度なゲームなのだと

二次元で三次元を表現するという、絵画にとって避けられないパラドクスに対し、これを逆手に取って新しい効果を出そうとする試みが、キュビズムになる。見るとは何か? から出発し、これほど明快なキュビズムの説明は受けたことがない。分からないから、と忌避していた自分が恥ずかしい。

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ヴァイオリンと葡萄

このように、「見たままを描く」テーマで駆け足で眺めたが、ほんの一端だ。ラファエロの構図の完璧さや、フェルメールの質感が、なぜ世紀を超えた傑作たりうるかなど、歴史の中に位置づけて説明されると腑に落ちる。いわゆる名画を単品でああだこうだと眺めてきたなら、絶対に見えない場所に連れて行ってくれる。

制作を支える技術から、それを成り立たせる社会情勢まで視座に入れているため、ずっと抱いていたさまざまな疑問に答えてくれているのも嬉しい。たとえば、偶像崇拝を禁じたキリスト教で、なぜ聖画があるのか? という長年の謎に対し、図像擁護派の巧妙な主張を示してくれる。

慈悲深き神は、人の子イエスの姿をとってわれわれ人間の前にあらわれる決心をされたのですから、同じように、図像としてご自分の姿を示すことを拒否されるわけがない。異教徒とちがって、われわれは、図像そのものを崇拝するのではない。図像を通して、図像の向こうの神や聖人たちを崇拝するのです。

宗教画は、読み書きができない信徒たちにとって、教えを広めるのに役立つ。すなわち、文字が読める人に対して文がしてくれることを、文字の読めない人に対しては絵がしてくれるというのだ。もちろん容認されるモチーフや構図に制限がついてまわるが、その範囲でなら作り手たちの創造性に任されていたという。

読んでいくうちに、過去の記憶がどんどん呼び起こされていくのも面白い。出だしのラスコー壁画のトピックは中学の国語のテストで、レンブランドの生々しい自画像の話はZ会の英語の長文問題で、そして教会建築のアーチ断面におけるヴォールト構造の記述はケン・フォレットの『大聖堂』で、読んだことがある。最近だったら『ブルーピリオド』で八虎がハードカバー版を読んでいたのと、「このテーマを絵画でやる意味あるの?」という問いかけへの回答も書かれている。

本書は美術の権威として、さまざまな種本となっているのだ。本書は、これからわたしが見る/見なおす美への新しい視点のみならず、かつて通り過ぎるだけで見落としていた美について、新しい光をもたらしてくれる。さらには、読み手が抱いている疑問―――例えば、美術とは何か、「見る」とはどういうことか、写真やVR技術が発達し、AIが絵を描くようになったいま、これからの美術はどうなっていくか―――のそれぞれに応じて、答えを見出すことができるだろう。

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前半が文章、後半が図版で、照らし合わせながら読める(そんな読者のためにスピンは2本ある)

一生つきあっていける、宝のような一冊。

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