なぜ『百年の孤独』が面白いのか、ネタバレ抜きで語ってみる
人生で3冊読んだけど、3冊とも面白かった。
最初は水色のハードカバー版で、次は白黒のやつ、そして最近出た新潮文庫を読んだことになる。ストーリーは知っているし、あのラストの感情の奔流は何度も味わっているのに、それでも無類に面白い。
何度も読んだのに、なぜ、面白いのだろうか?
まともな人間が(ほぼ)誰もいないブエンディア一族の奇妙な生きざまや、日常的に非日常が描かれるマジックリアリズムの磁力、あるいは、奇妙で悲惨でユーモラスなエピソードが隙間なく詰め込まれているストーリーは、どこから見ても面白い。
しかし、3冊目の新潮文庫を読みながら、そうしたストーリーやキャラだけでなく、『百年の孤独』そのものに面白さが練り込まれていることに気づいた。
ここでは、物語の展開や登場人物の運命にはできるだけ触れずに、ネタバレ抜きで、『百年の孤独』の面白さを語ってみる。
既視感と未視感の混交
例えば、中毒性のある文章について。『百年の孤独』の書き出しだ。
長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。
(新潮文庫版 p.9)
銃殺隊?
ブエンディア大佐?
「あの遠い日の午後」って?
疑問が次々と湧き上がるが、説明は一切無い。
そもそも、この文章はヘンだ。「長い年月が流れて」なら、未来の話だろうし、「あの遠い日の午後を思い出した」のは過去の話になる。では、これをしゃべる語り手はいつの場所にいるのか?あるいはこれを聞いている(読んでいる)私は、どの時代にいるのか?
もちろん、すべての物語が終わった後、神の目線から、過去のお話を聞いているのだという解釈は成り立つ。事実、ほとんどの文章は過去形なので、昔話の民話だと見なすことは可能だ。
だが、語り手自身が分かっていないことをしゃべっているようにも見える箇所がある。まだ起きていない未来の出来事だからと留保付きで述べるのだ。「思い出したに違いない」なんてまさにそうで、違和感がついてまわる(普通なら「思い出した」に留めるはずだ。なぜなら、すべてが終わった過去を振り返っているのだから)。
物語は進んでゆくうちに、「あの遠い日の午後」も語られるし、アウレリャノ・ブエンディアが「大佐」になるエピソードも紡がれるし、銃殺隊の前に立つシーンも出てくる。しかし、彼が夏の日の午後を思い出したかどうかは、そのシーン、つまり銃殺隊の前に立つ場面にならない限り、語り手自身も分かっていないのではないか―――そういう予感がついてまわる。
そんな文章が要所要所に練り込まれている。
大丈夫、ほとんどの文は普通に読めるのだが、アウレリャノ・ブエンディア大佐のエピソードはくり返し触れられ、語られているので分かりやすいのだが、他にも、こうした違和感を掻き立て、目を留める引っ掛かりが設けられている。
これを一種のフラグ、伏線の変異体と見なしてもよいが、引っ掛かる度に、聞いている(読んでいる)この瞬間が、いつなのかを見失う。。
読み進めていくうちに、違和感の正体は、「銃殺隊の前に立つ」時と、「初めて氷というものを見た」時間、そして「思い出したに違いない」と語るときが、同じ瞬間に集約されているのではないかという疑いに変化する。そして読み終わるとき、この違和感は、『百年の孤独』そのものを貫く巨大な伏線だったことが明らかになる。
既視感と未視感が混ざったような、軽い吐き気を覚える。『百年の孤独』で感じる中毒性の正体の一つがこれ。
再帰的・回帰的な物語構造
物語で繰り返される変奏が、この既視感+未視感をさらに加速させる。
例えば、「この会話は以前にした(はず)。それも別の人が別の時に」という既視感(聞いているから既聴感か)。
「何をぼんやりしているの」。ウルスラはほっと溜め息をついた。「時間がどんどんたってしまうわ」
「そうだね」とうなずいて、アウレリャノは答えた。「でも、まだそれほどじゃないよ」
(新潮文庫版 p.196)
事態は切迫しており、取り返しのつかない状況になりつつある。話ができる時間は限られているのに、言いたいことは言えなくて沈黙が長引き、ありふれた日常の会話に戻っていくシーンだ。
そこから2世代たってから、こんな会話が交わされる。
曾祖母の声に気づいた彼はドアのほうを振り向き、笑顔を作りながら、無意識のうちに昔のウルスラの言葉をくり返した。
「仕方がないさ。時がたったんだもの」
つぶやくようなその声を聞いて、ウルスラは言った。「それもそうだけど。でも、そんなにたっちゃいないよ」
答えながら彼女は、死刑囚の房にいたアウレリャノ・ブエンディア大佐と々返事をしていることに気づいた。たったいま口にしたとおり、時は少しも流れず、ただ堂々めぐりをしているだけであることをあらためて知り、身震いした。
(新潮文庫版 p.508)
この、くり返しのテーマは、時を超え形を変え、さまざまなバリエーションで語られる。
はっきりと登場人物の会話や独白に現れるものもあれば、違う人物が同じ行動をするといった描写に表現されるものもある。さらには、世代を超えて似通った選択をし、同じ運命にたどり着くことでも描かれている。
ただし、くり返しのテーマは、分かりやすくない。むしろ、わざと複雑に、錯綜させて書いているように見える。会話の端々に現れる「堂々めぐり」「くり返し」は分かりよい方で、読み解きというよりも、聴き手の印象を操作するように描いている。
その顕著な例が、名前だ。
ホセ・アルカディオ・ブェンディア
ホセ・アルカディオ
アウレリャノ(大佐)
アルカディオ
アウレリャノ・ホセ
ホセ・アルカディオ(法王見習い)
これら全て別人物だ。「アルカディオ」や「アウレリャノ」が並んでおり、一読しても、誰が誰の話なのか、すぐに分からなくなる(似たような行動や似たような運命を辿るので、最初に読んだときは迷子になったものだ)。まるで、うっそうと茂った樹木の葉っぱの見分けがつかなくなるように、意図的に混同させるように名づけを行っている。
家系図は樹木構造をするのだが、ブエンディア一族の家系図は、ツリー状に広がっていきつつ、一族内での混交も起きている。女を共有したり、一族同士で結ばれることによって、広がった枝が畳み込まれ、一体化しているようにも見える。
初読のときは迷子になって、家系図と人物相関図を作ったりしたものだが、そのうち諦めた。代わりに、誰の話なのかというよりも、むしろ、何の話なのかを注視するようにした。
そうすると、度胸があって面倒見がいいけれど、短絡的な性格が災いを呼び寄せる「アルカディオ」と、物静かで頭が良く、コツコツと時間をかけて運命を変えてゆく「アウレリャノ」という、2つの資質が練り込まれていることに気づく。
そして、度胸があって面倒見がよく、物静かで頭もいいのが、一族の祖である、ホセ・アルカディオ・ブェンディアであることが見えてくる。そして、彼の行動や言葉を、その子孫たちがなぞっているようにも見える。つまり、ホセ・アルカディオ・ブェンディアの人生の中に、一族の運命が練り込まれていると読むことだってできる。
『百年の孤独』=シェルピンスキーの三角形
イメージ的には、シェルピンスキーの三角形になる。
1. 正三角形を描く
2. 正三角形の各辺の中点を結んだ正三角形を描く
3. 中央の正三角形を取り除く
4. 上の2と3を繰り返す
この三角形は、奇妙な性質を持っている。
まず、面積だ。
最初の三角形の面積を1とすると、次の3つの三角形のそれぞれは1/4で、全部を合わせると、3*(1/4)=3/4になる。次のステップで9個い三角形の面積は1/16で、総面積は9*(1/16)=(3/4)^2となる。これを続けていくと、残った部分の面積は、数列1,3/4,(3/4)^2,(3/4)^3...となり、公比3/4の等比数列となる。
公比は1未満のため、数列の項は、n→∞のときに0に限りなく近づく。そのため、最終的には元の三角形は、各段階で赤い領域の1/4だけを取り除いたにもかかわらず、消えてしまうことになる。面積という、見える有限の「量」が無限のステップの中で消えてしまう不思議。
次に長さだ。
三角形の周長は、一辺1とすると、3,9/2,27/4,81/8...となる。これは公比3/2の等比数列で、公比は1より大きいので、より多くの三角形を取り除くにつれて、項は際限なく大きくなり、周長は無限に大きくなってゆく……面積がゼロに限りなく近づく一方、無限の長さをもっている。
シェルピンスキーの三角形には、無と無限が詰め込まれている。
ブエンディア一族の家系図は、正三角形とは程遠いのだが、一族のある人物の言動を追いかけていくと、他の人物と似通っており、なおかつ、ブエンディア一族の全体とも相似してくる。
つまり、一族の全体の構造が部分にも同じ形で現れているのだ。
例えば、ホセ・アルカディオの生き様をアルカディオがなぞり、ホセ・アルカディオ(法王見習い)が受け継いでいる。各人の資質が同じ形で運命に現れる。男だけでなく女の運命も互いに似通っており、一人の女の話をしているのか、他の誰かの巡りあわせをなぞっているのか、分からなくなる。
もつれあい、絡み合う部分は、カメラを引くと一族の全体になる。やろうとすれば、この物語は無限に続けることができるだろう。
しかし、物語はいつか終わる。
既視感と未視感と違和感、物語のフラクタルな構造、浮かび上がってくる再帰的なテーマ、これらを抱きつつ後半に差し掛かると、怒涛の奔流に呑み込まれ、もみくちゃにされるだろう。そしてラスト、(ゆっくり読んだ方がいいのに)巻き上がる風に吸い込まれるように、急いで最後のページまで読もうとするだろう。
そして読み終えるとき、自分が完全にこの一冊に取り込まれており、この小さな一冊に、無と無限が詰め込まれていることに気づくだろう。
ハードカバー版よりも小さい新潮文庫版だと、この思いがより一層強く感じられる。全てが入っていながらも、無である世界。それが『百年の孤独』だ。
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コメント
面積について間違っていませんか。
結論は同じですが、除去される三角形の面積が、初項1/4、公比3/4の等比数列になります。どんどん除去していくので、除去された三角形の面積の総和は(1-(3/4)^n)となり、nを無限大にすると、1となり、「最終的には元の三角形は、各段階で赤い領域の1/4だけを取り除いたにもかかわらず、消えてしまうことになる。」と帰結されるのではないでしょうか?
投稿: Nonami | 2024.08.05 12:55
すみません。除去した面積の総和が(1-(3/4)^n)なのだから残った面積は(3/4)^nですね。
当方の勘違いでした。大変に申し訳ないことです。
投稿: Nonami | 2024.08.05 12:59
>>Nonamiさん
コメントありがとうございます。最後の箇所だけの勘違いとはいえ、きちんと読んでいただいている証拠です。ありがたいです。
投稿: Dain | 2024.08.06 16:20