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問題領域の重なる人を探す『宇宙・動物・資本主義──稲葉振一郎対話集』

N/A

  • 新自由主義って何十年も「新」って言い続けてるよね
  • 物理学が発生するようなローカルな環境を研究するのが物理学の正体
  • ピンカー『暴力の人類史』は過去の暴力を過大に見積もりすぎ
  • カズオ・イシグロ作品につきまとうのは、人の主観性の有限性
  • ナウシカ「風の谷」と未来少年コナン「ハイハーバー」とシン・エヴァ「第3村」を比較する

上のリストはほんの一例。実に様々なことが語られており、ハッとさせられたり、思わず爆笑したり、忙しい読書だった。第一線で活躍する研究者や批評家、作家と、稲葉振一郎氏の対談を500頁超に詰め込んだ鈍器本がこれだ。

『宇宙・動物・資本主義』という奇妙なタイトルが物語っており、なんのこっちゃと首をかしげていた。だが、読み終わったら分かった。確かにこれは、宇宙・動物・資本主義といわざるを得ない。この3語で網羅しているのではなく、この3語ぐらい離れたテーマが飛び交いつつも、混ざりあっている。

本書は、自分と問題領域が重なる人を探し、その人のアイデアを自分で拡張していくといった読み方をすると、最高に楽しくなる。

第1部 人間像・社会像の転換

  • 新世紀の社会像とは?(×大屋雄裕)
  • 〈人間〉の未来/未来の〈人間〉(×吉川浩満)
  • 社会学はどこまで行くのか?(×岸政彦)

第2部 動物・ロボット・AIの倫理

  • 動物倫理学はいま何を考えるべきか?(×田上孝一)
  • AI「が」創る倫理──SFが幻視するもの(×飛浩隆×八代嘉美×小山田和仁)

第3部 SF的想像力の可能性

  • 学問をSFする――新たな知の可能性?(×大澤博隆×柴田勝家×松崎有理×大庭弘継)
  • SFと倫理(×長谷敏司×八代嘉美)
  • 思想は宇宙を目指せるか(×三浦俊彦)

第4部 文化・政治・資本主義

  • ポップカルチャーを社会的に読解する──ジェンダー、資本主義、労働(×河野真太郎)
  • 「新自由主義」議論の先を見据えて(×金子良事)
  • 中国・村上春樹・『進撃の巨人』(×梶谷懐)
  • どうしてわれわれはなんでもかんでも「新自由主義」のせいにしてしまうのか?(×荒木優太×矢野利裕)

物理学の正体を暴く人間原理

驚いたのは、発想の柔軟なところ。言い換えると、私のアタマの堅さなのだが、例えば物理学だ。稲葉振一郎著の『宇宙倫理学入門』についての、三浦俊彦氏の発言なのだが、こうある。

私がかねてから興味を持って追いかけている「人間原理」は、理論物理学は物理学が存在する宇宙だけを研究している、あるいは物理学が発生するようなローカルな環境を研究するのが物理学の正体である、という実態を暴いたことに重要さがありました。

(p.329 第8章「思想は宇宙を目指せるか」より三浦発言)

このテーマについて、物理学の限界=その時代の技術の限界 『物理学は世界をどこまで解明できるか』などで考えたことがある。かいつまむと、物理学の限界は、観測する機械の発達に制限されるだけでなく、それを理解できる人間という限界と重なるという話だ。

ただし、お二人の対談は、あっという間にこの話を抜き去り、地球外生命体の探索の話からネオ・ダーヴィニズム、フランク・ティプラーの仮説、シンギュラリティ、神の恩寵説、系外惑星の発見が人間主義をリライトする可能性へと、次々と繰り出してくる。

そして、探査機を飛ばすのではなく、宇宙へ人間を送り込むためには人間自体を改変していく必要性の議論、さらにはレム『ソラリス』やストルガツキー『ストーカー』を引きながら、「異質な知性体」のテーマに斬り込む。

しかしよく考えれば「人間にとって異質で理解不可能な存在(AIや知的生命体)」という概念自体が、そもそも自己矛盾を犯しているのではないか、という疑問も浮上します。哲学的に言えばドナルド・デイヴィッドソンの「根源的解釈」以降の合理性を巡る議論に通じる論点ですね。つまり、我々にとって理解不可能なものが存在していたとして、果たしてそれは知性と呼ぶべきものなのかという。

(p.329 第8章「思想は宇宙を目指せるか」より稲葉発言)

「知性がある」という時点で、「人間にとって理解できる範囲で、なおかつ、人間のモノサシで知的と評価できる」ことになる。先ほどの、「物理学が発生するようなローカルな環境を研究するのが物理学の正体」にもつながる。

たかだか数頁の対話の中に、沢山の仮説や議論や作品を突っ込んでくる。そのテーマの一番おいしいところを切り取って、手際よく見せてくれる。対話する相手の知性がお互いに分かり合っているので、こんなにポンポンやり取りできるんだろうな……

同じ議論が、レムの短編「GOLEM XIV」で展開されている。「GOLEM XIV」は自己学習できるAIで、人間を超えた知性を有しているとみなされている。彼(?)はこう語り掛ける。

諸君の一員でない者はすべて、それが人間化している程度に応じてのみ、諸君にとって了解可能なのだ。種の標準の中に封じ込められた「知性」の非普遍性は煉獄をなしているが、その壁が無限の中にあるという点が風変わりである。

スタニスワフ・レム「GOLEM XIV」

人が「知性」を評価する基準は、我々自身の限られた経験や認知の範囲に依存している。「知的だ」とみなす行為や考え方は、我々自身の文化や歴史によって形成された評価基準に基づいている。

こんな風に、ディスカッションを通じて話題や発想がどんどん飛び出てくると、読んでるこっちにも、そのアイデアの回転率が伝わってくる。発言が呼び水になって、以前に考えてたこと、読んでた本に接続されてくるのが心地よい。

BOTが社会を変える可能性

一方で、新たなストーリーが生まれそうな呼び水もある。

この点で最近気になっているのは、こうしたフィクショナルなキャラクター、エージェントと、ソーシャルネットワーク上の活動を分析する計算社会科学という分野との融合です。Twitterのbotによって政治的な傾向が偏ってしまう、という研究が代表的ですが、人間ではないものが人間社会に影響を与えてしまい、民主主義のようなわれわれが今まで運営してきたブラットフォームのセキュリティホールになってしまう事例が多々見られます。

(p.259「学問をSFする」より大澤発言)

「学問とSF」という一見相反するようなテーマを俎上に、イノベーションを促したSFや、確率薬理学、計算社会学、伝説や童話をSFで解釈するなど、おもちゃ箱をひっくり返したようなお話がひしめいている。「全ての学問はAIに関する」なんて、確かにそうだなぁと思わせる発言も出てくる。

ポイントは「人間ではないものが人間社会に影響を与えてしまう」という点だ。twitterのエコーチェンバーが有名だが、「その人に興味があると思われる」トピックを自動的に集約していくうちに、より強い言葉に触れる機会が増え、より感情を刺激するネタが投下されていくうちに、思想がどんどん過激になる。

少し強い言葉をSNSに投げ込んだら、思いのほか「いいね」を貰えて、その反響に気をよくして、さらに強い言葉、キツい言い回しと、承認欲求を求めるあまり、極端に走る人がいる。最終的には「つぶやく」だけでなく、物理的な阻止や、訴訟など、実際の行動に出る。

これは個人に焦点を当てた話だが、社会集団にも同じ現象が見られる。

誰かを傷つける酷い言葉や、感情を波立たせるエモい言葉、代弁してもらえるキャッチーなセリフなどが広まるとき、それをbotが拾い上げ、目につきやすいタイムラインの上位に配置する。再拡散が繰り返され、その言葉はあたかも社会の気運を示しているように感じられてくる(単純接触効果やね)。

しかし、そのbotのアルゴリズムに思想的な方向性を持たせ、社会の関心全体を特定の方向に誘導しているのではないか、と感じることがある。正確には「あった」というべきだろう。7~8年くらい前だろうか、特定の考え方のtweetが数多く目につくようになり、違和感を覚えたことがある(2年くらい前から、そうしたtweetの氾濫は解消されている)。

中の人による誘導だと勘ぐっているが、中の人の立場からしても、どこまで誘導できているかコントロールできていないと思われる。

これを、もう少し踏み込むと、一つのストーリーが出来上がる。

フィクションなら「魔法使いの弟子」パターンの物語。世論をコントロールしようとしてbotのパラメーターに手を加えるのだけれど、当面は上手くいっているが、そのうち極端な方向に走り出し、制御不能になる。最終的には中の人がターゲットとなり弑されるというやつ。

ノンフィクションなら陰謀論になる。twitter Japan の人事異動を調べ上げ、当時のtweetの政治色と世論の動向とを比較しながら、関与していた可能性のある人を特定し、インタビューする。もちろんその人は否定するだろうし、そもそもこの試みそのものがナンセンスかもしれない。けれども、世論の動向にbotが与えた可能性を調査する方法は今後も役に立つだろうし、何よりも牽制になるかもしれぬ。

テレビや新聞など、マスコミは自身が信ずる政治色に、世間を(ゆるやかに?)誘導しようとして、事実の取捨選択や、その語り方の色味を変えてくる。マスコミの情報を受け取る我々は、そうした着色は折り込み済みで、ある種のうすらぼんやりとした色眼鏡を通して見る。

しかし、twitterなど、比較的新しい媒体では、そうした「着色」が行われているかが分からないため、色眼鏡によるフィルタリングは意識して行いにくい。その結果、より強い方向、より感情を刺激する方向に流されがちだと考える。

―――こんな感じで、対談の中から引っ掛かるテーマを元に、自分でも考え込んでしまう。通して読むのもいいけれど、パラパラめくって、気になるワードから自分で考えを広げていくのも楽しい。

自分と問題領域が重なっている人を探し、その人のアイデアを広げていく一冊。




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人事制度の脆弱性を衝いて給料UPする『人事制度の基本』

「年収を上げる」と検索すると、ずらり転職サイトが並ぶ。ライフハック記事の体裁だが、最終的には転職サイトに誘導する広告記事だ。

しかも見事なまでに中身がない。転職しないなら、「副業を始める」とか「スキルアップする」といった誰でも思いつきそうなトピックを、薄ーく書きのばしている。

ここでは、もう少し有益な書籍を紹介する。想定読者はこんな感じ。

  • スキルアップはしてるけど、給料UPにつながらない
  • 転職も考えたが、今の場所で評価されたい
  • 自分をプレゼンして「良く見せる」のがヘタ

そんな人に、2つのアプローチで給料を上げる方法を紹介する。

  1. 人事制度の脆弱性をハッキングする
  2. 上司のバイアスを逆に利用させてもらう

この記事は1のアプローチから攻める。

紹介する本はこれだ、『この1冊ですべてわかる 人事制度の基本』(西尾太、日本実業出版社)。

N/A

著者は人材コンサルタント。400社、1万人以上をコンサルティングしてきた人事のプロフェッショナルというべき人で、豊富な実例とともに人事制度の設計から運用の仕方を紹介している。「汎用的で、普遍性があり、長持ちする」制度設計を目指したという。

ここで解説されている人事制度をモチーフに脆弱性を探し、そこから攻略する。もちろん本書の制度がそのまま今の勤務先に当てはまるとは限らない。だが、多かれ少なかれ、オーバーラップするところはあるはずだ。

人事制度の構造

ハッキング対象となる、人事制度の構造はどうなっているのだろうか?

本書によると、うまくいっている企業の人事制度の構造は、ほぼ同じ形をしているという。まとめると、以下の通りになる。

まず、「会社が社員に求めるもの」があり、それに対し、社員の個々人がどのような状態にあるのかを確認する、「評価とフィードバック」があり、その結果が「報酬や昇格」に反映される。「会社が社員に求めるもの」と「評価」で明らかになったギャップを埋めるものが「教育施策・育成」になる。

この「会社が社員に求めるもの」とは何か?これは様々な要素で構成されているが、機能している人事制度においては、全て開示されているはずだ。

  1. 行動指針:会社の価値観(ビジョン・ミッション・バリュー)が示されている「経営理念」に共感し、会社と共に目指してもらうことを求めるために明文化したもの
  2. 階層別に求められる行動:新人レベル、課長クラス、部長クラスなど、それぞれの階層で求められる行動を示した等級要件(キャリアステップ)のこと
  3. 職種別に求められる知識・スキル:「営業職」「技術職」など、職種別に必要な能力的要素

そして、これらの要素を実装しているものが「目標達成」になる。会社としての経営目標や事業計画があり、最終的には売上げや利益が全社目標になる。だが、そこへ至るために組織としての目標があり、個々人の目標がある。

さらにざっくり言ってしまうと、「会社が社員に求めるもの」があり、会社の価値観が行動指針に示される。それが2つの方向―――「階層別に求められる行動」と「職種別に求められる知識・スキル」に具体化される。具体化されたものができているか、できていないかは、会社の目標からカスケードされた「目標達成」度合いによって測定される。

「行動指針は」は天から降ってくるものなので、こちとらどうしようもない。また、技術職などで求められる知識は、各自スキルアップをしているだろう(それ用の教本もある)。なのでここでは語らない。

ここでは、人事システムの構造の中から、自分でなんとかできる「階層別に求められる行動」「目標達成」に焦点を絞って説明する。

何ができれば評価されるか

英検準一級に合格したら1万円アップとか、課長になるにはオラクルマスターゴールド必須など、評価基準が明確になっていれば分かりやすい。

だが、給料そのものをアップしたり、特定の職位の必須条件にする企業は少ない(資格を取ったら金一封を出すかもしれないが)。

資格でないのなら、何が評価の基準となるのか?

それが、「階層別に求められる行動」になる。例えば、新人の仕事と課長の仕事は違う。これを明記したもので、「等級要件」と呼ばれる。会社によって呼び方が異なり、「グレード要件」「資格要件」という場合もあるようだ。

本書によると、等級要件が課長クラスのものはこれ。

  • 目標に対する進捗管理を怠らず、問題の本質を捉え、適切に対処する
  • 新しい価値創造に敏感で、数値的背景を持ちつつ、現状を改革するアイデアを具現化する
  • 傾聴とフィードバックを行い、メンバーの能力向上を図り・教え・育てる
  • 社外の有力なネットワークを持ち、会社の価値向上を図る

ただし、これでも抽象的すぎる。「問題に適切に対処する」とか「メンバーの能力向上を図る」とはどういうことか?

これをさらに落とし込んだものを、「コンピテンシー」と呼ぶ。そのクラスとして成果を上げるために欠かせない行動の「型/モデル」のことを指す。課長クラスだとこれ。

理念浸透


会社の理念に共感し、理念に則った行動を行い、周囲に理念を浸透させる

変革力


現状への危機意識を持ち、これまでの慣例に囚われない新たな取り組みを行う

目標設定


業績を向上させ、組織効率を高める適切な目標を、達成基準を明確にした上で、設定する。組織目標を明示し、個人目標にブレイクダウンし、個々の適切な目標を設定させる

計画立案


リスクを想定した現実的な計画を立案する。リスク発生別のプランも用意する


進捗管理


目標達成に向け、計画の進捗管理を行う。マイルストーン時点での達成状況を確認し、実行の優先順位を明確にする。進捗に問題があるときは修正を行い、達成に向けて管理する


計数管理


組織のPLやBSを把握・活用し、売上げを伸ばし経費を抑える施策を行う

人材育成


メンバーそれぞれの能力向上を行う。個別の目標・課題設定を促し、評価し、よい点・改善点のフィードバックを行い、気づきを与え、成長させる

解決案の提示


適切な状況判断を行い、解決のための複数の選択肢を案出する。各案のメリ・デメリをを整理し、合理的な決断を促す

傾聴力


相手が「分かってくれた」と思うまで話をよく聞き、理解する。相手に理解していることを示し、信頼を得る

人的ネットワーキング


社内外の人的ネットワークを構築・活用する。企画を通すための根回しや理解を得て、実現への組織的合意を形成する。多面的な人材ネットワークを持ち、協力・協業することで、新しいビジネスの可能性を高める

スペシャリティ


業務に必要な専門知識や技術を有し、実際の業務において活かす。自らの専門性を常にブラッシュアップし、他の専門性との連携を行う

「コンピテンシーモデルの基づく等級要件書:課長クラス」(p.286)より一部改変

本書では、さらに各コンピテンシーモデルが掘り下げられて解説されている。同じ「目標設定」でも、課長と部長では違っていたり、役員だけに求められるコンピテンシーモデルが記載されている(コンピテンシーモデルは、全部で45ある)。ここでは割愛する。

つまり、上の表の行動が取れているのであれば、課長クラスに相応しいということになる。あなたの知っている課長像とは違うかもしれないが、あくまでも参考だ。自分の会社の等級要件書をチェックしてみよう。もし、等級要件書が無い、またはアバウトなやつなら、本書の巻末の付録が参考になる。

これは、いわば採点表だ。

フィギュアスケートにおいてジャンプの種類や難度で得点が決まる採点表のようなものだ。それほど厳密ではないものの、コンピテンシーモデルにおいて、「こういう行動を取って結果を出している」と示すことができれば、それは等級ポイントとして加算される。

もちろん、「ウチはそんな厳密にやってない」というツッコミはその通りだ。本書はある意味、あるべき人事システムを目指した解説書なので、現場はそう回っていないのが実情だ。

それでも、こうは言えないだろうか、「このコンピテンシーモデルを実現できる人なら、どの会社でも課長をやっていける」と。そういう意味で汎用的なモデルだと言っていい。だからこれは、出世のチートシートとして扱ってみよう。

どうすれば評価されるか

人事の採点表が手に入った。どのように行動すればよいかも分かった。

でも、評価されなければ意味ないじゃん?

その通り。あなたは能力があり、十分に上位をやっていけるコンピテンシーがあるとしても、認められなければ評価されない。

上司に恵まれ、いい仕事をしたらちゃんと見て、きちんと報いるなら問題ない。だが、そういう上司は少ない。ゼロとは言わないが、とても少ない。「いい仕事をしたら自動的にいい評価が得られる」というのは幻想だ。

ではどうすればよいか?

どんなにボンクラ上司であっても、会社としてあなたの成果や行動を評価するタイミングがある。年に数回、1 on 1 という形で面談があり、掲げた目標がどれくらい実現できたかをレポートする場があるはずだ。

そのレポートは「目標管理シート」とか「MBOシート」などと呼ばれているだろう。他にもBSC(Balanced Score Card)とか OKR(OKRはObjectives and Key Results)などあるが、本質は一緒。

この目標管理シートをハックする。

目標設定のキモはSMARTだ。

Specific 具体的で、
Measurable 測定可能で、
Attainable 実現可能で、
Relevant 組織目標にリンクしており、
Time limited 期限が明確である

書き方としては、「何を、いつまでに、どのようにして」を明記する。「今年度の全社目標」→「事業部や部門の目標」→「部課の目標」とカスケードダウンされた目標に対して、自分の目標を設定する。

例えば、組織目標が、「2024年12月リリース予定のプロジェクトの完遂」だったら、それに貢献するために自分がどんな役割を果たすのかを、数値目標込みで書く。

めんどう臭い?その通り。私も面倒くさいと思っている。だからAIに任せよう。

プロンプト例

「目標管理シート(MBOシート)の記述例を考えてください。「MBO」とは、Management by Objectives and Self Control のことです。

以下の条件で考えてください。

・ITエンジニアのMBOシート
・中堅レベル
・複数のプロジェクトを掛け持ちしている
・そのうちの一つは、2024年12月にリリース予定(組織目標)

MBOの例は、箇条書きで、文章にしてください。

・具体的であること
・測定可能な目標であること
・実現可能な目標であること
・組織目標にリンクしていること(2024年12月リリースを堅守)
・期限が明確であること

書き方としては、「何を、いつまでに、どのようにして」を明記してください。

GPT-4o回答

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目標3まで例示してくれたが、ここでは割愛。各自、自分のプロフィールで試して欲しい。

そして、出てきた目標について、味付けをする。

どのような味付けかというと、先の表の「コンピテンシーモデル」から拝借する。会社に対し、アピールしたいコンピテンシーモデルを、目標の中にまぶすのだ。

例えば、特定の技術の勉強会を開いているのなら、それを「チームメンバーへの技術指導を行う」「メンバーの育成を図る」といった表現にする。「人材育成」というキーワードを、どのように具体化しているかを語るのだ。

「そんな細かいところ、うちの上司は見やしないよ」というツッコミが出てくるかもしれない。その通りだと思う。本来であれば、部下と一緒に頭を悩まし、目標設定シートを見直し、部下の成長とともに、部下の評価を高める努力をすべきだろう。だが、そういう上司は少ない。ゼロとは言わないが、とても少ない。

それにも関わらず、目標管理シートに力をかけるべきだ。なぜなら、そのうち人事部でAIが導入されるだろうから。

例えば、1人の人間が1000人を公平に評価することは難しいが、AIなら可能だ。全方位的に見ることは困難だとしても、ある基準に則ってスキミングしたりフィルタリングするのはお手の物だろう。

そんなとき、人事部は最初に何をするだろうか?

目標管理シートをAIに喰わせて「結局この社員は、目標を達成できたのか、できなかったのか」と問わせるはずだ。そんな未来は、もうすぐ来るだろう(というか、もう始めている企業もある)。

今年書いたシートが期末に判定されるだけでなく、今まで書いてきたシートをAIに全部喰わせて、「結局この社員は、どのクラスなのか」を判別し、その中から適切なものを人手で選別するのが普通になるだろう。

つまり、期末評価判定をしたり、昇級試験の候補を選別するための予備として、目標管理シートをAIに喰わせることが当たり前になる。人事のメガネに適う以前に、AIに選んでもらう必要があるのだ。

だから、AIに選ばれやすいワードを散りばめる必要がある。あれだ、Googleなどの検索エンジンに引っ掛かりやすくするSEO(Search Engine Optimization)対策のAI版だ。

SEOでは、サイトにキーワードを散りばめたり、上位の外部リンクを貼るといった対策が一般的だが、AIに選ばれやすくするためには、AIの判定基準に合致するキーワードを混ぜ込んでおく。

では、AIに判定基準として学習させるモデルは何だろうか?

ここまで読まれた方には、もうお分かりだろう。階層別に求められる行動を示した「等級要件」と、それを達成するための行動モデルである「コンピテンシーモデル」である。

ここで紹介したやり方は、実際に現れるまで数年かかる(最短でも半期)。だが、そのために何か特別な資格を取るとか、新しい勉強を始めるといったことは不要だ。いまの仕事を着実に進めていけばいい。ただ「自分の仕事の評価のされ方」を変えるのだ。

チートシートも手に入ったし、AI任せるキモも分かったと思う。あなたが頑張るのは、期首の「目標管理シート」を書く時だけ。仕事に負担をかけず、評価を上げる具体的なやり方が実践できると思う。

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『百年の孤独』をみんなで読むと100倍面白い

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ガルシア=マルケス『百年の孤独』は、何度読んでも面白い。

私の記憶力の無さと、再読までに積んだ経験によって、読むたびに面白いと感じるポイントが変わっていく。本は変わらないのだから、再読による発見は、自分の人生の厚みが変わったためなのだろう。

さらに、この小説を楽しんだ人の感想を聞くと、十人十色で面白い。私に近い人もいれば、予想外のところにハマった人もいる。アウト・オブ・眼中の所にのめり込んだ人の話を聞くと、「なるほどなぁ!」と新鮮に読め、一冊で二度も三度も楽しめる。

小説なんだから好きに読めばいい。

引っ掛かった描写。伏線に見えるセリフ。湧き上がるイメージと、それに結びついた自分の読書経験と実人生の体験。学校じゃないんだから、「正解」なんてものはなく、「ぼくのかんがえたさいきょうの読解」の多様性を楽しむといい。

そんな皆さんの感想を伺うべく、『百年の孤独』の読書会に行ってきたので、レポートする。未読の方にはネタバレをしないように配慮する一方で、読んでる方には再読したくなるようなネタを紹介しつつ書いてみる。読書会の開催者はマヤさん(@Mayaya1986)、楽しい会をありがとうございました。

どこに付箋を貼ったか

参加された皆さんが持ってきた『百年』を見ると、あちこちに付箋が貼ってある。

もちろん私のもハリネズミのように付箋だらけなのだが、人により付箋を貼るところが違ってて楽しかった。

なかでも、「孤独」が出てくる箇所に貼った人がいる。

何故に「孤独」か?

本のタイトルにまで登場する「孤独」なのもそうだけど、言われてみると、そこらじゅうに孤独が散りばめられている。この物語を支える通底音が「孤独」なのかもしれぬ。

  • 実際に死の世界にいたが、孤独に耐えきれずにこの世に舞い戻ったのだ(p.81)
  • あれは行動家としては落第だ、消極的で孤独癖が強すぎる(p.159)
  • ふたりは親子というより、むしろ孤独を慰めあう友だちだった(p.240)
  • アウレリャノ・ブエンディア大佐もまた自分をかこむ孤独の殻を破ろうとして、何時間もそれに爪を立てていた(p.266)

愛なき世界を生きる一族なのだから、各々が孤独を抱えていることは当然の帰結だろう。圧倒的な権力の重さに誰にも相談できない孤独から、愛する相手が血のつながった家族であるが故に突き落とされる孤独など、様々な孤独が出てくる。

「孤独」に付箋を貼った人によると、面白いことに、アルカディオ名が付くキャラには、孤独が出てこないという。むべなるかな、家族の中でアルカディオと名づけられる男は、豪放磊落な大男になる傾向がある。お祭り好きで女好きなキャラは、孤独とは程遠いかも。

さらに『百年の孤独』の「孤独」は、soleであってlonelyじゃないという指摘は鋭いと思った。日本型の、ねっちょりジメっとした loneliness というよりも、それぞれが背負ってる業の形が違う故の solitude の孤独だ。

「黄」に付箋を貼った人もいる。

最初は不思議に思ったが、言われてみればなるほど!と腑に落ちた。

不眠症になった仔馬は黄色になるし(p.75)、マコンドに鉄道が開通し、最初にやってくる汽車の色は黄色だ(p.346)。レメディオス(メメ)を付けまわすマウリシオつねに「黄色い蛾」を辺りにはべらせており(p.443)、一族で最も美しいレメディオス(小町娘)に捧げられるのは黄色い薔薇である(p.308)。ある重要な人物が死ぬとき、マコンドの町全体に黄色い花が降る(p.221)。何度も登場する魚の金細工の黄金色や、アメリカ人が経営する農園のバナナの色(表紙を見よ)まで黄色だ。

確かに、重要なアイテムやイベントには、黄色のイメージが閃いているように見える。

黄色に何か意味があるのだろうか?

ユダが着ている服は黄色の場合が多いから、裏切りの色かもという意見や、太陽や黄金からイメージされる豊穣の意味があるのではというのもあったが、参加者みんなに共通したものは、私たちの抱いているイメージとは異なる黄色だ。明るくない、ねっとりとくすんだ黄色になる。

英語圏において、青が、憂鬱(blue monday)やポルノ(blue film)を意味したり、日本語ではピンクがエロス(ピンク映画、桃色遊戯)を意味するように、ラテンアメリカ圏では黄色に特別な意味があるのかもしれない。

『百年』の後に読みたい一冊

『百年』は、様々なイメージを喚起させ、自身の読書体験を呼び覚ますような読書になる。マコンドという特殊な場所のブエンディアという特別な一族を描いているにもかかわらず、どこかで見た(聞いた・感じた・語った)ような懐かしさも覚える。

結果、『百年』の後にお薦めしたい、あるいは読みたい本が山と出てくる。そんなお薦めあいをするのも楽しい。

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持ち寄られた中で、ひときわ目を引いたのがこれ。出版50周年記念版の『百年』だ。

両手でないと持ち上げられないくらい巨大な一冊で、豊富な挿絵と、何よりも家族の姿を写し取ったような家系図が、見ているだけで時を忘れる。

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この家系図、本当によくできており、ホセ・アルカディオ・セグントとアウレリャノ・セグントが瓜二つである(でもアウレリャノのほうが太っている)ように描かれている。レメディオス(小町娘)は、レメディオス・ザ・ビューティ(Remedios the beauty)だし、レベーカやアマランタは、美しい少女時代よりも、長い苦い時を過ごすことを予感させるように少し老けている似姿だ。

アウレリャノを名のる者は内向的だが頭がいい。一方、ホセ・アルカディオを名のる者は衝動的で度胸はいいが、悲劇の影がつきまとう。
(p.285)

そうウルスラが結論付けるように、アウレリャノは思慮深く、アルカディオはマッチョイズムを体現したような顔つきだ。一か所だけ、この法則に合わない所があるが、それは棺を蓋う瞬間に分かるように仕掛けが施されている。

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本当に偶然だった。レベーカの目が塀に向けられた。驚きのあまり彼女はその場に立ちすくんでしまった。彼に向かって別れの手を振るのがやっとだった。
(p.189)

ここ好きなシーンだ。一つ一つの細かい描写も再現されているので、描いた人はきちんと読み込んでいることが分かる。

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ところが、笛のような音や荒い鼻息の騒々しさがおさまったとき、住民のみんなが表へとび出してみると、機関車の上で手を振っているアウレリャノ・トリステの姿が見えた。そして、予定より八ヶ月も遅れてやっとこの町へ到着した花いっぱいの汽車が、夢中になっている連中の目に飛び込んだ。多くの不安や安堵を、喜びごとや不幸を、変化や災厄や昔を懐かしむ気分などをマコンドに運びこむことになる、無心の、黄色い汽車が。
(p.346)

「黄色い汽車」のシーンだ。線路が敷かれ、汽車が開通することで、マコンドと文明が接続されることになる。それまでは野を越え山を越えてきたジプシーの売り子しか外の世界との接点が無かったのに、文明という名の資本主義がもたらされる。

ここ、よく見ると、ほぼミッドポイントになる。マコンドは、汽車前/汽車後で大きく変わっていくことが、後から眺めると、はっきりと見えてくる。プロットを廃し、乱雑に小話を詰め込んだと思いきや、積み上げ方を計算していたのかもしれないと思うと、さらにもう一度読みたくなる。

スペイン語だし、入手困難だが、「欲しい!」と所有欲を掻き立てる豪華版なり。

この読書会で、桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』を教えてもらった。桜庭一樹も知っているし、『赤朽葉家の伝説』も(タイトルだけは)知っていた。けれども、『赤朽葉家』が『百年』のオマージュであることは知らなんだ。

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山陰地方の架空の町に居を構える、赤朽葉家が舞台になる。江戸から明治、そして戦後にかけての激動の歴史と共に生きた三代の女性の物語だという。千里眼を持つキャラが出てきたり、「このミステリーがすごい!」などのランキングで上位を連ねたりで、かなり話題になったようだ。『百年』が豊穣な作品なので、こうした優れたオマージュが出るのは嬉しい限り。

私がお薦めしたのが『フリッカー、あるいは映画の魔』だ。

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ある映画監督に取り憑かれるあまり、彼の究極映像を追い求める話なのだが、そのまま悪夢の遍歴となる。実際の映画史と虚構がないまぜとなり、主人公の悪夢を強制的に観させられるような体験ができる。映像美のディテールが凄まじく、この監督の映画を観てぇ……悪魔に魂を売ることになっても……と吼えながら、ラストの「究極の映像」に身もだえするだろう。

このラストが、『百年』の最後に解読されるアレを読んでいる感情と完全に一致する。人生で一回しか観れない映画があるように、人生で一回しか読めない手記がある。それが『百年の孤独』なのだということが、よく分かる。

『エレンディラ』を挙げていた人もいた。

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これはありかも。ロウソクを消し忘れたまま眠ってしまい、火事になって家を焼いてしまった少女の話だ。

目が覚めたときには、あたり一面火の海で、母がわりの祖母と一緒に住んでいた家は灰になった。その日から、祖母は焼けた家のお金を取り戻すために、町から町へ彼女を連れ歩いて、二十センタボの線香代で春を売らせていた。
(p.86)

娘の計算によると、旅費や食費や何やらで、ひと晩に七十人の客を取ってもあとまだ十年はかかるらしい。

『百年の孤独』で、この少女のところに、アウレリャノ(大佐)が行くのだが……というエピソードを読んだのなら、まさにその少女を描いた短編小説『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』を読みたくなるはず……

お薦めされた方は、「サボテンの方」と言っていたので、『エレンディラ』の方だろう。「大人のための残酷な童話」と銘打っているけれど、確かにその通り。ガルシア=マルケスの短編だと「美しい水死人」が白眉だと思う。

さらに私から。めくるめく『百年』の迷宮にハマった人には、ドノソ『夜のみだらな鳥』を推したい。

N/A

2024年に『百年の孤独』が文庫化されたことは確かに事件だが、2018年に『夜のみだらな鳥』が復刊されたことは、大事件だと思う(長らく絶版で、平気で諭吉の値が付いてた)。

『夜みだ』を読むことは、読書というよりも毒書であり、耐性がある人には中毒症状・禁断症状が現れることになる。

語り手と語られる/騙られる者・場所・時間・記憶が、迷宮状に入り混じり接続し、先の否定が肯定され、後の出来事を未来で予告する。カオスと呼ぶためにはカオス”でない”存在、少なくとも読み手がそうでない必要があるが、丹念に読めば読むほど、うねる物語に呑みこまれ異形化する。

ありのまま、起こった事を話すなら、「彼の語りを読んでいたと思ったら、いつのまにか読まれていた」……何を言っているのか分からないと思うが、わたしも何をされたのか分からない。頭がどうにかなりそうだった。信頼できない語り手だとかメタフィクションだとか、そんなチャチなものでは断じてない。もっと恐ろしいものの片鱗を味わう、そういう毒書だ。

ラテンアメリカ文学の瘴気に当たるのに丁度いい傑作。

湧き上がるイマジネーションを思う存分開放したエッセイが、『『百年の孤独』を代わりに読む』だ。

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「代わりに読む」とは何ぞや?いわゆる「読み屋」みたいなものだろうか?ゲラを予め読んで内容をまとめておき、プロモーションの片棒を担ぐ「プロの書評家」のことだろうか。

本人の動機は、「まだ読んでない友人の代わりに読もう」ということで、その経験を綴ったものがこれになる。ただし、よくあるような、あらすじを要約して背景を解説して評点を付けるようなことはしない。それは、「代わりに読む」ことにはならないというのだ。

理由としては、こう述べている。

なぜなら、小説を読み進めている時間に読む者の心のなかにだけ立ち上がる驚きやワクワクというものは、要約や解説では伝えられず、そのまま時間が過ぎれば消えてしまうものだからだ。なんとかしてその消えてしまうはずの驚きやワクワクを生のままに伝えたかった。
(『百年の孤独』を代わりに読むp.3)

そして、『百年』を読みながら呼び起こされる自身の経験や、映画やドラマや小説やマンガのとあるシーンや会話を語り尽くす。自分も読んだことのある作品もあれば、タイトルすら知らないようなものもある。けれども、「代わりに読む」ことで記憶のスイッチが次々とONになってゆくのを見てるだけで楽しい。「『百年』を読むという経験」を、同時進行で味わえる。併読するとさらに楽しいかも(というか、併読したくなる)。

読書会でお薦めされたのが、『族長の秋』だ。めちゃくちゃ強く推された。

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思い起こすと、ネットでもリアルでも、ガルシア=マルケスの話をすると、たいてい『百年』『エレンディラ』『予告された殺人』『コレラの時代』『水死人』ときて、最後は『族長の秋』を読め(命令形)になる。

そもそも、『百年』の文庫版の解説で、筒井康隆がこう述べている。

ほんとうのことを言うと、実はおれのお気に入りは、マルケスが本書の八年後に描いた「族長の秋」なのである。文学的には本書の方が芸術性は高いのかもしれないが、その破茶滅茶ぶりにおいてはこちらの方が上回っている。
(百年の孤独【新潮文庫】p.660)

そして、解説の最後で、「読むべきである。読まねばならぬ。読みなさい。読め」とまで断言している。

よし読もう。

神話か民話か

『百年の孤独』には、物語を貫くメインプロットが無い。

普通の小説には普通にある。

プロットは、物語の骨組みを示し、「はじめ・なか・おわり」を定義し、出来事を論理的に結び付け、テーマやストーリーラインを強調する。プロットのおかげで、「それがどんな物語であるか」について、読者は物語と分かり合うことができる。

だがそれは、言い換えるなら、プロットが無いと辛くなる。

読み手は、それが何の話なのか手探りで進むことになる。誰かの冒険譚か成功譚なのか、テーマが愛なのか争いなのか、分からないまま読むことになる。各々のエピソードがどのように有機的につながるのか見えないし、登場する新キャラがどんな役にハマるのか分からないまま取り残される。

これは辛い。

ブエンディア一族に起きる出来事はフラットに並べられ、時を経てつながりはするけれど、それは物語の進行とは無関係に配置される。一つ一つのエピソードは面白いが、小話をまとめる因果は存在しない。『百年の孤独』に歯ごたえを感じたり挫折する人は、メインプロットを探そうとして壁にぶち当たっているのかもしれぬ。

これに一番近いのは、民話や昔話だ。

「むかしむかし、あるところに」で始まるお話が、ひたすら並べられている感覚。笑えるホラ話もあれば、残酷で不思議な物語もある。少し時間が経てば伝承や伝説になるかもしれないが、それ未満の小話たち。柳田國男『遠野物語』の登場人物を、一つの家族でやろうとすると、『百年の孤独』に近くなる。

なので無理やりプロットを探そうとせず、やってくる小話やエピソードを、そのまま呑み込んでいけばいい。

「百年は民話だ」ということを読書会で述べると、前日の読書会では「百年は神話だ」という意見が数多く出たという。

人間くさいけれど人間ばなれしたキャラが出てきて、試練を乗り越えたり皆を危険な目に遭わせたりする。英雄的なキャラも出てくるし、絶世の美女も登場する。だから神話だというのだ。

なるほど!その発想は無かった……確かに人とは思えない怪力や、空に消える超常現象、死者とナチュラルに対話するなんて、神話的な要素もあるかもしれぬ。

ただし、物語が神話として成立するための大事な要素が欠けていると思う。それは、「世界がこうなっているという説明」だ。

例えば、雷が鳴って落雷するのはなぜか。人は死ぬとどうなるのか。なぜ海は荒れたり凪いだりするのか。宗教や科学に引き継がれるずっと前に、これらを説明するために、ゼウスやハデスやポセイドンが誕生した。

文化や価値観を反映し、次の世代に向けて「世界がこうなっている理由」を説明し、その共同体のアイデンティティを形成するために、神話が存在する。数々の物語の中から、ほかならぬそのお話が「神話」たりうるのは、この役割の有無だろう。

もちろん、『百年の孤独』が神話になることだって可能だった。だが、(読んだ方なら分かるだろうが)あの終わり方では、神話として成立することはできない。

どこかで耳にしたのだが、おばあちゃんにしてもらった昔話を想起しながら書いたといったことを、作者自身がインタビューで答えている。なので民話として読むのが作者の意図に近いのかもしれぬ。

一方で、仮にこれが民話ではなく神話として読めるのなら、その語り手は誰になるのだろうと考えると、面白くなってくる。私の見立てだと、サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダしか語り手たりえないと思うのだが、どうだろう。

はてブへのリプライ

はてなブックマークコメントに返事をしてみる。

もう一回読んでみようかな/たかだか10年前くらいまでに読んだ本が、最近読み直すと全然わかっていないことが多くて、自分の人生は何なのだろうとおもう
(reponさん)

ありがとうございます!「もう一回読んでみようかな」と思っていただいただけでも、この記事を書いた甲斐がありました。「読み直そう」と思う時点で、それは価値のある作品で、それほど価値がある作品であるならば、一回や二回読破しただけで「分かる」なんてことは、ないと思います。あるいは、読み直すたびに、分かりなおすのかもしれません。マッカーシーやドストエフスキーを読み直す度に、そう感じます。

文庫版買ったんだけど、まだ読んでない。 違和感を散りばめてある…か、違和感があると気になって読み進められないタチだから、俺には向いてないのかも
(minaminoaniさん)

「違和感があると気になって読み進められない」ということは、(minaminoaniさんにとって)違和感ナシで読める作品が存在することになります。マジ?と思いました。あらゆる作品は、読むたびに感情や記憶を呼び覚まし、何かしらの引っ掛かりを残します。それが無いというのは、いったいどんな作品なんだろうと、逆に気になりました。

読んだことないんだよなあ 買うか!
(esbeeさん)

はい!是非!書店で積んであると思うので、まずはパラパラっと見て、面白そうだと感じたら買って読みましょう。記事にも書いた通り、どの節を抽出しても、全体と相似しているフラクタルな構造のため、どこを読んでも「『百年の孤独』を読んだこと」になりますので。

読書会あれこれ

読書会が良かったのは、好きなだけイマジネーションを語れたこと。

ネットだとネタバレを配慮したり、発想の暴走を自制したりと、気を付ける必要があるが、リアル読書会なら、キャラの最期や物語の最後を好きなだけ語れる。「●●がダメだった」というネガティブな感想も言える自由さもいい。以下、読書会に出てきた様々なコメント。

  • 「そのキャラが死ぬタイミングは、人生に満足した瞬間かもしれない」
  • オレンジ色の円盤がやたら登場するのは(p.279、519、620)、当時のUFOブームの反映かも
  • 翻訳の妙①:両親の骨が入った「信玄袋」に違和感を抱く(ひも付き袋のことなんだろうけど……)
  • 翻訳の妙②:マウリシオの「蛾」と対決するとき、「フマキラー」と訳されてたのにはのけぞった。今は「殺虫剤」となっている(p.443)
  • 最初は家族の物語みたいな朝ドラだと思い、濡れ場の描写で昼メロかと思っていたら、壮大な大河ドラマだったことに気づいた
  • 戦争のシーン(わりとエグい)が辛いと感じる人と、大好物と感じる人がいた
  • 大家族では、いちいち名前なんぞ覚えておらず、爺婆が「●●の所の子か」で済ませているくらいのノリで読むと良いかも
  • 「織り続ける経かたびら」「鋳潰してては作り直す金細工の魚」にも、くり返しのイメージが潜んでいる
  • 表紙の答え合わせ。この花、オランダアイリスだよね?これだけが分からない……
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『百年』はどう読んでも面白いけど、みんなで読むと100倍面白い。みんなでしゃぶりつくそう。

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なぜ『百年の孤独』が面白いのか、ネタバレ抜きで語ってみる

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人生で3冊読んだけど、3冊とも面白かった。

最初は水色のハードカバー版で、次は白黒のやつ、そして最近出た新潮文庫を読んだことになる。ストーリーは知っているし、あのラストの感情の奔流は何度も味わっているのに、それでも無類に面白い。

何度も読んだのに、なぜ、面白いのだろうか?

まともな人間が(ほぼ)誰もいないブエンディア一族の奇妙な生きざまや、日常的に非日常が描かれるマジックリアリズムの磁力、あるいは、奇妙で悲惨でユーモラスなエピソードが隙間なく詰め込まれているストーリーは、どこから見ても面白い。

しかし、3冊目の新潮文庫を読みながら、そうしたストーリーやキャラだけでなく、『百年の孤独』そのものに面白さが練り込まれていることに気づいた。

ここでは、物語の展開や登場人物の運命にはできるだけ触れずに、ネタバレ抜きで、『百年の孤独』の面白さを語ってみる。

既視感と未視感の混交

例えば、中毒性のある文章について。『百年の孤独』の書き出しだ。

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。

(新潮文庫版 p.9)

銃殺隊?

ブエンディア大佐?

「あの遠い日の午後」って?

疑問が次々と湧き上がるが、説明は一切無い。

そもそも、この文章はヘンだ。「長い年月が流れて」なら、未来の話だろうし、「あの遠い日の午後を思い出した」のは過去の話になる。では、これをしゃべる語り手はいつの場所にいるのか?あるいはこれを聞いている(読んでいる)私は、どの時代にいるのか?

もちろん、すべての物語が終わった後、神の目線から、過去のお話を聞いているのだという解釈は成り立つ。事実、ほとんどの文章は過去形なので、昔話の民話だと見なすことは可能だ。

だが、語り手自身が分かっていないことをしゃべっているようにも見える箇所がある。まだ起きていない未来の出来事だからと留保付きで述べるのだ。「思い出したに違いない」なんてまさにそうで、違和感がついてまわる(普通なら「思い出した」に留めるはずだ。なぜなら、すべてが終わった過去を振り返っているのだから)。

物語は進んでゆくうちに、「あの遠い日の午後」も語られるし、アウレリャノ・ブエンディアが「大佐」になるエピソードも紡がれるし、銃殺隊の前に立つシーンも出てくる。しかし、彼が夏の日の午後を思い出したかどうかは、そのシーン、つまり銃殺隊の前に立つ場面にならない限り、語り手自身も分かっていないのではないか―――そういう予感がついてまわる。

そんな文章が要所要所に練り込まれている。

大丈夫、ほとんどの文は普通に読めるのだが、アウレリャノ・ブエンディア大佐のエピソードはくり返し触れられ、語られているので分かりやすいのだが、他にも、こうした違和感を掻き立て、目を留める引っ掛かりが設けられている。

これを一種のフラグ、伏線の変異体と見なしてもよいが、引っ掛かる度に、聞いている(読んでいる)この瞬間が、いつなのかを見失う。。

読み進めていくうちに、違和感の正体は、「銃殺隊の前に立つ」時と、「初めて氷というものを見た」時間、そして「思い出したに違いない」と語るときが、同じ瞬間に集約されているのではないかという疑いに変化する。そして読み終わるとき、この違和感は、『百年の孤独』そのものを貫く巨大な伏線だったことが明らかになる。

既視感と未視感が混ざったような、軽い吐き気を覚える。『百年の孤独』で感じる中毒性の正体の一つがこれ。

再帰的・回帰的な物語構造

物語で繰り返される変奏が、この既視感+未視感をさらに加速させる。

例えば、「この会話は以前にした(はず)。それも別の人が別の時に」という既視感(聞いているから既聴感か)。

「何をぼんやりしているの」。ウルスラはほっと溜め息をついた。「時間がどんどんたってしまうわ」

「そうだね」とうなずいて、アウレリャノは答えた。「でも、まだそれほどじゃないよ」

(新潮文庫版 p.196)

事態は切迫しており、取り返しのつかない状況になりつつある。話ができる時間は限られているのに、言いたいことは言えなくて沈黙が長引き、ありふれた日常の会話に戻っていくシーンだ。

そこから2世代たってから、こんな会話が交わされる。

曾祖母の声に気づいた彼はドアのほうを振り向き、笑顔を作りながら、無意識のうちに昔のウルスラの言葉をくり返した。

「仕方がないさ。時がたったんだもの」

つぶやくようなその声を聞いて、ウルスラは言った。「それもそうだけど。でも、そんなにたっちゃいないよ」

答えながら彼女は、死刑囚の房にいたアウレリャノ・ブエンディア大佐と々返事をしていることに気づいた。たったいま口にしたとおり、時は少しも流れず、ただ堂々めぐりをしているだけであることをあらためて知り、身震いした。

(新潮文庫版 p.508)

この、くり返しのテーマは、時を超え形を変え、さまざまなバリエーションで語られる。

はっきりと登場人物の会話や独白に現れるものもあれば、違う人物が同じ行動をするといった描写に表現されるものもある。さらには、世代を超えて似通った選択をし、同じ運命にたどり着くことでも描かれている。

ただし、くり返しのテーマは、分かりやすくない。むしろ、わざと複雑に、錯綜させて書いているように見える。会話の端々に現れる「堂々めぐり」「くり返し」は分かりよい方で、読み解きというよりも、聴き手の印象を操作するように描いている。

その顕著な例が、名前だ。

ホセ・アルカディオ・ブェンディア
ホセ・アルカディオ
アウレリャノ(大佐)
アルカディオ
アウレリャノ・ホセ
ホセ・アルカディオ(法王見習い)

これら全て別人物だ。「アルカディオ」や「アウレリャノ」が並んでおり、一読しても、誰が誰の話なのか、すぐに分からなくなる(似たような行動や似たような運命を辿るので、最初に読んだときは迷子になったものだ)。まるで、うっそうと茂った樹木の葉っぱの見分けがつかなくなるように、意図的に混同させるように名づけを行っている。

家系図は樹木構造をするのだが、ブエンディア一族の家系図は、ツリー状に広がっていきつつ、一族内での混交も起きている。女を共有したり、一族同士で結ばれることによって、広がった枝が畳み込まれ、一体化しているようにも見える。

初読のときは迷子になって、家系図と人物相関図を作ったりしたものだが、そのうち諦めた。代わりに、誰の話なのかというよりも、むしろ、何の話なのかを注視するようにした。

 

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そうすると、度胸があって面倒見がいいけれど、短絡的な性格が災いを呼び寄せる「アルカディオ」と、物静かで頭が良く、コツコツと時間をかけて運命を変えてゆく「アウレリャノ」という、2つの資質が練り込まれていることに気づく。

そして、度胸があって面倒見がよく、物静かで頭もいいのが、一族の祖である、ホセ・アルカディオ・ブェンディアであることが見えてくる。そして、彼の行動や言葉を、その子孫たちがなぞっているようにも見える。つまり、ホセ・アルカディオ・ブェンディアの人生の中に、一族の運命が練り込まれていると読むことだってできる。

『百年の孤独』=シェルピンスキーの三角形

イメージ的には、シェルピンスキーの三角形になる。

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 1. 正三角形を描く

 2. 正三角形の各辺の中点を結んだ正三角形を描く

 3. 中央の正三角形を取り除く

 4. 上の2と3を繰り返す

この三角形は、奇妙な性質を持っている。

まず、面積だ。

最初の三角形の面積を1とすると、次の3つの三角形のそれぞれは1/4で、全部を合わせると、3*(1/4)=3/4になる。次のステップで9個い三角形の面積は1/16で、総面積は9*(1/16)=(3/4)^2となる。これを続けていくと、残った部分の面積は、数列1,3/4,(3/4)^2,(3/4)^3...となり、公比3/4の等比数列となる。

公比は1未満のため、数列の項は、n→∞のときに0に限りなく近づく。そのため、最終的には元の三角形は、各段階で赤い領域の1/4だけを取り除いたにもかかわらず、消えてしまうことになる。面積という、見える有限の「量」が無限のステップの中で消えてしまう不思議。

次に長さだ。

三角形の周長は、一辺1とすると、3,9/2,27/4,81/8...となる。これは公比3/2の等比数列で、公比は1より大きいので、より多くの三角形を取り除くにつれて、項は際限なく大きくなり、周長は無限に大きくなってゆく……面積がゼロに限りなく近づく一方、無限の長さをもっている。

シェルピンスキーの三角形には、無と無限が詰め込まれている。

ブエンディア一族の家系図は、正三角形とは程遠いのだが、一族のある人物の言動を追いかけていくと、他の人物と似通っており、なおかつ、ブエンディア一族の全体とも相似してくる。

つまり、一族の全体の構造が部分にも同じ形で現れているのだ。

例えば、ホセ・アルカディオの生き様をアルカディオがなぞり、ホセ・アルカディオ(法王見習い)が受け継いでいる。各人の資質が同じ形で運命に現れる。男だけでなく女の運命も互いに似通っており、一人の女の話をしているのか、他の誰かの巡りあわせをなぞっているのか、分からなくなる。

もつれあい、絡み合う部分は、カメラを引くと一族の全体になる。やろうとすれば、この物語は無限に続けることができるだろう。

しかし、物語はいつか終わる。

既視感と未視感と違和感、物語のフラクタルな構造、浮かび上がってくる再帰的なテーマ、これらを抱きつつ後半に差し掛かると、怒涛の奔流に呑み込まれ、もみくちゃにされるだろう。そしてラスト、(ゆっくり読んだ方がいいのに)巻き上がる風に吸い込まれるように、急いで最後のページまで読もうとするだろう。

そして読み終えるとき、自分が完全にこの一冊に取り込まれており、この小さな一冊に、無と無限が詰め込まれていることに気づくだろう。

ハードカバー版よりも小さい新潮文庫版だと、この思いがより一層強く感じられる。全てが入っていながらも、無である世界。それが『百年の孤独』だ。



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