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採用側の事情から攻略する『採用の思考法』

N/A

大型書店に行くと、就職活動のコーナーがある。

エントリーシートの書き方や、面接のイロハ、オンライン面接の作法といった対策本が並んでいる。

そこで物色している人を見るたびに思う「就活棚じゃなく、右斜め後ろの棚を探せばいいのに」とね。なぜなら、就活コーナーの近くにある「人事・労務」の棚に並んでいる本の方が、役に立つから。

そこでは、採用が上手くいかない人事担当の苦労話や、せっかく登用しても長くは続かず、止めていってしまうミスマッチが語られている。そうした状況で、どうすれば望んだ人材が集まってくるのか、あるいは集まった人たちから、自社に最も合った人をどうやって選べばよいのかが解説されている。

「こうすればいい人材を採用できる」というノウハウが書いてあるのだから、そのノウハウに合った形で自分をプレゼンできたら、「いい人材」として認められる。誰を採用し、誰を落とすかの評価基準のつくり方が書いてあるのだから、その基準をクリアしていることを認めてもらえば、評価されるだろう。そうした「いい人材」の答えの部分が、人事・労務の棚に並んでいる。

就活コーナーに並んでいるものが「教科書」なら、人事・労務棚には、いわば「教科書ガイド」や「教師用指導書」が並んでいるといっていい。

「いい人材」とは何か

中でも、『採用の思考法』は、いい人材を集めて見抜いて離さないノウハウが語られている。中小企業向けの採用コンサルタントが、自らの経験を元に赤裸々に語っている。

これを「採用される側」から読み解くならば、ここで語られる「いい人材」であることをアピールすればいい。もちろん就活コーナーに並んでいる本にも、似たようなことが書かれている。だが、「なぜそれがいい人材なのか」とか、「そもそもその『いい人材』とは何か」まで書いてある。

本書によると、「いい人材」の「いい」とは、採用基準に合致すること。そして、この採用基準は、絶対に妥協せず、一緒に働きたい人の特性や条件を徹底的に言語化しろとアドバイスする(ここを妥協すると、最悪の展開である「間違った人を採用してしまう」ことになるという)。

採用基準の言語化は、人事担当や経営層の仕事になる。「結局のところ、どういう人間がこの会社に必要なのか?」という問いに答えられる人は、経営層だからだ。

そして、いったん言語化した採用基準は簡単には下げるなと釘を刺しつつ、「完璧な人材なんていないから、採用基準となるスキルは絞り込め」と説く。

では、何を取捨選択すればよいのか?

まず、後から伸ばしやすいか、伸ばしにくいかで判断せよという。採用後のトレーニングで、比較的短期間に伸ばせるスキルと、時間をかけて育成するスキルがある。そして、いつまでにどの程度活躍する人材を採用するのかといった時間軸を持って基準となるスキルを選べという。

以下に、比較的簡単に伸ばせる能力と、伸ばすのに時間がかかる能力、さらには伸ばすのがとても難しい能力の例を挙げる。

比較的簡単に
伸ばせる能力

時間を要するが
伸ばせる能力

伸ばすのが
とても難しい能力

口頭/文章でコミュニケーションをする

自律的である

困難や挫折に対して粘り強く立ち向かう

リスクを取る

判断力がある

答えのない問いの答えを探し続ける

業績管理をする

戦略的能力がある

複雑な情報や問題を分析する

コーチング/トレーニングする

傾聴する

新しいアイデアや概念を生み出す

計画を立て、目標設定する

多様性を尊重し、順応性がある

概念を構造化する

自己認識する

機転を利かせる

誠実で正直な態度や行動をする

ミーティングを進行する

あらゆる行動に高い基準を持つ

自信に満ちた態度や行動をする

第一印象をよくする

チームをまとめ、変革を推進する

リーダーの右腕となる

顧客志向で考える

ストレスを管理し、バランスのとれた生活をする

活動的でエネルギッシュである

社内外の調整をする

交渉/説得し、対立を建設的に解消する

情熱的で野心がある

 

コミュ力よりも重要なもの

ちょっと面白いのは、「コミュニケーション能力」の位置づけだ。

このスキルは、面接対策でも重要なポイントとされている。実際、経団連の新卒採用のアンケート調査で、「採用にあたって特に重視したスキル」で、16年連続で1位なのが、コミュニケーション能力だ。

しかし、著者によると、入社時に必要となる能力ではないという。確かに、受け答えがしっかりしており、自分の言葉で話ができる人の評価は高くなるだろうが、「コミュ力がある」というだけで選ぶのは危うい。ソツなく喋って書けるけれど、単なるその場限りの口だけで、粘り強く問題に取り組むのは不得手かもしれない。

これが、コンサルティング・ファームだと逆で、その場の即興で言い逃れたり、言いつくろったりする能力が求められる。「言い逃れる」とかいうのはあまり良い言い方ではないが、コンサルタントには必須かつ超重要なスキルだ。「とっさの一言」が瞬発的に出てくる人が求められる。

本書によると、「コミュニケーション能力が必須」ということは、「我が社ではコミュニケーション能力を育てるつもりはありません」と公言していることと一緒だという。コンサル会社の人が書いたものを眺めていると、確かにその通りだと思う。

もちろんあるに越したことはない。だが、コミュニケーション能力は後から伸ばすことができる。だから、コミュ力だけを重視するなと説く。

では、「伸ばすのがとても難しい能力」をどうやって見極めるか?第5章に大量に紹介されているが、ここでは「困難や挫折に粘り強く立ち向かう能力」に絞って説明する。

面接に応募する人たちは、質問されることを予想して準備してくる。まずは答えやすい質問から入り、それを受けた回答から掘り下げていけという。

例えば、過去のエピソード(全国大会に出たとか、大きなプロジェクトに携わったとか)を色々と聞いてみる。そして、そのときの行動について、こう掘り下げよという。

「その結果を得るために、どんな行動をしたのですか?」

「そのとき、そんな行動をしたのは、なぜですか?」

この質問のキモは、「過去の結果」を問うていない点にある。県大会出場よりも全国大会出場の方が結果としては優れている。しかし、その結果までのプロセスがどうだったかを掘り下げていく必要がある。

なぜプロセスが重要か?

それは、「再現性が求められるから」になる。

成果を出し続けるためには、自ら考え、行動する必要がある。壁にぶつかったら粘り強く行動し、諦めずに結果を出すことが求められる。その再現性があるかどうかの見極めが、「なぜその行動を採ったのか」の返答に隠されている。

面接者はその行動の中に、「あきらめず粘り強く取り組む」「周りを巻き込んで問題解決する」「様々な角度から解決の糸口を探す」といった姿勢を、具体的に見ようとする。

もちろん、志望者が入社後に全国大会をもう一度目指すことはない。けれども、全国大会と同じくらい困難なことは、仕事の上でぶつかるはずだ。そのとき、同じように粘り強く立ち向かえるかどうかが再現性のキモなのだ。

では、志望する側は、どのように表現すればよいか?

自分にとっての「粘り強さ」「あきらめの悪さ」「周りを巻き込む力」をこの会社で再現してやろうじゃないか、と語ればいい。具体的には、「困難をどう工夫して乗り越えたか」を伝えた後で、「だからこそ御社では、この粘り強さと巻き込み力を再現することで、目標達成に尽力していきます」云々とまとめる(再現性という言葉は、面接者が最も聞きたいワードなので、最後に入れよう)。

レバテックLABで掘り下げる

レバテックLABで、ITエンジニア向けの記事を連載しているのだが、「人事評価において役立つ本」が少ないことに気づいた。面接のマニュアルみたいなものではなく、採用側の事情や人事制度といった内側から見た対策本だ。

「間違った人」を採用したり昇格させることが続くと、大ダメージを受ける。だから、人事担当は間違えるリスクを避けようと非常にセンシティブになる。前例を踏襲し続けることにより、新陳代謝が衰え、ゆっくりと死に近づいてゆく。

そうならないために、制度として守るべきものは守り、新しい人材として取り込むべきものを取り込む。優れた人事制度というものは存在するし、人を活かす人材マネジメントというものも存在する。評価される側からは見えにくいけれど、人事を大切にする企業は、いつ、どのように評価するかのメソドロジーは、確かにあるのだ。

これらを可視化することで、採用側や評価側の事情を炙り出そうとする試みだ。そうすることで、自分がいつ、どのように評価されるかを特定し、そのタイミングにおいて、適切に応対したり、準備を整えておくことができる。

いわば、人事ハッキングのようなものだ。人事制度やヒューマン・リソース・マネジメントをリバースエンジニアリングすることで、「自分のポジションで評価されやすいものは何か」を見つけだす。評価されやすい答えの全てを書き出すことはできないけれど、こうした場合に、このように取り組めば、「正解」に近づくことができると、例を挙げることはできる。

いま「正解」をカッコ書きで括ったのは、私には分からないから。あなたの勤める企業の人事評価基準は、私にはわからない。だけど、その評価基準がどのように出来上がっており、どのようにあなたに当てはめているかの制度運用は、予想することができる。もちろん、教科書通りに運用されていないだろうし、現場の恣意性やエコヒイキに左右されていることもある。それでも、うまくいっている(と思われている)人事制度の裏をかくことで、ちょっとでも有利になるのなら、そのやり方はどんどん可視化していきたい。

予告:第1回は、7月末~8月頭にレバテックLABで公開される。『採用の思考法』はその1冊目になる。評価される側だけでなく、評価する側も悩みが多いみたいなので、両側から人事ハッキングしてみるつもり。お楽しみに!

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『このホラーがすごい!2024』の国内編1位と海外編1位が面白かったので、私のお薦めを紹介する

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ホラーのプロが選んだ「本当に怖いベスト20」が紹介されている。

ホラーのプロとは、ホラー作家だったり編集者だったり、海外ホラーの翻訳家だったりホラー大好きな書店員だったりする。ベスト20のラインナップを見る限り、相当の目利きであることが分かる。

これがtwitterの人気投票だと、どうしても「売れてるホラー」に偏る。ベストセラーとは普段読まない人が買うからベストセラーになるのだから仕方がないのだが、どこかで見たリストになってしまう。

「売れてる」要素も押さえつつ、なぜそれが怖いのか、どうしてそれが「いま」なのかといった切り口も併せて説明しているので、流行に疎い私には重宝する一冊だった。

いまのホラーはモキュメンタリー(Mockumentary)が一大潮流だという。実際には存在しないものや、架空の出来事を、ドキュメンタリー形式で描くジャンルだ。実話系怪談や、ファウンド・フッテージ(撮影されたフィルムが発見された設定の映画)などになる。『新耳袋』や『食人族』『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』などが有名だね。

この流れがきており、モニュメンタリー・ホラーを代表する『変な家』(雨穴)、『近畿地方のある場所について』(背筋)、『かわいそ笑』(梨)の鼎談が特集されている。

面白いと思ったのは、作家にとって、モキュメンタリーは器(うつわ)であること。最初から目指していたのではなく、使えるリソースを選んでいたら、結果的にモキュメンタリーになったという指摘だ。

ウェブ記事で文章を書こうとすると、フィクションではなくルポ形式になる傾向があるという。さらに、youtubeでフィクションを作るなら、役者を雇って映画のように撮るよりも、一人称カメラでのドキュメンタリー形式になるか、あるいはカメラに向かって語る怪談形式になる。もちろん、カクヨムなどでフィクションを書く場合もあったが、ネットで表現しようとすると、ドキュメンタリー寄りになるというのだ。

確かにこの傾向はある。ネットで目にする形式は横書きが多く、結果、ルポ形式になる(レポート用紙っていうくらいだし)。あるいは、私がフィクションを読む場合、単行本や文庫の縦書きの書籍になる。もちろん例外もあるが、縦書き・横書きの違いと、フィクション・ノンフィクションの親和性が、怪談を入れる器を形作ったと考えると面白い。

ネットならではの怖い話もある。

たとえば、奇怪な現象のレポートを集めたSCP財団はネットで読むからゾワゾワするのであって、書籍にすると「あの雰囲気」が失せてしまうだろう。未読の方に解説すると、SCP財団とは、ネット上での「ごっこ遊び」になる。SCP財団の職員のフリをして、奇妙な現象をレポート「ごっこ」をする(読むほうはそうした報告書を盗み見しているような気分になる)。

あるいは、2chオカ板の死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?になる。「きさらぎ駅」とか「八尺様」とかが有名だが、語り手が状況を説明し、他の人が質問したり解釈する形で話が進んでゆく。これもレポート形式のホラーの一種といっていい。書籍化・映画化もされているが、やはりこれはネットで読むほうが怖い、と感じられる。

このホラーがすごい!国内編1位『禍』

お薦めされたので『禍』を読んだ。結論から言うと、これはすごい。

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『禍』は、7つの短編が収録されている。それぞれの短編にはモチーフがあり、それに因んだり、そこを契機として物語が転がったりする―――思いもよらぬ方向に。

モチーフは、口、耳、目、肉、鼻、髪、肌と、どれも人体にまつわるものばかり。

私にも、あなたにもある、ごくありふれたパーツだ。そして、普通の人の日常から描かれるのだが、最初は微細な違和感だったものが、どんどん嫌悪感に膨らんでいって、どうしようもないほど「汚された」気分にさせられる。なんとも言えず気持ちが悪く、胸の奥がえずくようにモヤモヤする。

例えば、耳がモチーフの短編を読むうちに、知らず知らず自分の耳を触りたくなるだろうし、肌がモチーフの短編だと、服の布地と触れている私自身の肌が粟立ってくるのが分かる。鼻の話を読みながら、何度も鼻をつまんで「ある」ことを確認した。物語に感覚が侵食されていくのがたまらなく嫌らしい。この汚物感、短編を読み終えるごとに増してゆく。「怖い」というよりも薄気味悪い小説なり。

もう一つ。ここに出てくる女がいい。吐息の湿り具合やむっちりした肉感、全裸に点々と浮かぶ黒子が生々しく伝わってくる。バスに乗り合わせた女が押し付けてくる肉の重みと温みを感じるシーンや、深夜のエレベーターにうずくまって甘い匂いを立てているところなんて、一歩間違えると恐怖以外の何物でもない。

ふと、二の腕や腰に女の体がねっとりと柔らかく押しつけられるのを感じた。気づかぬうちにバスが発車してロータリーを回りはじめており、遠心力で女の肉が重たく押しよせてくるのだ。しかもその感触は、まるで女が故意に溢れんばかりの肉をこちらにあずけてきているかのようだったが、そんなはずはない。こちらが意識しすぎているのだろう。そうおのれに言い聞かせつつも、女と触れあっているあたりに籠もる、じりじりと炙ってくるような温みを無視することができなくなっていた。

『禍』「柔らかなところへ帰る」より

現実ではありえない感覚へ連れていかれるのは小説ならではの醍醐味だろう。映像化やコミカライズは可能だろうが、おそらく、どことなく間抜けな絵面になるかもしれぬ。読み手の想像力を振り回し、とんでもないところに投げ飛ばす奇天烈な短編でもある。

このホラーがすごい!海外編1位『寝煙草の危険』

ぶっちぎりで1位だったのがこれ。去年私も読んだのだが、私もダントツでこれを推したい。

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ふつう、物語って、現実から逃避するために読む。現実はそれだけで酷い世界であり、頭の弱い女は利用され、貧乏な老人は虐げられ、居場所のない子どもは食いものにされる。ポリティカル・「イン」コレクトネスな世間だから、物語の中に逃げこみたくなる。

せめて物語のなかだけは、予定調和に進んでほしい。ご都合主義と言われてもいい、悪いものが潰えて、弱き人、良き人が救われる、そんなストーリーになってほしい。

そんな現実逃避を踏みにじってくるのが、これだ。

頭のイカレた老人が、通りでいきなり排便する(しかも下痢気味)。通り一帯に悪臭がたちこめ、近所の人が袋叩きにするのだが、どちらも救われない。ホームレスの老人も、正義感に満ちたその人も、その通りに住む全ての人が、救われない。

一応、老人の呪いという体(てい)で話は進むのだが、それを目撃した人たちは次々と不幸に遭う。強盗に遭って破産する、飼い猫を殺して食べた後自殺する、解雇される、店をやっていけなくなる、大黒柱が事故で死ぬなど、酷い運命が待っている。

悪いことがおきるとき、それに釣り合うカウンターが用意されているのがセオリーだ。だが、何のバランスもない。そんなに非道なことをしていないのに、したこと、していないことに見合わない非道な目に遭う。

そして、物語なら、なぜそんなことになったのか、因果の説明がある。本当に「呪い」なら、呪う側の出自や呪われる側の過去が語られるはずだ。だが、無い。

悪いことが起きることに何の理由もない、これが最も恐ろしい。なぜなら、それは現実で嫌というほど味わっているから。

これが最初の短編「ショッピングカート」のお話だ。20ページに足らないのに、ひどく嫌な気にさせられる。ラストの救いようのないナナメ上の展開にゾッとするあまり、引き攣った笑い声が漏れる。

こんな話が次から次へと畳みかけられる。世界が狂っているのか、私が狂い始めているのか、確かめてみたくなるストーリーばかりなり。

私のホラーベストと、最近怖かったやつ

私のホラーベスト

「ホラーベスト」と言っておきながら、お薦めしたいホラーがありすぎる。

最近の怖いやつは、BRUTUSのホラーガイド444を使って最も怖い作品を探すにまとめているし、珠玉のホラーベスト10は『ホラー小説大全 完全版』から選んだホラーベスト10に書いた。

いま、一冊だけ挙げるなら、エヴンソン『遁走状態』になる。

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一行目から、「何かがおかしい」と引き込まれ、不安定でグロテスクな状況に巻き込まれた人物の視点で追っていくうちに、現実を確固たるものにしているはずの境界―――私とあなた、生と死、記憶と現実など―――が曖昧にされてゆく。

そんな場合、登場人物を「信頼できない語り手」とみなすことで、読み手である"わたし"を護ろうとする。だが、すぐに分かる。どんどんズレてゆく世界は、それはそれで一貫している。悪夢のように「おかしい」が、その夢の中では、限りなく明晰で合理的だ。

しかも、登場人物が再帰的にふるまうため、展開がループしはじめる。ひょっとすると、信頼できないのは話者ではなく、物語世界でもなく、"私"自身なのかもしれない。世界が壊れているのではなく、登場人物が狂っているのではなく、世界を認識する方法がズレはじめており、現実とうまく折り合わなくなっている。

この「世界」は、小説世界だけでなく、読み手の現実世界も含まれる。文字である、身体がある、"私"であることは分かっても、何が書いてあるのか、自由に動かせるのか、そもそも"ある"のかすら、確信がもてなくなる。死そのものよりもおぞましい、生ける屍状態なのだ。

そういう、嫌な話が全部で19編ある。どれもすばらしく厭な話ばかりだ。

そこでは、登場人物は何かを失われる。それは光だったり言語だったり、記憶や人格そのものだったりする。そのどれもが、"一貫性のある私"を成り立たせなくさせるため、人が世界を感知して「意味あるものにする」機構が壊れた場合、いったいその人に何が起きるのか、つぶさに体感することができる。

私が狂うのは、こんなんだろうなとつぶさに思い知らされる一冊。

すぐれたホラーを読むと、「生きてるッ」って実感できる。これは、登場人物が酷い目に遭えば遭うほど、「生きてるッ」って思う。現実にすり潰された心に、まだ、怖いと思える場所が残っていることに、ホッとする。

よいホラーで、よい人生を。

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「なぜ悲劇を観るのか?」ヒュームの悲劇のパラドクスから物語の効用を考える

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愛する人の死や、不幸な運命を描いた悲劇を、なぜ観るのか。

それも、絶頂からどん底までの落差が激しいほど、悲しみの振れ幅が大きいほど、より一層、好んで観たがる。これを「悲劇のパラドクス」と呼ぶ。イギリスの哲学者ヒュームは「悲劇について」でこう述べる。

巧みに作られた悲劇を観ている人たちが、悲しみや恐怖や不安その他の、それ自体においては不快で嫌な気持ちになる情念から受け取るものは、説明のつかない快楽のように見える

ヒューム「悲劇について」(『道徳・政治・文学論集』所収)

ここでは、ヒュームの主張を軸に、様々な角度から悲劇のパラドクスについて考える。

人の心は動きたがる

まず、芸術作品に触れたときの情念について。

ヒュームはこう主張する―――怠惰で気乗りのしない状態ほど、精神にとって不愉快なものはないという。たとえ不愉快で陰鬱なものであっても、平坦で無味乾燥なものよりはうんとマシなのだ。圧迫感に苦しむ人生にとって、悲劇は気晴らし、息抜きの一つなのだという。

つまり、人の心は動きたがるのだ。「感動する」という言葉に「動」が入っているように、”move”は「感動する」と同時に「動く」という意味を持つ。あるいは、心揺さぶる”stir”は「かきまぜる」、感激させる”impress”には「押し付ける」など、動きの意味が含まれている。

これに加え、喜びや美しさといった幸福に関連したものよりも、危険や苦悩や死、殺人、残虐といった不幸に関するものの方が多い。つまり、幸福のバリエーションよりも、不幸のバリエーションの方がより豊かであり、より多くの観客や読者の心を虜にする。

アンナ・カレーニナの法則

この原理は、ヒュームの死後ちょうど100年後に書かれた、トルストイの大作の冒頭に記されている。

幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。

幸福や成功となるパターンは少なく、不幸や失敗となるパターンは多い。小説のタイトルに由来して、この法則のことを、「アンナ・カレーニナの法則」と呼ぶ。考えてみればすぐに分かるように、平穏で幸せな毎日が永遠に続くような物語は存在しない(いわゆる日常系の物語ですら、何かしらイベントは発生する)。ずっと幸せだと、聞くほうが飽きるからだ。

だから、平穏で幸せで成功したパターンよりも、それ以外のパターンの方が必然的に多くなる。世の中のありとあらゆる物語を床にぶちまけて、任意の物語のある箇所を拾い上げると、それが幸せである可能性は少なく、「幸せ以外」である確率は非常に高い。放っておくと秩序は無秩序になるエントロピー増大の法則に、物語は準拠しているのだ。

もし、「幸せ」を持ち込むのであれば、幸せな日々が壊されるような物語か、あるいは、困難を乗り越えて幸せをつかみ取る物語になる。そうすることで、物語のバリエーションが増え、キャラクターの運命が動き、ひいては読者や観客の心を動かすことになるから。

心地よい悲しみ?

ヒュームは、快楽と苦痛の原因はそれほど異なってはいないという。

例えば人をくすぐるときだ。やり方が適切だと、くすぐりは喜びをもたらすが、行きすぎると苦痛になる。また、苦痛をもたらしているものを和らげると喜びになる。

これと同じように、弱められ和らげられた悲しみが、「心地よい悲しみ」になるという。人の心というものは、本来感動させられ、影響されるのを好む。憂鬱で悲惨なものであっても、適切に和らげられるのであれば、それに心は迎合し、気持ちの良い悲しみを味わうことができるという。

舞台の光景は、あたかも現実のように見える。しかし、劇場で上演されるものは現実のものではないと、私たちは心のどこかで知っている。英雄の悲運のために目に涙を浮かべる同じ瞬間に、これがフィクションに過ぎないことを思い起こし、安心して涙を流す。

どんなに恐ろしい物語だろうとも、我が身に危険が及ぶことはなく(かつそれを知っているからこそ)、安全に怖さを楽しむことができるのだ。

悲劇の役割

同じような発想は、『物語の役割』(小川洋子、ちくま新書)にある。タイトル通り、「なぜ人が物語を必要とするのか?」というテーマのエッセイだ。

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物語の役割とは何か?それは「受け入れがたい現実を、物語の形に構成しなおして、受け入れる」ためにあるという。

ナマの現実は、ただでさえ苛烈だ。私にとって大切な人の死は耐えがたく、立ち直るためには長い時間を要した。大型トラックと接触しそうになったら、私は恐ろしさのあまり小便をもらすかもしれない。

『物語の役割』では、一つの例として、エリ・ヴィーゼルというユダヤ人作家のエピソードを紹介している(「愛の対義語は無関心」という言葉で有名な人)。

1944年にナチス・ドイツの侵攻を受け、ヴィーゼルは家族と共にアウシュヴィッツ強制収容所に送られる。母と妹はガス室で、父は過酷な生活に耐えられず命を落とす。

ヴィーゼル自身、過酷な労働と飢餓の中で、徐々に人間性を喪失してゆく。少年の公開処刑や父親の死ぬ瞬間を目の当たりにして、正気を保つため、自分の体験をいったん物語として再構成しようとする。そうすることで、めちゃくちゃで理不尽な現実に意味を見出し、向き合おうとする。

行動には意味があり、理由があるからこのような結果になったという、物語のフォーマットに落とし込むことにより、現実を理解することができる。

私がヴィーゼルのような過酷な体験をすることは、おそらく無いだろう。だが、それでも辛い現実に向き合わなければならない瞬間は、必ず来るはずだ。だから、物語の形に再構成された悲嘆や恐怖を味わい、シミュレートすることで、いわば現実の予習ができる。

そう考えると、キツくて辛い物語であればあるほど、一種の「悲しみ免疫」「辛さ耐性」のようなものがつくられ、現実の過酷さをある程度バッファリングすることが可能になるかもしれぬ。

あるいは、大切な人を亡くして泣き叫ぶキャラを見ていれば、実際に自分が同じ目に遭った時に「泣き叫ぶ」という選択肢があることが分かる。ショックのあまり自殺する人もいるのだから、その時に思い出すかどうかは別として、「選択肢がある」というのは重要だ。そしてそれは物語で予習できる。

この意味で、物語は(辛い)現実の予防接種たりうる。

遅延の効用

悲劇とは離れるが、ヒュームは「遅延」の重要性を説く。

物語から得られる快楽について最も重要な要素は「遅延」だと述べている。

何らかのネタを明かすことで観客や読者の心を大きく動かしたいのであれば、その効果を増す最善の方法は、できるだけ巧妙に遅らせることだ。

つまり、物語が提示する謎が解かれることへの「予期」が、先を知りたいと思わせ、その解決が引き伸ばされ、遅延すればするほど、解決したときの喜びは大きくなる。

不気味な影の正体はなかなか掴めないだろうし、(鑑賞者だけは分かっても)主人公は気づかないかもしれない(そして鑑賞者はイライラするはずだ)。さらに、たとえ正体が分かったとしても、「どうやって倒すのだろう?」という謎は残り続ける(おそらく、物語のラストまで)。影との対決がクライマックスになるのは、こういう理由なのだ。

そして、謎を宙吊りにしつつ物語を進めるなら、登場人物たちを不運な状態に突き落とし、越えるべき壁に直面させ、厄介ごとを起こさなければならない。なぜなら、物事がスルスルと進むなら、謎の方も遅滞なく解かれてしまうだろうから。

快楽をもたらす遅延を引き起こすためにも、不幸な出来事は必要なのだ。

こうやって考えていくと、私たちは不幸な悲劇を好むというよりも、むしろ、物語を面白くさせる要素として不幸な出来事がついてまわるのかもしれない。そして、好むと好まざるとにかかわらず、物語を通じて不幸慣れしていくことで、現実の不幸を予習していくことができるのかもしれぬ。

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詩学、批評の解剖、書くことについて、映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと、ライターズ・ジャーニー等々、「物語の作り方本」のエッセンスを濃縮した『物語のつむぎ方入門』

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数学の公式集ってあるでしょ。よく使う関係式や定数や演算を、コンパクトにまとめたやつ。あれの物語版だと思ってほしい。

「なぜそうなのか」といった証明や由来は最小限にして、エッセンスしか載ってない。なので非常に薄い(なんと61頁!)。もし必要なら、自分で出典に当たってくれとばかりに参考文献だけは充実している。

この61頁に、「読者の興味をどうやって興味を惹くか」の基本的なセオリーがまとめられている。小説、マンガ、映画、演劇、どのジャンルにも共通して、物語を面白くするプロットの作り方がある。そして、そのプロットをどう転がせば、読み手や観客の魂を震わせ、深い感動をもたらすかが紹介されている。

いわば、物語作家の虎の巻なのだが、公式集であるが故に、注意すべき点がある。要点というか骨子しか書いていないので、不慣れな人には不親切かもしれぬ。

だから、本書の想定読者は2種類になる。

想定読者1:物語の作り方知っている人

まず最初は、ある程度こうした「面白い物語を作る方法」を知っている人だ。

物語作家や字書き、あるいはネーム作家をやってて、セオリーはある程度知っている。その人の本棚にはシド・フィールド『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』とかキング『書くことについて』とかフライ『批評の解剖』があるかもしれない。

物語を面白くするセオリーには名前がある。アリストテレスの3幕とかホラティウスの5幕とか、ヴォネガットの「穴の中の男」、キャンベルの「ヒーローズジャーニー」、プロットポイント、伏線の9パターン、チェホフの銃とマクガフィン、スノーフレーク法などよりどりみどりだ。

こうしたセオリーを俯瞰して、自分の持ってる武器だけじゃなくて、もっと幅広く揃えたい人には、宝のカタログに見えるだろう。ちょっと見れば自分がモノにしている方法か、あるいは初見の方法論か見分けられるはず。知らない方法論を見つけたら、そこで紹介されている文献に当たればいい。

想定読者2:「自分にとっての」面白い物語を持っている人

次の人は、自分がハマった面白い作品を持っている人だ。

小説であれ映画であれ漫画であれ、心の底から「面白い!」と断言できる物語を知っている人だ。有名だからとか新刊だからといった理由で選ぶのではなく、面白いから読みたい・観たい人に勧めたい。

おそらく、なぜそれが面白いのか、漠然としてて説明しにくいかもしれない。「ちゃんと言えないけれど、なぜか好きなんだ」という人がこれを読めば、ずばりハマった理由(セオリー)が書いてある。

そして、シェイクスピアからもののけ姫まで、面白くするセオリーを応用した作品が大量に並んでいる。なので、自分がハマった作品を面白くする方法から、自分が知らない(でも同じセオリーで面白くなっている)別の物語を逆引きすることだって可能だ。

逆に、お薦めできない人は、全くの初心者だ。本書は「入門」と銘打っているが、中身は濃厚かつ幅広く、その短さもあって読み流してしまうかもしれない。公式集だけで数学を学ぶ人がいないように、本書だけでプロットを学ぼうとしても無理がある。

解説の元となっている文献にあたるか、あるいは、解説で紹介されている他の作品そのものを味わうことで、「面白さ」をモノにしてほしい。



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