進化論的アプローチで意識の難問に挑む『意識と目的の科学哲学』
「意識とは何か」という問題のスナップショット。
新書サイズのわずか85ページで、神経生理学、科学哲学、心の哲学の学際領域をコンパクトに圧縮している。いわば意識のハードプロブレムの最前線を切り取った小論といえる。読む前と読んだ後で見え方が変わってしまう本をスゴ本を呼ぶのなら、本書はその名に相応しい。この問題の捉え方そのものが変わってしまったのだから。
例えば、「意識の問題はヒトの問題なのか?」という切り口だ。
提唱者のD.チャーマーズが掲げた「脳の物理的な状態と、感じる、見る、思うといった主観的な経験との関連性を解き明かす」という命題には、「ヒトにとっての」という語句が隠れている。
わたしは今まで、問題文そのものを疑うことをせず、マリーの部屋とかクオリアについて学んできた。だが、立ち止まって考えると変だ。意識の問題は「生物にとっての」という語句から考えるべきだ。
アナバチは「愚か」なのか?
本書では、アナバチの巣穴の実験を紹介している。
産卵の季節になると、アナバチは卵を産むための巣穴を掘り、そこへ獲物を運び込む。獲物は毒針で麻痺しているので腐ったりはしない。卵からかえった幼虫は、新鮮な獲物にありつけるという寸法だ。
では、獲物を新鮮に保存できるアナバチは「賢い」のか? そうではなく、素朴な本能に導かれて機械的に行動しているに過ぎないという指摘がある。
アナバチの行動パターンは次の通りになる。
1. 麻痺した獲物を巣穴の入口まで運び、置いておく
2. いったん穴に入って異常が無いか確かめる
3. 外に出て、獲物を引きずり込む
この2.のとき、人の手により獲物を数インチ動かしてしまう。入口から動かされたものの、アナバチはすぐに獲物を見つける。そして巣穴の入口にまで運んだ後、再び巣穴を確認しようとする。
さっき巣穴を確認したばかりなのに、「獲物を動かされた」ことにより、もう一度確認しようとする。2.で異常なしなのだから、多少動かされたとしても、3.をしても不都合はない。人間だったらそう考えて行動できるのだが、昆虫は自動機械みたいなものだからできない。これは何度くり返しても同じで、アナバチは40回以上も確認したと報告されている。
この話は有名なやつだから、ご存知の方も多いだろう。ダグラス・ホフスタッター『メタマジック・ゲーム』や、ダニエル・デネット『自由の余地』を始め、このエピソードは広く紹介されている。
問題は、この実験の元ネタだ。
この実験は、『昆虫記』で有名なファーブルの実験結果になる(『昆虫記』第4巻第3章:無分別な本能)。ファーブルは昆虫の本能と人間の理性を峻別しており、興味深い生態ではあるものの、アナバチは「愚か」な存在になる。
そして、この実験は追試されている。
モーガン『動物行動』によると、同じ条件で体系的に検証したところ、異なる結果が得られた。2.を延々と繰り返すのではなく、「数回で巣穴に引きずり込んだ」と報告されている。アナバチは自動機械でもなんでもなく、状況の変化に応じて行動を修正できるくらい「十分な知性をもつ」と結論付けられている。
アナバチの例は意識のイージープロブレムの範疇かもしれないが、私が興味深いと感じるのは、「理性と本能を峻別して、人間だけに理性がある」と見なす考え方そのものだ。
人間至上主義の誤謬
なぜ人間だけを特別視して、ヒト以外を本能に従うだけの機械的なものに見なすのか?
これは、近年における他の学問分野での変化を眺めると、腑に落ちてくる。
例えば天文学だ。太陽系ではない惑星である「系外惑星」は長い間見つからなかった(近年になってモデルを見直し、爆発的に見つかっている)。
光学技術はあるにもかかわらず、「太陽系というモデル」に基づいていたため、極めて狭い視野で観測したためだ。太陽系こそが惑星の理想モデルであり、そのサンプル値から外れる対象は、無いものとして扱われていたからだ。
あるいは、地球で生物が誕生したという主張だ。
深海の熱噴出孔から原生生物が生まれたとする説は、「たまたまそこで生物が見つかったから」に過ぎない。近い将来、大気圏外や別の惑星(エウロパが有力)からも明白な証拠が発見されるだろう。それでも、地球で生命誕生説は支持されるに違いない。
「アナバチの愚かさ」「太陽系という理想」「地球こそが生命誕生の地」―――これらに共通するのは、人こそが最も秀でた存在であり、ヒトが住まうこの場所こそが、宇宙の中で特別な場所である、という認識だ。そして人以外のあらゆる生物は、知性の劣ったものである、という考え方だ。
このバイアスの中心に、キリスト教を中心とした西洋文化があると考える。
地球や生命、宇宙の始まりといった形而上的な問題について、人の考えは、そのバックグラウンドにある文化に影響される傾向がある。「神に選ばれて、キリストが誕生した特別な場所」でなければならない地球は、かつては宇宙の中心とされた。もちろん現代で天動説を信じる人はいないだろうが、太陽系や地球をあるべきモデルとしたがるバイアスは、形を変えて残っている。
かつてヨーロッパにおいて、「世界がなぜこうなっているのか」という問いに対し、キリスト教が答えを示してきた。そしてヨーロッパを中心として進展した自然科学がこれに取って代わり、「世界を説明する役割」を担ってきた。その結果、自然科学がヒトを特別視するバイアスに汚染されているのは必然と言えるだろう。
そして近年の実験や観測は、そうしたバイアスから逃れ出るエビデンスを見つけ出す時代になっている。八百万の神を信じ、付喪神を奉ってきた者からすると今更感があるものの、世界の捉え方が変わってきていると考えると面白い。
生物学的自然主義
意識の哲学に話を戻せば、ホフスタッターやデネットは、ヒトを特別視する時代の人物となるだろう。
一方、本書では、ファインバーグ『意識の進化的起源』やギンズバーグ『動物意識の誕生』、そしてゴドフリー=スミス『タコの心身問題』が取り上げられている。いずれも2010年代の後半に出版されており、最新の研究成果に基づき、人間至上主義のバイアスから離れた「生物にとっての意識の問題」に焦点を当てている。
そこでは、人だけを特別視するのではなく、生物にとって意識を定義する特性は何か?というアプローチを取る。ファインバーグの仮説によるとこうだ。
- レベル1:全ての生物に当てはまる一般的な生物学的特性(身体化、自己組織化、適応etc…)
- レベル2:神経系を持つ動物に当てはまる反射(速度、適合性etc…)
- レベル3:感覚意識を持つ動物に当てはまる神経生物学的特性(階層的行動、表象・心的イメージetc…)
面白いのは、意識というものを徹底的に生物学的な特性として捉えようとする姿勢だ。消化や細胞分裂、酵素の分泌といった生物学的なプロセスと同じように考えている。これは、意識というものを物理学に還元しようとする立場と鋭く対照をなしている。
確かに、森羅万象なんでも素粒子で説明できると言ってる人よりは実り多そうな気がする。また、この仮説だとハナから除外されているが、植物もターゲットに入るかもしれぬ。『植物は知性をもっている』に見出せるように、環境の変化に意思をもって対応し、コミュニケートする植物の進化的起源まで射程に入れると、さらに面白くなるだろう。
意識の「ハード」プロブレム
ただし、こうした感覚器官からの電気的・化学的信号からのアプローチでは、意識のイージープロブレムを浚っていることになる。一人称的な意識まで踏み込むにはどうすればよいか?
クオリアのような主観的な意識は外から判別できないため、文字通りハード(困難)な問題だとされている。
これに対して、状況を見極めてどのような行動をしたかという観点から斬り込んでいる。
感覚器官からの入力に対し、単純に受動的・機械的に反応する生物が生き残る見込みは極めて低い。環境の変化に応じて行動を変えるだけでなく、その行動がどのような結果に至るかを予想したり学習できるかが、生き残りを左右するだろう。
特定の行動を選択する上で、その生物個体にとって、「その行動がどんな価値を持つのか」という評価がついてまわる。この評価に結びついた、一人称的な視点から情報を受け取ることが「意識的な経験」と呼ばれるのではないか、という仮説が立てられている。
主観は外側から直接観測することはできない。だが、ある意識が何らかの目的や価値に照らして取ってきた行動は、適応のプロセスで辿ることができる。意識は適応的な行動選択の土台であるというアプローチで、意識を炙り出そうとする考え方だ。
意識のハードプロブレムについて、「常識」がアップデートされてゆく。その最前線を見る一冊。
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https://link.springer.com/article/10.1007/s12304-022-09474-y
投稿: Dain | 2024.07.01 22:47