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死ぬときに思い出す傑作『イギリス人の患者』

N/A

死ぬときに思い出す小説の一つ。

あれを読めば良かったとか、これがまだ途中だったとか、未練は必ずあるはずだ。どんなに読んでも足りることはないから。そんな後悔の中で、エピソードや描写を思い出し、読んでよかったと言える作品の一つが、『イギリス人の患者』だ。

映画が公開されたときだから、20年以上前に読んだのだが、いま再読しても美しい。詩的で情緒豊かに紡がれる、四人の男女の破壊された人生の物語だ。

あらすじはシンプルだ。

第二次世界大戦の終わり、イタリア北部の半ば廃墟となった修道院が舞台となる。そこで生活を共にするのは、看護婦のハナ、泥棒のカラヴァッジョ、インド人の工兵のキップ、そしてイギリス人の患者となる。人生のわずかな期間にすれ違う男女が、自身の半生を思い出す。

ただし、けっして読みやすい、ストレートなお話ではない。

時系列は無警告で前後するし、エピソードの粒度や解像度はバラバラだ。後になって、作者が計算ずくでやっていることに気づいて舌を巻くのだが、わざとつかみどころのないようにしている。全ての登場人物から距離を置いた書き方で、読み手が、感情移入させないように仕組んでいる。

例えば、家族の死が登場人物に知らされるシーンがある。普通の物語なら、そんな重要なイベントを出すときは、登場人物が知る時と、読者が知るタイミングを合わせる(その方がドラマチックになるから)。

だが本書は、先に読み手に知らせる。読者には事前予告しておき、後に、登場人物に知らせる。読み手は、普通の小説とは異なり、一歩引いて、枠の中の世界を観察するかのように感情を眺めることになる。これに描写の分からなさ感と相まって、「幻想的な」とか「詩的な」と評されている。

これは「合う人にだけ深く刺さり、そうでない人はそれなりにすら楽しめない」と言われるくらい読み手を選ぶ作品だ。再読すると、そのサービス精神の無さを改めて感じる(若書きだからではない。マイケル・オンダーチェが49歳の脂の乗り切った時に書いた3作目だ)。万人ウケする作品ではないのに、映画公開時、テレビや新聞で激賞されていたのを思い出し、なんだかなぁと呟く(映像美が凄まじいので、そこを評価されたのかもしれぬ)。

じゃぁこれ、世界の描写の美しさだけを目指した、表層的な作品かというと、違う。

世界的に権威ある文学賞であるブッカー賞を受賞するだけでなく、ブッカー賞の50周年を記念して、「ブッカー賞の中のブッカー賞」となったのが本作だ。そんな作品が表層をなぞるはずがない。

4人の被写界深度はめちゃくちゃ浅い。だから、体言止めが多用された彼・彼女の心は手で触れられるくらい露わになる。一方、周囲は朧になる。重要イベントは読者にだけ予告されているので、観察よりは窃視するように見て取れる。作者は登場人物が嫌いなのだろうかと、ふと思う(ただし工兵のキップを除く)。

一方、周囲は霧の中のようにかすんでいる。ピントが全然合わないので書割ですらない。このコントラストが強すぎるので、ストーリーとして何が起きているのかつかみにくくなっている。醒めつつある夢の中で自己はハッキリしているのに、周りがぼんやりしている、そんなもどかしさを感じたことはないだろうか。それに似ている。

じゃぁ読み手を煙に巻くような不親切な小説かというと、そうでもない。

タイトルにもなっている、イギリス人の患者がカギになる。

炎上する複葉機から救い出された時には既に全身が燃えさかっており、地上に激突した衝撃で両足は破壊され、身じろぎもままならない。皮下組織まで熱傷を負い、特にひどいのは脛から上で、紫色を通り越して骨だ。

幸いにも喋ることはできる。とはいえ第二次世界大戦の末期だ。エジプトとリビアの間の砂漠で撃墜されたため、当然、スパイとして疑われる。取調官に対し、イギリス人の患者は、十字軍とサラセン人の歴史のこと、フィレンツェの聖母マリアのこと、キプリングの文体のことを並べ立て、煙に巻く。

唯一燃え残った携行品はヘロドトスの『歴史』で、非常に細い文字で詩句警句、観察日記、備忘録が書きこまれているものの、男の身元が分かる情報は一切無い。

一体、この男は誰なのか?というミステリーが、読み手を牽引する要素となる。男の運命を追っていけば、一応、話のスジは追えるようになっている。けれども、ドラマティックな要素は全て過去の中で、いま進行するのは、終わってしまった愛、戦争、欲望、裏切りを振り返るしかない感情に襲われる。

痛み止めのモルヒネで朦朧となって呟くひと言、ふた言に惹かれる。その言葉にお構いなしに、けれども献身的に尽くす看護婦ハナとの絡みが好きだ。

やがて戦線が移動し、より安全な施設へ移動しようということになっても、男とハナの二人だけは残る。そして、廃墟同然の場所でささやかな生活を始める。

男の人生がどんなもので、なぜそんな運命となったかは、後に明らかになるのだが、私はそれよりも、この二人だけの生活の方が好きだ。後に、この生活に加わるカラヴァッジョとキップの半生も心痛むが、物語スタート時点の、戦争に破壊された人生を拾い上げて、それでも生きている限り生活を続けていく態度が好きだ。

私が死ぬときに思い出すシーンの一つは、ここ。

物語にいくら穴があいていても、女は頓着せず、聞いている男への配慮もしない。とばした章の粗筋など語らず、ただ本を持ってきて、「九十六ページ」「百十一ページ」と言って読みはじめる。ページ数だけが位置を示す標識だった。女は患者の両手を取り、持ち上げて匂いをかいだ。まだ病人臭がする。

瓦礫の山で入れない部屋がいくつもあり、階下の図書室には砲撃で穴があき、月の光や雨が自由に入ってきて、年中ずぶ濡れの肘掛け椅子がある。女は図書室に忍び込み、適当な本を取ってきて、男に読み聞かせるシーンだ。

ここから犬の足の裏の臭いの話になり、彼女の父親の話になり……と取り留めもなく過去が紡がれてゆく(どれも好き)。他にも沢山ある。物語の本筋に関わらない、なんてことのない描写なのだが、惹かれる。誰かの思い出や、他人の夢の出来事を共に眺めるような読書になる。

「誰が何しているのかよく分からない」という人には映画をお薦めする。観て聴く芸術だからこそ、被写界深度は深く、何が起きているのかを映(ば)えるように枠内に収めてくれる。(私を含め)泳ぐ人の洞窟のシーンに心撃たれた人も多いが、ここも思い出してしまうだろう。

何もかもが手遅れになって、自分ではどうすることもできず、ただ、終わるのを待つしかない。それでも、生きている限り、生きていることを続けていくしかないし、生きていくということは、(ここで書くのを含め)語り続けていくことなんだと思わせる。

最期は、こういう記憶と共にしたいと思う傑作。

 

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